2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《『羽仁五郎の大予言』を読む》(30)

権力が教育を破壊する(13)

教育反動(5)


7月21日
破壊活動防止法公布。

7月22日
 関西経営者協議会、騒乱学生は就職を保証せずと声明。

8月4日
 文部省、「教育の問題としての学生運動」を発表。

 以来、学生への締め付けが強化されていく。9月3日には、文部省が全国国立大学学生部長会議を初めて開催して、「学生の政治活動、学内規律の維持等」について討議している。これに対して、全学連は同会議の公開を要求した。

8月8日
「義務教育費国家負担法」公布。

 現行の教職員給与の半額と教材費の一部を国庫負担とすることを定めた。

 これは教育費確保を名目とした財政面からの教育行政の集権化をねらったものであった。その意図はわずか半年後に明確な形をとってあらわれた。

 1953年1月13日に政府は「義務教育費の全額国庫負担方針」を決定する。全国知事会、日教組など、中央集権化をもたらすとして反対したが、政府は2月19日に「義務教育学校職員法案」を国会に提出した。この法律案要綱は
(目的)
 義務教育について、国の責任を明確にし、教育の機会均等とその水準の維持向上を図る。
(義務教育諸学校職員の身分)
 義務教育諸学校の教職員身分は、国家公務員とし、文部大臣が任命すること……」
とうたっていた。これは「国の責任」の名で教育の国家統制をねらった「国家教育権論」の戦後におけるはしりとなったものであった。 しかし、この法案は"バカヤロー解散"と呼ばれている衆議院の解散(3月14日)で廃案となった。

8月12日
 天野貞祐文相の辞任に伴い、岡野清豪が文部大臣に就任。

 天野が執心した「愛国心」を主眼とする道徳教育強化政策を、当然岡野も引き継いでいる。8月16日の記者会見で「修身科の復活」「日教組の政治活動の禁止」を打ち出している。そして、さっそく岡野は教育課程審議会のメンバーを一新したうえで12月19日、教育課程審議会に「社会科の改善、特に道徳教育、地理,歴史について」を諮問している。その諮問のねらいは、「万国に冠たる歴史、美しい国土などの地理」(吉田茂首相)、および道徳教育の強化によって、「再軍備の基礎を固める」ための「愛国心」を養うことにあった。

 この諮問に対する答申は53年8月7日に提出された。答申は、ふたたび岡野の意図に反したものとなっている。社会科の「基本的ねらいは正しい」し、道徳教育は従来通り「実際的な生活指導に重点がおかれるべき」だとして、「道徳」を特設することに反対している。その背景には、戦後民主教育の象徴的存在でもある社会科の理念が、再軍備を進める吉田内閣の下で歪められ解体されるのではないかという危機意識から民間の教育研究団体の有志多数によって結成された「社会科問題協議会」(会長海後宗臣東大教授)の6次に及ぶ批判声明など,社会科の「改悪」に対する一般世論の強い批判と反対があったのである。(以上、教科書Bによる)

 「教育反動(3)」で取り上げたように、1951年11月16日に設置された吉田首相の私的諮問機関「政令改正諮問委員会」が出した「教育制度の改革に関する答申」こそ、戦後教育の民主化改革を空洞化していく端緒となったものであった。さらに、1953年10月にアメリカでおこなわれた池田・ロバートソン会談では,戦後日本における平和教育の問題が取り上げられ,「日本政府の第一の責任は,教育及び広報によって,日本に愛国心と自衛のための自発的精神が成長するような空気を助長することにある」とされていた。

 以来、自民党の教育政策はもたもたしながらも連綿とこの軌道の上を突き進んできた。そして今、衆参両院を制したアベコベ政権が自民党念願の「修身科」復活ののろしを上げるに至った。東京新聞(22日朝刊)は一面トップで、
『21日に中央教育審議会が「現在は教科外活動の小中学校の道徳を、検定教科書を用い学習評価を行う正式な教科とすること」を決め、下村博文文部科学相に答申した。』
ことを報じている(詳しくは「価値観国が強要も 道徳教科化を答申 中教審」をご覧下さい)。

 前回、発足時の中教審について
「中教審は発足以来、日本資本主義の維持・強化のための教育「改革」(という名の改悪)答申をだし続けていく。」
と書いたが、現在の委員名簿を見ると、その構成は発足時と変わらない。財界役員・御用組合の役員・御用学者のオンパレード。そしてなんと櫻井よしこがメンバーになっている。

 年表に戻ろう。

10月5日
 第3回教育委員選挙を実施。

 教育委員の任期は4年である。この時の委員の任期が切れる1956年に教育委員会は公選制から任命制に改悪されている。後ほど詳しく取り上げよう。

10月16日
 日経連教育部会、「新教育制度の再検討に関する要望」を発表。

 これ以後資本家階級は、1969年までの7年間に実に18件の要望・意見・見解・提案などを提出している。教科書Aはそれらを列挙して、その意図を次のように分析している。

 これらに共通するものは、「政令改正諮問委員会」の答申とも関連して、戦後教育改革の基本構図にたいする批判とその部分的あるいは抜本的な改革の主張である。

 それは、すなわち、憲法で定められた国民の教育権、教育基本法、学校教育法等で規定された平和的・民主的教育、学問の自由と教育の自主性、教育の機会均等、教育行政の教育介入限界などにたいする実質上、ときには形式上の否定を意味している。

 では何故に独占資本という富の占有者にとって、戦後教育改革は障害物となったのであろうか。資本主義のもとにあって、支配階級としての資本家階級は、その政治的経済的諸課題に対応して、その発達する資本主義企業のための労働力を養成し確保すること、「産業の高度化」(資本の有機的構成の高度化)にともない、いっそう相対的剰余価値生産の道具として教育をとらえ、かれらに必要な科学技術者・管理者を育成確保することをその教育課題とする。

 また、かれらの支配の維持と対外進出のための軍事力育成が労働力育成との内的関連において追求される。労働者階級や国民各層の運動や闘争(教育の機会均等の拡大、教育内容への科学の成果の反映、不具化された能力・個性ではなく、多面的なそれらの発達など)によって学校制度、内容は影響され、資本家階級も譲歩を余儀なくされるが、しかもその要求を歪曲化、空洞化しつつかれらの必要な程度にさまざまな方法によって大衆教育の水準の向上を制限し、教育にたいするかれらの独占権を確保することにつとめる。

 そして、かれらにとっての生産力拡大に必要なかぎりの科学技術教育を、その基礎に脈うつ科学的世界観と切りはなして「充実」させるが、同時に魂を支配する思想教育、道徳教育を強化する。

10月17日
 日本教職員組合、政令改正諮問委員会答申への批判として、「文教政策基本大綱」を発表。

 6・3制完全実施、市町村教育委員会の設置反対、教育委員任命制反対、教育費国庫負担などが盛り込まれていた。

11月1日
 市町村教育委員会、全国一斉に発足。

 日教組はなぜ教育委員任命制だけではなく、市町村教育委員会の設置にも反対したのか。その経緯は次のようであった(教科書Aによる)。

 公選制教育委員会が設置されたのは1948年11月であった。この時に設置された教委は、46都道府県および横浜、名古屋、京都、大阪、神戸のほか、市21、町16、村9であった。50年2月、仙台、八王子など15の市で教育委員会が発足し、52年11月には全市町村に設置されることになっていた。

 しかし、政府としては、市町村財政負担が過重になること、文部省中心に官僚機構をいっそう整備する必要があること、全面講和、破防法反対闘争の発展から、公選による民主的教育委員の進出が危惧されること、などの理由から、一年延期の法案を準備した。教育委員会制度協議会も51年10月、設置単位、事務配分などの理由から任意設置を答申していた。さらに日教組は、1学校しかないという人口規模の少ない町村にまで教育委員会を設置するのは、実情にそわないし、市町村教委が発足すると各県教組は市町村の教員団体を単位組織とした職員団体に組織がえしなければならなくなり、身分、給与、勤務条件などが県で決定されるのに、給与の支払権のない市町村を交渉団体とすることになるので、教組の団結権を侵すものとして、全国一斉設置に反対していた。国会前でのハンガー・ストライキ、教育防衛大会も行なわれた。

 つまり、この段階では、理由は異なるが、政府も日教組も市町村教育委員会の設置には反対だった。

 しかし、自由党内部に市町村地方有力者や党の地方幹部、官僚の古手などを送りこみ、かつ日教組の組織を地域的に分断して弱めるために市町村教委設置が有利だと判断する動きが急速に台頭し、自由党か多数をもって衆院文教委で法案を否決し、8月28日、吉田首相の抜きうち解散で一斉設置が決定してしまった。

 当時の自由党がねらったことはあきらかであった。戦後の教育行政民主化の中核となってきた教員組合弱体化政策であり、地方ボスによる教員の監視と教育支配であった。益谷自由党総務会長は全国町村会の反対にたいして
「元来日教組の関係から町村に設置したら適当な人物も得られ、日教組に左右されることも少ない。最悪の場合、任命制にする」(全国町村会『町村週報』三二四号)と言明した。

 地教委一斉設置にともない各県教組は市町村単位団体の連合体に切りかわる職員団体として組織きりかえを行ない組合既得権を守った。

 この市町村教育委員会の設置は、上で取り上げた翌年1953年2月19日に国会に提出された「義務教育学校職員法案」とは相容れない政策と言わなければならない。教科書Aは次のように分析している。

 前年、地方分権を建前とする地教委の全国一斉設置を強行しながら、二か月後には、教員身分を国家公務員として任命権を文相がにぎるという極端な中央集権体制を確立しようとするあまりにも矛盾した政策は、日教組の組織を破壊し、教員の自主性、教育の自由をうばいとって、それをとおして教育の反動化、軍国生義化をおしすすめようとする自由党の意図で統一されていた。この法案は明確に教員の政治活動の自由を抑圧することをねらっていた。日教組第二回教研大会では「本質的に、憲法にもとづいて教育をまもり、平和をまもろうとする教師の活動をおさえようとするもの」(「日本の教育」第二回大会報告書、76ページ)と規定し、日教組は実力行使の態勢に入った。

 吉田首相の不信任案が可決され、国会解散となって、この法案は廃案となった。しかし、地教委は当初、組合運動、政治活動、教員の言論、教育、行動の自由への圧迫物として機能する場合が多かった。

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《『羽仁五郎の大予言』を読む》(29)

権力が教育を破壊する(12)

教育反動(4)


 1951年9月8日に日米が調印した「サンフランシスコ平和条約・日米安全保障条約」(対日講和条約)が1952年4月28日に発効した。これで日本は名目上独立を果たした。しかし、実質的にはアメリカの属国条約だった。よく知られているように、1951年2月26日に日米講和交渉のために使節団を率いて来日したジョン・フォスター・ダレスは使節団の会議で次つぎのような発言をしている。
「我々は日本に、我々が望むだけの軍隊を望む場所に望む期間だけ駐留させる権利を獲得できるであろうか? これが根本的な問題である。」

 アメリカはこの「権利」を確実に獲得した。この「権利」のために一番被害を受けて苦しんでいるのが沖縄だ。だが、この「権利」はアメリカによる軍事的支配を意味するだけではなかった。以来現在に至るまで、自民党政権は立法・行政・司法の重要な局面で、時にはアメリカからのあからさまな圧力もあったが、それがなかった場合でもアメリカの意向を忖度し、アメリカの「望む」政策が取られていった。属国化した日本の教育反動もいよいよあからさまに大きく動き出す。その動きを追ってみよう。

1952年

1月18日
 日本私学団体連合会、文部省の標準教科書編纂計画に反対表明。PTA団体や日教組なども反対を表明。

 1951年11月16日の「教育制度の改革に関する答申」中に、
「教科書については、検定制度を原則とするが、種々バラエティをもった標準教科書を国家において作成すること」
という項があった。これは明らかに戦前の国定教科書復活を目論んだものである。上のような多くの反対を受け、文部省は1月23日にこの計画中止を発表している。


2月20日
 東大ポポロ事件起こる。

 この事件については「裁判は階級的である(5)」で取り上げた。

4月3日
 参議院文部委員会、学問の自由と大学の自治に関する意見書を発表し、憲法的保障をもつ基本権として重視、警察権の介入を戒める。

 これは明らかに東大ポポロ事件を念頭に置いた意見書である。この参議院文部委員会の中心となっていたのが羽仁さんだった。

4月28日
 対日講和条約発効

5月9日
 早大事件起こる。

 私はこの事件については全く何も知らなかった。正確には第二次早大事件と呼ばれている。「戦後学生運動の“最後の輝き”か」を利用させていただく。

 5月1日のメーデー事件に参加した学生の調査のために身分を偽って早大キャンパスに立ち入った神楽坂警察署の2人の私服刑事が学生に見つかった。学生たちは「警察官の大学構内無断立ち入りは、これを禁じた文部事務次官通達に違反する不法行為」として、始末書、陳謝文を書くよう要求。刑事がこれを拒否したため、学生側が抗議を続けたところ、9日午前1時過ぎ、300人を超す警官隊が実力行使を開始、座り込んでいた無抵抗の学生たちを排除し、学生26人を逮捕、学生・教職員100余人に重軽傷を負わせた。警官隊の大学構内侵入と無抵抗学生への暴行は社会的にも批判を浴び、国会でも取り上げられた。

6月6日
 「中央教育審議会令」を制定。

 この令にもとずいて文相の諮問機関・中央教育審議会(中教審)が発足したのは1953年1月6日である。

6月12日
 教育刷新審議会を廃止。

 戦後教育民主化の要の役を担ってきた教育刷新審議会は逆コースを歩み始めた文部省にとっては大きな目の上のたんこぶだった。それに変わって設けられたのが中教審だった。

 中教審は発足以来、日本資本主義の維持・強化のための教育「改革」(という名の改悪)答申をだし続けていく。ちなみに、1953年1月6日に発足した中教審の15名の中に、あからさまにも次の5名の財界人が任命されている。
 原安三郎(日本化薬社長)
 藤山愛一郎(大日本製糖社長)
 諸井貫一(秩父セメント社長)
 石川一郎(昭和電工社長)
小汀利得(日本経済新聞社顧問)

 この中教審に対して、羽仁さんはその偽善性を厳しく批判している。なお、「権力が教育を破壊する」は1974年6月に行われた対話であり、談話中には第2次田中内閣の文相、あのごちごちの改憲論者・奥野誠亮の名も出てくる。

 これ(中教審)は偽善のシンボルだよ。詳しく論じるまでもないが、最近遠藤周作君が辞任したことでもよくわかる。あの"ぐうたら"遠藤君でさえ、2年と勤まらなかったんだから。いかに中教審というところはひどいかということね。"ぐうたら"以上だね(笑)。あそこにいる森戸辰男などは、およそ"ぐうたら"じゃない奴なんだな。人間でぐうたらじゃないなんて、人間じゃないよ。すなわち、エコノミッ・アニマルだな。まあ、遠藤君にしても就任したことからしておかしくて彼の"ぐうたら"主義というのは宣伝にすぎないのかな、と思っていたが、やっぱり、"ぐうたら"の本領を現わしたね。いたたまれなかったんだね。その中教審の偽善性について述べてみよう。

 政府は、行政権が教育を動かしてはいけないということを、憲法にもあるように知っている。行政権が教育を動かすということは、すなわち政党教育をやるということなんだ。自民党が政府をとったら自民党教育をやるということね。これは罪悪だと、憲法は厳にいましめている。

 そのことを政府は知っているんだな。にもかかわらず、それをのがれる方法として、教育委員会、中央教育審議会を作った。だから「こんな日本人を作ってしまったのは文部省の責任だよ」というと、「とんでもない、文部省は行政権だから、教育には直接タッチしておりません。中教審、教育委員会等でやっていただいております。これは行政権ではございません」というんだな。こんな偽善が果たしてあっていいものだろうか。現に、教育委員長を集めて奥野文相が訓示をやっているんだからね。しかも、教育長の任命は文部大臣の承認がいるんだよ。公選の時の教育委員会なら、行政権が直接教育を動かしていないと、公明正大に主張してもいいよ。でもそうじゃないんだよ現実は。「行政権は直接教育に干渉しておりません。委員会、審議会でやっております」と。その委員会、審議会は、直接行政の下にあるじゃないか。これが今の政府のやり方なんだよ。

 教育だけの問題じゃなく、例えば、破壊活動防止法についても同じ論理なんだ。これは反対党を絶滅する法律だよね。ところが政府は「破防法には行政権は直接タッチしておりません。公安審査委員会がやります」というんだ。ぼくはこの時、参議院の法務委員会で、
「この公安審査委員会というのは、自分の調査機関を持っているのか、自分で強制調査ができるのか。もしそうならば、どういう調査をやり、どんな資料を集めて審査をするんだ」
といったことがある。全部政府が作った調査と政府の公安調査庁で作った資料でやるんだよね。こんな据膳を食わされている公安審査委員会に、紳士らしい紳士が一人でも就任すると思いますか。自分で調査もできなくて、人にこしらえてもらった資料で判断するんですよ。実に恐ろしいことだ。にもかかわらず政府は公安審査委員会には、直接夕ッチしていないという。これが政府のやり方なんだ。審査委員会とか委員会とかいうのだったら、独立して調査ができなければだめですよ。

 だから、森戸辰男なんていうのは、まったくの偽善者だよ。中教審がどういう独自の調査をやったことがあるか。全部、文部省の作った調査でしょ。だから、遠藤君はいたたまれなくなってきたんだよ。もう一人の作家で有吉佐和子もいたが、彼等が意見を述べても、文部省は爪の垢程も聞きやしない。つまり、中教審は偽善の道具だからですよ。自民党が財界の利益しか考えていない結果だよ。

 政治献金で成立する政府というのは国民の税金を財界のために使う政府なんだ。まあ、これは当然のことなんだ。猫に鰹節を食うなというのと同じで、やめろといっても無駄なんだ。独占資本から政治献金をもらって成立した政府は、国民の税金を国民のために還元しないんだよ。だから、そういう教育を彼等はやるんだよ。財界が使い捨てにするための労働者を作っているんだ。そのことを隠すために、中教審を政府は作ったということね。

 ただね、これは国民の側にも問題がある。政府がいっている「文部省が教育に直接タッチしているわけじゃなくて、教育委員会、中教審が決めたことをただ事務的にやっているだけだ」ということを国民は信用してるんだね。

 だから極端にいって、明治以来教育を受けない人ほど、人間が人間らしいですよ。田舎の小学校にも行かなかったようなおじいさん、おばあさんが一番人間らしい。例えば、三里塚のおばあさん達をみてもわかるでしょう。あのおばあさん達が「オラ達は、生まれてから小学校もやってもらえなかった。子守りをやらされたり、畑仕事をやらされたりして、毎日泣いて暮らした。でも今度、三里塚闘争をやって、初めて人間らしい喜びを味わった」といっているんだよ。それから、『ガンガンは鳴りわたる』という文集にも、あの三里塚で赤ん坊にお母さんが乳をやっている時に、機動隊が測量にやってくるとガンガンが鳴るんだよね、そうすると、赤ん坊が乳房を離すというんだよ。こんなことはぼくは信じられないくらいだね。つまり、赤ん坊は母親がどんな生活をしているか、直感的に支持してるんだね。ガンガンが鳴ったらお母さんは行くんだ。だから、もう少しお乳が飲みたくても乳房を離す。これが本当の教育なんだよ。これはぼくがいっているんじゃなくて、三里塚の子供達が学校に行かないで闘争をやっているので校長が子供を学校へ来させろといったら、親達が学校へ行くよりもわれわれと闘っている方が本当の勉強ができると思うといったら、校長は言葉なく引きさがったそうだ。これなんだよ、真の教育は。

 中教審なんてものは日本の教育を滅ぼしているんだ。『教育の泉』という個人の小さな新聞を出している人も書いているが、10年ほど前に、政府が道徳のための時間を作るといい出したが、真の意味での道徳教育なんて政府ができるのかとね。ある小学校で、車椅子に乗っている身体障害の子供がいたんだが、他のみんなが臨海学校で海へ行くという時に、学校側は、身体障害者は無理だから止めさせようとした。すると、同級生たちは、俺達が何とかするから一緒に行かせてくれといって、みんなで、車椅子をひっぱって、二泊三日の臨海学校へ連れて行ったというんだよ。こういう素晴らしい子供達に対して、いったいどんな道徳教育が必要だというんだね。文部省や中教審のいう道徳教育なんて、子供達をだめにするばかりだ。

 それと、この間の"モナリザ展"ね。これは文部省の文化庁がやっているんだが、最初は"身体障害者はお断り”だったんだよ。ところが批難がすごかったので、日を決めて見てもらおうということになった。つまり、文部省というものはこういうものなんだ。混雑するから身体障害者は"モナリザ"を見なくていい、ということね。人間を混雑の対象としてしか考えない。公務執行の方からしか考えないんだよ。これらのことはすべて、中教審などにあらわれている文部省の偽善性が原因なんだよ。

 引用文中に「三里塚のおばあさん」が取り上げられている。私も「三里塚のおばあさん」を取り上げたことがある。次の記事です。

「非暴力直接行動(4)三里塚のこと」
《『羽仁五郎の大予言』を読む》(28)

権力が教育を破壊する(11)

教育反動(3)


GHQ、二度目の占領政策変換

1951年

1月4日
 教育課程審議会、道徳教育の充実方策について答申。修身科を復活せず、教育活動の全体を通じて道徳教育を強化。

 前年11月に修身科復活の必要性を表明した天野文相は、12月に教育課程審議会に「道徳教育の振興について」を諮問していた。上の事項はそれに対する答申である。その答申は次のように述べている。
「道徳教育は学校全体の責任であり、あらゆる機会をとらえて生徒の道徳生活の向上に資するよう努力しなければならない。このため道徳教育を主体とする教科あるいは科目を新設することは望ましくない。道徳教育の方法は、児童生徒に一定の教説を上から与えていくやり方よりは、むしろ児童生徒に自ら考えさせ、実践の過程において体得させていくやり方をとるべきである」


 教育課程審議会の答申は尤も至極の正論である。しかし、自民党政権は現在に至るまで、上から道徳のお題目を注入してステレオタイプのロボット国民を育成しようと躍起になっている。天野貞祐のご執心も全く衰えを見せない。

2月7日
 天野文相、衆議院で「静かな愛国心」の必要性を説く。

2月8日
 文部省、道徳教育振興方策を発表。道徳科を特設せず、4月26日手引要綱総説小学校篇、5月29日中学校篇・高校篇を配布。

 「手引要綱」は教育課程審議会の答申を踏まえて作成されたものだが、その要綱の性格は実際にはどのようだったのだろうか。その辺のことを知りたいと思ってネット検索をしていたら、『戦後「特設」道徳論の浮上』と言う論文に出会った。天野の「修身科」復活の言動が詳しく分析されている。その論文の結論部分を引用させていただこう。

 「手引書要綱」における「特設」の可否判断は,「教育課程審議会答申」及び「道徳教育振興方策案」とは微妙に異なることに納得がいく。「手引書要綱」に見られる「譲歩事項」は,天野の「修身科」復活発言から「手引書要綱」作成にいたる一連の政策中枢での論議のなかで展開された,特設必要論者の見解を考慮し,少なくとも高等学校での教科特設への要望を内在させつつ,記述されたと見てよいであろう。

 確かに「修身科」復活の問題が,とりわけ義務教育段階を中心にして議論されてきたことは疑いえないが,「特設」論が浮上する契機を高校段階の議論が内在していたことは,歴史の事実として記憶されてよいし,それらが「考慮」すべき事柄として意識的・無意識的を問わず文章化されたと見てもあながち言い過ぎではないと思われる。こうして,上田が指摘するように,戦後新教育の道徳教育は,「終着駅」を迎えつつあった。

4月11日
 トルーマン大統領、マッカーサーに対する更迭を発令。後任の第2代連合国軍最高司令官はマシュー・リッジウェイ中将。

 連合国軍最高司令官の交代はGHQの占領政策の変換をもたらし、教育の反動化にさらなる拍車をかけた。

5月1日
リッジウェイ司令官、「占領政策是正」のために日本政府に「政令改正諮問委員会」の設置を指令。

5月14日
 吉田内閣、政令諮問委員会を発足。

 この委員会の体質は次のようであった。教科書Cより引用する。
 この委員会のメンバーは、石坂泰三、原安三郎、小汀利得、板倉卓造、木村篤太郎、中山伊知郎、石橋湛山および前田多門であった。後に前田に代わって田中二郎が加わった。田中二郎の回想によれば、これらのメンバーの考え方は、つぎのようなものであった。

「その考え方はむしろ、その当時進んでいた行政制度とか教育制度の改革の線とは、かなり違った、中には、まったく逆の方向をめざした考え方をもった人が多くを占めておりまして、中には、その力強い推進力になろうというような人もありました。……戦前から花々しく活躍してきた人たちにとっては、戦前の制度の方がなじみやすいのでしょう。また、比較的リベラルな財界人にとっては、理念的なデモクラシーよりも、エコノミーとかエフィシエンシー(efficiency能率)を重視して考える傾向があるのも、もっともでしょう、したがって、行政制度の改革問題についても、チープ・ガバメント(cheap goverment 安価な政府)の思想が中心となり、非能率・不経済な行政や行政制度はこれをできるだけ排除しようということになります。こういう見地から、戦後新しく導入された行政委員会の制度のごときは原則として廃止すべきだというのが多くの人の意見でありますし、警察の地方分権、いわゆる自治体警察のごときはまったくナンセンスであり、全面的にこれを廃止し統一的な国家警察にひきもどすべきだというような意見が強く主張されました。」

 このような考え方をしている政令改正諮問委員会は、その後10ヶ月の期間をかけて31回の会合を重ね、行政機構、教育制度、独占禁止法、労働法規など、占領下の改革を再検討していったのである。

 「政令改正諮問委員会」の重要審議部分は教育に関することであった。委員会は1951年11月16日に「教育制度に関する答申」を提出している。

10月15日
 天野文相、参議院で「学校での道徳教育の改善、国家の道徳的中心としての天皇」などを発言。

 1951年には、修身復活のほかに、教育制度の改悪の動きも始まっている。教育委員会の公選制から任命制への改悪と中央教育審議会の設置である。

10月31日
 教育委員会制度協議会、教育委員会制度の改革に関して答申。

11月12日
 教育刷新審議会、中央教育審議会を設置。

 ここから始まった教育委員会制度の改悪が具体的に動き始めたのは五年後、第三次鳩山内閣(文部大臣・清瀬一郎)の時である(後に詳しく取り上げる)。

11月14日
 天野文相、天皇を道徳の中心におく[国民実践要領]の大綱を発表。参院その他で問題化し、11月27日白紙撤回を表明。

 「国民実践要領」は「われわれは独自の国柄として天皇をいただき、天皇は国民的統合の象徴である。それゆえわれわれは天皇を親愛し、国柄を尊ばねばならない」と述べている。この要綱に対して、参議院文教委員会で各層から「天皇道徳中心説反対」・「天降り反対」との意見が相次ぎ、天野文相はこれを撤回せざるをえなかった。しかし、天野は文相を辞任した7ヶ月(53年3月)後にこの撤回された大綱を天野貞祐個人名で公刊している。

 こうした天野による修身復活の策動は、当時まだ御用機関に堕していなかった教育課程審議会の同意も得ることができなかった。しかし、「愛国心」教育を主眼とする政府首脳の道徳教育強化を求める発言はその後も相次ぎ,天野に代わり戦後初の党人文相となった岡野清毫に引き継がれていく。  また、天野の「国民実践要領」の基本思想は15年も後(1966年)の中央教育審議会の答申「期待される人間像」へと引き継がれている。教科書Aから引用する。

 天野文相は1951年、文部省教育課程審議会が「修身科に類似した教科を設けることは望ましくない」との結論を出したこともあって、教科の復活が駄目ならば、道徳的基準を出すことを考え、「近く一般の道徳的基準になるものを出すが、国民の道徳的中心は天皇にある」と参議院でのべた。

 51年11月、「自主的教育確立」をめざす日教組第一回教研大会か開かれているときに、「教育勅語」にかわる「国民実践要領」の概要が発表された。それは、個人、家、社会、国家の四章にわかれ、1966年10月に文相に最終答申された中央教育審議会の「期待される人間像」が「個人として」「家庭人として」「社会人として」「国民として」の四章から構成されているのと、形式的にも内容的にも相通ずるものであり、その原型を示すものであった。

11月16日
 政令改正諮問委員会、複線型制度、教育委員任命制など「教育制度改革に関する答申」を決定。

 この答申はまえがきで
「終戦後に行われた教育制度の改革は、過去の教育制度の欠陥を是正し、主的な教育制度の確立に資するところが少くなかった。しかし、この改革の中には、国情を異にする外国の諸制度を範とし、いたずらに理想を追うに急で、わが国の実情に即しないと思われるものも少くなかった」ので、「わが国の国力と国情に合し、真に教育効果をあげることができるような合理的な教育制度に改善する必要がある」
と強調した。そして、そのための具体的措置の項目の一つに「公選制の教育委員会制度を任命制に改めること」を盛り込んでいる。


  教科書Aはこの答申を次のように批判している。

 この「教育制度に関する答申」は「国力と国情とに適合」する教育制度の確立を主張し、「画一性の打破」「実際社会の要求に応じ得る」などを理由につぎのような具体的な施策を提案した。

(1) 中学校から普通課程と職業課程を分離する。
(2) 高校では総合制高校を分解し、普通課程と職業課程を分離して、学区制を廃止する(職業課程学校では中学と接続させて五~六年制高校に再編成する)。
(3) 大学も、二~三年の専修大学と四年以上の普通大学に分ける(高三と大二~三とをあわせた五~六年制の農、工、商、教育等の専修大学を認める)。
(4) 教科内容の画一化を排し、種々バラエティをもつ標準教科書を国家が作成する。
(5) 教育行政については、地方公共団体の長による委員の任命制をうち出し、文部大臣の権限強化の体制を図る。
(6) 大学の「特別会計制度」の採用と研究費の重点配分を行なう。
(7) 教育行政全般にわたる単一最高審議会を設置する。

 これは、戦前の教育制度をモデルとしつつ、戦後教育改革に真正面から挑戦するものであり、対米従属のもとで復活しつつあった独占資本の要請にこたえるものであった。

 また、これは、教育の国家統制・官僚統制の復活強化の第一歩ともなり、高まりつつあった国民の教育を受ける権利と教師の平和的民主的教育をすすめる権利の自覚と主張、実践への重大な挑戦として、その後十数年間にわたる教育政策の反動化の基本路線を示すものであった。

 このような政府機関の動きも契機となって、財界は露骨に教育についての発言、要望の表明を強化してきた。


《『羽仁五郎の大予言』を読む》(27)

権力が教育を破壊する(10)

教育反動(2)


戦後教育史年表(5)
 GHQの占領政策転換


1949年

10月1日
 中華人民共和国成立。

1950年

1月1日
 マッカーサー、年頭の辞で次のように述べる。
「憲法第九条は自衛権を否定していないから、日本が自由主義陣営の側にたって、武力を行使することを期待する。」

 これは下記7月8日の指令の下地作りだった。

6月25日
 朝鮮戦争勃発。


7月8日
 マッカーサー、日本政府に対して7万5千人の警察予備隊の結成と海上保安庁8千人の増員を指令。

8月10日
 警察予備隊設置。

 警察予備隊は52年10月には保安隊に、54年7月には自衛隊に改組され、日本はひたすら再軍備の道を進むことになった。

 このように、GHQは日本を「反共の防波堤」として位置づけ、日本の非軍事化という占領政策を放棄して、再軍備と独占資本の復活に力点をおくようになった。当然これは政府の文教政策にも直接反映されるようになる。

8月27日
 第二次米国教育使節団来日。

9月22日
 第二次米国教育使節団報告書を提出。

 第一次報告書が全体として教育の非軍事化、自由主義化に重点をおいたのにたいし、第二次報告書の基調は「教育投資論」と「人的資源」開発理論のもとに、反共のための教育を勧告した。最大の問題は、「極東において共産主義に対抗する最大の武器の一つは、日本の啓発された選挙民である」として日本の教育をアメリカの反共政策の道具とすることを要求していた。(教科書Aより)

 これを受けて、日本政府(第三次吉田内閣)はどのように応じただろうか。(以下、教科書Cによる)

 吉田は1949年5月に私設の諮問機関として「文教審議会」(翌年4月に文教懇話会と改称)を設けている。当時、首相直属の諮問機関として教育刷新委員会があり、GHQの占領政策にそって教育の民主化のための重要な建議をしてきていた。従って、文教審議会の設置は、占領教育政策に軌道修正を加えることを意図していたことは明らかである。

 文教審議会の会合の席上で、吉田は「教育勅語にかわる教育宣言のようなものをつくってはどうか」と提案している。吉田は次のように述べたという。
「教育勅語をやめて、かわりに教育基本法が制定された。しかし、この基本法は、民主主義国ならどこの国にも通じることを常識的にならべて法律にしたまでのことで、これだけでは不十分だ。歴史と伝統のある日本人全体に感銘を与えるような血の通った教育信条のようなものがほしい。」
 この提案は賛成を得られなかった。しかし、この発言には、GHQの占領政策の転換と符節を合わせたように、これまでの教育改革への吉田の不信感と不満が表明されている。

GHQの要求に応えるべく、吉田は、1950年5月の内閣改造にともない、文部大臣に政党人ではなく学者を選んだ。文教審議会の一員でもあった天野貞祐である。天野は初めは固辞していたが、吉田は三顧の礼をつくして説得したと言われている。この天野が以後の教育反動の筋道を作ったと言ってよいだろう。天野が文部大臣として行ってきた反動の道筋作りを年表風に追ってみよう。

1950年

5月6日
 天野貞祐、文部大臣に就任。

6月17日
 文部省、学生と政治集会・デモ参加禁止を通達。

7月25日
 文部省、学内集団行動及び示威運動について通達。

12月13日
「地方公務員法」を公布し、政治活動・争議行為を禁止

 上の二つの通達が学生運動弾圧を公言した初めての声明ではないだろか。学生運動を敵対視する日本の国家権力に対する羽仁さんの批判は
「裁判は階級的である(3)」
「裁判は階級的である(4)」
「裁判は階級的である(5)」
で紹介済みだが、「権力が教育を破壊する」でも学生弾圧について次のように言及している。

 戦後ぼくが、ヨーロッパに最初に行ったのは1952年だったが、その時はどこでも日本は民主的な平和な国家になっていくと思って、好意を持っていたよ。わずかに、ブダペストの郊外に戦争孤児の収容所があったんだが、そこへ行った時に、10歳くらいの男の子がやって来て、
「あなたは戦争中に何をしてた?」
と聞くんだね。
「牢屋に入っていた」
といったら、
「ローゼンベルグのようにならなくてよかったなあ」
というんだな。実に鋭い質問をするんだよ。子供だけはわれわれに対して厳格だったね。日本が民主的だとか平和国家になるからとかいって、うっかり信用はできない、いったい、日本は戦争中何をしてたかということでね。その子供らを除いて戦後10年間は、世界は日本の侵略主義からの脱却と民主主義国家建設への努力という点で好意的な目で見ていた。

 しかしその後、60年安保の直後ヨーロッパヘ行った時に、いたる所で聞いたのは

「やはり日本はもとの軍国主義、侵略主義の日本になっていく」
ということだったね。ただ一つ、もとの日本と違うかなと思えるのは学生だけという意見が実に多かった。

(中略)

 それから、日本だけですよ、学生を逮捕して裁判をやっているのは。ヨーロッパの常識では、学生は犯罪者ではない。大学の改革を要求し、社会の改革を要求するということは犯罪じゃないんだ。これらをすべて日本は無視しているんだな。

<管理人注>アルフレート・ローゼンベルク
 ナチ党の幹部。対外政策全国指導者・第二次世界大戦期には東部占領地域大臣も務めた。ニュルンベルク裁判で死刑判決を受け処刑された。


9月1日
 天野貞祐文相、教職員のレッドパージ実施を表明。各地の大学で試験ボイコット、反対ストが行われる。

 学生たちは、文部省の通達をものともせず、理不尽な悪政に対して抗議の声を上げた。

10月17日
 天野貞祐文相、「学校における『文化の日』その他国民の祝日の行事について」談話を発表し、学校の祝日行事に国旗掲揚・君が代斉唱を勧める。

11月7日
 天野貞祐文相、全国教育長会議で修身科復活、国民実践要領の必要性を表明。

 自民党は学校での君が代・日の丸の押しつけを機会あるごとに少しずつ押し出してきた。そして1999年、小渕内閣が国旗国歌法を制定して目的を達した。たぶん、石原慎太郎の東京都での悪政がその直接の引き金だったと思われる。その意味で石原の「東京から日本を変える」という傲慢な意図は自民党に引き継がれたことになる。国旗国歌法制定のときの首相談話で小渕は「国民の皆様方に新たに義務を課すものではありません」などと白々しいことを言っていたが、この手の「初め揉み手で後恫喝」は自民党政治の常套手段だ。現在、東京都が始めた君が代・日の丸の強制が学校にすさまじいほどの荒廃をもたらしている。

 また、道徳教育の問題でも、いまアベコベ政権があからさまに「道徳の教科化」を打ち出して戦前の「修身」復活を目論んでいる。

 9月9日に受信した「都教委包囲首都圏ネットワーク」さんからのメールに『「戦争は教室から始まる」を阻止する10・3集会』の報告記事があった。その中に現在の教育現場の荒廃ぶりを告げる報告がある。その中から2件を転載しよう。

 都立高に新任で赴任して正式採用にならず、 それを不当としたために「分限免職」になり、 いま裁判闘争を闘っている教員の方からの報告。

 着任した学校の校長は、ひどいパワハラを副校長にやっていた。彼は副校長に対し、『人間ヤメロ!』『死ね!』『退職しろ!』『土下座しろ!』などの言葉を投げつけていた。

 その副校長は自分と親しかった。そのせいか自分は不採用になった。それで裁判闘争を始めた。来る12月8日が判決日だ。教頭も証言に立ってくれた。

 しかし、都教委はそのような校長を全面的に擁護し、『120%正しい』とか、『何のミスもない』と言うばかりだ。

 自分は最初都教委で起きていることなど他人事のように考えていた。しかし、おおきな現実にぶつかり、とんでもないバカなことが起きていることに気づいた。このような都教委は積極的に潰して行かなければならないと思うようになった。

 次は、多摩教組の方による現在職場で起きている実態報告。

<道徳>の授業
 道徳の授業への介入が進んでいる。授業案のチェックがなされる。しかし、それは日本語も通じないようなひどいものだ。副読本の使用を強制している。都も文科省も作っている。まさに『国定教科書』が現場に配布されている。授業の流れも画一化し、最後に必ず『結語を入れろ』と言う(徳目の押し付けであろう)。

<学力向上>について。
 『東京ベーシックドリル』などというものが入ってきている。しかし、これは出来が悪い。子どもにやる気がでない。市販の方がよく研究されて作られている。しかし、『必ず取り入れろ』と言う。そうしてテストの結果をデータ調査している。要するに教育内容にまで口を出してきている。

<授業規律>について。
 若い教員もベテラン教員も同じように強制されている。「ハイと手を上げ、立って答える」などだ。したがって校長の授業観察も、子どもの様子などばかりで評価している。授業の内容は二の次だ。若い教員はすぐ校長に聞きに行く。指導要領が変わっても、疑問も持たず、それがバイブルのように思って授業をやっている。

<勤務実態>について。
 授業時間が多くなっており、自分は毎日5時間授業をやっている。その後すぐ会議が入る。教材研究などをやる時間はない。夜9時頃まで帰れない人も多い。休日出勤も当たり前だ。振替休暇も夏休みに取れという。過労死寸前だ。病休者も大勢いる。まさにブラック企業だ。

12月13日
「地方公務員法」を公布し、政治活動・争議行為を禁止。

 こういう法律を目にすると、私は「見猿、聞か猿、言わ猿」という「三猿(さんえん・さんざる)」を思い出す。この格言はもとは他人の短所や過ちを安易に非難してはいけないという戒めを意味しているが、上の法律は公務員に「政府の秘密を見るな、政府の不都合な言説は聞かなかったことにせよ、ともかく政府のやることに文句を言うな、つまり猿になれ」と言っているに等しい。この規制を最大限に広げたものが「特定秘密保護法」にほかならない。

追記:
「秘密保護 法で国民 みな三猿(みざる)」
という川柳に出会いました(「年頭のご挨拶 - マツモト印刷株式会社」というAdobePDF文書より転載)。
《『羽仁五郎の大予言』を読む》(26)

権力が教育を破壊する(9)

教育反動(1)


 教科書を追加します。
<教科書C>
久保義三著『昭和教育史』


戦後教育史年表(4)
 GHQの占領政策転換


 戦後教育の民主化は、日本の良質な教育関係者の協力が大きな推進力であったとはいえ、基本的にはGHQの占領政策(非軍事化・民主化)のもとでの上からの改革だったという脆弱性を持っていた。逆コースと呼び習わされてる教育の反動化はGHQの占領政策の転換により惹起されたものにほかならない。言うまでもなく、GHQの占領政策の転換を余儀なくさせたのは米ソの対立であり、さらにその対立は中国・朝鮮での共産主義国家の成立で激化した。その経緯を年表で追ってみよう。

1945年

9月
 朝鮮半島、南北に分裂

 8月24日にソ連軍は平壌に進駐、9月8日にアメリカ軍は仁川に上陸し、それぞれ軍政を開始した。

1947年

3月12日
 トルーマン大統領、ソ連封じ込めのトルーマン・ドクトリンを発表。

1948年

1月6日
 米陸軍長官・ロイヤル、サンフランシスコで「日本を共産主義に対する防壁にする」と演説。

 この演説はやがて吹き荒れることになる「レッド・パージ」の先駆けの役割を担っている。

8月15日
 大韓民国成立

9月9日
 朝鮮民主主義人民共和国成立

10月9日
 アメリカの国家安全保障会議、対日占領政策の転換を承認する「アメリカの対日政策に関する勧告」を採択。

 「米国家安全保障会議文書第13号の2」と呼ばれているこの勧告書は国務省内に設置された政策企画室が検討していた。その検討の基調となった観点は次のようであった(教科書Cから引用する)。

 第一に日本が米ソ関係で、地理的にも戦略上きわめて重要な地位を占めているからであり、第二に日本がアジアにおいてもっとも大きい工業力と熟練した労働力をもち、第三にアジアの兵力のうちでも近代的な戦争向けに訓練されたもっとも多数の潜在的な兵力を擁しており、そして第四に日本がアジアでは、国家的な規模で国民を動員できる唯一の国だからであった。

 このように、従来の対日占領政策が旧敵国である日本を民主化し平和国家にすることに目標をおいたのに対して、政策企画室はアメリカの対ソ関係を重視する観点から、日本の工業力と動員可能な軍事力の大きさを評価し、日本をソ連の勢力下におちいらせないことをアメリカの目標とするにいたったのである。

 この勧告書の占領政策の項では「日本経済の復興」と「日本の再軍備、警察力の強化」、それらを推進するために必要な人物の「追放の解除」などが盛り込まれている。これは後の第二次米国教育使節団の報告書にも盛り込まれていく(後に取り上げる)。


12月1日
 上記の勧告書をGHQ総司令部に伝達。

 マッカーサーは、日本経済の復興を優先課題とすることに反対ではなかったが、日本の再軍備、警察力の強化などには強い抵抗を示した。マッカーサーはその理由として、アメリカと極東地域諸国との間に不和を生ずること、GHQの行ってきた非軍事化政策に反し、日本国民の信頼を失うこと、日本経済は再軍備を許容する状態にないこと、日本国民が支持しないこと、などを挙げていた(教科書Cより)。

12月17日
 GHQ、日本政府(第2次吉田内閣)に「経済安定九原則」の実行を指令。

その九原則とは
(1)予算の均衡をはかること
(2)税制を改め徴税計画を促進強化すること
(3)資金貸付を経済復興に制限すること
(4)賃金安定策を確立すること
(5)価格統制の強化
(6)外国貿易の統制、為替の統制強化
(7)資財割当配給制度を一そう効果的に行うこと
(8)重要国産原料、および製品の増産をはかること
(9)食糧集荷計画を一そう効果的に行うこと
であり、この九項目の実施をせまったものである(以下は教科書Aより)。

 マッカーサーは、この九原則の実施にあたって、日本国民の耐乏生活と自由と権利の一時的放棄はやむをえないとし、
「九原則の目的についての政治的思想的反対は絶対に許されず厳重に取り締る」
と声明した。 これは、経済的自立の名において、対米従属のもとで日本独占資本を育成しアジアヘの侵略、反共政策にくみこもうとするものであった。労働者への首切り、「合理化」政策はここからくりだされてきた。


12月23日
 東條らA級戦犯7名の死刑執行。

12月24日
 岸信介、不起訴のまま無罪放免される。

 続く1949年から逆コースの進行があからさまになっていく。

1949年

1月23日
 第24回衆議院議員総選挙で民主自由党、264名の当選で単独絶対過多数を占める。

 これは占領政策の転換に即応した国内政治の保守反動化であった。吉田内閣は九原則の実行と反共政策の推進を言明した。
 ロイヤル陸軍長官とともにデトロイト銀行頭取ジョセフ・ドッジ、税制専門のコロンビア大学教授シャープが来日し、国家予算の編成をはじめ、財政、金融など全般にわたって九原則を具体化した。このときに策定された厳しい財政金融引締政策(デフレ策)は「ドッジ・プラン」と呼ばれている。


2月16日
 第三次吉田内閣発足

3月
 吉田内閣、衆議院に考査委員会(アメリカの非米活動調査委員会にならったもの)を設置

4月4日
 続いて、占領軍指令で団体等規正令(「団規令」)を制定し、法務府特別審査局を中心として共産党員の登録を要求した。

5月
 さらに、「ドッジ・プラン」にもとづいて行政機関職員定員法を制定した。

(以下は教科書Aより)

 この法律により、国家公務員25万8543名、地方公務員41万9911名の首切り計画をたてた。定員法は「赤色分子」の解雇の方針のもとに実施されることになっており、実はレッド・パージ法にほかならなかった。「団規令」は49年9月在日朝鮮人連盟に適用されたのをはじめ労働運動、民主運動に猛烈と襲いかかる反共政策の中心的武器であった。

(教職員のレッド・パージも定員法を口実に行われていた。)

 教職追放の口実は、定員法にもとづいて、教職員の定数を定員定額制へのきりかえ、各県定数条例の制定によって過剰定員の整理ということで進めていった。教育界のレッドーパージは、総数1700名といわれ、東京246名、静岡67名、京都51名、佐賀21名、秋田43名、岩手40名、熊本37名、兵庫26名、岡山33名、北海道26名、群馬24名、長野21名、福島14名などであった。攻撃は全国にわたったが、高知では阻止したし、岐阜でも抵抗があって3名程度にとどめた。

(教職員のレッド・パージの全貌は今日必ずしもあきらかでないが、おおよそ次のようであった。

 教員のレッド・パージとしては初期にあたる静岡では49年3月ごろから、警察の調査が進められ、団体等規正令の届出も含めて49年9月には整理対象者リストがほぼ確実に作成されていたといわれる(原告代理弁護人芦田浩志『免職無効確認請求事件準備書面』1964年1月14日)。

 49年9月8日の全国教育長会議で静岡県教育委員会教育長岡野徳右衛門は、GHQ係官から同県に300名ちかい党員、同調者がいるといわれ、大規模なパージを行なうことを示唆された。教員組合はこの情報を知った。教組は弾圧を予想して対策を練った。県教委は、文部省から示された定員数と教員との差600名のうち、半数は国庫負担、半数は整理という方針で定数条例を作成し、49年9月25日教育委員会、49年9月28日県議会を通過させた。

 レッド・パージの実行にあたっては、調査リスト全員の整理は情勢から得策でないので、共産党員を中心として同調者、組合役員などの追放にしぼられた。県教委は寺田銕県教組委員長をよびだし、占領軍とわが国の政治情勢からして反対運動を抑えるよう圧力を加えた。静岡軍政部レニッガーも県教組の反対運動は好ましくないと指示した。こうして49年10月8日、静岡県下いっせいに67名の首切りがいいわたされた。

 解雇にあたっては、「長期観察の結果不適格とみなす」といういいわたしが行なわれた。これか明確なレッド・パージであったことは、この整埋が行なわれた半年後、50年2月以後定数条側が改正され、教員の補充が行なわれたこと、ふたたび活動をしないことの誓約のもとに、数多くの復職を認めたこと、徹底的に抵抗した教師には天皇制絶対主義の歴史の残滓、官吏分限令による懲戒免職をあくまで強要したということなどにもあらわれているであろう。

(ちなみに、上の引用文の末尾に括弧付きで次のような追記が行われている。)

 1959年9月、静岡県教組の支援をうけて、裁判闘争が開始され、1966年9月21日、静岡地裁大島斐文裁判長は、名波三子夫にたいする処分は、「思想・信条並びに組合活動を理由とする差別的な不利益扱いであって、憲法14条、労働基準法第3条に違反するところの重大且つ明白な瑕疵ある行政処分」であり無効であるとの判決を下した。


 名波三子夫さんが処分無効の判決を勝ち取るまで十数年もかかっている。しかし、ここにもまともな裁判官がいたことを知り、暗闇に光明を見る思いがしたのだが、このまま決定したのかどうか不明。もしかすると、上告審では敗訴しているかもしれない。

 念のためネット検索をしてみた。「労基法の基本原則(4)信条と均等待遇(レッドパージなど)」に出会った。「1950年9月9日朝日新聞事件」を先頭に112件の判例が掲載されているが、名波三子夫さんの訴訟は掲載されていなかった。そこに掲載されていたレッド・パ-ジ関連の訴訟は、名波三子夫さんの訴訟と同じく憲法14条・労働基準法第3条が争点になっているが、全て敗訴になっている。1952年に最高裁が「GHQの指示による超憲法的な措置で解雇や免職は有効」という判決を出していて、以降の関連訴訟の判決はこれを判例としている。

 上の112件は1994年までのものである。最も直近のレッド・パージ訴訟は2013年4月に行われている。この訴訟では最高裁は「上告棄却」と門前払いをしている(次の記事を参照しました)。
http://www.nichibenren.or.jp/activity/document/statement/year/2013/130517_2.html">「最高裁が上告棄却」
「日本弁護士連合会会長談話」

 判決文を読んでみると、やはりレッド・パージ裁判でも行政べったりの詭弁・屁理屈ばかりの判決である。ここでも「裁判は階級的である」。