2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《米国の属国・日本》(1)

対米従属、その内実の変遷(1)


 悲しいかな、敗戦でアメリカに占領されて以来今日まで、日本はずっとアメリカの属国だった。しかし、対米自立を目指していた時期もあった。時代と共にその内実は変化している。例えば、この4月に出版された白井聡著『戦後政治を終わらせる:永続敗戦の、その先へ』(以下では「戦後政治を終わらせる」と略記する)は、戦後の日本政治の対米従属70年を考察し、さらにその対米従属という「永続敗戦」からの脱却の道筋を描いている。この著書を主要教科書として学習をしていく予定だが、対米従属内実の変化のあらましを語っている記事に出会ったので、予備知識として、まずはそれを読んでおくことにする。

 その記事とは、前々回お世話になったサイト「内田樹の研究室」の記事『『日弁連での講演の「おまけ」部分』である。前々回は、その中から経済政策問題を語っている部分を引用したが、今回はその記事の中の対米従属を語っている部分を使わさせていだだく。

 対米従属のありようもどんどん時代とともに変わっていると思います。1945年から1972年の日中共同声明くらいまでの期間が「対米従属を通じて対米自立を獲得する」という戦後の国家戦略がそれなりの結果を出すことができた時期だと思います。米軍が出て行った後、安全保障についても、外交に関しても、エネルギーについても、一応国家戦略を自己決定できるような国になりたいという思いがあった。でも、72年の日中共同声明が結果的には日本政府が自立的に政策判断した最初で最後の機会になりました。それまでは「対米従属を通じての対米自立」戦略はそれなりに成功してきたわけです。

 1972年の日中共同声明とは、訪中した田中角栄首相と毛沢東主席がまとめた日中国交正常化をめざしたあの声明である。その後1976年、田中首相は贈収賄事件(ロッキード事件)で逮捕収監された。1992年12月に刑事被告人のまま75歳でなくなっている。ロッキード事件は、アメリカの頭ごなしに日中国交を進めた事に対するアメリカのやらせ訴訟だったと言われている。最近、田中角栄が見直されているようだ。

 45年から51年まで6年間にわたる徹底的な対米従属を通じてサンフランシスコ講和条約で形式的には国家主権を回復した。その後も朝鮮戦争、ベトナム戦争でも、国際世論の非難を浴びながらアメリカの世界戦略をひたすら支持することによって、68年に小笠原、72年に沖縄の施政権が返還された。講和と沖縄返還で、日本人は「対米従属によって国家主権が回復し、国土が戻って来た」という成功体験を記憶したわけです。

 そのときに、田中角栄が出て来た。そして、主権国家としての第一歩を踏みだそうとして日中国交回復という事業に取り組んだ。もう十分に対米従属はした。その果実も手に入れた。そして、ホワイトハウスの許諾を得ないで中国との国交回復交渉を始めた。その前にニクソンの訪中があったわけですから、遠からずアメリカから日本政府に対して「中国と国交を回復するように」という指示が来ることは明らかだった。日中国交回復はアメリカの世界戦略の中の既定方針だったわけですから。そして、田中角栄は日中国交回復に踏み切った。

 これについてアメリカが激怒するというのは外交的には意味がわからないんです。だって、いずれアメリカが指示するはずのことを日本政府が先んじてやっただけなんですから。でも、このとき、キッシンジャー国務長官は激怒して「田中角栄を絶対に許さない」と言った。その後の顛末はご存じの通りです。だから、あのときに日本の政治家たちは思い知ったわけです。たとえアメリカの国益に資することであっても、アメリカの許諾を得ずに実行してはならない、と。

 対米自立を企てた最後の政治家は鳩山由起夫さんです。普天間基地の移転。あのときはすさまじい政官メディアのバッシングを喰らって、鳩山さんは総理大臣の地位を失った。理由は「アメリカを怒らせた」というだけ、それだけです。日本の総理大臣が日米で利害が相反することについて、日本の国益を優先するのは当然のことだと僕は思いますけれど、その当然のことをしたら、日本中が袋叩きにした。

 もうこの時点になると、対米従属だけが自己目的化して、対米自立ということを本気で考えている政治家も官僚も財界人もジャーナリストも政治学者もいなくなった。日本の指導層はアメリカのご意向を「忖度」する能力の高い人たちで占められている。その能力がないとキャリアが開けないんだから仕方がない。それぞれの持つしかるべき「チャンネル」から、アメリカはこういうことを望んでいるらしいということを聞き出してきて、それをしかるべき筋に注進して、それを物質化できる人間の前にしか今の日本では日本ではキャリアパスが開けない。そういうことです。

 ですから、これからあと、アメリカが宗主国としての「後見人」の役を下りた場合に、日本はいったいどうする気なのか。僕には想像がつきません。今の日本には自立的に国防構想や外交構想を立てられる人物がいない。政治家にもいないし、官僚にもいない。どうやってアメリカの意図を忖度するのか、その技術だけを競ってきたわけですから、日本の国益をどうやって最大化するか、そのためにはどういう外交的信頼関係をどこの国と築くべきか、どういうネットワークを構築すべきか、指南力のあるメッセージをどうやって国際社会に向けて発信するか、そういうことを真剣に考えている人間は今の日本の指導層には一人もいない。とりあえず、身体を張ってそういうことを口にして、広く国民に同意を求めるというリスクを冒している人間は一人もいません。

 この人たちのことをだらしがないとか言っても仕方がない。倫理的な批判をしても、彼らの「オレの出世が何より大切なんだ」というリアリズムには対抗できない。日本の国益って何だよ、と。そんなもののことは考えたことがない。アメリカに従属すれば自己利益が増大するということはわかる。だからそうやって生きている。そうやって財を築き、社会的地位を得て、人に羨まれるような生き方ができている、そのどこが悪いとすごまれると、なかなか反論できません。

 でも、本当に新聞の記事には「日本の国益」という言葉がもうほとんど出てこない。一日に一回も出てこない日もある。外交や基地問題や貿易問題とかを論じている記事の中に「国益」という言葉が出てこないんです。国益への配慮抜きで政策の適切性について論じられるって、すごいアクロバットですよね。でも、日本のジャーナリストたちはそういう記事を書く技術だけには長けているんです。国益については考えない、と。国益を声高に主張すると、対米従属の尖兵になっている連中に引きずり下ろされて、袋叩きになるということがわかっている。そういうどんよりした空気が充満しているんですよね。いったいどうなるんでしょう、これから。

  「いたいどうなるんでしょう、これから」に対する答えが『戦後政治を終わらせる』で語られていることを期待して、この著書を選んだ。

 ところで、内田さんは「対米従属内実の変遷」については、大まかに、1945年から51年(サンフランシスコ講和条約)まで6年間を「徹底的な対米従属」の時期、それから1972年(日中共同声明)くらいまでの期間が「対米従属を通じて対米自立」を目指した時期、その後が「対米従属が自己目的化」時期と区分している。これに対して白井さんは
占領期から安保闘争あたりまでを「確立の時代」
そこから冷戦終焉までを「安定の時代」
そしてその後を「自己目的化の時代」
という三つの時代区分を提示している。次回から「戦後政治を終わらせる」の第2章「対米従属の諸相」を読みながら、白井さんが提示した三つの時代の内実をたどっていくことにする。
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《沖縄に学ぶ》(62)

未来へ向かって(9):再び沖縄での自己決定権を求める動き


 いま教科書として用いている『沖縄の自己決定権』は2015年6月に出版されている。最終記事は2014年~2015年の「沖縄の自己決定権を求める動き」で締めくくられている。これを読んでシリーズ《沖縄に学ぶ》を終わることにする。

「軍事の要石」から「平和の要石」へ

 参院議員を3期13年務めた稲嶺一郎(1905年9月23日 - 1989年6月19日)さんには次のような経歴がある。
 太平洋戦争前に満州やタイに赴き、戦中戦後はジャカルタに滞在、インドネシア独立運動を支援したためオランダ側に拘束され、1年間投獄された経験を持つ。70年に参院議員に初当選後は、政界屈指の東南アジア人脈の持ち主として活躍、インドネシアの建国式典では国賓待遇で迎えられた。

 稲嶺さんは、沖縄の日本復帰前の69年に、『21世紀の胎動』という著書を出版している。その著書では、歴史・地理的条件などから「アジアの中の沖縄」を再評価し、「南北の文化、経済交流の中枢として活用可能」と提起している。そして、当時すでに世界は経済面で地域統合に向かうと予測、欧州経済圏のように「大陸・東南アジア経済圏」がつくられると予言している。
「次第に地域としての関係を強め、日本をはじめ、アジア各国の連帯による共同防衛、治安、平和の維持となってあらわれる。その場合、アジア連邦形成への動きや成立は現実化しているかもしれない。」
 そして、沖縄は、アジアの国際機関を設置する素地が十分あるとして青写真を描いた。
「人類の発展のために、沖縄を世界の裏街道でなく表街道に位置づけること、『アジアの真珠』として育て磨いて光沢あらしめること、経済的政治的中心として形成すること、これらこそわれわれが意識し、計画し、実施していくべき西暦2000年に至る道程だ。」

 その提言から46年、沖縄を「アジアの要」として発展させる動きが本格化している。翁長雄志知事は「アジア経済戦略構想」の検討チームを設置し、那覇空港を拠点に沖縄県内とアジア各地を結ぶ国際物流貨物事業や情報通信産業の拠点化、国際観光リゾート産業などを有機的に結合させる取り組みに乗り出している。

 一方、2014年4月には、鳩山由起夫元首相が沖縄を「捨て石」や「軍事の要石」でなく「平和の要石」にしたいとの思いから、東アジア共同体研究所「琉球・沖縄センター」を那覇市内に設立、シンポジウムを5回開催するなど活発な活動を展開している。その一環として、沖縄と中国の連携を強める具体構想もある。

 センター長で琉球弧世界遺産学会事務局長の緒方修(おさむ)沖縄大客員教授は、沖縄と中国福州の交流の歴史に着目、「琉球王国及びグスクの世界遺産群」に、福州の琉球館などを拡大登録することを目指す。登録されれば、中国人観光客の大きな誘因になるほか、沖縄と中国の交流が一層進むと確信する。
「交流の跡や現在まで続く交流も文化遺産に登録できる対象として規定されている。世界には国境をまたいで登録されている例がある。」
 近く福建の関係者を訪問し可能性を模索し、沖縄県や日中の行政担当者に働きかけていく考えだ。

中国の視線

 2014年11月5日、熊本市で、冷え込む日中関係の改善を促すため、中国に近い九州・沖縄の新聞記者と東京に支局を持つ中国の新聞社・通信社の記者による交流会が初めて実現した。「誰が勝つの?」、中国の記者たちは沖縄の新聞記者に約2週間後に迫る沖縄県知事選の行方を何度も聞いてきた。

 中国国営の新華社日本総局は知事選取材のため沖縄へ記者を派遣し、結果を速報した。国営の中央テレビも選挙の特集番組を流し、中国メディアは高い関心を示した。投票日2日前に沖縄入りし、知事選を取材した新華社の劉秀玲(りゅうしゅうれい)記者は、中国メディアが県知事選を注目する理由について、「日米関係に影響を与える可能性がある。」と話した。中国は日本との関係づくりの際、日米関係を大きな判断材料にしている。

 新華社の記事には「沖縄人 選挙で米軍基地に『ノー』」という見出しが躍った。書き出しで知事選の意義をこうつづっている。
「背後にある日本の将来の発展を深く考えさせられるもの、すなわち日米の軍事同盟関係を国の基本とし続けるべきか否かについて県民が疑問を投げかけた。」

 記事に
「新知事当選は民意の逆襲」
「『基地は経済発展の阻害要因』はすでに共通認識」
「自己決定権追求の闘い」
という小見出しを付け、沖縄の研究者の解説を引き、こう指摘した。
「知事選は本質的には県民が自己決定権を追求する闘いだった。県民は沖縄の発展の道を選択する権利があるか否か、あるいは東京の決定に従うしかないのか、沖縄の長期にわたる大衆運動には、こうした人権、自治権、自主権への要求に終始貫かれている。」

 一方、中国の研究者は今の沖縄をどうみているか。事情に詳しい複数の研究者によると「沖縄は中国の領土」という認識はほとんどなく、沖縄の自主的な決定権を尊重すべきだという論調が大勢を占めるという。実際、日本による「琉球処分」(琉球併合)直後、中国(清)側は日本側に対し、琉米・琉仏・琉蘭の三修好条約などを根拠に「琉球は独立国」と主張した。

 日中関係や琉球の歴史を専門とする姜弘(きょうこう)・北京師範大副教授は
「戦後沖縄は度々、複雑な国際紛争や大国の戦略に翻弄され、自己決定権の行使は難しかった。しかし今回の知事選を通して、県民の自己決定意識が高まってきた。この選択は尊重されるべきだ。」
と指摘する。そして
「中国は琉球王国時代から沖縄と友好的な貿易の往来、文化交流の歴史的伝統がある。」
として一層の交流を願った。

 対中貿易・経済交流の促進に取り組む日本国際貿易促進協会の職員として、習近平(しゅうきんぺい)現国家主席や温家宝(おんかほう)前首相ら中国の国家指導者との会談で通訳を担当してきた泉川友樹氏(豊見城市- とみぐすくし -出身)は、沖縄が日中関係に果たせる役割は大きいと話す。
「ウチナーンチュは友情の育み方など人間関係で中国人と通じ合えるものがある。地理的、文化的、人間的に近いことをうまく活用し、日中の間を取り持てる。それができたら世界でも素晴らしい例になる。」

 沖縄の目指すべき将来像は、軍事ではなく「対話のホットライン」、それは日中、沖縄、いずれにとっても「いいことだ」。

加速する沖縄の自己決定権を求める動き

 2014年11月29日から約3週間、県立博物館・美術館で「ペリー一行の見た琉球・日本―ウィリアム・ハイネの水彩原画展」が開かれ、1853年から54年の訪琉でペリー随行画家が描いた原画5点が初めて一堂に公開された。初日、多くの小学生らが足を運んだ。原画展の感想を聞いた記者に、那覇市の曙小学校6年の荷川取(にかどり)林香さん(12歳)は目を輝かせてこう答えた。
「ペリーが沖縄に5度も来て、琉球と琉米修好条約を結んだことを初めて知った。沖縄と外国との関係をもっと知りたい。」


 会場の一角に、琉米修好条約の条文が展示されていた。水彩画は原画だが、条約の方は原本ではない。複製だ。条約原本は東京の外務省外交史料館に保管されている。2014年4月、琉球新報は外務省に対し、琉球国が1850年代に米・仏・蘭それぞれと結んだ三条約について文書で次のような質問した。
「条約はなぜ、現在、外務省の管轄下にあるのか?」
「明治政府は1872年の『太政官布告』で三条約を外務省所管とすることや、正本提出を琉球藩に命じたが、その理由や法的根拠は?」
「琉球藩が74年に三条約の正本を外務省に提出したが、その後、条約の効力の有無や内容の順守などはどうなったか?米仏蘭各国への説明、反応は?」
 外務省は一括してこう答えた。
「当時の経緯が必ずしも明らかではないこともあり、お尋ねについて確定的なことを述べることは困難です。」

 米仏蘭三条約は琉球国が当時、国際法の主体だった"証し"だ。複数の国際法学者が三条約を根拠に、明治政府による1879年の琉球併合(「琉球処分」)は「国際法上不正」と指摘している。国際法に違反した国家は、違法行為の停止、真相究明、謝罪、金銭賠償などの義務を負う。国際法の主体(=主権国)として琉球が他国と結んだ条約を日本政府が持っている以上、政府は国際社会の一員として説明責任が問われるはずだ。

 名護市辺野古の新基地建設に県民の反発が高まる中、沖縄の自己決定権を追求する声が高まっている。三条約は「主権回復」主張の論拠となり得る。

 2013年6月12日、那覇市議会で平良識子(たいらさとこ)市議が主張した。
「私たちは歴史上、国際社会において、本来ならばどのような権利を持つ存在なのか、主体なのかを確認する、あるいはその根拠を持つことが非常に重要だ。その象徴的な一つとして琉米条約がある。」
 そして、「本来ならば沖縄が所有すべきだ」と、那覇市に条約返還を国に求めるよう要求した。その後も返還を求める声を上げ続けている。一方、琉球民族独立総合研究学会も2015年2月3日、外務省沖縄事務所に対し、琉米条約の原本を返還するよう要求した。

 日本に併合された後、沖縄戦で多くの犠牲を出した沖縄。米国統治下の27年間、住民は生命や人権、自治の侵害を経験し、日本「復帰」後も、軍事基地の過重負担に苦しめられている。琉球の主権を収奪した琉球併合は、歴史の苦渋の根源ともいえる。これまでの歴史に対する謝罪など、さまざまな形で日米の責任を追及すべしとの声もある。

 沖縄の自己決定権を問う世論の中で、三つの条約が今、息を吹き返しつつある。その様子を、沖縄の未来を担う子どもたちも見詰めている。

 沖縄がまだ米国統治下にあった1962年2月1日、琉球政府立法院。翁長助静(じょせい)議員は壇上で発議者を代表し、沖縄の施政権返還要求に関する決議文を読み上げた。
「国連総会で『あらゆる形の植民地主義を速やかに、かつ無条件に終止させることの必要を厳かに宣言する』旨の(中略)宣言が採択された今日、日本領土内で住民の意思に反して不当な支配がなされていることに対し、国連加盟諸国が注意を喚起することを要望する。」
 決議文は全会一致で可決され、国連加盟104ヵ国に送付された。この「2・1決議」は国際社会に米国の植民地的支配の不当性と沖縄の主権回復を世界に訴えた歴史的決議だった。しかしその後、沖縄から国際社会への働きかけは続かなかった。

 1879年の琉球併合前後にも、琉球の旧士族たちが海外に救国を訴えた局面があった。しかし当初は、日琉関係の伝統的な「隠蔽策」が露呈するのを恐れ、欧米との接触を積極的に活用しなかった。運動は、明治政府と中国(清国)への嘆願が中心で、国際法に基づいて国際社会に訴えるなどの取り組みは弱かった。

 しかし、時代は大きく変わった。世界的に民主化が進み、情報メディアも発達した。知事選、衆院選で示された民意を無視して、名護市辺野古で日本政府が新基地建設を強行していることに、国際社会は厳しい目を向けている。
「沖縄の人々の利益というゴールに向けて、あなたが前に進んでいけることを祈っている。」
 東西冷戦の終結に指導的役割を果たし、ノーベル平和賞を受賞したミハイル・ゴルバチョフ元ソ連大統領は、新基地建設問題を理解した上で、翁長雄志新知事に文書でエールを送った(2014年11月25日付)。世界的に見ても沖縄の現状は「不条理」だとする海外識者からの指摘も相次いでいる(琉球新報連載「正義への責任―世界から沖縄へ」)。

 知事選翌日のインタビューで、当選した翁長知事は辺野古問題について、「国連への要請も視野に入れる必要がある。」と述べた。基地建設阻止に向けて早期に訪米し、国連機関などを含めて沖縄の民意を訴え、国際世論を喚起していく考えだ。2・1決議から53年余。決議を読み上げた翁長助静氏の子息・雄志氏は父の遺志を引き継ぐ。

 ほかにも、国際世論へ打って出る動きは活発化しつつある。「沖縄『建白書』を実現し未来を拓く島ぐるみ会議」は、国連人権理事会などへの働きかけを強化する方針だ。2015年4月、スイス・ジュネーブの国連機関に担当者を派遣した。「琉球民族独立総合研究学会」も、琉球人への差別問題や自己決定権確立などを国連に直接訴える活動を15年度から始める。

 沖縄の民意が日本政府に無視され続けている中、日本の国民世論の喚起はもとより、国際世論の喚起が事態打開の鍵を握る。沖縄の自己決定権が保障されるよう粘り強く主張し続け、国連などに訴えていくことが課題となっている。

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 最後に一言。
 高江の米軍ヘリパッド建設を強行しているアベコベ軽薄姑息うそつきオカルト政権は、機動隊を使って連日、反対を訴える人たちに対して信じられないような暴力を振るっている。両手で首を絞められる場面もある。22日には、ロープで首を締められ痙攣を起こして救急車で運ばれる人も出ている。宗主国アメリカ様しか念頭になく、沖縄を植民地扱いしているのだ。国際社会に向かってどう言い訳するのだ。恥を知れ!!、と言っても全く通じないだろうね。私が付けている安倍政権の本性を表す渾名はもう一つ長くなってしまった。
「アベコベ軽薄姑息うそつきオカルト恥知らず政権」。
《沖縄に学ぶ》(62)

未来へ向かって(9):自己決定権希求の広がり


 私は全く知らなかったが、北海道・高知県でも自己決定権を求める動きがあったという。『沖縄の自己決定権』がそれを取り上げている。

《北海道のケース》

 2014年12月6日、北海道大学で「スコットランド独立運動の教訓とこれからの地域政治のゆくえ」と題するシンポジウムが開かれた。スコットランドの政治学者や北海道新聞の記者らが現地の独立運動を解説した。スコットランドの独立投票では、有権者の年齢を18識から16歳に下げ、投票率は約85%に達したという。また、パネル討議に参加した琉球新報の記者は、知事選で辺野古への基地建設を拒否した背景に県民の自己決定権への希求があると強調した。

 詰めかけた一般市民、学生ら約120人は真剣な表情で登壇者に質問・意見を寄せた。いずれも日本の自治に対する危機感があふれていた。その時に寄せられた質問・意見には例えば次のようなものがあった。

「スコットランドの分権は『下からの改革』だが、なぜ日本ではそれが見られないのか。そのような意識を育てるのは可能か」(22歳・大学院生)。

「日本では若者の政治離れ、政治不信、投票率の低下、議員の腐敗、地方議員の活動の不透明さなど、あらゆる問題を抱えている。その根底には、日本の政治教育の至らなさがあると思う」(21歳・学生)

 次のような沖縄への意見も寄せられた。
「日本の対米従属の害悪がすべて沖縄に押し付けられている現状では、沖縄はスコットランド以上に日本から独立する正当性を持っているのではないか。沖縄の独立要求を否定し得る道義的見解を日本人は持てないのではないか」(71歳・無職)

 北海道と沖縄は、日本の近代国家形成過程で最後に編入され、長い間、他地域と同じレベルの自治権や人権を認められなかった。北海道は1869年から1946年まで開拓使長官か内閣総理大臣(後には主に内務大臣)直属の北海道庁長官が管轄する区域で、その後は出先機関の北海道開発庁が置かれた。これに知事や道議会が「自治権の侵害」として抵抗した歴史もある。
 北海道開発庁は北海道開発局として基本的に設置時の体制のまま、現在に至る。沖縄の県庁と沖縄総合事務局の関係に似ている。

 シンポを企画した北海道大公共政策大学院院長の山崎幹根(みきね)教授は、北海道内で積極的に地方分権を進める動きが停滞しているので、「外からの刺激が必要」と企画の意図を語る。地域の特性を生かす自己決定権を行使する大切さを再認識する上でスコットランドは好例という。
「地域から中央に声を上げ、自立へ向けて実践することが重要だ。沖縄の事例は大いに示唆に富む」
として、民主主義の在り方を自らの地域に即して問い直すことが求められていると強調する。そして山崎教授は、日本の地域民主主義についてこう語った。
「国策によるアメとムチで地方に自発的服従を強い、中央各省の裁量の範囲で部分的に分権や特区を認める手法はもう限界だ」

 聴衆から次のような意見も寄せられていた。
「『今だけ、金だけ、自分だけ』、さらに『国だけ』良ければ ―といった風潮がある。今、目の前の金よりも将来に誇れる理想を選択できない日本人・北海道人の姿があります。』

《高知県のケース》

《200×年4月1日午前10時、高知県庁はいつにない緊張と興奮に包まれていた。集まったマスコミは国内外から200人。特設の記者会見場に現れた坂本慎太郎知事は、正面を向いて宣言した。「10ヵ月後、高知県の日本国からの独立を決める県民投票を実施いたします」。予想されていたとはいえ、会見場はどよめいた。》

 上の文章は、2004年、高知新聞が「時の方舟(はこぶね)」という連載記事で描いた高知県独立の「近未来フィクション」である。その狙いを次のように語っている。
「地方の『甘え』を国が指摘し続けている。中でも本県は、全国ワーストの財政力で国からの財源補てんを甘受する県としてやり玉に挙がっている。国からのカネはますます削られるだろう。今後は地域経済も地域福祉も縮小していくに違いない。そうなったとき、……老いも若きも食いぶちにあえぐ、生気のない地になっていないか。国にお荷物扱いされ、精神衛生上も不健全になっている懸念がないと言えるだろうか。ならばいっそ、日本からの独立を考えたらどうか」

 連載の反響は大きく、後に書籍として出版され、それをもとに地元の作家が小説にもした。

 連載は、今の日本の国づくりの本質を「効率」とみる。自然豊かな地方はいつの間にか非効率と指弾される存在になった。
「結果として山は荒れ、残る集落は老人たちがほそぼそと生をつないでいる」と憂い、「われわれが追い求めた『豊かさ』の終着点はこれか」と問う。強い者はより強く、弱い者はより弱く ―弱肉強食の波が地方にも押し寄せている。日本が目指すべきは「地域主権」という識者の提言を載せた。

 それから11年。今なお地方の衰退は止まらない。有識者でつくる日本創成会議は2014年5月、現在のペースで地方から都市への人口流出が続けば「自治体の半数が将来消滅する可能性がある」との試算を公表した。その後、安倍晋三首相は地方創生を最大の課題に掲げた。

 しかし、国から地方への権限・財源の抜本的移譲は進んでいない。地方創生の総合戦略にもその記述はない。自治体に募つた分権改革の提案に対する政府の対応も、手続きの簡素化などにとどまったものばかりだ。

 一方、国民の側も政府の権限移譲を待つばかりで、住民から権利を求める声はなかなか上がらない。「住民が参加し意見を述べ、それが政策に反映される場がない」。元総務相の片山善博(よしひろ)慶応大教授は地域主権の意識が育たない根本的原因として地方議会の運用を挙げる。議会への住民参加の機会は制度上は整備されていても「機能していない」。住民が身近な問題を日常的に議会と一緒に解決していくことが地域主権の基本だという。

 また、片山氏は財政の分権の重要性も指摘し、沖縄振興予算が政府の政治判断で左右されることを問題視する。
「予算額の確保・増額も大切だが、政府のさじ加減に依存する体質、財政構造を変えることも重要だ。誰が知事になっても、いつでも一定のお金が入ってくるよう、分権の視点で財政をルール化することが沖縄にこそ、必要だ」

 高知県と言えば先日の参議院選から選挙区が徳島県と合併された。その影響だろうか、投票率が46.26%で全国で最低だったようだ。政府への反発と不信の表れだろうか。

 もう一つ、上にアベコベ軽薄姑息うそつきオカルト政権が「地方創生を最大の課題に掲げた」とあるが、この課題についてもやっていることはアベコベなのだ。政府が発表している「まち・ひと・しごと創生総合戦略」の中に次の一文がある。

(3)まちの創生
 「しごと」と「ひと」の好循環を支えるためには、人々が地方での生活やライフスタイルの素晴らしさを実感し、安心して暮らせるような、「まち」の集約・活性化が必要となる。また、それぞれの地域が個性を活かし自立できるよう、ICTを活用しつつ、まちづくりにおいてイノベーションを起こしていくことが重要である。このため、中山間地域等において地域の絆きずなの中で人々が心豊かに生活できる安全・安心な環境の確保に向けた取組を支援するとともに、地方都市の活性化に向けた都市のコンパクト化と公共交通網の再構築をはじめとする周辺等の交通ネットワーク形成の推進や、広域的な機能連携、大都市圏等における高齢化・単身化の問題への対応、災害への備えなど、それぞれの地域の特性に即した地域課題の解決と、活性化に取り組む。

 たぶん、総務省が主導しているコンパクトシティ構想はこの戦略の一つとして始められたのだろう。サイト「内田樹の研究室」の最新記事『『日弁連での講演の「おまけ」部分』の中で、内田樹さんはこの構想は地域を壊すアベコベ構想だと批判している。内田さんは「もう経済成長は不要だし、出来ない」という考えを持っておられる方だが、経済成長を創出する方法が三つあると言う。「戦争をすること」と「産業構造を兵器産業にシフトすること」と「里山を居住不能にすること」である。とても重要で傾聴すべき事が語られているので、第三の方法について語っている部分を引用する。

 もう一つ、経済成長のための秘策があります。それは日本の里山を居住不能にすることです。これも経済成長だけを考えたら、効率的な政策です。僕が今総務省の役人で、上司から「人口減少局面での経済成長の手立てはないか」と下問されたら、そう答申します。「里山を居住不能にすれば、あと30年くらいは経済成長できます」と。

 国内の農業を全部つぶす。限界集落、準限界集落への行政サービスを停止して、里山を居住不能にする。故郷にこのまま住み続けたいという人がいても、もうそこにはバスも通らないし、郵便配達も行かないし、電気も電話も通りません。新石器時代の生活でもいいというのなら、どうぞそのまま住み続けてください。でも、犯罪があっても警察は来ないし、火事が起きても消防車は来ないし、具合が悪くなっても救急車も来ませんよ、それでいいんですね。

 そこまで言われたら、誰でも里山居住は断念するでしょう。みんな里山を捨てて都市部に出てくる。これで行政コストは大幅に削減できます。里山居住者は地方都市に集められる。離農した人たちには賃労働者になるしかない。仕事が選べないのだから、雇用条件はどこまで切り下げられても文句は言えない。そこで暮らすか、東京に出るしかない。そうすれば、人口6000万人くらいまで減っても、経済成長の余地がある。日本人全員を賃労働者にして、都市にぎゅうぎゅう詰めにして、消費させればいいんです。「日本のシンガポール化」です。

 シンガポールの人には申し訳ないのですけれど、シンガポールという国は全く資源がないわけです。都市国家ですから。資源がない。土地もないし、水もないし、食べ物もない、自然資源もない。何もない。生きるために必要なものは全部金で買うしかない。だから、国是が「経済成長」になる。経済成長しなければ飢え死にするんですから、必死です。全国民が経済成長のために一丸となる。だから、効率的な統治システムが採用される。一党独裁だし、治安維持法があって令状なしに逮捕拘禁できる、反政府的な労働運動も学生運動も存在しないし、反政府的なメディアも存在しない。そういう強権的な社会です。日本もそういう社会体制にすればまだ経済成長できるかもしれない。

 でも、日本にはシンガポール化を妨げる「困った」要素があります。それが里山の豊かな自然です。温帯モンスーンの深い山林があり、水が豊かで、植生も動物種も多様である。だから、都市生活を捨てた若い人たちが今次々と里山に移住しています。移住して農業をやったり、養蜂をやったり、林業をやったり、役場に勤めたり、教師になったり、いろんなことをやっている。今はたぶん年間数万規模ですが、おそらく数年のうちに10万を超えるでしょう。都市から地方への人口拡散が起きている。政府としてはそんなことをされては困るわけです。限界集落が消滅しないで、低空飛行のまま長く続くことになるわけですから、行政サービスを続けなければいけない。おまけに、この地方移住者たちはあまり貨幣を使わない。物々交換や手間暇の交換という直接的なやりとりで生活の基本的な資源を調達しようとする。そういう脱貨幣、脱市場の経済活動を意識的にめざしている。ご本人たちは自給自足と交換経済でかなり豊かな生活を享受できるのだけれど、こういう経済活動はGDPには1円も貢献しない。地下経済ですから、財務省も経産省も把握できないし、課税もできない。これは政府としては非常にいやなことなわけです。

 それもこれも「里山という逃げ場」があるせいだからです。だから、この際、この逃げ場を潰してしまう。総務省が主導している「コンパクトシティ構想」というのがありますけれど、これはまさに「里山居住不能化」のための政策だと思います。

 すでに日本各地でコンパクトシティ構想が実施されていますけれど、農民たちを農地という生産手段から引き剥がして、都市における純然たる消費者にする計画です。それまで畑から取ってきた野菜をスーパーで買わなければならないようになる。もちろんGDPはそれだけ増えます。本人の生活の質は劣化して、困窮度が高まるわけですけれども、必要なものをすべて貨幣を出して買わなければいけないので、市場は賑わい、経済は成長する。

 里山が居住不能になれば、地域共同体も崩壊します。伝統芸能とか祭祀儀礼もなくなる。そもそも耕作できなくなったら農地の地価が暴落する。ただ同然になるけれど、里山自体がインフラがなくなって居住不能なので、もう買う人はいない。自分で竈でご飯を炊いて、石油ランプで暮らすような覚悟のある人しか居住できない。でも、今政府が進めているのはまさにこの流れです。里山居住者をゼロにする。

 別に総務省の誰かが立案しているわけじゃないと思います。人口減少局の超高齢社会においてさらに経済成長しようというような無理な課題を出したら、戦争するか、兵器産業に特化するか、里山を居住不能にして、都会に全人口を集めて賃労働と消費活動をさせるというくらいしか思い付かないからそうしているのです。経済合理性の導く必然的な結論なわけですよ。別にどこかに糸を引いている「オーサー」がいるわけじゃない。でも、経済成長「しかない」と信じているのなら、日本に許された選択肢はそれくらいしかないということです。

 だから、われわれが言うべきなのは「もう経済成長なんかしなくていいじゃないか」ということなんです。今行われているすべての制度改革は、改憲も含めて、すべて「ありえない経済成長」のためのシステム改変なんです。経済成長をあきらめたら、こんなばかばかしい制度改革は全部止めることができる。でも、まだ言っている。民進党も相変わらず「成長戦略」というような空語を口走っている。SEALDsの若者たちでさえ「持続可能な成長」というようなことを言っている。若い人たちさえ経済成長しないでも生き延びられる国家戦略の立案こそが急務だということがまだわかっていない。

 水野和夫さんのようなエコノミストがもう成長しないんだから、定常経済にソフトランディングすべきだと提案されていますけれど、政治家もメディアもそういう知見を取り上げない。でも、これは歴史的な自然過程なんです。どうしようもない。反知性主義的思考停止は「ありえない経済成長」のための秘策を必死に探し出して、国をどんどん破壊してゆくというかたちで症候化している。彼らは自分たちが閉じ込められているこの檻以外にも人間の生きる空間があることを知らない。そして、檻の強化のために必死になっている。

 われわれが提示できるのは、このような状況においても、われわれの前にはまだ多様な選択肢があるとアナウンスすることです。われわれは歴史のフロントラインにいるわけです。これは人類がかつて一度も経験したことのない前代未聞の状況です。人口減少局面なんか、日本列島住民は古代から一度も経験したことがない。だから、どうすればいいかなんてわかるはずがない。この先何が起こるかわからない。分からない以上は「この道しかない」と言って「アクセルをふかす」ような愚劣なことをしてはならない。先が見えないときは、そっと足を出して、手探りで進む。過去の経験知に基づいて、「さしあたり、これは大丈夫」という手堅い政策だけを採択する。それくらいしかできないと思います。

《沖縄に学ぶ》(61)

未来へ向かって(8):沖縄が描く靑写真(4)


《特例型沖縄州》

  自民党の道州制推進本部が進めている道州制は、当初は随分とマスコミが取り上げていた。自民党政権下で内閣官房に設置された道州制ビジョン懇談会は2008年に「2018年までに道州制に完全移行」と提言していて、現実味を帯びていたが、最近はまるで立ち消えたように見聞きしなくなった。推進本部は現在も議論を進めているようだが、全国町村会が強く反対しているほか、党内にも慎重論があり、国会への法案提出に向けた手続きは進んでいない。つまり、全く話題になっていないが、政策はまだ生きている。

 道州制について復習しておく。
 道州制とは、都道府県を廃し、新たに10前後の州や道を置き、そこに国の権限を大幅に移譲して、国は外交、防衛、年金など「国しかできない仕事」に集中するという仕組みだ。

 さて、ビジョン懇談会の座長が描く道州制の区割り図で、沖縄は九州州の一部にされていた。政府のビジョン懇談会の関連組織である道州制協議会のメンバーだった太田守明会長は
「平成の琉球処分になる恐れがある」
「独立国だった歴史がある沖縄は共同体意識が強い。海を隔てた九州と一つになれば、九州州政府の下で埋没し、基地問題は国と直接交渉できず、進展が一層難しくなる」
と危惧し、沖縄独自の懇談会結成を思い立った。2007年夏のこと、琉球大学の仲地(なかち)博教授(行政学)を訪ね、「懇話会の座長を務めてほしい」と直接頼み込んでいる。

 仲地さんを座長とする沖縄の懇話会の委員15人は、経済界・識者・県議・労働界・自治体首長ら幅広い層でつくる「オール沖縄」と言えるメンバーだった。全国各地で道州制が研究されたが、民間有志で県民世論の結集を目指す団体は前例がなかった。保革、労使の対立を超えた多様なメンバーだったため、仲地さんは当初、二の足を踏んだが、「結論が出なくてもいい。議論の様子を残すだけでも意義がある」と思って引き受けたそうだ。

 沖縄の懇話会は、中央主導の動きとは逆に、住民主権を追求した自治権拡大を目指した。2年間24回にわたる会合を重ね、09年9月24日、仲井眞弘多(なかいまひろかず)知事(当時)に提言した。結論は「特例型沖縄単独州」である。

 内容は、他の道州よりも高い次元の自治権と独自の仕組みを持つ「特例」を国は沖縄に認める一方、他の道州と同程度に財源を移譲し保障する、というものだ。
 沖縄州政府は州議会、州行政府、州裁判所で構成し、国と対等の関係を保つ。米軍人・軍属への課税権も有する。全国に先駆けた先行モデルとして沖縄州を設立する。また特例として、沿岸・国境警備や漁業資源の管理・利用、海底資源探査や利用などの権限・財源の移譲を求めている。さらに、沖縄州は「日本とアジアの懸け橋」などを目指す。米軍基地の返還は、沖縄の民意を代表する地方政府として「今よりも強力に推進可能」とうたう。

 この提言を受け、仲井眞知事は自民党の意見聴取で「単独州」を明言した。沖縄県内では「特例型沖縄単独州」の実現に向け「県議会議員経験者の会」が現在も活動を続けている。

《連邦・国家連合》

 沖縄の日本復帰から2年後の1974年、中央集権国・日本の民主化を射程に入れて「復帰」を強烈に批判する本が出版された。米イリノイ大教授で宮古島市出身の平恒次(たいらこうじ)著『日本国改造試論』。その批判の原点を平さんは「琉球が本来は独立国であるという認識から出発すべきだった」と強調している。そして、平さんは琉球の歴史をこう総括している。
「明治体制下の沖縄は『県』とはいっても、明らかに植民地でしかなかった。……1952年、最悪の戦災地沖縄は、日本政府から何の慰謝も補償もないまま、"頭越し"に講和条約第三条によって、ばっさりと国外に切り捨てられた。……民主主義の原理からすれば、そこには道義的に納得のいく何ものをも発見できない。……琉球人は声高く『復帰』を否定した上で、新時代の日本と琉球を考え直さなければならなかった。」

ちなみに、講和条約第三条の条文は次の通りである。
「日本国は、北緯二十九度以南の南西諸島(琉球諸島及び大東諸島を含む。)孀婦岩の南の南方諸島(小笠原群島、西之島及び火山列島を含む。)並びに沖の鳥島及び南鳥島を合衆国を唯一の施政権者とする信託統治制度の下におくこととする国際連合に対する合衆国のいかなる提案にも同意する。このような提案が行われ且つ可決されるまで、合衆国は、領水を含むこれらの諸島の領域及び住民に対して、行政、立法及び司法上の権力の全部及び一部を行使する権利を有するものとする。」
孀婦岩(そうふがん)について(「百科事典マイペディア」より)
「別名ロッツ・ワイフ。伊豆諸島鳥島の南方約75kmにある無人の黒色尖岩(せんがん)。小笠原諸島復帰までは,南方諸島中日本の行政権内の最南地であった。東京都八丈支庁に属する。」


 平さんは、独自の民族としての琉球人が日本国家と対等合併し、連邦国家をつくることを主張する。新琉球国、新アイヌモシリ、在日朝鮮・韓国人でつくる新朝鮮国、そして日本でつくる連邦こそが、民主主義の原則に沿う日本の姿だと訴えた。

 28年後の2002年。琉球大学教授の島袋(しまぶくろ)純氏は具体的な連邦案を提起した。同案は三段階で自治権を拡大し、最終的にはEU(欧州連合)をモデルにした国家連合へと発展するものであり、次のような構想を描いている。

第一段階
 琉球諸島内に広域連合を設け、沖縄自治の基本法制定県民会議を発足させ県案を作成する。
第二段階
 この基本法を基に住民投票を実施する。旧琉球政府・立法院の権限を取り戻した琉球諸島政府を設置し、道州制の先駆けとして日本国憲法内での最大の自治を目指す。国の出先機関はすべて新政府に移管する。
 沖縄が望まない憲法改定があった場合、第三段階に進む。
第三段階
 独立して独自の憲法を作り、日本と対等な主権国家の連合体をつくる。立法・行政・司法の三権を備える機関をそれぞれ設置、財政は連合予算の1%(現在の予算規模からの推定約9千億円超)を沖縄に一括移転、沖縄は課税権も持つ。

 中国やASEAN(東南アジア諸国連合)などと東アジア連合も目指す。国防は、日米と安全保障条約を結び、日米地位協定の抜本見直しを要求する。それに応じない場合、条約破棄を通告する。近い将来に同条約を平和友好条約に締結し直し、非武装地帯を宣言、国連アジア本部を設置し平和外交で攻勢をかける。

《独立(主権回復こそ「沖縄の解放」)》

 2014年11月の沖縄県知事選、12月の衆院選沖縄選挙区すべてで名護市辺野古への新基地建設に反対する候補者が当選した。それにもかかわらず、日本政府は建設推進を強行しようとしている。県民が激しく反発するさなかの12月20日と21日、琉球民族独立総合研究学会のシンポジウムが沖縄国際大学で開かれた。両日とも150人を超える聴衆が詰めかけ、会場は熱気に包まれた。

 「しまくとぅば、琉球の歴史、沖縄戦のことを家庭でどんどん話していこう」。そんな意見や質問が相次ぎ、2日とも予定終了時間を30分以上オーバーした。

 独立学会は2013年5月15日に設立された。当初は約100人だった会員は267人まで膨らんだ。20代前半から80代まで、多様な職業の人々が真剣な議論を重ねている。本島北部・中部・南部、宮古、八重山、西日本、東日本の地域研究部会のほか、独立実現の過程や経済、法制度、歴史などを扱う20のテーマ部会からなる。各部会は2ヵ月に1度のペースで会合を開催しているという。米国、ブラジルなど海外のウチナーンチュにも会員がいる。

 共同代表の友知政樹(ともちまさき)沖縄国際大教授は「これまでいろんな人が独立論を唱えてきたが、同じ目標の下、一緒に顔を合わせて意見を出し合うことで議論が深まっている」と話す。独立を掲げる政党の発足も目指す。

 独立学会が描く沖縄の青写真は次のようである。

 自由、平等、平和の理念に基づく「琉球連邦共和国」で、主権回復こそが琉球の解放につながる。奄美、沖縄、宮古、八重山の各諸島が州となり、対等な関係で琉球国に参加する。各島々と郷土のアイデンティティーが琉球人の土台であり、各地の自己決定権を重視する。琉球の首府だけでなく、各州が議会、政府、裁判所を持ち、憲法を制定、独自の法や税、社会保障の制度を確立し、その下に市町村を置く。
 安全保障については「軍隊の存在は攻撃の標的になる」として非武装中立を保ち、東アジアの平和を生む国際機関の設置も目指す。国連だけでなく、太平洋諸島フォーラムなど世界の国際機構に加盟し、国々との友好関係を強化する。米軍や自衛隊の基地撤去のための条約を日米と締結する。
 経済の自立については、琉球が経済主権を持てばその可能性が広がる。現状は「琉球側に政策策定や実施過程における決定権がない植民地経済だ。政府主導の開発行政は国への依存度を深めた」と指摘する。米軍基地撤去による跡利用で雇用・経済効果は「何十倍にもなる」とし、発展著しいアジアとの貿易、アジア人観光客の誘致などで経済自立を目指す。

 大きな課題の一つは、独立の考え方を県民に浸透させることだ。共同代表の桃原一彦(とうばるかずひこ)沖縄国際大准教授は「基地問題をめぐる差別状況や沖縄の歴史、ザル経済など、まずは沖縄の現状をきちんと認識するための言葉を持ち、可視化、意識化することだ。そんな言葉を発信していきたい」と語った。

 独立までの具体的シナリオも今後の課題だ。2015年度からは国連へ会員を派遣し、琉球の自己決定権確立を訴える活動を強化する。
《沖縄に学ぶ》(60)

未来へ向かって(7):沖縄が描く靑写真(3)



《沖縄自治研究会》

2002年
 識者や自治体職員、議員、報道関係者、市民らが集い、発足。

 市町村の憲法といわれる自治基本条例のモデル条例を完成させた後、40回にわたる会合を開き「沖縄自治州基本法試案」を05年に完成する。

 その議論では当初、方向性として、

 現行の地方自治法の枠内、

 現行の自治基本条例の枠は超えるが、現行憲法の規定内、

 現行憲法を超える自治基本条例
の三案があった。過去の沖縄自立・自治構想を検証する一方、諸外国で高度な自治を完成した地域も研究した。

 議論の結果、②案を採用。試案の根拠は、条例制定のための住民投票権を定めた次の憲法95条だった。

第95条【特別法の住民投票】
 一の地方公共団体のみに適用される特別法は、法律の定めるところにより、その地方公共団体の住民の投票においてその過半数の同意を得なければ、国会は、これを制定することができない。

 つまり、国会である特定の地方公共団体にだけ適用する特別な法律案が可決された後、その地方公共団体の住民による住民投票にかけられ、有効投票の過半数の賛成をもって初めて法律として成立する、と規定している。

 『風游』(沖縄の自立解放に連帯する風游サイト)というサイトの「『沖縄の自治の新たな可能性』最終報告書№6」という記事の中に「構想案 『憲法第95条に基づく沖縄自治州基本法』 」が記録されている。参考に読んでみたが、【解説・補足】もあり、相当な長文だ。ここでは『沖縄の…』がその概略を解説しているので、それを用いることにする。

 試案は前文で
「沖縄の住民の命を守ることを何よりも最優先する」
と宣言する。そして
「非暴力と反軍事力を基本にした、平和な国際社会の構築を目指す」
と明記している。またさらに
「平和憲法の改悪に反対し、平和憲法の理念をより徹底して活かす」
と強調し
「東アジアの平和構築のために沖縄が主導権を発揮する」
とうたう。

 試案は35の条文で構成し、基本原則、人権、統治機構、国や市町村との関係、財政などを定めている。琉球列島内の島々や地域の個性を大事にし、多元多層的な独自の自治・分権を提唱している。 そして、行政・立法・司法の三権については次のような構想を提示している。

 州議会は、市町村代表による自治院と、直接公選される立法院でつくる二院制で、州知事を長とする州政府を設置する。国の最高裁の下に州裁判所を置き、州警察も設ける。州は「国の専属的権限」以外の権限、自治立法権、自治行政権、自治外交権、自治司法権を有し、市町村とは対等の関係とする。

 財政については
「国は、平和的領土・領海の維持・保全の観点を含めて沖縄自治州やその市町村に保障しなければならない」
とし、沖縄自治州に一括移転、予算・決算権は州議会に持たせている。
 試案の解説で自治研究会は
「従来の沖縄自治構想は常に独立か現状維持かの二元論に陥ってきた」
とまとめ、
「経済的に自立しないと独立は不可能とするか、具体的実現過程を考えない情緒的独立論に終始してきた」
と批判している。そして、
「海外には国の枠内で高度な自治権を獲得したり、独立後に他国から政治・経済的な保護を受けたりする例が多くある」
と指摘し、次のように結論付けている。
「経済的自立を高度な自治の前提条件とする考え方は、政治的自律の重要性を経済的要件の下に位置付ける発想だ。その考え方が自由な発想と重要目標を見失わせてきた。政治的自律を経済条件に従属させる必要はない」
(試案の「概略」終わり)

2014年11月21日
 沖縄自治研究会は、会員の一人の前城充(まえしろみつる)(南風原町(はえばるちょう)職員)さんの提唱にもとづいて、那覇市の自治会館で研修会を開催した。この集会は政策形成能力を高める研修の一環だった。100人近くの県内自治体職員が集い、MICE(企業の報奨旅行や国際会議など)の誘致をめぐって熱い議論を交わした。研修アドバイザーの前城さんは
「鍵は公共交通の整備だ。観光ルートにつなげる工夫が必要だ。」
「政策を積み上げ、地域の問題を解決していくことこそが自己決定権の行使だ」
と語っている。

 以上、さまざまな会の理念・活躍を追ってきたが、そこで語られていた沖縄の靑写真は次の四つにまとめられる。
(1)
 沖縄自治州(現行憲法枠内で自治拡大)
(2)
 特例型沖縄州(高度の自治を提言)
(3)
 連邦・国家連合(主権回復し平和外交)
(4)
 独立(主権回復こそ「沖縄の解放」)

 『沖縄の自己決定権』の最終節は上の四つの靑写真を論じている。上の「沖縄自治研究会」の試案が(1)である。次回は(2)~(3)を取り上げる。
《沖縄に学ぶ》(59)

未来へ向かって(6):沖縄が描く靑写真(2)


《琉球弧の先住民会》

1999年2月
 市民外交センターなどの協力で設立。国連人権委員会などにメンバーを派遣し、「先住民」として「琉球人の権利」を訴えてきた。

2014年9月
 代表代行の当真嗣清(とうましせい)さんが糸数慶子参院議員と共に国連先住民族世界会議に参加した。糸数さんのブログ「うみなあいび2」に沖縄タイムスと琉球新報の記事(2014年9月24日付)『糸数議員、国連で演説 先住民族世界会議』が掲載されていた。ここでは沖縄タイムスの記事を転載しておく。

 各国の首脳らが演説する国連総会の一般討論が24日から始まるのを前に、ニューヨークの国連本部前で22日、沖縄の過重な米軍基地負担を知ってもらおうと、沖縄出身の在留邦人ら十数人が集会を開き、米軍普天間飛行場の名護市辺野古への県内移設に反対を訴えた。

 この日は、世界の先住民族や各国代表が集まり、先住民族の権利保護、拡大について話し合う初めての「先住民族世界会議」が国連本部で開幕。分科会で米軍基地問題などについて発言した沖縄選出の参院議員、糸数慶子さんも、沖縄伝統の紅型衣装に身を包んで参加した。

 参加者らは、辺野古周辺海域に生息する絶滅危惧種ジュゴンの写真や「新たな基地はいらない」などと英語で書かれたプラカードを掲げ、三線で沖縄民謡を奏でた。興味深そうに見つめる外交官らもいた。

 米ニューヨークの国連本部で22日、世界の先住民族や各国代表による「先住民族世界会議」の分科会が開かれた。糸数慶子参院議員は「国家的、地域的レベルでの先住民族の権利の履行」を議題に演説し、2007年に採択された国連先住民族権利宣言(UNDRIP)を沖縄にも適用すべきだと主張し、日本政府に沖縄の人々を先住民として認めるよう訴えた。

 会議では、先住民族に文化的伝統や慣習を実践する権利、土地や資源への権利などを広範囲に認めたUNDRIPが、各国でどのように政策に反映されているかなどについて発表が行われた。

 糸数氏は
(1)
 UNDRIP18条で定められた意思決定に参加する権利を、沖縄にも認めてほしい
(2)
 日本の面積の0.6%にすぎない琉球・沖縄に、在日米軍専用施設の74%が集中している現状は明らかな差別
(3)
 琉球民族の多くが反対する基地建設の強行は、意思決定に参加する先住民族の権利の明白な違反であり、国連宣言30条の軍事活動の禁止にも反する
などと主張した。
(管理人注)
UNDRIP18条
 先住民族は、その権利に影響を及ぼしうる事柄についての意思決定に、その固有の手続に従って自ら選んだ代表を通じて参加し、並びにその固有の意思決定制度を維持し、及び発展させる権利を有する。
国連宣言30条
 この宣言のいかなる規定も、いずれかの国、集団又は個人に対して、この宣言に掲げる権利及び自由の破壊を目的とする活動に従事し、又はそのような目的を有する行為を行う権利を認めるものと解釈してはならない。


 国連総会の議場で行われた開幕式では、国連の潘基文事務総長が「皆さんの権利を守るため、声を一つにしてほしい。国連は皆さんとともに取り組む」と呼び掛けた後、先住民族の福祉向上への決意を示した文書が採択された。

 国連によると、先住民の総人口は約3億7千万人以上で、70カ国以上に少なくとも5千の先住民族が存在する。先住民族とは「国連憲章や市民および政治的権利に関する国際規約および経済的、社会的および文化的権利に関する国際規約の共通第1条において自己決定権を有する人民」の意味で使用されている。

 「琉球弧の先住民会」が目指すのは「大和政府によって奪われた権利」の回復、すなわち国際法の国際人権規約で定められた集団の権利としての「民族の自己決定権」と「土地権」の回復だ。辺野古の新基地建設問題については、「圧倒的大多数の琉球民族が『ノー』の意思表示をした。集団の権利は侵害されたままだ」と指摘する。
 そして、民族の自己決定権が確立した後、目指すべき沖縄の将来像について、次のような三つの選択肢があると言っている。

(1)
 立法権や徴税権など高度な自治権を待った県や州として日本国内にとどまる。
(2)
 日本国と完全にたもとを分かって自主独立の国家をつくる。
(3)
 (1)の道の完成後、日本国の多数派・大和民族との間で差別や格差を完全になくすよう話し合い、それが実現した後、両民族が融合した多民族国家日本において、民族の自己決定権行使の主体となる。

《琉球の島々の文化連絡会》

2014年10月19日に発足
 地域や職業、専門分野を超えて幅広い層の人々が連携している。呼びかけ人10人は歴史学者・考古学者・憲法学者・社会学者・写真家・数理行動科学者・美術関係者・批評家と幅広い。一般賛同者は約120人。辺野古への新基地建設強行や沖縄戦の「集団自決」(強制集団死)の軍強制を歴史教科書から削除した問題を、沖縄の文化的危機と捉える。そして、専門分野や地域を越えて連携し、琉球・沖縄の自然や文化を次世代に継承することを目的としている。

 呼びかけ人のひとり、安里進氏(考古学)は会の設立シンポジウムで次のように強調した。
「辺野古新基地建設に反対する県民の民意の根幹には、琉球・沖縄人としてのアイデンティティーがある。それが沖縄パワーの源泉だ。先祖から受け継いだアイデンティティーに基づいた民意は、世界の人々の共感や支持を得て沖縄が自己決定権を獲得していく原動力になる」
 辺野古基地建設の強行は、民意の否定という民主主義の破壊にとどまらず、沖縄固有の文化やアイデンティティーの否定であり、沖縄の固有性の土台である自然も破壊されると、安里氏は会の認識を説明する。

 活動として、「琉球・沖縄文化プロジェクト〈保全・回復・創造・継承〉」と銘打ち、領域や世代を横断して研究発表、展示、上演上映、講演、シンポジウムなどを展開している。

 連絡会は今後、沖縄が抱える文化の問題や沖縄のアイデンティティーについて、多様な立場から議論する場を提供していくという。

《琉球・沖縄の自己決定権を樹立する会》

2014年8月23日に設立
 同日、西原町に事務所を開設している。沖縄の問題は「日本における民族問題であり、極めて普遍的な人類共通の人権問題だ」と主張している。 設立・講演会には69人が集まり会則を確認し、今後、シンポジウムや本の出版などの活動を展開する。幹事は21人、会員は60人を超える。

 会則は沖縄の青写真を次のように描いている。
 非武の思想と伝統に基づいた「基地のない自立沖縄」「共生社会沖縄」「環境に優しい循環型経済社会」。アジア近隣諸国民と交流を深め「東シナ海を平和な海に再生する」。

 代表幹事のひとり、大村博氏は、
「沖縄の人々が琉球民族としての自覚と誇りを取り戻すことが何より大事だ。自覚や誇りは、ウチナー・ナショナリズムに陥らず、人間の尊厳や人権など普遍的価値や共生の理念を根本にした人間解放の哲学でなければならない」
と語る。

 大村氏は「琉球自治州」を構想、自己決定権、外交権を持つ沖縄像を描いている。
《沖縄に学ぶ》(58)

未来へ向かって(5):沖縄が描く靑写真(1)


 「SACO合意(2)」で取り上げたように、日米政府が沖縄の民意を無視して強引に推し進めている軍事基地建設問題は辺野古新基地建設の他に高江ヘリパット建設がある。辺野古では工事中止に追い込んでいるが、アベコベ軽薄姑息うそつきオカルト政権は参議院選挙後ただちに、高江ヘリパット建設の準備を開始した。目取真俊さんは「機動隊の暴力に守られて進む高江ヘリパッド建設の準備」の中で、政府の意図を次のように分析している。
「これまでの高江のヘリパッド建設工事と大きく違うのは、機動隊が常駐して弾圧態勢を強化している点である。日本政府・防衛省はそれだけ高江のヘリパッド建設に力を入れている。辺野古の新基地建設が中断に追い込まれていることへの腹いせや、翁長知事を揺さぶる目的もあるのだろう。辺野古が進まない分、高江で成果を出して米政府に媚びたいのだろう、安倍親米隷従政権は。それだけ高江の状況は厳しさを増していることを認識したい。」

 さて、今回から『沖縄の…』の第5章「自治実現への構想」を読んでいくことにしよう。

 政府が理不尽な対応をすればするほど、沖縄の非暴力直接運動はより広くより強くなっていく。2013年以来、いろいろな会が形成され、一筋の道が見え始めている。それぞれの会の理念・運動を追ってみる。

《政府への「建白書」と島ぐるみ会議の発足》

 2013年1月28日
 沖縄県の41全市町村の代表たちが、オスプレイの配備撤回と米軍普天間飛行場の県内移設断念を求めた「建白書」を首相官邸で安倍に手渡した。建白書は県下すべての市町村首長、議会議長、県議会議長らが署名しており、この建白書の提出は「沖縄の総意」を示した歴史的な行動であったが、アベコベ軽薄姑息うそつきオカルト政権はこれを一顧だにしなかった。しかし、沖縄はひるむことなく更なる強い結束を果たしていった。

この建白書の要求を実現しようと、沖縄県内政財界や労働・市民団体の有志、有識者は「沖縄『建白書』を実現し未来を拓く島ぐるみ会議」を結成した。発起人には、保革を超えた幅広い層の約90人が名を連ねた。

 14年7月27日の結成大会には主催者発表で2千人余が参加した。沖縄への米軍基地集中は「社会的正義にもとる軍事的植民地状態の継続」と主張し、「構造的差別」の解消を訴えた。

 メンバーは、名護市辺野古への新基地建設阻止行動を支援している。今後は国連人権機関への直訴や、訪米して米国世論に働きかける活動を展開する。一般会員は2014年12月時点で1229人。今後、1万人規模に増やす方針だ。

 共同代表のひとり、仲里利信氏(衆議院議員)は、
「琉球への薩摩侵略から400年余、沖縄への差別や搾取の歴史が続いている。琉球国が独立国家だったことを前面に出し、主権回復を訴えていく。行き着く先に独立も想定しないといけない」
と主張する。

 仲里氏は沖縄の将来像として、軍隊のない「非武装中立」を描く。「沖縄は出撃基地であり続けていいのかが問われている」。県議会議長時代、沖縄と中国福建省の友好県省10周年の記念行事に招かれ、福建で「日本政府の外相級」の歓待を受けた。
「琉球は橋渡し役として日中友好を先導すべきだ。琉球に国連アジア本部を誘致し、スイスのような場所になるのがいい」

 沖縄の将来像として、軍隊のない「非武装中立」が提示されているが、ここで「非武装中立」という理念をめぐる国際的展開の中で、沖縄が果たせる役割を論じた文を引用して置こう。

 1989年、スイスで、国の非武装化の賛否を問う国民投票が実現した。「軍隊のないスイス」を目指す運動が起こり、国民投票を求める署名は、住所などを書き込む厳格なものであったにもかかわらず、85~86年の2年間で、有権者の約2.5%に当たる10万人分集まったのだ。

 投票日は東西ドイツのベルリンの壁が崩壊して15日後だったこともあり、国民の平和への関心は高く、通常は45%ほどの投票率が72%に達した。結果は「ノー」だったが、賛成票の割合は大方の予想を上回る35.6%だった。この投票が国民の軍隊へのイメージを変え、軍事費削減にもつながった。

 第二次世界大戦直後の46年当時、武装しないで安全を守る国は世界にほとんどなかった。しかし、2014年現在、国連加盟国の8分の1を占める26ヵ国が軍隊を持たない。「脱軍事化と軍隊のない国家」の著者で、先の国民投票の指導者、クリストフ・バルビー弁護士(55歳)はこう話す。
「軍隊を持たない国・コスタリカの首相は『私たちは子どものようなものだ』と言い、無力な自分らを他国は攻撃しようとは思わないという考えだ。非武装がいったん成功すれば、それを維持するのは決して難しいことではない」

 非武装化には、二つの重要な点があるという。一つは、長期的な視点から軍隊を持たないことをうたった憲法を持つことで、もう一つは、それを実現する国民の強い意志だ。

 スイスには国連機関や毎年ダボスで開かれる世界経済フォーラムがある。これらの国際機関・会議を軍隊で守ることを主張したり、「軍隊あっての平和」を唱えたりする人は少なくない。

 それでもバルビー氏は「世界の人々の意識は変わっていく」と強調する。戦争や脅威の形は、直接的な武力衝突から、IT戦争やサイバーテロなどに変容し、人々の意識も変わってきたと指摘する。
「軍事力でしか問題を解決できないと錯覚している人がいるが、すでに多くの人々が軍に頼らない統治は可能だと気付いている。世界の至る所で平和を望む声は広がっている」
と話す。

 より多くの人々が軍隊に頼らない平和を求め、政党がそれを汲み取り、非武装の賛否を問う住民投票など直接投票を成功に導くことが重要だという。

 世界的にはイスラエルとパレスチナの問題が「最も危険」で、これが解決すれば世界の平和化が一気に進むと予想する。ただ、「二番目に危険」なのは東アジアで、北朝鮮問題や日中関係が紛争の火種とみる。

「危険の中だからこそ、沖縄の立場は非常に重要だ。平和は沖縄だけの問題ではない。沖縄が平和になれば、東アジア全体への影響は非常に大きい」。
バルビー氏が沖縄の主体性や自己決定権に期待するのは、「軍隊に頼らない積極的平和」を発するイニシアチブ(主導力)だ。

 太平洋にはパラオやミクロネシア連邦など軍隊を持だない国が11もある。バルビー氏は、それらを含む16の国・地域でつくる太平洋諸島フォーラムと沖縄が連携し、意見交換していくことを提案した。そしてこう断言した。
「軍隊を捨てるというのは、権利を諦めることではない。創造的、人道的な解決法があるのを示すことだ。暴力のない世界をつくることは可能だ。」

《沖縄に学ぶ》(57)

未来へ向かって(4):先住民族問題


 2007年9月13日、国際連合総会で「先住民族の権利に関する国際連合宣言」が採択された。投票結果は賛成143ヶ国、反対4ヶ国、棄権11ヶ国だった。反対した国はオーストラリア、カナダ、ニュージーランド、アメリカ合衆国。むべなるかな、これらの国はかつて先住民族に対するジェノサイドを行ってきており、現在も相当な数の先住民族が生存している。日本は賛成票を投じている。そして翌年2008年6月6日の衆参両院の本会議で、アイヌ人を先住民族と認め、地位向上などに向け総合的な施策に取り組むことを政府に求める決議を全会一致で採択している。政府も衆参本会議で、「アイヌ人は先住民族」との認識を初めて表明した。

 では、日本政府は琉球人に対してはどのような認識を持っているのか。

 国連は2008年に、琉球民族を国内法下で先住民族と公式に認め、文化遺産や伝統生活様式を保護・促進するよう勧告していた。その後も、09年にはユネスコ(国連教育科学文化機関)が沖縄固有の民族性を認め、歴史、文化、伝統、琉球語の保護を求めた。こうした独自性を日本政府が認めないことに、その都度「懸念」を表している。沖縄への[差別]を国連に訴えてきた「琉球弧の先住民会」の当真継清(とうましせい)さんは、日本政府を次のように批判し反省を促した。
「琉球には1879年に日本に併合された歴史、独特の文化や言語が存在する。琉球・沖縄人意識も強い。米軍基地集中の構造や、基地をめぐる制度の結果として差別が存在し、それが琉球・沖縄人の意識のさらなる喚起にもつながっている。日本政府はその事実を無視している。国連人種差別撤廃委員会の委員から『もっと真面目に』と注文された。情けない。不誠実の証左だ」

 2010年3月9日、国連人種差別撤廃委員会は沖縄について踏み込んだ見解を採択した。
「沖縄への米軍基地の不均衡な集中は現代的な形の人種差別だ。沖縄の入々が被っている根強い差別に懸念を表明する。」
 そして、日本政府に対し、沖縄の人々の権利保護・促進や差別監視のために、沖縄の代表者と幅広く協議するよう勧告した。

 12年には、米軍普天間飛行場の辺野古への「移設」や東村高江(ひがしそんたかえ)の米軍ヘリコプター着陸帯(ヘリパッド)建設について、「沖縄の人々を関与させるための明確な措置が取られていない」として「懸念」を表明した。その上で人権侵害問題の観点から、計画の現状や地元住民の権利を守る具体策について説明を求める異例の質問状を日本政府に送った。

 こうした国連からの働き掛けを、日本政府は"門前払い"にしてきた。政府が示した基本姿勢は次にようである。
『沖縄県に居住する人あるいは沖縄県の出身者は「日本民族」なので、人種差別撤廃条約の「対象とならない」。沖縄の人々は「社会通念上、日本民族と異なる生物学的または文化的諸特徴を共有している人々であるとは考えられていない。』

 辺野古への基地「移設」や高江のヘリパッド建設についても沖縄差別の存在を否定し、沖縄の居住者・出身者は「日本国民としての権利をすべて等しく保障されている」という主張を繰り返している。

 国連は2014年7月24日に人権委員会が、8月29日には人種差別撤廃委員会が、琉球・沖縄人は先住民族だとして「権利の保護」を勧告している。この時の国連関係者の発言や、それに対する日本政府の対応が詳しく書かれているので、直接引用する。

 2014年8月21日、スイス・ジュネーブ市の国連人権高等弁務官事務所。国連人種差別撤廃委員会による日本審査2日目の会議が開かれた。外務省総合外交政策局審議官の河野章大使ら日本政府代表は、初日に委員から投げられた質問に答弁した。内容は初日の答弁の繰り返しが目立つ。開始から1時間半、18人の委員のひとりが満を持して発言の口火を切った。

「沖縄に先住民の存在を認めないのは、歴史に対し、正しい姿勢ではない」
中国出身のヨングアン・ファン氏だ。日本政府代表が、沖縄の人々はもともと日本人だから先住民とは言えず、人種差別撤廃条約の対象ではない―との趣旨の発言を繰り返したことにかみついた。

 ファン氏は、琉球王国時代に中国の明や清と長い間、深い関係にあり、中国に先祖を持つ入々が「2万人以上住んでいる」として、こう指摘した。
「琉球諸島は1879年に日本によって併合され、沖縄県が設置された。併合後、日本政府は同化政策の下、住民の改名を進め、日本本土から沖縄への移民も促した」
 最後は
「地元の人たちの主張を取り入れ、沖縄の人たち、特に先住民の人たちの当然の権利保護をお願いしたい」
と締めくくった。

 これに日本政府代表は
「沖縄の居住者、出身者は何人も自己の文化を共有し、自己の宗教を信仰・実践し、自己の言語を使う権利は否定されていない」
と同じ答弁を反復し、歴史認識への言及を避けた。

 前日の20日、審査初日。アナスタジア・クリックリー委員(アイルランド出身)は、
「琉球人の伝統的な土地、資源への権利を認めて保障し、彼らに関する政策策定、特に米軍基地問題については初期から地元住民の参加が大切だ。」
と強い口調で求めた。

 日本報告の分析担当者、アンワー・ケマル委員(パキスタン出身)は
「琉球の人たちが自らをどう考え、定義付けているかも重要だ。地元の土地活用に関わる問題は事前に地元住民と協議し、同意を得るべきだ」
と断じた。

 初日の審査開始約2時間前。委員による非政府組織(NGO)への意見聴取が別の会議室で行われた。沖縄県選出の糸数慶子参院議員は辺野古新基地建設を即時中止させるよう訴えた。その隣では、糸数氏が配布した「工事着手」を報じる沖縄地元紙の号外を手にしたファン委員が、真剣な表情で紙面に見入っていた。クリックリー委員は聴取終了後、糸数氏に駆け寄り「基地が女性や子どもの人権を侵害しているという訴えに共感した」と激励の言葉を掛けた。糸数氏は「国連に来て良かった。膝を交えて訴えれば、効果がある」と手応えをかみしめた。

 委員会は8月29日、「沖縄の人々の権利の促進や保護に関し、沖縄の人々の代表と一層協議していくこと」とする「最終見解」を出し、沖縄の民意を尊重するよう日本政府に勧告した。

 日本政府がやっきとなって沖縄差別を否定しているが、沖縄では「構造的差別」「沖縄人(琉球人)差別」などの言葉が広がっている。オスプレイの強行配備や、辺野古での新基地建設など米軍基地問題を中心に、日本政府や大多数の日本国民によって県民の民意がことごとく無視されているとの認識が深まっているからだ。

 上の引用文では沖縄の民意を無視する者として「大多数の日本国民」が挙げられているが、『日本にとって…』は次のように「変化の兆し」を指摘している。

 辺野古新基地建設阻止の闘いは、戦後70年、軍事的な意味での「太平洋の要石」としての役割を押し付けられてきた沖縄が、構造的沖縄差別を打ち破り、自らを、平和な文化的経済的交流の要石に転換させるための「自己決定権」の行使にほかならない。

 しかし、沖縄は、日本全体の100分の1の存在に過ぎない。ましてや、国家権力と、地方自治体の間には、圧倒的な力の差がある。しかも戦後歴代政権の中で、最も強権的で独善的な安倍政権は、恣意的な法解釈の下に、暴力的に基地建設を推し進めようとしている。闘いの成否は、それがどの程度沖縄を越えて、日本、さらには世界に広がるかにかかっている。14年の衆院選の争点や、その結果を見ると、まだまだ沖縄とヤマトの間には、大きなギャップがあるといわざるをえない。とはいえ、確実に変化の兆候も見えてきている。

 闘いの原点ともいうべきキャンプ・シュワブのゲート前の座り込み行動に参加したり、カヌーによる海上での抗議行動に県外から参加したりする人々も、わずかずつではあっても、増え続けている。そうした傾向はすでに10年前の海上櫓の闘いの時から見られ始めていた。連日昼夜にわたる闘いの継続は、地元だけでは困難を極めただろう。

 新基地建設反対の活動を支援するために15年4月に立ち上げられた辺野古基金への寄付金額と寄付件数は、同年9月中旬時点で、約4億5000万円、6万件に上り、その7割は県外からだといわれている。

 辺野古基金には、ささやかながら私も参加した。
《沖縄に学ぶ》(56)

未来へ向かって(3):お手本の一つ「パラオ共和国」(2)


 パラオはアメリカが提示した「自由連合協定」に対してどのような交渉を経て独立を得るに至ったのか。次のような苦節の結果であった。

 「悲しみの涙が喜びの涙に変わった」―1994年10月1日、パラオ共和国は米国の信託統治領から独立し、完全主権国家となった。それまで対立し合っていた人々は分け隔てなく「皆、泣いた」。当時パラオ共和国大統領だった、日系のクニオ・ナカムラ氏(70歳)は、独立宣言の書面にサインした時の感激をこう振り返る。パラオ人同士が傷つけ合う分断や対立を乗り越えた瞬間でもあった。

 パラオでは約10年間、核の持ち込みを米国に認める内容が入った自由連合協定の締結支特派と、締結に反対する非核憲法派が、激しい争いを繰り広げた。争いは米国とパラオとの溝も深め、独立が遅れる要因となり、パラオ内ではいら立ちが募っていた。

 パラオ憲法では、この協定を承認するには住民投票で75%以上の承認が必要だった。住民投票が6回繰り返されたが基準を超えなかったため1992年、協定承認基準を投票総数の過半数に修正することを問う住民投票が実施され、62%が賛成した。パラオ最高裁は憲法修正は有効との判決を下した。

 93年、パラオと米国間の対立を打開するため、クリストファー米国務長官は、自由連合協定に関する書簡をナカムラ大統領に送付した。書簡には、
①パラオヘの基地建設の予定はない、
②パラオに軍を展開するのは有事に限る、
③平時においてパラオの領海・領土を核や化学物質で汚染した場合は責任をもって処理し十分に補償する、
④独立後も財政援助の協議に応じる
と記されていた。

 憲法修正と、この書簡を受けた8回目の住民投票で68%が賛成し、協定は承認された。翌94年、パラオは独立した。

 「今思えば、奇跡だ」。93年から2期8年間大統領を務めたナカムラ氏は就任前、行政職を14年、上院議員や副大統領も歴任した。憲法起草者のひとりでもあり、米国と交渉するための力、経験も豊富だった。ワシントンでの交渉は20回に及び、時には130人の米側弁護団に対し、自身を含め3人で頭脳戦に挑んだ。憲法を重視し「問題が解決しない限り協定にサインしない」と言い放った。米国との交渉は「死ぬまで降参しないという決意で臨んだ」と言う。

 この決意の後ろ盾は、住民投票でパラオ市民が憲法承認に投じた92%の支持だ。「1人ならすぐ負けるが、パラオの人々が支えてくれている」。そう信じ、米国と交渉、信念を貫いた。その態度がクリストファーの書簡につながった ―と振り返る。

 独立から20年。パラオの将来の担い手である若者の海外流出や教育の不徹底を課題に挙げる。経済は発展したものの、伝統文化の継承や自然環境保護が最も重要と述べ、「文化や自然はお金で買えない」と強調した。

 沖縄にも思いを寄せ、エールを送った。「信念を諦めなければ、物事は変えられる。自分らが日本と違うと思うのなら独立もできる。どんなに困難なことも、必ず乗り越えられる」

 パラオは独立に向けて、あるいは独立後に、どのような問題が起こり、それにどのように対処してきたのだろうか。

《開発か、環境保護か》
 沖縄本島中部の「基地の街」のかつての姿を思い起こさせる古い建物やトタン屋根が並ぶ。島の周りには透き通った海が広がる。パラオは海を中心とした観光の島だ。観光客は台湾人や中国人、韓国人、日本人が目立つ。パラオ人の服装は質素だが、若者はヒップホップ風に着飾る。スーパーや飲食店の食べ物はほとんど輸入品だ。

 旅行社で働くパラオ人、ボド・スコボさん(36歳)によると、近年は米国の番組が見られるケーブルテレビがほとんどの家庭に普及し、インターネットや携帯電話などの影響で、ファッションや食べ物も含めてライフスタイルのアメリカ化が進んでいる。大学は短大が1校。パラオ人の平均収入は月約5万円。高収入職や進学を目指したり、アメリカ文化に憧れたりして米国に渡る若者は多いという。

 観光客は1994年の独立時は4万人程度だったが、2004年からは年間7万~9万人台を推移。美しい自然が保たれ、1人当たり消費額の高いリピーターが多いという。

 1999年に台湾と外交関係を結び、支援金を得ているほか、台湾企業の活動が活発だ。米国や日本からの支援金も多い。農・漁業の収穫のほとんどが自家消費用か、国内の小規模市場向けだ。

 有事の際の核持ち込みなどを盛り込んだ米国との自由連合協定に基づくパラオ政府の財政収入は、独立翌年の95年度は150億円近くあったが、その後は減少し、98年度からは年間約20億円台だ。2015年度予算では約13億円で、16年度からはさらに減り、22年度からはゼロにする計画がある。不足分は法人税を上げて賄うという。

 「農漁業、製造業が弱い。地場産業を興す必要がある」。繁華街の一角で22年間、宿泊施設を経営してきた金城文子さん(82歳)はこう語る。父が沖縄出身で、母はパラオ人、自身はパラオで生まれ育った。パラオ人は助け合いの精神が根付いており、若者は失業しても家族・親類に支えられるという。「パラオの経済自立には若者の教育が最も大切だ」と話した。

 パラオ政府は、急速な開発よりも、昔からの暮らしや自然を大切にしながらバランスよく生活向上を図る施策を講じてきた。土地や自然保護、経済活動の面で、権限を発揮している。

 土地には税金を課さず、外国人の所有を憲法で禁じている。サンゴの破壊やごみ投棄に罰則を科す保護策を州が定めたり、観光客が入れる島を制限したりしている。観光客に島への立ち入りや釣りに際して、保護名目の料金を求めている。

 旅行代理店、タクシーやレンタカーなど観光関連業は、パラオ人経営企業しか経済活動を認めていない。外国企業が参入するにはパラオ人の共同経営者が必要となる。パラオ人の優先雇用や地元資本の保護策もある。

 金城さんは「自分たちの土地と自然があるからこそ、自分で立っていける」と、地元保護策を支持し、パラオの将来を若者のチャレンジ精神に託した。

 「アメリカ文化に憧れたりして米国に渡る若者は多い」ということだったが、パラオはどのような教育を目指していたのだろうか。そして現在の教育問題は?

《同化に抵抗、言語保護》
 校門から車で2分ほど草木の中の道を走ると、古い平屋の校舎にたどり着く。教室では、丸刈りの男子生徒、髪を結った女子生徒が机を並べ、真剣な表情で授業を受けていた。パラオの言語、文化、信仰、歴史を教えるパラオ人のための私立高校、モデクゲイ・スクールだ。英語の影響によるパラオ語絶滅の危機が叫ばれる中、パラオ独特の言語や信仰を保護・伝承することを目的に、1974年に設立された。(「モデクゲイ」については後述)

 生徒は、社会で自立できるよう、大工や農・漁業、林業、縫製などの専門技術を学ぶ。一方で、パラオに関する科目「正式言語」「文化と習慣」「歴史」「社会」のいずれかを1日1時間学んでいる。  パラオの公用語はパラオ語と英語だ。全学校で小学3年生までパラオ語、その後は英語で教える。社会科でパラオの歴史を教え、サマースクールで伝統芸能を体験させる。若者のライフスタイルがアメリカ化する中、国内唯一のモデクゲイ・スクールは、パラオの言語や文化を守るとりでの役割を果たしている。

 「モデクゲイ」という初めて聞く言葉に出会った。ネットで調べたら、次のように解説されていた。
『パラオでは古来から多様な占い師、呪術師、シャーマニズムなどが入り込んだ伝統的な宗教が存在したが、このモデクゲイはこれら伝統宗教とキリスト教が混在した宗教である。医療、予言、利財を特色としている。』

 『沖縄の…』は次のように解説している。
 モデクゲイとは、パラオ語で「一つにまとまる」という意味で、古くからある土着宗教だ。第一次大戦後から太平洋戦争までの30年近く、国際連盟からの委任統治領として日本がパラオを統治した際、日本人に抵抗するモデクゲイ運動が活発化した。薬草による病人の治療、預言、パラオ貨幣の製造などで信者を増やした。

 当時、学校では日本語が強要されていた。学校でパラオ語を話すと、子どもたちは棒で打たれた。モデクゲイの信者たちは学校を破壊したり、反日的な歌を歌ったりして、抵抗した。

 これに対し日本政府は、指導者を何度も逮捕、投獄した。1937年時点でほとんどの村や地区の首長はモデクゲイ運動のメンバーだった。日本政府はこれを弾圧し、40年までに運動指導者のほとんどを投獄した。太平洋戦争が終わり、日本が撤退した後、モデクゲイは復活した。

 現在、運動指導者のカリストウス・ワシサさん(69歳)は父親も指導者だった。日本統治時代、父親は逮捕され、土地や財産をすべて奪われ獄死した。父親は日本人から「悪魔」と言われていた。

 90年ごろは3千人いたという信者は現在300人。学校の生徒数も70年代後半~80年代は200人いたが、昨年は40人弱に減り、今年は24人と、創立以来最も少ない。

 ベデビ・チョーカイ校長は生徒の減少理由として、
①私立で学費がかかる、
②道路整備によってスクールバスの利用が進み、学校の選択肢が増えた、
③少子化
を挙げた。
 チョーカイ校長は
「相手を敬って助け合い、社会に貢献するというパラオの精神文化を身に付ければ国際社会を生き抜く強い人になれる」
と確信する。現大統領から生徒を増やす支援の約束を取り付けた。

 男子生徒のアルドリン・ティトウスさん(19歳)は
「パラオ人であるのは誇りだ。将来は政治家か法律家になり、いろんな問題を解決したい」
と声を弾ませる。女子生徒のレオニ・テベラクさん(17歳)は
「パラオは世界でも独特だから好き。将来は企業家になりたい」
と目を輝かせていた。

《沖縄に学ぶ》(55)

未来へ向かって(2):お手本の一つ「パラオ共和国」(1)


(ここからは琉球新報社・新垣毅編著『沖縄の自己決定権』を教科書とします。『沖縄の…』と略称する。)

 本論に入る前に、一つ触れておきたいことがある。沖縄の未来のビジョンを考えるとき、アイデンティティー(identity)という言葉がよく使われるので、この言葉の意味を確認しておこう。

 「オール沖縄」勢力は、2014年の知事選や衆院選で圧倒的な強さを示した。その時の選挙では、「オール沖縄」勢力のビラやチラシの中で、「島ぐるみ」的結束を促すスローガンとして「イデオロギーよりアイデンティティー」というキャッチフレーズが多用された。この場合のアイデンティティーについて、「日本にとって…」がその意味を次のように解説している。

 アイデンティティーという言葉が、民族的アイデンティティーに狭く限定的に使われると、危うささえ持ちかねない。

 だがこの言葉は、より広い意味に使われている。田中優子法政大総長は、翁長知事の「慰霊の日」における平和宣言の中の
「私たち沖縄県民が、その目や耳、肌に戦のもたらす悲惨さを鮮明に記憶している」
という言葉に言及し、
「その身体的な体験が、世代を超えて伝えられ、アイデンティティとして醸成され、それで闘おうとしている。これは民族や地域を超えて非戦につながるアイデンティティです」(『世界』15年9月号)
と受け止めている。確かにこの言葉は、政治党派的立場の違いを乗り越えながら、米軍政下から現在に至る、「平和」、「自治」、「民主主義」を求める闘いの積み重ねを多様な人びとの紐帯にしようという意図が込められていた。

 さて、『沖縄の…』は沖縄の未来(同時に日本の未来)を考える時のお手本としてパラオを取り上げている。パラオはアイデンティティのお手本とも言える。

《パラオの独立》

 パラオ共和国は人口約2万人。520キロにわたり30以上の島々からなる。有人島は9島。面積計約500平方キロ。スペイン、ドイツ、日本、米国の占領統治を経験してきた。太平洋戦争前は沖縄からの移民も多かった。パラオ自治政府が1981年に施行した憲法は世界最初期の非核憲法であり、非武装も貫いている。1994年10月1日に国連信託統治領(アメリカ)から独立した。主な産業は観光である。

 『沖縄の…』は「自己決定権が島を守る」と題して、パラオが独立に至るまでの経緯を、パラオ独立の立役者のおひとりで弁護士のローマン・ベーターさんの活躍を軸にして、次のように解説している。

 1987年9月7日夜、パラオ・コロール州の住宅地で3発の銃声が響いた。電気が止まり、島は闇に包まれていた。満月の光が照らす中、弁護士のローマン・ベーターさん(64歳=当時36歳)の事務所で事件は起きた。
 事務所隣にある父親の家にいたベーターさんは銃声を聞き、急いで事務所に駆け付けた。玄関には血まみれの父親が倒れていた。白いフードで顔を隠した3人の男が赤い車に乗り、現場を立ち去った。翌日、父親は息を引き取った。

 「犯人たちは、父を私だと思って殺害した。父は私の身代わりになってしまった……」とベーターさんは確信した。翌日はパラオ人女性ら28人が「米国の軍事戦略を認めるために違憲行為をした」としてパラオ政府を訴える裁判を控えていた。銃撃はその弁護を阻止する行動に出たとみられた。

 米国を施政国とする国連の信託統治領だったパラオは、「自由連合協定」を米国と結ぶことが独立するための条件とされていた。協定には核兵器の領域内通過や非常時の核貯蔵容認を盛り込んでおり、その是非をめぐってパラオ人同士で激しい対立が起きていた。協定は非核をうたうパラオ憲法と矛盾するからだ。憲法第13条はこう記している。
「戦争に使用するための核兵器、化学兵器、ガスもしくは生物兵器、原子力発電所やそこから生じる核廃棄物のような有害物質は、国民投票数の4分の3以上の承認がなければ、パラオ領域内で使用し、実験し、貯蔵し、処理してはならない」

 米国の支援金と引き換えに締結すベきだとする自由連合協定支持派と、締結に反対する非核憲法派の対立に、米国が圧力を加えた。非核憲法の修正と協定締結を狙い、パラオ政府への財政支援を大幅に削減したのだ。パラオ大統領は島の全就業者の3分の2を占める900人の政府職員を解雇せざるを得なかった。

 憲法派の人々は、解雇された元職員から脅迫電話を受けたり、車、家屋が破壊されたりした。米国の圧力で小さな島の人々は分断され、傷つけ合った。

 父の死から3ヵ月後、ベーターさんは悲しみの底からはい上がり、「島の文化を大切にする」という父の信念を引き継ぐ決意をした。パラオの"分断の象徴"ともいえる父の死を乗り越え、パラオ独立の立役者のひとりとして活躍した。パラオは94年の独立で分断を克服した。

 ベーターさんは20代のころ、太平洋の島々と連帯した非核運動の青年会議で議長を務めた経験もある。マーシャル諸島の核実験被害を「繰り返してはならない」との思いからだ。その時、沖縄の人々とも交流した。70年代には、沖縄での石油備蓄基地(CTS)反対闘争とも環境保護の立場で連帯した。沖縄へこうメッセージを送る。
「私たちは同じ島の人だ。自己決定権こそが、土地、海、人々を守れる。島の人であること、そして日本や中国など大国とは違う存在であることを自覚し、お互いの違いを認め合い、尊重し合うことが大切だ。必ず道は開ける」

 次に、アメリカが仕掛けたパラオ分断の陰謀の中で、非核憲法派指導者のひとりだったベラ・サクマさんの活躍を軸に、パラオ分断を克服していく経緯が語られている。

 ベーターさんの父が暗殺される2年前(1985年6月)にも暗殺事件が起こっていた。殺害されたのはレメリク初代大統領だった。

 核持ち込みを認める代わりに独立と多額な支援金が得られる自由連合協定を米国と結ぶか、それとも非核・非武装憲法を守るか ― をめぐって島は二分された。

 その対立が続いていたある日、非核憲法派指導者のひとり、ベラ・サクマさん(72歳=当時42歳)が帰宅すると、家が焼かれていた。家族は運よく無事だったが、米国人の妻は怖がり、娘と共に米国に帰国、二度とパラオに戻らなかった。

 その時サクマさんは、暗殺された大統領の言葉を思い出した。
「パラオを守るには覚悟が必要だ。子どもたちや将来のパラオ人を幸せにするか、悲しませるかを今の行動が決める。大事な時だ。諦めたら未来はない。」
サクマさんも死を覚悟した。

 非核憲法派の人々が命懸けになった背景には、島の苦しい経験があった。他国による占領、戦争、マーシャル諸島の核実験に、住民は傷ついた。さらに「動物園政策」と呼ばれた米国の支配が続いた。太平洋戦争後、米国はミクロネシア地域を他国に軍事利用させないために排他的な政策を取った。長期間、ミクロネシア地域への出入りを行政官などに限定し、経済活動を徹底管理したのである。

 この状況を脱しようと、パラオの人々は自治を求めた。92%の高支持率で憲法を承認し、米国による国連信託統治の下、1981年に自治政府を勝ち取る。サクマさんは、この歴史の教訓が刻印されている憲法は「パラオ人の精神的支柱だ」と強調する。
「パラオ人には、島は家(ホーム)だという精神がある。米軍基地や核はホームを破壊する。日本や米国は私らを『守ってあげる』という口実で勝手に島を使っただけで、多くの被害をもたらした」

 パラオは非核・非武装憲法を維持したまま、独立を果たす。現在は、米軍の施設は事務所や住宅が数棟だけの小規模施設が1つあるだけだ。実戦部隊はいない。協定で演習場として合意した地域も使われていない。

「僕らは武器は持っていないよ。民間協力だけさ」。
米軍施設のトップ、ジョンソン海軍中将はこう説明する。陸・海・空軍の電気や建築の技術者13人が駐留する。ジョンソン中将も建築が専門だ。実戦部隊が入れないのは、住民の反対が根強いからだとサクマさんは指摘する。
「実戦部隊が来れば、みんなで海岸に立って阻止する」

 サクマさんは現在、非政府組織(NGO)で非核・環境保護運動に取り組む。米国市民からの支援も多く、最近5年間で約8千万円の寄付が集まった。
「子どもや家族、生活を守るには自己決定権が必要だ。パラオは小さいが独立し、大国と同じ権利を持つ国連の一員だ。時代は変わり、国は互いに自己決定権を尊重し合う時代だ。非武装でもやっていける」
と語る。

 沖縄の人々に対しては
「ジュゴンがいるのは太平洋では沖縄とパラオだけだ。海はつながっている。太平洋で同じ船に乗っている。一緒に闘いを続けよう」
と呼びかけた。

《沖縄に学ぶ》(54)

未来へ向かって(1):自己決定権


 最後に沖縄のあり得べき未来を共に考えることで、《沖縄に学ぶ》を締めることにしよう。

 「祖国復帰運動(1)」で、沖縄のヤマト世への復帰運動の理念的意味を考えて、それを「復帰」論と呼んだ。そして、それに対して「反復帰」論や「沖縄独立」論という思想的営み(運動)もあったことを取上げた。改めて簡単にまとめてみると次のようである。

「復帰論」
 〈祖国=日本〉復帰による国家の回復を通して、国家を持たぬ一種の難民状態に置かれている現状を打破しようと試みたのである。その根底には日本国への同化を志向する理念があった。
「反復帰論」
 「日本国」への統合を疑わず、「日本国民」としての同化を至上目的とする「内なる同化志向」を打破しないかぎり、沖縄の精神的な自立は展望しえないと訴えた。しかし、これは単なる復帰(再併合)に対する反対(拒否)を意味したわけではなく、国家としての祖国(日本)を相対化するうえで、琉球(沖縄)の歴史的、地理的、文化的な独自性に依拠しながらも、その異質性や異族性をも相対化しようとする思想的営みである。
「沖縄独立」論
 戦前は琉球処分に対する琉球王国への復国運動として展開されてきた。戦後は、沖縄が日本から受けてきた差別や抑圧に対する批判的な視線と民族自決に基づく自治権の拡大を求めて、沖縄独立をめぐる議論や運動が展開された。

 そして、復帰後の沖縄では、「自立経済」という観点から「沖縄自立論」が議論されるようになった。その基軸になる理念を「自己決定権」と呼んでいる。翁長知事の陳述書にもこの言葉が二度使われている。抜き書きしておこう。

(ⅰ)
 世論調査の結果を見ますと、普天間飛行場の辺野古移設に対する県民の反対意見は、約8割と大変高い水準にあり、オール沖縄という機運、勢いは衰えるどころか、さらに高まっていました。これは、県民が沖縄の自己決定権や歴史を踏まえながら、県民のあるべき姿に少しずつ気づいてきたということだと思います。

(ⅱ)
沖縄は今日まで自ら進んで基地のための土地を提供したことは一度もありません。まず、基地問題の原点として思い浮かぶのが1956年のプライス勧告です。プライスという下院議員を議長とする調査団がアメリカから来まして、銃剣とブルドーザーで接収された沖縄県民の土地について、実質的な強制買い上げをすることを勧告したのです。当時沖縄県は大変貧しかったので、喉から手が出るほどお金が欲しかったと思います。それにもかかわらず、県民は心を1つにしてそれをはねのけました。そして当時の政治家も、保守革新みんな1つになって自分たちの故郷の土地は売らないとして、勧告を撤回させたわけです。今よりも政治・経済情勢が厳しい中で、あのようなことが起きたということが、沖縄の基地問題を考える上での原点です。私たちの先輩方は、基地はこれ以上造らせないという、沖縄県の自己決定権といいますか、主張をできるような素地を作られたわけであります。


  また、陳述書では知事選挙の公約をまとめたくだりがあるが、そこには沖縄の未来のビジョンが提示されている。そのビジョンは『「自立経済」という観点からの「沖縄自立論」』と捉える事もできよう。

 沖縄県知事選挙にあたり、公約について以下を基本的な認識として訴えました。

○建白書で大同団結し、普天間基地の閉鎖・撤去、県内移設断念、オスプレイ配備撤回を強く求める。そして、あらゆる手法を駆使して、辺野古に新基地はつくらせない
○日本の安全保障は日本国民全体で考えるべきものである
○米軍基地は、今や沖縄経済発展の最大の阻害要因である。基地建設とリンクしたかのような経済振興策は、将来に大きな禍根を残す
○沖縄21世紀ビジョンの平和で自然豊かな美ら島などの真の理念を実行する
○アジアのダイナミズムに乗って動き出した沖縄の経済をさらに発展させる
○大いなる可能性を秘めた沖縄の「ソフトパワー」こそ、成長のエンジンである
○新しい沖縄を拓き、沖縄らしい優しい社会を構築する
○平和的な自治体外交で、アジアや世界の人々との交流を深める


 さて、『日本にとって沖縄とは何か』の最終項は「沖縄独立論をどう考えるか」である。それを読んでみる。新崎さんは
「最後に沖縄(琉球)独立論について触れておこう。現在沖縄では、県知事が語る言葉の中にも、地元紙にも「自己決定権」という言葉が溢れている。「琉球民族独立総合研究学会」といった学会も立ち上げられている。では、沖縄民衆の多くが独立を求めているのだろうか。」
と問いかけて、琉球新報と沖縄テレビが共同で行った世論調査(15年6月3日付琉球新報)から次の2項目を取り上げている。

「沖縄の自己決定権についてどう考えるか」

 自己決定権を大いに広げていくべきだ(41.8%)

 自己決定権をある程度広げていくべきだ(46.0%)

 自己決定権を広げる必要はあまりない(6.8%)

 自己決定権を広げる必要はまったくない(2.4%)

 分からない(3.0手%)

「今後沖縄は、どのようにあるべきだと考えるか」

 現行通り日本の中の一県のままでいい(66.6%)

 日本国内の特別自治州などにすべきだ(21.0%)

 独立すべきだ(8.4%)

分からない(4.0%)

 新崎さんは次のようにコメントしている。

 「自立」は必ずしも「独立」ではない。ナショナリズムに依拠する性格が強かった復帰・返還運動から出発した沖縄闘争が、ナショナリズムを取り込んだ72年沖縄返還政策を打ち破れなかった歴史的教訓にも学ばなければならないだろう。

 もう一つ、辺野古の現場で、カヌーに乗って海上抗議・阻止行動に参加している小説家・目取真俊の言葉を引いておこう。

「米軍基地は必要だが自分たちの所にあると困るので沖縄に押しつけておきたい、というヤマトウンチュー(日本人)の多数意思が、安倍政権の沖縄に対する強権的な姿勢を支えている。
 そういう日本政府やヤマトウンチューには見切りをつけて、沖縄は独立すべきだという声もある。普天間基地やキャンプーシュワブのゲート前で体を張ってたたかっている人たちがそう口にするなら共感もするが、評論家然として机上の議論を弄ぶ者たちのそれは現実逃避でしかない。辺野古や高江で起こっている問題すらウチナンチュー(沖縄人)が自己決定できずして、独立など夢物語にすぎない」(『越境広場』創刊0号、15年3月)

 独立論に関しては、沖縄よりもヤマトのジャーナリズムの方が関心が高いようにもみえる。だが、構造的沖縄差別は、日本の対米従属が生み出した結果でもある。日本の論者は、沖縄独立論に傍観者的関心を示す前に、日本が惰性的対米従属の仕組みから離脱することに主体的責任を感じ、行動すべきではないのか。まさに、「日本にとって沖縄とは何か」が問われているのである。


《沖縄に学ぶ》(53)

機密文書「日米地位協定の考え方」(10):内容の検証(7)


《米軍の違法を合法にするための法改正》

 前泊さんは『PART2「日米地位協定の考え方」とは何か』を終えるに当たって「最後に米軍の国内法違反を法改正によって「合法化」したという話をご紹介しましょう。」と述べている。その話とは「村雨橋の闘争」と呼ばれている事件である。その事件の経緯は「BLOGOS」というサイトの記事『忘れてはいけない「村雨橋の闘争」』で読むことができるが、ここでは前泊さんによる解説をそのまま転載しておこう。

 1972年8月5日、横浜市での話です。横浜市の近くには米軍相模原補給廠(相模原市)があって、ベトナム戦争のときに破壊されたり故障したりした米軍戦車や兵器を、補給廠に運んで修理して、またベトナムに送り返すという作業が行なわれていました。

 その日も修理を終えた米軍M48戦車が、大型トレーラーにのせられて横浜港桟橋に待つベトナム向けの輸送船に陸送されていました。ところが大型トレーラーが横浜港のノースドックにつながる村雨橋の手前に差しかかったところで、市民団体によってゆく手をはばまれてしまいます。「大型トレーラーは重量オーバーで、市道が損壊される」というのが公の理由でした。

 根拠となっていたのは「車両制限令」という法律でした。車両制限令というのは、道路が壊れたりしないように「道路構造上の限界を超える重量、路帽を超える車両の通行を制限」する法律です。市道の構造を超える過重量の戦車をのせた大型トレーラーの通行は法令違反になるとして、当時の横浜市長(飛鳥田一雄:後の社会党委員長)が市道の使用を許可しないとしていました。

 戦車をのせた大型トレーラーは、二日間も足止めされ、結局、相模原補給廠に引き返しました。「国内法が米軍にも適用されることを確認した」として、いまも語りつがれている事件です。

 しかし問題はそのあとでした。国内法による米軍の行動規制に、焦った日本政府、外務省は、戦車を足止めした「法的根拠」の解消に動きます。2カ月後の10月17日、政府は車両制限令の一部改正を閣議で決定します。その中身は、「制限令の適用除外」を定めるというものでした。

 閣議で決定された適用除外の内容を、ご紹介しておきましょう。
「〔車両〕制限令の適用除外を、現行の緊急車両のほか、たとえば自衛隊の教育訓練、警察部隊活動の訓練また消防訓練に使用される車両など、公共の利害に重大な関係がある車両および米軍車両におよぼす」(官房長官談話一:1972年10月17日)
 自衛隊や消防車の訓練時に使えないと困るからというのが表向きの理由ですが、まるでつけたしのように最後に書かれている「米軍車両」という言葉を入れるのが最大の目的だったことが、次の文面からわかります。
「(官房長官談話)二、政府は8月上旬、米軍車両の通行・輸送の問題が生じてから現行法令の範囲内で円満に事態の解決がはかられるよう、努力を傾けてきたのであるが、許可権をもつ道路管理者が道路の管理・保全上の理由以外の理由をもって通行ないし輸送の許可を保留するなど、法の適正な運用が阻害される状態が生じるにいたった」
 そしてこう説明をつづけます。
「(官房長官談話)三、政府は種々検討の結果、わが国は条約上、米軍に対し、国内における移動の権利を認めており、他方、車両制限令の他の特例との比較においても米軍車両を適用除外とすることは当然であるとの観点から今回の改正を行なうにいたった」

 つまり、米軍の国内における移動を邪魔するような法律は、改正して米軍の特権を保障したということです。しかも問題が起きてから法改正まで、わずか2ヵ月という迅速な対応をしています。驚きです。

 この結果、
「たとえ市町村の道路が過重量の車両の通行で壊れることがわかっていても、米軍車両なら黙って通しなさい」
という、米軍の特権が法的にも合法化されることになりました。

 では『PART2「日米地位協定の考え方」とは何か』のまとめの記事
《欠陥が多すぎる協定》
を読んで『機密文書「日米地位協定の考え方」』を終わることにしよう。

 沖縄県は、なぜ地位協定の改定に熱心なのでしょうか。それは、日本にある米軍専用施設の74%が、日本の国土面積の0.6%に過ぎない沖縄県に集中して配置されているという過重負担の現状が背景にあります。

 米軍基地の74%が集中しているということは、米軍の基地・米兵犯罪被害の大半が沖縄県に集中しているという現実にぶつかります。そして、その被害を未然に防止したり、犯罪を抑止するためにも日米地位協定の「実効性」が必要というわけです。

 ここで大切なポイントです。沖縄県民はすべて米軍基地に反対しているというわけではありません。現在の知事である仲井真弘多さんは、日米安保を重視する自民党の支持を受けて当選しています。米軍基地の必要性は認めているのです。それでも、日米地位協定については改定を強く求めています。

 沖縄県の「改定要望書」にある次のような記述からも、そのことがうかがえます。
「(沖縄にある)広大な米軍基地の存在は、計画的な都市づくりなど振興を促進するうえで大きな制約となっているほか、さまざまな事件・事故の発生や環境問題など県民生活に多大な影響をおよぼしております。(略)米軍基地から派生する諸問題の解決をはかるためには、米軍基地と隣りあわせの生活を余儀なくされている周辺地域の住民や地元地方公共団体の理解と協力を得ることが不可欠であると考えます」

 広大な米軍基地があることで沖縄は都市計画もままならず、事件・事故、環境問題でも被害を受けている。それなら「全米軍基地の撤去」といってもいいはずですが、仲井真知事は米軍基地の撤去についてはふれていません。「諸問題の解決」を提案し、そのためには基地周辺住民や市町村の「理解と協力を得ることが不可欠」と、まるで基地存続のためのアドバイスをしているようにも読めます。

 そして、理解と協力のためには次のようなことが必要だとのべています。
「そのためには、個々の施設および区域〔米軍基地〕に関する協定の内容について、地方公共団体から要請があった場合、地元の意向を反映できるような仕組みを明記することが必要であり、施設および区域の返還についても同様であります。さらに個々の施設および区域の使用範囲、使用目的、使用条件等、運用の詳細を明記する必要があると考えます」

 米軍基地には、地元の意向も反映できるような仕組みが必要だ。どんな使い方がされているのか外からはまったく見えないような、現状のような米軍基地の運用は改めた方がよい。そういって、要望するふりをして基地存続のためのアドバイスをしているのです。

 敗戦によって駐留を開始したはずの米軍が、サンフランシスコ講和条約によって「主権国家」となった日本の国内に、すでに70年近くも駐留しつづけています。あきらかに異常な「平時における外国軍の長期駐留」に対し、「米軍の〔法的〕地位を明確に律するため地位協定が必要となった」と、「日米地位協定の考え方」(増補版)は地位協定が結ばれた経緯を説明しています。しかし肝心の「米軍の撤退時期」についてはなにも書かれていません。

 そのうえ、すでにふれたように「在日米軍」については、実は「安保条約や日米地位協定上なにも定義がない」ことを、外務省の作成した「日米地位協定の考え方」自身が認めているのです。そのため本来、厳重な規制の対象であるべき在日米軍は、解釈次第でどのような権利ももてる、まさに超法規的存在となっているのです。