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《『羽仁五郎の大予言』を読む》(25)

権力が教育を破壊する(8)

番外編:教科書裁判


②家永さんの「教科書裁判」

 家永三郎さんの教科書裁判は第一次・第二次・第三次と三回にわたって起こされている。そのうち1967年提訴の第二次訴訟(1966年の検定における『新日本史』の不合格処分取消を求める行政訴訟)の判決が「教育権というのは、政府にあるんじゃなくて国民にあるんだ」ということを明言した判決だった。「どうなってるの裁判官、分かりやすく、納得できる裁判を 教科書検定を追認、行政にフリーハンドのお墨付き」さんから、その判決について述べている部分を引用する。

 とくに1970年7月17日の第2次訴訟の東京地裁判決(いわゆる杉本判決)は、教科書検定制度の違憲性は否定したものの、家永教授が執筆した「歴史をささえる人々」など3件6ヶ所の記述に対する不合格処分は憲法21条、教育基本法10条に違反するとの画期的な判断を示した。

 この杉本判決への政府自民党ならびに最高裁当局の攻撃は厳しく、
a.
 この判決に関与した杉本裁判長らはその後の待遇面で不当な取り扱いをされた。
b.
 その後のいわゆる「司法の危機」等を経て、裁判所の中には違憲判断をする雰囲気はなくなり、教科書訴訟のその後の判決は、教科書検定制度ないし処分は合憲との判決が相次いだ。
C.
 こうした中で、教科書訴訟弁護団は、最後まで違憲論を主張し続けながらも、仮に検定処分が違憲とまではいえないとしても、この原稿記述に対する検定処分は裁量権を監用して違法ではないか、という「裁量権濫用論」の主張をも重視するようになった。
d.
 第1次訴訟東京高裁判決(いわゆる鈴木判決)とこの最高裁判決(いわゆる可部判決)は、行政裁量権について裁判所としての判断を示したものである。

 杉本判決は「不合格処分は憲法21条、教育基本法10条に違反する」と断じた。念のためそれらの条文を掲載しよう。

憲法21条
① 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。
② 検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。

教育基本法10条
① 教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負つて行われるべきものである。
② 教育行政は、この自覚のもとに、教育の目的を遂行するに必要な諸条件の整備確立を目標として行われなければならない。

  ちなみに、教育基本法は2006年に第一次阿倍内閣によって改悪されたが、教育基本法10条①という重要な条文は次のように改ざんされている。
「教育は、不当な支配に服することなく、この法律及び他の法律の定めるところにより行われるべきものであり・・・」
 これでは何が「不当な支配」なのか、その時々の政権によって恣意的に決めることができる。そして何よりも問題なのは、下級の法律が上位の法律より幅をきかし、上位の法律を無視することになる。つまり、最も上位の憲法を無視することになる。第二次安倍内閣は憲法違反の閣議決定を続発しているが、改悪教育基本法も憲法21条違反の欠陥法律である。以前「米長の欺瞞」で紹介した美濃部亮吉さんが都知事であったときの発言を再録しておこう。

『仮に通達と法律とが矛盾しあうならば、法律に従うべきであり、法律と憲法が矛盾している時は、憲法に従うべきであるというのが私の行政官としての判断である。』

 さて、「どうなってるの裁判官・・・」さんは、「鈴木判決」「可部判決」の問題点を次のようにまとめている。

1.
 家永教授が提訴した第一次教科書訴訟は、1審の高津判決では、数ヶ所について検定の裁量権逸脱による違法を認定したが、
2.
 その後の鈴木判決、これに続く可部判決で取り消され、結局家永教授が執筆した日本史教科書に対する300ヶ所余りにのぼる検定意見は、すべて合憲合法と結論づけられたのである。
3.
 両判決の特徴は、行政の裁量権を極めて広く認め、結局は教科書検定当局の恣意的な検定処分をすべて追認するものである。
4.
 ここには、悪法が裁判所に課した国民の基本的人権を保障する役割を放棄し、行政に追随する裁判所の姿が明瞭に見てとれるのである。

 手元に三一書房が複製出版した『検定不合格日本史』がある。家永さんによる序文を転載しよう。

序文

 本書は、1956(昭和31)年に、文部省に高等学校用教科書として発行するために検定申請用の白表紙本として提出され、翌57(昭和32)年に下記のとおり不合格処分を受けた原稿の全体を、写真複製したものであり、原色口絵がモノクロームとなっているほかは、原本と全く同一の復原である。

 文初教第540号  昭和32年4月9日
  株式会社三省堂殿
   文部省初等中等教育局長  内藤誉三郎
  検定申請教科用図書の原稿審査の結果について(通知)
 昭和31年11月29日付検定申請の高等学校用日本史原稿は、遺憾ながら別紙の事由により教科用図書検定審議会の答申にもとづき、不合格と決定されましたので通知いたします。

  (別紙)高等学校日本史196
 この原稿は、構成・記述・表現等において特色があるが、高等学校社会科日本史の教科書としては、下記のような欠陥が認められる。
 第一に、事実の取捨選択に妥当を欠いているところが少なくない。すなわち日本史にあっては「常に具体的な史実を重んじ、実証的、客観的方法に基づいて、日本史の発展を科学的に理解しようとする能力と態度とを養う」(検定基準、絶対条件(三)の3の(1))ことが求められているのであるが、この原稿では、特に第4編第4章(274ページ~296ページ)などにおいて史実選択の上に妥当を欠くものがある。「日本史の研究方法」(318ページ)の記述において説かれていることは、生徒の学習態度にのみ求めるべきことではなく、教科書自体のとるべき態度である。
 第2に、記述が往々評論に流れ表現や語調に教科書として適当でないところが認められる。
 第3に、過去の史実により反省を求めようとする熱意のあまり、学習活動を通じて祖先の努力を認識し、日本人としての自覚を高め、民族に対する豊かな愛情を育てるという日本史の教育目標から遠ざかっている感が深い。
 以上のような事由を勘案し、総合的にみて、この原稿は高等学校社会科日本史の教科書としては適当とは認め難い。

 教科書訴訟において、被告国または文部大臣は、教科書検定はけっして思想審査・思想統制のためにやっているのでないとくり返し弁解しているが、上記の不合格理由は、検定が思想審査・思想統制以外の何ものでもないことを明白に示している。不合格理由として、誤記・誤植が多く不正確であるということが一言も記されていない点に注意していただきたい。

 従来、不合格理由と白表紙本全体とを対比させて教科書検定の具体例の全貌を公開する企画はなされなかった。たまたま三一書房の竹村社長から「検定の実態を天下に公表して文部省の真意を明らかにするとともに、今日なお国民の熟読に値する日本史の通史を世に送るために、この不合格原稿を複製出版した い」旨の申し入れがあったので、私としては現在の学界・教育界の水準からみて一般読書用の通史としては多くの添削の必要があるとは考えるものの、せっかくのこの機会に、教科書検定が憲法違反の思想統制であることの明確な証拠を全国民の前に公開したいと思い、高校の教室で使ってもらうために全力投球で書きあげながら闇に葬り去られた20年前の旧稿を、一切手を加えないでそのまま覆刻することにした次第である。

  1974年4月19日   家永三郎

 「日本史の研究方法」(P.318)で説かれていることを教科書執筆者も心掛けろと説教をたれているが、その文は『日本史の研究方法』と題した巻末の参考論説中の「6 参考書の読み方その1(現代学者の研究書)」(P.317~317)を指しているようだ。このような論説を掲載する教科書がほかにあるだろうか。私は寡聞にして知らない。検定官が「構成・記述・表現等において特色がある」と一つだけ評価しているが、この論説もその一つであろう。「6 参考書の読み方その1」の全文を転載しよう(段落のない文章ですが、私の判断で段落をつけました)。

 諸君が日本史を研究する場合、いちばんの手がかりは、まず学校で使う教科書であろう。それからもう一歩突っこんで深く研究しようとする人は、教科書にあげてある参考書目の中から読みたいものを見つけ、図書館などへ行って読むがよい。自分の深く研究したいと思う問題について、現代の専門学者のりっぱな研究がある時には、まずそれを読み、現代の学界で,どんなことが問題として採り上げられ,どんな材料によって,どんな方法で研究され,どんな結果が出ているかを知る。その場合,著者が何を求めているか,何を言おうとしているかを虚心に読み取り,著者の研究の趣旨を誤解しないように注意すること。結論ばかりを見ないで,その結論が導き出されるまでの議論の進め方をよく検討する方が,もっとたいせつである。

 専門の学者の研究に対等の批判を加えるのは,諸君に向かって少し無理な注文であるかもしれないけれど,いくら専門家でも,人間である以上まちがいもあれば,考えの足りないところもあろう。「ことごとく書を信ずれば書なきにしかず。」ということわざもあるとおり,どんな偉い人の本でも,盲目的にその議論をうのみにしてはいけない。たとえまちがいの見つからなかった場合でも,自分の頭でよく理解し,自分の納得できたことだけを採り入れて自分の知識とする心構えが必要である。

 もし重大な問題について,学者の間に二つ以上の意見の違いがあることがわかったら,それぞれの立場の意見を冷静公平に検討し,他の意見を顧みないで一つの立場の意見だけにとらわれないようにするのが,正しい態度である。

 科学的な研究態度を述べていて、どこにも問題はない。検定官は最後の段落を指して「教科書自体のとるべき態度」と説教しているのだろう。「他の意見を顧みないで一つの立場の意見だけにとらわれ」ているのは検定官の方だろう。家永さんは「自分の頭でよく理解し,自分の納得できたことだけを採り入れて」教科書を編纂したのであって、なんら問題はない。二つ以上の見解があるのならそれらを全て併記せよ、というのなら、それはそれで生徒に考える機会を与える面白い教科書ができるだろう。しかし、文部省にはそんな発想のかけらもあるまい。文部省は教育内容に口を出すな、と言いたい。

 羽仁さんは教科書検定について
「それはまさに事前検閲で違法行為なんだよ。憲法違反だ。今の教育の基本にされている教科書においてさえも文部省は脱法行為をしているんだ」
と言う。また
「教科書は教師が自由に選べばよい」
というのが羽仁さんの持論だが教科書ついては次のように述べている。

 教科書ということに関しても、教師が自由に選べばいい。ただ、あまり間違いがあるとまずいから、多少、技術的な点で誰かが調べるといった程度のことは問題になるがね。例えば、言葉の間違いとか、年代の間違いとかね。

 これはね、さっきの話じゃないけれど、今だに自由学園では教科書を使わない。羽仁もと子はしょっちゅういってましたが、教科書というのは実際ふざけたものだってね。一番わかりやすい例は国語なんだけど、いろいろ名家の文章をて1ページか2ページくらいをとってそれを集めて読ませるでしよ。あんなに性質も文章も違うものを少しずつ読んだって、どうしようもないんだよ。

 やはり、一つの本を初めから終りまで読んで初めて、わかるものなんだよ。ぼくが自由学園で教えた時も、ユゴーの『レ・ミゼラブル』を半年くらいかかって読む。教科書がこれなんだな。『レ・ミゼラブル』なら歴史の教科書もいらないし、道徳も政治も経済学の教科書もいらないんだな。つまり人生すべてがこの中に入っている。ユゴーが序文でも書いてるように、大人が子供をおどかして、子供が怖がるということがないように、女性が自分の身体を売らなければならないということがないように、男が貧しいために虐待されることがないようにこの三つの問題がある間は、この本が読まれる必要がある。つまり、人生とはこの三つでしょ。これが、経済学であり、政治学であり、道徳であり、文学であり、芸術だろう。

 たしかに、自由学園は創立の頃からとは大分違ってきているが、今だに教科書を使ってない。しかも自由学園が日本の戦後の教育民主化の模範になったという事実を考えてみても、いかに文部省が本当の教育にとって百害あって一利もないかは明らかなんだな。

 家永さんの教科書に対する文部省の検定意見は「300ヶ所余りにのぼる」そうだが、特に検定不合格の理由として、「史実選択の上に妥当を欠くものがある」と具体的に「第4編第4章(274ページ~296ページ)」を挙げている。現在日本国を牛耳っている財閥(とその傘下の経団連)・官僚・自民党がその中の何を恐れているのかを知りたいと思った。少し時間がかかるが、いずれそのページの全文を紹介してみようと思っている。とりあえず「番外編:教科書裁判」はこれで終わることにします。

 追記
 毎日10件ほどのサイトを点検しているが、その中の一つ「ちきょう座」の今日の記事「『「日本会議」84%、「神道議連」95%、「靖国議連」84%・・・チャートで一目瞭然「第2次安倍晋三改造内閣の超タカ派の大臣たち」(俵義文氏提供)』」を見てびっくりした。何にびっくりしたかというと、右翼巨大団体「日本会議」傘下の政治団体として「日本会議国会議員懇談会」とか「靖国議連」とかは知っていたが、「神道議連」というのがあるとは知らなかった(のはわたくしだけかな)。上記記事に掲載されている政治団体を転載しておこう。

日本会議国会議員懇談会
日本の前途と歴史教育を考える議員の会
神道政治連盟国会議員懇談会
みんなで靖国神社に参拝する議員の会
憲法調査推進議員連盟
新憲法制定議員同盟
創生「日本」(「戦後レジーム」からの脱却、改憲をめざす超党派議員連盟)
教育基本法改正促進委員会(自民・民主による超党派議連)
北朝鮮に拉致された日本人を早期に救出するために行動する議員連盟
正しい日本を創る会
中国の抗日記念館から不当な写真の撤去を求める国会議員の会
日教組問題を究明し、教育正常化実現に向け教育現場の実態を把握する議員の会
親学推進議員連盟(伝統的な子育て普及を推進)
人格教養教育推進議員連盟(道徳の教科化などを推進)

 転載していて背筋が寒くなってくる。「日本会議国会議員懇談会」はその設立趣意書で「誇りある歴史、伝統を持つ日本を次代に伝える」とのたまっているが、その復活を目指している伝統とは「神道」つまり「天皇を中心とする神の国」というわけだ。全てはその推進をはかるための団体だ。それらの団体はそれぞれに着々と成果を上げてきている。

 これらの団体を維持するためには膨大な資金が必要だろう。もちろん、その財源は財閥(とその傘下の経団連)である。私は、現在世界を牛耳っている先進国、自称「民主主義国家」は実は「ブルジョア民主主義国家」だと何度も指摘してきたが、それが間違いではないことを再認識した(ブルジョア民主主義については『統治形態論・「民主主義」とは何か』を参照して下さい)。
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《『羽仁五郎の大予言』を読む》(24)

権力が教育を破壊する(7)

番外編:マキァヴェリの政治思想


 前回の補足です。

 前回、羽仁さんの言説の中に出てきた①「マキァヴェリの政治思想」評価と②家永さんの「教科書裁判」について、私の知識に曖昧な点があるので、調べることにした。なお、「Machiavelli」のカタカナ表記は何通りかあるようだが、ここでは「マキァヴェリ」を用いることにする。

①マキァヴェリの政治思想

 私のように哲学史に疎いものにとってはマキァヴェリは「マキァヴェリズム」という概念を通して知る程度である。広辞苑はこれを次のように解説している。

「目的のためには手段を選ばない、権力的な統治様式。マキァヴェリの「君主論」の中に見える思想。権謀術数主義。」

 羽仁さんの言葉で言えば「政治家はどんな悪いことをしてもいい」ということになる。私はこれがマキァヴェリの思想の核心だと誤解してきた。羽仁さんは、そうではなく「マキァヴェリは道徳の陰にかくれて政治をやる奴が最大の悪人だということをいっている」と言う。

 ネット検索をすると、マキァヴェリ思想の核心を論じている論考にたくさん出会う。私が調べた範囲では、そのほとんどは「共和制が最も優れた政治体制」というのがマキァヴェリの政治思想の核心としている。

 手元にあるバートランド・ラッセル著(市井三郎訳)『西洋哲学史』(みすず書房)とブライアン・マギー著(日本語版監修 中川純男)『知の歴史』(BL出版)のマキァヴェリの項を読んでみた(「参考書1」「参考書2」と呼ぶことにする)。

 参考書1は「マキァヴェリズム」=「マキァヴェリの政治思想」という誤認の原因を次のように指摘している。

彼のもっとも有名な著書「君主論」は、1513年に書かれてロレンツォ二世に献げられている。というのは彼が、メディチ家の引き立てをえようと望んだからである(実際には、それは空しかったのである)。

 この著書がもつ語調は、部分的にはこの現実的意図からくるものであろう。より長い著述「ローマ史論」を、彼は同時に書いていたのだが、これは著しくより共和的であり、より自由主義的である。「君主論」の冒頭で、彼は次のようにいう。共和国については、他の場所で扱ったから、本書では言及しないつもりである、と。  「ローマ史論」を併読しないひとびとは、彼の教説について非常に一面的な見解をえやすいのである。

 参考書2は「ビジュアル版哲学入門」というサブタイトルが付記されているように、私のような初心者にはコンパクトで分かり易いので、マキァヴェリ思想の概略を知るために、参考書2からマキァヴェリの項を全文転載しておこう。

  マキァヴェリ
  君主たちの教師
マキァヴェリは,政治と行政のあからさまな実態を科学的な態度で客観的に観察した最初の哲学者だった。

“君主にとっては、慕われるよりも恐れられるほうが、はるかに安全である”
     ニツコロ・マキァヴェリ

マキァヴェリの代表作
〈君主論〉(1513)
 新しく君主となった者がいかにして権力を蓄えていくかが論じられている。実験科学におけるアプローチを政治の世界に応用したもの。
〈政略論〉(1513)
 さまざまな政治体制の是非が論じられている。


 ここまで,コペルニクスからケプラーを経てガリレイヘ、そしてニュートンで結実するまで、近代科学の出現にまつわる胸躍る物語を紹介してきましたが、そのあいだに他の分野でもさまざまな発展があったのはいうまでもありません。なかでも注目すべきは、政治哲学の分野です。ルネサンス期には、この領域に恐るべき天才、ニッコロ・マキァヴェリ(1469~1527)が現れました。彼が生まれたのは、コペルニクスよりもわずか4年前のことです。

 マキァヴェリは、新しく登場してきた科学者と同じように、伝統的な政治の論法を退けて、現実を真正面から見すえようとしました。彼の主著〈君主論〉(1513)には、
「私のねらいは、本書を読む人にとって実際に役立つことを述べることにある。したがって、想像の世界ではなく、真実をあるがままに伝えるのが適切であると思った」
と書かれています。

 マキァヴェリ以前は政治理論の書物といえば、支配者がはたすべき義務や理想的な君主像、望ましい社会の形態などについて記したものがほとんどで、日々の政治活動について述べられたものはありませんでした。マキァヴェリはそれとは対照的に、あるがままの政治の姿を伝えようとしたのです。当時から現代にいたるまで、数多くの人が彼の著書の内容に衝撃を受けています。[マキァヴェリアン]といえば「ずる賢くて、目的のために手段を選ばない策謀家」を意味する軽蔑的な言葉として使われるようになってしまいましたが、マキァヴェリが意図していたのは、ただ単純に政治の実態に率直に目を向けることだったのです。ちょうど新しい科学の先駆者たちが根強いキリスト教の伝統に対抗しながら、特定の価値観にとらわれない科学を発達させようとしたように、特定の価値観にとらわれることなく政治を理解する態度をはぐくもうとしたのでした。

 偉大なる真実の語り手マキァヴェリの〈君主論〉には、人はどのようにして権力を手に入れ、それを維持するのか、その権力をどのようにして失っていくのかが、鋭い洞察力にもとづいて単刀直入に述べられています。そして、どのような政治であれ、軍事力の行使と軍事力による脅迫がいかに重要な役割をはたすかについても、驚くほどあからさまに書かれているのです。また、政治では見かけが大切なので、イメージ作りを怠ってはならないこと、政治家にとって信義はどういうときに守るべきで、どういうときに破るべきか、どのような策略が成功しやすく、どのような策略が失敗しやすいかなどについても記されています。以来く君主論〉は、「政治的現実主義」のバイブルと呼ばれるようになりました。ある章など「悪らつな行為によって君主となった者たちについて」と題されています。

 マキァヴェリが展開する理論は、キリスト教や聖書の教えはもとより、人は何をなすべきかという倫理観とはまったく関係がありません。彼は実際に起きていることを正確に観察し、それをみごとに説明しているだけなのです。ヒトラーやスターリンについて知っている私たちには、マキァヴェリが観察し、指摘したことが現代において実証されたように思えるかもしれませんが、彼がいっていることは、人がより高い地位を求めで画策する場面ではどこでも、そしていつでも、そうした現象に見られることなのです。また、政治の世界にとどまらず、すべての組織や公共団体、さらに教会や同好会やボランティア団体においてさえ観察できます。

 マキァヴェリは、もうひとつの重要な著作〈政略論〉(〈君主論〉と同じ1513年に発行)のなかで、〈君主論〉にひけをとらない洞察と率直さで、異なる政治体制の是非を比較した結果、人民の支持を正しく反映する共和制がもっともすぐれ、安定しているといいました。マキァヴェリが赤裸々に描いた政治の実態は非常に衝撃的で、そのような描写は今日であっても大きな反響を呼ぶだろうと思われます。

 とはいえ、マキァヴェリのことを冷酷な策略の奨励者だとか、さながら悪魔のようにみなすのは大きなまちがいです。たしかに彼の著書には、「君主が祖国を存亡の危機から救ったり、自分の権力の座を維持するには、あれこれの道徳はいっさい考慮せずともよい」という部分があります。しかしこの文章でさえ、ルネサンス期のイタリアという政治的状況のなかでは当たり前のことを語っているにすぎないのです。マキァヴェリによる政治の内実の暴露は、何世紀にもわたる偽善的な言葉を払拭するものとして、見識ある人びとからは当初から高く評価され、彼はまたたくまに国際的な名声を得ました。シェークスピアはマキァヴェリのことを自作の劇で取りあげています。また、次に紹介するフランシス・ベーコンも「人間は何をなすべきかではなく、何をするかについて述べたマキァヴェリのような人びとにこそ、私たちは感謝すべきである」と書きました。

 「マキァヴェリは道徳の陰にかくれて政治をやる奴が最大の悪人だということをいっている」
という羽仁さんの指摘は上の引用文中の
「マキァヴェリによる政治の内実の暴露は、何世紀にもわたる偽善的な言葉を払拭するもの」
と同意義であろう。

 以上でマキャヴェリを終わろうと思ったが、ここで疑問が一つ出てきた。参考書1は『君主論』と『ローマ史論』を併読すべしと注意しているが、参考書2が主著の一つに挙げている『政略論』が全く出てこない。逆に参考書2には『ローマ史論』がない。これはどうしたことか。これら三冊を直接調べてみようと思い、図書館の蔵書を検索してみた。次の2冊を借りてきた。

『世界の名著16 マキャヴェリ』(中央公論社)
 <「君主論」と「政略論」を収録している>
永井三明訳『ディスコルシ―「ローマ史」論』
 <「ローマ史論」が副題になっている>

 なんと、前書の「政略論」の訳者も永井三明さんだった。そしてそこでは「政略論」に「ティトゥス・リウィウス『ローマ史』にもとづく論考」というサブタイトルが付されていた。もちろん、訳文は全く一致しているようだ(全文を比較していない)。

 つまり、中途半端な知識の悲しさ、知らなかったのは私だけ、『ディスコルシ』=『ローマ史論』=『政略論』ということでした。

 最後にもう一つ、『世界の名著16 マキャヴェリ』の付録を読んでいたら、「文献案内」の欄の研究書のトップに、なんと羽仁さんの著書『マキャヴェリ君主論』(大思想文庫8 岩波書店)があげられていた。もう一つなんと、1936年の出版です。マキャベリについて、羽仁さんに一家言あることが納得できた。
《『羽仁五郎の大予言』を読む》(23)

権力が教育を破壊する(6)

戦後教育の民主化(5)


戦後教育史年表(3)
 教育権と教育委員会


 第92回帝国議会での教育に関する議論をもう少し追ってみよう。

 言うまでもなく、帝国議会の議員たち全員が憲法・教育基本法の核心的な意義を自覚できていなかった訳ではない。第92回帝国議会での吉田茂首相の施政方針演説に対して、教育刷新委員会の副委員長・南原繁議員が次のように迫った。
「政府は一体文化及び教育の問題に対して、如何なる方針と態度を御持ちになって居るのか」

 これに対して、文部大臣・高橋誠一郎はまことにまともな答弁をしている。その答弁で「文部省の基本的態度は、米国教育使節団の報告書と教育刷新委員会の報告とを尊重して教育改革にあたること」を明言している。さらに、「教育基本法」は「教育の憲法とも称すべきもの」であると答弁している。

 この国会においては、その後、教育勅語と教育基本法との関係も論議されている。政府側は、

 教育勅語と教育基本法とは矛盾せず、前者の良き精神は後者に受けつがれている。

 しかし、勅語は明治23年に発布されたものであり悪用されたこともあるし、現在国民の間に疑問もあるので学校で奉読することはしていない。

 教育勅語を廃止するつもりはない。
等の答弁をくりかえし、従来の態度を変えていない。

 しかし、教権ないし教育権の確立についての政府側答弁は次のように、これもまたまことにまともな答弁をしている。

「今までの文部省のあり方と申しますのは、やはり相当統一的に、中央集権的に行ってきたのでございますけれども、この教育基本法を通じての基本的な精神といたしますところは、文部省が上から強制的に教育を統轄し、支配していくということは極力避けまして、教育は国民全般の教育であるという点から、地方に対するいろいろな干渉とか取締りとかいう文部省の態度は、できるだけ捨てていきたいという気持でございまして、……」(3月14日衆議院教育基本法案委員会における剣木享弘政府委員の答弁)

「第十条の『不当な支配に服することなく』というのは、これは教育が国民の公正な意思に応じて行われなければならぬことは当然でありますが、従来官僚とか一部の政党とか、その他不当な外部的干渉と申しますか、容喙と申しますかによって教育の内容が随分ゆがめられたことのあることは、申し上げるまでもないことであります。そこでそういうふうな単なる官僚とかあるいは一部の政党とかいうふうなことのみでなく、一般に不当な支配に教育が服してはならないのでありまして、ここでは教育権の独立と申しますか、教権の独立ということについて、その精神を表わしたのであります」(同右、辻田力政府委員の答弁)

 「官僚とか一部の政党とか、その他不当な外部的干渉」を排除して「教育権の独立」を保証すべく制定されたのが「教育委員会法」であった。しかし、教育委員会法公布に至るまでには、なお一年ほどの時間を要した。

1947年

12月27日
 教刷委、教育行政民主化を建議
 文部省解体や文化省の設置など教育行政の民主化を建議している。

 この年は政治制度の抜本的改革が行われた年であった。3月には衆議院議員選挙法改正公布され、4月20日に第1回参議院選挙、4月25日に第23回衆議院議員総選挙が行われた。衆参ともに社会党が第1党となり、片山哲が首班指名されている。帝国議会から日本国憲法下の国会への移行である。教刷委の「文部省解体」などの建議はこのような政治状況が後押ししていたのだろう。参議院議員になった羽仁さんも大いに関わっていたことだろう。文部省解体について、羽仁さんは次のように述懐している。

 教育のことを考えるのに、ぼくの文部省廃止論は決して私論でなく、天下の公論なんだ。

 そして現に敗戦の時に、陸海軍を廃止し、内務省を廃止した時に文部省も廃止するところまでいっていた。それで教育委員会なるものを作った。ぼくは国会にいて、教育委員会というもので、学校を文部省から取っちゃったわけですよ。それで、人民の公選する教育委員会の監督にしたんだね。

 ところが文部省のところにまだ図書館なんか残っていたんだよ。それでぼくは参議院で国立国会図書館法というのを作って、今度は図書館を文部省から取っちゃった。国会図書館が全国の図書館のお世話をするというのは、権力関係じゃないと思っている。実際に経済上のお世話をするんだからね。だから、だんだん、政治を経済に還元していくのが近代政治なんだね。

 つまり、道徳というものから政治を解放する、これがマキャベリだね。マキャベリズムといって、みんな悪くいうけれど、実際は大したもので、彼は政治は道徳とは関係ないものだ、といったんだよ。それを逆にとって政治家はどんな悪いことをしてもいいなんていっているなんてね。そうじゃないんだよ、マキャベリは道徳の陰にかくれて政治をやる奴が最大の悪人だということをいっているんだ。

 その意味で、教育委員会が公選制になって、文部省というものがいらなくなった。

 ちなみに、国立国会図書館は1948年6月5日に開館されている。

1948年

7月15日
 「教育委員会法」公布

10月5日
 第一回教育委員選挙を実施

 教育委員会法が公布された翌年(1948年)は教育改革のための法律が一気に出そろった感がある。「・・・設置法」の目白押しである。その中で、5月31日に文部省設置法が公布されている。

1949年

5月31日
 「文部省設置法」公布
 文部省は廃止されなかったが、文部省の権限はできるだけ地方に委譲すること、そしてその任務は専門的・技術的な指導・助言・援助と教育の基準設定に限定され、それらの事項遂行を裏付ける財政援助が主な任務となっている。

 このように始まった文部省と教育委員会であったが、公選として始まった教育委員会は1956年に任命制へと改悪されてしまった。歴代自民党政権は、8年の歳月をかけて人民の教育権の簒奪を企て、それに成功した。また、文部省は図太く生き残り、悪制度を次々と打ち出して教育を破壊し続けきた。そして、1999年に文部科学省設置法の施行により廃止された。

 さらに今、アベコベ政権が教育行政のさらなる改革を推し進めている(「教育を私物化する安倍政権 -教育委員会制度の変更について-」を参照して下さい)。

 さて、公選教育委員会の意義と教育権について、羽仁さんは次のように述べている。

 今、家永三郎君の教科書裁判で、幸いにして裁判官の中にも多少法律のわかる人がいて、教育権というのは、政府にあるんじゃなくて国民にあるんだ、ということを第一審の判決で明言したんだね。

 ところが教育権が国民にあるということをみんなはなはだ曖昧に考えているんだよ。これは、教科書だけの問題でもないしね。教育権が国民にあるということはそれじゃ、日教組にあるのか、あるいは政府が国民を代表しているから政府にあるのかということじゃないんだ。教育権が国民にあるということを法律的に具体化したのが教育委員会の公選ということなんだ。だから、教育権が国民にあるというのは、抽象的な文学的な表現じゃなくて、文学的な表現であれば政府は国民を代表して教育権を持っているんだともいえるし、日教組が持っている、いや父兄だ、子供だというふうになってしまう。

 これが法律的にどうだというと、教育委員会が公選によって成り立っている、ということなんだね。だから、文部省を廃して、どうするんだというと、教育委員会の公選を復活しろということだね。教育委員会が公選であれば意味があるんだよ。なぜかといえば、教育委員会というのは行政権力じゃないんだ、公選であればね。つまり、人民の支配が直接教育に及んでくるんだからね。だけれども任命制であれば行政権力になってしまう。

 これまで述べてきたことを原則的に整理すると、つまりなぜ文部省があると、百害あって一利がないかということは、第一に、教育は人間が改善できるということを前提としている。これは決して、昔から、その確信が人間にあったわけじゃない。フランヌ革命が初めてこれを明らかにしたんだな。つまり、制度によって人間は改善できるということね。そうすると、なぜ人間に制度が必要かということなんだな。制度なんていらない、ということもいえるんだよ。だけど、制度なしの人間っていうのは生まれたままの人間で、古代なり中世の人間は、制度的な自覚がなかっだから、最悪の制度を作っちゃった。

 これは、例えば、福田恒存君がこの間、『自由新報』という自民党の新聞に、「先生は、自分の思う通りに教育しろ、学者や組合なんかに頼る」、という一見いい意見を述べていた。ところが、このように一人一人の先生をおっ放したって、結局は最後には文部省が出てくるんだよ。弱い一人の教師がやはり権力の下で苦しまなければならない。だから、福田君の論は、文部省を廃止したなら、正論になるんだよ。

 文部省がなくなった、だから、先生は自分でやりなさい。組合に頼るのは、自分の月給の問題だけにしなさい、教育の内容は自分で考えなさい、学者に頼るな、東京大学の学者なんてろくな奴はいないのだから、学者のいうことを聞くより子供の顔をじっと見て、この子供はどんな希望を持っているかと、子供のいうことを聞いた方がいい。

《『羽仁五郎の大予言』を読む》(22)

権力が教育を破壊する(5)

戦後教育の民主化(4)


戦後教育史年表(2)
 教育基本法と教育勅語


1946年

8月10日
 教育刷新委員会(「教刷委」)発足
 教刷委は米国教育使節団に協力すべく結成された「日本側教育家の委員会」を母体として発足し、1949年6月1日に教育刷新審議会と改称し、1949年6月6日に中央教育審議会設置を受けて廃止されるまで約6年間活動した。
 教刷委の第一委員会では教育勅語の取り扱い問題が論議された。9月25日の第2回会議では
(1)
 旧教育勅語に類する新勅語の奏請は行なわないこと
(2)
 新憲法発布の際の勅語の中に、今後の教育の根本方針は新憲法の精神に則るべきことを示されたいこと
などを挙手多数で決定している。委員のなかには,新しい教育方針の確定をふたたび天皇の詔書に頼ろうとする意見があったが、そのような新勅語の煥発については委員の間で意見か分かれていたことがこれでわかる。


 敗戦直後に「天皇の詔書に頼ろうとする意見」があったことは驚くに当たらないことだろう。官僚・知識人の多くは「国体護持」というくびきから自由ではなかった。その程度の連中が教育の刷新を論じていたのだ。しかし、新教育勅語煥発説はやがて消滅する。そこに至るまでの経緯は次のようであった(<教科書A>から引用する)。

 米国教育使節団は戦前戦中の日本の教育について批判を行なっているが、肝心の天皇制と教育勅語については直接的な批判はまったくしていない。かろうじて教育勅語についてだけ、つぎのようにのべているにすぎない。

「勅語勅諭を儀式に用いることと御真影に敬礼する慣行は、過去において生徒の思想感情を統制する力強い方法であって、好戦的国家主義の目的に適っていた。このような手段の使用に関係のある儀式は、人格の向上に望ましくないものであり、民主主義的日本の学校教育に反するものと我々は考える」(第三章)。

 このように米国教育使節団は、教育勅語をその内容にまで立ち入って大きく問題にすることはしなかった。それは、使節団が教育勅語とそのはたした役割について無知であったためであろうか。そうではない。

 使節団の報告書が天皇制と教育勅語について正面からとりあげそれを批判していないのは、そうすることを避けたのであるといわざるをえないだろう。天皇制を存続させるというアメリカの対日占領方針は、アメリカの占領政策の一環としての教育使節団の活動にも貫徹していたのである。教育勅語の批判は必然的に天皇制の批判に結びつかざるをえないから、天皇制についてふれることか許されない以上、教育勅語についてふれることも不可能であったにちがいないのである。

 この米国教育使節団に協力すべく占領軍の命令で設置された「日本教育家の委員会」(いわゆる日本側教育家委員会、委員長南原繁)も、その報告書を教育使節団と日本政府に提出している。この報告書は、「教育勅語に関する意見」として、つぎのようにのべている。

「従来の教育勅語は天地の公道を示されしものとして決して謬りにはあらざるも、時勢の推移につれ国民今後の精神生活の指針たるに適せざるものあるにつき更めて平和主義による新日本の建設の根幹となるべき国民教育の新方針並びに国民の精神生活の新方向を明示したまふ如き詔書をたまはり度きこと。」

 この新教育勅語煥発説は、日本側教育家委員会の意見であったばかりでなく、当時の文相安倍能成などの考えでもあった。戦後初期の教育改革の日本人の指導層 ― いわゆるオールド・リベラリストの進歩性の限界を、ここにはっきりと見出せるだろう。

 しかし、日本側教育家委員会は全員一致で新教育勅語煥発説をとったのではなかった。それに反対する少数意見があったのである。この少数意見は次第に有力な意見に成長し、教育基本法の構想に連なっていく。

 「少数意見は次第に有力な意見に成長」する力を与えたのは、言うまでもなく、教育の民主化に対する一般国民の理解の進展とそれに基づいた世論の高まりである。

10月8日
 文部省は、教育勅語拝読の廃止、勅語・詔書の謄本の神格化廃止を通達。
 教育勅語そのものが否定されたわけではない。あくまでも「拝読の廃止」である。教育勅語の廃止はようやく1948年になってからである(6月19日、衆参両議院で決議)。

11月3日
 「日本国憲法」公布
 日本国憲法は第26条第1項で「全ての国民は・・・ひとしく教育を受ける権利」を謳っている。戦前の日本では,教育を受けることは,納税・兵役と並ぶ臣民の三人義務の一つであった。教育をめぐる権利・義務関係を逆転させ,教育をうけることはすべての国民の権利であることを規定したことは,まさに画期的なことであった。

11月29日
 教刷委、教育基本法制定を建議
 教育方針の確定を詔書に頼ろうとする意見に対して、新聞等の世論の動向もあって、反対意見がしだいに強くなり、上記の建議に至った。戦後教育法制の中心的な法律「学校教育法(1947年3月31日公布)・教育委員会法・教育公務員特例法・教育職員免許法・社会教育法・私立学校法」などは全て教刷委の建議を基礎にして制定されている。

1947年

3月31日
 教育基本法・学校教育法公布
 教育基本法の前文を転記する。
 われらは、さきに、日本国憲法を確定し、民主的で文化的な国家を建設して、世界の平和と人類の福祉に貢献しようとする決意を示した。この理想の実現は、根本において教育の力にまつべきものである。
 われらは、個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成を期するとともに、普遍的にしてしかも個性ゆたかな文化の創造をめざす教育を普及徹底しなければならない。
 ここに、日本国憲法の精神に則り、教育の目的を明示して、新しい日本の教育の基本を確立するため、この法律を制定する。

 このように、教育基本法も学校教育法も「全ての国民は・・・ひとしく教育を受ける権利を有する」という日本国憲法が示す根本原理に則って導き出されている。


 しかし、 政府(第一次吉田内閣)や枢密院などの当局者たちには、この憲法・教育基本法の核心的な意義が十分自覚されていなかった。<教科書A>は「その能力はかれらにはそなわっていなかった」とまで断じている。そうした断定をする根拠を見てみよう。

注:枢密院
 憲法問題などを扱った天皇の諮問機関。ちなみに教育基本法の公布文には
「朕は、枢密顧問の諮詢を経て、帝国議会の協賛を経た教育基本法を裁可し、ここにこれを公布せしめる」
という前文が付されている。


 教刷委の第一特別委員会は、文部省の「教育二関スル根本法」の構想をふまえて作成した「教育基本法案要綱案」を1956年11月29日総会に提出している。この草案の前文は次のようになっていた。

 教育は、真理の開明と人格の完成とを期して行われなければならない。従来、わが国の教育は、ややもすればこの自覚と反省とにかけるところがあり、とくに真の科学的精神と宗教的情操とが軽んぜられ、徳育が形式に流れ、教育は自主性を失い、ついに軍国主義的、又は、極端な国家主義的傾向をとるに至った。この誤りを是正するためには、教育を根本的に刷新しなければならない
 さきにわれらは、憲法を根本的に改正し、民主的文化国家を建設して、世界平和に寄与する基礎を築いた。この大業の成就は、一に教育の力にまつべきものであって、人間性を尊重し、真理と正義と平和とを希求する人間の育成を期すると共に、普遍的にして、しかも個性ゆたかな、伝統を尊重して、しかも創造的な、文化をめざす教育が普及徹底されなければならない。
 われらは、ここに、教育の目的を明示して、新日本教育の基本を確立すると共に、新憲法の精神に則り、それと関連する諸条項を定めるために、教育基本法を制定する。
 われら国民はすべて、この自覚の下に、教育の目的の実現に向って、不断の努力をいたさんことを期するものである。

 この素案と政府案(公布された教育基本法)の前文を比べてみると大きな違いが二つ見て取れる。一つは素案の前文の冒頭部分(戦前戦中の日本の教育にたいする批判と反省)が全部削除されている。もう一つは「憲法を根本的に改正し」が「日本国憲法を確定し」と修正されていることである。これは政府や枢密院部内における国体護持論の影響の根強さを示している。

 もう一点、 吉田茂首相は最後の帝国議会(第92回帝国議会)で行った施政方針演説(於1947年2月14日貴族院)で二・一ゼネストにたいする弾圧を礼賛したのにつづいて教育の問題にもふれている。しかし、吉田首相の施政方針演説は、教育基本法案と学校教育法案とか上程可決された議会での施政方針演説であるにもかかわらず、そのことの意義にふれることなく二・一ストに象徴される労働運動の高揚に対処する方便として教育問題が語られているにすぎなかった。このことは当時の日本の支配層の中枢部分における教育についての認識能力の程度を暗示している。
《『羽仁五郎の大予言』を読む》(21)

権力が教育を破壊する(4)

戦後教育の民主化(3)


戦後教育史年表(1)
 米国教育使節団


 これまでの記述では、私自身に基本知識が不足していて、教育史全体の中での位置づけ分かりにくいと感じてきた。そこで、重複する事項もあるが、改めて戦後教育の民主化の動きを年表風にまとめてみることにした。

 以下は
<教科書A>
五十嵐顕・伊ヶ崎暁生編『戦後教育の歴史』(青木書店)
<教科書B>
柴田義松・齋藤利彦編著『近現代教育史』(学文社)
を用いています。


1945年

8月15日
 「ポツダム宣言」を受諾。日本は無条件降伏した。
 同宣言は,軍国主義勢力の除去とともに「日本国国民ノ間ニ於ケル民主主義的傾向ノ復活強化」と「言論,宗教及思想ノ自由並二基本的人権ノ尊重」を日本政府に要求していた。

9月15日
 文部省、「新日本建設の教育方針」を発表。
 そこでは、平和国家・道義国家の建設とともに「益々国体護持に努むる」べきことをうたっていた。

10月2日
 連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)が設置され、米軍による事実上の単独占領が始まる。
 GHQは、10月から12月にかけて教育に関する「四大指令」
 ①「日本の教育制度の管理」
 ②「教員及び教育関係官の調査・除外・認可」
 ③「国家神道、神社神道に対する政府の保証、支援、保全、監督並に弘布の廃止」
 ④「修身、日本歴史及び地理の中止」
を出し、軍国主義的および極端な国家主義的イデオロギーの普及の禁止、戦犯教師の追放、教員・学生の政治活動の自由の回復、修身等3教科の授業停止等を指令した。
 これにより、文部省等の旧支配層による「国体護持」路線は急速に後退し、代わって文部省内にも「公民教育刷新委員会」が設置され、近代的・合理的な公民科教育を「新教育」の柱とする案を年内に文部大臣に答申するなどの新しい動きが出てきた。また、教育現場では、教科書から軍国主義や国際和親を妨げる教材を削除するための「墨ぬり」がおこなわれたり、学生の民主化運動が各地の高校や大学で始まり、教員の間では生活を守り教育を発展させるための教員組合結成の動きがいくつかの地域で起こり、早くも年末には全日本教員組合(全教)・日本教育者組合(日教)が結成された。


1946年

1月4日
 GHQがアメリカに教育使節団派遣を要請。

2月7日
 GHQの要請を受けて「米国教育使節団に協力すべき日本側教育家の委員会」(委員長南原繁)を編成。

3月5日
 第一次米国教育使節団が来日。

3月30日
 米国教育使節団、報告書を提出。
 マッカーサーは、「民主主義的伝統に於ける高き理想の文書」であり、「民間情報教育局(GHQ幕僚部の部局の一つ。略称はCIE。教育・宗教など文化政策を担当)にとって極めて有用なもの」との声明を発表し全面的支持を与えた。
報告書は、日本の教育欠陥を次のように指摘している。
(1)
 極端に中央集権化教育制度
(2)
 特権階級と大衆とに別々の学校を用意した特権的差別教育と組織
(3)
 画一化されたつめ込み教育
(4)
 官僚独裁的な教育行政
(5)
 非能率的な国語・国字問題
 そして教育改革の方向を次のように勧告している。
(1)
 個人の価値と尊厳、能力と適性に応じた教育機会、教育内容、方法の画一的規定排除、(2)
 漢字制限、仮名、ローマ字の採用
(3)
 六・三制の学校制度、下級中等教育の義務制、男女共学、上級中等教育の希望者全員入学、授業料無料、男女共学、教育行政の独立、公選制教育委員会の設置
(4)
 新しい教授方法、社会科、教師の再教育計画、教員団体の組織の自由、大学レベルの教員養成、教員免許制の確立
(5)
 成人教育、社会教育の普及
(6)
高等教育の開放、一般教育、人文的教養の重視
などを勧告した。


5月15日
 文部省、『新教育指針』を発表。
 児童中心主義の「新教育」は、明治以来日本の教育を支配してきた極端な国家主義に基づく権威主義の教育を公然と批判した点において戦後の教育改革に重要な役割を果たした。戦前と比較するとき、子どもたちがともかく解放され、明るく活発となったというのは、大多数の日本国民の実感であった。


 この『新教育指針』はその後の教育の民主化に深く関わってくる。この指針に対して、どのような評価や批判が行われてきたのか、少し長くなるが、<教科書A>から引用しよう(文中の引用文の出典は省略した)。

 これ(新教育指針)は、使節団報告書をうけて発表されたというよりは、45年秋の四大教育指令と「深い結びつきをもって」書かれたものであった。そこには、これまでの日本では人間性が尊重されない社会的関係が教育にも反映し、生徒の個性を無視した画一的教育、教師の生徒に対する封建的・絶対的関係が支配的であったので、今後は、人格と個性の尊重、自主的、協同的な学習を行なわしめる「教育における民主主義」が必要であると強調されていた。そして、これは「教育者の手びきとするため」につくったもので「教育者におしつけようとするものではない」との説明が与えられていた。したがって、その内容は、「文部省の文書としては、民主的な基調をもつ最初のもの」と評価されたし、「日本国憲法、教育基本法として展開する民主的教育価値がすでに明確にのべられている」とも評価されている。

 しかし、四大教育指令にたいして文部省は、実践においてはできるだけサボタージュしておきながら、四大教育指令にそって民主主義教育を解説したのである。敗戦直後において民主主義教育の諸問題について実践的指針を示そうとするならば、戦争中軍国主義教育を指導したことにたいする根本的な自己批判から出発し、教育民主化の課題とその実現のための具体的条件の整備に責任を負うことが客観的に要求されていた。この点で、「新教育指針」が、戦争責任を「国民全体が負うべき」だと主張し、戦争の発生原因と責任の問題で侵略戦争を合理化し「教学局」、「国民精神文化研究所」などの機関や「国体の本義」、『臣民の道』などの書物の役割を正当化していることは絶対にみのがせない。教師の思想弾圧・転向のための機関であった「教学局」や、天皇制イデオロギーの注入の武器であった各種パンフレットにたいするこの評価は、ファシズムとその教育について文部省が歴史的に総括する能力を欠いていることを示していた。戦前、民主的な教師の諸々の努力にたいして権力的な弾圧というかたちで実践的に接触した文部省は、民主的な教育の実践と理論の構築を侵略戦争の過程でことごとくふみにじったことへの反省なくして、敗戦直後、手のひらをかえすように民主教育の建設を強調することは道義的にも不可能なことがらであった。しかし、進歩的側面と同時に教育における「民主主義」の理論を共存させていたこの『新教育指針』は、各学校で教師たちに活用され、新教育への導入の役割をはたしていった。

 戦前の「民主的な教師の諸々の努力・・・民主的な教育の実践と理論の構築」の例として、羽仁さんは文化学院と自由学園を取り上げて、次のように語っている。

 羽仁もと子なんかも、文部省をまったく無用だと考えてた一人なんだ。西村伊作が文化学院を建て、羽仁もと子が自由学園を建てたことは、文部省の監督を受けない学校を作ろうということが目的なんだ。だからあの当時、学校を建てる最小限の法律である各種学校の法規にしたがって、作った。この各種学校というのは料理学校とか裁縫学校とかいうやつで、文部省が監督する価値を認めない学校なんだよ。だから、中学校なり、高校、大学の資格は一つもない。それで補助金ももらえない。だから日本の場合、羽仁もと子や西村伊作の考えでは、金がなくてもいい、建物がなくてもいい、文部省の干渉さえなければ真の教育ができるということなんだね。それで文化学院にしても立派な成績をあげている。例えば、青地晨君も文化学院出身だからね。

 自由学園は、戦前だけれども、霜柱の研究というのを卒業制作でやった。これは、大学でもできなかったような立派な科学的な研究なんだ。でも結局、最後は軍事的に利用されたがね。満州の軍用鉄道が霜柱で浮き上がってしまうので、非常に困っていたんだよ。それで、この研究の成果を大いに参考にするとかね。

 そのように文化学院なり、自由学園が教育上、非常によい成績をあげた。それで、戦後の日本の教育を考える時、まるで自由学園が模範のようになったことがある。だから、これも文部省がない方がどんなに教育がうまくいくかといういい例なんだ。文部省廃止論というのは何もぼく一人がいってることじゃなくて、高野長英から始まって歴史的に古いわけだよ。本当の意味で教育に少しでもタッチした人間は、文部省というものが教育にとって百害あって一利もないということを主張していたし、実践もしてたわけだ。

 高野長英については、上の引用文の少し先のところで、次のように紹介している。

 文部省を廃止することだとぼくは思っている。文部省廃止論は、今ぼくがいい出したことじゃない。代表的な例をあげれば、福沢諭吉も文部省なんてものは必要ないといっている。必要ないというよりは事実として日本の近代教育は文部省が作ったものではないんだよ。

 日本の近代思想の代表的な一人は高野長英だ。徳川幕府の教育の関係の、今でいえば文部省だな、つまり大学の管理をやっていた江戸幕府の役人の林大学頭ね。その林大学頭の学制というのが、江戸時代のあらゆる学問の進歩を阻害していたことは誰でも知っていることなんだ。高野長英はそれに抵抗して投獄されたりしながら、近代思想を日本に開いたんだよ。

 明治維新の時に、小学校を作るとか、大学を作るとかいっても、結局それは文部省がやったわけじゃないんだ。文部省とは関係なく、日本の近代教育というのはできてきた。それで、福沢諭吉のことを、その当時の人は、"文部省は虎の門に在るかもしれないが、文部卿は三田に在り"といったくらいだよね。