2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
今日の話題

2006年10月2日(月)
少子化問題

  多くの先進国はゆるやかにリバータリアン社会主義が描く社会へと進展しているように思われる。それを裏打ちする報道に接する機会も増えているように思う。

 少子化問題はほとんどの先進国が直面している問題です。小泉内閣は特別に少子化対策大臣というのを設けたが、あの猪口とかいう大臣は一体何をしたのでしょうかね。

 昨日、「働く女性が多い県ほど出生率が高い」という記事だあった。(朝日新聞)『男女共同参画会議の「少子化と男女共同参画に関する専門調査会」』の報告だそうだ。何をいまさら、そんなことはとうに人口学者の間では定説なんだ。でもまあ、おそまきながら気がついたのでよしとしよう。

 報告書は少子化問題の対策として次の3点を強く求めているという。
①家族に代わる地域の支援体制
②先進国の中でも際だつ長時間労働
③非正規化で不安定になっている女性や若者の雇用への対応

 ②や③の問題は政・財・官が一体となって進めてきた初期資本主義的搾取政策の結果だから、この報告書の少子化対策はその搾取対策と矛盾する。①も「自己責任」という掛け声の下で縮小に縮小を重ねてきている福祉切捨て政策の下では心もとない。この国がいかに「醜い国」かの証左です。 コイズミポチを継承するオコチャマランチ狆ゾウ内閣にはこの提言はとてもになえまい。なにしろ100年も昔のゾンビなのだから、この国をますます「醜い国」にするだろうことは目に見えている。

 東京新聞(28日付)の「ワールド見聞録・生みにくい国、日本。」というコラムにフランスの少子化対策のことが書かれていた。抄録する。



 ― (児童)手当など経済的な支援は日本の五倍。面白いのは一人目より、二人目三人目を厚遇していること。所得税も子供が多いほどどんどん有利になる。一種のインセンティブですね。でも見習うべきところは別のところにあります。

 ― 今や人口学者の間では、働く女性が多いほど出生率は高いのが定説です。つまり女性が働くのを前提として、育児休業や保育支援を整える必要がある。フランスはそれを徹底した。

 〝産みたい時に産め、育児休業はたっぷり、休業後は元の職場に必ず復帰できる″。それを企業任せにしないで、法律で定めた。日本はようやく大企業のごく一部が始めただけで、パートや非正社員まではとても。政策の大転換が必要です。

 ― これは哲学の問題なんです。フランスは人口政策として1980年代から綿密なプランを設計、実行してきた。それが20年たって花開いた。いずれドイツを追い抜いてEU最大国になります。僕はそこに国力の維持・発展にかける国家の強い意志を感じます。



 「これは哲学の問題」ということを、私なりに勝手に解釈してみる。

 フランスが行っている政策は直接には「人口政策」として打ち出された政策ではあっても、「哲学的」には逆でなければならない。自立・協同・相互扶助という一人一人が喜びを持って生き生きと生きることができるようになるための施策、リバータリアン社会主義の理念を実現していく施策の結果として、人口問題が解決されていった、というように。
スポンサーサイト
 日々心に残ったことや心に引っかかったことなどを書きとめて、『今日の話題』と題して掲載してきましたが、連続していたテーマ記事の下に「今日の話題」を記載した時期がありました。それらの記事は『今日の話題』には入っていないので、『今日の話題2』としてまとめ直すことにしました。しばらくはこの作業を続けます。今日はその第一回目です。

今日の話題

2006/10/01(日)
コイズミ・タケナカの悪事

 今ネット上に次のような「コイズミ・タケナカの悪事」の記事が飛び交っています。下記は雑談日記からの転載です。
米国債購入で貢ぎ、今度は傭兵で上納ってかバナー

郵貯340兆円のうち、すでにゴールドマンサックスの仲介で200兆が30年満期の米国債に充当されている。

 そのうち手数料3兆円分の米国債がキックバックされ、2兆円分が竹中氏に、1兆円分がコイズミ氏に渡っている。

 このことがリークされて、4月に竹中氏が検察の事情聴取を受けたが、以前から月に1回勉強会をしているCIAから表に出すなといわれて、10億円渡されて検察側の捜査はストップ。

竹中氏はスタンフォード大学の客員教授として渡米し、終生帰国しないということで手を打った。


 たぶん、このすごい話の出所は「藤原直哉のインターネット放送局」かと思います。一昨日、青山はここにありましたで知って、下記の放送を聴きました。

コイズミ政権の後始末

 藤原直哉氏は「シンクタンク藤原事務所」の所長で経済アナリストです。信用できる情報だと思います。

《米国の属国・日本》(23)

ポスト55年体制への道程(2)


 白井さんは 『本当の意味での「戦後レジームからの脱却」とは』=『政治的な実践の中で、この国の「永続敗戦としての戦後」を終わらせること』と言う。そして、そのためには「政治革命」「社会革命」「精神革命」という三つの革命(ここで革命とは自己変革という意とのこと)こそが唯一の穏当な手段であり、しかも『この三つは密接に関係しながら、すでに進行しつつあります』と言う。この三つの革命に対する白井さんの論考をたどってみよう。

《政治革命》
 まず、政治革命とは、本書全般を通じて論じてきたように、「永続敗戦レジーム」を失効させ、ポスト55年体制と呼ぶに値する政治状況をつくり出すことです。それはもちろん、形式的な政権交代や政党がくっ付いたり離れたりの政界再編とは次元が違います。ポスト冷戦期において、このような低次元の政治ショーを見せられ続けた国民は、心底嫌気がさしています。

 しかし、政治家たちのそのような体たらくを許しているのも、結局のところやはり国民自身なのです。「票を入れたい候補が誰もいないので投票に行かない」とか「忙しくて政治のことなんか考える時間がない」といった「常識」は、現代日本人の生活実感に根ざしたものではありますが、愚かで幼稚なものでしかありません。そのようにして状況を放置するならば、本書で述べてきた「悪いシナリオ」を回避することはできなくなるでしょう。

 この政治革命に関しては、本当に時間がかかりましたが、いま糸口が見えてきました。すなわち、2016年の参院選を視野に入れた野党の共闘についての合意形成です。彼らは、「立憲主義の擁護」のほぼ一点で、共闘のために重い腰を上げました。この動きが、永続敗戦レジームと正面から闘う勢力の形成へとつながっていけば最良ですが、その実現の可否は、次に論じる社会革命と国民の精神革命の帰趨に懸かっているでしょう。

 ここで指摘しておくべき重要な点は、このような共闘の契機が、「立憲主義の危機」によって与えられたことです。今日、断末魔の悪あがきを続けている永続敗戦レジームは、その起源を遡ると、短期の起源は第二次世界大戦の敗戦処理に見出されますが、さらに遡るならば、戦前のレジームそのものに見出すことができます。なぜなら、多くの論者が指摘してきたように、戦後レジームは、敗戦を契機とした民主主義改革によって始まったという建前を持ちながら、戦前のレジームを曖昧な形で引き継いだものだからです。ゆえに、私は永続敗戦レジームを「戦後の国体」と呼んでいるわけです。

 戦前レジームにおける根本問題は、私の考えでは、「国民と国家」の関係にありました。すなわち、国民があって国家があるのか、国家があって国民がいるのか。国民と国家のどちらが優越するのか、曖昧であったわけです。この問題は、明治時代には「民権と国権」という語彙で論じられました。明治以降の日本は近代国家を名乗る以上、民権の原理を全否定するわけにもいきませんでしたが、国家主導による急速な近代化の実現を至上命題としたために、結局のところ国権が実質的に優越する体制が固まっていきます。

 戦後、丸山眞男をはじめとする多くの論者が、昭和ファシズム期を明治以来の近代化路線からの異端的な逸脱とみなさずに、明治レジームの確立成長期においてすでに超国家主義に至る芽があったのではないか、という仮説を建てた根拠は、右のような歴史経緯にあります。そして、そのレジームは敗戦を乗り越えて継続してきました。

 丸山らの仮説の正しさは今日あらためて証明された、と私は思います。立憲主義は、国家が暴走して国民をないがしろにすることに対して構造的に歯止めを掛ける仕組みにほかなりませんが、現在の政権で閣僚に準ずるような立場にいる政治家が「立憲主義なんて聞いたことがない」と言ってはばからないという状況は、永続敗戦レジームに戦前レジームのDNAがいかに深く埋め込まれているのかを物語るものです。

 こうした状況は、自民党を中心とする永続敗戦レジームの中核部が、戦後の全歴史を通じて、民主主義を表面上は奉じながら、「国民があって国家がある」のではなく「国家があって国民がある」という原理を根底において堅持してきたことの証左なのです。耐用年数を過ぎてしまった永続敗戦レジームが無理矢理に自己を無限延命しようとする中で、その地金がいま露呈しているわけです。

 したがって、来たるべきポスト55年体制の政治は、明治時代から現在まで綿々と続いてきた、「国家は国民に優越する」という原理を、その原理を奉じる政治家・政治勢力もろともに、一掃するものでなければなりません。このことから、第二の革命=社会革命の具体的課題も見えてきます。

《社会革命》
 社会革命とは、近代的原理の徹底化を図るということです。近代的原理とは、基本的人権の尊重、国民主権の原理、男女の平等、といったいくつかの基本的な原理であり、それらは戦後憲法にはっきりと書き込まれました。

 いま、「永続敗戦レジーム」の主役たちは、戦後憲法を是非とも変えねばならないという妄念にとり憑かれていますが、彼らが敵視しているのは九条だけではありません。自民党が提起した新憲法草案には、右の近代的原理に基づく国民の権利をできるだけ制約したいという欲望がにじみ出ています。つまり、彼らは戦後の民主化改革の成果を全部ゼロに戻そうという欲望を露にしているのであり、これは言うなれば逆向きの社会革命です。

 こうしたことが起こるのも、永続敗戦レジームの崩壊の危機のためであると私は思います。それは、戦前戦中から連続してきた永続敗戦レジームの深層の原理を純化させることによって、その危機を乗り越えようという試みであると言えるでしょう。したがって、私たちが求めるべき社会革命は、こうした流れを押し返し、反対に近代的原理を徹底化させることによって導き出されます


 また、この原理に照らせば、諸々の具体的かつ喫緊の政治経済・社会問題に対する処方箋も自ずと見えてきます。

 例えば、福島第一原発事故が原因と疑われる子どもの甲状腺がんの発症にどう対処するのか。現在、政府はこの問題に対して不誠実極まる対応を行なっており、それは人権侵害にほかなりません。事故直後の対応の不適切性・不作為を含め、しかるべき責任追及を行ない、人権侵害の状態を解消すること ―これが当たり前の対応です。

 あるいは、沖縄の米軍基地問題についても、近代的原理を参照することで問題解決への基本的なコースが見えてきます。現在の沖縄への基地集中は明らかに不平等であり、差別的です。すべての国民は平等に扱われ、出自や地域性によって差別されないという近代国家の原理に反した状態にあります。今後も大規模な米軍基地が日本にとってどうしても必要だというのならば(私はそのような見解に同意しませんが)、公平な負担が議論され、実行に移されなければなりません。それができないのであれば、沖縄が日本国を見限って独立を志向するようになることは、まったくの必然であると言わざるをえません。

 したがって、沖縄を失わずに、かつ本土に米軍基地を大規模移転させるのも嫌だというのならば、私たちは米軍基地の大幅な縮小、最終的な撤収を目標とせざるをえません。そして、それをやるためには、第三章で見たように、「アメリカの傘の下の日本」という前提を取り払った国際関係を模索しなければなりません。

 現代日本の政治課題、経済の課題、社会問題を数え上げればキリがありませんが、それらに取り組む原理は、本書で述べてきたことから明らかであると思います。上述の近代的原理の徹底に加えて、「再包摂」が強調されなければなりません。新自由主義政策による社会破壊作用がファシズムの危機をもたらしているのだとすれば、この危機を食い止めるためには、「排除」へと転じた統治の原理を再び「包摂」へと向け変えなければなりません。包摂の原理に基づく具体的で現実的な政策は、各領域のそれぞれの専門家が数多く提言しています。問題は、それらの知恵を実際に役立てる意志があるかどうかなのです。その意志を立ち上げることが、社会革命を現実のものとする始発点にほかなりません。

《精神革命》
 三つ目の革命は、人々の精神領域における革命です。政治革命にせよ、社会革命にせよ、それらが本当に実効性のあるものとして行なわれるのか否かは、しかるべき立場にいる人々にそれらを実行させるだけの十分な圧力がかかるのか、という点に懸かっています。私かいま述べた政治革命や社会革命の内容に特に新しいことはありません。また、多くの政治家や有力者は、しばしば似たような内容の事柄を実行すると言ってきました。では、それらがなぜ行なわれないのでしょうか。

 要するにそれは、意志の問題です。本当にやる気があるのかどうか、また権力者にやる意志があっても、それが周囲から支えられる確信が持てるのかどうか。権力者にしかるべきことを実行するよう迫る、あるいは実行する勇気を与えるのは、広範な「社会からの要求と支持」です。

 この点については、3・11以降、日本社会はかなりの程度変化しました。1980~2000年代の間、縮小しきっていた社会運動・市民運動が爆発的な広がりを見せつつあります。これはある意味で当然のことではありました。あの原発事故によって、この国の地金、そのスカスカになっていた内実が露呈し、もう少し運が悪ければ国家・民族として終了するという瀬戸際まで追い込まれたからです。しかも、そのような事態をもたらした経緯の追跡も、責任の追及もまったく不十分な形でしか行なわれない、ひとことで言えば、「大事故などまったく起きなかったのだ」という究極の否認の態度で、この国の支配階層は事態をやり過ごそうとしていることが露になりました。

 ですから、私は3・11以降(あるいはその前から)立ち上がった人々に対して強い連帯感を抱いていると同時に、その数があまりに少ないことに苛立ちを感じています。

 ともあれ、まずは最初に立ち上がった人たちから始め、その数を増やしていくしかありません。脱原発運動に始まり、排外主義に抗する運動、新安保法制に対する反対運動に至るまで、止むに止まれぬ思いに駆られて街頭に出てくる人々は増え続けています。

 この動きに対しては、一部の人々からお定まりの冷笑が浴びせられていますが、この現象こそ、日本の国民精神に深く浸透した奴隷根性を証明するものにほかなりません。立ち上がったわれわれの主張がそうやすやすと通るものではないことなど、参加者の誰もが知っています。原発推進にせよ、新安保法制にせよ、この国の権力中枢が全力を挙げて取り組んでいるイシューなのですから、数万の人が街頭に出てきて騒いだからといって、簡単にブレるものでないことなどわかりきったことです。どうせ勝てるわけがないのだから最初から主張などしない方がよいという判断は、合理的かもしれませんが、それは「奴隷の合理性」にすぎません。

 デモンストレーションをはじめとする大衆の行動が政治を直接に変えることは稀です。しかしそれは、社会を変えるための重要な震源地になるのです。近年の例を挙げれば、2011年の秋にアメリカで起ったオキユパイ・ウォールストリート運動がそうでした。参加者たちは、「99%と1%」というスローガンを掲げ、新自由主義を、カジノ化した金融資本主義を、激しい格差社会を批判しました。それによって、何か変わったのか。もちろん何も変わりません。ウォールストリートの住人は、抗議運動に直面したら行動様式をガラッと変えるような人々ではない。では、何の成果もなかったのかといえば、まったくそんなことはありません。

 オキュパイ運動に参加した人々は、いまバーニー・サンダース氏の大統領選挙キャンペーンの主力となって活動しています。社会主義者を名乗り、政治革命の実行を宣言するサンダース氏が、特に若年層からの支持を集め、有力な大統領候補となっていることには驚きましたが、この躍進を支えているのがオキュパイ運動の経験者たちなのです。

 社会運動の一時の盛り上がりは、それが形を変えて持続するための努力が払われるならば、人をつくり、人々のつながりをつくり、さらに大きく有効な運動、そして変革へとつながっていきます。同じことが、今日の日本の運動についても言えるはずです。すでに、2011年以来、私も含め多くの人たちが、運動を通して貴重な経験を積んできたと思いますし、その成果はすでに現れ始めているのです。先に触れた野党共闘なども、これまでの運動からの圧力がなければ、決して実現していなかったでしょう。

 さらに言えば、いま人々は「起ち上がる作法」のようなものを身に着けつつあるのだと思います。ちょうどこの原稿を書いている最中の2016年2月、「保育園落ちた日本死ね!!!」と題した匿名ブログが話題を呼んだことをきっかけに、子育てと仕事の両立に苦しむ多くの母親たちが声を挙げ、それが国会審議をも揺るがしています。「日本死ね」という表現が乱暴だというような批判が理解していないのは、この表現にどれほどの強い憤りが込められているのか、ということです。保育園の不足、待機児童の問題は、すでに長らく認識されながら、放置されてきました。してみれば、これほどの強い表現をしなければ政治家たちが問題に向き合おうとしないことこそ、真の問題にほかなりません。

 多くの人々がこのブログに共感を寄せ、抗議行動を起こすまでの事態が生じたことは、国民の行動様式の変化を示唆しています。いまようやく、当然の憤りを私たちは表現してもよいのだ、という感覚を獲得しつつあるのです。

 誰がそれを禁じてきたのか? 実は誰も禁じてなどいません。禁じてきたものがあるのだとすれば、それは自己規制であり、自分自身の奴隷根性以外にはないはずです。自らが自らを隷従させている状態から解き放たれたとき、「永続敗戦レジーム」がもたらしている巨大な不条理に対する巨大な怒りが、爆発的に渦巻くことになるでしょう。


 この来るべき嵐だけが、革命を革命たらしめる根源的な力として、私たちが信じることのできるものなのです。

 POST55年体制の道程の端緒となるのは「精神革命」だ。それが「社会革命」を拡大し、「政治革命」へとつながる。しかしその端緒となるべき「精神革命」はとてつもない難事業だろう。「自らが自らを隷従させている状態から解き放たれ」るべき人々(=庶民2)に自己変革は期待できないのではないか、と暗澹たる思いが沸いてくる。例えば今日(9月23日)の「田中龍作ジャーナル」の記事『TPP国会、目前アンケート 「ISD条項?分からない」』には愕然とした。

 一方、今日の東京新聞朝刊一面に「大きく有効な運動へとつながる」希望の光を届けてくれる記事があった。昨日開かれた代々木公園での脱原発集会の記事だ。秋雨前線による豪雨が降りしきる中、ずぶ濡れになりながら、全国各地から約9500人が集結したという。

(以上でシリーズ《米国の属国・日本》を終わります。)
《米国の属国・日本》(22)

ポスト55年体制への道程(1)


 これから読んでいく最終章には重要はキーワードが二つある。「55年体制」と「永続敗戦レジーム」である。  「55年体制」についてはいろいろな記事で言及しているが、調べてみたら、最も詳しくまとめている記事は『日本の支配者は誰か(8)』だった。必要に応じて参照して下さい。

 また、「永続敗戦レジーム」については『対米従属、その内実の変遷(2)』で詳しく解説している。これも必要に応じて参照して下さい。

 さて、2009年の総選挙で民主党が政権交代を実現したが、とても惨めな終わりを遂げていった。私はいわゆる無党派層の一人だが、この選挙では、松下政経塾出身の党員の存在に危惧を感じていたけど、私も一票を投じていた。最後の民主党首相を「ダメナ野田」と呼んで批判してきた。

 白井さんはこの政権交代の失敗について、次のように分析している。

 政権交代の失敗劇によって明らかになったのは、ポスト冷戦期の日本において、政権交代可能な二大政党なるものは機能しない、という事実でした。この仕組み自体が、「永続敗戦レジーム」なのです。その内部では、自民党がもともと有しているアメリカの傀儡的性格が強まる一方、民主党内部にも右派として同様の勢力がいます。例えば、新安保法制をめぐる国会審議の際、同党の長島昭久衆議院議員が質問をしていましたが、彼が政権に対して言っていたことは「集団的自衛権の行使は否定しない」「もっと時間をかけてくれ」ということでした。要するに、本質的には新安保法制に何ら反対などしていないのです。

 こうした実情があるので、私はある機会に、民主党と維新の党の合流、新党結成に際して、どんな党名がよいかと問われて、こう答えました。「第二自由民主党、あるいは傀儡二軍党でいかがでしょうか?」と。厳しい言い方に聞こえるかもしれませんが、新党は、永続敗戦レジームの補完勢力を追い出し、永続敗戦レジームと対決するという理念・姿勢を確固たるものとしないのであれば、客観的事実としてそのような党でしかないからです。現状では、アメリカから見れば、自民党は傀儡Aであり、民主党は傀儡B、どっちに政権が転がり込んでも安心というわけです。私たちが拒否すべきは、自民党でも民主党でもなく、この構造そのものなのです。

 長島昭久は松下政経塾出身者の一人である。この右派政治家については私も批判文を書いている。『今日の話題「長島昭久と言う政治家の正体」』を参照して下さい。

 白井さんの論評は次のように続いている。

 ちなみに、実は、アメリカは55年体制においても、同じような状況をつくりました。アメリカとソ連の代理戦争という形で55年体制の政治はあったわけですが、親ソ的になった社会党が政権を取ってしまうとアメリカは困る。そこで、社会党内部でソ連に距離を置いている人々を引き剥がして、民社党という別の政党をつくらせたわけです。

 述べてきたように、ポスト55年体制を形成できないまま、日本政治の世界では、新自由主義化と政権の傀儡化か進んできました。永続敗戦レジームは、新自由主義と結合して多国籍資本の走狗となることによって生き残ろうとしているわけです。だから、永続敗戦レジームの対抗軸になる勢力は当然、新自由主義を打倒しようとする勢力として結集しなければならない。これがいま、形成されるべき政治的対立の構図です。

  とはいえ、対米従属が「自己目的化」した現在、「永続敗戦レジーム」は、アメリカの支持のもと、政官財学メディアの中心部に浸透した権力構造となっている。大方の人には、これに対抗したり突き崩そうとする試みはあまりに困難である、と思えるのではないだろうか。実際にそのような道程は可能なのだろうか。これに対して白井さんは「その時に大きなヒント、示唆を与えてくれるのが沖縄です」と述べている。私は《沖縄に学ぶ》を63回にわたって連載してきたばかりである。なるほど、《沖縄に学ぶ》ことがあるという示唆に同感する。白井さんの論評を追っていこう。

 なぜ沖縄かというと、そこで起きたこと、いま起きていることは、言ってみれば、正しい形で政治対立の構図が表れたものだからです。それは、従来の保革の対立でもなければ、構想されてきた保守二大政党の対決とも違うものです。

 保守二大政党制では、保守党VS革新党に代わって、保守党AVS保守党Bという構図ができればいい、と言われてきたわけですが、最後は「自民党野田派」とまで呼ばれた民主党政権の惨状を見ればわかるように、これでは結局のところ、アメリカ傀儡A党とアメリ力傀儡B党の闘いにしかならないのです。ならばどっちを選んでも同じだということが、この25年間で明らかになったことです。

 沖縄で現れた構図はまったく違うものでした。辺野古新基地建設問題への対応をめぐって、前沖縄県知事の仲井眞弘多氏の時代ですでに、知事が一時は辺野古には断固基地をつくらせないと表明せざるを得ないところまで、沖縄の反基地の民意が高まったわけです。しかし結局のところ、仲井眞氏は屈服させられました。しかもその後の彼は、県知事選に再出馬することによって、いわば「永続敗戦レジームの代理人」に堕ちてしまったわけです。

 それに対して、もともとは仲井眞氏を支える立場にいた翁長雄志氏が、保革を横断する「オール沖縄」を掲げて叛旗を翻しました。東京の政府が(そして本土の日本人が)、沖縄に対して突きつけた選択肢は次のようなものです。すなわち、耐用年数200年と言われる巨大な新基地を自然環境破壊を犯してつくらせるか、それとも「世界一危険」と言われる普天間基地をいまのまま放置するか、どっちかを選べということです。この「究極の選択」に対して、翁長陣営に集った勢力は、「どっちも選ばない」という、二者択一の選択そのものを拒否する態度を鮮明にしました。これは、私の理論図式に当てはめるならば、永続敗戦レジームそのものを拒否した、ということです。

 これによって本質的な政治対立の構図が現れました。2014年の県知事選は、「永続敗戦レジームの代理人」(仲井眞氏)対「永続敗戦レジームを拒否する勢力」(翁長氏)という形で、闘いの焦点が定まったのです。このとき、私は、極めて正しい対立の構図が現れたと感じました。それは、いまや日本全土で現れるべき対立の構図にほかならないのです。

 しかし、「「永続敗戦レジームを拒否する」という問題意識は本土の圧倒的多数には無い。「アベコベ軽薄姑息うそつきオカルト」政権の支持率の高さがそれを表徴している。白井さんもいらだちを隠さない。

 悠長に構えている余裕など、どこにもないのです。なぜなら、永続敗戦レジームの耐用年数は過ぎてしまったにもかかわらず、これを無限に生き延びさせようとするために、無茶なことや腐敗が多方面で生じてきているからです。

 TPPも、永続敗戦レジームを維持するためのものです。冷戦構造の崩壊後、アメリカにとって日本は、無条件に庇護するべきアジアのナンバーワン・パートナーではなくなった。TPP交渉から見て取れるのは、アメリカ自身が衰退する中で、日本を収奪すべき対象へと新たに位置づけているということです。

 日本の永続敗戦レジームの担い手たちは、自らを守ってきた権力構造を維持するためならば、あらゆる富を売り払うということにまったく躊躇しません。TPPについては、現在では農産物の市場開放のことばかりが言われていて、その問題もきわめて重要ではありますが、これから来るのは健康保険の問題です。日本の国民皆保険制度が民間企業に開放されるならば、そこには100兆円規模の市場が出現すると算出されています。多国籍資本は、虎視眈々とそれを狙っていますが、それが実現されれば、世界的に高く評価されてきた日本の医療制度(それは一種の富なのです)は「命の沙汰はカネ次第」というアメリカ型へと変貌します。

 安倍首相は、「TPPに加盟しても国民皆保険制度は絶対に守る」と言っていますが、これを額面通りに信じるのはよっぽどのお人好しです。皆保険制度を形骸化させ、ほとんど無意味なものにしてしまっても、「守った」と強弁するでしょう。そのためには、混合診療制度の導入や薬価の改定などを進めることによって、民間保険会社の参入する領域を増やしていき、皆保険制度を存続させたままそれだけでは十分な医療が受けられない状態にしてしまえばよいのです。このままの政治が続けば、確実にこの方向へと進んでいくことになるでしょう。これほどまでに堕落は進んできたのであり、それは国民生活を直接的に破壊することになります。「戦後の国体」としての永続敗戦レジームは、国民をすり潰しながら自己保存を図るのです。あの戦争のときと同じように。

《米国の属国・日本》(21)

日本劣化を推し進めた新自由主義(6):日本版軍産複合体


 今日(2016/09/16)の日刊ゲンダイ(DIGITAL版)に高橋乗宣(エコノミスト)という方の『重しとなる景気は停滞 整いつつある「第3次大戦」の条件』という論説が掲載されていた。「ホンの些細なきっかけで、世界中に火の粉が燃え広がりそうな雰囲気である」と懸念し、その理由として、次のような指摘をしている。
「いつの時代も紛争勃発の「重し」となってきたのは、経済の活況」だが、世界的に「景気は停滞したまま」であり、しかも「世界中の指導者が冒険的で不安を感じさせる人物」に取って代わってきている。

 このような論説に対しては「大げさに不安を煽るな」というような批判が予想されるが、私はそのような批判には与しない。今回取り上げようと思っていた「第4章 新自由主義の日本的文脈」の最終節『「希望は戦争」再び』と論旨が同じだと思った。白井さんの論考を読んでみよう。

国家に寄生する資本

 次に、新自由主義の日本的文脈について、より具体的な政治経済の側面を見ていきましょう。

 安倍政権が取っている政策を支持している特定の資本があります。特に安倍政権において目立つ政策は軍事への傾斜ですが、とりわけ経済的な側面から注目すべきは、武器輸出の解禁です。これまでは、1967年に佐藤栄作首相が国会の答弁で表明した、
(1)共産主義国、
(2)国連決議で武器輸出が禁止された国、
(3)紛争当事国とその恐れのある国
への武器の輸出を禁じたいわゆる「武器輸出三原則」によって、日本は武器輸出に対する強い規制をかけてきました。この方針には、軍産複合体が肥大化することや、軍事ケインズ主義経済が発生してしまうことを防ぐ、という意図もあったと考えられます。

 つまり、日本の武器産業は、戦後存続したとはいえ、あくまで控え目な地位しか与えられませんでした。ところが、安倍政権になって、武器産業を基幹産業にしようという主張が堂々と語られるようになりました。国際的な武器見本市に、日本の企業がこぞって出展し始めたことも話題になっています。

 防衛関連企業としては、武器を開発して盛んに輸出したいという潜在的な欲求はあったのでしょうが、それに対しては歯止めがずっとかけられてきた。武器をつくって売って儲けるというのは、戦後の平和主義の国是にはなじまないという縛りが強くあったからです。しかし2015年には、防衛装備庁という新しい官庁も迅速に設立されました。

 このような方針転換に関しては、いかなる国民的議論もありませんでした。内閣の独断でやったわけです。日本の重厚長大型産業が行き詰まる中で、何とかして商機がほしいという圧力がかかったのでしょうし、安倍さんの趣味に合致するところもあったのでしょう。いずれにせよ、特定資本の利害が、政治権力を用いて貫徹される構図が現れています。

 「重厚長大型産業(じゅうこうちょうだいがたさんぎょう)」という用語に初めて出会った。調べました。
「鉄鋼や造船などに代表される基礎的産業。原材料大量消費型,かつ大規模立地型の特性をもつ。」
でした。

 同様のことは原発に関しても言えるでしょう。3・11を経たいま、原発というビジネスにおよそ未来があるとは思えません。こうした状況下で、例えばウェスティングハウスという原子炉メーカーを莫大なカネを出して買収した大企業(=東芝)は、減価償却するにも国内でこれ以上原発をつくれないという状況に直面し、輸出に活路を求めようとしています。だからともかく、輸出をさせてくれとプレッシャーを政府に対してかける。そのためには、国内での原発の再稼働がどうしても必要だということにもなる。結局、その圧力に対して民主党政権はまったく無力であったし、自民党政権は原発を推進した行きがかりがあるので、あたかも原発事故など起こらなかったかのような振る舞いをしているわけです。

 このように、新自由主義の下で、「小さな政府」が実現され、政府が経済を統制する力が弱まるどころか、資本の国家権力への依存が非常に強くなっていく、という現実が目撃されます。こうした現象が生ずる理由は、すべての資本の利潤創出の困難にあります。簡単に言えば、まともにやっていても儲けようがなくなっている、ということです。

 そのため、資本は国家に寄生して、国家の政策を左右しようとする。つまり、資本が国家を引きずり回しているようにも見えますが、それはある意味、資本が非常に脆弱になっているからだとも言えます。ここまで来ると、これを資本主義と呼べるのかという疑問さえ生じるでしょう。いま、まさにそんな状況にあるわけです。

バブル依存の世界経済

 こうした状況の始まりはどこにあるのでしょう。日本にとって決定的な転換は、実は全部1990年前後に起きています。世界的に見れば冷戦構造の崩壊であり、国内経済的に見るとバブル経済の崩壊です。バブル経済の崩壊の本質とは何か。崩壊後に不良債権問題が深刻化したということは表層であって、根本的な問題はいわゆる利潤率の傾向的低下、すなわち利潤が全般的に上がらなくなるということにあります。

 これは水野和夫氏の理論などが参照先として有力ですが、水野氏によると、日本はある意味で世界最先端国であるというのです。なぜなら、世界の先進国のどこよりも早く経済成長ゼロ(利潤が上がらない)という状態に飛び込んだからです。日本経済のバブル崩壊後、世界の資本主義はどうなったかというと、いわばバブルを人工的につくることによって利潤率を無理矢理引き上げるということをやっていった。しかし、それはバブルですから必ずどこかで崩壊する。

 その実例が、ロシアの通貨危機、東南アジア通貨危機、アメリカのITバブルとその崩壊、そしてサブプライム・ローン問題(不動産バブルとその崩壊)です。要するに、世界のどこかでバブルをつくっては壊し、ということを繰り返してきたのです。

 参照先として「水野和夫氏の理論」が紹介されているが、水野さんの著書『資本主義の終焉と歴史の危機』を指している。この本は《『羽仁五郎の大予言』を読む》中の一節『「独占資本主義の終末」補充編』で取り上げている。いま取り上げている問題と関係深いと思われる記事は『「独占資本主義の終末」補充編(11)』です。

 中国のようにまだ実体経済的に成長できる要因を多く持っている国ですら、すでにバブル経済の論理が入ってきており、実体経済レベルでの成長と不動産バブルが渾然一体になったものとして現れています。さらに言えば、中国の実体経済レベルでの成長そのものも、バブルを背景としたアメリカの消費に依存したものでした。アメリカの消費者が借金を重ねてまで過大な消費をし、その借金を中国や日本が米国債の大量購入によってファイナンスしてきた。それが膨大な量に上ったとき、返してもらえるのだろうかという不安が当然発生するわけですが、だからといって債権国が米国債を大量売却すれば、ドルが暴落しアメリカ人の消費量もガタ落ちするので、アメリカヘの輸出も止まり、自爆することになってしまう。ゆえに、さらに貸し続けるしかない、という状況が生まれました。

 この構造は、「グローバル・インバランス」と呼ばれます。アメリカにモノを輸出し、アメリカに貸したお金でそれを買ってもらう。モノもカネも全部アメリカに吸い込まれていくという、ブラックホールのような構造です。その間生産設備を拡張し、供給能力過剰状態となった中国は、国内での不動産バブルの形成を通した内需の拡大を図ってきたわけです。

 サブプライム・ローン問題の表面化によるリーマン・ショック以降、世界的に何が起きているのかと言えば、国債バブルです。国債は何に依拠するのか。それは、国家が徴税をできるということに依拠している。それは要するに現在及び未来の富、すなわち人々の労働による富の算出、これに対して国家が徴税をすることができるであろう、という期待に基づいているわけです。これの限界がどこにあるのか、ギリシャ危機などでその一端が表面化していますが、まだわかっていません。借金が天文学的な数字になってくると、本当にこの借金を回収できるのかという不安がどこかで爆発するはずです。

 このバブルをつくっては壊し、壊してはつくる、というサイクルに一番最初に突入したのが日本だと、水野氏は言います。こうして1990年前後に経済成長が止まったため、開発主義と利益誘導によって社会を統合すればよいというわけにはいかなくなったわけです。

 そうなると、統治原理の根本転換が起こる。みんなを食わせるという包摂の原理が、排除の原理へと転換します。日本では相変わらず保守勢力の支配が綿々と続いていますが、みんなを食わせようという発想はなくなっている。国家は資本の利益を優先し、資本は国家に寄生する。他方、大衆には「底辺への競争」が押しつけられ、貧富の差が広がり、実質的な国民統合は失われます。

 そこで現れてくるのが、諸々の劣化です。この章で取り上げた、右傾化、反知性主義、排外主義などがその典型ですが、それが排除の統治原理と結びつくときに生じる現象が、ファシズムです。排除された対象にどす黒い欲望をぶつける大衆がいて、政治もそれを煽る。これが、ファシズム的な社会のあり方です。それは、無残としか言いようがない代物ですが、いま日本はそのような状態に近づいています。

「成長戦略」としての戦争  さらに、危機は、経済成長ができなくなって世の中がギスギスするようになった、という程度では済まない可能性があります。それは、世界中で大きな戦争の可能性が如実に感じられることです。中東を筆頭に、東ヨーロッパでも東アジアでも、不穏な空気が漂っています。

 私は危機感を煽るためにこうしたことを述べているのではありません。世界資本主義の問題として、もはや「成長戦略」を実現するには、戦争しか選択肢がなくなってきているからです。現に、1929年の大恐慌を最終的に「解決」したのは、第二次世界大戦でした。

 2007年に赤木智弘氏が、『論座』に「『丸山眞男』をひっぱたきたい 31歳フリーター。希望は、戦争。」という文章を発表して、物議を醸しました。その内容は、格差社会の底辺部からの悲痛な叫び、「こんな状況が続くなら戦争でも起きた方がマシだ」というものでした。ただし、赤木氏は、この文章の中で、「戦争という手段を用いなければならないのは、非常に残念なことではある」とも書いており、あくまで「希望は戦争」というショッキングな表現を社会を目覚めさせる手段として用いていることを匂わせています。

 これに対して、2016年の今日、「希望は戦争」は、レトリックでなくリアルな話になりました。もちろんそれは、資本にとっての「希望」です。経済成長ゼロの状況を打開するための最高のカンフル剤は、大破壊です。大破壊をやって焼け野原が出現すれば、後は建て直すしかないので、成長が再開できます。

 そして、世界の情勢がこのような方向に着々と向かっているのだとすれば、「バスに乗り遅れるな」とばかりに日本版軍産複合体の形成へと道を拓きつつある安倍政権の政策は、ある意味で理に適っているのです。この方向へと人々を走らせるための前提として、諸々の劣化に基づく社会のファシズム的状況は、大いに役立つこととなるでしょう。

 このような危機的状況を認識している人はどのくらいいるのだろうか。「アベコベ軽薄姑息うそつきオカルト」政権を支持するような「庶民2」が跋扈している世相を知るほどに暗澹たる気持ちに成っていく。

 さて、この閉塞した時代を押し開く方法はあるのだろうか。次回からいよいよ最終章「ポスト55年体制へ」を読むことになる。
《米国の属国・日本》(20)

日本劣化を推し進めた新自由主義(5):反知性主義(2)


 今回は前回の続きで、「庶民2」が組織化されてきた経緯を取り上げる。

 白井さんは小泉政権時代のキーワード「ポピュリスム」が表徴している政治手法が、「アベコベ軽薄姑息うそつきオカルト」政権の政治手法「排外主義的ナショナリズム」へと変わっていった経緯を追っている。

 時計の針を10年ほど前、小泉純一郎首相の時代に戻してみると、当時のキーワードは「ポピュリスム」でした。この言葉はもともと、1980年代の英国サッチャー政権を分析する際に脚光を浴びたものです。ひとことで言えば、それは「イメージの政治」ということになります。

 先ほども言及したように、サッチャー政権は、新自由主義政策に大きく舵を切った政権でした。当時のイギリスにおいて強い政治的影響力を持っていた炭鉱労働者の労働組合を潰すことで、労働運動を弱体化させることに成功するといったように、労働者階級に対して打撃を与える政策を次々にやりました。ところが、それらの政策が労働者階級の利益になるというようなイメージ操作に成功したところが、サッチャーの手腕の特徴だったと思います。彼女の政策は、一見したところ大衆の利害に寄り添っているかのような外観を得たのです。このようなイメージ操作を指して、「ポピュリズム」と言われたわけです。

 この言葉が再び、2000年代の日本においてクローズアップされることになりました。つまり小泉氏の政治手法がポピュリズムであると。そして、この頃から日本の右傾化ということも指摘されるようになってきました。しかし小泉時代の右傾化は、今日と比較すると、まだ激しいものではなく、現在のように排外主義の風潮がはびこるような状況ではありませんでした。いまは、ポピュリズムに代わり、悪質な排外主義的ナショナリズムが台頭している状況であり、事態ははるかに悪化しています。

 さて、ポピュリズムにおいて重要なのは、その両義性です。ポピュリズムという言葉は、大概は悪い意味で使われますが、多くの場合それは、大衆迎合主義だという批判にすぎず、不十分です。政治家が大衆の欲するところをよく聞き、それを実現するのが民主政治ですから、それは正しいことではないかという考え方も当然成り立つからです。

 では、ポピュリズム的であると評された小泉さんが大衆の声を聞いたというのは、いかなる意味においてなのかということを考えなければなりません。小泉政権はネオリベ転換 ―中野氏の言葉でいえば、新右派転換― を決定づけた政権です。「自民党をぶっ壊す」という名文句がありましたが、それは、それまでの利益誘導の構造を壊すということでした。これに対して、当時の日本人は拍手喝采をしたわけです。

 なぜ、拍手喝采をしたのか。そこには、長年の利益誘導政治の弊害に対する不満があったと考えられます。利益誘導政治とは、個別利害の政治です。つまり、人それぞれ自分の利害は異なる。勤めている会社が違えば、産業政策の効果も異なる。それぞれの産業団体が、政治献金などを通して、自分のところに利益誘導をするというのが典型的な構造です。そういうことをいつまでもやっているから、産業の合理化が進まないのであって、グローバル競争の中で日本が没落していくのだという不満が、長期経済停滞の期間を通じて渦巻くようになっていました。小泉政権の唱えた「構造改革」は、利益誘導政治の構造を壊してくれるのであり、それによって経済成長を取り戻せるに違いない、という期待を掛けられたわけです。

 そして、小泉氏が利益誘導政治を破壊した後、自民党は短命政権が続き、民主党に政権を奪われますが、2012年12月に政権に返り咲き、現在にまで続く長期政権が、安倍氏の政権(第二次)です。一見したところ、安倍政権は、首相のキャラクターもあいまって、ナショナリズムに全面的に依拠しているように見えますが、もう一本の柱は、中野氏の分析でも示されたように、新自由主義、ネオリベラリズムです。本来は、この二本の柱は、矛盾する関係にある。なぜなら、ナショナリズムは国民の一体性を強調する原理である一方で、新自由主義は国民統合を破壊するものだからです。

 慶應義塾大学教授の片出杜秀氏は、安倍政治は右翼保守主義ではないと指摘しています。片山さんによれば、安倍政治の本質は「安上がり」ということに尽きる。ナショナリズムを唱えているので、一見、日本人はみなしっかりまとまらなければいけないという主張に見えるけれども、福祉の充実にはまったく関心がなさそうなので、実質的な意味で国民を統合する気はない。福祉制度の整備にかける財源も用意しないので、そこで、ナショナリズムの安酒を飲ませてごまかしている。福祉よりもシンボル操作の方がはるかにカネがかからないので、「安上がり」だというわけです。

 この見方をとると、政権の方針は、とにかく「安上がり」にすることであり、ナショナリスティックなこともそのために吹聴しているということになります。

 私はこの小泉政権と安倍政権の本質の分析に全面的に同意する。特に「アベコベ軽薄姑息うそつきオカルト」政権の政治手法を「安上がり」と喝破した片出教授の分析は見事だと思う。

 最初の出典がよく分からないのだが、いまいろんなサイトで取り上げられている記事がある。私が推定した最初の出典サイトで紹介しよう。『自民党と安倍の実績 売国有罪~売国自民党の不都合な真実?』という記事である。その記事を転載しておく。

【自民党と安倍の実績】

GDP下落率--------------歴代総理中第1位
自殺者数----------------歴代総理中第1位
失業率増加--------------歴代総理中第1位
倒産件数----------------歴代総理中第1位
自己破産者数------------歴代総理中第1位
生活保護申請者数--------歴代総理中第1位
税収減------------------歴代総理中第1位
赤字国債増加率----------歴代総理中第1位
国債格下げ--------------歴代総理中第1位
不良債権増--------------歴代総理中第1位
国民資産損失------------歴代総理中第1位
地価下落率--------------歴代総理中第1位
株価下落率--------------歴代総理中第1位
医療費自己負担率--------歴代総理中第1位
年金給付下げ率----------歴代総理中第1位
年金保険料未納額--------歴代総理中第1位
年金住宅金融焦げ付き額--歴代総理中第1位
犯罪増加率--------------歴代総理中第1位
貧困率------------------ワースト4国に入賞
民間の平均給与----------7年連続ダウン
出生率------------------日本史上最低
犯罪検挙率--------------戦後最低
所得格差----------------戦後最悪
高校生就職内定率--------戦後最悪

 これらの評定が正しいかどうか、確認する資料を私は持っていないので検証出来ない。しかし、仮に評定が、例えば「歴代総理中第2位」といったように、いくらか違う事項があったとしても、「安上がり」政治手法の結果を表すデータとしてとしての意義は変わらないと思う。

 「アベコベ軽薄姑息うそつきオカルト」政権の「安上がり」政策がこのような惨憺たる結果を生んでいる一方で、防衛費には過去最大の5兆円超の予算請求をしている。その請求の中には軍産複合体から法外な値段で買い取る不要な兵器が並んでいる。ミサイル防衛関連経費(1872億円)・新型3000トン級潜水艦(一隻760億円)・F35戦闘機(6機946円)・垂直離着陸輸送機オスプレイ(4機393億円)。 ちなみに、ミサイルについては日刊ゲンダイが『露呈 ミサイル防衛は1兆5787億円の役立たず』という記事(2016年9月13日付)を書いている。

 また、ばらまき外交では、これも日刊ゲンダイの記事(2015年5月25日付)によると26兆円にのぼるという(『どれほどの成果が? 安倍首相がバラマキ外交で払った26兆円』)。今年に入ってからもばらまき外交は続いている。


 では、利益誘導政治の構造を小泉氏が壊した後の世界に、安倍氏は何を持ち込もうとしているのか。安倍氏が自分の政策を語る際の言い回しでとても印象的だったのは、規制を緩和して、日本を「世界で一番企業が活躍しやすい国」にしていきます、と表明したことです。この言葉は、まさに新自由主義者宣言とでも呼ぶべきものですが、その意味をよく考える必要があります。

 新自由主義の本質とは何か。先に説明しましたが、それは、資本の運動に対する規制のないフラットな空間(=自由競争の空間)を、場合によっては暴力を用いてもつくり出していくことでした。しかし、実はこの説明でも十分ではありません。

 資本のための開かれた空間では、本来は自由な競争が成り立って、努力や創意工夫に優れた者が成功し、努力や才覚が足りなかったものは公正な競争ののち敗れていく。そのような意味では、スポーツ競技みたいなものとして、市場における競争はイメージされています。たとえ、その前提に暴力があるにせよ、その本質がフェアな競争ならば問題はないのではないか、と。ところが、現実はそんなものではありません。力づくで開かれた資本の空間に入ってくるのは、独占資本です。巨大独占資本が空間を占拠するのです。

 例えば、イラクのフセイン政権が倒されたとき、アメリカは、イラク国家によって統制されていたマーケットを外へと開こうとしました。そこへ最初に参入するのは、当然のごとく、イラク戦争を後押しした資本であり、彼らが利権をまずがっちり押さえる。彼らはイラク戦争の背後で様々な工作をし、金も出し、散々コストを払った。ですから、彼らにしてみれば、「公正な競争」なんてとんでもない、ということになります。

 安倍さんとしては、企業一般を指して先の言葉を述べたのでしょうが、現実には企業一般のためになる政策など存在しません。ある特定の個別資本のためになる政策が存在するだけです。つまり、すべての企業がすべからく公正に競争できる場所などは、この世の中に存在しえないのです。

 規制緩和については色々な記事で取り上げてきているが、その本質を詳しく書いた記事として『「財源=税」問題を考える。(3):各種審議会の仕組み』
を紹介しておこう。
《米国の属国・日本》(19)

日本劣化を推し進めた新自由主義(4):反知性主義(1)


 右傾化について、中北さんと中野さんの説を学習してきたが、そこから見えてくるのは社会の全般的劣化である。つまり、新自由主義は単に政策や経済の問題ではない。それは社会に一つの文化的様式を持ち込むのであり、その社会に生きる人間の精神構造にも大きな影響を及ぼしている。その結果が、反知性主義の跋扈であり、社会の全般的劣化にほかならない。白井さんは「不良少年たちの逆説的状況」と題して、次のように続けている。

 先ほど、中北氏が指摘した草の根保守の組織化について、ある種の反知性主義の要素があり、かつそれはヤンキー的なメンタリティーと親和性が高いと述べました。実は、ヤンキーというのはなかなか重要な問題なので、これについても見てみましょう。

 ポール・ウィリスというイギリス人の社会学者が書いた『ハマータウンの野郎ども』という古典的名著があります。原題は、ラーニング・トゥ・レイバー(Learning to Labour)で、労働者階級に生まれた子どもたちがどのようにして肉体労働に就くことになるのか、を分析するという内容です。

 日本と同じように、イギリスにも不良少年がいる。不良少年は学校での成績が悪く、同時にいわば学校的なるものへの敵意と嫌悪を露にします。教師には反抗し、優等生をバカにする。彼らは学校での点取り競争から自発的に降りてしまい、学校的なるもの全部に抵抗するわけです。ところが、その抵抗が社会への抵抗になっているのかというと、実はなっていないという逆説をウィリスは指摘しています。まさに、学校の秩序から脱落することによって学歴がつかず、彼らはやはり親と同じような肉体労働者となって、大卒者が誰も引き受けたがらないような労働に従事することとなる。そのようにして、階級が固定化されていくわけです。

 この不良少年たちは、明らかに独自の「カルチャー」を持っています。それは、何が格好良くて、何がダサいものなのかについての独自の基準です。それは、一種のサブカルチャーであり、クラシック音楽とか美術館に展示されるような絵だとか、いわばカルチャーの本道とは全く異なるものです。彼らはロック音楽に熱狂し、あるいはサッカーに夢中になる。それは、イギリスにおけるカルチャーの本道とは異なる独自の価値体系です。

 この本はイギリスの労働者階級を論じたものですが、では、日本のヤンキーはどうか。日本でも、一定の若い人たちがヤンキーと呼ばれていて、彼らもしばしば学校に反抗しドロップアウトしますが、やはり、そこから先に従事する仕事は圧倒的に肉体労働が多い。反抗のあり方などは時代によって移り変わりますが、ヤンキーにもヤンキー独自の美学、すなわち独自のカルチャーがあるわけで、ウィリスの分析したイギリス社会と共通点はありそうです。

 白井さんは反知性主義の核心を「知的なもの、知的ぶったものや人に対する反感」と取らえ、それは「一般に非エリートである庶民は反知性主義的エートスを常に持っている」と言う。その典型例として『男はつらいよ』の寅さんを論じている。私は『男はつらいよ』のファンであり、結構沢山見ている。寅さんのエリートに対する反感には共感している。白井さんはどのように捉えているのか、大変興味深い。

 映画『男はつらいよ』の寅さんは、学歴などない、どちらかというと下層の庶民です。寅さんは、庶民よりも上の知的階層に属するような、大卒の人間などが出てきて議論になると、一種のキメ台詞としてこう言います。「お前、さしずめインテリだな」。

 寅さんの言いたいことは、「お前の言っていることはどうも腑に落ちない、机上の空論なんじゃないのか」ということでしょう。であるとすれば、これは、いわば「古典的な反知性主義」です。これは私が勝手につくった言葉ですが、自分の生活実感から解離したものに対して疑いを持つという精神態度です。

 反知性主義研究の古典である、リチャード・ホーフスタッターの『アメリカの反知性主義』の定義に従えば、反知性主義とは、「知的な生き方およびそれを代表とされる人びとにたいする憤りと疑惑」ということになります。肉体労働に従事している庶民の感性には、インテリの言うことは難しくて理解できないという以前に、そもそも実感を伴わないので、理解するに値しないものとしてしばしば現れます。
「あいつらは働いてるなんて言えるのか。その癖なんだか世の中はこうなってるというような知ったふうな口を利きやがる。旋盤一つ削れないくせに」。
 実際、わけのわからない言葉遣いをすることで、人を煙に巻くことを職業としている「インテリ」はたくさんいるので、これはある意味で、健全な疑いと言えるものです。自分の生活実感からかけ離れたことを権威ある人から言われたとしても簡単には信じない、という精神態度であり、イギリスの不良少年の学校教師に対する反感にも、似た側面があります。

 寅さんのエリートに対する反感は「自分の生活実感から解離したものに対して疑いを持つという精神態度」であり、その限りではしごく健全な精神態度だと言えよう。

 次いで白井さんは、寅さんのような庶民を「庶民1」と呼び、「アベコベ軽薄姑息うそつきオカルト」首相が組織化した「草の根保守」を「庶民2」と呼び、その違いを論じている。

 さて、中北説を参考にして考えると、安倍晋三首相は、ヤンキーを含む草の根保守をまとめて、彼らを自らを支えるサポーターに仕立て上げたと言えるのかもしれません。では、はたしてその草の根保守主義は、生活実感に基づいた健全な反知性主義を持っていると言えるのか。ここが、問題です。おそらくは私は違うと思うのです。仮に寅さんのような庶民を「庶民1」と言うならば、安倍氏が現在依拠している庶民は「庶民2」とでも言うべき、内実の異なる存在なのではないか。

 なぜかというと、彼らが唱える「日教組やマスコミを牛耳る左翼が国民を騙し、日本の誇りを傷つけ国益を害している」という物語が生活実感に根ざしているとは、到底思えないからです。この点で、イギリスの不良少年や日本におけるヤンキー、労働者階級の感性とは異なります。すると、安倍氏が組織した草の根保守というのは、実はヤンキー的なエートスとは親和性がないという結論になります。

 現在様々な分析がされていますが、おそらくはヤンキーが急速に右傾化しているということではない。引きこもりの人たちのように、社会から疎外されている人たちが右傾化しているという説もあれば、それよりもむしろ中流階級が右傾化しているという説もあります。私はどちらかというと後者の説に共感していて、社会的地位の高い人までも含めた広範な社会階層に属する人々が、荒唐無稽な右翼イデオロギー(歴史修正主義や陰謀論に象徴される)を信じている、という現実があると見ています。

 古典的ヤンキーが持つ「古典的反知性主義」が生活実感に根ざしたものだとすれば、現在の日本で見られる反知性主義は宙に浮いているがゆえにまともな中身がありません。ですから、現代日本の反知性主義は、エリートに対する庶民の懐疑としての反知性主義とは似て非なるものです。古典的反知性主義の劣化版と言えるかもしれません。それは、「容易には騙されない」態度とは正反対の、国家主義イデオロギーに軽率に感染する態度として現れています。

 では、中野氏が言うところの新右派連合の柱をなす、「庶民2」は、どのようにして生まれてきたのでしょうか。

 「庶民1」の「エリートに対する懐疑」という古典的反知性主義に対して、「庶民2」の反知性主義は「国家主義イデオロギーに軽率に感染」してしまう古典的反知性主義の劣化版だと指摘している。この劣化版反知性主義が「アベコベ軽薄姑息うそつきオカルト」政権の高支持率を支えている愚民たちの正体なのだ。

 「庶民2」が台頭してくる経緯は次回で。
《米国の属国・日本》(18)

日本劣化を推し進めた新自由主義(3):右傾化(2)


 前回の続きです。
 白井さんによる右傾化についての中野教授説の解説。

旧右派から新右派へ

 右傾化についてのもう一つの分析は、中野晃一氏によるものです。中野氏は、中北氏と比べて社会構造的な分析を重視しています。中野氏によれば、1980年代以降、具体的には中曽根政権から、日本の保守政権の支持基盤は旧右派連合から新右派連合へとチェンジしたということになります。

 旧右派連合とは何か。55年体制下において、自民党は長期安定政権を保持し続けたわけですが、その柱は、開発主義と恩顧主義でした。開発主義によって、産業の近代化を進めて、生産力の向上と経済成長を実現させ、国民の生活が近代化していく。同時に、そうした果実に直接ありつけない人々、業種、地方に対しては、恩顧主義の原則に即して、補助金や公共事業を通した果実の分配を図る。つまり、利益誘導政治です。第一章で、55年体制下の自民党は、人々を「包摂」する社会民主主義的な政策をとっていたと指摘しましたが、それは具体的には、この利益誘導政治のことです。

 本来、開発主義が進んでいくと生産力が上がっていきますが、その分、生産性が低い産業部門は淘汰されていきます。例えば、工業が高い生産性を達成する反面、農業の生産性が低いままだとすると(自然条件に左右される第一次産業は、工業に匹敵する生産性の向上を達成することは決してできません)、所得格差が出てくるわけです。これを放置すると農村は荒廃していくままになり、農村での支持基盤を失うことになる。そこで、都市の工業によって稼ぎ出された富を農村に分配する。いわば都市から農村への富の分配です。これは利益誘導を通じた包摂の政治であるとも言える。

 利益誘導政治が国民統合に寄与し、安定した国家運営ができていた時代の自民党の支持基盤を、中野氏は「旧右派連合」と呼んでいるわけです。

原発立地のカラクリ

 しかし、結局、開発主義と恩顧主義による利益誘導政治には、深刻な病巣があった。3・11の福島第一原発事故は、この重い事実を衝撃的な形であらためて突きつけました。

 金をばらまいても、農村すなわち地方は過疎化していきます。そこで、地方への産業誘致の一環として、原発を持ち込んだわけです。それに対して、現地では当然反対する人たちもいました。それをどうやって受け入れてもらえるように地ならしをしていったかといえば、その地域に利害関係者を増やすことで、誰もがしがらみのために反対と言えない状況をつくることを国や電力会社が意図的に行なったわけです。この状況は、利益誘導政治に付き物の腐敗・汚職の構造と深く結びついて、地域や利益団体のボスが「カラスは白い」と言えば誰も「いや黒いです」とは言えないような、つまり空気の圧力によって正論を言えないような封建的社会構造を利用し、かつ温存させていきました。

 多くの人によって指摘されたとおり、原発立地自治体は潤っていたと言われたものの、同時に多額の借金も抱えていました。なぜ、そんな借金まみれになったのか。そこにはカラクリがあります。電源三法によって、原発を受け入れると特別に入るお金がありますが、その使い方に国側があらかじめ規制をかけておくわけです。国から見て最悪のケースは、自治体が交付金で別の産業に投資して成功したとすると、税収は入るし、雇用も増えるので、原発はもう不要となってしまうことです。

 これを避けるために、交付金の使い道を指定するわけです。例えば、体育館やらミュージアムやらの箱物を建てさせる。そんなものを造っても、人口は多くないので、維持費ばかりがかさんでたちまち赤字を垂れ流し始めます。制度の決まりに従って交付金の額が下げられ、気がつくと億単位の赤字が出てくる。あっという間に交付金を使い果たしてしまうばかりか、さらに赤字が累積していくことになる。そうなると、手っ取り早くお金を得る必要が生じ、「もう一基原発プラントを建ててくれ」ということになるわけです。こうして、福島第一原発だけで六基ものプラントが集中するようになったわけです。

 なぜそんなことになるのかといえば、それは以上のカラクリによって、借金漬けになるような仕組みとなっているからです。要するに、絶対に地方を自立させずに、中央に依存させるシステムだということです。そして、こんな構造に異を唱える正論をボス支配の構造によって封殺してきました。

新右派連合の内実

 では、中野氏の言う新右派連合というのは何なのか。その柱は新自由主義と国家主義です。まず、経済成長が止まって配るカネがなくなったので、貧しい人々や地方への再分配はもう行ないません。すなわち、グローバルエリートのグローバルエリートによるグローバルエリートのための政治を推進することで、これまでの包摂路線を放棄するということです。これによって生ずる痛みを観念的に解消するのが国家主義です。「従軍慰安婦問題なんて朝日新聞の捏造だ!」と叫んでみたり、戦後憲法を勇ましい憲法に変えてみたりしたところでお腹の足しにはなりませんが、お金はさほどかからずに、一部の人々を大いに満足させることができるわけです。

 白井さんは「中野氏の分析には強い説得力がある」と評価した上で、「問題は、なぜこんなものに多くの人々が騙され続けているのか」と問いかけて、次のように分析している。

 中野氏の言う新右派連合は、「永続敗戦レジーム」が今日依拠する基盤となっています。このレジームは「あなた方を切り捨てる」とほとんど公然と宣言しているのに、いまだにこれにすがって生きようとする人たちがいる。それは、おそらく長年人を自立させないシステムの中を生きてきたことで、人々が依存心の塊になっているからかもしれません。誰かがなんとかしてくれるんじゃないか、助けてくれるはずだ、というわけです。

 しかし、そんな希望はもはや絶対に成り立ちません。今日、永続敗戦レジームを支えている政治家たちには、できるだけ多くの人たちがどうにかして生きていける国にしなければならないという倫理観は、ありません。2012年の衆議院総選挙のとき、自民党は「ウソつかない。TPP断固反対。ブレない。」というポスターを大量に貼り出したうえで、翌年3月にはTPP交渉に嬉々として入っていきました。党内でこれに歯向かう政治家もいない。原理は単純です。要するに、TPPによって生活基盤を破壊される人間が出てきたとしてももう関知しない、自分たちの権力を保てればいい。ただそれだけです。

 第一章で見たように、55年体制下における旧保守は、再分配を重視し、包摂の原理に基づく統治を行ないました。戦後日本版の包摂の政治の負の側面は、長年の保守支配の構造的問題として言われていた、例えば談合であり、汚職であり、そしてそれに関わるところのボス支配です。自民党を中心とする保守支配勢力は、日本社会に根強く残存する封建的なものをフル活用して、長年盤石な基盤を築きました。こういった旧来型の保守支配は、多くの弊害はありながらも、唯一の良心、大原則があった。それは「きちんと包摂をする」ということです。

 どういうことかと言えば、様々な談合や汚職も含む利権のネットワークを張り巡らせておいて、要はその中にちゃんと入っていて、おとなしくして言うことを聞いている人間には悪いようにはしない、ということです。できるだけ多くの人を食わせるようなシステムを、旧保守はつくってきたわけです。

 これが、経済成長が止まったことによって立ちゆかなくなったのです。問題は、そのことを見抜けていない人々が多いことです。いま福島の人たちが、どのように切り捨てられつつあるかを見れば、現在の国家の原理がどういうものであるのか容易に理解できます。子どもの甲状腺がん発生の問題一つとっても、問題に正面から取り組む代わりに、問題の存在を認めず、それを指摘する人をあらゆる手段を使って沈黙させるか無力化させる。こういう権力が「助けてくれるはずだ」などと想像するのは、笑い話でしかありません。

 「グローバルエリートのグローバルエリートによるグローバルエリートのための政治」とは、言い換えれば、1%が牛耳っている政治である。1%にたぶらかされている99%内の人たちが早く目覚めることを願ってやまない。99%が連帯することが閉塞した現状を打破する力となるだろう。
《米国の属国・日本》(17)

日本劣化を推し進めた新自由主義(2):「右傾化」(1)


 白井さんは「右傾化」問題については次の2冊の本の説を紹介する形で話を進めている。
中北浩爾(一橋大教授)著『自民党政治の変容』
中野晃一(上智大教授)著『右傾化する日本政治』

 このお二人の「右傾化」についての分析はどちらも見事である。「アベコベ軽薄姑息うそつきオカルト」政権のような低俗な政権に高い支持率を与えている人たちの心性と知性の姿形がよく見えるようになった。以下、全文をそのまま転載しよう。
 では、まずは中北教授説の解説から。

草の根保守の組織化

 まず中北氏の説によりますと、90年代あたりからの急速な保守化は、まさに安倍晋三氏がアクティブに動いて作った部分があるとされます。実際、草の根保守を組織化したと、安倍氏自身が語っています。つまり、これまでも微妙に国粋主義的な人たちというのは、都会でも田舎でも、一定数存在していましたが、そういう人たちは、何となく疎外感を味わってきたわけです。日の丸や君が代が好きだと言ったりすれば、変わり者扱いされてしまうようなところもあった。

 また、この層には「左翼的なもの」に対する拭いがたい違和があります。「日教組が偏向教育をやって歴史を歪曲し、若い人たちの心を毒していった。マスコミも同罪だ」といったように。ここには、マスコミや言論界といったエリートの世界、つまり、学校エリートに対する反発、反知性主義的な要素も混ざっています。また、後ほど説明しますが、ヤンキー的なものとも親和性があります。こういう人たちの中にくすぶっている感情を、安倍氏は巧妙に組織化して、それに形を与えたというわけです。

 中北氏は、もう一つ指摘しています。自民党は民主党に政権を取られて下野したために、民主党との相違点をできるだけ明確にしないと次の選挙での見通しは開けない、と考えた。そこで彼らが何をやったかというと、民主党政権は左翼の政権であり、それに対してわれわれは保守である、と唱えたのです。何を保守しているのかということは、いまだにさっぱりわからないのですが。

 ともかく民主党を左翼視して、それとの違いを際立たせるためには、いわゆる右翼的なアジェンダを次々並べなければいけないことになります。憲法のことから歴史認識まで、右翼的な課題を率先して取り上げ、それに惹かれた支持者が増えてくる。安倍氏の場合は、心底そういう考え方を持っているのでしょうが、ひとたび票がついてくると、組織としても、もうやめるにやめられなくなります。つまり右翼純化路線をとったために、より激しく右傾化することになっていく。以上が、右傾化に関する中北説ですが、確かに一理あると考えられるものです。


 白井さんはこのような「右傾化」のターニングポイントは「北朝鮮による拉致」問題だったと指摘し、次のように解説している。
 政治状況的に見ると、世論が右傾斜するターニングポイントとなったのは、北朝鮮による拉致問題でした。これが表面化した当時、私は大学生でしたが、相当に驚きました。拉致の噂は以前からありましたが「まさか」という気持ちもありました。なぜなら、北朝鮮という国家にとって、あのような犯罪行為をあえてやることによるメリットがまったく見えないからです。

 とにもかくにも、2002年に小泉純一郎首相が訪朝して交渉に入りました。北朝鮮側は拉致被害者は13人いることを認めましたが、死亡したとされた被害者たちの死亡経緯も到底納得できるものではなく、また、まだ認めていない拉致被害者も確実にいると思われ、このことは日本国民に衝撃を与えました。北朝鮮は何てひどいことをするんだ、とんでもない国であるという世論が爆発します。

 安倍晋三という政治家が2006年に首相の座を射止めた背景の一つには、この拉致問題があると私は考えます。逆に言えば、この件を通じて安倍さんが英雄視されたことによって、大きな禍根が残されているとも言えます。

 これは、実は55年体制の時代とも深く関わってくる話です。つまり、それまでの政治家がだらしがなかった、ということです。被害者たちの家族は、自分の家族は拉致されたらしい、何とかしてください、といろいろな状況証拠から確信を抱いて政治家に働きかけていました。しかし、たいがいの政治家は、拉致問題があまりにも厄介な問題であるために、逃げたのです。自民党の主流派は適当にごまかそうとしましたし、社会党に至っては門前払いでした。なぜなら社会党と朝鮮労働党は友党関係にあったため、朝鮮労働党が支配する立派な国である北朝鮮がそんな非道なことをするわけがない、という論理です。当然、政治家に対する拉致被害者家族の不信感は強まりました。

 その中で一番話を聞いてくれたのが、安倍さんに代表されるような自民党の右派系議員だった。こうして、一見したところ、安倍さん的な勢力はこの問題に対して誠実に立ち向かったんだ、という外観ができたわけです。しかし、それが本当に誠実な動機によるものであったのかが、ほかならぬ拉致被害者家族によって、その後問われていくことになります。

 拉致被害者家族が結成した「家族会」の幹部だった方に、蓮池透氏がいます。透さんは家族会の活動を続けるうちに、後述する理由から、現在は家族会や安倍氏に対する強烈な批判者の一人になっています。

 彼自身、拉致をめぐって噴き出した右派的な雰囲気に一時期は感染して、「憲法九条が悪い。憲法九条のようなおかしな条文があって日本は手足を縛られた国だからああいう事件を起こされてしまったんだ、それを防ぐためには憲法を改正しなくてはいけないのだ」といった右派が言いそうなことを右派政治家と一緒になって主張していました。

 しかし、あるときから彼は違和感を持つようになります。彼の弟・薫さんは北朝鮮から帰国して、そのまま日本に残ったわけですが、薫さんに対する日本社会の様々な扱いに直面したときに、何かがおかしいことに気づきました。20年以上ぶりに帰国して、生計を立てる手段のない薫さんの生活を守るために、国が支援法をつくります。一定期間、生活保護のような形で支給を受け、その後は地元の新潟県柏崎市職員として臨時の職を得ることになりました。これに対して、一部の世論が生活保護バッシングと同じロジックで、不満を噴出させ、すごい数の嫌がらせの手紙、電話、FAXメールが寄せられ、ひどい目に遭ったというのです。

 透さんは、これまで多くの国民が家族会を応援してくれていたと思っていたのに、突然手のひらを返したように批判を始めた人がここまで多いことに驚きます。そして自分たちを応援してくれた国民の中には、拉致被害者の救済を心から願っていたのではなく、北朝鮮を攻撃することである種のカタルシスを得るために拉致問題というトピックに飛びついているにすぎなかった、自称「愛国者」がかなりの割合で存在していたのだ、ということに思い至ります。今日の右傾化には、まさにこうした自称「愛国者」たちの心理的メカニズムが動員されている、と私は思います。

 中野教授説の解説は次回に紹介する。
《米国の属国・日本》(16)

日本劣化を推し進めた新自由主義(1):「階級の身分化」


 これまで経済領域と軍事面での対米従属を取り上げてきたが、この2領域も含めて、現在の社会全体を覆っている病巣を見極めておこう。『戦後政治を終わらせる』の第4章は「新自由主義の日本的文脈」と題して、その問題を取り上げている。「右傾化」「ポピュリスム」「反知性主義」などの概念で議論されている現在の日本社会の劣化をもたらした根源は新自由主義であるという。今回からこの第4章を読んでいくことにするが、経済領域での新自由主義については『ミニ経済学史』や《『羽仁五郎の大予言』を読む》の「終末論の時代:独占資本主義の終末」で取り上げているので、それらの記事と重複している事項は省略していく。

 さて、《『羽仁五郎の大予言』を読む》では「チリのクーデタ」も取り上げた。このクーデタについては、チリの社会主義国家化を恐れたアメリカ(ニクソン政権)がCIAを通じて、軍の一部にクーデターを促す工作をしていたことを知っていたが、驚いたことに、白井さんはこのクーデタは「新自由主義の政治的実践の最も顕著な例」だと言っている。新自由主義者たちがこのクーデタにどのように関わっていたのだろうか。ここから読み始めよう。

<シカゴ学派とチリの軍事クーデター>

 新自由主義の席巻を象徴する事例として、その旗振り役だったフリードリヒ・ハイエクが1974年にノーベル経済学賞を受けたことが挙げられます。彼を有名にしたのは『隷従への道』という著書でした。

 この本をハイエクが書いたのは、第二次世界大戦中でした。この中でハイエクは、ナチズムもソ連も、ケインズ主義を取り入れたニューディールのアメリカも、すべて同じようなものだという議論を展開します。要するに、国家・官僚主導型の経済は、すべて人々の自由を阻害するものであり、いわば人々を巨大なシステムに隷従させるものであると論じました。アメリカはナチスドイツに対して、「われわれは自由の騎士だ」と言って戦っているが、両者は同じ穴のムジナであると痛烈な批判を浴びせたわけです。

 ケインズ主義が常識となった戦後しばらくの間、ハイエクの考え方はほとんど相手にされませんでした。ところが70年代以降、彼の業績が脚光を浴びるようになっていきます。

 ハイエクの弟子が、シカゴ大学で教授を務めたミルトン・フリードマンです。この人は、新自由主義経済の権化と言われる人ですが、社会ダーウィニズムのようなことを主張しているかといえば、必ずしもそうとは言い切れません。フリードマンの本を読んでみると、弱者を切り捨ててしまえなどというような極端なことまでは言っていません。

 しかし、フリードマンについては、テキストそのものよりも、彼を取り巻く政治的な実践のほうを重要な問題として取り上げなければなりません。どういうことかというと、フリードマンはシカゴ学派という経済学の流派をつくりましたが、ここが反ケインズ主義の牙城になっていくのです。シカゴ学派はCIAなどとも微妙な関係を持っていましたが、その政治的実践の最も顕著な例が、1973年にチリで起こりました。

 1973年、チリの軍人ピノチェトが軍事クーデターを起こし、アジェンデ政権を打倒しました。アジェンデ政権は民主的な手続きを経て成立した社会主義政権でしたが、アメリカはこれに対して恐怖感を露にします。中南米は自分たちの勢力圏であらねばならないという考えがアメリカには根強くあり、政治的干渉を続けてきましたが、チリで社会主義政権が誕生してしまった。アジェンデ政権が成立してから、アメリカはチリの主要生産物である銅の相場を人工的に暴落させたり、経済制裁的なことをやったりと、さんざん締め上げます。そして総仕上げとして、ピノチェトを使ってクーデターを起こさせた。民衆に支えられていた政権を暴力によって倒したわけですから、当然のごとく民衆の抗議運動が広がりましたが、それは残酷に弾圧されていきました。このクーデターだけでアジェンデ本人を含む何十万人という人が殺されていますが、そのバックにいたのはCIAです。

 こうしてピノチェトが大統領になり、軍事独裁政権が成立しましたが、その時に政権の経済部門の政策アドバイザーを務めたのが、フリードマンとその弟子たちだったのです。さらに言うと、このクーデターを実行する前から、アメリカはチリに対してアカデミックな機関を通じた工作も実行しています。アジェンデの社会主義的な経済運営を批判する勢力をチリの中につくっておきたいと考えたのです。

 そのための方策として、チリ・カトリック大学の学生たちを好条件でシカゴ大学へ留学させて、そこでハイエク、フリードマン流の経済学を叩き込みます。つまり、国家による経済の管理なんてものは、端から完全に間違っているということを延々とチリの学生たちに吹き込んだわけです。政変の後、「シカゴ・ボーイズ」と呼ばれたその学生たちは母国へ帰って、アジェンデのやり方がいかに間違っていたかということを宣伝し、ピノチェト政権の新自由主義経済政策を立案実行する立場を得ます。以上は、ナオミ・クラインの『ショック・ドクトリン』という有名な本に詳しく記されています。

  著者のナオミ・クラインも著書の『ショック・ドクトリン』も初めて知った。興味を持ったので、日頃利用している図書館の蔵書を調べてみた。
著者は
<1970年カナダ生まれ。ジャーナリスト、作家、活動家。著書に「ブランドなんか、いらない」「貧困と不正を生む資本主義を潰せ」など。>
と紹介されていた。また本は上下2冊あって、その内容紹介は次のようになっている。
(上)
<アメリカ政府とグローバル企業は、戦争、自然災害、政変などの危機につけこんで、あるいはそれを意識的に招いて、過激な経済改革を強行してきた。惨事便乗型資本主義=ショック・ドクトリンの全貌を暴く。>
(下)
<大規模な民営化導入に災害や危機を利用するショック・ドクトリン。ソ連崩壊 後のロシア、アパルトヘイト政策廃止後の南アフリカ、さらには最近のイラク戦争やアジ アの津波災害などを通し、ショック・ドクトリンの全貌を暴く。>
 いずれ読んでみたいと思った。

 白井さんの論説に戻ろう。白井さんは新自由主義の本質を次のように分析している。

 新自由主義が先進国で本格的に展開し始めるのは、1980年代に入ってからだとよく言われます。つまり、イギリスのサッチャー政権およびアメリカのレーガン政権の成立によってスタートしたとされますが、実はそれに先立って新自由主義の実験がチリで行なわれていたというのが大方の定説です。

 そして、このチリの事例がきわめて鮮やかに示しているのは、新自由主義とは、単に民間企業の自由な活動余地を広げることで経済活動を活性化しよう、などといった穏やかな代物ではないということです。すなわちそれは、まさに暴力によって始まったわけです。新自由主義については、大きな政府から小さな政府への転換であって、経済に対する国家の不当な干渉を排除しようとするものだ、といった説明がされることが多い。しかしそれは一面的な見方であるということを、チリの事例が証明しています。

 ここからわかるのは、新自由主義の本質とは、資本にとっての障害を力ずくで破壊し、資本が自由に制約なしに活動できる空間を拓くということです。その「力」というのは何でもいい。チリの例のように軍事的な力でもいいし、天然災害でも戦争でもいい。言ってみれば、それまで営まれていた生活圏、生産、流通、消費のエリアをぶち壊してくれるものだったら何でもいいわけです。

 イラク戦争においても、このロジックは証明されました。アメリカはフセインを倒して新生イラクをつくろうとしましたが、「イラクに民主主義を」のスローガンの背後には、いかなる資本規制も存在しない国をつくるという目論見がありました。アメリカがそれを強制しているということになると体裁が悪いので、イラクの新政府が自発的にそのような法律を制定したという形をつくりましたが、もちろんそれは茶番にすぎません。

 チリの事例に見られるような新自由主義は、80年代になってくると先進国でも本格的に導入されていきます。日本でも80年代に、やはり中曽根康弘政権がレーガンやサッチャーの新自由主義路線に追随したと評されます。しかし、アメリカやイギリスで生じたことに比べると、80年代の日本の新自由主義改革はまだ本格的なものではありませんでした。とはいえ、共通点も見出せます。それは、強力な労働組合の解体でした。強固に組織された労働者は、資本の動きに対する束縛として機能するからです。

 新自由主義の特徴としては、公営事業の民営化、資本移動の自由化、福祉の削減、こういったことが共通点として挙げられます。さらには労働組合を筆頭とする再分配の削減に反対する勢力を潰していく。社会民主主義勢力を長年支えてきたのは労働組合ですから、それは同時に政治における社民主義勢力に対して打撃を与えることにもなるわけです。

 この路線を実行するうえで中曽根首相は大きな仕事をしました。すなわち国鉄解体、分割民営化です。民営化の意図は何であったか。国鉄の累積赤字問題もありましたが、それ以上に国労という国鉄の労働組合を解体するということが非常に重要だった。

 このように、先進国においては、80年代に資本が自由に運動する際に邪魔になるものを次々に取り払っていくための地ならしが行なわれました。

 白井さんはこのような新自由主義の動きが国家社会の根本的な変質をもたらしたと言う。その根本的な変質を「階級の身分化」と呼んで、次のように論じている。

 国家権力に本来求められるものとして、国民の安全があります。例えば、天然災害などが起きた場合、被害にあった人を全力を挙げて救出し、被害を最小化するということが国家に要求されている。ところが、これも新自由主義のレジームにおいては異なった様相を呈してきます。

 このレジームは、災害を資本が自由に動き回る世界をつくるための絶好のチャンスとしてとらえるわけです。実際、アメリカにおけるハリケーン・カトリーナだったり、スマトラの大津波といった事例で、このことはすでに証明されています。こういった話を聞いて、われわれが何を思い浮かべるかといったら、東日本大震災でしょう。大震災、大津波を奇貨として、大資本が自由に動ける空間をつくろうという動きに対して、すでに批判が出てきています。

 このような社会の動きは、「包摂から排除へ」と表現できます。生産力の盲目的な向上が志向され、それについて行けない、行かない人々は、居場所を失う。それは階級社会化、正確には再階級社会化をもたらします。

 なぜ「再」をつけるのかというと、19世紀的な資本主義社会がすでに身分制を解体したうえで成り立った階級社会だったからです。

 先にも見た通り、前近代社会の人々の階層は身分によって分けられていましたが、それがいったん全部フラットになり、人はみな対等な人格を持つということになった。しかし、人がみな本当の意味で平等な状態であるかといったら、そんなことはありません。生産手段を持つ者と持たない者、ブルジョアとプロレタリアという形で分解がなされ、その格差がどんどん広がっていく。それが結局のところ世界戦争を引き起こしていきました。

 戦前の日本が典型例です。なぜ日本は侵略戦争に走らざるを得なくなったのか。日本は世界恐慌の波をもろにかぶり、最下層階級であったところの、貧しい農村の小作人たちが生きていけない状況になった。彼らの怒りを後盾とする形で、血盟団事件や5・15事件、2・26事件も起こったわけです。しかし、結局は国内の社会改革によって問題を収拾することができず、海外侵略に活路を見出すことになりました。

 20世紀のケインズ主義的、あるいはロールズ的な意味でのリベラリズムに基づいた修正資本主義がやったことは、この階級社会の解体です。それは再配分によって貧困を撲滅することを目標としましたが、先進国に限って言えば、かなりの程度の成果を収め、極端な貧困は存在しなくなりました。しかし70年代から修正資本主義は行き詰まり、統治原理の転換が起こってきます。そうなると社会は再び階級社会化していく。現在の格差問題は、このようにして生じました。

 「階級」という概念は近代的なものです。前近代においては、階級ではなく「身分」があった。身分が生まれながらにして決まっているものであるのに対し、階級は可変的で、原則的には階級間移動も可能です。しかし、『21世紀の資本』の著者トマ・ピケテイが問題にしたように、現代は階級が固定的なものになってきており、実質的には身分に近づいてきているのです。

 再階級社会化の結果、国家に何か生じるのでしょうか。まず、国民統合の破綻です。極端な格差が生じ、それが固定化していく状況では、トップの1%と残りの99%の間で意識上の乖離が不可避的に生まれる。国籍こそ一緒であっても、実質的には同胞意識を感じないという状態になります。要するに
「同胞が飢えていようが凍えていようがどうでもいい。そういうやつには努力が足りないんだろう、だから福祉なんか与える必要はない。怠け者に与えるカネは、われわれの税金から出るんだろう。いくら頑張って稼いだって税金で持って行かれるんじゃやる気が出ない」。
 これが、新自由主義化した社会の勝ち組の身も蓋もない理屈です。この理屈に基づいて、レーガンは富裕層への累進課税を大幅に引き下げたわけです。

カテゴリー別の過去記事が新しい記事順に表示されて読みにくいと思っていました。 記事を書くのに利用している編集ソフトの画面を調べ直したら、記事の表示順を古い順に直すことが出来ることを知りました。 現在進行中のカテゴリー記事以外のカテゴリー別の記事は全て古い順に表示するように直しました。
《米国の属国・日本》(15)

「ポスト安保体制」論


 対米従属から対米自立を目指した政治家と言えば、まずアメリカの頭越しに日中国交正常化を果たした田中角栄が挙げられる。田中はアメリカの逆鱗に触れ「公職追放」に追い込まれた。それ以後では、小沢一郎と鳩山由紀夫が「対米自立」を掲げて激しいバッシングを受けている。その対米自立の主張は「常時駐留なき安保」論であり、小沢は2009年にそれを打ち出し大きな波紋を起こしている。それ以前に、鳩山も同じような持論を表明していた。この小沢・鳩山の持論について、白井さんは次のように述べている。

 「永続敗戦レジーム」からの脱却を志向するには、日米安保体制の見直しは避けて通れません。……これら(小沢・鳩山の持論)は要するに、ゆくゆくは在日米軍基地をなくしてゆく、という考え方です。

 このような方向性を提起した瞬間に、この国ではほとんどヒステリックな拒絶が自動的に引き起こされます。「ありえない」「バカバカしい」といった反応です。しかし、このような反応が当然のこととなっていること自体が、きわめて異様であることが認識されなければなりません。

 「常時駐留なき安保」論でネット検索すると、ヒステリックな拒絶反論にたくさん出会う。そうした中で、『軍事面での対米従属(5):戦争法(2)』で紹介した高野孟(はじめ)さんの論説『鳩山首相は「常時駐留なき安保」論を解禁せよ!』(2010年5月13日付)に出会った。その論説の最後に「鳩山が旧民主党結成直後の『文芸春秋』96年11月号に書いた「民主党/私の政権構想」と題した論文の該当部分(実に真っ当な「ポスト安保体制」論だ)が全文引用されている。上の白井論説の続きを読む前に鳩山論文を読むことにするが、その前にまずこの論文についての高野さんの解説を読んでおこう。

 これは、同党結成直前まで熱心に続けられた政策議論をよく反映した好論文で、その議論に参加していた私自身の考えや言葉遣いもいくつか採り入れられていて、私にとっても思いで深い文書である。なお、ここで「2010年までに」などと言っているのは、当時の同党の心づもりとしては、結成から数年で政権を取って、21世紀の最初の10年を通じて積み上げていくことを想定しているからで、政権を取るのが2009年まで遅れた今となっては「2020年までに」と読み替えるべきだろう。それにしても、引用部分の前半の米軍基地問題の記述は、過去の鳩山による現在の鳩山への批判とも読めて興味深い。まさに「未来からの発想」を欠落させたまま目先の移転先探しに没入したことがこの事態を生んでいる。平野官房長官など、この論文を読んだこともないに違いない。

 蛇足ながら、よくある安保についての小学生並みの質問に、「米軍が引き上げてしまったら、そのぶん日本の防衛力を増強しなければならなくなるのでは?」というのがある。この中で鳩山が言うように、米軍基地の削減と撤退は日本自衛隊の増強に応じて実現可能になるのでなく、東アジアの地域的安保対話システムの形成進度に応じて実現可能になるのである。そのことを理解する鍵が、抑止力論である。

 もう1つ蛇足。小沢は昨年2月に「在日米軍は第7艦隊だけでいい」と言ったが、これも一種の「常時駐留なき安保」論である。また旧民主党結成後に私が小沢に、この論文末尾の「自衛隊3分割」論を説明した時、彼はすぐに「賛成だ」と言った。そうなら鳩山と小沢はじっくり話し合って、この「常時駐留なき安保」論を民主党の党是としたらどうなのか。

 それでは鳩山論文を読もう。(誤植と思える字句があったので私の判断で修正した)

《沖縄米軍基地問題》

 我々は沖縄の米軍基地問題を含めて外交・安全保障政策についても、未来からの発想を採用すべきだという議論を、夏前から始めていた。その頃自民党サイドでは、来年5月に更改期限を迎える米軍用地の地主が、いわゆる反戦地主を含めて約3000人もいるということを思うと、これは国が直接に土地を強制使用できるようにする特別立法を行う以外に手がないという議論が出ていた。来年に差し迫った問題から入っていくと、そういう貧しい発想しか出てこない。ここで再び国が沖縄で強権を発動すれば、沖縄の人々の本土不信は取り返しのつかないほど深まるに違いない。

 そうではなくて、沖縄県が打ち出している「2015年までに全ての米軍基地の返還を実現する」という基地返還アクション・プログラムと、その跡地利用を中心として沖縄を再び東アジアの交易・交通拠点として蘇らせようという国際都市形成構想とを、十分に実現可能な沖縄の将来像としてイメージするところから考え始める。そうすると、沖縄の米軍基地が返ってくる(ということは、その3分の1しかない日本本土の基地も当然返ってくる)ことを可能にするようなアジアの紛争防止・信頼醸成の多国間安保対話のシステムをどう作り上げていくか、また本質的に冷戦の遺物である日米安保条約を21世紀のより対等で生き生きとした日米関係にふさわしいものにどう発展させていくか、といったことが、外交・安保政策の長期的な中心課題として浮上する。

 そのような方向を設定した上で、現実にまだ朝鮮半島に危機が潜在している今の段階で、日米安保協力の強化という課題にどう対処するかを判断しなければならないし、あるいは又、現行の日米安保の下でも少しでも沖縄をはじめ米軍基地の被害をどう食い止めるかの具体策を打ち出さなければならない。

 こうして、20年後には基地のない沖縄、その前にせめて米軍の常時駐留のない沖縄を実現していきたいとする彼らの夢を、私たち本土の人間もまた共有して、そこから現在の問題への対処を考えていくというように発想すれば、来年の困難な問題にも自ずと解決の道が開けてくるのではないか。

 橋本総理、梶山官房長官もさすがに特別立法で県民を押さえつけることの愚に気づいて、フリーゾーンの設定はじめ沖縄の経済自立への構想を積極的に支援する方向を打ち出し、それが大田昌秀知事の態度軟化を引き出すことに成功した。それは結構なことではあるけれども、自民党や外務省は、しょせんは日米安保は永遠なりとでもいうような守旧的な認識を変えようとせず、その延長線上で基地のあり方を部分的に改善することしか考えつかない。県民に「基地との共存」を強要した上で、金で済むことならいくらでも出しましょうということでは、沖縄の人々の夢は決して現実のものとはならない。

《常時駐留なき安保》

 さてそのような方向に進もうとすれば、当然にも外交・安全保障政策全般についても旧来の延長ではない発想の転換が必要になる。

 日米関係は今後とも日本の外交の基軸であるけれども、そのことは冷戦時代そのままの過剰な対米依存をそのまま続けて行くこととは別問題である。

 まず1つには、我々は、活力にあふれ、ますます緊密に結びつきつつあるアジア・太平洋の全体を、日本が生きていく基本的な生活空間と捉えて、国連、APEC、東アジア、ASEANおよび北東アジアすなわち環日本海という重層的な多国間地域外交をこれまで以上に重視し、その中で日米、日中はじめ2国間関係を発展させ成熟させていく必要がある。そのような観点からすると、ASEAN地域フォーラム(ARF)に積極的に参加するだけでなく、北東アジアでもそれと同様の多国間の信頼醸成と紛争予防、そして非核地帯化のための地域的安保対話システムを作り上げ、並行して北朝鮮やロシア極東部を含む多角的な経済協力を推進していきたい。

 そのような努力を通じて、まずいわゆる「極東有事」が発生しない北東アジア情勢を作り出していく。それが、沖縄はじめ本土も含めた米軍基地を縮小し、なくしていくための環境づくりとなる。私はそのような条件は次第に生まれつつあると考えている。すでに米韓両国からは、朝鮮半島の休戦協定を恒久的な和平協定に置き換えるための南北と米中の4者会談が呼びかけられている。かつての戦争当事者同士によるその会談が成功を収めた後に、さらにそれをロシアと日本を含めた「6者協議」の枠組みへと発展させ、米中露日が見守る中で南北が相互理解と経済交流の促進と将来の統一をめざして対話を継続するよう促すのが現実的である。そしてその6者とは実は、日本海を囲む北東アジアの関係国すべてであり、朝鮮半島の問題だけでなくこの地域の紛争問題や資源の共同管理、多角的な経済交流などを話し合っていく場ともなりうるだろう。

 そういう国際環境を日本が自ら先頭に立って作り出し、成熟させていくことができれば、その進度に応じて、沖縄・本土の米軍基地の整理・縮小・撤去と「常時駐留なき安保」への転換を図ることができる。私は、2010年を目途として、日米安保条約を抜本的に見直して、日米自由貿易協定と日米安保協定とを締結して、日米関係を新しい次元に引き上げつつ、対等なパートナーシップとして進化させていくことを提唱したい。

 それまでの間、現行の日米安保条約はもちろん堅持するが、一部に議論が出ているような「集団的自衛権」のなし崩し的な拡大解釈によって自衛隊を域外での作戦行動に従事させることは、冷戦時代への逆行であり、認めることはできない。仮に上述のような「極東有事」を発生させないような外交努力が実らず、米軍が日本を基地として第三国に対して作戦を行う事態が生じた際には、あくまで現行条約第6条に沿って、まず事前協議の対象とした上で、その基地提供義務とそれに伴う物資役務提供の取り決めに従って協力する。

《自衛隊のあり方》

 こうした方向をとる中で、自衛隊のあり方も大いに見直す必要があろう。私は、2010年の段階では、自衛隊は、海空兵力を中心とした精強な国土防衛隊と、それとは区別して主に陸上兵力によって編成され訓練された国際平和協力部隊、および機動力を持った災害救援部隊とに再編されるべきだろうと考えている。国際平和協力部隊は、日本の国益とは無関係な立場で、国連のPKOや将来創設されるかもしれない東アジアの共同警察軍などの活動に積極的に参加する。

 いずれにしても、外交・安全保障の中心目標は、「紛争解決の手段として武力を用いない」という日本国憲法および国連憲章の精神がますます広く行き渡るような世界をつくりだすために、先頭に立って行動し、そのことによってアジアはじめ世界から信頼される国になることである。国連に関しては、21世紀の地球的な課題に適合できる"第3の国連"を創設する意気込みで、大国エゴがまかりとおっているとの批判がある安保理のあり方を含めて大胆な改革案を提示することが肝要で、日本が現在のままの安保常任理事国に入ることはメリットもないわけではないがデメリットのほうが大きいのではないか。

 続けて、この鳩山論文に対する白井さんの解説を読もう。

 そもそも、ある国家が自らの存続のために、外国の軍隊の駐留を絶対不可欠の条件として前提しているなどというケースが、地球上にどれほとあるでしょうか。外国の軍隊の駐留抜きに存続している国家の方が多いことは、言うまでもありません。戦後日本のように、戦時ないし準戦時にあるわけでもないのに外国の軍隊が大規模かつ恒常的に駐留している状況こそ、例外的で異常なものにほかなりません。

 しかし、このような問題を提起すると、今度は、
「それならお前は重武装せよというのか、それとも完全非武装で行けと言うのか」
という極端な選択が突きつけられるのが、この国の床屋政談的安全保障談義の通則です。

 なぜ、このような問いが発せられるのか、日米安保体制の本質についてのこれまでの検討から明らかだと思います。このような、議論を封殺しようとする物言いをもたらす動機は、「日米安保体制堅持、米軍の駐留継続以外に、我が国が採るべき方針はない」というテーゼを、すべての前提に置き、また結論としたいがためです。こうした物言いをする人間の思考回路において、日米安保体制は「天壌無窮」(=国体)なので、それに異を唱えること、いや別の可能性を考えてみることさえも、犯罪的なのです。

 鳩山氏や小沢氏の構想は、急進的なものでもなければ極端なものでもありませんでした。すなわち、ゆくゆくはアジア全体で戦争の発生を防止する集団的安全保障のメカニズムを構築するべきであるが、現状では朝鮮半島の緊張や台湾海峡の緊張が解消されていないので、即座に米軍のプレゼンスをアジアからなくすというわけにもいかない。ゆえに、過渡的状況において日米安保体制は維持されるけれども、巨大な米軍基地があることを自明の前提とするような異様な状態は速やかに見直されるべきだ、という考え方でした。そして、このような考え方を持っていたからこそ、民主党の政権獲得前後の時期に、この二人は永続敗戦レジームからまさに狙い撃ちにされました。

 こうした構想が提起された当時と今現在での情勢の主な変化を挙げるならば、朝鮮半島での緊張の一層の激化と、南沙諸島問題をはじめとする中国と周辺国との軋轢の発生かあります。ですが、それでもなお、鳩山氏や小沢氏の提示した方向性は、的確であると私は考えます。なぜなら、アジア諸国のあいだでの信頼感の醸成に基づく集団的安全保障体制の確立へと向かうことができないならば、中国脅威論の方向へと突き進まざるをえなくなるからです。それがいかにジレンマに満ちた危険なものであるかは、先に見た通りです。

 したがって、困難であっても、日本は世界最強の軍隊を用心棒として雇った国としてではなく、「瓶の蓋」に抑えられた危険な国としてでもなく、自立した存在としてアジア諸国に対峙する姿を見せることで、アジア地域の将来を共に構築するパートナーであることを周囲から認めてもらわなければなりません。言うまでもなく、「敗戦の否認」を煮詰めたような現在の政権の政治姿勢は、このような方向性に逆行するものです。

 少し長くなるが、もう一つ掲載しておきたい解説がある。かつて「アジア地域の将来を共に構築するパートナーであることを周囲から認めてもらう」好機があったのに、日本はアメリカへの配慮からこの好機を捨ててしまっている。白井さんは「マハティールと廣松渉」と題して次のように解説している。

 本来進むべき道に向かうチャンスはありました。しかし、日本はその機会を自ら潰してきたのです。その結果、今日「永続敗戦レジーム」は、まさに腐臭を放つ存在としてこの国に覆い被さっています。

 1990年代、東南アジア諸国の経済成長が著しくなり、タイガーエコノミーと言われていた時期に、マレーシアのマハティール首相が、ASEAN(東南アジア諸国連合)に日本、中国、韓国を加え、EU(欧州連合)に匹敵するようなひとつの大きな経済圏をアジアにつくっていこうと提言したことがあります。そのとき、どこの国がリーダーシップを取るのか。マハティール氏は日本が取るべきだと言いました。

 これは、日本人から見れば、ありかたい話です。当然、東南アジア諸国に対しては先の戦争についての負い目がありますから、日本をアジアのリーダーとして認めてくれることへ感謝しなければなりませんし、また、日本の戦後憲法以来の平和の誓いについても、いろいろと欺瞞的な部分はありながらも、一応はそれを守ってきたことが評価を受けたということです。日本国民は平和主義を内面化したという評価を、アジアの他の国のりーダーが下してくれたのです。

 そういう意味で、日本にとっては誇らしく思えるような提案だったと思いますが、あろうことか、これを日本は断ります。断った最大の理由は、アメリカヘの配慮です。アメリカのご機嫌を損ねずに、アジア連合のようなものをつくるのは不可能である、だからお受けする訳にはいかないということです。

 ちょうど同じ時期に、廣松渉の「東亜共栄圏」発言が物議を醸しました。廣松渉は、マルクス主義の哲学者として、また左翼思想家として非常に高名な方でしたが、亡くなる直前に朝日新聞にある記事を寄稿します。その中で、廣松は、「日中を軸とした東亜の新体制を! それを前提にした世界の新秩序を!」と述べたのです。「東亜の新体制」という言葉遣いは、あの戦争のときに日本が掲げたスローガンを当然想起させます。みんなびっくり仰天しました。大東亜共栄圏を肯定するのは右翼であると相場が決まっていたからです。

 しかしながら、今日振り返ってみると、大東亜共栄圏を思い起こさせる言葉遣いをしたことの問題はあるにせよ、その主旨は先見の明に満ちたものでした。欧米の力、特にアメリカのプレゼンスを排除し、あるいは完全排除はできなくとも相対化した形で、アジアの中で共同性を構築していかなければ日本に未来はないぞ、ということを廣松は言っていたのです。突飛に見えて、冷戦崩壊後の日本のあり方を見据えた、実は真っ当な呼びかけだったわけです。

 大戦時に日本が掲げたアジアの共栄圏(欧米による支配からのアジア諸民族の解放)という考え方は、その目標と現実があまりにも乖離していたことで、戦後まったく顧みられなくなりましたが、廣松は冷戦構造が崩壊した後にこそ、この考え方が重要であるということを主張したわけです。

 90年代においては、廣松のこの提案がピンと来る人はまだまだ少なかったように思います。ピンと来るようになったのは、ようやく2000年代に入ってからです。そして2010年代になると、それはさらにはっきりとしてきます。鳩山由紀夫氏も民主党の代表となったときに「東アジア共同体」という構想を掲げました。この頃になると、もはや国策の共有を前提とした日米関係はありえなくなってきており、日本は根本的に新たなレジームに移行しなければならないことを認識する人も多くなってきました。

 それにしても、廣松のこの短い文章はいま読むとその含蓄を理解できます。「アメリカが、ドルのタレ流しと裏腹に世界のアブソーバー(需要吸収者)としての役を演じる時代は去りつつある。日本経済は軸足をアジアにかけざるをえない」という件もあります。これは、次章で取り組みますが、リーマン・ショックによって表面化した世界資本主義の構造的矛盾を指摘するものでした。また、ここでいう「アメリカの役」とは、成長するアジア経済の富を金融的手段を通じてアメリカが吸い上げる構造を指すものにほかなりません。この構造を打破することがアジアの解放である、と廣松は喝破していたわけです。

 現実には、世界資本主義の構造的転換とそれへの対応と並行して、日本の対米従属からの脱却の道が閉ざされていきました。こうして、日本がアジアヘの着地に一向に本腰を入れない姿勢を示し続けた結果、経済大国化した中国は、日本への不信感を拭えないまま、地域覇権国の地位の獲得へと進みつつあり、このことが警戒感を喚起して中国脅威論が燃え盛る、という悪循環に2000年代以降のアジアは落ち込んでいます。この状態に何とかして終止符を打たねばなりません。

《米国の属国・日本》(14)

軍事面での対米従属(6)の追記


 昨日届いた『週間金曜日』の最新号(1102号)に成澤宗男さんによる記事『ヒラリー・クリントンと軍産複合体』が掲載されていた。昨日の私の記事と同趣旨の記事だった。その記事の続編として『民主党も共和党も同じ「戦争党」だ』という記事が掲載されていた。『米「緑の党」ジル・スタイン大統領候補の指名受託演説』(8月6日、テキサス州ヒューストン市で開催された党大会)の成澤さんによる抄訳である。その演説の中で語られているアメリカの現状は現在の日本の現状とほとんど重なっている。この絶望的な状況を今すぐに打破することは出来ないが、将来を見据えた希望の星として、皆さんと共有したく、紹介することにした。

 私たちは全面的な改革による解決策が求められている前例のない危機に直面しており、その解決策は民主主義と正義、人権という価値に基づかねばなりません。改革は、強欲な銀行や巨大エネルギー産業、戦争利権屋らによって養われている民主・共和のどちらの党によっても不可能です。そうではなく、広範な社会運動から動員され、独立した政治的反対派としての主張を待った、私たちのような国民から生まれるのです。

 一方で、この国では途方もなく富んだ一握りの人たちがますます富むようになっています。ウルトラリッチの一族が22あり、彼らは国民の半数が持っているのと同額の富を独占しています。そして経済的エリートのために仕えている政治的エリートは事態をより悪化させるばかりで、人々に福祉カットや生活水準の引き下げを強いながら何兆ドルもの予算を戦争で浪費し、腐敗したウォール・ストリートの巨大金融機関を税金で救済しているのみならず、富豪層の税金を軽減しています。

 人々が反乱し始めたとしても、驚きではないでしょう。しかも嬉しいことに私たちが確信に裏付けられた勇気を持って立ち上がった瞬間、現実を転換させることのできるパワーが与えられたのです。

 私たちには多額の奨学金の負債に苦しむ若者たちを救い、公立の高等教育を無料にするパワーがあります。私たちにはグリーン・ニユーディールの一環として雇用を創出するパワーもあります。グリーン・ニユーディールによってエネルギーが環境適応型となり、2030年までに再生可能エネルギーが100%を占めるようになるでしょう。あらゆる化石燃料の設備建設と採掘は中止され、経済は活性化されて、石油のための戦争は不必要となって巨額の軍事費削減が可能となります。

戦争利権屋と二大政党

 そして、私たちは国際法と外交、そして人権を基調とする対外政策をうち立てることができるはずです。現在のように、軍事や経済による支配を基調とすることなしにです。それらは、すでに破滅的な結果を生み出しています。こうした破滅的なやり方では、心身共に傷ついた帰還兵の治療費を含めると戦費が6兆ドルにものぼり、国民の一家庭あたり平均で7万500ドルも負担が及ぶのです。

 あの「対テロ戦争」と称して失敗した同じような戦争も、国民が求める対外政策の回答ではありません。イラクでは100万人の国民が殺されました。今こそ、IS(「イスラム国」)を阻止し、中東の石油目的の米軍による新たな攻撃を止めねばなりません。求められているのは平和的な対応であって、サウジアラビアをはじめとする中東諸国への武器禁輸と、イスラム過激派の資金供与に使われる銀行口座の凍結がまず必要です。

 そもそも、どこからイスラム過激派のような脅威が生まれたのかを理解することが重要でしょう。サウジのワッハーブ派と結びついた国際テロは、80年代にアフガニスタンで旧ソ連軍を阻止するため、CIAとサウジがイスラム過激派を育成しようと考えたことが発端でした。私たちはテロと戦う一方で、サウジのような同盟国と一緒にテロリストに資金を渡し、育成して、武器を与えることを同時にはできないのです。

 このような破滅的な対外政策から唯一利益を得るのは、戦争利権屋たちだけです。彼らは既存の民主・共和両党とその政治屋たちにカネを渡すことで、外交政策を思うがままにしているのです。実際、米国の外交政策とは、根本的に軍需産業のための販売戦略と化してしまいました。

この世界を保つために

 しかし世界は、大企業御用達の民主・共和両政党抜きで作り上げることは可能です。これまで二大政党制のもとで国民が言われてきたのは、「より害の少ない候補者を選ぶ」、ということでした。その結果が税金によるウォール・ストリートの救済であり、雇用の海外移転、気候の変動、果てしない戦争、そして市民的自由と移民の権利への攻撃ではなかったのですか。

 今回の選挙では、私たちがいかなる世界にするかを決定するのではありません。私たちがこの世界を保てるかどうかを決定するのです。決済を迫られる日は、近づいています。気象変動、際限のない戦争、核兵器、そして次の経済破綻等についてです。こうした危機のすべては、民主・共和両党の支配の元で加速させられています。もう、「より害の少ない方へ」という考えで投票するのは止めるときです。より大きな良きもののために闘いましょう。

 そのために、私たちの選挙運動に加わってください。討論に加わり、巨大マスコミの支配を打ち破ってください。私たちに貢献し、一握りの者たちの利益よりも多くの人々やこの地球、平和が優先されるようなこの米国と世界を築ぐのは可能なのです。こうした世界を生み出すパワーとは、私たちの希望に留まりはせず、夢で終わりはしません。それはここにあり、現在あるのです。そして、私たちの手の中にあるのです。

 成澤さんはこの一連の記事の解説を次の一文で締めている。
『スタイン候補自身、元サンダース支持層に選挙活動への合流を呼びかけているが、すぐに二大政党を脅かす存在になるのは困難だ。だが、かつて全米で広がった「オキュパイ運動」とその流れとしての今年初めの「サンダース旋風」が「緑の党」と連帯することで、新たな形でエネルギーを発揮する可能性は否定できないだろう。』

 いま日本にはアメリカの「緑の党」に該当する政治集団は無いが、私は戦争法反対運動で立ち上がった人たち、特にSEALDsに代表される若者たちに「新たな形でエネルギーを発揮する可能性」を感じている。

 ここで思い出したことがある「。澤藤統一郎の憲法日記」を愛読しているが、そのブログの2015年7月5日の記事「7月3日雨の金曜日 澁谷に集まった若者たちに寄せて」という詩を記録しておいた。それを紹介しよう。

若者よ
 未来の担い手である君たち。
 未来のすべてが君たちの手の中にある。
 君たちがこの社会を受け継ぎ支え、
 君たち自身がこの社会を作りかえていく。

 誰もが等しくこの世に生を受けたことを喜びとする社会、
 恐怖と欠乏から免れ平和のうちに生きる権利が保障された社会。
 今の世の私たちには作ることができなかったそのような社会。
 そのような社会を作ることができるのは君たちだ。

戦争法案に反対の声を上げつつある若者よ
 君たちの目の前に、
 君たちの受け継ごうとしているこの世の現実がある。
 富を持つ者が支配者となり、
 権力を持つ者が富を持つ者に奉仕するこの社会。
 不本意ながら、これが現世代の君たちへの遺産だ。

 富を持つ者はさらに収奪をくわだて
 権力を握る者は、持たざる者の抵抗を押さえつける。
 富める者、力ある者に、正義も理想もない。

雨の中、澁谷で「9条守れ」と声を上げた3000人の若者よ
 君たちこそが未来への希望だ
 君たちの自覚こそが、社会を変えるエネルギー。
 「9条守れ」の声は、富と権力に驕る者に鋭く突き刺さる。
 「憲法守れ」「戦争法案を廃案に」「安倍政権に終わりを」
 そう叫ぶ若者の行動が、支配の構造に打撃を与える。
 君たちの声と行動とが確実に社会を変える。

 人は齢を重ねるにつれて、しがらみを身につけていく。
 身にまとわりついたしがらみは、理想や理念を枯らしていく。
 だから人は齢を重ねると、心ならずも人におもねり社会におもねり、
 口を閉じて下を向いて、うずくまってしまう。

若い君たちだからこそ
理想や理念のままに声を上げ行動することができる。
 だから若者たちよ、大きく声を上げよう。
 おかしいことはおかしいと言おう。
 理不尽を押しつけられるのはマッピラごめんだと声を揃えよう。
 殺すことも殺されることも断固拒否する、と。

 ぜひ、そう言っていただきたい。
 君たちの若々しく朗々たる声の響きは、多くの人々を励ますことになる。
 しがらみの中でうずくまっていた人々も、
 君たちの声の響きに励まされて立ち上がり、閉じた口を再び開けることになるだろう。
 そのことが、戦争法案を廃案にし、安倍内閣を退陣に追い込むこととなる。
 さらにその先の未来も開くことになる。

 この次ぎの金曜日、7月10日渋谷・ハチ公前広場は
 さらに多数の若者たちであふれるだろう。
 ハチ公前広場に集うあふれんばかりの若者たちのその声の響きこそ、
 未来への希望の確かさなのだ。

《米国の属国・日本》(13)

軍事面での対米従属(6):戦争法(3)


<対中脅威論のジレンマ>

 「アベコベ軽薄姑息うそつきオカルト」政権は、アメリカと日本は根本的な価値を共有する国なのだから親密な信頼関係を築けるという前提の元で、それの補強のために対中脅威論を掲げてアメリカに擦り寄っている。前回引用した日刊ゲンダイの記事にあるように欧米のまともな知識人は、日本と欧米が価値観を共有共しているという前提そのものを疑問視している。またアメリカは南シナ海では中国を牽制する強硬な行動をとり続けてきているが、私はアメリカが軍事衝突をも辞さない程の対中脅威を持っているとは思えない。しかし、次期大統領にクリントンのような軍産複合体と密接な関係がある者が当選したら、軍事衝突の可能性も出てくると思う。サイト「Peace Philosophy Centre」に『なぜヒラリー・クリントンはドナルド・トランプよりも危険なのか』という記事(ジョン・ピルジャーという方の記事の翻訳文)が掲載されている。その記事の中にクリントンの過去の言動が記録されている。次のようである。
『2008年の大統領選挙戦でヒラリー・クリントンは、イランを核兵器で「完全に抹消する」と脅した。オバマ政権の国務長官として、彼女はホンジュラスの民主政府の転覆に参加した。2011年のリビアの破壊に彼女が関与したときは、楽しそうと言ってもいいほどだった。リビアの指導者カダフィ大佐が公開の場で肛門をナイフで突かれたとき(これはアメリカの計画で可能になった殺人だったが)クリントンは彼の死をさも満足そうに眺めて、こう言った。「我らは来た、見た、彼は死んだ。」』
 何ともおぞましい人物である。
 もう一つ紹介しよう。サイト「マスコミに載らない海外記事」に8月31日に掲載された『アメリカ国民は、彼らを支配している悪を打倒できるだろうか?』という記事(Paul Craig Robertsという方の記事の翻訳文)の一節である。
『ヒラリーは戦争屋で、もし彼女が大統領になれば、彼女の傲慢さと、無能さの組み合わせが、第三次世界大戦をもたらす可能性が高いので、おそらく究極的な最後の大統領だろう。2015年7月3日、ヒラリーはこう宣言した。"もし私が大統領なら、我々はイランを攻撃するということを、イランには知ってもらいたい....我々はイランを完全に消し去ることができる。"狂ったヒラリーは、これだけでなく、ロシア大統領を“新ヒトラー”と呼ばわるに至っている。ロシアも消し去ることができると、彼女が考えていることに疑問の余地はない。』

 白井さんはこうした問題をどう考えているだろうか。

 (日本の擦り寄りに)アメリカが乗ってくれるかどうかということですが、短期的に見た場合、その見込みは薄い。つまり、アメリカが日本と手を組んで、台頭する中国を封じ込めるために、究極的には戦争も辞さないという断固たる姿勢を取るといったことは、まず考えにくい。

 中長期的にはわからないとしか言いようがありません。というのは、90年代から中国が猛烈な経済成長を遂げ、力を蓄えてきた間、アメリカの側にも、中国との付き合い方について、姿勢のブレが生じてきたからです。あるときは「封じ込め論」に振れてみたり、逆に、それは無理だから台頭を容認するべきだという意見が主流になったりする。これは、中国の成長を積極的に受け入れて、むしろそれを成長の糧にしようという方向です。

 将来どうなるかは、アメリカ内部での力関係、権力闘争のゆくえによって方向性が決まってきます。あくまで当面は、日本の外交当局者が唱える対中脅威論に、アメリカが乗ってくる気配はありません。南沙諸島あたりでの最近の米軍の軍事行動も、同盟国を安堵させるためのポーズ以上のものには見えません。

 しかも、日本の側は、アメリカが誘いに乗ってくれさえすれば、われわれは再び「居心地が良くなる」と思っているわけですが、実はそれが一番怖いことにほかなりません。『永続敗戦論』にも書きましたが、仮にアメリカが中国の台頭を許すまじと、力でもって抑えにかかり、米中正面衝突となったらどうなるでしょうか。当然その場合、日本はアメリカの前線基地として機能することになりますから、究極的には、日本人はみな核戦争で死ぬことを覚悟しなければなりません。

 白井さんは続けて、「対中脅威論のジレンマ」と題して、対中脅威論をめぐって日米両国が陥っているジレンマを分析している。

 対中脅威論を煽ることは、日米双方の関係者にとって必然的な選択であると同時に、ジレンマに満ちたものであることも指摘しておかねばなりません。

 どういうことかというと、対中脅威論を煽るのは日本の親米保守派ですが、わけがわからないまま喚いている人たちは別として、大局が見えている人は、これは根拠薄弱であり、むしろこの話にアメリカが乗ってほしいという願望の表れにすぎないと知りつつ、これを流布していると言えます。彼らは、対米従属利権共同体の本丸で飯を食っている人たちであり、この共同体が潰れたらオマンマの食い上げですから、嘘でも何でも続けないわけにはいかないのです。

 他方、親米保守派のカウンター・パートナーであるジャパン・ハンドラーと呼ばれるような、日本に対して影響力を持つアメリカの指導者層は何を考えているのか。この人たちは、対中脅威論が日本で煽られることを容認しています。どうしてかというと、対中脅威論が日本の中で盛り上がらないと、日本が脱米シフトしてしまう可能性があるからです。つまり、アメリカをナンバーワンのパートナーと仰いで無条件的に付き従うという方針にはもはや合理性がありませんから、いつ日本が方針を転換してもおかしくない。現に、東アジア共同体創設を唱えた鳩山政権でその可能性が表面化しました。脱米シフトを避けるためには、ジャパン・ハンドラーたちからすれば、日本の国内で対中脅威論が盛り上がってくれないと困る。

 しかしながら、対中脅威論を煽り過ぎれば、本当に日本と中国の軍事衝突 ―特に尖閣諸島をめぐって― が起こりかねないということになる。もし尖閣諸島で日中軍事衝突が生じた場合、はたして米軍は出てくるか。みな気になるところでしょうが、出てこないでしょう。先にも見たように、条約の条文からして、何か事が生じたときに自動参戦する義務は米軍にはありません。だから、参戦しなくても別に条約違反ではないのです。

 ところが、大半の日本人は、例えば尖閣で一朝事あらば米軍が出てくれるものと思い込んでいる。そのため、米軍が出動しなかったら、一体日米安保とは何のためにあるんだ、と世論は沸騰することになるでしょう。ゆえに、アメリカにとっては、そのような事態は絶対に起きてはならない。つまり、「在日米軍は日本を守るためのものである」という日米安保の建前の虚構性が露呈することを、何としても避けなければならないわけです。

 だから、アメリカとしては、対中脅威論をある程度は煽ってほしくはあるけれども、それがリアルな戦争に結びつくことは阻止しなければならない。その際にアメリカは、最終的な手段として、日本の軍事行動を在日米軍によって抑え込むこともできるわけです。

 日本の親米保守派は、一種の「仕事」として対中脅威論を煽らなければいけないわけですが、しかし、その結果、本当に軍事衝突が起きればいいのかというと、それを最終的に許さないのはほかならぬアメリカ様です。そして、そのことを一番よく知っているのは、アメリカ側と接触する機会が最も多い当の親米保守派のはずです。つまり、親米保守の人たちは、アメリカが絶対許さないと彼ら自身が一番よく知っている戦争の危機を煽るという、ジレンマに満ちた行動をとっていると言えるわけです。

 また、日本が「対中脅威なんて大して差し追っていない」ということになってしまうと、アメリカとしては他にも困ってしまう面がある。それは、武器が売れなくなることです。彼らは、対中脅威論を背景としてF-35戦闘機やオスプレイなどを日本に買わせたい。だからアメリカ側はこの面でも、自身がその発生を阻止しなければならない戦争のための武器を売るというような、これまたジレンマに満ちた状態にあるわけです。

 これまで経済領域・軍事面の二分野に分けて、旧安保→新安保→戦争法制と変遷してきた日米安保体制の本質を学習してきたが、では日米安保体制は結局何を守っているのか。白井さんのまとめの論考を読んでみよう。

 以上のような中国脅威論を重大な構成要素として取り込みつつ、冷戦崩壊から今日に至るまでの日米安保体制は、ひたすらその強化が訴え続けられてきました。深刻に危惧されるのは、これだけ中国脅威論を煽ってしまうと、後はもう退くに退けなくなることです。いま見たように、日米双方ともジレンマを抱えながら、しかし現状を維持するために中国脅威論を利用してきました。

 どれほど中国脅威論が煽られようとも、経済的および人的交流が日中間で深化した現在、対中戦争などありえない、と高をくくって観察している人々もいます。しかし、私はそれは希望的観測であり危険だと考えます。国際間の交流と経済的相互依存が進めば進むほど戦争は不可能になる、という一見説得力のあるイギリスの経済学者ノーマン・エンジェルの理論が、第一次世界大戦の勃発という現実によって手酷く論破された歴史を忘れるべきではありません。

 経済合理性の観点からすれば戦争などできるはずがないときでも戦争は起こりうる。要するに、戦争の発生は、通常の経済合理性とは別のロジックを持っているのです。また、第二次世界大戦において、日本は指導者たちが対米戦などやってはならないとみな腹の底では思っていたにもかかわらず、それをやらざるをえなくなった、という過去もわれわれは持っています。

 以上の考察から、現代における日米安保体制が、駐留米軍が、何を守っているのか、はっきり見えてきたと思います。要するにそれは、「永続敗戦レジーム」を守っているのです。より具体的には、その核心部をなす対米従属利権共同体を守っているのです。無論、この共同体と国民全体の利益は合致しません。ですから、あたかも対米従属体制が国民全体の利害と一致するかのような外観を演出しなければならない。そのために、これほどのジレンマを抱えてまで対中脅威論を盛り上げなければならないのです。

 永続敗戦レジーム中核部から見れば、世界最強軍団を自分たちの用心棒あるいは「番犬」として雇っているということになります。だからこそ彼らは、米軍基地の整理縮小について本質的にやる気がないのです。反対に、用心棒は多ければ多いほど安心だ ―それが彼らの本音であるでしょう。とはいうものの、この「番犬」は、「主人」よりも当然強力なので、吠えかかられれば「主人」の方が手も足も出ないのは、見やすい道理です。ゆえに、どちらが本当の主人なのか、言うまでもありません。

 残念ながら、対米従属利権共同体が繰り広げる「あたかも対米従属体制が国民全体の利害と一致するかのような外観」の演出は功を上げていて、国民の過半以上が真実が見えなくなっている。内政・外交・経済政策全てが「アベコベ軽薄姑息」であり、一般国民にとってこれといった好ましい成果が無いのは、対米従属にどっぷりと浸かっているからである。このような政治状況にもかかわらず、内閣支持率は約50%もある。絶望的な状況である。

 このような政治状況を克服する事は出来るのか。白井さんは次の節で「ポスト安保体制」の方向性を論じている。次回はそれを取り上げよう。