2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《『羽仁五郎の大予言』を読む》(96)

終末論の時代(33)

「独占資本主義の終末」補充編(17)

羽仁提言「三つの原則」の検討(16)


原則2:「社会主義」(14)

<参考書4> 広井義則著『ポスト資本主義―科学・人間・社会の未来』(岩波新書)
の続きです。


「ストックの社会保障」あるいは資産の再分配(土地・住宅、金融資産等)


 広井さんはこの論題では「フロー」と「ストック」という用語を核に議論を進めている。「ストック stock」は英和辞書には意味として「ストック、蓄え、貯蔵・・・」と「ストック」を初めに挙げているほどほとんど日本語化している説明不要な言葉だが、ここでは勿論「資産のストック」という意味だ。「フロー flow」については次のように解すればよいだろう。広井さんは「フロー」初出のところで『GDPつまり「フロー」』と注釈している。つまり「フロー」は経済学用語として「一定期間内に流動する貨幣・商品などの量」といった意味になる。

 さて、資本主義の終末を迎えつつある現在、「格差」や「分配」のあり方が大きな課題となっているが、その格差について、広井さんは次のような指摘をしている。

 日本で格差をめぐるテーマが議論される場合、それは概して「所得」つまりフローの格差に関するものである。しかしながら、実はそうした格差がより大きいのは他でもなく「ストック」あるいは資産(金融資産や土地・住宅)に関する格差であり、実際、格差の度合いを示すいわゆるジニ係数[再分配所得の不平等度]を見ると、年間収入(二人以上の一般世帯)のジニ係数が0.31であるのに対し、貯蓄におけるそれは0.571、住宅・宅地資産額におけるそれは0.579となっており(全国消費実態調査 2009年)、所得よりむしろ金融資産や土地等の格差のほうがずっと大きいのである。

 思えばストックないし資産はフローないし所得が"累積"していった結果であるので、以上の点はある意味で十分想像できる事態であり、またこの場合の"累積"には先ほど論じた親から子への相続を通じた世代的な継承も含まれる。そして、こうした「ストック」ないし資産をめぐる領域は、先ほど論じた「相続」と同様に近代資本主義または福祉国家にとってのいわば"盲点"であって、もっとも私的な領域として残され、公的な介入の外に置かれていた。

 実際、これまでの福祉国家あるいは社会保障は、「フロー」の再分配(所得再分配)を基本的な任務としてきたのである。年金制度もそうであり、医療や福祉サービス、失業保険、生活保護なども「フロー」に関するものである。なお例外的に、「公的住宅」はストックに関する社会保障だが、日本ではこの領域はヨーロッパに比べてきわめて未発達で、住宅全体に占める公的住宅の割合は低く、加えて「小泉改革」以降そうした公的住宅はさらに削減されてきた[この話題については『コミュニティを問いなおす』(ちくま新書)で詳しく論じているそうです]

 しかしながら、上記のように現在のような成熟化ないし定常化社会においては、フローの増加がほとんど見られなくなる分、こうした「ストック」あるいは資産の分配・再分配ということが社会全体にとっての課題となり、いわば「ストックの社会保障」という新たな発想や対応が重要になってくる。

 そしてこれは、まさにここで論じている、資本主義というシステムの根幹にさかのぼった社会化というテーマと重なることになる。なぜなら、ストックないし資産を「私」の領域に委ねるか、それに一定の公的な規制や公的所有という対応を導入するかが、資本主義と社会主義のもっとも基本的な分岐点と考えられてきたからだ。

 「ストック」問題の最も顕著な例は土地所有であると広井さんは指摘している。そして、この問題について、福祉国家の先端を行く北欧の状況を紹介している。

 土地の大半が私的所有である日本やアメリカに対し、ヨーロッパの場合は土地における公的所有の割合が相対的に大きく、特に北欧などは、たとえばヘルシンキ市では土地の65%が市有地(国有地も含めると75%)であったり、ストックホルム市では土地の70%が市有地であったりするなど、実は「土地公有」が一般的であり、ストックないし資産についてもかなりの「社会化」が行われているのだ。

 いずれにしても、今後は以上のような認識を踏まえて、資産の再分配あるいは「ストックの社会保障」という観点からの対応が重要であり、具体的には、住宅保障の強化や土地所有のあり方の再吟味(公有地ないし「コモンズ(共有地)」の強化や積極的活用)、そして金融資産・土地課税の強化とそれによるストックの再分配や社会保障への充当が新たな課題になる。

 話題を広げれば、以上のうち土地・住宅の公有・共有については近年様々な形で展開している"シェア(ないしシェア経済)"をめぐる議論ともつながるだろう。

 次いで広井さんは、「ストック」の格差問題についてのピケティの議論を紹介したうえで、次のようにまとめている。

 (ストックの)増加局面の背景についてピケティは、「相対的な低成長レジームヘの回帰」によるものとし、「経済成長の速度が弱まる時代においては、自ずと過去の資産が不均等に大きな重要性をもつに至る」と述べている。そしてこうした状況では、「起業家は金利生活者(rentier フランス語で「不労所得生活者」という意味でもある)に転身するのが不可避となる」と彼は論じる。

 起業家がいなくなるのは資本主義の終焉ないし自殺行為といえるだろう。それを回避するために、「資産の再分配」という、ここで論じている「資本主義のもっとも根幹にさかのぼった社会化」が要請される。つまり資本主義的な理念を存続させるために、社会主義的な対応が必要になるという、このパラドキシカルな構造は、先ほどの「人生前半の社会保障」と機会の平等をめぐる議論と同質のものだ。

 あるいは、ここでもう一度、第1章で取り上げたブローデルの「資本主義と市場経済は対立する」、「資本主義は「反-市場」である」という議論を思い出すならば、ピケティの論を含め、ここで述べている方向は、いわば"資本主義(の抑圧)から市場経済あるいは個人の自由を守る"ことと言えるかもしれない。

 第3章の終わりで、経済学者の西部忠が、サブプライム・ローンのような商品を売りまくった金融機関を「システミック・リスク」の名のもとに救済するような現在の資本主義のあり方を(「自由競争」や「自己責任」原則自体が否定されているという意味で)「資本主義の自己矛盾」と論じている議論にふれた。これらはいずれもブローデル的な「資本主義と市場経済の対立」の異なる局面ではないだろうか。

 さて、「ストックの再分配」の最も重要な課題は税制問題である。税制の主要を担ってきた税の歴史を端的に示す図を転載しよう。
税制の変遷
 ポスト資本主義社会では、「ストック」への課税のほかにもう一つ、「環境・資源」問題への対応に応じた税(環境税 自然ストックとして重要な土地課税も含む)も大きな論点になる。

 広井さんは、ロバートソンの考察をとりあげながら、次のようにまとめている。

エコロジー的な流れに属するイギリスの経済思想家ロバートソンは、「共有資源(common resouces)への課税」という考えのもと、土地やエネルギー等への課税の重要性を論じている。彼は「人間が加えた価値」よりも「人間が引き出した価値」に対して課税するという興味深い議論を行っているが、そこにあるのは、"富の源泉"は人間の労働や活動よりもまず自然そのものであるという、根本的な認識のシフトだ。

 マルクス的な労働価値説とは異なる、いわば「自然価値説」とも呼べるような世界観と言えるだろう。つまり自然資源は本来人類の共有の財産であるから、それを使って利益を得ている者は、いわばその"使用料"を「税」として払うべきといった理解である。労働や生産への課税ではなく、人間が自然を使うことへの課税という発想。これは本章で述べている「資本主義・社会主義・エコロジーのクロス・オーバー」というテーマ― 資本主義の社会化が進み、しかもそれが資源・環境制約の顕在化と需要の成熟・飽和という状況を背景に展開するという構造 ―とつながる、税そして"富の源泉"についての究極的な理解の仕方であるだろう。

 以上の概要をまとめたのが図7.4であり、こうした把握は、ここで論じてきた資本主義の進化に関する視点― 資本主義というシステムが、その修正をシステムの「周辺」部分から「根幹」部分に向けて順次行ってきたという議論 ―とも呼応している。

 以上は「機会の平等」「ストックの再配分」という終末期を迎えつつある資本主義経済の矛盾に対処する議論であったが、人類の生存の基盤である社会そのものをどう構想すべきかという課題が残されている。つまり、「新たな社会的セーフティネットの創出」のための第三の柱

コミュニティというセーフティネットの再活性化。

である。次回からこの問題に対する議論を読んでいくことする。
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《『羽仁五郎の大予言』を読む》(95)

終末論の時代(32)

「独占資本主義の終末」補充編(16)

羽仁提言「三つの原則」の検討(15)


原則2:「社会主義」(13)

<参考書4> 広井義則著『ポスト資本主義―科学・人間・社会の未来』(岩波新書)
の続きです。

 広井さんは①(「機会の平等」の保障の強化)の背景にある「基本的な人間観あるいは社会観」について次のように論じている。

 (①は)教育や雇用、住宅などを含む、若者や子どもに関する社会保障ないし公的支援を強化し(その財源として相続税などを活用)、個人が人生の初めにおいて"共通のスタートライン"に立てることを十分に保障するというものである。

 ではなぜこれが「資本主義システムの根幹にさかのぼった社会化」となるのか。

 近代的な理念においては、この社会は「独立した均質な個人」によって成り立つものであり、そうした個人が(契約を通じて)社会を構成する。近代の歴史の一幕から生成した「福祉国家」もまた同様の社会観を共有し、したがって福祉国家の基本は、個人が市場経済の中で自由な経済活動を行うことを前提としたうえで、そこから(格差などの問題が生じた場合に)事後的に修正を加えるというものだった。

 しかしこうした社会観において意外にも抜け落ちているのは、現実の社会においては、個人は"裸の個人"として均等に世の中に生まれ出るのではなく、家族あるいは家系というものが存在し、そうしたいわば世代間の継承性の中においてこそ個人は存在するという(ある意味で当然の)事実なのである。

 したがって、こうした世代を通じた継承性(親から子へのバトンタッチ)の部分に何からの形で"社会的な介入"を行わなければ、あるいは「相続」という私的な営みに関して何らかの再分配ないし社会化を行わなければ、前の世代の個人に関して生じた「格差」はそのまま次の世代に継承されていくことになる。

 根本的な問いは、これをそもそも是とみるか非と見るかである。このテーマは基本的な人間観あるいは社会観に関わるもので、ひとつの正しい答えがあるというものではないが、ポイントになるのは、社会を構成する基本的な"単位(ユニット)"を「個人」と見るか「家族(ないし家系)」と見るかという点にあるだろう。

 つまり前者であれば、個人は生まれ育つ段階でできる限り平等な環境に置かれ、「個人の機会の平等」が確保されるべきという考えになるし、後者であれば、むしろ親が成し遂げた成果ないし遺産をその子どもが享受し引き継ぐのは当然であり、このことこそ侵害されたり政府によって介入されたりすべきではない、という考えになるだろう。

 先ほど確認したように、近代的な理念は本来的には「個人」を基本的な社会の単位と考えるので、単純に言えば前者のような方向に傾くのであるが、しかし実際には、相続あるいは親から子への継承性という点は、最後までもっとも"私的"な領域として残され、公的な関与は(相続税といった制度は一定あるもののそれは限られた範囲にとどまり)ミニマムなものに抑えられたのである。

 しかしながら、ある意味でそうした対応の帰結として、現実には次第に「格差の相続ないし累積(あるいは貧困の連鎖)」という点が無視できない形で浮上するに至っているのが現在である。近年日本でも様々に論じられるようになった「子どもの貧困」問題や、大学進学率と親の所得が相関している(生まれた家の所得が高いほど大学進学率が高い)といった事実もこうした点と関連している。したがってこの点に関する公的介入あるいは再分配を強めてこそ、「機会の平等」が保障され、同時に(各個人に均等に"チャンス"が保障されるという意味において)社会や経済の活性化にもつながるという視点が重要となる。

 ここでおもしろいのは次のような点である。拙著でも以前論じた内容だが、それぞれの個人が、人生の初期において"共通のスタートライン"に立つことができ、上記のように均等な"チャンス"が与えられるべきというのは、それ自体としては「自由主義」的あるいは「資本主義」的と呼べる理念であるだろう。しかし、現実にそうした状況を実現するには、市場経済ないし資本主義システムを"放任"していては果たせず― それではむしろ格差の相続や累積が生じる ―、ここで論じているような相続の一定の社会化や人生前半の社会保障の強化といった政策対応が重要となる。

 つまり、個人の「チャンスの保障」という、それ自体は資本主義的な理念を実現するために、ある意味で社会主義的とも言える対応が必要になるという、根本的なパラドックスがここには存在している。言い換えれば、逆説的にも個人の「自由」の保障は"自由放任"によっては実現せず、むしろそれは積極的あるいは社会的に「作って」いくものなのである。

 続いて広井さんは、GHQ主導による政策だったが、戦後に行なわれた「相続の一定の社会化や人生前半の社会保障の強化といった政策」を取り上げて、その後の成り行きを振り返っている。

 戦後の日本を振り返った場合、戦後まもない時期に(占領軍の主導によって)行われた大きな改革は「農地改革(すなわち土地の再分配)」と「中学校教育の義務化」だったわけだが、実はこの二つは、いずれもここで論じている人生の初期における"共通のスタートライン"を強力に実現させる性格のものだった(前者の農地改革はこの後でふれる「ストック(資産)の再分配」にも関わる)。

 現時点で振り返ると、こうしたドラスティックな改革があったからこそ、個人の機会の平等が保障され、かつそれがその後の経済発展につながったと考えられるのだが、同じようなシステムが長きにわたって継続する中で、格差の累積や"世襲"的な性格が強まっているのが現在の日本社会だろう。日本社会は、いわば放っておくと"固まりやすい"社会であり、後にあらためて整理するが、相続税などを強化し、それを教育を含めた「人生前半の社会保障」に充当するといった政策を進めていく必要がある。

 私は以上のような広井さんの議論に全面的に賛同する。

 このような議論は必然的に「新たな社会的セーフティネットの創出」のための第二の柱

「ストックの社会保障」あるいは資産の再分配(土地・住宅、金融資産等)

という課題につながる。次回から、この問題に対する広井さんの論説を読んでいくことにする。
《『羽仁五郎の大予言』を読む》(94)

終末論の時代(31)

「独占資本主義の終末」補充編(15)

羽仁提言「三つの原則」の検討(14)


原則2:「社会主義」(12)

<参考書4> 広井義則著『ポスト資本主義―科学・人間・社会の未来』(岩波新書)
の続きです。

 今回から、広井さんが"過剰による貧困"に対処するための柱としてあげていた
(2)再分配の強化・再編 ―富の分配に関して
を取り上げよう。

 このテーマ(2)は「社会的セーフネット」というシステムの構築という課題と言い換えることが出来るだろう。広井さんはイギリスで制定された「救貧法(1601年)」から現在までの資本主義社会におけるセーフネットシステムの歴史を俯瞰している。広井さんはその要約を端的に示す次の図を掲載しているしている。
セーフティネット
 この図は資本主義の進化について、次のような大きな方向を示している。つまり、「資本主義は進化のプロセスの中で、その修正あるいは社会化をシステムの末端部分から根幹部分に向かう形で行ってきた」。そして、広井さんはその修正の中身を次のように要約している。

 その「修正(対応)」の中身は、政府ないし公的部門による市場への介入の拡大であるから、それは言い換えれば資本主義がそのシステムを順次"社会化"してきた― あるいはシステムの中に"社会主義的な要素"を導入してきた ―ステップでもあったのである。

 そして、第二次大戦後に大きく成長した(部分的に社会化された)資本主義が、70年代頃から徐々に低成長に入り、第2章で見たような金融化・情報化とグローバル化による一定の再興をへつつも、2008年の金融危機に至った。

 このように、広井さんは「社会主義」という概念を真っ正面に据えている。

 そして、広井さんは
「それでは、これから私たちが展望あるいは構想しうる(すべき)社会システムは、どのような性格のものとなるのだろうか。」
と、問いかけて続く一節を
「資本主義・社会主義・エコロジーの交差―システムの根幹における社会化とは」
と題してその論考を始めている。

 まず、広井さんは上の図が示すこれまでの大きな方向性を踏まえれば、
『今後展望されるのは、論理的には「システムのもっとも根幹(ないし中枢)にさかのぼった社会化」という性格のものになるだろう。』と言う。そしてそれは、上の図で言えば、「ピラミッドのいわば先端部分における社会化あるいは新たな社会的セーフティネットの創出」ということになると言い、特にそのための重要な柱として、次の三点を挙げている。


「人生前半の社会保障」等を通じた、人生における"共通のスタートライン"ないし「機会の平等」の保障の強化

「ストックの社会保障」あるいは資産の再分配(土地・住宅、金融資産等)

コミュニティというセーフティネットの再活性化。

(筆者注:このうち①と②は"社会化"という方向に関するもので、他方、③はそれとはやや性格が異なり、市場(私)と政府(政府)という二元論を超えた「共」的領域に関わるもので、また持続可能性やエコロジーという理念とつながる内容である。)

 この三つの論点を追っていこう。


「人生前半の社会保障」等を通じた、人生における"共通のスタートライン"ないし「機会の平等」の保障の強化


 "共通のスタートライン"という言葉から、私はすぐに「子供の貧困問題」が頭に浮かんだ。また、「人生前半の社会保障」からは、年金制度が現役世代の大きな負担によって成り立ているという問題が頭に浮かぶ。

 まず子供の貧困問題について。
 夏休みが終わる頃、貧困家庭の子供たちの体重が激減しているという報道に接した。夏休み中は給食がなく、家庭での食事が不十分だったせいだと言われている。

 昨年、厚生労働省が発表した「子供の(相対的)貧困率」によると、子供の貧困率は過去最悪の16.3%に上がり、6人に1人の約325万人が「貧困」に該当し、豊かな先進20ヵ国のうち、4番目の高さだという。

 この子供の貧困は学力にも大きな影響を及ぼしている。東京新聞の「【生活図鑑】貧困の連鎖(No.515) 親の収入、子の教育面・雇用に影響」(2014年10月1日)」から引用する。

 文部科学省の全国学力・学習状況調査(13年度)の分析(お茶の水女子大学)によると、親(世帯)の年収が上がるほど子どもの成績も上がる傾向にありました。

 小学6年生の正答率は、年収200万円未満の家庭の子は国語A(知識を問う問題)が53%、算数B(応用問題)が45.7%だったのに対し、1500万円以上の家庭の子はそれぞれ75.5%、71.5%と20ポイント以上の開きがありました。中学3年生でも同様の傾向でした。

 塾など学校外教育支出を見ると、年収200万円未満の家庭では支出なし(約3割)を含め、約半数が月額5000円未満でした。一方、1500万円以上の家庭では6割が3万円以上を支出していました。教育支出の差が影響したとも考えられます。

●所得格差生む悪循環
 世帯年収200万円未満は生活保護世帯であるケースも多いとみられます。保護世帯の高校進学率は90.8%と、一般世帯を含めた全国に比べ約8ポイント低くなっています。また、高校中退率は5.3%と全国の中退率1.5%に比べ高くなっていました。

 厚生労働省の国民生活基礎調査の特別集計によると、学歴別の貧困率は、小・中卒の貧困率が各年齢層で高くなっていました。女性は25%以上(4人に1人)の貧困率で、30歳代では40%を超えています。男性の貧困率も20%以上(5人に1人)でした。背景には、学歴による雇用形態の違いや賃金水準の格差があります。

 このほか、貧困による健康格差なども指摘されています。貧困が子の教育に影響し、さらにさまざまな面に悪影響を及ぼすとしたら、大きな問題です。

 年金制度については広井さんの論考を読むことにする。

 年金あるいは高齢者と一口に言っても、高齢者の間で相当な違いがあり、この点を見逃してはいけないという点である。端的に言えば、現在の日本の年金制度では、高齢者への給付において"「過剰」と「過小」の共存"という状況が生まれている。

 つまり一方では、高齢者のうち比較的高所得層が(高所得者であるがゆえにそれに応じて)相当な額の年金を受給しているかと思うと、他方では、国民年金ないし基礎年金は満額(40年加入)で約6万5千円(2015年度)だが、現実にはたとえば女性の平均受給額は4万円台で、それより低い層も多く存在し、実際65歳以上の女性の「(相対的)貧困率」は約2割で、単身者では52%に上るという事実がある(2009年の内開府集計)。

 このように、一方で「過剰」とも言うべき年金給付があり、他方で"本当に必要な層"に十分な年金給付がなされていないというのが日本の現状である(ちなみに日本の社会保障給付は2012年度で108.6兆円だが、うち年金給付は全体の約半分(49.7%)を占め54.0兆円にのぼる)。

 ではなぜこのような事態が生じるかというと、それは現在の日本の年金制度が、「報酬比例」と呼ばれる部分を多くもち(厚生年金の"一階"と呼ばれる部分)、この部分は制度の性格それ自体が「高い所得の者ほど高い年金をもらえる」という仕組みになっているからである。しかも日本の年金制度は実質的に賦課方式(高齢者への年金給付を現役世代の拠出する保険料で賄う)なので、その負担を現役世代に求める形になる。

 逆に、基礎年金は(基礎的な生活を保障するという)性格からすると本来は税によって賄うべきだが、それが実現しておらず(半分が保険料)、上記のように低所得層ほど十分な年金が支給されないという状況が生じることになる。

 全体として、日本の年金は「世代内」および「世代間」の双方において、ある意味で"逆進的"な、つまり「格差をむしろ増大させる」ような制度になってしまっている。

 こうした日本の状況を他の先進国と比べると問題点の核心が明らかになるだろう。広井さんは
「社会保障支出の全体の規模と、そのうち高齢者関係の支出(ここでは年金)の規模を国際比較した表」
を掲載して、次のように分析している。
社会保障支出

 注目すべきは、日本は社会保障全体の規模はこれらの国々の中でもつとも「小さい」部類に入るのに対し、高齢者関係支出(年金)の規模はもっとも大きいという点である。

 この点は、たとえば日本とデンマークを比べると顕著であり、社会保障全体の規模はデンマークが日本の1.5倍近くあるのに対し、高齢者関係支出(年金)は日本のほうがデンマークよりも大きくなっている。またデンマークに限らず、スウェーデン、フィンランドなどの北欧諸国は、社会保障全体の規模は日本よりずっと大きいが、意外にも年金の規模については日本よりも小さい。逆に言えば、これらの国々では、高齢者関係以外の社会保障(子ども関係、若者支援、雇用、住宅など)がきわめて手厚くなっているのである。

 皮肉なことに、表にも示されているように、日本と似た構造にあるのはギリシャやイタリアなどの南欧諸国であり、これらの国々は社会保障全体の規模は相対的に低いが、年金の規模は大きいという特徴がある。そしてギリシャの経済危機(2010年~[現在連日のように新聞で取り上げられている])の主要な背景の一つが年金問題にあったことは記憶に新しい。

 この表から分ることを一つ追加すると、アメリカが社会保証の規模が一番小さい。格差社会の最先端の国であることが分る。新自由主義が我が物顔に席巻している国である。それに一生懸命に追従しているのがアベコベデタラメ政権である。

 さて、広井さんは"逆進的"な日本の年金制度とデンマークの年金制度を対比して、次のように主張している。

 (日本の年金制度に比して)デンマークの場合、日本とは逆に年金制度はむしろ「基礎年金」が中心で(財源はすべて税)、その部分は比較的手厚くかつ平等で、逆に報酬比例部分はきわめて限定的である。そのため低所得者への保障はしっかりなされる一方、年金全体の給付規模は日本よりも小さいという、正反対の状況が生まれるのだ。

 私は、そもそも公的年金の基本的な役割は、高齢者に一定以上の生活を平等に保障するという点にあるべきと考える。だとすれば大きな方向性として、(デンマークがそうであるように)基礎年金を税によって手厚くし、逆に報酬比例部分はスリム化していくという改革を行っていくべきではないか。このことが、高齢者の間での「世代内公平」とともに、若い世代ないし現役世代との関係における「世代間公平」にも資すると考えられる。

 具体的に言えば、相続税のほか、(高所得高齢者の)報酬比例部分に関する年金課税を強化し、その税収を「人生前半の社会保障」にあてるといった政策を今後進めていくことを提案したい。

 こうした政策を通じ、上記のように年間50兆円を超え、さらに着実に増加している年金給付のうち、たとえば報酬比例部分に関する2、3兆円を若者や子ども関連の支援に再配分することで、大きな意義があると考えられるのである。

では、このような北欧諸国と日本との社会保障規模の違いは何に由来するのだろうか。国政を進める上での理念の違いにあることは論を俟たないが、その違いのポイントとなるのは、基本的な人間観あるいは社会観の違いであろう(次回に続く)。
《『羽仁五郎の大予言』を読む》(93)

終末論の時代(30)

「独占資本主義の終末」補充編(14)

羽仁提言「三つの原則」の検討(13)


原則2:「社会主義」(11)

<参考書4> 広井義則著『ポスト資本主義―科学・人間・社会の未来』(岩波新書)
の続きです。

 実は、「時間政策」に関する論考の続きとして、広井さんは「産業構造の第三次産業化」に関わる論考を続けている。それは「時間政策」ともつながり、「過剰の抑制」という課題とも関わる論点であるとして、広井さんは『「生産性」概念の再考』を提案しているが、その「再考」が「産業構造の第三次産業化」と密接につながっている。

 それは「労働生産性から環境効率性(ないし資源生産性)へ」の転換と呼ばれるもので、このように表現すると難しく響くが、その中身は以下のようにシンプルなものだ。

 すなわち、かつての時代は"人手が足りず、自然資源が十分ある"という状況だったので「労働生産性」(少ない人手で多くの生産を上げる)が重要だった。しかし現在は全く逆に、むしろ"人手が余り(慢性的な失業)、自然資源が足りない"という状況になっている。したがって、そこでは「環境効率性(資源生産性)」、つまり人はむしろ積極的に使い、逆に自然資源の消費や環境負荷を抑えるという方向が重要で、生産性の概念をこうした方向に転換していくことが課題となる。

 しかし、こうした転換は放っておいてはなかなか進まない。企業の動向をその方向に誘導する必要がある。広井さんはドイツで行なわれているそのための政策を紹介している。

 1990年代頃からヨーロッパにおいて「労働への課税から資源消費・環境負荷への課税へ」という政策が採られるようになった。この象徴的な例が、ドイツで1999年に行われた「エコロジー税制改革」と呼ばれる改革である。

 具体的には、環境税を導入するとともにその税収を年金にあて、そのぶん社会保険料を引き下げるという内容だった。さしあたってのねらいは、環境負荷を抑えつつ、社会保障の水準を維持し、かつ社会保険料を下げることで(企業にとっての雇用に伴う負担を抑えて)失業率を低下させ、かつ国際競争力を維持するという、複合的な効果をにらんだ政策ということになる。

 しかしその根底にある理念は、上記の「労働への課税から資源消費・環境負荷への課税へ」というものであり、それを通じて"人を積極的に使い、資源消費・環境負荷は抑える"という方向への企業行動の転換ひいては生産性概念の転換を促進するというのが真のねらいであった。

 こうした発想を踏まえて、日本ではあまり知られていないが、環境税を導入しているヨーロッパの国々の多くは、このように意外にも環境税の税収の相当部分を社会保障に使っているのである。

 さて、「労働生産性から環境効率性へ」という生産性概念の変更は何をもたらすだろうか。

 「労働生産性から環境効率性へ」という生産性概念の変更を踏まえると、興味深いことに、これまで"生産性が低い"ことの象徴のように言われてきた福祉や教育などの(対人サービスの)領域が、むしろもっとも"生産性が高い"領域として浮上することになる。

 つまり、これらの領域は基本的に「労働集約的」な分野であり、つまり「人」の比重が非常に大きな領域なので、「労働生産性」(少ない人手で多くの生産を上げる)という物差しでは概して"生産性が低い"ということになるわけである。

 しかし裏返して見れば、労働集約的であるということは、"人手"を多く必要とする、すなわちそれだけ"雇用を創出しやすい"ことを意味するのであり、実際、経済産業省などの報告書等でも、こうした福祉などの分野が今後もっとも大きな"雇用創出"分野として位置づけられている(たとえば「経済社会ビジョン―「成熟」と「多様性」を力に―」(2012年6月))

 思えば経済の「拡大・成長」期においては、大量の資源を使う「資源集約的」な活動が生産性が高いとされてきた。そしてそれは、そもそも人間の歴史における拡大・成長期が、エネルギーの利用形態の高度化(自然の搾取の度合いを強めること)によって実現されてきたという、序章での議論と呼応する。しかし資源の有限性が顕在化し、かつ生産過剰が基調となって失業が慢性化する成熟・定常期においては、人々の関心はサービスや人との関係性(あるいは「ケア」)に次第にシフトし、人が中心の「労働集約的」な領域が経済の前面に出るようになるだろう。そうした構造変化に応じて生産性の概念を再考し、転換していく必要があるのだ。

 広井さんは『「労働集約的」な領域』を具体的に『福祉、教育、医療などの分野や、より広く対人サービスないしソーシャル・サービスの領域』と定義している。これはこれまで私たちが「第三次産業」と呼んできたものにほかならない。つまり、平井さんは「産業構造の第三次産業化」を「雇用政策」として積極的に推進していくべきだと言っている。そして、最後に次のように提言している。

 ただし重要な点だが、こうした方向への転換は、市場経済に委ねていれば自然に進んでいくものではなく、先はどの北欧の福祉・教育などの政策や、ドイツのエコロジー税制改革などのように、それを促すための公共政策が不可欠となる。

 なぜなら、たとえば介護などの領域は、日本においてそれが概して低賃金であり離職者が絶えないことにも示されているように、市場に委ねるだけではその労働の価値が著しく低く評価され、維持できなくなるからだ(なぜそのように「低く評価」されるかという構造については終章において「時間」をめぐる考察とともに掘り下げたい)。したがって、そうした分野の価値を公的な財政で何らかの形で支えるような政策― たとえば介護や教育等の分野の公的財政での支援、自然エネルーに関する価格支持政策など ―が特に重要となることを確認しておきたいと思う。

 まさに平井さんの言うとおりだと思う。平井さんの提言は、「ミニ経済学史(39)」で紹介した次の吉本さんの提言と呼応している。

「こんな条件[産業構造の第三次産業化]をもった先進的な地域国家で、すこしでも有効な不況政策があるとすれば、投入する公共費の半分以上(わが国でいえば55パーセント以上 [現在では70%ぐらいだろう])を第三次産業関係に向けることしかかんがえられない。」

 アベコベ政権はこうした問題でもアベコベなことをやっている。

 ついでなので言って置きたいことがある。昨日の参議院安保特別委員会での強行採決をテレビ中継で見ていたが、怒り心頭に発するほどのまったくでたらめな光景だった。あれは採決ではなく、採決もどきである。つまり採決にはなっていない。無効である。アベコベ政権はアベコベデタラメ政権に格上げしたい。

 なお、そのときの様子を醍醐聰さんが詳しく記録しているのでご覧下さい。
「安保法案 : あれでどうして 「可決」 なのか?」
《『羽仁五郎の大予言』を読む》(92)

終末論の時代(29)

「独占資本主義の終末」補充編(13)

羽仁提言「三つの原則」の検討(12)


原則2:「社会主義」(10)

<参考書4> 広井義則著『ポスト資本主義―科学・人間・社会の未来』(岩波新書)
の続きです。

 これまでの<参考書>にはなかった新しい視点に絞ってしぼって読んでいくことにする。

 まず、リーマン・ショック後多くの先進国において経済格差の拡大が起こっているが、その諸要因を確認しておこう。広井さんは次のようにまとめている。

「たとえば技術革新、グローバリゼーション、高齢化、労働や家族構造の変化、相続を通じた格差の累積、社会保障制度のあり方等々―、複合的な視点から見ていく必要があるが、ひとつの重要な要素として、以下のような雇用ないし失業をめぐる状況の変化があることは確かだろう。」

 2014年度の失業率は3.6%であったが、これを年齢階級別に見ると次のようであった。
15~24歳 6.9%
25~34歳 5.3%
55~64歳 3.7%
 この資料について、広井さんは次のように解説している。

 10代後半~30代前半までの若い世代の失業率が概して高齢層のそれよりも高いことが示されている。しかもこれはあくまで「失業」率であるので、仕事には就いているがきわめて低賃金である者や、非正規雇用の者(ひいてはいわゆる"ブラック企業"での労働を余儀なくされている者)等はここには含まれていない。非正規労働者の割合は近年増え続けており、2003年には全労働者の30.4%だったが、2013年には36.7%にまで上昇している(労働力調査)。そして、こうした若者の雇用をめぐる状況の困難さは日本だけに限られた現象ではなく、先進諸国に共通のものとなっている。

 では、このように若い世代の高い失業率が先進諸国において構造的になっているのは、そもそもどのような原因から帰結しているのだろうか。この点についての議論が不足していると思われる。

 種々の要因の根本にある背景として、現在の先進諸国あるいは工業化をへた後の資本主義諸国において、構造的な"生産過剰"が生じており、それが若者を中心とする慢性的な失業のもっとも基底にある原因と考えられるだろう。

 その趣旨はシンプルで、次のようなことである。概してモノが不足しているような時代には、企業が生産活動を行って生産物(あるいは財・サービス)を市場に提供すればそれは自ずと売れたが、現在のようにモノがあふれ、人々の需要の大半が満たされているような時代にあっては、生産物を作っても売れないということが珍しくなくなる。加えて、そこで生産性(労働生産性)を上げれば、それは"より少ない人数で多くの生産を上げることができる"ということを意味するから、必要な労働力はさらに少なくなり、一層失業が増えることになる。

 『羽仁提言「三つの原則」の検討(10)』で取り上げたように、現在では中国経済も「構造的な"生産過剰"」に陥っている。

 資本主義社会は不断の「拡大・成長」を大前提として成り立っていた。それを正当化していた理屈は、社会全体の富の拡大がいずれは全ての人を豊かにするだろう、ということだった。しかし、いまや「生産性が上がるほど失業が増える」という事態に陥っている。しかもその結果、「99%対1%」という言葉が表徴するように、富の極端な偏在を生んでいる。

 この"生産過剰"により起こった経済格差を広井さんは"過剰による貧困"と呼んでいる。そして、この"過剰による貧困"に対処する方策として、次の二点を挙げている。

 ここでは"過剰"という富の生産の「総量」の問題と、"貧困"や"格差"という、富の「分配」の問題の双方が、互いに絡み合う形で存在している。したがってまず大きく言えば、求められる対応の重要な柱として、
(1)過剰の抑制 ―富の総量に関して
(2)再分配の強化・再編 ―富の分配に関して
という二つが挙げられるだろう。

 まず(1)については
"限りない「拡大・成長」の追求"という方向の転換とも関わるものなので、もっともシンプルなものとしては「労働時間(正確には賃労働時間)の短縮」という視点を提出している。労働生産性の上昇のみを追求してきた結果が"過剰による貧困"を招いたのだから、
「労働生産性の上昇があった分は、むしろ労働時間を減らしてそれ以外の(余暇などの)活動の時間にまわし、生活全体の「豊かさ」を高めていくという方向が重要になってくる」
と言っている。そしてこれはすでにヨーロッパにおいて"時間を再配分"をする政策― 賃金労働時間を減らし、その分を地域や家族、コミュニテイ、自然、社会貢献などに関する活動にあて、それを通じて全体としての生活の質を高めていこうという政策 ―が社会的に進められつつあると言う。その政策は「時間政策(time policy)」と呼ばれいる。 一種の「ワークシェアリング」と言ってよいだろう。

(ここで思い出したことがある。もうずいぶん以前からフランスでは長いバカンス楽しむ制度があるという記事を読んだことがある。ネット検索をしたら、フランスのバカンス制度を簡潔にまとめた記事に出会った。ご一読をお薦めします。(「ヴァカンスの国」)。

 広井さんはドイツとオランダの例を挙げている。

ドイツの場合
 「生涯労働時間口座」という仕組みが90年代末から導入され、多くの企業に広がりつつある。これは一人一人が生涯労働時間口座という口座を作り、たとえば超過勤務を行った場合には、その超過時間分を時間ポイントとして"貯蓄"し、そうして貯蓄した時間分を、後でまとめて有給休暇として使うことができるといった仕組み。

オランダの場合
 2006年から「ライフコース・セイビング・スキーム」と呼ばれる制度を導入したが、これは個人(被雇用者)は毎年の給与の最大12%を"貯蓄"し― その部分は非課税となる ―、それを後の時期の休暇における生活費にあてることができるという制度(貯蓄額の上限は年間給与の2.1年分)。

 続いて広井さんは、日本に即した政策として、"「国民の祝日」倍増"を提案している。

 ゴールデンウィークなどに行楽地に出かけると、どこに行っても人であふれている。あらためて思うのは"日本人は休む時もみんな一緒でないと休まない(休めない)"ということだ。

 思うに、日本人は本当はもっと休みをとりたいのである。東京など大都市の地下鉄での人々の疲れ切った様子や表情を見ればよくわかる。しかし日本の職場は「空気」が支配していて、他の人をおいて自分だけが休むことはなかなかできない。有給休暇がまともに消化されないのもその反映である。だからこそ、国民の祝日となり、"みんなも休む"となると、いわば休んでもよいという「許可」が得られたように感じ、人々は"安心して"休み、一斉に各地に出かけるのだ。

 「国民の祝日」倍増政策は、ある意味で日本の現状や日本人の行動様式を踏まえた苦肉の「時間政策」だが、国民の祝日倍増という方法に限らず、時間政策は以下のような種々のプラスの意味をもっていると考えられる。

 今後の消費の中でもっともポテンシャルがあると思われる「余暇消費」(後で述べる「時間の消費」)が増え、関連の雇用とともに経済にもプラスに働く。

 創造性にも寄与する……サービス中心あるいは付加価値や創造力が鍵となる現代においては、長時間労働はかえって生産性にもマイナスとなり、アイデアも枯渇し競争力も低下する(実際、国際比較を見ると労働時間と時間当たりの生産性には概ね負の相関が見 られる)。

 何より健康にプラス……現在の日本社会をおおっている慢性疲労状態からの改善に資する。

 ワークシェアを通じた失業率削減と貧困是正にも寄与する(本章で論じてきた内容)。

 (カイシャだけではなく)地域などですごす時間が増え地域活性化・コミュニテイ再生にも寄与する……つまり「時間」政策は実は「空間」的効果をもつ。

 おそらく出生率の改善にも貢献する。

 以上のうち最後の⑥について補足しておこう。これは当初あまり意識していなかったのだが、最近の次のような印象的な出来事から再認識するようになった点だ。

 私は大学で「社会保障論」という通年の講義を行っているが、先日「少子化」をテーマとする話をした際に学生に小レポートを書いてもらったところ、現在の日本における少子化ないし低出生率の原因として大きいのは、
「労働時間が長すぎ子どもを生み育てる余裕がないこと」
という点を挙げて論じる学生が予想外に多かった。

 たとえばある学生は
「少子化の背景として未婚化、晩婚化か挙げられているが、その火元の要因は日本の労働環境にあると思う」
と記し、少子化問題への対応策としてワークシェアの必要性を指摘していた。別の学生は、
「会社の労働環境を変えることが一番ですが、どのくらいのペースで変えていくかが問題です。育休が自由にとれるようになっても休まないのが当たり前の空気の中では、休みを取ろうにも取れませんし、会社も休みをとろうと思っている人間を採用しようとは思わないと思います。"空気”は本当にやっかいです」
と述べていた。

 「時間を再配分する政策」の重要性は納得できるし、是非そのような「時間政策」が進められることを願いたい。しかし、「国民の祝日」倍増政策については、広井さんは苦肉の「時間政策」と言っているが、私は賛同できない。その理由は「ミニ経済学史(37)」で取り上げた「産業構造の第三次産業化」にある。

 現在第三次産業の就業者は70%を超えている。そのうちの60%ぐらいが卸売業・小売業などのいわゆる「サービス業」の就業者である。私の身近にも「サービス業」にたずさわっている人たちがいるが、他の就業者が休暇を取る土・日・国民の祝日にはまともに休暇は取れない。その代休日がキチンと取れれば問題ないのだが、その仕組みが不十分なのが実態だ。国民の祝日を休暇日扱いしていない企業もあるようだ。

 "みんな一緒でないと休まない(休めない)"という「空気」を助長するような「時間政策」ではなく、その「空気」を必要としない、誰もがいつでも自由に有給休暇を取れるような「時間政策」でなければならない。私はフランスの「バカンス政策」をモデルにするとよいのではと思っている。
《『羽仁五郎の大予言』を読む》(91)

終末論の時代(28)

「独占資本主義の終末」補充編(12)

羽仁提言「三つの原則」の検討(11)


原則2:「社会主義」(10)

<参考書4> 広井義則著『ポスト資本主義―科学・人間・社会の未来』(岩波新書)

 前回紹介した水野さんによる資本主義終焉に備えての提言のキーワードは『「定常化社会」へのソフト・ランディング』だった。

 実は、今回取り上げる<参考書4>(以下『ポスト資本主義』と呼ぶことにする)の著者・広井さんには『定常型社会―新しい「豊かさ」の構想』(岩波新書2001年6月20日刊)という著書がある。広井さんは巻末に挙げている参考文献の中に、上記の著書のほかに、次のような自著を加えてる。
『持続可能な福祉社会』(2006年刊)
『グローバル定常型社会』(2009年刊)
『コミュニティを問いなおす』(2009年刊)
『創造的福祉社会』(2011年刊)
『人口減少社会という希望』(2013刊)
『生命の政治学―福祉国家・エコロジー・生命倫理』(2015)
 広井さんは早くから水野さんと同じく「定常型社会」という同じ視点を軸に、資本主義後のあるべき社会について論考を重ねてきたようだ。今回お世話になる著書はこれまでの論考の集大成と言えそうだ。

 さて、これまでと同じように、このシリーズのテーマに沿って、資本主義後を論じている「第三部 緑の福祉国家/持続可能な福祉国家」を中心に読んでいくことにするが、その前に「第三部」への予備知識として、「はじめに」を読んでこの著書の「基本的な趣旨」を確認しておこう。

 『ポスト資本主義』には「科学・人間・社会の未来」という副題が付いている。これは現在に至るまでの資本主義の歴史を科学との関わりも含めた視点から捉えようというこの著書のモチーフを示している。「はじめに」は、現在、科学の未来がどのように論じられているか、という話題から語り始めている。(なお、[ ]内の小文字部分は私の独り言、あるいは「注」です。)

 『トランセンデンス』という映画が昨年(2014)公開され、ちょっとした話題になった。男優ジョニー・デップ演じる人工知能(AI)研究者の脳が、彼の死にあたりその妻によってコンピューターにインストールされるが、やがてその頭脳は進化し暴走を始めるという、荒唐無稽ともいえるストーリーだ(ただしこの映画の終わりの部分には"自然ないし宇宙的生命への回帰"ともいうべきモチーフも登場しており、一概に荒唐無稽といって片づけられない側面ももっているのだが)。

[私はこの映画を全く知らないが、同じような荒唐無稽な「民王」というテレビドラマを見ている。こちらは父親と息子の頭脳(脳波)が入れ替わるという設定である。]

 実はこの映画のコンセプトの土台のひとつになっているのは、アメリカの未来学者レイ・カーツワイルが以前から行っている「技術的特異点(シンギュラリティ)」をめぐる議論である。カーツワイルは近い未来に様々な技術(特に遺伝学、ナノテクノロジー、ロボット工学)の発展が融合して飛躍的な突破が起こり(=技術的特異点)、そこでは高度に発達した人工知能と人体改造された人間が結びついて最高の存在が生まれ、さらには情報ソフトウェアとしての人間の意識が永続化し、人間は死を超えた永遠の精神を得るといった議論を行っている(カーツワイル 2007年)。コンピューターの"1045年問題"とも言われる話題である。

[私は最近のニュースによく登場するロボットの進化ぶりにはとてもビックリしている。]

 以上のようなビジョンは、先ほどの映画以上に荒唐無稽に聞こえるかもしれないが、カーツワイルに限らず、アメリカではこうした議論― 人間の進化の次なる段階ということで「ポスト・ヒューマン」論と呼ばれる ―は様々な文脈で広く議論されている。このうち医療技術による人体改造に関しては、ブッシュ政権時代に出されたアメリカの大統領生命倫理評議会報告書『治療を超えて』(2003年)において、この種のテーマが具体的な生命倫理の問題として論じられている。

 たとえばそれは精神医療の領域で、PTSD[心的外傷後ストレス障害]のトラウマを軽減するための「記憶鈍麻剤」や、気分をコントロールする「気分明朗剤」といった向精神薬がどこまで許容されるかといった話題が論じられているのである。そう言えば、フィリップ・ディックのよく知られたSF小説『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』では、未来世界で人々が自分の感情をその時の気分に応じてコントロールする「情調(ムード)オルガン」という機械が出てきていた。

 一方、性格は異なるが日本でも漫画やアニメの世界でこのような主題は多様な形で取り上げられており、― こうした話題について私は学生から教えられることが多い ―『攻殻機動隊』などの作品は世界的にも影響を与えてきたとされたりしている。

 若干個人的な思い出を記すと、私は80年代の終わりの2年間と2001年の計3年をアメリカのMIT(マサチューセッツ工科大学)で過ごしたが、― それぞれ大学院生および客員研究員として ―特に80年代末の滞在の頃はある種の"AIブーム"が起こっており、人工知能に無限の可能性があるような議論が(それへの反論も含めて)なされていた。その後そうした論議はやや沈静化しているように見えたが、上記のカーツワイルの論を含め近年また活発になっている。

 「技術的特異点(シンギュラリティ)」は初めて知る言葉なのでネットを検索してみた。 広井さんが「カーツワイルの論を含め近年また活発になっている」と言っているので、その観点から調べて、「Ikeda.Asia」というサイトの記事「シンギュラリティ(技術的特異点)の先にある2045年の未来とは?」出会った。シンギュラリティをめぐる最近の動向を記録した部分を引用する。

 現在識者の間ではこの問題が大マジメに論じられています。

 それどころか、シリコンバレーでは世界のグローバル企業がこのA・Iの実用化に向けて突き進んでいます。

 2014年2/4のWSJのニュース記事によると、米グーグルのエンジニア部門のレイ・カーツワイルという人が5年から8年以内に人間に近い検索エンジンが登場し、長くて複雑な質問に返答し、検索しようとする資料の意味を理解し、さらに人々に役立つだろうと自らが考える情報を探し出すようになり2029年までには検索エンジンが人間のような能力を持つようになると述べたそうです。

 昨年からグーグルはロボット開発会社を次々と買収したり、今年の1月には英国の人工知能開発会社「ディープマインド」を5億ドル(505億円)超で買収もしています。どうやらグーグルは本気で「A・Iロボット」の開発に乗り出しているようです。

 実はこのレイ・カーツワイル氏という方はもうかなり昔から人工知能研究の第一人者として有名な科学者だったそうですが、かつて彼の提唱するシンギュラリティ理論はオカルト科学の一種と見なされ一部のSFマニアやギークの間にだけに支持を受けているようなものでした。

 しかし、グーグルが彼を会社のエンジニア部門に引き入れたことでレイ・カーツワイル氏の「シンギュラリティ理論」が去年くらいから一気に現実味を帯びるようになったのです。

 もし仮に人間と同レベルの知能を持つコンピュータが生まれたら、その後は今の技術レベルで10年かかるテクノロジー進化が例えば1時間はおろか1分で成し遂げれると言うのは理論的に可能であると私も思います。

 知能というものを情報を学習して記憶し自ら考えて答えを出す能力と定義するならば、 情報量(知識量)の時点では既にコンピュータは人間を超えています。なぜなら、2013年の時点でGoogleの検索エンジンには既に30兆ページのWEBページがインデックスされており(2008年では1兆ページだったそうですが、5年間で30倍に増えたそうです)、Googleコンピューターはこれら30兆のWEBページのすべてを人間よりも遥かに正確に記憶している計算になります。

 例えば、あなたがある一つのキーワード、 仮に「パーマネントトラベラー」という語句でGoogle検索したらこの30兆ページのWEBページデータベースを1秒くらいですべて参照して、そのキーワードにマッチした検索結果をすべて拾ってこのブログを検索結果の2ページ目とかに表示させるわけです。

[グーグルの検索では、私も毎日ビックリしている。例えば今回の「シンギュラリティ」の検索では「約 217,000 件 (0.37 秒)」という表示が出ていた。もう一つビックリすることは、ネットで購入しようとある商品の検索をすると、私が愛読している記事にはその商品の広告画面が添付されてくるのだ。私の全て監視されているようでちょっとおっかない気分にもなる。「マイナンバー」などというとんでもないものが導入されれば本当に全てが監視されるようになってしなう。]

 もう既にこの時点でコンピューターはWEBから拾える情報の数量では世界人口すべての人間のインターネット情報量に勝っています。 恐らく10年後には世界の大学図書館の書物はすべてデジタル化されてクラウドに蓄積されてデータベース化されているでしょう。

 この問題についての考察はまだまだ続くが、興味のある方は直接お読み頂くことにして、引用はここまでにしておこう。

 「はじめに」に戻る。
 広井さんは、このような科学の近未来についての議論の紹介から始めた理由を述べ、続けて『ポスト資本主義』の「基本的な趣旨」を次のように語っている。

 さて、ここで問われているテーマをあえて一般化して言うと、それは次のような文脈において、科学や技術の発展が人間にとって何をもたらすか、あるいは科学・技術と経済ないし資本主義との関わりということになるだろう。

 すなわち、本書の中であらためて見ていく予定だが、ふり返れば1970年代には環境や資源問題への関心が高まり、「成長の限界」も論じられるようになった。しかし再び80年代以降に金融のグローバル化を通じた資本主義の展開が地球規模で進んでいったのは、他でもなく(インターネットを含む)情報関連テクノロジーの発展と一体のものだった。それはたとえば、一秒の間に何千回もの金融取引が行われるといった、インターネット上の無限の金融空間の生成と軌を一にするものである。そうした方向の脆弱性あるいは限界が2008年のリーマン・ショツクで露呈したものの、再び上記のカーツワイルのような次なる技術突破論が現れている。

 足元の日本を見れば、安倍政権は一貫して金融政策主導の成長戦略を打ち出してきたが、本文で議論していくように「アべノミクス」が志向する金融市場の"無限の電脳空間"と、カーツワイルの描く"意識の無限化"のビジョンは究極において同質の方向性をもっている。

 以上の議論からも示唆されるように、近代科学と資本主義という二者は、限りない「拡大・成長」の追求という点において共通しており、その限りで両輪の関係にある。しかし地球資源の有限性や格差拡大といった点を含め、そうした方向の追求が必ずしも人間の幸せや精神的充足をもたらさないことを、人々がより強く感じ始めているのが現在の状況ではないか。

 このように考えていくと、カーツワイルのいう「特異点」とはむしろ逆の意味で、私たちの生きる時代が人類史の中でもかなり特異な、つまり"成長・拡大から成熟・定常化"への大きな移行期であることが、ひとつのポジティブな可能性ないし希望として浮上してくる。

 その場合、資本主義というシステムが不断の「拡大・成長」を不可避の前提とするものだとすれば、そうした移行は、何らかの意味で資本主義とは異質な原理や価値を内包する社会像を要請することになるだろう。こうした文脈において、「ポスト資本主義」と呼ぶべき社会の構想が、新たな科学や価値のありようと一体のものとして、思考の根底にさかのぼる形で今求められているのではないか。

 また、幸か不幸か、人口減少社会として"世界のフロントランナー"たる日本は、そのような成熟社会の新たな豊かさの形こそを先導していくポジションにあるのではないか。

 そうした可能性のビジョンを描くことが、本書の基本的な趣旨に他ならない。(以下略す)

 次回から「第三部」を読んでいくことにする。
《『羽仁五郎の大予言』を読む》(90)

終末論の時代(27)

「独占資本主義の終末」補充編(11)

羽仁提言「三つの原則」の検討(10)


原則2:「社会主義」(9)

<参考書1> 水野和夫著『資本主義の終焉と歴史の危機』(集英社2014年刊)

 水野さんは利子率の変動をキーポイントに据えて資本主義の歴史を俯瞰している。私にとっては「目から鱗」的な新鮮な資本主義史である。が、ここではこのシリーズのテーマに沿って、「第五章 資本主義はいかににして終わるか」に焦点を絞って読んでいくことにする。

 水野さんは
「私たちが取り組むべき最大の問題は、資本主義をどのようにして終わらせるかということになります。すなわち、現状のごとくむきだしの資本主義を放置した末のハード・ランディングに身を委ねるのか、あるいはそこに一定のブレーキをかけてソフト・ランディングを目指すのか。」
と、問いかけている。そして、「ハード・ランディング」のシナリオを次のように要約している。

中国バブル崩壊が世界を揺るがす

 日本の土地バブル、アジア通貨危機、アメリカのネット・バブル、住宅バブル、そしてユーロのバブル……、おそらくそれに続く巨大なバブルは、中国の過剰バブルになるでしょう。リーマン・ショック後、政府の主導で大型景気対策として四兆元もの設備投資をおこなったことによって、中国の生産過剰が明らかになりつつあります。

 その代表例が粗鋼生産能力です。2013年の中国の粗鋼生産量は7.8億tだったのですが、中国の生産能力は10億tあります。22%ほど生産能力が過剰です。「世界の工場」と言われる中国ですが、輸出先の欧米の消費は縮小しています。この先、1990年代から2000年代前半までのような消費を見込むことは不可能です。アジアの中でも中国は、日本、韓国、ASEAN諸国と領土問題を抱え、関係は悪化するばかりですから、対アジアの輸出も今後は翳りを見せることでしょう。かといって、中開層による消費がか細い中国では、内需主導に転換することもできません。いずれこの過剰な設備投資は回収不能となり、やがてバブルが崩壊します。

 中国でバブルが崩壊した場合、海外資本、国内資本いずれも海外に逃避していきます。そこで中国は外貨準備として保有しているアメリカ国債を売る。中国の外貨準備高は世界 一ですから、その中国がアメリカ国債を手放すならば、ドルの終焉をも招く可能性すらあ ると言えるでしょう。

 水野さんの「中国の過剰バブル」という予想は、著書の出版年から推して、2013年前後の時期のものだろう。中国経済の危うさについては『羽仁提言「三つの原則」の検討(6)』でも取り上げた。そこで使用させて頂いた岡田さんの論文『現代中国を読む座標軸 知識人の現状認識と展望』は2015年3月に発表されている。さらに今日(9月8日)、日刊ゲンダイのサイトに『「あと10年景気は厳しい」中国財政相がG20で“衝撃発言”の意味』という記事が掲載されていた。その記事は冒頭部分で次のように報道している。

 世界経済を揺るがしている中国バブルの崩壊。上海株は6月のピークから4割も急落してしまった。この先、中国経済はどうなるのか。トルコで開かれていたG20で中国の楼継偉財政相がショッキングな発言をしていたことが分かった。

 4日の討議で、「中国経済は今後5年間は厳しい状態がつづく。10年間かも知れない」と説明していたのだ。

 つまり、水野さんの予想は、現在ではますますその現実味を増していることが分る。

 では中国バブルの崩壊は世界経済にどのような影響を及ぼすのだろうか。

デフレ化する世界

 この中国バブルの崩壊後、新興国も現在の先進国同様、低成長、低金利の経済に変化し ていきます。つまり世界全体のデフレが深刻化、永続化していくということです。

 なぜバブルが崩壊すると、デフレが悪化するのでしょうか。マネー過剰の経済では、バブルが発生して膨れ上がってゆく局面で設備投資や雇用が増加し、それが崩壊すると一気に需要が減り設備過剰となって、工場の稼働率が下がります。新興国において、資産バブルの反動としての資産デフレが発生した場合、それをきっかけに工業部門でも設備過剰が明らかになり、工業の原料である鉱物資源も、価格が下落する可能性が高いからです。

 新興国で起きるバブルは欧米で起きた資産バブルでなく、日本型の過剰設備バブルです。 日本のバブルは国内の過剰貯蓄で生じたのですが、国際資本の完全移動性が実現した21世紀においては、先進国が量的緩和で生みだす過剰マネーが、新興国に日米欧がなし得なかったスピードでの近代化を可能にさせているのです。

 過剰設備バブルは、資本市場で決まる株価がその崩壊時において急落するのとは異なり、崩壊には時間がかかります。この崩壊の段階に至って、資本主義はいよいよ歴史の舞台から姿を消していくことになるでしょう。全世界規模で、ゼロ金利、ゼロ成長、ゼロインフレが実現して、いやがおうにも定常状態に入らざるをえなくなります。

 もちろん中国バブル崩壊が人々の生活に与える影響は甚大です。その規模はリーマン・ ショックを超えるでしょうから、日本においても相当な数の企業が倒産するでしょうし、賃金も劇的に下がるでしょう。

 バブルが弾け、経済が冷え込めば、国家債務は膨れ上がりますから、財政破綻に追い込 まれる国も出てくるに違いありません。日本はその筆頭候補です。

 これまでの歴史では、国家債務が危機に瀕すると、国家は戦争とインフレで帳消しにしようとしました。つまり力ずくで「周辺」をつくろうとしてきたわけです。

 しかし現代の戦争は、核兵器の使用まで想定されますから、国家間の大規模戦争というカードを切ることはおそらくないと思います。けれども、国内では、行き場を失った労働者の抵抗が高まり、内乱の様相を呈するかもしれない。資本家対労働者の暴力的な闘争、そして資本主義の終焉というマルクスの予言にも似た状況が生まれるのではないでしょうか。

 資本主義の暴走に歯止めをかけなければ、このような長期の世界恐慌の状態を経て、世界経済は定常状態へと推移していくことになります。

 悲観的な予測になってしまうかもしれませんが、いまだに各国が成長教にとらわれてい る様子を見ると、この最悪のシナリオを選択してしまう可能性を否定しきれません。

 戦争(現在の戦争のほとんどは軍産共同体が仕組んでいるアメリカの戦争かその後始末。アベコベ政権の戦争法案はそれに荷担しようとしている法案にほかならない)やインフレ(アベコベミクスというインフレ政策の効果は未だに皆無)でしか資本主義を延命させることが出来ない。それを突っ走る結果陥る惨状を経て、ハードランディングの着地点は「世界経済の定常状態」である、と水野さんは言う。水野さんが言うソフト・ランディングが求める着地点も「定常化社会」であるが、「長期の世界恐慌」という悲惨な状態を回避してそこに到達しようという提言だ。それは可能だろうか。水野さんは次のように論じている。

 いまだ資本主義の次なるシステムが見えていない以上、このように資本の暴走を食い止めながら、資本主義のソフト・ランディングを模索することが、現状では最優先されなけ ればなりません。逆説的な言い方になるかもしれませんが、資本主義にできる限りブレー キをかけて延命させることで、ポスト近代に備える準備を整える時間を確保することができるのです。

 資本主義の先にあるシステムを明確に描く力は今の私にはありません。しかし、その大 きな手がかりとして、現代の我々が直面している「定常状態」についてここで考えていき ましょう。

 つまり、水野さんが言う「定常化社会」とは「資本主義の先にあるシステム」をスムースに受け入れるための「準備社会」ということになるだろう。

 では、水野さんが言う「定常化社会」とはどのような社会なのか、次のようである。

 「定常状態」とはゼロ成長社会と同義です。そしてゼロ成長社会というのは、人類の歴史 のうえでは、珍しい状態ではありません。図15(下の図)のように、一人あたりのGDPがゼロ成長を脱したのは16世紀以降のことです。この後の人類史でゼロ成長が永続化する可能性は否定できません。
一人当たりのGDPの変化史

 経済的にもう少し詳しくみていくと、ゼロ成長というのは、純投資がない、ということになります。純投資とは、設備投資の際に、純粋に新規資金の調達でおこなわれる投資のことですから、設備投資全体から減価償却費を差し引いたものになります。

 この純投資がないわけですから、図式的に言えば、減価償却の範囲内だけの投資しか起きません。家計でいうならば、自動車一台の状態から増やさずに、乗りつぶした時点で買い替えるということです。

 したがって、買い替えだけが基本的には経済の循環をつくっていくことになります。たとえば内需で売れる自動車が300万台で、翌年は320万台、その次は280万台というふうに多少の増減で推移しても、少子高齢化で人口減少していますから、台数のピークはどんどん小さくなります。

 そこで人口が9000万人程度で横ばいになれば、定常状態になります。つまり、買い換えサイクルだけで生産と消費が循環していき、多少の増減はあっても均(なら)せば一定の台数で推移していくということです。

 ただ、15世紀までの中世は、10年、20年単位で均してみれば定常であっても、一年単位でみれば10%成長した後、翌年にはマイナス10%というような非常にアップダウンの激しい経済でした。21世紀の「定常」は中世とは異なって、毎年の変動率が小さいという点でずっと望ましいと思います。もちろん、金融政策や財政政策で余計なことをしないという前提のうえでのことですが。

 では、水野さんは「資本主義の先にあるシステム」についてはどのように論じているのだろうか。

「長い21世紀」の次に来るシステム

 今、日本について指摘したグローバル資本主義の負の影響が、程度の差こそあれ、先進 国のいずれにおいても見られることは、すでに本書を通じて繰り返し指摘してきました。 いや、先進国のみならず、新興国においては先進国以上のスピードで格差が拡大していく はずです。

 そこで危機に瀕するのは、単に経済的な生活水準だけではありません。グローバル資本 主義は、社会の基盤である民主主義をも破壊しようとしています。

 グローバル資本主義を、単なる経済的事象と捉えていては、事の本質を見誤ることを、 本書では繰り返して述べてきました。

 市民革命以後、資本主義と民主主義が両輪となって主権国家システムを発展させてきま した。民主主義の経済的な意味とは、適切な労働分配率を維持するということです。しか し第二章でも説明したように、1999年以降、企業の利益と所得とは分離していきます。政府はそれを食い止めるどころか、新自由主義的な政策を推し進めることで、中産階級の没落を加速させていきました。その結果、ライシュ(管理人注:ロバート・バーナード・ライシュ アメリカの経済学者、ビル・クリントン大統領のもとで労働長官を務めている)が言うように、「超資本主義の勝利は間接的に、そして無意識のうちに、民主主義の衰退を招」(『暴走する資本主義』)くことになってしまったわけです。

 同様に、国家が資本の使用人になってしまっている状況は、国民国家の存在意義にも疑問符を突きつけています。詰まるところ、18世紀から築き上げてきた市民社会、民主主 義、国民主権という理念までもが、グローバル資本主義に蹂躙されているのです。そして当の資本主義そのものも、無理な延命策によってむしろ崩壊スピードを速めてしまっているありさまです。

 かつて政治・経済・社会体制がこぞって危機に瀕したのが「長い16世紀」(1450年~1640年)でした。第一章で説明したように、ジェノヴァの「利子率革命」は、中世の荘園制・封建制社会から近代資本主義・主権国家へとシステムを一変させました。そして、「長い16世紀」の資本主義勃興の過程は、中世の「帝国」システム解体と近代国民国家の創設のプロセスでもありました。このプロセスを通じて、中世社会の飽和状態を打ち破る新たなシステムとして、近代の資本主義と国民国家が登場したのです。

 この「長い16世紀」になぞらえて、1970年代から今に続く時期、私は「長い21世紀」と呼んでいます。どちらの時代も、超低金利のもとで投資機会が失われていく時代ですが、「長い16世紀」はそれを契機として、政治・経済・社会体制が大転換を遂げました。だとするならば「長い21世紀」においても、近代資本主義・主権国家システムはいずれ別のシステムヘと転換せざるをえません。

 しかし、それがどのようなものかを人類はいまだ見出せていません。
そうである以上、 資本主義とも主権国家ともしばらくの間はつきあっていかなければなりません。

 資本主義の凶暴性に比べれば、市民社会や国民主権、民主主義といった理念は、軽々と 手放すにはもったいないものです。実際、今すぐに革命や戦争を起こして市民社会を倒すべきだと主張する人はほとんどいないはずです。もちろん民主主義の空洞化は進んでいます。しかし、その機能不全を引き起こしているものが資本主義だとすれば、現在取りうる選択肢は、グローバル資本主義にブレーキをかけることしかありません。

 ゼロ金利、ゼロ成長、ゼロインフレ。この三点が定常状態への必要条件であると言いました。しかし、成長教信者はこの三点を一刻も早く脱却すべきものと捉えます。そこで金融緩和や積極財政が実施されますが、日本の過去が実証しているように、お金をジャブジャブと流し込んでも、三点の趨勢は変わらないのです。

 ゼロ金利は、財政を均衡させ、資本主義を飼い慣らすサインであるのに、それと逆行し てインフレ目標や成長戦略に猛進するのは、薬物中毒のごとく自らの体を蝕んでいくだけ です。

 水野さんは
「別のシステムは・・・・・・どのようなものかを人類はいまだ見出せていません。」
と言う一方、それは
「市民社会や国民主権、民主主義といった理念」
を堅持するシステムであるべきだと言う。この方向に見えるシステムは、私たちの文脈で言えば、アソシエーション(協同組合的社会)であり、あるいは「交換から贈与」という転換を果たした社会あり・・・、それらを総じて言えば社会主義社会(一般に流布されているものではなく、「真の」と付け加えよう)ということになるだろう。
《『羽仁五郎の大予言』を読む》(89)

終末論の時代(26)

「独占資本主義の終末」補充編(10)

羽仁提言「三つの原則」の検討(9)


原則2:「社会主義」(8)

<参考書2>
中谷巌著『資本主義以後の世界』(徳間書店2012年刊)

の続きです。

 TPP(Trans-Pacific Partnership 環太平洋パートナーシップ協定)の概要はTPP政府対策本部がアップしている「TPPの概要」で読むことが出来る。その内容は実に多岐に渡っている。まるで日本の全てをアメリカ様に差し出しましょうといった感がある。しかしここでは農業問題にしぼろう。

 TPP交渉に参加を最初に表明(2011年)したのはダメナ野田内閣だった。多くの農業関係者から反対の声が上がった。
(以下、「naver」というサイトの記事「TPPが農業に与える影響・問題点」を利用させて頂きます。)
例えば、農業関係者は次のように問題点を訴えている(出典表記は省略しました)。

"TPPで安い農作物が入ってくればもうやっていけない。野田首相には秋田に来て、生産地の苦しい現状を見てから判断してほしい。"(大仙市太田町横沢の男性)
"保護が必要な農家は守りつつ、徹底して農業を開放してほしい。"(秋田県大潟村の男性)
"外国産米の安さには、とてもじゃないが太刀打ちできない。壊滅的な打撃になる。"(茨城町のコメ農家)

 これらの声に対抗するようにダメナ野田内閣の閣僚たちは次のような発言をしていた。

"アジア太平洋地域は間違いなく成長のエンジンになるところで、その中で高いレベルの経済連携をしていくことは、日本にとってはプラスだ。"(野田佳彦・総理大臣)
"農業などへの影響を懸念して前に進まないことは許されない。"(前原誠司・政策調査会長)
"少なくとも今の段階では期限を切らず、農業関係者を含めた合意形成の努力をする。" (枝野幸男・経済産業相)
"早期に結論を出したい。"(玄葉光一郎・外務大臣)
"成長しなければ復興財源も社会保障財源も出てこない。この時代に日本だけが鎖国をしていていいというわけではない。"(小宮山洋子・厚生労働相)

 TPP参加賛成派の論拠を一つ紹介しておこう。山下一仁(キヤノングローバル戦略研究所研究主幹)と言う方が「農協がTPPに反対する本当の理由」という論文を書いている。その中の一節「TPPは農業にとっても必要」を引用する。
『農業にとってTPPは必要ないのだろうか。これまで高い関税で国内市場を守ってきたが、コメの消費は94年の1200万トンから800万トンに減った。今後は、人口減少でさらに減少する。海外の市場を目指すしかないが、輸出相手国の関税について、100%、0%のどちらが良いのかと問われれば、0%が良いに決まっている。日本農業を維持するためにも、外国の関税撤廃を目指して貿易自由化交渉を推進するしかない。TPPは農業のためにも必要なのだ。』

 つまり、輸出をすることによってしか農業は維持できない、関税撤廃は農業のためにも良いことだ、と言っている。しかし、この論理からは農業関係者の「安い農作物が入ってくればもうやっていけない」という結論も得られる。論理的に破綻していると思う。

 ダメナ野田内閣の閣僚たちや山下氏のような意見に対して、中谷さんは「TPPでは、日本は救えない」と言う。中谷さんはまず「自由貿易論」の歴史を振り返っている。

 2011年秋、野田首相は日本がTPP(環太平洋経済連携協定)の協議に参加することを表明した。TPP参加に賛成する人たちの意見を聞いていると、現代世界が大きな歴史的転換期に直面していることに全く気がついていないか、無関心であることを痛感させられる。「日本は貿易立国だから、自由貿易こそ日本経済の活性化の決め手になる」「日本がこれに参加しないと乗り遅れ、世界から孤立する」「わずか、1、2%の農業のために、日本を犠牲にするのは愚かである」といった内容がほとんどである。

 まず、自由貿易についてだが、本書で詳しく見てきたように、自由貿易が真に公正なかたちで実行されたのは歴史的に見てそれほど多くはなかった。イギリスの奴隷貿易や東インド会社から清王朝へのアヘンの密輸、アメリカのプランテーション経営によって産出された綿花などの原材料の大英帝国への廉価販売、先進国による石油など資源・原材料の供給支配など、多くは帝国主義的な権力・軍事力の行使による半ば強制的な貿易こそ、貿易の中身の大半を占めていた。

 また、そもそも本格的な自由貿易体制は、イギリスにおける1846年の穀物法廃止に端を発するが、基本的には綿織物工業を興した産業資本家階級(ブルジョアジー)が、穀物法によって保護されていた地主階級を牽制し、自らの利益に沿うかたちで構築されたものであり、すぐれて階級闘争的な色彩を持つものであった。現代でも、輸出産業は自由貿易によって所得を増やし、輸入産業は所得を減らすわけだから、自由貿易の是非は産業間の富の再分配をめぐる闘争という側面を強く持つ。

 もちろん、全体的に見れば日本は戦後の自由貿易体制の恩恵に大いに与ったことは間違いない。東西冷戦下、アメリカが自由主義諸国の経済力を強化するため、市場を開放し、日本やドイツの商品を大量に買いつけてくれたことが戦後両国の経済成長に大きな効果を上げたことは否定できない。中国にしても、2001年以降、WTOに参加し、自国の輸出を飛躍的に伸長させたことが長きにわたる高度成長を可能にした大きな要因のひとつである。

 しかし、自由貿易が求める規制撤廃、市場開放、構造改革は次第に日本の競争力を弱める働きもした。第三章で詳しく見たとおり、この「失われた20年」の間、日本はアメリカが要求する構造改革、規制撤廃などさまざまな自由化措置をとってきたが、それはむしろ、企業間の長期的取引関係の形骸化、日本が誇っていた「完全雇用文化」の喪失、社会における「信頼感」の喪失、所得格差拡大と貧困層の顕著な増加など、日本にとって失うことのほうが多かった可能性がある。実際、グローバルな競争が激化した結果、日本経済は恒常的なデフレに陥り、名目GDPは1997年の516兆円から2011年の470兆円にまで低下した(もっとも実質GDPは微増している)。アメリカが要求するクローバル・スタンダートは、時に日本の競争力を削ぎ、日本経済を弱体化させた可能性すらあるのである。

 言うまでもなく、経済学が説く「自由貿易理論」や「比較優位論」は、自由貿易の発展によって国ごとの社会体制が悪影響を受け、あるいは、「安心・安全」や「信頼」といった広義の社会資本が毀損されるといった負の側面についてはいっさい触れるところがない。あくまで、関税や規制を撤廃し、市場を開放すれば、すべての国が利益を受けるという表面的な主張にとどまっているのである。残念ながら、論理が単純であるだけにその主張は理解しやすく、それが国際政治へ与えた影響はきわめて大きい。しかし、本書が主張してきたことは、アメリカやイギリスが推進してきた自由貿易論は、普遍主義的な色合い(西洋的な基準こそ唯一、正しいという考え)が濃く、それぞれの国が培ってきた歴史や文化、社会的価値などについてはいっさい不問に付しているがゆえに、危険な思想にもなりうるということである。

 続いて中谷さんはTPPが農業に与える問題を論じている。

 TPPは、日本に農産物の自由化、関税引き下げを要求するだけのものではない。それはおそらく、2008年まで続いていた、アメリカ政府から日本政府へのオフィシャルな構造改革要求である「年次改革要望書」と同じ役割を果たすものと思われる。なぜなら、TPPは関税撤廃だけでなく、金融、電子取引、電気通信などのサービスの自由化、公共事業や物品などの政府調達の自由化、技術の特許、商標などの知的財産権、投資のルール、衛生・検疫、労働規制や環境規制の調和、サービス貿易の自由化(観光・留学・金融・弁護士医師等技術者)など、交渉項目が多岐にわたり、国民皆保険、食の安全の問題、海外労働者の流入など、農業分野以外についても広範な影響がある可能性があるからである。

 TPPに入らないと日本は世界の孤児になるということを言う人もいるが、そのような脅かしに乗る必要はない。第一、日本にとって決定的に重要な取引相手である中国や韓国が入っていないTPPに日本が入れば、それは中国から見れば「中国包囲網」と受け取られかねない。日本にとってより重要なのは、中国や韓国、および、他の多くのアジア諸国と緊密な信頼関係を創り上げることであって、アメリカがここに来て慌てて提案してきたTPPに焦って参加を表明する必要など全くなかったのではないだろうか。

 日本がTPPに参加するにしても、これを日本の再生のためにどう生かすかという、より明確な国益の観点から是々非々の対応をするべきだと思う。農業はどこの国でも手厚い保護をしている。日本のコメにかかっている関税はたしかに高いかもしれないが、農村や森林が保存され、日本の景観の豊かさが担保されているのである。自由貿易理論に従って、表面的な価格競争力で比較劣位にある商品はすべて輸入でまかなえばよいといった短絡的な議論からはそろそろ卒業してもよいのではないだろうか。

 人間生存の基本は太陽からの「贈与」なのである。その「贈与」を全面的に受け入れ、光合成を通じて(人間を含む)生物生存のための養分をつくり上げているのが農業なのである。これほど根源的な活動に従事している農業を悪者扱いし、軽薄な自由貿易論によって破壊しようとしているのは許されるべきことではないと思う。

 「北の国から」の倉本聰氏は、TPPについて「私は経済の専門家ではないし、直感的な言い方しかできないけれど、土に触れたことがない人たちの議論が続いているように思いますね。それで大丈夫なのか、不安感があります」と述べている(朝日新聞2011年12月9日朝刊)。彼はさらに付け加える。「農林漁業は統御できない自然を相手にするところから始まっている。工業は、すべてを統御できるという考え方に立っている。……統御できるもので勝負して、統御できないものは切り捨てる。そういう考え方が、TPPの最大の問題点だと思えるんです」
「自然を征服できなければ、その土地を捨てて、次の場所へ移ればいい。それが米国流の資本主義の思考じゃないかな」
 さらに引用することを許していただきたい。「日本というスーパーカーに付け忘れた装置が二つあると思う。ブレーキとバックギアですよ。……前年比プラス、前年比プラスと、ひたすらゴールのないマラソンを突き進んでいる」
「ブータン国王が先日、来日しましたよね。国王の姿を見ていると、実に素朴で、田舎の村長みたいだけど、日本人より人間の格が上だという気がするんです」

 もうこれくらいで十分だろう。倉本氏は大地に密着した生活を取り戻すことの重要性を繰り返し述べているのである。ヤハウェが人々を大地から切り離そうと懸命に画策して以来、人間は西洋主導の資本主義の波に乗って、見事に大地から切り離された存在になった。大地から切り離された人間は、自分が住んでいた共同体の軛からは逃れることができたが、それは同時に家族を解体し、社会のつながりを棄損し、「無縁社会」をつくり、世界をグローバル資本のなすがままに任せてしまった。おまけに、「生態圏」では処理不可能な原子力や核を持ち込み、人類を存亡の危機に落とし込んでいる。自然に敬意を払わない近代哲学が幅を利かした結果、自然はとことん搾取され、地球環境は破壊され尽くそうとしている。

 中谷さんは資本主義後のあるべき未来社会を構想するためのキーワードとして「文明の転換」を提唱して議論を重ねてきた。最後にこれまでの議論をまとめた最終節を引用しておこう。

「文明の転換」をいかに実践するのか

 人間的な温かみのある「超高齢社会」をつくるにしても、「還付つき消費税」で貧困の撲滅を図るという考え方にしても、「里山を復活させ、農業を復活させる」考え方にしても、共通しているのは、われわれがかつて持っていた「贈与」の精神を思い起こすことの重要性である。本書が一貫して主張してきたのは、過剰な「交換」の思想から「贈与」の精神への「文明の転換」こそが現代世界のさまざまな問題を克服する上での前提条件ではないかということだ。

 そして、我田引水に聞こえるかもしれないが、この「交換」から「贈与」への「文明の転換」を主導できる国は日本以外にはないのではないかということである。なぜなら、日本は明治以来、西洋的思想を取り入れ、急速な近代化を果たしたが、それまでの日本人の生活ぶりはグローバル資本主義を推し進めてきた西洋的思想とは対極にあったからである。自然は征服の対象ではなく、共存すべき対象であり、社会は庶民が中心に位置し、階級社会的色彩は希薄だった。人と人との長期的信頼関係を大切にし、「交換」の思想だけでは社会がうまく立ちゆかないこともよく知っていた。明治以来の近代化の過程で、日本人の行動はたしかに西洋化したが、和魂洋才という言葉にあるとおり、西洋的価値観を心底から信じていたわけではなかった。東北を襲った東日本大震災の被災者たちがテレビの映像を通じて世界に示した互助の精神、あるいは「贈与」の精神は、多くの日本人に昔を思い出させた。おそらく、多くの日本人は無意識のうちに、自分たちが「遠くに来すぎた」ことを感じたのではなかっただろうか。それが行きすぎたグローバル資本主義への反省となって表れてきているのではないだろうか。

 はたして日本は「文明の転換」を主導することができるのかどうか。もちろん、自動的にそのような困難な仕事が達成されるはずはない。それができるかどうかは、われわれ自身の意識改革ができるかどうかにかかっている。しかし、少なくとも近代以前の日本人は自然からの「贈与」のありがたみを深く理解していた。「自分たちは自然の恵みによって生かされている」という自然に対する感謝の気持ちは、日本人にとってはきわめて自然な感情であった。実際、伝統的な日本文化の多くは、自然に対する慈しみの感情を軸につくり上げられており、一神教のような人間が自然の管理者であるといった考え方や「人間と大地の隔絶」という発想はなかった。日本人本来の「贈与」の精神、伝統的な自然観、価値観、美意識は日本が近代化する過程で相当程度失われたともいえるが、それらを取り戻すことは決して不可能ではない。日本人の心の中には奥深いところでそのようなDNAが残されていると信じたい。

 大事なのは、日本が「交換」から「贈与」への「文明の転換」を意識し、資本主義が行き詰まった後の「資本主義以後の世界」を主体的に構想していくことができるかどうかだ。世界史の大きな転換期にあって、日本人が「文明の転換」を主導するためには、日本人自身が近代化の過程で置き忘れてきてしまった日本の伝統的価値を思い起こすことこそが必要不可欠なのだと思う。

 しかしながら、「交換」の思想から「贈与」の思想への「文明の転換」はあまりにも根源的な問題を含んでいるため、現実的に考えた場合、現代の人間にはとても手に負えないように見える。たしかにそのとおりだ。本書で主張してきたことなど、多くの現実主義者にとっては絵空事にすぎないだろう。たしかに、現実主義者なら歴史の大きな流れを変えることなど、そもそも人間の意志でできるものではないという考え方になるのかもしれない。「文明の転換」と気軽に言うけれど、それを指導する人間はこの世に存在するのか。あるいは、民主主義という政治体制の中で、それを実行に移すことができる高邁な志を待った政治家が選出されてくるといったことを期待することなどできるのか。

 そのとおりである。ジヤック・アタリが『21世紀の歴史』の中で看破しているように、人間が自己の欲求追求に汲々とする利己的な存在ではなくなり、自己の欲求を抑制し、「贈与」の重要性を知る利他的な存在になりうるのは、そうしない限り人類が滅亡するという世界の現実を実感できる時まで待たなければならないのかもしれない。そのような「文明の転換」は、「超紛争」が続き、人類滅亡が現実問題としてわれわれの眼前に立ち現れない限り不可能なのかもしれない。

 もしそうだとしたら、それはいつ頃のことになるのであろうか。アタリは今から50年ほど先だと予言している。しかし、人類が滅亡してしまってからでは間に合わない。人類が滅亡する前に、あるいは、核戦争のような悲惨な状況に陥る前に、いつか、誰かが、小さなことからでもよいからとにかく始めなければならないのだ。

 そして、それを始めるのは、ひょっとすると「あなた」なのかもしれない。
《『羽仁五郎の大予言』を読む》(88)

終末論の時代(25)

「独占資本主義の終末」補充編(9)

羽仁提言「三つの原則」の検討(8)


原則2:「社会主義」(7)

<参考書2>
中谷巌著『資本主義以後の世界』(徳間書店2012年刊)

の続きです。


 「自然観の転換」


 中谷さんはこのテーマについて「まえがき」の中で次のように論じている。

 「資本主義以後の世界」を構築する上で必要になるのは、何事も技術によって解決できるとする「過剰な技術信仰」や「自然は人間が管理すべきもの」という西洋的な自然観を改め、人間が自然の恵みに対してもっと「敬虔かつ謙虚」な気持ちを持つという意味での「自然観の転換」である。これがない限り、地球環境破壊はとどまるところを知らず、原子力のような人間が棲む「生態圏」の中では制御不可能な技術に人間が振り回される状況が続くことになるだろう。

 中谷さんは前回に紹介した『人間は「アトム化」から立ち直れるのか』に続いて『「農業の復活」に賭けるべきではないのか』と、農業問題を取り上げている。この一節では「自然観の転換」という言葉は使っていないが、私は「自然観の転換」のための一つの道筋として取り上げていると読んだ。まず、現在の日本の農業が置かれている状況を確認しておこう。

 経済学にイギリスの経済学者デヴィッド・リカードが提唱した「比較優位の理論」と呼ばれている理論概念がある。「比較生産費説」とか「リカード理論」とも呼ばれている。この理論については「ミニ経済学史(5)」では「比較生産費説」として取り上げて、かなり詳しく紹介している。ここでは中谷さんがまとめている説明を転載しておこう。それは
「それぞれの国が自国の得意とする産業に特化し、余剰分を輸出するとともに、自国の不得意な産業からは撤退して必要な製品については輸入によってまかなえばよいとする国際分業理論の基本的な考え方」
である。

 中谷さんは「日本はこの理論に最も安易に加担してきた国のひとつである」と言う。その結果、日本が選んで進めてきた経済政策は
「日本は農業に適した国土が狭小なので、農業は広大な土地を有するアメリカやオーストラリアに任せればよい、日本は得意な自動車や家電を輸出することに特化し、農産物については輸入すればよい。」 であった。中谷さんはこの政策を次のように批判している。

 しかし、実は、西洋諸国の多くは「これはあくまで建て前」と考えており、日本のように極端に農業を切り捨ててきた国はほとんどない。ジャック・アタリは『21世紀の歴史』(林昌宏訳、作品社)の中で、やがて世界は「超紛争の時代」に入り、食糧の奪い合いで各国は絶えざる紛争に悩まされることになると予告している。やがて世界は、飢餓で絶望した難民が国境線を越えるようになり、それが「超紛争の時代」の引き金になるというのである。

 本日(8月30日)の東京新聞朝刊のコラム「時代を読む」で浜矩子さんが「人々が荷物と化す時」と題してヨーロッパ諸国に流れ込む難民が年々増加し続けている深刻な問題を取り上げていた。新聞の報道でもほとんど毎日難民に関する記事が掲載されている最近の記事の表題少し拾ってみると次のようである。
○「地中海で難民3千人救助、伊当局50人超の死亡確認」(8月27日)
○「東欧、難民対策を厳格化 フェンス損壊に禁錮刑も」(8月26日)
○「ギリシャで難民登録を 不法移民阻止へ独首相」(8月25日)
 浜さんはその論説を次のように結んでいる。

 要は、欧州全土が国境を越える人の洪水にのみ込まれつつある。だからこそ、欧州全土が一体感をもって対処しなければならない。だが、そういうことになればなるほど、国々が一体になれず、わが身のことしか考えない。人間という名のお荷物を押し付け合う。たまらないのは、押し付け合いの対象となる人々だ。

 もとより、これは欧州だけの問題でもない。ヒト・モノ・カネが国境を越える今、誰にとっても、対岸の火事というものは存在しない。国境を越えて、全ての国々が一体感を共有する。それができなければ、人類も終わりだ。

 中谷さんの日本の「比較優位の理論」による経済政策批判に戻ろう。

 経済学が説くところの「比較優位論」はあくまで建前であること、さらに国際紛争が頻発する世界では理論通りに事が運ぶことは期待できないことを理解しなければならない。

 そういう事情があるため、どの国も、国民生活の基本である農業については、さまざまなリスク管理の方策、および農業保護のための施策を講じている。農産物輸出国であるアメリカやオーストラリアですら同様であるが、農産物輸出国である両国は自国の保護政策については不問に付しながら、自由貿易理論を振りかざし、市場開放を追ってくる。
(管理人注:アベコベ政府がアメリカに追従して公約を破って参加しているTPPがまさにそれだ。)

 しかし、それに軽々と乗ってしまっては、国の安全は守れない。農業の競争力を強化し、自由化しても日本の農業が壊滅しないようにすることはとりわけ重要である。また、日本の安全かつ美味な農産物はやり方次第では十分、外国からの農産物に対抗する競争力を身につけることも可能である。しかし、日本の農業を強くするための産業政策を十分に講じることなく、ただ単に「競争力のない農業」からは撤退して、なんでも輸入品でまかなえばよいとする無批判な自由化論には反対せざるをえない。

 いずれにしても、「比較優位論」だけで、日本の農業を壊滅させてはならない。日本も農業再生のための強力な政策を打ち出すこと、また、できるかぎり早く再生エネルギーの開発を進め、石油を使わないかたちで食糧を自給できるような態勢づくりを目指さなければならない。現在のように、石油依存の農業で食糧自給率が40%にまで下がっている状態では非常にリスクが高いと言わざるをえない。

 世界の主要国の食糧自給率を高いほうから挙げれば、次のとおりである(2003年統計)。

・オーストラリア=237%
・カナダ=145%
・アメリカ=128%
・フランス=122%
・スペイン=89%
・ドイツ=84%


 これらの国々より低いイギリスやイタリアでも、食糧自給率はそれぞれ70%、62%を保っている。日本のように、40%という惨状を呈している国はない。したがって、せめてイギリス、イタリア並みの自給率60~70%を目指して、農林水産業の拡大をはかるべきであろう。

 農業振興を強調するのは、稲作文化の日本には、小麦や大麦を主たる収獲物とする欧米の農業とは違った利点があるからでもある。

 欧米ではまず畑を大規模化して大きな濯漑システムをつくり、そして地下水をどんどん吸い上げる。紀元前3000年紀に栄えたシュメール文明は地下水を大量に使いすぎて滅びたことはよく知られている。ところが稲作の場合、水田に必要な水は川から引いたり、森の保水能力を高めたりして確保している。そのため、農業自体の大規模化は起こらず、そのおかげで自然が保全されたのである。

 その意味で私は、日本の経済学者がしばしば口にする「農業を大規模化して効率を上げろ」という意見には必ずしも賛同できない。「農業の大規模化」は場合によっては日本農業の競争力を強化するという点では意味があるが、その場合にも、農村という地域共同体が適切に保全されるという条件は守られなければならない。アメリカ流に農地を大規模化し、トラクターを使って力ずくで開拓して、ヘリコプターから大量の農薬を撒くというような農業を始めたら、日本の農業はかえって崩壊するのではないか。もちろん、美しい日本の農村は消滅し、環境問題も悪化するに決まっている。日本農業の競争力がそれによって高まるとも思えない。

 私が農業の復活を提唱する背景には、

 「石油をできる限り使わないかたち」で農業の競争力を強化し、食糧自給率を上昇させる

 美しい国土、美しい農村共同体をつくるというふたつの狙いがある。

 農村には豊かな自然環境、地域独自の文化、多様な動植物など、さまざまな"地域資源"がある。つまり、農村は食糧を供給するだけでなく、その生産活動を通じて国土保全や水源の涵養、文化の伝承、地域共同体の復権といった多面的な役割を果たすことができるということである。農業という「作用」の面だけでなく、農村という「場」も総体的に捉えて、農業全体を復活させなければならない。もっとも、現実の農村は零細兼業農家の所得保障の問題や農協の役割の問題など、きわめて複雑な問題を抱えており、ここで詳細な政策論に立ち入る余裕はない。

 しかし、長期的には、脱原発、石油資源の枯渇、価格高騰にともなう将来のエネルギー不足に備えて、農村が太陽光発電や風力発電、バイオマスなどを動員することにより、地域ごとに自律分散型の電力供給システムを構築することも農業の自立にとっては重要になるだろうということは強調しておきたい。

 ここで中谷さんは「自然観の転換」という観点から、「里山」の思想に目を向ける。

 日本には「里山」の思想があった。里山というのは、京都大学教授で森林生態学者の四手井綱英氏の造語だといわれているが、集落や人里に接するこんもりとした森を待った山を指す。私たちの祖先は稲作を行うとき、必ず里山をつくって保水能力を高めるとともに、そこに土地の神さまを祀ってきた。

 四手井氏がエッセイストの森まゆみさんの問いに答えるかたちでつくられた『森の人 四手井綱英の九十年』(晶文社)という本のなかで、里山における森の役割は次のように整理されている。

「一、森は人に安らぎを与える、二、風水害をふせぐ、三、川の水をきれいにする、四、植物や動物が育つ条件をととのえる、五、温度を低くしたり、騒音を防止する、六、もちろん木材を生産する」(191~192頁)

 そして「一番大事なことは、森が炭素を貯蔵すること」だとしている。「地球の陸地の30パーセントが森ですが、その森林が固定し保存している炭素の量は空気中の炭素の量に等しく、また林地に腐植として含まれる炭素の量もそれとほぼ等量です。つまり空気中の炭素の二倍を森がたくわえている。工場が生みだす炭酸ガスまでは吸えないにしても、もし森を破壊してしまったら、空中の炭酸ガスはずっと多くなる。(中略)森を切ればいままで貯蔵していた炭素が出る。その量は大きいです」(192頁)

 国際日本文化研究センター教授の安田喜憲氏によれば、江戸時代の日本人は森林をことのほか大事にしていた。「木一本が首一つ、枝一本が腕一つ」という言葉にあるとおり、「山の木を盗んだ者は、即刻打首になった」(『蛇と十字架~東西の風土と宗教』人文書院、223頁)。

 里山の保存と森の大切さを力説してきた四手井氏も、先の本のなかでこうつぶやいている。
「やっぱり人間も自然の一部だということをはっきり認識しないとね、人間が自然の外にあるという考え方をやめんといかんのじゃないかなあ」(193頁)

 こうした昔ながらの日本的自然観に基づいて「環境立国」を進めていけば、日本は世界的に見ても環境破壊の少ない、美しい農村を保全している貴重な国として認知されるようになるのではないだろうか。地方は穏やかな農村と「里山」、京都や奈良は「古都」、東京は「森の都」といわれるようになれば、日本のプレゼンスは一気に高まることであろう。

 上の引用文の後、中谷さんはTPP問題を取り上げている。中谷さんは、資本主義の歴史を俯瞰し、「資本主義の以後」をも見据えてキチンと批判している。ネット上では、私が調べた限りでは、こうした観点を持ってPTTを論じている論文は見つからなかった。そういう意味で中谷さんのTPP論は貴重だと思った。そこで、『資本主義以後の世界』の紹介は今回で終わる予定だったが、もう一回続けることにした。次回はこのTPP批判と、「文明の転換」をまとめた最終節を紹介する予定です。