2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《沖縄に学ぶ》(25)

沖縄問題の本質(2):行政協定と地位協定(2)

 前回で改めて知ったことを簡単にまとめると次のようになろう。
 日本政府は「行政協定」の改定を求めて「地位協定」を締結したが、最も肝要な日本国法令尊重義務規定(地位協定第16条)が抽象的、観念的な域に留まり、個別具体的な事項ごとの国内法制度による担保という実際的な規定をかく欠陥協定であった。

 その欠陥条項(第16条)の条文は次の通りである。
『日本国において、日本国の法令を尊重し、及びこの協定の精神に反する活動、特に政治的活動を慎むことは、合衆国軍隊の構成員及び軍属並びにそれらの家族の義務である。』
 この条文について外務省の『日米地位協定Q&A』は「米軍には日本の法律が適用されないのですか。」という設問を設定して、次のように答えている。
一般国際法上、駐留を認められた外国軍隊には特別の取決めがない限り接受国の法令は適用されず、このことは、日本に駐留する米軍についても同様です。このため、米軍の行為や、米軍という組織を構成する個々の米軍人や軍属の公務執行中の行為には日本の法律は原則として適用されませんが、これは日米地位協定がそのように規定している(第3条[基地内の合衆国の管理権]、第17条[刑事裁判権]を念頭に置いているようだ)からではなく、国際法の原則によるものです。一方で、同じく一般国際法上、米軍や米軍人などが我が国で活動するに当たって、日本の法令を尊重しなければならない義務を負っており、日米地位協定にも、これを踏まえた規定がおかれています(第16条)。』

 つまり政府の解釈では、基地内では国内法は適用できないが、我が国(基地外)での私人としての活動では国内法が適用される、と言っている。まるで基地内は我が国ではなく、我が国内には基地はないと言っているように読めるが、あきれてしまう。エリート官僚の頭脳はこのような詭弁を考え出すように訓練されているようだ。そして、基地内では国内法を適用できない根拠として「一般国際法」を論拠にしているが、そのような国際法があるのだろうか。私にはそれを調べる手立てがないが、私はそのような国際法はあり得ないと考えている。だって、ドイツではボン補足協定で「自国国内法の適用をできるだけ確保」できているじゃないか。

 困ったときのネット便り。日本弁護士連合会の『日米地位協定の改定を求めて』という提言に出会った。それによると外務省が論拠にしている国際法は「領域主権の原則」という法のようだ。いま問題にしていることについて、日本弁護士連合会は次のように提言している。

 米軍や米軍基地に日本法令の適用がないという理解は、決して当たり前のものではありません。国際法の領域主権の原則は、国家はその領域内にある全ての人と物に対して、原則として排他的に規制する管轄権を有し、その制約は、当該国家自身が他国に条約・法令等で認めた場合にのみ存在するとし、また、その制約はできるだけ限定的に解されなければならないとしています。ですから、現行地位協定の解釈としても、特段の規定がない限り、原則として米軍や米軍基地内にも日本法令が適用されると解すべきなのです。 (提言)
日本法令の適用と立入権の明記を
 地位協定に、領域主権の原則に従い、日本法令が原則として適用されることと、その適用確保等のための日本側当局の基地内立入権を、明文で規定すべきです。そのことにより、日本政府も米国に対し、航空機騒音規制など、日本の法令の遵守を堂々と求めることができることになります。

 さて、今回は『日米地位協定入門』が参考書です。『地位協定入門』の「PART1」は「問い」とそれへの応答という形式で構成されているが、「〔Q&A10〕地位協定と行政協定はどこがちがうのですか?」という問いに、ずばり、「ほとんどなにも変わっていません。」と答えている。

 こう言うと驚く方もいらっしやると思いますが、実はサンフランシスコ講和条約と旧安保条約、そして日米行政協定締結の実務責任者だった西村熊雄(当時、外務省条約局長)自身が、新旧の安保条約について、見た目は変わったが内容は同じだと言っているのです(彼は旧安保条約が「はだかの鰹節」だとすれば、新安保条約は「桐箱におさめ、(略)水引(みずひき)をかけ、のしまでつけた鰹節」だと言っています)。

 内容がかなり変わったというのが定説である新旧の安保条約でさえ、現場の責任者にはそう思えたわけですから、日米行政協定と日米地位協定が本質的にほとんど同じであっても不思議はありません。

 〔Q&A9〕では「米軍が希望すれば、日本全国どごでも基地にできるというのは本当ですか?」という設問を設定して「これは悲しいことですが、本当です」と答えている。

 通常の安全保障条約や協定なら、駐兵する基地の名称や場所を条約や付属文書に書きこむのが常識です。

 フィリピンがアメリカと1947年に結んだ「米比軍事基地協定」の付属文書でも、有名なクラーク空軍基地やスピック海軍基地のほか、23の拠点がフィリピン国内で米軍の使用できる基地として明記されています。

 フィリピンはその前年まで、本当のアメリカの植民地でした。それでもきちんと限定した形で基地の名前を書いています。ところが日米安保条約にも日米地位協定にも、そうした記述がまったくないのです。

 この重要な「基地の提供」に関する条項(行政協定・地位協定の第二条1項)を読み比べて、〔Q&A9〕・〔Q&A10〕の答えが妥当なことを確認してみよう。

 まず、行政協定・地位協定の第二条1項とそれぞれの根拠となっている安保条約の条文を並べて読んでみる。

旧安保条約 第一条
 平和条約およびこの条約の効力発生と同時に、アメリカ合衆国の陸軍、空軍および海軍を日本国内およびその附近に配備する権利を、日本国は、許与し、アメリカ合衆国は、これを受諾する。(略)」
行政協定 第二条 1項
 日本国は、合衆国に対し、安全保障条約第一条に掲げる目的の遂行に必要な施設及び区域の使用を許すことに同意する(略)」

新安保条約 第六条
 日本国の安全に寄与し、ならびに極東における国際の平和および安全の維持に寄与するためため、アメリカ合衆国は、その陸軍、空軍および海軍が日本国において基地を使用することを許される。(略)」
地位協定 第二条 1項
 (a) 合衆国は、相互協力及び安全保障条約第六条の規定に基づき、日本国内の施設及び区域の使用を許される。(略)」
 (b) 合衆国が日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約第三条にもとづく行政協定の終了の時に使用している施設及び区域は、両政府が(a)の規定に従つて合意した施設及び区域とみなす

 行政協定の第二条が、「日本国は、合衆国に対し、必要な基地の使用を許すことに同意する」となっているのに対し、地位協定の第二条は、「合衆国は、日本国内の基地の使用を許される」となっている。行政協定の「同意する」という文言がなくなっていて地位協定の方が後退していると思える。ともあれ、アメリカが「日本に軍隊を配備し、その拠点である基地を使用する」という権利に変わりはない。しかも(b)によれば、「使用を許される基地」とは、「行政協定が終了したときに使用していた基地」だというのだから、基本的にそのまま、なにも変わっていないことがわかる。

 「基地の提供」について、現在効力のない旧安保条約は「米軍が日本国内の基地を使用する権利」ではなく、「米軍を日本国内およびその付近に配備する権利」となっている。実はこの旧安保条約第1条がその後の新安保条約・地位協定にも引き継がれている。

 何度もくり返すようですが、これが現在の日米安保条約と日米地位協定の本質なのです。

 これまで見てきたとおり、日米安保関係の条約や協定は、オモテの条文は変わっても、ウラでその権利が受けつがれていることが多い。そして〔Q&A6〕で見たような現状(下の赤字部分)は、「米軍は基地を使うことを許される」という協定からはとても理解できないものです。ほかの国で、米軍ヘリが現地の住民をターゲットにして演習を行なうなどということがありえるでしょうか。

 つまり、アメリカがもっている権利は、「日本国の安全と、極東における平和と安全」のために必要だとアメリカがいえば、日本国内でどんな演習が行なわれても、どんな基地がほしいといわれても、部隊が自由に国境を越えて移動しても、日本側は断ることができないのです。

 地位協定が行政協定と変わっていない例がもう一つ取り上げられている。

 もうひとつ、もっとはっきりした例があります。米軍基地内での米軍の権利についてのとり決めです。日米行政協定の第三条が、
「合衆国は、施設及び区域内において、それらの設定、使用、運営、防衛または管理のため必要なまたは適当な権利、権力および権能を有する(略)」
となっているのに対し、日米地位協定の第三条は、
「合衆国は、施設及び区域において、それらの設定、運営、警護および管理のため必要なすべての措置をとることができる(略)」
となっています。「権利、権力および権能を有する」という高圧的な表現から、「措置をとることができる」という穏やかな表現に変わっています。しかし、この「基地の管理権」については、日米地位協定が結ばれる約二週間前に日本の藤山外務大臣とマッカーサー駐日大使のあいだで交わされた密約のなかで、
「米軍基地内でのアメリカの権利は、〔日米行政協定のもとでの権利と〕変わることなくつづく」
と合意されており、条文の変化にはなんの意味もないことがわかります。(新原昭治『日米「密約」外交と人民のたたかい』新日本出版社)

 1972年の沖縄返還に際しても、交渉にかかわったチャールズ・シュミッツ国務省顧問は「結局なにも手放さなかった」とのべています。こうした例からわかるように、米軍基地をめぐる日米交渉においては、一見アメリカが譲歩したように見える場合でも、ウラで密約が結ばれており、米軍の権利はほとんど変わっていないと考える必要があります。

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《沖縄に学ぶ》(24)

沖縄問題の本質(1):行政協定と地位協定(1)

 私は「日本はアメリカの属国」と言い続けてきたが、さらに付け加えれば、沖縄は日米共謀により創り出されたアメリカの植民地である。そしてそれらを可能にしているのが次の事実である。つまり、属国政府にとっての最高法規は「日米安保条約」「日米地位協定」「日米原子力協定」であり、これらを法的根拠にして、日米間のさまざまな密約を作り出して実質的に日本を牛耳っているのが「日米合同委員会」である。つまり、属国政府にとっては日本国憲法はあってなきがごときものなのだ。この事実のあらましは、すでに次の記事で書いている。

『アメリカによる日本占領は終わっていない(1)』
『アメリカによる日本占領は終わっていない(2)』
『アメリカによる日本占領は終わっていない(3)』

 これらの記事を書いたとき、基礎資料の一つとして前泊博盛編著『本当は憲法より大切な「日米地位協定入門」』(以下「日米地位協定入門」と略記する)を用いた。ただし、初め40頁を無料でダウンロードできることを知ったので、用いたのはそのダウンロードしたはじめの40頁だけだった。今回は「沖縄の記憶」に「日米地位協定入門」を加えて、沖縄問題の本質をより詳しく調べ直すことにした。なお、日米間の条約や協定を「日米地位協定入門」に倣って次のように略称する。

「日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約」(1952年4月28日発効)→「旧安保条約」
「日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力および安全保障条約」(1960年6月23日発効)→「新安保条約」
「日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約第3条にもとづく行政協定」→「行政協定」
「日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力および安全保障条約第6条にもとづく施設および区域並びに日本国における合衆国軍隊の地位に関する協定」→「地位協定」

 なお、「日米地位協定」に使われている「施設および区域」という文言は他でも「施設または区域」「施設もしくは区域」「施設・区域」などという言い方で使われているが、これを「日米地位協定入門」では「基地」(註:この場合の「基地」は、演習場他をふくむ概念と定義します)と言い換えている。以下ではこれも踏襲する。

 本題に入ろう。
 旧安保条約の第3条「アメリカ合衆国の軍隊の日本国内及びその附近における配備を規律する条件は、両政府間の行政協定で決定する」に基づいて、アメリカ軍の「日本国内及びその附近における配備を規律する条件」を具体的かつ詳細に規定したものが行政協定である。行政協定では、アメリカ軍人・軍属とその家族の法的地位に関する規定ばかりでなく、アメリカ軍が日本で享受できる特権や免除、アメリカ軍が日本のどんな場所でも基地として設定できる「全土基地方式」による基地提供、日本が毎年アメリカ国に支払う「防衛分担金」(年額1億5500万ドル相当の円)といったアメリカ軍の日本「配備」条件と日本の「許与」条件とが多岐にわたって定められている。これらの民事請求権、通関、基地の運営管理や防衛分担金といった在日アメリカ軍の条件を定めた規定は、1960年、安保条約が改定された折に変更される。それが「地位協定」である。

 58年10月に開始した安保改定交渉に際して、沖縄および(日本)本土への「アメリカ軍基地の自由使用」が軍事戦略上どうしても必要と考えたアメリカ政府は、行政協定には一切手をつけないという方針で臨んだ。一方、日本政府はアメリカ軍の駐留に起因する問題、主にアメリカ軍人・軍属やその家族による事件、事故、犯罪との関連で行政協定の見直しを迫られるようになっていた。日本政府および外務省は行政協定の改定を申し入れた。日本の改定要求に対して、アメリカ国政府は峻拒から同意へと方針を転換する。アジア太平洋地域におけるアメリカ軍の軍事的効果と前方展開基地を維持するためには、協定改定は政策的な調整として必要であると認識を改めたのだった。日本側がアメリカ国側に提起した60ちかい改定要求の多くはドイツ駐留のNATO軍地位協定ないしボン協定と同趣旨に改定されたが、このとき、日本政府は1953年9月の時点ですでに「NATO並み」ないし「NATOとの平準化」に達したとの判断から第17条「刑事裁判権」について改定を要求しないという大きな誤りを犯しかた。

 以上は「沖縄の記憶」を用いてまとめたが、最後の部分が分りにくい。ネット検索をしてみたら本間浩(法政大学教授)という方の論文『ドイツ駐留NATO軍地位補足協定に関する若干の考察』という論文に出会った。この論文によると、ボン補足協定が日本側の視野に全く入っていなかったのが「大きな誤り」の原因だったようだ。この論文の「はじめに」の冒頭部分を引用させていただく。

 1960年に締結された在日米軍地位協定は、その前身である1952年の在日米軍行政協定とともに、1951年に北大西洋条約機構(NATO)加盟国間で締結されたNATO軍地位協定をモデルにして作成された、としばしば指摘されている。確かに、駐留軍隊の構成員およびその関係者に関わる犯罪または民事請求権の取扱い出入国管理上の処遇など、法的地位に関する諸原則は、NATO軍地位協定に定める諸原則とほぼ同様である。とりわけ、在日米軍地位協定の改定は、NATO軍地位協定の法文上の原則と比較して大きな差があると思われていた行政協定上の若干の原則を「NATO並み」にするという悲願の下においてであっただけに、新協定の実現とと もに、「NATO並み」への熱意は急速に萎えてしまった。

 しかも在日米軍地位協定に含まれる問題点に対する国会での究明は、同協定案に関する審議時ばかりではなく国会承認後においても不十分なままであった。さらに、同地位協定上の問題点の根元を溯れば、それは、NATO軍地位協定そのものに内蔵されているいっそう基本的な問題点に連結するのであるが、そのような基本的問題の所在に着眼されることさえもないままになっていた。

 また、「NATO並み」という捉え方の下では、在日米軍地位協定が、NATO軍地位協定とは後者における国際機構による組織的保障(例えばNATO理事会の承認・決定方式)など手続面を別にしても実体的原則面において構造的に大きく異なっていること、およびNATO軍地位協定が多数国間条約であることの宿命としてその規定の仕方が包括的であることは、明確に意識されないままであった。しかし何よりも先ず留意すべき点は、在日米軍地位協定には、NATO軍地位協定には含まれていない基地の設定および運用に関する諸原則が定められていることである。別の見方をすれば、在日米軍地 位協定は、駐留外国軍の法的地位協定という一面と基地協定というもう一面の双方を併せ持っているのである。

 同様の二面性を有しながら法技術的にいっそう緻密かつ体系的な地位協定が、ドイツ駐留NATO軍地位補足協定(正式名称は「ドイツ連邦共和国に駐留する外国軍隊に関して北大西洋条約当事国間の軍隊の地位に関する協定を補足する協定」、通称はボン補足協定)である。同協定は1959年8月3日にドイツ連邦共和国(西ドイツ)と、NATO加盟国のうち西ドイツに駐留軍を派遣する諸国との間に締結された。その後、1971年10月21日、1981年5月18日、1993年3月18日に改定。特に1993年の改定は大規模なものであった。

 また、在日米軍地位協定と比べて、この補足協定はその緻密性および体系性の点で注目されるというばかりではない。ドイツは、この協定において自国に駐留するNATO軍に対する自国国内法の適用をできるだけ確保することについてNATO諸国の了解を取り付けた。そのことは、NATO加盟国の了解という枠はめがあるにしても駐留NATO軍に対するドイツの主権の実体的な行使が実現されることを意味する。ドイツの補足協定に定める国内法適用原則は個別事項ごとに具体的であって、しかもその原則の内容においては住民への配慮がみられる。対比的に見ると、このような意味での実体的内容の欠落こそ、在日米軍地位協定での最も著しい点の一つである。

 在日米軍行政協定の改定への日本側要求と同協定の改定交渉または改定案作成の時期は、この補足協定の作成時期とかなり重なり合う。それにもかかわらず、日米安保条約をめぐる激しい政治的闘争の状況下において日本政府は「NATO並み」の原則への引き上げで精一杯になっていて、ドイツの補足協定を視野に入れるほどの選択の余裕もないような姿勢をとった。野党もジャーナリズムもドイツの補足協定を十分には把握しておらず、それを国民に広く知らせるには至らなかった。いずれにしても、日本国政府のいう「NATO並み」の根底にある理念は、形式的、観念的な主権平等の主張であった。例えば在日米軍地位協定第16条の日本国法令尊重義務規定に示唆されているように、主張される主権平等は抽象的、観念的な域に留まり、ドイツの補足協定の例に見るような、個別具体的な事項ごとの国内法制度による担保という実際的な域にはほとんど達しておらず、ましてや住民への配慮を国内法の面からも確保するには到底至らなかった。

《沖縄に学ぶ》(23)

沖縄の歴史(20):再びヤマト世へ(6)

沖縄返還協定(3)

 沖縄返還時の密約についてまとめておこうと思った。まずすぐに思い出したのは西山事件だった。ネットではたくさんの記事がヒットするが、この事件については過去に取り上げていたことを思い出した。その記事を紹介しよう。

『今日の話題「外務省機密漏洩事件」』

 西山さんが起こした国家賠償請求裁判の結果については次の記事で取り上げている。

『今日の話題「黒を白と言いくるめることに腐心する権力の番犬たち」』

 改めて西山事件の要点をまとめておく(上の二つの記事をお読みになった方は飛ばして下さい)

 1972年、毎日新聞の西山太吉記者が入手した外務省極秘電文のコピーには「「アメリカが地権者に支払う土地現状復旧費用400万ドル(時価で約12億円)を日本政府がアメリカに秘密裏に支払う」という密約が書かれていた。そのスクープ記事が日本社会党の横路孝弘と楢崎弥之助によって国会で取り上げられて大きな問題となった。しかし、政府は一貫して密約を否定して、問題は西山さんに極秘電文のコピーを提供した外務省の女性事務官と西山さんの男女関係と機密文書の入手方法に矮小化されていった。裁判の結果、2人は有罪となる。その30年後(2002年)に沖縄返還関係の公文書の機密が解除されて、西山さんのスクープ記事が真実であったことが証明された。2005年、西山さんは「密約の存在を知りながら違法に起訴された」として国家賠償請求訴訟を提起したが、第一審から最高裁まで、密約の存在には全く触れることなく、「損害賠償請求の20年の除斥期間を過ぎ、請求の権利がない」という棄却判決を押し通した。そして、日本政府は依然として密約の存在を認めていない。

 日本では三権分立とは絵に描いた餅であり、三権癒着国家である。下級審で見事な判決が出ても最高裁まで行くと決まって逆転する。

 「核抜き、本土並み」の「核抜き」  もう一つ、1997年に、返還後のアメリカ軍基地の使用をめぐる密約があったことを琉球新報がスクープしている。その密約が交わされた1972年5月15日の日付をとって「5・15メモ」と呼ばれている。これについてもネットで、琉球新報のスクープ記事(『「5・15メモ」本紙が入手 48施設の使用条件覚書』)をはじめ、いろいろな記事を読むことができるが、ここでは奥田さんの解説を引用しておく。

 1997年3月7日付け『琉球新報』朝刊でスクープされた「5・15メモ」は、72年5月15日に東京の外務省で吉野文六北米局長(当時)を代表とする日本政府代表団とリチャード・リー陸軍少将(当時)を代表とする米国政府代表団とのあいだで収り交わされた英文A4判250頁を超える一連のメモである。狭義には、沖縄の施政権返還にあたって米軍に提供する「施設及び区域」の使用目的、使用期間、使用条件などを定めた日米合同委員会施設分科委員会の合意事項であり、日米合同委員会第251回会合で「署名され、承認され、記録された」メモである。

 この合同委員会は、1951年講和・安保東京会談の冒頭に吉田首相が「日米の相互安全のための協力」、つまり日本「再軍備計画」が内外に与える政治的な影響を懸念して機密にするのが「政治的に賢明である」として設置されたものである。つまり、「5・15メモ」は日米安保条約をめぐる外交交渉における日本政府の「密約」の延長線上に位置づけられる。

 実際、公表された「5・15メモ」の冒頭には、「この会議録は両政府の正式文書と考慮され、相互の合意なくしては公開されないものとする」と書かれている。また、「5・15メモ」のなかで米軍が沖縄で使用する「施設及び区域」とは、治外法権的な区域を連想させるという理由による「基地」の言い換えにすぎない。「基地」を「施設及び区域」と言い換えることはできても、その排他的な性格を持つ広汎な軍事拠点という"実体"を変えることはできない。さらに、最終的に合同委員会が締結した取り決めによれば、沖縄返還後も米軍が継続して使用する軍用地などの「施設及び区域」は88に上っていた。

 しかも、日本の施政領域内にあって米国の管理権、つまり排他的使用権が及ぶ「基地」の使用期間は実質的に「無期限」とされている。そのうえ、米軍の軍事訓練上の「汚い仕事」は〈アジア太平洋地域→日本(本土)→沖縄(本島)→伊江島・鳥島〉という、より人目につかない、抗議の声が上がりにくい場所へと押しつけられているのである。

 自由と平等への解放を志向した戦前の「ヤマト(大日本帝国)世」、民主主義に夢を託した「アメリカ世」、そして日本国憲法下の〈非軍事・脱植民地化=民主化〉を希んだ再度のヤマト(日本国)世」は、いずれも希望と失望の繰り返しであった。小さいながらも独立国家であった歴史と文化が基底にあるだけに、それぞれの「世」には侵略者の一時天下という沖縄の実感が込められてもいる。

 アクトン卿(イギリスの歴史家・思想家・政治家)の有名な格言
「権力は腐敗する、絶対的権力は徹底的に腐敗する」
に倣うと、特定秘密保護法などという悪法を必要とするこの国については次のようになる。
「権力はウソをつく、傀儡権力はクソ…、いや訂正、ウソまみれるになる」
 何の傀儡? 勿論財閥(独占資本)様とアメリカ様の傀儡である。
 これまで見てきたように、密約だらけの沖縄返還協定で行なわれた沖縄返還の結果、再度のヤマト世はアメリカ世より一層過酷な状況を沖縄に強いることになった。奥田さんは次のようにまとめている。

 日米の「密約」外交を読み解いてゆくと、沖縄県の民意が反映されない政治の閉塞感、日本政府の対米協調/従属主義、そして米国政府の恫喝外交と米軍の軍事優先政策が浮き彫りになる。このように沖縄問題を突き詰めてゆくと、その不合理性や不正義を消極的ないし積極的に許容してきた日本社会の構造 ―在沖米軍基地をめぐる補助金や交付金をめぐる行政官僚機構、基地の雇用創出効果といった市場メカニズム、あるいは政治判談やメデイア報道といったシステムの自明性への依存― にこそ、真の原因があることが見えてくる。

《沖縄に学ぶ》(22)

沖縄の歴史(19):再びヤマト世へ(5)

沖縄返還協定(2)

(以下で条約や共同声明と、それに関する公式説明などはデータベース「世界と日本」の『日本政治・国際関係データベース』を利用しています。)

 1960年の日米安保条約改定の付属交換公文には、次の一文がある。
『合衆国軍隊の日本国への配置における重要な変更、同軍隊の装備における重要な変更並びに日本国から行われる戦闘作戦行動(前記の条約第五条の規定に基づいて行なわれるものを除く。)のための基地としての日本国内の施設及び区域の使用は、日本国政府との事前の協議の主題とする。』

 ここで言う事前協議について日本政府は、
「アメリカ軍部隊の配備が変更される場合、核兵器が待ち込まれる場合、そして日本有事(条約第5条のこと)以外の直接出撃のために在日アメリカ軍基地が使用される場合にアメリカ政府から事前に通告を受け、その都度日本政府が認めるかどうかを決める制度である」
と国民に説明してきた。しかし、1969年11月22日の佐藤・ニクソン共同声明の裏側で、沖縄のアメリカ軍基地の自由使用と共に事前協議の空洞化も行なわれていた。この安保条約の交換公文をそのまま沖縄に適用することになると、これまで在沖米軍基地を「自由使用」してきた米軍に対して大きな制約を課すことになるからである。

 この事前協議の空洞化は、日米共同声明の後に行なわれた佐藤首相のナショナル・プレス・クラブでの演説前にほぼ同時に行なわれたウラル・A・ジョンソン米国国務次官による共同声明の背景説明と愛知外相による内容説明の違いから浮かび上がってくる。日米双方の説明会は主として日米共同声明の第4項、第6項、第8項、そして経済条項に重点をあてたものであった。

 まず第4項についての説明では愛知外相は「事前協議」に4度触れているが、その初出は次のようである
①「韓国および台湾についての総理の見解は,現在の極東情勢の下において,わが国が韓国および台湾の安全を,日本の安全確保との関連で,一般的にどのように認識しているかを明らかにしたものであります。総理がすでに記者会見で述べたとおり,特に韓国に対する武力攻撃が万一発生すれば,これは当然わが国の安全に重大な影響を及ぼすものであります。従つて万一かかる事態が起つた際,これに対処するため,仮に米国より安保条約上の事前協議が行なわれれば,政府はこの一般的認識を判断の重要な要因として,その態度を決定することは,もとより国益上当然のことと考えられます。
 実に曖昧模糊とした文脈だが、最後(4度目)は次のように締めくくっている。
②「以上の各地域についての意見交換を通じて,いうまでもないことながら,日本側としてはいわゆる事前協議に関する「許諾の予約」を如何なる意味でも全く行なっていないという当然のことを,念のためつけ加えさせていただきます。」
 これに対してジョンソン国務次官は佐藤首相の演説から次の一文を引用している。
③「したがってこうした万一の場合(韓国への武力攻撃)においてアメリカが日本国内の施設区域を武力攻撃に対処するための戦闘作戦行動の基地として使用する事態が生じたさいは,前述の認識のうえに立って事前協議にたいし肯定的かつ敏速に態度を決定する方針である

 ①と③は佐藤首相の同じ演説を対象にしていると考えられるが、①の「政府はこの一般的認識を判断の重要な要因として,その態度を決定する」という解釈と、③の「肯定的かつ敏速に」(つまり常に「イエス」)という解釈の違いはどうしたことだろう。この違いを愛知外相は②で『「許諾の予約」を如何なる意味でも全く行なっていない』と改めて念を押している。

 次に第7項についての説明では、愛知外相は次のように説明している。
④「両首脳の話し合いの結果はすべて,共同声明にもられており,秘密の了解というようなものは全然ありません。この項に明らかなように現行安保条約および関連取決めはそのままなんの特別取決めなしに沖繩に適用されるという,わが国の基本的立場を米国が受入れたことがはっきりしました。かくして返還後の沖繩に事前協議制が全面的に適用されますので,いわゆる「自由使用」「自由発進」などは全くなくなります。ここにいう「関連取決め」とは安保条約とともに国会の承認をえている条約第6条の実施に関する交換公文,すなわち事前協議の取決めとか,吉田・アチソン交換公文等に関する交換公文,相互防衛援助協定に関する交換公文および地位協定をさすのであります。これに関連して,総理は極東諸国の安全は日本の重大な関心事であるとの日本政府の認識を明らかにした上,かかる認識に照らせば,本土並みの態様による沖繩の返還は,米国が極東諸国の防衛のために負つている国際義務の効果的遂行の妨げとなるようなものではない旨の見解を表明し,大統領が同意見の旨述べております。このことは当然ながら個々の具体的事態につき事前協議の際の許諾をあらかじめ予約したり保証したことではございません。
 ジョンソン国務次官は
「第七項も同じく重要ですが,書いてあるところで,すでに意味は明確だとおもいます。」としか言っていないが、その第7項の最後の部分は次のようである。
⑤「総理大臣は、日本政府のかかる認識に照らせば、前記のような態様による沖繩の施政権返還は、日本を含む極東の諸国の防衛のために米国が負つている国際義務の効果的遂行の妨げとなるようなものではないとの見解を表明した。大統領は、総理大臣の見解と同意見である旨を述べた。」

 ④と⑤の「米国が負つている国際義務の効果的遂行の妨げとなるようなものではない」という文は事前協議の答えは常に「イエス」であると言っていると読める。しかし、④は「事前協議の際の許諾をあらかじめ予約したり保証したことではございません」という注釈を加えている。そして、④はさらに「秘密の了解というようなものは全然ありません」という言わずもがなの一文を入れている。これは自ずから、日本国内に向けて、懸命に「密約」を隠そうとしていることを物語っている。

 このような事前協議を空洞化する密約があったことは実際に沖縄返還で行なわれたことを検証すれば明らかになるだろう。奥田さんは次のように検証している。

 100万の「日本人」が敗戦後四半世紀以上にわたって米軍による直接軍事占領下に置かれた「政治」と、巨額な費用をかけて構築した沖縄の基地機能維持という「軍事」の妥協の結果、またもや沖縄県民に不当な差別、犠牲、そして忍従が強いられることになった。つまり、事前協議体制の柔軟な適用は沖縄全域にわたる米軍基地の維持、強化、そして固定化を決定的なものにする可能性を高めたのである。

 実際、1972年に米国から日本に沖縄の施政権が返還された直後、在沖米軍基地のうち嘉手納米空軍基地、普天間米海兵隊航空基地、そしてホワイトビーチ米海軍基地に国連軍地位協定第5条第2項「国連軍は米軍に提供された基地を使用できる」が適用されると閣議決定された。

 69年11月の佐藤・ニクソン日米首脳会談のときに協議された問題は核兵器の持込みについてではなく、実際は、朝鮮半島有事と台湾海峡有事の際およびヴェトナム紛争に在日米軍基地を米軍が使用できるか否かという点についてであった。また、核兵器の「持込み」と言っても、米国の理解では、船舶での持込みや寄航は織り込み済みで、問題は地上核の配備であった。そのため、日米両政府は国連統一司令部の指揮下に置かれる日本駐留の米軍は日米安全保障委員会の対象外であること、また、朝鮮および台湾有事の際は「再持込み」が"保証"されることを確認し、そのうえで「密約」を交わした。

 沖縄の施政権返還は、日米両政府にとって、在沖米軍基地の整理・縮小ではなく、在日米軍基地の軍事的機能を最大限に拡大・強化することにほかならなかったのである。

《沖縄に学ぶ》(21)

沖縄の歴史(18):再びヤマト世へ(4)

沖縄返還協定(1)

 沖縄返還協定も相変わらずアメリカへの大幅な譲歩の産物でしかなかったようだ。奥田さんはその問題点を次のように指摘している。
『対日講和条約第19条で日本が対米請求権を放棄したのと同様、沖縄返還協定第4条第1項で沖縄についても対米請求権を放棄することが明記されている。しかし、第4条第3項では、講和条約前に米軍が起こした人身事故や土地の復元補償のうち、米国による沖縄占領時代にすでに行なわれていた補償から漏れた分については米国政府が"自発的"に支払うことが規定されている。ここでも、表向きは米国が補償費用を支出するかたちをとっているが、実際には、日本政府が肩代わりしたのではないかという疑惑が持たれている。』

 沖縄返還協定には次のような法を含むの七つの関連法がある。
「沖縄の復帰に伴う特別措置に関する法律」(「復帰特別措置法」:復帰に伴う混乱を避けるために定められた、いわゆる暫定措置法)
「沖縄振興開発特別措置法」(本土と沖縄の格差を是正するために制定された振興開発のための特別法)
「沖縄における公用地等の暫定使用に関する法律」(「公用地等暫定使用法」:復帰後の5年間にかぎって自衛隊の配備、米軍基地、自衛隊基地(公用地)の維持を図るための法律)
 これらの関連法によって、復帰前は日本政府の一体化政策、そして復帰後は「復帰特別措置法」によって法制度的な一体化に向けた暫定措置がとられることになる。

 さて、
 第67回臨時国会(1971年10月16日~同年12月27日)・第68回通常国会(1971年12月29日~1972年6月16日)は「沖縄国会」と呼ばれている。

 第67回臨時国会は沖縄返還協定を批准するために開かれた。その会期中の10月19日、日本復帰(沖縄返還)を「第三の琉球処分」であると批判する沖縄青年同盟(通称、沖青同)に所属する沖縄出身の3人の青年が衆議院本会議場の傍聴席において爆竹を炸裂させる事件が起きている。沖縄現地でも、日本国憲法よりも日米安保条約を優先させた沖縄返還交渉に対して激しい抗議行動が繰り返し起きていた。こうした沖縄の強い抗議の声を無視して、11月17日、衆議院沖縄返還特別委員会(自民党・桜内義雄委員長)において与党自民党による沖縄返還協定の抜き打ち強行採決が行なわれた。そして、11月24日に開会した衆議院本会議では、自民・公明・民主党が出席、社会・共産党ならびに沖縄県選出議員(安里積千代と瀬長亀次郎)が欠席というなか、12月22日に返還協定が原案のまま可決、成立した。ただし、沖縄返還協定の関連法は継続審議となっていた。しかしその関連法も、第68回通常国会が召集された日の参議院本会議で、次いで30日の衆議院本会議で、与党自民党の単独採決によって可決、成立した。

 このような協定のもとに1972年5月15日に、沖縄の施政権がアメリカから日本に返還されたが、二度目のヤマト世の沖縄はどのように扱われて、どのように変わっていったのか。奥田さんは次のように分析している。

 米軍基地については、「沖縄国会」の衆議院本会議で
「政府は、沖縄米軍基地についてすみやかな将来の縮小整理の措置をとるべきである」
と決議したにもかかわらず、1972年の日本復帰/沖縄返還以降に返還された在沖米軍基地は面積にしておよそ15%にすぎない。

 沖縄住民にとって、〈祖国=日本〉復帰とは何であったのか。また、日本復帰/沖縄返還は沖縄に何をもたらしたのか。復帰前の沖縄独立論がきわめて民族主義的であったのに対して、復帰後の沖縄独立論は米軍基地や政府補助金に依存する経済構造からの脱却を目指す自立自存や、基地被害のなかでも人権問題に焦点を当てていることに特徴がある。

 その背景には、沖縄の諸制度が中央集権的に統制されるにつれて、これまで沖縄の独自性を特徴づけてきた政党や労働組合といった組織もまた、本土の組織へと系列化されていったことが挙げられる。沖縄の組織の大半が本土の中央本部に対する単なる一地方の支部として呑み込まれていったのである。唯一、沖縄社会大衆党だけが本土政党の系列化に組み込まれることなく、今なお独自の地域政党として生き残っている。

 米軍基地など実情において政治的差別が許容される一方、規制など行政面のみ本土並みが強要されてきた。また、〈祖国=日本〉復帰後もなお残る巨大な米軍基地が住民の基本的人権や自治権を侵害している現実がある。このような不条理は、戦後日本の「高度経済成長」神話が米国の「アジア最後の植民地」と言われる沖縄の「(軍事)要塞化」のうえに創り出されたことを可視化するであろう。

 沖縄のアメリカ軍基地の「自由使用」問題も日本政府の譲歩と無為無策が積み上げてきた結果である。その行き着いた先が、次の引用文の赤字部分である。これは正に、集団的自衛権行使容認を含む戦争法の強行成立や沖縄辺野古新基地建設の強行などが示すように、現在の「アベコベ軽薄姑息うそつき」政権が躍起になって推し進めている政策、アメリカへの完全な属国化路線にほかならない。

 在日米軍基地の「自由使用」をめぐる問題は、日本が提供する軍事基地を米軍がどの程度恣意的に使用できるのかということよりむしろ、米軍の「自由使用」が日米安保体制、ひいては「日米同盟」全般に及ぼす影響をめぐる政治判断であった。現行の日米安保条約の成立(1960年)から周辺事態法の成立(1998年)までのあいだ、「日本防衛のため」という条約に明記された目的の枠内で米軍による在日米軍基地使用をどの程度認めるかが論議されてきた。

 米国政府は、沖縄の施政権返還に際して、在沖米軍基地の使用が制限されることを好ましいとは考えていなかった。そのため、「自由使用」の度合いを高めるように外交圧力をかけ続けた。当初、米軍基地の「自由使用」や「自由発進」をめぐる論議のなかで最大の焦点となったのは、朝鮮半島有事の際に在日米軍基地から米軍の直接出撃を日本政府が認めるか否かということであった。このような沖縄の極東における平和維持の役割をめぐる論議のなかで、日米関係に修復不可能なほどの大きなダメージを与えかねないという危機感を理由に「密約」外交が生まれる土壌が形成されてゆく。

 沖縄における米軍基地を最大限かつ有効に軍事利用してきた米軍は、施政権返還後、(日本)本土における米軍基地においても米軍が必要とする軍事行動を最大限認めるように基地の使用条件を緩和させていった。なぜなら、沖縄返還はそれまで米軍が享受していた在沖米軍基地の「自由使用」を最大限かつ継続的に認めることで実現したためである。しかも日本政府は、標語として掲げた「核抜き、本土並み返還」とは逆に、米軍の基地使用をめぐって適切な取り扱い条件を作成することを怠った。このように軽率な政府対応が、在沖米軍基地の「自由使用」を(日本)本土の基地使用へと拡大適用させてゆく道を開いたのである。

 米国の対日圧力は、沖縄だけでなく(日本)本土における米軍基地の「自由使用」が実質的に黙認されるようになると、〈日米安保体制=日米軍事協力〉の範囲を「極東」から「世界」に拡げさせようとするようになる。このことは、第Ⅲ部第9章で論じるように、在日米軍基地再編をめぐる日米協議の中間報告として2005年10月29日に発表された「日米同盟―未来のための変革と再編」に米軍と自衛隊の連携強化が謳われていることからも明らかである。

《沖縄に学ぶ》(20)

沖縄の歴史(17):再びヤマト世へ(3)

沖縄返還交渉(3)

 1967年11月15日に発表された佐藤・ジョンソン共同声明には沖縄返還の期日への言及がない。このため、沖縄では、米軍基地の存続を前提とした返還交渉が沖縄不在のまま日本政府によって進められていることを危惧する声が上がっていた。沖縄が懸念した通り、その後、沖縄返還の見返りとして「沖縄のアメリカ軍基地の自由使用権」、さらには「核の撤去と引き換えに緊急時の核兵器の貯蔵権と通過権」を日本政府が黙認することが秘密合意されていた(2000年1月6日付け朝日新聞が「沖縄『核密約』米が保管」と題して報道。2009年には佐藤の遺族が核密約文書を保管していることも明らかになっている)。

 佐藤が掲げた「核抜き、本土並み」という沖縄返還の基本方針は、裏を返せば、日米両政府にとっては、日米安保条約の諸条件を(日本)本土と同様に沖縄に形式的に適用するという意味であった。沖縄の人たちは当然のこと、「核抜き、本土並み」を核兵器の撤去・アメリカ軍基地の撤廃、あるいはせめてアメリカ軍基地の密度が本土並みに整理・統合・縮小されると解釈し、期待していた。しかし実際には、日本政府が喧伝した「沖縄返還」は、アメリカ軍が沖縄に押しつけた軍事的・戦略的な権益が侵されないかぎりにおける「日本復帰」でしかなかった。次の引用文中にも取り上げられているが、日米両政府間の密約は外にもある。そうした密約が返還後の沖縄にアメリカ世の時と変わらない、いや、そのとき以上の苦難を押しつる結果をもたらしたと言ってよいだろう。そうした返還後の沖縄の苦難を、奥田さんは次のように指摘している。

 沖縄の米軍基地は、沖縄返還をめぐる日米交渉のなかで、「日本国の防衛」に起因する米軍の自由な行動を保証する要とされた。その存在は後に、沖縄の「基地問題」をめぐる(日本)本土と沖縄それぞれの政治勢力のねじれを固定化させることにもなった。その遠因は、米国の施政権のもとで「(米国)ドルの二重使用」による基地依存型輸入経済に改変された沖縄経済の構造的脆弱性に出来する。「(米国)ドルの二重使用」とは、基地建設・強化のために投入された(米国)ドルが現地雇用の「琉球住民」に賃金として支払われ、その賃金で輸入される日本(本土)製品を購入し、そして日本(本土)が外貨(ドル)資金を獲得するといった日本(本土)の戦後復興を促進するための一連の経済的な仕組みである。

 このため、復帰/返還後の沖縄は、「所得格差の是正」や「自立発展可能な産業構造への転換(つまり、製造業の導入)」を掲げながらも、米軍基地関連の収入に替わって日本政府の補助金への依存を強めるようになった。「極東における平和と安定」のために米軍の軍事的存在を維持する必要を掲げた〈日米安保体制=日米軍事協力〉の名のもと、総面積の20%が米軍に占有される沖縄本島に象徴されるように、沖縄はいまだに外部依存型経済構造から脱却することができずにいる。

 1969年1月に誕生したニクソン政権が掲げた沖縄返還に合意する条件は、在沖米軍基地の「自由使用」であった。11月の日米首脳会談で極秘に了解した「ニクソン米国大統領と佐藤首相の共同声明に関する合意議事録」は、最近、米国国務省が現在も機密扱いのまま二種類の文書を保管していることを明らかにした。一つは、非常時の核の持込みおよび通過を認める内容の「核密約文書」と考えられる。もう一つは、韓国や台湾への在日米軍の出撃を日米安保条約の事前協議の対象外とする在沖米軍「基地の(最大限の)自由使用」に関する文書である可能性が高いと言われる。

 沖縄返還交渉の過程では、この二つの「密約」文書に加えて米国の財政負担を日本が肩代わりする「秘密覚書」が取り交わされていた。日本政府が「分割された領土」回復という政治的な成果を傷つけないために「機密扱い」を求めた一方、米国政府は占領地の返還という政治的な決断に際して「より大きな経済的利益」を得ようとした。日本の財政当局は、このような日米間の財政取り決めの実態から沖縄返還の「買い戻し/売り渡し」の"値段"が発覚することを懼れ、できるだけ秘密裏に処理しようとした。

 次章で詳述する「日米地位協定」の第24条では、在日米軍基地の経費負担について次のように定められている。第一項において、「米軍の維持に伴う全ての経費」は米軍が負担すると記されている。第二項では、「施設及び区域並びに路線権(飛行場及び港における施設及び区域のように共同に使用される施設及び区域を含む)」が日本の負担で提供され、これらの借り上げ料と補償費なども日本の負担とされている。米国太平洋陸軍司令部は、この第24条第2項の「施設提供」は日本政府の財政負担のもとで行われるという解釈を代替施設にまで拡大解釈して適用しようとした。

 このような日米地位協定第24条の"ゆるやか/リベラル"な解釈に基づいて、日本が米軍基地の改善費や移転費を財政的に負担する義務は法的な根拠がない。しかし、実際には、米軍基地従業員の社会保障費の一部負担とともに米軍基地の改善費や移転費も、日米防衛協力の柱の一つとされる「思いやり予算」に加えられて現在に至っている。つまり、沖縄返還交渉において日本政府が「機密扱い」を求めた財政に関する取り決めのすべてが現在の〈日米安保体制=日米軍事協力〉の原形をかたちづくったと考えられるのである。

 そして現在、米国内で本格的に論議されている軍事費と米軍の役割から派生するさまざまな問題は、在外駐留米軍を抱える日本にとって無関係ではない。米軍駐留は日本および極東防衛のためとする日米安全保障条約をいまだに信じている日本人は多いが、多くの米国研究者や軍事専門家のあいだでは「辺野古移設は無理」、「在沖海兵隊の役割は希薄」という見解が大勢を占める。沖縄の「地理的な重要性」や在沖米海兵隊の「抑止力」論は現在の軍事技術や他の軍事的プレゼンスによって代替可能であり、在沖米海兵隊の存在自体を問題視する意見もある。実際のところ、日本の防衛ではなく、韓国やヴェトナム、イラク、アフガニスタンといった世界の紛争地域における攻撃が在日米軍の重要な任務となっているのが現実である。

 1969年11月にワシントンDCで佐藤・ニクソン日米首脳会談が開かれたとき、沖縄返還をめぐる国内外の政治情勢はもはや一刻の猶予もない状況であった。沖縄では即時無条件返還要求を掲げた革新主席が誕生した。本土では70年日米安保条約延長をめぐる安保闘争が高まり、さらにはヴェトナム紛争の泥沼化にともなう反戦平和運動が激化していった。そのような状況の下で、佐藤・ニクソンは日米共同声明のなかで、70年安保条約の「自動延長」とともに、アメリカが沖縄の施政権「72年返還」を同時に発表した。次の焦点は核の持込みや在沖米軍基地の自由使用に移ったものの、佐藤首相は相変わらず「核抜き、本土並み返還」を繰り返し強調していた。

 そのような中で、1971年6月17日に日米両政府が調印した「沖縄返還協定」には、沖縄の核兵器撤去についての言及は何もなく、在沖アメリカ軍基地の整理・統合・縮小についても何一つ触れられていなかった。復帰協はすぐに「県民不在の返還協定に抗議する県民総決起大会」を開いて抗議の声を上げ、「基地撤去」、「安保破棄」、そして「完全復帰」を訴えた。

 しかし、実際のところその後、沖縄の総面積に占める米軍基地面積は14.8%から12.3%に、わずか2%減っただけであり、その分は自衛隊の配備によって穴埋めされるかたちとなっていた。このような沖縄返還の実態は、佐藤政権が掲げた「核抜き、本土並み返還」とはほど遠いものであった。

 次回からは、この「沖縄返還協定」と1972年の沖縄施政権返還の内実を見ていくことにする。
《沖縄に学ぶ》(19)

沖縄の歴史(16):再びヤマト世へ(2)

沖縄返還交渉(2)

 池田勇人首相は1964年11月9日に病気で退陣し、その後継者として佐藤栄作を指名した。その佐藤は吉田茂元首相を師と仰ぎ、吉田の遺志を継ぐ者として沖縄返還に政治生命を賭けていたと言われている。実際、佐藤は沖縄返還を政権の最優先課題として掲げた。CIAは佐藤の暗号名(コードネーム)を「ミスター・ヨシダ」としたそうだ。

 1965年、佐藤は訪米してジョンソン大統領と会談したが、その会談では
「沖縄及び小笠原諸島における米国の軍事施設が、極東の安全のために重要であること」を確認された。そのことを前提に佐藤は、沖繩の早期返還の願望を表明し、ジョンソンはそれに理解を示し「この希望の実現する日を待望する」と述べている。そして1月13日に共同声明を発表した。その声明には
「現存する日米協議委員会が今後は沖縄に対する経済援助問題にとどまらず、引続き沖縄住民の福祉の向上を図るために、両国が協力しうる他の問題についても協議しうるよう、同委員会の機能を拡大することに原則的に意見の一致をみた」
と明記されていた。これまでの対米依存関係から日米協調関係への移行が謳われていたのだった。しかしこの一ヶ月後に、沖縄返還の可能性を遠のかせる事件が起こった。アメリカのヴェトナム紛争への軍事介入である。

 ついでながら、今ではもう周知のこととなっているが、念のため触れておきたいことがある。このアメリカの軍事介入の口実になったのは「トンキン湾事件」と呼ばれている事件だった。1964年8月2日と8月4日にベトナム沖のトンキン湾で北ベトナム海軍の魚雷艇がアメリカ海軍の駆逐艦「マドックス」を魚雷攻撃した。これに対する報復という口実で、ときのアメリカ大統領ジョンソンは8月5日より北ベトナム軍の魚雷艇基地に対する大規模な軍事行動を行った。しかし、このトンキン湾事件はアメリカによる捏造事件だった。その後、ならず者国家・アメリカによるこの手の陰謀は今に引き継がれている。その中でも中東に最悪の事態を引き起こしたのが、イラクが核兵器を隠しているというウソを口実に行なったイラク侵略戦争である。

 さて、沖縄の基地からヴェトナムに向けた出撃は次のようである。

 1965年2月には継続的な北爆が開始され、4月に宜野湾市普天間のアメリカ海兵隊部隊が、6月に北中城村端慶覧(きたなかぐすくそんずけらん)のアメリカ陸軍部隊がヴェトナムヘ出動した。さらに、7月には台風避難という名目で核戦略爆撃機B52が嘉手納町嘉手納飛行場に初めて飛来し、その後、ヴェトナムヘ向けて北爆に出撃した。そして、翁長知事が「ベトナム戦争のときには、沖縄から毎日B52が爆撃のために飛び立ちました」と述べているように68年2月5日以降、22機のB52爆機が嘉手納基地に常駐し、毎日2回、ヴェトナムに出撃を繰り返すようになった。さらに、嘉手納基地の滑走路の延長や具志川のアメリカ海兵隊施設の拡大・強化が進められるとともに、国頭村(くにがみそん)および東村(ひがしそん)にまたがる沖縄島北部のキャンプ・ハーディー(アメリカ軍アジア特殊活動部隊の訓練基地)ではゲリラ戦演習が激増していった。以上のように、沖縄はヴェトナム紛争の米軍出撃基地として全面稼動していったのである。

 このように、1965年7月に核戦略爆撃機B52が嘉手納町嘉手納基地に常駐し、ヴェトナムヘ爆撃が常態化していった。そして、嘉手納基地を北爆の発進基地と位置づけていたアメリカ海軍は、この時点では、「空の雲が全部なくなって完全な青空になったとき、つまり米国と日本にとって安全保障上の"(共産主義の)脅威"が一切なくなったときに沖縄は米国から日本に返還される」という曖昧模糊とした方針を打ち出していた。このような状況の中、翌月8月19日から3日間にわたり、佐藤は戦後の首相としては初の沖縄訪問を行なっている。この沖縄訪問については、前回紹介した『日本にとって沖縄とは何か』の解説を引用する。

 日米首脳会談で、沖縄米軍基地の重要性を積極的に確認した佐藤政権が、試行錯誤の第一歩を踏み出しだのが、その年8月の沖縄訪問だった。沖縄に降り立った佐藤首相は、
「沖縄の祖国復帰が実現しない限り、我が国にとって戦後が終わっていないことをよく承知しております」
と述べて民衆の素朴な民族感情にささやきかけたが、それは同時に彼自身の帝国主義的願望のひそかな表明でもあった。

 戦後初めて日本の首相を迎える沖縄の表情は複雑だった。民衆の意識は急速に変わりつつあったとはいえ、反米(軍)感情の強さに比べれば、反(日本)政府感情はきわめて弱かった。異民族の軍事支配下に20年も放置してきた日本政府に対するいらだちや反発はあったが、それは期待感の裏返しの表現でもあった。佐藤来沖当日の琉球新報(8月19日付)は、
「佐藤首相を迎える沖縄の表情は「歓迎」、「請願」、「抗議」、「阻止」とさまざまであるが、"大勢は、歓迎した上で訴えるべきは訴えよう"という空気である」
と書いている。

 訪沖後の佐藤政権の対沖縄政策の特徴の一つは、心情的な本土・沖縄一体化論にもとづく沖縄の共同防衛論であり、もう一つは、「基地・施政権分離論」であった。

 佐藤の沖縄訪問の翌年(1966年)から、日米両政府内で沖縄返還が真剣に検討されるようになる。アメリカ政府内では同年6月に沖縄特別作業班が設置され、沖縄の施政権返還について議論が始められた。一方日本では、総理府総務長官の諮問機関として大浜信泉(早稲田大学総長、南方同胞援護会会長、沖縄海洋博協会会長を歴任する)を座長に据えた沖縄問題等懇談会を設置して、沖縄返還交渉についての検討を始めた。そして翌1967年11月15日、佐藤・ジョンソン首脳会談後に共同声明が発表された。この共同声明の概要を奥田さんは次のように解説している。

 日米両政府は、核ミサイル基地をはじめとする「米国の軍事施設が、日本および極東の自由諸国の安全を保障するため重要な役割を果たしている」ことを3年前に続いて再確認した。在沖米軍基地の「自由使用」が施政権の維持に裏づけられると考える米国政府に対して、佐藤首相はワシントンDCのナショナル・プレス・クラブで沖縄の「重要な役割」を全面的に肯定したうえで「沖縄の日本本土復帰と、沖縄の基地がその機能を有効に果すことは決して矛盾しない」と主張した。

 佐藤・ジョンソン首脳会談では、沖縄の施政権を日本に返還するという基本方針に基づいて日米両政府が合意に達した。この日米合意によって、それまで沖縄返還の前提とされてきた「極東の緊張緩和」という条件が明文上から削除され、施政権返還に向けて日米両国が継続的に議論する道が拓かれることになる。南ヴェトナムと米国の訪問から帰国した直後、1967年12月5日に佐藤首相が国会で行なった演説が象徴するように、当時、沖縄返還の代償は自衛隊(=日本の軍事力)の増強と米国の反共「封じ込め」政策(=極東戦略)に対する支持と理解されていた。また、沖縄返還の時期など具体的な点がすべて持ち越されたなかで、「沖縄の住民とその制度の(日本)本土との一体化」を進めてゆくことのみが明記された。

 この1967年の日米共同声明に対して、沖縄ではどのような反応が起こっただろうか。続いて奥田さんの解説を引用する。

 佐藤・ジョンソン共同声明は、「即時無条件全面返還」を掲げる「祖国復帰」運動の目的とは大きくかけ離れたものであった。復帰協はすぐに弔旗を掲げて抗議声明を発表すると、その後、民主主義の基本である主席公選を求めて沖縄の「祖国復帰」運動を推し進めた。そして1968年2月1日、キャラウェイ高等弁務官が同年11月2日の立法院議員選挙と同時に主席公選を実施することを発表するに到った。この初の主席公選に向けて、105団体による「主席、立法院議員選挙革新共闘会議」(革新共闘会議、別名「明るい沖縄をつくる会」)が結成された。政策面では、公約として「アメリカのベトナム侵略戦争、軍事基地及び安保条約に反対し、B52と核基地の撤去を要求して、県民の生命、財産を守り、平和な沖縄を築く」など、7つの「主席、立法院議員選挙統一綱領」が掲げられた。

 このような革新共闘に対して、保守勢力は「基地繁栄論」ないし「基地産業論」を主張して対抗した。沖縄経済がいかに米軍基地に依存しているかを強調することによって、地元住民の生活不安を煽ったのである。USCARと琉球政府もまた、日本復帰/沖縄返還による米軍基地撤去で約10万人の失業者が出るという推定調査報告書を発表した。その結果、主席公選の争点は〈祖国=日本〉復帰路線と米軍基地問題に絞られ、「平和と繁栄」か、それとも「混乱と貧困」か、という選択肢に言い換えられた。

 主席公選の結果、単なる格差是正にすぎない沖縄と(日本)本土の「一体化政策」があたかも復帰/返還の実現であるかのように見せかけていると批判し、経済・社会福祉面のみならずすべての面における差別の撤廃と日本国憲法のもとでの人権回復としての即時・無条件・全面返還を要求した屋良朝苗革新統一候補が当選した。沖縄県民は、27年間にわたる米軍による直接軍事占領を体験して、問題を解決してゆくために現実に妥協するのではなく、革新が掲げた理念に賭けることにしたのである。こうした沖縄の政治的かつ大衆的な動向を背景に、日米両政府の沖縄返還交渉が1969年6月の第一回愛知揆一外相訪米から同年11月の佐藤・ニクソン首脳会談まで続けられた。その結果、核の有事持ちこみ、事前協議の弾力的運用、そして韓国や台湾の防衛に関する日本政府の譲歩によって、沖縄の「核抜き、本土並み返還」という日米合意が生まれたのである。

 この「核抜き、本土並み返還」はその後、沖縄返還をめぐる政治スローガンとして使われるようになったが、その内実はどのようなものだったのだろうか(次回に続く)。
《沖縄に学ぶ》(18)

沖縄の歴史(16):再びヤマト世へ(1)

沖縄返還交渉(1)

  前回取り上げたように、1962年2月1日に琉球立法院が「施政権に関する要請決議」を採択し、それを受けて、1963年2月にアジア・アフリカ連帯会議がアメリカ軍の沖縄完全撤退と日本への施政権返還を求める決議を採択した。こうした祖国復帰運動の高まりのもと、日米両政府はどのような対応をしていったのか。最終的には「沖縄を売り飛ばした米国政府と買い取った日本政府」が締結した沖縄返還協定に至るのだ、それまでの経緯を追ってみよう。

 1961年6月22日に発表された池田・ケネディ共同声明には沖縄・小笠原問題に言及した次のようなくだりがある。
『大統領と総理大臣は米国の支配下にあるが同時に日本が潜在主権を保有する琉球および小笠原諸島に関連する諸事項に関し意見を交換した。大統領は米国が琉球の人民の安寧と福祉を増進するまでいっそうの努力を払う旨発言し、さらにこの努力に対する日本の協力を歓迎する旨を述べた。総理大臣は日本がこの目的のため米国と引き続き協力する旨確言した。』
 この共同声明をめぐって奥田さんは次のように解説している。

 日米現実主義路線で民生向上を志向するケネディ新政策は、内外から注視されている沖縄問題に新たな展開をもたらすのではないかと沖縄の期待感を高めた。しかし実際には、経済援助による沖縄の民生安定に重点が置かれ、基本的人権や自治権の問題については「継続的な検討」にとどまった。とはいえ、祝祭日における公共建物に「日の丸」を掲揚することが許可され、主席の選任方法として「立法院の指名した人を弁務官が任命する」立法院指名制という新しい方式が採用され、民政官が軍人から文官に替わり、そして日本政府による沖縄経済援助が増やされた。ここに、「日米琉新時代」が到来したと言われたのである。

 また、池田・ケネディ首脳会談において、1960年7月に琉球立法院で沖縄の「祖国復帰」を話し合う場として決議された日米琉懇話会が正式に発足する運びとなった。この懇話会において、日本政府が沖縄の施政権「全面」返還よりむしろ、行政権の「なしくずし」返還という積み重ね方式をとることを明らかにしたため、米国政府が譲歩する姿勢を示したと言われる。

 日本政府の構想では、日本政府代表として藤枝泉介総務長官、米国政府代表としてポール・W・キャラウェイ高等弁務官、そして琉球政府代表として大田政作主席の三者から構成される懇話会は沖縄に対する経済援助のあり方を中心に話し合う場として想定されていたことがわかる。

 一方、このような日米協調路線に対して、アメリカ軍は沖縄における軍事的利権が侵害されると捉えただけでなく、「祖国復帰」運動や自治権拡大といった沖縄の民主化要求に対しても警戒感を強めていた。そして、琉球立法院の「施政権に関する要請決議」を契機に、アメリカ軍は民主化要求を力ずくで押さえ込んでゆく道を選んでいった。日本政府の関与を最小限に食い止めようとした「離日政策」もまた、アメリカ軍が沖縄におけるさまざまな既得権益を失うことを懸念したため選んだ政策であったと考えてよいだろう。

 上に登場したキャラウェイ高等弁務官について付記しておこう。高等弁務官は軍人に代わって設置された復帰前の沖縄の最高責任者であるが、キャラウェイは第3代の高等弁務官で在位は1961~64年で。丁度、沖縄の復帰運動が盛り上がり始めた時期と一致する。キャラウェイは沖縄の自治権を「神話だ」と評した発言が残っており、今も沖縄ではすこぶる評判が悪い。

 翁長知事は管官房長官との会談で、管官房長官の姿勢をキャラウエイを対比して批判している。つまり、名護市辺野古での移設作業を「粛々と進める」とする菅氏について「問答無用という姿勢が感じられて、キャラウェイ高等弁務官の姿が重なるような感じがする」と述べているのだった。

「付記」をもう一つ。  《沖縄に学ぶ》を取り上げるに至った動機やその意義についてはすでに述べてきているが、最近時々、同じ視点からの論考に出会って心強く思っていた。ところが、その同じ視点から沖縄問題を論じた本がこの1月に出版されていたことを東京新聞の書評記事で知った。書評の対象本は新崎盛暉著『日本にとって沖縄とは何か』で、評者は田仲康博(国際基督教大教授)さんである。田中さんの書評を紹介しておこう。


 圧倒的多数の県民の反対を押しきって、沖縄・辺野古では今日も新基地建設が強行されている。防衛施設局は、民間の警備会社、県警、海上保安庁に加えて昨年から警視庁の機動隊をも動員して工事に反対する市民を排除していて、現場では多くのけが人が出ている。しかし、国家による暴力が日常化している沖縄の現実を県外のほとんどの人は知らされていない。

 本書で新崎盛暉は、辺野古新基地建設を「戦後70年の日・米・沖関係史の到達点」として位置づけ、戦後史をひもとくことで沖縄をめぐる問題の本質にせまる。彼によると、戦後日本の「サンフランシスコ体制」は、二つの条約によって生み出された。対日平和条約と安保条約は互いに補完し合いながら、一方で米軍による沖縄占領の継続を可能にし、他方で日米同盟を国境の〈外部〉で支える沖縄の地政学的位置を決めることになった。

 安保体制の矛盾を沖縄に押しつける「構造的差別」の仕組みがそこに誕生したわけだが、決定的に重要なのは、差別が現在も続いていることと、その不条理さに気づいた県民の間に国家と対峙する意識が芽生えていることだ。

 2007年、「集団自決」をめぐる教科書検定に反対する県民大会に11万余の人々が集結した。政治的信条や世代の違いを超えて人々が集結した大集会はなぜ可能だったのか。新崎は、そこにおいて歴史的体験が「現実の課題を通して、はじめて社会全体に共有化され」たからだと述べる。「オール沖縄」の出発点はそこにあった。

 沖縄問題は地域限定の問題ではなく、沖縄の人々だけが当事者であるわけでもない。本書の帯にある「これはあなた自身の問題である」という言葉は、当然のことながら、私たち一人ひとりに向けられている。戦争ができる国家の実現に向かってひた走る政権下にあって、そうではない社会を想像し、未来へ向かって一歩を踏み出すためにもぜひ一読をお勧めしたい。

(私は今日この著書を注文しました。今後、この著書を参考書の一つとして利用するかもしれません。)