2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《『羽仁五郎の大予言』を読む》(73)

終末論の時代(9)

ジャーナリズムの死(9):戦後の言論弾圧(3)


 前回冒頭の引用文の続きに戻ろう。

羽仁
 この間の戦争のことを知っている人間は、あれを繰り返すようなことをしてはだめだということだけは忘れて欲しくないんだ。
(中略)
 『神奈川新聞』の10月25日付の投書欄にこんなことが書いてあった。ちょっとそれを読んでみよう。
《どちらが真実なのか ― 戦争中航空隊にいたとき、よく機内のラジオで外国の放送をきいた。毎日、部隊で公けにきいていることと正反対のことばかりなので、それらはすべて信じられないことばかりだった。だが残念なことに、戦争が終ってはじめて、デマだといわれた放送の方が正しかったことがわかった。最近の出来事にも、ふとその当時を思い出さすような予感がしてならない。それは、米軍の核持込みに対する政府の態度である。日本でいわれていることと、外国でいわれていることと、まるで正反対であり、まったく昔そのままだからである。戦争中に青年期をすごしたものとしての反省のひとつに、権力者のいうことに盲従することは罪悪だということがある。これは、疑うということではなく真実を求めるということである。民主主義の今の世の中に、なぜ政治家は知る権利を放棄し、真実に目をふさがせようとするのだろうか。主権は国民、聞く側にあるというのに。》
 川崎市の50歳になる社会保険労務士、塩田敏一という人が寄せているんだが、これは国民多くの実感じゃないかと思うんだよ。
 先日、テレビで村松剛君と出会ったんだが、そのとき彼が「羽仁さんは言論に対して責任を持たない立場だから、そういう人と討論しようとは思わない」というふうなことをいうんだよね。これは戦前とまったく同じなんだ。ぼくが絶えずいうんだけど、ギリシャの諺に"言論が害をなすということはない"というのがある。つまり言論というものは、人がそれを聞いて、それによって行動するかしないかは、その人が決めることなんだよ。現に、国会の憲法に準ずる基本的な法律には国会議員が国会の中で討論したその言論について、その議員は責任を問われることはないというのがある。それが議会政治の根本なんだよ。その言論ということに責任を問われることになれば、誰も怖くなってものがいえなくなってしまうんですよ。『神奈川新聞』の投書にみられるように、日本で再び恐怖や暗黒の中に国民を追いやっていく状態がきそうでならない。恐ろしいと思えば、何も見えなくなっちゃうし、誰にもさからえなくなっちゃうんだよ。
 今、テレビでやってる子供の歌に「お化けの歌」というのがある。夜、寝ようとしたら、隅っこの方に黒いお化けが出て、だんだんそれが大きくなってくる、そういうときは電気をつけてごらん、お化けはいなくなっちゃうという歌なんだ。この歌が、今、テレビで子供向けに流されているということが、ぼくにはある意味で現代を象徴しているように思うんだな。みんな、その暗闇のお化けにおびえている。だけど、電気をつけてみれば、そんなものはいないことがわかる。その電気というのが言論なんだよね。

矢崎
 いい話ですね。

羽仁
 ところが、スイッチは入れるけど電気はつかない。NHKにしても、朝日、毎日、読売にしても、どの言論機関も、自分で言論の使命を否定するようなことばかりやっている。ポルノ問題にしてもそうなんだ。『ニューヨーク・タイムズ』に『時計じかけのオレンジ』の作家が論文を寄せて「ポルノというものに対して、あらゆる権力による規制をすべきではない」と発言しているという話は前にしたが、なぜならば、これは読んでいい、読んではならないというふうに政府、つまり権力側が決めることは、国民が何を読んでいいのか、自分で決定することができなくなってしまう。こんな恐ろしいことはないんだよ。われわれは人間である以上、何を読み、どう判断するかを、自分自身で決めなくては、生きている意味がなくなってしまう。自分で決める能力を失ってしまうことほど恐ろしいことはないんだ。一度この能力をなくしたら、なかなか回復できないんだよ。

矢崎
 回復しようにも、何もそこになくなってしまっているような状況だって考えられますね。たしかに、それからでは遅い。

羽仁
 田中角栄が、あの『文藝春秋』の記事で反省してくれればいいが、恐らくそうはしない。それよりもっと悪い状態にもっていこうということが、すでに決意されているのじゃないか。国民を恐怖の暗黒の世界の中に閉じ込めてしまう。誰も何もいえない状態をつくろうとしているに違いないんだ。こんな時に、奇しくも新聞がかかげた標語に、ぼくは天を仰いで嘆息したよ。

矢崎
 「新聞が守るなんでも言える国」ですね。

羽仁
 そう。その新聞は何もいっていないじゃないか。何もいえない新聞が、こんな標語を出すなんて、ヒットラーのやったことより、もっとひどいデマゴギーだね。この標語が必要なのは新聞自身なんだよ。

矢崎
 新聞だけでなくジャーナリズム全体にいえることですね。テレビのディレクターやプロデューサーが先日集会をやったんです。とにかく今のままではテレビがだめになるということで、テレビマンたちが集まった。その席上韓国のマスコミ関係者で、追放されている人が発言したんですが、つい5年くらい前までは、韓国ほど言論の自由が保障されている国はないと思っていたというんです。ところがその自由の中で何をしたかといえば、自主規制だったんですね。新聞も放送も、現場の人たちが、これはいわない方がいい、あれはやらない方がいいと勝手にワクをつくっていたというんです。つまり、小さな規制が、現在のような手も足も出ないような状態をつくってしまったのだと述懐していました。

羽仁
 そうだ、それがさっきいったことなんだ。権力のやる干渉の先取り。そこから崩れてくる。

(中略)

矢崎
 今こそ本当の新聞が欲しいといいたいですね。

羽仁
 誰もがそう思っているんだ。標語なんかより、態度で示してもらわなくては、本当に困ることになるんだよ。"監獄へ"、これを旗印にしてやってもらわなくては、何もできやしないよ。

 羽仁さんは「日本で再び恐怖や暗黒の中に国民を追いやっていく状態がきそうでならない」あるいは「NHKにしても、朝日、毎日、読売にしても、どの言論機関も、自分で言論の使命を否定するようなことばかりやっている」と、ジャーナリズムの現状について強い危惧を示しているが、その当時(この対話は1974年11月に行われている)は既にそのような状況だったのだろうか。正直言って、当時の言論弾圧についての知識がほとんどない私には実感がわかなかった。しかし、前々回紹介した論文「日本におけるテレビ・メディアの支配過程」を今読んでいるが、当時既に羽仁さんが危惧するような状況だったことがよく分ってきた。少し長くなりそうだが、何よりも私自身の勉強のために、次回からこの論文を用いて戦後の言論弾圧の実態を追ってみようと思った。
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《『羽仁五郎の大予言』を読む》(72)

終末論の時代(8)

ジャーナリズムの死(8):戦後の言論弾圧(2)



矢崎
 ついでにいってしまうと、近ごろの新聞には非常に疑問を持っているんです。爆弾事件の直後、「朝日新聞」の「天声人語」で、いわゆる爆弾教本が市販されているのはけしからん、すぐ取り締まれという驚くべき発言が載っていましたが、あれは自ら言論の自由を放棄してるとしか思えません。『朝日新聞』が自殺行為の模範を示しているようなものです。その影響がウニタ書舗の『栄養分析表』押収という形でたちまち出てきています。日本ではとにかく誰かが警察に捕まるとか、家宅捜査を受けると、まるで犯罪者扱いされる。羽仁さんのおっしゃるINTO JAILが、日本では監獄へ行く者イコール悪人ということになってしまう。新聞の扱い方がひどすぎる。例えば、太田竜氏が手配されて、小田原署に自首したとき、まるで重大犯人が捕まったように新聞は書きたてています。しかも、どの新聞も「ふてぶてしい」とか「うそぶいていた」とか「不敵な笑みをもらしていた」とか、新聞記者の頭の程度を疑いたくなるような書き方をしている。この種の表現は新聞にはザラにあるんですね。

羽仁
 自分がジャーナリストであるという自覚がなさすぎるんだよ。

矢崎
 『朝日ジャーナル』の川本記者、『プレイボーイ』の春日原記者、そして『毎日新聞』の西山記者など、いわゆる逮捕されたジャーナリストの例をみても、捕まると新聞も週刊誌も黙ってしまう。一人が監獄へ入ると、その人を犠牲にしてしまうようなところがある。ジャーナリストの自覚も大切ですが、マスコミの体質に大きな問題がありそうですね。ぼくをでたらめな記事で誹謗した『週刊現代』なども、ひとつのあらわれだと思うんです。

 矢崎さんの談話に出てくる事件について、簡単に注記しておこう。

爆弾事件
 1969年から1971年にかけて、東京都内で発生した4件の爆破殺傷事件で、「土田・日石・ピース缶爆弾事件」と呼ばれている。18名が逮捕・起訴されたが、全員が無罪になっている。

太田竜の自首
 1974年8月30日三菱重工爆破事件を皮切りに、「東ア反日武装戦線」による連続企業爆破事件が起きた。その事件を起こした集団の教本は「腹腹時計」と呼ばれている。太田竜は「腹腹時計」の作者であり、「東ア反日武装戦線」の指導者だという容疑で手配されていた。それに対して太田竜が「自分が爆破犯として手配されてると知って、潔白を晴らすべく出頭」したのだった。捜査の結果「太田竜の理論が爆破犯に利用されたが、本人は関係なし」ということで釈放されている。

『朝日ジャーナル』の川本記者
 1971年8月21日に起きた朝霞自衛官殺害事件に関わったとして、1972年1月9日に証拠隠滅罪容疑で逮捕され、9月27日に懲役10ヵ月執行猶予2年の有罪判決を受けた。

『プレイボーイ』の春日原記者
 上の事件で川本記者をかくまった容疑で同日に逮捕されている。1974年10月29日に懲役8月執行猶予2年の有罪判決を受けた。

『毎日新聞』の西山記者
 沖縄返還協定に際し、地権者に対する土地原状回復費400万ドルを、実際には日本政府が肩代わりして米国に支払うという密約をしているとの情報を外務省の女性事務官から得た西山記者が、その情報を日本社会党議員に漏洩したとして、逮捕された事件。女性事務官は懲役6月執行猶予1年、西山記者は懲役4月執行猶予1年の有罪判決を受けている。
この事件は現在にまで尾を引いている。少し長くなるが、その後のことをかいつまんで記録しておこう(ウィキペディア「西山事件」を利用しています。きめ細かい見事な記録です)。

2000年5月
 アメリカ国立公文書記録管理局で、25年間の秘密指定が解かれた公文書類の中に、密約を裏付ける文書が発見された。
 この密約をめぐる訴訟は現在まで延々と続いているが、政府は一貫して密約はなかったと嘘を言い続けた。しかし
2009年12月1日
 密約訴訟で、それまで政府の意向に沿って密約を否定してきた吉野文六元外務省アメリカ局長が、「過去の歴史を歪曲するのは、国民のためにならない」と、これまでの発言を撤回して、密約が存在する事実を証言した。
 すると政府は今度は破廉恥にも、「文書はあったが廃棄済みで存在しない」と新たな嘘を言い張り続けて臆面もない。
2010年4月9日
 密約訴訟判決。東京地裁(杉原則彦裁判長)は「国民の知る権利を蔑ろにする外務省の対応は不誠実と言わざるを得ない」として外務省の非開示処分を取り消し、文書開示(本当に存在しないなら“いつ”“誰の指示で”“どの様に”処分されたのかも)と原告一人当たり10万円の損害賠償を国に命令。西山は文京区民センターでの講演『知る権利は守られたか』でこの判決を「歴史に残る判決」と評価し、「われわれが裁判を起こして今回の判決を導き出していなければ、外務省の外部有識者委員会による報告書が密約問題に関する唯一の解明文書となり、国民の知る権利は封殺されていただろう」と述べた。
2011年9月29日
 密約情報開示訴訟控訴審、原告逆転敗訴。判決趣旨
「政府が文書はあったが廃棄済みで存在しないと言っているからそれを信じるしかない」
原告側は上告。また外務省に対し公開質問状を提出、回答を要求。
 この事件についても、最高裁は政府べったりの最低裁の本領を発揮している。ウィキペディアが記録している最後の裁判は次の通りである。
2013年12月13日
 政府が特定機密指定した事項について最長60年の開示保護を行い、内容を探知し公表した者を処罰する「特定秘密の保護に関する法律」(特定秘密保護法)が制定される。
2014年7月14日
 密約情報開示訴訟上告審判決で、最高裁第二小法廷は上告を棄却し、密約文書を不開示とした政府の決定を妥当だとする判断を下した。
 これが「特定秘密保護法」という悪法が論拠となった最低裁による最初の判例のようだ。

 羽仁さんと矢崎さんの対話は最後に裁判についての批判を語っている。順序を変えてその部分を引用しよう。なお、矢崎さんの談話の中に「八海(やかい)事件」が出てくるがその事件はおおよそ次のような事件である。

 1951年に山口県熊毛郡麻郷村(おごうむら)八海で発生した強盗殺人事件。5人が逮捕され、拷問による自白で全員有罪となったが、のちの裁判で被告人5人のうち4人が無罪になっている。

羽仁
 実際、最近の最高裁のあり方は恐ろしいの一語に尽きる。北海道の猿払の郵便局の人たちが勤務外の時間に、野党のポスターをはったというのが有罪になったんだ。はっきりいって「表現の自由」「思想の自由」っていうのは憲法上の権利だよね。公務員法というのは、ひとつの法律にすぎない。法律によって、憲法で定められた権利か制限されるというのは戦前の状態なんだよ。帝国憲法の時代でも、表現・結社の自由はあったが、まったく許されてはいなかった。歴史は繰り返されるというが、繰り返されはしないんだ。前に較べたら百倍も千倍もひどい状態になるだけなんだよ。

矢崎
 疑わしきは罰せずどころか、疑わしくないものまで罰してしまう。裁判はかなり悪くなってきていますね。八海事件に題材をとった『真昼の暗黒』という映画がありましたが、ラストシーンで有罪判決を受けた被告が「まだ最高裁があるんだ」と叫ぶ。あそこで観客はホッとしたものだけど、今やその叫びは空しくなってしまった感が強いですね。

羽仁
 下級裁判なんていうけど、第一審で若い裁判官が良心的に出した判決が、最高裁へいくとレベルの低い判決で覆されてしまう。だから、下級審なんていう呼び方をするなら、最高裁こそ最下級なんだよ。憲法の権利が、国家公務員法で制限されてしまう世の中なんだ。しかし、戦前になかったと思うのはね、今の学生なんかを救援している救援連絡センターが出した『フレームアップと黙秘』というパンフレットがある。どういうことが書いてあるかというと、
第一章、デッチ上げ事件の構造的な特徴
第二章、暗黒の取り調べ
第三章、屈服・誘導・迎合
第四章、なぜ黙秘が必要なのか
第五章、弾圧に対する心得
 第五章は
一、逮捕
二、任意出頭
三、家宅捜索
というふうになっている。こういうパンフレッ卜が出てくるのは、圧迫が誰かに向ってなされるのではなくて、今やみんなの問題になってきているからなんだね。やっぱり、誰かひとりが暗黒に引きずり込まれてしまったときに、それを救う方法は、いつ自分に襲いかかってくる暗黒かもわからないという恐怖を感じることなんだよね。

 羽仁さんの「憲法の権利が、国家公務員法で制限されてしまう世の中」という指摘について一言付け加えておこう。東京都で始まった「日の丸・君が代の強制」は教育委員会が出した一片の通達に過ぎない。その通達にも「公務員(公立学校の教員)は法に従え」という論理が使われている。これまでにも何度か紹介しているが、美濃部亮吉さんの言葉を再録しておこう。羽仁さんと全く同じ見識を語っている。

『仮に通達と法律とが矛盾しあうならば、法律に従うべきであり、法律と憲法が矛盾している時は、憲法に従うべきであるというのが私の行政官としての判断である。』

 なお、これも既に何度か採り上げた問題であるが、「日の丸・君が代の強制」関係の裁判の一つである「予防訴訟」について触れておこう。この裁判の第一審では上の美濃部さんの言葉と同じ趣旨の原告全面勝訴の判決が出されたが、都が控訴して行われた東京高裁裁判では真逆の判決が出された。さらに続けられた上告審で、最高裁は上告を棄却して最低裁の面目(?)を保っている。
《『羽仁五郎の大予言』を読む》(71)

終末論の時代(7)

ジャーナリズムの死(7):戦後の言論弾圧(1)


 大日本帝国時代の言論弾圧の悪法の親玉「治安維持法」は敗戦直後の1945年10月15日にGHQの命令により廃止された。また同時に、その法律による弾圧先鋒をになった冷酷な執行者「特別高等警察」も解散を命じられた。さらに、新聞・書籍に対する弾圧法(新聞紙法・出版法)も1949年5月24年に廃止された。

 では、敗戦後の日本国では言論は自由になったのか。否否、大日本帝国の弾圧法はなくなったが、GHQによる弾圧が行われている。当初は占領政策の批判や軍国主義的な発言に対する検閲,統制を実施していたが、冷戦が本格的になってきた1950年以降は共産主義に対する弾圧(レッドパージ)が徹底された。レッドパージは7月28日には新聞・通信・放送にまで及んでいる。そして、GHQによる事前検閲や事後検閲は6年8ヵ月にわたる占領期間を通して行われた。

 では、サンフランシスコ講和条約が発効(1952年4月28日)し、主権が回復した以降の新生日本における言論の自由はどのようであっただろうか。新聞法や出版法のような政治権力によるあからさまな弾圧法は作られなかったが、政治権力による脅しや懐柔策は時に応じて行使され続けてきた。この手の言論弾圧は現在のアベコベ政権や自民党に限ったことではない。もう一つ、右翼による暴力をともなった脅しも挙げておくべきだろう。右翼の脅しは自民党政権の言論弾圧の先鋒役を果たしている。その結果、一部のジャーナリズムは「政治的中立」というまやかしの大義名分を身にまとって、萎縮し続けてきた。

 『・・・大予言』に戻ろう。「監獄へ(INTO JAIL)」は羽仁さんと矢崎さんの対話をそのまま掲載して締めくくられている。その対話は1974年11月に行われているが、そのころのジャーナリズムをめぐる様子が語られていてるが、現在のジャーナリズムの状況に対する予言にもなっている。この対話を全文紹介することにする(時々、私の解説・感想を挿入します)。

矢崎
 この一年間、上野の本牧亭で、毎月一回「巷談の会」というのが開かれていたのです。参院選の直後に、驚いたことに赤尾敏が出演したんです。その日は百人以上の客が入っていて、本牧亭では大入りだったわけですが、彼の演説はなかなかうけていたようでした。喝采を浴びて楽屋に帰ってきたんですが、そこに読売新聞の記者がいて「先生、大変感激しました」つて何回も握手しているんですね。ぼくは正直びっくりした。この会のプロデュースをやっている伊藤公一が、ぼくを赤尾敏に紹介した。名刺を交換したあと、彼がすっと手を出したんです。ぼくは、そこで「あなたとは握手しない」と断ったんですよ。

羽仁
 ほう。

矢崎
 ぼくは赤尾敏を許せないんです。あの人は日本の歴史を変えた。民主主義を守っていこうという世の中なのに、言論をもってそれをせずに、17歳の少年のテロで社会党書記長の浅沼稲次郎を暗殺した。ぼくにとっては彼の手は汚れて見える。

羽仁
 それはかなり勇気のいる発言なんだ。当り前のことをいっているのだが、多くのジャーナリストは、黙ったままだ。
矢崎
 とにかく、彼のあとでぼくは舞台にあがって、赤尾敏に拍手を贈った聴衆にいったのです。ぼくは右翼の言論だって、弾圧してはならないと思っているが、あなたたちは赤尾敏を許すことができるのか。彼の本質を知って拍手しているのか。そうたずねたのです。よくはわからないけど、長期保守政権の日本で、彼が果たしてきた役割りというのは、かなり大きなウェイトを占めてきたような気がするんです。何となく彼を許している日本の社会が、ぼくには恐ろしいような気がします。

 元大日本愛国党党員・山口二矢(やまぐちおとや 当時17歳)による浅沼稲次郎暗殺は1960年10月12日だった。さらに、1961年2月1日には大日本愛国党党員・小森一孝(この少年も当時17歳)による嶋中事件(「風流無譚」事件、中央公論社長宅襲撃事件とも、呼ばれている)が起きている。この事件では赤尾敏も殺人教唆・殺人未遂教唆などの罪で逮捕されたが、証拠不十分で不起訴となっている。

羽仁
 日本のマスコミが右翼の暴力といったものにかなり弱い体質であることは疑いもない事実なんだ。これまでに君は右翼から何か妨害を受けたようなことはなかったのか。

矢崎
 いやがらせ程度のことは再三ありましたが、実際に襲われたことは、9年くらい前に一度だけあります。それは『話の特集』を創刊した年でしたが、映画監督の篠田正浩の「紀元節復活に反対する」という原稿を掲載しました。原稿そのものより、横尾忠則の描いたイラストレーションが、菊の御紋章に女の子がオシッコしてるという、かなり具体的な表現だった。突然、会社へ入ってきた男が「責任者は誰だ!」とドスを持って叫んだんです。そこに居合わせた全員がぼくを見たものだから、ツカツカとぼくの前へやってきて「お前は非国民だ。不敬言動審議会の名において、お前を裁判する」つていうんですね。無茶苦茶な話なんですよ。

羽仁
 どういった団体なのかね。

矢崎
 よくわからないんですが、なんでも裁判所は茅ケ崎にあるといってました。で、ぼくはとてもついて行く勇気はないから、丁寧に理由をたずねたんです。でも刃物があるから、いつどうされるかひどく不安でした。とにかく、ぼくは古い教育を受けているから、天皇についての知識はかなりある。相手が若そうなので、いろいろ天皇についてたずねてみたんですよ。すると、あんまり知らないんですね。ぼくが歴代の天皇の名前をジンム、スイゼイ、アンネイ、イトク、コウショウ、コウアン、コウレイ、コウゲン、カイカ、スジン、スイニンというふうにずっとあげていったら、感心してくれましてね。そのあとは和やかな話し合いになったんです。結局、脅されてる側の方が、脅してる側よりも天皇について知識が豊富だということになって、ことなきを得たんです。

羽仁
 それは貴重な体験だよ。

矢崎
 そう思います。でも、このときわかったんですが、好むと好まざるとにかかわらずジャーナリズムというのは、あらゆる言論の場があっていいということです。つまり、右翼も左翼も、その言論においては等価値だということなんです。選択はそれぞれの人がすればいい。でも、ぼくにはぼくなりの姿勢があって、それを雑誌に反映させるには、やはり、トラブルを恐れていたのでは何ひとつできなくなってしまうんです。

羽仁
 まったくその通りだよ。だけどそれがなかなかできない。そのために新聞に代表されるジャーナリズムが堕落するんだよ。

 不敬言動審議会という団体について知りたいと思って、ネット検索をした。二件ヒットした。一つは、なんと1967年4月20日の「第055回国会 予算委員会第一分科会 第2号」の議事録だった。社会党の猪俣浩三衆議院議員がその質疑のなかで、学者や文化人に対する右翼団体の「いやがらせ、おどし、面会強要、呼び出しなどが執拗に行なわれている事実」を取り上げている。それに対する政府側答弁のなかで、赤尾敏の大日本愛国党と、もう一つ「大日本殉皇会」という右翼団体が取り上げられていた。この団体が不敬言動審議会を取り仕切っていた団体だった。政府の答弁によると、この団体は1961年1月に神奈川県大磯町で、小早川貞夫という者が会長となって設立されている。「天皇を、現人神と仰いで、皇国を害する一切の勢力を討滅することを信条として」いるそうだ。

 もう一つのヒット資料は「日本におけるテレビ・メディアの支配過程」と題する徳本正彦・姫路独協大学教授(政治学者)の論文だった。目下私が課題にしている戦後の言論弾圧を論じている。ざっと見たところ、私にとって格好のとても良い論文である。ゆっくり読んでみることにした。とりあえず、今問題にしている不敬言動審議会についての部分を引用しておこう。徳本さんは、自民党による言論弾圧を論じた後で、次のように続けている。

 さらにまた、こうした規制とならんで、右翼団体による圧力工作がつよまってきつつあることも見逃してはなるまい。すでにかなり前から、これら団体の一部では、社会性をおびた番組については、放送のたびごとに電話や投書によるいやがらせが行われてきているようだが、その動きは最近とくに目立ってきているようである。たとえば1967年11月、日本テレビの『日ソ五十年、戦争と平和』には、佐郷屋嘉昭氏(注:血盟団事件の中心人物だったそうだ)をふくむ右翼団体が公然と圧力をかけているし、69年5月には、大日本殉皇会不敬言動審査会なるものの代表が、おなじく日本テレビにたいし、同社の隅井孝雄氏の解雇を申し入れるという事件さえ起っている。後者の理由は、隅井氏の論文「教育統制下の放送」(『教育評論』4月号)が天皇を侮辱したということであった。言論機関に言論の自由を否定することを、ファッショ的団体が公然と要求しはじめているという事実は、それを許すような条件が生まれてきているということにほかならない。げんに、右翼にどなりこまれてから右翼問題はタブーになったというような事例は、7・8年も前から報告されているのである。こうした右翼による言論統制の策動が、ファッショ化への前ぶれでないとどうしていえようか。このような動きをいわば尖兵として、テレビ・メディアにたいする政治支配は、国民の眼にみえないところで、思いのほかにすすんできているのである。

《『羽仁五郎の大予言』を読む》(70)

終末論の時代(6)

ジャーナリズムの死(6):近代日本の言論不自由史(4)


戦時体制期

 いつからを「戦時体制期」と言うべきだろうか。とりあえず私は、政党政治が崩壊しファシズムが台頭し始める転換点となった満州事変から、と考えた。その後真珠湾攻撃までの政治・軍事関係の主な事件を追ってみよう。

1931年
  9月 満州事変
1932年
  1月 上海事変
  2月 血盟団員、井上準之助を暗殺
  3月 血盟団員、団琢磨を暗殺
  5月 5・15事件
1933年
  3月 国際連盟脱退
1934年
 12月 ワシントン海軍軍縮条約廃棄
1935年
  2月 美濃部達吉の天皇機関説問題化
  8月 政府、第一次国体明徴声明
1935年
  9月 美濃部達吉、貴族院議員を辞任
1936年
  1月 ロンドン軍縮会議脱退
  2月 2・26事件
  5月 軍部大臣現役武官制復活
  8月 五相会議(首相・陸・海・外・蔵相)で国策の基準を決定
 11月 日独防共協定調印
 12月 日伊協定締結
1937年
  7月 日中戦争勃発
 12月 日本軍、南京占領
1938年
  4月 国家総動員法公布
  7月 国民徴用令
1939年
  2月 国民精神総動員強化方策決定
1940年
  9月 日独伊三国軍事同盟調印
 10月 大政翼賛会発会
1941年
  3月 治安維持法公布(新法)
 12月8日 真珠湾攻撃


 こうした軍部主導の政治動向は必然的に国民支配体制の強化をもたらした。

 まず、2・26事件を契機に、戦時治安法制への移行を象徴する法整備がなされた。

1936年5月28日
 思想犯保護観察法公布
1936年6月15日
 不穏文書臨時取締法制定

 思想犯保護観察法は治安維持法(旧法 1925年公布、1928年緊急勅命で改定)を補充するものである。該当者を監視し、居住・交友・通信の制限、その他「適当な条件の遵守」を命ずることができる法律である。

 不穏文書臨時取締法の制定は、言論集会統制への軍部進出の第一歩であった。同法によって軍部は民間から出されている「軍秩ヲ紊乱」する「怪文書」の取締りに乗り出したのである。この法律の特徴は、出版法・新聞紙法が法定の届出をして発行された出版物・新聞紙を取締りの主対象とするのにたいし、無署名パンフレット類を取締りの主な対象とし、地方長官にその頒布発売の差止めと印本刻版の差押え権を付与し、違反者に体刑を含む厳罰を定めたところにある。したがって、取締りの対象は、新聞社・出版社など出版報道企業ではなく、もっぱら一般の個人が作成する文書類にむけられたものである。この頃はすでに、パンフレット等の捜索あるいは通信の傍受・開緘などは必要に応じて警察または憲兵が行なっていたので、この法律はその行為の追認したものにすぎないが、警察や憲兵の一般個人への監視は一層厳しくなった。たとえば一般人に対してではないが、丹羽さんは、末松太平著『私の昭和史』から、次のような事例を引用している。

『……要所々々の郵便局には、治安当局からの派遣員がいて、札付きの青年将校同士の通信には目を光らしており、封書も開封されるおそれがある。それを若し信書の秘密をおかしたと抗議しても、為替法違反のうたがいがあるからと開封したといわれれば、それまでのことである。郵便局にこの「為替屋」がいるから、封書といえども気をゆるしてはあぶない、と大岸(注―頼好)大尉はいっていた。』

   これに続けて、政府は国防目的の達成を大義名分に、全ての人的・物的資源に対する統制権を手中に収めるべく、次々と侵略戦争遂行のための法を制定していった。

1937年
  8月14日 軍機保護法の改定
 10月 1日 防空法の施行
1938年
  4月1日 国家総動員法公布
1941年
  1月 勅令新聞紙等掲載制限令
 12月 言論出版集会結社等臨時取締法
     新聞事業令
1943年
  2月 勅令出版事業令

 上に見るように、新聞・雑誌・書籍等への軍部統制は、国家総動員法発令を機に始まった。同法は、
「政府ハ戦時ニ際シ国家総動員上必要アルトキハ勅令ノ定ムル所ニ依り新聞紙其ノ他ノ出版物ニシテ国家総動員上支障アルモノノ発売及頒布ヲ禁止シ之ヲ差押フルコトヲ得此場合ニ於テハ併セテ其ノ原版ヲ差押スルコトヲ得」(20条)
と規定している。新聞紙等掲載制限令はこれに基づいて制定された。この法令では、内閣総理大臣が「国策ノ遂行ニ重大ナル支障ヲ生スル虞アル事項」について記事差止命令権をもつことが定められたが、それは次のような意味合いを持っていた。

 すでに、1937年9月設けられた内閣情報部(内閣情報委員会を改組)では、陸海軍報道部から派遣された現役将校が、月一回の「雑誌出版懇談会」で記事差止め事項の通達、月刊誌編集企画への干渉をするなどの統制をはじめていたが、1940年にはこれが内閣情報局となり、陸海軍報道部、内務省警保局図書課、外務省情報部の所管事務が統合され、現役将校がその重要ポストを独占した。これにより、前述の内務大臣の慣行的な記事差止命令権は、事実上軍部が主導する内閣情報局へ移行していた。新聞紙等掲載制限令は、こうした事態を、記事差止命令権を内閣総理大臣に認めることによって、法的に確認したのである。

 現役将校が情報部の重要ポストを独占するにともなって、言論出版規制の方式も大きく変わった。それは、たんなる取締りに止まらず、同時に積極的な「世論指導」が推進された。

 内閣情報局の支配力は、同局が用紙割当権をも掌握していたことにより、紙資源の不足が深刻化すればするほど強化された。1940年12月、同局は、下請機関として出版業者の自主的団体「日本出版文化協会」を設立した。そして、1941年からはこの協会に新聞図書雑誌への用紙割当て原案を作成させた。さらに同協会は、1943年2月の勅令出版事業令にもとづき、統制団体「日本出版会」となり、実質的な用紙割当て権を握った。同会は、これによって、「不要不急図書の抑制、戦意高揚出版物の推薦」を査定基準にして出版物、出版社を査定し、後には出版社の整理統合をも行なった。

 これまでに見てきた長年にわたる言論・出版統制の結果、1933(昭和8)年には12,5895部を数えた出版物(雑誌を含む)は、以後次第に減少しはじめ、それは年を逐って加速度がつき、1944年にはついに1,8060部にまで低下した。これは1889・90(明治22・3)年の水準である。出版物に限らず、私的史料の産出もこれと同様の傾向を辿ったと考えられよう。軍部の主導による民衆の生活全部面にわたる統制支配の強化に加えて、戦争の進展にともなう紙資源の枯渇がこのような事態をもたらした。

 以上のような「戦時体制期」の言論・出版の弾圧がもたらした状況を、丹羽さんは次のようにまとめている。

 以上の言論出版統制の結果もたらされたのは、出版物の不毛性であり、極端にいえば、戦時期、とくに太平洋戦争期の出版物の大部分が公的性格を帯びるにいたった。

 現在われわれが、私的史料の発掘に最も困難を感ずるのは、明治期よりもむしろこの時期であり、この時期にくらべると、それ以前の時期の言論出版の自由の範囲ははるかに広かったという感を深くする。

 右の出版統制に加えて、警察・憲兵の監視組織は、隣組組織などによる「社会的制裁」の存在とともに一般庶民の生活のなかにまで入りこみ、率直な心情や意思の表示、その日記・書簡など私的史料への書き残しを抑圧したのである。

 史料という点では、敗戦時に軍部・官僚が膨大な資料を焼却などして廃棄していることも記憶にとどめておこう。これが現在、無知蒙昧な歴史歪曲主義者たちをのさばらせている大きな原因の一つとなっている。

 もう一つ、『隣組組織などによる「社会的制裁」の存在』に関連して、『民衆の戦争責任』の中の記事
『大真面目に狂気の請願』
『大真面目に狂気の投書1』
『大真面目に狂気の投書2』
を再掲載しておこう。
《『羽仁五郎の大予言』を読む》(69)

終末論の時代(5)

ジャーナリズムの死(5):近代日本の言論不自由史(3)


「帝国憲法を根幹とした法体系の形成―樹立期」

1887(明治20)年12月
勅令「保安条例」「新聞紙条例」「出版条例」

 これまでの言論・出版弾圧法規はそれぞれその時々に起こった政治的事件への対応として制定されてきたが、帝国憲法制定・議会開設を目前にして整備・体系化が図られた。このうち保安条例は、当面の条約改正反対運動弾圧の目的を達して後1898年に廃止されたが、新聞紙・出版二条例は、以後いくつかの改定が加えられながら、骨格はそのままで昭和の15年戦争敗北時まで保持された。

1889年2月11日
 大日本帝国憲法公布(以下、帝国憲法と呼ぶ。)

 帝国憲法は一応言論の自由の条文を設けている。
「第29条 日本臣民ハ法律ノ範圍内ニ於テ言論著作印行集會及結社ノ自由ヲ有ス」
 しかし、ことはそう単純ではない。

1893年4月
 法律15号出版法
 (上の1887年の条例を継承したもの)
1897年3月
 法律9号新聞紙条例中改正

 憲法29条が言う「法律ノ範囲内」を具体的に規定したのが上の二条例にほかならなかった。この二条例は、帝国憲法と整合させるために従来の法規の一部修正をしたものであり、その核心部分はすべて継承しているが、さらに改悪している点もある。1887年出版条例と1893年出版条例の違いを見てみよう。

 1887年出版条例は民間出版物すべてを対象とすべく、「出版物」を次のように定義している。
「凡機械舎密[注1 初めて出会った単語。長いので文末に置きます]其他何等ノ方法ヲ以テスルヲ問ハス、文書図画ヲ印刷シテ之ヲ発売シ、又ハ分布スルヲ出版ト云」
ただし、こうした出版物のうち
「社則、塾則、引札、諸芸ノ番付、普通ノ書式アル諸種ノ用紙又ハ証書ノ類」
は内務省への届出義務から外された。

 これに対して1893年出版法は
「書簡、通信、報告、社則、塾則、引札、諸芸ノ番附諸種ノ用紙、証書ノ類及写真」 といえども、外交軍事等官庁の機密に触れ、または
「安寧秩序ヲ妨害シ、又ハ風俗ヲ壊乱スルモノ」「政体ヲ変壊シ、国憲ヲ紊乱セントスルモノ」
等については出版法が適用されるとした。つまり、一枚の広告ビラ、印刷された通信文などにいたるまで法の適用範囲を拡大させたのだ。

 上の2条例では弾圧担当機関の変更点もある。次のようである

 出版条例では、出版物の草稿検閲を廃し届出制とし、内務大臣は発行禁停止権をもたないとされた。新聞・定期刊行物には内務大臣の発行禁停止権は温存されていたが、97年改正でようやく削除され、それはあらたに裁判所に付与された。

 しかし、内務大臣には、発行禁停止権に代えて、発売頒布禁止権が付与された。これは実質的に発行禁止権以上の役割を果たした。すなわち、内務大臣は、すでに印刷された刊行物を発売不能とすることにより発行者にたいしても経済的打撃を与えることができた。さらに、この発売頒布禁停止権の存在を前提として、内務省は出版社にたいし、これの発動により損害を与えることのないようにという「恩恵的」理由で、草稿、ゲラ刷を内閲することを可能とした。

 またもう一つ、言論弾圧を随時追加する隠し球があった。帝国憲法の緊急勅令発動条項である。
「第九条 天皇ハ法律ヲ執行スル爲ニ又ハ公共ノ安寧秩序ヲ保持シ及臣民ノ幸福ヲ增進スル爲ニ必要ナル命令ヲ發シ又ハ發セシム但シ命令ヲ以テ法律ヲ變更スルコトヲ得ス」

 この条文によって、必要なときにはいつでも、草稿検閲などを復活させることができるしくみになっているのだった。実際に、大津事件(1891年、ロシア皇太子暗殺未遂事件)や日清戦争・日露戦後講和時、さらに関東大震災等にあたって緊急勅令が発動されている。つまり、帝国憲法は、29条はお飾りであり、実際には政府が必要に応じて言論・出版活動を弾圧できる法構成となっていたのだ。

 以上のように、帝国憲法下の出版弾圧対象は、ほとんど全ての印刷物にまで及ぶものであり、その発動の方法も種々な形態があった。その中で、実際に出版規制の核心となったのは、内務大臣の発売頒布禁止処分であった。これは警察による一方的な行政処分で、裁判で争うことはできず、行政裁判所への提訴も認められなかった。

 その後、出版法・新聞法には次のような改定が行われている。
1909(明治42)年5月6日
 法律四一号新聞紙法
1934(昭和9)年5月
 法律47号出版法改正

 上の新聞法の時期(明治末期)、内務省による出版物検閲は次のようなものであった。

『……目下各出版物を検閲するには図書課属四名を以て之に充てつゝあるも、何分著作出版物の数多の相手の廻り兼ねる事あり、新聞のみにても全国を通じて幾百と言ふ数に上り居れば、之れが毎日机上に堆積する所を見れば実に却々(私はこの単語にも初めて出会った。なんと読むのか調べたら「なかなか」と読むそうだ。つまり「中々」と同じ)の大仕事なり、都下の新聞は皆右四名中二人づゝ交代にて、夜の明けぬ中に検閲を了し居れり、検閲上の責任は勿論予の負ぶ所なれども、予が悉く之を検閲する事は到底出来得べき事には非ざるなり』(1909年7月『東京日日新聞』所載、内務省警保局長有松英義談)。

 さて、その後(日ロ戦争後)~昭和20年(敗戦)までの言論・出版弾圧については丹羽さんの論評を直接引用しておこう。

 日露戦後に行なわれた社会主義新聞雑誌(『労働世界』、『平民新聞』、『直言』)への集中的な弾圧と風俗壊乱出版物取締りの漸次的な強化の他は、当時はなお右のような規模の非科学的な検閲が行なわれているにすぎなかった。しかし、当時の国民に、最も大きな影響を与えた政府の出版規制は、右のような検閲(発売頒布禁止処分)の形をとらない、戦時における報道管制であろう。

 日露戦争にさいしては、開戦と同時に陸海軍従軍記者心得を定め(1904年2月10日陸軍省告示三号、同4月12日海軍省告示八号)、
「従軍者ノ通信書(通信文私信電信等ヲ総称ス)ハ高等司令部ニ於テ指示セル将校ノ検閲ヲ経タル後ニ非ズンバ、之ヲ発送スルコトヲ得ズ。通信書ニハ総テ暗号又は符号ヲ用ユルコトヲ許サズ」(右陸軍省告示十一条)
とし、ポーツマス講和会議にさいしても特派員の国内への通信は
「大部分は殆ど官憲の為めに没収され殆ど通信の用をなさざるの有様であった」。

 こうした報道規制の民衆への影響は、講和直後東京を中心とした群衆暴動(ポーツマス条約に反対する国民集会をきっかけに発生した暴動事件)となってただちに示されている。

 第一次世界大戦は、出版警察法規の発動が、民衆のなかに深く入りこんでゆく一つの画期をなしているように思われる。

 第一次世界大戦を契機とするいわゆる「世情」の変化は、都市のみならず農村にもおよび、当時の地方豪農らの日記などにもしばしばその指摘をみる。

「年々人気の薄情に傾くは帝国民の本意を薄からしむるものなれども、戦後の今日一層甚しく、階級打破、共産主義、過激思想等の声充満し其行動不穏なること急発性を帯び益々不安を覚ゆ、将来万般に亙り一大変化を見るならん」(東京府多摩郡相原村相沢菊太郎日記、1920(大正9)年9月16日の項)。

 この時期にいたって、出版警察法は、しばしば一般民衆生活のなかに立ち入って発動されるようになった。1923(大正12)年関東大震災のばあいは、その著例である。戒厳令により
「警視総監及ビ関係地方長官並警察官ハ、時勢ニ妨害アリト認ムル集会若クハ新聞紙、雑誌、広告ヲ停止スルコト」
「関係郵便局長及ビ電信局長ハ、時勢ニ妨害アリト認ムル郵便電信ハ開緘スルコト」
等が認められ、一方9月7日緊急勅令で
「出版通信其他何等ノ方法ヲ以テスルヲ問ハズ」
流言浮説等にたいし10年以下の体刑または罰金を定めた。すなわち、一警察官、電信官の認定で、出版物の発売頒布が停止され、通信が開緘差留められる。さらに9月20日警保局長から各府県あて通牒で、「新聞紙雑誌及宣伝ビラ等の印刷物」にたいする内務大臣の発売頒布禁止権を、地方長官に代行させ、地方での取締りを促した。

 この結果、9月1日―11月末日に発動された発売頒布禁止処分は、新聞紙法によるもの、新聞48、通信2、雑誌6。出版法によるもの、写真絵葉書521、単行本8、雑誌2(停止処分をうけたものは不明)、検事による司法処分をうけたもの、新聞4、雑誌1、禁止された写真絵葉書その他出版物の販売168という数にのぼった。とくにここで取締りが写真絵葉書等にまでおよんだ点が注目される。

 ここに示されたように、民衆生活の平和を保っていた慣習が崩れようとするとき、その程度に応じて治安・出版警察法が、いわば慣習に代位し補強するものとして発動されてくる。いわゆる大正デモクラシー期といわれる時期においても、このような法はそのまま変えられることなく存在していたのであった。

 それだけではなく、この頃から、一般の新聞にたいする内務大臣の記事差止命令が、事実上制度化し、しばしば行使されるようになっている(奥平康弘[注2]は、この時期を1920年と考えている)。これはいわば発売頒布禁止処分発動の予告通知であり、形式はたんなる行政指導で、その強制の程度に応じ「示達」、「警告」、「懇談」の三段階に分れていたが、新聞社にとっては、実質上法的強制と同じ意味をもった。これは新聞社からの強い反発を漸次軟化させつつ次第に慣行化させ、制度化していったものであった。

 この記事差止命令は、一般読者の全く知らないところで発動され、しかも、その結果、民衆はきわめて大きな関わりのある事件について一切耳を封じられることになる。これによって、ニュースの大衆への浸透とはうらはらに、国内の政治情勢・先進的な民衆の運動さらには世界情勢の変化からも民衆は遮断されるという状況が作りだされてくる。日記・書簡などに示される、この時期の民衆の意識 ― 農村自作地主層などのばあいにはしばしば、都市、デモクラシー、政党政治、近代文明等への反感があらわれている ― は、このような状況と切り離して評価することは許されないであろう。

 なおここで、さきにふれたように、かかる法の発動を必要としない「習慣法」が、とくに農村に存在していたことを忘れてはなるまい。都市においてもこの事情はさして変らない。吉野作造の「民本主義鼓吹時代の回顧」(1928年)における次の指摘がこれを示している。

「……それでも大正七、八年の交まではまだなかなか思想の自由は十分与えられたのではなかった。これに対する拘束は官憲側から来ないとしても、社会的制裁のかたちを取ってきびしく迫り来ることがまれでない。」

 法は直截に民衆を捉えるのではなく、かかる「習慣法」「社会的制裁」等とあいまって、民衆の生活を支配するのである。

[注1](以下、広辞苑による)
 「舎密」は「シャミツ・シャミ」という読みで引くと「→セイミ」という指示が出てくる。「セイミ」が正しい読みで、「chemie」というオランダ語を漢字表記したもので『江戸後期から明治初期にかけての「化学」の呼称』だという。熟語に「舎密学」「舎密局」がある。「舎密局」については次のように解説している。
『明治政府が1869年(明治2)大坂に開講した理化学研究教育機関。89年京都へ移転。94年の高等学校令により第三高等学校と改称、京都帝国大学に至る。』

[注2]
 奥平康弘さんは東京大学名誉教授(憲法研究者)。「九条の会」呼び掛け人のお一人で、今年の1月26日に亡くなられた。満85歳だった。亡くなられる前日、妻のせい子さんに「君はこのごろ平和についてどう考えてる」と問いかけたという。この問いかけは多くの心ある方々にも届いてる。東京新聞がそれらの人々の新たな決意を報じていた。
《『羽仁五郎の大予言』を読む》(68)

終末論の時代(4)

ジャーナリズムの死(4):近代日本の言論不自由史(2)


 前回、郵便制度の整備が地方の上層農民の政治や社会問題などに対する意識を高める役割をになっていたと書いたが、丹羽さんは「当時の文通が、・・・国内外の情勢を、新聞の普及しない農村僻地にまで知らせ、かつ心情の率直な交換をする役割を果たしている」一例として「明治期のすぐれた良民指導者である秋田県の石川理紀之助」という人の書簡を取り上げている(その書簡文の紹介は割愛します。なお、石川理紀之助についてはネット知ることができます)。そして、
「各地人民の政治的成長は、1880年国会開設請願運動の全国的拡大となってはじめて表面化した。」
と指摘している。

 この自由民権運動の興隆を示す国会開設請願運動は、政府中枢では大隈重信たちが担い、国会開設・憲法(英米流の議院内閣制)の早期制定を強く政府に迫っていた。これに対してビスマルク憲法(君主大権を柱とする)を目論む伊藤博文・井上毅が大隈重信たちを政府から追放する(1881年の政変と呼ばれている)。 この政変で君主大権政体樹立の方向を確定した政府は、弾圧・統制のため一連の法制定・追加・改定を行なっていく。

1880年4月
 太政官布告「集会条例」
 「政治二関スル事項ヲ講談論議スル」集会や結社を警察の認可制の下におき、地方警察にその解散、不認可の権を与えた。

1882年6月
 太政官布告「集会条例」改正追加
 「政治二関スル事項ヲ講談論議スル為メ、其旨趣ヲ広告シ、又ハ委員若クハ文書ヲ発シテ公衆ヲ誘導シ、又ハ他ノ社ト連結シ及通信往復スルコト」を禁じ、違反者への体刑または罰金を定めた。

 これらの言論弾圧条例によって大きな制約を受けたのは政党活動だけではなかった。丹羽さんの文章を直接引用しよう。

 郵便制度の普及にともなって急速に深まった全国的な人的交流は、こと政治に関しては、警察によって断絶させられることになる。

 また、この時期以降、全国各地で、自然発生的に生まれた豪農商、教員、青年らの学習グループなど各種の「結社」は、地方に新たに入ってきた書籍、新聞の講読や内部討論によって、自らの民権思想を高めたが、これを一般に普及させ、あるいはグループ相互の交流・連結を進めることはきわめて困難となった。

 現在、これら学習グループの活動内容を知りうる史料の発掘が、困難であることじたい、右諸法令の発動が、地方警察によって各地農村の中にまでおよんできたことを示している。

 各地の一般人民の民権意識の高まりに大きな役割を果たしてきた新聞・定期刊行物にたいしても次のような弾圧が行われた。

1883年
 4月
 太政官布告「新聞紙条例」
 6月
「出版条例」改正

 新聞紙条例では高額の保証金納入を義務づけた。これによって、一般人民による自由な発刊が不可能になった。条例公布後1ヵ月間で、東京で16紙、大阪で4紙、地方で27紙が廃刊を余儀なくされている。

 さらに同条例では、発行禁止権を内務大臣がもつほか府県長官(東京府は警視長官)に発行停止権が与えられた。一方新聞報道にも大幅な制約を課し、
「宣布セラレザル公文及上書建白請願書ハ、当該官司ノ許可ヲ得ルニ非ザレバ、之ヲ記載スルコトヲ得ズ」(その大意、草案の掲載も不可)
とした。さらに、陸海軍卿、外務卿に軍事外交に関する記事の掲載禁止権を与えている。まるでアベコベ政権が目論んできた「特定秘密保護法」の行き着く先を暗示しているような条例だ。

 これらの条例が一般人民に及ぼした影響を丹羽さんは次のようにまとめている。

 新聞を通して、国内政治、世界情勢を把握しはじめていた地方人民にとって、右条例により新聞記事の内容がおのずから政府の意図にそって制約されたものになることは、その意識・思想形成の上に大きな影響を与えずにはおかない。

 この時期以降に作られた各地豪農の日記などを通して、われわれは、農民上層のなかに愛国主義とともに排外的思潮が育ちつつあるのを知るのであるが、新聞の周辺アジア諸国についての限られた報道がしばしばこれら日記に転写されている事実などから、そこに新聞の強い影響をみるのである。

 もっとも地方の新聞読者は、新聞の論調にたいして多くは一定の批判をもっている。しかし、対外的なニュースは、その性質上、体験や身辺の見聞などによって自ら確める術が乏しいため、最も直截に受容されるのである。

 これも、アベコベ政権の懐柔(マスゴミトップ連中との会食)と脅し(批判的論者の排除)に屈したような現在のマスゴミと、そのマスゴミの報道をそのまま受け入れてしまう約50%の愚民たちの状況と重なっている。もって他山の石とすべきだろう。