2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《沖縄に学ぶ》(10)

沖縄の歴史(7):琉球処分から沖縄戦まで(4)

(今回から、奥田博子著『沖縄の記憶 <支配>と<抵抗>の歴史』を主要参考書とします。引用文は全てこの著書からのものです。)

 沖縄戦で沖縄の住民が受けた多大な被害はアメリカとの戦闘によるものだけではなかった。前回の最後の引用文にあった「同胞であるはずの住民に対す」る日本軍の蛮行の数々を記憶に止めておきたいと思った。奥田さんによる詳しい論述を紹介しておこう。

<住民殺害・虐殺>
 戦況が悪化してくると、守備軍は地元住民を敵襲から防衛するよりむしろ、諜報活動の対象とするようになった。つまり、住民の保護安全を図るよりむしろ「共生共死」を確実に実現させるため住民のなかに親米的人物を発見する、対米協力容疑者の行動を監視する、反軍・反官的な分子を調査する、反戦・厭戦気運を醸成する者を調査するといった行為が増えていった。このような守備軍の沖縄住民に対する対応は、直接的かつ間接的に民間人の犠牲を増大させたと言われる。

 沖縄県当局によって推進されてきた県民の〈日本化=皇民化〉が1934年の時点までにほぼ達成されたにもかかわらず、(帝国)本土では、沖縄が大日本帝国の「版図(領土)になってまだ日が浅いことが折に触れて強調された。とりわけ、沖縄県民には尚武の気性がなく、忠君愛国の念も乏しいという指摘がよくなされた。このように異質なものを排除しようとする発想や姿勢は、守備軍将兵の地元住民に対する不信感を高めるだけでなく、沖縄戦において住民を敵軍と守備軍および住民自体を監視する住民代表によって挟撃される状況に陥れることになる。

 沖縄戦における「友軍」であるはずの守備軍による住民殺害や虐殺をたんなる個々の加害者の人間性や言動に帰すのではなく、軍隊そのものに内在する本質的な問題として捉える必要がある。また、こうした問題に対する大本営の対応のあり方についても、沖縄戦の全体的な文脈との関連で考えなければならないであろう。


<スパイ容疑>
 米軍が慶良間列島に上陸して以降、地元住民にスパイを働く者がいるといった噂がまことしやかに守備軍将兵のあいだに流れるようになった。戦況が悪化すればするほど、スパイ行為を裏づけるようなものを何一つ示すことなく、守備軍が住民にスパイの嫌疑をかける言動が目立つようになってゆく。このように守備軍の住民に対する猜疑心が極端に強かったことは、実際、「友軍」であるはずの守備軍によってスパイ容疑で殺害される事件が頻発したことからも明らかである。

 守備軍首脳は民間人である沖縄住民が米軍の管理下に置かれる事態を想定し、容認していたが、こうした意向は将兵には伝わっていなかったようである。そのため、住民が米軍に投降したというだけでスパイ行為を働いたとみなして処刑した将兵が少なからずいた。また、このような住民の殺害事件に地元出身の兵士が関与している事例もあった。数十件に及ぶと言われる守備軍将兵による住民殺害や虐殺のなかには、1945年8月15日に「玉音放送」が流された後にスパイの嫌疑をかけられて殺害された事例も少なくなかった。

 戦争という極限状況下とはいえ、守備軍が地元住民にスパイの嫌疑をかけたのは、一つには、敗戦の混乱のさなかに住民の行動を誤解した側面があったことは否めない。また、米軍が沖縄島に上陸した9日後の1945年4月10日、沖縄守備軍司令部の軍会報は[爾今軍人軍属ヲ問ワス標準語以外ノ使用ヲ禁ズ 沖縄語ヲ以テ談話シアル者ハ間諜トシテ処罰ス」と報じた。その後、翌5月5日になると「爾今」という二字を削除した全文が長勇(ちょういさむ)参謀長名で公布された。この規定の根拠は不明であるが、守備軍の沖縄住民に対する不信感がいかに高かったかを窺うことができる。


<避難壕追い出し・幼児殺害>
 守備軍将兵は、スパイ容疑で住民を殺害しただけでなく、自らの安全確保のために住民を壕から追い出したり、幼児が泣けば敵軍に所在が露見すると殺害させたり、食糧を奪ったりした。このような個々人の部分的な沖縄戦の体験を大局から捉えなおしてみると、戦場における民間人の動向を概観することができるかもしれない。

 1950年の厚生省(現、厚生労働省)調査によれば(調査時点が比較的早いため実数ははるかに上回ると思われるが)、沖縄における陸軍関係の戦闘協力者4万8499人の戦没者を年齢別にみると、75歳以上が383人、14歳以上74歳以下が3万6633人、14歳未満が1万1483人となる。14歳未満の戦没者の内訳は、5歳から12歳にかけてが600人から800人台となっているのに対して(13歳が1074人、12歳が757人、11歳が696人、10歳が715人、9歳が697人、8歳が748人、7歳が767人、6歳が733人、そして5歳が846人)、2歳から4歳にかけては1000人を超えている(4歳1009人、3歳が1027人、そして2歳が1244人)。ここで、14歳未満の戦没者数が全戦没者数に占める割合がほぼ4分の1、4歳以下の戦没者数がほぼ10分の1であることは注目に値する。さらに、この調査による死因の内訳を見ると、14歳未満の戦没者の9割近く(1万101人)が守備軍将兵によって壕を追い出されて亡くなっていることがわかる。

 1979年12月4日、沖縄戦当時に6歳未満たった戦傷者が「沖縄県戦災障害者の会(6歳末満)」という会を発足させた。53年、地上戦の行なわれた沖縄に日本の「戦傷病者戦没者遺族等援護法」(通称、援護法)を適用するにあたって、その適用範囲が6歳以上と規定された。戦争当時、6歳以下であった戦傷者は「戦闘能力はない」うえに「政府との雇用関係がなかった」という理由で援護法の適用 から除外されたのである。しかし、81年8月17日、日本政府はこれまで除外してきた6歳未満の戦傷病者および戦没者遺族に対して戦闘(協力)能力を持ちえたと認定し、援護法の適用を認める見解を発表した。


<食糧難と「戦争マラリア」>
 全島規模で地上戦に巻き込まれてゆく沖縄島では、米軍上陸後、住民は日本軍の作戦による退去命令を受けて「共死」へと追い込まれた。1945年2月、沖縄守備軍と沖縄県当局は沖縄島中南部から北部ヘ10万人の立退き移動を決定した。その対象は、"戦闘の邪魔になる"老幼婦女子に限られ、実際に移動したのは約3万人程度と見られる。米軍が上陸すると、山中に避難していた住民はさらなる食糧難にさらされながら、飢餓とマラリアに苦しめられることになる。  食糧確保のために悪性マラリア発生地の西表(いりおもて)島南風見田(はえみだ)への退去命令を受けた波照間島の住民のなかに被弾死者は1人もいなかったが、住民の4人に1人が「戦争マラリア」で亡くなっている。非衛生的な生活環境、食糧難と栄養不良状態のなかでマラリアに罹患して死亡者が続出するなか、波照間国民学校校長の識名信升(しきなしんしょう)がその惨状を八重山旅団長に直訴したことで住民の帰島が許されることになった。引揚の際に識名が痛苦の思いを込めて砂岩に刻んだ「忘勿石(わするないし) ハテルマ シキナ」の文字は1992年8月に碑とされ、西表島南風見田の浜に遺されている。  地上戦がなかった八重山諸島でも、1945年6月1日、住民は軍令によってマラリア汚染地区へ強制退去させられた。その結果、「戦争マラリア」による住民の死者は空からの爆撃による日本車の死者の6倍に及んだ。沖縄島においても、波照間諸島や八重山諸島と同様、中南部から北部への疎問を強制された住民のなかには「戦争マラリア」による大きな被害が生じた。

 沖縄戦では日本軍に徴用された多くの朝鮮の人たちの悲劇があったことも忘れてはなるまい。

<朝鮮人「軍夫」「慰安婦」>
 摩文仁の平和祈念公園の一角に佇む「韓国人慰霊塔」には、「この沖縄の地にも徴兵、徴用として動員された1萬余名があらゆる艱難を強いられたあげく、あるいは戦死、あるいは虐殺されるなど惜しくも犠牲になった」という碑文が刻まれている。沖縄戦に動員され、飛行場や陣地の建設、戦場での弾薬運搬といった危険な作業に従事させられた朝鮮人軍夫と「後方施設」と称された日本軍直属の性奴隷施設に強制連行された朝鮮半島出身の女性たちの沖縄戦の実相は、今なお見えにくいものとなっている。

 守備軍の厳しい管理のもとを逃げ出そうとしたり、反抗したりする者は殺され、ときにはスパイ容疑や食糧統制違反などを口実に見せしめのために銃殺ないし斬殺された。とりわけ、守備軍が崩壊してゆく過程において朝鮮人虐殺が多発した。敗戦後、与那城村屋慶名(となぐすそんやけな)に設けられた朝鮮人専用の「捕虜」収容所に収容された者もいたが、復員状況ははっきりせず、その多くが帰還不明として処理されたと言われる。

 沖縄戦には、軍夫は2万人前後、慰安婦は1000人以上いたと推測される。彼らはどのように連れてこられたのか、また、生きて帰ることができたのかはまったくわかっていない。また、日本軍将兵として沖縄に駐屯した朝鮮半島出身兵の存在についてもほとんど記録が残っていない。2008年の時点では、沖縄戦の全戦没者の名前を刻む「平和の礎」に刻銘された朝鮮半島出身者は433人(うち朝鮮民主主義人民共和国(以後、北朝鮮)82人、韓国351人)である。また、宜野湾市の嘉数高台公園に1971年3月に建てられた慰霊塔「青丘(せいきゅう)之塔」に沖縄戦で犠牲になった「軍夫」386人と「慰安婦」30人が弔われている。

 次に集団自決が取り上げられている。集団自決は沖縄だけに起こった悲劇ではなく、地上戦が戦われて日本軍が敗走したほとんど全ての地域で起こっている。それはサイパン島での地上戦をもって嚆矢とする。

<「集団自決」の連鎖>
 1942年12月31日に催された御前会議において、ガダルカナル島に上陸していた帝国陸軍の撤退が決定された。この決定からほぼ1ヵ月が過ぎた翌43年2月1日から7日にかけて撤退が始まったものの、実際に撤退できた兵士は総兵力数3万人強のうちの1万人強であった。2万人以上の死者と行方不明者のうち、戦死者は5000人ほど、残りのほとんどは餓死したと推定される。このガダルカナル島からの撤退理由を「其の目的[米軍に占領された飛行場や基地などの奪還]を達成せるに依り」と発表した大本営はさらに、「撤退」を「転進」と言い換えた。当時、これを耳にした人びとは3分の2の兵士が死に、そのうちの4分の3が餓死したとは想像もしなかったであろう。大本営発表は、この後、戦局が劣勢になるにつれて「全滅」を「玉砕」、「避難」を「疎開」と言い換えることで戦争被害を矮小化してゆくことになる。

 「集団自決」という表現自体も問題を内包している。この言葉を慶良間諸島の強制集団死に言及する際に最初に用いた刊行物は、沖縄タイムス社の編集した『鉄の暴風 現地人による沖縄戦記』である。「自決」という字句本来の意味は、責任をとって軍人が自殺するということである。そのため、戦闘中に赤子をはじめ老若男女の民間人が"自決"することはありえない。日本軍による軍事的な"他殺"にほかならないのである。

 この「集団自決」は、大日本帝国の「版図(領土)において敗戦/終戦間際に地上戦が起こった場所特有の現象である。沖縄戦を捉えなおすにあたって、民間人である「帝国臣民」の「集団自決」がサイパン、グアム、テニアン、沖縄、そして満州国において連鎖的に起こったことを想い起こす必要があるであろう。劇作家の井上ひさしは、戦争責任の問題を主題とした『闇に咲く花』のなかで、「起こったことを忘れてはいけない。忘れたふりは、なおいけない」と述べているが、戦後、日本政府が「集団自決」について実態調査や事実検証を行なったことは一度もない。このように、地上戦に巻き込まれた民間人の雑駁な数字は、戦前も戦後も帝都ないし首都東京から辺境を眺める視線に変わりがないことを明らかにする。

 大日本帝国が国際連盟から委任を受けて統治していた1920年から45年にかけて「南洋群島」と呼ばれたミクロネシアの北マリアナ諸島のサイパン島は、「集団自決」端緒の島である。サイパン島での地上戦は、大日本帝国の委任統治領であったことを考慮すれば、その「版図(領土)における「最初の地上戦」であったと言える。実際、南洋群島は大日本帝国の北の絶対国防圏である満州国に譬えて南の絶対国防圏と位置づけられていた。沖縄戦に10ヵ月先立つサイパン島の地上戦のなかで起きた「集団自決」は、戦場での「軍官民共生共死」の情況や心理的に孤立無援の絶望感に追い込まれたためと考えられる。

 土地も狭く、資源も乏しいといった社会・経済上の条件から、琉球/沖縄は戦前戦後を通して全国でも有数の移民県として知られる。国家的に進められた南進政策に呼応するよりもはるか以前から、南洋群島には多くの移民を送り込んでいた。なかでも、「玉砕の島」として知られるサイパン島には多くの琉球/沖縄出身者が移住していた。そのため、アジア・太平洋戦争における沖縄県民の被害は沖縄戦の悲劇に尽きるものではない。

 歴史的には、日本海軍が豊島(ほうとう)沖で清国軍艦を攻撃して開戦の運びとなる日清戦争(1894―95年)の7年前、1882(明治15)年1月4日、明治天皇が大山巌陸軍卿に下賜した『陸海軍軍人に賜はりたる勅諭(軍人勅諭)』に掲げられた軍人の守るべき徳目としての「忠節」、「礼儀」、「武勇」、「信義」、「質素」という五ヵ条の「忠節」に「死は鴻毛[きわめて軽いものの譬え]よりも軽し」と記されていることと、1941年に陸相東条英機の名で戦場での道義および戦意を高めるために全陸軍に示達された『戦陣訓』に「生きて虜囚の辱しめを受けず」と記されていることが「集団自決」の引き金になったと言われる。「自爆」や「自決」という名の、"自死"は、60年余りをかけて「強制の内発化」ないし「強いられた自発性」として内面化されていったのである。このように国家に対して死をいとわぬ「従容(ないし従順)」の内面化には、後に「集団自決」の責任の所在や問題を曖昧化してしまう陥穿が内在していた。

 「集団自決」の動機をたんなる食糧不足とする見方にも、「崇高な犠牲的精神」の発露とする見方にも問題がある。そのことを理解するためには、沖縄戦の渦中で多くの地域において「集団自決」が見られたという実情とともに個々の地域社会や共同体の特質を併せて反芻する必要があるであろう。

 最後にまとめとして、奥田さんは集団自決を支えた要因について論考している。

<住民殺害・虐殺の論理>
 沖縄戦が他の戦闘と異なる三つの特徴として、まず、日本「固有の領土」における「最初の地上戦」であったこと、次に住民が直に戦闘に参加したこと、そして最後に特攻を中心とする大規模な航空総攻撃が敢行されたことが挙げられる。これらを条件づけたのは、沖縄住民が戦場の周縁でなくその中心にいた実情に因るところが大きい。また、対馬丸事件によって700人余の学童が溺死した1944年8月22日以来、船の不足もあって老幼婦女子の県外疎開がほぼ途絶したことも民間人である沖縄住民の犠牲を拡大させたと推測することができる。さらに、(「集団自決」のあった)渡嘉敷島で当時陸軍少尉であった元特攻隊中隊長が「沖縄戦は明治以来、外地ばかりで戦争してきた日本軍が、はじめて経験した国土戦」であったため、「外地の戦場でやってきた慣習をそのまま国土戦に持ちこみ、沖縄戦の悲劇がおこった」と回想していることを心に留めておく必要がある。

 また、沖縄戦の特質を示す資料としてよく言及される、1945年4月20日に大本営陸軍部が発行した『国土決戦教令』「第二章 将兵ノ覚悟及戦闘守則」の第一四条には、次のように書かれている。
「敵ハ住民、婦女、老幼ヲ先頭二立テテ前進シ 我が戦意ノ消磨ヲ計ルコトアルベシ 斯カル場合我ガ同胞ハ 己が生命ノ長キヲ希ハンヨリハ 皇国ノ戦捷ヲ祈念シアルヲ信ジ 敵兵殲滅二躊躇スベカラズ」。
 これは、「戦闘守則」として、天皇制を護る「国体護持」の戦闘において老幼婦女子、一般住民の生命が犠牲になることをためらってはいけないという軍命である。ここに、日本軍による住民殺害および虐殺が大本営の実質的な基本方針であったことを指摘できるであろう。

 沖縄戦における地元住民の死はさまざまなかたちをとるため、その全容を把握することはきわめて難しい。しかし、なぜこのような事態が起こったのか。たとえば、「集団自決」をめぐってはいまだに軍の命令の有無に議論が集約される傾向が強い。命令の有無自体は、戦場における絶望的な情況から、それほど重要な要因ではない。むしろ、戦場での情況によっては住民が「命令された」と受け取るような条件の有無こそが問われるべきである。

 沖縄戦の悲劇は住民の集団的な狂気、守備軍の宣伝、軍国主義教育、個々の地域の守備部隊の隊長命令、村長や巡査ないし地元防衛隊員の責任、沖縄特有の共同体のあり方といった要因に帰されることが多い。しかし、そのいずれも部分的な要因でしかない。つまり、その全容を解き明かす鍵となるものではない。守備軍将兵と地元住民が共有した「生死を共にするという心で固く結ばれ、その生死の程は間近に迫った現実」こそが最大の要因であったように見受けられる。結果として、社会的弱小者である老幼婦女子を含めた民間人の多くが「集団自決」で亡くなった事実を見逃してはならない。

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《沖縄に学ぶ》(9)

沖縄の歴史(6):琉球処分から沖縄戦まで(3)

<沖縄戦>

 仲村さんは第21章「琉球処分後の沖縄」の冒頭で『時代の流れ』という沖縄の民謡を紹介している。

 琉球民謡界の草分け的存在で、「風狂の唄者」と呼ばれた嘉手苅林昌(かでかる りんしょう 1920~1999)の代表作品に『時代の流れ』という唄がある。

唐(とう)ぬ世から 大和ぬ世
大和ぬ世から アメリカ世
ひるまさ変わたる くぬ沖縄

 この島の時代の変遷、すなわち「世替わり」を歌い上げたもので、「世」は「時代」を意味し、厳密にいえば「支配された時代」を意味する。大意は、
「中国の時代(冊封時代)から、大和(日本支配)の時代 大和の時代からアメリカ(米軍統治)時代 よくよく替わるものだよ、この沖縄は」
となろうか。短い歌詞ながら、大国に翻弄され続けた琉球・沖縄の歴史を確かな時代認識でとらえた唄といっていい。

 そして、この章を次のように結んでいる。
『 薩摩の侵攻に始まって、この琉球処分、そして沖縄戦といい、王朝時代からこの島はつねに戦争によって世替わりを重ねてきた。そして、そのすべての時代が難産の末に生まれた過酷な「世」であった。このことも後世、けっして忘れてならない「もうひとつの史実」ではないかと思えるのだが……』

 さて、沖縄戦→アメリカ世は想像を絶する過酷な時代だった。仲村さんは沖縄戦を簡潔にまとめているが、必要に応じて前回用いた『沖縄の記憶 <支配>と<抵抗>の歴史』から補足文を加えることにする。『沖縄の記憶』からの補足引用文には冒頭に(「沖縄の記憶」から)と付記する。

 1944年10月10日の那覇大空襲で沖縄が戦場になることが確実視されると集団疎開が始まったが、それでもなおかなりの住民が取り残された。このことが悲劇を生む直接的な原因となった。

 たぶん2年ほど前、それまであまり知られていなかった対馬丸事件をマスコミが取り上げていたのを思い出した。那覇大空襲以前にも政府命令による学童疎開があったが、そのときアメリカ軍の攻撃を受けて悲惨な事件が起きた。対馬丸事件である。次のような事件である。
(「沖縄の記憶」から)
 沖縄守備軍の対住民施策は、県内外への疎開を勧める以外に民間人の安全対策を講じることはなかった。「軍官民共生共死」の概念を鼓吹するばかりで、戦場に不要な老幼婦女子はどこに行けばよいのか、避難先での安全、良糧の人手、あるいは生活の保障をどうするのか、といった点について具体的な指示が与えられることは一切なかったのである。沖縄戦が始まると、戦場において民間人である住民は「共生共死」の対象とはなっても「安全保全」の対象とはならないことが徐々に明らかになる。しかしまだ、1944年の時点では、そこまで戦局を深刻に捉える者はほとんどいなかった。

 同年6月29日の富山丸事件(管理人注:沖縄への増援部隊を輸送中に撃沈された)から2ヵ月後、沖縄から(帝国)本土へ向かう第二陣の学童疎開船が撃沈された。8月21日午前6時35分、軍用船の対馬丸(6754トン)は集団疎開児童825人と一般疎開者836人を乗せ、僚船の和浦丸や暁空丸とともに那覇港を出港した。翌21日午後10時12分、対馬丸は鹿児島の南西260キロ、悪関島(あくせきじま)の北西方約11キロの海上で米潜水艦ボーフィン号に撃沈された。その結果、1661人の疎開者のうち1373人が不慮の死を遂げ、生存者は疎開児童が59人と一般疎開者が118人の計177人であった。この事件は、戦時下において、戦意喪失につながる心配があると極秘扱いにされた。

 極秘とはいえ、多数の老幼婦女子を乗せた疎開船対馬丸の沈没は沖縄近海の守備が十分ではないことを象徴する事件であった。それはまた、県外への疎開の実施が遅きに失したことの例証ともなった。実際、疎開を許可された老幼婦女子のなかには海上の危険に脅えて尻込みした者も多くいた。結果として、翌1945年3月上旬までに沖縄諸島から九州地方へ約6万人、宮古・八車山諸島から台湾へ約2万人、計8万人程度の老人・女性・子どもが疎開した。

 那覇大空襲での被害状況は次のようである。
(「沖縄の記憶」から)
 対馬丸事件から1ヵ月半後の1944年10月10日、沖縄最大の都市である那覇市は早朝から午後4時頃までの9時間余にわたって南大東島沖合の米第58機動部隊空母エンタープライズを中心とする艦載機グラマンなど199機による猛烈な空襲を受けた。5次にわたる米軍機動部隊の来襲によって、那覇市の約90%が灰燼に帰す甚大な損害を受けた。

 第1次は、午前6時50分から7時5分にかけて南西諸島にあるすべての飛行場の滑走路が爆撃を受けた。つづく第2次は、飛行場だけでなく那覇港の船舶などが攻撃された。第3次は、飛行場が攻撃されるとともに主に那覇、渡久地(とぐち)、名護、運天港、与那原(よなばる)、泡瀬(あわせ)などの各港湾が爆撃を受けた。船舶のほか、とくに埠頭施設や貯油タンクなどが攻撃目標にされた。第4次の攻撃目標は那覇市内に絞られ、銃爆撃とともに多数の焼夷弾が投下されて市街地に火炎が起きた。第5次の攻撃も那覇市内に集中し、繰り返し風上に焼夷弾が投下されて無差別の銃爆撃を受けた。一方、米艦載機は8回にわたって慶良間列島を襲撃し、港の漁船などを爆破した。同じく伊江島飛行場も連続的に攻撃して飛行場の付属施設や兵舎などを爆撃した。

 この10・10空襲による軍官民の人的かつ物的損害はあまりにも大きかった。陸海軍の死者は338人、負傷は313人、民間人の死者330人(うち那覇市255人)、負傷者445人(うち那覇市358人、家屋の全壊・全焼は約1万1500戸、航空・船舶基地に加えて琉球王国時代の貴重な文化遺産も大きな損害を受けた。それ以上に大きな打撃となったのは、食糧の損失であった。この空襲で軍主食の米・麦約3800トン、副食約156トン、調味品約187トン、その他約166トンに加え、県民1ヵ月分の食糧約30万トンを焼失したのである。

 日本政府は、10・10空襲後、スペイン大使館を介して、米国政府に対し、人口約7万人の那覇市に無差別爆撃を行ったことは国際法に対する重大な違反であると厳重な抗議を行なっている。日本政府が求めた釈明に対して、ステティニアス米国務長官はスペイン大使館から抗議文を受け取った旨を伝えるだけにとどめ、それ以上の発言はしないことで事件を完全に黙殺した。

 こうした無差別爆撃はその後日本本土各地で行なわれ、ついには広島・長崎への原爆投下となった。そして、アメリカはその後もベトナム・アフガニスタン・イラクへ、さらに現在の中東紛争へと、無差別爆撃を続けている。アメリカは世界一のならず者国家である。そもそも一般市民への無差別爆撃がなくとも戦争そのものが人類を滅亡に追い込みかねない最悪の愚行なのだが…。

 仲村さんの記述に戻ろう。沖縄戦における日本守備軍の対応とその結末は次のようであった。

 日本軍は牛島満(1887~1945)中将が率いる第32軍が守備にあたり、首里城の地下壕内に司令部が設置された。その陣容は陸軍8万6千人、海軍1万人、沖縄現地から動員された学徒隊・防衛隊2万人の計11万6千人である。対する米軍は船舶1500隻と、日本軍を上回る18万人の兵力を上陸させている。

 1945年4月1日、米軍は日本軍の飛行場があった沖縄本島中部西海岸の読谷、嘉手納、北谷に上陸した。本土決戦の時間稼ぎをするために、日本軍は水際での戦闘を避け、米軍を無血上陸させて持久戦にもちこんだのである。

 が、圧倒的な物量でもって進撃する米軍をとどめることはできなかった。米軍は上陸した翌日には東海岸に達して南北を分断し、4月20日には北部を占領している。一方の中南部戦線では日本軍が総力で反攻に転じたが、結局は8割以上の主力部隊を中部で失い、第32軍は5月22日に首里城地下の司令部を放棄して南部に撤退することを決断した。

 このとき南部地域は日本軍に加えて、軍をたよって南下してきた住民、もともとの避難民をあわせて10数万人が混在する状態に陥っている。そこに米軍が大挙迫ってきたのである。住民は妄動するほかなく、各地で「鉄の暴風」とよばれた地獄絵さながらの阿鼻叫喚の事態が現出した。

 牛島司令官が自決したのは6月23日(22日ともいわれる)である。これによって日本軍の組織的な抵抗は終わったが、牛島司令官が「最後迄敢闘し悠久の大義に生くべし」との軍命令を出していたため、戦闘はその後も散発的に続いた。

 このことはあまり知られていないが、米軍が沖縄戦の終了を宣言したのは翌7月2日で、日本軍残存部隊が降伏に調印したのは、日本が敗戦した8月15日から半月以上も経った9月7日のことである。

 沖縄戦の最大の特徴は、米軍の本土侵攻を遅らせるために90日にわたって勝ち目のない戦を展開したことに尽きる。そのため10数万人の住民が地上戦に巻き込まれた。そのなかで発生したのが同胞であるはずの住民に対する監視である。加えて、日本軍は食糧を強奪したり、壕に避難していた住民を戦闘のじゃまになるとして追い出したり、あげくは方言を使用した者をスパイとみなして殺害するなどの行為をはたらいた。

 沖縄戦における住民の犠牲者は約9万4千人。軍人・軍属の戦没者とほぼ同数であるが、餓死やマラリアなどの疾病で亡くなった人たちを合わせると15万人以上にのぼるとされる。住民の犠牲者は軍人よりもはるかに多かったのである。

 明治期以降ひたすら日本への同化に邁進し、「動物的忠誠心」とまで称されたこの忌まわしい結末を何といえばいいのか。少なくとも沖縄戦では軍隊は住民を守らなかったことになる。まさに、同化の果ての「醜さの極致」であった。

 沖縄戦から広島・長崎の原爆投下までの悲劇を引き起こした背景には、自己保身を優先した天皇ヒロヒトの優柔不断な時局判断があった。『「終戦の詔書」を読み解く 「詔書」第一案の分析(6)終戦工作の実態で取り上げたように、「戦争終結策を至急に講ずる要あり」という近衛文麿の進言に対して、自己保身を優先した天皇ヒロヒトは「もう一度、戦果を挙げてからでないとなかなか話は難しいと思う」と返答しているのだ。各地で日本が敗退を続けていて、絶望的なところまで追い込まれていた1945年2月段階でのことである。沖縄はそのための「捨て石」であった。
《沖縄に学ぶ》(8)

沖縄の歴史(5):琉球処分から沖縄戦まで(2)

<皇民化教育>(の続き)

 人類館事件をめぐって、沖縄では琉球新報の反差別キャンペーンに多くの投書があり、それが全県あげての抗議運動に発展している。しかし、仲村さんはその過程で「差別問題の本質を考える上で見逃せない重要な出来事が起こっている」と言い、琉球新報の主幹・太田朝敷が書いた社説を取り上げている。

 琉球新報の主幹、太田朝敷は沖縄差別を問題にしながらも、社説で次のような記事を寄せていたのである。

「我輩は日本帝国に斯る冷酷なる貪欲の国民あるを恥つるなり。彼等が他府県に於ける異様な風俗を展陳せずして、特に台湾の生蕃、北海のアイヌ等と共に本県人を撰みたるは、是れ我を生蕃アイヌ視したるものなり。我に対するの侮辱、豈これより大なるものあらんや」

 ここに太田の視点がはっきりと現れている。沖縄に対する差別を問題にしながらも、一方では、「琉球人が台湾先住民族やアイヌと同じように見なされ、同列に陳列されることは侮蔑、屈辱である」として、他民族を劣等民族と見なすような側に立っていたのである。その社説にはさらに

「本県の教化今やしんしんとして上進し服装のごときも男子は十中の八九は既に之を改め女子と雖も改造するもの年々其数を増加するの勢あり其他万事日を追うて他府県に一致せんとする~」

と記され、沖縄が日本への同化に向けていかに懸命に自助努力しているかということが連綿と展開されていた。

 太田はその以前にもある講演会で
「沖縄が発展していくためには、クシャミすることまで日本に似せることが必要」
という主旨のことを語ったといわれる。ここには過激なまでの屈折した同化心理がうかがえるが、むろん、その背景には日本国家からさまざまな同化政策が押しつけられたことが原因として存在する。しかしながら、沖縄もまた全県ぐるみで自らも積極的に「日本」に同化する道を突き進んでいたのである。

 清国の後ろ盾を失ってしまった沖縄にとっては、日本化すること以外に自分たちの「進化」や「発展」は考えられなかったのかどうか、ともかくも、琉球王朝時代には考えられなかった日本化がおし進められている。が、王朝末期がそうであったように、大国に対する安易な同化は民族の自立心を喪失させる。結果、王府には強烈な依存心が醸成され、ついには明治政府に足下をすくわれるかのように、亡国という憂き目を見ることになった。

 皇民化教育が徹底され、沖縄人の日本同化への傾斜意識が強くなっていったことを示す事例として、仲村さんは「河上肇舌禍事件」を取り上げている。

 1911年、沖縄を来訪した京都大学助教授、河上肇は
「沖縄は言葉、風俗、習俗、信仰、思想、その他あらゆる点において、内地と歴史を異にしている。これをもって本県人を以て忠君愛国の思想に乏しいというが、これは決して嘆ずるべきことにあらず」
という主旨の講演をした。これに対し、地元紙や知識人が猛烈に反発し、
「忠君愛国に邁進する沖縄県民を愚弄するものだ」
として非難が続出した。一部、少数の青年たちが発言を擁護したものの、河上肇は失意のうちに離沖している。

 河上の発言はいうまでもなく、当時としてはまだ非国家主義的性格を残していた沖縄の持つ可能性を積極的に評価したものであった。が、「立派な日本人」になろうとして同化を推進していた沖縄のエリートたちにとって、河上肇の発言は許しがたいものだったのである。

 仲村さんは「この極端なまでの同化運動は自発的な生活改良運動としても展開されている」と言い、その事例として、「改姓運動」と「標準語励行運動」を取り上げている。

 沖縄は周知の通り独特の姓が多いが、これを本土風の姓に変えようという動きが沖縄内部から発生したのである。

 ちなみに筆者の「仲村」という姓はもともと「仲村渠(なかんだかり)」であったが、昭和初期に流行したこの運動によって改姓されている。他にも例をあげると「平安山(へんざん)」は「平山」に、「安慶名(あげな)」は「安田」に、「島袋(しまぶくろ)」は「島」といった具合である。また、読みも「玉城」姓は「たまぐすく」が「たまき」「たましろ」に、「大城」姓は「うふぐしく]「うふぐすく」が「おおしろ」と読み替えられた。

 一方、民族のアイデンティティである言葉も標準語が励行され、1938~1940年にかけて沖縄を訪れた日本民芸協会の柳宗悦の発言をきっかけにして方言論争に発展している。柳宗悦は標準語励行運動の推進主体となっていた県の学務課に対して以下のような申し入れをしている。

「標準語の励行がゆきすぎて、このままでは沖縄方言を見下すことになる」
「沖縄方言は日本の古語の宝庫であり、学術的に貴重である」
「他県にこのような運動はない」

 これに対して県当局は
「沖縄県民が引っ込み思案なのは標準語能力が劣っているからであり、県外で不利益を受けている。標準語の励行が県民を繁栄に導く道で、学術的な価値については研究者の領域である」
と猛烈に反発した。

 なにやら現在の沖縄人とは、まるで別の人間が語っているかのようなヒステリックな論争である。沖縄では「方言撲滅運動」として知られているが、反対意見が少なかったために、運動はその後も継続されている。いずれにせよ、当時の島の人たちは差別と闘うよりも、同化することが、差別から逃れる唯一の策であると信じていたようである。

 注目すべきはこの方言論争年が、1941(昭和16)年12月8日に開始された太平洋戦争の前年にあたっていることである。要するに、日本人以上に日本人らしくなろうとした運動が頂点に達したときに日本は戦争に突入したことになる。

 この「標準語励行」運動について、補足として奥田博子著『沖縄の記憶 <支配>と<抵抗>の歴史』から該当部分の記事を引用しておこう。

 琉球/沖縄の生活風俗が〈日本化=皇民化〉され、文明化されてゆく一方、沖縄の方言である沖縄口(ウチナーグチ)を標準/共通日本語に改めることは容易ではなかった。そのため、教育現場では県内の小学校に「御真影」(天皇・皇后の写真)が配付され始めた1890年ごろになると、方言撲滅とも受け取られかねない強制的な「標準語励行運動」が推進されていた。日本民芸協会の柳宗悦は、沖縄を訪れた際、これを行きすぎだと批判して県内外に賛否両論の「方言論争」を引き起こした。結論は出なかったものの、実際のところ、アジア・太平洋戦争の勃発で軍国主義が強化されてゆくなかで方言そのものは抑圧されていった。

 たとえば学校では、沖縄口(ウチナーグチ)を使った学生に罰則として「方言札」を所持させたり、首にかけさせたり、あるいは沖縄口(ウチナーグチ)を使った他の生徒に渡させたりといった方法で標準/共通日本語が励行された。この標準語励行は、生活態度の評価にもなったと言われる。一方、このような学校現場における指導法は「方言」蔑視による琉球/沖縄文化の否定につながり、逆に学生に劣等感を与える懸念が示された。それに加え、学生同士および学生と教師のあいだの信頼関係を損なうことも懸念された。教育方法としての問題も内在させつつ、この「方言札」は戦後しばらく、標準日本語指導法として活用されていた。

 「方言札」は、標準/共通日本語が上位概念であるのに対して沖縄の方言である沖縄口(ウチナーグチ)は下位概念であることを身体化させる働きをした。また、当時の言語学では、「新vs旧」という二項対立の構図を「標準/共通語vs方言」という言語観にあてはめて学問的な考察をする手続きが正当化されていた。そのため、話すという日常的な行為において沖縄口(ウチナーグチ)を蔑視する差別意識が刻印されてゆくことにもなった。

 こうした『「日本」に同化する道』の行き着いた先が「鉄の暴風」とも呼ばれる凄惨な沖縄戦であった。仲村さんはその前蹤として日露戦争を取り上げている。

 世替わりを経て「沖縄県」になったこの島はまたも同じ過ちを繰り返そうとしていた。その第一幕は日露戦争(1904~1905)であった。

「日本国民として、一定程度の皇民化教育をうけていた沖縄出身の兵士にとって、その差別を払拭し、忠良な国民=臣民であることを証明するためには、戦場で身を挺して戦うこと以外に方法はなかった。そして、その悲壮な決意は、日露戦争ではやくも実践されることになった」(『高等学校 琉球・沖縄史』・新城俊昭著・東洋企画)

 「敵をおそれることなく上官の命令に従い、身命を顧みる者なし」と称えられた沖縄出身の兵士は3864名にのぼり、一割もの死傷者を出している。沖縄の人々にとっての差別の撤廃や近代化は血によってあがなわれたといえよう。

 このことは私見だが、差別によって生み育てられた沖縄人の屈折した心理が、その後も妙な方向に向かっていくのは、この「日露戦争」が出発点ではなかったかと思える。その最終帰結点が沖縄戦であったことはいうまでもない。


 ということで、次回は沖縄戦を取り上げることにするが、もうひとつ、仲村さんは反差別運動もあったことを指摘してそのことを論じているので、最後にそれを読んでおこう。

 むろん、反差別を中心とした制度上の差別との闘いは社会運動によっても展開されている。日露戦争後は本土でも社会主義運動が盛んになったが、沖縄も1920年代に入ると運動が活発化している。その直接的な契機になったのがソテツ地獄と称される不況である。第一次世界大戦の戦後恐慌は沖縄にも波及し、米はおろか芋も口にすることができないほどの空前の不況に陥り、調理を誤ると生死に関わる毒性をもつソテツの実や幹も救荒食物として食されたのである。

 こうした状況を背景に労働争議や小作争議が頻発し、1926年には本土の社会主義者と沖縄の知識人や活動家が連帯して「沖縄青年同盟」が結成されている。階級的視点をもった沖縄初の大衆的組織で、出稼ぎ労働者の差別撤廃、労働組合の結成、労働条件の改善のみならず、農民運動や教員運動などの分野でも広範な運動を展開したが、1928年、田中義一内閣によるいわゆる3・15事件(治安維持法容疑)によって多くの活動家が逮捕・投獄された。

《沖縄に学ぶ》(7)

沖縄の歴史(4):琉球処分から沖縄戦まで(1)


 琉球はその25年後の1879年、日本国に併合されました。私たちはそのことを琉球処分と呼んでおります。併合後、沖縄の人々は沖縄の言葉であるウチナーグチの使用を禁止されました。日本語をしっかり使える一人前の日本人になりなさいということで、沖縄の人たちは皇民化教育もしっかり受けて、日本国に尽くしてまいりました。その先に待ち受けていたのが70年前の沖縄戦でした。「鉄の暴風」とも呼ばれる凄惨(せいさん)な地上戦が行われ、10万を超える沖縄県民を含め、20万を超える方々の命が失われるとともに、貴重な文化遺産等も破壊され、沖縄は焦土と化しました。

 幕藩体制から維新体制(中央集権化)への移行は次のように行なわれた。

1869(明治2)年 版籍奉還
 諸大名から領地と領民を天皇に返還させる。 1871年 廃藩置県
 中央集権化をさらに強化するために知藩事(旧領主)と旧領地を切り離し、政府の下に県をおいた。旧領主の籍も東京に移された。

 当然のこと、琉球王府は日本で廃藩置県が行なわれたことは知っていた。しかし、琉球には無縁のことと思っていたようだ。

<琉球処分>

 琉球藩の設置は1872年である。この年に鹿児島県庁から伊地知貞馨(いじちさだか)と奈良原繁(ならはらしげる のちの第四代沖縄県知事)が明治政府の初めての遣使として那覇に派遣された。

 このとき伊地知らは王府高官に維新の意義を説くとともに、薩摩が琉球に貸していた借財全額の免除を申し渡し、その金で人民を救済して、もって国の資源とするよう伝えている。借金帳消しは薩摩藩がなくなったからというのがその理由だが、真相は新政府が琉球に「恩」を売っただけのことで、琉球の国体処遇についての指示はこの段階でもなかった。

 すべては王国解体への布石であった。当初、王府はその沙汰の真意を理解できなかったようだが、琉球にとっては良いこと尽くしであった。結局、政府の「恩恵」とやらを真に受けてしまい、これもまた時勢の目測を見誤る原因のひとつになった。

 同年8月、王府は伊江王子朝直と宜湾親方(ぎえわんえーかた)朝保らを慶賀使として東京に遣わしている。使節団は随員百余名という大規模なものであった。明治政府は国賓待遇で彼らを処遇し、天皇もさまざまな品を彼らに下賜した。この派手にすぎる接待もむろん政府の懐柔策であったが、すでに使節はそのことを見抜く目が曇っていた。

 こうした経緯のなかで下されたのが、「尚泰を藩王となし、叙して華族に列す」という勅語である。原文に記された日付は明治5年9月14日。この日をもって琉球は「藩」として位置づけられることになる。

 いわゆる「藩王御請」である。前述したように、日本国内の廃藩置県はすでに完了している。しかし琉球の場合は他府県と異なり、いきなり「県」にすると、王府はむろんのこと清国の反発をかうおそれがあった。そこで、政府はいったん「藩」を設置し、つぎの段階で「県」に移行させる腹づもりだったのである。

 琉球の廃藩置県はそれから7年後(1879年3月27日)に断行された。いわゆる「琉球処分」である。

 処分官として琉球に派遣された内務大丞の松田道之(まつだみちゆき 1839~1882)は警察官吏・巡査百余名を従えて首里城に入り、三司官ら政務官僚を前に大政官令を読み上げた。「琉球藩を廃し、沖縄県を置く」

 有無をいわさぬ文字通りの[処分]であった。ここに察度王続から500年以上にわたって続いた琉球王国は解体された。同時に、国王以下すべての王族・士族が城からの退去を命じられた。期限は4日後の3月31日(新暦)正午限り。1609年の薩摩侵略以来、二度目の首里城明渡しである。

 次に、翁長知事が言及している皇民化教育を取り上げよう。

<皇民化教育>

 仲村さんは、「琉球」の時代を実質的に終わらせる節目となったのは日清戦争であったと言う。日清戦争の勝者・日本国家にとっては対沖縄問題の目の上のたんこぶがなくなったことであり、沖縄にとっては後ろ盾を失ったことになる。これが沖縄の日本国家への皇民化政策を推し進める契機になった。日本国家から沖縄にさまざまな同化政策が押しつけられたが、沖縄もまた全県ぐるみで自らも積極的に「日本」に同化する道を突き進んでいったのだった。その背景には日本人の沖縄を蔑視する「差別問題」があった。その顕著な事例が1903(明治36)年3月に起きた「人類館事件」である。

 その年の3月、沖縄の人々を震憾させる事件が大阪の天王寺で発生している。政府主催の第五回勧業博覧会の会場近くに建てられた人類館と称する小屋に、民族衣装をまとった沖縄の女性二名が「琉球の貴婦人」として見せ物にされていたのである。

 この小屋は人間を展示物にしているパビリオンで、「人類館」と銘打たれていた。「展示」されていたのは沖縄人の他、アイヌ、台湾の先住民、朝鮮人、ジャワ人、インド人、ハワイ人など合計32名。それぞれが民族衣装をつけて日常の生活動作を観客に見せるというきわめてショッキングな扱いをうけていた。

 これに対し、韓国や中国の留学生から即刻抗議の声があがり、沖縄も沖縄人女性の「展示」の即時中止をもとめ、地元紙の報道を通じ、激烈な糾弾キャンペーンが展開された。

 人類館は東京帝国大学の自然人類学者、坪井正五郎(1863~1913)が発案し、同時開催された台湾館は台湾総督府民政長官の後藤新平(1857~1929)の要請によって運営が成されていたという。日清戦争で勝利したことによって、日本が世界の列強の仲間入りをしたという傲慢な自負と、帝国主義国家特有の人種差別意識を持ち始めたことが原因といっていい。

 こうした謂れ無い差別意識は、臆面もなく街頭で繰り広げられる「ヘイトスピーチ」やネトウヨの罵詈雑言となって現れ、未だに一部の日本人に受け継がれている(この項、次回に続く)。
《沖縄に学ぶ》(6)

沖縄の歴史(3):琉米修好条約

 1609年の薩摩侵略後、奄美諸島が薩摩に切り取られたが、残りの琉球王国はどのような扱いを受けたのだろうか。

 4月4日に首里城が明け渡された後、尚寧王(しょうねいおう)は重臣たちと共に薩摩に送致された。そのほかに琉球軍を指揮した浦添親方(うらそえうぇーかた)と謝名親方(じゃなうぇーかた)が別の船で罪人として連行されている。この二人が罪人扱いになったのは、この侵略戦では薩摩軍にも100~200名の戦死者があったということなので、戦犯扱いされたのだろう。この人たちのその後の処遇は次のようである。

 尚寧王一行はほぼ一年間薩摩に留め置かれたあと、翌1610年5月に江戸に向けて発ち、同年8月に駿府城において徳川家康に謁見した。いわゆる捕虜ではなく、開国の使節としての破格の扱いであった。

 その後、8月25日には江戸で二代将軍秀忠と対面し、ここでも宴を賜るなど厚くもてなされ、秀忠自身から、「国に帰って、祖先の祭祀をいとなむよう」との、言葉をかけられている。

 国とはむろん琉球のことである。尚寧王は琉球を「国」として安堵することを保障されたのであった。もとより、薩摩の支配下での「安堵」にほかならないのだが、琉球は一応、独立国としての体裁をとることを許されたことになる。

 幕府は琉球を通しての対明交渉と交易の復活をあきらめておらず、尚寧王一行に対するこれら一連の厚遇借置は、明国に気遣ってのものであることはいうまでもない。

 尚寧王が再び薩摩を経由して琉球に帰国するのは1611年10月26日のことである。ちなみに謝名親方の斬首の理由になった起請文事件は、ほぼ一月前の9月19日である。

 9月19日、帰国が許される条件として、薩摩は「薩摩の臣下として忠誠を誓う」という趣旨の起請文の提出を求めたが、謝名親方だけが連判を拒否した。薩摩はその場で謝名親方を捕らえ、その日のうちに斬首刑に処した。この死刑について、仲村さんは次のように述べている。
『戦勝国の薩摩に二百名の戦死者が出ながら、極刑が謝名親方一人で済んだのは異例といっていい。明国と穏便に国交回復の機会をうかがっている幕府や薩摩にすれば、これ以上事を荒立てることは避けたかったであろうし、もとより謝名親方も死罪はまぬがれぬものとすでに覚悟は定まっている。この上は尚寧王に罪が着せられることのないよう、責任のすべてを自分がかぶるつもりだったに違いない。』

 琉球王国は独立国としての体裁は保たれたが、実際は完全に薩摩の属国であった。

 尚寧王以下重臣がヤマトに連行されている間に、琉球では家康の命によって薩摩藩による検地が実施されている。いわゆる「慶長検地」で、このことは家康が島津氏に正式に琉球を与えたことを意味する。

 検地は先島、奄美などもふくめて入念に行われ、琉球の石高は11万3千41石と計上された。ただし、奄美は薩摩の直轄地として琉球から切り取られたので、残りの8万9千86石が王府に下付された。

 島津への貢物は年貢米9千石、芭蕉布3千反、琉球上布6千反、琉球下布1万反、牛皮2百枚などだが、のちにこれを換算して「銀納」、さらに米1石につき銀8分として「米納」へと変更されている。加えて薩摩藩は支配をさらに強固なものにするために、「薩摩の命令なしで、唐(明)への貢物を禁止する」「薩摩の印判をもたない商人を受け入れてはならない」「琉球からの他国への商船はいっさい禁止する」などの掟十五条を申しわたし、これを支配被支配の骨格として事実上、琉球はヤマトの幕藩体制のなかに取り込まれていった。

 さて、翁長知事の陳述は次のように続いている。

 そういった中で1800年代、アメリカ合衆国のペリー提督が初めて日本の浦賀に来港したのが1853年です。実は、ペリー提督はその前後、5回沖縄に立ち寄り、85日間にわたり滞在しております。1854年には独立国として琉球とアメリカ合衆国との間で琉米修好条約を結んでおります。このほか、オランダとフランスとの間でも条約を結んでおります。

 琉球王国は1609年以来、薩摩藩の支配下に置かれたが、アメリカ・オランダ・フランスなど欧米諸国は琉球を独立国として扱った。翁長知事は1879(明治12)年のいわゆる「琉球処分」までは琉球国は国際的には独立国だったと主張したいのだろう。しかし、琉米修好条約のその裏には日本に開国を迫るアメリカの外交上の駆引きがあったことは容易に想像できる。

 その頃、欧米列強諸国の琉球への来航数は50余件もあったという。ペリーが、浦賀に向かう前に、軍艦3隻と帆船数隻を率いて那覇に入港してきたのは1853年5月26日のことであった。もちろん、ぺリーの狙いは日本を開国させることにあった。ペリーが浦賀に現れたのは7月8日のことであった。

 では、ペリーは浦賀に向かう前になぜ琉球に立ち寄ったのか。仲村さんは次のように解説している。

 実はペリーは前年の12月に、本国のケネディ海軍長官につぎのような書簡を送っている。

「日本政府が、もし日本本土の港湾開放を拒絶し、そのために流血の惨事にいたる危険があるときは、別に日本南部に良港を有し、薪水補給に便利な島嶼に艦隊錨地を指定したいと思う。このためには琉球諸島が便利である」

 これに対して米政府はぺリーに対して以下のような回答を発している。

「大統領もまた遠征艦隊の安全を期するために、好都合な1、2港を獲得する必要があり、琉球諸島がその目的にもっとも適合することを認められた」

 ぺリーの書簡には、
「琉球が日清両属下にあって薩摩の圧政下で人民が苦しんでいる。人民に対しては正義と親切さをもって接すれば必ずアメリカに心服するだろう」
との文言もあり、また、政府からの返答には
「琉球の住民は古来穏和で従順だから、彼らに敵意を抱かせるようなことはしてはならない。彼らから攻撃された場合を除いて兵力を用いてはならない」
というような具体的なやりとりもみられる。これをみてもアメリカの狙いは明らかといっていい。  すなわち、ぺリーは日本の開国に失敗、あるいは交渉が長引いた場合は、琉球をはじめ1、2港を占領する意図があったのである。事実、この遠征では小笠原も測量し、父島に貯炭地を設けている。

 アジアから遠く離れた欧米列強にとって、軍船や船舶の基地を東アジアに設けることは必須の課題であった。ちなみに当時の蒸気船は燃料の石炭、食料、水などを補給する必要性からあちこちに寄港しなければならなかった。このためヨーロッパから日本に行くまでには数か月かかったといわれる。

 アメリカはさらに時間を要した。1850年代はアメリカ西海岸の開拓がようやくはじまった頃で、太平洋航路は整備されていなかった。そのためぺリー艦隊もバージニア州のノーフォークを出港したあと喜望峰回りでケープタウン、スリランカ、シンガポール、上海などを経由し、約半年かけて日本近海に来ている。

 したがって、アメリカが東洋に進出するためにはどうしても、東アジアに拠点を設ける必要があった。日本列島に飛び石状に連なり、中国やアジア諸国に近い琉球諸島は、東アジアの要の位置にあたる。

 結論からいえば、日本はアメリカの開国要求の回答を半年ほど引き延ばした後、日米和親条約に調印したため、琉球占領計画はまぼろしに終わっているが、もし開国を強硬に拒んでいたら、あるいは、沖縄の近代史は大きく変わっていたかもしれない。

 日米和親条約調印後、ペリーは琉球王国に対して琉米修好条約をせまるが、上記のペリーとアメリカ政府との交換書簡に反して、ペリーは琉球政府に対して脅したりすかしたりの強行交渉を行なっている。その経緯についてはここでは深入りしないが、その修好条約の内容については簡単に触れておこう(次の文は梅木哲人著『新琉球国の歴史』からの引用文です)

 (「日米和親条約」が締結された後)ペリーは帰途、また沖縄に投錨するが、7月8日から琉球国との条約を協議し、11日には「琉米修好条約」を締結した。

 この条約では
「合衆国市民琉球に来たりし時は常に大いなる鄭重と親切をもって待遇すること。これらの人々が要求するものは全て売り渡すべし。正常な価格で行わるべし。アメリカ船へ薪水を供給すべし。船が難破したときは救助すべし。上陸したときは妨害をしない。条約は英語・支那語をもって署名する」
ということが規定されていた。アメリカにとって、太平洋航路の安全を確保するために結ばれた条約であったのである。この条約の締結は、琉球側にとってはこれまで異国船の来航に際してとってきた拒絶の態度がとれなくなったことを意味していた。その意味ではこの条約は琉球の対外関係の分岐点になったのである。

《沖縄に学ぶ》(5)

沖縄の歴史(3):「万国津梁の精神」

 第六代の琉球国王は尚泰久(しょうたいきゅう)は先代の尚金福(しょうきんぷく)の仏教奨励の業績を継承して仏教を手厚く保護した。歴代国王の中でもっとも多くの寺院を建立しているという。それらの遺産の中に「万国津梁の鐘」(沖縄県立博物館所蔵)と呼ばれている梵鐘がある。翁長知事が「万国津梁の精神」と呼んでいる精神はその梵鐘に由来している。

 現在、首里城にレプリカが架けられている「万国津梁の鐘」も尚泰久がつくらせたもので、それには次のような文章が刻まれている。

 「琉球国は南海の勝地にして、三韓の秀をあつめ、大明をもって輔車となし、日域をもって唇歯となす。この二中間にありて湧出せる蓬莱の島なり。舟楫をもって万国の津梁となし、異産至宝は十方刹に充満せり」

 琉球は中国と日本と親密な関係を結び、交易船でもって万国の架け橋となり、宝物で満ちあふれているという意味になろうか。有名な文章なので、聞き覚えのある人も多いだろう。

 積んどく本のなかに『100人の沖縄コラム』という本はあった。その本の巻頭に「万国津梁の鐘」に刻まれた文の写真とその読み下し文、さらに上の引用文で仲村さんが取り上げている冒頭部分の現代語訳が掲載されていた。それを転載しよう。
「万国津梁の鐘」1 「万国津梁の鐘」2 「万国津梁の鐘」読み下し文1 「万国津梁の鐘」読み下し文2
 冒頭の現代語訳は次のようになっていてる。これが「万国津梁の精神」である。

わが琉球国は南海の恵まれた位置にあり
朝鮮のすぐれた文化を吸収し 中国とは親密な関係を結んでいる
また日本とも心のゆきかう身近な間柄である
これらの国々の間に浮かぶ楽園の島である
船で海を渡り万国の掛け橋となり
至るところ宝の山にうずもれてる

 仲村さんは「津梁の鐘」の解説を次のように続けている。

 しかし、歴史研究家の上里隆史氏によれば、この文章は全体の四分の一程度で、残りの文に尚泰久が伝えたかった真意が記されているという。

 その大意を現代風に要約すると、以下のようになる。
「尚泰久王は仏法を盛んにし、仏の教えに報いるためにこの鐘を首里城の正殿前にかけた。法を定め、世の人々、王家の永い治世を祝う。衆生を救い相国寺の渓隠和尚に命じて鐘を刻む文をつくらせた~」

 渓隠は日本の禅宗に帰依していた僧侶で、要するに、この鐘は琉球が仏教王国であることを誇示したものだというのである。

 沖縄は仏教が定着しなかった島とよくいわれるが、それは誤りである。いまでも首里城下には多くの仏教寺院があるし、当時においては支配階級を中心に、仏教が広く信仰されていたことがこの一事をとってもよく理解できる。ちなみに首里周辺は臨済系の禅寺が多く、日本から多くの僧が住持として招来されていた。この時代、日本をふくめて寺はいわば学問を学ぶ大学として機能している。渡来僧は宗教の教学はもちろん、建築、美術などの教授として学術を振興させるとともに、日本との外交・交易関係を仲介する使者としての役割もはたした。

 ともあれ、尚金福から尚泰久の治世下で王国が海外交易で未曾有の繁栄をとげていたことは鐘の碑文にある通りで、こうした仏教の興隆も貿易振興がもたらした文化の副産物といっていいだろう。

 さらに、仲村さんはそのころの琉球王国の交易相手国について次のようにまとめている。

 中継貿易が最も盛んなこの時代、琉球はいまの福建省、アユタヤ(シャム)、マラッカ(マレーシア)、パレンバン(スマトラ)などの東南アジア諸国、朝鮮、日本の坊津・博多・対馬・堺など、文字通りアジアの架け橋として、多くの交易ルートをつぎつぎと完成させていた。その国際交易都市として那覇は大いに栄えることになる。

 古来、語り継がれてきた民間の古謡集、『おもろそうし』には当時の那覇のようすが高らかに謡われている(『琉球王国』赤嶺守/講談社選書メチエより)。

一 首里 おわる、てだこが
  浮島は げらへて
  唐 南蛮、寄り合う、那覇泊
又 またぐすく おわるてだこが

「首里におわす国王が浮島であった那覇に港をつくり、唐、南蛮の船が那覇の港に寄り集まっている。城におわす国王が」
 大意を記すと以上のようになる。アジア各国の商船が港内にいくつも浮かんでいる様子が目に見えるようである。

《沖縄に学ぶ》(4)

沖縄の歴史(1):古琉球

(参考書として中村清司著『本音で語る沖縄史』を用います。緑色の部分は翁長知事の陳述書からの引用文です。)
2 沖縄について

 (1)沖縄の歴史

 沖縄には約500年に及ぶ琉球王国の時代がありました。その歴史の中で、万国津梁の精神、つまり、アジアの架け橋に、あるいは日本と中国、それから東南アジアの貿易の中心になるのだという精神をもって、何百年もやってまいりました。

 ベトナムの博物館には600年前に琉球人が訪れた記録が展示されていました。中国の福州市には、異国の地で亡くなった琉球の人々を埋葬している琉球人墓があり、今も地域の方が管理しております。また、琉球館という宿も残っております。それから、北京では国子監といいまして、中国の科挙の制度を乗り切ってきた最優秀な人材が集まるところに琉球学館というのがあり、そこで琉球のエリートがオブザーバーで勉強させてもらっておりました。このような形で、琉球王朝はアジアと交流を深めてまいりました。沖縄名産の泡盛は、タイのお米を使ってできています。タイとの間にも何百年にわたる交易と交流があるわけです。



 ここに語られている琉球の歴史について調べてみよう。

 琉球にはグスクと呼ばれる遺跡がある。琉球史では12世紀~15世紀を「グスク時代」と呼んでいる。グスクは12世紀に琉球に農耕文化を基盤とした時代になって現れている。集落が海岸から稲作や畑作などの農耕に適した台地に移った時、人々は神(祖先神)の依り代となる御嶽(うたき 聖地)を村落のなかに構えた。これがグスクの始まりである。これにともなってノロと呼ばれる女性の宗教的支配者が登場するようになる。

 やがて、村落に按司(あじ)と呼ばれる豪族が現れる。按司は武力を背景にした防御の砦としてのグスク(城)を築いた。そして、周辺の農民や集落を束ね、それぞれの支配地域を広げて、いわゆる小国家を形成していった。1500年代初頭には、琉球弧(どこを琉球弧と呼ぶかは学者・研究者によって異なるようだ。ここでは奄美諸島から八重山諸島までとする)にこれら小国家のグスクが五百余も築かれていたと言う。
 グスク時代の末期は三山時代と呼ばれている。この時代についての解説文は直接引用する。

 浦添城跡は首里城から北約4キロに位置し、一帯は標高130メートルの小高い丘陵になっている。北西方向には貿易港として機能した牧港を見下ろし、南西に目を転じれば那覇方面からはるか先に慶良間諸島が一望できる。沖縄本島でも第一級の景勝地といえるが、ここに中山王の居城がおかれていた。

(中略)

 14世紀の琉球はこの浦添城がおかれた中山をはさんで北山、南山が鼎立した三山分立時代」と呼ばれる。沖縄本島は現在でも北部(国頭 くにがみ)、中部(中頭なかがみ)、南部(島尻しまじり)の三つの地域区分で表現されることが多いが、その由来はこの14世紀に興った三山にちなんでいるといわれる。

 すなわち今帰仁城を居城に構えた「北山」、浦添城を拠点にした「中山」、大里グスク(南山グスクという説もある)を根城にした「南山」の三勢力に分かれて、それぞれが王を名乗って覇を競っていた。

琉球・三山時代
(ウィキペディア「三山時代」からお借りしました。)

 中山王・尚巴志(しょうはし)が南山・北山を倒して全島を統一し琉球王国が誕生したのは1429年であった。この時から薩摩の侵入する1609年までのおよそ500年間を「古琉球」と呼んでいる。

 古琉球時代の特徴は日本や中国大陸との交易が盛んになったことである。特に中国との関係が密接であった。明国が東アジア圏内での進貢貿易という新秩序体制確立させると、琉球もこれにいち早く参加し、アジア社会の有力な一員に成長していった。

 その古琉球を牽引した精神を翁長知事は「万国津梁(ばんこくしんりょう)の精神」と言っている。次回はこれを取り上げよう。
《沖縄に学ぶ》(3)

琉球王国の領域について(前回の追記)

 東京新聞の「こちら特報部」が「面魂(つらだましい)」と題して新年企画連載を始めた。その企画の趣旨を次のように説明している。
「新しい年が明けた。どこか華やかさに欠ける感は否めない。それは社会を覆う不穏な影と無縁ではないのだろう。もはや、従来の常識や倫理を語る者は少数派のそしりを免れない。しかし、常識や倫理は人びとの経験の集積であり、それと断絶された未来はない。浮つかず、自らの経験と体感を軸に歩み続ける人たちがいる。そうした少数派の表情を見つめつつ、私たちの現在を問い返したい。」

 私が前回記事をアップした翌日(10日)の「面魂」は「奄美の老闘士 大津幸夫(さちお)さん(82)」を取り上げていた。そこに奄美諸島の歴史について、私の知らなかった事実が語られているので、それを追記することにした。

 まず、奄美諸島が薩摩に切り取られて支配された時代について次にように語っている。

 17世紀初頭、奄美は薩摩藩の支配下に置かれ、サトウキビの栽培を強いられた。厳しい上納の義務を果たせず、身売りする人が相次いだ。収穫した砂糖を口にしただけで厳罰が下される状況は「砂糖地獄」とも称された。『奄美の人間は名字を名乗るとしても一文字の姓にしろ』という差別的な政策も薩摩藩のころから行われていた。

 次に、奄美諸島は日本敗戦後、今度は鹿児島県から切り取られ、アメリカの軍政下に置かれた。つまりアメリカは琉球全体を軍政下に置いたわけだ。1946年2月2日のことである。軍政下の奄美諸島の状況は次のように語られている(軍政下の沖縄全体については後に取り上げる予定)

 本土への渡航や貿易は制限され、貨幣も日本円が使えなくなった。進学や仕事のために密航する者が少なからずいた。食糧難に直面した奄美の人たちはイモで飢えをしのぎ、毒性のあるソテツの実までもが食用にされた。そんな中で、軍政府は食糧の三倍値上げという形で統制を強めた。

 こうした非人道的軍政が奄美の人たちを「島ぐるみの復帰運動」に立ち上がらせた。

 繰り返し行われた決起集会やデモ。神に祈願するために断食した。早期復帰を求める署名は14歳以上の99.8%に当たる約13万9千人分が集まった。

 大津は当時十代だったが、「『子どもであろうと年寄りであろうと、運動に加わるのは当然』という熱を肌で感じた」と振り返る。

 53年12月25日、運動は結実し、奄美は沖縄に先行して本土復帰する。

 この時、アメリカ政府は同時に沖縄の無期限保有を宣言して沖縄全島に拡がりつつあった復帰運動の沈静化を図っている(奥田博子著『沖縄の記憶 <支配>と<抵抗>の歴史』による)。この奄美諸島だけが復帰を果たしたことに対し、奄美の人たちの中には忸怩たる思いを抱いた人も多かったと推定できる。大津さんもそうしたお一人であった。

 大津は「奄美の兄弟島」と呼ばれる沖縄にも深く関わった。

 かつて奄美と沖縄は、同じ琉球王国に属した。終戦後の行政分離では、ともに米軍に統治された。当時、奄美の人たちは仕事を求め、数多く沖縄に渡った。その数は一時、三万人以上になったという。

 ところが、「奄美の本土復帰運動の終盤、『奄美は鹿児島』『沖縄とは別』という訴えが強まり、結果的に沖縄を見捨ててしまった」という。

 「自分たちだけ復帰して、のうのうとしているのはおかしいと思っていた」。

 67年、地元紙や労組、各政党、沖縄県人会などによる超党派の団体「沖縄返還奄美郡民会議」ができると、大津は事務局長に就いた。

 奄美と沖縄を隔てる「国境」となった北緯27度線の海上では、双方から出航した船団による集会が繰り返し開かれ、大津も参加した。沖縄で選挙があれば、返還推進派の応援のためにパスポートを持って那覇に入り、選挙カーにも乗った。

 「『奄美は鹿児島』『沖縄とは別』という訴え」が強くなった根源には琉球王国の武力による奄美諸島併合の歴史記憶があるだろう。前回用いた『本音で語る沖縄史』は次のように述べている。

 奄美諸島に琉球の役人を派遣して王府の実質的支配下に置いたのは1466年であるが、その後も、王府に対する反乱が幾度も勃発し、そのたびに鎮圧するという「もぐらたたき」のような状態が続いていた。

 このことをもって、奄美は属領だから国内問題で対外戦争にはあたらないとする意見があるが、少しむしのいい考え方ではないか。

 奄美諸島は古来、琉球の属領ではなく、独自の文化圏を築いてきた隣国である。実際、いまでも自分たちを支配した首里王府を忌むべき存在として「那覇世(なはんゆ)」と表現する人がいるくらいだから、当時は領民の不平や不満がよほどたまっていたに違いない。その民衆の抗議行動を王府は武力をもって繰り返し、力尽くでねじ伏せてきたのである。

 歴史歪曲主義者のように歴史をねじ曲げてはいけない。歴史を直視してこそ初めてお互いを豊かにする共生が可能となる。ちなみに、大津さんの「面魂」記事には「思想信条超え島ぐるみ」「本土と沖縄の橋渡し役に」「自らのこととして考える姿勢 あらためて」という見出しが付されている。

<追記>
 ネット検索をしていて『鹿児島県奄美大島の歴史と文化』という記事に出会いました。筆者はこの記事について、「私は奄美5島のうち4島で2年以上生活体験(直接経験)をした者である。第3者から又聞きした間接体験を書こうとしているのではない。」と書いている。いくつか疑問点もありますが、信頼の置ける詳しく分かり易い記事です。紹介したくなりました。
《沖縄に学ぶ》(2)

琉球王国の領域について

 昨年の8月12日から9月7日にわたって、辺野古新基地問題について政府と沖縄県の集中協議が行なわれた。その中で管官房長官の次のような発言が伝えられている。琉球新報の記事「翁長知事講演要旨 知事帰国講演」(2015年9月25日)から引用する。

 8月10日~9月9日までの1ヵ月、(辺野古新基地の)工事を止めた。その間、5回の集中協議で私は沖縄の問題をいろんな角度から話したが、政府側からほとんど返答はなかった。

 菅義偉官房長官は4月に最初に話してから沖縄の歴史を含め私が一番思いを話した方だが、集中協議の最後に私の話は通じませんかと聞いたら、「私は戦後生まれなので沖縄の歴史はなかなか分からないが、19年前の日米合同会議の辺野古が唯一というのが私の全てです」という話だった。お互い70年間も別々に生きてきたような感じがしますねと私は言った。

 こういう人物が政治の中枢を牛耳っているとは驚くほかない。と批判してみたが、私の沖縄理解もかなりいい加減なものだと自認している。例えば次の図(吉本隆明等著『琉球弧の喚起力と南島論』から転載)
沖縄県
鹿児島県と沖縄県の県境が与論島と沖縄島の間に引かれているが、とても不自然だ。本来の県境は奄美大島の北だったのではないか。調べてみた(以下は中村清司著『本音で語る沖縄史』による)。

 1609年(慶長14年)に薩摩藩が琉球に侵略し、王府を征圧している。

 薩軍は総勢三千余、軍艦百余隻。同年3月4日、薩摩半島の突端にある山川港を出港し、7日に奄美大島笠利湾に入り、琉球の出先機関である「蔵元」を攻略した。ついで徳之島、沖永良部島も制圧し、25日には沖縄本島北部の今帰仁(なきじん)の運天港に入港している。
 徳之島では琉球守備隊との間に激しい戦闘が展開され、一説に、琉球側に数百人の戦死者がでたともいわれる。これに対して、薩軍は逃げた守備隊長を山狩りまでしてとらえている。有無をいわせぬほどの迅速さと冷徹さで奄美諸島を次々と墜としていったことがわかる。おそらくは、秀吉の朝鮮出兵のさい、水上戦の戦術・戦法までも実戦で身につけていたのだろう。まさに日本最強の軍隊が押し寄せてきたのである。

 そして、薩摩藩は1611年に奄美諸島を直轄地とし、琉球から奪い取っている。しかし、この奄美諸島はもともと琉球王国の属領ではなかった。奄美諸島に琉球の役人を派遣され、奄美諸島が王府の実質的支配下に置かれるようになったのは1466年のことである。

 さて、辺野古の新基地建設に伴う埋め立て承認の取り消しを違法として、国が翁長知事を相手に起こした代執行訴訟における翁長知事の陳述書は沖縄が強いられている諸問題を分かり易く余すところなく証言している。この陳述書を読みながら、学習を進めていこうと思う。まず次回から、管官房長官が「沖縄の歴史はなかなか分からないが、」と言っている「沖縄の歴史」の学習から始めよう。
《沖縄に学ぶ》(1)

三宅島と辺野古の非暴力直接行動

 前回、私は辺野古問題について
「言うまでもなく、これは沖縄の人たちだけの問題ではありません。日本を牛耳っている愚者たちの狂犬政治(変換ミスではありません)の現状と、愚者たちが描くこの国の未来像を象徴しています。」
と書いたが、昨日、これと同じ趣旨のことを詳しく見事に分析している文章に出会った。

 私は「田中宇の国際ニュース解説」のメール配信を愛読してきた。昨日届いたニュース解説は「日韓和解なぜ今?」だったが、その終わりの部分に、辺野古新基地の問題が「日本・アメリカ・中国・韓国・北朝鮮」五ヶ国間の外交問題の中に位置づけられて論じられていた。その部分を引用しよう。

 もし今年、米国が6カ国協議の前哨戦として北との交渉を再開し、米国が北に譲歩するかたちで6カ国協議が開かれると、その落としどころは以前と同じ「北を中国の属国にする」ことだ。北の金正恩がそれを了承するのか疑問だ。しかし、もし6カ国協議が進展すると、それはほぼ確実に、日韓からの米軍撤退や、日韓の対米従属色の希薄化を引き起こす。慰安婦問題の解決と並行して、米軍撤退に向かう道の始まりである日韓の安保協定の締結が、すでに現実的な話として交渉されている。

 この話が進むと、沖縄の米海兵隊のグアム撤退の構想が再燃する可能性が増す。海兵隊の普天間基地の代替になる辺野古の基地の建設が、沖縄県民の強い反対を受けている。米政府は以前から何度か「日本政府が辺野古に基地を作れないなら、海兵隊をグアムに撤退するよ」と言っている。世界で唯一の、米軍海兵隊の米国外の恒久駐留基地が日本にあることは、日本の対米従属(日米同盟)の象徴だ。海兵隊の撤退は、日本の対米従属の減退を意味するので、日本の隠然独裁的な官僚機構は、海兵隊に出ていかれる前に、是が非でも、法規をねじ曲げても、急いで辺野古の代替基地を作らねばならないと考えている。

 6カ国協議の進展は、海兵隊のグアム撤退を阻止(できるだけ長く先延ばし)したい日本の官僚機構にとって、新たな脅威の出現になる。
6カ国協議再開の先鞭となる、慰安婦問題解決や、日韓安保協定の交渉再開が驚きなのは、この点においてだ。オバマ政権が日韓、特に日本政府に「核実験再開が近い北の脅威の増大」などを口実に、強い圧力をかけた結果、慰安婦問題が解決されたのだろう。

 慰安婦問題で日韓の関係が悪化する直前の20111-12年にも、北核6カ国協議の再開、日韓安保協定の交渉、米海兵隊のグアム移転など「米国が東アジアから出ていく方向」の流れが起きていた。だが12-13年にかけて、慰安婦と竹島の問題での日韓関係の悪化、日韓安保協定の棚上げ、尖閣諸島国有化を皮切りとした日中敵対の激化、北朝鮮の消極性による6カ国協議の頓挫、北の中国の属国化拒否としての13年末の張成沢の処刑、米軍グアム撤退の雲散霧消、辺野古基地建設をめぐる沖縄への異様な圧力などが起こり、米国の東アジア覇権が存続するかたちで今に至っている。

 今回、おそらく米国からの圧力による慰安婦問題の解決、日韓安保協定の再交渉が始まったことは、再び11-12年の「米国が出ていく流れ」の再開になるかもしれない。東シナ海紛争、南シナ海紛争への日本の介入、潜水艦受注に始まる日豪同盟の可能性(対米従属から日豪亜同盟への転換)などを含め、今年の展開が注目される。

 さて、私は「非暴力直接行動(3)」の中で、1983年に三宅島で起きたアメリカ軍の「夜間発着訓練」誘致問題を取り上げた。そのアメリカ軍基地誘致反対闘争が現在闘われている辺野古新基地反対闘争ととてもよく似ている。その闘争のあらましを改めてまとめると次のようである。

 その闘争中に行なわれた村長・村議選挙では反対派の村長が当選し、地縁・血縁の選挙で選ばれた各地区のボスが牛耳っていた村議会も一変し、議員構成も反対派が圧倒的多数派になった。これが三宅島の民意だった。しかし、国家権力は一小村の民意などは眼中にない。どんどん既成事実を積み重ねて三宅島の基地化を進めていった。

 村長選・村議選を制しても国家権力の意図を止めることは出来ないのだ。この国家権力の横暴に対して、村長を先頭とした村の行政機関の姿勢、村議会の活動、島外からのさまざまな支援などがあったが、国家権力を最もたじろがせたのは島のおばあたち(おばあちゃん、かあちゃんたち)の「非暴力直接行動」だった。

 反対闘争を暴力で弾圧しようと政府が送りこんできた「鬼の8機」と言われていた精鋭機動部隊に対して、おばあたちは身体を張って一歩も退かなかった。三宅島はまだ酷暑の9月の事、頭をそっくり覆うヘルメットまでかぶった完全装備の機動隊員が何人も脱水症で倒れた。闘いの最中に、おばあたちは息子や孫のようなその青年隊士たちを介抱していた。

 私は2004年の記事『「9/23労働者市民のつどい」の報告』を思い出した。その「つどい」のプログラムの一つ「辺野古の闘いのフォト・レポート」で、沖縄の闘う「おばあたち」につい涙を流してしまったことを白状しているが、実はこの三宅島のおばあたちの闘いがダブって、私の涙腺が刺激されたのだった。

 改めて調べてみたが、新基地を辺野古に決定したのは2002年7月29日のことだった。この時から13年以上が経過している。長い闘いだ。

 そして現在、県知事選や衆議院選の圧倒的な勝利で、辺野古新基地反対の民意が示されたのに政府は「粛々」と暴力的に工事を進めている。海上では海上保安庁の警備船が、陸上では機動隊が、反対運動をする人たちに対してほしいままに暴力を振るっている。

 私は、辺野古の非暴力直接行動の詳細に記録している目取真俊さんのサイト『海鳴りの島から』で多くのことを教えられている。その中の12月16日の記事『水曜大行動と右翼のデモ』に拍手喝采したくなる報告があった。最後の一節を引用しよう。

 この日は右翼グループ30数名による元気のないデモ行進がゲート前であったが、テント村ではいっさいの挑発に乗らず、歌って、踊って、笑って、デモをやり過ごした。
辺野古に現れた右翼
 右翼グループもヤマトゥではこんなふうに対応されたことがなかっただろう。戸惑った様子に思わず笑ってしまった。実に見事な対応だった。

 沖縄でも「おばあたち」がしなやかで優しい。

 上記の右翼グループのデモの動画をユーチューブでみることができる。
(どちらの動画にも「右翼デモとカチャーシ―」のあとに、右翼がアップしたと思われる動画が続いている。どうしてこうなっているのか、私には分からない。)

『右翼デモとカチャーシ―』
『右翼デモとカチャーシ―』
ブログ再開と新年のご挨拶



 長らくご無沙汰致しました。丁度一ヶ月になります。新たなテーマについての学習と、滅多にやらない年末の身辺整理にかまけていました。

 ジャパンハンドラーズ・財閥・極右の傀儡であるアベコベ・ウソツキ・デタラメ政権の登場以来、年賀状に「おめでとう」のような言葉を書けなくなりました。代わりに次のような文を書き添えてきました。

(2014年)
今 愚者天下を牛耳る
而して
天下荒亂して
禮義絶え
綱紀廢れ
強弱相しのぎ
力征相はらふ


天下に政教和平し
百姓肅睦し
上下相親しむ
百姓 かくの如き政を願へど
その意を留むる所の 賢者なし
(『淮南子』のなかの一文を利用しています。)

(2015年)
凡庸な悪が蠢く財官政の闇
の中の住人が牛耳る似非民主主義
に埋没して思考を停止してしまった
私たちの中の凡庸な悪!
(「凡庸な悪」はハンナ・アーレントがナチスの官僚アドルフ・アイヒマンに対して用いた評言です。)

(2016年)
創春

私は夢の中で慨嘆していた

 愚者たちが跳梁跋扈する
 この絶望的な冬はいつまで続くのか
もう一人の私が言った
 冬来りなば春遠からじ
 終わらない冬はない
 ゆっくり待とう
いや と三人目の私が言った
 この愚者による暴政の冬は
 手を拱いていては終わらない
 新たな春を創ることによってのみ
 終わる

ここで目覚めた私がつぶやいた
 子どもたちのためにも
 春を創らねばならない
 では 春を創るのは誰?
(本人は詩だと思っています。)

 昨年は、戦争法、特定秘密保護法、武器・原発の輸出、辺野古新基地強制、原発再稼働、TPP推進、労働者派遣法改悪、消費税増税、法人税減税等々に怒り、力強く春を創ろうとしている人たちが大勢全国各地で立ち上がりました。もちろんその春を創る動きはさらに広く力強く今年に受け継がれています。デモだけではありません。イベント・シンポジウム・講演会などが全国で予定されています(『「マガジン9」日本全国デモ情報』をご覧下さい)。

 そうした動きの一つ「市民連合」の誕生を本澤二郎さんが言祝いでいます。「あけぼの・曙」の冒頭部分を引用しましょう。

<市民連合誕生に乾杯!>
 冬来たりなば春遠からず、という。春はあけぼのがいい。東京にも曙が見えてきた。自公の改憲軍拡政治に対抗する「市民連合」が、12月20日に誕生した。来夏の衆参同時選挙への平和勢力の決起である。戦後70年の2015年の師走の快挙といっていい。「日本人の平和主義は、いい加減なものではない」との宇都宮徳馬さんの声が、列島の隅々に響き渡っているかのようだ。軍国主義・戦争法反対の市民連合は、必ずや成果を収めるに違いない。無党派・民意を代表する市民連合は、まさに日本の曙であろう。

 これらの動きは、まさしくかつてなかった全国規模の非暴力直接行動のうねりです。私は10年前の記事「非暴力直接行動」を、水田ふうさんの『「海」と坐り込み』という文章を紹介して、次のように締めくくりました。
『うん、とてもいい話だ。私たちには権力も経済力もない。この「ええ話」が実現するよう、「無数の水溜りと水溜りがプチップチッとくっいていくように大きな水溜りができる」よう、それぞれがそれぞれの闘い方で無数の水溜りを創って行くほかはない。』

 さて、この大きなうねりの中で、私が最も注視しているのは辺野古の闘いです。言うまでもなく、これは沖縄の人たちだけの問題ではありません。日本を牛耳っている愚者たちの狂犬政治(変換ミスではありません)の現状と、愚者たちが描くこの国の未来像を標徴しています。

 ということで、次回から改めて沖縄について学習することにしました。どうなりますやら、はなはだ心許ないのですが、とりあえずご報告いたします。