2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《沖縄に学ぶ》(17)

沖縄の歴史(14):アメリカ世の沖縄(7)

祖国復帰運動(2)

 沖縄では「4.28」「5.15」「6.23」と、アメリカ世の歴史を記憶に止めるべく制定された象徴的な"記念日"が続く。歴史での時系列順では「6.23」「4.28」「5.15」となる。

 「6.23」は「慰霊の日」である。沖縄戦での日本軍司令官牛島満が自決したとされる日を沖縄戦終結の日と考えて選んでいるそうだが、その後もなお悲惨な戦闘状態が続いていたことは、すでに学習した通りである。言うまでもなくそれらを全て網羅した「慰霊の日」である。

 「5.15」は「本土復帰記念日」である。「沖縄返還協定」が発効した1972年5月15日の日付が選ばれている。沖縄の本土復帰に至るまでの経緯については後に詳しく検討する予定である。

「4.28=<沖縄デー>」

 「4.28」は「沖縄デー」と呼ばれているが、この記念日は二つの意味合いを持っている。つまり、前回で取り上げたように、1960年4月28日は「沖縄県祖国復帰協議会」(復帰協)が結成された日である、と同時に、この日付はサンフランシスコ講和条約が発行した1952年4月28日と同じ日付である。つまり、4月28日は沖縄の人たちにとって、沖縄が日本から切り離されアメリカ軍の支配下に置かれた「屈辱の日」でもあった。この「屈辱の日」であり、かつ「祖国復帰を求める全国的な統一行動」が始動した日を「沖縄デー」と定めたのだった。

 1960年代における沖縄デーの運動を奥田さんは次のように概観している。

 1960年代の「4.28」には、那覇市内で復帰協主催の「祖国復帰県民総決起大会」が開催され、大会参加者は日の丸の小旗と提灯を打ち振って市内をデモ行進した。(日本)本土では、62年から総評・青年団協議会・沖縄県人会・社共両党などによる「沖縄返還国民総決起大会」が恒例化し、63年の「沖縄デー」からは全国縦横の行進団が北緯27度線上に船を出して(日本)本土と沖縄が合同で海上集会を開催するようになった。その前夜は辺戸(へど)岬と与論島で焚火をたいて呼応するなど、沖縄返還運動は全国的な国民運動に拡がりつつあった。こうして、沖縄の「祖国復帰」運動は(日本)本土の「沖縄返還」運動との連携を強めてゆくことになる。

 また、沖縄デーは国際的にも認知されるようになる。

 1962年2月1日、立法院は「施政権に関する要請決議」を全会一致で採択した。決議文の文言には、国連の「植民地解放宣言」が引用され、「沖縄を日本から分離することは正義と平和の精神にもとり、将来に禍根を残し日本の独立を侵し国運憲章に反する」と強い抗議の響きがある。

この決議文は国連加盟国104ヵ国に発送され、国際的に大きな反響を呼んだ。翌63年2月、アジア・アフリカ連帯会議は米軍の沖縄完全撤退と日本への施政権返還を求める決議を採択すると同時に、4月28日を「沖縄デー」と定めた。

 さて、次回から「沖縄返還協定」に至るまでの経緯を取り上げる予定だが、現在のテーマ「アメリカ世の沖縄」のまとめに当たる奥田さんの解説を引用して置こう。

 米国の情報公開法に基づく公文書の開示によって、近年、米軍による直接軍事占領と日本への施政権返還の経緯が明らかになりつつある。政治的な蓋然性に因るところが大きい対日講和と対日政策を批判的に検証するうえで、情報公開された資料が米国の長期的な世界戦略構想とどのように関連づけられるかを精査することは欠かせない。なぜなら、日米両国の国益と沖縄の県益とは必ずしも一致しないからである。現在、沖縄が直面している基地被害をはじめとする社会・経済問題の多くは、1960年代から70年代にかけての「祖国復帰」運動とその政治的な帰結に起因すると考えられる。覇権を争う大国の思惑に翻弄されるなかで、沖縄自身がその過去、現在、未来をどう描いてきたかを総括してみることも必要であろう。

 米国国務省は、植民地帝国主義に対する反省から、日本「固有の領土」である沖縄を含めた日本を「非武装中立国家」とする計画を立てていた。しかし、朝鮮紛争を機に、当初の世界戦略を変更して沖縄の無期限保有と軍事基地化を極東政策の基本方針として打ち出すことになる。次に、米国の財政事情の悪化と日本の高度経済成長という不均衡な経済関係が米国による在沖米軍基地の恒久的な占有と沖縄の名目的な日本への〈復帰/返還=(再)併合〉というバーター取引を可能にした。そして現在、沖縄を売り飛ばした米国政府と買い取った日本政府は極東戦略から世界戦略へと〈日米安保体制=日米軍事協力〉の拡大・強化を推し進めている。それが、沖縄の〈いまここ〉なのである。

 「極東最大」と言われる米軍基地を沖縄に建設した米国は、1945年4月1日の沖縄島上陸から72年5月15日の日本への施政権返還までの27年間、基地の拡大・強化を最優先に直接軍事占領を行なった。その米軍によって人権と自治を踏みにじられ、日本(本土)の〈非軍事化=民主化〉を補填するめに〈軍事植民地化〉された沖縄は、いまだにあらゆる面で格差を引きずっている。69年に〈祖国=日本〉復帰が決まると、それまでのあいだに沖縄は米軍基地の固定化、基地労働者の大量解雇、ドルの暴落によって大きな社的・経済的な打撃を受けることになる。わずか一世紀のあいだに沖縄は〈清の世から大日本帝国の世へ〉、〈大日本帝国の世からアメリカの世へ〉、そして〈アメリカの世からまた日本(ヤマト)国の世へ〉と三つの世代わりを体験するのである。
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《沖縄に学ぶ》(16)

沖縄の歴史(13):アメリカ世の沖縄(6)

祖国復帰運動(1)

 沖縄の祖国復帰運動の最初の動きは1952年に始まった。つぎのようである。

 沖縄では、敗戦後数年間、〈祖国=日本〉復帰を唱えることは一種のタブーであった。しかし、対日講和が現実味を帯びて国際政治日程にのぼるようになると、「日本復帰」、「信託統治」、「独立」という三つの主張を軸に琉球諸島の帰属問題が議論されるようになる。そのなかで、〈祖国=日本〉復帰の気運が高まり、沖縄社会大衆党(通称、社大党)と人民党が党大会を開いて「日本復帰促進期成会」を結成した。それにつづいて、社大党の「新進会」が主体となって「日本復帰促進青年同志会」が結成された。

 1952年末、教職員会を中心に青年連合会、婦人連合会、PTA連合会、そして市町村会の社会教育団体が「祖国復帰期成会」を結成した。その初代会長に就任したのが、後に最初で最後の公選主席かつ初代の沖縄県知事となる屋良朝苗職員会長(当時)である。そして翌53年1月18日に「祖国復帰期成会」主催の「第一回祖国復帰総決起大会」が開催された。この大会において、屋良期成会長は「祖国復帰についてはもはやいさゝかの疑点をさしはさむ余地もないこの悲願成就に百万住民の力を結集しよう」と挨拶した。ここで留意すべき点は、大会のスローガンに基地問題への言及がないことである。万場一致で決議された大会決議文や日本ならびに米国への要請文には、復帰を"民族の悲願"とする文言が記され、会場では、「祖国復帰悲願成就」が叫ばれた。

 こうした祖国復帰運動の高まりに危機感を強めたアメリカ政府は、1953年12月24日、奄美群島返還協定を調印(翌25日に発効)し奄美群島を日本に返還すると同時に、沖縄の無期限保有を宣言して民衆運動の沈静化を試みた。同時にUSCARが祖国復帰期成会に対する圧力を強め、解散へと追い込んでいった。

 しかしその後、「島ぐるみ闘争」に直面して、アメリカ政府は在沖アメリカ軍基地の機能を維持するために沖縄占領統治の体制建て直しを余儀なくされてゆくことになった。

 祖国復帰期成会は自然消滅するが、土地闘争や主席公選要求といった運動は継続され、やがて全県民的立場で結集する統一組織をつくる必要性から、1960年4月28日に「沖縄県祖国復帰協議会」(復帰協)が結成された。教職員会、沖青協、官公労をはじめ社大党、社会党、人民党、教育長協会、PTA連合会といった教育、福祉団体計47団体が加盟した。新築したばかりの沖縄タイムスホールの会場には、日の丸と「祖国九千万同胞と団結して復帰実現をはかろう」、「復帰に備えてあらゆる立場から体制をつくろう」という標語が掲げられた。

 結成まもない復帰協が統一運動組織として真価を発揮したのが「アイク・デモ」であった。1960年6月19日、アイクの愛称を持つアイゼンハワー米国大統領が安保反対運動で騒然とした東京訪問を突然中止して、那覇に立ち寄った。復帰協は、当日午前9時半に那覇市久茂地(くもじ)の沖縄タイムス前の空き地で「アイゼンハワー米国大統領に祖国復帰を要求する県民大会」を主催するとして、県民への参加を呼びかけた。嘉手納基地に降り立って琉球政府へ向かった大統領一行が那覇市街に入ると歓迎の星条旗よりも日の丸と赤旗が増え、沿道では1万5000人の武装兵と請願デモの隊列が対峙していた。危険を感じた大統領一行は琉球政府とUSCARのある4階建て合同庁舎から予定コースを変更して、裏道を通って那覇空港へと急行した。ここに復帰協は勝利宣言を発して、民衆運動に自信を深めたのである。

 アイゼンハワーが東京訪問を中止したことは、ハガチー事件(6月10日)・樺美智子さんの死(6月15日)・アイゼンハワーの東京訪問中止(6月19日)という一連の事件として、私の記憶に残っている。その後のアイゼンハワーの那覇上陸も含めて、安保闘争に参加していた沖縄の学生の苦悩に満ちた述懐が小熊英二著『<民主>と<愛国>』に掲載されている。多くの沖縄の人たちが持っているであろう日本という「祖国」への疑念を代表していると思うので、それを紹介しよう。

 6月16日、東京訪問を中止したアイゼンハワーが、沖縄を経由してフィリピンヘむかうことが発表された。そのときの運動側の反応を、沖縄出身の学生だった仲宗根勇は、こう記している。
 私は「安保」で死んでもいいと思っていた。文学部の樺美智子さんが国家権力の使徒たちに殺された夜、私は怒りに泣いた。……安保闘争中、私は「半日本人」としてではなく、すっかり「全日本人」=本土日本人として行動していた。この力強いスクラムが、この叫びが、この歓声が日本の未来を、私たちの沖縄をもすっぽりと包み込む時、俺たちの時代は始まるのだと……。だがその日、訪日阻止を叫んで国会前にすわり込んだ巨大な国民大衆に向って執行部は誇らしげに、かつ少々悲憤ぶって訪日阻止の成功を報告した。「……アイゼンハウアーの訪日は阻止されました。我々は勝利しました。卑怯なアイゼンハウアーは沖縄に逃げ去りました!」。大衆は歓呼した。私は気も動転せんばかりに驚いた。これは一体どうしたことだ? 沖縄にアイゼンハウアーが上陸したことはとりもなおさず、確実に日本=沖縄に足を踏み込んだことなのではないのか!

 明らかにここでは、安保闘争の「国民的」な連帯から、沖縄は排除されていた。仲宗根は、
「真実は何も知らずに、いや偏見と先入観をもって前提された知識と意識の形でしか、沖縄は本土日本人、とりわけここに集まったいわゆる革新的な人々の中でさえ存在しているにすぎないのか」
と衝撃をうけ、
「日本国家にとって沖縄とは何か。いや、そもそも『日本国』とは何か。そして、もっと根源的に国家とは何か」
と考えざるを得なかったという。

 さて、沖縄の「祖国復帰」の理念的意味は何だったのか。奥田さんは次のようにまとめている。
『ここで言う「復帰」とは、主権国家における国民としての法的な主権者に保障された権利、つまり基本的人権を獲得することを意味していた。沖縄は、〈祖国=日本〉復帰による国家の回復を通して、国家を持たぬ一種の難民状態に置かれている現状を打破しようと試みたのである。』
 これを「復帰論」と呼べば、これに対して「反復帰」論、さらには「沖縄独立」論と呼べる議論や運動があった。後者二つの議論・運動を奥田さんはつぎのようにまとめている。
「反復帰」論
 日本から「分割された」琉球諸島では、米軍による直接軍事占領のもと、〈祖国=日本〉への帰属を求める「祖国復帰」運動が展開されていった。この運動は、一1972年に沖縄が日本に〈復帰/返還=(再)併合〉されるかたちで、日米両国の国家目的に回収されてゆくことになる。「反復帰」論は、そのような「祖国復帰」運動の思想(イデオロギー)を反芻しつつ、琉球/沖縄独自の理念を追求することを主張した。

 「反復帰」論は、1969年の佐藤・ニクソン共同声明で表明された「72年返還」合意を受けて、「反国家・非国民・反権力」の理念を機軸に〈祖国=日本〉を「あるべき日本」として相対化することを主唱した。近代沖縄の思相(イデオロギー)的な潮流は、〈日本化=皇民化〉を絶対的な前提として、「帝国臣民」への同化を志向する精神構造に支えられていた。そのため、どのような反体制的、反権力的な運動(あるいは闘争)も、やがては体制内に取り込まれてしまうという限界が内在することになる。そこで、「日本国」への統合を疑わず、「日本国民」としての同化を至上目的とする「内なる同化志向」を打破しないかぎり、沖縄の精神的な自立は展望しえないと訴えたのである。

 「反復帰」論における「復帰」という言葉は、「祖国復帰」運動を支える思想(イデオロギー)への批判を内包する。「反復帰」とは、単なる〈復帰/返還=(再)併合〉に対する反対ないし拒否を意味するわけではない。沖縄における「祖国復帰」運動が標語に掲げた「反戦復帰」には、「平和憲法の精神」が含意されている。つまり、〈復帰/返還=(再)併合〉によって強化されるであろう国家の強制に対峙する理念の足場として、思想(イデオロギー)的な課題が批判的に提示されているとも言える。なぜなら、国家の強制は、国民国家における「統合=包摂」の論理に基づいて、同化と異化の枠組みを堅持する手段として機能するからである。

 「反復帰」論は、また、「独立」論とも異なる。なぜなら、国家としての〈祖国=日本〉を相対化するうえで、琉球/沖縄の歴史的、地理的、文化的な独自性に依拠する一方、その異質性や異族性をも相対化するからである。差別(意識)から逃れるために自ら「日本国」への統合を追い求め、「日本人」への憧れをもって同化を内面化してきた精神構造から解き放たれる可能性を見出そうとする。日本への無批判な同化傾向をもつ従来の「復帰」論を相対化することによって、「復帰」の内実を問いなおしてゆこうとしたのである。

「沖縄独立」論
 琉球諸島は、1429年から1879年の「琉球処分」に至るまでの約450年間、琉球国という王国を形成していた。そのため、沖縄は日本国から独立して主権国家をつくるべきであるという沖縄独立論が議論されてきた。

 戦前は主に、琉球王国の復国運動というかたちで沖縄独立論が立ち現われた。1870年代後半から「琉球処分」前後に展開された幸地朝常(こうちちょうじょう)、林世功(りんせいこう)、亀川盛棟(かめかわせいとう)に代表される「琉球救国運動」は琉球、北京、そして福州を中心にした国際的な運動として展開した。戦後は、沖縄が日本から受けてきた差別や抑圧に対する批判的な視線と民族自決に基づく自治権の拡大を求めて、沖縄独立をめぐる議論や運動が展開した。そして〈復帰/返還=(再)併合〉後の沖縄では、「自立経済」という観点から「沖縄自立論」が議論されるようになる。

 沖縄独立の可能性は、歴史的に沖縄が重要な未来の選択を迫られる度に問題提起され、議論されつづけている。

《沖縄に学ぶ》(15)

沖縄の歴史(12):アメリカ世の沖縄(5)

沖縄財政への誤解

 「島ぐるみ闘争」に続いて「祖国復帰運動」を取り上げる予定だったが、その前に前回の最後に問題にした「基地経済への誤解」を補充しておくことにした。

 前回、翁長知事の陳述書から『「沖縄は基地で食べている」 基地経済への誤解』を引用したが、沖縄経済についてのもう一つの誤解が語られているので、それを引用しよう。

 (4)「沖縄は莫大な予算をもらっている」 沖縄振興予算への誤解  沖縄は他県に比べて莫大な予算を政府からもらっている、だから基地は我慢しろという話もよく言われます。年末にマスコミ報道で沖縄の振興予算3千億円とか言われるため、多くの国民は47都道府県が一様に国から予算をもらったところに沖縄だけ3千億円上乗せをしてもらっていると勘違いをしてしまっているのです。

 都道府県や市町村が補助事業などを国に要求する場合、沖縄以外では、自治体が各省庁ごとに予算要求を行い、また、与党国会議員等を通して、所要額の確保に尽力するというのが、通常の流れです。しかし、復帰までの27年間、沖縄県は各省庁との予算折衝を行えず、国庫補助事業を確保するための経験は一切ありませんでした。一方で沖縄の道路や港湾などのインフラは大きく立ち後れ、児童・福祉政策なども日本とは大きく異なるものであり、迅速な対応が要求されていました。

 復帰に際して、これらの課題を解決するために、沖縄開発庁が創設され、その後内閣府に引き継がれ、県や市町村と各省庁の間に立って予算の調整、確保に当たるという、沖縄振興予算の一括計上方式が導入されました。また、脆弱(ぜいじゃく)な財政基盤を補うため、高率補助制度も導入され、沖縄振興に大きな成果を上げつつ、現在に至っています。

 しかしながら沖縄県が受け取っている国庫補助金等の配分額は、全国に比べ突出しているわけではありません。

 例えば、県民一人あたりの額で見ますと、地方交付税や国庫支出金等を合わせた額は全国6位で、地方交付税だけでみると17位です。沖縄は内閣府が各省庁の予算を一括して計上するのに対し、他の都道府県では、省庁ごとの計上となるため、比較することが難しいのです。ですから「沖縄は3千億円も余分にもらっておきながら」というのは完全な誤りです。

 一方で、次のような事実についても、知っておいていただきたいと思います。沖縄が米軍施政権下にあった27年間、そして復帰後も、全国では、国鉄により津々浦々まで鉄道網の整備が行われました。沖縄県には、国鉄の恩恵は一切ありませんでしたが、旧国鉄の債務は沖縄県民も負担しているのです。また、全ての自治体で標準的な行政サービスを保障するため、地方交付税という全国的な財政調整機能があります。沖縄には復帰まで一切交付されませんでした。

 いま新垣毅編著『沖縄の自己決定権』(琉球新報社刊)を併読している。その本の「データで見る沖縄経済」という節で経済学者の仲地健(沖縄国際大学教授)さんがインタビューに応えて語っている内容が翁長知事の主張を裏付けている。転載しておこう。

―沖縄の財政の現状は。

 日本復帰の年(1972年)の県民総所得は5千億円近くだが、2010年は約4兆円で、約8.2倍になった。軍関係受取は777億円から2080億円の2.7倍。総所得に占める軍関係受取の割合を基地依存度として見ると、1890年代中盤から5%程度でしかない。県経済は基地収入以外で所得が増えている。例えば観光収入は320億円から4千億円超へ12倍以上、総所得よりも大きい伸びだ。
 ただ、財政依存度(公的支出額/県民総所得)は強まった。復帰当初の25%から最近は38%だ。総所得4兆円のうち約1.5兆円は国から入ってくるお金だ。復帰を境に沖縄経済は基地依存から財政依存に体質が変わった。本土との格差を是正するために公共投資を活発にやってきたからだ。といっても、全国的に見ると財政依存度は全国5位だ。
沖縄の財政1
―財政への誤解もある。

 国からのお金を「多くもらっている」という人がいるが、類似10県と比べるとそうでもない。沖縄は1人当たりの公的支出額は105万円で17位だ。沖縄だけ「国におんぶに抱っこ」ではない。国庫支出金や地方交付税と別枠で、3千億円の一括交付金をもらっていると思い込んでいる人もいるが、それも間違いだ。
 地方交付税制度は税収が少ない自治体にお金を配分する仕組みだ。標準的な行政サービスを提供するのに必要な額(基準財政需要額)を地方税で賄えない分は、国が地方交付税を出すことで自治体の財源を保障している。
 注目すべきは、沖縄県の基準財政需要額が財政指標類似10県の8割弱ということだ。本島中南部に約100万人いて人口密度が高いので効率的な行政ができるから他県より金がかからない。つまり支出が8割で済むため、収入も8割あればいい。沖縄の税収が低いことが強調されるが、歳出を考慮し収支バランスで見ると、沖縄県の財政力はむしろ類似県平均以上だ。
沖縄の財政2
―沖縄は米軍基地がなくてもやっていけるか。

 自治体財政に関して言えば、極端な話、来年基地が全部なくなってもまったく困らない。財源不足分は地方交付税で自動的に穴埋めされるからだ。基地がないと北海道夕張市のように財政破綻する自治体が出てくるかといえば、それはあり得ない。

―財政から見た場合、沖縄の自立をどう考えるか。

 国からの補助金は県民1人当たり約49円。逆に国に納める税金は約19万円で、約30万円の受け取り超過(類似県平均は41万円)であるが、この額は全国46位だ。自立をどう捉えるかだが、補助金よりも納税額が多ければ、自立していると言えるかも知れないが、それは国と地方の財政関係を抜本的に改革しない限り、どの地方も難しい。

―沖縄の課題は

 教育に力を入れることが重要だ。子どもの学力は親の所得に比例することが分かっている。所得は生産への貢献度に応じて市場で決まるため、一気には上げられない。個人が伸びれば、いろんな意味で経済的自立につながる。

《沖縄に学ぶ》(14)

沖縄の歴史(11):アメリカ世の沖縄(4)

島ぐるみ闘争

 「銃剣とブルドーザー」を前面に押し立てたアメリカ軍の軍用地強制接収に対して危機感を強めた立法院(琉球政府の立法機関)は、1954年4月30日、軍用地に関して次のような「土地を守る4原則」を決議して、アメリカ国と交渉する方針を明らかにした。

 使用料一括払い反対

 適正完全補償

 損害に対する適正補償の実施

 新規土地接収反対

 しかし、アメリカ軍は「4原則」をめぐる協議要請を無視して、強制的な上地収用を続けた。

 これに対して翌55年6月、住民代表6名が渡米して、アメリカ国下院軍事委員会で沖縄の窮状を訴えた。これを受けて、同年10月にアメリカ議会の調査団(通称、プライス調査団)が沖縄に派遣されることが決まった。

 琉球政府はプライス調査団の「民主的な」判断に最後の希望を託したのだが、「プライス勧告」(調査団の報告書)は、軍用地代の見直しに言及した以外、「4原則」の要求を完全に無視した。かててくわえて、1956年5月、アメリカ議会が沖縄基地建設計画を承認したのである。その概要が琉球政府主席に伝えられたのは、翌年6月9日のことであった。6月20日に公表された勧告全文は、「4原則」が破棄されたと受け止められる内容であった。

 「4原則」が拒否されたことを知った沖縄住民の怒りがついに爆発する。このとき初めて、軍用地問題の枠を超えて大規模かつ組織的な〈抵抗〉が沖縄全域に拡がったのである。これが「島ぐるみ闘争」と呼ばれている民衆運動であり、「祖国復帰」運動以前の基地闘争のなかでは、アメリカ軍による直接軍事占領の27年間における最大の民衆運動であった。その闘争の経緯は次のようである。

 まず、行政府・立法院・市町村長会・土地連合会(軍用地主の連合体)から構成された4者協議会(後に市町村議会議長会が加わった5者協議会)は「4原則」が受け容れられなければ総辞職することを決定し、民政副長官に決意表明書を手交した。

 同日、これに呼応して、全島で結成されていた「土地を守る会」が56市町村で一斉に「4原則貫徹住民大会」を開催し、全人口の半数に及ぶ約40万人が各市町村の住民大会に参加した。さらに、同年7月18日には、革新政党と教職員会が中心となった「軍用地問題解決促進協議会」が「沖縄土地を守る協議会」へと発展し、民衆運動の主要な機能を果たすようになった。そして同月28日に那覇高校の校庭で開催された「4原則貫徹県民大会」には、約15万人の沖縄住民が参加した。奥田さんはこの運動を次のように評価している。

『このとき初めて、「県民」という言葉が公然と使われたのである。それまで「忍従の民」と言われた沖縄の人びとが初めて、〈抵抗〉の民として立ち上がった瞬間でもあった。この大規模な民衆運動は、軍用地問題の枠を超えて、米軍による直接軍事占領に対する〈抵抗〉から〈祖国=日本〉復帰を志向する方向へと展開していった。そこでは同時に、沖縄に対する「潜在主権」を持つ日本政府に対して対米折衝を促す意図も込められていたのである。』

 この「無抵抗の抵抗」を支援するため、東京や大阪をはじめ(日本)本土各地で沖縄支援国民大会が開催され、鳩山一郎内閣もようやく重い腰を上げ始めた。一方、USCARは冷却期間をおくことで問題の早期解決を焦せる沖縄の切り崩しを図った。その切り崩しの経緯は次のようである。

 1956年9月20日に保守勢力主導の「土地を守る会総連合」が結成された。革新勢力の「土地を守る協議会」は「総連合」に吸収され、11月末には正式に解散する。そして12月末、「島ぐるみ闘争」の衰退を象徴するかのように、久志村(現、名護市)が同村辺野古における新規土地収用を承認し、一括払いを容認する契約に応じた。その後、一括払いの是非と地代水準が焦点となってゆくことになる。

 つまり、保守勢力が、軍用地代の引き上げによって、土地問題を経済的な条件交渉に限定する妥協へと転じたのだった。このことによって、アメリカ軍は沖縄島北部で新規土地収用を推進し、新たな基地を建設した。そして(日本)本土から米海兵隊師団を移駐させることから始まって、(日本)本土から次々とアメリカ軍基地を沖縄に移駐させてきたのである。1952年から60年に至るまでに(日本)本土の米軍基地は4分の1に縮小されたが、沖縄の米軍基地の面積は倍増した。それに加え、核兵器が搭載可能な多数のミサイルが沖縄に配備され、その発射基地が建設された。

 こうした理不尽な日米合作の土地強奪の結果、沖縄が追い込まれた状況を、奥田さんは次のようにまとめている。

『こうしてアメリカ軍に集落や農耕地を奪われてやむなく軍作業や基地労働で生計を立てざるをえなくなる沖縄住民のあいだには、「島ぐるみ闘争」の体験と記憶が刻み込まれている。一方で、総面積の14%、全耕地面積の42%を軍用地として強制接収された沖縄は、米軍基地に依存する社会・経済構造へ改変されていった。代表的な基地の街コザ市(現、沖縄市)における基地関係の収入は、全収入の70~80%を占める。また、約6万人の基地労働者の賃金などを含めると、沖縄の県民総生産の約45%が米軍基地関連収入に依存しているということも事実である。』

 この引用文中の「基地関係の収入」の部分の数値には疑問がある。奥田さんは「注」として丁寧に出典を明記している。軍用地の部分は琉球新報(1958年6月9日 夕刊)の記事「軍用地の現状はこうだ」が出典となっている。「基地関係の収入」部分には出典の記載がない。「~も事実である」と現在形で書かれているが勿論1958年頃のことだろう。もしかすると同じ新聞記事が出典かもしれないが確認の仕様がない。で、なぜ疑問を持ったかというと翁長知事の陳述書の記載と食い違っているからだ。その部分を引用すると次のようである。

3 米軍基地について

(3)「沖縄は基地で食べている」 基地経済への誤解

 よく、「沖縄は基地で食べているのではないか」とおっしゃる方がいます。その背後には、「だから少しぐらい我慢しろ」という考えが潜んでいます。

 しかしながら、経済の面で言いますと、米軍基地の存在は、今や沖縄経済発展の最大の阻害要因になっています。米軍基地関連収入は、復帰前には、県民総所得の30%を超えていた時期もありましたが、復帰直後には15.5%まで落ちており、最近では約5%です。駐留軍用地の返還前後の経済状況を比較しますと、那覇新都心地区、小禄金城地区、北谷町の桑江・北前地区では、返還前、軍用地の地代収入等の直接経済効果が、合計で89億円でありましたが、返還後の経済効果は2459億円で、約28倍となっております。また雇用については、返還前の軍雇用者数327人に対し、返還後の雇用者数は2万3564人で、約72倍となっております。税収は7億9千万円から298億円と約35倍に増えました。基地関連収入は、沖縄からするともう問題ではありません。経済の面から見たら、むしろ邪魔なのです。実に迷惑な話になってきているのです。

 日本の安全保障という観点から一定程度我慢し協力しているのであって、基地が私たちを助けてきた、沖縄は基地経済で成り立っている、というような話は、今や過去のものとなり、完全な誤解であることを皆さんに知っていただきたいと思います。基地返還跡地には、多くの企業、店舗が立地し、世界中から問い合わせが来ています。

《沖縄に学ぶ》(13)

沖縄の歴史(10):アメリカ世の沖縄(3)

3 米軍基地について

(1)基地の成り立ちと基地問題の原点

 沖縄の米軍基地は、戦中・戦後に、住民が収容所に入れられているときに米軍が強制接収を行い形成されました。強制的に有無を言わさず奪われたのです。そして、新しい基地が必要になると、住民を「銃剣とブルドーザー」で追い出し、家も壊して造っていったのです。沖縄は今日まで自ら進んで基地のための土地を提供したことは一度もありません。

 まず、基地問題の原点として思い浮かぶのが1956年のプライス勧告です。プライスという下院議員を議長とする調査団がアメリカから来まして、銃剣とブルドーザーで接収された沖縄県民の土地について、実質的な強制買い上げをすることを勧告したのです。当時沖縄県は大変貧しかったので、喉から手が出るほどお金が欲しかったと思います。それにもかかわらず、県民は心を1つにしてそれをはねのけました。そして当時の政治家も、保守革新みんな1つになって自分たちの故郷の土地は売らないとして、勧告を撤回させたわけです。今よりも政治・経済情勢が厳しい中で、あのようなことが起きたということが、沖縄の基地問題を考える上での原点です。私たちの先輩方は、基地はこれ以上造らせないという、沖縄県の自己決定権といいますか、主張をできるような素地を作られたわけであります。

 また、サンフランシスコ講和条約発効当時は、本土と沖縄の米軍基地の割合は、おおむね9対1であり、本土の方が圧倒的に多かったのです。ところが、本土で米軍基地への反対運動が激しくなると、米軍を沖縄に移し、基地をどんどん強化していったのです。日本国憲法の適用もなく、基本的人権も十分に保障されなかった沖縄の人々には、そのような横暴ともいえる手段に対抗するすべはありませんでした。その結果、国土面積のわずか0.6%しかない沖縄県に、73.8%もの米軍専用施設を集中させるという、理不尽きわまりない状況を生んだのです。

土地強奪令

 奥田さんは米軍基地の建設を三つの時期に大別して解説している。

<第1期>沖縄戦での上陸後
 上陸した米軍は日本(本土)侵攻作戦に向けて、日本軍が構築していたいくつかの飛行場を拡張し、使用した。前回書いたように、この段階では、沖縄住民はアメリカ軍に保護され民間人収容所に隔離されていた。

<第2期>1950年~1952年
 沖縄の長期軍事占領が政策決定され、厖大な基地建設予算が投入されるようになった。米軍は既存の基地拡大・強化のため新たに土地収用を始めた。居住地区の場合には、住民に立ち退きを迫ることもあった。対日講和条約発効(1952年4月28日)前のこの時点では、まだ、住民による組織的な〈抵抗〉はあまり見られなかった。

<第3期>1953年以降
 アメリカ軍は講和条約によって沖縄の直接軍事占領と軍事施設の「自由使用」に関して国際的な黙認を得たが、それまで無条件に使用していた米軍用地を契約関係に基づく使用へと移行しなければならなかった。そこで、USCARは1952年6月から軍用地代の支払いを開始した。しかし、安い地代と18年間という長期契約のために地代支払いのための手続きは難航した。そのため、53年末、米軍は突如として「黙契」(暗黙のうちに合意が成り立つこと、また、その合意)という詭弁による権利獲得を一方的に宣言した。
 それに加え、USCARは1953年4月3日に布令109号「土地収用令」を公布して、地主の同意なしに新しい軍用地を接収できるようにした。この「土地強奪令」はすぐに実行に移され、同年4月から55年7月までに真和志(まわし)村安謝(あじゃ)・銘苅(めかる)、小禄(おろく)村具志(ぎす)、伊江村真謝(まじゃ)・西崎、宜野湾村伊佐浜などで総計土地53万5000坪、家屋447戸が武装兵とブルドーザーによって強制接収された。なかでも、沖縄戦における激戦地で約1500人の犠牲者を出したことで知られる伊江島では、土地を追い出された農民が「無抵抗の抵抗」というスローガンを掲げて米軍の暴虐ぶりを沖縄島において「乞食行進」をして訴えた。

 以上にような強制的な土地収用の結果、アメリカ軍の軍事施設は沖縄島全域の117ヵ所にまで拡がった。また、市町村域に占める基地面積の比率では沖縄島中部が最も密度が高く、嘉手納の78.6%(2006年には83%)を筆頭に市町村域の50%以上をアメリカ軍基地にとられた自治体が6市村にのぼった。

 『沖縄の記憶』に「沖縄の米軍基地の現状」という地図が掲載されている。それを転載する。
沖縄の米軍基地

 奥田さんは
『基地特有の金属フェンスに到る所が囲まれた景観は、まさに「基地のなかに沖縄がある」ことを実感させられる。』
と書いているが、まさに沖縄はそのような実態を強いられているのだ。

 地元住民の反対を抑え込むため武装兵まで動員して行なわれた「銃剣とブルドーザー」による強制接収は沖縄全域に大きな衝撃をもたらしたが、こうしたアメリカ軍の野蛮な占領政策に対して沖縄の人たちはどのように抵抗していったのか。次回はそれ取り上げよう。

(追記)
 翁長知事は今回冒頭に転載した文章に続いて「普天間飛行場返還問題の原点」を取り上げている。その中で「普天間基地の原点は戦後、住民が収容所に入れられているときに米軍に強制接収をされたことにあります。」と述べている。普天間基地と言えば、アベコベ軽薄姑息うそつき政権に媚び諂っている百田という作家が「米軍普天間飛行場は、もともと田んぼの中にあり、周りは何もなかった」「商売になると、みんな何十年もかかって基地の周りに住みだした」というアベコベに負けず劣らず軽薄で姑息なウソを得意げに語ったことを思い出した。折しも昨日、沖縄タイムズが【誤解だらけの沖縄基地】という連載記事で『(11)普天間飛行場は田んぼの中にできた?』という記事を掲載した。本文は直接読んで戴くことにして、アメリカ軍が基地用の土地として接収した当時の宜野湾村の地図を転載しておく。

1944年頃の宜野湾村

 百田によると宜野湾国民学校や宜野湾村役場は田んぼの中にあったそうだ。
《沖縄に学ぶ》(12)

沖縄の歴史(9):アメリカ世の沖縄(2)

沖縄の軍事植民地化

1950年11月24日
 米国国務省、「対日講和7原則」を発表

その中に「合衆国を施政権者とする琉球及び小笠原諸島の国際連合信託統治に同意」という項があった。それを知った沖縄ではすぐに「信託統治反対・祖国復帰促進」の運動が起こった。

51年9月8日の対日講和条約でこの地域の日本からの分離と米国による占領統治が国際的に承認された。 翌51年4月28日
 「日本復帰促進期成会」が結成される。

 6月には「日本復帰」請願の署名運動が展開され、願署数は沖縄の全有権者の72.1%を占める19万9356人に達した。署名録は対日講和会議開幕日である9月4日の約一週間前に吉田茂首相とジョン・F・ダレス米国特使宛に送られた。しかし、その後は大きな大衆運動にまで発展しなかった。

 「対日講和7原則」の中の国際連合統治信託はサンフランシスコ講和条約の第3条として盛り込まれた。しかし、それは次のように、アメリカ独自の軍事植民地化が可能となるような姑息な条文だった

『日本国は,北緯29度以南の南西諸島(琉球諸島及び大東諸島を含む)…(小笠原群島などが続くが略す)…を合衆国を唯一の施政権者とする信託統治制度の下におくこととする国際連合に対する合衆国のいかなる提案にも同意する。このような提案が行われ且つ可決されるまで,合衆国は,領水を含むこれらの諸島の領域及び住民に対して,行政,立法及び司法上の権力の全部及び一部を行使する権利を有するものとする。』

 少し分りにくいが簡単に言えば次のようである。
 アメリカが南西諸島を統治信託することを国際連合に提案したときは、日本はそれに無条件で同意する。それまではアメリカが今のまま統治する。つまり、アメリカの都合で南西諸島を無期限に自由に使用できることを正当化する条文になっている。

 そして、アメリカはついには国連に信託統治を提案しなかった。信託統治になれば、住民のために経済的社会的発展が義務付けられるし、基地建設のために大規模な土地収用もできなくなる。つまり、それでは沖縄の軍事植民地化はできなくなる。

 しかし、日米合作の琉球処分は沖縄に対する日本の「潜在主権」を認めている。このことについては、奥田さんの解説を直接引用しよう。
このことはたとえ名目的であったとしても主権の承認を求めていた日本政府の主張と一致し、また、沖縄住民にとっては〈祖国=日本〉復帰を訴える重要な根拠となってゆく。米国は、日本の「潜在主権」を承認することによって、沖縄に芽生えた民主化の動きをあらかじめ封じ込めておこうとしたのである。ダレス米国国務長官は、1951年6月のメモのなかで、沖縄に対する日本の主権が放棄された場合にソ連が米国の沖縄占領統治に介入する危険性を指摘するとともに、主権が沖縄住民に属することになると「住民は国連をバックとして、米国を追い出す権利を主張するかもしれない」という危惧を表明している。日本の「潜在主権」は、実質的には、沖縄が米国による占領統治のもとに置かれることを容認するものであったことがわかる。

 以上のように講和条約はアメリカの占領統治を国際的に認める法の役割を持っていたが、講和条約に関わった国の中にはこうしたアメリカのやり方に批判的な国もあったことを記録しておこう。
 講和会議に先立って、在ワシントンの管理機関であった極東委員会の15ヶ国の中の一国であったインド代表は信託統治案に反対を表明するとともに、講和会議出席を拒否したと言われる。
また、講和条約調印国のなかで自国に駐留する外国軍の撤兵に取り組んでいたエジプト(当時は王国)の代表団が講和条約第3条について
「民族自決の原則と住民の表明された希望を考慮すべきである」
と強調し、これを認めずに態度を留保したことが記録に残っている。

 さて、翁長知事が「沖縄県民は…日本国民でもアメリカ国民でもありませんでした」と書いているが、このことに関連した奥田さんの解説を引用しておこう。

 米軍による琉球諸島の直接軍事占領を象徴するのは「身分証明書」による移動や渡航の制限であった。日本(本土)へ出入国するにもパスポートを必要とした。詩人山之口漠は「梯梧の花ふるさと沖縄をおもう」という記事のなかで、
「日本でありながら、沖縄への旅行は簡単なことではない。一ヵ月そこそこの旅行の手続きに二ヵ月も半年もかかるほど、遠いところに沖縄が引き離されていて、往き来さえおもうようにはいかないのだ」
と述べている。琉球列島米国民政長官、後に米国民政府高等弁務官が発給したパスポートにおける住民の身分には「琉球住民」とあった。

 米軍はこの渡航許可制を利用して米軍に批判的な人物や"反米的"と思われる申請者に対して自由に出入国させない一方、沖縄への渡航を希望する日本(本土)の研究者やジャーナリストの「入域」を恒常的に拒否した。この渡航制限によって出入国を拒否された人びとは広範囲に及んだ。1964年に琉球大学へ招聘教授として招かれた永積安明神戸大学文学部教授(当時)でさえ、「入域」を拒否された。

 また、71年までのあいだ、中国や北朝鮮といった共産・社会主義国への渡航も禁止されていた。

 そのため、「祖国復帰」運動が高まるとともに渡航制限撤廃を要求する運動も拡がっていった。

 アメリカの占領統治は経済面でも統制支配を行なっていた。

 米軍はまた、1948年から「B円」と呼ばれる円表示B型軍票を唯一の法定通貨とした通貨体制を敷いて沖縄経済を独占支配下に置いた。そして58年、占領統治を強化するため、10年間にわたって使用されてきたB円を米国「ドル」通貨制に「通貨切り替え」した。沖縄住民は旧日本円からB円、B円から米国ドル、米国ドルから現日本円と三回の「通貨切り替え」を体験することになる。一方、米軍はこの通貨切り替えにおける交換レートを管理することで交換利益を得ると同時に、沖縄の市場経済を統制支配したのである。

 こうしたアメリカの独裁的な占領政策に対抗して、「祖国復帰」運動が高まるとともに渡航制限撤廃を要求する運動も拡がっていった。また、自治権拡大を求める民衆運動も継続的に推し進められていった。この運動は、具体的には、高等弁務官による任命制であった琉球政府の行政主席「公選」を要求めるもので、1968年にはついに主席選を勝ち取っている。同年11月2日に行なわれた選挙で屋良朝苗(やらちょうびょう)を主席として選出している。

 講和条約第3条があのようなおかしな条文となったのは琉球諸島に対する処遇について対立をしていた国務省と軍の妥協の結果だったからだ。その経緯を奥田さんは次のようにまとめている。

 米軍が初めて大日本帝国の「版図(領土)から沖縄を切り離して直接軍事占領する計画を明らかにしたのは、米統合参謀本部の1945年4月3日付け文書のなかであった。その半年後、米軍は沖縄を長期保有する方針を決定し、信託統治などの手法を検討するようになったそして翌46年1月29日、GHQから出された「若干の外郭地域を日本から分離する覚書』によって沖縄は〈非武装化〉を支柱とする対日占領政策から外されたのである。

 このような米軍の方針とは反対に、当初、米国国務省は琉球諸島を日本「固有の領土」として認め、領土不拡大の原則に沿って返還する方針であった。そのため、米国政府としての沖縄占領政策は1946年11月の時点で一時棚上げが決定されていた。それから48年に至るまで、米国国務省と米軍とが沖縄をめぐって対立を繰り返した。米国による沖縄占領統治は必ずしも一貫したものではなかったのである。実際、その多くはその場その場で決定された、両者の妥協の産物であった。しかも米軍は、沖縄の直接軍事占領への支出を正当化して、米国議会での予算承認を得るための議会対策につねに頭を抱えることになる。沖縄では占領者として強権発動を繰り返していたUSCARも、米国本国では「民主主義」の原則に拘束されていたのである。

 ここに出てきたUSCAR(ユースカー)について説明しておこう。

 USCARとは1950年に米軍が沖縄に設置した統治機構である琉球列島米国民政府(United States Civil Administration)の略称である。一方、1951年4月1日にUSCARによって設立された暫定的統治機構を琉球臨時中央政府と呼び、つづく1952年から72年まで存在した統治機構を琉球政府と呼んでいる。この琉球政府は形式的に司法、立法、行政の三権を備えていたが、USCARはその上位の統治機構であった。そのため、「琉球政府は琉球における政治の全権を行うことができる」とされながらも、ただし「琉球列島米国民政府の布告、布令及び指令に従う」と規定されていた。このような「異民族支配」のもと、米国の利益を代表する民政長官(後、高等弁務官)により任命された行政主席(上に述べたように1968年からは公選制になった)の政治責任には限界があった。その後、「異民族支配からの脱却」という標語を掲げて「祖国復帰」運動が展開されてゆくことになる。

 もうお気づきのことと思うが、アメリカの沖縄占領軍は「沖縄」を用いず「琉球」を用いている。その背景には、前回のマッカーサーの言葉にもあったように、沖縄人は日本人とは違う民族であるという認識があった。もちろんそこには、沖縄人の本来の出自を認めることで、沖縄を日本から切り離すことに対する沖縄人たちの抵抗をそぐ意図があったと思われる。
《沖縄に学ぶ》(11)

沖縄の歴史(8):アメリカ世の沖縄(1)


 このように沖縄は戦前、戦中と日本国にある意味で尽くしてまいりました。その結果どうなったか。サンフランシスコ講和条約で日本が独立するのと引き換えに、沖縄は米軍の施政権下に一方的に差し出され、約27年にわたる苦難の道を歩まされることになったわけであります。

 その間、沖縄県民は日本国憲法の適用もなく、また、日本国民でもアメリカ国民でもありませんでした。インドネシア沖で沖縄の漁船が拿捕(だほ)されたときには沖縄・琉球を表す三角の旗を掲げたのですが、その旗は何の役にも立ちませんでした。

 また当時は治外法権のような状況であり、犯罪を犯した米兵がそのまま帰国するというようなことも起こっていました。日本では当たり前の人権や自治権を獲得するため、当時の人々は、米軍との間で自治権獲得闘争と呼ばれる血を流すような努力をしてきたのです。

 ベトナム戦争のときには、沖縄から毎日B52が爆撃のために飛び立ちました。その間、日本は自分の力で日本の平和を維持したかのごとく、高度経済成長を謳歌(おうか)していたのです。

「天皇メッセージ」

 前々回で指摘したように沖縄戦が終結したのは1945年9月7日のことである。その後、1972年5月15日まで27年にわたってアメリカ軍による沖縄軍政が続いたわけだが、実はそのアメリカ軍による沖縄占領の宣言はアメリカ軍が沖縄島中部に上陸した1945年4月1日に行なわれている。その日、沖縄侵攻軍の総司令官ミニッツ元帥が公布したミニッツ布告第一号である。その布告は「「日本帝国政府の総ての行政権の行使を停止」すると宣言している。その該当地域は北緯30度以南の南西諸島全域であった。それにともなって、一般住民や将兵たちに次のような措置が執り行われてた。

 地上戦にさらされた民間人は米軍の「保護」という強い信義のもとに「捕虜」収容所に隔離された。沖縄島で収容所に捕虜として保護された沖縄住民の数は4月末に11万人、5月末に14万人、6月末に28万人に倍増し、そしてさらに7月末には32万人にまで達した。生き遺った沖縄住民が〈米軍の「捕虜」となって収容所に「保護」された日〉がそれぞれの「終戦の日」となったのである。この後、沖縄はいわゆる日本(本土)の「戦後」とは異なる米国の「軍事植民地」として歩み始めることになる。

 沖縄島の住民が米軍に「避難民=捕虜」として保護されたのは米軍上陸地の中部地区が最も早く、次に北部、そして最後に南部であった。軍事作戦の障害にならないように知念(ちねん)、コザ、前原、石川、田井等(たいら)、瀬嵩(せだけ)、漢那(かんな)、宜野座(ぎのざ)、古知屋(こちや)、大浦崎、辺土名(へんとな)、平安座(へんざ)など12ヵ所に民間人「捕虜」のための収容所が設置され、日本軍を孤立させ、降伏させるために布告第二号の戦時刑法のもと基本的な自由が厳しく制限された。

建設中の軍事基地から離れた民間人収容所は沖縄住民が保護されてゆく一方、日本軍将兵や現地召集の軍人・軍属は捕虜となり、そのうち一部はハワイや米国本国に送られた。生殺与奪の権限を米軍に握られていた捕虜のなかには、民間の防衛隊員や健児隊の少年がいたことを心に留めておくべきである。約7000人が収容された金武村屋嘉(やか)の捕虜収容所が一番大きく、ほかに奥武山(おうのやま)、牧港(まきみなと)、読谷(よみたん)にも有刺鉄線か張り巡らされた捕虜収容所が設置された。

 中部戦線が激化していた5月頃にはすでに、民間人収容所のなかに学校・病院・孤児院・養老院が開設され、戦後の「アメリカ世」がすでに始まっていた。食糧や生活物資がつねに不足しがちであったため、禁止されていたものの、民間人「捕虜」は食料の調達や生き別れた肉親を捜しに収容所の外を出歩いた。また、飛行場や道路の建設、港湾での荷楊げ作業など多岐にわたって軍作業(後、米軍基地労働)に携わって無償配袷を受ける一方、軍用物資の山から生活用品を盗んでくる「戦果」が危険を冒して行なわれた。

 民間人収容所に保護された人たちがかつての居住地への帰還を許されるようになったのは1945年10月末頃からであった。

 次に、沖縄住民による自治がどうなっていったか、追ってみよう

1945年8月15日
 各地区の民間人収容所から124人の住民代表が石川収容所に集められ、アメリカ軍政府と沖縄住民の意思疎通を計る諮問機関として「沖縄諮詢(しじゅん)会」が設置された。住民自治機関の設立を準備するための機関であり、諮詢会は全琉球を統合した「琉球共和国建設」の理想を描いて住民自治の議論を重ねた。

1946年4月25日
 アメリカ軍政府の実権が海軍から陸軍へと移管される。それとともに沖縄諮詢会委員長であった志喜屋隆信が知事に任命されて沖縄民政府が設立された。また、奄美・宮古・八重山の各群島でも知事が任命されて民政府が設立された。

 一方、「日本が独立するのと引き換えに、沖縄は米軍の施政権下に一方的に差し出され」た経緯は次のようである。

1946年1月
 GHQのマッカーサー元帥は覚書で、
「奄美諸島を含む北緯30度以南の南西諸島を正式に日本から分離する」ことを宣言している。

1946年6月末
 マッカーサー元帥が次のような趣旨の発言をしている。
「沖縄を<軍事植民地化>することが、<非軍事化=民主化>する日本の防衛に役立つ。」

1946年7月
 沖縄の軍政はGHQに移管される。

1947年6月末
 マッカーサーがアメリカ新聞報道記者に次のような見解を述べている。
「琉球はわれわれの自然の国境である。沖縄人が日本人でない以上米国の沖縄占領に対して日本人が反対しているようなことはないようだ。」

1947年9月
 いわゆる「天皇メッセージ」がGHQに伝えられる。

 「天皇メッセージ」について、奥田さんは次のように解説している。

 47年9月、ウィリアム・シーボルトGHQ政治顧問は「沖縄の将来に関する天皇の考えを伝えるため」と言って訪問してきた宮内庁御川掛の寺崎との会話記録として、次のような報告書を作成した。

 天皇は、アメリカが沖縄を始め琉球の他の諸島を軍事占領し続けることを希望している。天皇の意見によるとその占領は、アメリカの利益になるし、日本を守ることにもなる。
[中略]
 天皇がさらに思うに、アメリカによる沖繩(と要請があり次第他の諸島嶼)の軍事占領は、日本に主権を残存させた形で、長期の ―25年から50年ないしそれ以上の― 貸与をするという擬制の上になされるべきである。天皇によればこの占領方式は、アメリカが琉球列島に恒久的意図を持たないことを日本国民に納得させることになるだろうし、それによって他の諸国、特にソヴィエト・ロシアと中国が同様の権利を要求するのを差止めることになるだろう。

 米国が「沖縄を始め琉球の他の諸島を軍事占領し続けることを希望している」という「天皇メッセージ」には、"self-interst"(私益)に基づくものという注釈が付け加えられている。

 沖縄の長期軍事占領を勧めるこの「天皇メッセージ」は、1947年8月、米国国務省長官マーシャルから、国務省が作成した対日平和条約草案を抜本的に変更する勧告を作成中であったジョージ・ケナン国務省政策企画室長に伝えられた。ケナンは、翌48年3月に作成した東京・沖縄・フィリピン訪問の報告書「アメリカの対日政策に関する勧告」のなかで、戦略的な利点だけでなく"政治的"にも沖縄が軍事基地に適していることを強調することになる。また、現時点で沖縄の米軍基地を恒久的に維持するために「天皇メッセージ」を戦略的信託統治の代案として検討するように勧告した。なぜなら、国連憲章で定義された(戦略的)信託統治制度は国連安保理事会においてソ連によって反対されることが明白であり、ソ連を排除した片面講話論を構想しつづけるかぎり現実の選択肢としては疑問視されていたからである。

 米国による沖縄占領統治を正当化する「天皇メッセージ」は、敗戦とそれにつづく間接保障占領(支配下に置いた現地政権を介してなされる間接統治)によって既得権益を喪失しつつあった日本の宮廷勢力が、GHQとの協調を通して復権を図ろうとした試みと考えられる。なぜなら、(日本)本土では、対日講和条約の発効までの間、GHQが発令する「ポツダム命令」(ポツダム緊急勅令(1945年9月20日に公布、即日施行された『ポツダム宣言』ノ受諾二伴ヒ発スル命令二関スル件」(昭和20年勅令第542号)の通称)に基づいて発せられた一群の命令の総称)を日本政府が実行する間接統治という占領行政が敷かれていたからである。そこには、2ヶ月前の1946年6月末に沖縄を<軍事植民地化>することが<非軍事化=民主化>する日本の防衛に役立つと発言したマッカーサー元帥の意向に迎合する趣旨もまた読み取ることができる。

 大日本帝国の「捨て石」にされた琉球/沖縄は、ふたたび〈祖国=日本〉から「分割された領土」として、切り捨てられるのである。社会学者の太田昌秀は、「本土政府と国民は、対日平和条約において、沖縄96万県民の意思を問うこともなく、本土自体の独立をあがなう代償として、沖縄県のみをその住民もろとも異国に売り渡し」たことを指摘し、「沖縄問題」とは「(日本)本土問題」の読み換えに過ぎないことを示唆している。

(追記)
 ネットで次の記事に出会った。
『琉球処分と天皇の沖縄メッセージ』
 『さらば日米同盟』の著者・天木直人さんによる記事だった。天木さんは『琉球処分とは「沖縄県民の意向を無視して日本政府の都合で沖縄の命運が決められた」というような意味で使われていいと私は思っている。』と述べている。同感である。沖縄の<軍事植民地化>はまさしく日米合作による第2の琉球処分である。

 私がこのシリーズ《沖縄に学ぶ》を始めた動機は、「国土面積のわずか0.6%しかない沖縄県に、73.8%もの米軍専用施設」があるうえ更に、貴重な動植物が生息する美しい辺野古の海を埋め立てて新しく膨大な基地を造るという暴挙を、機動隊の暴力を使ってまで押し通そうとしている「アベコベ軽薄姑息うそつき」政権への怒りであった。従って、天木さんの記事の最後に書かれている次の怒りにも同意する。

 昭和天皇による沖縄メッセージ。これこそが琉球処分である。今日の沖縄問題の原点がここにある。あなたは昭和天皇の「沖縄メッセージ」を知っていましたか。

 もし我々日本国民の一人一人がこの歴史的なメッセージの事を正しく認識しているなら、沖縄県民が日本政府と日本国民にどのような要求を行なおうとも、それは許される事だと知るだろう。
 日本政府と日本国民は沖縄県民に対し、いかなる償いをしても償いきれない事を知るに違いない。

 それにもかかわらず、沖縄県民の意思よりも米国政府の要求に応えることを優先する政府。
 よりによって沖縄慰霊の日の挨拶で沖縄県民に米国と一緒になって更なる負担を求めて感謝する政府。
 そのような政府、政権とそれを演出する政治家と官僚たちには、いかなる意味においても正統性はない。