2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《沖縄に学ぶ》(52)

機密文書「日米地位協定の考え方」(9):内容の検証(6)


《日本国民を守らない外務省の「犯罪」》

 地位協定第17条(刑事裁判権)の5項(a)は次のような条文である。
「日本国の当局及び合衆国の軍当局は、日本国の領域内における合衆国軍隊の構成員若しくは軍属又はそれらの家族の逮捕及び前諸項の規定に従って裁判権を行使すべき当局へのそれらの者の引渡しについて、相互に援助しなければならない。」

この項に関わるマニュアルの(注152)に次のような説明文がある。

(注152)
 日本国籍を有する地位協定該当者たる米軍人による米軍法上の逃亡罪について政府は、このようないわゆる脱走日本人米兵についても協定第17条5項(a)の逮捕協力義務があるが、具体的事案の解決については善処したい旨答弁している(なお、日本国民たる米軍人が我が国以外の地で脱走した後に我が国に入国したような場合はそのような米軍人は地位協定該当者ではないので我が国政府に協定第17条5項(a)に基づく逮捕協力義務がないことについては第1条の項の4参照)。

 また、これまでに米側が日本国民につき協定第17条5項(a)に基づく逮捕協力を要請してきたことはない。
(過去に国会でも問題にされた脱走日本人米兵のうち二見寛については脱走後に我が国に入国したケースであるが、結果的には自発的に渡米し原隊復帰したものであり、清水徹雄については休暇中に我が国で脱走したケースであるが、米側との協議の結果、米側より先例とはしないとの保留つきながら、本件には特殊な事情もあるので、逮捕協力の要請は行わない旨連絡越た経緯がある。)
(「連絡越した」という変な文があるがそのまま転載した。)

 ( )内に書かれている二人の脱走日本人米兵については私は全く知らなかった。二見寛(ふたみかん)さんについては「結果的には自発的に渡米し原隊復帰した」と説明しているが、ここに外務省の「犯罪」が隠されている。前泊さんが詳しく解説しているので後にそれを読むことにする。
 清水徹雄さんについてはネット検索をしてみた。毎日新聞「憲法のある風景」という特集の第1回目の記事(2016年1月1日)『9条に迷い救われ 被爆、渡米、ベトナム戦、脱走 日米の間に生きた』が清水徹雄さんの人生を詳しく取上げていた。もう一つ、「談話室」と言うサイトの『チャールズ・ジェンキンズ氏についての英語掲示板など、ご存じないでしょうか。』という記事に清水徹雄さんの脱走の顛末が簡略にまとめられていた。ここでは後者を転載しておく。

【清水徹雄さんの事件】
 清水さん(1945年生まれ)は、広島市出身の日本人。66年渡米。67年に米国陸軍に徴兵、ベトナム戦争に派遣され、最前線のキャンプ・アヴエンス基地で戦闘に参加。68年9月、帰休で日本に戻ったとき、戦争参加が安易だったことを反省、米軍からの脱走を決意、べ平連(ベトナムに平和を!市民連合)の支援を求めた。「清水徹雄君を支持する会」や「支持する弁護団」などが結成され、米国大使館、日本政府などに働きかけ、結局、12月14日、米大使館スポークスマンは、「慎重に検討した結果、清水君の逮捕を日本当局に要求しないことに決定した」と発表、事件は落着。

 この間、清水さんの行動への賛否両論が、マスコミの投書欄などをにぎわせた。日本政府はこの問題に何の動きも見せなかった。この間、鶴見俊輔さんは、清水さんが逮捕される可能性もあることを覚悟しながら、京都の自宅にかくまった。

 本文の方では、この決着について
「日本世論の動向に配慮したのでしょう、逮捕を要求しないことにしたのでした。法律や条約の問題ではなく、政治的配慮のレベルのことでした。」
と解説している。「…考え方」では全て外務省の交渉の結果みたいな書き方をしていて全く触れていないが、べ平連による働きかけの成果だった。

 さて、二見さんの場合はどのような経緯をたどったのだろうか。少し長いが、前泊さんの解説を全文転載する。

 地位協定の適用をめぐるやりとりのなかで、「日本国籍」をもつ「脱走米兵」の身柄を、本来は日米地位協定が適用されない身分にもかかわらず、地位協定を適用してアメリカに引き渡すという事件も起きています。

 この事件は日本政府と外務省が「国民も守れないのか」と大きな批判を受けた事件として、「考え方」のなかにしっかりと記録されています。

 事件は1966年3月に起きました。アメリカに出稼ぎに行っていた日本人青年の二見寛さんが、当時、アメリカの長期滞在者にも適用される「普通軍事訓練および兵役法」によって米軍に徴兵されてしまいます。そしてベトナム戦争に派遣されることになったのです。

 徴兵された二見さんはベトナム戦争に派遣され、死ぬかもしれないという不安と恐怖、そして日々くり返される激しい戦闘訓練に耐えられず、軍を脱走してカナダに亡命します。ところが、カナダ政府は日本人の亡命を認めていなかったため、本人の希望にそって同年4月に日本に強制送還しました。

 強制送還された二見さんは千葉県の親戚の家に身を寄せます。しかしその二見さんについて米軍は、
「脱走した米兵の身柄を引き渡してほしい」
と外務省に対して、日米地位協定をもとに身柄の引き渡しを求めます。その結果外務省は、日米地位協定にもとづいて二見さんの身柄をアメリカに送り返してしまったのです。

 ここからは一連の出来事を、「二見寛事件」と呼ぶことにします。

 二見寛事件は国会でも大きな問題になりました。事件には地位協定上の問題にかぎらず、日本の政治、行政、司法がかかえるたくさんの問題がふくまれていたからです。

 まず、第一が「アメリカに日本人を徴兵させたこと」です。現在は、日本人が外国に長期間滞在したとしても、滞在国で徴兵され兵役に服すようなことも、戦場に送りこまれることもありません。しかし、当時はそれが許されていたのです。原因は外務省の失態でした。タイやインドネシアなど、諸外国とは結んでいる「軍事服役免除」条約を、政府がアメリカとの間で締結していなかったために徴兵されてしまったということが、国会論議であきらかになりました。

 いったい何人の日本人が徴兵されてベトナム戦争に送りこまれたのか。当時の国会で事実関係を問われた外務省は、「把握していない」とあっさり答えています。国民の命にかかわる重大な条約を結びそこねたうえに、徴兵された国民の数もわからないというのですから、まったく話になりません。このように相手がアメリカの場合、日本ではどう考えてもおかしなことが平気で起こってしまうのです。

 第二の問題は、「本来適用されない在米米兵への日米地位協定の適用」です。日米地位協定は第17条5項で脱走米兵の身柄引き渡しを決めています。外務省は「脱走日本人米兵についても第17条5項(a)の逮捕協力義務がある」と説明していますが、一方で外務省は「地位協定の考え方」のなかで、『わが国以外の地で、脱走後、わが国に入国した場合は、地位協定該当者ではないので、逮捕協力義務はない」と明確に答えています。

 二見さんはアメリカで脱走しています。しかも身分は「アメリカ本国の軍隊に所属」していて、「在日」米軍所属が対象となる逮捕協力義務は発生しないはずです。それなのに、外務省は実際には日米地位協定を適用して二見さんを米軍に引き渡していたのです。

 この問題を国会で指摘された外務省の答は、こうでした。
「これまで米側が日本国人につき、同項にもとづく逮捕協力を要謂してきたことはない」

 では、二見寛事件は?
「結果的には自発的に渡米し、原隊に復帰した」

 こんな説明をだれが信じるというのでしょう。

 第三の問題に入りましょう。「国際法無視」の問題です。たとえ地位協定で決めていたとしても、国際法上は「自国民不引き渡し」原則があり、自国民の生命を各国政府は最優先に考え、主張できる権限を認めています。ところがこの「自国民不引き渡し」原則に反して、外務省は自国民を引き渡してしまっています。
「地位協定で決めてあっても、国際法にもとづいて自国民を保護します」
と強く主張すれば、二見さんはアメリカに引きもどされることもなかったはずです。軍事服役免除条約を結び損なったとしても、自国民の命は国際法で守れたはずです。国際社会から「日本は自国民をアメリカの兵役にすら差し出すお人好し国家」とみられているかもしれません。

 第四の問題は、「憲法違反」です。日本国憲法は第9条で『戦争の放棄、軍備および交戦権の否定』という平和条項をもっています。それにもかかわらず、政府・外務省は日本国民である青年を結果として米軍隊への入隊を強制して、「ベトナム侵略戦争への参加を意識的に強要した」と国会で追及されました。

 「考え方」のなかで、外務省は「日本国民である米軍人がわが国以外の地で脱走したあとに、わが国に入国したような場合は、そうした米軍人は地位協定該当者ではないので、わが国の政府に協定第17条5項(a)にもとづく逮捕協力義務がない」と明記しています。ところが実際には、外務省が二見さんの逮捕に協力したにもかかわらず、二見さんは「結果的には自発的に渡米して原隊復帰した」(前出)と説明しています。国会審議をみると、外務省は二見さんに対して原隊復帰しないと今後はアメリカの永住権もとれなくなるなどと言って、説得していたことがわかっています。亡命までした人が自発的に渡米して原隊復帰するというのは、そもそも考えにくい話です。

スポンサーサイト
《沖縄に学ぶ》(51)

機密文書「日米地位協定の考え方」(8):内容の検証(5)


《銃刀法違反も合法?》

  フェンスと鉄条網にかこまれた米軍基地のゲートを守っている人は日本人で、その人たちは一般の民間人なのに銃を持っている。戦争のために日々訓練をしている米兵など戦闘のプロ集団を、日本の民間人が守っているというおかしな事が行なわれているのだ。前泊さんは次のように問いかけている。
『こうした民間人が銃をもって米軍基地のゲートを守っていることが、国会でとりあげられ、問題になったことがあります。当然です。日本の銃刀法では民間人の銃の携帯は禁じられています。それなのに、米軍基地警護では認められているのはなぜなのか。さっぱりわけがわかりません。この民間人が発砲してだれかが怪我をしたら、どんな罪になるのでしょうか。』

 これは地位協定の第3条(施設・区域内の合衆国の管理権)の第1項に関わる問題である。その条文は次のようになっている。


 合衆国は、施設及び区域内において、それらの設定、運営、警護及び管理のため必要なすべての措置を執ることができる。日本国政府は、施設及び区域の支持、警護及び管理のための合衆国軍隊の施設及び区域への出入の便を図るため、合衆国軍隊の要請があつたときは、合同委員会を通ずる両政府間の協議の上で、それらの施設及び区域に隣接し又はそれらの近傍の土地、領水及び空間において、関係法令の範囲内で必要な措置を執るものとする。合衆国も、また、合同委員会を通ずる両政府間の協議の上で前記の目的のため必要な措置を執ることができる。

 マニュアルではこの問題については、「基地内で日本の法令が適用されるか否か」を論じている部分の(注42)の中で取上げられていて、次のように記載されている。
(前泊さんが「国会でとりあげられ、問題になったことがあります」と書いているが、その該当部分を赤字で示した。また、年号は西暦に書き換えた。)

(注42)
 施設・区域内における我が国内法の適用問題との関連で、施設・区域の警護に当たる日本人警備員が米軍の命により施設・区域内で銃砲を携行していることと銃砲刀剣類所特等取締法との関係が問題とされたことがあるところ、本件に係る1983年4月1日付けの瀬長亀次郎議員提出の質問主意書に対し、政府は、「日本人警備員の行動については、我が国の関係法令が適用される」が、「米軍は、国会の承認を得た日米地位協定第3条1項に基づいて施設・区域の警護のための必要な措置として日本人警備員に銃砲を携帯させることができるものであり、同項に基づく銃砲の所持は、銃砲刀剣類所持等取締法第3条第1項第1号の「法令に基き職務のため所持する場合」に該当するものと考える。」と答弁している。右答弁書に対してはその後それ以上の追求が行われていないが、右答弁書の論理は、地位協定はあくまでも条約であって、米軍の日本人警備員の銃砲保持を認める明文の国内法令はないのだから、かかる銃砲の保持が「法令に基き職務のため所持する場合」に当たるとはいえないのではないかとの質問を惹起し得る

 このような問いに対しては、銃砲刀剣類所持等取締法自体の解釈の問題として、同法第3条第1項第1号の「法令に基き職務のために所持する場合」とは、法的な根拠に基づいて職務のために所持するという趣旨であるところ、国会の承認を得た地位協定第3条に基づいて米国が施設・区域の警護のための必要な措置として日本人警備員に銃砲を携行させることは米国の権利として認められるところであり、かかる場合の銃砲の所持は法的な根拠に基づくものとして、「法令に基き職務のため所持する場合」に該当すると答える他ないと思われる。

 なお、外務省は、右のような問題点にもかんがみ、また、将来銃砲刀剣類所持等取締法以外の法令であって同法第3条第1項第1号のような規定を有さないものとの関係でも同様の問題が提起され得ることも勘案し、むしろ同法第3条第1項第1号に依拠することなく、日米地位協定第3条1項に基づいて米軍がとり得る「警護のため必要な措置」の一環として日本人警備員が銃砲を携行して施設・区域内の警備に当たる行為は、形式的には銃砲刀剣類所特等取締法に抵触し得るが、刑法第35条にいう「正当ノ業務二因リ為シタル行為」として違法性が阻却されるとの考え方を法制局に示したが、1952年に当時の林法制局次長より前出の答弁書と同様の考え方に基づく答弁が行われており(第15回国会・衆・外・10号・9頁ー10頁)、瀬長質問主意書に対しては同答弁と同様銃砲刀剣類所特等取締法の解釈を答えておけば足るのではないかとの理由により、採用されるに至らなかった経緯がある。

 国会での追及に対する政府や外務省の答は「地位協定第3条1項にもとづく米軍基地の警護に必要な措置で、銃刀法第3条1項1号の法令にもとづき、職務のために所持する場合に該当する」というものだったが、その答弁に対しては「地位協定はあくまでも条約で……米軍基地の日本人警備員の銃砲保持を認める明文の国内法令はない」と、その論理の脆弱性を危惧している。そして、「明文の国内法令はないのだから、かかる銃砲の保持が『法令に基き職務のため所持する場合』に当たるとはいえないのではないかとの質問を惹起し得る」と心配している。以下で、そうした質問に対する回答を吟味しているが、結局は「『法令に基き職務のため所持する場合』に該当すると答える他ないと思われる」とさじを投げている。

 外務省が「…質問を惹起し得る」と危惧していた質問が約20年後に国会で取上げられた。前泊さんの文章をそのまま引用する。

 事実、結果はその通りになり、2003年2月の国会(衆院予算委員会)で「民間人が軍人を、銃によって守る。どう考えてもおかしい」(東門美津子衆院議員=当時)という質問が出ていました。

 外務省は「形式的には銃刀法に抵触しうるが、刑法第35条の『正当の業務によりなしたる行為』として違法性が阻却(退けること)される」との考え方で、国会答弁をのりきろうとします。ところが内閣法制局は、そんな答弁では無理があるとして却下します。結局、政府は答弁には無理があると認識しながらも、「『法令にもとづき職務のために所持する場合』に該当すると答えるほかない」として、国内法違反でも地位協定で定めた米軍の特権を守るために、法律の解釈までもねじ曲げている実態がわかりました。

《沖縄に学ぶ》(50)

機密文書「日米地位協定の考え方」(7):内容の検証(4)


《思いやり予算》

 『沖縄問題の本質(4):日米合同委員会(2)』で、アメリカ大統領選の共和党候補トランプの「日本が在日米軍の駐留経費を大幅に増やさなければ、在日米軍を撤退させる」という発言を取上げて、「在日米軍の撤退」賛成という意見を述べたが、今回はトランプが少なすぎるとほざいている日本負担の駐留経費がメインテーマである。

 「思いやり予算」については『60年「改定安保」の問題点(3)』で、安保条約の第6条の検討として取上げている。また、『沖縄返還交渉(3)』では、安保条約・第6条に基づいて設定された地位協定の第24条(経費の負担)の「"ゆるやか/リベラル"な解釈」による「思いやり予算」の拡大化を取上げた。

 今回改めて地位協定の第24条を読んでみたが、この条のマニュアルの中に「"ゆるやか/リベラル"な解釈」の根拠になっている記述に出会った。「既存の施設・区域内において日本側が、自らの経費負担において新たな建物等を建設して米軍に追加提供する」ケースについて、次のように記述している。
『米側から右の如き措置を日本側の負担で行なうべき旨要請された際、いかなる基準で日本側が諾否を決めるかといえば、これは安保条約の目的達成との関係、わが方の財政負担との関係、社会経済的影響等を総合的に勘案の上個々の事案に即して判断するといわざるを得ない。』

 追加施設の問題に限らず、どのような事案についても一定の規定はなく、個々についてはその都度、日米合同委員会での合意 ―勿論米軍優遇の「妥協の産物」としての合意― で決められているのだろう。実際に行なわれている「思いやり予算」の中身を具体的に見てみよう。

<米軍基地の土地代>
 本土にある米軍基地はほとんどが国有地の提供である。しかし沖縄の場合は、6割が県や市町村の土地であるが、あとは「銃剣とブルドーザー」で取上げられた民間人の所有地である。そして、そうした土地の借地料は、日本政府が負担している。そのうえで、日本政府は米国基地用の土地の賃貸借契約の手続きを代行し、嫌がる地主に金を積み、それでも拒否する地主には憲法が保障する財産権すら侵害する「軍用地特措法」という特別な法律をつくってまでも土地をとりあげ、米軍に提供しつづけている。このような措置は全て地位協定が根拠になっている。

<基地内の施設>
 米軍基地の地代だけでなく、駐留米軍の兵舎や米軍機の格納庫。滑走路のかさ上げ費用、兵士の食堂、トレーニングジム、体育館、軍人・軍属の家族向けの小中高校、政教分離にひっかかりそうな教会までもが、日本国民の税金を投じて建設し、提供されている。前泊さんは言う。
『狭い木造住宅を「ウサギ小屋」「鶏小屋」と笑うその国の軍隊に、国民の倍の広さの住宅を建設・提供し、自衛隊員は半分の狭い隊舎で我慢させられています。まったくおかしな状況です。』

<基地内で使う電気・ガス・水道代>
 さらに、米軍が基地内で使う電気料金、ガス料金、水道料金なども日本国民の税金で支払ってあげている。水道料金は沖縄の基地分だけで年間25億~30億円。別に下水道維持管理費が3億~4億円補填されている。しかも
『自分が払う必要のない軍人たちは、「暑い部屋にもどりたくない」と、クーラーをつけたまま外出するといいます。なかには換気のため、旅行中もつけっぱなしというケースもあるようです。』
といった勝手な使い方もされていて、軍隊が使用する電気代は、沖縄だけでも毎年100億円を超えているという。

<自動車関係の優遇措置>
 米軍関係者の車には「Yナンバー」というナンバープレートがついている。このナンバープレートをつけた自動車に対しては自動車税を国民の5分の1に減免している(「Y」はこの制度が横浜で始まったことでつけられた記号)。一般国民は排気量2000ccで、年間3万5000円程度の自動車税を払っているが、駐留軍兵士やその家族はなぜか一律7500円に減額されている。Yナンバーは、沖縄だけでも2万5000台を超え、米軍関係車両の税免除分は年間10億5000万円を超えているという。米軍用車両は、高速道路料金も日本側負担であり、これも沖縄分だけでも年間2億4000万円の負担となっている。

 もともと米軍の車両にはナンバー・プレートはなかった。米軍の車両がナンバー・プレートをつけるようになったのは、1995年に起きた少女暴行殺人事件のあと、沖縄県民の怒りを沈めるための日米両政府によるあの「SACO」合意の時からである。「SACO」合意の中に自動車関連の合意が次のように2件ある。
米軍の公用車両の表示
 米軍の公用車両の表示に関する措置についての合意を実施する。全ての非戦闘用米軍車両には平成9年1月までに、その他の全ての米軍車両には平成9年10月までに、ナンバー・プレートが取り付けられる。

任意自動車保険
 任意自動車保険に関する教育計画が拡充された。さらに、米側は、自己の発意により、平成9年1月から、地位協定の下にある全ての人員を任意自動車保険に加入させることを決定した。

 この二つの「SACO」合意がなぜ必要だったのか。そして、この合意後の実施状況はどうなっているのか。前泊さんの解説をそのまま転載する。

 (「SACO」合意によって、)1997年からナンバー・プレートの設置を米軍車両に義務づけるようになったのです。それでも沖縄ではナンバー・プレートなしで国道や県道などの公道を走る米軍車両がたびたび目撃されています。ナンバー・プレートなしの米軍車両が、国道や県道など公道で接触・衝突事故、人身事故を起こしても、軍用車両の場合は、カーキー色などの同じ色に同じ型の車両が多いため、特定するのがむずかしい。ですから米軍車両へのナンバー・プレートの設置はどうしても必要なのですが、まだ不十分というのが実態です。

 米軍の車両に交通事故を起こされた場合、保険がかかっていないため、十分な補償がなされず、泣き寝入りを余儀なくされるケースもよくあります。これも1997年にようやく軍が保険の加入義務化を表明しましたが、実施状況はいまだにはっきりしません。「改善」が決まっても、日本政府がそれを確認しないため、実際に実施されているかどうか、よくわからないのです。

 税収難を理由に消費税増税に乗りだした野田政権ですが、在日米軍には「思いやり予算」と呼ばれる特別経費などもふくめ、毎年約2500億円が国費から支出しつづけられています。そのうち1800億円が、「思いやり予算」といわれる、地位協定上もまったく支払う義務のない費用なのです。

 消費税増税が出てきたので、ちょっと横道へ。

 アベコベ軽薄姑息うそつきオカルト政権は消費税を5%から8%に引き上げたが、その増税分の3%は社会福祉の充実に当てるのじゃなかったけ?

 実際は次のようなのだ。(「しんぶん赤旗」の記事『「指標でみるアベノミクスの姿 安倍首相は自賛するが…(2016年6月18日(土)付)』からの引用です。)

 安倍政権が13~16年度の4年間に削減した社会保障の「自然増」(国費)は、1兆3200億円にのぼります。介護報酬の大幅削減や生活保護費の切り下げなどによるものです。「介護難民」「医療崩壊」をもたらした小泉「構造改革」を上回る削減額です。

 さらに、これとは別枠で、年金・医療・介護の給付を1兆9200億円も減らしました。年金支給額を3.4%切り下げて1兆7000億円削減。70~74歳の患者負担2倍化や、介護保険への2割負担導入などで2200億円削りました。

《沖縄に学ぶ》(49)

機密文書「日米地位協定の考え方」(6):内容の検証(3)


《「裁判権」を放棄した外務省》

 「…考え方」では「伊江島事件」と呼んでいる事件がある。この事件は沖縄では被害者の名前(匿名)をとって「Y君事件」と呼ばれている。前泊さんはその事件の概要を次のように記録している。


 事件は沖縄が本土に復帰した2年後、1974年の7月10日午後6時に伊江島の米軍射爆場で起きました。米軍の演習終了を告げる赤旗が下ろされるのを確認したあと、村民40人といっしょに草刈りに入ったYさん(当時20歳)が、突然現れた二人組の米兵にジープ型の車で追いまわされ、信号銃で狙撃されたのです。顔を狙い撃ちされたYさんが、手で顔をおおって防いだところ、銃弾は左手首に命中し、骨折する大けがを負いました。

 前泊さんは、地位協定に関連して外務省が行なってきた数々の「犯罪的行為」の中でも、この「Y君事件」はその代表的な事件であり、この時「日本国民の人権が根本から侵害されたのです」と述べている。

 「…考え方」の中にこの事件についての記述がある。地位協定第17条(刑事裁判権)に対するマニュアルの「第一次裁判権の不行使」という項の(2)で、次のように記載されている。

(2)
 第一次裁判権の不行使は、相手側の要請に基づいて行われるとは限らない。これまでに米軍人が我が国において犯した犯罪につきそれが公務執行中の犯罪であったかどうかについて日米双方の見解が対立したまま歩み寄りがみられなかつたため、一方が裁判権の不行使を相手側に通告することにより解決が図られた事案がこれまでに二件存在する。

 一件は行政協定時代のいわゆるジラード事件(昭和32年1月、群馬県相馬ヶ原演習場において米軍人ジラードが薬きよう拾いの農婦に発砲し、死に至らしめた事件)であり、日本側が公務執行中以外の罪として日本側に第一次裁判権ありとしたのに対し、米側は、公務執行中の犯罪として米側に第一次裁判権があるとしつつも行政協定第17条3項(c)によりこれを行使しないこととしたので、日本側が裁判権を行使し得るとの立場をとったものである。本件に関し、前橋地裁は、ジラードに対し傷害致死罪で懲役3年執行猶予4年の判決を言い渡した。

 他の一件は、右とは逆の事案であるいわゆる伊江島事件(昭和49年7月に沖縄の伊江島において米軍人が住民に信号銃を発砲し、負傷せしめた事件)である。本件については、事件発生直後米側は公務証明書は発行しないと非公式に言明したにも拘らずその後態度を翻して公務証明書を発出し、第一次裁判権の帰属について日米の主張が対立したため、合同委員会にかけられ、刑事裁判管轄権分科委員会で検討が行われたが結論を見出すに至らず、双方の意見を併記した報告が合同委員会に提出された。合同委員会の場で双方の立場の相違を解決することは困難であるということから、両政府間で外交レベルの協議を行った結果、政府は、昭和50年5月に本件については日本側が第一次裁判権を有するとの日本側の法的な立場を維持しながらも、裁判権を行使しない旨を米側に通報した。(注151)

(注151)
 伊江島事件については、ジラード事件と異なり裁判権の不行使を通報したのが米側でなく我が方であったところ、我が国の国内法上裁判権の不行使の決定及び同決定の通報に関する明文の規定が存在しないこととの関係上地位協定第17条3項(a)及び(b)の規定により、第一次裁判権の帰属を決定し得なかった場合、同条3項(c)を根拠規定として、政府は行政府限りで裁判権不行使を決定し、これにより検察当局(及び裁判所)を法的に拘束し得るかという問題があるところ、この点に関し当時政府部内で行われた考え方の整理は、次のとおりである(ただし、この問題については、未だ国会で取り上げられたことはないので、政府の考え方を明らかにすることを余儀なくされるに至っていない。……)


 5月31日に覚醒剤の使用などの罪で起訴された清原和博被告に下された判決は「懲役2年6月、執行猶予4年」だった。明らかな殺人罪のジラードへの判決が「懲役3年執行猶予4年」とは、ひたすらアメリカ様に拝跪したようなあきれた判決だ。

 さて、第一次裁判権を放棄して、裁判をアメリカにゆだねてしまったY君事件のその後はどうなっていったのか。前泊さんの文章をそのまま引用する。

 2004年の夏、「考え方」のなかにこの事件の記述があることを知った私は、Yさんに直接取材をしました。Yさんは、
「米兵たちは狩りでもするように、執ように追いかけてきた。わけもわからず、怖くて逃げまわって、崖っぷちまで追いつめられ、転んだところを信号弾で撃たれた。頭に当たっていたら死んでいた。あきらかに殺人未遂だった」
と、当時の様子を証言してくれました。

 しかし事件は翌年5月6日、日本政府が発砲した米兵らに対する裁判権(第一次)を放棄し、Yさんは賠償金で「無理矢理、手を打たされた」といいます。

 「裁判権」を放棄した理由を外務省は、「被疑者の処罰と被害者の補償を早急に行なうため」とか、「問題の長期化(遷延)は日米間の友好のうえからも好ましくない」などと説明していました。

 こうした裁判権放棄に対して当時の外務省アメリカ局長が、
「事件はそれほど悪質とは思われない」
と発言したことから、日本弁護士連合会、沖縄弁護士会、県民、島民をふくめ、激しい抗議行動が展開されました。

 外務省はアメリカ局長の発言を謝罪しましたが、裁判権はそのまま米軍によって行使され、米兵らは降格と100~150ドルの罰金刑となりました。

 Yさんは、
「本来なら殺人未遂の罪が罰金刑になってしまった。無罪同然の判決に腹が立った。本土に復帰しても、沖縄は米軍の占領地のままではないかと悔しかった」
と当時を回想しています。

 ついで、前泊さんは上記の「…考え方」からの引用文中の赤字部分を取上げて、次のように論じている。

 ところがこの事件について30年後、新しい事実が判明します。「考え方」のなかで、外務省は「伊江島事件」の日本側の裁判権(第一次)放棄が「司法権侵害」の疑いが強いことをみずから認め、国会での追及を恐れていたことがあきらかになったのです。

 「考え方」には
『行政府だけで裁判権の不行使を決定し、それによって検察当局(および裁判所)を法的に拘束できるか〔どうか〕という問題がある』 と明確に書かれています。

 司法当局に相談もなく、外務省が勝手に裁判権放棄を決めたことは三権分立に反する行為です。外務省は、行政府(外務省)による司法権の侵害をみずから認めていたのです。

 しかし、外務省は「考え方」のなかで、次のようにつづけます。
「この問題については、まだ国会でとりあげられたことはないので、政府の考えをあきらかにすることを余儀なくされるにいたっていない」


 つまり「国会でとりあげられていないから、行政府による司法権侵害という三権分立違反の問題が露呈しなくてすんでいる」とホッとしているわけです。

 Y君事件は、外務省の米軍追従の外交姿勢だけでなく、隠蔽体質も露呈しました。さらに「とにかくバレなければ、隠しつづけられるだけ隠しつづける。そして侵害された国民の権利を回復する努力はしない」という外務省の姿勢もあきらかになりました。

《沖縄に学ぶ》(48)

機密文書「日米地位協定の考え方」(5):内容の検証(2)

《「在日米軍」の規定がない》

 安保条約第6条第2文の中に「…日本国における合衆国軍隊の地位…」という文言がある。この文言は「地位協定」の表題の中でも使われている。「日米地位協定」は略称であり、正式表題は「日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約第6条に基づく施設及び区域並びに日本国における合衆国軍隊の地位に関する協定」である。では、この「合衆国軍隊」とは何を指しているのだろうか。

 前回検証したように、「外国軍駐留理由」についての明確な説明がないまま、「…考え方」は次の「日米地位協定の一般問題」という表題の記述に進んでいく。その前文と第1項目は次のように書かれている。

 安保条約第6条第2文は、「……施設及び区域の使用並びに日本国における合衆国軍隊の地位は、……行政協定に代わる別個の協定……により規律される」旨定めており、地位協定は、右の「別個の協定」として締結されたものであるが、安保条約第6条及び地位協定に共通する問題として次の諸点がある。(なお、安保条約第6条の一般的考え方については昭和48年2月5日付け条・条ペーパー参照) 1 安保条約第6条第2文及び地位協定の標題にある「日本国にある合衆国軍隊」との関連で、「在日米軍」とは何かということが問題とされる。「在日米軍」については、安保条約及び地位協定上何ら定義がなく、「日本国にある合衆国軍隊」と同義に使用される場合には、
(イ)(事前協議に関する交換公文にいう)日本国に配置された軍隊、
(ロ)寄港、一時的飛来等によりわが国の施設・区域を一時定に使用している軍隊、
及び
(ハ)領空・領海を通過する等わが国の領域内にある軍隊が含まれることとなる
(注1)。
(注1)「装備における重要な変更」に関する事前協議が前記(ロ)及び(ハ)の軍隊にも適用があることにつき政府の考え方は一貫している。(ロ)の軍隊につき地位協定の適用は明らかであるが、(ハ)の軍隊についても、例えば、領空通過中の米軍機がわが国において墜落して民家に損害を与えた場合等の補償問題が地位協定第18条により解決されることからも明らかである。

 以上から明らかなとおり、第三国を本拠として駐留する軍隊であっても、前記(ロ)又は(ハ)に該当することとなる限り「日本国における合衆国軍隊」として安保条約及び地位協定の適用を受ける。これらの軍隊が日本の領域内において在日米軍司令官の「指揮下」に入るか否かは本質的には米軍内部の問題であって安保条約及び地位協定の問うところではないと考えるべきである(注2)。
(注2)この点については、日本に配備された軍隊と一時的に日本にある軍隊とに分け、前者については在日米軍の指揮下に入るであろう、後者についてはその区署を受けることとなろうとの説明が行なわれることがある(例:衆・安保特5月4日及び18日議事録、山内一夫「施設及び区域」時の法令昭和35年第361号)が、本質的にはこれらの点に拘わる必要はないと考える。

 また、在韓国連軍たる米軍がわが国にある際は「在日米軍」であるか「国連軍」であるかという議論は、これら米軍の日本国における地位が安保条約・地位協定により規律されることとなっている(吉田・アチソン交換公文等に関する交換公文第3項)ので実益がない。(注3)
(注3)この点については、「このような軍隊はある場合において国連軍たる性格と在日米軍たる性格と二重に持っている」との趣旨の岸総理答弁がある(衆・安保特4月13日議事録)

 前泊さんは「冒頭から(?)の連続です」とあきれ返っている。特に緑字の部分については誰もが大きな(?)に囚われることだろう。前泊さんは次のように論評している。

 すごいことがさりげなく書かれています。「在日米軍」については、「安保条約」にも「地位協定」にも「なんら定義がない」というのです。そしてもしこの「在日米軍」が、安保条約や地位協定に書かれている「日本国にある 〔おける〕合衆国軍隊」と同じ意味でつかわれるとすれば、そこには(イ)(ロ)(ハ)の軍隊がふくまれるというのです。

 (イ)については本来の駐留軍ということで理解できますが、(ロ)と(ハ)あきらかにおかしい。これでは在韓米軍やイラク、アフガニスタンに向かう途中の米軍まで「在日米軍」にふくまれてしまうことになります。そうした日本に関係のない軍隊にまで、安保条約や日米地位協定を適用しようとする理由はなんなのでしょうか。この外務省の裏マニュアルは、最初の定義づけのところですでに、非常におかしなことを言っているのです。

 外務省の定義によれば、これまで調べてきた在日米軍の特権は、(ロ)(ハ)にも適用されることになる。その主なものを改めてまとめておこう。

① 財産権(日本国は、合衆国軍隊の財産についての捜索、差し押さえなどを行なう権利をもたない)     ② 国内法の適用除外(航空法の適用除外や自動車税の減免など) ③ 出入国自由の特権(出入国管理法の適用除外) ④ 米軍基地の出入りを制限する基地の排他的管理権(日本側の出入りを制限。事件・事故時にも、自治体による基地内の調査を拒否) ⑤ 裁判における優先権(犯罪米兵の身柄引渡し拒否など) ⑥ 基地返還時の原状回復義務免除(有害物質の垂れ流し責任の回避、汚染物質の除去義務の免除など)

 こうした米軍の特権の弊害についても、私たちは多くのことを知ってきたが、前泊さんの解説を読んでおこう。

 こうした米軍にあたえられた特権は、日本国民全体に多くの被害をもたらしています。米軍機の低空飛行訓練による爆音被害、犯罪米兵の国外逃亡、返還された軍用地の汚染物質除去費の日本側負担、基地内からの有害物質の流出などです。また、実弾演習による民間地への被害など、米軍の事故・事件による「基地被害」は沖縄県だけでも復帰後、6000件を数えています。しかも、そうした米軍関連の事故・事件には歯止めがかからないばかりか、沖縄では最近、増加傾向をみせているのです。

 このため、これまで沖縄県や沖縄弁護士会、連合(労働組合)、そして野党時代の民主党などが何度も地位協定の改定案をつくり、「米軍優位」といわれる「不平等協定の改定」を求めてきました。

 地位協定上に明記された規定でも、日米両政府いずれかの申し出があれば、改定に向けての協議が始まることになっていますが、所管する外務省はすでに見たように改定には消極的で、歴代外相も「運用の改善で対処する」という姿勢に終始しています。

《沖縄に学ぶ》(47)

機密文書「日米地位協定の考え方」(4):内容の検証(1)


(これまでに検討してきた事項と重複する事柄もあるが、煩をいとわず取上げていくことにする。)

 増補版の「はしがき」は次のように書かれている

 「地位協定の考え方」は昭和48年4月に作成され、地位協定の法律的側面について政府としての考え方を総合的にとりまとめた執務上の基本資料として重用されてきている。本稿は同資料が作成以来10年を経過したこともあり、この間の状況の変化を踏まえて条約課担当事務官が補加筆を行ったものである。
 昭和58年12月
            条約課長
          安全保障課長

 増補版は原本が執筆された1973年から10年後に書かれている。その間に起こった米軍に関する事件や事故、環境汚染、裁判などの具体的な事例をふまえ、地位協定を適用するなかで生じた矛盾や課題、問題点への対応なども踏まえて大幅に加筆したものである。原本・増補版ともに「秘 無期限」と記されているが、増補版は、原本と異なり、機密文書全ページの余白に「秘」の文字が付されている。[機密]レベルが高くなっているということだろう。これから「…考え方」の内容の検証に入るが、当然、増補版を用いることになる。

 まず、「秘 無期限」とされる理由を再確認するため、「…考え方」の基本的姿勢を見ておこう。前泊さんは次のように分析している。

 (「秘 無期限」となっている)理由について外務省は、「〔こうした〕文書の開示は日米の信傾関係を損ねる」(北米局)からと説明していました。

 しかし、実際には「考え方」を新聞で公開したあとも、外務省がいう「日米の信頼関係」は損なわれていません。それもそのはずで、「考え方」の内容をみると、そのほとんどが「アメリカと米軍の特権を追認し強化するための解釈上の変更」なわけですから、アメリカが文句を言うはずはありません。

 「…考え方」のなかには、米軍優位の地位協定運用のために生じた超法規的措置や解釈の限界に苦慮する外務官僚たちの苦悩ぶりが、ありのまま記録されています。

 「国会で追及されれば対応に苦慮する〔だろう〕」
 「行政府の独断決定は、司法権、裁判権の侵害との批判を免れない」
 「(協定の運用には)明文化が必要」
 「米軍特権を認める法律がない」
 など、悲痛ともいえる本音が書かれているのです。

 日本側に権利のある(=地位協定で認められている)、罪を犯した米兵を裁く「第一次裁判権」さえ放棄し、米軍の特権をひたすら追認する「考え方」の姿勢は、「増補版ではなく「譲歩版だ」と、揶揄される内容となっています。

 外務省が「秘 無期限」とする理由も、「米軍に譲歩を重ねる対米追従外交の実態をおおい隠し、国民からの批判をかわすためではないか」という見方さえあるのです。

 では次に、重要事項ごとに、前泊さんによる内容の検証を追ってみよう。

《「外国軍」が日本に長期駐留する理由》

 『《『羽仁五郎の大予言』を読む》(35):番外編「アメリカによる日本占領は終わっていない』で取上げた「ポツダム宣言第12項」をもう一度読んでみよう。
『前記諸目的が達成セラレ且日本國國民ノ自由ニ表明セル意思ニ従ヒ平和的傾向ヲ有シ且責任アル政府が樹立セラルルニ於テハ聯合國ノ占領軍ハ直ニ日本國ヨリ撤収セラルベシ

 1952年のサンフランシスコ講和条約の発効によって、「被占領国」を脱して「主権国家」としての再スタートを切ったはずなのに、敗戦によって駐留するようになったアメリカの占領軍が、ポツダム宣言に反して、64年もたったいまも駐留しつづけている現状をおかしいと考える日本人は少数派のようだ。

 この問題を外務省はどう説明しているだろうか。

 「…考え方」の前文に【一般国際法と地位協定】と題する項がある。そこには次のように書かれている。

 地位協定(外国に駐留する軍隊の当該外国における地位につき当該軍隊の派遣国と接受国との間で締結される協定)は、主として第二次大戦後に関係国間に締結されたものであり、その典型的なものとしては、ナト当事国間のナト地位協定(1951・6・19署名)がある。日米地位協定も基本的にはナト協定を踏襲したものである。

地位協定が第二次大戦後の一般的現象となった理由としては、次のことが考えられる。

  即ち、第二次大戦以前には、特定の例外的場合を除き、平時において一国の軍隊が他国に長期間駐留するということが一般的にはなかったということである。いわゆる戦時占領的な駐留は、歴史的に多々存在したが、この場合には、一方が勝者であり他方(被占領国)が敗者であるという関係から、被占領国における占領軍の地位は、そもそも問題になり難い面があったろうし、又、戦時占領に関連する特定の問題については多数国間の一般的条約で一定の準則が設けられた(1907年の陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約)ところが、第二次大戦後には友好国の軍隊が平時において外国に駐留することが一般的になり、かかる軍隊の外国における地位を規律する必要が生じたことである。この場合、従来、外国に寄港中の軍艦の地位については一般国際法上一定の原則が確立していたとみられる(例えば当該軍艦内における刑事事件については旗国が第一次裁判権を有する等)が、これも必ずしも網羅的なものではなく、又、陸上に平時において駐留する外国軍隊の地位については歴史的な実績がないため一般国際法といえる如き原則は存在しなかった(従来、歴史的に問題になりえたのは、たかだか他国の領域を通過中の外国軍隊の地位であり、この場合についても何が一般国際法上の原則であるかについては必ずしも確立したものは存在しなかった。)ので、一般に第二次大戦後の右で述べた如き外国軍隊の地位を明確に規律するために地位協定が必要とされたものである

(緑字部分について)
 一国の軍隊が他国に長期間駐留することは、第二次大戦以前は「特定の例外的場合をのぞき」一般的ではなかったが、戦後は一般的になったと説明している。戦前の「特定の例外的場合」については、「戦時占領的な駐留」をあげている。米軍の日本駐留はこのケースであったが、先に確認したように、それは講和条約の発効によって終了したはずだった。それなのになぜか、占領軍がそのままの形で日本に駐留しつづけている。

 世界史を振り返れば、外国軍の駐留は「戦時占領的な駐留」のほかに、「植民地への宗主国軍隊の駐留」がある。つまり外国軍の駐留は、占領駐留か植民地駐留の二種類ということになる。歴史的な視点からいうと、米軍が駐留する日本は、アメリカの被占領地か、植民地ということになる。そうでないとしたならば、いったいどのように位置づけできるのだろうか。

 「…考え方」は「第二次大戦後には友好国の軍隊が平時において外国に駐留することが一般的になり、……一般に第二次大戦後の右で述べた如き外国軍隊の地位を明確に規律するために地位協定が必要とされたものである」と地位協定の必要性を主張しているが、これは誤った認識である。「日米地位協定」は決して「一般的」ではないのだ。知った上でこのように主張しているとすればウソをついていることになる。その証拠を過去記事から引用しておこう。

(沖縄問題の本質(2)から)

 通常の安全保障条約や協定なら、駐兵する基地の名称や場所を条約や付属文書に書きこむのが常識です。

 フィリピンがアメリカと1947年に結んだ「米比軍事基地協定」の付属文書でも、有名なクラーク空軍基地やスピック海軍基地のほか、23の拠点がフィリピン国内で米軍の使用できる基地として明記されています。

 フィリピンはその前年まで、本当のアメリカの植民地でした。それでもきちんと限定した形で基地の名前を書いています。ところが日米安保条約にも日米地位協定にも、そうした記述がまったくないのです。

(「沖縄問題の本質(8)」から)
「本土の日本人以外、世界中の人が知っていること」でもあるのですが、それは、「外国軍が駐留している国は独立国ではない」という事実です。

 だからみんな必死になって外国軍を追い出そうとします。あとでお話しするフィリピンやイラクがそうです。フィリピンは憲法改正によって、1992年に米軍を完全撤退させました。イラクもそうです。あれほどボロ負けしたイラク戦争からわずか8年で、米軍を完全撤退させています(2011年)。綿井健陽さんという映像ジャーナリストがいますが、彼がイラク戦争を撮影した映像のなかで、戦争終結直後、50歳くらいの普通のイラクのオヤジさんが町で大声で、こんなことを言っていました。

「アメリカ軍にアドバイスしたい。できるだけ早く出て行ってくれ。さもなければひとりずつ、銃で撃つしかない。われわれはイラク人だ。感謝していることもあるが、ゲームは終わった。彼らはすぐに出て行かなければならない」(『Little Birds イラク戦火の家族たち』)

 普通のオヤジさんですよ。撃つといってもせいぜい小さなピストルをもっているくらいでしょう。しかし、これが国際標準の常識なんだなと思いました。占領軍がそのまま居すわったら、独立国でなくなることをよく知っている。

 前出の孫崎享さんに言わせると、実はベトナムもそうなんだと。ベトナム戦争というのは視点を変えて見ると、ベトナム国内から米軍を追い出すための壮大な戦いだったということです。

 こうした誤った認識に外務省も忸怩たる思いを持っているようだ。いま私が用いている琉球新報社編の「増補版」には省かれているが、元の文書では「平時において」という部分に白丸形の傍点がふられ、強調されている」という。前泊さんはこれを取上げて
『このことから「有事(戦時とも言いかえられます)」ではない「平時」に他国の軍隊が駐留することにについて、外務省もその特異性を認識していたことがわかります。』
と述べている。
《沖縄に学ぶ》(46)

機密文書「日米地位協定の考え方」(3):原本の執筆者


 琉球新報による全文スクープのあとも外務省は、「…考え方」の存在をかたくなに認めようしなかったが、「琉球新報」の取材班は、その原本の執筆者を探し当て、インタビューすることに成功した。そのときのインタビューも新聞に発表したが、その人が機密文書の提供者と誤解されては困る、という配慮から、その報道ではかなり発言を整理して、しかも匿名にして報道していた。

 そのときのインタビューを全文「日米地位協定入門」に記載するに当たって、前泊さんは
「当時は匿名にしていましたが、もう公表してもいいでしょう。」
と、その人を明らかにしている。
「その人物とは、執筆当時、外務省条約局条約課の担当事務官だった丹波實(みのる)氏(その後、ロシア大使などを歴任)です。すでに外郭団体に天下っていたその丹波氏のもとに取材記者をむかわせ、証言を得ることに成功しました。2004年1月9日のことです。」
 琉球新報がそういう機密文書が存在するという内容の第一報を掲載したのは2004年1月1日であり、その8日後のことであった。

 少し長いが、その時のインタビュー記事を全文転載する。

―丹波さんは地位協定にくわしいと聞いたんですが。
丹波
「私は安保課長を3年やってね。1978年から80年だったかな。4つの大きな事件があって、大変だった。地位協定にくわしかったのは条約局時代だな。かなり勉強した。沖縄返還協定とか基地問題を担当しましたからね」

―「日米地位協定の考え方」という文書があるらしいですね。
丹波
「そうそう、よく知ってるね。あれはね、ぼくが書いたんだよ。昔ね、共産党が入手して国会でとりあげたことがあってね。省内でも流出させるやつがいるんだなあ」

―うち(琉球新報)も入手して、最近この「考え方」について新聞で連載をしています。それ(文書)をもってるんですけど、丹波さんが書いたんですか(と言って、目の前に機密文書のコピーを差しだす)。
丹波
「あー、これは写しだねえ。懐かしいなあ」

―「はしがき」に、条約課担当事務官の執筆になるものと書いてあります。
丹波
「そうそう、私のことだよ。ほんとはね、名前入れたかったんだけどね、それが精一杯だったよ。昭和48年4月と書いてある。まさにそう、1972年の秋からとりかかって73年の春にできあがったんだ。約半年でつくったんだね。いま、問題になっているのは17条でしょう」

(管理人注:第17条は「刑事裁判権」についての条文)

―はい。「妥協の産物」つていう言葉が書かれていますよ。
丹波 「えっ、そうだったかな」

―これは丹波さんがひとりで書いたんですか。
丹波
「そう。あなたの(事前の取材依頼の)FAXでは、地位協定改定で全国的に雰囲気が盛りあがってるって書いてあったけど、ぼくからみるとそんな雰囲気は感じないけどね」

―沖縄は県知事を先頭に改定を求める全国行脚をしています。
丹波
「そうなの。(改定を求めるというのは)何条のことを言つてるの」

―改定項目は11項目あります。
丹波
「地位協定改定なんてありえないね。ぼくに言わせると」


―どうしてですか?
丹波
「それはまあ、アメリカとの関係で難しいね。ぼくはよく冗談でね、もし地位協定の改定をやるんなら、ランクを二つ下がってもいいから東京にもどってそれを担当したい、と言ってたんだけどね。酒の席でさ。だからそれくらい、ぼくはこれ(「…の考え方」)に情熱を燃やしてたんだけどね。しかし、それはあくまでも酒の席での言葉であって、現実問題として日米地位協定を改定するというのは、ちょっと考えられないね」

―韓国との地位協定や、ドイツとのボン協定などは改定していますよね。
丹波
「くり返すけど、もし将来、改定交渉があったなら、もどって担当したかったというのは酒の席でよく言ってたけどね、今後、見通しうる将来、そういうこと(改定)はないでしょう。運用で、日米合同委員会の合意でカバーするということはありえるけど、地位協定本体に手をつけるというのはないでしょう。考えられないね」

―「考え方」は沖縄の本土復帰にあわせて、協定の解釈を拡大しないといけないからまとめたと聞いています。
丹波
「いや、そうじゃないね。沖縄を念頭において書いたわけではない。沖縄を通じて地位協定の専門家になったから、条約局を去る前に後輩のためにと思って書いたということですよ。沖縄返還協定とか沖縄の基地問題とか担当したからね」

―丹波さんが(機密文書「…考え方」を)作られてからは、その後の地位協定担当者のバイブルになっているのでしょうか。
丹波
「そう、バイブルだよ」

―でも、いまの外務省の人たちは見たことがないと言っています。
丹波
「それはないと思うよ。その後使われていたはずだよ。私の書いたものから10年後に一度改訂してるはずだけどね。そのあとさらに改定したかどうかは知らないねえ」

―改訂版は丹波さんのものとだいぶちがうんですかね。
丹波
「いや、そんなことないでしょう。増幅したんでしょう。国会答弁をつけ加えたりして。その後10年間のあいだに」

―なんで「無期限秘」なんですか。
丹波
「そりゃ、内部文書だからだね」

―沖縄県はこれをぜひ欲しいと、公開してくれと言っています。
丹波
「ハッ、ハッ、ハッ(笑い)。そう。でも現実にはもう出まわってるわけでしょ」

―くり返しますが、書かれたのはいつでしたか。
丹波
「条約課の事務官のときに書いた。ひとりで。首席事務官が斉藤邦彦のときかな。斉藤さんはその後駐米大使、次官までやっている。その上にいたのが、栗山という課長(栗山尚一・条約課長=1972~74年)で、このときだね」

―そのときの話をぜひ。
丹波
「いや、それはいいよ(やめておくよ)」

 これによると、前回に紹介した国会での政府答弁(2004年1月30日)の時には原本の執筆者も公開されていたことになる。それでも原本の存在を否定している政府・外務省の神経の図太さに、改めてほとほと感服している。というより、国民など無知で無恥だからいくらでもごまかせるチョロイチョロイ、と馬鹿にされているんだよな。

 上のやりとりの中に「私の書いたものから10年後に一度改訂してるはずだけどね」という件があった。このことから、琉球新報社は「…考え方」には、10年後につくられた増補版があることを知り、新聞社の総力をあげて「増補版」の入手に奔走する。その結果、半年後に増補版の入手に成功している。

 このインタビューについて前泊さんは次のような感想を述べている。

 取材のなかで丹波氏が、「地位協定の改定はありえない」と語っていることが非常に印象に残りました。米軍というのは日本の外務省にとってもアンタッチャブルな存在で、日米地位協定も同じくアンタッチャブルな存在ということが伝わってきたからです。

 それでも救いは、ロシア大使までつとめた丹波氏が、改定の機会があれば、外務省の職階を二つ下げてでも、つまり大使から総領事クラス、局長から課長級にランクを下げてでも「東京にもどって担当したい」と語っている点です。

 外務官僚にとってアメリカとの「高度な外交交渉」は、おそらくエリートの証(あかし)なのでしょう。なかでも地位協定の改定となると、スポーツマンにとってのオリンピック出場のような、エリート中のエリートだけが挑める高度な競技会、外交交渉の晴れ舞台という感じなのかもしれません。

《沖縄に学ぶ》(45)

機密文書「日米地位協定の考え方」(2):機密文書を否定する政府の国会答弁


 前回の引用文中に
『沖縄選出の国会議員が国会で「機密文書の開示」を外務省に要求しましたが、外務省はそんな文書は存在しない」とかわしていたのです。』
という件があったが、その時の質問と答弁が衆議院のサイトで読めることを知った。その記録
『衆議院議員照屋寛徳君提出「秘 無期限」と記された「日米地位協定の考え方」と題する政府文書の存在と公開に関する質問に対する答弁書』
によると日付は2004年1月30日で、照屋さんが答弁を要求しているのは7項目あるが、その答弁を読むと、めちゃくちゃなウソ丸見えの論理的破綻をした答弁を全く恥じない政府(この答弁書は「内閣総理大臣小泉純一郎」の名で出されている)とエリート官僚たちの無知と無恥にあきれかえってしまう。「無知と無恥」は安倍晋三の専売特許ではない。答弁を質問書の項目後に組み込んで、転載しておくことにする(答弁を青文字で記す。また元号は全て西暦に書き換えた)。



 日米地位協定の全面改正を求める声は、今や沖縄県民の総意である。

 日米地位協定の全面改正要求は、沖縄県だけでなく米軍基地が所在する都道府県、各政党、労働界、経済団体、法曹界などに広がり、大きな国民世論に高まった感がある。

 ところが、政府は、かかる日米地位協定全面改正要求に対し、「運用の改善」で足りるとの姿勢を一貫している。「運用の改善」では不十分で限界があり、全面改正すべしとの切実な要求を無視するかの如き政府の態度はとても承服できない。

 日米地位協定は、余りにも多くの特権・免除を在日米軍とその軍人・軍属に与えている。私は、かねてより主権・人権・環境の視点で全面的に改正すべき、と主張してきた。

 ところで、琉球新報社は日米地位協定に関する政府の基本解釈となる機密文書「日米地位協定の考え方」を入手したと報じている。(2004年1月1日、琉球新報)

 同文書(B5版、132ページ)は、1973年4月に外務省条約局とアメリカ局が作成したもので、日米地位協定の逐条解説書とも言うべき文書である。ところが、政府はこれまで「日米地位協定の考え方」なる文書の存在を否定し、その公開を拒んできた。

 琉球新報は、2004年1月13日の紙面で入手した「日米地位協定の考え方」全文を掲載した。掲載された全文を読むと政府が条文の本旨を拡大解釈し、米軍に対する過剰な譲歩をなし、結果的に県民への犠牲と負担を大きくしていることが明らかである。

 日米地位協定についての政府の逐条解説とも言うべき文書が作成後30年余も秘密扱いにされるのは理由がない。今や、日米関係は主従関係ではなく対等平等であるべきだ。「日米地位協定の考え方」を公に開示することが日米間の改正交渉にも必要不可欠であり、公開は政府が国民に果たすべき説明責任と考える。政府は、一刻も早く同文書の存在を認め、全文を公表すべきである。

 以下、政府の見解をただすために質問する。


 政府は、琉球新報が2004年1月13日付朝刊紙面で、琉球新報社が入手した「秘 無期限」と記された「日米地位協定の考え方」と題する文書を全文掲載公表したことを知っているか。

『2004年1月13日付けの琉球新報の朝刊紙面で、琉球新報社が「秘無期限」と記された「日米地位協定の考え方」と題する文書を掲載したことは、承知している。 』


 よもや、政府は琉球新報が全文掲載した「日米地位協定の考え方」の中身について、「知らない」「初めて知った」「政府は作成に関与していない」等と言い逃れたり、「偽造文書だ」と弁解することはないと信ずるが、掲載公表された「日米地位協定の考え方」の中身(内容)について政府の弁明があらばお示し願いたい。

『琉球新報に掲載された「日米地位協定の考え方」と題する文書を保有しておらず、同紙に掲載された文書が政府の文書かどうかについて確認できない。』


 政府は、1973年4月、外務省条約局とアメリカ局が作成した「日米地位協定の考え方」と題する文書の存在を認めるか。もし、文書の存在を認めないのであればその理由を明らかにされたい。

 「日米地位協定の考え方」と題する文書の存在を認めるのであれば、同文書を全文公表する考えはあるかどうか明らかにされたい。

三および四について
『お尋ねの1973年4月に外務省条約局とアメリカ局が作成したとされる「日米地位協定の考え方」と題する文書は、保有していない。政府以外の者がその文書を保有しているかどうか確認できないため、その文書が存在しているかどうかお答えすることは困難である。』



 政府は、琉球新報が2004年1月13日付朝刊紙面で全文掲載した「日米地位協定の考え方」に基づいて、日米地位協定の解釈運用をなしてきた事実を認めるか。認めないのであればその理由を付して明らかにされたい。

『琉球新報に掲載された「日米地位協定の考え方」と題する文書を保有しておらず、同紙に掲載された文書が政府の文書かどうかについて確認できない。いずれにせよ、日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約第六条に基づく施設及び区域並びに日本国における合衆国軍隊の地位に関する協定(1960年条約第7号)については、これまで個々の事案に応じて適切に解釈運用を行ってきている。』


 琉球新報2004年1月13日付朝刊紙面によると、外務省元幹部の証言として、「1980年代に『日米地位協定の考え方』増補版が作成された」と述べているが、かかる増補版の存在を認めるかどうか明らかにされたい。

『2004年1月13日付けの琉球新報の朝刊紙面で、外務省元幹部が述べたとされている、1980年代に作成された「日米地位協定の考え方」増補版に該当すると思われる文書は保有している。』


 「日米地位協定の考え方」と題する文書以外に日米地位協定に関する「擬問擬答集」「地位協定逐条説明」「条・条ペーパー」と題する文書が存在するかどうか明らかにされたい。尚、これらの文書の存在を認めるのであれば、これらの文書全文を公表する考えはあるかどうか明らかにされたい。

『お尋ねの内容からは、日米地位協定に関する「擬問擬答集」、「地位協定逐条説明」及び「条・条ペーパー」が何を指すのか必ずしも明らかでないので、お答えすることは困難である。』

 原本の存在を否定しておいて増補版の存在は認めている。原本がないのに一体何を増補したのだ。

 原本の否定は、それが書かれたのが沖縄返還の直後だったことで、「…考え方」が主として沖縄対策のための極秘文書だったことを隠したいからだろう。そのためだろうか、存在を認めた増補版が『「擬問擬答集」、「地位協定逐条説明」及び「条・条ペーパー」』ではないと、その内容は隠蔽しているのも。その増補版も琉球新報が入手していたことを知らなかったようだ。増補版は2004年12月に出版されたが、これにもさぞかしびっくり仰天したことだろう。それでもなお、白を切るつもりだろうか。唯々あきれ返ってひっくり返るばかりである。
《沖縄に学ぶ》(44)

機密文書「日米地位協定の考え方」(1):全文公開までの経緯


 沖縄でまた残虐な痛ましい事件が起きて地位協定の改定や米軍基地の全撤退などの要求の声が大きく上がっている。首相官邸前での市民集会では安保条約の破棄も叫ばれている。言うまでもなく、これは沖縄だけの問題ではなく、日本全体の問題である。

 日米地位協定の改定の要求に対しては、米国防総省のデービス報道部長が、記者団に対して、
「日本が抱く懸念にはこれまでも運用の見直しで対処してきた」
と述べ、日米地位協定の全面的な改定には応じない姿勢を示したことが報道さている(5月23日)。また、伊勢サミットでの安倍・オバマの共同記者会見(25日)ではオバマは
「日本の司法制度の下で正義の追及を阻むものではない」
と述べ、改定の意思がないことを示し、安倍も
「地位協定は一つ一つの問題を改善し、結果を積み上げる」
と、オバマに追従している。

 私は、容易なことではないと承知しているが、根本的な解決は安保条約の破棄意外には無いと思っている。そこに至るまで、せめて地位協定の改定をと思うが、これも属国傀儡官僚と政権が応じるはずがない。残念ながら、まともな政権交代と官僚の粛正がない限り絵空事と言うほかない。

 外務省の傀儡官僚がバイブルとしている「日米地位協定の考え方」(以下「…考え方」と略称する)という秘密文書があることを「沖縄問題の本質(5)」で紹介したが、今回からそれを取り上げることにしたい。

 「…考え方」は原本と増補版がある。ともに表紙には「秘 無期限」というスタンプが押されていて、外務省が門外不出としている文章である。中身は、日米合同委員会における非公開の「合意議事録」の事例をマニュアル化したものであり、政府の地位協定に関する公式見解、国会答弁、条文解釈、問題点などを網羅している。つまり「地位協定」の政府としての公式な解説書ということになる。

 原本は琉球新報が特集で全文公開した(2004年1月15日)。『機密文書「地位協定の考え方」』で読むことができる。増補版は2004年12月に琉球新報社編『日米地位協定の考え方・増補版』(高文研)という書名で出版されている。その本の序文「刊行にあたって」では原本・増補版が書かれた経緯を次のよう解説している。

 機密文書と沖縄との縁は深い。なぜなら、原本は沖縄返遠の翌年(1973年)に作成された。原本作成の大きな理由は本来の米軍基地を前提にした日米地位協定が本土復帰する沖縄にそのまま適用された場合、米軍の活動に大きな支障がでることを懸念したことによる。

 復帰前、沖縄は米軍の施政権下で、日米地位協定は適用外であった。米軍は地位協定など念頭に置く必要はなく、沖縄の基地を使い勝手のいいように、思う存分使えた。地位協定が適用される復帰後は、それまでと同じように使うわけにはいかず、「地位協定の考え方」が作成されたとみるのが妥当だ。

 しかし、それから10年経過するうちに、地位協定の矛盾点が噴出する。米軍、米兵による事件・事故も多発し反基地感情は高まる。普通ならばこの時点で政府の取るべき態度は自国民の安全や利益を最優先するものになるはずだ。そのためには、地位協定の改定へと向かうべきであった。

 ところが、外務省は米軍擁護に回り、協定改定どころか協定解釈によって、矛盾点を覆い隠し、米軍の活動に配慮を払うという愚策を選んだ。

 もともと原本の「日米地位協定の考え方」が、米軍の自由な活動をいかに日本政府として保証するかという観点でしか書かれていないこともある。

 原本作成から10年たって、「増補版」を作成した。その時も、米国一辺倒のスタンスを見直し、地位協定を改定する絶好の機会があった。しかし、ここでも政府、外務省は地位協定の矛盾点を糊塗することばかりに腐心し、原本の"誤り"を修正する大事な任務を放棄してしまった。

 では、「…考え方」の具体的な内容と問題点をを見てみよう。(以前にお世話になった前泊博盛編著『本当は憲法より大切な「日米地位協定入門」』のPART2『「日米地位協定の考え方」とは何か』を用います)。


 まずは、機密文書扱いの「…考え方」を琉球新報社が入手した経緯とその公開に対する政府や外務官僚たちの言動を追ってみよう。

 前泊さんが「地位協定の裏マニュアル」があるらしいということを知ったのは琉球新報東京支局で国会担当の記者をしていたときだったと言う。「入手の経緯についてはあまりくわしい話はできないのですが、」と語っているが、その約10年後に入手した「…考え方」の全文を琉球新報で公開している。機密文書が公開されたのだから、外務省はさぞかしびっくり仰天したことだろう。外務省内は大騒ぎの状態になったという。

 また、読者からの反響も非常に大きく、沖縄だけでなく全国から声が寄せられた。代表例として次のような読者の声が紹介されている。
「国民の人権をアメリカに売り渡す外務省の犯罪を許してはいけません」
「対米追従から対等な日米関係に転換する時期にきています」
「日米安保も地位協定も、米軍の占領政策の残滓(のこりカス)という意味がよくわかりました」
「外務省の隠蔽体質をあらためさせる機会にしてください」

 このスクープで、琉球新報「地位協定取材班」は、その年のJCJ(日本ジャーナリスト会議)大賞、石橋湛山記念・早稲田ジャーナリズム大賞など、報道関係の大きな賞を三つも受賞している。

 この公開に至るまでの経緯を前泊さんは次のように記録している。

 実は紙面にのせる前に、私は外務省に何度も足を運んで外務省幹部に「機密文書」の中身について取材しています。「地位協定の逐条解説書がほしい」という形で質問したのですが、
「そんなものはありません」
と即座に否定されました。法律や条約には、運用マニュアルの役割をはたす「追条解説書」が当然あるはずなのに、「ない」の一点張りなのです。
「ではどうやって地位協定を実際に運用しているのか。問題が起きたときには、どのように対応してきたのか」
とたずねると、外務省北米局の担当官は
「すべて私の頭のなかに入っている」
といいます。
「では、最初の一条から説明して下さい」
と、取材ノートを広げてヒアリングを始めました。

 さすがにエリート官僚です。マニュアルも見ずに次々と答えていきます。しかし私は彼の話を聞きながら、胸の鼓動が高まるのを感じていました。説明の内容が、機密文書「地位協定の考え方」に書かれた内容とまったく同じだったからです。

 そのとき、すでに私の手元には10年かけて入手した機密文書の全文がありました。取材が終わってから担当官の説明を条文ごとに機密文書の説明と照らしあわせていくと、まったく同じ言葉で説明していることがわかったのです。

 その時点で、機密文書が書かれてからすでに30年たっていました。しかし、いま自分の手元にあるその機密文書が、現在でも日米地位協定の運用マニュアルとして現実に使用されている。そのことが、あきらかになった瞬間でした。

 スクープする直前、私は外務省幹部に対して
「機密文書の中身を新聞紙面で報道します」
と伝えました。すると旧知の外務省幹部から
「もし報道したら、外務省には出入りできなくなる。私たちとのつきあいもなくなりますよ」
と言われたのです。

 機密文書には、国民の権利や人権を侵害する日米地位協定に関するさまざまな事例が網羅されていました。とるべき税金をとらず、はたさなければならない義務をはたさない米軍に四苦八苦する、外務省のさまざまな苦心や苦悩の足跡が記録されていたのです。

「この文書を開示することは、外務省の対米外交を支援することにもつながります。日米安保と在日米軍の問題を国民全体が直視して、改善に動くきっかけにもなるはずです」
 私はそう説明して、外務省からの圧力を無視して、2004年1月1日、元旦の紙面で、そういう機密文書が存在するという内容の第一報を打ちました。

 ところが第一報の段階では、外務省は「そんな文書は存在しない」とスクープを無視する構えをとりました。沖縄選出の国会議員が国会で「機密文書の開示」を外務省に要求しましたが、外務省はそんな文書は存在しない」とかわしていたのです。

 そこで琉球新報社では、機密文書の全文を紙面で公開すると同時に、インターネットでも全文公開することを決めました。いま考えても当時の社の幹部たちはよく決断してくれたと思います。さきほどふれたように、そのために紙面を8ページ増やしたのですが、すべて広告なしの文字だけのページです。その分の紙代や印刷費はそのまま社の持ち出しになります。新聞界の常識ではありえないことでした。

 また、紙面での全文公開のために20人を超す記者たちが機密文書の人力作業に参加しました。全員が自分の担当箇所を読みこみながら、機密文書の中身をチェックし、人力し、プリントアウトしたあと、声に出して読みあわせる。そうすることで、ひとりの記者の単発のスクープ記事で終わらせることなく、新聞社が総力をあげて世の中に問う「キャンペーン報道」へと転換をはかったのです。

 ネットで全文公開したのは、ほかの新聞やメディアの参加をうながすことも狙いのひとつでした。なにも隠さないから、自由に使ってくれ。そうすると、専門家も自分でアクセスして分析できるので、それぞれの意見を発信してくれるでしょうし、これまで地位協定の恣意的な運用によって被害を受けてきた当事者たちからも証言が集まるのではないかと思ったのです。

 さすがにたまりかねたのか、外務省の幹部から私に電話が入りました。
「これは外務省にも数冊しかない機密文書だ。それをこともあろうか、20万部(「琉球新報」の発行部数)も印刷してばらまくというのは、いったいどういうつもりなのか」
電話のむこうの声は怒りでふるえていました。

 さきほどのべたように、報道前に私は何度も「この機密文書は、外務省の文書ですか」と外務省に確認していたのですが、「そんな文書はない」の一点張りでした。それなのに、全文公開したら「いったいどういうつもりか」と抗議してくるのですから、まったく困ったものです。

 全文公開につづいて、機密文書に関する長期連載(「日米地位協定―不平等の源流」)が始まると、外務省幹部からは、
「機密文書をりークしたのはいったいだれなのか、教えてくれ。公務員の守秘義務違反で首を飛ばしてやる」
と、おどすような電話が入りました。当時外務省は、機密文書流出のニュースソース(情報源)を必死に探していたようです。

 しかしそんな動きがあることは、こちらも織りこみずみです。実はこのスクープは、実際に全文人手してから報道するまでに7年かかっています。言いかえればネタ元をカムフラージュするために7年かかったということです。

 しかし、あんまりおどされると、こちらもおもしろくない。そこでその年にアメリカ総領事館で開かれたガーデン・パーティに出かけていきました。電話をかけてきた外務省幹部を見かけると、さっそく近づいていって、
「○○さん、このあいだは非常に貴重な情報をありがとうどざいました。ものすごい反響です」
と、わざと大声で声をかけました。まわりにいた関係者の多くが、びっくりしてこちらを見ていました。
「あの機密文書の提供者は彼だったのか」
と、誤解したかもしれません。

 その幹部は、
「前泊さん、悪い冗談はやめてください」
と、苦笑していましたが、さらにかぶせるようにして私が、
「本当に感謝しています」
と、言ったので、いまだに誤解したままの人もいるかもしれません。彼はあとから電話をかけてきて、
「おれが疑われるじやないか。どうしてくれるんだ」
と、怒っていました。そのあと、「犯人捜し(情報源調査)」の動きはピタリと止まったようです。

《沖縄に学ぶ》(43)

沖縄返還後の闘い(11):辺野古問題の経緯(2)


 野田政権が、「誠心誠意、沖縄の理解を得て……」と繰り返しながら沖縄の総意を無視して辺野古移設を押し付ける手段の一つが、「普天間固定化か、辺野古移設か」という二者択一を迫る恫喝であったが、もう一つの手段は、12年度予算から始まる新たな沖縄振興計画であった。10年刻みの沖縄振興特別措置法に基づく振興計画は、11年度末でちょうど期限切れとなり、新しい振興計画が必要になっていた。沖縄県は、従来の国主体の振興計画に代わる県主体の振興計画を求めていた。ひも付き補助金を自由度の高い一括交付金に置き換えることも要求していた。

 その12年度予算が、大幅に増額された。当初見込み2600億円が、土壇場で(12月24日)、2937億円となった。前年度比636億円の大幅増で、一括交付金は五倍増であった。

12年3月30日
 改正沖縄振興特別措置法(沖振法)と軍用地跡地利用推進特別措置法(軍転法)が参議院本会議において全会一致で可決、成立した。適用期間は12年4月1日から10年間。
<琉球新報から引用する>
 沖振法は、12年度から始まる沖縄振興交付金(一括交付金)の根拠法。
軍転法は、軍用地主への給付金支給期限を「使用収益が可能となる時期を勘案する」と、現行法よりも最大数年延長できる仕組みに変更。不発弾や土壌汚染処理の対応地域も米軍に起因するものに限らず、跡地全域に拡大した。

 政府案の最終調整段階では、自公両党も加わり、知事の求めに120%応えるものであると評価された。

4月8日
 谷垣自民党総裁が沖縄を訪問。
仲井真知事に対して「自民党が引っ張って使い勝手のいいものができた。これをどう生かすかが県議選のテーマになる」とはっぱをかけたという(12年4月9目付沖縄タイムス)。

11月16日
 野田民主党政権、突然の国会解散。

12月16日
 衆議院議員総選挙投開票

12月26日
 自公連立・安倍晋三内閣成立

 前々回の「オスプレイの普天間配備」で、初期の安倍内閣が辺野古問題に対して取った言動に触れたが、改めて抜き書きしておこう。

2013年2月22日
 アメリカに出張した安倍はオバマと首脳会談を行ない、その後「日米の共同声明」を発表。

 このときの会談で、安倍は米側が強く要求したわけでもないのに、自ら積極的に、集団的自衛権容認とともに、辺野古新基地建設促進を約束した。また、オバマは安倍に「(沖縄県に)埋め立て申請の提出をしてほしい」と、移設に向けた手続きを進めるよう直接迫ったという。

3月22日
 政府は沖縄県知事に対して、辺野古の公有水面埋立承認願書を提出。

 これに対し仲井真知事は「県外移設こそ問題解決の早道」という公約の路線をなんとか維持し続けていた。実は13年8月、菅官房長官がひそかに来沖し、知事を長時間にわたって説得した痕跡もある、と言われているが、それでも、11月初めの定例記者会見までは仲井真知事は「辺野古移設が出来なければ普天間固定化という発想自体が一種の堕落だ」と述べていた。

11月25日
石破自民党幹事長は、沖縄選出の5人の国会議員を従えて記者会見し、「辺野古沖を含むあらゆる可能性を否定しない」ことで意見の一致を見た、と発表。

 12年12月の総選挙では沖縄から立候補した自民党公認候補は全員「県外移設」を公約していた。つまり、自民党本部は党の方針と正反対の公約をしている候補者を公認したわけである。そして、公認して当選させたうえで、離党勧告までちらつかせながら時間をかけて各議員に圧力をかけ、有権者を裏切らせたのである。保身に汲々として公約変更で裏切った議員も汚いが、自民党本部のまるで詐欺のような遣り方はそれに輪をかけて汚い。

 これは仲井真知事による辺野古埋立承認への環境作りの発端である。以後、その環境作りは着々と続く。

12月1日
 自民党県連は、「辺野古移設を含むあらゆる選択肢を排除しない」と政策を変更。翁長政俊県連会長は政策変更の責任を取って辞任。

 政権与党の公明党はどのように動いたか。

12月13日
 公明党県本部は、独自のプロジェクトチーム を作ってこの問題を検証し、知事に対して埋立承認をしないように申し入れる。

 山口那津男公明党代表は、12日の記者会見で「沖縄の声を踏まえて、県本部が検討してきた。それをこちらが妨げるという考えは持っていない」と県本部とのねじれを容認していた。

12月17日
 仲井真知事、沖縄政策協議会出席のため上京。
 知事はそのまま東京の病院に缶詰め状態になって菅官房長官や安倍首相と談合していた。

12月27日
 沖縄に帰った仲井真知事は、辺野古の埋立承認を発表。

知事は、埋立承認を発表したが、「埋立申請は行政手続きとして承認するが、県外移設を貫く姿勢は変わらない」とし、「県外移設案をすべて検討し、(普天間の)5年以内の運用停止を図る必要がある」とつじつま合わせに腐心していた。

 談合ではどんな取引があったのか。知事が埋立承認をする見返りは、
① 「沖縄振興予算の数百億円の増額」
② 「5年以内の普大間基地の運用停止」
であった。

①について

 沖縄振興予算は、大田昌秀県政末期、98年度の約4700億円をピークに国の財政事情もあって漸減傾向をたどり、11年度には、約2300億円になっていた。これをせめて3000億円台に戻したいというのが、仲井真知事の悲願であった。

 沖縄振興予算は、概算要求を上回る3501億円が計上された。沖縄振興予算と称されるものにはからくりがある。例えば、福岡空港整備の予算が「福岡振興予算」と呼ばれることはないが、那覇空港整備の予算は、沖縄振興予算として計上される。あるいは学校法人沖縄科学技術大学院大学の関連予算も沖縄振興予算である。

 安倍政権は、それに多少の上積みをしたにすぎない。さらに安倍首相は、21年度まで3000億円台を確保することを約束した。これは野田首相が、将来の政権を拘束するものとして応じられなかったものであるが、安倍首相は意に介さなかった。それを世論に大きくアピールし、「結局沖縄は金で動く」という宣伝材料にもなった。仲井真知事もまた、「これでいい正月が迎えられる」と応じ、県民の顰蹙を買った。

 仲井真知事が安倍首相と会談した翌日(12月26日)、沖縄タイムスの社説は、次のように書き出している。
「仲井真弘多知事は、別人のようだった。菅義偉官房長官の作ったシナリオの上で踊らされているパペット(操り人形)のようにも見えた」

②について
(これについては「日本にとって…」から全文をそのまま引用する。)

 では、「5年以内の普天間基地の運用停止」とは何か。

 辺野古新基地建設の工期は、約10年と見積もられている。しかし、世界一危険な基地といわれる普天間基地を10年間放置しておくわけにはいかない。「せめて5年以内に普天間基地の運用停止を」というのが仲井真知事の要望である。これに対して安倍首相はその実現を約束したという。

 しかし、そのイメージはまったく具体的ではない。5年以内に運用停止ができるのなら、即座に運用を停止することも可能ではないか。あるいは、普天間基地の機能を、一時的にせよ5年以内に県外、あるいは国外に移設することができるのなら、辺野古に新基地を建設し、再移設する必要はないのではないか。疑問が次々と湧いてくる。

 結局、政府が、知事選への影響も考えて、14年9月に、19年2月までの普天間の運用停止の見通しを発表すると、直ちに、日米合同委員会の米側代表が、それは「空想的な見通し」であり、「最も早くて22年」と断言した(14年10月16日付共同通信)。

 ここでも「アベコベ軽薄姑息うそつきオカルト」政権はちぐはぐな空約束を行なって恬として恥じない。

 安倍の成蹊大学での恩師(加藤節名誉教授)の厳しい安倍批判がネットで広く取上げられているが、その批判の中に次のような指摘がある。
「安倍さんを表現するとき、私は、二つの『ムチ』に集約できると思うのです。ひとつはignorantの無知、もうひとつはshamelessの無恥です。」
『安倍首相の政治思想史の恩師である加藤節成蹊大学名誉教授の安倍批判』から転載しました。)

 辺野古新基地反対の闘争はますます大きく力強くなっている。私は目取真俊さんのブログを愛読しているが、そのブログ『海鳴りの島から』を紹介しておこう。

 また、5日に行なわれた沖縄県議会選挙でも「辺野古ノー」という沖縄の民意が示された。翁長雄志知事を支える「オール沖縄」に拍手喝采を送り、「辺野古問題の経緯」を終わることにしたい。
《沖縄に学ぶ》(42)

沖縄返還後の闘い(10):辺野古問題の経緯(1)


 辺野古問題についてはすでに何度か取上げているが、今回は、鳩山首相嵌められた件から現在に至るまでの経緯を年表風にまとめて記録に残しておこうと思う。

09年9月16日
 民主党鳩山内閣が成立。
 鳩山首相は普天間の移動先は「国外、最低でも県外」という方針を打ち出す。

 この「国外、最低でも県外」という方針は、鳩山首相が独断的に言い出したことではなく、08年にまとめられた民主党の「沖縄ビジョン」に明記されている。また、政権交代を生む09年の総選挙の直前、岡田克也幹事長も、
「われわれは県外、あるいは国外に移転すべきだと主張しています」
と述べ、その理由を、
「沖縄という非常に狭いエリアに、嘉手納と普天間という大きな米軍基地が二つあり、これを今後30年50年と継続していくのか、ということが根本的な問題なのです。もし県内で移設したら必ず固定化するでしょう」
と正鵠を射た意見を述べていた。また、「政権政策マニフェスト」には
「日米地位協定の改定を提起し、米軍再編や在日米軍基地のあり方についても見直しの方向で臨む」
ことを掲げていた。これは沖縄だけの問題ではなく日本国全体にとっても解決すべき大きな問題であり、民主党政権のスタートはまことにまともだった事が分る。

 民主党政権が崩れていくきっかけは鳩山首相の「国外、最低でも県外」という方針の撤回であった。しかし、後にこれは外務省と防衛省のアメリカの傀儡官僚らによる偽の極秘資料を使った策略に嵌められたためだった。このことを私は「田中龍作ジャーナル」の2月4日の記事『外務省と防衛省が首相をハメ、辺野古に戻させた』で知った。この事件にも、この後に続く政治資金疑惑を使った鳩山・小沢降ろしにもCIAが関わっていると、私は思っている。

2010年12月9日
 沖縄県知事選挙。11月11日に告示され、同月28日に投開票された。


 自公推薦の仲井真弘多は、選挙公報で、「全国の0.6%の面積に74%の米軍基地はもうゴメンです」、「普天間基地は県外移設へ」、「国民全体の問題として日本の安全保障を考えるべき」と訴えた。

これは、普天間基地は国外へ、と主張する対立候補の伊波洋一との争点ばかしを狙った選対本部長翁長雄志那覇市長の巧みな選挙戦術でもあったが、今やいかなる条件を付けても、沖縄社会では、県内移設容認は受け入れられない状況が生まれていたことの反映でもあった。同時にそれは、「新基地建設反対」が、保革共通の主張として浮かび上がってきたことを意味していた。

2010年6月8日~2011年9月2日
 鳩山内閣の後継・菅直人内閣
 日米安保協議委が開かれる。日本側委員は松本剛明外相・北澤俊美防衛相、アメリカ側委員はクリントン米国務長官・ゲーツ米国防長官だった。
6月21日
 日米安保協議委共同発表

 この発表の中に、次のことが含まれていた。
 これまで目標としていた14年までの辺野古移設は無理であると認め、それでもなお、「普天間の固定化を避けるために」、14年の後のできるだけ早い時期に辺野古移設を実現すると合意した。普天間返還は、これまでの政策の大前提であった。ところがこのときから、普天間固定化が辺野古新基地建設を促す恫喝の手段になった。
 さらに日米両政府は、12年2月に普天間移設とパッケージになっていた嘉手納より南の5施設の先行返還を検討すると「共同発表」しているが、普天間は除外されていた。

2011年9月2日~2012年12月26日
 野田佳彦内閣
 野田内閣の対沖縄政策は、日米安保協議委の合意を受けて展開することになったが、菅政権時代が、沖縄と睨み合ったまま膠着状態を続けたのに対して、野田政権は、はじめは掌を返したような柔軟対応を取っている。

 たとえば、菅政権時代の前年9月の名護市議会選挙の直後、市長と市議会議長が上京した時、枝野幸男民主党幹事長や仙谷由人官房長官は、「政治的パフォーマンスに付き合う必要はない」と関係閣僚や政府高官との会見を阻止していた。北澤防衛大臣は、島袋前市長時代に決定していた米軍再編特措法関連の交付金を10年12月になって不交付とし、「反対するならそれなりの覚悟が必要」とうそぶいていた。

 ところが野田政権になると、9月末に斉藤勁官房副長官、10月には、川端達夫総務相(沖縄担当相)、一川保夫防衛相、玄葉光一郎外相などが相次いで沖縄を訪問し、マスコミから、「沖縄詣で」と揶揄されるありさまであった。斉藤官房長官は、沖縄県知事選の時、民主党執行部の規制を無視して伊波洋一候補を明確に支持した数少ない民主党議員の一人で、稲嶺名護市長とも旧知の間柄であった。

 こうした野田政権の対応の裏では、防衛相の地位を離れた北澤党副代表が、同じ10月に離任あいさつと称して沖縄を訪れ、「どんな困難があっても(辺野古移設を)やり抜く」と、島袋吉和前名護市長ら地元容認派を励ましていた。これより先の7月、前原民主党政調会長は、自民党の中谷元、公明党の佐藤茂樹と共に「新世紀の安全保障体制を確立する議員の会」の代表幹事として沖縄を訪れ、自公民いずれが政権を担おうとも、超党派で辺野古移設を推進していくとして、地元分断工作を強めていた。

 このようなチグハグでドタバタ喜劇的な民主党幹部の言動が続いているとき、アメリカでは財政難による軍事費削減(直接的にはグアムを米軍事拠点として再構築するための経費)をめぐるオバマ政権と議会の駆け引きが行なわれていた。

 日米安保協議委員会(2+2)が、辺野古新基地建設を確認した翌日、米上院軍事委員会は、「財政緊縮が厳しく求められ、さらに政治的・大衆的反対に直面している今、沖縄とグアムの両方に大規模な軍事施設を建設するという課題を達成することは、現実的時間枠の中では不可能である」として、2012会計年国防権限法から、グアム移転予算約1億5600万ドルを削除した。

 そして「委員会は、国防長官に対して、任務の一体性を維持し、合衆国と日本の経費負担を最小化するとともに、普天間海兵隊飛行場を速やかに沖縄に返還し、嘉手納基地周辺住民に対する騒音負担を軽減するという目的に立って、キャンプ・シュワブにおける高価な代替施設建設ではなく、嘉手納基地にある空軍装備・人員の転出と現在普天間にある海兵隊の航空装備・人員の嘉手納への移転の実現可能性を研究するよう指示」していた(NPO法人ピースデポ「核兵器・核実験モニター」379号、11年7月1日)。

 嘉手納統合案は、すでに11年5月6日付のゲーツ国防長官宛て書簡で、カール・レビン米上院軍事委員会委員長(民主)、ジョン・マケイン筆頭理事(共和)、ジム・ウェッブ委員(民主)によって勧告されており、それが公式化したといえよう。上院本会議もこの全額削減案を可決したが、下院が全額承認していたため、両院協議会で調整の結果、12月12日全額削除で合意され、12月末、12会計年国防権限法が成立した。

 米軍再編は、軍事的必要性や財政状況を考慮してなされるものであって、住民に対する危険性の除去を前提にして行われるわけではない。もしそうならば、はじめから危険性を高めないような配慮を行うはずである。その意味で、米政府と議会の考え方の食い違いは、新基地建設を再検討するチャンスであった。だが、議会の動きに対して、米政府は、普天間問題の進展を示すことによって議会説得の材料にしようとした。日本政府もこれに同調して見直しのチャンスを失したのである。

 2011年10月25日
 来日したパネッタ米国防長官と一川防衛相の会談が行なわれた。
 この会談で辺野古移設のための環境影響評価書を11年内に沖縄県に提出することが約束された。

11月14日
 県議会は全会一致で、
「環境影響評価書の年内提出断念を求める意見書」
を可決した。

 だが野田政権はこの全会一致の意見書を無視し、仕事納めの12月28日午前4時ごろ、沖縄防衛局は、ひそかに県庁の守衛室に環境影響評価書を運び込んだ。

 仲井真知事は、実務的手続きの流れとして、法令上、評価書の提出を拒否することはできないとしてこれを受理し、翌12年2月に「飛行場建設」に関する意見書、3月に「埋め立て」に関する意見書を提出した。そして「飛行場建設」については25項目175件、「埋め立て」については36項目404件の「不適切な事項」を指摘し、いずれも「評価書で示された措置では生活、環境の保全を図ることは不可能」と結論付けていた。またいずれもその前文で「(辺野古)移設は事実上不可能で、国内の他の地域への移設が合理的」と指摘していた。

(付記)
 私はアメリカ議会についての引用文中にある「国防権限法」という言葉に初めて出会った。ネット検索で調べてみた。田中宇(さかい)さんの
『人権抑圧策を強める米国』
という記事が分かり易く解説している。その記事の冒頭の数節を転載しておく。

 12月1日、米国の議会上院が、来年度分の「国防権限法」(NDAA)を可決した。この法律は毎年、国防総省の予算枠や、それに付帯する政策を決定するものだ。下院はすでに5月に通過しており、あとはオバマ大統領が署名すれば法制化される。

 今回の国防権限法には、米当局が、テロに荷担していると疑われる人々を、裁判所の逮捕令状なしに逮捕し、裁判や弁護士接見を認めることなく、必要がなくなるまで無期限に勾留できる条項が含まれている。対象からは、米国民と米国に合法的に在住する外国人が除外されているが、国防長官が議会に事情を説明すれば、米国民や米国在住者も逮捕・無期限勾留できる。

 新法における無期限勾留の対象は、アルカイダやタリバンの支持者や、911テロ事件に関与した者とされており、いわゆる「イスラム過激派」以外の人々は対象外だ。この点は、911以来の米国の政策から逸脱していない。

 しかしオバマ政権は12月9日、米国内におけるテロの脅威に対処する新政策を発表し、そこにはイスラム過激派と無関係な、ギャングによる暴力、性に関する暴力、職場での暴力などが、テロとして対処すべき対象として盛り込まれている。どこのコミュニティにもありそうな暴力沙汰が、アルカイダと同罪のテロとして扱われうる。今後の米国では、ウォール街占拠運動のデモに参加した市民とか、夫婦喧嘩で妻を殴った夫、職場で解雇され暴れた若者などが「テロリスト」として逮捕され、裁判も受けられないまま無期限勾留されるといった構図がありうる。

 この新政策をめぐっては当初、テロの脅威を与えそうな勢力として「イスラム過激派」が明記されていたが、大統領府(ホワイトハウス)が反対したので削除されたと、法案を作った上院議員たちが指摘している。オバマは「イスラムを敵視しない」と宣言する中東政策を展開しており、その関係で削除したと考えられる。共和党側は「イスラム過激派を対象から外したことで、アルカイダやタリバンと戦うという政策の焦点がぼけてしまった」とオバマを非難している。この非難は当を得ている。

 国防権限法案の策定主導者の一人である民主党のカール・レービン上院議員(軍事委員長)によると、大統領府は、国防権限法案の中の、米国民を対象にしないと明記した条項を削除するよう求めてきたという。オバマは、上院が法案の改訂に応じないなら署名を拒否して拒否権を発動し、法制化を阻止すると言っている。オバマは、法案が成立すると米当局のテロ捜査がやりにくくなると主張しているが、具体的に法案のどの部分に不満なのか明言していない。レービンの指摘が正しいなら、軍産複合体寄りの共和党に劣らず、オバマ自身も、米国民の人権を剥奪するのに熱心だということになる。

 ここにも就任時に喝采を浴びたオバマの化けの皮を剥がす事例があった。
《沖縄に学ぶ》(41)

沖縄返還後の闘い(9):オスプレイの普天間配備問題


 11万人参加という驚くべき大集会となった背景には何があったのだろうか。新崎さんは、それは「世代を超えた歴史的体験の共有」であった、と指摘して次のように論じている。

 先に、県議会を侵食している戦争体験の風化に触れたが、沖縄戦の直接的体験者の激減ということだけでいえば、沖縄社会全体についていえることであった。とくに、報道機関や教育現場には、直接の戦争体験者は、もはや1人もいない。にもかかわらず、教科書の記述が、修正・削除されようとしていることの意味を、もっとも敏感にとらえたのは、報道機関や教育現場にいる直接的な戦争体験を持たない世代であった。なぜいま教科書の記述が変えられようとしているのか。それは、今現在の政治的動向と固く結びついているはずである。教科書検定意見に直ちに反応できたか否かは、直接的戦争体験者の数の問題ではなく、現実感覚の差であった。歴史的体験は、現実の課題を通して、はじめて社会全体に共有化される。それが戦争体験の風化現象を押し戻す。

 沖縄社会が、改めて「沖縄戦とは何か」、「日本軍とは何か」を大衆的に問い返すきっかけになったのは、沖縄返還の際の自衛隊の強行配備である。二度目が82年の教科書検定、三度目が07年だといえよう。そのつど、新しい証言者が重い口を開き、その証言が記録され、複雑で多面的な戦争の実相が明らかになっていく。証言者と記録者の共同作業を通じて戦争体験の共有化は進む。このとき明らかになった、座間味村助役の妹の軍命に関する証言も、その一つである。それは、大江・岩波裁判にも大きな影響を及ぼすことになった(08年3月、大阪地裁は原告の請求を棄却した。原告側は控訴したが、大阪高裁も控訴を棄却。原告側はさらに最高裁に上告したが、11年4月、最高裁も上告を棄却した。裁判の経過は岩波書店編『記録沖縄「集団自決」裁判』に詳しい)。

 大会実行委員会は、県議会をはじめ、22の超党派的、あるいは非政治的団体によって構成されていたが、注目されるのは、「沖縄県遺族連合会」、「ひめゆり同窓会」、「青春を語る会」(九つの元女子学徒隊で構成)、「沖縄の未来を語る会」(「全沖縄旧制中等学校師範学校同窓会連絡協議会)などが顔を並べていることだろう。沖縄県遺族連合会が、89年から90年にかけての「<慰霊の日>休日廃止反対運動」では、反戦運動を担う市民団体とも共同歩調をとったことについてはすでに触れた。

 「青春を語る会」や「沖縄の未来を語る会」は、ネーミングそれ自体が意味深い。旧教育制度と共に母校が戦火の中で消滅してしまった彼女ら、彼らは、いかなる青春を、そして未来を語ろうとしているのか。会の名称それ自体が、「歴史的体験を語ることは、現在、あるいは未来に向けて、何らかの教訓を伝えることにほかならない」ということを示しているのではあるまいか。戦争体験者、とりわけ「集団自決」の体験者や目撃者が、忘れ去りたい残酷な記憶をあえて呼び起こしながら語るのも、歴史の忘却や歪曲が、現在や未来を歪めることにつながることを痛感するからであろう。

 今現在の政治状況を反映した教科書検定意見は、沖縄の問題ではなく、いわゆる「従軍慰安婦」問題などとも分かちがたく結びついた日本社会の歴史認識の問題にほかならなかった。仲里利信は、この教科書検定問題こそ、「オール沖縄」の出発点だと力説している。

 改めて仲里利信さんについて調べてみた。中里さんは県議会議長を務めた元自民党沖縄県連顧問だったが、辺野古基地建設に反対していた。自民党県連が「県外移設」の公約を撤回したことに抗議し、県連顧問を辞任し自民党からも離党した。教科書検定意見撤回を求める県民大会では、実行委員長を務め、その後「オール沖縄」の代表になっている。2014年の衆議院議員総選挙では沖縄の全4選挙区で辺野古反対派が自公を破って当選したが、その中の一人は中里さんだった。

 さて、「オール沖縄」あるいは「島ぐるみ」という言葉が頻繁に使われるようになったのは「オスプレイの普天間配備問題」が起こった頃からである。

 新型輸送機オスプレイは、90年代から、普天間代替基地への配備が予定されていたにもかかわらず、事故の発生率が高いなどの懸念が持たれていたこともあって、日本政府は米側にその計画を明らかにしないよう求めていた。11年6月、そのオスプレイを、突然翌年秋普天間基地に配備すると、県や宜野湾市に通告してきたのである。

 それに対して12年9月に9万5000人の県民を結集してオスプレイ配備に反対する県民大会が開かれたが、大会実行委員会の共同代表には、翁長雄志沖縄市長会会長が、県議会議長、連合沖縄会長などとともに共同代表に名を連ねていた。

 この大会を無視したオスプレイの強行配備に抗議して、普天間基地のゲート前で行われた抗議集会には、県民大会の共同代表も参加した。この集会は、座り込みによる基地封鎖行動に発展し、10月1目に実際にオスプレイが配備された後も連日、3年を越える現在もなお、雨の日も風の日も、普天間基地の二つのゲート(野嵩(だけ)ゲートと大山ゲート)前では、米兵の出勤時と退勤時に、オスプレイと海兵隊の撤退を直接米兵に呼びかける行動が展開されている。安倍政権が、辺野古の新基地建設を強行しようとした14年7月から始まった、キャンプ・シュワブ・ゲート前の座り込み行動、その延長線上にあるといってよい。このころから、島ぐるみ」とか、「オール沖縄」という言葉が頻繁に登場するようになった。

 県民大会の実行委員会は、オスプレイ配備撤回、普大間基地の早期閉鎖・返還、辺野古新基地建設反対を求める「建白書」を待った全県議、全市町村長もしくはその代行者などによって構成される150人規模の代表団を上京させた。当初は、年内上京を予定していたが、野田民主党政権による突然の国会解散で翌13年1月に繰り延べられ、要請相手も安倍政権に代わっていた。

 上京団は、13年1月27日、日比谷野外音楽堂で、「NO OSPREY東京集会」を開催した。集会の司会者は、照星守之自民党沖縄県連幹事長(県議)だった。集会には、全国の沖縄県人会や沖縄の闘いに共鳴する関東周辺の市民団体や個人など約4000人が集まった。

 だが、集会参加者による銀座のパレードに対しては、「日の丸」や星条旗を掲げた在特会などの右翼団体が、「売国奴」、「日本から出て行け」などの罵声を浴びせた。1950年代中期から現在に至るまで、さまざまな要請・要求を持った沖縄からの行動団が全国各地に出かけているが、ヘイトースピーチを浴びたのは、初めての体験だっただろう。日本は、こんな時代になっているのである。行動団に参加した県議の一人は、「日本から出て行け」という罵声に対して、「じゃ、そうしましょうか。と言いたくなるね」と漏らしていた。

 翌1月28日、上京団との面談をためらっていた安倍首相は、5分間だけ上京団と会って、全県議、全市町村長が署名した「建白書」を受け取ったが、要請に対しては、「私には私なりの考えがある」と応じた。そして翌2月の日米首脳会談で、米側が強く要求したわけでもないのに、自ら積極的に、集団的自衛権容認とともに、辺野古新基地建設促進を約束した。日米同盟の強化によって対中国対決路線をとろうとする安倍政権は、その歴史認識などに疑念を抱く米側に対して、集団的自衛権容認や辺野古新基地建設をすり寄りの材料にしたのである。そして、3月、沖縄県知事に対して、辺野古の公有水面埋立承認願書を提出した。

 政府が埋め立ての本体工事着工を宣言した翌日の15年10月30日付朝日新聞には次のような記事が載っている。
「13年2月、安倍首相はオバマ大統領とホワイトハウスで初めて会談した。このとき、大統領は首相に「(沖縄県に)埋め立て申請の提出をしてほしい」と、移設に向けた手続きを進めるよう直接迫ったという。当時は明らかにされなかったこのやり取りが移設の推進力になったと、政府関係者は解説する」。
 この政府関係者の解説に従えば、すべてはオバマ大統領の意のままに進んだということになる。

 13年2月、これが宗主国へのアベコベ軽薄姑息うそつき政権の尻尾振りの始まりだった。この1年数ヶ月後に現在進行中の強引な辺野古基地建設工事に猪突猛進を始めている。

 唐突だが、『週間金曜日 5月27日号』が「日本会議」を特集しているので、一つ思い出したことがある。自民党の多くの議員が日本会議や神道政治連盟に名を連ねていることを聞いていたが、愛読しているブログ「Everyone says I lave you !」さんが昨年10月18日に『週刊朝日』の記事を紹介していて、その中に第三次安倍改造内閣の閣僚たちの日本会議・神道政治連盟との関わりをまとめた次のような一覧表があった。
オカルト内閣
 私はこれまで「じゅげむじゅげむ ごこうのすりきれ…」みたいな呼称「アベコベ軽薄姑息うそつき」で安倍政権の特徴を表現してきたが、もう一つ「オカルト」を加えることにした。以後「アベコベ軽薄姑息うそつきオカルト」政権と呼ぼう。