2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
ミニ経済学史(45)

現在の経済学は?(23):欠けている視点(9)


吉本隆明の「歴史的産業構造の転換」論(7)

 教科書(c)『貧困と思想』で、吉本さんは非常に目立つ形で拡大してきている「富の蓄積の不均衡」とそれと比例して蔓延している「精神障害」を指摘して、現状を「第二次産業革命」と呼んでいる。そして
「病気のことと、拡大する産業規模をどこで止めるか、止められるか、あるいは他に抜け道があるのかということを考えることが今の課題だ」
と指摘している。しかし、その課題に対する具体的な施策の提案は教科書(c)にはない。そこで、年代は数年さかのぼるが教科書(b)『「ならずもの国家」異論』を読んでみることにした。

 マスコミが伝える景況判断は主要企業の首脳たちにアンケートして得た景況感などを判断の材料にしている。現在「アベコベミクスによって景気が回復しつつある」といったたぐいのニュースが垂れ流され続けているが、すべて主要企業に軸足を置いた景況判断である。これに対して吉本さんは
「わたしの判定法は家計のなかで個人消費が先月より増加しているか、前年の同じ月より増加しているかで簡単に判断する。」
と言い切っている。あくまでも一般庶民の立場に立った思考を貫いている。私も一人の庶民としての感覚を元に経済を考えているので、吉本さんの論考には同意するところが多い。反面、どうしても「支配の補助学」としての経済学への違和感を払拭できないでいる。

 さて、教科書(b)が執筆されたのは2003年頃で、小泉悪政の真っ最中である。その頃の景況判断はいわゆる「イザナミ景気」と呼ばれていて、一般には景気が回復しているとされている。しかし、これは庶民的な景況判断とはまったく相容れない。教科書(c)に『「景況判断」異論』という章がある。次のように書き始められている。

 いまの政府のやり方は現実に即しているように見えながら、いちばんだめだというか、いちばん空想的だとおもいます。

 政府のやっていることはこうです。まず金融機関から不良債権を取り除いて、心細い金融機関は合併・合同させて政治的に動かしやすいようにする。景況判断とか産業対策を論議する場合でも、自動車とかハイテクとか、相変わらずそんなことばかりいっています。 そこを景気よくすればいいんだという考え方しかできていません。だから出てくる名前はいつもトヨタとか日産とかソニーです。

 要するに、経済専門家というかエコノミストは、そういった企業の景気をよくすればいいんだというわけです。ぼくは自動車がどのくらいの期間が過ぎたら廃車にされるのかよく知りませんけれども、自動車やトラックがもし長持ちするものなら、そんなところを刺激する景気対策なんて意味がないわけです。無意味です。それなのになぜそんな論議ばかりしているのか。トヨタや日産といった大企業を怒らせないようにしているだけじゃないか。もちろん一個一個の商品とすれば車は値段が高いわけだから景気問題に大きな意味を もつといえば格好はいいわけですが、本当はそうではない。車が五年でも十年でも長持ちするものだったら、そんな業種の成長を論じても意味がないわけです。でも、いまの論議は全部そうなっています。ハイテクでもひじょうに需要が多い大企業を主体に論じているし、自動車だってトヨタや日産を主体に論じています。それは意味ないよとおもいます。もちろん国民総生産に対しては大きな影響力をもつかもしれないし、たしかに大企業なら大企業が盛んになればいいわけでしょうけれども、そんなの、日産やトヨタにお世辞つかっているだけじゃないかといいたくなります。

 これはちょっと余談になりますが、テレビなどを見ていると、政府や大企業の政策や方針をなぞっているような意見をよく耳にしますけれども、ああいうのはまったく意味がないとおもいます。何か発言するというのは、政府や大企業の方針をトレースすることではなくて、これはいっておかないとだめだぜとおもえるようなことを表明することなんです。そういうことがないなら何もいわないほうがずっとましです。

 現在のアベコベミクスを巡って行われている議論レベルも10年前とほとんど変わらない。こうしたマスコミの主流議論に対して、吉本さんは中小企業と一般庶民の方に目を向ける。

 いま、実質的に大きな問題をかかえていて、早い時期から不況の影響を受け、さらに受けつづけているのは中小企業です。じっさい2002年に1万8千件もの倒産があったのは先に見たとおりです。また、自己資本比率を上げようとする大銀行の煽りを食らって「貸し渋り」「貸し剥がし」の影響をもろに受けている。中小企業が大金融機関の自己資本比率達成の犠牲になるなど、明らかに本末転倒です。この問題をどうするのか。

 国民一般のふところぐあいも重要です。これまではボーナスがいくら出たなんていっていたのが、それが出なくなってしまったとか、あるいは毎年昇給があったのにそれもなくなっちゃったとか、そういうことがつづいている。これは大きな問題です。景気にもいちばん響くはずです。

 ところが、テレビを見ていても新聞を読んでいても、そういう論議はすこしも出てこない。別に小さい会社だから援助しろとか、国民一般だからすこし緩くしろといいたいわけではありません。不況がじかに響いてくるのはやっぱりそこなのだから、そこから目を離しちゃだめだということなんです。逆にいえば、中小企業の生産が多くなったとか、あるいは個人消費が目に見えて上がったということのほうが、大企業の動向より景気に対しては大きな影響を与えるわけです。

 じっさい、就労人口の7割は中小企業で働いているのです。そして中小企業は日本全体の生産の6割、流通の8割を担っている。景気問題では、大企業より中小企業のほうが重要な要因になっているのです。

 大企業の利潤が増えたとか減ったということより、中小企業の景気がよくなったとか、個人のふところがちょっとでも温かくなったということのほうが大きな影響力をもっている。そこがよくなって、気分的にも消費がたやすくなったとか、町にいい製品が出回るようになったということのほうが大事なんです。

 中小企業の設備投資や国民一般の個人消費を増やすことが経済的な不況から脱するいちばんの早道であるし、社会全体つまり国民総生産に対してもいちばん有効な手段だというのは自明なことなのです。だから、そういう論議を真っ先にすべきだし、またそういうところへの援助を真っ先に実行すべきだとおもいます。

 大きな問題としてはリストラがあります。リストラされる員数を減らすことが経済に対しても大きな影響があるのに、企業はそうした努力をまったくといっていいほどしていない。逆に、どんどんリストラの員数を増やしている。そんなリストラによって企業が正常になったとか、赤字から脱したといっているのは、全然見当違いです。人を削ってバランスーシートが好転したからといって、そんなのは威張れた話じゃありません。

 公的な投資や援助をして、リストラの員数を減らしたほうが経済全体に対しても好影響があるのは自明のことなのですから、目を細かくして、気配りも細かくして、早急に中小企業に資金援助をすることが必要です。資本金がいくらで利潤がこれくらい、従業員がこれくらいの企業にはこれだけの援助をする、それ以上の資本金・利潤・従業員のところにはこれこれだと、そんな金額をはじき出すことなど簡単なことですから、すぐにでもやるべきです。

 日本はもう、これくらいの援助をすれば景気は回復するんだという議論が出てこなくてはいけない時期にきているのです。

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ミニ経済学史(44)

現在の経済学は?(22):欠けている視点(8)


吉本隆明の「歴史的産業構造の転換」論(6)

 前回の引用文と重複する部分もあるが、現在の日本に対する吉本さんによる状況認識の要約として、全文引用する。なお、前回にも紹介したように、このインタビューは2008年に行われている。

 ここ3、4年、日本社会は表面ではなく底の方で地殻変動を起こしている過渡期にあると僕は捉えています。どういうように変動しているかと言いますと、西欧先進国型の社会に向かっている。これは今まで言ってこなかったことですが、それが今の現状の最も根本的な原因であると思っています。色々な言い方があるのでしょうが、僕はこれを「第二の敗戦期」であると考えています。つまり、敗戦直後の数年間と非常に似ているなという感じ方もあるし、一般的には「第二の産業革命期」だという言い方もありますね。それはどちらで言っても、結局は同じことで、膨大に産業の規模が広がってモダンになっていった中で、儲ける方は、働く人が困り切ってしまうほどたくさん働かせ、しかし給料は多くないということが無自覚に過ぎた。それが産業革命期であり、終戦後の数年間でした。

 産業革命期に膨大に産業の規模が大きくなったのは蒸気機関のおかげだと、一般の経済学者たちは考えていたのだけれども、マルクスとエングルスはそうは言わなかった。彼らはあまりにも時間外に働かされるものだから、ロンドンでは肺結核が蔓延してきたことを指摘し、産業が拡大することが豊かな社会を実現させるとは言わなかった。彼らを真似て言うならば、今、肺結核の代わりに蔓延しているものは精神病です。第二次産業革命と言いたいならばそう言っていい規模になりつつある。何か人間の生活にとって障害になっているかと言えば、僕ならば精神病、精神異常、あるいは神経障害だと位置づけます。こうしたことに関しては、本当は専門家がちゃんと説明して、予防策を講じるべき時になっているのにもかかわらず、誰もが遠慮をしていると思っています。

 それから、産業革命と第二次産業革命では、通信交通機関の機械と装置の利用によって得る富の蓄積の不均衡が、非常に目立つ形で拡大してきている。これも非常に大きな問題だと思っています。病気のことと、拡大する産業規模をどこで止めるか、止められるか、あるいは他に抜け道があるのかということを考えることが今の課題だろうと思います。これは他の国がやるという気は全くしません。アメリカは儲ける方が大変だろうし、中国はやっと資本主義的な利潤の世界に入ってきたばかりです。こうした問題に対して、何か新しい、いいやり方を生み出せる格好の位置にあるのは、日本だけであると思います。そこは考えどころだろうということです。

 「第二次産業革命」という用語は吉本さんによる造語かと思っていたが、吉本さんは『一般的には「第二の産業革命期」だという言い方もありますね。』と言っているで、調べてみた。ウィキペディアによると
「産業革命の第二段階を表現するために、歴史家によって用いられる言葉である。通常、年代は1865年から1900年までと定義される。この期間にはイギリス以外にドイツ、フランスあるいはアメリカ合衆国の工業力が上がってきたので、イギリスとの相対的な位置付けでこれらの国の技術革新を強調する時に、特に用いられる。」
とあるので、吉本さんの使用する意味合いとはかなり異なる。吉本さんが用いる「第二次産業革命」は現在の日本の時代状況を示す言葉として吉本さん独自の概念と考えてよいだろう。

 吉本さんは「第二次産業革命」が引き起こした問題の核心は精神障害だと指摘している。昨日(5月18日)、この問題の核心を如実に示していると思われる事例に出会った。少し横道に入ります。

 東京新聞に毎日曜日、月刊『創』の編集長・篠田博之さんによるコラム『週刊誌を読む』が掲載されている。昨日の表題は『深刻な格差社会 増加する「無敵の人」』だった。全文引用する。

 『アエラ』5月19日号が「『無敵の人』と無差別犯罪」という記事を掲載している。私も取材に協力し、コメントが掲載されている。

 「無敵の人」という言葉をご存じだろうか。同誌が着目したのは、「黒子のバスケ」脅迫事件の渡辺博史被告が初公判の意見陳述で述べた一節だ。

「自分のように人間関係も社会的地位もなく、失うものが何もないからこそ罪を犯すことに心理的抵抗のない人間を『無敵の人』とネットスラングでは表現します。これからの日本社会はこの『無敵の人』が増えこそすれ減りはしません。日本社会はこの『無敵の人』とどう向き合うべきかを真剣に考えるべきです」

 渡辺被告は36歳だが、今まで定職に就いたことがなく、年収が二百万円を超えたことがないという。まさにこの10年で拡大した格差社会の落とし子なのだが、その世代がいま三十代後半を迎えつつあるのだ。

 将来にもう希望がないことを悟り、死ぬことを考えた。そして、成功者の象徴である人気マンガ「黒子のバスケ」の作者を道連れにしてやろうと起こしたのが、一連の脅迫事件だったという。

 それまで何かに燃え尽きる体験などなかったという渡辺被告にとって、警察に追われながら犯行を重ねた一年余は「人生で初めて燃えるほどに頑張れた」期間だったという。犯罪を遂行したら自殺するつもりだった。

 渡辺被告は自分の犯罪を「人生格差犯罪」と命名し、初公判での意見陳述で最後をこう結んだ。

「こんなクソみたいな人生やってられるか! とっとと死なせろ!」

 『アエラ』の記事は、このほか二月に名古屋駅近くで通行人に乗用車で突っ込んだ男性と、三月に千葉県柏市で連続殺傷事件を起こした男性も取り上げている。

 「無敵の人」。何とも恐ろしい言葉だが、今そういう人が増えつつあるのは確かだろう。

 渡辺被告は、他のマスコミと違ったスタンスで発信をしているという理由で、逮捕前から私に手紙を送ってきていた。先頃、彼の意見陳述をブログで公開したところ、人ごととは思えないという書き込みが相次ぎ、アクセス数は五十万を超えた。日本社会の閉塞状況は相当に深刻だ。

 私は「無敵の人」という言葉には初めて出会ったが、「黒子のバスケ」脅迫事件はある時期連日のように報道されていたので私の記憶にも残っている。「理解しがたいずいぶん奇妙な事件だなあ」という印象を持っていた。しかし、上の渡辺さん(渡辺さんの犯罪を問う場ではないから、あえて「さん」付けで呼ぶ)の意見陳述を読む限り、実に見事な自己分析をしているという感想を持った。

「病気のことと、拡大する産業規模をどこで止めるか、止められるか、あるいは他に抜け道があるのかということを考えることが今の課題だろうと思います。」
という吉本さんの問題提起と同じことを
「日本社会はこの『無敵の人』とどう向き合うべきかを真剣に考えるべきです」
と渡辺さんは訴えている。

 篠田さんが「彼の意見陳述をブログで公開した」と書いているので、それを読みたいと思い探してみた。ありました。

『「黒子のバスケ」脅迫事件の被告人意見陳述全文公開1』
『「黒子のバスケ」脅迫事件の被告人意見陳述全文公開2』

 これを読むと、渡辺さんの陳述の中に次の一文があった。
『いわゆる「負け組」に属する人間が、成功者に対する妬みを動機に犯罪に走るという類型の事件は、ひょっとしたら今後の日本で頻発するかもしれません。グローバル経済体制の拡大により、一億総中流の意識が崩壊し、国民の間の格差が明確化して久しい昨今です。日本は東西冷戦下の高度成長期のようなケインズ型の経済政策を採用する体制にはもう戻れないでしょう。格差が開こうとも底辺がネトウヨ化しようとも、ネオリベ的な経済・社会政策は次々と施行されるのです。』

 日本社会の閉塞状況も、政府のアベコベ政策も、正しく把握している。

 極めて健全にして明晰な思考力がある人がなぜ脅迫事件のような犯罪を犯してしまうのだろうか。渡辺さんは
「自分はサイコパスと呼ばれるタイプの人間なのかもしれません。」
という自己認識を披露している。

 「サイコパス=精神病質者」をウィキペディアで調べてみた。それによると
『サイコパスは社会の捕食者(プレデター)であり、極端な冷酷さ、無慈悲、エゴイズム、感情の欠如、結果至上主義が主な特徴で[2]、良心や他人に対する思いやりに全く欠けており、罪悪感も後悔の念もなく、社会の規範を犯し、人の期待を裏切り、自分勝手に欲しいものを取り、好きなように振る舞う。その大部分は殺人を犯す凶悪犯ではなく、身近にひそむ異常人格者である。北米には少なくとも200万人、ニューヨークだけでも10万人のサイコパスがいると、犯罪心理学者のロバート・D・ヘアは統計的に見積っている。』

 当然のことながら、サイコパスには先天的なものと長期の非情な生活環境の中で発病するものとがある。それらは峻別されるべきだろう。ウィキペディアは次のようにまとめている。

『実際、精神病質と社会病質が混合されているが、ヘアによると精神病質と反社会病質は似て非なるものであると記している。精神病質の原因と考えられているのは前頭葉の障害であるとされ、健常者の脳波とはまるで違う脳波を見せる。精神病質は遺伝病だとされる意見が主とされている。逆に、家庭・周囲環境や障害に因る心身の衰弱によるものなどによる、精神病質に似た性格異常は仮精神病質(偽精神病質)とされ、精神病質とは識別されている。

 「無敵の人」の増加傾向は大変深刻な問題である。アベコベ政府は
「日本社会はこの『無敵の人』とどう向き合うべきかを真剣に考えるべきです」
という渡辺さんの訴えを真摯に受け取るべきだろう。
ミニ経済学史(43)

現在の経済学は?(21):欠けている視点(7)


吉本隆明の「歴史的産業構造の転換」論(5)

 手元にある吉本さんの著作で、小泉「構造改革」(2001年)以降に出版され、かつ、経済問題を論じた章が含まれているものが三冊あった。初版の出版年順に並べると次のようになる。

(a)
 『メディアを疑え』(春秋出版社 2002年)
(b)
 『「ならずもの国家」異論』(光文社 2004年)
(c)
 『貧困と思想』(青土社 2008年)

 ほかにもあるかもしれないが、とりあえずこの三冊を教科書として話を進めよう。

 まず、2001年以降の雇用破壊の状況がどのようであったのかを調べようと思い、ネット検索をした。たくさんの資料に出会ったが、一目で分かるグラフとして次の三つを選んでみた。

非正規雇用者の割合

 非正規雇用者は増え続け、2011年には36.2%にもなっている。

賃金の推移
先進国賃金比較
(下のグラフはサイト「すくらむ」さんの記事「「ファストフード世界同時アクション」35カ国で5月15日-日本では時給1500円求め渋谷で展開」から拝借しました。)

 賃金は下がり続けている。しかも下のグラフによると、いわゆる経済先進国の中では、下がり続けているのは日本だけである。

 また、上のグラフの2012年度の数値によると、非正規雇用者の賃金は正規雇用者の賃金の約36%でしかない。格差もひろがるばかりでる。賃金だけではない。勤務形態も職場環境もたいへん過酷な状態になっている。「「ファストフード世界同時アクション」35カ国で5月15日-日本では時給1500円求め渋谷で展開」にはその具体的な例がたくさん挙げられている。

 このような状況を一顧だにせず、「アベコベ軽薄姑息うそつき」政権はますます労働者を奴隷化しようとさらなる労働規制緩和を企んでいる。(これまでアベコベ政権と呼んできたが、昨15日の解釈改憲への盲進宣言にあきれ果て、「軽薄姑息うそつき」を付加することにした。これでもまだ言い足りない。)

 さて、このような状況を吉本さんはどのように捉えているだろうか。吉本さんは教科書(c)の第1章「蟹工船と新貧困社会」で、2008年に小林多喜二の『蟹工船』がベストセラーになったということにふれながら、上記のような状況の現代社会を「第二の敗戦期」と呼んで次のように述べている。(なお、教科書(c)は高橋順一さんによるインタービューをまとめたものです。『蟹工船』に関連して言及している文芸評論的な部分を省略して引用します)。

 この4、5年で、日本の「戦後」が終わり、新しく「第二の敗戦期」とも呼ぶべき段階に入ったのではないか ― 僕はそんなふうに捉えています。ですから、今年に入って小林多喜二の『蟹工船』がベストセラーになっていると聞くと、なるほど、とわかるような気がします。

(中略)

 日本が「第二の敗戦期」に入ったとはどういうことか。
 敗戦直後とは要するに、多くの家庭でものを食べること自体が不自由だった時代です。お米なんか食べられませんでしたから、お芋を手に入れるために、千葉県あたりまで行って、着物や小さくて洒落た家具と交換してもらいました。僕もヤミの石鹸会社に勤めていたころ、会社には内緒で自分たち用の石鹸を作ってみんなで分けて、お米や食べ物と交換したこともあります。

 今の日本はまた、そんな貧しい時代に近づいてきたんじゃないか、と思えるんですね。格差社会、と言われ、給食費や高校の授業料が支払えない家庭が増えてきたことが報じられています。不況下で正社員の就職口が少なかった「ロストジェネレーション」と呼ばれる世代は、条件の悪い派遣の仕事や日払いのアルバイトで食いつながざるを得ない。「ニート」や「フリーター」、「ワーキングプア」という言葉が広まり、「ネットカフエ難民」の出現など、働いても働いても暮らしが楽にならないという実感が、若い世代にも広がっているようです。

 一方、3、4年前から、親子・家族間の殺人事件が目立って増えてきました。日本人が本来の東洋的な価値観から一番大切にしてきた親子関係、家族関係が変容し、たとえ家族の間ででも、少しでも嫌なことがあると我慢できずに、すぐにキレたり、刺し殺したりしてしまう。普段は健常に生活していたのに、何かの拍子にとんでもない犯罪を犯してしまい、その原因が精神科医にも解釈できないケースもある。おそらく、精神の薄弱さ、心の病の増加は、社会からの無形の圧迫が強くなっていることに起因するんじゃないでしょうか。  19世紀の産業革命の頃の資本家は労働者をこきつかったため、労働者の集団的な病気として肺結核が大流行しました。それを契機に、イギリスを中心に労働者運動が始まったんですね。今の日本で、産業革命時代の肺結核に相当するのが、精神的な病気でしょう。過労とか、リストラされて職場を転々とするとか、ワーキングプアの人たちが増えてきたという状況の下で、うつ病も増えてきました。

 戦中派である僕らの世代は、本当の飢えを知っています。着物を芋と交換してやっと食いつなぎ、戦後はサラリーマンとして、あるいは労働者として額に汗して働きながら、子どもを食べさせ、育ててきた体験があります。  いま、それほどの貧困のなかで子どもを育てているという話はめったに聞きません。働いてもプアだということはあるにしても、まだ比喩的な要素が強く、文字通り飢えたという実感を持つ若い世代はそれほど多くない。本当の意味で貧しい育ち方をしてきたわけじゃないから、本当の問題は貧困というより、何か人間の精神的な抵抗力が弱くなってしまったことにあるのかもしれません。

 また、敗戦直後は左翼的な労働者運動が盛んになった時代です。いまのワーキングプアの人たちは、文字通り飢えてはいないにせよ、正社員にはなかなかなれないし、たとえなったとしても給料は上がらないし、時間外の給料は払ってもらえない。本来はそれに文句を言うべき労働組合とか、労働者運動もだめになっている。そのことも今の時代の大きな問題じゃないかなと僕には思えます。

(中略)

 今の若者たちが『蟹工船』に魅かれるから共産主義的なメッセージを欲しているのかというと、そうともいえないでしょう。彼らの一番いい面は、党派性が消失したことだと思います。物事や人間を党派に分けて判断するという感じ方が、全般的に崩れましたね。

 『蟹工船』の感想に、「同世代の若者に、労働者としての何らかの意識、闘争のための古典的な連帯はほとんど存在しない」とあるそうですが、それもわかります。

 経済的な苦境、過労に対してちゃんとした給料が支払われていないことへの不服、不公正さ。前途がこのままではかなわないな、という絶望感。それが蔓延する状況をどうしたらいいのか。

 もちろん、経営者側が、時間外の残業代はきちんと払うとか、過酷な労働条件になっていないか配慮してくれるのが一番いい。さもなければ、厚生労働省が、労働基準法に照らして、お前のところの人の使い方はおかしいと注意するか、労働組合ががんばって、労働者ひとりひとりを守ることです。でも、実際には、両方ともなっていない。労働者を助けてくれるはずの組合も十全に機能していなければ、経営者の側にも、給料を抑えたまま、余計に働かせても通るんじゃないかという感じ方が強くなっている。ましてや、派遣社員やフリーターなど、既成の組合に所属していない人の労働条件は劣悪なままでしょう。

 吉本さんは第2章「肯定と疎外」で現代社会の状況に触れている。そこでは「第二の敗戦期」は「第二の産業革命」とも言えると指摘している。次回はそこから始めよう。
ミニ経済学史(42)

現在の経済学は?(20):欠けている視点(6)


吉本隆明の「歴史的産業構造の転換」論(4)

 吉本さんによる佐和流「お説教」に対する第二の批判は次のようである。

 もうひとつ根本的な批判がある。やさしい言葉でいえば近代経済学を心得えた顔をした経済学者でありながら、この今くらいの世界諸地域の経済発展の程度で、もう音をあげて経済発展の公理を放棄してしまっていることだ。佐和隆光の言っていることは二宮尊徳の『夜話』の世界で、すでに150年も200年もまえに、農民は勤倹節約してぜいたくを慎んで生活し、金銭を貯えるためには、夜なべをして繩をない、それを販(あきな)って貯蓄につとめなければならないと説いている。ひとかどの経済学者が、今度の不況程度のことでこんな唐突にもう退化をはじめてしまうことが、わたしにはまったく信じられない。わたしは断言して予告しておくが、たとえ佐和隆光や中野孝次が政府の経済政策や道徳政策の顧問になって国民大衆に勤倹節約を強制しても、経済機構は高度化への自然史的な発展をやめないで、第三次産業化への度合いをすすめてゆくし、都市は農村との接触対面をますます少なくして、H・G・ウェルズの未来小説的にハイパー都市化をすすめるとおもう。この方向は政策や政治とはかかわりない自然史的な必然に属するから、自民のような保守政府でも、社共のような進歩政府でも、退化してしまうことはありえない。せいぜい文明の進展に反動的に逆らうことで、多少の遅れをもたらせるだけだ。

 70年ほど前、大日本帝国の支配者が、無謀で悲惨な戦争を遂行するため、国民に浸透させたスローガンに「欲しがりません、勝つまでは」とか「贅沢は敵だ」というのがあった。佐和流「お説教」はこのようなスローガンと通じる。もうずいぶん以前のことだが、確か糸井重里さんだと思うが、「贅沢は敵だ」をパロって「贅沢は素敵だ」と言った。佐和流「お説教」に対する根源的な批判になっている。吉本さんによる批判の核心もそこにある。 黒子一夫という評論家がまさに「贅沢は敵だ」と全く同じ「お説教」をたれていると言う。吉本さんの批判はそこへと向かう。

 佐和隆光は経済学の専門家を自任しているから、そこまで露骨には言っていないが、黒古一夫のような無智な素人は、国民大衆が高価なファッシヨンを身につけたいために、自由に使える選択消費の部分からそれを購ったことが、バブルがはじけ、不況になった原因だとおもっている。

 わたしが再三いうようにそれは逆なのだ。国民大衆がファッションを身につけて豊かな気分になったり、選択消費を充分に使える状態が経済的好況を主導することになるので、脇を締めて勤倹節約しなければならない状態は政策者や指導者が無能なために起った悪い社会状態なのだ。

 黒古一夫や佐和隆光や中野孝次が清貧な生活をしても、誰も賞めないかわりに咎めるものもいない。だが国民大衆に勤倹節約を説教するのは、まったくのお門違いで、この倒錯は諸国のスターリン主義者や同伴者が国民大衆をあざむいて破産させた根本的な前近代の発想法にしかすぎない。きびしくその錯誤を批判するよりほかありえない。国民大衆に勤倹節約を強制したり勧告したりする佐和隆光のような見解が、ひとかどの経済学者の口をついて出てくるなど、わたしにはとうてい信じ難いことだ。経済学はまかり間違えばすぐに支配の補助学として機能できる側面をもっている。宮崎義一や佐和隆光の不況分析や現在の経済状態の分析は、それほど不都合だとはおもわないが、そこから導きだしている経済倫理や経済政策は、まったくの反動と退化を口当りのいい言葉でつらねているにすぎない。それは経済学的な知識の蓄積の問題ではなく、見識と叡知を問われる側面を経済学がもっているからだ。自分たちはそうしたければ清貧を守ればいい(ただし立てまえだけの嘘をつくのはもうやめるべきだ)。だがすこしは国民大衆の所得を増加させ、民衆が自由に豊かなファッション製品を購買できるようになることを促進するような見識を示してみせるべきではないか。

 経済不況の現状を誤解し、政策や方策をまちがえて不況に陥れた指導者の責任の後始末のために、国民大衆に勤倹節約を説くなどは、まったくの逆縁というもので途方もないまちがいなのだ。

 これまで紹介してきた吉本さんの論考はバブル崩壊(1991年)後のわずか2・3年後に書かれている。そのころの第三次産業化は国内総生産で約55%、就業人口約57%だった。その後、「経済機構は高度化への自然史的な発展をやめないで、第三次産業化への度合いをすすめてゆく」という予測どおり、現在では約70%になっている。しかし現在では、吉本さんが有効な不況政策として提唱している「投入する公共費の割合を第三次産業関係(70%)に向ける」という政策だけでは不況脱出は難しくなっているのではないだろうか。小泉「構造改革」以来悪化し続けている労働環境の改善が同時に行われることが、もう一つの重要課題となっている。次回は、吉本さんが小泉「構造改革」以降の状況をどうとらえ、その状況下での不況対策についてどのような発言をしていたか、をさぐってみることにする。
ミニ経済学史(41)

現在の経済学は?(19):欠けている視点(5)


吉本隆明の「歴史的産業構造の転換」論(3)

 吉本さんは、
「『成熟化社会の経済倫理』の結びのところで佐和隆光は言わずもがなのお説教を国民大衆に向ってたれている」
と言う。その「お説教」とは次のようである。

(1)
 21世紀の発展途上諸国の人口爆発と彼らの「発展権」を前提とするかぎり、大量生産、大量消費、大量廃棄ないし使い捨てを旨とする、20世紀型文明の見直しがせまられている。
(2)
 いまわたしたちは、こうした「ぜいたく」の粋をきわめた80年代後半の生きざまを反省し、もったいない、質素倹約、省エネルギーなど、数年前に「死語」と化した言葉を、あらためて想起しなければならない。
(3)
 地球環境を保全することが、飢えと貧困にさいなまれ「発展権」を主張する南の国ぐにと、エネルギー多消費型経済発展をとげてきた北の国ぐにの双方の利益につながることを、双方が確認し、協調体制をつくるべきだ。

 この「お説教」に対して、吉本さんは二点の批判をしている。第一点は次のようである。

 佐和隆光が繰り返しているこの種の経済倫理の結論は、いくら並べてみてもおなじことだ。ようするにわたしの根本的な批判はスターリン主義者の清貧主義やエコロジストの文明退化主義にたいする批判とおなじだ。第一にわたしは佐和隆光とちがって、経済現象と文明とは、その中核のところで自然現象とおなじように、自然史的な過程であって、人工的な政策で統御できるのは、発展の遅速だけだということをマルクスから学んだ。この文明と経済の発展過程は停止させることも、逆戻りさせることも、跳躍させることもできないということだ。佐和隆光のいうことは経済政策や環境政策によって、人類の歴史を逆行させることすらできるという馬鹿げた錯誤と、そこから出てくる口当りのよい地球環境浄化論にしかなっていない。

 強調(赤字)部分の言説について、少し学習し直すことにしよう。

 経済現象を自然史的な過程と見なすマルクスの理論はマルクス思想の全体を貫く知見であるが、吉本さん(『マルクス 読みかえの方法』)によると、経済現象に関してはマルクスが直接言及している文章が『資本論』の序文の中にあると言う。少し長くなるがその前後の文も含めて、その該当文を引用しよう(向坂逸郎訳岩波文庫版『資本論』を利用)。


 18世紀のアメリカ独立戦争がヨーロッパの中産階級にたいして警鐘を打ったように、19世紀のアメリカの内乱は、ヨーロッパの労働者階級に対して警鐘を打ちならしている。イギリスでは、変革過程は手で掴むばかりに具体的になっている。それは、一定の高さに達すると、大陸に衝撃となって帰ってくるに相違ない。この変革過程は、大陸では、労働者階級自身の発達の程度にしたがって、より残虐な形態をとって動くこともあれば、より和やかな形態で動くこともあるだろう。だから、より高級な動機は別としても、現在支配的地位にある階級にたいして、彼ら自身の利益が命じていることは、労働者階級の発展をはばんでいる一切の法的に撤去できる障害を除去することである。そのために、私は、とくにイギリスの工場立法の歴史と内容と結果にたいして、この巻の中でできるだけ詳細な叙述を挿入しておいた。一国民は他の国民から学ぶべきものであるし、また学びうるものである。一社会がその運動の自然法則を究知しえたとしても ― そして近代社会の経済的運動法則を闡明(せんめい)することがこの著作の最後の究極目的である ―、この社会は、自然の発達段階を飛び越えることもできなければ、これを法令で取除くこともできない。しかしながら、社会はその生みの苦しみを短くし、緩和することはできる。

 起こりうる誤解を避けるために一言しておく。私は、資本家や土地所有者の姿を決してバラ色の光で描いていない。しかしながら、ここでは、個人は、経済的範疇の人格化であり、一定の階級関係と階級利害の担い手であるかぎりにおいてのみ、問題となるのである。私の立場は、経済的な社会構造の発展を自然史的過程として理解しようとするものであって、決して個人を社会的諸関係に責任あるものとしようとするのではない。個人は、主観的にはどんなに諸関係を超越していると考えていても、社会的には畢竟その造出物にほかならないものであるからである。

 経済学の領域においては、自由なる科学的研究は、他のすべての領誠におけると同様の敵に遭遇するだけではない。経済学の取扱う素材の特有の性質は、もっとも激しいもっとも狭量なそしてもっとも憎悪にみちた人間胸奥の激情である、私利という復讐の女神を挑発する。例えば、(以下略)

 この経済現象を自然史的な過程と見なすマルクスの理論を吉本さんは吉本理論の立場から次のように注釈している(この節の文章は聞き手である高橋順一さんとの対話形式になっている)。

今、産業主義とおっしやったでしょう。そのことについては、ぼくはこうだとおもうんです。マルクスは『資本論』の序文で、じぶんは経済社会の展開をここで〈自然史〉として扱っているんだといってますね。ここでマルクスが〈自然史〉的に扱っているんだといっていることは、マルクスの思想にとっては全体ではないというふうにぼくは理解するわけです。

 ぼくのいまの問題意識でいきますと、マルクスのいうように、あるいは『資本論』の序文でいうように、人類の歴史というものを〈自然史〉的に扱える部分と、それからこれはぼくのことばでいえば〈幻想〉ということになるのですが、制度とか政治とか文化とか、〈自然史〉的な、つまり下部構造というものとまったくかかわりなく扱える部分と、それから両者が相互浸透しているという部分と、歴然とその三つの部分があるから、『資本論』で人類の歴史を〈自然史〉的に扱っている部分、つまり、先ほど高橋さんのことばでいえば産業主義的に扱っている部分は、決してマルクスのすべてだというふうに理解してないわけです。ぼくはあくまでも哲学としての〈自己疎外〉論というのが根柢にあって、そして市民社会の〈自然史〉的に扱える部分として、『資本論』で資本制社会の経済社会構成を扱っていると理解しています。

 ついでなので、吉本さんのいろいろな著作から経済学批判に当たる文章を拾い読みしていたら
「経済学はマルクス的と非マルクス的を問わず支配の補助学」
という文に出会った(『世紀末ニュースを解読する』)。前々回で吉本さんの「ケインズ的な(逆にいえばマル経的な)」という物言いに対して「わたくには意味不明」と書いたが、いまはそれが分かったように思う。たぶん、ケインズ経済学もマルクス経済学も「支配の補助学」となる陥穽に陥っているという意味ではないだろうか。

 さて、佐和隆光さんのような「お説教」が出てくる根源は「経済現象が自然史的な過程である」という認識が欠けている点にあるというのが、吉本さんの第一点目の批判だったが、第二点目の批判は自覚的にか無自覚にかを問わず「経済学=支配の補助学」となる危うさに向けられる。(次回へ)