2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《『羽仁五郎の大予言』を読む》(44)

権力が教育を破壊する(27)

教育反動(19)


 羽仁さんの勤評についての談話を転載しよう。

 これが制定されたときに福田恒存君が「勤務評定は軍国主義につながって、風が吹けば桶屋が儲かるのと同じだ」といっていたが、実にその通りなんだ。風が吹けば桶屋は儲かるんだよ、現実というのはいろんな所に関連があるからね。ちょっと見ただけでは、関連がないような所に関連を発見するのが学問なんだよ。

 この勤務評定だが、いったい誰がやるのかということが問題なんだ。つまり校長がやるんだよ。教師が相互に勤務評定をやるのだったら、それは結構ですよ。それから教師が校長を勤務評定するんだったら、なおいいね。生徒が教員の勤務評定をすれば、ますますいいでしょう。

 大学生が教授の任命権を持たせろというのはそれなんですよ。ひどい教授が多いんだからね。現に、ドイツなどでは聴講制度というのがあって、聴講生が少ないとその教授は首になるんだよ。日本では、聴講しなければ、単位をくれないんだからね。単位をもらうために学校へ行っている。これが文部省教育だ。文部省がなくなれば、くだらない教授の講義を聞く大学生なんていなくなっちゃう。それに、文部省がなくなれば、財界と結託できないから、財界で採りたいような入社試験というものもなくなる。

 受験地獄というけれど、この勤務評定は校長がやるということに一番の問題がある。すなわち、教員は校長の前では何もものがいえなくなるということなんだ。この勤務評定というのは、教員沈黙法なんだよ。教員が黙ってしまうというようなこんな恐ろしい社会はないね。国民を代表している教員が黙っちゃうということは、国民が黙っちゃうということだからね。ところが現実は、ほとんどの教員が思っていることをいわなくなっている。たまたま思っていることをいうと首になってしまう。これは日教組も擁護できないんだね。

 本当に無邪気な先生は、本気で子供を相手にするんだよ。すると当然問題が起こって、その先生は首になる。子供達は一所懸命復職を要求する。ところが、日教組は組織決定とは関係ないといって、一緒に闘おうとしないんだね。全国の教員がどういう状態にあるかと思うと、ぼくは哀れで夜も眠れない。気の弱い、勉強の好きな、人の好い人が教員になるんだよ。これらの先生がどんな気持で学校へ行っているか、このことがビンビン、子供に反映するんだね。だから、この勤務評定というのはどんなに恐ろしい制度であるか、明らかなんだ。一刻も早く廃止するべきだ。

 勤務評定に、東京都で敢然と反対して、校長としてはとてもできないといった人は、東京都の教育委員会で首になった。この間、その裁判があって、裁判にも敗けた。この校長を日教組は支援もしていないんだね。人間なら、一緒に働いている同僚の評定などできるはずはないよ。裁判所だって勤務評定は憲法違反じゃないといって、上司の命令に服従しないのは首を切られても当然だという判決を下すんだよ。これは、裁判所が、命令が教育だと思っている証拠なんだ。すなわち、軍国主義というか、侵略主義なんだ。上司の命令ならなんでもやってしまう。

 最近のいい例が、小野田さんだよ。それで、自分は何にも悪いことをやったと思っていない。この罪悪感がないということが、日本の教育の根本的問題だね。日本国民には罪悪感がない。被害者としての意識はなぜかあるんだ。東京空襲のように、立派な本を作って、展覧会をやったりするんだよ。だけど、南京虐殺の調査というのはちっともやらないんだ。だから被害者の意識はあるけれども、加害者の意識はゼロなんだな。

 大分前だけど、テレビで田中角栄と瀬戸内晴美さんが対談やっているんだよ。さすがに瀬戸内さんは、田中をいろいろと問いつめるんだよ。ところが、田中はノラリクラルと逃げる。とうとう、瀬戸内さんは「あなた宗教は?」と聞いたんだね。田中は「私は至って信心深い、仏様でも、神様でも何でも拝みます」つていうんだよ。さすがに瀬戸内さんも驚いて「あなたはおそれということを知らない人ですね」といったよね。こういう人間を文部省は作っているんだよ。罪悪感がゼロなんだ。

 教員にしても、裁判官にしても、公務員にしても、罪悪感のないほど、恐ろしいものはないと思っている。警察が日教組を逮捕するのもそうですよ。これがすべて、勤務評定からきている。

 「勤務評定に、東京都で敢然と反対して、校長としてはとてもできないといった人」が東京都の教育委員会に首になった経緯は教科書Cが詳しく記録している。以下、教科書Cにより、その経緯を追ってみる。

 まず、東京都が勤評実施を決定した経緯は次のようである。

 愛媛県での勤評問題に当面して、文部省は愛媛県教育委員会を擁護する施策を始めた。文部省が主導して、全国的に勤評が実施しやすい標準的試案を都道府県教育長協議会に作成させた。その試案は1957年12月20日に発表される。この試案は愛媛の勤評のばかばかしさにさらに輪をかけたしろものであった。

 この「試案」によれば、「勤務評定の趣旨」として「勤務評定は、一般公務員や、会社その他の企業体の職員等について、すでに広く実施されている。およそ人事管理は、職員の勤務実績や能力に即応して行われるもので、わが国の公務員制度も職員の実績や能力に応じたいわゆる成績主義を基本的原則としており、職員の適正配置、給与の決定、研修、指導、褒賞などの人事管理を公正に行うための基礎資料として勤務評定が考えられる」としている。そして、都道府県教育委員会の勤務評定計画樹立に際して留意すべき点として、

 勤評の時期、方法、内容等を細部にわたって定めること、

 実施に関する規定を、規則、通達のいずれかにする、

 評定の内容は、非公開とすることが適当である、
を挙げていた。

 それに続いて試案の概要を示して、特性・能力のほかに、職務の状況と勤務状況について記録し、特記事項の具体的記述と総合的な評価を総評として示すように示唆していた。評定する項目は、82項目にわたっており、その複雑さは愛媛の比ではなかった。82項目の中から一部を摘記すると、

○ 指導方法は児童・生徒の実態に即しているか。
○ 豊かな愛情をもって親切に指導を行っているか。
○ 日頃、研究修養に努めているか。
○ 正直で良心的であるか。
○ 上司や有力者にへつらい、取り入ることがないか。
○ 他人の欠点や誤りに寛容であるか。
○ 身体や服装が清潔であるか。
○ 生活態度が清廉であるか。

 「清廉な服装」という外面的なことから、子どもに対する指導を「愛情」をもって行っているかという内面的なことまで、それも、生活の素振りにおいて、心が清らかで私欲がないこと、についても、すべて82項目にわたって、一人ひとりの教師について評価しようというものであった。

 これについて、今井誉次郎(国語教育者、児童文学作家)が『日教組教育新聞』(1958年1月17日付)で次のように書いている。

 ある県のある校長が、こんどの都道府県教育長協議会から出された教職員の勤務評定試案についてつぎのようにいっていた。

 なにしろひとりひとりの教員についてそれぞれ82項について評定しなくてはならない。しかも、そのひとつひとつの項目がむずかしく評定が容易でない。たとえば ― 基本的生活指導(しつけ)、道徳的心情や判断力を育成するためによく研究し努力しているか ― というような1項について考えても、基本的生活指導はしつけだといっていいかどうかもわからないね。こんなハッキリしないことで勤務評定するのはごめんだね。

 その上、82項目では、1項目について1分間ずつ考えても、82分かかる。ただでさえ忙しいのに、これでは1日に1人やるのさえ大変だ。職員は30人だから土曜・日曜までいれて、評定するだけに丸1ヵ月はかかる。その上ひとりひとりのまとめの票をつくり、また別に履歴書よりくわしい教職歴から家族のひとりひとりの状況などまで記入したものを作らなくてはならない。よくまあ、机上プランで、こんなバカゲタことをきめたものだ。

 まったくこの通りで、勤務評定は慎重にということで、詳しくやることにしたのかも知れないが、不合理なものは、どんなに詳しくしてもますます不合理になるばかりである。

 日本教育学会も、1958年4月に日本教育学会教育政策特別委員会(委員長、海後宗臣)名で公表した『教師の勤務評定の第二次検討及び教師の勤務評定問題に関する全般的見解』の中の「都道府県教育長協議会『試案』の検討」で同試案を厳しく批判した。その概要は次のようなものである。

第一
 『試案』の論理は軽からぬ誤謬を含んでいる。
1 『試案』はなんら研究の裏づけをもっていない。
2 『試案』の論理は、弱みをかくすかのような弁解と強弁に満ちている。

第二
 『試案』の教職観は構造的でなく、建設的でない。
1 『試案』は教職員がたがいに協力して学校教育を高めることを推進するような教職観に立っていない。
2 『試案』は教師の主体性、創造性を軽視し、上から教育を規制しようとする態度をもつ。
3 『試案』は職務活動のゆがんだ現状をそのまま固定させてしまう考え方である。
4 『試案』は教育の諸条件の不備には眼を蔽い、その結果を教師個人の責任に帰せしめようとする傾きがある。

第三
 『試案』の人間観は機械的である。
1 『試案』は皮相で浅薄な人間観を示している。
 一、二の例をあげよう。
『上司や有力者にへつらい、取り入ることがないか』などは典型的というべく、ほかならぬ当の上司が、この項目があることによって、へつらう部下をかえって低く評価し得るようになると考えるのは、あまりにも皮相浅薄な人間観であるというほかない。
 校長も『身体や服装が清潔であるか』を観察され、学童なみにあつかわれることになる。『明朗、陰気、素直………』と90以上の性格評語例をならべ、これで『人間像を浮き彫りにしようとする』というのは、あまりにも機械的ではあるまいか。それは浮き彫りではなくてレッテルをはることであろう。
2 『試案』には人間尊重の気持が稀薄である。

第四
 『試案』の人事管理についての考え方は矛盾を含み、教育人事を公正妥当にするとは考えられない。 1 『試案』は考課のもつ不合理性を克服していない。 2 『試案』の五段階の格づけは、いわゆる絶対評価の建前と矛盾している。

第五
 『試案』は教育行政に対して法制上の混乱をもたらすものを含んでいる。
1 『試案』においては、公立義務教育学校の教員について、県教育委員会が、その勤務内容と職務遂行の水準とを実質的に設定することとなるが、このことは県教育委員会の権能を超えるものである。
2 地方教育委員会の教育長は、その資質において、評定または調整を行うのに不適格であると思われるものが多い。

 このようなまっとうな厳しい批判を理解する知性を持たない連中、つまり反知性主義に呪縛されている連中が教育委員を務めている。東京都は、本島寛教育長が「都道府県教育長協議会試案」作成において推進的役割を演じた関係からだろう、1957年12月20日、同試案が発表されると、直ちに全区市町村教委、公立学校長、教職員組合等関係者にこれを送って、内容の検討を求めた。

 現在、アベコベ首相を「反知性主義の親玉的存在」と位置づける論調(まさにその通り!)が多く見られるが、反知性主義は今に始まったことではない。戦後の反動化を推進してきた財政官学界に蔓延している思考癖である。反知性主義について、つい先日、東京新聞の「本音のコラム」で佐藤優さんが次のように書いていた。

『この一年を振り返って痛感するのが、政治エリートの間に反知性主義が蔓延したことだ。反知性主義とは、「客観性、実証性を軽視もしくは無視して、自分が望むような形で世界を理解する態度」のことで、高等教育を受けた者が反知性主義のわなに足をすくわれることもまれでない。』

 この反知性主義が歴史認識において適用されたのが歴史修偽主義である。
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《『羽仁五郎の大予言』を読む》(43)

権力が教育を破壊する(26)

教育反動(18)


(年の瀬に臨んで少しは身辺整理をしようと思い立ちましたが、結局たいしたことができませんでしたのに、時間は容赦なく過ぎ、ついつい更新がおろそかになりました。気を取り直して再開します。)

 これまでにも何回か引用したように『大予言』には時折矢崎さんのコメントが挿入されている。次の文章もその一つである。

 教育問題について話す羽仁五郎は、熱心であるばかりか、心底から怒りに燃えている。 次の時代を作るのは、とりもなおさず現代に生きる若い人達だ。彼等がまともな教育を受けられない現実を、教育問題に首を突っ込めば突っ込むほど、いやというほど知らされることになる。未来をつくる人間が、それこそ安易で、権力側の思惑だけを押しつけられることこそ、たしかに犯罪そのものではあるまいか。

 全く同感である。「権力側の思惑だけを押しつ」けるために教科書検定が強化され続けられてきたが、それと双璧をなすあくどい「犯罪そのもの」といえる制度が教員に対する「勤務評定」(以下「勤評」と略記)である。今回からこれを取り上げる。

 戦後教育史で初めて勤評が登場するのは1956年である。

1956年

11月1日
 愛媛県教育委員会、勤務評定(勤評)による教職員の昇給昇格の実施を決定。11月18日小中高等学校校長集会、勤務評定拒否を決議。

 愛媛県は大きな赤字を出して、1956年5月、地方財政再建法の適用県となった。県は財政再建のための施策の一つとして教職員の定期昇給の抑制を打ち出した。その実行にかこつけて勤評を持ちだしたのだった。しかし,それは表面的な理由であって,勤評の最大のねらいは組合の分断・弱体化にあった。「地方教育行政法」による任命制教育委員会が発足したのが10月1日であり、任命制教育委員会による悪行の嚆矢と言ってよいだろう。

1956年

3月30日
 愛媛県教育委員会、勤評による人事を発令し、450名の教員の昇給停止。4月3日34名の校長を処分。

 愛媛の勤評問題は,やがて全国的な問題となっていく。文部省・教育委員会と日教組との間の激しい抗争となり,文部省は,教育長協議会と全国校長会を開催し,学校管理の強化,教職員組合の厳正な処分を呼びかけ,教員の政治的中立,道徳教育の強化を求めた。

 これに対し,日教組は,「非常事態宣言」で,勤評を教員の自主性を奪い,組合活動を封じようとするものととらえ,ストライキを組むなどして激しい反対闘争を展開した。学者・文化人のあっせんなどもあったが,勤評はしだいに各都道府県で実施されるようになり,教育委員会や校長の学校管理権が強まり,教員の自由な教育活動は大きく制限されることになった。(以上、教科書Bによる。)

 もちろん、勤評は愛媛県が思いついたことではない。その淵源は「地方教育行政法」の成立と時を同じくして自民党が具体的に策定していた教育に対する国家の統制と日教組対策の方策にある。その中で「文部省の措置すべき事項」として、次のような方策を打ち出している。(以下は教科書Cによる。)

一、
 日教組の性格を明確に認識して、これに対し、交渉的態度で臨まない。
二、
 新教育委員会法に規定された文部省の指導性を高める。
三、
 都道府県教育長をよく握って各種の措置を通じて服務の厳正をはかり、状況によって文部大臣は教育長の進退について事実上の措置をとる。
四、
 文部省地方課を強化拡充し、教育委員会を握るとともに、教組運動を主管する機構を整備する。
五、
 視学官制度を拡充し、その態勢を整えて視学官の査察、復命を厳正にする。
六、
 教育研修会などの教育集会を文部省主催ないし、教育委員会との共催で活発に行う。

 また、「教育委員会の措置すべき事項」として、
「学校管理規則を速かにかつ的確に制定し学校管理を厳正にする。教職員の服務監督の強化をはかり勤務評定を励行する。校長・教頭の管理的立場を明確にし、その給与体系その他必要な措置を講ずる。職員団体の専従職員も必要最少限度にとどめ、いわゆるヤミ専従をなくする」
等、詳細にその方策を樹立した。これは、視学官制度を除いては、いずれも寸分違わず文部省によって、爾後実施されていったものである。

 さて、愛媛県における勤評問題の顛末を詳しく見ておこう。愛媛県教育委員会が出した勤評の要項内容は次の通りである。

『教員一人ひとりについて、
①勤勉さ ②積極性 ③責任感 ④速度 ⑤確実性 ⑥注意力 ⑦理解力 ⑧知識と技術 ⑨規律 ⑩協調性 ⑤整理整頓
の11項目についてABCDEの五段階評価を行い、さらに全項目を総合評価して甲乙丙丁戊の等級に分ける。』

 何ともばかばかしい評価項目ではある。自民党のお眼鏡にかなう鋳型に教師をはめ込もうと躍起となっている。自民党文教族・文部省官僚とその支配下の役人・御用学者の人間観の浅薄さのほどがよく表れている。

 以下、教科書Cからそのまま引用する。

 これに対して、県教組は世論の支持を得て、座りこみ戦術やハンストを織りまぜ、撤回交渉を執拗に繰り返した。この強い反対のため県教委も10月30日、徹夜交渉の席上
① 4、6、7月の昇給は従前通り実施する
② 勤務評定は今後の研究課題とする
という教組の要求を容れた。

 しかし翌11月1日、県教委は県自民党首脳の圧力に屈し再び一転して「勤評実施」を決めてしまった。

 県教組は、これに対して「もはや県教委を信頼することはできない」との闘争宣言を発表した。校長もほとんど組合に加入していたため、校長会も組合に同調していた。11月18日には松山市の校長集会に、県下小・中・高校の740名の校長のうち700名を超える校長が参集した。集会では「私ども県下800の校長は差別待遇を前提とする勤務評定については公正な世論と、教育の混乱と職場の民主的な秩序を破壊するものであることを確認し、 校長集会の総意をもって勤務評定成績評定は到底これを行ないえないことを宣言する」とともに、断固として「書かない」ことを表明した。しかし、県側は地方議員やPTA幹部を通じて、組合脱退と評定書提出を校長に対して各個撃破をはかったのである。

 そうした中で、12月に入ると松山市内のいわば中心校の校長たちがまずおとされた。市内の校長20名が組合脱退を表明し、勤評書を提出したことは、県下の校長に大きな影響を与えずにはおかなかった。年内には周桑郡34名の校長を除く県下の全校長が教委の業務命令に従って勤評を提出した。周桑郡の34名の校長は450名の組合員と団結して最後まで提出を拒んだが、翌年の4月3日遂に提出に追いこまれた。周桑地区では県の指示する評定とは別に全員「優良」の評定を提出した。しかし、県はこれでは評定ではないと断定し、校長34人全員を4ヶ月1割の減給処分に付し、組合員450人に対して昇給ストップの処分を断行した。

《『羽仁五郎の大予言』を読む》(42)

権力が教育を破壊する(25)

教育反動(17)


 今年10月に発刊された内田樹著『街場の戦争論』について、内田さんは週刊プレイボーイからインタビューを受けた。その記事が内田さんのブログに全文掲載されている(「週刊プレイボーイインタビュー記事」)。 この記事は全文読むに値すると思った。この中に前回紹介した保阪正康さんの談話と同じスタンスで、歴史修偽主義のような破廉恥な言論がまかり通るようになってしまった淵源をさらに簡潔に分かり易く論じている部分があったので、それを転載させていただこう(太字がインタビュアーの質問)。

――世代的な責務とは?

内田
 父親たちの世代、「戦中派」には「戦争経験について語らない」という一種「暗黙の了解」のようなものがあったように思います。戦地で実際に行なわれたことや見たことについては子どもたちには語らない。もとは「善意」から出たことだと思います。「戦争がどれほど醜悪で過酷なものか、自分たちがどれほど残酷で非情だったか、そういうことは子供たちには伝えまい。無言で墓場まで持って行こう。子供たちは無垢な戦後民主主義の申し子として未来の日本を担って欲しい」そういう思いだったのではないかと思います。だから「黙して語らず」を貫いたのだと思います。

 しかし、そのせいで「戦争の記憶」は次世代に語り継がず、僕たち世代は戦争を「済んだこと、早く忘れるべきこと」として、戦争について深く踏み込んで総括する機会を逸してしまった。そのことの負の側面が、現代日本の足腰を致命的に劣化させている、そう感じます。

 なぜ「戦中派」は戦争を語らなかったのか? あるいは語れなかったのか? そしてそれが戦後70年にどんな影響を与えたのか?世の中から「戦中派」がどんどんといなくなっている今、少なくとも「沈黙を貫いた父親世代」の屈託した表情だけは記憶している僕たちの世代が証人として、その〝沈黙の意味〟を再構成しなければならない、そう思ったのです。

――「戦争」が語り継がれなかったことによる歴史の断絶によって表面化した「負の側面」とは、具体的にどういうことですか?

内田
 最も顕著なのは「歴史修正主義」の登場でしょう。これは日本に限らず、ドイツやフランスでも同じなのですが、戦争経験者世代が社会の第一線から退場しはじめると、どこでも「歴史修正主義者」が現れます。

 彼らは歴史の「生き証人」がいなくなった頃を見計らって登場します。「戦中派の沈黙」ゆえに戦争の記憶が伝えられなかった戦後日本では、とりわけ歴史修正主義は暴威をふるいました。現場を見た生身の人間がいなくなった頃になって、断片的な文書だけに基づいて、戦争について言いたい放題の「事実」を語り出した。

 従軍慰安婦の問題にしても、実際に戦地で慰安所に通っていた兵隊たちが生きていた間は「強制性はなかった」「軍は関与していない」などということをうるさく言い立てる人間はいなかった。慰安婦がどういう制度であるかを誰でも知っていたからです。証人たちがいなくなった頃になってはじめて「慰安婦問題は捏造だ」と言い出した。ヨーロッパにも「極右」の政治家はいますけれど、安倍晋三のような極右が総理大臣になれたのは世界で日本だけでしょう。

 さて、そのアベコベ政権の教育破壊政策を俯瞰して、教科書問題を終わることにしよう。

<その手法>
 首相主宰の教育再生実行会議で基本方針を決める。それを文部科学省に指示し、新たな政策を次々と実行に移す。これまでに打ち出された政策は次のようである。

<1> 教育委員会制度の改悪
 6月に自治体の首長の権限を強化する改正地方教育行政法が成立している。教育委員長と教育長は新ポスト「教育長」に統合され、首長と教委が協議する「総合教育会議」が新設される。

<2> 「学校教育法及び国立大学法人法」の改悪
 6月に成立している。学長の権限を強化し、大学の自治を否定する改悪である。

<3> 教科書国定化への一層の関与
 1月に「教科書検定の改善について」を告示。その中の「教科用図書検定基準の改正」では次のように述べている。
「検定基準のうち、社会科(地図を除く)固有の条件(高等学校の検定基準にあっては地理歴史科(地図を除く)及び公民科)について以下を改正。
 ①
  未確定な時事的事象について記述する
 場合に、特定の事柄を強調し過ぎていた
 りするところはないことを明確化する。
 ②
  近現代の歴史的事象のうち、通説的な見
 解がない数字などの事項について記述する
 場合には、通説的な見解がないことが明示
 され
、児童生徒が誤解しないよう
 にすることを定める。
 ③
  閣議決定その他の方 法により示された
 政府の統一的な見解や最高裁判所の判例
 がある場合には、それらに基づいた記述
 がされていること
を定める。

<4> 「道徳」を教科化する企み
 これについては、サイト「週間金曜日ニュース」に投稿された俵義文さんの記事『「道徳の教科化」答申で文科省は2018年度実施を表明――考え方や行動まで評価対象に』がその答申の内容を簡潔にまとめ、適切な批判をしているので、それを転載させて頂く。

 そもそも「道徳の教科化」は第一次安倍政権の「教育再生」政策の「目玉」の一つだった。これが政治課題として急浮上したのは、11年、滋賀県大津市の中学生が自殺した事件である。13年1月24日に設置された首相直属の「教育再生実行会議」は、同年2月に「いじめ問題等への対応について(第一次提言)」を出し、いじめをなくすために道徳の教科化が必要だと主張した。それを受けて下村博文文科相は、同年3月に「道徳教育の充実に関する懇談会」を設置。その後、異例の早さで手続きが進められた。中教審の道徳教育専門部会が今年9月19日にまとめた案を、中教審は同月末の総会で大筋了承し、10月の総会で一部修正して答申を出している。

 「答申」は、「道徳教育の使命」は「人格の基盤」となる「道徳性」を育てることにあり、道徳教育は「教育の中核をなすべきもの」としている。これにもとづいて、
(1)
 道徳を「特別な教科 道徳」(仮称)として正規の教科に格上げして道徳教育を義務化する、
(2)
 「特別な教科 道徳」を「要」として学校の教育活動全体を通じて道徳教育をより確実に展開するよう教育課程を「改善」する、
(3)
 国が検定基準を定める検定教科書を導入する、
(4)
 数値での評価はしないが、子どもの「作文やノート、質問紙、発言や行動の観察」などをもとに評価を行ない「道徳教育の成果として行動面に表れたものを評価する」、
(5)
 授業は原則学級担任が担当する、
(6)
 授業時数は当面週1コマ(年間35時間)、
(7)
 道徳教育推進リーダー教師を地域に設置する、
(8)
 家庭や地域と連携して行なう
――などとした。さらに、現在、道徳の時間がない幼稚園や高等学校、特別支援学校でも道徳教育を「充実」することも提言している。

紙幅がないので「答申」の問題点として、次の二点を指摘したい。

 第一次安倍政権の時、「道徳の教科化」を諮問された中教審は道徳の教科化は「実現困難」としたが、その主要な理由の一つが評価の問題だった。正規の教科にすれば当然「評価」が必要になるが、道徳を5段階などの数値で評価するのはなじまない、ということだった。そこで、今回の「答申」は、数値による評価はしないとした。

 だが一方で、子どもの考え方から行動まで、全面的に評価の対象としている。これは、ある意味では数値による評価以上に重大な問題を孕む。子どもは考え方や意見、行動など全人格を評価されるので、「良い評価」を得るために、発言・行動したりするようになる。評価される子どもも評価する教員も、大変な負担を強いられることになる。子どもの心と身体は深刻な分裂に追い込まれ、今よりストレスをためこむ。そのストレスが「いじめ」など「問題行動」をいっそう増加させるのではないかと危惧されるのだ。前提として国連「子どもの権利条約」違反でもある。

 道徳の検定教科書の発行も重大である。国家が定めた特定の徳目(価値)を検定基準として教科書を作成し、それだけが唯一正しい「日本人の道徳」だとして「愛国心」をはじめとした特定の価値観を教え込むことになる。これは、憲法が定める「思想・良心の自由」を踏みにじり、国家が定める「愛国心」「公共の精神」などの徳目(価値観)を子どもたちに押しつけるものである。

 安倍「教育再生」政策の真の狙いは、グローバル企業のための「人材」と「戦争する国」の「人材」(兵士およびそれを支える国民)をつくることにある。そのために道徳を正規の教科に“昇格”させ、全教科の上におき、「愛国心」などを植えつける“教育”の強化を図っているのであろう。本件についての資料は、URL「俵のホームページ」 でも報じている。
(俵義文・子どもと教科書全国ネット21事務局長、10月31日号)

 <1><2><3>については、8月4日に東京歴史科学研究会が「安倍政権による一連の教育制度の改悪に反対する声明」を出している。その中から<3>についての批判を転載しておこう。

①については、
 第一に「通説的な見解」とは何かという論点は、学界における議論に委ねられるべきことである。「通説的な見解」の有無を国家が権力的に決定することは問題である。第二に、戦争や植民地支配に関して、学問的には成り立たない説をとりあげることで、「通説的な見解がない」という結論を導きだし、戦争責任・植民地支配責任を曖昧にすることが意図されている。

②は、
 政府見解や最高裁判例が正当な説であるとして記述することを、検定合格の要件としたものである。たとえば、現行憲法において集団的自衛権の行使は認められるとの政府見解が、正しい憲法解釈であると位置づけて記述しなければ、検定不合格になるといった問題が生じることが憂慮される。教科書の事実上の「国定化」につながる危険性をはらんでいる。

 次いで、文部科学省は、2014年4月に教科書検定審査要項を改悪した。同要項には、「教科書としての基本的な構成に重大な欠陥が見られる場合等に検定不合格と判定する方法について、教育基本法に示す教育の目標並びに学校教育法及び学習指導要領に示す目標等に照らして判断する旨を明確化する」との文言が追加された。現行の教育基本法には「我が国と郷土を愛する」態度を養うとの目標が掲げられている。国家が定める思想と教科書が合致するかどうかを、審査基準とすることは、重大な問題である。

 そもそも教科書検定制度自体が、国家による教育に対する不当な介入であり、違憲であると考えられる。今回の教科書検定関連の規定の改悪は、こうした検定制度の問題性をいっそう増幅するものである。

 なお最後に、この教科書検定の改悪については、俵さんが事務局長を務めている「子どもと教科書全国ネット21」も声明を出している。この声明では、これまでの教科書検定改悪の歴史や、実際に使われている教科書の記述を具体的に指摘したり、かなり詳しく論じているので紹介しておこう。
 サイト「子どもと教科書全国ネット21」の「トップページ」の左側の項目から
「【声明】近隣諸国条項を骨抜き・無効化し、政府による教科書統制を極限まで強める文部科学省の検定基準改悪案に反対する」
をクリックすると読むことが出来ます。
《『羽仁五郎の大予言』を読む》(41)

権力が教育を破壊する(24)

教育反動(16)


『「日本史」「世界史」検定資料』
斜体文字は私の補記です。)

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〈白表紙本〉
 このような中国の内戦がつづくなかで、1931年日本の軍部によって満州事変がおこされた。中国東北部を占領した日本は、この地に満州国をたて、清朝最後の宣統帝溥儀を皇帝としてむかえた。この事件を調べるため、国際連盟はリットン調査団を派遣し、日本の行為を侵略と断定した。このため、日本は国際連盟を脱退した(1933年)。(山川・『要説世界史』256ページ)

〈見本本〉
・・・・・・日本の行為を正当なものでないと判断した。・・・・・・。(山川・『要説世界史』256ページ)

 「侵略」という言葉を忌諱している。暗に「侵略ではない」と主張している。

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〈白表紙本〉
  日本の中国侵略
 1920年代にはいってから慢性的な不況にあえいでいた日本経済は、世界恐慌にまきこまれてさらに深刻な打撃をうけた。1931年9月、日本の関東軍は瀋陽(奉天)近郊の柳条溝で、南満州鉄道爆破事件をおこし……『満州国』を成立させた。これを満州事変という。国際連盟は、中国の提訴に応じて、リットン調査団を派遣し、その報告にもとづいて満州国成立の不当性を指摘した。(実教・『世界史』315ページ)

<見本本>
 満州事変・上海事変
……………その報告にもとずいて、日本に『満州国』承認の取り消しを求める勧告案を可決した。(実教・『世界史』315ページ)

 「侵略」の外に「不当性」も忌諱。「正当」だと言いたいのだろう。

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〈白表紙本〉
 満州事変後、政治のファシズム化が進行した。戦争開始とともに、中国に対する排外主義の風潮が強まり、大恐慌の影響で生活に苦しんでいた国民の多くは、戦争による現状打破を期待し、戦争を支持した。(三省・『高校日本史232ページ』)

〈見本本〉
 戦争開始とともに、中国に対する排外主義の風潮が強まり、大恐慌下で生活に苦しんでいた国民の多くは、戦争による現状打破を期待し、戦争を支持した。(三省・『高校日本史』232ページ)

 「ファシズム」という言葉を恐れて、その一文を全部削除している。「大恐慌の影響」→「大恐慌化」の書き換えの意図は私には分らない。全く同意だろう。

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〈白表紙本〉
日本の東三省侵略
 日本でも恐慌のもとで、労働運動小作争議が激しくなってきた。こうした動きの中で兵士の供給源である農村の疲弊をおそれた軍部は、ときの内閣の軍縮政策を不満とし、天皇に直結した地位を利用して、政治にたいする発言力を強めようとした。特に東三省に駐屯する関東軍は、張学良と対立を深めていたが、1931年9月柳条溝事件をおこし、これを口実に東三省全域を占領し、翌年、かいらい政権として満州国をつくった。
 この侵略にたいして、中国の抗日世論はさらに高まり、中国政府も国際連盟に提訴した。国際連盟は、リットン調査団を送り、その報告にもとづき、満州国を否認する決議を可決した。これを不満として、1933年、日本は国際連盟を脱退し、さらに中国侵略政策をとりつづけた。

〈見本本〉
 満州事変・支那事変
 日本でも・・・・・・統帥権の独立という憲法に規定された地位を利用して、・・・・・・この間、上海にも戦火を拡大し(上海事変)、内モンゴリアにも出兵した。
 これらの軍事行動・・・・・・日本に満州国承認の取消しを求めるなどの勧告案を可決した。これを不満として、1933年、日本は国際連盟を脱退した。(三省・『新世界史』276ページ)

 軍部の独断的な動きを、「統帥権」を持ちだして、法的問題ないと弁解している。さらに「柳条溝事件→満州国」に触れることを避けている。

『「現代社会」検定資料集』

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〈白表紙本〉
 平和社会をめざして
 すでに警察予備隊の時代から、それが憲法九条の戦力不保持条項に違反するのではないか、また、自衛力の増強はアジア諸国に再び軍事的脅威を与え、その安全をおびやかすのではないかなどについて、大きな問題が提起されていた。しかし、安保条約にもとづく日米関係および現実の国際情勢の推移に応じて、軍備は増強を重ねてきた。そして、昭和30年代には、憲法の戦力不保持の条項を改正すべきではないかということが、議論になったこともあった。政府は憲法が自衛のために必要な最小限の実力の保持を認めており、自衛隊は憲法によって保持を禁じられた戦力にあたらない、という自衛隊合憲説の立場をとっている。
(学研 124ページ)

〈見本本〉
  平和社会を目指して
 このように自衛の軍備が維持されているのは、わが国が独立の主権国家として自衛権を有し、自衛の戦争が放棄されていない以上、外国からの武力攻撃に備える必要最小限の実力は憲法の否認する戦力にあたらないという憲法解釈に基づいている。その背景には、前文にいう『諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持』できるような国際社会のしくみができていない現在、完全非武装の思想はあまりにも理想主義的だという認識と判断がある。しかし、この理解と運用には、憲法第九条は一切の戦争を放棄し、しかも目的のいかんを問わず、すべての軍備の廃止を定めるものであって、自衛隊の存在は違憲である、という見解が今日なお対立している。
(学研 124ページ)

 全文書き換えさせられている。耳にたこができるほど聞かされている憲法九条の解釈改憲を正当化している。

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〈白表紙本〉
明治憲法の特色と日本国憲法
 日本国憲法が成立する以前の憲法は、いうまでもなく大日本帝国憲法であり、一般に明治憲法ともよばれる。それは、1889(明治31)年に発布されて以来、約60年間、一度も改正されなかった。この憲法はいわゆる欽定憲法で、その作成に国民が参加することは、まったく許されなかった。もちろん、それが作成された当時、日本にはまだ議会がなかったから、その憲法草案は、議会の審議にも付されなかった。
 明治憲法の内容は、当時のドイツの立憲君主制の憲法に似たものであった。立憲君主制の特色は、絶対王政の場合とは異なり、君主は国民にたいして無制限な支配権をもたず、憲法に従って、統治権を行使するところにあった。その意味で、明治憲法が制定されたことは、憲法のない時代にくらべると、一つの進歩であった。 けれども、明治憲法の前文に、統治の大権は天皇が祖先からうけて子孫に伝える、と書かれていることでもわかるとおり、日本国憲法の民主主義的な諸原理にくらべると、明治憲法のそれは、いちじるしく保守的な色彩をおびていた。そのため、明治憲法の定める政治の基準は、日本国憲法のそれとは本質的に違っていた。
 まず第一に、明治憲法では、主権は天皇に属し、天皇は立法・行政・司法などに関するいっさいの統治権を総攬していた。『総攬する』とは、一身に集中するとか、一手に握るという意味である。現行憲法の国民主権の原理とは、きわめて対照的である。
 第二に、帝国議会は設けられていたが、議会は天皇の立法権に協賛するだけで、国政にたいする審議権も多くの制限を受けていた。この点は、国会が国権の最高機関であり、国の唯一の立法機関である、と定める現行憲法とは大きな違いである。また議会は、二院制をとっていたが、貴族院は、民選の衆議院とは異なり、皇族・華族と、学識者・多額納税者などの勅任議員とで構成されていた。それでいて、衆議院優越の原則はとられず、貴族院の権限は衆議院と対等であった。(自由 10~11ページ)

〈見本本〉 明治憲法の特色と日本国憲法
 日本国憲法が成立する以前の憲法は、……………。この憲法はいわゆる欽定憲法で、天皇が制定して、それを国民にあたえる憲法であった。したがって、その作成に国民が参加することは、許されなかった。その憲法草案は、天皇の諮問機関である枢密院の審議をへただけであり、それが作成された当時、日本にはまだ議会がなかったから、議会の審議にも付されなかった。………少なからぬ進歩であった。………立法権は議会の協賛によっておこなわれ、司法権は、裁判所により天皇の名においておこなわれ、行政権は、国務大臣の輔弼によっておこなわれることになっていた。……………貴族院は、民選の衆議院とは異なり、皇族・華族と、国家に勲労のあった者・学識者・多額納税者などの勅任議員とで構成されていた。……。(自由 10~11ページ)

 大日本帝国憲法の起草過程に関して、従来は、それが密室で進められた事実を隠蔽しようとしてきたが、最近は「欽定憲法だから国民には秘密に作られたのは当然である」というような方向をとっていることが知られる。それと関連して、大日本帝国憲法に対する評価において、日本国憲法とは原理的にその性質を異にしているにもかかわらず、その先進性を強調しようとしている点が注目される。(教科書Cより引用した)

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〈白表紙本〉
 しかし、昭和にはいってから、満州事変をはじめとする戦争につぐ戦争のなかで軍部および国家主義者が勢力を強め、天皇制を基礎としたファシズム化が進み、戦前においては大日本帝国憲法のしくみは変わることなく、それゆえ近代国家の憲法原理も、ついに根づかずに終わった。(三省 131ページ)

〈見本本〉
 しかし、昭和にはいってから…………軍部および国家主義者が勢力を強め、これらの勢力が極端な国家主義と軍国主義の政策を強力に進めたため、大日本帝国憲法下においては近代国家の憲法原理も、ついに定着せずに終わった。(三省 131ページ)

 ここでも「ファシズム」の抹消が行われている。

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〈白表紙本〉
教育勅語
 憲法公布の翌年、1890(明治23)年10月30日、これまた天皇の名において教育勅語が発布された。そこでは、「父母ニ孝ニ、兄弟ニ友ニ、夫婦相相シ、朋友相信シ」などの基本的道徳が臣民の守るべき徳目であると宣言され、これらの徳目を教えることが教育の基本原則であるとされた。こうして、私的道徳が国民の公的義務とされることになった。
 もともと道徳は、それ自身を目的として、個人の自発的意志によって守られてのみ道徳的価値をもつ。この自発的意志という内面の自由の領域にまで公的義務が入り込んだことによって、国民の自由と権利の意識は内側からも掘りくずされた。この勅語は、学校で祝祭日に朗読され、大部分の国民は憲法を知らなくても教育勅語についてはよく知っていた。(教出 59ページ)

〈見本本〉
 (削 除)

 全文削除されている。教育勅語に対する批判は道徳への公的介入の批判に通じる。道徳の教科化を狙っている自民党にとっては不都合な批判なのだ。

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〈白表紙本〉
平和的生存権
 日本国憲法は『われらは全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有すること』(前文)を確認している。戦争は人間の尊厳を侵し、基本的人権をじゅうりんする行為である。従って『平和のうちに生存する権利』あるいは平和的生存権は、すべての基本的人権の根底をなす権利であるといえ、これを基本的人権の一つとして認められるべきであるという主張がなされるようになった。(東学 142ページ)

〈見本本〉
 (削 除)

 ここでも全文削除。憲法が謳う平和的生存権まで不都合として抹消させるとは、全くあきれるほかない。

 以上のような事例について、教科書Cは次のように論評している。

 以上の僅かの実例であるが、検定の実態を窺い知ることができよう。

(大日本帝国憲法の起草過程に関しては上に引用したので省く。)

 そして、教育勅語に対する、その道徳の公的介人的性格を批判する記述には、削除をもって対応しているのも、この検定の特色である。中国に対する侵略の記述も、このような具体的諸事例を見ることによって、文部省の検定姿勢が明確な特定の政治的立場に立脚していること、学問の成果を意図的に無視していること、さらに加害者としての戦争責任を回避していること、などを明らかにしてくれるのである。このことは、憲法の第九条規定、戦争、自衛隊問題、平和的生存権に関する問題についても、同じことがいえる。

 このように歪んだ教科書検定に対しては、当然多くの批判と反対の意見表明が出させている。もちろん、それは国内だけではない。近隣アジア諸国からも厳しい批判が出され、重大な外交問題に発展していった(このことについては、今回は深入りしない)。

 「学問の成果を意図的に無視していること、さらに加害者としての戦争責任を回避していること」。これこそが歴史修偽主義の手法であり、それを文部省が率先して行っている。このような破廉恥な言論がまかり通るようになってしまったのはどうしてだろうか。

 12月8日付け東京新聞朝刊に「問い直す戦争 70年目の視点」という特集記事があった。保阪正康さんの談話を二面にわたって掲載している。その中に「歴史修正の危険」という一節を転載しておこう。

歴史修正の危険
  ●史実を見極めよ


 70年もたつと、それまで「同時代史」だった見方が「歴史」に変わる。同時代史は、時代を知る人が社会にいる中で史実が語られるが、その社会の空気が薄れ、新しい歴史上の解釈ができるようになる。戦闘体験者は当時20歳でも、もう90歳。自らの経験で語ることのできる人がほとんどいなくなった。

 東条英機元首相がA級戦犯として巣鴨拘置所に入っていた時、同じ部屋にいた、という虚言を弄する人がいる。東条元首相が「戦争をするべきではなかった」と語ったとか、戦争責任を一手に引き受けたので特別扱いを受け、房内に専用電話があったとか言いたい放題。現実にはあり得ない話ばかり。基礎的な知識がなければ、こんないいかげんな史実が出回ってしまう。

 こうした歴史修正主義が政治的プログラムの下で意図的に行われたら、大変なことになる。日本では終戦時に膨大な公的文書が焼却され、戦後は史料収集から始まった。アカデミズムやジャーナリズムが苦労して集め、その史料とともに歴史と向き合ってきた。

 ところが、歴史修正主義者はそういう面倒な作業をしない。「大東亜戦争は聖戦」などと最初から旗を立てて、都合の良い史料を適当に集める。歴史修正主義は欧州にもあるが極右扱いで、場合によっては犯罪とみなされる。

 ここでちょっと横道へ。
 一昨日「次世代の党」のちらしが郵便受けに投函されていた。下の図のようなとてもシンプルなちらしだったが、私はつい吹き出してしまった。
次世代の党の選挙ちらし
 この党の近代史は、とうぜん歴史修偽主義による近代史である。これだけで支持をえられると考えているようだ。国民もずいぶんとなめられたものだ。もっとも、なめられて当然の者たちが結構たくさんいるから歴史修偽主義者らが大きな顔をしているのだけどね。
《『羽仁五郎の大予言』を読む》(40)

権力が教育を破壊する(23)

教育反動(15)


 次いで教科書Cは家永教科書裁判を取り上げている。これについては既に「番外編:教科書裁判」で取り上げた。そこでは1957年の検定で不合格になった教科書の覆刻版を用いた。そして、その序文に記載されていた検定不合格の理由書を紹介した。その文書には抽象的な不合格理由記載しかなく、「300ヶ所余りにのぼるという文部省の具体的な検定意見何も書かれていなかった。

 ところで、家永さんは高等学校用教科書『新日本史』を1952年以来申請している。教科書Cは1963年に不合格になった教科書を取り上げて、そのときの検定不合格通知文書について次のように述べている。

「1962年8月に申請した検定原稿は、8ヶ月後の1963年4月になって不合格となり、「正確性、内容の選択に著しい欠陥がある」旨の、きわめて抽象的な不合格理由の記載しかない文書が交付され、具体的な理由は、調査官から口頭でその一部が、つぎのように例示された。」

 この「不合格理由口頭告知」はなかなか目にしにくい。例示されたものは、たぶん、どこからも強い反論はないだろうと自信のあるものに限られたのだろうが、素人の私が読んでも厚顔無恥の見本みたいな不合格理由だ。貴重だと思われるので転載しておく(「原稿」とあるのは家永教科書の原稿文のこと)。

1963年家永教科書検定における不合格理由

(例一)
原稿
『古事記』も『日本書紀』も『神代』の物語から始まっているが、『神代』の物語はもちろんのこと、神武天皇以後の最初の天皇数代の間の記事に至るまで、すべて皇室が日本を統一してのちに、皇室が日本を統治するいわれを正当化するために作り出した物語である。『古事記』『日本書紀』は、このような政治上の必要から作られた物語や、民間で語り伝えられた神話・伝説や、歴史の記録などから成り立っているので、そのまま全部を歴史と見ることはできない。

不合格理由口頭告知
『古事記』『日本書紀』をそのまま歴史とみることのできない点のみが説かれていて、これらが古代の文献として有する重要な価値が記されていない。

(例二)
原稿
 この憲法では、国民の公選する議員から成る衆議院を含む帝国議会を設けて、国民が政治に参与する道を開き、予算の確定および法律の制定、税制の改定などは必ず議会の協賛を要することとし、また司法権の独立も保障しており、一応は立憲政治の形が整えられてはいる。しかし、外交や軍隊の統帥、官制の制定、議会の協賛を経ないで発しうる命令の制定など、天皇の大権を広く残したばかりでなく、国務大臣の議会に対する責任を明記しなかったから、議会の権限は極めて狭く限られていた。また帝国議会には、皇族・華族および勅選議員から成る貴族院を設け、衆議院を牽制するしくみとなっており、さらに、天皇の最高顧問として枢密院を置き、これらの国民と結びつかない機関によって、立憲主義はいっそう制限されていたのである。
 憲法では、国民は天皇の臣民とされた。言論・著作・出版・集会・結社の自由が認められたが、それは法律の範囲内という制限つきであったから、これらの自由を制限する法律が引き続いて国民の思想とその表現をきびしく統制した。信教の自由も、安寧秩序を妨げず、かつ臣民としての義務にそむかない限りという条件のもとで許されたにすぎず、神宮・神社を崇敬することが国民の義務とされたので、信教の自由も無条件に保障されたわけではなかったのである。

不合格理由口頭告知
 明治憲法を否定的にのみ評価し、アジア最初の憲法という積極面に言及しないのは、一面的である。

(例三)
原稿
 戦争は『聖戦』として美化され、日本軍の敗北や戦場での残虐行為はすべて隠蔽されたため、大部分の国民は、真相を知ることもできず、無謀な戦争に熱心に協力するほかない状態に置かれた。

不合格理由口頭告知
 『日本軍の残虐行為』を書くならば、ソ連軍の暴行を書かなければ一方的である。また、アメリカのも」。

 これらの検定意見について、教科書Cは次のように論評している。

 これらの検定意見を見ると、前述の出版労協の「報告書」に明らかにされた、検定指示内容の基本的枠組を、そのまま踏襲しているのを知るのである。

例一は、記・紀神話を史実と混淆し、国体史観に立脚した天皇制と天皇観を強要するものであった。

例二は、例一と密接に結びついた天皇主権の明治憲法に対する礼賛であり、その背後には、国民主権・象徴天皇制を規定する日本国憲法に対する軽視の態度が見られるものである。

例三も例二に深く関係するものであり、戦争放棄を明示する日本国憲法尊重の精神を後退させるものでもある。

 家永さんによる教科書裁判は1965年・1967年・1982年と三度起こされている。家永さんの勝訴となったあの杉本判決(1970年7月17日)が出されて以後、検定の手はいくらか緩和されたようである。しかし、1980年頃から再び政府・自民党・民社党、財界、筑波大グループによる教科書「偏向」攻撃が行われ、その影響で検定は空前の厳しさをもって実施された。1983年度使用の高校社会科教科書の検定がまさにその最たるものであったという。教科書Cは1982年6月26日の『朝日新聞』の記事を掲載している。

文部省、高校社会中心に検定強化、『侵略』表現薄める

・・・・・・今年も社会科を中心に『偏向』批判の論理がさらに徹底して貫かれた。憲法・安保・自衛隊・北方領土・権利・義務・大企業・経済などの記述をめぐって、文部省は昨年に続き削除、書き換えを迫った。加えて今年は、歴史的な『天皇』『侵略』、現代は『現体制批判』などについて、とりわけ厳格な検定姿勢が目立ち、『戦前』の復権の方向が色濃く浮かび上がった。……

 検定申請された原稿本(白表紙本)に内容変更を求める文部省の修正意見(強制)と改善意見(要請)の指示は、最高の日本史の場合、610ヵ所に及んだ。社会科の平均では、一点につき300~400ヵ所だった。昨年の『現代社会』では一点につき200~600ヵ所の指示があった。……

 執筆者や編集者などの話を総合すると、とくに指示の多かった日本史、世界史、政治・経済で、各教科書会社にほぼ共通にチェックされた内容の特徴は、

 戦前の日本の『侵略』行為の記述を極力薄める、

 帝国憲法(明治憲法)の『民主性』を書く、

 天皇には奈良時代以前にさかのぼって敬語表現を使う、

 自衛隊の成立は、自衛隊法によっている、

 北方領土の領有権主張、

 国民の義務の強調、

 大企業、資本主義の擁護
 ― など。昨年の『現代社会』に適用した検定尺度を用い、その定着、徹底化を図ったとみられる。

 このうちで、とくに『侵略』にからんでは『進攻』といい換えるほか、『苛政→圧政』『弾圧→鎮圧』『出兵→派遣』『抑圧→排除』『収奪→譲渡』と、それぞれ表現の変更を求めるなど、一段ときめ細かな検定ぶりが目立つ。また『天皇』では、古い時代の『死』が『没』の表現へ、また『天皇の神格化』が削除されるなどの条件がついた。『国民感情を考えて、敬愛の念を育てる』という理由だ、という。

 国語Ⅱでも、朝鮮・満州支配を舞台にした作品が削除された。

 このほか『兵器開発』がもたらした技術の効用を説く記述が登場した一方で、『憲法九条の趣旨に反する防衛秘密』を削除。また『戦後の改革を行きすぎだとして憲法を改正する動き』に触れるなど、これまでより一歩踏み込んだと見られる改善、修正意見もある……。

 このあからさまな教科書の国定化の策動について、教科書Cは次のように追記している。

 この新聞の記事でも理解できるように、検定は、歴史的事実を歪めたり、特定の歴史観に立脚して、社会現象や事実を解釈させようと強制したりしているのである。これらの側面を、出版労連の『「日本史」「世界史」検定資料』・『「現代社会」検定資料集』により正確に確認しておきたい。白表紙本の枠内の箇所は削除された部分を示し、見本本の枠内の箇所は、白表紙本で削除された部分のいいかえ部分である(原文で「枠内」とある部分を「赤字」で示した。また、ふりがなは省略した)。

(歴史修偽主義者の思想と手法がよく分ってくるので、全文転載することにしました。すごく長いので、次回に。)
《『羽仁五郎の大予言』を読む》(39)

権力が教育を破壊する(22)

教育反動(14)


 教科書法案は6月3日に廃案となったが、清瀬文相はその代替措置として省令をもって教科書検定の強化を図った(以下は教科書Aによる)。

 清瀬は、6月5日の文部省記者クラブで、その正当性の根拠を次のように語っている。
「教科書法案は審議未了となったが、その予算は法規のわく内で執行し、できるだけ制度の充実と改善をはかりたい、予算の執行については、法律上は別に問題はない。政治的な問題であっても、教科書問題の重要性から、これをおしきるつもりである」(『日本教育新聞』1956年6月7日)

 つまり、法律によらずとも、行政措置や行政指導で教科書制度の改変を強行することを言明した。その代替措置は次のように矢継ぎ早に実行されていった。

 実際すでに文部省は、法案が成立することを前提に、56年度予算案に教科書関係のいっさいの予算措置を済ませていた。そして前回の年表に記載したように、まず

10月10日
 教科書調査官制度を創設した。

 以下、年表としてまとめると次のようになる。

10月19日
 教科用図書検定調査審議会令を改悪。
 調査分科会委員を16人より一挙に5倍の80人に増員。

11月10日
 文部省設置法施行規則一部改令を公布。
 常勤教科書調査官制の法制化をはかった。

 教科書検定強化の策略は1956年以降も続く。

1957年

7月
 「教科書の採択権は教委にある」旨の通達を発令し、検定、採択の両面から官僚統制を強化。

 このような一方的な通知による教科書検定強化(こういう手法で行う政治を独裁と言う。最近では東京都の教育を破壊した石原が使っている)の検定内容はは次のようなあきれ果てるとしか言いようのないしろものであった(教科書Aから引用する)。

 57年度用教科書の検定では8種類の社会科教科書が不合格処分を受けた。これらの教科書の監修、編集者の大半は日教組教研集会の講師団に属する人びとであり、またそのなかのひとつ、中学校用政経社『日本の社会』(岡田謙監修、日高六郎・長洲一二他編著、中教出版)は発行部数50万に達していたものだけに、ただちに世論の注意をひき起こした。

 同年度の検定過程の調査結果から、不合格にあたっては、F項という名の意見が決定的な役割をはたしており、これは従来、各一種の教科書にあたっていたABCDE5人の調査員とはまったく別の「第六の人物」の意見であり、教科書調査員の意見を無視した教科書検定審議会内の特定委員の意見であることが判明した。不合格理由として付されたF項意見のなかには、つぎのようなものが含まれていたことは、検定の本質を知るうえで重要である。

 すなわち、

 新憲法が国民の総意によって作られたというがごとき表現は一方的である。

 全体として科学的記述すぎる、とくに明治以後の叙述は、これが日本の中学生のための社会科か、はたまた某他国のための社会科か、ときどき見誤るぐらいはなはだしく日本の自主性がない。

 太平洋戦争については、日本の悪口はあまり書かないで、それが事実であってもロマンチックな表現にせよ。

 新聞記者の調査により、F項意見の持主は、前年9月、「検定を厳正にするため」として教科書検定審議会に新たに加えられた高山岩男(反日教組を旗印とする自由文教人連盟を結成した中心人物)であることがあきらかにされた(『週刊朝日』56年12月2日)。これは「F項パージ」と名づけられ、強い批判をうけた。

 高山岩男という名に初めて出会った。ウィキペディアで調べてみた。京都帝国大学哲学科卒の哲学者だった。高坂正顕、西谷啓治、鈴木成高と共に「京都学派四天王」と呼ばれているそうだ。どんなえらい学者か知らないが、知的退廃の見本みたいなお人だ。こういう御用学者が日本の教育を破壊している。

 教科書検定制度の強化とその検定の実態について、記録しておきたいことがまだまだある。すごく長くなりそうだが、1958年の動きも追うことにする(以下は教科書Cによる)。

1958年

 文部省は、学習指導要領を文部省告示として官報に公示した。その中に次のような検定強化政策を盛り込んでいる。

 学習指導要領に法的拘束力を付与する。

 教科書検定基準を全面改正し、検定基準の絶対条件の中に学習指導要領を組み入れる。

 1958年版学習指導要領を憂慮していた出版労協は、教科書対策会議を中心に検定結果の調査を行い、その結果を「報告書」として、日教組・日高教合同教研集会に提出した。この報告書は、次のような検定の現実を明らかにしている(『 』内が教科書調査官からの指示)。

〈皇国史観ないし天皇主義にかんするもの〉
○ "大和朝廷がまわりの国々を従えていった"という表現に対して、『まとめてしまったというような悪い表現を使わず、大和朝廷の成立過程をきわめて正しく述べなければならない。』
○ 『奈良の大仏は、聖武天皇の御威徳とそれをしたう民衆によって建造されたことがわかればよいので、その費用や労働の苦しさ、人命まで失った、などと書く必要はない。』
○ 『建武中興は長いあいだの国民の朝権奪回の夢が実現されたものであるとせよ。』
○ 『天皇は、古来国民の"讃仰の的"としての精神的なよりどころであるということを、教科書全体を通じて子どもたちにわからせなくてはいけない。』

〈戦争にかんするもの〉
○ 日清・日露戦争については、二つの戦争に勝ってからの日本の躍進ぶり(領土の拡大と産業の発達、五大強国の一つになったこと)の記述の不足について、ほとんどの教科書が注意されている。
○ 満州事変について『その原因は、大陸市場説も一説にはあるが、より重要な原因は、排日運動に対抗するために軍人の力が必要になったことだ。』『日本の中国大陸侵略は進出とせよ。』
○『日本国憲法第九条の"戦争放棄"の戦争は"いかなる"戦争ではなく"しかける"戦争である。』

〈民衆の歴史創造あるいは民衆の生活にかんするもの〉
○ 『奈良時代の特色は、奈良の都の繁栄と貴族の生活であるから、農民の生活にふれる必要はない。』
○ 『江戸時代の農業の特色は、幕府の農業政策 ― 勧農の精神という側面で出すべきである。百姓一揆・飢饉・生活の苦しさなど、暗い面を子どもに教える必要はない』

 中には吹き出したくなるようなものもある。このような検定意見を大まじめで出す人たちの頭の中はどうなっているのかしら。人ごとながら心配になってくる。

 しかし、このような噴飯ものの検定が現在まで執拗に続けられているのだ。教科書Cは上の検定の指示内容がその後の検定の基本的枠組みの基となていると言い、その枠組みを四点にまとめている。

第一
 国体史観に基礎をおいた天皇観の強制。
第二
 近・現代における日本の侵略戦争を認めず、中国大陸侵略を進出にせよと指示。
第三
 日本国憲法第九条の「戦争の放棄」を「自衛戦争」許容の方向に誘導。
第四
 歴史を通じて、社会の底辺に生活する民衆の困苦の状況の記述の拒否。

 歴史修偽主義の手に成るいま評判?の『新しい歴史教科書』(西尾幹二編、扶桑社発行)は上の四点をクリアして、めでたく文部省の御眼鏡にかなった立派な教科書である。ネットではこの教科書を自画自賛あるいはべた褒めしている記事が結構あるが、まともな批判をしている記事をあげておこう。

 歴史学研究会さんの
「まちがいだらけの『新しい歴史教科書』」

 もうひとつ、現場の先生からの報告。
「扶桑社「新しい歴史教科書」の問題点」
(ネトウヨの批判、いやお決まりの無意味な「罵声」が読めます。)

 さて、前述の「報告書」は、大きな社会的反響を引き起こしていった。日教組が進めた教科書総点検運動のほか、1960年5月3日に歴史関係九学会(大阪歴史学会、大塚史学会、史学会、史学研究会、社会経済史学会、土地制度史学会、日本史研究会、歴史学研究会、早稲田大学史学会)が、文部大臣に対して次のような要望書を提出している。

「文部省は最近あたらしい学習指導要領に基づいて、社会科歴史教科書の検定を実施しているが、これについては種々の議論がなされている。たとえば、検定の過程においてとられている口頭による修正意見の伝達もそのひとつで、この方法には少なからぬ検討の余地がある。またわれわれは、現在の検定方針が史実検討の枠をこえて、歴史事象の解釈にまで及んでいるのではないかとの疑念をもつものである。このような傾向は、歴史解釈の多様性に制限を加え、教科書を画一化するおそれがある。このことは、次代の国民の思想の貧困化をまねき、また研究と思想の自由を脅かす懸念があるといわざるをえない。われわれは、右のような危険がおることを指摘して、ここに、文部当局の反省と、検定制度の再検討とを強く要望するものである」。

(この項、さらに続く。)