2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《『羽仁五郎の大予言』を読む》(62)

権力が教育を破壊する(45)

教育反動(37):遂にここに極まれり(2)


 教育再生会議の第一次報告前後には安倍内閣による教育破壊政策が強行されている。
2006年12月15日
 改悪「教育基本法」を強行採決
2007年1月24日
 教育再生会議、第一次報告提出
2007年6月20日
 「教育三法」を強行採決
2008年

 ところで、「教育基本法」改悪の時、私も国会前の反対運動に参加していて、つたない報告を書いている。
「国会前でのハンガーストライキ始まる。」
「新たなる闘いのスタート」
をご覧ください。

 さて、教育再生会議による議論はこのような法改悪スケジュールと歩調を合わせながら進められたのであった。その教育再生会議が第一次報告で提言した主な項目は次のようである。

 ゆとり教育の見直し(授業時数の10%増)

 学力の向上(全国学力調査の実施)

 いじめ対策(出席停止制度と毅然たる指導体制)

 徳育の充実と体験学習の推進

 教員の質の向上(教員免許更新制の実施)

 教育システムの改革(第三者による学校評価システムの導入、副校長:主幹等の管理職の新設)

 教育委員会制度の改善

 「社会総がかり」での教育参画

 このうち、①は2008年1月の中教審答申に基づく改訂「学習指導要領」によって具体化されて、④もその方針が「学習指導要領」に盛り込まれた。また、③は、2007年度から全国の小学校6年生および中学校3年生を対象に「全国学力・学習状況調査」が実施されることになる。さらに⑧はすでに「教育基本法」第13条に「学校、家庭及び地域住民その他の関係者は、教育におけるそれぞれの役割と責任を自覚するとともに、相互の連携及び協力に努めるものとする」と、その趣旨が明示されていた。

 こうして、教育再生会議の諸提言は、「教育三法」の成立によってその具体化・実効化か推し進められていくことになる。この「教育三法」と呼ばれている法律は
 「学校教育法」
 「地方教育行政の組織及び運営に関する法律」
 「教育職員免許法及び教育公務員特例法」
の「一部を改正する法律」を指している。

 山本さんは、教育再生会議の提言は「臨教審以降の教育政策動向の延長線上に位置づけられるものであり、その後の教育政策のゆくえを示唆している」と言い、大きく「国家による教育管理の強化」と「教育への市場原理の導入」という二つの傾向を指摘している。この二つの傾向が「教育基本法」と「教育三法」にどのように盛り込まれているのか。山本さんの分析を追いながら私見を述べていこう。

《国家による教育管理の強化》

「教育基本法」
 愛国心や公共心の涵養といった国民の精神生活に関わる目標が規定され、その達成が強調された。さらに、家庭や地域における人々のあり方を律するような規定が設けられる一方、逆に国家権力に拘束を与える規範としての性格は弱められている。

 「教育基本法」のこうした傾向は、当然「学校教育法」や「学習指導要領」に反映される。

「学校教育法」
 第21条には10項目の教育目標が規定され、規範意識・公共の精神・文化伝統の尊重・愛国心・愛郷心などの涵養が盛り込まれた。これはその後道徳教育の強化につながり、さらに現在は道徳教育の教科化にまで魔手を伸ばそうとしている。道徳の教科化について、東京新聞の「発言」欄への投稿記事を二つ紹介しよう。

 まず、実際に道徳教育にたずさわった方の意見。道徳教育の問題点がすっきりと指摘されている。

苦悩する現場
 元教員渡辺孝子60 (横浜市栄区)

 道徳の教科化について述べます。学校で道徳の係を担当していましたが、嫌でした。結論ありきの文章を生徒に提供するのが嫌でした。

 自分で教材を提供できず、でも対立する複数の考えが導き出せるような教材をあちこち探しました。教科書会社の道徳本を随分読みましたが、満足できるのはありませんでした。生徒が自分の考えを緊張せずに披露しあえる教材が欲しかったのです。

 そういう教室の雰囲気をつくりたいと思いました。中学生でも優しい心の持ち主が、作文上手ばかりとは限りません。その逆もあることでしょう。教科にするとは、評価の根拠とは作文力でしょうか。

 また、提供された教材のテーマを的確に捉える理解力でしょうか。言葉で伝える力が道徳の力でしょうか。現役の先生たちの苦悩が見えてきます。

 次は中学生の投稿。このようにしっかりした中学生がいるとは、ガキ大将で遊んでいた自分の中学時代を顧みて、ほとほと感心してしまった。

正解ない道徳 評価おかしい
  中学生 松元恵莉13 (東京都立川市)

 文部科学省は「道徳」の教科化を、小学校では2018度から、中学校は19年度から実施するそうです。授業で検定教科書を使い学習評価も始まります。文科省は「読むだけの読み物道徳から、考え、議論する道徳への転換を目指す」と説明。学習評価は1~5の数値式ではなく記述式にする方針です。しかし、私はこの案に反対です。

 道徳は正解のない教科で評価するのは変だと思います。道徳の教科書通りの考え方に強制させられてしまう不安も感じます。特に「愛国心」という言葉を強調しすぎていて「まるで戦争中みたいだな」と思いました。中学校は19年度からなので、私たちは教科となった道徳の授業を受けることはありませんが、見直すべきだと思います。

 「学校教育法」ではもう一つ第37条が問題である。従来の校長・教頭・教諭・養護教諭のほかに、副校長・主幹教諭・指導教諭などを置くことができるものとされた。山本さんは
「教員構成における中間管理職の増員と学校管理体制の強化は、ある意味では、学校の裁量権を拡大しその責任体制を明確にする方策と理解することができるかもしれない。だが実際には、この法改正が、管理職と一般教員との間にどのような関係をもたらすのか、また、学校管理体制の一元化が却って教育行政における上意下達の官僚的支配を強化することにならないのかなど、注視すべき問題が少なからず残されている。」
と危惧されているが、これはもう明らかに「上意下達の官僚的支配」と「教員の分断支配」を狙ったものである。東京都では先取りをして、2000年には人事考課制度を実施し、それをを背景に、2003年から「主幹」制を導入している。その結果都立高校はどうなったか。私は『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たち』の最後の記事として「都立高校の現況」という記事を書いているので、紹介しておきます。

「地方教育行政の組織及び運営に関する法律」
 第50条の規定により、教育行政に対する国の権限が強化された。具体的には、国は教育委員会の運営について、是正・改善に関する「指示」や「是正要求」を行う権限を有するものとされた。すなわち、教育委員会に対する国のチェック機能を強化することで、国の意志がより鮮明に反映できるように教育行政の仕組みが改められたのである。

 教育委員会については昨年(2014年6月13日)「地方教育行政の組織及び運営に関する法律の一部を改正する法律」が成立している。この改正法は、
①首長による大綱の策定
②総合教育会議の設置
③教育長と教育委員長を一本化した新たな責任者(新教育長)の設置
④教育委員会のチェック機能の強化
⑤国の関与の見直し
などを盛り込んでいる。④は教育委員会による「上意下達」という教育現場支配の強化であり、⑤は「教育委員会に対する国のチェック機能」のさらなる「強化」にほかならない。

「教育職員免許法」
 この法律にいわゆる教員免許更新制が導入され、2009年4月から、原則としてすべての教師に10年ごとに30時間以上の更新講習が義務づけられた。この制度は教育再生会議においては「不適格教員の排除」の一環として打ち出されたものであったが、不適格教員の実態に対する客観的・実証的な検証が不十分なまま、全教員の適格性が定期的にチェックされるシステムがつくられたのであった。またその一方で、この制度導入のそもそもの理由をなした不適格教員に対しては、「教育公務員特例法」の改悪により、「指導改善研修」を課したり、免職その他の必要な借置を講じたりすることができるようになった(第25条第2項および第3項)。この問題について、山本さんは次のように論評している。

「教員の資質向上という方針は、裏返しにいえば、現職教員に対する不信感が重大な背景をなしているといえる。その不信感が、実証的データではなく情緒的な印象に基づくものであるとすれば、この施策の問題性は明らかといわざるをえない。」

 例えば、反知性主義・歴史歪曲主義に従わずに真実を追究しようとする教員の排除、といったような事例に用いられる可能性もなきにしもあらず、ではないか。
スポンサーサイト
《『羽仁五郎の大予言』を読む》(61)

権力が教育を破壊する(44)

教育反動(36):遂にここに極まれり(1)


 自民党にとって、思うままに教育政策を牛耳るためには公選制教育委員会と教育基本法が目の上の大きなたんこぶだった。この二つを掌中に収めるのが一番大きな悲願だった。

 教育委員会を任命制に改悪するための「地方教育行政法」案は1956年6月2日に警官500人動員という醜悪な場を設置して強行採決された(詳しくは「教育反動(13)」をご覧下さい)。この任命制教育委員会が示す自民党べったりの情けない現状はまるで狂育委員会のようである。特に東京都・大阪府の狂育ぶりは目に余るものになっている。

 そして教育委員会改悪の50年後、自民党は教育基本法改悪案を2006年12月15日に、これもまた、強行採決によって成立させている。その経過を追ってみよう。

 臨教審(1984年)を皮切りに首相直属の会議体の設置が積極的に進められてきた。
2000年「教育改革国民会議」
2006年「教育再生会議」
2008年「教育再生懇談会」

 これらの会議体に共通の問題点がある。文科相の諮問機関である中教審と、首相直属の教育審議機関との関係や機能分担が必ずしも明確でないということは前にも指摘したが、もう一つ見逃せない問題がある。その委員構成である。教育界や教育学界の代表者の占める割合が相対的に低下しているのだ。これでは国の教育政策の立案・策定に教育に関する専門的知見や科学的・実証的知見が反映されなくなる恐れが生ずる。つまり、近年においては、時の政権の強い意向により内閣府・首相官邸に組織された会議体の場で、教育や教育学研究の専門家を含めないまま、重要な教育政策の骨格が策定される、という傾向が顕著なものになってきたのである。これは「制度としての教育」のもつ政治主導の論理が、よりあからさまに前面に押し出されてきたことを示している。

 特に、「教育再生会議」は、17名の委員中に教育学者が一人も含まれず、しかもこの会議が緊急に取りまとめた報告は、第一次報告(2007年1月)から最終報告(2008年1月)まで四次に及んだが、その主要な提言はすでに第一次報告に出揃っていたのである。教科書Eは「この会議はその後の教育政策に重要な影響を与えた点において、様々な論議を投じた会議体であった」と指摘している。

 ここで思い出したことがある。私は、その当時、教育再生会議について『「教育再生会議」って、何だ?』(2006年11月12日)という記事を書いている。取り上げている会議の内容は教育再生会議の前の教育改革国民会議のものだが、これが実におもしろい。教育再生会議の報告を検討する前に、それを改めて見ておこう。一往全文を再掲載します。

「教育再生会議」って、何だ?

 北朝鮮の核実験ではしゃぎすぎのマスゴミが「不安だ!脅威だ!制裁だ!」と相変わらず愚民を煽っている。私にはアメリカ(10300)やロシア(16000)をはじめ中国(410)・フランス(350)・イギリス(200)・イスラエル(100~170)・インド(75~110)・パキスタン(50~110)の核保有国の方がはるかに脅威です(括弧内の数字は保有核弾頭数)。これらの国が率先して核放棄をすることがまず肝要だろう。こんな分かりきったことを言うマスゴミはない。これら既成の膨大な核弾頭に比べたら北朝鮮の核実験など線香花火のたぐいだろう。マスゴミはやはりゴミです。
 もちろん、北朝鮮だけでなく、これ以上核保有国など増えてほしくない。

 この北朝鮮の愚行報道に隠れてしまった小さな報道のほうに、むしろ私の関心は向いている。それは、オコチャマランチ狆ゾウ内閣が最重要課題としている「教育」政策の露払いの役割を演じる「教育再生会議」の有識者委員の正式発表です。

 小谷実可子とか義家弘介とか陰山英男とか大衆受けを狙った人選もあり、雑炊委員会です。私は見たことがないが、「女王の教室」というテレビドラマで鬼教師役を演じた女優の天海祐希も候補に挙がっていたらしい。現実とフィクションの区別ができないのですね。天海さんは辞退したそうです。賢明な人です。

 委員会は雑炊で一向にかまわない。なぜなら、何回か会議を開いたうえで、政府の顔色をキチンと読みとった提言をまとめて、マスゴミのフラッシュを受けながら、仰々しく委員長から首相にその報告書を手渡す儀式をして幕となる、のだから。報告内容ははなから決まっている。今までの全ての政府が設置した有識者会議のステレオタイプパターンです。

 でも曲がりなりにも会議は開く。その会議で賢い有識者と呼ばれる賢男賢女諸君はどんな議論をするのだろうか。「教育再生会議」の議論を予想することはできないが、すでに幕を閉じた「教育改革国民会議」における賢男賢女諸君の発言が公表されている。そこからおよその推測はできる。それを見てみよう。

 ほんの少しだけいい発言もあるが、「呆れ蛙」のオンパレードです。思い付きばかりで、教育の理念も理論もない。知性と見識のほどがにじみ出ていて、とても笑える。ご本人たちは大真面目なのでしょうね。

 赤字は私が笑ったところ。青字はなんて単細胞なんだろうなどと批判的になったところ。何故笑ったり批判的になったかはご推察にまかせます。

* 一人一人が取り組む人間性教育の具体策(委員発言の概要)

1.子どもへの方策

対象者 主体
家庭が行うこと
[教育の原点で何をなすべきか]
学校が行うこと
[IT時代の学校と教員の在り方 -たかがIT、されどIT-]
地域が行うこと
[子どものしつけは親がする、大人のしつけは誰がする]
幼児 ~高校生 共通
  • 挨拶をしっかりする
  • 各家庭に「心の庭」(会話と笑いの場)をつくる
  • 「しつけ3原則」の提唱・実施
     甘えるな
      他人に迷惑をかけるな 生かされて生きることを自覚せよ
  • 団地、マンション等に「床の間」を作る
  • 挨拶をしっかりする
  • 教師一人一人が信念を示す
  • 教壇を復活させることなどにより、教師の人格的権威を確立させること
  • 倫理、情操教育を行う
  • 歴史教育を重視する
  • 国語における古典の重視
  • 敬語を使う時間を作る
  • 体育活動、文化活動を教育の柱にすえる
  • スポーツを通じて人間性を育む
  • 夏休みなど長期休暇のあり方の見直し
  • 自然体験、社会体験等の体験学習の義務化
  • 青少年施設、自治公民館等での合宿
  • 遠足でバスを使わせない、お寺で3~5時間座らせる等の「我慢の教育」をする
  • 地域の偉人の副読本を作成・配布する
  • 学校に畳の部屋を作る
  • 学校に教育機関としてのシンボルを設ける
  • 挨拶をしっかりする
  • 「しつけ3原則」の提唱・実施
  • 他人の子どもも誉めよう、叱ろう運動を国民的な運動として行う
  • 通学合宿の実施
  • 有害情報、玩具等へのNPOなどによるチェック、法令による規制
  • 小学生 <小学校高学年>
  • 教育の責任は当人50%、親25%、教師12.5%、一般社会12.5% であることを自覚させる
  • <小学生>
  • 小学校の学習内容を、知識半分、人格形成半分にし、特に人格教育を重視する
  • 基本的な言葉(読む、書く、語る)、社会人が持つべき最低限の算数や理科の知識を教える
  • 簡素な宿舎で約2週間共同生活を行い肉体労働をする
  •  
    中学生   <中学生>
  • 簡素な宿舎で約2週間共同生活を行い肉体労働をする
  •  
    高校生   <高校生>
  • 満18歳で全ての国民に1年ないし2年間の奉仕活動を義務づける
  •  

    2.大人や行政が主体となって家庭、学校、地域で取り組むべきこと

    場所 主体
    家庭(保護者) 学校 地域
    大人、企業
  • 大人自身が反省する
  • 親の責任の自覚
  • 親子関係は鑑 と鏡の関係
  • 家庭教育にもっと父親が参加する
  • 親が人生の目的を持つ
  • 「しつけ3原則」の提唱・実施
  • 地域の大人が道徳の授業をする
  • 有識者ボランティアによる講演活動
  • 企業は1年間に5日程度父親が教育に関われるよう休暇を作る
  • 企業は従業員に対して子育てやボランティアのための休暇を認める
  • 企業は教育に関する書籍や地域の歴史文化に関する書籍を備えた父親文庫を設置する
  • 各分野のプロが当該分野のノウハウを地域へ提供する
  • 名刺に信念を書くなど、大人一人一人が座右の銘、信念を明示する 
  • 行政
  • 子どもを厳しく「飼い馴らす」必要があることを国民にアピールして覚悟してもらう
  • 「ここで時代が変わった」「変わらないと日本が滅びる」というようなことをアナウンスし、ショック療法を行う
  • 国民会議の提言を広く国民に知らせるための積極的な活動
  • 家庭教育について対話できる土壌をつくるため、企業やテレビと協力して古来の諺などを呼びかける
  • 子育てにおいて必要な事項を決めた育児憲章を作る
  • 家庭教育手帳の年度毎の更新、配布
  • 義務教育年限の子どもの扶養控除額を100万円に引き上げる
  • 出産後の親業教育の義務化
  • バーチャル・リアリティは悪であるということをハッキ リと言う
  • 芸術、宗教、文化の領域にかかわる教育を(科学技術と社会科学に次ぐ)第3の教育軸として位置づけ、教育システムの抜本的な再編成を早急に行う
  • 義務教育を大幅に見直し、多様化を図る
  • 一定レベルの家庭教育がなされていない子どもの就学を保留扱いする
  • 他の子どもの学習する権利を妨げる子どもを排除する権限と義務を学校に付与する
  • 問題を抱える学校に指導主事のチームを常駐させる
  • トラブルの処理は学校だけでは無理であり、教育委員会が第3者機関を作り、そこで引き受ける
  • 警察OBを学校に常駐させる
  • 子どもが生き生きと過ごしている学校の分析・検討と情報の提供
  • 部活などが体験学習の妨げにならないよう、曜日時間を限定する
  • 文部省、マスコミが1、2週間程度学校で過ごす
  • 「ここで時代が変わった」「変わらないと日本が滅びる」というようなことをアナウンスし、ショック療法を行う
  • 教育基本法を改正を提起し、従来の惰性的気風を打ち破るための社会的ショック療法とする
  • スローガン、目標を作り大人一人一人の生涯徳育を助長する
  • マスコミと協力したキャンペーンを行う
  • 改革を受け入れる基本的土壌をつくる
  • 中央からの文書は、簡潔・明瞭で官庁用語を使わず解りやすい言葉で住民一人一人に伝わるよう工夫をする
  • 社会教育委員会の開催頻度を増やすとともに、青壮年の男女をバランスよく任命し、地域の教育力を回復する
  • 自治公民館の機能の活性化


  • 《『羽仁五郎の大予言』を読む》(60)

    権力が教育を破壊する(43)

    教育反動(35):21世紀に入って(3)


     1998年に改訂された学習指導要領で打ち出された「ゆとり教育」路線は2008年改訂の「学習指導要領」では見直され、そこからの脱却が図られている。それをめぐる議論を追ってみよう。

     「ゆとり教育」見直しのきっかけとなったのは2003年度の「経済協力開発機構(OECD)」による「生徒の国際学習到達度調査(PISA)」と、もう一つ、「国際教育到達度評価学会(IEA)」による「国際数学・理科教育動向調査(TIMSS)」の成績結果だという。前者は『フィンランドの教育』で紹介した調査である。

     教科書Eはそれぞれの調査における日本の成績を、前回の調査と比較して、その順位の推移を次のようにまとめている。(「前回の順位→2003年の順位」という形で表示ます。)

    《PISA》
     3年ごとに調査。2003年度は41ヵ国参加。
     15歳児(高校一年生)を対象に、小・中学校を卒業した段階での「知識や技能等を実生活の様々な場面で直面する課題にどの程度活用できるかを評価(記述式が中心)」する調査である。「数学的リテラシー」「科学的リテラシー」「読解力」のほかに、今回は「問題解決能力」を加え、4項目の調査をしている。従って、この調査は学校で学ぶ教科とは必ずしも一致していない。
    「数学的リテラシー」1位→6位
    「科学的リテラシー」2位→2位
    「読解力」     8位→14位
    「問題解決能力」前回なし→4位
     なお、平均得点は参加国平均の500点を下回った。

    《TIMSS》
     4年ごとに実施。2003年度は45ヵ国が参加。
     日本では小学校4年・中学校2年に当たる生徒が対象で、「学校のカリキュラムで学んだ知識や技能等がどの程度習得されているかを評価(選択肢が中心)」する調査、つまり、いわゆる「学力到達度」の調査である。教科書Eでは中学数学・中学理科に付いてのみふれている。
    中学数学 4位→4位
     (参考 1964年2位、1981年1位)
    中学理科 4位→6位
     (参考 1970年1位、1983年2位)

     私にはこのような調査に一喜一憂して大騒ぎをする思考が理解できないが、教科書Eは、上のような数字が「関係者に少なからぬ衝撃を与え」さらに「これらの調査結果は、これをマスコミが大きく報じたこともあって、この国の教育政策の針路にも多大な影響を及ぼすことになった。」と述べている。では、実際に文科省などはこれを受けて何を始めたのか。その動向は次のようである。

     2003年5月
     文科相、「今後の初等中等教育改革の推進方策について」を中教審に諮問。

    2005年年2月
     文科相、中教審に「学習指導要領」の見直しを諮問。

     PISAのよる調査結果が発表されたのは2004年12月であり、TIMSSの調査結果の発表はその直後であった。上の諮問はこれらの発表を受けての判断だったのだろう。ここで学習指導要領の改訂と「ゆとり教育」の見直しの方針が表明されたのだった。

    2008年1月
     中教審、「幼稚園、小学校、中学校、高等学校及び特別支援学校の学習指導要領等の改善について」を答申。

    2008年3月
     小・中学校の「学習指導要領」改訂。
    (施行は小学校が2011年度、中学校が2012年度から)

    2009年3月
     高等学校の「学習指導要領」改訂。(施行は2013年度から)

     この「学習指導要領」改訂における大きな変更点は、従来の「ゆとり教育」路線の見直しであった。相変わらず「生きる力」を育むことが理念として掲げられているが、「生きる力」は「ゆとりある生活」を通して育まれるという従来の認識に代わって、それが知識・技能の習得や思考力・判断力・表現力などの育成と密接に関わるとの認識が示された。まるでPISAの調査項目を踏まえた認識のように見える。

     改訂内容を具体的に見てみよう。

    (1)「総合的な学習の時間」の削減
     「ゆとり教育」を象徴する「総合的な学習の時間」は、小学校についていえば、これまで中・高学年の4年間で430時間が組み込まれていたものが、280時間に大幅削減された。
    (2)授業時数の増加
     例えば小学校では、国語・社会・算数・理科・体育の授業時数が10%程度増加されるとともに、週当たりのコマ数も低学年で週2コマ、中・高学年で週1コマ増加された。小学校6年生でいえば、年間総授業時数がそれまでの945時間から980時間に増加された。教科では
    算数 150時間→175時間
    理科  95時間→105時間
    へと増加された。

     PISA・TIMSSによる調査結果
    「数学的リテラシー」1位→6位
     中学理科 4位→6位
    におおいに影響された結果だろう。

    (3)
     教科内容が系統学習の観点から見直された。上記のように理数系の教科は授業時数の増加が図られたが、それとともに反復指導や課題学習の充実が強調された。また、一方で国際化への対応、他方で日本の伝統・文化への理解が改めて図られた。小学校に外国語活動が導入されることになったこと、中学校にて武道が必修化されたことなどは、各方面から様々な論議を呼んだ。

     繰り返しになるが、「新・学習指導要領」では「生きる力」の育成という方針自体が見直されたわけではない。見直されたのは、「生きる力」を育むための要件に関わる認識であった。「小学校学習指導要領」の総則には、
    「学校の教育活動を進めるに当たっては、各学校において、児童に生きる力をはぐくむことを目指し、創意工夫を生かした特色ある教育活動を展開する中で、基礎的・基本的な知識及び技能を確実に習得させ、これらを活用して課題を解決するために必要な思考力、判断力、表現力その他の能力をはぐくむとともに、主体的に学習に取り組む態度を養い、個性を生かす教育の充実に努めなければならない。その際、児童の発達の段階を考慮して、児童の言語活動を充実するとともに、家庭との連携を図りながら、児童の学習習慣が確立するよう配慮しなければならない。」
    と述べられている。そして、「生きる力」を育むために必要な要件次の7項目が挙げられている。
    ①創意工夫を生かした特色ある教育活動
    ②基礎的・基本的な知識及び技能の確実な習得
    ③思考力、判断力、表現力その他の能力の育成
    ④主体的に学習に取り組む態度の養成
    ⑤個性を生かす教育の充実
    ⑥児童の言語活動の充実
    ⑦児童の学習習慣の確立

     中教審の会議が目に浮かんでくる。会員たちが思い思いに思いつく事柄を得意そうに発言する。それらの関連性を検討する議論は出てこない。会長も得意げにそれらを連記するだけの答申を提出する。文科省の役人もそれをそのまま「学習指導要領」に盛り込む。

     山本さんはこの学習指導要領に盛り込まれた七つの要件について次のように批判している。


     もちろん、それぞれの項目がそれぞれに重要であることは論をまたない。だが、各項目間の関連がどうなっているか、あるいはどの項目に中核的取り組みとしての含意が与えられているのか、に関する吟味が加えられた痕跡をこの文章に認めることは困難である。

     こうして現今の教育政策は、考えられうる施策を複数の項目としてただ羅列することに終始し、それらの中で何に重点が置かれ、また諸施策がいかなる構造連関に基づいて実施されていくのかを明示的に掲げようとする姿勢に、著しく欠ける傾向にある。明らかなことは、2008年改訂の「学習指導要領」に基づいて「ゆとり教育」の方針が見直されたことだけであって、これからの教育のあり方にどのような針路を与えようとするのかについては、まさに混迷と混沌の状態に覆われていると評せざるをえない。

    《『羽仁五郎の大予言』を読む》(59)

    権力が教育を破壊する(42)

    教育反動(34):21世紀に入って(2)



     中教審は、1996年7月に「二十一世紀を展望した我が国の教育の在り方について」の第一次答申を出しているが、その表題は「子供に[生きる力]と[ゆとり]を」となっている。そして、「ゆとり」ある生活の確保のために学校週五日制の完全実施を提言した。そして翌年6月の第二次答申では、「ゆとり教育」という教育政策は「生きる力」育成のための基盤であることを強調している。

     これを受けて、1998年7月に教育課程審議会が
    「幼稚園、小学校、中学校、高等学校、盲学校、聾学校及び養護学校の教育課程の基準の改善について」
    を答申している。この答申では、およそ次のような方針が明示された。

     「多くの知識を教え込むことになりがちであった教育」
    から
    「幼児児童生徒に自ら学び自ら考える力を育成することを重視した教育」
    への転換が強く求められ、そのために、幼児児童生徒の発達の状況に応じて、知的好奇心・探究心をもって、自ら学ぶ意欲や主体的に学ぶ力を身に付けるとともに、試行錯誤をしながら、自らの力で論理的に考え判断する力、自分の考えや思いを的確に表現する力、問題を発見し解決する能力を育成し、創造性の基礎を培い、社会の変化に主体的に対応し行動できるようにすることを重視した教育活動を積極的に展開していく必要がある。

     これだけ読むとなんら問題のない正論に見えるが、「ゆとり教育」の根底にある思わくは、前回紹介した「ある種の能力の備わっていない者が、いくらやってもねえ。」という江崎玲於奈の認識と呼応している。改めて江崎の発言を転載しておこう。

    「人間の遺伝情報が解析され、持って生まれた能力がわかる時代になってきました。これからの教育では、そのことを認めるかどうかが大切になってくる。僕はアクセプト(許容)せざるを得ないと思う。自分でどうにもならないものは、そこに神の存在を考えるしかない。その上で、人間のできることをやっていく必要があるんです。ある種の能力の備わっていない者が、いくらやってもねえ。いずれは就学時に遺伝子検査を行い、それぞれの子供の遺伝情報に見合った教育をしていく形になっていきますよ。」(斎藤貴男「機会不平等」より江崎玲於奈・教育改革国民会議座長の発言)

     次に紹介する発言は当時の教課審会長であった三浦朱門のものであり、これも斎藤貴男著「機会不平等」からの引用である。(詳しくは『「君が代日の丸」が「考えるな、服従せよ」と恫喝する』をお読み下さい。)

    「学力低下は予測し得る不安と言うか、覚悟しながら教課審をやっとりました。いや、逆に平均学力が下がらないようでは、これからの日本はどうにもならんということです。つまり、できん者はできんままで結構。戦後50年、落ちこぼれの底辺を上げることにばかり注いできた労力を、できる者を限りなくなく伸ばすことに振り向ける。百人に一人でいい、やがて彼らが国を引っ張っていきます。限りなくできない非才、無才には、せめて実直な精神だけを養っておいてもらえばいいのです。(中略)それが"ゆとり教育″の本当の目的。エリート教育とは言いにくい時代だから、回りくどく言っただけの話だ。」(「ゆとり教育」についての著者の質問に対する三浦朱門・前教育課程審議会会長の回答)

     ここでちょっと横道に入ります。

     「似た者夫婦」という言葉がある。広辞苑は「仲のよい夫婦はその性質・趣味などが似るということ。また、性質・趣味などが似ている夫婦。」と説明している。世の中には差別思想を共有しているという「似た者夫婦」もいることを知った。最近、三浦朱門の妻・曽野綾子がアパルトヘイト支持の発言で非難されている。その曽野の言説を東京新聞の「本音のコラム」で宮子あずささんが、別の観点から、次のように批判している。

    介護への無理解
      宮子あずさ(看護師)

     曽野綾子氏が産経新聞に寄せたコラムがアパルトヘイトを肯定する内容だとして批判されている。夫が買ってきた週刊ポストに、曽野氏擁護の記事を発見。全文読めば誤解が解ける、との趣旨で新聞掲載の全文が掲載されていた。

     読んでびっくり! 導入部分からひどすぎて、移民を受け入れても、居住は分けるべきだ、という問題部分になかなか到達しなかった。

     「高齢者の面倒をみるのに、ある程度の日本語ができなければならないとか、衛生上の知識がなければならないとか言うことは全くない」。だからハードルを下げて、どんどん移民を受け入れよ、というのが彼女の意見である。その根拠は、専門知識がない孫でも、「祖母の面倒をみるという構図はよくある」から。

     このあたりで開いた口がふさがらなくなった。そもそも仕事として介護を提供すれば、孫の世話より高いレベルが求められる。さらに、施設から在宅への流れの中で、介護中心の施設でも重症者の比率が上がってきた。施設はいまやみとりさえ任される。もはや曽野氏が言う「やさしければそれでいい」仕事ではありえない。

     結局曽野氏は介護の現状について、あまりにも無知。今どき介護にここまで無理解な人は、そうそういませんよ。これが新聞にそのまま掲載される状況が、なんともやりきれない。

     この曽野綾子について思い出したことがある。このシリーズでは最初に『羽仁五郎の大予言』の序章を用いて「チリのクーデター」を取り上げた。その序章の中に次のような一文があった。

    「曽野綾子という女流作家が『諸君』という雑誌に、チリのことを書いているのを読んだが、こういう無邪気さも困る。なんでもわざわざチリにまで行って ― アジェンデが倒されて、さぞ悲惨な状態だろうと考えていたが、実に平和な状態で、私は怒りを覚えるより悲しみを覚えただけだ ― なんていっている。そんなことじゃないんだ。あの政変でボロ儲けしたり、利用したりした連中がいることを忘れてはいけない。ピノチェトを断固として認めないということから出発しなければ、まったく有効ではない。」

     つまり、曽野は民主的に誕生したアジェンデ社会主義政権をクーデターで転覆させたピノチェトのことをあっけらかんと支持しているのだ。羽仁さんはこの曽野の認識を「無邪気さ」の結果とやんわりと批判しているが、私は邪気だらけ言説だと思う。また広辞苑のお世話になろう。
    「無邪気」
    (1)邪心のないこと。わるぎのないこと。
    (2)深い考えのないこと。考えの単純なこと。
    (3)あどけなく、かわいらしいこと。
    とあるが、もちろん(3)の意味ではないだろう。(1)も当てはまらない。私は「邪気だらけ」と書いたが、曽野の言説の裏に社会主義政権をくさしたい意図を感じたからだ。それはアジェンデが行った政治とピノチェトが行った卑劣にして残虐なクーデターについての「あまりにも無知」であり、「ここまで無理解な人」としてあきれるほかない。好意的に解釈すれば(2)でいう「無邪気さ」と言うことになるが、いっぱしの評論家として言説を発表しているのなら、この「無邪気さ」は恥ずるべきだろう。あるいはクーデターの経緯を知っていたのだとすれば、その事実を歪曲した結果の言説であり犯罪的ですらある。

     いずれにしても、「むち」の2乗のような言説だ。江崎玲於奈も三浦朱門も曽野綾子も、「無知」に「無恥」な鈍感な人たちなのだ。

     長い横道になるが、もう少し続けよう。実は東京新聞(3月7日)の「こちら特報部」が『はびこる「無知の無恥」』と題してアベコベ政権のでたらめぶりを取り上げていた。四つの実例を取り上げて検証しているが、その記事のリードと、まとめに当たる中野晃一教授(上智大)へのインタビュー記事を転載しておこう。

     昔から「知らないことを恥じるな」という。知つたかぶりをするより、謙虚に学ぶことが大切という意味だ。しかし、もし「謙虚に学ぶ」という暗黙の了解がなくなれば、ただの恥知らずになる。最近、そうした「無知の無恥」が目に余るように思える。それも権力の中枢、周辺で横行している。「反知性主義」という言葉が流行しているが、現実はさらにその一歩先を進んではいないか。(榊原崇仁、沢田千秋)

    「何でもあり」まん延

     こうした「無知」を恥じない発言の横行について、上智大の中野晃一教授(政治学)は「古代ギリシヤの哲学者プラトンは『知識がない人間の統治は不正義』と言った」と批判する。

     中野教授は今日の事態は小泉純一郎元首相の登場から始まったと指摘する。小泉氏は2003年、自衛隊のイラク派遣を非戦闘地域に限定することに絡んで、「どこが戦闘地域か、私に聞かれたって分かるわけがない」と開き直った。

    「辞任に追い込まれても全くおかしくない暴言だったのに結局、許されてしまった。小泉氏は従来、支配的だった建前の政治をバカにし、『そんなことを知らなくて何が悪い』とタブーを破るポーズで改革者を装って、大衆の支持を集めた」(中野教授)

     この手法が第三次安倍政権下の今日まで続いているという。ただ、この劇薬的な手法は副作用を伴う。

     中野教授は「事態は政治の枠にとどまらない。首相や有名人の無知や差別的発言がまかり通れば、国民にも何でもありの雰囲気がはびこる」
    とし、
    「国民は知性を守る戦いを挑まれている」
    と警鐘を鳴らす。

     放置すれば、待っているのは日本の国際的な孤立だという。
    「立憲主義への無知やアパルトヘイトの肯定は、人類が打ち立ててきた原理原則や英知に対する挑戦だ。生ぬるい態度をとっていると、日本だけが世界からどんどん外れていき、孤立するだろう」

     思い掛けず、ずいぶん長い横道になってしまいました。次回、本道に戻ります。
    《『羽仁五郎の大予言』を読む》(58)

    権力が教育を破壊する(41)

    教育反動(33):21世紀に入って(1)


     <教科書C>は1998年~1999年に改訂された学習指導要領の批判で終わっている。今回からは、その後現在に至るまでの21世紀における教育政策の実態を追っていきます。<教科書E>を用います。

     ちょっと復習すると、学習指導要領改訂を方向付けた基本理念は中教審が答申した「21世紀を展望した我が国の教育の在り方について」であり、次の二点がその柱となっていた。
    ①道徳心・愛国心の形成(不易)
    ②「生きる力」(「自分で課題を見つけ、自ら学び、自ら考え、主体的に判断・行動し、よりよく問題を解決する資質や能力」)の育成(流行)


     ①ではその価値を自明視しているが、これが②の主体的に判断・行動するという「生きる力」と矛盾しているという自覚が、自民党・文部科学省(2001年に再編成されて名称が変わった。以後は文科省と略記する)には全くないようだ。この問題は21世紀になっても不問に付されたまま引き継がれていく。21世紀に入ってからの教育破壊状況を見ていこう。

     21世紀に入ると国家による教育改革の策定は文科相の諮問機関である中教審ではなく、臨教審と同じように、首相の強い意向によって設置された私的諮問機関である「教育改革国民会議」や「教育再生会議」などが中心となって推し進められていった。これは、財界の意向を受けた自民党による教育支配の動向がよりあからさまになってきたということにほかならない。

    2000年3月
     首相(小渕)の私的諮問機関「教育改革国民会議」を設置。
    同年12月
     教育改革国民会議、最終報告「教育を変える17の提案」を提出。
    2001年1月
     文科省、「21世紀教育新生プラン」を発表。

     文科省のプランは教育改革国民会議の提案をほぼ全面的に引き継いだものであり、それによる教育改革の具体的措置を示したものである。

     同プランは、「日本の教育が危機に瀕している」との教育改革国民会議の認識をそのまま継承し、その危機的状況として次の三点を挙げ、その対応策を提言している。

    第一点
     不登校、校内暴力、学級崩壊、凶悪な青少年犯罪が続発していることと、その背景に家庭や地域社会の「教育力」の低下と、過度に個人の尊重を強調し「公」を軽視する傾向が看取される。
    <対応策>

     「家庭教育手帳」「家庭教育ノート」の作成・配布。

     道徳の副教材「心のノート』の作成・配布(2001年度から実施)。

     奉仕活動の充実(2001年7月に「学校教育法」「社会教育法」を改正)。

     出席停止制度の要件の明確化。

    第二点
     行き過ぎた平等主義による教育の画一化や過度の知識の詰め込みにより、子どもの個性・能力に応じた教育が軽視されている。
    <対応策>

     全国的な学力調査の実施。

     中高一貫教育の推進。
    ③大学への17歳入学の促進

    第三点
     科学技術の急速な発展、経済社会のグローバル化・情報化など社会が大きく変化する中で、これまでの教育システムが時代や社会の進展から取り残されつつある。
    <対応策>

     指導力不足教員に対する人事管理システムづくり。

     各学校における評価システムの確立。

     新しいタイプの学校(コミュニティ・スクール)の設置の促進。

     第二点は教育への競争原理の導入にほかならない。このことについて思い出したことがある。教育改革国民会議の座長は江崎玲於奈だったが、江崎が座長の時に発したトンデモ発言を取り上げて批判したことがある。このブログを立ち上げた最初のテーマ『教育について』の中の一節で『「非才、無才」が反逆する』という記事で、もう10年ほども前の記事である。こういう愚か者が集まって、偉そうに教育を論じているのだと、暗澹たる気持ちになったのだった。

     教育への競争原理導入を批判した記事がもう一つあった。『今日の話題』の中の一記事で、『フィンランドの教育』である。

     さて、この文科省による「改革プラン」について山本さん(<教科書E>の著者です)は、「問題に対する事実認識」の妥当性、「競争原理導入」の妥当性、冒頭で指摘した「徳育と知育を要請する論理」の不整合性、という三つの問題点を指摘して批判している。そのまま全文引用しよう。

     「教育改革国民会議報告」に基づくこれらの施策と、その前提をなす教育上の基本認識に対しては、いくつかの問題を指摘することができる。

     第一に、改革プランの事実認識に関わる実証性の問題である。例えば、「教育的危機」として取り上げられている青少年犯罪の発生率についていえば、日本は先進諸国の中で極めて低い水準にあった。1996年時点での少年による殺人の発生率は、アメリカが日本の約14倍、ドイツが約6倍、フランスとイギリスが約5倍の水準であった。いじめや校内暴力についても、必ずしも日本の状況が他の先進諸国と比べて際立って悪化していることを示すデータが存在するわけではなく、さらに、その原因が学校教育のあり方や「公」軽視の傾向にあることを裏づける客観的根拠が提示されているわけでもなかった。問題に対する事実認識が、実証的なデータではなく情緒的な印象に基づくものだとすれば、その施策の妥当性・有効性は根底から再吟味されねばならないはずである。

     第二に、子どもの個性・能力に応じた教育や、新しいタイプの教育システムづくりへの対策として、習熟度別学習の普及や中高一貫校の設置、あるいは学校選択制への移行など、いわゆる競争原理の導入がその基軸をなす観点とされている点である。もちろん、「行き過ぎた平等主義」や「時流に取り残された教育システム」という認識自体の正当性が尋ねられる必要があることはいうまでもないが、競争原理の導入が社会的・経済的弱者を切り捨ててしまう恐れはないのかや、競争原理が「教育の私事化」を促進し、それが逆に「個」の過度の尊重や「公」軽視の風潮を激化させる恐れはないのかなど、丁寧な議論を要する問題が残されていることは否めない。

     そして第三に、複数の課題を提起する場合の、各課題間の整合性の問題についてである。例えば、「教育改革国民会議報告」では、「個々人の才能の伸長」のためには「一律主義を改め、個性を伸ばす」ことが求められつつも、「人間性豊かな日本人の育成」のためには「道徳の教科化」が示唆され、「奉仕活動の義務化」が謳われている。つまり、知識・技術に関わる側面では、個性化や自由化が叫ばれながら、道徳や国家意識に関する側面では、画一化や他律化が自明の前提とされているように見えるのである。だが、この「知」と「徳」との教育を要請する論理の不整合(さらに不整合が生じていることへの無自覚)が、個々人の成長の意味を個々人の内部にて分裂させてしまうことになりはしないのか、そのことが問われねばならないはずである。

     ところで、この、「知」は時代の進展に応ずるものを、「徳」は普遍的価値に基づくものを、という二重の教育要請は、この国が「制度としての教育」を推し進めようとして以来の全体的傾向といえ、さらに戦後、高度経済成長期の「人づくり」政策以降に最も顕著に認めることのできる教育政策上の特質と評することができる。そして、戦前(とりわけ昭和戦前期)において、「知」と「徳」との統合を「国体精神」に求めようとする思考様式が存在した(「国体精神」の涵養が、「知」「徳」の統合を可能にする)ことに着目するならば、戦後において(少なくとも天野貞祐文部大臣の時代から)一貫して「愛国心」育成の必要が強調されてきたことの理由も、この問題に関連づけて理解することができるかもしれない。

     すなわち、国を愛し、国の発展に尽くそうとする心の形成が、一方で「流行」としての「知」を開拓し、他方で「不易」としての「徳」を受容する人格の基盤となる、という思考様式の存在可能性である。実際「教育改革国民会議報告」は「教育基本法」の改定を求め、新しい基本法には「自然、伝統、文化の尊重、そして家庭、郷土、国家などの視点」を盛り込むべきことを強く要請した。「二十一世紀教育新生プラン」も、「教育基本法」の見直しを中央教育審議会に諮問するスケジュールを公表した。だが、「愛国心」を基盤に個々人の人間形成(「知」「徳」の涵養)を推し進めようとする論理は、まさに「国家による国民形成」それ自体を支える論理というべきである。その意味で、21世紀を展望する教育政策プランといっても、それは依然として「国家による国民形成」という論理的枠組みの内部に所在し、そこからの離陸を企図するようなものではなかったというべきである。

    《『羽仁五郎の大予言』を読む》(57)

    権力が教育を破壊する(40)

    教育反動(32):中曾根臨教審以後(3)


     天皇敬愛教育の学習は新学習指導要領の社会科(小学校)に集中している。これはこれまで見てきたように、自民党の強い圧力を受けての結果である。

     かつて1958年の学習指導要領改訂の際に、小学校6年社会科の憲法学習の目標として
    「国家の理想、天皇の地位、国民としてのたいせつな権利や義務」
    が明示されていた。象徴概念を不当に拡大した天皇制中心の憲法原理を、前面に押し出し、位置づけたのだった。具体的には、「第6学年2内容(2)ウ」の項で
    「日本国憲法には国家の理想、天皇の地位、国民としての権利及び義務などの重要な事柄が定められていることを調べて、それらは国家や国民生活の基本であることを理解すること」
    と述べ、さらに「内容の取扱い」において、
    「天皇については、日本国憲法に定める天皇の国事に関する行為など児童に理解しやすい具体的な事項を取り上げ、学習との関連も図りながら、天皇についての理解と敬愛の念を深めるようにすること」
    を挙げている。「など」や「その他」は法律のそこここに現れる反知性主義者たち愛用の用語である。この語一つでどのような拡大解釈も可能となり、あらかじめ法律はざる法となるように仕組まれている。これに対する久保さんの批判は次のようである。


     ここには、第一に憲法原理を歪曲して、子どもたちに憲法を学習させようとする意図があるということである。文部省の『小学校指導書 社会編』(1989-平成元-年6月)には、
    「基本的人権の尊重、国民主権、平和主義は、日本国憲法の基本的な原則」
    であると書いている。しかし、文部省が法的拘束力があると主張している学習指導要領には、憲法三原則を理念の世界に追いやり、象徴であるにすぎない「天皇の地位」を真正面にとらえて、あたかも天皇が国家の基本であるかのように位置づけているのである。

     これまでも、のべてきたように、天皇は、憲法規定においては、象徴であるにすぎないのである。宮沢俊義は、

     本条(第一条)は、明治憲法のもとで天皇がもっていたような統治権の総攬者たる地位を日本国憲法の天皇に対しては否認し、これにもっぱら国の象徴たる役割を与えることをその狙いとする。その趣旨は、積極的に天皇が国の象徴たる役割をもつことを強調するにあるよりは、むしろ、消極的に天皇が国の象徴たる役割以外の役割を原則としてもたないことを強調するにある。……要するに、本条の規定は、天皇の国の象徴以外の役割を原則として否認することのほかは、天皇の象徴としての役割を、創設的に規定したのでなく、単に宣言的に定めたにすぎない、と解すべきである。

    とのべ、象徴概念の拡大を厳しく否認しているのである。

     前述の学習指導要領の「内容の取扱い」においては、「天皇については、日本国憲法の定める天皇の国事行為など児童に理解しやすい具体的事項を取り上げて指導し、……天皇についての理解と敬愛の念を深めるようにすること」を要求している。天皇の「国事行為」は、憲法第7条によって厳密に規定され、
    「憲法改正、法律、政令及び条約を公布すること、国会を召集すること、栄典を授与すること、外国の大使等を接受することなど」
    を行うことになっている。しかし、これらの冷厳な行為が、子どもたちに感動を与え、天皇に対し、尊敬、親しみの心を誘発させるものになるとは考えられない。したがって、「国事行為など」の「など」の行為にそれを求めなければ、子どもの心にアピールしない。

     すなわち植樹祭、国体などへの出席、大相撲などの観覧、誕生日参賀市民に対する挨拶などの「国事行為」以外の言動・行為に結びつけることにならざるをえなくなろう。

     ここに大きな矛盾が存在する。天皇の地位は、「象徴」であること、それ以外の何物でもないことは、前述のとおりである。そして、「象徴」であるがゆえに、天皇に対する「敬愛」を要求しながら、「象徴」そのものの性格からはそれを引き出すことはできず、「象徴」以外の行為から、それを求めなければならない、という矛盾である。それは、どこかに天皇を「元首」化しようとする意図があるからである。

     それは、象徴概念を不当に拡大するだけでなく、象徴そのものを倫理的概念に転換させ、さらに、天皇と国家を同心円的地位におき、天皇を尊敬し親しみの心をもたせるという倫理観を強要することに通じる。

     天皇に関する客観的知識を学習することと、その学習の結果、ひとりひとりの子どもが、天皇に対してどのような感情をいだくことになるかということとは別の次元の問題であろう。ここからも、天皇に対する「敬愛」の深化という倫理観の強要は、教育原則からいって誤りである、ということである。

     次に、久保さんの批判は、前回取り上げた修正(例二)に向けられる。この修正は社会科(第6学年)における歴史学習の「内容」の一つ
    「イ・・・大和朝廷による国土の統一の様子について理解すること。その際、神話・伝承を調べて、国の形成に関する考え方などに関心をもつこと」
    に対して、付け加えられた修正事項である。再録すると
    「イの神話・伝承については、古事記、日本書紀、風土記などの中から適切なものを取り上げること」
    である。

     神話教育は、1968年版学習指導要領において導入されたが、「古事記・日本書紀・風土記」からその教育内容を取り上げることを指示したのは、今回がはじめてである。さらに、小学校指導書においては、「古事記・日本書紀・風土記」などには、国の形成に関する考え方をくみとることのできる神話・伝承として、高天原神話、天孫降臨、出雲国譲り、神武天皇の東征の物語、日本武尊の物語などが記述されているので、それらを選んで指導することを明示している。

     私たちは「古事記・日本書紀・風土記」の史料としての価値や信憑性については『真説・古代史』シリーズで詳しく学習している。古田さんによって論破され尽くしているヤマト王権一元主義という歪曲された偽学問しか知らない(知っていたとしても「見猿聞か猿言わ猿」を決め込んでいる)反知性主義者たちが子供たちにウソを教え込んで、天皇家尊崇イデオロギーで洗脳しようとしている。天皇敬愛教育が憲法原理の歪曲によって構成されていたが、ここでは歴史の歪曲が臆面もなく貫かれている。これに対する久保さんの批判は次のようである。

    これらの物語は、神話を材料としながらも、それを著しく書き改めていること、しかもその書き直しは、後代の天皇が天皇支配の正統性を確立しようという意図から行われたものである。しかし、このことについては、いっさいふれられていない。学習指導要領は、前述のように、
    「歴史に関する学習との関連を図りながら、天皇についての理解と敬愛の念を深める」
    ことを要求していた。歴史的事実や歴史学の研究の成果に立って、古代から現代にいたるまでの歴史を学習するならば、例えば、太平洋戦争に関する昭和天皇の戦争責任について学習するならば、天皇への敬愛の念はもちろんいだかず、天皇憎悪感さえ深めかねないであろう。

     記・紀神話の教育も、その神話を美化し、理想化して、天皇に対する尊敬の念やカリスマ性的帰依に、理性的にでなく、情緒的・感覚的に、さらに信仰によって誘導することになろう。かてて加えて、「君が代」=国歌斉唱や「日の丸」=国旗掲揚の強制は、それらが天皇制の記号である以上、この心情形成に、促進剤の役割を演じることになろう。

     先に、臨教審の答申においても、また教課審の答申も、教育全体の統一とて、一貫して徳育の重視を強調したことをのべておいた。学習指導要領の総則においては、「学校における道徳教育は、学校の教育活動全体を通じて行う」ものであるとしている。道徳の目標に「生命に対する畏敬の念」がかかげられたことの意味は大きく、かつ重大である。臨教審の教育基本法第一条の「人格の完成」に関する解釈において、つぎのようにのべていた。
    「『人格の完成』は、いわば理想的な人間の類型であり、それは個々の自然的人間こえて普遍的、理想的、宗教的、超越的な究極の価値を永遠に求め続ける人間の営みの中にこそあるものである」
     これは、絶対者すなわち神を尊崇し、帰依すること、いいかえれば聖なるものに対する畏敬の念をもつことを意味するのである。したがって田中耕太郎が述べたような、「完成された人格の内容の中」には「当然国家や民族の意義と価値の認識、国家の権威と秩序の尊重……等が含まれる」という所説を援用して、臨教審は、「人格の完成」概念を拡大解釈していったのである。

     「生命に対する畏敬の念」も、「人格の完成」概念に酷似しており、両者は、究極的な価値を永遠に求め続けるという点において共通性を帯びている。

     「畏敬の念」が明確にのべられたのは、「期待される人間像」(1966-昭和41一年、中教審答申)においてである。
    「生命の根源に対して畏敬の念をもつことである。人類愛とか人間愛とかいわれるものもそれに基づくのである(すべての宗教的情操は、生命の根源に対する畏敬の念に由来する)」
    「国家を正しく愛することが国家に対する忠誠である。正しい愛国心は人類愛に通ずる」
    「日本国を愛するものが、日本国の象徴を愛するということは、論理上当然である」
    「天皇への敬愛の念をつきつめていけば、それは日本国への敬愛の念に通ずる。けだし日本国の象徴たる天皇を敬愛することは、その実体たる日本国を敬愛することに通ずるからである」。

     こうして中教審答申は「生命に対する畏敬の念」→「人類愛」→「愛国心」→「象徴を愛する」→「天皇への敬愛」へと三段論法式に推論して、「生命に対する畏敬」が「天皇敬愛に通じる回路」を導き出してきたのである。

     新学習指導要領においても、「生命に対する畏敬の念」(道徳目標)と「天皇についての理解と敬愛の念」(小学校6年社会)と「国を愛する心」(小学校5・6年道徳)、「日本人としての自覚をもって国を愛し、国家の発展に尽くす」(中学校道徳)ことが強く連結されているのである。このように、「生命に対する畏敬の念」を道徳教育の中核に、いいかえれば全教科の中核に据えたのは、教基法の「人格の完成」概念を拡大解釈し、臨教審の提起した、
    ①ひろい心とゆたかな創造力、
    ②自主・自律の精神、
    ③世界の中の日本人、
    という徳目に具体化し、そこに、愛国心、天皇敬愛の徳目をピラミッドの頂点に位置づけようとする意図があったからである。これは、昭和天皇死後の象徴天皇制を国際化時代において、いかに再編成していくかの教育政策的反映でもあったといえよう。しかし、これは、日本の未来への展望を欠いた選択肢であったというべきである。

     以上のような「日本の未来への展望を欠いた選択肢」がその後もまったく吟味されることなく、現在に至るまで固執されている。
    [権力が教育を破壊する(40):教育反動(32):中曾根臨教審以後(3)]の続きを読む
    《『羽仁五郎の大予言』を読む》(56)

    権力が教育を破壊する(39)

    教育反動(31):中曾根臨教審以後(2)


       学習指導要領改訂案が公表されたのは1989年2月10日だった。それより先の1月26日に自民党の「初等中等教育に関するプロジェクトチーム」の第5回目会合が開かれている。その議題は、「学習指導要領案」であり、文部者側から初中局長が出席している。その会合がどのようなものであったかについて、久保さんは、その会合に参加した"某メンバー"の談話を引用している。

    「以前から党側の注文を出していたので、文部省には主としてその点を中心に説明してもらった。異論なんてでなかった。『おおむね了承する』との態度でのぞんでいたからだ。いわば、セレモニーだよ。」

     その党側が出していた注文とは、つぎのようなものであった。
    ①道徳教育の改善、
    ②歴史上の人物名の明示、
    ③国旗・国歌の取扱い、
    ④地理歴史科及び公民科の新設、
    ⑤歌唱共通教材の改善。


    今回の学習指導要領改訂の主要な柱となるものの大部分が、この自民党プロジェクトの圧力によるものであったことが分る。

     「初等中等教育に関するプロジェクトチーム」のほかに、自民党には「教科書問題を考える議員連盟」(1985年10月に発足)があった。この議員連盟は森山元労働大臣、奥野元文部大臣、海部元文部大臣、林健太郎議員(元東大学長)などが発起人であった。その呼びかけの趣旨は次のようである。


     現行の教科書には当然記述されていなければならない人物名などがない、

    わが国の伝統や歴史を否定的に記述し、国家の一員としての誇りを失わせしめているので、教科書の内容の正常化を検討していく。

     そこでは、その当然記述されていなければならない人物として、東郷平八郎が挙げられていた。さらに、この議員連盟では、
    「中国の『魏志倭人伝』に載っている卑弥呼を取り上げながら、建国の基となった神武天皇を入れないのは何故か」
    というような意見が続出し、神武天皇を指導要領に盛り込む要望が相ついだという。久保さんはその例として次のような発言を引用している。
    「ギリシャ神話を教えていることを思えば、日本の神話、伝承の教育をうたった今回の指導要領で、古事記、日本書紀を参考にして(神武天皇を)教えられないはずはない」(同連盟幹事長・長谷川峻氏)
    「卑弥呼は中国から印璽をもらった人物であろうが、この人から(日本の歴史が)始まったのではない」(加藤武徳参院議員)
     しかし、文部省側は「神武天皇(の存在)は歴史的事実ではない」と突っぱね、記載することを受け入れなかった、という。

     自民党内で行われているこのような低次元の教育論議によって教育内容が醜く歪曲されていく。久保さんは『世界日報』の「『天皇への敬愛』明記 自民・文教族が巻き返し」という見出しの記事を転載している。次のようである。

    「『水が低いところに流れるように、左翼は日常生活の中で、スキがあれば常に突いてくる。日教組に、"ゆとりある教育"という"スキ"を突かれたのであり、気がつけば彼らの思う通りになっていた』という認識の下に現行学習指導要領の抜本的改革をめざしてきたのである。だから、例えば小学校6年の『社会』で、旧学習指導要領にあった『天皇についての理解と敬愛の念を深めるようにすること』は、現行学習指導要領で削除されたのを、今回の新学習指導要領案では復活した。」

     小学校6年社会科からもう一例。
     素案では「軍部の台頭、日中戦争の始まり」とあった文が、改訂案では「軍部の台頭」を削除し、「日中戦争」を「日華事変」と修正している。

     自民党議員連盟の要求を受け入れた結果、学習指導要領改訂案にも、多くの修正という名の歪曲が行われている。久保さんが取り上げている例のうち小学校社会科6年の例を転載しよう。

    「2月10日発表案文」(青字は削除部分)
      ↓
    「3月15日告示文」(青字は加筆部分)
    という形式で記録します。赤字部分は久保さんによる批判です。


    (例一)
    <表現の適正化>と称して
    「日華事変、太平洋戦争、日本国憲法の制定などについて調べて、第二次世界大戦を経て、民主的な国家として出発したことを理解すること。」
      ↓
    「日華事変、我が国にかかわる第二次世界大戦、日本国憲法の制定などについて調べて、戦後は民主的な国家として出発したことを理解すること。」

     自民党は、「日中戦争」を「日華事変」に修正させたが、今度は、「太平洋戦争」を「我が国にかかわる第二次世界大戦」というように修正させた。「日中戦争」と「太平洋戦争」の用語は、すでに歴史学の学術用語として定着しているものである。「太平洋戦争」の用語については、それが、極東軍事裁判において用いられたものであるとして、自民党関係者等は、感情的に反発しているものであった。

    (例二)
    <内容の取扱いの明確化>と称して
    「ア・・・」
      ↓
     アの次にイ項を加える。
    「イ・・・神話・伝承については、古事記、日本書紀、風土記などの中から適切なものを取り上げること」。

     神話について、三書を明記することにしたのは、天皇制の始源や皇位継承の永遠性を明らかにして、天皇敬愛の念を深化させようとしたものであった。

     この天皇敬愛教育が社会科において重要な位置を占めるようになった。この問題について、久保さんはかなり詳しい批判を加えている。それを次回に取り上げよう。