2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《沖縄に学ぶ》(40)

沖縄返還後の闘い(8):参加者11万人の県民大会


 「沖縄問題の本質(9)」で琉球新報の社説『帝国書院教科書 文科省が「間違い」正せ』を紹介したが、その冒頭の文は
「2007年に公表された文部科学省の教科書検定結果は「集団自決」(強制集団死)の記述に関し「沖縄戦の実態について誤解する恐れがある」として修正を求めた。」
だった。この時の教科書検定意見の撤回を求める運動では、07年9月29日に宜野湾市の海浜公園に、およそ11万人が集まったという。このことについては
『「今日の話題」文部科学省は相変わらずの歴史捏造省』
『「今日の話題」高級官僚の低級ぶり』
で取り上げている。これらの記事(記事1・記事2と呼ぶ)と新崎盛暉著「日本にとって沖縄とは何か」を用いて、改めて沖縄での教科書検定問題を取り上げることにする。

 教科書検定問題が初めて沖縄で取上げられたのは82年であった。このときは日本軍による「住民虐殺」の記述削除に対する抗議運動であった。那覇市の与儀公園で行われた「住民虐殺記述削除に抗議し、よい教科書を求める県民大会」には参加者は、8000人と報じられている。しかし、このときは「侵略」を「進出」と言い換えるなどの歴史捏造検定内容もあり、中国や韓国から激しい抗議を受けた。このことが前面に出て、沖縄の問題はほとんど注目されなかった。このときの政府の対応は、対外的には教科書検定基準に近隣諸国条項を設けて事態収拾を図ったが、沖縄に関しても"県民感情に配慮して"次回検定では記述を回復することを明らかにしてとりあえず事態を収拾したのだった。

 それから25年後の07年3月30日、文科省が、沖縄戦時の「集団自決」から日本軍による強制の記述を修正・削除した検定結果を公表した。当然、翌日の沖縄タイムス・琉球新報両紙は、一面トップでこの問題を取り上げ、その他の紙面でも関連記事を掲載していた。このとき、東京新聞も一面トップで取上げていた。記事1ではその東京新聞の記事からの引用文を記録していた。それを再掲載しておく。

 文部科学省は30日、2008年度から使う高校用教科書(主に二年生用)の検定結果を公表した。第二次世界大戦の沖縄戦であった集団自決について、「近年の状況を踏まえると、旧日本軍が強制したかどうかは明らかではない」として従来の姿勢を変更。旧日本軍の関与に言及した日本史の教科書には、修正を求める検定意見が付いた。

 近現代史中心の日本史A、通史を扱う同Bの計十点のうち、八点が沖縄戦の集団自決に言及。「日本軍に『集団自決』を強いられたり」「日本軍はくばった手りゅう弾で集団自害と殺し合いをさせ」などと記述した七点に、「沖縄戦の実態について誤解するおそれのある表現」との意見を付けた。

 いずれも、検定に合格し現在出版されている教科書と同じ記述だが、出版社側は「追いつめられて『集団自決』した人や」「日本軍のくばった手りゅう弾で集団自害と殺しあいがおこった」などと、日本軍の強制に触れない形に修正し、合格した。

 集団自決については、作家大江健三郎氏の著書「沖縄ノート」などで、「自決命令を出して多くの村民を集団自決させた」などと記述された。これについて、沖縄・座間味島の当時の日本軍守備隊長で元少佐の梅沢裕氏らが、記述は誤りで名誉を傷つけられたとして、出版元の岩波書店(東京)と大江氏を相手取り、出版差し止めと損害賠償などを求めて2005年に大阪地裁に提訴した。

 同省は検定姿勢変更の理由を
(1)梅沢氏が訴訟で「自決命令はない」と意見陳述した
(2)最近の学説状況では、軍の命令の有無より集団自決に至った精神状態に着目して論じるものが多い
―と説明。発行済みの教科書で、同様の記述をしている出版社に情報提供し、「訂正手続きが出る可能性もある」としている。

 ちなみに、大江さんが訴えられた訴訟は「沖縄集団自決えん罪訴訟」あるいは「大江・岩波裁判」と呼ばれている。

 この検定意見が出されたときの政権は第一次安倍政権だった。「戦後レジームから脱却」・「美しい国日本を取り戻す」などと御託を並べ、教育基本法を改悪している。また、いわゆる「従軍慰安婦」問題に関する直接関与を否定する発言をして物議をかもしていた。新崎さんは「集団自決に関する検定意見も、安倍政権の意向を反映していたといえよう。」と指摘して、次のように続けている。

 07年5月には、名護市辺野古沖に掃海母艦「ぶんご」が派遣された。一方的な新基地建設のための事前調査支援という名目だが、安倍首相は、このような先例を見ない自衛隊出動を、「国家資源の有効利用」と言い放ってはばからなかった。米軍再編と絡む自衛隊の出動は、沖縄社会に、ある種の緊張感を生んだ。それは、いやでも、沖縄戦という沖縄社会最大の歴史的体験と結びつかざるを得ないからである。

 5月には、米軍再編関連自治体の前に餌をばら撒いて協力を促すような米軍再編特措法も成立した。05年10月の米軍再編合意(「日米同盟 未来のための変革と再編」)発表以後、小泉・安倍政権の基地政策は、地元をないがしろにするきわめて高圧的、一方的な性格を強めていた。

 それでは11万人の参加者を集めた07年9月29日の県民大会に至るまでの闘いの経過を追ってみよう。

5月14日
 豊見城(とみぐすく)市議会で検定意見撤回の意見書が可決。
 これを皮切りに、6月28日までに、41全市町村議会が、それぞれの地域における戦争体験にも触れながら、検定意見撤回を要求する意見書を採択した。採決の際、読谷村議会で1人の議員が退場したほかは、全会一致であった。

6月9日
 高教組、沖教組、「沖縄戦の歴史歪曲を許さず、沖縄から平和教育をすすめる会」(大江・岩波裁判支援組織)などによって構成される実行委員会の呼びかけで、「6・9沖縄戦の歪曲を許さない! 沖縄県民大会」が開かれた。3500人の参加を得て大成功といわれたが、82年の「県民大会」には、はるかに及ばなかった。

 このような動きに対して、県議会どうだったのか。

 逆に著しい立ち遅れを見せたのは、県議会である。82年には比較的早く全会一致の決議への動きを見せ、それを察知して政府が柔軟対応をとったが、07年は、全市町村の決議に突き上げられるかたちで、ようやく全会一致の決議にこぎつけた。後日、仲里利信県議会議長も、全市町村議会が「断固とした決意を持ってやったことに教えられた」と語っている(07年10月28日付沖縄タイムス)。

 県議会がもたついた原因の一つは、県議会内に直接戦争体験者が激減し、安倍首相やその周辺政治家などと、軽佻浮薄さや不勉強な性向を共有する若手保守派議員の発言力が増大していたことにある。いわば戦争体験の風化現象が、県議会内部を侵食していたといえる。だが、最終的には、仲里議長が自らの内に62年間封印し続けていた幼児期の戦争体験を語ることによって県議会の状況は、一変する。8歳のときに戦争に巻き込まれ、弟を失った議長の発言は、安倍政権の意向を反映した検定意見に正面切って刃向かうことをためらっていた若手保守派議員の観念的な理屈を一挙に吹き飛ばすことになった。

 しかし、県議会や市議会・町村議会議長会などの検定意見撤回要請に対して、文科省は、木で鼻をくくるような態度に終始した。それが島ぐるみの怒りに火をつけた。それは、沖縄に対する歴史的な差別的処遇の記憶とも結びついていた。
7月11日
 県議会は、文科省の誠意を欠いた対応を具体的に批判しつつ、前例のない同一会期内2度目の意見書を可決した。

7月18日
 子ども会育成連絡協議会、婦人連合会などの呼びかけで、県民大会準備委員会が発足

7月29日
 参院選の投開票が行われた。沖縄選挙区では、革新無所属(沖縄社会大衆党副委員長)の糸数慶子が、自民党現職に大差を付けて圧勝。

8月16日
 仲里県議会議長を実行委員長とする「教科書検定意見撤回を求める沖縄県民大会」実行委員会が発足

 以上のように、7月初旬から、これまでとは明らかに違う大きなうねりが起こっている様子がうかがわれる。7月29日の参院選の背景とその後の県政変化について、新崎さんは次のように分析している。

 その背景には、明らかに教科書検定問題があった。もちろん自民党現職も教科書検定意見を批判していたが、彼を支える自民党本部が教科書検定意見の正当性を主張している以上、できるだけこの問題を避けざるを得なかった。

 さらに沖縄からは、辺野古現地闘争を含む反基地闘争のシンボルともいうべき山内徳信(元読谷村長)が、社民党の比例区2人の当選者の1人になった。沖縄からの10万を超える票が彼を押し上げた結果であった。過去の歴史的体験と、現実の基地問題が結びつき、政府との対決姿勢が明確になった。

 全国的にみても、自公与党が敗北し、政権交代が取り沙汰されるようになるのもこの参院選からである。

 このような政治情勢の急変を受けて、それまで態度をあいまいにしていた仲井真弘多知事も大会参加の意向を示し、知事や教育長が県職員や教員に大会参加を呼びかけるようになった。基地容認派の知事は、基地受け入れ反対の世論と、一方的な政策を押し付けようとする政府の板ばさみになりながら、教科書検定意見や掃海母艦「ぶんご」出動に不快感を示しつつも、政府との妥協点を探っていたが、その上うな立場からいっても、巨大な世論の流れに背を向けるのは、得策ではなかった。こうした思惑も交えて、島ぐるみの輪はさらに広がった。

 だが、そんな思惑を待った知事や教育長が号令をかけたからといって、人が集まるわけではない。70年前後には、その組織力を誇った自治労や教組など労働組合の組織的動員力も、かつての比ではない。実行委員会の構成団体は、もともと大衆動員とは無縁の組織である。うねりにも似た世論の盛り上がりが、せめて5万人規模の人たちを動かして欲しい、それが会場に向かった人びとの共通の願いであった。

 そして当日、大会参加者たちは、自分が、海浜公園を埋め尽くす史上初といっても言い過ぎではない大集会の参加者の一人であることを知った。ある新聞記者は、「その日、記者の多くが会場の光景に涙ぐみ、鼻水をすすりながら取材に当たっていた」(07年11月1日付琉球新報)と書いている。

 この11万人が参加した県民大会について、記事2で書いた感想を転載しておこう。

 9月29日に宜野湾市で開かれた「集団自決の軍命を削除した文科省の教科書検定意見の撤回を求める県民大会」には11万人の参加者があった。沖縄県民の約8%にあたる。これはすごいことである。迫力のある「非暴力直接行動」だ。東京都の人口は沖縄県の人口の約10倍だから、東京でこれと同じ規模の集会・デモが行われると100万人の直接行動となる。望むべくもないことだが、これほどの規模の直接行動は即自に政権を顛覆する「政治的リコール」であり、もう革命といってもよいだろう。

 ちなみに、新崎さんがこの参加者数に難癖をつけたネトウヨ的な情けない人たちがいたことを記録している。

 沖縄全県民の1割に近いこの尋常ならざる人の数は、一定の衝撃力を待った。検定の政治的中立性、正当性を強調していた政府にも、一定の揺らぎを生じさせた。

 逆に、大会参加者の数を4万数千人、あるいは1万数千人だと言いつのって、大会の持つ政治的効果を減殺しようと試みる者たちも登場してきた。大会の翌日から、沖縄の新聞社には、主として県外から、「11万人という数字はおかしい。どうみても2万そこらだ」、「虚偽報道だ。そうしてまで県民を煽っていいのか。訂正報道せよ」といった電話やメールが、相次いだという(07年10月28日付沖縄タイムス)。それ以前には見られなかった現象である。

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《沖縄に学ぶ》(39)

沖縄返還後の闘い(7):SACO合意(3)


(前回からの続きです)

《普天間問題→辺野古問題》

 名護市の市民投票の結果を受けて、日本政府に翻弄されながら沖縄県知事と名護市長の絡み合った迷走が続く。

 この結果は、どちらかといえば保守的なこの地域に長く君臨してきた比嘉市長にとって大きな衝撃だったに違いない。彼は、投票日の翌日、与党議員団に、「基地受け入れは断念せざるを得ない」ともらしていた。

 比嘉名護市長は、大田知事に面会を求めた。助けを求めたといったほうがいいのかもしれない。もしここで知事が市長と会い、共同で、自分たちは市民投票の結果(民意)を尊重し海上基地建設に反対する、と宣言していたら、政府に付け入る隙を与えなかっただろう。だが、そうはならなかった。知事もまた、投票結果の重みを感じつつも、政府の圧力との狭間で逡巡していた。知事は、日程調整が困難との理由で面会に応じなかった。

 結局、予算折衝で上京する知事を追って上京し、東京ででも会いたいと希望していた市長を捕まえたのは、政府の側であった。
 97年12月24日、急遽、橋本・比嘉会談がセットされ、北部振興を願う比嘉市長が基地を受け入れて辞任、自らの政治生命に終止符を打つことを表明、という涙の一幕劇が演じられた。辞任しなければリコールが待っていたし、再出馬しても当選は不可能に近かった。

 同じ日、橋本首相は大田知事に比嘉市長の「英断」を伝え、膝詰談判で決断を追った。しかし知事は首を縦に振らず、一月中旬に首相と会って最終決断を伝えることを約した。

 市民の意思を踏みにじった市長の行為と、市長をそこに追い込んだ政府、自民党に対する民衆の怒りは、知事に海上基地建設反対の意向表明を迫る力に転化した。その先頭に立った女性たちのグループは、「心に届け女たちのネットワーク」に結集して県庁に押しかけた。98年1月10日ごろになると、知事はようやく反対の意向表明を示唆するようになった。知事が、三選出馬を決意したためともいわれた。知事選に出るとなれば、反対以外の選択肢はありえなかった。

 知事が反対の意向を固めたと伝えられると、今度は政府が、日程調整の困難を理由に知事との会見を拒みはじめた。追い詰められた知事は、2月6日、橋本首相と会えないまま、海上基地反対の意向を正式に表明した。名護市長選投票日2日前のことである。最悪のタイミングであった。

 比嘉市長の辞任に伴う市長選に、市長の後継者として立候補したのは、豊富な行政経験と実務能力を誇る助役で名護市生え抜きの岸本建男であった。反対派からは、名護市に隣接する本部(もとぶ)町出身の社民党県議玉城義和が社民党を離れて立候補した。市民投票の結果を踏まえれば、反対派の勝利は間違いないと思われた。玉城陣営は、海上基地問題を前面に押し出し、岸本陣営は、「ヘリ基地の是非を問う選挙ではなく、名護市政を運営する人間の選択」だとして、基地問題を争点からはずすことに腐心していた。そこに知事の意向表明である。岸本候補は、間髪を入れず「海上ヘリ基地は、知事の判断に従う」と宣言した。岸本候補は、比嘉市長の後継者としての制約から抜け出すことができた。

 名護市長選の投票結果は
岸本1,6253票、玉城1,5103票
で、争点隠しの岸本が制した。

 こうした選挙における争点隠しは今に始まったことではないが、自民党の得意技である。2年前の総選挙では、アベコベは解散直後の会見で次のように述べている
「この解散は、アベノミクス解散です。アベノミクスを前に進めるのか、止めてしまうのか、それを問う選挙です。」
 そして選挙が終わると、承知のように、「その他の問題でも信任を得た」として暴走した。
 もう一つ、7月の参議院選挙に向けて、5月3日のNHKテレビに出演した自民党の高村副総裁は次のように言ったそうだ。「改憲は参議院選挙の争点にならない」「国民が経済と言えば経済が争点」。  残念ながら、こうしたまやかしを見抜けないお人好しがずいぶんと多いのですよねぇ。

 さて、名護市長選を制した自民党の次のターゲットは、当然のこと、沖縄県知事選であった。

 もう一歩のところまで知事を追い込みながら大魚を逸した政府、自民党は、名護市長選挙の結果に一安心はしたものの、「信義を破った大田県政と手をつなぐことは絶対にしない」(野中広務自民党幹事長代理、98年7月1日付琉球新報)として、大田県政が続く限りいかなる振興策も実現しないかのような閉塞感を煽り、次期知事選に現実対応型候補が浮上することを期待した。

 この期待に応えて登場したのが、沖縄経営者協会会長として、大田知事とともに、95年10月の県民総決起大会の壇上にいた稲嶺恵一である。稲嶺陣営は、大田知事が政府の信頼を失ったことが「県政不況」を生んだと批判し、県政与党だった公明党も、「大田基軸の自主」投票という奇妙な表現で態度を変え始めていた。

 肝心の海上基地については、稲嶺候補も反対であるとし、臨空港型産業とセットになった15年間の使用期限付き軍民共用空港を造るという公約を掲げた。それまで「海上基地こそ最良の選択肢」としてきた政府(小渕恵三首相)も、知事選の投票日直前、「海上基地の見直し」を表明して稲嶺候補を支持した。当時県議で、自民党県連の幹事長だった翁長雄志は次のように言つている。
 「(知事選の公約に)あれを入れさせたのは僕だ。防衛省の守屋武昌さん(元事務次官)らに「そうでないと選挙に勝てません」と。こちらが食い下がるから、向こうは腹の中は違ったかもしれないけれど承諾した」(2012年11月24日付朝日新聞)

11月15日、沖縄県知事選挙の結果
 稲嶺恵一 37,4833票
 大田昌秀 33,7369票
 で、稲嶺恵一が知事に就任した。

 稲嶺知事は、知事就任から約1年後、選挙公約の軍民共用空港の建設候補地は、検討の結果、辺野古沿岸域が最適であると政府に伝え、名護市長にも受け入れを要請した。政府は早速沖縄政策協議会を開き、北部地域振興、移設先及び周辺地域振興、跡地対策を明らかにし、10年で1000億円の北部振興予算確保を表明した。

12月23日
 名護市議会は、徹夜審議の結果、辺野古沿岸域への普天間代替施設の移設促進を決議。
12月26日
 岸本名護市長は、名護市内で青木幹雄官房長官と会談し、翌27日、代替施設受け入れを表明。
 このとき市長は
「基地の負担は日本国民が等しく引き受けるべきだが、……どの県もそれをなす意思はなく、またそのための国民的合意も形成されないので……これ以上の軍事施設の機能強化は容認できないという多くの市民の意思があることも承知しているが、受け入れを容認せざるを得ない」と述べている。そしてさらに、七つの前提条件を挙げ、「このような前提が確実に実施されるための具体的方針が明らかにされなければ、私は移設容認を撤回する」と市民に約束した。

 安全性の確保

 自然環境への配慮

 既存の米軍施設等の改善

日米地位協定の改善および受け入れ施設の使用期限15年

 基地使用協定締結

基地の整理縮小

 北部振興策の確実な継続


 岸本市長のこの意向表明を受けて政府は、28日、普天間移設問題に関する政府の取組方針を閣議決定した。「15年使用期限付き」などという条件が米側に受け入れられるはずはなかったにもかかわらず、稲嶺恵一知事や岸本建男市長の要請を重く受け止め、米国との協議で取り上げると表明した。反対世論と日米両政府の圧力の板挟みになりながらこのような提案をした稲嶺知事は、これを「苦渋の選択」と言った。

 もちろん政府が、この問題について対米交渉をした形跡はない。既成事実を積み上げる中で、基地機能に影響のある条件は、なし崩し的に曖昧化してしまうつもりだったのだろう。その後、具体的な場所や工法について協議が繰り返され、結局、15年使用期限付き軍民共用空港は、辺野古沿岸沖2キロのリーフ(サンゴ礁の浅瀬)に建設されることになった。

 「沖縄問題の本質(9)」でも取り上げたように、この案は「大浦湾から辺野古沿岸を埋め立てV字型に2本の滑走路を持ち、強襲揚陸艦も接岸可能な港湾施設や弾薬搭載場も持つ」という現在の案へとすり替えられていく。その経緯は次のようである。

 05年10月29日、日米安保協議委(「2+2」)は、「日米同盟 その望ましい未来と変革」を発表した。その中で、これまで沖縄県や名護市と協議してきた15年使用期限付き軍民共用空港は沖縄側の頭越しにご破算にされ、辺野古崎のキャンプ・シュワブ兵舎地区を横切り、北東は大浦湾に、南西は辺野古海上にはみ出す1800メートルの滑走路を持ち、しかも大浦湾側には、逆L字型に、格納庫、燃料補給用桟橋、係船機能付護岸(佐世保に常駐する強襲揚陸艦用岸壁ともいわれる)を持つ空港が建設されることになった。

 このころからヤマトのメディアの中には、「沖縄が15年使用期限とか、軍民共用などの条件を付けたことが事態を複雑にした」とか、反対運動に断固たる態度をとれと主張する論調(10月9日付日本経済新聞社説、11月4日付読売新聞社説)なども現れ始めた。

 翌06年5月の「再編実施のための日米のロードマップ」で辺野古新基地の滑走路は、V字型の二本になった。また、このロードマップでは、在沖米海兵隊員8000人と家族9000人が14年までにグアムに移転することが決まり、そのためのグアムにおける基地整備の一部を日本政府が負担することも約束された。

 もともと沿岸案は、地域住民に影響が大きいとして除けられた案であった。琉球新報と沖縄テレビの合同世論調査によれば、沿岸案支持はわずか7%で、その他は、県外移設27.4%、国外移設29.4%、普天間基地の即時閉鎖・無条件返還28.4%などとなっていた。稲嶺知事も、沿岸案に猛反発して海兵隊の県外移駐を主張し始めた。

 さて、ここまでの締めくくりとして、久し振りに翁長知事の陳述書から普天間問題辺野古問題を取り上げている部分を引用しよう。

 政府は、県民が土地を一方的に奪われ、大変な苦痛を背負わされ続けてきた事実を黙殺し、普天間基地の老朽化と危険性を声高に主張し、沖縄県民に新たな基地負担を強いようとしているのです。私は日本の安全保障や日米同盟、そして日米安保体制を考えたときに、「辺野古が唯一の解決策である」と、同じ台詞を繰り返すだけの政府の対応を見ていると、日本の国の政治の堕落ではないかと思わずにはいられません。

 また、政府は過去に沖縄県が辺野古を受け入れた点を強調していますが、そこには、政府にとって不都合な真実を隠蔽(いんぺい)し、世論を意のままに操ろうとする、傲慢(ごうまん)で悪意すら感じる姿勢が明確に現れています。

 平成11年、当時の稲嶺知事は、辺野古を候補地とするにあたり、軍民共用空港とすること、15年の使用期限を設けることを前提条件としていました。つまり、15年後には、北部地域に民間専用空港が誕生することを譲れない条件として、県内移設を容認するという、苦渋の決断を行ったのです。さらに、当時の岸本市長は、知事の条件に加え、基地使用協定の締結が出来なければ、受入れを撤回するという、厳しい姿勢で臨んでいました。

 沖縄側の覚悟を重く見た当時の政府は、その条件を盛り込んだ閣議決定を行いました。ところが、その閣議決定は、沖縄側と十分な協議がなされないまま、平成18年に一方的に廃止されたのです。

 当時の知事、名護市長が受入れに際し提示した条件が廃止された以上、受入れが白紙撤回されることは、小学生でも理解できる話です。

 私は、政府が有利に物事を運ぶため、平然と不都合な真実を覆い隠して恥じることのない姿勢を見るにつけ、日本国の将来に暗澹(あんたん)たるものを感じずにはいられません。

(中略)

 平成27年4月に安倍総理大臣と会談した際に総理大臣が私におっしゃったのが、
「普天間の代替施設を辺野古に造るけれども、その代わり嘉手納以南は着々と返す。またオスプレイも沖縄に配備しているけれども、何機かは本土のほうで訓練をしているので、基地負担軽減を着々とやっている。だから理解をしていただけませんか」
という話でした。それに対して私は総理大臣にこう申し上げました。
「総理、普天間が辺野古に移って、そして嘉手納以南が返された場合に、いったい全体沖縄の基地はどれだけ減るのかご存じでしょうか」
と。これは以前、当時の小野寺防衛大臣と私が話をして確認したのですが、普天間が辺野古に移って、嘉手納以南のキャンプキンザーや、那覇軍港、キャンプ瑞慶覧(ずけらん)とかが返されてどれだけ減るかというと、今の米軍専用施設の73.8%から73.1%、0.7%しか減らない。では、0.7%しか減らないのはなぜかというと、普天間の辺野古移設を含め、その大部分が県内移設だからです。

 次に総理大臣がおっしゃるようにそれぞれ年限をかけて、例えば那覇軍港なら2028年、それからキャンプキンザーなら2025年に返すと言っています。それを見ると日本国民は、「おお、やるじゃないか。しっかりと着々と進んでいるんだな」と思うでしょう。しかし、その年限の後には、全て「またはその後」と書いてあります。「2028年、またはその後」と書いてあるのです。沖縄はこういったことに70年間付き合わされてきましたので、いつ返還されるか分からないような内容だということがこれでよく分かります。ですから、私は、総理大臣に「沖縄の基地返還が着々と進んでいるようには見えませんよ」と申し上げました。

 それから、オスプレイもほぼ同じような話になります。オスプレイも本土の方で分散して訓練をしていますが、実はオスプレイが2012年に配備される半年ぐらい前から沖縄に配備されるのではないかという話がありました。当時の森本防衛大臣などにも沖縄に配備されるのかと聞きに行きましたが、「一切そういうことは分かりません」と言っておられました。

 その森本さん自身が学者時代の2010年に出された本に「2012年までに最初の航空機が沖縄に展開される可能性がある」と書いておられます。防衛省が分からないと言っているものを、一学者が書いていてそのとおりになっているのです。私はその意味からすると、日本の防衛大臣というのは、防衛省というのはよほど能力がないか、若しくは県民や国民を欺いているかどちらかにしかならないと思います。森本さんの本には「もともと辺野古基地はオスプレイを置くために設計をしている。オスプレイが100機程度収容できる面積が必要」ということが書いてあります。そうすると今24機来ました。何機か本土に行っています。しかし、辺野古新基地が建設されると全て沖縄に戻ってくるということです。それが予測されるだけに、私は総理大臣にこのような経緯で、政府が今、沖縄の基地負担軽減に努めているとおっしゃっていることはちょっと信用できませんということを申し上げました。
 まさに、属国の面目躍如といったアベコベ軽薄姑息うそつき政権の言動が厳しく指摘されている。
《沖縄に学ぶ》(38)

沖縄返還後の闘い(6):SACO合意(2)


 大田知事は、地位協定改定の要求とともに、沖縄の過重な基地負担の軽減を求める「在沖米軍基地返還アクションプログラム(基地返還AP)」を提出しその実現を政府に要求していた。基地返還APは沖縄にある米軍基地を95年から20年後の2015年までの間に、3段階に分けて順次返還させ、2015年には嘉手納基地を含む沖縄の全米軍基地の撤去を求めるという計画だった。その基地返還APの「象徴」であり第1期の基地返還計画の「目玉」が、米軍普天間飛行場の返還だった。

 SACO合意は普天間返還を柱とする米軍基地11施設の返還を盛り込んでいる。沖縄の怒りの沈静化を図ったものであり、基地返還APの第1期返還計画を踏まえたものだった。しかし、SACO合意の具体的な中身は、沖縄県の求めたものとは全く異なる形で展開されていった。

 いま沖縄県が強く抵抗している「普天間問題」は、実はこのSACO合意のあり方が原因だった。SACO合意は、「普天間」を含む在沖米軍基地11施設の返還を合意したが、「普天間」を含む8施設がその所属部隊や基地機能を「沖縄の既存基地内に移設した上で返還する」という「移設条件付き」の返還合意だったのだ。「移設条件」が付いたため、SACO合意は大半が2000年度末までの「返還」実現を合意しながらも難航し、合意から15年を経過した現在も普天間をはじめ、北部訓練場、キャンプ桑江など主要基地のほとんどが未返還のままとなっている。

 次の表はSACO合意に盛り込まれた返還予定の米軍基地の一覧表であり、その後の返還進捗を記入している。
(「沖縄と…」からの転載した表だが、「沖縄と…」が出版されたときにはギンバル訓練場はまだ返還されていなかったので、私が追記した。)
沖縄米軍基地返還の現状
 なお、SACO合意は
「http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/usa/hosho/saco.html」
で全文を読むことができます。
 また、SACO合意の進捗状況は
「http://www.mod.go.jp/j/approach/zaibeigun/okinawa/saco_final/sintyoku.html」
で全文を読むことができます。


 では、SACO合意の問題点を具体的に見ていこう。

 SACO中間報告では普天間基地の返還条件について「日米共同の研究が必要」と述べていたが、SACO合意では「普天間に関する特別作業班に対し、次の「3つの具体的代替案」を提示してその検討を求めている。
(1)ヘリポートの嘉手納飛行場への集約
(2)キャンプ・シュワブにおけるヘリポートの建設
(3)海上施設の開発及び建設
 特別作業班はこの三案を検討した結果、次のように結論付けた。
「海上施設は、他の2案に比べて、米軍の運用能力を維持するとともに、沖縄県民の安全及び生活の質にも配意するとの観点から、最善の選択であると判断される。さらに、海上施設は、軍事施設として使用する間は固定施設として機能し得る一方、その必要性が失われたときには撤去可能なものである。」
 この結論が「辺野古問題」の発端となった。
 「辺野古問題」については「沖縄問題の本質(9)」で取り上げたが、SACO合意から現在に至るまでの問題の経緯を今回の最後のテーマにして追ってみることにする。

 また、北部訓練場の返還には次のような条件がつけられていた。
「北部訓練場の過半(約3,987ヘクタール)を返還し……北部訓練場の残余の部分から海への出入を確保するため、平成9年度末までを目途に、土地(約38ヘクタール)及び水域(約121ヘクタール)を提供する。」
「ヘリコプター着陸帯を、返還される区域から北部訓練場の残余の部分に移設する。」
 これが東村高江(ひがしそんたかえ)周辺のヘリポート建設問題を生むことになった。

 いま私が利用している参考書には高江ヘリパット問題の記事がない。ネットではたくさんの記事がアップされている。その中から次の二つの記事を紹介しておこう。
『<沖縄>高江ヘリパッド 住民が非暴力で阻止する米軍海兵隊の北部訓練場』

 「まさのあつこ」(ジャーナリスト)という方の記事で、写真をふんだんに用いて、これまでの住民運動を追っている。
 もう一つは池尾靖志(立命館大学 非常勤講師)という方の論文で、高江ヘリパット問題から「抑止論に依拠した安全保障政策」の破綻を論じている。
『高江区のヘリパッド建設反対運動から見える日米安保体制の矛盾』


 ところで、上記の表に追記したギンバル訓練場の返還も、08年(H20)年1月に「ヘリコプター着陸帯を金武ブルー・ビーチ訓練場へ、その他の施設をキャンプ・ハンセンへ移設後、返還する」ことが日米合同委員会で合意されたことでやっと実現したのだった。

 さて、このようなまやかしに満ちたSACO合意の実施に対して、沖縄はどのように対峙しただろうか。特に普天間返還が辺野古問題に拡大されて行った経緯に焦点を絞って見ていこう(以下は「日本にとって…」を用いています)。

 「普天間に関する特別作業班」が第三案「海上施設の開発及び建設」を選んだ翌年(97年1月)、日米両政府はその設置場所を「キャンプ・シュワブ沖=名護市辺野古沖」とすることに合意した。地元は、比嘉鉄也名護市長も市議会も、地域ぐるみで猛反発した。この動きに対して大田知事はどうしたか。

 前回、「代理署名拒否以来、沖縄のため頑張ってきた大田知事は橋本との会談で変節してしまう」と書いたが、その様子がここでも見られる。大田知事は、「第一義的に地元自治体と国の問題」と傍観者的態度をとったのだった。そして、当初は那覇防衛施設局の事前調査への協力要請に「県との同席が前提」と拒否していた比嘉市長も、県に見放され、4月18日、代替施設建設には原則として反対と言いつつ、事前調査容認に態度を変えた。すると大田知事は、名護市長と会見して、市長の立場を支持し、事前調査のための辺野古沖ボーリング調査を容認した。知事は、代理署名拒否以前の段階に逆戻りしていた。

《名護市民による市民投票》

 だが、地元住民は黙っていなかった。県民投票の体験を生かして、ただちに自己決定権の獲得めざして動き始めた。6月6日、地元辺野古の「命を守る会」や「ヘリポートいらない名護市民の会」など21団体が、「ヘリポート基地建設の是非を問う名護市民投票推進協議会」を結成し、市民投票条例制定請求に乗り出した。

 このころにはすでに市長や市議会与党は、海上基地を容認することと引き替えに北部地域振興策を引き出すという方向に踏み切っていたので、市民投票条例の制定には難色を示していた。しかし、市民投票条例制定請求署名数が、市長選挙で比嘉市長が得た票を上回り、有権者の46%(17、539票)に達すると態度を一変し、市民投票の内容を変更して条例を制定することにした。その条例案は次のようであった。

 市長は、海上ヘリ基地建設の賛否を問う条例案を、 「賛成」
「環境対策や経済効果が期待できるので賛成」
「反対」
「環境対策や経済効果が期待できないので反対」
という四択方式に修正し、現状維持か、振興策かの選択にすり替えた。
 このような姑息な内容があったが、一応条例は成立した。そして、市民投票の実施日は12月21日に設定された。

 条例成立と同時にヘリポート基地建設を進めたい建設業界を中心とする北部地域の経済人などによって組織される「名護市活性化促進市民の会」が、『「環境対策や経済効果が期待できるから賛成」に○を!』という署名運動を開始した。

 市民投票の実施日が近くなると政府までもが大キャンペーンを繰り広げた。11月に入ると、
村岡兼造官房長官、 梶山静六前官房長官、 山中貞則自民党税調会長
など、沖縄にゆかりのある政府高官や自民党幹部が相次いで名護を訪れ、海上ヘリ基地建設への協力を要請し、北部振興に関する要望を聞いた。那覇防衛施設局は、二人一組の職員にカラー刷りのパンフレットを持たせて名護市の全戸を協力要請のために戸別訪問させた。

 市民投票推進協を改称発展させた「海上ヘリ基地建設反対協議会」がこの大キャンペーンに対抗して立ち上がった(以下、直接引用します)。

 草の根の民衆一人ひとりの意思を結集して、日米両政府が押し付ける軍事基地建設に明確な反対の意思を突きつけようとする運動への共鳴・共感は、名護地域を越え、さらには沖縄を越えて拡がっていった。とくに、これまで一貫して普天間基地の撤去を要求してきた宜野湾市民の多くが名護へ駆けつけ基地被害の大きさと危険性を訴えた。宜野湾の女性たちは、「カマドゥー小(グワー)たちの集い」(カマドゥーは、沖縄の昔の女性の一般的な名前。小は、接尾語)を立ち上げ、地元の女性とペアで各戸を訪問し、「わたしたちが体験している恐怖や苦悩をあなたたちには味わわせたくない」として新基地建設拒否を呼びかけた。宜野湾の人びとの働きかけで、基地問題を実感した人たちも少なくなかった。

 賛成派の票集めにもっとも効果があったのは、不在者投票という名の管理投票であった。企業に動員目標を与え、送迎、監視付きで行われた不在者投票は、有権者の19.99%(投票者総数の24.24%)にのぼった。投票者の4分の1は、投票日前にすでに投票をすませていたのである。そのほとんどが賛成票であると思われた。賛成派は、物量大作戦と謀略的集票活動の成功を確信しており、賛成派の代表は、「一票差でも勝ちは勝ち」「市長は投票者の過半数の意思に従うのが当然」と自信満々だった。

 それでも名護市民は、基地を拒否した。開票結果は、投票率82.45%、「賛成」8.13%、「環境対策や経済効果が期待できるので賛成」37.18%、「反対」51.63%、「環境対策や経済効果が期待できないので反対」1.22%であった。名護市民投票は、地域住民の自己決定権の獲得をめざし、生活(豊かさ)の内実を問い、人間としての誇りを示した。

《沖縄に学ぶ》(37)

沖縄返還後の闘い(5):SACO合意(1)


 今回は代理署名訴訟後から、95年11月に設置されたSACO(沖縄に関する日米特別行動委員会)の最終報告(SACO合意と呼ばれている)が出された96年12月までの沖縄と日米政府の動向を追うことにする

《県民投票》

 代理署名を拒否した太田知事は、地位協定改定に加え、沖縄の過重な基地負担の軽減を求める「在沖米軍基地返還アクションプログラム(基地返還AP)」を示し、それの実現を政府に迫っている。基地返還APは沖縄にある米軍基地を95年から20年後の2015年までの間に、3段階に分けて順次返還させ、2015年には嘉手納基地を含む沖縄の全米軍基地の撤去を求める計画だった。その基地返還APの「象徴」であり第1期の基地返還計画の「目玉」が、米軍普大間飛行場の返還だった。これに対する日米政府の対応は次のようだった。 96年1月
 橋本龍太郎、首相に就任
「沖縄と…」は村山首相の退陣について次のように書いている。
『 少女暴行事件を契機に沖縄で急速に高まった米軍基地撤去・返還のうねりは、日米安保の根幹をも揺るがし、難問を前に解決を見いだせない村山首相は、十数年後の民主・社民・国民新党の三党連立政権で普天間問題などの解決に行き詰まり退陣に追い込まれた鳩山由紀夫首相と同様に、辞任を余儀なくされました。』

(以下は「日本にとって…」を用いています。)

96年4月12日
 橋本首相はモンデール駐日米大使と会談し、その共同記者会見で突如、普天間基地の全面返還で合意したと発表。これがテレビで生中継され、大々的に宣伝された。

96年4月15日
 日米安保協議委員会(2+2 閣僚会合)は、SACOの中間報告を受けて、普天間基地を含む在沖米軍基地11ヵ所の全部及び一部を返還することを決定。

 4月12日の橋本の発表は、明らかにSACO中間報告の目玉部分を先取りしたものである。SACOの中間報告には次のように書かれている。 『今後5~7年以内に、十分な代替施設が完成した後、普天間飛行場を返還する。施設の移設を通じて、同飛行場の極めて重要な軍事上の機能及び能力は維持される。このためには、沖縄県における他の米軍の施設及び区域におけるヘリポートの建設、嘉手納飛行場における追加的な施設の整備、KCー130航空機の岩国飛行場への移駐及び危機に際しての施設の緊急使用についての日米共同の研究が必要となる』

96年4月17日
 来日したクリントン米大統領と橋本首相によって、日米安保共同宣言が発表された。

 こうした日米政府動向は明らかに、1995年の民衆決起に対応した慰撫作戦であり、クリントン米大統領の来日による安保再定義(「日米安保共同宣言」発表)を容易にする政治状況を作り出すための演出であった。

 こうした日米政府の動きに対して、反戦地主会、違憲共闘、一坪反戦地主会は、4月15日(大阪)と16日(東京)に、「軍用地の強制使用を許さない大阪(東京)集会」を開き、17日には東京で、シンポジウム「沖縄から安保を問う」を行った。この民衆の集会について、「日本にとって…」は次のように解説している。

 この種の集会を沖縄側が主催してヤマトで行ったのは初めてのことであった。

 当時、ヤマトの大衆運動は、安保の拡大・強化に反対するという共通目標を持つ人びとが、組織的立場を越えて総結集しうるような状況にはなかった。逆に、沖縄では共闘体制が可能なテーマでも、全国集会となると中央組織の色合いに従って縦割りに分断されざるを得ないという状況があった。そこで沖縄側が主催することによって、「小異を残して大同に就く」沖縄的共闘体制を持った全国集会を実現しようとしたのである。こうしてヤマトであればほとんど同席することが難しいような政党系列の団体から、小さな市民団体、無党派の個人に至るまで、大阪で7000、東京で1万5000の人びとが参加した集会が実現した。

 上の引用文を私は、市民や学生の声に押されて動き出した「野党共闘」を重ねて読んでいる。「野党共闘」はまだ大きなうねりになっていないが、是非「小異を残して大同に就」き、大きく成長することを願っている。

 さて、こうした中、沖縄では県会議員選挙(96年6月9日)が行なわれた。
 この選挙の結果、選挙前の議席数は知事与党21(社大、社民、共産、公明など)・野党(自民、新進など)25・欠員2、だったのが、与党25・野党23となり、知事与党が多数となった。16年ぶりに革新が優位となった(この時期までは、公明党も違憲共闘の一員であり、県政与党であった)。


 新しい県議会は、連合沖縄の条例制定請求に基づいて知事が議会に提出していた、日米地位協定の見直しと基地の整理縮小について賛否を問う県民投票条例を採択することになった。当初は全会一致で採択されるものと思われたが、自民党は突然反対の態度を表明した。その理由としては、直接民主主義は議会制民主主義を形骸化させるとか、「基地の整理縮小」や「地位協定の見直し」は、10・21県民大会や県議会決議で確認ずみであり、県民投票は屋上屋を架すもので経費の無駄遣いだなど、さまざまあったが、要するに自民党県連は、この段階から、「島ぐるみ闘争」の戦列を離れ、自民党中央の尖兵となったのである。

 当時の朝日新聞(96年6月23日付)は、
「自民党本部は沖縄県議会の自民党会派と連絡を取りながら、本会議での否決に持ち込むため、さまざまなパイプを使って他会派に同調するよう呼びかけていたが野党の新進党が賛成に回り可決された」
と伝えている。

 自民党の反対理由のなんと薄っぺらな事よ。その後、県民投票に至るまでにも、県民投票を失敗させるための恥ずかしい動きを示している。どうやら最高裁も一役買っていたようだ。しかし、沖縄の良識は動じなかった。

 県は、県民投票の投票日を9月8日に設定した。9月中旬か下旬には、代理署名訴訟に関する最高裁判決が予想されていたからである。最高裁で知事敗訴ということになれば、強制使用の次の手続きである公告・縦覧代行への知事に対する圧力が強まる。県は、県民投票に示された民意を最高裁判決への防波堤にしようとしていた。だが、まるでその裏をかくように、最高裁は、7月25日、判決日を県民投票告示前日の8月28日に指定した。判決は、上告棄却、すなわち県側の全面敗訴であった。

 最高裁判決直前の8月26日、自民党県連は、県民投票に関する県の啓蒙活動が、有権者の自由意思を束縛するものだ、などの理由で、広く棄権を呼びかけるという方針を発表した。自民党県連と土地連以外では、陸上自衛隊第一混成団の団長が、隊員に対して棄権を促すような発言をしたことが明らかになり、慎重さを欠いたとして口頭注意を受けた。

 逆の意味で注目されたのは、高校生たちが自主的に実施した「県民投票」である。高校生交流集会、高校生平和集会などを通じて知り合った高校生たちが「高校生で県民投票をしよう会」をつくって、69校、4万1653人の高校生に呼びかけ、63校、3万6139人がこれに参加した。結果は、
「基地の整理縮小」支持67%
「地位協定の見直し」支持75%、
「わからない」が、それぞれ19%と18%だった。

 9月8日に行われた県民投票では、90万9832人の有権者のうち、54万1626人が猛暑の中を投票所へ足を運び、そのうち48万2538人が賛成票を投じた。
投票率は59.53%

賛成票は89.09%
を占め、有権者全体に占める割合は、53.04%だった。

 民意は明確に示されたのである。知事は県民投票の結果を「基地問題を解決しなければ沖縄に明るい未来はつくれないという認識の現れ」と評価しながら、公告・縦覧代行については、10日の橋本首相との会談で「政府の対応を聞いた上、県としての考えをまとめる」と言及を避けた(96年9月9日付沖縄タイムス)。

 代理署名拒否以来、沖縄のため頑張ってきた太田知事は橋本との会談で変節してしまう。その心中は知るすべがないが、沖縄振興予算を受け入れるためだったようだ。

 9月10日の橋本・太田会談を受けて発表された閣議決定による首相談話は、肝心の基地問題に関する限り、誠心誠意努力するという口約束以外に目新しさは何もなかった。具体的なものといえば、沖縄特別振興対策調整費50億円の予算措置と、沖縄政策協議会設置の二点だけであった。

 しかし、沖縄政策協議会は、すでに設置されていた沖縄米軍基地問題協議会のメンバーを、首相と北海道開発庁長官を除く全閣僚に拡大したものに過ぎず、基地問題を振興開発政策にすり替える結果となった。にもかかわらず知事は、この首相談話を評価して公告・縦覧代行を行うことになった。代理署名拒否から約一年、知事を先頭にした島ぐるみ闘争の時代は終わった。知事が主役の座を降りた以上、民衆自身が闘いの主役を引き受けなければならなかった。

 これより一月ほど前、官房長官の私的諮問機関として、「沖縄米軍基地所在市町村に関する懇談会」(後に座長の島田晴雄慶大教授の名前をとって島田懇と略称されるようになる)が発足していた。この懇談会には、沖縄経営者協会会長、連合会長、名桜大学学長、琉球新報、沖縄タイムス両新聞社社長など、沖縄側の有識者も加わっていた。島田懇は、基地所在市町村の閉塞感を打開するために、7年間で1000億円の基地所在市町村振興費計上を提言することになる。

《沖縄に学ぶ》(36)

沖縄返還後の闘い(4):1995年の民衆決起(2)


《代理署名拒否》

 前回の最後の引用文中に「代理署名」という問題が出てきたが、このことについてその詳細を確認しておこう。

 「沖縄返還後の闘い(1):反戦地主運動」で取り上げた「軍用地特措法」により、沖縄の米軍用地の借地契約は5年ごとに契約更改することになっている。では、契約を拒否している反戦地主の契約はどうなっているのか。なんとも姑息なことに、契約を拒否している地主に代わって市町村が署名することで使用手続きを進めることができることになっている。地主も市町村も署名を拒否した場合は、沖縄県の署名によって手続きは進められるというのだ。

 さて、太田知事は日本政府に対して、米兵の身柄引き渡しと捜査を阻む日米地位協定の改定を要求したが、こうした要求は今回が初めてではなかった。
 1985年に沖縄島北部の国頭郡金武町(クニガミグン・キンチョウ)で起きた米兵による殺人事件に関して県議会は、被疑者の身柄引き渡しと、それを拒んでいる地位協定の見直しを全会一致で可決し、外務省、防衛庁(現防衛省)、在日米軍司令部に要求した。これに対し外相(安倍晋太郎)は、参議院予算委における喜屋武真栄(キャン・シンエイ)議員の質問に対して、「地位協定は平等だから改正の必要はない」と答え、外務省の担当者も県議会代表団に対して同様の対応をしていた。

 ほとんどの政治家・官僚は「「地位協定は平等だ」などというウソをいけしゃあしゃあと発言する鉄面皮な、ネトウヨの決まりレッテルを使えば、反日の売国奴だ。ネトウヨはレッテルを貼る相手を間違えている。もっとも、そうしたまともな判断ができないからネトウヨになるんだけどね。

 さて、政府の不誠実な対応に業を煮やした太田知事は沖縄に帰ると、それまで決断に踏み切れなかった代理署名拒否を県議会で表明した。この知事の決断について、「日本にとって…」は当時の琉球新聞の一節を引用している。

 代理署名は、犯罪の被疑者身柄引き渡しに関して取り決めた地位協定とは違って、米兵犯罪とは直接的には関係のない米軍用地の強制使用手続きの一環であり、その手続きの拒否は、米軍基地の強制使用に対する非協力宣言だった。知事は、代理署名拒否を決断した理由として、「若者たちが、21世紀に夢を抱ける沖縄をつくるためにも、自立的な発展を拒む基地を撤去する必要がある」と強調した(95年9月29日付)。

 知事に、代理署名拒否という政府に対する最も有効な対抗手段を提供したのは、少数異端派の立場に追い込まれながら闘いの火種を維持し続けた反戦地主である。その反戦地主の一人、島袋善祐は、「知事が県民の側に戻ってくれた」と語り、「今のこの姿勢をこのまま続けてほしいと」と語ったが、同時に「沖縄の実態をわからせるために、少女を犠牲にしてしまった」と沈痛な言葉を付け加えた(95年10月12日付)。

 このように地主も市町村も県も代理署名を拒否した場合、政府はどうするのか。当時の法律では、県が国の機関委任事務である「代理署名」を行わない場合、事務を行うよう総理大臣が沖縄県に勧告することができる。それでも県が応じない場合は、国は裁判で沖縄県を訴え、裁判で勝訴しない限り、国は直接その事務を行うことはできないという決まりになっていた。当然政府は行政訴訟に訴えることになるが、そこに至るまでにはなお紆余曲折がある(以下の引用文は「日本にとって…」から)。

 知事の代理署名拒否は、世論の圧倒的支持を得た。10月21日には、県議会全会派、県経営者協会、連合沖縄、県婦人連合会、県青年団協議会など18団体が呼びかけ、約300団体が実行委員会に名を連ねた「米軍人による少女暴行事件を糾弾し日米地位協定の見直しを要求する沖縄県民総決起大会」が開かれた。

 会場となった宜野湾市の海浜公園には、8万5000人の人びとが集まった。島ぐるみで10万人規模の集会が行われるのは、実に40年ぶりのことであった。25年前にも、同じ規模の集会はあったが、それは「島ぐるみ」ではなく、革新共闘によるものだった。同じ日、石垣市や平良市(ヒララシ 現宮古島市)でも同じ趣旨の集会が開かれ、奄美大島の名瀬市(現奄美市)でも支援集会が聞かれた。

 この大会決議は、地位協定の見直しと基地の整理縮小を島ぐるみの要求として確認することとなった。10・21県民大会をふまえて、11月4日、村山富市首相と大田知事の最初の会談が行われた。知事は、代理署名拒否の方針を貫くことを改めて伝えるとともに、地位協定の見直しと、基地返還アクションプログラム策定を要請した。地位協定については、県の行政や県民の生活にかかわる10の条項について具体的問題点を指摘し、基地の整理縮小(撤去)については、2015年までに基地を全面返還させ、その跡地利用として国際都市を形成していく構想が示された。

 首相側が提案したのは、閣議決定による新協議機関の設置であった。後に沖縄米軍基地問題協議会と呼ばれることになるこの機関のメンバーは、官房長官、外相、防衛庁長官(後に沖縄開発庁長官が加わる)と沖縄県知事だった。その下に置かれた幹事会には、沖縄県の副知事や政策調整官も参加した。復帰25年目にして初めて、米軍基地の75%を押し付けられている沖縄県が、公式に発言する場を与えられたのである。

 こうした状況の中では、安保再定義のためのクリントン訪日は不可能だった。クリントン米大統領は、国内事情(議会との対立による行政機能の一部停止)を口実に訪日を中止した。代わって行われたゴア(米副大統領)・村山会談で、すでにペリー米国防長官と河野外相との間で合意済みの「沖縄に関する日米特別行動委員会」(SACO)の設置を再確認し、その発足と引き替えに、村山首相自身による米軍用地強制使用の署名代行(法的手続きの開始)が約束され、首相を原告とし、沖縄県知事を被告とする職務執行命令訴訟が提起された。

 福岡高裁那覇支部は、96年3月25日、知事に代理署名を命じた。県側の全面敗訴であった。知事がこの命令に従わなかったので、村山政権を引き継いだ橋本龍太郎首相によって代理署名が行われた。県は、高裁判決を不服として最高裁に上告した。

 村山首相は一往は沖縄との協議の姿勢を見せたが、政府が望ましい対応をとったのは後にも先にもこれ一回きりだった。

 田中耕太郎の砂川判決以来、三権分立など絵に描いた餅になってしまったこの国の最高裁がこのような裁判で沖縄県の勝訴判決など出すはずがない。この訴訟の結末とその後の属国政府の沖縄に対する相変わらずの「非法治国家」ぶりは次のようである(以下は「沖縄と…」からの引用です)。

 国が機関委任事務の遂行を沖縄県に求めた「代理署名訴訟」で、沖縄県は最高裁まで戦いますが、敗訴し、軍用地の再契約問題は国による強制使用手続きが進められることになりました。政府に対する「沖縄県の反乱」として、米軍への土地提供を拒む代理署名訴訟は、国内のみならず海外メディアからも注目され、世界中に大きく報道されました。

 裁判によって沖縄の米軍用地再契約手続きは大幅に遅れたため、96年5月に契約満了となった軍用地も出ました。読谷村にある米軍楚辺(そべ)通信所、通称「象のオリ」と呼ばれる巨大な傍受アンテナ施設です。施設の土地の一部を所有している知花昌一さんが、軍用地としての契約延長を拒否し、読谷村も強制使用手続きを拒否し、さらに県知事も署名を拒否したために、知花さんの土地は「契約満了」となったのです。しかし、日本政府は米軍施設を撤去することができず、事実上、不法占拠・使用するという「法治国家」としてあるまじき事態を招くことになります。

 代理署名訴訟の事態を重視した政府は、今後も増えるであろう沖縄の「契約拒否」に対応するため、「米軍用地特措法」を改定して、地主の同意がなくても米軍用地として賃貸借契約を有効にする「強制使用」制度を確立しています。改定によって、沖縄県がとった「署名拒否」という「国に対する地方の異議申し立て」も排除し、米軍のために国民の私有財産に制限を加えることを可能にしたのです。

《沖縄に学ぶ》(35)

沖縄返還後の闘い(3):1995年の民衆決起(1)


(今回から、新崎盛暉著『日本にとって沖縄とは何か』の他に前泊博盛著『沖縄と米軍基地』を用います。それぞれ「日本にとって…」「沖縄と…」と略記します。)

 沖縄の人々は日常的に爆音被害、墜落・不時着事故、放射能漏れ(原子力潜水艦)事故などの基地被害に脅かされているが、米兵等による犯罪にも脅かされている。次の表は沖縄返還後39年間(1972年~2010年)に起こった米兵等の検挙件数(「沖縄の…」から転載)だが、私はその多さに改めてビックリしている。 沖縄での米兵犯罪
 その中で最も衝撃的な事件が1995年9月4日に起こった。キャンプ・ハンセン所属の海兵隊員ら米兵3人が沖縄本島北部で12歳の女子小学生を暴行するという忌まわしい凶悪事件である。沖縄県警は3人の逮捕状を取ったが、米軍は、日米地位協定を理由(公務中以外での米兵の犯罪は日本に裁判権があるが、身柄引き渡しは起訴後)に被疑者の身柄引き渡しを拒否した。このため沖縄県警は事件の立件に必要な容疑者の取り調べができないという状況に追い込まれた。これが沖縄県民の怒りに油を注ぎ、米軍基地の整理縮小や日米安保・日米地位協定の見直し要求へと発展していった。

 この事件をめぐる沖縄県民の怒りに対するアメリカと属国日本政府の対応を見てみよう(「沖縄と…」からの引用)

 「凶悪事件」の犯人が分かっているのに、身柄もとれず、取り調べにも支障を来していることに、当時の大田昌秀沖縄県知事は激怒して上京。当時の河野洋平外務大臣に、米兵の身柄引き渡しと捜査を阻む日米地位協定の改定を求めました。ところが、河野外相は「地位協定の改定まで求めるというのは、議論が走りすぎている」と沖縄県の要請を一蹴しました。河野外相にとって、少女暴行事件も毎年繰り返される米軍犯罪の1件に過ぎないという認識だったことが、その後、日米安保を揺るがす大きな波紋を呼ぶことになります。

 同時に、米軍がとったその後の言動も沖縄県民の怒りを買います。少女暴行事件に対して、米太平洋司令官のリチャード・マッキー海軍大将が「兵士らは、レンタカーを借りているが、その金があったら女が買えた」と、発言したからです。「マッキー発言」に対しても沖縄県内の市町村議会、県議会などが一斉に反発し、抗議を行っています。

 凶悪事件の犯人がはっきりしているのに、身柄もとれず、捜査が進まないことに大田知事は「被害者の人権も守れない。日米安保はいったい、何から何を守っているのか。被害者よりも加害者が守られる。そんな協定を誰が結んだのか」と、地位協定の見直しを再要請し、政府・外務省の事件への対応姿勢に強く抗議を繰り返しますが、政府の壁は厚く、事件の捜査と起訴は難航しました。

 少女暴行事件の重大性と捜査を阻む地位協定の問題は、沖縄県民全体の怒りを招きます。95年10月21日、宜野湾市の海浜公園で「米軍人による少女暴行事件を糾弾し日米地位協定の見直しを要求する沖縄県民総決起大会」が開催され、県民8万5000人(主催者発表)が参加します。席上、大田知事は「少女の人権を守れなかったことを知事として県民の皆さんにお詫びしたい」と謝罪します。

 一方で、大田知事は日本の総面積の0.6%に過ぎない沖縄に在日米軍専用施設の74%が集中する現状は「沖縄差別」と告発します。

ちょっと横道へ。
 私は日本を、悲しさ・情けなさと強い怒りを強く感じながら、「アメリカの属国」と言っているが、「属国」の意味について論じている一文を紹介しておこう。図書館でガバン・マコーマックというオーストラリアの学者の著書(訳者 新田準)で書名がずばり『属国』という本に出会った。著者はこの本の「日本語版への序」のなかで、「属国」について次のように論じている。

 私は、小泉・安倍両政権の特徴は対米依存と責任回避だと考える。日米関係の核心にあるのは、冷戦期を通して米国が日本を教化した結果としての対米従属構造だが、二人の首相の「改革」はこれまで長年継続してきた対米依存の半独立国家・日本の従属をさらに深め、強化した結果、日本は質的に「属国」といってもいい状態にまで変容した。日本独自の「価値観・伝統・行動様式」を追求するどころか、そうした日本的価値を投げ捨てて米国の指示に従い、積極的に米国の戦争とネオリべラリズム型市場開放に奔走した。世界中で米国の覇権とネオリベラリズムの信用度が急落している中で、小泉・安倍両政権は献身的にブッシュのグローバル体制を支えたのである。

 わたしが属国というとき、初めて国民国家の主権と独立の概念が出てきた1648年のウェストファリアの国家の定義(管理人注:30年戦争を終わらせたウェストファリア条約の内容の一つで、主権国家を定義している)を想定したうえで、植民地でも傀儡国でもない、うわべだけでも独立国家の体裁があるが、自国の利益よりはほかの国の利益を優先させる国家という意味で使っている。

 本書のタイトルに使用した「属国」という言葉は、70年代から80年代にかけて政権の中枢にあった故・後藤田正晴・元官房長官の発言から採った。死の前年の2003年に後藤田は、日本はアメリカの属国になってしまった――と発言している。保守政治家の中からも日本は「アメリカの何番目かの州みたいなものだ」とか、日本の保守は「腐っている」とか「どんなときもアメリカ支持」だと自嘲気味の発言も出てきた。

 海外ではそうした観点からの日本批判はほとんど見られない。かつて日本政府を批判するのは革新派か急進派だと決まっていたが、近年、後藤田のような保守の大物から批判か出てきたのは興味深い。彼らは小泉・安倍両政権は冷戦期以来の日本の国家構造を根底からひっくり返そうとしていると見ている。「属国」は保守の政治目標たりえない。

 こうした観点からすると小泉・安倍両首相は、保守とは名ばかりでじつは戦後最も急進的な政治家だったということもできる。自民党はもはや保守党ではなくなった。本来の保守政治家は冷や飯を食わされ、引退させられ、刺客に暗殺され、粛清されてしまった。佐伯啓思・京都大学教授は「自民党にいまや保守の理念は存在しない」とまで言っている。

 引用文中の安倍政権は勿論途中で政権を投げ出した一次安倍政権だが、現在の安倍政権は「美しい日本を取り戻す」とほざきながら、一層激しく属国への道をひた走っている。現在の超右翼はその矛盾に気づかぬほど脳天気なのだろうか。

 ところで、「刺客に暗殺され」た保守政治家なんているのだろうか。私には思い当たる人はいないが、ただ《『羽仁五郎の大予言』を読む》(78)で紹介したように、羽仁さんが「最近CIAの謀略が大部暴露されているよね。石橋湛山なんかも毒薬飲まされたんじゃないかと思うんだ」と語っているのを思い出した。

 さて、1995年の民衆決起を促した直接のきっかけは少女暴行事件だったが、それを促す時代背景もあったと言う(次の引用文は「日本にとって…」から)。
 ちょうどこの時期、いわゆる「日米安保の再定義」の全容がほぼ明らかになりつつあった。東西冷戦の終焉、ソ連の崩壊によってその役割を終えたかに思われていた日米安保体制を意義付け直し、強化・拡大していこうという試みは、95年11月のクリントン米大統領の訪日によって完成する予定であった。安保再定義は、沖縄基地の維持・強化を前提としていた。

 同じ時期、97年5月15日で強制使用期限が切れる米軍用地(一筆だけは96年3月31日で契約期限が切れる)に対する強制使用手続きが始められており、その一環である知事の代理署名がタイム・リミットを迎えていた。

 大田昌秀知事は、代理署名を拒否することは困難だとの意向をかなり早くから漏らしていた。しかし、反戦地主や一坪反戦地主、違憲共闘などが、当事者である反戦地主の意思を踏みにじるような代理署名は拒否してほしいと繰り返し要請していたため、革新知事としての立場もあって、決断に踏み切れないでいた。

 95年9月は、このような時期であった。たとえ米兵による忌まわしい事件が起こらなくとも、それは、沖縄の民衆が基地のありようを根本的に問い直さざるを得ない歴史的節目であった。そして基地のありようを問い直すということは、日米安保体制と沖縄の関係を改めて見直すことであり、復帰後の歩みを総括することでもあった。米兵による少女暴行事件は、そのような歴史的総括の必要性を、衝撃的なかたちで多くの人々に認識させたのである。歴史は、偶然と必然の接点から動き始めた。

《沖縄に学ぶ》(34)

沖縄返還後の闘い(2):金武湾闘争・「慰霊の日」廃止反対運動

 《沖縄に学ぶ》をはじめて、今まで沖縄問題に真剣に向き合ってこなかったせいでの自らの無知さ加減を思い知らされることがいくつもあった。今回の「金武湾(きんわん)闘争」も初めて聞く事項だ。この闘争は「CTS(石油備蓄基地)闘争」とも呼ばれている。ネット検索すると沢山の記事に出会う。その中で『安里清信さんの思想――金武湾から白保、辺野古・高江へ』は実際に金武湾闘争に参加された方の記事でその闘争の経緯が克明に記録されている。この記事の「はじめに」の最後の一節を引用する。
「実は現在展開されている沖縄の闘いは、金武湾闘争当時の担い手たちの多くが今も闘い続けているし、運動の内容も金武湾闘争の中で展開されていたものを継続している。つまり、金武湾から白保、辺野古・高江と40年間も続いている。したがって金武湾闘争はまだ終わらず、途中の状態にあるといえよう。」
 返還後の闘いを質的に押し上げるターニングポイントとなった闘争だったようだ。

 さて、上に紹介した記事はかなりの長文なので、興味のある方には直接読んで戴くことにして、ここでは『日本にとって沖縄とは何か』でまとめられている金武湾闘争についての解説記事を引用しておくことにする。

 復帰後の新しい課題に取り組んだ運動は、反戦地主会や一坪反戦地主会だけではない。「核も基地もない平和で豊かな沖縄県」づくりを目指した復帰協などの革新共闘が担ぐ革新県政と、日米軍事協力体制の維持強化を目指す日米両政府とは不可避的に対立せざるをえなかったが、その「豊かな沖縄県」構想(あるいは幻想)と政府の沖縄振興開発政策とは、交錯しあい、共鳴し合う部分も持っていた。

 豊かな沖縄県を目指す構想の中で、当初、戦略産業として重要視されていたのは石油産業だった。沖縄島の東海岸一帯を埋め立てて石油産業を中心に広大な臨海型工業地帯を作り出そうというのである。だがすでに、沖縄返還が決まった頃には、全国的にさまざまな公害問題がクローズアップされていた。にもかかわらず琉球政府は、復帰直前、CTS(石油備蓄基地)建設予定地として、三菱資本(沖縄三菱開発)に宮城島(みやぎじま)と平安座島(へんざじま)の間の海域の埋め立てを認可した。

 これに反対する地域住民の反対運動を糾合して、翌73年9月、CTSに反対する「金武湾を守る会」が結成された。金武湾闘争は、地域住民の生活の場である土地を守る運動として始まり、反公害運動としての要素を加え、やがて「豊かさとは何か」を問う地点に達し、その後の沖縄の諸運動、さらには沖縄社会に大きな影響を及ぼすことになった。
金武湾闘争
 金武湾を守る会は、従来の島ぐるみの革新共闘とは異なり、基本的には住民個々人に直接依処する組織体であった。金武湾を守る会に結集したり、これを支援したりした人々は、その多くが屋良革新政権の誕生に努力し、その支持基盤になった人々であったが、やがて革新共闘への単純な同調を越えて、革新県政に軌道修正を促す役割を担った。この時期には、さまざまな開発問題が沖縄の県域を超え、鹿児島県下の奄美諸島にも広がっていたため、その連携を目指す「琉球弧の住民運動を拡げる会」なども結成された。住民・市民運動のネットワークづくりには、反戦地主会や一坪反戦地主会なども加わり、組織共闘の形骸化の間隙を埋め、新しい民衆運動の基盤を準備していった。

 今回取り上げるもう一つの闘いは、「アメリカ世の沖縄(7)」で取り上げた「アメリカ世の歴史を記憶に止めるべく制定された象徴的な"記念日"」の一つ「慰霊の日」をめぐる闘争である。「「慰霊の日」休日廃止反対運動」と呼ばれている。これについても新崎さんの解説をそのまま引用しよう。

 沖縄では、6月23日が沖縄戦の犠牲者の霊を慰める「慰霊の日」となっている。慰霊の日は、復帰前に「住民の祝祭日に関する立法」によって定められた。だが日本復帰と同時に、日本国憲法をはじめとする日本の法律が適用されることになり、それ以前の沖縄独自の立法はすべて消滅した。慰霊の日は、かろうじて県条例の中に残っていた。

 ところが88年12月、官公庁の隔週土曜(2年後から全土曜)閉庁制を実施するためと称して、地方自治法が改正され、「第4条の2(休日)」という条項が付け加えられた。この条項が列挙する日を地方公共団体の休日として、条例で定めることになった。逆にいえば、都道府県や市町村などが独自の休日を設けることはできなくなったのである。

 この問題は、沖縄県が休日条例案を89年3月県議会に上程する準備を始めた段階でようやく表面化した。沖縄選出の国会議員も、地方自治法改正の段階では、この問題を見過ごしていたのである。県条例審議の段階になって、沖縄戦という沖縄独自の歴史的体験に基づく慰霊の日を休日ではなくすということは、戦争体験の風化、独自の歴史的体験の抹殺につながるという声があちらこちらから上がった。一坪反戦地主会、キリスト者の団体、1フィート運動の会(「沖縄戦記録フィルム1フィート運動の会」)やその周辺の人びとが反対運動の中心であった。労働団体主流は、土曜休日制と絡むこともあって、あまり積極的ではなかった。

 1フィート運動や一坪反戦地主、靖国問題に取り組むキリスト者たちが、「慰霊の日」休日廃止反対の声を上げたのは当然として、これとは全く違ったところから休日廃止反対の声を上げたのが「沖縄県遺族連合会」であった。

 県遺族連合会は、復帰以前から日本遺族会の支部として位置づけられていたから、たてまえとしては、日本遺族会と同じ方針、たとえば「靖国神社の国営化」や「靖国公式参拝の実行」も掲げていたのだが、かつては復帰協の加盟団体でもあった。復帰後、遺族連合会もすっかり本土との系列化を強めていたと思われていたが、「慰霊の日」休日廃止という、まさにその存立の原点にかかわる問題に直面した時、一坪反戦地主会やキリスト者の団体と並んで休日廃止反対の声を上げたのであった。

 県の(「慰霊の日」を含まない)休日条例案は、89年6月議会に提出されたが、反対世論の盛り上がりで、県議会各派は立往生した。結局条例案は、90年3月の県議会で、全会一致で廃案になった。未解決のまま先送りされた「慰霊の日」休日廃止問題は、90年6月23日、慰霊の日の沖縄戦全戦没者追悼式に出席した海部俊樹首相が、「地域的特性を考慮すべきである」と発言したことによって解決することになった。

 91年3月、国会で地方自治法が再改正され、「第4条の2」には、次の文言が付け加わった。
「③前項各号に掲げる日のほか、当該地方公共団体において特別な歴史的、社会的意義を有し、住民がこぞって記念することが定着している日で、当該地方公共団体の休日とすることについて広く国民の理解を得られるようなものは、第一項の地方公共団体の休日として定めることができる。(以下略)」

 現役首相をはじめ政府首脳が、沖縄戦全戦役者追悼式に出席するようになるのは、これ以後のことである。

 最後にもう一つ、冒頭で紹介したネット記事の表題の中にあった「白保」。私はこの地名には初めて出会った。いままで読んできた沖縄関係のどの本も出てこなかった(みおとしたのかなあ)。ウィキペディアの助けを借りることにした。

 白保サンゴ礁(しらほサンゴしょう)は、沖縄県石垣島東部にある石垣市白保地区の海岸に沿って、南北約10km、最大幅約1kmにわたって広がる裾礁である。

 このサンゴ礁には、世界有数の規模を誇り北半球最大とも言われるアオサンゴの大群落をはじめ、ハマサンゴの巨大な群落やマイクロアトール、ユビエダハマサンゴの群落が多数分布しており、30属70種以上の造礁サンゴが生息するとされている。

 沖縄の多くのサンゴ礁がオニヒトデによる食害や赤土流出によって消失しつつあるなかで、白保サンゴ礁は、オニヒトデによる食害を免れ、良好な生態系を残した数少ないサンゴ礁であるとされる。

 2007年8月1日、西表国立公園に石垣島の一部が編入されて西表石垣国立公園となり、白保地区は海域公園(旧称:海中公園)地区に指定された。

 1979年に計画が発表された新石垣空港は、当初、白保地区の沖合に海上空港として建設される予定であったが(白保海上案)、白保サンゴ礁の重要性が認識されるようになると反対運動が活発になり、1989年にこの案は撤回された。

 その後、二転三転の末に、白保地区北部のカラ岳付近に空港を建設するカラ岳陸上案で最終的に決着し、新空港は2006年10月に着工、2013年3月に開港した。この案は埋め立てを伴わないものであるが、カラ岳を切削する際の赤土流出等による白保サンゴ礁への影響が懸念されたため、沖縄県は赤土流出を防ぐために遊水池建設などの措置を講じた。

《沖縄に学ぶ》(33)

沖縄返還後の闘い(1):反戦地主運動

 辺野古新基地建設反対闘争は戦後70年に及ぶ沖縄による対日・米政府闘争の到達点である。アメリカ世での闘争では、1950年代の「島ぐるみ闘争」と70年代の「沖縄返還闘争」と、二度の大きな山があったが、再度のヤマト世では辺野古新基地建設反対闘争に至るまでにどのような闘争が展開されてきたのか、それを追ってみよう。

 、「アメリカ世の沖縄(4)」で取り上げたように、「島ぐるみ闘争」を牽引した「土地を守る協議会」は保守勢力主導で結成された「土地を守る会総連合」(1956年9月20日 「土地連」と略称する)に吸収され、11月に正式に解散した。その「土地連」は政府の軍用地主対策に乗じて、70年代後半には自民党の支持基盤に転じていた。その経緯は次のようである。

 沖縄が日本に返還されると、米軍用地は、安保条約(地位協定)にもとづいて、日本政府が土地所有者から借り受けて米軍に提供することになる。そこで政府は、米軍用地の使用料を、一挙に平均6倍に引き上げ、さらに契約奨励金を上積みして、契約促進を図ることにした。このため、基地のフェンス一枚を隔てて植えられたサトウキビの買い上げ価格が、同じ面積の軍用地使用料の約7割にしか相当しないというような事例も生まれた。農民の労働は、マイナスの価値しか持たないという、転倒した現象も現れたのである。

 政府の軍用地主対策によって、50年代の島ぐるみ闘争の牽引車だった土地連は、70年代後半には、自民党の支持基盤に転じていた。それでも、あくまで軍用地として使用する土地の賃貸借契約を拒否する土地所有者(いわゆる反戦地主)は、軍用地主全体の1割強、約3000人に上ると見込まれた。そこで政府は、沖縄返還まで軍用地として使用されていた土地は、土地所有者の同意がなくとも、復帰後5年間は軍用地として継続使用できるという公用地法を制定したのである。政府は、5年間で反戦地主を切り崩すために、嫌がらせやこま切れ返還など、あらゆる手段を用いた(詳しくは拙著『新版沖縄・反戦地主』高文研、96年参照)。

 公用地法は正式には「沖縄における公用地等の暫定使用に関する法律」という。ここで公用地と呼んでいるのは、「再びヤマト世へ(6)」で取り上げた「5・15メモ」で軍用基地を「施設及び区域」と言い換えていたのと同様の言い換えである。

 さて、反戦地主たちは「権利と財産を守る軍用地主会」(反戦地主会)を立ち上げ、沖縄のみを対象とした公用地法は憲法に違反するとして、公用地法違憲訴訟を提起した。これを沖縄社会大衆党、社会党、共産党、公明党など4政党と、県労協、沖教組、自治労沖縄県本部など18の組織が違憲共闘(「公用地法違憲訴訟支援県民共闘会議」)を結成して支援した(この頃は公明党はまともな党だったのだなあ)。これで公用地法の期限が切れる77年5月までに反戦地主を根絶やしにすることは不可能だった。

 そこで政府は新たに、地籍明確化法(「沖縄県の区域内における位置境界不明地域内の各筆の位置境界の明確化等に関する特別措置法)を制定した。この法律の附則で、公用地法の期限をさらに5年延期した。なんとも卑劣な政府だ。

 この法律について、新崎さんは次のように解説している。

 沖縄戦ですべてが灰燼に帰した沖縄では、土地の所有権などを明らかにする登記簿や公図類もほとんど焼失していた。このため戦後間もなく、隣接地主の立会いの下で土地所有権の確認作業を行ったが、立ち入り調査などができなかった軍用地を中心に、多くの地籍不明確地が残った。その面積は、沖縄島の9%を占め、そのうち82%は軍用地だった。

 日本政府は、復帰と同時に地籍明確化作業に取り組むべきであった。沖縄戦と軍事占領の結果生じた問題の処理は、当然日本国家の責任だったからである。しかし政府はそのようなことはやらなかった。それどころか、地籍不明確地を反戦地主切り崩し策に利用したのである。

 軍用地が返還されても、その地籍(位置・境界)がはっきりしなければ、ただちに個々の土地所有に土地を返還するわけにはいかない。軍用地主の申告面積(これにもとづいて軍用地料は支払われていた)の総計と実測面積が大きく食い違う場合も少なくなかった。だがただちに土地所有者に返還されないような土地でも、軍用地でなくなれば、即座に軍用地料も損失補償金も支払われなくなった。このような嫌がらせ返還、見せしめ返還が反戦地主の土地を中心になされていた。

 沖縄県は、復帰以前から、政府が責任を持って地籍明確化作業に取り組むよう強く要求し、地籍明確化法の法案要綱を作成して提示したりもしていた。政府も公用地法の期限切れが近づくと、地籍明確化のための法案作成に乗り出した。だが、政府の狙いは地籍明確化それ自体よりも、あくまで米軍用地確保にあった。各筆の地籍が不明確では、強制使用の法手続きもできないからである。このため、地籍明確化法は、基地確保(新)法などとも呼ばれた。

 地籍明確化法の附則で延長された公用地法の期限が切れたとき、なお百数十人の反戦地主が存在していたという。沖縄返還から10年たっていた。次に政府が打ち出したのは、これらの反戦地主の土地を米軍用地特措法によって強制使用することであった。

 私は「米軍用地特措法」という法律を初めて聞いた。新崎さんは次のように解説している。

 戦後の土地収用法は、軍事目的のための土地の強制収用(強制使用)を認めていなかった。そこで、安保条約に基づいて米軍用地を提供する必要が生じた日本政府が、安保条約発効直後に制定したのが米軍用地特措法である。

 米軍用地特措法は、立川基地の拡張問題(砂川闘争)の頃には何度か発動されたが、60年代になると、米軍用地の強制収用が必要なくなり、冬眠状態にあった。その米軍用地特措法が、82年、沖縄で再び目を覚ましたのである。

 米軍用地特措法では、土地収用法と同じ手続きで強制収用を行うことになっていた(その後法改正されより簡素化された)。したがって、各県に設置された収用委員会の公開審理を経て、土地収用(強制使用)が、「公共の利益」に合致しているとの判断を得る必要があった。

 最初の公開審理に、那覇防衛施設局(現沖縄防衛局)は、職員を大量に動員して臨んだ。その数は違憲共闘の動員をはるかに上回り、反戦地主側を威圧していた。こうした状況を目の当たりにして、反戦地主の未契約軍用地を一坪(正確にいえば一万円分)ずつ共有化して反戦地主を支援しようという一坪反戦地主運動が立ち上がることになる。

(中略)

 沖縄県収用委員会は、反戦地主の土地を82年5月14日から5年間強制使用することを認めた。87年5月以降の強制使用対象の土地所有者は、百数十人の反戦地主と、2000人の一坪反戦地主になった。公開審理も、市民会館の1000人規模の大ホールで行われることになった。米軍用地の強制使用の継続が「公共の利益」に合致しているか否かを問う公開審理は、日米安保体制、沖縄における米軍基地形成の歴史に関する巨大な学習の場となった。沖縄のメディアは、毎回、公開審理の様子を大きく報道した。

 上に出てきた「一坪反戦地主運動」という反戦地主運動への新しい支援活動は次のようなユニーク運動だった。

 一坪反戦地主運動は、従未型の革新共闘が、反戦地主を十分に支えきれないという現実の中から出発した。これまであまりこうした運動にかかわってこなかった言論人や大学教員から、違憲共闘所属組織のメンバーまで、多種多様な人びとが参加していた。反戦地主のように契約拒否が生活それ自体にかかっているわけではなかったが、一坪反戦地主のわずかな土地を強制使用するためにも、国は、反戦地主に対するのと同様の手続きを必要とした。その組織形態も、中央の指令で各支部が動く、というようなものではなく、地域や職域のブロックが反戦地主を支援し、安保強化に反対する独自の行動を展開した。当初は、「民間未組織ブロック」もあった。現在、関東地方で、辺野古新基地建設阻止行動の中核組織の一つになっているのは、「沖縄・一坪反戦地主会関東ブロック」である。