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《『羽仁五郎の大予言』を読む》(71)

終末論の時代(7)

ジャーナリズムの死(7):戦後の言論弾圧(1)


 大日本帝国時代の言論弾圧の悪法の親玉「治安維持法」は敗戦直後の1945年10月15日にGHQの命令により廃止された。また同時に、その法律による弾圧先鋒をになった冷酷な執行者「特別高等警察」も解散を命じられた。さらに、新聞・書籍に対する弾圧法(新聞紙法・出版法)も1949年5月24年に廃止された。

 では、敗戦後の日本国では言論は自由になったのか。否否、大日本帝国の弾圧法はなくなったが、GHQによる弾圧が行われている。当初は占領政策の批判や軍国主義的な発言に対する検閲,統制を実施していたが、冷戦が本格的になってきた1950年以降は共産主義に対する弾圧(レッドパージ)が徹底された。レッドパージは7月28日には新聞・通信・放送にまで及んでいる。そして、GHQによる事前検閲や事後検閲は6年8ヵ月にわたる占領期間を通して行われた。

 では、サンフランシスコ講和条約が発効(1952年4月28日)し、主権が回復した以降の新生日本における言論の自由はどのようであっただろうか。新聞法や出版法のような政治権力によるあからさまな弾圧法は作られなかったが、政治権力による脅しや懐柔策は時に応じて行使され続けてきた。この手の言論弾圧は現在のアベコベ政権や自民党に限ったことではない。もう一つ、右翼による暴力をともなった脅しも挙げておくべきだろう。右翼の脅しは自民党政権の言論弾圧の先鋒役を果たしている。その結果、一部のジャーナリズムは「政治的中立」というまやかしの大義名分を身にまとって、萎縮し続けてきた。

 『・・・大予言』に戻ろう。「監獄へ(INTO JAIL)」は羽仁さんと矢崎さんの対話をそのまま掲載して締めくくられている。その対話は1974年11月に行われているが、そのころのジャーナリズムをめぐる様子が語られていてるが、現在のジャーナリズムの状況に対する予言にもなっている。この対話を全文紹介することにする(時々、私の解説・感想を挿入します)。

矢崎
 この一年間、上野の本牧亭で、毎月一回「巷談の会」というのが開かれていたのです。参院選の直後に、驚いたことに赤尾敏が出演したんです。その日は百人以上の客が入っていて、本牧亭では大入りだったわけですが、彼の演説はなかなかうけていたようでした。喝采を浴びて楽屋に帰ってきたんですが、そこに読売新聞の記者がいて「先生、大変感激しました」つて何回も握手しているんですね。ぼくは正直びっくりした。この会のプロデュースをやっている伊藤公一が、ぼくを赤尾敏に紹介した。名刺を交換したあと、彼がすっと手を出したんです。ぼくは、そこで「あなたとは握手しない」と断ったんですよ。

羽仁
 ほう。

矢崎
 ぼくは赤尾敏を許せないんです。あの人は日本の歴史を変えた。民主主義を守っていこうという世の中なのに、言論をもってそれをせずに、17歳の少年のテロで社会党書記長の浅沼稲次郎を暗殺した。ぼくにとっては彼の手は汚れて見える。

羽仁
 それはかなり勇気のいる発言なんだ。当り前のことをいっているのだが、多くのジャーナリストは、黙ったままだ。
矢崎
 とにかく、彼のあとでぼくは舞台にあがって、赤尾敏に拍手を贈った聴衆にいったのです。ぼくは右翼の言論だって、弾圧してはならないと思っているが、あなたたちは赤尾敏を許すことができるのか。彼の本質を知って拍手しているのか。そうたずねたのです。よくはわからないけど、長期保守政権の日本で、彼が果たしてきた役割りというのは、かなり大きなウェイトを占めてきたような気がするんです。何となく彼を許している日本の社会が、ぼくには恐ろしいような気がします。

 元大日本愛国党党員・山口二矢(やまぐちおとや 当時17歳)による浅沼稲次郎暗殺は1960年10月12日だった。さらに、1961年2月1日には大日本愛国党党員・小森一孝(この少年も当時17歳)による嶋中事件(「風流無譚」事件、中央公論社長宅襲撃事件とも、呼ばれている)が起きている。この事件では赤尾敏も殺人教唆・殺人未遂教唆などの罪で逮捕されたが、証拠不十分で不起訴となっている。

羽仁
 日本のマスコミが右翼の暴力といったものにかなり弱い体質であることは疑いもない事実なんだ。これまでに君は右翼から何か妨害を受けたようなことはなかったのか。

矢崎
 いやがらせ程度のことは再三ありましたが、実際に襲われたことは、9年くらい前に一度だけあります。それは『話の特集』を創刊した年でしたが、映画監督の篠田正浩の「紀元節復活に反対する」という原稿を掲載しました。原稿そのものより、横尾忠則の描いたイラストレーションが、菊の御紋章に女の子がオシッコしてるという、かなり具体的な表現だった。突然、会社へ入ってきた男が「責任者は誰だ!」とドスを持って叫んだんです。そこに居合わせた全員がぼくを見たものだから、ツカツカとぼくの前へやってきて「お前は非国民だ。不敬言動審議会の名において、お前を裁判する」つていうんですね。無茶苦茶な話なんですよ。

羽仁
 どういった団体なのかね。

矢崎
 よくわからないんですが、なんでも裁判所は茅ケ崎にあるといってました。で、ぼくはとてもついて行く勇気はないから、丁寧に理由をたずねたんです。でも刃物があるから、いつどうされるかひどく不安でした。とにかく、ぼくは古い教育を受けているから、天皇についての知識はかなりある。相手が若そうなので、いろいろ天皇についてたずねてみたんですよ。すると、あんまり知らないんですね。ぼくが歴代の天皇の名前をジンム、スイゼイ、アンネイ、イトク、コウショウ、コウアン、コウレイ、コウゲン、カイカ、スジン、スイニンというふうにずっとあげていったら、感心してくれましてね。そのあとは和やかな話し合いになったんです。結局、脅されてる側の方が、脅してる側よりも天皇について知識が豊富だということになって、ことなきを得たんです。

羽仁
 それは貴重な体験だよ。

矢崎
 そう思います。でも、このときわかったんですが、好むと好まざるとにかかわらずジャーナリズムというのは、あらゆる言論の場があっていいということです。つまり、右翼も左翼も、その言論においては等価値だということなんです。選択はそれぞれの人がすればいい。でも、ぼくにはぼくなりの姿勢があって、それを雑誌に反映させるには、やはり、トラブルを恐れていたのでは何ひとつできなくなってしまうんです。

羽仁
 まったくその通りだよ。だけどそれがなかなかできない。そのために新聞に代表されるジャーナリズムが堕落するんだよ。

 不敬言動審議会という団体について知りたいと思って、ネット検索をした。二件ヒットした。一つは、なんと1967年4月20日の「第055回国会 予算委員会第一分科会 第2号」の議事録だった。社会党の猪俣浩三衆議院議員がその質疑のなかで、学者や文化人に対する右翼団体の「いやがらせ、おどし、面会強要、呼び出しなどが執拗に行なわれている事実」を取り上げている。それに対する政府側答弁のなかで、赤尾敏の大日本愛国党と、もう一つ「大日本殉皇会」という右翼団体が取り上げられていた。この団体が不敬言動審議会を取り仕切っていた団体だった。政府の答弁によると、この団体は1961年1月に神奈川県大磯町で、小早川貞夫という者が会長となって設立されている。「天皇を、現人神と仰いで、皇国を害する一切の勢力を討滅することを信条として」いるそうだ。

 もう一つのヒット資料は「日本におけるテレビ・メディアの支配過程」と題する徳本正彦・姫路独協大学教授(政治学者)の論文だった。目下私が課題にしている戦後の言論弾圧を論じている。ざっと見たところ、私にとって格好のとても良い論文である。ゆっくり読んでみることにした。とりあえず、今問題にしている不敬言動審議会についての部分を引用しておこう。徳本さんは、自民党による言論弾圧を論じた後で、次のように続けている。

 さらにまた、こうした規制とならんで、右翼団体による圧力工作がつよまってきつつあることも見逃してはなるまい。すでにかなり前から、これら団体の一部では、社会性をおびた番組については、放送のたびごとに電話や投書によるいやがらせが行われてきているようだが、その動きは最近とくに目立ってきているようである。たとえば1967年11月、日本テレビの『日ソ五十年、戦争と平和』には、佐郷屋嘉昭氏(注:血盟団事件の中心人物だったそうだ)をふくむ右翼団体が公然と圧力をかけているし、69年5月には、大日本殉皇会不敬言動審査会なるものの代表が、おなじく日本テレビにたいし、同社の隅井孝雄氏の解雇を申し入れるという事件さえ起っている。後者の理由は、隅井氏の論文「教育統制下の放送」(『教育評論』4月号)が天皇を侮辱したということであった。言論機関に言論の自由を否定することを、ファッショ的団体が公然と要求しはじめているという事実は、それを許すような条件が生まれてきているということにほかならない。げんに、右翼にどなりこまれてから右翼問題はタブーになったというような事例は、7・8年も前から報告されているのである。こうした右翼による言論統制の策動が、ファッショ化への前ぶれでないとどうしていえようか。このような動きをいわば尖兵として、テレビ・メディアにたいする政治支配は、国民の眼にみえないところで、思いのほかにすすんできているのである。

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