2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《『羽仁五郎の大予言』を読む》(67)

終末論の時代(3)

ジャーナリズムの死(3):近代日本の言論不自由史(1)


 前回の記事を書いているとき、日本では明治以来「昭和の15年戦争」敗戦までずっと、「言論・出版・集会・結社の自由」などはなかったのだということが頭をよぎっていた。既に日本の近代国家草創期に、自由民権運動をめぐって、言論・出版・集会・結社に対する弾圧が行われていたことは「続・大日本帝国の痼疾」でかなり詳しく取り上げているが、今回はこのことを通史的にきちんと調べておこうと思い立った。

(以下は岩波講座『日本歴史25 別巻2』所収の丹羽邦男著「近代史料論」を用いています。ちなみに丹羽さんは1994年に亡くなられている。)

 丹羽さんは「言論・出版規制の諸段階」を
「廃藩置県―民権運動終期」
「帝国憲法を根幹とした法体系の形成―樹立期」
「戦時体制期」
という三期に分けて論じている。この分類に沿ってまとめていくことにする。

「廃藩置県―民権運動終期」

 維新政府指導者は当初、人民を未開の民として捉え、新聞・雑誌を興し、人民を教化する意図を持っていたという。丹羽さんは1870年12月8日に木戸孝允が品川弥次郎に宛てた書翰の一部を引用している。
「内国之事は元より、外国之事も尽我人民之心得に相成候様之事は総て記載させ、偏国偏藩に至るまで流布させ・・・人民誘導之一端とせん」

 この意図にそって、木戸孝允は1871(明治4)年5月に『新聞雑誌』という紙名の新聞を発刊させている。

 ここには、幕藩制の人民支配とは異なる新たな人民統治の方式がみられる。

 旧幕期、幕府・藩の触達は、地方役人から村々名主へ回達され、「御用留」に転写され、制札による触以外は一般人民の目に触れることはない。しかし、今や政府諸法令は、印刷複製されて戸長の許に配布されるほか、廃藩置県後、簇生した新聞・雑誌(当初新聞は日刊のものは少なく、雑誌との区別は明確でない)にも政府人事などとともに毎号掲載され後年にいたるまで続いた。

 こうして、新聞・雑誌は、政府に批判的傾向を帯びるものも含め、一般人民に法令の理解徹底を求める政府の意図を実現する上で大きな役割を果たしたといわねばならない。

 しかし、新聞・雑誌の流布は狭い範囲に限られていた。主な読者は政府内部とその周辺(主に士族層、地域的には東京とその周辺)人たちにすぎない。当時、紙上で問題化した政治事件は、
 1871、72年からの征韓論
 73年5月、井上馨・渋沢栄一の財政意見書(『日新真事誌』)
 74年1月、民選議院設立建白
など、いずれも政府部内の政治的対立の反映であったが、これら新聞・雑誌にたいする取締法規が出されている。
(「民選議院設立建白」については「自由民権運動(6)―民選議院設立建白書」を参照して下さい。)

1872年1月
 文部省布達「出版条例」
1873年10月
 太政官布告「新聞紙発行条目」


 ただし、この二法はその後の諸法と比べて、弾圧と言うほどのものではなかったようだ。

 なお、1872、73年には郵便制度が全国的に設けられたが、初期の新聞は郵便によって配達されていたようだ。郵便と交通の発達が相俟って、全国的な人的交流が容易になり、地方の上層農民の政治や社会問題などに対する意識を高める役割をになっていた。とりわけ、農村に居を構え、遠隔の者との往来が容易でない者にとって、文通は、交際上きわめて大きな比重をもつ大事な手段であった。

 さて、この頃、新聞の日刊化が進み、政論を登載した多くの地方新聞が生まれ、発行部数を急激に伸した。とは言え、その読者層は、なお、政府の専制に不満をもつ士族層などを主体にしていた。丹羽さんは静岡遠江地方を例を記録している。

 1881年5月現在、浜松の郵便局から配達されている新聞は、13種413部、なかで『東京絵入新聞』150部、『函右日報』145部が主なもので、他は1種40部以下にすぎない。右のうち「中等以下ノ人物ヲ誘導スル事ヲ主眼」とし民権色の濃い日刊地方新聞として発足した『函右日報』は、79年6月の創刊である。当時新聞の回読が盛んだったことを考慮に入れても、1876、77年頃の新聞の地方浸透度はなお微々たるものであった。

 しかしながら、次第に流布範囲を広めてきた新聞を通して、「民選議院設立建白」が、各地の士族層に影響を与え、反政府運動が拡大しはじめた。これに対して政府はただちに新聞・出版の取締りを強化した。

1875年
6月
 太政官布告「讒謗(ざんぼう)律」(82年1月廃止)・「新聞紙条例」
9月
 「出版条例」
1876年7月5日
 太政官布告98号
 (行政処分として、新聞紙雑誌類に対する内務省の発行禁停止権がはじめて設けられた。)

 これら三条例により、「著作文書若クハ画図肖像」を「展観、発売、貼示」して
「凡ソ事実ノ有無ヲ論セス人ノ栄誉ヲ害スヘキ行事ヲ摘発公布スル者」(讒毀ざんき
「人ノ行事ヲ挙クルニ非スシテ悪名ヲ人ニ加へ公布スル者」(誹謗)
はすべて体刑を含む厳罰の対象となった。
 また、新聞のほか「時々ニ版出スル雑誌雑報」に対しても、文部省に代って内務省が発行許可権を握り(75年出版条例で書籍も内務省所管となる)、細かく掲載禁止事項と違反者への厳罰が定められた。

 そして、これらの法律は当時の政治情勢のなかでただちに適用され、多数の新聞編集者・筆者が投獄され、多くの新聞・雑誌が発行禁止されている。

 このように、三条例は警察の恣意的弾圧を可能にするものであったが、実際これが発動されたのは、多くは士族出身の反政府的言論人に対してであった。しかしこのことは、当時の一般人民層が表現の自由な状況下に置かれていたことを意味しないと、丹羽さんは次のように論評している。

 76年太政官布告98号により発行禁止処分をうけた『草莽雑誌』編集人栗原亮一の上告にたいする大審院判決は、
政府ニ於テ新聞雑誌等ノ発行ヲ禁止スル事ハ、既ニ特権ヲ有セシ習慣法ナリシヲ、明治九年第九八号ノ公布ヲ以テ之ヲ成文法ト為シタル者
とのべ、政府の弾圧法規は、これまで「習慣法」として存在したものを「成文法」にしたにすぎないとしている。

 明治政府は、生れながらにして、かかる「特権」をもつ権力として人民の上にあり、人民の民権意識の成長が、「習慣法」をゆるがしはじめたとき、「成文法」が制定され、必要なかぎりで発動されるのである。

 明治維新は、言論弾圧法が「習慣法」だなんていうむちゃくちゃな論理に立脚した、むちゃくちゃな国家成立の始まりだった、というわけだ。

 ちなみに、大日本帝国はいわゆる「近代国家」ではないことは「大日本帝国を解剖する(2)」で取り上げている。そこから一部転載しておこう。

「帝国憲法体制の成立において完成された近代天皇制国家は、外見的にはプロシャ流の立憲的専政君主制を模倣したものであったが、政治形態としては近代的形態で復古されたアジア的デスポティズム、つまりは近代的デスポティズムであった。」
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《『羽仁五郎の大予言』を読む》(66)

終末論の時代(2)

ジャーナリズムの死(2)


 戦中のジャーナリズムの死について、羽仁さんが語っていることは次のようである([ ]内の小さめの文は私のコメントです)。

 かつてドイツでは数百万の発行部数を持った新聞が、ナチスと闘ってつぶされている。『フランクフルター・ツァイトウンク』は自由主義経済の立場に立った商業新聞だったが、ヒットラーを批判した。発行部数を守るとか、社員が沢山いるとかといった問題じゃないんだ。

 先日『週間読売』で読売新聞の解説部長の渡辺恒雄君と対談したが、そのとき彼は「五百万、六百万といった読者をかかえていると政党支持の立場ははっきりできない」といっ た。そんなこといっているから、東条英機が出てきたとき、日本でつぶされた新聞がなかったんだ。朝日も毎日も読売も残った。

 結論をいえば、新聞が政党支持の立場を鮮明にすることが、現在の議会政治を救うために必要になってきたということです。だからもう、数百万の発行部数とか何千何万の社員のためだなんていって、曖昧にしていることは許されないんだ。

[現在、ナベツネははっきりとアベコベ政権べったりの姿勢を臆面もなく打ち出している。今、産経新聞・読売新聞にはジャーナリズムの「ジャ」の字もない。]

 日本の新聞はこの前の戦争のとき、発行部数や社員を守るために、批判もできずに戦争に協力した。朝日、毎日、読売の記者諸君は、戦争中の新聞を取り出して一度読んでみたらいい、どんな新聞を出していたかを。

 真珠湾のときからバンザイ、バンザイですよ。南京大虐殺事件なんか全然報道しない。ポツダム宣言が出たときでさえ、三大新聞はそろって「英米の謀略だ」と書いているんだ。ぼくは獄中に居たんだが、政府が意見を聞きにきたので「すぐ受諾しろ」といったんだよ。そのときはまだソ連が参戦してなかったし、ソ連が入ったら条件は更に厳しくなることはわかっていたから。ところが、新聞は天皇にこだわって、受諾しろという世論を起こさせないようにした。7月27日だった。受諾していれば、広島、長崎に原爆は落ちなかったんだ。

 「真珠湾のとき」の新聞の「バンザイ、バンザイ」は次のようであった(以下は半藤一利編著『昭和史探索 5』を用いています)。

朝日新聞
 「宣戦の大詔こゝに渙発され、一億国民の向ふところは厳として定まつたのである。わが陸海の精鋭はすでに勇躍して起ち、太平洋は一瞬にして相貌を変へたのである」
との社説をかかげ、
「帝国・米英に宣戦を布告す」
と大きな横見出しの下に、
「西太平洋に戦闘開始」と「布畦(ハワイ)米艦隊航空兵力を痛爆」
を六段ぬきで示した。

東京日日新聞
「帝国、米英に宣戦を布告」
の横見出しは同じながら、中央に
「東条首相断乎たる決意力説」
の説明つきで、昼の大政翼賛会中央協力会議で演説する東条の写真をおき、
「英米の暴政を排し/東亜の本然を復す」
の見出しで政府声明をそのまま掲載。

読売新聞
「暴戻・米英に対して宣戦布告」
と、大きく謳いあげた。

 戦中の新聞はまったくの御用新聞であり、ここにもジャーナリズムの「ジャ」の字もない状況だったが、私にはこの頃の新聞に対してはちょっと同情する気持ちがある。なぜなら、新聞だけでなく、羽仁さんのようなごく少数の人を除いて、ほとんどのいわゆる知識人が雪崩を打って国家権力の走狗となっていたのだから。真珠湾のとき「バンザイ、バンザイ」をした知識人は枚挙にいとまない。『探索 5』から、少し拾ってみよう。

 半藤さんは「あの日の朝の日本人の感激」について次のように書いている。

 小学校五年生であったわたくしは、ほとんどの大人たちが興奮して晴々とした顔をしていたことを覚えている。評論家の小林秀雄は
「大戦争が丁度いい時に始まってくれたという気持なのだ」
といい、亀井勝一郎は
「勝利は、日本民族にとって実に長いあいだの夢であった。……維新いらい我ら祖先の抱いた無念の思いを、一挙にして晴らすべきときが来た」
と書き、作家の横光利一は
「戦いはついに始まった。そして大勝した。先祖を神だと信じた民族が勝った」
と感動の文字を記した。

 この人たちにしてなおこの感ありで、少なくとも日本人のすべてが同様の、気も遠くなるような痛快感を抱いた。勝利に酔った。この戦争は尊皇攘夷の決戦と思ったのである。わたくしが採取した発言などをずらりと拙著から引用してならべてみた。なんでまた、と思うのであるが、これも忘れることのできない、忘れてはならない史料なのである。

 半藤さんが「拙著から引用してならべてみた」と言っているのは、『探索 5』の巻末で、ご自身の著書『真珠湾の日』からの「その日の日本人の証言」の抜粋記事を指している。その中から、よく知られていると思われる人を選んで紹介しよう。

 清水幾太郎(社会学者)、当時読売新聞論説委員。三十四歳。
「諸外国の短波放送が聴ける新聞社では、廊下を流れる空気は特別息苦しく、その息苦しさは日を逐って増して来ていた。あまり息苦しかったので、十二月八日の開戦を知った時、飛んでもないことになったと思うのと同時に、……やっと便通があったという感じでした。……便通から悪性の下痢になり、脱水症状に陥り、終には死に至るかも知れぬという危険を遠くの方に感じながら、しかし、長い間の苦しい便秘の後に漸く便通があったという感じがあった」

 大学教授で評論家本多顕彰(四十三歳)はわかりやすく、開戦のニュースを聞いたあとの決意のほどを書いている。
「『敵性』という呼称が廃せられて、『敵』というはっきりとした呼称が用いられるようになって、私のみならず、国民全体がからっとした気持だろうと思います。聖戦という意味も、これではっきりしますし、戦争目的も簡単明瞭になり、新しい勇気も出て来たし万事やりよくなりました」

 大森山王草堂で『近世日本国民史』の「征韓論」の篇を執筆していた徳富蘇峰も、感動をそのままに日記に綴っている。七十八歳。
「只今我が修史室の一隅にあるラジオは、今晩西太平洋上に於て、日本が米英両国と交戦情態に入りたるを報じた。予は筆を投じて、勇躍三百。積年の溜飲始めて下るを覚えた。皇国に幸運あれ、皇国に幸運あれ」


 爽快さを突きぬけて感動で身を震わしている人もいる。火野葦平(作家)三十四歳。
「私はラジオの前で、ある幻想に囚われた。これは誇張でもなんでもない。神々が東亜の空へ進軍してゆく姿がまざまざと頭のなかに浮んで未だ。その足音が聞える思いであった。新しい神話の創造が始まった。昔高天原を降り給うた神々が、まつろわぬ者共を平定して、祖国日本の基礎をきずいたように、その神話が、今、より大なる規模をもって、ふたたび始められた。私はラジオの前で涙ぐんで、しばらく動くことができなかった」

 加藤芳郎(漫画家)は戦後に回想する。当時は東京市役所防衛局防衛課の臨時雇。十六歳。
「中野区の自宅で揃ってラジオの開戦の報を聴いた。『やったあ!』と、特に高く歓声をあげたのは私と弟(中学一年)で、父と長兄は渋い顔をしていたような気がする。防衛局では、局員で軍籍があった連中は、この日挙って階級章(将校・下士官)をつけた軍服で登庁した。興奮というよりも。暗雲が取り払われたな”といった思い入れで、全局員がほとんど。浮き浮き”とした顔つきだった」

 広津和郎(作家)は五十歳。かれは、もし日米戦争がはじまったら、どんなに陰気なことかとつねづね思っていた。が、開戦を知ると、思いもかけず
「頭が明るくなって来るのを覚え、……あまりの誠が ― この世に何か失われていたように思っていたあまりの誠が、やっぱりあったのだと知った」と回想する。

なかには激情をほとばしらせている人もいる。 斎藤茂吉(歌人)、五十九歳は日記に大書する。
「昨日、日曜ヨリ帝国ハ米英二国ニタイシテ戦闘ヲ開始シタ。老生ノ紅血躍動!」

旅行先の満洲国の奉天で開戦を知った作家林房雄も、日本への報告に書いた。三十八歳。
「大変であろうがなかろうが、もうこれ以上我慢できないのだ、国民はみな大変に臨む覚悟をつけている。決戦態勢は国民の胸の中では夙の昔につけているのだ。慌てることはない」  そして、新京神社の神前にぬかずいて祈った。
「今私に与えられた仕事はいつ止めてもかまいませぬ。ただ神の御旨のまま、我が大君のみことのままでございます」

(中略)

 評論家中島健蔵(三十八歳)は
「ヨーロッパ文化というものに対する一つの戦争だと思う」と述べ、

 同じく小林秀雄(三十九歳)も語った、
「戦争は思想のいろいろな無駄なものを一挙に無くしてくれた。無駄なものがいろいろあればこそ無駄な口を利かねばならなかった」

 同じく保田與重郎(三十一歳)になると、もっとはっきりする。
「今や神威発して忽ち米英の艦隊は轟沈撃沈さる。わが文化発揚の第一歩にして、絶対条件は開戦と共に行われたのである。剣をとるものは剣により、筆をとるものは筆によって、今や攘夷の完遂を期するに何の停迷するところはない」

 三十四歳の亀井勝一郎も胸をはって書いている。
「勝利は、日本民族にとって実に長いあいだの夢であったと思う。即ち嘗てペルリによって武力的に開国を迫られた我が国の、これこそ最初にして最大の苛烈極まる返答であり、復讐だったのである。維新以来我ら祖先の抱いた無念の思いを、一挙にして晴すべきときが来たのである」

 作家横光利一(四士二歳)も日記に躍動の文字をしたためた。
「戦いはついに始まった。そして大勝した。先祖を神だと信じた民族が勝ったのだ。自分は不思議以上のものを感じた。出るものが出たのだ。それはもっとも自然なことだ。自分がパリにいるとき、毎夜念じて伊勢の大廟を拝したことが、ついに顕れてしまったのである」

 もちろん「バンザイ、バンザイ」をできない人たちもいた。半藤さんは三人取り上げている。

 その日、枢密院会議を終え帰宅した鈴本貫太郎は、ラジオが叫びつづける開戦の報道を耳にしながら、夫人や子息に表情を暗くしていった。
「これで、この戦争に勝っても負けても、日本は三等国に成り下がる。何ということか」
 元海軍大将の鈴木は七十三歳である。

 四十五歳の詩人金子光晴も、鈴木とはやや違う意味で、戦後の回想において開戦を憎悪している。
「母親も、こどもも、ラジオの前で、名状できない深刻な表情をして黙っていた。/『馬鹿野郎だ!』/噛んで吐きだすようにぼくが叫んだ。戦争が不利だという見とおしをつけたからではなく、当分この戦争がつづくといううっとうしさからである。どうにも持ってゆきどころがない腹立たしさなので、ぼくは蒲団をかぶってねてしまった」

 余談ながら、金子光晴が息子の病をこじらせて息子を徴兵不合格にしたということ、どこかで読んだ記憶がある。だれか取り上げている人はないかとネット検索をして、「『戦争』金子光晴|さんにゴリラのらぶれたあ」さんに出会った。そこに次のように記載されていた。
『1944年、19歳の「子ども」に徴兵検査が来ます。この時父である金子は気管支カタルであった息子を雨中に立たせ、徴兵不合格にしました。1945年再度の徴兵にも診断書を盾に「五十の父親」は徴兵を免れさせます。』
《『羽仁五郎の大予言』を読む》(65)

終末論の時代(1)

ジャーナリズムの死(1)


 今回から『羽仁五郎の大予言』の第五章「監獄へ(INTO JAIL)」と第六章「終末論の時代」を取り上げる。表題は「終末論の時代」を選ぶことにした。ちなみに、この二つの章の元になった対話はそれぞれ1974年11月・1976年11月に行われている。

 唐突ながら、沖縄問題から入ろう。いま、辺野古への新基地建設をめぐる沖縄の人たちの怒りがひしひしと伝わってくる。私も沖縄の人たちの怒りを共有したいと思った。4月9日東京新聞が『辺野古への新基地建設に反対するための「辺野古基金」の創設』を報じていた。わずかながら、私もその呼びかけに応じた。琉球日報の報道によると、辺野古基金への寄付は1週間で4600万円に達したという。

 この沖縄の基地問題はアメリカ政府の傲慢さと日本政府の追従ぶりの合作である。それは1971年6月に調印された沖縄返還協定で作られた。ニクソンと佐藤栄作の合作である。岸信介―佐藤栄作―安倍晋三と、売国奴一族が日本を売り渡し続けている。(以下の引用文は『オリバー・ストーンが語るもう一つのアメリカ史』からです。)

 1971年6月、アメリカと日本は沖縄返還協定に調印し、1972年5月に正式に変換が実現する運びとなった。沖縄をベトナムの作戦基地として、あるいは核兵器の保管場所として利用してきたアメリカに、日本人は反感を募らせていた。その気持ちは沖縄の住民も共有していた。新しい協定によれば、アメリカは沖縄を日本に売り戻すが、島内の基地はそのまま残し、有事の際には出撃基地として引き続き使用される。日本は沖縄を「買い戻す」ために法外な金額をアメリカに支払ったばかりか、基地の維持費のかなりの部分を毎年負担することにまで同意した――ほかの地域では、アメリカは基地の受け入れ国に対して貸借料を支払うか、少なくとも維持費を十分に負担しているというのに。おまけに、佐藤栄作首相は沖縄返還後のアメリカ軍による核兵器持ち込みをひそかに認めたので、せっかくの協定に汚点をつけてしまった。

 沖縄はその10年以上前から論争の種になっていた。1960年、アメリカと日本のあいだで相互協力および安全保障条約、いわゆる安保が締結される。この条約はアメリカ軍の沖縄占領ならびにほかの地域での駐留を引き続き認める内容だった。各方面から反対の声があがり、抗議運動のあまりの激しさに、佐藤栄作の兄にあたる岸信介首相の政権は退陣に追い込まれる。おまけに岸首相は、日本の憲法は核兵器の開発を禁じていないと国会で発言する失態まで演じた。核兵器の開発には、ほとんどの日本人が強い嫌悪感を示していたのだ。

 駐日アメリカ大使のダグラス・マッカーサー(二世)は
「反軍国主義的感情、平和主義、曖昧な国民性、核アレルギー、知識人や学者のマルクス主義への傾倒が、この国の中立化をひそかに引き起こす」
と危惧した。

 その前年、マッカーサー大使は日本の最高裁判所長官に圧力をかけ、東京地方裁判所の判決を覆してしまった。それは、「戦争能力」を持つアメリカ軍の日本駐留は、日本の平和憲法のなかで戦争放棄を謳った第九条に違反するという内容だった。ちなみにこの憲法は、大使の叔父にあたるダグラス・マッカーサー司令官の草案がたたき台になっている。

 第九条には「日本国民は、国権の発動たる戦争」を「永久に放棄」して、「陸海空その他の戦力は、これを保持しない」と記されている。同じ時期、日本政府はアメリカとの一連の「密約」の締結にも取りかかり、アメリカの核戦略ならびに戦闘準備を日本政府は支援することがまず決められた。なかでも言語道断なのが「核兵器を搭載したアメリカ海軍の艦船が日本の基地に寄港する際、あるいは日本の領海を通過する際に事前協議は必要ない」という「暗黙の了解」である。

 ニクソンといえば《『羽仁五郎の大予言』を読む》の最初に取り上げた「チリのクーデター」という悪行があるが、「ベトナム戦争」「カンボジア空爆」「ラオス爆撃」と、悪行のオンパレードである。オリバー・ストーンは、「歴史家キャロリン・アイゼンバーグの的確な指摘」として次の文を紹介している。
「国民からもプレスからも、政府官僚からも海外のエリートからも、いっさい請われずに三つの国への軍事行動を起こし、しかも泥沼化させた大統領は、アメリカ史上でもリチャード・ニクソンしかいない」。
 また、ベトナム戦争をめぐってニクソンとキッシンジャーが交わした「悪魔の会話」というほかないとんでもない会話が記録されている。

 ニクソンは南部のあちこちに爆撃を加え、ハイフォンに地雷を敷設していたが、1968年から北ベトナムの都市への爆撃も始めていた。ハノイを「木端微塵に」してやると息巻き、「すごい爆弾をお見舞いしてやるぞ」と宣言した。民間人の犠牲者は膨れ上がったが、ニクソンは良心の呵責といっさい無縁で、キッシンジャーにこう語った。
「きみと私は、ひとつだけ意見が違う……爆撃だよ。きみは民間人の犠牲を極端に気にするが、私はちっともかまわない」。

 そこでキッシンジャーはニクソンに対し、慎重になるのは政治的な計算のうえで、人道的な理由からではないと説明した。
「私が民間人のことを気にするのは、あなたが世界中から虐殺者として非難されては困るからですよ」。

 この残忍極まりないニクソンがウォーターゲート事件(野党・民主党本部があるウォーターゲート・ビルでの盗聴と司法妨害)で失脚する。

 だいぶ長くなったが、以上は第五章の表題「監獄へ(INTO JAIL)」の意味を理解するための前書きでした(以下は『大予言』による)。

 羽仁さんは田中角栄の金脈事件を追求しきれないマスコミの不甲斐なさを嘆き、当時の『東京大学新聞』の「監獄入りを辞さない精神、それがニクソンを追い込んだアメリカの新聞だ」という記事を取り上げている。

 ウォーターゲート事件でニクソンを追い詰めたのは「ワシントン・ポスト」紙だった。そのときの新聞社の社長キャサリン・グレアムが、取材に当っていた若い記者に
「いざとなれば、私が監獄へ入ります」
と励ましていたという。

 また、『ニューヨーク・タイムズ』が国防省のベトナム戦争秘密文書を入手したとき(エルズバーク事件 エルズバーグがニール・シーハン記者にコピーを渡した))、顧問弁護士が全員反対を唱えていたが、社主のザルツバーガーは、記者を信頼して公表に踏み切った。しかも、そのとき彼が編集局へ貼り出した標語が「INTO JAIL」つまり「監獄へ」だった。それが記者たちの合言葉になって、社内のすべての人間が「INTO JAIL」といいながら頑張ったという。羽仁さんはこの標語を第四章の表題に選んだのだった。

 ぼくは、今日本の新聞が掲げる標語があるとすれば、それは《INTO JAIL》しかないと思うんだ。少なくとも《新聞が守るなんでも言える国》なんていうシラジラしいものであってはならないんだよ。日本人には監獄という言葉がピンとこないとしたら《牢獄へ》でも、《刑務所へ》でもいいんだ。

 田中角栄の金脈事件を追及するということは、新聞記者も監獄へ入れられるかも知れぬという覚悟をして取材し発表していくような性質のものなんだよ。あのキャサリン・グレアム女史やザルツバーガーの言葉をジャーナリストは忘れてはならないと思う。

 『ワシントン・ポスト』は立派な新聞だとか、『ニューヨーク・タイムズ』はよくやるといったような問題ではなく、日本の現状を救うには日本の新聞がしっかりしなくてはだめということを新聞人が自覚する以外にないんだ。朝日の広岡知男君(当時の社長)にしても、このグレアム女史の言葉を前にして恥ずかしくはないのだろうか。

 『東京大学新聞』は、もうひとつ重要なことをいっている。それは、いわゆる新聞社の横の連帯についてだ。ベトナム秘密文書を連載し始めた『ニューヨーク・タイムズ』は、国防総省の訴えで裁判所から記事差し止め命令を出された。ところが二、三日たつと、その続きが『ワシントン・ポスト』に連載され始めたんだ。これもまた記事差し止め命令を受ける。すると今度は『ロサンゼルス・タイムズ』がその続きを載せたんだね。むろん記事差し止め命令が出された。これを引き継いだのは『ボストン・エスクワイヤー』なんだ。つまりつぎつぎに新聞が連帯して闘い続けたんだよ。

 こういうふうに、ひとつの新聞が弾圧を受けたら、全部が黙ってしまうのではなく、日本でいえば朝日がやられたら毎日が引き継いで、毎日が弾圧を受けたらすかさず読売がやるというふうにやらなくては、とてもあすこまでやれないんだよ。それができなかったから、東条が政権をとり、侵略戦争を始め、とうとう原爆を落とされるところまで行ってしまったんだ。

 自分が監獄へ行く決意をすれば、それは監獄へ行かなくてすむことになる。自分が監獄へ入るのをいやがったときに、結局入れられるハメになってしまう。原爆というのは、もっとひどいんだ。それを忘れちゃいけない。これは、ぼくだけでなく、日本人全体がこの間の戦争では、自分が捕まるのはいやだというので、ことにインテリはみんな逃げてしまった。捕まった人はほんの少数だったが、三木清や戸坂潤のように獄死させられている。それは、みんなで監獄へ入る決心をしなかったからなんだ。相手を追い落とすためには、こちら側の決意がなければできない。ここのところが実に大切なんだ。

 節を曲げずに逮捕され拷問も受けた羽仁さんの言説だから説得力があるが、じゃおまえはどうすると問われれば、情けないことながら、これまでのようにせいぜい非暴力直接行動の最後尾について行くぐらいで、それ以上は「私にはできません」としか答えられないだろう。

 次回は、上の引用文で触れられている戦中のジャーナリズムの死と、死にいたる道を進みつつあるような現今のジャーナリズムの有様についての談話を読むことにしよう。
《『羽仁五郎の大予言』を読む》(64)

権力が教育を破壊する(48)

教育反動(40):遂にここに極まれり(4)の追記


(前回で終わる予定でしたが、一つ追記することにしました。)

 破壊されているのは教育だけではない。政治・経済の全てが惨憺たる状況に瀕している。前回「ブルジョア民主主義国家から真の民主主義国家に生まれ変わる外ない」と書いたのは勿論教育に限定して述べたわけではない。そして、「そのための蟻の一穴は、地方共同体が一つでも多く真の民主主義を獲得していくことだと思っている。しかし、その道は細く長く険しいだろう」とも書いたが、「その道」の具体的な筋道に触れなったことが不満だった。その「道筋」について追記したい。

 まず、「真の民主主義」とは何か、を復習しておこう。まず『吉本隆明の「ユートピア論」(4)』で「理想的な社会像」として、吉本さんが描く「社会主義のモデル」(これは言い換えれば「真の民主主義」)を紹介したが、それは次のようであった。

①賃労働が存在しないこと
②労働者・大衆・市民がじぶんたち相互の直接の合意で、直接に動員できないような軍隊や武装弾圧力をもたないこと
③国家は、存在しているかぎりは、労働者・大衆・市民にたいしていつも開かれていること。いいかえれば、いつでも無記名の直接の票決でリコールできる装置をもっていること
④私有では労働者・大衆・市民の障害や不利益になる「生産の手段」にかぎり、「社会的な共有」とすること

 ①②④は国家が死滅した最終的な理想像である。そして、③の「政治的リコール権」こそが開かれた健全な真の民主制に至る道である。言い換えれば、吉本国家論のキーワードである「国家を開く」ことに当たる。「国家を開く」という言葉はこれまでに十数回ほども使っているだろうか。直近では『世界同時ファシズムの脅威(4)』で用いている。そこでは次のように書いた。

<国家を開く>とは、言い換えれば<真の民主主義を確立する>ことである。その道は、労働運動も市民運動も、そして地方議会も、さらにそして私たちの日常生活においても、この観点から独占資本の傀儡政府を監視し、異議を唱え続けるほかにはないと思う。」

 そして前回、私は
「そのための蟻の一穴は、地方共同体が一つでも多く真の民主主義を獲得していくことだと思っている。しかし、その道は細く長く険しいだろう」
と書いたが、要するに「地方議会を開く」ことが「国家を開く」ための「蟻の一穴」になるだろうということだった。

 さて、「地方自治」という言葉がよく使われるが、「民主主義」と同様、現在の「地方自治」は「真の自治」とは言えない。特に国会の与党所属の地方議員のほとんどは、国政の動向に沿った道を歩くしか能がない。また、今回の統一地方選挙では深刻な問題が指摘されている。選挙告示の翌日4日の東京新聞一面の見出しは「無投票当選 最悪 ― 21%審判受けず」だった。そして、その無投票当選の7割は自民党公認候補者だという。また議会での一般質問では無所属議員の持ち時間がわずかであるとの報道もあった。この状況について東京新聞は「なぜ、地方選挙で無投票当選が増えているのか。対策はないのか。」という問いで、「識者に聞く」というコラム記事を掲載している。「なぜ」については次のような指摘があった。

「地域のネットワークの希薄化が進み、地域代表として推薦され、出馬する候補者が少なくなっている」
「政策をつくって地方行政に反映しようとしても、依然として多数会派の意見が優先される傾向が強く、真面目に政治のことを考える人ほど出にくい」(以上、松本正生埼玉大教授)
「政治家になりたい人が少ないのは選挙に金がかかり、勝てると思えないと出られないためだ。新人はチャレンジしにくい。」
「昔と比べて報酬が下がり、議席を競えるような政党が少ない」(以上、玉克哉三重大副学長)

 「対策」については玉氏がつぎのような提言をしている。

「定数二、三人の選挙区だと小さな政党は当選が難しい。選挙区を広げる」
「新人でも出馬しやすいよう二ヵ月の選挙休暇が取れる仕組みの導入」
「県議選の出馬は六十万円、政令市議選は五十万円の供託金が必要だが、なくすべきだ」

 提言は現在の制度の枠組み内での意見であり、これだけではとても「真の自治」への端緒とはなり得ない。

 ところで、今回の統一地方選に関連して、東京新聞が『これからの「政治」の話をしよう』と題して、いろいろな人の意見を聞く連載記事を、4月3日から掲載している。その第一回目の担当記者がまとめの文で『地方自治は「民主主義の学校」といわれる』と書いていた。私の今回のテーマに即して言い換えれば『地方自治は「真の民主主義構築の端緒」』となる。そしてこの連載記事の第四回の上野千鶴子さんの意見がその「端緒」となるべき方策を語っていたので、それを紹介すべく、追記を書くことにしたわけだった。

 現在、男女格差が大きな社会問題になっている。地方議員選挙についても「女性枠」の導入がいろいろと論じられている。『これからの「政治」の話をしよう(2)』では小島慶子という方が「クオータ制(人数割当制)の導入は必要」と論じている。これに対して上野さんは『こと政治に関しては「議員の性別にはこだわらない」』と言う。何故か。上野さんの談話をまとめた記事(担当記者は高島碧さん)を転載しよう。

「ただ女性議員が増えればいい、という時代は終わった。政党の駒ではなく、自分ひとりの責任で判断する議員が必要。そのために立候補者が誰のために働くのかを見極めないといけない」

 必要なのは、組織のためではなく市民の下働きとして汗を流す市民派議員だというのだ。

 統一地方選に向け、昨年10月に「市民派議員になるための本」(寺町みどりさん、寺町知正さん共著)を新たにプロデュースした。その序文で「地方議員をパートタイム議員に」と提唱している。パートタイム議員とは、生業(なりわい)は別に維持したまま、市民のために働く議員。職業政治家の特権をなくし、政治を有償ボランティアと捉え直すべきだという。パートでいいなら議員になるハードルはぐっと下がる。

若い人が職を辞して議員になるのはコストが大きすぎる。アフターファイブに委員会方式で話し合って、それを年数回の全体会で決定していくようにすればいい」

 審議会のメンバーも、テーマごとに当事者を公募すればいいと提案。子育ての議論には若い母親も加えるなど、暮らしの現場にいる人々でつくる議会をイメージする。「ITを活用し、障害者にはスカイプ(インターネット電話)や車いすで参加してもらう」とも。確かにパート議員ならマイノリティーも加わりやすい。

 とっぴなアイデアにみえるが、それが本来の「自治」という。

「市民が自分たちで物事を決めていく自治の必要性は、東日本大震災以降、一層、高まっている」と指摘する。脱原発を望む国民は多いのに、国と電力会社は原発再稼働を推し進め、地元議会が追認していく。「このずれは声を上げれば変えられる」

 具体例として挙げたのが、東京の母親たちの「保育所一揆」だ。昨年2月、認可保育所の選考から漏れた母親たちが集団で杉並区に異議を申し立てた。進まない保育所対策に業を煮やした母親たちの共感を呼び、各地で異議申し立てが続出。自治体も認可保育所の増設に本腰を入れざるを得なくなっている。

 上野さんは、地方選こそ市民の声を生かす機会と強調し、自信に満ちた表情で話した。

「私たちの一番の敵は無力感。小さな目標を設定して変化を実感する『やったぜ感』を味わうといい」

 上野さんのこの提言はまさに「真の自治」を獲得するための示唆に富んだ提言だと言える。「真の民主主義(真の自治)」を獲得していくための「蟻の一穴」たり得る。そしてやはり「その道は細く長く険しいだろう」が、かなりの可能性を秘めている、と私は思う。
《『羽仁五郎の大予言』を読む》(63)

権力が教育を破壊する(47)

教育反動(39):遂にここに極まれり(4)


 戦前の内務省官僚の体質を引き継いだ文科省官僚と財閥(財界)の傀儡政権である自民党(以下、「反動勢力」と呼ぶことにする)が躍起となって行ってきた教育反動が到達した現在の教育政策を単純化してまとめれば、「規制」(国家による教育管理の強化)と「自由」(教育への市場原理の導入)という、本来なら相容れない二方向の政策に引き裂かれている図が描かれよう。国民は強引な教育規制を受け入れざるを得ないと同時に、自由な選択を競って分断される。反動勢力にとって、この矛盾を矛盾とは思わない「国民」の育成が喫緊の課題となる。そのような国民は「道徳教育」によって育成される。特に「愛国心」の育成が要となる。反動勢力が「道徳教育」に躍起になっている理由の一つである。

 思えば、このような構図は現在に限ったことではない。近代国家成立以来の、教育を「国家による国民形成」と考える「近代教育」を貫徹している宿痾である。自立した真の国民が育成されるためには、このような隘路から抜け出る外ない。大上段に振りかぶると、ブルジョア民主主義国家から真の民主主義国家に生まれ変わる外ない。しかし、いわゆる「革命」は望むべくもない。そのための蟻の一穴は、地方共同体が一つでも多く真の民主主義を獲得していくことだと思っている。しかし、その道は細く長く険しいだろう。(ブルジョア民主主義国家については「 統治形態論・「民主主義」とは何か」「日本の支配者は誰か」を参照して下さい)。

 さて、こうした「近代教育」について、山本さんは「すでに耐用年数を超えたシステム」だと論断している。この教科書Eの結語に当たる文章を少し長いが全文引用しておこう。

 このような(注:「規制」と「自由」という矛盾を「愛国心」などをよりどころに貫徹する)論理が成り立つのは、教育を「国家による国民形成」ととらえることを最大の前提とする近代教育」の枠組みが、広く一般的な思考様式として存立している限りにおいてのことである。あるいは「近代教育」という枠組みの内部において、教育政策プランが策定されている限りにおいてのことである。

 しかしながら、すでに「国家による国民形成形」という教育上のシステムは、21世紀の現今社会にあって、それ自体が相当の制度疲労を起こし、すでに耐用年数の限界を超えているのではないか。校内暴力、いじめ、不登校、学級崩壊、体罰などの教育問題の頻発や教育委員会制度の疲弊はもとより、昨今における教育政策上の動揺と振幅、とりわけ「ゆとり」と「学力向上」をめぐる教育政策上の迷走は、まさに「近代教育」の制度的枠組みが、その歴史的使命を終焉させようとしていることの徴候と見るべきなのではないのか。

 だとすれば、少なくとも様々な教育問題の存在が顕著に浮上した1980年代頃から、すでに「近代教育」システムの制度疲労が深刻な拡散を示しつつあった可能性は否定できない。だが、それ以降の様々な教育改革論議や教育政策策定において、「近代教育」の枠組みそれ自体のあり方を吟味し、その枠組み自体の改革を志向する動きは、ほとんどこれを認めることができない。すでに耐用年数を超えたシステムを、そのシステムの存立を前提に見直そうとしても、そこに無理が生ずるのは誰の目にも明らかである。

 仮に、近年の教育政策動向を、制度疲労によって生じた様々な不具合を「市場原理」や「自由競争」の導入によって見えづらいものにし、実際に残された不具合を「愛国心」や「公共心」の育成によって修繕しようとするものと見ることができるのなら、この施策が「付け焼き刃」的な処方にすぎず、それが問題の根本的解決へのアプローチたりえないことは論をまたない。

 問題の所在へと根本的なアプローチを推し進めるためには、何よりも「国家による国民形成」という「近代教育」の枠組み自体を、それとは異なる外部的視座から批判的に吟味する必要がある。そのためには、「近代教育」成立の前提をなした「制度としての教育」の歴史的意味 ― すなわち、「制度としての教育」の最も重要な契機をなした政治の力が、教育の仕事の意味を国家統治や国家経営のための人材形成と見なす傾向にあること ― に再度重要な視線を投じなければならない。そして、それは歴史上「制度としての教育」の次の段階に位置づけられうる教育のかたちを構想する仕事になるだろう。

 もちろん現時点において、その構想は輪郭すら不透明であり、構想の可能性や実効性も未知数である。おそらく確かなことは、新しい教育のかたちを構想するための最も貴重な示唆は「歴史」の中に所在する、ということなのであろう。だからこそ、私たちは、教育が「習俗として行われていた段階」「組織を通して行われるようになった段階」の各段階にいかなる教育的価値が存在していたのか、そして、それらの中のいかなる価値が「制度としての教育」段階において喪失させられてしまったのかを、丹念かつ精緻に吟味していくことが求められているのである。

 21世紀に入ってからの反動勢力による教育政策の迷走を率先して強権的に推し進めたのが石原慎太郎だった。その結果はどうだったのか。それを見定めることが、私がこのブログを始めた直接の動機だった。改めてこの問題に関する記事を紹介しておこう。
「石原の都立高校支配の実態」
『「日の丸君が代の強制」と闘う人たち』

 上の記事は10年ほども前のものである。現在の状況はどうなのだろうか。最近保存した資料が結構たくさんあるが、その中から特に残ったものを三つ紹介しよう。(全て「都教委包囲首都圏ネットワーク」・「新芽ML」の渡部さんのメールからの引用です。)

 前回のメール(4月9日)で「教育勅語」原本の発見について書きました。

 そうしたところ、本日(4月16日)の「Web東奥」(東奥日報社)に、<誰が何のために? 青森高校1年生281人全員の机の上に「教育勅語」>という記事が出ました。「学校関係者は“珍事”に首をひねっている」と言っていますが、これは決して珍事ではありません。原本の発見と深い関わりがあると考えるのが当然です。

 現在このような形で、次々と「戦前回帰」現象が進んでいます。行き着く先は「戦前教育体制の肯定」ということに帰するでしょう。 すでに、「日の丸・君が代」の強制、「愛国心」の導入が進み、教科書検定強化、「道徳」の教科化、教育委員会の(行政への)下請け機関化が進みつつあります。私たちが考えている以上に事態は進行しています。一言で言うならば、新たな帝国主義的教育体制の確立です。

 そういえば、今年の一月初め頃に、産経新聞が報道したという記事を思い出した。塚本幼稚園という大阪市の幼稚園で、幼児たちに「教育勅語」や「五箇条の御誓文」を朗唱させているというのだ。そして、その幼稚園を訪れた安倍昭恵が感涙にむせんだというのだった。幼児教育までここまで劣化しているのかと、あきれてしまった。もっとも自らの子供をこのような幼稚園に通わせている親たちにとっては優秀な幼稚園なのだろう。ああ、可哀想な子供たち!!


 以下は千葉県高等学校教職員組合の仲間から送られてきたメールからです。千葉県の高校現場の実態がわかると思いますので、 紹介します。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~

 5月17日の千葉県高教組の拡大中央委員会では、安倍暴走内閣と県教育委員会による教育破壊攻撃への怒りの声が渦巻きました。その要旨を紹介します。

<「所得制限」で事務量が激増>
 安倍内閣による「高校授業料無償化の所得制限」は高校の事務職員に膨大な事務量を押しつけています。次のような告発と怒りの発言がありました。

 高校授業料無償化の所得制限では、定時制の事務職員も9:30頃には来て全日制の4人の事務職員と一緒に所得制限の書類のチェックの仕事をしている。

 高額所得者の授業料徴収を取るというのであれば、学校で所得のチェックをするより、高額所得者の所得税率を少し上げれば済むはず。ある事務職員は「事務職員で安倍内閣を支持する人は誰もいません」と語っています。

<4月に授業担当者がいない>
 学校現場の教職員不足は深刻です。4月になっても授業を担当する人員が確保できていない学校があいついでいます。次のような実態の発言がありました。

 私の高校の家庭科は4単位にしたので、正規教員が2人必要である。しかし、3月に臨時任用講師が来ると知らされたが、その講師が4月1日に辞退した。そのため、別の人を探さなくてはならなくなった。しかし、県教委は、校長に「動いてはいけない」と指示しながら、 なかなか非常勤講師を探せなかった。そのため、4月の3年生の家庭科の授業の半分は、普通科の授業をしてもらい、半分は自習。5月7日にやっと3人の非常勤講師が来た。

 今年4月に来る予定だった地学の先生は3月から入院していた。4月になっても入院中で、診断書がないので講師も探せない。ようやく4月2週目に診断書が出て、4月23日にやっと講師が来た。しかし、その講師は5月30日までの契約。7月まで入院が続くとも聞いているが、その後はどうなるかわからない。校長も異動してくる人が入院中だとは知らなかったと怒っている。入院中の人まで異動させるのは問題。

<深夜11時まで働かされている>
 学校は多忙を極め、どの学校でも深夜まで働かせられている実態が広がっています。次のような悲惨な状態が報告されました。

 若い人たちは10時11時まで学校に残って仕事をしている。シラバス(講義内容紹介)に意味があるのか。若い教職員はシラバスに授業内容が制約されている。平常点をどうするかを教科会議で延々議論している。しかも、シラバスにA3の表紙をつけて保護者にも渡している。それを教務の担当者がミスがないかチェックしている。 学校評価、授業評価など無意味な仕事が多すぎる。余計な仕事を精選し、切り捨てる運動が必要。

 定時制に勤務しているが、全日制の20代の教職員の勤務が過重で、定時制より遅くなっている。定時制は9:50にアラームを設置しているが、それより遅くなっている。

(以下、その2)

<多すぎる異動…24人も>
 最近の学校現場の異動数は多すぎます。職員の3分の1以上が異動した例も生まれています。次のような疑問が語られました。

 3月に24人が人事異動で転出し、27人が転入した。70人ほどの職員の3分の1以上で多すぎる。しかも、転入者の中で非常勤講師が5~6人、再任用教員が5~6人、新卒4~5人と多すぎる。

<不祥事根絶の目標を書け?>
 目標申告に「数値目標」を入れろとか、「不祥事根絶」の目標を書けと言われている学校が増えています。次のような職場状況が話題になりました。

 目標申告に「数値目標」を入れろと言われている。入れないと突き返される。

 目標申告に「不祥事根絶」の目標を書けと言われた。

 目標申告に「数値目標」として「保護者の満足度85%以上」と書けと言われている。

<専門性を無視した人事ばかり>
 専門性を無視した人事に、工業高校から次のような困惑の発言が相次ぎました。

 土木科があるが、土木専門の教員はほとんどいなくて、建築専門の教員ばかりで困っている。

 建築科に建築専門の教職員がいなくて困っている。再任用教員も機械専門の教員と土木専門の教員で、建築の専門の授業はできない。土木と建築がごちゃまぜになっている。

<「入試一本化」見送りにどよめき>
 「高校入試の一本化」が見送りに驚きと怒りの声が上がりました。多忙と教育破壊の原因の「5教科2回の学力検査に対して、「一刻も早くやめさせよう!」という次の発言がありました。

 職場で「入試一本化」が見送られたことに「どよめき」が起きた。校長も「私も一本化になると思っていた」と驚いていた。もっと運動を強めるべき。

<消費税8%で通勤の高速料金が2倍に>
 安倍内閣が強行した消費税増税の影響が出ているという次の発言もありました。

 90分かけて80㎞の遠距離通勤をしている。高速道路を使うが、以前は6時前に通過すれば900円だった高速料金が、消費税が8%に上がったために2010円に上がった。

他にも、「再任用教職員には扶養手当などが出ない」、「卒業生がブラック企業に入り、毎日の帰りが夜の12時前。高教組として労働基準法などをわかりやすく知らせるパンフレットを高校生に配布すべき」などの意見も出されました。 ~~~~~~~~~~~~~~~
まさに凄まじいばかりの現場の実態です。しかもその内容が酷い。教育条件は悪化する一方で、かつ賃金・退職金も大きく下がっている中で、教員は多忙化に苛まれ、<シラバス>や<目標申告>などについては、生徒の実態抜きの「机上の空論」に延々と時間をかけさせられています。これでは教員は疲れ果て、教育内容は形骸化し、生きたダイナミックな教育はできないでしょう。 教員にとっても生徒にとっても学校はますますつまらなくなるでしょう。「教育再生」どころか「教育破壊」がますます進行するでしょう。どこかで、誰かが(否、みんなが)、大声で、上(管理職、教育委員会、文部科学省)に向かって「いい加減にしろ!!」という必要があると思います。でなければ、「このままでは殺されてしまう」として、「ストライキ!!」です。

 だいぶ長くなりましたが、最後に「君が代」不起立を続けている田中聡史さんに対する思想変更を迫る「再発防止研修」の抗議・支援行動に参加された方の発言。

 生徒が軍隊みたいな学校で辞めたいと言っていた。生徒指導部長は、生徒たちを怒鳴り散らしていた。担任もちょっとしたことで生徒の胸ぐらをつかんで怒鳴っていた。今の学校は荒廃している。生徒の人権侵害、暴言暴力が横行している。そのことを校長に訴えても『生徒から苦情が来ていないので、何の問題もない』と言う。教員の人権も踏みにじられている。今の都立学校に言論の自由、民主主義はない。全部上意下達で、教員をロボットのようにこき使っている。意味のない事務仕事で朝の7時ころから夜の10時ころまでパソコンに向かって事務作業が強いられる。その象徴が『日の丸・君が代』だ。間違っている。研修はイジメだ。

 予想していた倍ぐらいの長さになってしまいましたが、これで「権力が教育を破壊する」を終わることにします。
《『羽仁五郎の大予言』を読む》(62)

権力が教育を破壊する(46)

教育反動(38):遂にここに極まれり(3)


《教育への市場原理の導入》

 「教育への市場原理の導入」を象徴する第1の施策は
(1)「学校選択制」
であるが、これとの関連事項として、次のような政策が打ち出されている。
(2)「特色ある学校づくり」
(3)「教育バウチャー制」
(4)「学校評価」
 この四つの施策の動向を追っていこう。

(1)「学校選択制」

 この施策は「「教育の自由化」論」で取り上げたように既に臨教審に発端があった。そこでは「学校の多様化を促し、学校選択の自由化を進めるべき」との主張が盛り込まれていた。それに対して、文部省は学校選択制の導入には慎重な姿勢を示していたが、「いじめ」の問題や通学区域の非合理性(例えば、最も近距離の学校に通学できないといった)の問題に対応するために、1997年1月に「通学区域の弾力的運用について」を各都道府県教育委員会に通知した。その後、次のような動きが続いた。

2000年
 東京都品川区が学校選択制を導入。

 これが、この制度に全国的な注目を集めるきっかけになった。

2003年3月
 「学校教育法施行規則」の一部改正により、各教育委員会は、その判断に基づいて学校選択制を導入することが可能となる。

 2006年に実施された文部科学省の調査によれば、学校選択制を実施している自治体は、
小学校段階(1696自治体)で240(14.2%)
中学校段階(1329自治体)で185(23.9%)
 必ずしも多いとは言えないが、上記の「通学区域の弾力的運用について」を通知した1997年での学校選択制導入の自治体数が、小学校65、中学校30であったことからすれば、学校選択制の導入が徐々に拡がってきていることが分る。文科省の資料を調べてみたら、2012年では小学校88.2%、中学校71.1パーセントとなっていた。

(2)「特色ある学校づくり」

 このテーマに基づいて行われている施策で近年注目を集めているのが「中高一貫教育校」開設の動きである。

 中高一貫教育校が制度化された経緯は次のようである
1997年6月
 中教審第二次答申「21世紀を展望した我が国の教育の在り方について」で提示。
1998年6月
 中等教育学校という名称で「学校教育法等の一部を改正する法律」に盛り込まれ、1999年4月から制度化された。

 1999年度には全国に4校が開設されたが、その後増加を続け、制度発足10年後の2009年度には370校となり、さらに2012年度には私立・国立を含めて全国に441枚が設置されている(公立184校、私立252枚、国立5校)。

 中央教育審議会第二次答申では中高一貫教育校設立の趣旨は、「中等教育の一層の多様化と生徒の個性を重視する教育の推進」とされているが、この中等教育学校について、山本さんは次のような危惧を述べている。

「これらの学校での一貫教育が進学・就職実績を第一義的に目指すようになれば、またそれが上述の学校選択制と結びつけられるならば、その存在は、容易に学校の序列化や格差化を促進するように機能することが予想される。」

(3)「教育バウチャー制」

 「教育バウチャー制」という聞き慣れない用語の意味を調べてみた。「バウチャー voucher」は「引換券・割引券」という意で使われており、ウィキペディアによると「教育バウチャー制」は次のような制度を指す。
「私立学校の学費など、学校教育に使用目的を限定した「クーポン」を子供や保護者に直接支給することで、子供が私立学校に通う家庭の学費負担を軽減するとともに、学校選択の幅を広げることで、学校間の競争により学校教育の質全体を引き上げようという私学補助金政策である。」 制度である。ただし、
「実際の運用にはクーポン券を直接家庭にくばる必要はなく、また補助金額を単純に個々の生徒に比例させる必要もない。何らかのかたちで学校への補助金の大部分が生徒数に応じて決定されるようなメカニズムを導入すればそれがバウチャー政策となる。」

 さて、日本でのこの制度の導入はどうなっているだろうか。
2005年10月
 文科省、「教育バウチャーに関する研究会」を発足。
 この制度の検討や諸外国事例の調査を行ったが、国の政策として実施されるには至らなかった。(ちなみに、このときの調査・検討は文科省のHPに公開されている。「教育バウチャーに関する研究会 教育バウチャーに関する検討」)

 上の報告を読むと、教育バウチャーの導入については文科省は慎重であったことが分る。しかし、第一次安倍内閣はこれを教育改革の目玉の一つとした。そして、安倍内閣が設置した教育再生会議がこれを提言している。

2007年12月
 教育再生会議第三次報告の中で、学校選択制の促進と、児童生徒数を勘案した予算配分を提言。
 同報告は、学校教育の質を高めるためには「適正な競争原理」を導入することが必要だとした上で、その方策として、

 画一的な教育や悪平等の弊害を改めて、各学校が授業や課外活動での創意工夫と情報公開を進める、

 それに基づいて、児童生徒や保護者が主体的に学校を選択できるようにする、

 この学校選択制によって、児童生徒が多く集まり、保護者からの厚い信頼が寄せられた学校に予算配分を増やす、

 この「バウチャー的な考え方」により、学校や教職員のインセンティブが働くようにする、などを提言した。しかし、「教育格差を拡大させる」として文部科学省から慎重論が出たことや安倍晋三の辞任により、事実上見送られた。以上を踏まえて、山本さんは次のようにコメントしている。
「今後の教育バウチャー制の導入・実施は不透明ではあるが、学校選択制の普及との関連において、その動向はこれを注視していく必要がある。」

(4)「学校評価」

 小・中学校などにおける自己評価の必要性については、次のような答申や報告で言及されてきた。
1998年9月
 中央教育審議会答申「今後の地方教育行政の在り方について」
2000年12月
 教育課程審議会答申「児童生徒の学習と教育課程の実施状況の評価の在り方について」
2000年12月
 教育改革国民会議最終報告

 そしてこれを制度化したのが、
2002年3月の「小学校設置基準」ならびに「中学校設置基準」の制定(幼稚園及び高等学校は設置基準の一部改正)であった。

 しかしこの時点では、学校の自己点検・評価とその結果の公表は努力義務とされていたが、その後、
2007年6月の「学校教育法」の一部改正と、同年10月の「学校教育法施行規則」の一部改正により、自己評価の実施・公表とその評価結果の設置者への報告が義務づけられ、さらに保護者など学校関係者による評価の実施・公表が努力義務とされた。

 文科省の学校評価等実施状況調査によれば、公立学校(幼稚園、小学校、中学校、高等学校、中等教育学校、特別支援学校)では、努力義務である学校関係者評価についても、
2008年度間は81.0% 2011年度間では93.7% の学校がこれを実施している。

 この学校評価についての山本さんのコメントは次のようである。
「学校評価は、もとより各学校における教育活動や学校運営の充実・改善、あるいは保護者や地域社会との連携協力に資することを目指して行われるものであり、その限りでは前向きに考えられるべきものである。だが、これが上記の学校選択制や教育バウチャー制を前提として行われる色彩の濃いものになるならば、それは各学校を競争と序列化の世界に追い込むことになりかねない。この動向についても、今後、冷静な分析を加え続けていく必要が認められるのである。」

 以上のように、「学校選択制」「特色ある学校づくり」「教育バウチャー制」「学校評価」という四つの施策は個々に切り離して評価することはほとんど無意味である。その全体を「教育への市場原理の導入」という観点から考察するとき、初めてその本質が見えてくる。