2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《『羽仁五郎の大予言』を読む》(49)

権力が教育を破壊する(32)

教育反動(24):中曾根臨教審(2)


 これまでに見てきたように、自民党の教育政策は国家主義・能力主義・民族主義・天皇崇拝主義を基本イデオロギーとして国民の全体的統合をはかろうとしてきた。もちろん中曾根はそれを踏襲しているが、さらにその右傾化の流れを強力に推し進めようという意図をハッキリと打ち出した。その論拠の一つとして、1970年代に顕著になってきた教育荒廃現象があった。第一次中曾根内閣の瀬戸山三男文相が、1983年2月、次のように語っている。

「日本の道徳・伝統・風俗・習慣などを破壊することが占領政策の指令だった。校内暴力や青少年の非行の一番深い根は占領政策の影響だ。」

 教育荒廃問題の核心をすりかえて、自民党が推し進めてきた反動的教育政策をまったく顧みることがない。自民党にはここで表明されている「占領政策への怨念」とも言えるようなトラウマがはびこっている。内務官僚出身の中曾根首相にとってはその思いがひときわ深かったと思われる。

 中曾根といえば、すぐ思い出すのは「日本列島=不沈空母」論である。私にはたいへんな驚きだった。日本がアメリカの属国であることをこれほどハッキリと表明するとは! しかし一方では、靖国神社公式参拝を強行してアメリカの顰蹙を買っている。アメリカへの拝跪と国粋主義への執着というジレンマに陥っている。このジレンマは小泉→安倍としっかりと受け継がれている。安倍の集団的自衛権を核とする憲法破壊政策も、昨年10月に発表された「日米防衛協力指針(ガイドライン)改定に向けた中間報告」に忠実に反映されている属国政策にほかならない。靖国神社公式参拝も強行している。中曾根・安倍の精神構造は一卵性双生児のようにそっくりである。

 中曾根と同じ「占領政策への怨念」というトラウマを安倍もわずらっている。昨日(1月29日)の衆議院予算委員会で、安倍は「憲法改正」について次のように答弁している。
「占領されている時代に基本的な大きな仕組みがつくられた。21世紀にふさわしい新たな仕組みを自分たちの手でつくっていくべきだと考えている。これは私の信念だ。どこから改正をしていくか憲法審査会で活発な議論が行われている。国民の議論が広がり、深まっていくことを期待したい。」

 ところで、瀬戸山が占領政策に責任をなすりつけた1970年代の教育荒廃の原因とその現象はどんなだったのだろうか。これについては羽仁さんの談話を転載しておこう。

 次の問題が学習指導要領、最初は文部省も教育基本法が規定するように、教育の条件の整備に専心すべきで、教育の内容にタッチすべきではないということを自分でいっていたんだよ。ところが、今では教育の内容のスミからスミまで、口を出すようになった。これがいわゆる詰め込み教育になったわけだ。とても小学校ではこの文部省のいうことを教えこもうとすると教員はこなせない。したがって市販テストなんていうものを使うんだよ。するとこの市販テストで儲ける奴があり、文部省は汚職をするようになる。まったく、あらゆる罪悪の渦の中に教員を放り込んだんだね。

 そこに入試地獄というのも出てくるんだ。これは実際想像する以上にひどい。一つの実例だが、ある音楽学校で、自分よりよくできるバイオリン科の学生の指をつぶしたという例があるんだよ。これが文部省教育なんだ。また、自分よりよくできる子供が、中学へ進学する時、あいつ病気になればいいと思っているんだよ。今の入試地獄というのはここまできている。中学から高校へ進学する時は、死ねばいいとさえ思うようになっている。日本では、教育を受ければ受けるほど、人間じゃなくなってくるんだよ。教育を受けない人間がいちばん、人間的だなんて、実に皮肉なことじゃないか。戦争中でも、小学校へ行って教育勅語を聞いたら、もうそれだけで、頭がおかしくなってしまう。こんな教育を幼稚園から小学校へ行く時、小学校から中学へ行く時、中学から高校へ行く時、高校から大学へ行く時、都合四回やるんだからね。四回もこんな教育を受けてきた人間がまだ人間であるというならば、その方が奇跡ですよ。

 これらのことは『読書人』の"四角三角"でもいっているが、今東京近郊のある県で50日以上の長期欠席が小学校では15パーセント、中学では35パーセント、実数約700人をこえる子供達が"学校嫌い"になっている。小中学生の自殺も、一つの自殺事件のかげにはその3倍か4倍の自殺未遂がある。教師の過労も、東京では小、中、高あわせて、36パーセントの教師が、岩手では実に76パーセントの教師が健康をそこね、病院通いをしている。千葉のある市では10人の退職者のうち、2人がノイローゼ、徳島では7人に1人、東京と関東6県では16人に1人が神経系障害をおこしている。これが学制百年、国家主義による文部省の教育荒廃の現実だ。

 これでもまだ足りないというかのように、今度は教員の大学院計画だという。今、全国の小中高の先生は120万人、これに対する文部省の大学院の入学定員は400人。子供の入試地獄よりも、また深刻な入試地獄に教師がつきおとされる。その入学には任命権、すなわち教育委員会の推薦を得たものというのが条件だ。教育委員会の御墨付を取るには、同僚をおしのけて、校長の思召しをよくしなくては、ということになりかねない。どんな教師ができるか、同僚をおしのけて120万の中の400人、3000人に1人の特権、差別に献身する教師、考えただけでもぞっとする。こんな恐ろしい文部省は廃止よりほかない。

 さて、中曾根が臨教審を設置するまでのいきさつを追ってみよう。

1983年1月24日
 中曾根は初めての施政方針演説で、「戦後政治の総決算」という政治姿勢を打ち出した。
「私は、日本が、戦後史の大きな転換点に立っていることをひしひしと感じる。今こそ、戦前戦後の歴史の中から、後の世代のために何を残し、何を改めるべきか、そして我々はどこに向かって進むべきかを真剣に学びとり、新しい前進のための指針とすべきであると思う。……時代の激変に対応して、我々は従来の基本的な制度や仕組み等についても、タブーを設けることなく、新しい目で素直に見直すべきでもあると思う。」

 上に掲載した安倍の答弁となんとよく似ていることか。

 この決意の中にはとうぜん「戦後教育の総決算」も大きな比重で含まれていたはずだ。中曾根はすでに行政管理庁長官時代(1981年7月27日、国策研究会会員懇談会の席上)に、
「第二臨調の次に必要なのは教育大臨調だ。文部省の中教審程度のスケールの小さい技術論による教育改革ではなく、教育体系の基本的なあり方まで掘り下げるような教育大改革があってしかるべきだと思う。行革はいわばその精神的な先駆である」
と、いささか唐突に「教育大臨調構想」を打ち上げている。

 1983年夏の参院選で、中曾根は「教育改革」を公約にかかげた。選挙遊説で教育の話をすると、聴衆が熱心に耳を傾けてくれたことから、その年末に行われた総選挙に際しても、教育改革を国民に強く訴えていた。

 しかし、教育改革で集票を目論んだ総選挙は敗北に終った。第二次中曾根内閣は新自由クラブとの連立政権として発足した。

1983年12月27日
 組閣後の記者会見で、中曾根は次のように力説している。
「先祖をおまつりする。親に孝行する。兄弟仲良くする。礼儀を守るなどの儒教の精神はどこへ出しても恥ずかしくない。仏教の慈悲、キリスト教の愛、神道の清き明らけき心、そういう美徳はやはり美徳だ。日本の民族の精神的土壌を考えつつ、新しい教育体系を考えるべきだ。……日本人が愛国心を持ち、かつ実行することは日本をさらに前進させるために絶対に必要な条件だ……、教育とは民族の個性や歴史や風土や社会体質を無視して適合するものではない。」

 このように、中曾根の教育観の根底には復古的な国家主義教育理念への強い固着観念が随所に現れている。

1983年6月14日
 中曾根は首相の私的諮問機関として、井深大(ソニー名誉会長)以下7名で構成される「文化と教育に関する懇談会」を設けて、
「六・三・三・四制の教育制度の見直しにも触れていろいろ論議があるがメリツト・デメリットを自由に議論し、検討してほしい。」
と諮問している。

1984年2月15日
 中曾根は、臨教審設置の方針を決めた後、衆院予算委員会で次のように述べている。
「教育基本法の解釈は、私の考えが中曾根内閣としての解釈であり、愛国心や親孝行を教育目的として教えてしかるべきだ。」

 ここで中曾根が「教育基本法の解釈」言っているのは「第一条(教育の目的)」の解釈である。その条文は次の通りである。
「教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、[真理と正義を愛し、個人の価値をたつとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた]心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。」([]は私が付した。)

 [・・・]の文が「心身ともに健康な国民」が身につけるべき素養を示している。中曾根はこれを「愛国心や親孝行」で置き換えて解釈したいと言っているのだ。これは第一条の目的条項を、このように解釈を変えることによって、保守党の教育観や教育理念を教基法に定着させようとする政治手法である。中曾根には憲法改悪の野心もあった。しかし、憲法改悪も教育基本法改悪も抵抗が多く実現が困難であることから、条文の解釈を変更することによって、実質的に改悪の効果を得ようというわけである。

 つまり、現在アベコベ政権がやっている解釈改憲の手法はここに先例があった。第一次阿倍内閣は教育基本法を強引に改悪したが、いま解釈改憲をてこにして、憲法の全面的な改悪も視野に入れた動きを始めている。

 ちなみに、安倍が改悪した教育基本法の第1条は次の通りである。
「教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として[必要な資質を備えた]心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。」

  [・・・]の部分を、[愛国心や親孝行]で置き換えたいのだが、そうしたあからさまな変更をはばかって[必要な資質]と、その時々の国家権力の都合に合わせてどうにでも解釈可能な抽象的な玉虫色の文に変えている。お二方ともに「真理と正義を愛し、個人の価値をたつとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身」がよほどお気に召さないようだ。
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《『羽仁五郎の大予言』を読む》(48)

権力が教育を破壊する(31)

教育反動(23):中曾根臨教審(1)


 「権力が教育を破壊する」の聞き書きは1974年6月に行われている。従って、当然中曾根康弘による臨教審(臨時教育審議会)のことについては何もふれていない。ちなみに、中曾根が臨教審設置の方針を決めたのは1984年であり、羽仁さんが亡くなったのは1983年である。

 中曾根臨教審はそれまでの教育反動を集大成し、その後のさらなる国家主義教育の指針を提示した点で、今日の教育への絶対的な権力介入を推進した結節点であった。そこで、『・・・大予言』とは離れるが、最後に中曾根臨教審の学習をしておこうと思った。本題に入る前に一言触れておくと、中曾根は敗戦時は海軍主計中尉だったが、もともとは内務省の官吏であり、戦後また内務省官吏に復帰している。内務省官吏といえば、羽仁さんは内務省と文部省の間の次のような関係を指摘している。

 ぼくの『都市の論理』ができた時に、一高時代の同級生がお祝いをやってくれたんだね。そこへ佐藤得二君(管理人注:仏教学者)が来てね、彼は、戦後日本の教育の民主化の時に安倍能成に口説かれて、無理に文部省に入った男なんだ。そして彼は何とかして文部省の民主化を図ろうと努力したんだよ。その彼がその会に出て来て、ひと言「『都市の論理』に書いてあることは、本当だ。それは、私が文部省にいて実際に体験した。文部省は最悪の汚職の巣窟だ。それと闘って私は敗北した」というんだね。だいたい文部省というのは、もと内務省なんだよ。敗戦によって内務省は廃止されたが、その内務官僚はすべて文部省に入った。だから、今でも、文部省の幹部で実際に教育に一日でも関係した人は、一人もいない。

(以下は教科書Cを用いています。)

 さて、臨教審は「権力が教育を破壊する(21)」でふれたように、中曾根以前に鳩山内閣によって閣議決定(1956年1月27日に)されたものがある。このときの臨教審は審議未了で廃案になっている。この審議会は中教審(中央教育審議会)とどう違うのだろうか。

 中教審が文部大臣の諮問機関であるのに対して、臨教審は首相直属の教育諮問機関である。日本国憲法・教育基本法体制の下での教育行政は、政治的中立性が強く要請される領域である。従って、首相の意向が強く反映されるものとなる首相直属機関の設置はその妥当性が大きく問われなければならない。「戦後政治の総決算」の一環として「教育改革」を掲げ、その教育改革は、政府全体の取り組むべきものであって、もはや一文部省の省庁によってなしうる課題ではないと位置づけている中曾根臨教審については、ことさらそのことを強調しなければならない。

 教科書Cは、それを検証するために、「まず日本の現代史において、教育改革という名の下に、内閣総理大臣直属の教育会議がどのような役割を演じたのかを明らかにしておくことが必要である」と言い、その歴史をたどっている。

 以下のように、臨教審と同じ役割を演じた機関は過去に6回設置されている。
① 1917(大正6)年
   臨時教育会議
② 1921(大正10)年
   臨時教育行政調査会
③ 1924(大正13)年
   文政審議会
④ 1937(昭和12)年
   文教審議会
⑤ 1937(昭和12)年
   教育審議会
⑥1946(昭和21)年
   教育刷新委員会・教育刷新審議会

 ⑥と関連して一つ確認しておくと、1949年5月に吉田首相が「文教審議会」(翌年4月に文教懇話会と改称)を設けているが、首相直属の諮問機関としては⑥が設置されていたのであり、吉田の文教審議会はあくまで私設の諮問機関であった。
(詳しくは「権力が教育を破壊する(10)」をご覧下さい。)

 ①~⑤の大日本帝国時代の教育会議について、教科書Cは次のように解説している。

 戦前の教育に関する事項は、法律によらず勅令によって制定されていた。したがって教育勅令は、帝国議会においてではなく、枢密院において審議され、天皇の裁可によって発布された。そのために、重要な教育勅令案の基礎となる教育政策の形成は、これらの教育会議において、審議、作成されたのである。とくに前述の①とかの臨時教育会議は、その「官制」の公布に当たって、「上諭」(天皇の裁可を表示したもの)が付されたことによって、一段とその権威を高めたのである。

 ①の臨時教育会議は、寺内正毅内閣が、明治中期以来懸案になっていた学制改革問題の解決、いいかえれば、第一次大戦の経験に基づく、総力戦体制に即応する教育制度の再編成等の必要に迫られて設置されたものである。総裁以下38名の委員は、山県有朋系の官僚、軍閥の代表、枢密顧問官、三井、三菱財閥の代表、貴族院議員などが大半を占めていた。そして、会議の運営も山県系の委員によってリードされ、発言の内容および順序も、あらかじめ、彼らによってとりきめられていたほどである。したがって、この会議の速記録には、支配層の教育に対する強い危機意識がはっきりと示されていた。

 この危機意識の中で立案された教育改革の構図 ― 軍国主義教育、国家主義教育への方向づけ ― は、重大な影響力を行使し、結局、後になって無慈悲な国家権力によって、より激しい形で、それらは実現されていったと見ることができよう。

 ⑤の教育審議会は、中国に対する侵略戦争遂行に必要な教育制度の改革について審議するために、近衛文麿内閣によって設置されたものである。そこでの課題は、「国体の本義の徹底」(天皇制イデオロギーの教化)、「国民大衆の教育の拡充」「国民体位の向上」「科学及産業教育の振興」、そして「真の人物を育成し、創造的実践的性格を鍛錬する」ことなどであった。これらの課題を審議するために総裁以下67名の正委員が任命されたが、その官職等の構成は、臨時教育会議のそれと類似していた。

 そこでは、青年大衆を戦闘要員として訓練するために、青年学校就学の義務化、従来の小学校を改め、国民学校とし、義務教育年限を2年延長するという注目すべきことが計画された。しかし、国民学校は「皇国ノ道」と称する天皇への無定量の忠誠の徹底という、戦場に赴く兵士たるべき皇国民の錬成の施設と化したのである。

 こうして、⑤は①の総仕上げでもあった。これら二つの内閣総理大臣直属の教育会議の教育改革プランは、いずれも教育の政治・軍事への隷属徹底化を強行したものでしかなかった。

 これまで「権力が教育を破壊する」と題して、⑥による戦後教育の民主化、それを破壊し続けてきた教育反動について詳しく学習してきたのだった。⑥は①・⑤とは全く異なる性質の教育会議であることはすでに私たちの知るところであるが、教科書Cがそれを簡潔にまとめているのでそれを転載しておこう。

 これに対して、⑥の戦後の教育刷新委員会は、同じ内閣総理大臣直属の教育会議でも、前二者とはまったく異質のものであった。アメリカ軍の占領下という状況においてではあったが、従来の軍国主義的・超国家主義的な日本の教育制度を民主的に改革するための会議であった。

 特徴的なことは、委員長(安倍能成・南原繁)以下49名の委員会構成は、「教育のあらゆる分野における代表的な権威者を網羅し」、「全然官僚的要素を含んでいない点」であった。学者・教育家の自主性を最大限に尊重した会議であった。

 かてて加えて教刷委では、諮問に対する答申というものは一件もなく、すべて自主的な建議と声明書に終始したのである。もちろん、占領軍の指示と示唆があったことも事実である。しかし、それらの建議等は、教育理念、学校制度、教育行政、教育内容等の教育の全分野にわたり、民主主義的教育改革原則を提示し、そして、教育基本法の制定に結実していった。六三制学校制度も、教刷委の自主的な教育改革プランの反映であった。

 こういった戦後教育改革を、一層推進するのではなく、一歩一歩なしくずし的に後退させていったのは、相つぐ保守政党の内閣であった。教育委員会の公選制から任命制へ、文部省の権限強化、学習指導要領の大綱的基準から法的拘束化へ、教科書検定の検閲的性格へ、そして教育現場における管理強化など、すべてそうである。

 中曾根臨教審は、⑥とはまったく性質を異にし、戦前の教育会議に酷似したしろものである。次回から、その政策意図と審議の結果をみていこう。
《『羽仁五郎の大予言』を読む》(47)

権力が教育を破壊する(30)

教育反動(22)


勤評その後

 勤評の最大のねらいは組合の分断・弱体化にあった。その目的を補強する形で進められたのが「学校管理規則」である。これが制定されていく経緯も勤評の場合とそっくりである。(以下は教科書Aによる。)

 1956年6月2日に警官500人を動員して「地方教育行政法」案を強行採決したあと、間を置かず文部省は「公立小・中学校管理規則要項試案」を作成して各地方に提示する。それを受けて、同年9月はじめ、都道府県教育長協議会が文部省試案をより詳細にした協議会試案を作成する。各都道府県・市町村は、これら都道府県教育長協議会の定めるモデルを模倣して学校管理規則を作成していった。そのようにして制定された都道府県・市町村の学校管理規則の内容は、おおよそ次のようである。

(1)
 教師の教育課程編成に制限を加え、教育委員会に法的な最終責任を、校長に実際上の責任を与えた。
(2)
 教科書採択の実権を教育委員会が確保し、準教科書、学習帳・日記帳・練習帳などの補助教材について教育委員会の承認または教育委員会への届出制を明確にした。
(3)
 振替授業の承認・届出制を規定
(4)
 教師の校務分掌の性格をあきらかにし、校長が教師に命じうるものとした。
(5)
 職員会議は校長の諮問機関としての性格しかもたないことを強調した。

 このように、これまで教師・教師集団に事実上の責任があるとされ、またはそうあることが当然だとされたことがらについて、微に入り細にわたって規制がおよび、教師は教育活動を行なう主体者としての地位を法制面で掘り崩されていった。

 このような校長の職務権限の強化ととも、さらに1957年には「校長を助け、校務を整理する」ために教頭職を新設している。またさらに、校長・教頭の管理者意識を高め、教師集団からの離脱を促進すべく、1958年には校長に、1960年には教頭に管理職手当を支給することを決めている。さらにその後、1966年には校長・教頭の教職員組合への加入禁止を決めている。この校長・教頭の組合からの隔離は1965年6月14日に批准したILO第87号「結社の自由及び団結権保護条約」の対抗処置として改悪した国内法を根拠としている。何のための条約批准だったのか。ちなみに、「International Labour Organization」さんはこの条約の概要を次のようにまとめている。

 国際労働機関憲章がその前文において、結社の自由の原則の承認こそ労働条件を改善し、平和を確立する手段であると宣言し、フィラデルフィア宣言が、表現と結社の自由は不断の進歩のため不可欠であると述べていることを考慮して採択されたもの。

 1949年の団結権及び団体交渉権条約(第98号)とともに基本条約の1つ。

 条約で決められている主なことは次の通り。
 労働者及び使用者は、事前の許可を受けないで、自ら選択する団体を設立し、加入することができる。
 労使団体(連合体も含む)は、規約を作り、完全な自由のもとにその代表者を選び、管理・活動を決めることができる。
 行政機関はこれらの権利を制限したり、その合法的な行使を妨げたり、また、労使団体を解散したり、活動を停止させたりしない。
 労使団体は以上の権利を行使するに際してはその国の法律を尊重しなくてはならない。
 他方、その国の法律は、この条約に規定する保障を害するようなものであってはならない。

 このような管理職と一般教員の分断をしたうえ、さらに一般教員間の分断を計ろうとしたのが勤評による昇給という分断政策であった。

 以上に取り上げた事柄以外に、公選制教育委員会を任命制教委に強引に法改正をしたことから始まった教育の反動化政策は、さらに学習指導要領の法的拘束化、全国一斉学カテストの強行、教科書検定の検閲化と次々に打ち出されいった。このような教育政策の展開は、戦前以上の教育の中央集権化と教育に対する政治的介入を計ったものにほかならない。

 私は1962年に東京都立高校の教員になっているが、そのときから退職時まで、自民党・文部省の意図にもかかわらず、教職員の分断政策に関してはそれを無化して、少なくとも東京都では従来の職員会議を中心とした民主的な学校運営が続いている。また、勤評による昇級は全員に順番に割り当てていたし、勤評は移動の際の資料としても全く使われていなかったと思う。教科書Dは民主的学校運営を護った事例として大阪・高槻市の闘いを取り上げている。その部分を引用しておこう。

 大阪府の勤評攻撃は、57年の学校管理規則制定阻止闘争を前哨戦として、58年から本格化していく。

7月4日
 大教組が4日間の2・2・3・3休暇闘争に入る。
10月
 府教委が勤評試案を一方的に通告
10月29日
 大教組が府庁ピケを行う中、府教委が一分間で実施を決定
11月5日
 大教組が全日ストライキを決行、権力による強制捜査、事情聴取の攻撃

 その後、3月末まで攻防がつづき、30地教委のうち27の地教委で評定書提出を完全阻止していた。

4月20日
 高槻市教委が職務命令で校長を京都市内に呼びだし、評定書を強奪
4月21日
 高槻市教組が校長団交

 この交渉で、「今回とった行動に対する責任を反省し、校長会は改めて組合と話し合う。依って当分の間出校しない」との念書を取り、その後35日間にわたって全校長の登校を阻止することとなった。その間の校長不在中の学校運営について、闘争委員会が次の方針を下ろした。

 校長不在中の学校の運営は、分会責任者並びに教頭が合議の上、もっとも民主的な運営をなすこと、

 民主的・自主的な学校運営の基本方針を樹立すること(・・・・)、

 職員会議規則を定め、最高決議機関とすること

5月24日
 高槻市教組、校長合同による市教委交渉

 ここで「勤評の無効宣言をなし、府教委へ内容証明付きで送付する。勤評書は三者で管理する」ことが確認された。

 このような攻防の中でつくりあげられたものとして、たとえば「高槻市立第二中学校職員会議規則」は次のように規定されている。
「学校の運営に関しては民主的且つ自主的態度を堅持します」
「職員会議は最高の議決機関であります」
「職員会議は全教職員平等の立場で構成します」
「校長が職員会議で決定した事項と異なる運営並びに専決事項としてなした行為で疑義が生じた場合は職員会議の名のもとに抗議又は取消を要求することができる」

 このような闘いが大阪府下全域で行われたのであるが、府立高校では校長という校長が次々と病院に逃げ込み、その間、高槻市におけるような現場労働者による学校運営がなされ、教育労働者の職場支配権が打ち立てられていったという。職員会議の最高議決機関化やその後の主任制度の形骸化の取り組みは、すべて勤評闘争以来の職場支配権から生まれてきたのだ。

 以上みてきたように、勤評闘争は成績主義・能力主義という賃金体系改悪攻撃を阻止してきた下地となった歴史的な闘いであった。 つまり、勤務評定の賃金への反映を阻止した勤評闘争が官公労全体についての防波堤の役割を果たしてきたのだった。その後、71年の中教審答申において五段階賃金体系が打ち出され、人材確保法、教頭法制化、主任制などの団結破壊のための「職務職階給」攻撃が繰り出されてきていたが、2000年頃までは基本的な年功賃金が堅持されていた。

 教科書Dは勤評闘争後のことを「新たな人事考課制度の導入によって、ようやく東京から部分的な賃金格差攻撃が始まったという段階だ」と締めくくっている。教科書Dが出版されたのは2004年であるが、教科書Dの指摘は、もちろん、石原慎太郎の教育破壊攻撃のことを指している。

 私がこのブログを始めた動機は、2003年の日の丸・君が代を強制するいわゆる10・23通達への怒りであった。石原が行ってきた「教育の不当支配」のための悪行を列挙すると、
校長権限の肥大化と職員会議の形骸化
副校長・主幹という中間管理職の強化と教員分断
人事考課・強制異動という足枷首枷
などが挙げられる。この中の人事考課制度こそが形骸化した勤評に代わって打ち出された施策である。

(石原の教育破壊については「石原の都立学校支配の実態」などを初め時にふれて書いてきたので繰り返さない。)

(人事考課制度については「「教職員評価(育成)制度の現状と課題」」さんが詳しく論じているので紹介しておきます。)
《『羽仁五郎の大予言』を読む》(46)

権力が教育を破壊する(29)

教育反動(21)


(以下、鈴木和久・二本柳実・松田勲共著『教育労働者の戦争協力拒否宣言 闘う日教組再生のために』(労働者学習センター刊)の「高知の勤評闘争」の部分をそのまま引用します。)

***********



「高知の勤評闘争」―地域反動との攻防にうち勝って」


◆高校生や部落大衆と共闘して九波のストを敢行

 愛媛の闘いでは、校長を前面に押し立てたところに弱点があったとされてきたが、高知県の勤評闘争は、その校長たちが最後まで抵抗し、免職処分を受けてまで闘いを貫いたところに一つの特徴がある。しかし、もっとも特筆されるべきことは、山村地域や漁村地域で地域反動の攻撃を受けながら、実に九波にわたる一斉ストライキを一年間の間に敢行して闘いぬかれたことにあった。

 そのような闘いが可能となった背景として、56年以来、県教組が先頭にたって、全県民とともに「高校全人運動」に取り組んできたことがある。これは、勤評闘争をはさむかたちで62年以降の教科書無償運動へと引き継がれていくのだが、県教組の闘いと部落解放同盟との共同闘争が大きな力となっていた。また、全国で唯一実現していた県立高校の「無試験全人制」を、県が財政難を理由に掘り崩そうとしてきたことにたいし、全県下から反対運動がまき起こり、高校生も立ち上がって高校生徒会の連合体として「高知県高等学校生徒会連合会」を結成していた。この闘いがあったことで、勤評攻撃を前に高校生を含めた全県民的な勤評反対の共闘体制があらかじめ準備されていたのだ。

◆激烈な地域反動との対決に

 高知での攻防は、58年の冒頭から始まっていた。

5月14日
 県教委がついに勤評試案を発表
5月31日
 県教組、県総評、解放同盟、それに大学、青年婦人団体が加わって勤評粉砕高知県委員会を結成
6月4日
 県民大会を開催し、4000人が結集
6月7日
 県教委が、警官180人に守られて早朝に突如勤評規則を決定
6月22日
 勤評粉砕父母大会、5000人が結集してデモ行進
6月22日
 県教組校長部が緊急総会を開催

 校長たちの態度は初めから決然としていた。
「私たち校長は、教師の良心にかけて勤評に絶対反対することを再度表明すると同時に、校長は管理職でなく、教師はもちろん、県民の皆様と共に民主的な教育を守り続けていくことを確信をもって再び声明いたします」

6月26日
 県教組が全一日ストに決起

 組合員7000人が休暇をとって全員高知市内に結集した。スト突入率は実に99%だった。

 この闘いに対して、反動がまき起こった。6月27日から、郡部の23校区で反動的な父母が子どもの同盟休校を行い、山村地域では、民有の教員住宅から立ち退き要求をした例まで起きている。地域ボスの扇動によって少数の教育労働者を村民がとり囲み、ストをやめろ、日教組をやめろ、教師をやめろ、とつるしあげる事例が相次いだ。しかし、それでも県教組は闘いをやめなかった。逆に、労働者・学生のオルグ団が高知市から山間部に分け入り、村民の説得活動が開始され、その先頭に教育労働者が立っていった。

7月18日
 県教組が第二波抗議ストを敢行
9月15日
 日教組の正午授業うちきりの全国統一行動に高知県教組は第三波スト

 この日は、全学連も全国でストライキに立ち上がった。その後も、高知では10・14第四波スト、10・28全国統一行動に第五波ストへと連続して立ち上がり、この58年の間に10数回の統一行動、そのうちストライキを9回打ち抜いたのだった。それだけに、反動も激しかった。

9月4日
 日教組の小林武委員長が不当逮捕
10月11日
 反動的な地域住民の同盟休校を受けた校長2人に停職処分
11月29日
 6・26ストライキをめぐって、校長431人など455人に行政処分

 この大量処分に対する抗議行動に警察権力が介入し、50人が逮捕されている。そして、12月に入ると、山間部である仁淀村に激励オルグにかけつけた日教組中央の小林委員長らに対して地域反動が襲撃をしかけ、多数の負傷者が出る大事件まで発生した。

12月15日
 高岡郡仁淀村で「流血の森事件」起こる
12月20日
 第九波実力行使として10割休暇のストライキ。組合員参加は8000人

 評定書の提出期限は12月10日だったが、実際に提出されたのはわずかに17校、2%以下であった。土佐清水市の教育委員会が勤評規則の撤回を決める動きまでおこって、全県下で提出期限を延期せざるをえなくなっていった。

◆長期の不提出に校長への大量処分

1月30日
 校長434人をはじめ、455人に再度処分攻撃

 このような攻防をへて、高知県ではその後、数年にわたって評定書提出を阻止し続けることとなる。その間、校長に対する処分がくり返され、懲戒免職4人、分限免職10人、教頭への降格27人、停職は9人にのぼった。

 この勤評闘争以後も、高知の校長たちの中央統制に対する抵抗感が伝統的に継承され、91年からの「日の丸・君が代」攻撃の際にも、校長に対して大量処分がくだされる構図が続くことになる。高知では14人の校長免職は見せしめとはならなかった。勤評闘争を体験した当時の青年教育労働者たちが、管理職になってからも教育者としての生き方を変えることができなかったということだろう。しかし問題の核心は、教育委員会が管理職すら支配できないような力関係を58年勤評闘争の階級的な実力ストライキがつくり出したということなのだ。

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 以上が『教育労働者の戦争協力拒否宣言』が記録した高知県における勤評闘争のあらましである。この中に「流血の森事件」という聞いたことのない事件名があった。どんな事件なのか知りたいと思ってネット検索したがこれを直接解説した記事は見つからなかった。しかし、それに代わる資料として、「第031回国会 文教委員会 第2号」という速記録に出会った。この文教委員会での議題の中に勤務評定があって、その中で「流血の森事件」が取り上げられていた。高知県選出の参議院議員(社会党)・坂本昭氏の質問の中で語られている。およそ次のような事件である。

「この高知県で行われました事件については、もうすでに十月の終りからの事件でありまして、このことについては当然文部当局としても十分な調査をしてこられたと思うのであります。私はその間における適切な指導を欠いたためにこのような流血騒ぎを起したと考えまして、非常に遺憾にたえない次第でございます。特に報ずるところによりますというと、重傷八名、軽傷二十名、しかもこの重傷八名の中には教員組合の委員長並びに問題の起っておる学校の教員七名が入っている。しかも重傷を負った状況を見ますと、教育父母会議の会長初め全員約三十人が酒を飲んだ上、トウガラシの目つぶしや火ばち、消火器を投げつけて一時間にわたって集団暴行を加えた。大臣としても、当然この教育父母会議というものがどういう成り立ちで起ってきたかということはよく存じているはずであります。私もよもやこの教育父母会議が暴力団体であろうとは実は知らなかった。そうしてそういうものの存在を今まで大臣が黙認といいますか、認めてきたということはこれはまことにゆゆしき事態であると考えざるを得ません。」

 この事件について何人かの議員や文部官僚が発言をしている。もちろん、文部大臣はじめ文部官僚や自民党議員は教員を悪者扱いし、「教育父母会議」を擁護している。例えば、文部大臣(灘尾弘吉)は次のように答弁している。

「私はお話になりました高知県の森小学校と申しましたかの事件のごときも非常に遺憾な事態であると、かように考えるのでありますが、何がゆえに善良なる森の住民諸君がそういうふうな状態になったかというふうなことも、これは一つ考えなければならぬ問題だと思うのであります。お互いに勢いのつのるところ、ついいさかいの激しいということになりがちなものでありますけれども、私は森小学校の事態は私の承知いたしておりますところによれば、学校の教職員諸君がその要求を貫くために、いわゆる職場放棄と申しますか、教壇放棄というふうなことをあえてする。それをしてくれるなというふうなことの話がだんだんこじれてきて、こういうふうな状態になってきたのじゃないかと、教員諸君がいろいろな要求を持つということをかれこれ申すのじゃございませんけれども、やはり職場を大事にしてもらいたい、教壇の放棄というふうなことは避けてもらいたいということは、前々から私の申し上げておるところでございます。地元の教育を愛する住民諸君がさような点において憤激をしてこういうふうな事態になったのではないかと、こういうふうに私は承知するのであります。」

 もう一つ、自民党参院議員・大谷贇雄(よしお)の発言。

「教壇を放棄して勤評反対闘争に終始しておるというような事態は、私ども一体日本の教育者の師道が確立をされておるかという点につきまして非常な憂慮を実はいたすのであります。先般来すでに二ヵ年にわたって各地で教育問題をめぐっての反対闘争騒ぎが起っておりまするが、私どもは先生というものは七尺去ってその影を踏まないというような尊敬の念を持って常におるのであります。この年になっても私どもは先生の恩はそれこそ山よりも高いと実は考えておる。そういうふうに国民から尊敬さるべき先生がねじりはち巻をしてすわり込みをやったり、あるいは腕を組んで貧乏ゆすりか何か知りませんが、スクラムを組んでやってなさるというふうな事態が一般の世人、ましてや教育を受けておる学童たちに与える印象というものは、私は一生拭い去ることのできんようなおそるべき印象を与えておると思う。そういうようなことをあえてしてまで反対闘争に終始をしておられる一体そういう先生方の反省がなされぬということがこの高知県のまことに悲惨な状況を生み出したものだと思う。」

 勤評という教員支配のための悪法をごり押ししながら、なんともそらぞらしいお説教をたれている。鉄面皮なお人たちだ。

 ところで、この後の坂本議員の発言の中に次のような指摘がある。
「教育父母会議を結成させたところの裏、さらにまた高知県におきましては自由文教人連盟という組織があります。」

ここに出てきた「自由文教人連盟」という組織名は実は「権力が教育を破壊する(22)」に現れている。その部分を転載する。

『「検定を厳正にするため」として教科書検定審議会に新たに加えられた高山岩男(反日教組を旗印とする自由文教人連盟を結成した中心人物)であることがあきらかにされた(『週刊朝日』56年12月2日)。これは「F項パージ」と名づけられ、強い批判をうけた。』

 この「自由文教人連盟」という組織について詳しいことを知りたいと思ったが、ネットにはそのような記事はなかった。しかし、当時の文部大臣は知っていたようだ。坂本議員の指摘に対して灘尾文相は次のように答えている。

「自由文教人連盟が教育のことをいろいろ心配いたしまして活動しておられるということは私は承知いたしております。別にこれが不都合な団体とも考えてはおらないのであります。何か不都合な事例でもあれば別でありますが、私としては今格別不都合な団体である、あるいは暴力的な団体である、さようには承知いたしておりません。」

 これに対して、坂本議員はこの組織の本性を次のように指摘している。

「自由文教人連盟のことについて若干話がありましたが、まだどうもいろいろな点で御認識が足りないのじゃないかと思いますので、一つ実例をお話いたしたいと思います。それは、いろいろと問題を起しておりますが、安芸の高等学校で二人の教員が停職十ヵ月という処分を受けております。ところが、この停職の理由が実は一つも明らかにされていない。しかも、そのための調査も十分されていない。調査が十分されていないことは、教育委員会自身も認め、また安芸の高等学校の校長自身も認めているんです。そうした中で停職十ヵ月という非常な強い処分がなされている。ところが、これの内幕を見ますというと、安芸の高等学校の前PTAの会長が、これが高知県の教育委員会の教育委員の一人に任命されたんです。そして、この人は自由文教人連盟の幹部であります。そして、この自由文教人連盟と県の教育委員とはかなり密接な結びつきを持っているのであります。いい意味での教育効果の向上のためならいいんですが、こうした理由のない停職処分をやる、こうした点にこの自由文教人連盟というものが活躍をしている。またいろんな、森小学校の場合でも私は相当な金額を使っていると思われる節があるんです。たとえば、六人も七人も先生を雇う。そしてこの先生たちは、まことにお恥しい話でございますけれども、「朕惟フニ我カ皇祖皇宗」のあの昔の古い教育勅語を教えておったのであります。これは、さすがに父兄たちが腹を据えかねて、おれたちにわからないようなことを小学校の生徒に「朕惟フニ」を教えることは困る、こういう教師はやめてくれというので、自由文教人連盟差し回しの教師を、この父母会議の人たちが首を切ったという事件も実はあるんであります。」

 このような大日本帝国のゾンビのような組織が教育問題の裏で暗躍しているのだ。

 思いがけず長くなってしまったが、以上で「高知の勤評闘争」を終わろう。
《『羽仁五郎の大予言』を読む》(45)

権力が教育を破壊する(28)

教育反動(20)




 「試案」を全区市町村教委・公立学校長・教職員組合などに送りつけた東京都教育委員会のその後の動きはおおよそ次の通りである。

1958年

1月
 小・中・高校長会に「試案」を提示し説明を開始。
2月6日
 都教組、都高教組に対し、勤評基準案を提示。

 この勤評基準案は、教育長協議会試案とほぼ同じものであった。都はこれを4月1日公布、9月1日実施したいので了解されたいと組合側に申し入れた。

 これに対し、勤評は教育の民主化をはばみ、教師の勤務条件を不利にするとの立場をとっていた組合側は、「勤務評定案は、いっさい受け入れることはできない。いずれ改めて回答したい」と返答した。都教組は最悪の場合はストライキも辞さない基本方針をすでに決定していた。日教組は全国から東京に動員をかけていたし、総評もこれを支援した。

(ここでちょっと愚痴。現在では日教組は全くの御用組合になってしまったし、総評は連合という御用組合に乗っ取られてしまっている。)

 このような組合側の強い反対を受けて、都教委は4月7日に予定していた勤評実施の決定を延期したが、4月23日、わずか27分の審議で勤評実施を決定してしまった。

 この都教委のごり押し対して、都教組は勤評反対10割休暇闘争を実施した。これに続いて
5月7日福岡
6月5日和歌山
6月26日高知
で10割休暇闘争がおこなわれるなど、全国で勤評反対闘争が激化していった。

 さて、4月23日の都教委の勤評実施の決定に対して、北区割船小学校長であった伊藤吉春校長は、勤評提出に疑問をいだき、本島都教育長に対し次のような書翰を送った(以下の資料として、教科書Cは伊藤吉春著『勤評闘争二十年』を用いている)。

 先日はお忙がしい所をお邪魔致しました。その後いろいろ考えましたが、やはり今のままで勤評を書くことはどうしても私の良心が許しません。良心を裏切ることは勤評の精神にも反することであり、教育者として致命傷だと思います。

 そこで勤評不存在確認訴訟を提起し、その結論がでるまでは勤評を書くまいと一度は決心しました。しかし私の学校の職員は、それは一人だけ犠牲になることだからどうしても止めて貰いたい、といってききません。

 折角の職員の志を無にすることは、将来の学校運営に良い結果をもたらさないと思い一応提出することにしました。しかしその前に次の点だけは明らかにして頂いて、気持よく出させて頂きたいと思います。

一 今後秘密性をなくし不当な評定に対する救済の道を開く用意がありますか。
二 憲法が保障する自由権を侵害する恐れがあると思われる点(例えば勤務状況の)を削除する用意がありますか。
三 あまりに抽象的であったり基準があいまいであるために被評定者にとって不当又は酷な結果になる恐れがある点(例えば特性能力のイ、ト)を削除する用意がありますか。
四 勤務時間外にまで評定が及ぶ恐れがある点(例えば職務の状況のホ、ハ)を削除又は根本的に修正する用意がありますか。
五 総評を削除又は根本的に修正する用意がありますか。

 右の諸点について十五日朝までに御面倒でも文書で御回答をお願い致します。

    九月 日 伊藤 吉春
 本島 寛様

 勤評は全否定するしかない悪法である。伊藤校長も勤評提出それ自体を良心に反するものと考えていたことが分る。しかし、未提出の結果招来するであろう懲戒処分を危惧する所属校の教員からの信頼や懲戒処分による学校運営の混乱を勘案して勤評を提出することにした。しかし、勤評内容のもっとも不合理な部分について、当局の改善意志の存否を確かめてから、その去就を決しようとしたのである。

 これに対する本島教育長からの返事は、次のようである。

 御書翰拝見しました。御照会の件については次のように考えています。

 一の非公開、秘密性の保持は大事なことですから変更する意図はありませんが、本人にだけは明示しても、その求めがあるならよいではないか、と云うことだろうと思います。その点については現在の事情のもとでは、本人にも見せない方がよいと考えています。然し『不当な評定に対する救済の道を開く』方法が、現在考えている調整以外に適当な方法としてあれば、検討したいと思います。

 二から五までの点について現在勤評に関する研究協議会で方法や内容について検討中ですから、そこでいろいろな問題点を出して頂き、更にその問題点については学識経験者の意思を聴く等審議検討をつくした上で、改めた方がよいと思えば改正したいと思っています。

 方法や内容について各種の意見はあるが、いずれも実施の経験のない者から出されていることですから、ともかく第一回の提出をまち、その実績に徴して経験に基づいた反省と研究によって、今後ともより良い評定ができるように努力をつづけるつもりです。十三日夜出張先から帰りましたので、少々遅れましたが悪しからず。

   九月十四日 本島 寛
 伊藤吉春様

 伊藤校長の質問に対してほとんどまともに答えていない。私は勤評はどんな修正しようと悪法であることを免れないしろものと判断しているが、それを置いて本島の返書を好意的に読めば、勤評内容の不十分さを認めていて、今後の改善を期しているようだ。ならばこんなに早急に実施することはないだろう。実際に実施して問題点を検討するというのなら、今回の実施は試行であることを明言すべきである。

 伊藤校長もこの教育長からの返書を、曖昧ではあるが改善の意思ありと好意的に受け取った。そして、教育長を信頼し、9月15日の午後期限ぎりぎりに勤評を提出した。

 この時に伊藤校長が提出した勤評の内容は、被評定者全員を好評価したものであった。都教委が提示した評価方法は五段階の相対評価であったが、伊藤校長はABの二段階だけで評価し、それもほとんどAをつけたものであった。これはまったく都教委が意図している勤評とはいえないものであったが、都教委は伊藤校長の提出した勤評を受理した。しかしその後、都教委は、総評が未記入だから記入せよ、と指示している。このときの総評は絶対評価と相対評価の二通りがあった。都教委との押問答の未、ABだけでもいいからつけてくれという、都教委のいうとおり、伊藤校長はこれもまたほとんどAをつけて提出した。都教委はこれも受理している。この一連の都教委の対応について、伊藤校長は次のように書いている。

「これが、科学的人事管理の資料にするというふれこみだった勤評の実態である」
「勤評がいかにデタラメかということは、これだけでも明白である。ただこのデタラメさというものは単に苦しまぎれにやっているのではなく、役人らしく形だけは整えたいという面子の問題もあろうし、更に重要なことは、これで彼等が勤評を実施した目的は達せられるというところにある。これは勤評の性格を示している」

 伊藤校長は、一年待ってみたが、翌年の勤務評定書も彼の良心を満足させるような改訂はされていなかった。このことを確認した伊藤校長は、
「教育は国民に対し直接責任を負って行われなければならない」
という教育基本法の精神と自らの良心に従い、勤評を提出しない道を選んだ。これに対し、都教委は、1959年10月14日、伊藤校長を、「地方公務員法第29条第①項第一号および第二号」を根拠に懲戒免職したのだった。

 地方公務員法第29条第1項は次のようである。

<第29条>
①職員が左の各号の一に該当する場合においては、これに対し懲戒処分として戒告、減給、停職又は免職の処分をすることができる。

 この法律若しくは第57条に規定する特例を定めた法律又はこれに基く条例、地方公共団体の規則若しくは地方公共団体の機関の定める規程に違反した場合

 職務上の義務に違反し、又は職務を怠った場合

 全体の奉仕者たるにふさわしくない非行のあった場合

 続いて第30条は次のようになっている。

<第30条>
 すべて職員は、全体の奉仕者として公共の利益のために勤務し、且つ、職務の遂行に当たっては、全力を挙げてこれに専念しなければならない。

 勤評は「公共の利益」とは真逆の悪法であり、これを強権力的にごり押しする都教委は「全体の奉仕者たるにふさわしくない非行」を行っている。懲戒免職されるべきは都教委だろう。

 伊藤校長の筋を通した進退を知って、私は以前に引用した美濃部都知事の次の言葉を思い出した。

「仮に通達と法律とが矛盾しあうならば、法律に従うべきであり、法律と憲法が矛盾している時は、憲法に従うべきであるというのが私の行政官としての判断である。」

 さて、勤評についてはここで終わりにしようと考えていたが、もう一つ取り上げたいことが出てきた。全国での反勤評闘争の中でも、校長たちが最後まで抵抗したという点で、高知での闘争が際立っている。この闘争のことを紹介したくなった。(次回へ)