2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《『羽仁五郎の大予言』を読む》(80)

終末論の時代(16)

独占資本主義の終末(3)

21世紀を生き抜くための原則(2)・(3)


前回、これからお世話になりそうな本を3冊紹介した。そのうちの<参考書1>はアマゾンを通して購入した。そのアマゾンからのメールで6月20日に出版されたばかりの本の知った。これも表題からして今取り上げているテーマの良い参考書になるのでないかと思い購入することにした。次の本である。

<参考書4>
広井義則著『ポスト資本主義―科学・人間・社会の未来』(岩波新書)

 さて、これらの<参考書>に目を通しているうち、これはきちんと読む必要があるな、と思った。そこで、羽仁さんが提言している三つの原則を一つずつ検討していこうと思っていた当初の計画を変更することにした。当然その三つの原則は個々ばらばらに存在するのではなく相互に関連し合っている一つの提言である。そこでまず、その三つの原則を全部読んで羽仁さんの提言の全体像をつかんでから、4冊の<参考書>を用いて、羽仁提言を検討していくことにした。ということで今回は第2・第3の原則を読んでおくことにする。

原則2:「社会主義」
 そして第二はね、日本も社会主義になるんだよ。否が応でもやがてなるんです。それは今や世界の三分の一が社会主義になっている。ぼくの青年時代には社会主義なんてどこにも影も形もなかったんですよ。ぼくが数え17歳の頃に初めてロシアに社会主義革命が起こった。誰も信じなかったよ。そして、よほどひいき目に見る人でも3年か4年がいいとこだろう、全世界が独占資本なんだからそのわずかなロシアの社会主義がどうして生き残れるものかと思ってた。しかも、その時のロシアの社会主義革命は素晴らしいユートピアを描いたね。

 例えば軍備の撤廃、そのもうひとつ手前には、マルクス、レーニンのいう国家の消滅があった。われわれがロシアに夢を感じたのは当然ですよ。自由の問題についても、いつも問題にされるのはインテリゲンチャの自由なんだな、だけど問題は大衆の自由だよ。

 ラジオの討論番組に村松剛なんかと一緒に出た時に、村松君がぼくのこの社会主義論に対してね、
「羽仁さんはあんなことをいうけど、日本がソ連のように社会主義の国になれば、真っ先に捕まるのは羽仁さんだ。刑務所へ入れられるか精神病院へ入れられちゃうのはソ連の現実を見ればわかるじゃないか」
っていうんだな。
「心配するな、おれは社会主義にならなくってももうすでに何度も日本で牢屋へ入れられてるよ」
っていってやったんだ。

 そんなことより大切なのはインテリの自由か大衆の自由かってことですよ。労働者が病気になってすぐ入院できるか、充分に治療してもらえるか。今の日本ではできないよ。第一に生きる自由があるかないかだよ。今の大学制度だって、能力があれば大学へ入れるのか。入れないじゃないか。そういう大衆の自由が問題なんだ。大衆の自由を実現するためにはインテリの自由を犠牲にする、インテリの自由を犠牲にしないために大衆の自由が得られない、どっちを選ぶのかってことは、日本が社会主義になるかならないかってことを、みなさんが自分で決める問題なんだ。

原則3:「発展途上国との共生」
 そして第三は、日本人が21世紀に生きるなら、発展途上国と共に生きろってことだな。日本は大国の仲間人りってことだけを明治以来ずっと考えてきた。そのためにどんな悲惨な目に会ったか。まだ発展の遅れている、特にアフリカの多くの国々が今独立しているんだな。少なくともその国々が日本の最良の友なんだよ。

 9月29日(1977年)の『毎日新聞』に、外信部の篠田豊って人の「留学から帰って」という記事があった。彼はタンザニアのダルエスサラーム大学政治学部の大学院に留学していたんだ。1週間に1回2時間のゼミナールが5科目で10時間、しかもそのゼミたるや担当教授を相手に10冊に及ぶ読むべき参考書が毎回出され、それをこなしてきたものとして次回のゼミが始まるというんだ。すごいでしょう。彼がアフリカに留学するといった時、みんな反対した。
「アフリカの大学に何か学ぶものがあるのか、アフリカの研究ならロンドンヘ行きなさい」
といわれたんだ。だが彼はアフリカで勉強してきたことを非常に感謝して「何よりもアフリカ先生へ礼をいいたい」 ― きっぱりと、アフリカはわれわれの先生だといっているんだ。

 さっきのラジオの話でもね、村松君やなんかが、
「日本が今のように軍備を持たないで経済的に繁栄できたのは、日米安保条約があってアメリカが守ってくれたからだ」
なんてことを平気でいうんだよ。これは最初に述べた軽信だね。アメリカのいうことをそのまま信じるんだな。だけどアメリカに正面きって聞いてごらんなさい、アメリカが日本を守った、あるいは守るって考えがあるかどうかをね。とんでもないですよ、アメリカ国民の税金でどうして日本を守るっていうんですか、そんなことをいえばアメリカの納税者は全部文句をいうよ。われわれが税金を出して政府を維持しているのはアメリカを守るためであって日本を守るためではないとね。そんなこと当り前でしよ、ありえないよ。主観とか意志の問題じゃない、制度上そんなことはありえない。

 日米安保条約っていうのは実際は白紙委任状なんだよ。どれだけのアメリカの軍隊がどういう武器を持っていつまで滞在するかってことは、ひとつも書いてないんだ。だからどんな多くの軍隊がどのような危険な武器を持ってどれだけ滞在しようとも、文句をいうことはできないんだよ。日米安保条約っていうのはアメリカと共に生きるという約束なんだ。だから日米安保条約がある限り、発展途上国は日本を友達とは考えない。

 以上のことが21世紀にわれわれが生き残れるかどうかの、最低の三原則だね。この他にも多くの問題はあるがね。その問題の中で、社会主義の国が魅力を失っちゃってる根本的な原因は、社会主義の国にも官僚主義が発生しているからなんだよ。今、ソ連にしても中国にしても自由がないじゃないかといわれているすべての問題の根源は、官僚主義が発生しているからなんだ。中国の文化大革命ってものが、ずいぶん変なこともあったけど魅力があったのは、官僚主義が打破されるかもしれない可能性があったからなんだ。それが途中からおかしくなってしまったのはなぜか。つまり、世界の独占資本の包囲の中でスラスラといくわけがないんだ。どうしても、独占資本の息の根を止めなくてはだめなんだよ。

 官僚主義と闘う根本的なものはもちろん革命だが、それが阻止さている段階でわれわれに何かできることはないのか、その点で、ぼくは、都市の自治体の闘争というものを『都市の論理』の中で主張しているんだ。もちろん自治体闘争ですべてが解決するといっているんじゃない。しかし、革命が阻止されている今の状況の中で、何もしないで革命を待っていてもだめなんだ。共産党、社会党、労働組合ってもんじゃなくね、自治体闘争というのはわれわれみんなができるんだ。みんな市民なんだからね。自分の都市自治体が現在は3割自治なんだ、これを3割5分、4割にしていくという闘争が目の前にあるんだよ。

 中央集権がどんどん進行する。それを阻止するもうひとつの方法は、政権交代だ。保守長期政権ではまさに破壊的なスピードで、どんどん中央集権へ、警察国家へいくよ。それを解決していくためには政権交代、野党第一党に投票を集中することしかない。この間うち共産党は第二党になるかどうかって騒いでいたが、オリンピックじゃないんだよ。第一党しかないんだ。共産党がいかに現代の政党であるための性質を失ってしまってるかってことだな。だから革自連(革新自由連合)というものが、そこに出てくるという必然性があったんだ。

 『自伝的戦後史』の中でぼくがはっきり証明しているのは、独占資本に対する都市自治体の闘争と、政権交代のための野党第一党への投票の集中、それと並んで学生の運動に非常に大きな意味があるってことを忘れてはだめだ、ということなんだよ。今の大学を学生がどうしようとしているのかをひと言でいえば、学生は完全な自治を希望しているんだ。大学を学生が管理したいんだ、学長は学生が選挙したいんだ。教授は学生が任命して、何を教えるのかってことを学生が決めたいんだ。これは、今の学問というものが、あまりにひどくなっちゃっているからなんだよ。

 第二次世界大戦の後、東京で国際軍事法廷が開かれた。その時に、日本のA級戦犯の全員の出身校が東京大学だったんだ。東京戦犯大学と皮肉られて、国際的にも有名になった。最近では、総合商社の幹部、国会に出てきて本気かどうか知らないけど、申し訳ないっていってるのはみんな東大の出身者だよ。戦犯大学としての東大が、その後は汚職大学としての東大だ。

 今年の春の新入生意識調査で、東大生で政治的関心があると答えたものが7パーセントしかいない。その中の5パーセント分は自民党支持だ。政治的関心がないということは、人間としては失格だということだよ。アリストテレスでさえ「人間は政治的動物だ」といっている。政治的なものを除いちゃえば動物だよ、ただの。だから東大は、単なる動物大学なんだ。

 独占資本の中央集権化の下では自治体ってものがなくなろうとしている。東京都の財政破壊だってそうですよ。いかに、東京都が自治体でないかというと、2、3年前に美濃部君が、東京で世界市長会議をやった時に、ニューヨーク市長のジンゼイ氏が、東京都の予算で警視庁ができているにもかかわらず、警視総監の任命に都知事である美濃部君はなんの発言権もないという話を聞いて、信じられないっていっていたよ。それは、警視庁というのは東京都の警察じゃなくて、天皇制の警察だからなんだね。東京にどんなに交通事故が起きて人が死のうと、ど真ん中に交通を妨害している建築物がある以上、東京都は合理的な都市計画ができない。合理的な都市計画をして、あの真ん中にあるものを、公園にしようとか何にしようかとかいう議論はできないんだ。だからぼくは、日本には建築家なんて本当は1人もいないんじゃないかと思っている。

矢崎
 さっきおっしゃった、政権交代がないと政治が腐敗するということですが、いわゆる中道のいう"連合の時代"は、政権を譲り受けるための受皿論でもあるわけですね。社会党から出た、田、秦、栖崎、大柴といった人たちが、公明党をバックに江田三郎がつくった社民連に加わり、民社党、新自由クラブとも結んで中道四党なるグループすら誕生させている。野党精神のカケラもない"野合"で政権を手にしようというのは、本来の政権交代の意味を失っていると思いますが……。

羽仁
 そんなのはたらい回しにすぎないんだよ。田中角栄がだめなら三木武夫、福田赳夫、さらに大平正芳という、たらい回しの延長にすぎない。ただ保守党内で回すところがなくなったから、少し自民党以外の人間も入れてたらい回しをやろうというにすぎない。
 今、そういうふうに起こっている問題の中でいちばん重大な問題は、最初に述べたように、われわれが歴史を考えていく上で目的があったらまずいとか、政治的な意図をもってはだめだとかいう、いわゆる悪宣伝に、骨の髄まで洗脳されていることだよ。そこで問題になってくるのは、政党というのはわれわれがつくるものだという観念を、まったく忘れちゃっていることだ。政党というのはどこかで売っているもんだ、いい政党を売り出したらそれを買おうじゃないかと思ってる。例えば新自由クラブ、ちょっと新型の自動車みたいなもんだろう、それも目先を変えただけの新型だが、安く買えそうだって感じなんだよ。しかし、政党というのは出来合いの新型みたいにできるもんじゃないんだ。われわれが、われわれの投票によって、希望するような政権をつくるかどうかってことが唯一の問題なんだ。不充分な投票によって失敗する、その自分の失敗から学ぶより他はない。どこかよさそうな政党ができて、それを支持した失敗からは何も学べないね。自分の投票で、21世紀に生き残れるような政党に投票するしかないってことなんだ。

スポンサーサイト
《『羽仁五郎の大予言』を読む》(79)

終末論の時代(15)

独占資本主義の終末(2)

21世紀を生き抜くための原則(1)


 羽仁さんと矢崎さんの最終対話は1977年11月に行なわれている。その時点で既に羽仁さんは独占資本の終末を語っていた。では、羽仁さんは21世紀を迎えるに当たってどのような見通しを語っていただろうか。今私たちは21世紀のただ中にいるわけだが、約40年前に羽仁さんが何を考えていたのか、読み続けてみよう。

 羽仁さんは「21世紀を生き抜くための原則」が三つあるという。その原則とは「小国主義」「社会主義」「発展途上国との共生」である。
(以下引用文中の小文字は管理人の注)

原則1:「小国主義」

 その第一は、日本は小国主義に徹するということだ。日本は小国なんだという認識をはっきり自覚しなければ、見通しは狂ってしまう。どこかに大国主義の観念が残っている限り、絶対に幸福な21世紀は開けないだろう。しかも、このことは、日本だけの、つまり一国の不幸にとどまらず、全人類の不幸でもある。

 この前の戦争で、日本は全人類に不幸を与えた。直接的には日本の周囲の民族である朝鮮、中国、東南アジアの人々に対して、忘れることのできない不幸を与えたんだ。大国主義でいくならば、それを再び繰り返すことになる。しかも歴史は繰り返さないから、これまでとは比較にならないほどひどいものになるだろう。

 小国主義に対しては、日本にも先駆者的な政治家がいた。それが石橋湛山(1884年-1973年)だよ。彼は日露戦争(1904-1905)の頃から、日本は帝国主義の道をたどってはならないと主張している(石橋湛山、まだ弱冠20歳)

 彼の理論は、植民地を持つと国内経済が不健全になるということなんだ。これは資本主義がまだ歴史的使命を持っていた頃の自由主義経済理論だな。植民地を持てばどうしても植民地の利潤、低い賃金ってものが本国に影響を与える。したがって本国の利潤が適正に向上しない。そうすると低賃金労働に基いている本国の産業っていうものも、健全な発達をしないんだな。だから植民地を持っちゃだめだ。「植民地を持つ国民は決して自由ではありえない、植民地の人民の自由を奪った本国の人民は、自らの自由をも必ず失う」、そういう古典的な自由主義の考え方なんだが、これは今も意味を持っている。

 石橋湛山はソビエト革命(十月革命は1917年)の時にも、日本の大新聞がいずれも敵対的な立場を取って、レーニンに対して"冷忍"という当て字を使ったりした中で、彼一人だけ『東洋経済新報』誌上でソビエト革命を擁護してるんだよ。こういう社説を書くことには、ずいぶん抵抗があったと思うよ、脅迫なんかもね。もっとも、その当時の『東洋経済新報』には、資本主義は適確な判断をしなければ生き残れない、客観的な経済分析が必要だという意識が残っていたから、そういうことができたんでしょう。

 彼は戦後、日本の首相になろうとした時に追放されているが、その理由はまだはっきりしていないんだね。ひとつには戦後の日本における占領軍の政策というものが非常な矛盾を持っていたわけだ。日本の軍国主義を根絶しなければならない。しかしアメリカが独占資本の国なんだから日本の独占資本を根絶するってことはできない。そこで独占禁止法ってものを作った。だけど独占禁止法が日本でできたってことは、独占が現代の戦争の最大かつ根本的な原因だということを日本でも認める結果になったわけだな。独占そのものを禁止するわけにはいかないが集中排除という法律ができた。ということは、独占資本が断末魔だということが法律上も認識されたという証拠になるよね。だけどなんといっても独占が存在する限り、集中するんだよ。集中したものを分散させても、そういう必然的な性質を持っているんだからまた集中してしまう。戦後日本における占領政策は、独占の方向で軍国主義にならないような政策だね。

 独占は維持するが軍国主義復活は防ぐという矛盾した政策だが、その独占資本的な政策に石橋湛山は抵抗する自由主義経済的な考え方を持っていた。だから占領政策に反するという意味で追放されたというふうに説明はできる。それと彼の持っていた小国主義という考えからも、アメリカのパートナーにはならないよね。石橋湛山は長い間、原因不明の病気で徐々に体が弱っていって死んだんだが、最近の謀殺はすぐそれとわかるようにはやらないし、徐々にやっていけば解剖したってわからないからね。彼は『東洋経済新報』でもって、ソビエト革命を擁護しようとした時に、
「国の体制というのはその国の国民が決めることであって、外国が干渉するものでない」
といって、シベリア出兵に反対している。シベリア出兵っていうのはいわゆる国策だからね。即時撤兵というのは当時は非合法の共産党やなんかが主張していたことだからね。

 だから21世紀にわれわれが未来に生きるためには、日本は小国なんだという認識が必要なんだ。実際に小国なんだよ、国の面積も少ないし、資源もない。大国気取りはやめた方がいいんだ。福田赳夫なんかがね、軍事大国にはならないが経済大国になるなんていってるが、経済大国は必ず軍事大国になることは必然的に論理上、かつ歴史的に証明されてることなんだよ。

 前に藤井丙午(ふじい へいご 1947年に参議院議員にもなっている)が新日鉄の副社長をやっている時に対談したんだが、
「どうして日本が貿易を遠慮しなきゃならないんだ」
つていうから
「日本のやっているのは貿易なんかじゃない経済侵略だ、経済侵略をやめろといっているんだ」
といったことがあるが、なんで相手国のことも考えた貿易ができないかというと、歯止めがないからですよ。

 最近ではよく政府なり外務省、あるいは三井、三菱の代表者が相手のこともよく考えていかなければならないなんていっているが、相手のことを考えるというのは人間についてはいえるが、制度については、制度そのものに歯止めがなくなっちゃっているんだから、天体に向って自制しろとにいってるのと同じなんだな。独占資本というのは制度であって、その資本の運動なんだからね。唯一の歯止めは物質を生産することだが、生産を離れてしまった資本というものは歯止めを持ちえないんだ。だから日本の商社は相手のことを考えてやれるという状態じゃないんだよ。

 そして、特に日本の独占資本がそうだというのは、明治維新以来の反動的な社会制度、つまり封建的な支配あるいは天皇制というような、いろいろな不合理なものを利用してできたものだからなんだ。日本の独占資本は、独占資本である上に、不合理な独占資本なんだな。イギリスなりアメリカなりも同じ独占資本だが、日本は最悪なものよりもっと悪いというのは、近代以前の不合理なものがくっついているからなんだ。

 そこで、それらのものを全部脱却していくためには、いろいろな綿密な分析とそれに基く戦略戦術ってものもあるけど、まず一般的な国民全部がわかる問題は、日本は小国でいこう、日本は小さな国なんだってことだね。これはいろいろな分析を必要としなくたって、頭の切り換えだけでいくじゃないか。それがみんなに認識されてくれば21世紀だって生きられるよ。しかし大国だと思っていたら、あらゆる部分で21世紀に生き残ることは不可能だよ。これがぼくの"大予言"の最後の遺言といってもいい。

(直接本文とは関係ありませんが、これから用いるかもしれない参考書の紹介です。)

 BS日テレに「久米書店」という本を紹介する番組(毎週日曜日6時)がある。私に関心のある本が選ばれているときだけ視聴している。先日の21日の番組では水野和夫著『資本主義の終焉と歴史の危機』という本が取り上げられていた。書名から参考書としてピッタリの本のようだ。視聴してみた。2014年の「ベスト経済書」第一位になった本だそうだ。読んでみようかなと思い図書館サイトで調べたら、なんと30人ほどの人が予約待ちをしている。予約しても順番が回ってくるのは数ヶ月ほど後になってしまうだろう。買うことにした。

<参考書1>
水野和夫著『資本主義の終焉と歴史の危機』 (集英社2014年刊)

 他に現在資本主義の終末を論じている本はないだろうかと、直接図書館へ行ってみた。書名から判断して次の2冊を借りてきた。

<参考書2>
中谷巌著『資本主義以後の世界』(徳間書店2012年刊)
<参考書3>
エルヴェ・ケンプ著、神尾賢二訳『資本主義からの脱却』(緑風出版2011年刊)
《『羽仁五郎の大予言』を読む》(78)

終末論の時代(14)

独占資本主義の終末(1)


 羽仁さんは20世紀末の時代状況を「終末論の時代」と捉えていたが、その状況認識の内実を矢崎さんは次のように簡潔にまとめている。

 人類は間違いなく、歩一歩と悪い方向に歩いている。やがて滅亡する。それも、そんなに遠い将来ではないだろう。

羽仁五郎は、現代をひと言でいえば「終末論の時代」だと断言する。独占資本のエゴイズム、大国のエゴイズム、といったものが、人類を地球上から抹殺するという。しかもそれは、ごくささいなきっかけがあれば、容易に行なわれ得る。現代は、これまでの人類の歴史とはテンポも違うし、破壊力も大きい。資本主義が来るところまで来て、それでも資本主義を守ろうとするならば、それは、たちまち人類の滅亡へとつながると予言する。

 ここで「独占資本のエゴイズム、大国のエゴイズム」と言われている典型的な事態を20世紀末から選べば、このシリーズで最初に取り上げた「チリのクーデター」だろう。これはチリで暴利をむさぼっていたアメリカの独占資本救済のために大国アメリカの主導によって仕組まれたクーデターだった。

 こうした大国と独占資本による謀略によって引き起こされた暴虐な事件は21世紀に入るとますますあからさまで苛烈になってきた。その事例は枚挙にいとまないが、まずすぐに頭に浮かぶのはイラク戦争とリビア戦争だ(機会があったら取り上げることにする)。

[付記]
 「私の闇の奥」というブログを愛読しています。「大国と独占資本による謀略」事件を数多く取り上げていますが、それらの核心をまとめた記事「もっとも残酷残忍な国は?」を紹介しておきます。


 アメリカが間断なく暴虐な戦争を巻き起こしている最大の理由は「独占資本主義体制の維持」にある。そのために生まれたのがいわゆる「軍産複合体」である。「独占資本主義体制の維持」になぜ戦争が必要なのか、誰でもおよその見当は付くと思うが、羽仁さんと矢崎さんの対話を聞いてみよう。

羽仁
 ・・・・・・新しい制度、新しい革命がある場合に、今までひどい暮らしをしていた人たちが、ある程度まで解放されるんだな。明治維新にせよフランス革命にせよ、資本主義による革命だけど同時に封建的な地主に年貢を収めてた農民は、今度は契約労働ってことになるわけだからね。一つの制度、一つの革命が一つの階級の利益であると同時に、他の階級の解放にもつながるんだな。もちろん完全な解放ではなかったが、農民も労働者もブルジョア革命を支持したんだよ。支持する理由があったわけだな。

 ところが最近の資本主義の利益というものは、そういう意味をまったく失ってきて、いかなる意味においても資本主義以外の利益とは、まったく相反するようになってきた。それの端的な表われがロッキード事件なんだよ。ロッキード事件をひと口でいえば、今の独占資本主義は売るものがなにもなくなって、武器しか売らない。だからロッキードも、P3Cという軍用機が本命だったんだからね。卜ライスターもあるけれど、P3Cを売りたかったんだ。ロッキード事件であれだけ騒いだ後で、公然と日本の防衛庁はP3Cを、少し遠慮したにしろ百五十機買う計画を立てた。

 ということは今の世界の独占資本主義は、他に売るものはないんだよ。あってもたいした魅力がないんだね。例えば電子計算機にしても一つ売ってもいくらでもないから、沢山売らなきゃならない。それじゃ間に合わないんだよ。だけど、P3Cは一機六十億円だから、それを売った方がいいわけですよ。今の資本主義は兵器を売るより他に仕事がないんだな。そして、その兵器によってあらゆる害悪が起こってくるわけだ。戦争の危険が増大するし、それより以前にも兵器生産というのは非生産的な生産だからインフレーションの直接の原因になるんだ。

矢崎
 戦争というもので消費しない限りは、需要がなくなってしまうことは目に見えているわけでしょう。

羽仁
 そうだよ。それに戦争は何も生産しないんだからね。ただ消費して代価を払い、その値段を支払うことによって利潤がある。つまり、米を売って儲けるのは食べる人がいるわけだから、買占めはけしからんといってもいくらか生産と消費に関係はあるわけだ。だけど戦争で生きる奴はいない、死ぬだけなんだよ。「死の商人」つて言葉があるが、その言葉が作られた頃よりむしろ現在の状態に非常にぴったりしてる。その頃の死の商人というのは、死を商品としても扱うが、まだ他の商品も扱ってたんだ。

 ロッキード以前の総合商社の悪徳商法は、まだ米だとかトイレット・ペーパーを扱ってた。だからいくらか社会の利益というものに関係があったが、ロッキードに至っては誰もそれによって生活したり生きるってことはないんだ。それによって死ぬだけなんだな。ということは、資本主義制度というものが、まったく歴史的意味がなくなって、反歴史的、反社会的な存在になってきたということなんだ。

 「資本主義制度が反歴史的、反社会的な存在」となったことを象徴的に示す言葉は2011年にアメリカで起こったウォール街占拠デモのときに使われた「99%対1%」であろう。

 現在アベコベ政権が進めているアベコベ政策は全て終末論的である。昨日(6月19日)衆議院を通過した「労働者派遣法改悪案」はいわば「99%対1%」促進法である。アメリカに追従して打ち出した「武器輸出三原則の見直し」や「戦争法案」はまさしく戦争によって生き延びようとする独占資本を救済するための政策である。

 アメリカがCIAの謀略によって次々と戦争を仕掛ける状況を作っていることはもう周知の事実であるが、アメリカがその意に沿わない人物をCIAを使って抹消するのもあまねく知れ渡ってきた。いま世界の注視の的になっているウクライナ問題にもCIAの関与が取りざたされている。日本の例で言えば、小沢一郎や鳩山由紀夫の失脚にもCIAの影が浮かんでいる。こうした事例は秘密のベールに覆われていてほとんどは情況証拠しかないのでいわゆる「陰謀論」として一蹴する人もいるが、私は「陰謀論」には与しない。羽仁さんもCIAの謀略に触れていることろがあるので、それを読んでみよう。

 最近CIAの謀略が大部暴露されているよね。石橋湛山なんかも毒薬飲まされたんじゃないかと思うんだ。

それはともかく、ぼくの友人の一人にノーマンという男がいた。カナダの宣教師の息子で、日本の中学を出ているんだが、エジプト大使をやっていた時にスエズ戦争が起こりかけていて、それを彼の努力で阻止したんだよ。イギリスがスエズ戦争を始めても、アメリカはそれを支持しない、イギリスが失敗することを願っていて、その後を狙っている、という情報をキャッチしたんだ。その電話を聞いた時に、アメリカがついて来ないことを知って泣いたと自分の回顧録にイーデン(当時のイギリス首相)は書いてるよ。

その情報をキャッチしたことでノーマンはスエズ戦争を食い止めたんだ。そしてその直後に自殺したんだよ。カイロのデパートの屋上から飛び降りてね。ぼくは愛していた友人を失ったんだ。彼は外交官だったが歴史学者でもあった。エジャトン・ハーバート・ノーマンといって、エジャトンというのはカナダの革命家の名前なんだね。父親もそういう名をつける人だったんだ。

ところがこの間CIAの謀略がいろいろ暴露された時、羽仁説子がノーマンもCIAに殺されたんじゃないかっていうんだね。というのはいかにも自殺らしく見せかけてるんだ。デパートの屋上に彼は眼鏡と腕時計を置いて身を投げてるんだね。ということは自殺に見せかけてることは明瞭だね。ノーマンは貧しく育ったからオメガの時計や金縁の眼鏡はおしいと思っただろう。しかし自殺するような興奮状態で、それをはずして自殺するとは思えないよ。ぼくはこれを本格的に調べてみようと思っているんだ。

そう考えてみると、石橋湛山も日本で初めて合理的な政府を作ろうとしていた時に病気にかかってる。そういうCIAの陰謀はいたるところにあるんじゃないのかな。

 この間のイギリスの総選挙の時に、保守党は労働党に投票するなというポスターに、労働党に投票しようとする人は自分のべッドの下を覗いて見た方がいい、そこに赤がいる、"Red under your Bed″というスローガンで闘ったんだ。それに対して、実際は、あなたのべッドの下にCIAがいないかどうか見た方がいいというのが現状だね。この陰謀というのも終末的な現象だよ。

 石橋湛山の死がCIAの謀略ではないかという推測は、石橋湛山の後継がCIAのエージェントだった岸信介だったことを考えると、おおいにある得ることだと思う。
今日の話題

打倒! アベコベ政権

 このところ私は自宅から半径4㎞程の範囲で生活しているが、14日、久し振りにこの行動範囲を抜け出して、「戦争法案反対!国会包囲行動」に参加してきた。

戦争法案反対!国会包囲行動1

戦争法案反対!国会包囲行動2

戦争法案反対!国会包囲行動3

 いま日本をとんでない岐路に追い込もうとしているアベコベ政権の戦争法案がいかに非論理的なデタラメなものであるかは、この法案をめぐる委員会での質疑応答や党首討論での問答を知れば、誰にでも明らかなことだと思う。このことは、私はテレビの中継を見ていないが、新聞の報道だけで十分に理解できたと思っていた。ところが、ブログ「Everyone says I love you !」さんの記事『安倍首相「そこでそこでよろしいでしょうかそこでですね」「こうしたこうしてこうした事態」 落ち着けw』を読んで、私は捧腹絶倒してしまった。アベコベ首相の答弁の支離滅裂さは新聞の報道だけでは分らない言語に絶するものだった。いや、これは笑い事ではない。こんなやつを首相の座に居座り続けさせることは日本国民の恥なのだ。では、私たちに何ができるか。考えるきっかけとして、サイト「リベラル21」に掲載されている半澤健市さんの提案を紹介しておこう。

「安保廃案と安倍打倒への小さな提案」
《『羽仁五郎の大予言』を読む》(77)

終末論の時代(13)

ジャーナリズムの死(13):戦後の言論弾圧(7)


 前回最後に、NHKにおける人事を利用した"自主管理"をの一つを取り上げたが,番組の"自主規制"はなかったのだろうか。今回はそれを取り上げて「戦後の言論弾圧」を終わることにしよう。

 NHKの場合、現在も問題になっているが、まず経営委員会のメンバーが自主規制に大きな影響を及ぼす要因になっている。経営委員は国会が任命することになっているのだから、当然政府よりの人物が選ばれることになる。1966年末の経営委員会の構成は次のようであった。
全委員12名中、
財界人3名・旧官僚2名・老学者3名・県漁連会長(保守系県議)1名・自民党都支部総務1名・愛媛県教育委員1名・アジア調査会事務局長1名
で自民党色濃厚であり、労働組合や革新系の団体や文化人の代表はただの一人も入っていない。NHKの番組編成の基準は、抽象的な美辞麗句にかざられた「NHK国内番組基準」をかかげ、各年度の「国内番組編成重点事項」から各月間の番組編成重点事項へと具体化されていく仕組みになっているが、実際の番組編成にあたっては、政府・与党にたいしてもっともあたりさわりのない編成がおこなわれている結果となっている。徳本論文は、『知られざる放送』(波野拓郎著 1966年出版)の記事をもとに次のように指摘している。

 1966年10月の上旬は、共和製糖不正融資問題にはじまって、連日、政界の黒い霧が問題となった時期であったにもかかわらず、NHKテレビの政治関係番組はまったく天下泰平であって、この10日間の番組17本のうち、わずかに最後の一本が荒船運輸大臣の更迭をあつかったにとどまっていたという。

また、それより先、同年3月20日の放送記念特集『日本の未来像』は世論調査結果を放送したが、そのさい、日本の安全と独立に関する調査結果で政府・与党にとって都合の悪い部分(「非武装中立」42%が「安保条約継続」27%を上廻っていたというような数字)をカットして放送した。

 これらの例が特殊であるとしても、一般にNHKの解説が野党色をもたないことをあわせ考えれば、NHKの基本的姿勢が奈辺にあるかは想像がつこうというものである。

 1966年5月、NHK解説委員入江通雅氏は新聞学会総会で、
「議会民主主義制度では国会に民意が代表されているから、国会で多数を占める政党の意見が民衆の意見を代表している。それゆえ自民党の言い分に忠実であることが、放送の公正、中立の基準となる」
とのべたといわれるが、そのような発言が奇異に感じられない体質を、すでにNHKはもちはじめてきているのである。

 もとよりNHKは、視聴者の受信料に基礎をおいた組織であり、同時にまたそれ自身一つの巨大なマンモス集団である。その全体が単純に一本化すると考えるのは皮相なみかたというものであろう。しかしこの10年、NHK内部における"自主規制"と"自主管理"が思いのほかすすんできていることだけは間違いない。

 入江解説委員の詭弁は政治家もよく使う。すでに50年も前に籾井のとんでも発言と全く同じことを主張している人物がいたのを知ってびっくりした。既にこの頃から、NHKはその内部に国営放送に堕する要因を持っていたのだった。徳本論文は、1962年頃のNHKのある現場制作者の談話を紹介している。

 NHKの場合、民放の場合それぞれのちがいはありましょうが、NHKですと幻影が幻影を生むといいますか、拡大解釈の心理が働くと思うのです。つまり理事は与党代議士や郵政当局の意思を「このへんまでならいいだろう」「これを出せば喜ぶだろう」とそんたくし、局長は理事の、部長は局長の、副部長は部長の、係長は副部長の、そして一般職員は係長の意思を、それぞれ過大にあるいは過少にそんたくしすぎるところがら規制が生れてくるのじゃないですか。

 一つの例ですが、安保の時にある代議士が中野好夫を出すのなら赤尾敏を出せといったという。冗談かもののたとえであったかもしれませんが、それがわれわれのところへくると中野好夫的な人はみなだめだということになってしまう。この「的」というのがデリケートなんで、各人各様、下部へ下がるほど「的」の範囲が拡がってくるんですね。だからそれぞれのPD(Program Directer)によって、自分の出演者リストに、経験的に、この人は出られないというしるしがついてしまうといったことになるわけです。問題を複雑にしているのはさらに、こうしたブラックリスト的人物が公表されていないことで、もちろん、誰と誰がいけないという文書がある訳ではないので、みんな自己規制の連鎖反応なんですね。………中略………出演者から、とりあげるべきテーマ、扱い方にいたるまで、この自主規制という眼に見えない怪物に支配されているといった情況です。

  では、具体的にどのような番組がどのような規制を受けていたのだろうか。

 典型的な例として、ドラマ『風雪』が挙げられている。1964年4月9日から始まったオムニバスドラマである。明治維新から1945年の敗戦まで全100話を予定していたが、まず、1965年6月3日放送の田中正造をあつかった「草莽の微臣ありき」にクレームがついた。次いで「敵艦見ゆ」の再放送が中止。「米騒動」の企画が没。「東京往来」が没。「大正12年9月1日(関東大震災)」には朝鮮人虐殺事件を出すなとの指示。・・・と規制が続き、9月末に大正期の中途で放送打切りとなった。徳本論文は
「時代がすすんでくるにつれて、おそらく、NHKの幹部はさしさわりを非常に気にするようになったのであろう。なるほど、ファッショ化の時代を美化するわけにもいくまいし、さりとて批判的にあつかえば、明治百年に期待をかけていたおおむこうから叱られるというわけである。」
と述べ、次のようなNHK内部からの告発文書『原点からの告発―番組制作白書66~』を取り上げている。

 この報告書は、"取扱注意"と記されているが、出されると同時に協会幹部をいたく刺戟し、おおあわてで回収された、門外不出の厳秘交書であり、ここに引用するだけで関係者が目くじらを立てるに相違ない貴重な資料である。「国民のためのNHK」が国民にたいしてひたかくしにしているこの資料は、いったいどのような事実を語っているのであろうか。

 まず、報告書の第一章「空洞化すすむ"国民のための放送"」はいう。
「現在のNHKの放送に満足しているか?」
という問いに、満足0、ほぼ満足22、満足できない57、無解答3であると。
 そこでは、自主的な企画にたいして「枠がない」といいつつ「天下り番組」が横行していること、「規制」と「考査」が有形無形の圧力としてのしかかっていること、そして、「NHKが、現支配体制の中に完全にビルト・インされてしまって、言論機関はおろか、情報伝達機関としても片輪なものとなり、"国民のための放送"が"体制側からの国民にむけた放送"となりつつあるのではないか」ということが、詳細な実例をとおして語られているのである。たとえば原子力潜水艦の報道に際して、「潜水艦本体の姿はよいが、デモはうつしてはいけない、ということで、デモのために配備した中継車は、全く何もしないで帰ってきた」というような実例がである。

 つづいて同報告書の第二章「制作条件をめぐって」は告白する。
「われわれは巷間うわさされる、日銭二億を越すといわれる現代の王国NHKが、その基幹であり、本来の使命である番組制作の分野で、その内容がいかに乏しく、いかに空虚な部分を内包しているかについて、いまさらのごとく驚きを禁じ得ない」と。

 また第三章「人と機構」は伝えている。いかにプロデューサーの創造的な活動が圧迫されているか、いかにサービス部門労働者の積極的な意欲がむしばまれているか、その実情をである。そこでは、没個性的、没主張番組こそNHKの特徴だとして、放送不適とされた映画の実例があげられている。
「にあんちゃん」
「野火」
「炎上」
「浮雲」
「幕末太陽伝」
「豚と軍艦」
「愛と希望の町」
「裸の大将」
「嘆きのテレーズ」
「灰とダイヤモンド」
「審判」
というふうに。

 念のため、これらの映画の多くが佳作であったことをつけくわえておこう。

 この報告書は、B5版154頁にわたるものである。かぎられた紙数ではその全貌は紹介しきれない。しかしもうこれ以上引用する必要はあるまい。

 ことわっておくが、この報告書はNHKの放送系列32の職場からの報告をまとめたものである。放送法や国内番組基準を「絶対に守られねばならない原則」だとしている、ごくあたりまえの人びとの意見なのである。その意見が国民に伝わるのを、NHKは極力おさえつづけてきたのである。これが"自主管理"の実態でなくてなんであろうか。

 続いて、徳本論文は日本放送労働組合が1969年11月に、放送職・取材職の組合員4000人を対象に行なった意識調査を取り上げている。それによると、
「客観的にみてNHKは政府の御用機関化はしていない」
という問いにたいして、賛成者は11.9%、反対者は59.6%に達している。なかでも直接制作をすすめていく立場にある、プロデューサーとアナウンサーの7割ちかくがそれを否定しているという。徳本論文は当時のNHKの自主規制・自主管理について、次のように慨嘆している。

 NHKは、「国民のための放送」ではなく、「政府のための放送」になってきているのである。ふりかえってみれば、敗戦の年の12月、GHQが出した「『日本放送協会の再組織』に関する覚え書」(1945・12・11)にもとづいて、国民各階層を代表する次のようなメンバーによって放送委員会が設置された時期もあったのである。すなわち、浜田成徳、岩波茂雄、馬場恒吾、近藤康男、大村英之助、瓜生忠夫、加藤シズエ、宮本百合子、荒畑寒村、島上善五郎、土方与志、川勝堅一、富永能雄、滝川幸辰、堀経夫、渡辺寧、矢内原忠雄、聴涛克己、槇ゆう子、高野岩三郎(会長)などの諸氏がそれであった。以来、二十数年、その変化のあまりの激しさに息をのむおもいがするのは、決して筆者だけではあるまい。

 最後に、信濃毎日新聞が5月17日に「政治と放送の70年 介入の歴史に終止符を」という題の、私にとってはグッド・タイミングな論説を掲載していることを知ったので、それを紹介しよう(ネットで読める新聞記事は時間が経過すると削除されるようなので、全文転載しておく)。

 政府が首相に近い作家や学者をNHK経営委員に起用=2013年11月。
 自民党が在京テレビ各社に対し選挙報道での「中立公平」を文書で要請=14年11月。
 同党が「やらせ」問題などでNHKと民放を聴取=15年4月。
 間断なく、と言っていいだろう。政府・自民党による放送への介入が続く。

 第1次安倍政権の時にはNHKに対し、北朝鮮による拉致問題を国際放送で重点的に放送せよとの命令が発動されている。

<お蔵入りのコント>

 時計の針を70年前に戻してみる。当時の放送はNHKの前身、社団法人日本放送協会のラジオだけだった。テレビと民放はまだ始まっていない。放送は連合国軍総司令部(GHQ)の統制下にあり、検閲が加えられた。

 当時の人気番組の一つに日曜娯楽版がある。風刺コントでGHQなど権力者をからかい、しばしば放送断念を余儀なくされた。NHKの番組担当だった丸山鉄雄さん(故人)が著書で、検閲により放送できなくなったコントの幾つかを紹介している。
マッカーサー「日本人はまだ12歳の子どもである」
日本人一同「恐れ入ります」
マッカーサー「日本人は再軍備をしなければいけない」
別の声「へえ? 子どもの兵隊ってのは初めてだね」

 吉田茂首相も格好の素材になった。首相が率いる民主自由党が復古的な体質に傾きつつあることを皮肉るコント。
「民主自由党を改めて自由党とする意見があったそうだね」
「もう民主に用がないからね」

 1952(昭和27)年4月、サンフランシスコ講和条約が発効して日本は独立を回復する。政府は放送に関する権限も取り戻した。とともに、日曜娯楽版は中止に追い込まれた。

 一緒に廃止されたものがある。電波監理委員会だ。放送が再び戦争に利用されることがないよう、放送に関わる権限を政府から切り離すためにGHQがつくった独立行政機関である。設置から2年後のことだった。

 以後、今日に至るまで放送は政治の介入圧力にさらされ続けることになる。ベトナム戦争で揺れた60年代は特にひどかった。

 63年、自民党がテレビの広告スポンサー80社と懇談し「偏向番組が紛れ込まぬよう」要請。

 65年、日本テレビのベトナム戦争報道番組の放送中止。

 以上はその一部である。

 中でも関心を呼んだのは、TBSの報道番組「ニュースコープ」のキャスターだった田(でん)英夫氏(故人)の降板事件だ。
 田氏は当時の北ベトナムに入り、米軍の爆撃にさらされる人々の苦しみをリポートした。自民党が問題視し、放送免許の更新を拒否する可能性をちらつかせて圧力をかけたのだった。
 「これ以上がんばるとTBSが危ない。残念だが今日で辞めてくれ」と社長から言われてやむなく―。田氏は著書に書いている。田氏は後に国会議員になった。

 2001年放送のNHK教育テレビの番組「戦争をどう裁くか」は裁判になった。自民党の幹部が内容を変えるよう圧力をかけたとして、取材に協力した団体が提訴した。東京高裁の判決は、NHKが自民幹部の意向を「忖度(そんたく)」して改編したと認定した。

 一連の問題の根っこには、放送の許認可権を政府が握っている事実がある。日本の独立回復時に出来上がった仕組みが今もテレビ局を縛り続けている。

 世界を見ると、放送は多くの場合、免許事業となっている。放送の影響力が大きいことと、電波の有限性がその理由とされる。半面、許認可権を政府が握る仕組みは先進国では少ない。

 国会図書館のリポートによると、米国、英国、フランス、ドイツでは放送の規制、監督は政府から独立した機関が担っている。規制機関を運用する経費は税金ではなく、テレビ局から集める免許料が充てられることが多い。政治を放送から遠ざける工夫である。

<監理委の復活目指せ>

 憲法21条は「表現の自由」の保障をうたっている。放送法は第1条で放送の自律を保障し、3条は「番組は…何人からも干渉され」ないと定める。

 放送の自由、自律は民主政治に不可欠だ。政府与党の介入を許してしまう今の仕組みは憲法、放送法の理念に反する。電波監理委を時代に合った形で復活させて、放送を政治の手の届かないところに置くことを考えたい。

《『羽仁五郎の大予言』を読む》(76)

終末論の時代(12)

ジャーナリズムの死(12):戦後の言論弾圧(6)


 1960年代の政府・自民党によるテレビ番組への言論弾圧の実際を具体例で追ってみよう。 政府・自民党が何を恐れていた(勿論現在にも当てはまる)のか、自ずから判然としてくるだろう。

 前々回に書いたように、私はその頃はテレビを見ていないので各番組の内容は知らない。ある程度は番組名から推測できるが、推測できない番組についてはウィキペディアなどから情報を得ることにする。

《政府による弾圧》

1963年11月>
テレビドラマ『判決』
 自民党橋本広報委員長は民放連主催のテレビ番組懇談会で『判決』を「反社会性、階級闘争に結びつき危険だ」と攻撃。それがひびいて、良心的番組と評判の高かったこの番組は前後20回近くの規制を受けた。放送前に一部内容を変更・カットして放送した作品も多く存在するが、放送中止に追い込まれた番組が取り上げた主題は次のようである(ウィキペディアによる)。
「沖縄の子」…沖縄問題。
「女の園」…朝日訴訟(生活保護訴訟)、昭和女子大学事件(退学訴訟)。
「いわれなき垣根」…部落問題。
「老骨」(1963年11月9日放送予定)…税制批判。
「わが道をゆく」(1964年1月8日放送予定)…宇野重吉の出演が取り消され、制作不能となる。
「生きる」(1964年12月16日放送予定)…生活保護行政の不備。
 後日、改めて放送された。
「佐紀子の庭」(1965年5月19日放送予定)…教科書問題。
 脚本に協力した家永三郎は、放送にあわせて教科書問題に関する訴訟の提訴をする予定だったが、本番組の放送中止により、提訴を6月12日に延期した。

1965年5月
『ベトナム海兵大隊戦記』
 第一部が放送された翌日に橋本官房長官から日本テレビ社長に電話があり、第二部、第三部の放送は中止された。

 1967年になると、このようなやり方からさらに進んで、政府が閣議で番組をとりあげて直接干渉するようになってきた。

1967年2月21日
 閣議の席上で小林郵政大臣は、
TBSの『現代の主役・日の丸』
NETの『ウィーク・エンド・ショウ』
が偏向していたとして、郵政当局に立入実情調査をさせ、社の幹部は陳謝した旨の報告をした。
 番組規制とNHKへの監督強化の意向を表明し、閣議はそれを了としたのである。

1967年11月11日
 この日の閣議では、増田防衛庁長官が
TBSの『おはようニッポン』の報道
NHKの終戦記念日放送の座談会『戦没学徒の母』
を問題にして小林郵政相に調査を要求。

1968年3月11日
 閣議で、共同通信やTBSなどの「偏向報道」の処分が協議された。

《自民党による弾圧》

1965年9月
 自民党広報委員会、モニター調査『注目される放送事例 ― 最近の重要問題をめぐって』をまとめ、「マル秘」とされて在京テレビ各社の幹部に送る。
 この文書は、雑誌『宝石』が暴露して世に知られることになった。それは、自民党にとって気に入らない番組にたいする、きわめて組織的な摘発の書であった。たとえばそこではTBSがもっとも強く攻撃されていて、「日韓」、「ベトナム」、「原潜寄港」、「沖縄」、「教科書」、「内閣改造」、「参院選挙」の7項目、48頁にわたって詳細な検討がなされており、ラジオ「報道シリーズ」をはじめ、各種番組が非難の対象とされ、古谷綱正、田英夫、島津国臣、藤原弘達、高橋照明氏らの「偏向的な発言」が批判されている。また、入江徳郎、小幡操、芥川也寸志、藤島宇内、亀山旭氏らの名前が、アメリカの政策に「批判的」であるとしてあげられていた。

 徳本論文は言う。

 このような文書が、どのような効力をもったかは想像にかたくないだろう。事実それは、広報委員会自身が、1966年5月に、
「しばしば話題になった東京放送(TBS)は、最近傾向が変わってきている。これは経営者側の非常な努力があったのだろうと思うが、『報道シリーズ』『ラジオスケッチ』等いわゆる偏向的な番組がだいぶ影を消してしまった。」
と確認しているのである。その際同広報委はつづけてこう指摘した。
「それにひきかえ、最近『文化放送』の朝7時から8時の『キャスター』という時間が偏向的な番組ではないかと取沙汰されている。これは画家岡本太郎、ジャーナリスト奏豊、映画監督大島渚、漫画家手塚治虫、詩人寺山修司、音楽家石丸寛というような人物が出て、曜日をきめて司会しているものである。」

 そしてここでいわれた文化放送の『キャスター』は、それからわずか1ヵ月半後に、担当者6名中、毒舌を知られた岡本太郎、手塚治虫、石丸寛の3人が番組からおろされ、さらに数ヵ月後には番組自体が姿を消したのであった。

 波野拓郎氏(1966年に『知られざる放送―この黒い現実を告発する』という本を出版している)によると、「自民党広報委員会がマークした番組は、必ず出演者が消えるか、番組が"蒸発"する」というジンクスがあるそうであるが、まことにおそるべき状態が生じつつあるといわなくてはなるまい。

 自民党のTBSに対する圧力は、さらにこの後もつづいている。

1967年11月
 自民党、今道社長、島津報道局長を呼びつけ、『ハノイー田英夫の証言』を批難。
 これが、民放界の良心と言われたTBS報道部の崩壊につながっていった。

 波野拓郎氏がジンクスと言っていることを言い換えると、放送局による「自主規制」「自主管理」の普遍化にほかならない。その事実の一つとして「TBS報道部の崩壊」の経緯を追ってみよう。

1966年4月
 ラジオ報道部が解体された。
1968年3月
 『ニュースコープ』のキャスター田英夫氏が突然番組からおろされる。

さらに続けて
 『現代の主役―日の丸』『ハノイー田英夫の証言』のディレクターが配置転換される。
 また、カメラ・ルポルタージュ『成田二四時』が放送中止となり、報道局長ら8人が処分される。

 このTBSにおける人事統制の強化は、その後さらに激化し、同年8月になって243人にのぼる人事異動と機構改革が断行され、そのなかで報道部の解体、婦人ニュースの打ち切りとその司会者来栖琴子氏の配置転換などが行われている。

 この一連の弾圧の過程について、徳本さんは次のように分析している。

 (弾圧の過程が)政財界の圧力とそれに呼応するにいたったTBS首脳陣の体制刷新の意図にもとづいてすすめられたことは、疑いのないところである。事実このあとのTBSの動きはどうであろうか。1969年1月1日、はやくも足立会長はTBS社報における「新春あいさつ」のなかでこうのべている。

 ニクソン新大統領がこれからどのような政策をとっていくか予測できませんが、いままでどおり日米関係が円滑に行くことを念願しております。ことに私は、日米安全保障条約に調印した一人として、調印当時と現在の情勢は少しも変っていないわけですから、日本の安全保障と経済の発展のために、安保条約がこのまま延長していくことを願うものです。
 この趣旨を体してであろう。同年2月1日、TBSは、日本広報センターの制作・提供で、日米京都会議に出席したシェリング、ローエン、佐伯喜一、高坂正堯、神谷不二の各氏出席による『沖縄と安保の将来』を放送し、また、8月20日には、おなじく日本広報センター協賛番組の『かえれ、北方領土』を放送するといったぐあいである。こうした放送体制の背後にある考え方は、TBS社長であり、また民放連の会長でもある今道潤三氏の次のような発言に端的にしめされているのである。すなわち、

 近来、東京放送が、どこかの権力に屈して放送の路線を曲げつつあることを方々で野次っているものがいます。私は大変心外に思う。東京放送は開局以来、いかなる勢力、いかなる権力にも屈したことはない。もし私がそういうことに屈して放送の責任を曲げていかなければならぬのならば、私は即刻社長をやめます。諸君には、個人として、自由なる言論・表現が憲法に保障されておる。しかしこと番組を通じて社会に東京放送が言論・表現を行なう場合には、それに関する限りは諸君の自由はない。東京放送が自由なる言論・表現の権利を持ちそれを行うのであり、番組制作にあたる諸君には個人的自由はないのである。言論・表現の自由を規制する力は時の政府権力に一つはあるが、極右、極左の勢力は言論の自由をとりあげようという目的を持ち、放送は国営にするという綱領を持っている。われわれはそういう路線に協力することはできない。彼等は憎むべき人類の敵である。

 これは新入社員への訓示であるが、最後の部分に関連しては、ほぼ同じ頃、
「共産党や社会党の極左勢力がねらいとしているところは、放送の国営化で民放の存在など認めていない。民間放送をなくすことは、言論の自由を奪うことに通じ、この線につながる民放労連とその翼下の労組に対しては今後断固たる強い態度でのぞむ。」
といっていることをつけくわえておこう。

 会社側のこの威丈高な態度に対し、むろんTBS労組や民放労連はねばりづよい反対運動をつづけてはいる。しかし、人事統制面における"自主管理"体制がひしひしと進行しつつあることは、否めない事実のようである。それはたとえば、
「このような状態の中で、まじめに仕事ができるのはよほどの君子かドレイでしかありません」
といい、
「僕は今のTBSには魅力を感じないのです。同時に、だからといってサヨナラともいえないのです」
と語っている、「不当配転」を受けたテレビ制作者の言葉にも充分うかがうことができる。

 民放界の良心といわれたTBS報道部の解体過程は右のとおりである。これほどドラスチックではないにしても、似たような過程は他の民放局でも進行しているとみるのが順当であろう。

 その当時、「共産党や社会党」が「放送の国営化で民放の存在などを認めない」ことを党是としいたのかどうか、私はつまびらかにしないが、全テレビ局が今道潤三氏の考えるような経営方針を貫徹すれば、全テレビ局が国営放送に堕することは明らかだろう。政府にべったりの連中は論理的に破綻している詭弁を弄して恥じない。いや、政府そのものがとんでもない詭弁を弄して恥じない。現在国会で行なわれている「戦争法」の論戦でのアベコベ政府の詭弁にはまったくあきれかえってしまう。

 ちょっと脱線してしまった。戻ろう。

 では、他の民放局はどうだっただろうか。その一例を挙げると、東京12チャンネルが1965年6月1日の再免許の時に政府から「500名の従業員の半減など」などの恫喝を受けたことを前回取り上げたが、その後、その首切りが実際に行なわれている。
1966年3月
 東京12チャンネル、従業員500人中、200人の大量首切りを強行。

 徳本論文は「ここ5、6年来、民放労働者にかってなかったほどの抑圧の嵐が吹きまくっていることを見落してはならない」と述べ、『マスコミ黒書』(1968年刊 日本ジャーナリスト会編)の一文を引用している。

 67年6月7日民放労連が発表した資料によると、65年以降、放送労働者に加えられた弾圧事件は706件、525人、解雇者の数は実に282人と、かってのレッド・パージ(放送のレッド・パージはNHK119名)をしのぐ規模に達している。そのやり口も、
①ロックアウト、
②警察権力の介入、
③組合指導部の解雇、
④刑事事件のデッチあげ、逮捕、起訴、
⑤アカ攻撃、
⑥分裂工作
等々 ― と多彩で、まさに弾圧のデパートといった感があった。

 テレビ局内部における管理統制は民放局だけではなかった。
1969年7月
 NHK、一挙に300人にのぼる管理職昇格人事を強行して、6.5人に1人を管理職にする。
 これは明らかに上の⑥分裂工作に当たるもので、組合の弱体化をねらった組合弾圧人事である。
《『羽仁五郎の大予言』を読む》(75)

終末論の時代(11)

ジャーナリズムの死(11):戦後の言論弾圧(5)


 郵政省がテレビ放送の許認可権を持ったことが戦後の国家権力によるメディア支配を容易にした根源である。今回からは講和条約調印後の言論弾圧を追うことにする。

1951年
9月8日
 対日講和条約調印
 同時に、日米安全保障条約を締結
9月16日
 法務総裁大橋武夫、法整備方針について談話を出す。
「講和後の法制の整備は、ポツダム政令によったものの多くが立法化されるので、法務府としても鋭意研究している。団体等規正令、追放令は国家公安保障法となるが、このほか、ゼネスト禁止、集会デモ、プレス・コードはそれぞれ単行法となろう。このほか、防諜問題は独立後日本として重大な問題であるので、単行法かもしくは臨時国会に提出を予定している国家安全保障法案に加えていく予定である。これらの立法化は今後の臨時国会に提出する。また現行法の改正としては刑事訴訟法が通常国会で改正されることになろう。」

 この談話のうち、プレスーコードと防諜の立法化は明らかに新聞の報道を制約するものである。日本新聞協会は直ちに大橋法務総裁と岡崎官房長官に対して反対の意向を表明した。

 ところが、間もなく大橋総裁は治安維持法の再現をめざす「団体等規正法案」の要綱を発表した。この法案は、新聞社の解散権まで政府が持つという弾圧法案であった。新聞界からは猛烈な反対の声があがり、さすがの政府も世論に抗しきれず、ついに廃棄となった。

1952年
2月
 法務総裁木村篤太郎、「団体等規正法案」に代わる「特別保安法案」を発表。

 たび重なる暴挙に、新聞界は再び強硬に反対した。

4月
 政府は「特別保安法案」に手を加えた「破壊活動防止法案」(破防法と略記されている)を国会に上提。

 この法案について日本新聞協会は、次のような声明を行なった。
「言論の自由は社会的に重大な危険をおよぼすおそれが明白かつ現実にある場合のほかはみだりに制約すべきではない。将来の危険を予想して言論活動に対し広範あいまいな制限を加えかつその規正を行政機関に委ねるごときは、国民の正しい言論を萎縮させ国政を危くするおそれありと信ずる」

4月28日
 講和条約発効でGHQによる統制撤廃。
 GHQの無線に関する統制が撤廃され、ラジオコード(ラジオ放送の基準)、プレスコード(新聞などの報道機関を統制するための規則)が失効。また、GHQの新聞課も廃止された。
5月1日
 GHQによる取締法規が失効したことを受け、無期限刊行停止中の「アカハタ」が復刊第1号を発行した。

 4月に上提された「破防法」に至るまでの政府の動きは、明らかにGHQによる統制解除をにらんで、それに代わる弾圧法の設定を目指したものである。破防法に対しては、言論界ばかりでなく、知識人や学生などの反対デモがあったにもかかわらず、結局参議院で「暴力を"教唆" "扇動"している『文書の所持』だけでは処罰しない」という修正がなされただけで成立した。

7月21日
 「破壊活動防止法」を公布。
7月31日
 郵政省、初のテレビジョン放送予備免許を日本テレビ網に与える。

1953年
2月1日
 NHK、テレビ放送開始。
8月27日
 日本テレビ網、テレビ放送本免許取得。

 テレビ放送本免許について、徳本論文はその問題点を次のように論じている。

 郵政省は、チャンネル・プランが明確化していないうちに、最初の予備免許を日本テレビにあたえたが、それは、政変を利用した正力松太郎氏を中心とするグループの策略が政治家を動かした結果にほかならなかったのである。このような傾向は、1956年末の、鳩山内閣から石橋内閣への政変時における、6チャンネルから11ャンネルへのきりかえのときにも、また、58年の大量予備免許、67、8年のUHF免許のときにもひきつづきみられたことであって、政治的利権によって電波行政が動かされてきたという事実を見逃すことはできない。このことは、電波管理の体制が、欧米諸国におけるような、時の政府にたいする一定の独自性すらもちえないでいたことを意味する。

 しかも、わが国の場合、放送局は3年ごとの免許更新が義務づけられており、郵政大臣が再免許をあたえなければ放送できなくなるというしくみがあることを見落してはならない。いいかえれば、政府は放送局に対して生殺与奪の権をにぎっているのである。事実、政府は1965年6月1日、再免許の時期にあたって、東京12チャンネルにたいし、500名の従業員の半減など経営と番組面での条件をつけ、その宝刀をちらりと抜いてみせている。各放送局が、政府のおめがねにかなうように、常日頃から気をくばりがちになることは充分に想像されよう。政府→電波管理→放送局規制という、この統制強化を可能にさせる構造にこそ、テレビ・メディアに対する権力統制の条件を見出さなければならない。

 もう一つ、政府・自民党による対テレビの言論統制が新聞社の萎縮をも招いていることにも触れておかなければならない。それは多くの新聞社がテレビ局と同系列の企業であるために起こっている。田中良紹さんの論考「世界とは異なるテレビを見せつけられている日本人」から関連する部分を引用しよう。

 日本のテレビが世界と異なるのは新聞とテレビの系列である。アメリカでは全国紙と全国ネットのテレビが系列化されることを禁じているが、日本ではすべての全国紙とテレビの全国ネットが系列化している。そのため新聞がテレビを批判し、テレビが新聞を批判する事はない。

 さらに言えば、テレビが免許事業であるため、政府権力から免許取り消しの脅しをかけられると系列の新聞社までが脅しに屈する。この異常な形は朝日新聞社が教育専門の放送局であったNET(日本教育テレビ)を系列化し、総合放送局にするよう当時の田中角栄総理大臣に陳情した事から始まる。その結果、毎日新聞とTBS,日経新聞とテレビ東京の系列化が促され、新聞とテレビのもたれ合い関係が完成した。最近では東京新聞だけが政治権力に屈しない新聞社として評価されるが、それは系列のテレビ局を持たない強みから来ているのかもしれない。

 そして自民党がテレビ局に露骨に口出しするきっかけを作ったのはテレビ朝日である。93年の総選挙で初めて自民党が野に下った時、テレビ朝日の報道局長が「政権交代をもたらしたのは田原総一朗と久米宏だ」とバカな自慢をして物議をかもした。それは全く政治を知らないテレビ人の妄想なのだが、これに怒った自民党はテレビ局の報道番組をすべてモニターしていちいちクレームをつける体制を取るようになった。それからは国民の見えないところで常時自民党からテレビ局にクレームが付けられている筈である。

 今回、そのテレビ朝日の番組に対し、官房長官が「放送法」を振りかざして脅しをかけ、それにテレビ朝日が恭順の意を表したことが国民の目に焼き付けられた。それは常時行われている政治権力とメディアの関係が表出した一瞬の出来事である。ゲストコメンテイターが意識的に問題を顕在化させたことで国民は番組の裏側をのぞき見たが、一番組の特異なケースである訳ではない。日本のテレビが世界とは異なる仕組みと考え方を積み重ねてきた結果である事を日本人は知る必要がある。

 「統制強化を可能にさせる構造」はNHKの場合も例外ではない。いや、さらなる統制強化が可能となる要因がある(次の引用文は徳本論文からです)。

 公営企業たるNHKの場合にも、基本的には同様である。むろんそこでは、「公共性と中立性」という看板だけは放棄できない。しかし、最高意志決定機関である経営委員会の任免が、事実上、政府・与党の手によって決定されること、予算や事業計画の承認も、形式的には国会だが実質的には政府・与党の手中にあることを考えてみるなら、NHKが政府に対して弱い存在であることはあきらかである。「不偏不党」であるはずのNHK会長が、自民党の都知事候補にかつぎだされようとしたり、「自民党紹介」がNHK内部ではばをきかしたりしていることは、その一つのあらわれであるといってよかろう。

 1960年代にすでにこのような状況であった。現在、アベコベ政権は、「政府が右というものを左というわけにはいかない」などと口走るような籾井という財界人を会長に据えたり、百田尚樹・長谷川三千子のような極右的思想の持ち主や本田勝彦(日本たばこ産業顧問。安倍が小学生の時の家庭教師だったそうだ)などのお友だちを経営委員会に送り込んで、NHKをアベコベ政権や自民党の御用放送局にしようと躍起になっている。いや、既にそれなりの成果を上げている。小滝一志(放送を語る会事務局長)さんの報告『際立つ「政府広報化」~NHK 政治報道~』が詳細に分析している。
《『羽仁五郎の大予言』を読む》(74)

終末論の時代(10)

ジャーナリズムの死(10):戦後の言論弾圧(4)


 今回からしばらく『・・・大予言』を離れて、戦後の言論弾圧について少し詳しく学習していこうと思う。教科書としては、主として
《教科書1》
 徳本正彦著『日本におけるテレビ・メディアの支配過程』(以下、「徳本論文」と呼ぶことにする。)
を用いるが、その論文の内容を確認・補充する資料として、適時
《教科書2》
 山本文雄編著『日本マス・コミュニケーション史[増補版]』(東海大学出版会)
《教科書3》
 『日本ジャーナリズム・報道史事典』(日外アソシエーツ編集)
を用いる。

追記
 徳本論文を紹介したときに徳本正彦さんを姫路独協大学教授としましたが、その後いろいろ調べた結果、現在は九州大学名誉教授であることを知りました。徳本さんの経歴をまとめている記事には出会わなかったのですが、「早良九条の会」のホームページで、「早良九条の会」の1周年記念総会(2006年10月15日)の講演会で「憲法九条と日本のゆくえ―子どもたちに平和を渡したいー」と題する講演をなさっていることを知りました。


 さて、1953年2月1日からNHKによるテレビ放送が開始された。NHKのテレビ放送開始時のテレビ受信契約数は866台に過ぎなかったが、2年後には20万台を突破し、1967年には2000万台を突破している。1953年8月28日には初の民放テレビ局として日本テレビ放送網が開局した。民放テレビ局も1970年には全国で81局に達している。

 テレビという新しいメディアは速報性というメリットも大きいが、何よりも映像という感覚的な表現が主体であり、人心掌握のための恰好のメディアである。従って、戦後の国家権力によるメディア支配は主としてテレビがターゲットとなっている。

 徳本論文は1971年1月15日に脱稿している。従って、その論文が対象としている時代は1945年から1970年までの25年間ということになる。テレビの登場から1970年までの期間にどのような言論弾圧があったのだろうか。

 私事になるが、私は1960年代はアパートでの一人暮しであり、テレビを持てる経済的余裕はなく、テレビはほとんど見ていない。新聞は職場が置いていた新聞に目を通す程度であった。だから、その頃の政府がメディアの支配のためにどのような圧力・懐柔策を行っていたのかは関心もなく全く知らなかった。このように同時のジャーナリズムについて無知な私なので、このたび徳本論文を読んで、当時も現在の政府と自民党はほとんど同じ手口でメディアにえげつない圧力・懐柔策を働きかけていたことを知ってびっくりした。その圧力・懐柔策をまとめておこうと思ったのだった。

 さて、1952年4月28日に講和条約が発効してGHQによる占領統治が終わり、まがりなりにも日本が主権を回復した。それにともなって、当然のこと、GHQによるメディアに対する統制も撤廃された。では、日本の国家権力によるメディアに対する統制はどのようだったのだろうか。

 上で「まがりなりにも」ということばをあえて付した理由は言うまでもないことと思うが、一言付け加えておこう。現在のアベコベ政権がなり振り構わずアメリカ政府にすり寄っていく姿勢を示していよいよハッキリ明らかになったように、日本は講和条約発効後も今日に至るまで、まるでアメリカの属国だったのだ。講和条約後の日本政府によるメディアに対する統制にもGHQの影響があったのかなかったのか。それを知るためにまず、占領後から講和条約発効までのGHQによるメディアに対する管理・指導がどのようだったのかを知る必要がある(徳本論文にはこのあたりの詳しい記述がないので、教科書2を用いる)。

 1945年9月2日にミズリー号艦上で降伏調印がすむと同時に、GHQは放送を含む一切の無線通信施設を現状のまま保全運用するよう命令した。そして、周波数や出力の割当をGHQへの登録許可制にし、進駐軍向け放送(第三放送)施設を接収した。そしてその後、矢継ぎ早に次のような指令を発している。

9月22日
「日本に与える放送遵則」(ラジオ・コード)
 報道放送は真実に即応し、かつ編集上の意見を取り除いたものでなければならないことを規定し、すべての番組から宣伝上の企図を排除することなどを要求。また、連合国に対する破壊的な批判や連合軍の動静に関する報道を禁じている。

 当時の日本放送協会は、番組内容についてCIE(民間情報教育局)ラジオ課の指導と、CCD(検閲実行機関)の検閲を受けねばならなかった。
 CIEは番組をABCの三段階に分け、
[A]直接内容を指導監督
[B]ゆるやかな事前指導
[C]放送協会にまかす
と分類している。
 CCDは10月4日から原稿の事前検閲を始め、送信別、放送目的、時刻、番組名、題名、放送者名を書き入れた原稿を全文英訳を添えて、放送24時間前に提出を求めた。音楽放送、外国作品の翻訳の場合も同じで、許可になった原稿は一言一句の変更も許されなかった(検閲制は1948年8月に事後検閲となり、1949年8月に廃止となった)。

 一方で、GHQは戦前戦中の国家による言論弾圧の撤廃の指示を出している。

9月27日
 「新聞言論の自由に関する追加措置」
9月29日
「新聞・映画・通信に対する一切の制限法を撤廃の件」
 これによって、長年にわたり放送の自由を拘束していた日本政府の取締りや統制が解除され、放送は政府の支配から離脱して民主化の方向が明示された。

12月11日
「日本放送協会の再編成に関する覚え書」
 この覚書の内容は
「国民を代表する顧問委員会をつくり、その委員会をして会長候補者を選定させるほか、委員会は事業の一般政策事項で会長、理事長に助言を行ない協会再建を考えさせる。放送局の設置、廃止、事業財政の報告、検査のための措置、租税等の一般政策は協会に逓信院総裁の指示を受けさせる」
というものであり、放送の民主化を進めようとしたものであった。

 次いで翌1946年、GHQは逓信院に対し顧問委員会の氏名を示唆した。日本放送協会はそれに基づいて浜田成徳、加藤静枝、滝川幸辰、矢内原忠雄など17名の委員を選び、顧問委員会は高野岩三郎を新会長に推薦した。これを機に戦時中、協会の指導にあたった首脳部は総退陣し、顧問委員会は新陣容で再建に乗り出した。

 浜田成徳という方以外はよく御目にかかる人たちだ。GHQの人選はすばらしいと思う。特に会長になった高野岩三郎さんは以前このブログで取り上げている。関連記事を「高野岩三郎」と題して改めてまとめてみた。興味がありましたらどうぞ。
 なお、浜田成徳さんは全く存じ上げない方なので検索してみた。懐かしいサイトに出会った。「昭和の抵抗権行使運動」のときにずいぶんとお世話になった「れんだいこ」さんだ。いま書いている記事とも大いに関係ある「地方民放テレビ36局の大量一括予備免許の一挙認可」という記事で取り上げられていた。興味のある方はどうぞ。


 しかし、高野会長のもとに再出発したばかりの協会は、1946年10月、わが国最初の放送ストライキの発生により異常事態に直面した。これは通信放送労働組合のゼネスト指令によるもので、10月5日に電波は完全に止まる。翌6日にはニュース、天気予報の最小限の放送を確保するために、逓信大臣一松定吉は逓信省に臨時放送国家管理部を設け、放送の国家管理を断行した。強硬をきわめた従業員組合も、高野会長の就業勧告によって25日ストを中止し、21日間にわたる国家管理を終えた。

1946年11月
 GHQは放送法の立法準備を命じ、逓信省に臨時法令審議会が設置された。

1947年10月
 GHQの民間通信局は日本の放送形態について次のような示唆を提示している。
(1)
 放送は政府や政党から独立した自治機関とし、NHKの運営面、放送の免許、監督は新設の電波管理委員会が行なう。
(2)
 民間放送の設立を認めること。
(3)
 放送の自由、不偏不党、公衆への奉仕の責任、技術基準の四原則の確立。
(4)
 テレビ、FM、ファクシミリなどNHKが経営することを禁止し、これらを民間放送にまかせること。

 これが電波三法(電波法、放送法、電波管理委員会設置法)のもととなった。この趣旨にそって、逓信省はこの提言を下敷きに法案の作成を進めた。

 電波三法のねらいは、政府の監督権を最小限に制限して放送事業者の表現の自由を守ること、民間放送を認めて表現の多様性を確保することであった。また、政府は電波は国家のものという考え方を固執していたが、GHQは電波は国民のものという信条に立っていたので、電波行政を政府の監督下に置くことに同意しなかった。このような意図を実現するために、政府とは別個の独立委員会である電波管理委員会の設置が盛り込まれた。この電波管理委員会法には時の首相・吉田茂が強く反対していたが、それをおさえて、電波三法は1950年4月に第七国会で成立した。しかし、電波管理委員会は講和条約が発効した1952年8月に、わずか2年で廃止された。

 ここまでの放送行政の経緯をまとめて、徳本論文は次のように論評している。

 戦後の混乱期の下で、日本の放送人たちやさらには放送行政にたずさわる人びとは、目先の状況に追われて、電波の将来、とりわけテレビ時代の到来を充分に予見することができなかった。放送をになう人びとの自主性や主体性の確立こそ、今にしておもえば焦眉の急であった。しかし、そのような、いってみれば下からの態勢がほとんど整わないうちに、占領軍の手によって電波三法は成立し、政治が事態を先取りするかたちで、戦後の放送界はスタートしたのだった。権力統制下に管理行政が左右される素地は、そもそも最初から胚胎していたとみるべきだろう。

(中略)

 (GHQは)一時、民主化を進めようとしたこともあったが、結局、NHKの組織そのものには充分なメスをふるわないうちに、NHKストを契機に国家管理体制がつよめられていったのであった。西ドイツのそれが、機構的にほとんど解体を強いられたのに較べれば、日本の場合には、番組編成面での制約はなされたものの、組織の内部にはほとんど手がつけられなかったのである。なによりもそこでは、組織内の徹底した民主化が必要であったにもかかわらず、それが充分に行われないまま、中央集権的な機構が残り、戦前に飼いならされた人間集団が管理的地位を踏襲していったということ、そこに、権力にたいして毅然たる態度をとりえない体質が残された理由があった。このことは、制度の上では、電波監理委員会のあっけない崩壊というかたちであらわれている。

 せっかく発足した電波管理委員会が廃止されて以後、電波行政は郵政省(1949年6月1日 逓信省を電気通信省と郵政省の二省に分離設置された)の所管となり、新たに電波管理審議会が設けられ、この審議会が郵政大臣の権限行政に関与することになった。