2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《『羽仁五郎の大予言』を読む》(13)

裁判は階級的である(5)

東大ポポロ事件


 新宿騒乱事件に関連して、羽仁さんはもう一つ重要な指摘をしている。騒乱罪なんていう犯罪はないと言うのだ。もしそうなら、新宿騒乱事件というのは、まずこの点で犯罪として成り立たない。

 それに、ぼくにいわせると、第一に大衆的な犯罪なんてものは存在しない。破防法の場合もそうなんだが、団体を規制する法律なんてナンセンスもはなはだしいんだよ。団体が犯罪を犯すなんてことはありえないんだからね。近代法が確立した原則に、犯罪能力というものは個人的なものだというのがある。つまり、罪を犯すってことは個人でなければできないんですよ。いいですか。そのひとつの例としてあげることができるのは、国際軍事法廷の裁判だ。あの戦争は日本国民全体がやったんだよ。だけれども犯罪能力は個人にあるというんで、東条以下の個人が責任を問われたわけだ。いくら侵略戦争だ、負けた、といっても、日本国民の犯罪責任は問題にされないんだ。法律というのはそういうものなんだよ。原則として決められているんだ。

 団体に犯罪能力がなく、あくまでも犯罪能力は個人のものだというと、ピンとこない人がいるかも知れないが、悪徳商社だって、商社が悪いんじゃなくて、それを経営している人間、そこで働いている人間が、その個人個人が悪いから、悪徳商社なんだ。そこの人間が独占資本と結びついたり、買い占め、売り惜しみをやっているんだよ。

 わかりやすくいえば立小便だ。これは軽犯罪法による犯罪なんだよ。だけど、団体が小便できるだろうか。いくら並んでやったとしても、小便しているのは個人個人でしょう。団体としてはできやしない。立小便もできないものが、どうして罪を犯すことなんてできますか。

 騒乱罪にしたってそうなんだ。これは個人の犯罪じゃないんだ。それを検察庁は問題にしている。石を投げたじゃないか、というかも知らんが、ひとりで投げたわけじゃない。大勢が投げる過程の中で投げているんだ。無理に個人に還元しようとするからだめなんだよ。一歩譲って石を投げた人がいたとしよう。しかし、その人は騒乱罪ではないんだ。石投げの罪というのかあるかどうかは知らんが、その人の犯罪は石を投げたことであって、絶対に騒乱の罪ではない。新宿で石を投げたというのは民の声なんだ。民の声とまでいかなくとも、犯罪とは違う性質のものなんだ。

 日本では当り前のことになっているが、アメリカやヨーロッパでは、機動隊に弾圧されることはあっても、学生が犯人として逮捕されて、しかも有罪になって刑務所に入れられるなんてことは、学生運動の場合ありえないことなんだ。

 例をあげると、西ドイツにヘッセンというところがある。西ドイツでは各州が自治をやっているから、へッセンの事件はヘッセンの裁判所が裁く。さきのパリ五月革命の指導者はコーツベンディトという学生だが、彼がこのへッセン州生まれだった。帰国してフランクフルトで激しいデモをやり、警官に捕まった。へッセンの最高裁は、この学生をあっさり無罪にした。学生は大学の改革を要求しているのであって、犯罪じゃないという見解からだ。へッセン最高裁の長官に会ったとき「ヘッセン州に関する限り、学生が運動によって逮捕され、裁判を受けた例は、コーンペンディトを除いてひとつもない」と断言している。そのコーンペンディトだってたちまち無罪だ。だらだら何年も捕えておくなんてことはしない。

 社会の変革を要求したり、大学を改革しようとするのは、犯罪じゃないんだ。デモもまた然りだ。それを途中から警察官が規制しようとするから衝突が起きる。公務執行妨害とか、道路交通法違反とか、暴力行為とかは、二次的に起きたもので、いわば誘発させられたものなんだ。したがって、警察権力の行使に問題あるとするならともかく、それらを理由に反対意見を鎮圧しようとすることは誰にもできない。現在の日本の警察がやってることは、実に政治的なんだよ。

 公務執行妨害・道路交通法違反・暴力行為などを誘発させて犯罪をでっち上げる弾圧方法は、特に市民運動や学生運動などに対する警察の常套手段となっている。

 「裁判は階級的である(2)」 で、羽仁さんが参議院法務委員会で東大ポポロ事件を取り上げたことを紹介したが、羽仁さんは「日本の警察がやってることは、実に政治的」である例としてこのポポロ事件に言及している。まず、ポポロ事件とはどういう事件だったのか。

 1952年2月20日、東大ポポロ劇団が東京大学本郷キャンパスで松川事件をテーマとした演劇の上演を行なった。上演中に、観客の中に本富士警察署の私服警官4名がいるのを学生が発見し、3名の身柄を拘束して警察手帳を奪い、謝罪文を書かせた。その際に学生らが暴行を加えたとして、2人が暴力行為等処罰ニ関スル法律により起訴された。

この事件についての羽仁さんの見解は次のようである。

 最近の日本の裁判を見て感じることは世界の趨勢と完全に逆行していることだ。非常に残念なことだが、これは事実だろう。だいたい日本の警察官や自衛隊員は組合を作ることができない。公務員の自由がまったく無視されていることに、平然としていられるくらいだから裁判だって、どうしても偏向してしまうのかも知れない。

 スウェーデンの刑務所に入っている人たちは、ちゃんと組合を作っている。そういう権利を国家が認めているんだ。だから用務行政に文句があれば、自由にそれを訴えることもできるし、新聞社へ電話をかける自由すら与えられている。制限されるということがほとんどない。

 罪もない人を捕えたということは、あとで批難されるから、なにがなんでも有罪にするというのは、完全に間違っているんだよ。でっちあげこそ大きな犯罪なんだ。だから、裁判官が正しく判断できるように働けば、検察側の任務は充分なんだから、判断を誤るような証拠を提出してまで、人に罪を着せる必要なんてないんだ。  ことに、裁かれる側が無罪になると、検察側が控訴したりする。これくらいおかしなことも他にないだろう。現にポポロ事件では、一審二審共に学生は無罪になっている。それなのに、検察側は執拗に控訴している。この事件の争点のひとつは、学生が警官の警察手帳を取り上げたという点にあるんだが、いかにも犯罪のように見えるこの行為も、なぜそんなことをしたかという理由を調べてみればたちまちわかる。大学の中にのべつ警察官が入り込んでウロウロしている。断りなしに警官が侵入するようでは、学問の自由も、大学の自治もあったものではない。したがって違法に学内に立ち入った警官の行為を立証するために、学生が警察手帳を預かったとしても何の不思議もないことなんだ。権利や自由が不当に犯されている場合は、これを黙認すれば、自ら権利や自由を投げすててしまうことになる。第一審では「不当に犯されているときには、これに抵抗することが、憲法上の義務である」とされ、無罪だったんだ。検察側に控訴する権利があるというのは、どうにもうなずけない。

 だいたい、政府を相手にした裁判で、もし五分五分の立場だったら、一般の人は勝てない。ところが七分三分とか、明らかに国家のいい分が成り立たない場合は、裁判所もそれほど無茶な判決は下さない。だから、国民が勝った場合、つまり無罪という場合は、五分五分でない裁判に勝ったわけだから、検察側がそれを控訴するというのは、やはり行き過ぎではないかと思う。

 この裁判では一審・二審ともに無罪だったが検察が最高裁に上告。最高裁は、例によって論理破綻の屁理屈のような判決を下し、原審を破棄。再審理で被告人たちは有罪となった。そのときの最高裁の判決の要旨は次のようである。

1
 大学の学問の自由と自治は、直接には教授その他の研究者の研究、その結果の発表、研究結果の教授の自由とこれらを保障するための自治とを意味する。

2
 大学における学生の集会も、大学の公認した学内団体であるとか、大学の許可した学内集会であるとかいうことのみによって、特別な自由と自治を享有するものではなく、学生の集会が真に学問的な研究またはその結果の発表のためのものでなく、実社会の政治的社会的活動に当る行為をする場合には、大学の有する特別の学問の自由と自治は享有しないといわなければならない。

3
 大学の許可を受け、大学構内で松川事件に関する演劇を開き、一般の公衆が自由に入場券を買って入場ができるような状態にあった本件集会に、警察官が立ち入ったとしても、大学の学問の自由と自治を享有しない集会であるから、何ら違法ではない。

これをもっともな正しい判決だと納得できる人は、どのくらいいるだろうか。私は典型的な政治的判決以外のなにものでもないと思う。
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《『羽仁五郎の大予言』を読む》(12)

裁判は階級的である(4)

新宿騒乱事件(2)


 羽仁さんが挙げている第二の問題点は新宿騒乱事件の裁判において争点の一つとなった写真という証拠物件の問題である。

 第二の問題は、この事件の裁判は、すべて写真を証拠としているということにある。証拠というものは、誰が見ても納得できる明らかなものでなければならない。

 写真というものは、それを撮った人の位置や目的、立場などでまったく違ってくる。全体を正確に捉えることは不可能なんだ。石を投げてる人間の前から撮るのと後ろから撮るのとではまったく違ってくるし、石を投げるという行為でも、ただ投げているのと、人にぶつけようとしている場合と、建物へぶつけようとしているのとでは違う。しかし、正面から撮ればすべて同じに見えるだろう。また、日の出か日没かということでも、鑑定を専門家に依頼しなければならないくらいむつかしい。

 したがって一部分を切りとったような写真を証拠にすることくらい危険なことはない。

 沖縄の松永優君の場合を考えてみるがいい。写真を見たのでは、火だるまの警官を助けようとしているのか、暴行を加えようとしているのか判断がつかない。これを証拠とすること自体が間違っていることに気づくべきなんだよ。自分の方に都合のいい解釈ができるというようなものは、客観的に見て証拠にはなりえないんだ。証拠がそろわなかったら、起訴する必要はないんだよ。検察官にしても、われわれの税金で月給を貰ってるんだ。証拠のないものまで有罪にしなくちゃならないという制約なんてあるはずもない。むしろ疑わしきは罰せずという立場に立つことこそ、公務員としての検察官、裁判官なりのあり方なんだ。それを無理矢理でっちあげて、あてにならない写真のような証拠で犯罪にしようとするのは、心得違いもはなはだしい。なぜ苦労してまで有罪にしなけりゃならないんだ。

 羽仁さんが例として挙げている「沖縄の松永優君の場合」とは、次の事件の裁判のことである(「ウィキペディア」を利用しています)。

 1971年11月10日、沖縄返還協定の国会批准を一週間後に控えた日、全沖縄軍労働組合、日本官公庁労働組合協議会、教職員組合など14万6500人の労働者が、返還協定批准阻止を訴え沖縄全土でゼネストを実施し、当日の沖縄は全島で麻痺状態となっていた。沖縄県祖国復帰協議会は那覇市内で県民大会を開催し、7万人がデモ行進に参加した。「11・10ゼネスト」あるいは「沖縄ゼネスト」と呼ばれている。

 なぜこのこのような大規模な激しい反対運動が起こったのか。沖縄の人々が切望していた日本国への復帰がアメリカ軍基地を県内に維持したままのまやかしものだったからだ。そのため未だに沖縄はアメリカ軍の基地問題で苦しめられている。

 なお、この沖縄返還では日米両政府間に密約が交わされていたことが周知の事実となっている。つい先日(7月14日)、西山太吉さんなどが起こしたそのときの密約文書の開示を求める訴訟に対して、最高裁は原告側の上告を棄却した。 まるで秘密保護法を適用したような典型的な政府援護判決だ(この問題については『「沖縄密約文書」不開示に 情報公開の立証責任とは?』が詳しく解説している)。

 さて、沖縄ゼネストの時、学生たちとの激しい攻防の中で警察官が一人死亡した。その殺害犯として染色家の松永優(当時24歳)さんが逮捕・起訴されたのだった。弁護側は「被告人は殺人ではなく、救助しようとして居合わせていただけだ」と反論した。一審では有罪判決(懲役1年 執行猶予2年)を受けたが、二審では弁護側の主張が通り「消火・救助行為」が認められ無罪判決が出され、そのまま確定している。

 写真を証拠とする裁判では冤罪を生み出す危険性が大きい。新宿騒乱事件での写真証拠は裁判では具体的にどのように扱われたのだろうか。

 さて、さっきの写真が証拠になりえるかということだが、能力的にいって非常にむつかしいんだよ。

 わかりやすい例をあげると、国学院映研事件というのがある。国学院大学の映画研究会が新宿の当日のデモを撮影に行って、記録映画に収めたんだ。検察側は、このフィルムを証拠として押収した。結局、違法だということでこのフィルムは証拠として採用されなかったんだが、警察の見解では、個人的に写された写真は証拠として押収できるというんだよ。ここで個人が出てくるのは、いわゆる報道写真やニュース・フィルムの問題があるからなんだが、新聞社などの報道関係が写したものは、讐察が押収することはできない。しかし、マスコミが写したものと、個人が写したものでは、どこが違うのかというと、そんな一線を画するようなことはできるはずもないんだ。

 新宿騒乱事件の証拠物件として、国学院映研のフィルムを押収したことは違法だということが第一審では決定したが、検察側が受け取りに行った弁護人に、なかなか返そうとしなかった。しかも、第二審の証拠品として、再び裁判所から押収令状を出させている。なぜこんなことまでするのかというと、犯罪を立証する方法が他にないからなんだ。少なくとも理論的には犯罪にならないことを、どうにかして有罪にしようというのだから、いろいろな無理が起こってくる。こうした権力側の無理が結果的には別の波紋を投げることになるんだ。

 学生が新聞社のカメラマンに暴行を加えるなんていうことが事件として起こるのは、手に入りさえすれば、報道写真でも何でも証拠にしようという考えが警察側にあることを学生たちは知っているからなんだ。すると、報道の自由そのものが脅やかされることになる。取材活動もできなくなってしまうんだ。

 しかも、写真には、証拠になりえないような側面かある。いわゆる危なっかしい証拠であって、一方的な見解も成り立つような客観性に欠けるものなんだ。したがって、写真を証拠にしないという原則があっていいくらいなのに、それしかないからということで、どうにでも証拠にしてしまう。警察側が写した写真はいくらもあるが、一方的な証拠と見なされる可能性が強い、そこで第三者が写したものが欲しくなる。いかにめちゃめちゃなことをやってるかがわかるような話なんだが、捕えた人が写真機を持っていると、フィルムを証拠として提出しろと迫まる。写した本人が犯罪に問われているんだから、自分自身がフィルムの中に写っているわけがない。証拠としても意味がないわけだよ。

 日活ポルノの裁判のときなんかも、証拠として、外国のポルノ映画のフィルムを見ようということになった。つまり識者たちに、日本のものと見較べてもらって、いろいろ意見を聞こうということになった。ところが、どこも提出してこない。弁護側に有利なフィルムを提供したりしたら、あとでどんな意地悪をされるかわからないから、どこも出さなかった。しかも、自分たちにとって有利な証拠ならば、警察は喜んでそれを裁判に提出するのに、不利になりそうなものは一切使わない。つまり、公平な裁判なんか行なわれていないんだよ。警察が用意する写真やフィルムは、まずアテにならないといってもいいすぎじゃないんだ。いくらだってごまかすこともできるし、写真やフィルムが絶対的な証拠になんてなりえないはずだ。

 「日活ポルノの裁判」は一般には「日活ロマンポルノ事件」と呼ばれている。1972年に映倫が許可した成人向け映画が「わいせつ図画公然陳列罪」(何ともけったいな罪名だ)に問われ刑事裁判に発展した事件。起訴された被告は全員無罪になっている。
《『羽仁五郎の大予言』を読む》(11)

裁判は階級的である(3)

新宿騒乱事件(1)


 羽仁さんはまずはじめに新宿騒乱事件を取り上げている。それはどのような事件だったのか。矢崎さんがまとめている事件の概要記事を転載しよう。

1968年10月21日(国際反戦デー)
 この日全国で基地撤去、米タン阻止、沖縄奪還の統一行動が展開された。東京では、反戦青年委、中核派、社学同、ML派、第四インターなどが明治公園、日比谷野外音楽堂などで集会を開き、新宿駅、防衛庁へ向った。ことに新宿駅東口では、労働者や一般市民も混って、集会は約二万人にふくらみ、学生は駅構内を一時占拠するに至った。政府は事態を収拾するために騒乱罪を適用して、機動隊による徹底した弾圧を強行した。逮捕者は千人を越え、一般人を含む負傷者は次々と病院へかつぎ込まれた。一方、社学同は防衛庁、社青同解放派は国会へそれぞれ突入、革マル派は麹町署付近で機動隊と市街戦をやるなど、各所で血なまぐさい闘争がくりひろげられた。また総評を中心とする労働者は国労、動労が軍需物資輸送反対の一時間ストを行ない、明治公園で四万人の抗議集会を開いた。大阪では学生、労働者およそ五万人が御堂筋をデモで埋め、広島や九州の板付でも学生による基地反対の実力行動が行なわれている。

(もう少し詳しく知りたい方には『新宿騒乱事件の背後にも「ベトナム」』をお薦めします。)

 さて、政府(佐藤栄作内閣)は労働者・一般市民・学生たちによる全国的な抗議行動の一環である学生たちの新宿駅突入闘争に「騒乱罪」を適用した。1974年3月29日、羽仁さんはそのときに逮捕された学生たちの弁護側証人として法廷に立っている。この日はちょうど羽仁さんの73回目の誕生日であった。羽仁さんはこのような事件に対するときの基本的な認識を次のように語っている。

 ぼくは敗戦以前に二回、治安維持法被疑事件で逮捕され投獄された。われわれを治安維持法によって迫害した政府はその後、つまり敗戦によって、聞違いを犯していたことがはっきりした。戦争に反対し、平和を主張したわれわれの方が正しかったということが、実証されたんだ。こういうことは、もう二度と繰り返しちゃいけないというのがぼくの信念なんだ。国家が間違っていて、個人が正しいということがある以上、裁判所といえども、誤った判決をくだすという可能性があるということでもある。それは取り返しのつかないことだ。だから、誤りを犯しそうなことは、権力側は絶対にやってはならないんだ。

 ぼくが最初に捕まったのは1933年だが、このことは非常に勉強にはなった。もし、あの体験がなかったら、文部大臣にでもなって汚職していたかもわからない。とにかくああいう体験によってわかったことは、国家が誤りを犯すと、あとで取り返しようがないということなんだ。誤りを繰り返してはならない。そこで参議院へ立候補することにした。日本の政治そのものが誤りを犯さないように。その政治の背後には、裁判もあるし、警察もある。敗戦前のようなことを再びやらせないようにしようと考えたんだよ。それでなければ、ぼく自身の学問を棄ててまで政治家になろうとはしなかっただろう。

 人事委員をやったときに教育勅語を廃止した。紀元節もやめることにした。とにかく国民が望まないものは一切いらないという方針だ。敗戦後間もなくできた公務員法では、政治的自由も団結の自由も認められていた。いわゆる争議権も立派に認められていたんだ。ところが、1947年の2・1ゼネストで、占領軍司令官のマッカーサーが、日本の労働運動を利用するというこれまでの方針をひっくりかえして、さまざまな権利を労働者から剥奪した。公務員法の改正、つまり改悪が行なわれた。占領政策によって、すっかり歪められてしまったのだ。それが今もって続いている。

 日本が独立した自由な国家だったら、公務員の争議権というものがあって当然なんだ。国鉄などに争議権がないのは、こうしたいきさつからなんだが、今だにくすぶっている。ストが終ると処分、その処分に対して反対の意志を表明するとまた処分。いつまでたってもすっきりしないんだよ。

 つい最近、イギリスでも炭鉱労働者をはじめとするゼネストに近い争議が2ヵ月以上続いていたが、処分しようとした政府を世論が許さなかった。労働者が雇用条件について交渉するということは犯罪ではない、というんだ。どう考えても、そういう世論が出てきて当然なんだね。しかも、争議権そのものが、雇用条件以外のなにものでもないんだ。雇われる人間が自分の雇われ方についての条件を話し合いたいといっているだけなんだよ。これは犯罪じゃない。

 日本の保守政権が、今だに争議権を認めないでいるのは、きわめて階級的な考え方からだ。占領軍にオンブしてやってきた政治の名残りが根強くあるとしかいいようもない。

 それと経済闘争ならいいが、政治闘争はよくないという考え方がある。つまり、一般市民や労働者が政治的発言をしたり、政治的な行動をとったりすることを、ある種の犯罪であるかのような扱い方をする。政治というのは汚ないものだ、悪いものだというふうに見せかけて、政治には口を出さないことがいいことであるかのように、ずっと封建時代からされてきているんだ。ヨーロッパでもルネッサンスまではそうだった。政治はお上にまかせておけばいいということで、どんどん悪くなってきた。

 マキャベリがルネッサンスのときになかなかいいことをいっている。マキャベリというと君主主義者と思ってる人がいるようだが、この人は共和主義者なんだ。彼は「静かな状態というのは社会が死んだ状態だ」といっている。生きている状態というのは「動乱状態にあることだ」というんだね。明治維新の自由民権派の植木枝盛という人は、ドンドンパチパチやるのだけが戦争じゃないっていうんだ。そうした状態のときより、国民がものもいえなくなって黙っちゃった状態の方がはるかに悪いというんだ。本当の生きた社会というのは、反対の意見をどんどんいって、政治上の争いが活発にあって、それで均衡が保たれているのが平和な社会なんだといっているんだよ。この二人の言葉は、きわめて似ている。この点を考えてみると、新宿騒乱事件の裁判ともかかわってくる。沈黙を強いられるような社会は、死んだ社会だということ。生きた社会にあっては、動乱的なことは、しばしば起こり得ることであって、それは、いささかも犯罪ではない。

 それと、公共の迷惑とか公共の福祉とかいうことで基本的人権の主張をしりぞけようという動きがあるが、これもおかしなことだ。公共の福祉が基本的人権に優先するわけがないんだよ。上のものを下のもので制限するという妙なことになっちまうんだ。そんなことができるはずがないじゃないか。まず基本的人権というのをしっかりと確立しておいて、それからあとで、公共の福祉というのがあるんであって、公務員法は論理の矛盾をすでに犯しているんだ。

 羽仁さんは新宿騒乱事件の根底には二つの問題点があると言う。第一点は次のようである。

 新宿騒乱事件というのは1968年10月21日に起きている。この1968年というのが大事なところなんだ。パリでは五月革命が起きて、カルチエ・ラタンが占拠された。アメリカではコロンビア大学が学生に封鎖され、イギリスでは最高のレベルにあるロンドン・スクール・オブ・エコノミクスが学生の手で粉砕された。日本では日大闘争、東大闘争といった大学闘争が活発になっている。この年に起きた事件だということが実は大切なことなんだよ。

 そのころ新宿を“米タン”つまりアメリカのタンクローリーが一日に7、8回通っていたんだ。一列車が十両編成くらい。満載しているのがジェッ卜燃料。国鉄は事故ばかり起こしていたのだから、非常に危険なことなんだ。もし衝突事故でも起きたら、それを救う方法なんてありはしない。新宿駅付近で爆発したら、三越だって伊勢丹だって、全部街ぐるみふっ飛んでしまう。そういう不安が新宿には常にあった。

 何のためにタンクローリーで燃料を運んでいるかといえば、あのベトナム戦争のためなんだ。それで、その米タンを阻止しようということで集会が開かれ、駅を占拠した。むろん法律だけを先に持ってくるならば、いかにも違法にみえる。しかし、理由を考えてみれば、米タン阻止は当然のことだった。それに現在では、ベトナム戦争というのは世界の歴史始まって以来の"汚ない戦争"だったことで知られている。批難の的になっている戦争なんだ。それをなぜ日本が援助しなければならないのか。日本の法律が、なにゆえにベトナム戦争を続けようとするアメリカを守ってやらなければならないのか。新宿騒乱事件の第一の問題は、そこにあった。

 アベコベ政権が目論む集団的自衛権は米タン輸送のような後援だけでなく、直接自衛隊をアメリカ軍の指揮下に提供しようとすることにほかならない。

 羽仁さんは「米タン阻止は当然のことだった」と述べているが、実際新宿騒乱事件の前年に米タンがいかに危険であるかを示す事故があったのだった。『新宿騒乱事件の背後にも「ベトナム」』から引用する。

 1967年8月8日未明、新宿駅構内で、同駅を出ようとしていた下り八王子行き貨物列車(20両編成)に同駅に入ってきた上り新宿駅行き貨物列車(19両編成)が衝突した。下り貨物列車はガソリンを、上り貨物列車は砕石を広くそれぞれ満載していた。衝突と同時に上り貨物列車の電気機関車が脱線し、はずみで機関車の機械室から出火。その火が、下り貨物列車のタンク車に引火した。タンク車はガソリンで満タンだったから、タンク車は大音響とともに爆発し、前後のタンク車にも燃え移った。衝突のはずみで線路づたいにこぼれたガソリンも燃え上がり、約300メートルにわたって火の手が上がった。一時は燃えさかる高さ約20メートルの火柱が、夜空を焦がした。

 この事故で、電車1185本が運休し、111本に遅れが出た。影響は首都圏の通勤客ら200万人に及んだ。衝突事故の原因は上り貨物列車の機関士、機関助士によるブレーキ操作のミスだった。

 事故を大きくしたのは、タンク車に満載されていたガソリンだったが、その正体は、米軍用のジェット機用燃料だった。引火点は40~50度。わずかの衝撃でも爆発する。こんな危険物を積んだ列車が、乗降客数日本一の新宿駅構内を分単位の過密ダイヤの合間をぬって運行されていたのだ。このことは、一般の市民には知らされていなかった。未明の列車衝突事故が、この事実を白日のもとにさらけ出したのだった。

 羽仁さんの分析の続きを読もう。

 騒乱は犯罪であるとあっさりいいきっていいものかどうか。それをさかのぼると、およそ革命というものはすべて犯罪だということにもなる。明治維新は、日本におけるひとつの革命だとされている。もし革命が犯罪ならば、明治維新もまた犯罪だったということになる。そうなると、われわれは封建時代へ逆戻りしなければならなくなる。

 ぼくがいいたいのは、革命の問題というのは法律では処理できないんだ。つまり、警察や裁判所でとやかくいえる問題ではないんだよ。しかも日本には現在戒厳令というものが存在していない。革命を押さえつけようという法的な根拠すらどこにもないんだ。

 まあ警察法の中に″非常事態宣言″というのがあるにはある。これは地域を限って、騒乱が起きた場合に、非常事態の宣言をやって集会その他の自由を一時的に制限するということだ。しかし、これにしても、次にくる国会にすぐかけて、承認を得なければならない。もし否決されれば、すぐ解除しなければいけないんだ。

 例をあげると、自分の家、またはごく限られた場所で赤ん坊が泣いているのを、一時的に抑えつけて黙らせることはできる。しかし、日本全国で赤ん坊が泣いているとしたならば、それはどこかおかしいのであって、誰にも抑えつけることも処理することもできないのだ。つまり政治上の問題を警察にゆだねてしまうことが大問題なんだよ。だから革命、または革命的行為を騒乱罪だというふうにたちまち犯罪だときめつけてしまう。これでは警察政治といわれても仕方がない。

 現代の日本には、いわゆる戦前にあったような内乱罪とか叛逆罪とかは認められていない。したがって政治の問題は政策で解決するしかないんだよ。反対者の主張も聞かなくてはいけない。民主主義は多数決だと思い込んでいる馬鹿な人が多いが、少数の意見が尊重されてはじめて多数決の意味が存在する。国会であらゆる意見が出され、その中で処理されなければならない。しかし、自分の意見が尊重されない場合、国民はあきらめなくてはならないのかといえば、あきらめる必要はまったくないんだ。国民にはデモによって抗議をする権利がある。デモを認めないというやり方は、反対党を認めない政治だ。それを独裁政治というんだ。

 岸信介は、国会に十万人をこえるデモが二ヵ月にわたって押しかけているというのに、なんら反省することなく、日米安全保障条約を強行してしまった。そのとき彼はなんといったか。

「人が集まっているのが珍しかったら、後楽園へ見に行け。後楽園には一年中人が集まっている」

 こんな放言を一国の首相がヌケヌケとやっている。デモを無視された国民は泣いているんだ。そのとき、こんなことをいってのけている、こんな相手に対しては、もっと強い抗議をしなければならないと、誰だって考えるだろう。それが革命へつながっていくんだ。

 するとたちまち騒乱罪の適用。政治で解決しなければいけないことを、できないからといって、警察権力を行使して国民を黙らせようとする。どっちが犯罪的かを考えてみたらいいんだ。

 新宿騒乱事件の根本には、反対意見に耳を貸そうとしない国家権力の独断がひそんでいる。このことを忘れてはならない。

 実は岸信介は自衛隊の出動させようとまでビビっていたが、時の防衛庁長官・赤木宗徳の強い反対で断念している。今、祖父に心酔している孫が民意無視のアベコベ政策を強行している。そういえば、自民党の石破幹事長が「秘密保護法反対デモはテロと同じ」なんて言っていた。まともな議論抜きで強行採決をする手法こそ国会テロだろう。
《『羽仁五郎の大予言』を読む》(10)

裁判は階級的である(2)

1947年~1956年の履歴


 羽仁さんは第一回の参議院議員選挙に出馬し、当選して参議院議員を務めている。その期間中の羽仁さんの履歴を、議員活動を中心にたどってみた。

 「《『羽仁五郎の大予言』を読む》(1):羽仁五郎とは何者か」で戦前の履歴を紹介しているが、戦前戦後を通して、被支配階級への優しいまなざしと支配階級への厳しい批判の姿勢を変わることなく貫き通していることが分かる。また、多くの論文・著作(履歴では割愛した)を書きながらの、その広範な活動には驚嘆する。

1947年(46歳)
 4月20日に行なわれた第一回参議院議員選挙に全国区無所属で立候補し、11,4322票 を得て第58位で当選する。院内交渉団体として「無所属クラブ」を組織、文化委員会、文教委員会に所属、また参議院国会図書館運営常任委員長に選出され、国会図書館の創設に当たる。
 5月、朝日新聞社主催で行なわれていた全国大学、高等専門学校学生の討論会「朝日討論会」の審査員として同社の討論会報告『討論―理論と実際』に「討論とは何ぞや」を寄稿。
 7月、片山内閣の一般政治方針に対し、参議院無所属クラブを代表して代表質問を行なう。
 11月、日本の地下政府について参議院で緊急質問を行なう。

1948年(47歳)
 2月、国立国会図書館法案が国会で満場一致で可決される。法案に付された前文の中に羽仁五郎が加えた「真理がわれらを自由にする」という句は、のちに国会図書館の正面の壁に刻まれた。国立国会図書館の館長に哲学者中井正一を推選したが、金森徳次郎館長、中井正一副館長と決定される。
 5月、参議院文教委員会で教育勅語廃止を要求して発言、討論する。
 6月、4月の東宝争議支援を目的として日本文化をまもる会が労働組合、文化団体、社会党、共産党、文化人らで結成され実行委員長を引き受ける。福沢諭吉の伝記映画の企画が機縁で東宝の砧撮影所では1年ほど「裸体芸術論」などの講義をしていた関係があり、争議団の応援に講演に行く。
 7月、民主主義擁護同盟の創立に参加、幹事として活動する。7日から11日の第三臨時国会で提出された国家公務員から争議権、団体交渉権を奪う国家公務員法改訂法案に参議院人事委員として反対討論を行ない、会期切れ直前まで演説したが可決される。
 12月、第一回の日本学術会議会員の選挙で会員に選ばれる。

1949年(48歳)
 羽仁五郎の論文を含む『改造』新年号が占領軍の検閲により発売禁止処分を受ける。
 1月、日本学術会議に学者の戦争責任についての態度表明を要求、起草委員には参加できなかったが、1月の第一回総会で戦中の「反省」と思想・学問の自由確保の決意を盛りこんだ声明が発表される。
 4月、学術会議での努力が実り常置委員会として「学問思想の自由の保障の委貝会」が設置されたので第一部選出の委員として参加、さらに互選の結果委員長に選出される。
 5月、行政機関定員法案とそれに基く行政整理案に参議院人事委員会で反対し、本会議でも反対討論に立つ。
 11月、基本的人権と講和問題について参議院本会議で緊急質問を行なう。
 12月、日本太平洋問題調査会が国際太平洋問題調査会日本支部として復帰を承認され、ひきつづき常任理事に留まる。

1950年(49歳)
 1月、第七回国会での政府の講和方針を含む一般政治方針に対し参議院本会議で代表質問、国民はすべてを知る権利があることを強く訴える。同月、平和問題談話会の「講和問題についての声明」に参加。
 4月、選挙の自由を制限する公職選挙法案に対し、参議院で修正案を提出したが少数で敗れる。
 6月4日の第二回参議院選挙に再び全国区無所属で立候補し第36位で当選、6年議員となる。
 11月、サンフランシスコ平和条約および日米安全保障条約に反対して参議院の外務、法務連合委員会や本会議で討論を行なう。

1951年(50歳)
 4月、サンフランシスコ講和会議を前に、ソ連、中国などを敵視する平和条約や実質上の軍事同盟である日米安保条約を批判し反対運動に尽力、『世界十月号』の「単独講和と野党の主張」で発言する。

1952年(51歳)
 1月、第十二回国会演説の草稿を「議会より」と題して雑誌『世界』に寄稿。  3月、東大ポポロ事件をとりあげた参議院法務委員会の中心となって警察権力の乱用の不当と大学における学問の自由の重要性を世論に訴える努力をする。
 4月、参議院本会議で破壊活動防止法案に対する質疑を行なう。
 5月、参議院法務委員会で破防法案に対する総括質疑、さらに6月、逐条審議の中で質疑を行ない、6月19日法務委員会の破防法案採決に当たっての討論で賛成派を動揺させ予想を逆転否決に成功する。
 7月の本会議でも質疑および最終の反対討論を引き受けて奮闘したが、採決では敗れ破防法は通過成立した。
 12月、羽田発空路パリ、ブリュッセル経由でオーストリアのウィーンに入り、諸国民の平和のための大会に、パブロ・ピカソ、郭沫若、ジョリオ・キュリー、ショスタコヴィチらに混って参加、大会議長団の一人として活動する。大会終了後チェコスロヴァキアのプラアグに入る。

1953年(52歳)
 1月16日、プラアグ発、ベルリン、フランクフルト、ボン、マアルブルク、ハイデルベルク、コペンハーゲン、ロンドン、パリ、ジュネーヴ、ベルリン、ルツェルン、ローマ、ナポリ、チュリヒと廻り、再びプラアグに入り、3月16日ウィーンに戻る。この間各地で国立国会図書館建設のため図書館を視察したほか、30年前学生生活を送ったハイデルベルクを訪れ、またナポリではクロオチェの遺族を弔問。またロベルト・ロッセリーニやピカソを訪ねる。  3月16日、ジョリオ・キュリー、イリヤ・エレンブルク、ピエトロ・ネンニ、茅盾、モニカ・フェルトンらとウィーン平和大会の「破滅的戦争の危険となるおそれのあるすべての国際紛争の平和的解決の方向を発見するための五大国平和会談」を要請する決議の実行委員会に出席、討論の中で日本の困難な状況を説明する。
 4月9日、日本の問題とチェコの印象についてプラアグ中央放送局からドイツ語で放送する。4月から5月にかけて、ソ連平和委員会の招きでソ連に入り、モスクワ、レニングラードなどを訪問中、5月17日、盲腸炎で入院、手術を受け健康を取り戻して、6月、ハンガリーのブダペストで開かれた世界平和理事会に出席、理事に選出され、7月にはウィーンで開かれた世界教員大会に出席し、羽仁説子を助ける。
 7月25日、羽仁説子らとオーストリア国営ラジオ放送に出演した後、チューリヒ、ローマ、フィレンツェを廻り、8月9日ローマを出発し帰国。
 帰国後、日本学術会議会員に再選される。

1954年(53歳)~1955年(54歳)
(論文・著作物の記録だけなので略す)

1956年(55歳)
 4月6日、超党派議員38名の一人として死刑廃止のための「刑法等一部改正案」を提出する。『世界』三月号・四月号に[死刑廃止論]を連載、またラジオ放送などでも世論に訴え、運動の理論的支柱となる。
 6月、参議院議員選挙に三度全国区無所属で立候補したが、このころから、大組織中心の票のいわゆる組織化が進んで無所属の知識人に不利となり、前回より約二万五千票多い二十二万票を得たにもかかわらず、第62位で落選する。
 胃潰瘍のため、静養する。

 1947年11月の項に「日本の地下政府」という言葉が出ている。聞いた記憶があるのだが、詳しいことは思い出せない。改めて調べてみた。「旧軍幹部の「新日本軍」構想」を利用させていただく。

 羽仁さんが1947年に取り上げているが、その頃は機密事項だったようだ。たぶん政府はそのような組織の存在は全くないと、ノラリクラリと答弁したのであろう。

 事の真相は機密解除された米公文書により明らかになった。2006年のことである。2006年8月28日付の東京新聞が次のように伝えている。

『新日本軍』計画 幻に

【ワシントン=共同】
 旧日本軍幹部が太平洋戦争後の1950年前後、「新日本軍」に相当する軍組織の設立を独自に計画していたことが20日、機密指定を解除された米公文書で判明した。構想は連合国軍総司令部(GHQ)の了解の下で進み、河辺虎四郎元陸軍中将(故人、以下同)らが立案。最高司令官には宇垣一成元大将(元陸相)を想定しており、当時の吉田茂首相にも提案していた。

 戦後史に詳しい複数の専門家によると、服部卓四郎元陸軍大佐ら佐官クラスの再軍備構想は知られているが、河辺氏ら将官級による新軍構想は分かっていなかった。毒ガス隊など三部隊の編成を目指した河辺氏らの構想は最終的に却下され「幻の計画」に終わった。

 文書は、GHQや中央情報局(CIA)の記録を保管する米国立公文書館で見つかった。

 河辺氏の経歴や活動を伝える秘密メモによると、河辺氏は警察予備隊発足前の50年2月ごろ
(1)毒ガス隊
(2)機関銃隊
(3)戦車隊
からなる近代装備の「警察軍」構想を立案。

 51年に入ると宇垣氏を「最高司令官」に、河辺氏を「参謀総長」に充てることを「日本の地下政府が決定した」と記載している。

 「地下政府」は、公職追放された旧軍幹部らが日米両当局にさまざまな影響力を行使するためにつくったグループを指すとみられる。

 しかし河辺氏らの構想は採用されず、GHQのマッカーサー最高司令官は朝鮮戦争発生直後の50年7月に陸上自衛隊の前身である警察予備隊の創設を指示。再軍備を通じた旧軍将官の復権は実現しなかった。

 敗戦直後から、アメリカ占領軍の犬として、大日本帝国のゾンビたちがうごめき始めていたのだ。日本は未だにアメリカの属国である。いまアメリカはオスプレイの厚木や横田への常駐を目論んでいるが、日本全土をアメリカの基地だと考えているようだ。

 1951年、吉田内閣の時に締結された(旧)日米安保条約でのアメリカが目論んだ最重要事項は「望むだけの軍隊を、望む場所に、望む期間だけ駐留させる権利」(ダレス)だった。1960年に岸内閣よって改定された日米安保条約も米国の一方的な基地占有を固定化したものでしかない。アメリカの「望むだけの軍隊を、望む場所に、望む期間だけ駐留させる権利」が今も生きているのだ。

<追記>
 東京新聞の記事中に
「服部卓四郎元陸軍大佐ら佐官クラスの再軍備構想は知られている」
とあるが、これについては「再軍備はどのうよに行われてきたのか」の中の二番目の記事「警察予備隊の実体」で取り上げていた。
《『羽仁五郎の大予言』を読む》(9)

裁判は階級的である(1)

過去の判例二つ


今回から「第二章 裁判は階級的である」を読むことにする。

 「裁判が階級的」であるのは、裁判官が第三権力の一角を担う官僚なのだから、ブルジョア民主主義国家では当然のことである。特に行政訴訟において公正な裁判など期待できない。憲法を無視した判決のオンパレードである。ほとんどの裁判官がヒラメなのだ。それでも、わずかながらも憲法に則った判決を心がけるまともな裁判官がいる。二例だけ挙げてみる。

 まずは、アベコベ政権が集団的自衛権容認は憲法違反ではないという詭弁の論拠にしようと取り上げた砂川事件の判決。その判決の経緯はおおよそ次のようである(「昭和の抵抗権行使運動(40):第二次砂川闘争」から転載する)。

 第一次砂川闘争は「勝利」を勝ち取ったが、これで終わったわけではなかった。翌年1957年6月から7月にかけて、占領時代に接収された基地内の土地について軍用地料を確定するための測量が計画され、反対同盟と支援者による阻止闘争が組まれた。このときフェンスを越えて基地内に立ち入った労働者・学生が事後逮捕を受け、安保条約に基づく刑事特別法違反で訴追された。この裁判の第一審で下されたのが有名な「伊達判決」である。
1959年3月
 東京地裁は安保条約を「違憲」とし、違憲な条約に基づく刑事特別法違反の行為は罪を構成しないとし、被告に無罪を宣告した。

 しかし、折からの新安保条約国会審議への影響を恐れた検察側は最高裁に飛躍上告、原判決は破棄されて被告は有罪となった。最高裁が法に基づいた判断を放棄し、臆面もなく政治的な判決を下すのは今に始まったことではなかった。日本には真の三権分立など、あったためしがない。

 アベコベ政権が最高裁による飛躍上告の判決文を取り上げたおかげで、その判決の裏情報を多くの人が知ることとなった(今まで私も知らなかった)。例えば、東京新聞(2014年6月18日 朝刊)の『砂川事件 再審請求 元被告ら「公平な裁判侵害」』という記事の中に次のような記述があった。

『再審請求書によると、逆転有罪を決定づけた59年12月の最高裁大法廷判決をめぐり、田中長官は事前に駐日米大使らと非公式に三度面会。一審無罪判決を破棄する見通しや審理日程、判事15人の全会一致を導く意向などを伝えていた。』

 少し詳しく知りたいと思いウィキペディアを読んでみた。ウィキペディアによると、これは機密指定を解除されたアメリカ側公文書を用いて、2008年から2013年にかけて明らかにされた事実だという。その中の一節を転載する。

『ジャーナリストの末浪靖司がアメリカ国立公文書記録管理局で公文書分析をして得た結論によれば、この田中判決はジョン・B・ハワード国務長官特別補佐官による“日本国以外によって維持され使用される軍事基地の存在は、日本国憲法第9条の範囲内であって、日本の軍隊または「戦力」の保持にはあたらない”という理論により導き出されたものだという。当該文書によれば、田中は駐日首席公使ウィリアム・レンハートに対し、「結審後の評議は、実質的な全員一致を生み出し、世論を揺さぶるもとになる少数意見を回避するやり方で運ばれることを願っている」と話したとされ、最高裁大法廷が早期に全員一致で米軍基地の存在を「合憲」とする判決が出ることを望んでいたアメリカ側の意向に沿う発言をした。田中は砂川事件上告審判決において、「かりに…それ(駐留)が違憲であるとしても、とにかく駐留という事実が現に存在する以上は、その事実を尊重し、これに対し適当な保護の途を講ずることは、立法政策上十分是認できる」、あるいは「既定事実を尊重し法的安定性を保つのが法の建前である」との補足意見を述べている。古川純専修大学名誉教授は、田中の上記補足意見に対して、「このような現実政治追随的見解は論外」と断じており、また、憲法学者で早稲田大学教授の水島朝穂は、判決が既定の方針だったことや日程が漏らされていたことに「司法権の独立を揺るがすもの。ここまで対米追従がされていたかと唖然とする」とコメントしている。』

 伊達判決は1959年3月30日。最高裁判決は同じ年の12月16日。宗主国さまの意向に沿うべくまともな議論抜きで超スピードの逆転判決。属国の最高裁の面目躍如といったところ。

 さて、砂川事件の一審判決は安保条約、つまりは米軍基地の存在を違憲とする判決だったが、自衛隊を違憲とした裁判もあった。1973年の長沼ナイキ基地訴訟である。この訴訟のあらましは次のようである。

 北海道夕張郡長沼町に航空自衛隊の「ナイキ地対空ミサイル基地」を建設するに当たって、農林大臣が森林法に基づき国有保安林の指定を解除する通達を出した(1969年)。これに対し反対住民が基地には公益性ないとして保安林指定解除の取消しを求めて起こした行政訴訟である。一審の福島重雄裁判長は「自衛隊は憲法第9条が禁ずる陸海空軍に該当し違憲である」とし、「保安林指定解除」は無効と判決した。この判決の根幹は「平和的生存権」であった。これに対して、二審の札幌高裁は「統治行為論」を盾にして一審判決を破棄した。原告は上告したが、最高裁は違憲問題は棚上げして「原告に適格がない」として上告を棄却した。

 砂川事件の一審の伊達秋雄裁判長は、冷遇されたためか、あるいは司法府の体質に愛想を尽かしたためか、定かではないが、1961年に退官して弁護士を開業した。「外務省機密漏えい事件(西山事件)」の弁護団長を務めている。後に法政大学の法学部教授となり、法学部長を勤めている。

 長沼ナイキ基地訴訟の一審の福島重雄裁判長は東京地方裁判所、福島家庭裁判所、福井家庭裁判所と左遷され続け、1989年8月31日定年前に退官している。

 ここで思い出したことがある。ヒラメでないと出世できないのは裁判官だけではない。「「大化改新」の真相(3)」で書いた一文を再掲載しておこう。

 「若い諸君」の中から気骨ある真の学者が出てくることを期待したいがどうだろうか。難しいだろう。学会とは徒弟制度の社会のようだ。指導教授の学説に反する研究を発表すると、その学者は将来出世できないといわれている。古代史学会だけの話ではない。

 水俣病を告発し、問題を社会に知らしめる発端を作った宇井純さんはついに「万年助手」に据え置かれたままだった。早くから原発の危険性を強く指摘し続けていた京都大の今中哲二さんは研究費でも差別を受け、助教授止まりでそれ以上の出世を阻まれているという。

 大学だけのことではない。「君が代・日の丸強制」反対裁判に見るように、憲法判断を要する裁判では、ほとんどの裁判官が最高裁判例追認の判決しか出せない。その最高裁判例が行政追随・憲法無視の判決なのだ。それに逆らうまともな判決をすると、地方に飛ばされたりして、将来も出世はできないようだ。「予防訴訟」裁判であの画期的なすばらしい判決を出した難波裁判官はその後どうなっただろうか。ネットで調べたら「熊本地方裁判所長、熊本簡易裁判所判事」とあった。

 マスコミの世界もそうだ。経営者の意向に反する作品や記事は没にされてしまう。御用記者がはびこり、まともなジャーナリストは少ない。

 いたるところに根を張っている旧態然とした社会システムの根本的な変革がないかぎり、本当の学問・言論・思想の自由は絵に描いた餅でしかない。暗澹とした気分になる。

今日の話題

アベコベ軽薄姑息うそつき政権の暴挙

 前回(《『羽仁五郎の大予言』を読む》(8))は
「全くの視野狭窄に陥っているアベコベ傀儡政権は7月1日にも集団的自衛権行使容認の閣議決定を強行しようとしている。私たちの闘いは厳しく長くなりそうだ。」
と言う文章で締めくくったが、昨日予想通り憲法違反の閣議決定が行われた。これに対して多くの識者がコメントを出している。東京新聞でも「本音のコラム」が「集団的自衛権行使容認に物申す」と題して、執筆者全員のコメントを掲載している。その中から、私がこれまでに書いてきたアベコベ軽薄姑息うそつき政権についての記事と最も共鳴していると思える二つを紹介しよう。

代償は大きい
     齋藤美奈子(文芸評論家)

 しまった。解釈改憲なんてマヤカシの用語をいわれるままに使うんじゃなかった。集団的自衛権の行使とは「大国と結託して他国に 戦争をしかける権利」のことだと、もっとハッキリいうんだった。

 政府与党は憲法九条の解釈を変えたのではない。九条を「廃棄処分」にしたのである。
 それでどうなるの?
 ①国内の都市がテロの標的となる。
 ②テロ対策に莫大な予算と人員が割かれる。
 ③必然的に福祉予算は削減される。
 ④海外、特に中東での企業活動や非営利活動がしにくくなる。
 ⑤対中、対韓関係はさらに悪化し、東アジアの緊張が高まる。
 ⑥自衛隊員に戦死者が出て、士気が下がる。
⑦応募者が漸減し、徴兵制が現実味を帯びる。
 ⑧デタラメな法の解釈を許した以上、もう法治国家ではない。
 ⑨国民の合意なく決定した以上、国民主権はないも同然。
 ⑩学校で教える憲法の三原則もうそになる。

 半世紀以上かけて築いた「戦争をしない国」のブランドをむざむざ捨てた代償は、私たちに跳ね返ってくる。どこか遠い戦地の話じゃないのである。

 「テロ対策に莫大な予算と人員が割かれる」だろうが、どのような対策を立ててもアベコベ政権がのほほんと再稼働を目論んでいる原発に対するテロなどは防御できないのではないか。また、テロ対策もさることながら、アメリカ軍に貢献するために軍拡路線を突っ走れば、日本は経済的にも破綻するだろう。「ミニ経済学史(48)」で「アベコベミクスはまるでレーガノミクスの轍を踏んでいるようである」と書いたが、それが真実味を帯びてくる。

 レーガンは富裕層中心の減税と、福祉・医療・教育予算の大幅削減を行い、さらにその上で
「アメリカの軍事力は弱体化しており、このままではソ連の攻撃に対抗できない」
「今われわれは、真珠湾後の日々よりも大きな危険の中にいる。アメリカの軍隊はこのままでは無力で、この国をまったく守ることができない」
といった作り話を根拠に、国防費増額を強く訴えた。そして、大軍拡を行い、財政支出を際限なく膨らませてレーガノミクスを破綻させた。まるでアベコベ政権と瓜二つではないか(「ミニ経済学史(20)」を参照して下さい)。

追記(7月4日)
 日刊ゲンダイが軍事費増大の懸念を取り上げていた。「国民負担15兆円 集団的自衛権行使で防衛費が増大する」と題する記事です。


 さて、閣議決定されたからといって、勿論あきらめるのはまだ早い。

事態変えられる
       山口二郎(法政大教授)

 日本には「泣く子と地頭には勝てぬ」ということわざがある。安倍首相は、泣く子がそのまま地頭になったようなものである。集団的自衛権の行使を正当化する閣議決定は、それを必要とする新たな問題に対処するものではない。安倍首相が駄々つ子のように
「僕、これ欲しいんだもん」
と言い張って、決められた。

 だから、論理は皆無である。政府与党は、集団的自衛権が必要となる理由を一応あげて、国民を説得しようとした。それらの事例なるものはことごとく机上の空論であり、詭弁である。そのことをわれわれが指摘し、集団的自衛権は有害であることを論証しても、相手は泣く子である。いくら道理を言い聞かせても、無駄である。

 しかし、諦めるわけにはいかない。泣く子と地頭には勝てぬとは、権力に従順な日本の政治文化を表している。今こそそんな文化を変えなければならない。閣議決定をされても、本当の政策転換はこれからである。長い戦いが続く。安倍首相が単なる泣く子だということを国民に理解してもらえば、事態は変わる。

 前回で私は
「<国家を開く>とは、言い換えれば<真の民主主義を確立する>ことである。その道は、労働運動も市民運動も、そして地方議会も、さらにそして私たちの日常生活においても、この観点から独占資本の傀儡政府を監視し、異議を唱え続けるほかにはないと思う。」
と書いたが、まさに<国家を開く>という抵抗運動を強めていくほかない。主権在民であることを思い知らせてやろう。