2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
ミニ経済学史(35)

現在の経済学は?(14):ゲーム理論による制度分析(3)


労働者側の戦略
 企業が「日本型雇用慣行」をとるなら、労働者にとっては定年まで辞めずに企業特殊的熟練を身につけるように勤めることが最適な「テ」となる。また、企業が「成果主義、流動的雇用」をとっている場合は汎用的技能を身につけるのが最適な「テ」となる。
企業のとっている「テ」が「成果主義、流動的雇用」の場合、給料は業績主義で、中途採用もさかんにしていていつ解雇されるかわからないのだから、労働者としては企業特殊的技能など身につけても無駄になるかもしれないから、むしろどこでもやっていけるように汎用的技能を身につけることが最適な「テ」となる。

企業側の戦略
 逆に、労働者の側が定年まで辞めずに企業特殊的熟練を身につけるように勤めるという行動を選んでいて、しかも即戦力として利用可能な優秀な汎用的技能の持ち主が簡単に見つからなければ、企業としては自社内で企業特殊的熟練を養成するほかない。つまり、「日本型雇用慣行」をとることが最適の「テ」となる。また、かりに労働者がみな汎用的技能を身につける生き方を選んでいるのなら、企業としては、わざわざ自社内での熟練形成のためにコストをかける必要もないし、年功序列で優秀な若者の給料を抑えれば他社に逃げられる恐れがあるので、給料は成果主義にして優秀な技能保持者の中途採用もどんどん行うことになる。つまり「成果主義、流動的雇用」が最適な「テ」となる。

 ということで、雇用制度問題の利得表は次の図のようになり、二つのナッシュ均衡がある。
ゲーム理論3
 ひとたび右上の日本型がとられると、その後も日本型が持続し、左下のアメリカ型がとられるとアメリカ型が持続するということになる。ただし、上の利得表は2×2で表せるとうにするために、企業全体と労働者全体がそれぞれまとまって行動するという設定にして簡単化している。実際には企業も労働者も無数存在するのだから、それぞれ個々の行動を正確に考えようとすれば、2×2の表では表すことができない。こうした問題について、教科書⑦は次のような解説をしている(原文のまま引用する)。

 しかし、じつは企業どうし、労働者どうしの間で、「はだかの王様」のケース同様のゲームが成り立っていますので、個々の企業はまわりの企業と同じに振る舞うのが最適、個々の労働者はまわりの労働者と同じに振る舞うのが最適になっています。だから、企業みんなと労働者みんながそれぞれまとまって行動するように説明してよかったのです。

 どうして企業どうしや労働者どうしが「はだかの王様」と同様になるかというと、こういうことです。ほかの企業がみんな日本型雇用慣行をとって終身雇用を守っているのに、自分の企業だけ勝手に解雇したりしていたら、悪い評判が立って優秀な労働者がこなくなります。

 あるいは、自分のところだけが給料や出世を成果主義にしたらどうなると思いますか。まだ日本型雇用慣行が崩れていない頃、成果主義をとる外資系でよく見られていた現象をご存知ですか。成果を査定する上司に対するゴマスリが横行していました。上司も弱みにつけこんで部下にプライベートな用事もさせたりしてイバりまくる。

 そうしたらこんな現象を見て、やっぱり白人は有色人種を見下しているのだなどと、うがった見方をする人が必ず現れるのですが、これは白人だろうが何だろうが関係ない。こういう状況におかれたら誰でも必ずとるであろう合理的行動です。

 なぜアメリカ本社ではこんなことが起きないのか。起きたとしてもそこまでひどくならないのか。それは、ゴマスリばかりが優遇され本当に優秀な労働者が正当に評価されなければ、その人は転職するだろうからです。その結果として、公正な評価をする企業ほど優秀な人材が集まり、その企業は競争に勝って伸びていきます。

 ところがまわりの企業がみんな終身雇用制をとっていて、中途採用市場が未発達ならば、簡単に転職することはできません。しかも転職先が年功序列制ならば、給料は入社時点の低いレベルから始まります。これがわかっている以上は、どんな不公正な評価をされても辞めてしまうことができません。その足下を見て上司がゴマスリを強要することになるわけです。こんなことになったら、企業の本当の業績にとっては困ったことです。

 そういうわけですから、まわりの企業がみんな日本型雇用慣行をとっていたら、個々の企業にとっては自分も日本型雇用慣行をとるのが最適になる。まわりの企業がみなアメリカ的な雇用慣行をとっていたら、個々の企業にとっては自分もアメリカ的な雇用慣行をとるのが最適になる。日系だろうがアメリカ系だろうがそうするのが最適だということになります。

 労働者も同様です。まわりの労働者がみな汎用的技能を身につけているときに、自分だけ企業特殊的熟練を身につけようとしても、企業からは「あなたは何かできるのですか」と言われるだけです。最初から相手にされないでしょう。逆に、まわりの労働者がみな企業特殊的熟練を身につけているときには、雇用制度もそれに合わせて日本型雇用慣行になっているはずですから、汎用的技能を身につけても、最初から技能を待遇に反映してくれないので損です。

 かくして、これらが全部合わさって、最初に日本型雇用慣行がとられ、労働者が途中で辞めずに企業特殊的熟練をつちかっていたならば、個々の企業も労働者もそれを続ける行動をみずから選ぶ。最初に成果主義や流動的雇用制度がとられ、労働者が汎用的技能をみがいていたならば、個々の企業も労働者もそれを続ける行動をみずから選ぶ。こういうことになります。

 「日本型」とか「アメリカ型」とか言うと、ついついそれぞれが日本人やアメリカ人の国民性に根ざしたもののように思いますが、そうではなかったのです。人間誰でも同じだったのであり、日本人だろうがアメリカ人だろうが、まわりが「日本型」なら「日本型」に振る舞い、まわりが「アメリカ型」なら「アメリカ型」に振る舞うのが最適になるのです。

 たまたま日本では、戦時体制下で非常事態だからということで終身雇用制や年功序列制が主要企業でいっせいに導入されられました。そのため、いったんそうなると、戦争が終わっても、もはや元には戻れなくなったのです。「日本型」とされる雇用慣行は、文化でも伝統でも国民性でも何でもなくて、そういうたまたま強いられた非常措置が最初のきっかけとなって実現したナッシュ均衡だったのです。

 さて、ゲーム理論による制度分析によれば、日本型企業制度もアメリカ型企業制度もナッシュ均衡である、つまりどちらの制度にも合理的理由があったということになった。しかし、いま日本では日本型制度が大きく崩れつつある。その理由は何なのだろうか。教科書⑦は次のような理由を挙げている。

 このようなゲーム理論を使った日本型企業制度の分析は、最初の頃は、日本には日本の制度があって、アメリカにはアメリカの制度があっていいのだ、それぞれ同じ条件の中でナッシュ均衡として成り立ちうるバリエーションの一つなのだという意味を込めて、日本型制度を擁護する問題意識で始められたように思います。

 ところがそれが近年になりますと、むしろ逆に、日本型制度がどうしても崩れてしまうことの根拠として議論されるようになりました。いわゆるIT革命やロボット技術の進展によって、企業特殊的熟練が昔と比べて不要になっていることが一つの理由です。

 今では、1000分の1ミリの誤差もない匠の技のロボットだとか、人件費ゼロの工場などが出現し、かつては熟練を必要とした事務仕事も次々と自動化されています。企業特殊的熟練を労働者に形成させることが日本型雇用慣行のそもそもの存在理由でしたから、それが今までのようには要らなくなると、日本型雇用慣行が適用される人々も少なくなって当然です。

 また、人口減少時代を迎え、かつてのような高度成長が不可能になったことも日本型制度が崩れる理由にあげられています。年功序列制で誰でも時間が経てば数人の部下を持つ上司になれるのは、下の年代ほど数が多いからこそであって、人口の増加や企業規模の成長を前提しています。人口減少や低成長の時代がきたことは、これらの前提条件を崩しているのです。

 そうすると、日本型企業制度は、もはやナッシュ均衡ではなくなることになります。

 つまり、 「経済や技術や生活上の条件が変化すれば、ナッシュ均衡のいくつかが消えてなくなってしまう」
と言っている。これは
「土台(あるいは下部構造)が変われば、それに応じて上部構造も変わる」
というマルクスの唯物史観にほかならない。ここで『新古典派の時代(1):「労働力の包摂」から見た時代の変化』において、大内力著『国家独占資本主義・破綻の構造』(教科書①)に依拠しながら資本主義変遷をたどったことを思い出した。大内力氏はマルクス経済学者であり、当然のことながら、その変遷史には唯物史観が貫かれていた。

 以上のように、現在の主流派経済学がマルクスの理論と合流してきた状況について、松尾さんは「現代は壮大な総合の時代」だとし、次のように述べている(教科書④より引用)。
フリードマンやルーカスが切り開いた世界に、ヒックスやパティンキンも、ケインズも、マーャルもワルラスも、リカードやマルクスも、シュンペーターも、みんな流れ込んできている予感があります。現にある世界は一つなのであり、路頭に迷う失業者や、飢えに苦しむ人が、立場によって現れたり消えてなくなったりするはずがありません。それを把握するための経済学が二つも三つもあってたまるものかと思います。粋がって相対主義的なもの言いをしていれば済んだ時代はもう終わりです。学説の違いなんてものはそもそも、論理と事実に照らしていずれは決着がつくものであるか、さもなくば、同じ事実を見たときの価値評価の違いにほかならないはずです。

 でも、真理はある。“大統一理論"を待っている ― そう思います。以前の総合は、マルクスとかマーシャルとかの大天才の独力の所産でしたが、いま進行している総合は、そうと自覚しているかどうかはともかく、世界中の多くの経済学者の共同作業としてなされています。私のような凡才でも、それに少し貢献できるかもしれない。そう思うと心躍る時代です。

 全ての経済学者が、いや経済学者に限らず全ての学者が、いや全ての知識人たちが現状を追認するだけの権力の「犬」ではなく、あらゆる人々が「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」を保証され、「路頭に迷う失業者や、飢えに苦しむ人」を無くすという高邁な目的意識を持つようになれば、こんなすばらしいことはない。しかし私は、松尾さんの希望表明にもかかわらず、それはほとんど不可能なこととしか思えない。情けないほどの人間不信に自分でも情けなくなるが、私は支配階級と支配階級に取り込まれている知識人たちを全く信頼することが出来ない。
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ミニ経済学史(34)

現在の経済学は?(13):ゲーム理論による制度分析(2)


 「新しい古典派の時代(2)」で取り上げたように、ケインジアン派の基本認識「方法論的全体主義」(経済は全体としての構造によって決まっていくものであり、企業や個人はそれに規定されて振る舞う)に対して、新しい古典派は「方法論的個人主義」(企業や個人は自分に有利なことを合理的に選んで行動する)という基本認識をもとにして経済学を構築している。現在の主流派経済学は後者の立場に立っている。ゲーム理論はまさに方法論的個人主義に立った理論だが、その理論が全体論的な制度均衡の優劣を論じ、さらに社会変革提言の学問的根拠ともなってきているという。教科書⑦は、「彼と彼女の地震ゲーム」その1に条件を一つ付加した例を用いてその具体的な説明を試みている。

「彼と彼女の地震ゲーム」その2

 今かりに、彼女がオートバイを持っていたする。この場合には出かけても肉体的に疲れることはないので、かえってじっと待つよりも気晴らしになっていいかもしれない。すると、この場合の利得表は次のようになる。
「彼と彼女の地震ゲーム」その2
 この場合も「その1」と同様に、ナッシュ均衡は二つ(網かけの欄)ある。ただし、今度はこのうち片方がバレート最適ではなくなる。《右上》「彼:出かける/彼女:留まる」よりも、《左下》「彼:留まる/彼女:出かける」の方が、利得が二人とも「次善」から「最善」と大きくなっている。つまり、二重枠の囲った《左下》の方がパレート優位になっている。従って、今度は問題なくこちらを選ぶことになる。

 しかし、あの「女は黙って待っているもの」という観念が流布していたならば、やはり「その1」と同じ理屈により、《右上》の方が選ばれてしまう。二人ともそちらではなく《左下》の方がいいことがわかっていて、しかも「女は黙って待っているもの」などという観念を二人とも信じていなくても、そうなってしまう。結局はパレート劣位なナッシユ均衡が選ばれて、そこから逸脱できなくなる。

 これが制度が人間から自立すること(疎外)の弊害である。一度歴史的にある文化的行動様式が与えられると、社会の条件が変わってもっと別のやり方をした方が全員がよくなる場合でも、依然として古いやり方に人々が縛られてしまうことになる。個々人の利得から論じる方法論的個人主義の手法に立つことで、こうしたことの不合理さを「客観的」に表すことができるようになった。

 以上の「彼と彼女の地震ゲーム」はゲーム理論の手法を分かり易く説明するための例であった。ゲーム理論を用いた現実の制度分析の例として、教科書⑦は日本型雇用慣行を取り上げている。日本型雇用慣行は「終身雇用制・年功序列制・内部昇進制」という三本柱から成り立っていることはよく知られているが、この三つの柱は企業の戦略としてどういう意味を持っているのかを深く論じたものを私は目にしたことがない。教科書⑦は日本型雇用慣行には「非常に合理的な経済的根拠があった」ということがゲーム理論を使って明らかにされた言う。そこに入る前に、日本型雇用慣行について、少し詳しく学習しておこう。

 日本型雇用慣行の基礎にあるのは「企業特殊的熟練」と呼ばれる技能である。これの反対語を「汎用的技能」と言う。

 汎用的技能とは、看護師の技能・システムエンジニアの技能など、専門の教育を受けることで習得し、卒業と同時にどんな企業でもすぐ役立つ技能のことである。欧米の企業は汎用的技能を使って成長を遂げてきた。この欧米型型雇用慣行(以下では「アメリカ型雇用慣行」と呼ぶことにする)は「成果主義・流動的雇用」とまとめてよいだろう。

 これに対して、日本は企業特殊的熟練によって企業成長を遂げてきた。企業特殊的熟練は、どんな企業でも役立つというものではなく、その企業だけで役に立つ熟練技能である。典型的なものとしては、ファイルの整理の仕方・根回しのかけ方などなど。例えば根回しのかけ方。「こんな種類の案件なら、誰と誰の了承をとっておくべきかとか、誰と誰は仲が悪いからこれはこっちのルートから通そう」とかいう判断技能も企業特殊的熟練の一つであり、こういうことは企業が変われば全然役に立たない技能である。もちろん、こうした技能を学校で学ぶことはできない。会社に就職してから、身近な先輩に教えてもらって、仕事をしながら覚えていくものである。オン・ザ・ジョブ・トレーニング、略してOJTと呼ばれている。「終身雇用制・年功序列制・内部昇進制」という日本型雇用慣行はこの労働者の企業特殊的技能を高めるための制度だったのである。

 では、「終身雇用制・年功序列制・内部昇進制」が企業特殊的技能を高める仕組みとしてどのように機能しているのか。これについては原文をそのまま引用しよう。
 たとえば終身雇用制度を考えてみましょう。もしどこかの会社で勤めているとして、将来いつ解雇されるかわからないとしたらどうしますか。企業特殊的技能を高めようとしますか。しませんよね。努力してその企業の企業特殊的技能を覚えても、クビになったらみんなパーです。そんなバカバカしい努力はしません。それくらいだったら、ひそかに英会話の勉強するとか何とかして、汎用的技能を磨くことになります。

 だから、企業側としては、労働者に企業特殊的技能を高める努力をしてもらうには、将来勝手に解雇はしませんと、保証してあげる必要があったわけです。だから終身雇用制になりました。

 しかし、いくら企業側から勝手に解雇しない。と言っても、労働者のほうから勝手にやめられたら元も子もありません。企業特殊的熟練というのは、学校では習わないのですから、卒業したての若者は本来ものになりません。にもかかわらず仕事をさせることによって覚えてもらうのですから、覚えるまでの間は、企業にとって給料はタダ払いみたいなものです。研修費のつもりで投資しているのです。それなのにやっとかせぎだしたと思った頃に途中で辞められては、費用をかけた分が無駄になってしまいます。

 そこで、年功序列制がとられるわけです。入社してから年数が経てば経つほど給料が上がって出世もするという仕組みですね。仕事を覚えてバリバリかせぎはじめた頃は生産性に比べて給料が低く、やがて年配になったら生産性以上の高い給料を出すようにするのです。そうすると、労働者は比較的若い頃に辞めたら損になります。年配になるまで辞めずに働いてモトをとるのが最適になりますから、勝手に辞めるのを防ぐことができます。

 ですけど、解雇にはならない、年数が経てば誰でも給料が上がるとなったら、労働者にとっていちばんトクになる戦略は、適当に手を抜いて怠けながら働くことですよね。そうならないためにどうするか。出世を手段に使うのです。欧米の企業では外部から幹部を招いたりしますが、そういうことは原則としてしませんと。その企業の従業員の中から昇進させて役員にしますと。こういうルールにするわけです。そうすると、まんまと出世のためにガンバるようになる。

 ただし、業績であんまりすごい格差はつけません。同期入社の正社員たちの間で、数年の差という挽回可能な差で出世させるのです。なぜなら、四十代の部長も五十代の平社員もフツーなんて、あんまりすごい格差をつけると、負けたと思った人々は、出世競争を降りてしまいます。もういいやと思って仕事に責任を持たず適当に過ごすようになる。しかも、企業特殊的技能は日頃すぐ上の身近な先輩から教わって身につけるものですが、後輩がライバルになって自分を追い越すかもしれないと思ったら、先輩は後輩に仕事を教えなくなります。だから、あくまで年功序列の枠内でビミョーに出世競争させるわけです。

 さて、雇用制度問題をゲーム理論で分析する場合、利得表を構成する登場者は企業と労働者である。企業の戦略は「日本型雇用慣行」と「(アメリカ型の)成果主義、流動的雇用」の二つである。労働者の戦略は「汎用的技能を身につける」と「企業特殊的熟練を身につける」の二つとなる。どのような利得表になるだろうか。(次回に続く。)
ミニ経済学史(33)

現在の経済学は?(12):ゲーム理論による制度分析(1)


 ところで、一般にマルクスの疎外論を論じている論考は『経済学・哲学草稿』の「第一草稿 4.疎外された労働」を下敷きにしているようだが、松尾さんは『ドイツ・イデオロギー』を用いている。『ドイツ・イデオロギー』では疎外の原因を「分業」と表現していると言う。直接の引用文がないので、それらしいくだりを抜き書きしてみた(古在由重訳の岩波文庫版から)。

「分業は、物質的労働と精神的労働との分割があらわれる瞬間から、はじめて現実的に分業となる。この瞬間から意識は、現存する実践の意識とはなにか別なものであるかのように、またなにか現実的なものを表象もしないのに現実的になにかを表象するかのように、現実的に想像しうるようになる。」
「社会的な力は、すなわち分業のために制約された協働(種々な個人の)によって発生するところの倍化された生産力は、この協働そのものが自由意志的ではなく自然成長的であるため、これら個人にはかれら自身の結合された力としてはあらわれずに、かれらのそとにたつよそよそしい強力としてあらわれる。」

 これを松尾さんは次のように解読している。

 言っている意味は、固定的役割に閉じ込められて、互いにばらばらで理解不可能になっているということです。すなわち、こうした分業においては、みんなお互い依存関係にあるにもかかわらず十分な情報交流ができない。これが疎外の原因だというのです。

 つまり、社会全体の依存関係が各自の話し合いで合意をつけてコントロールできるならば、疎外など起こらないのです。社会関係を動かすための取り決めは、各自みんなの都合に合わせて作られ、都合に合わなくなったらいつでも取り替えられることになります。  ところがそれが話しあって合意をつけることができない状況になったときはどうなるか。各自が納得しているわけでもない取り決めや慣習や一部の人の判断などが、各自の都合からズレてしまっていたとしても、社会的依存関係に背を向けては生きていけませんから、しかたなくそれに従わざるをえない。こうして疎外が起こるのだというわけです。

 さあ、どこかで聞いた話ですよね。そうです。「はだかの王様」の論理です。「王様はすばらしい着物をお召しだ」という「思い込み」が、各自の目に映る自然な実感から離れてひとり立ちし、各自は自分を抑えつけてその思い込みに従うのですから、これは典型的な疎外です。「王様がはだかに見える」という各自の状況を、みんなが正直に情報交流できたならば、こんなことにはならないのです。各自の置かれた状況を正直に情報交流できない状態になっているから、へんな「思い込み」がひとり歩きしてみんなを縛ってしまうのです。

 よって、ここでマルクスやエングルスが到達した認識は、次のようにまとめることができます。

マルクス疎外論の公式  疎外は次の二条件が重なったときに必ず、またそのときにのみ発生する。 (1)
 各自が社会的依存関係の中に結ばれあって生きているとき。 (2)
 にもかかわらず、依存関係の中にある各自の間で、十分に情報交流しあえないとき。


 「決まりごと」や「思い込み」「慣習」などをとりあえず立てて目の前のわがままな欲望を抑えてがんばることは、みんなのくらしのために役立つならばいいことなのです。ところが、今までの「決まりごと」や「思い込み」「慣習」などが人々の都合に合わなくなっても、みんなでしめしあわせることができなければ、それをやめることができなくなります。ここに疎外が続く原因があるわけです。

 松尾さんは上の「マルクス疎外論の公式」を「ばらばら+依存関係=疎外」と表現している。

 「均衡は複数あり得る」という複数均衡論は新しい古典派経済学の数学技術の発展によってもたらされた。その中でも「ゲーム理論」と呼ばれる数学手法が大きな役割を果たしている。ゲーム理論は、主にアメリカのナッシユという数学者が考え出した理論で、「お互いに影響しあう複数の個人の間の意思決定」の仕組みを分析する理論である。図書館でゲーム理論を取り上げているミクロ経済学の本を調べてみたら、どれも「囚人のジレンマ」という例から説き始めている。ネット検索をしてみたら「囚人のジレンマ」の解説記事が山ほどあったが、ここではあくまでも教科書⑦を頼りに学習していくことにする。

 松尾さんは「非常に単純な例を一つ」ということで「彼と彼女の地震ゲーム」から説き始めている。登場人物は「彼」と「彼女」という若いカップルである。

「彼と彼女の地震ゲーム」その1

 彼と彼女が、各自自宅にいたとき、大きな地震が起きた。二人は安否を確かめ合い、一緒にいたいと強く思った。しかし、電話は不通になった(まだ携帯電話のない時代とする)。ここで二人がとるべき行動は相手の自宅に出かけること(以下「出かける」と略記)と、自分の自宅で相手が来るのを待つこと(「留まる」と略記)の二つに一つだ。さあ、二人は互いに、出かけるべきか、留まるべきか、どちらを選ぶべきだろうか。次の図表はこの状況を簡単な表にしたものである。
「彼と彼女の地震ゲーム」その1
 表の欄内に、各自の損得(最善・次善・次悪・最悪)の状態が書いてある。二人の打つ「テ」をゲーム理論では「戦略」といい、上の図のように各自の利得がどのようになるかを表した表を「利得表」と言う。上の利得表の意味は次のようである。

《左上》彼が出かけ、彼女も出かけた場合
 互いに行き違いで会えず、しかも電車も車も通れない中歩いていって疲れるので、二人とも「最悪」になる。

《右上》彼が出かけ、彼女が留まった場合
 会うことができるので二人とってはよい結果となるが、彼女は待つだけで疲れない分利得は「最善」となり、彼は歩いて疲れる分少し劣る利得「次善」になる。

《左下》彼が留まり、彼女が出かけた場合
 上の場合と逆で、彼の利得は「最善」で、彼女の利得「次善」になる。

《右下》彼も彼女も留まった場合
 会えないので二人とっては悲しい結果となる。ただし肉体的に疲れない分、出かけたあげく会えないよりはましなで、利得は二人とも「次悪」になる。

 このとき、図表の網かけの欄(《右上》と《左下》)に着目すると、次のようなことが言える。  例えば、いったん《右上》「彼:出かける/彼女:留まる」という状態になったとすると、彼女にとっては彼が出かけるかぎり、自分は出かけるよりは留まるほうがいい。また、彼にとっても彼女が留まるかぎり、自分は留まるよりは出かけるほうがいいことになる。もう一つの《左下》「彼:留まる/彼女:出かける」という状態の場合も同様である。つまりこのような場合、二人とも自分だけこの状態の戦略と違う戦略をとつてもメリットがないので、この状態が持続することになる。

 このように、ある状態における各自の戦略を、他者がとりつづけるかぎり自分もとるのが最適という状態に、お互いみんながなっているとき、こうした状態のことを「ナッシュ均衡」と言う。すなわち、ナッシュ均衡というのは、人々の行動の落ち着き先で、誰もそこから抜け出そうとしない安定的な秩序を示している。

 ミクロ経済学では「パレート最適」という概念も重要なキーワードになっている。現状以上に誰かの利得を増やそうとすると別の誰かが犠牲になってしまうという意味で、もうこれ以上全員がよくなれない状態のことである。上に述べた二つのナッシュ均衡は、二つとも「パレート最適」ということになる。

 これに対して《左上》(二人とも「最悪」)と《右下》(二人とも「次悪」)の場合は、二人のとる「テ」を変えれば、二人ともよりましな状況を得ることになる。このような、犠牲者を出すことなく誰かをもっとよくすることができる状態を「パレート非効率」と言う。

 また、パレート非効率な状態からパレート最適な状態に向けて変化すること、つまり、誰も他人を犠牲にすることなく誰かの境遇を改善することを「パレート改善」と言う。そして、二つの状態を比べたとき、誰の利得も小さくなく誰かの利得が大きくなっている方の状態を「パレート優位」と言い、他方の状態を「パレート劣位」と言う。

 なお、上の例ではナッシュ均衡が同時にパレート最適にもなっているが、両者が一致しない場合ももちろんある。例えば軍拡競争。相手が軍拡するかぎり自分も軍拡しないと互いに不利な状態になるから、お互い軍拡を止められないナッシュ均衡となる。しかし、両者ともに軍拡をやめれば両者ともにもっと利を得るはずだから、この場合のナッシュ均衡はパレート非効率な状態ということになる。

 ところで、今例にしているケースでは、ナッシュ均衡が二つあり、しかもそれらだけがパレート最適なのだから、二人とも是非ともこのいずれかを実現したいと考えるだろう。ではどちらを選ぶべきか。これだけの条件からは何の判断もできない。二人とも「次悪」あるいは二人とも「最悪」というパレート非効率な状態になってしまう可能性を避ける手立てはない。

 さて、ここでかりに、「女は黙って待っているもの」というような観念が世間に流布していたとする。このような観念には何ら合理的根拠はないのだが、いったん歴史的にそれが世間一般に信じられているとするとどうなるだろうか。彼は、自分ではこんな観念はバカバカしいと思っていても、彼女がこれに従って待っているかもと思うと「出かける」ほかなくなる。彼女の方でも、自分ではこんな観念はバカバカしいと思っていても、彼がこれに従ってやってくるかもと思うと「留まる」ほかなくなる。かくして、二人とも、そんな観念はまともに信じていないとしても、互いがそれに従うかもと思って、結局その観念の示すとおりに行動することになる。つまり、二つありうるナッシュ均衡のうち《右上》「彼:出かける/彼女:留まる」が実現されることになる。そしてそのおかげで、互いに行き違ったり、互いに待つたままになったりするパレート非効率な状態が防がれることになる。

 二人はばらばらで連絡がとれないにもかかわらず、一緒にいたいという相互依存関係にある。連絡をとりあえれば、二人とも納得する方法が合意できたはずだが、連絡を取り合う手段がなかった。まさに「ばらばら十依存関係=疎外」状況だった。それ故、二人とも受け入れるつもりのない「女は黙って待っているもの」という観念に縛られることになった。このように、ある条件のもとでは、「女は黙って待っているもの」というような合理的根拠のない社会通念が人と人の間の社会秩序を担う役割を果たすこともあり得る。
ミニ経済学史(32)

現在の経済学は?(11):主流派経済学の最先端(2)


 『均衡が複数あり得る』という命題について、松尾さんは学会の定説ではなく自分なりのまとめ方であるとことわり、次のように議論を続けている。

 人々の間でのいろいろな予想の分布が、現実に当たった程度に応じて進化論的に増減していったとき、最終的に生物進化論で言う『進化的に安定な均衡』に落ち着いたならば、それが合理的期待が成り立つ状態になったということである。その状態になったときにでも、『突然変異』とか環境の確率的な変動とかが起こって動揺し続けるけれども、長い目で見たら平均的に、その『進化的に安定な均衡』が維持され、予想が平均的に見て現実とつじつまが合うことになる。

 この考え方はマルクスの経済分析方法とつながっている。マルクスは、資本主義経済の長期的な再生産構造を分析するときには、リカード達と同じ『セイ法則』の均衡モデルで分析した。しかし、短期的に見たときには、それがそのまま当てはまることは一瞬としてなく、常に不均衡的動揺の中にあるとみなした。この動揺を長い目で平均してみたら、古典派の均衡体系が当てはまるということだった。『均衡が複数あり得る』はこのマルクスの理屈の組み立てと同じだと見なしてよいのではないか。

 さらに続けて、松尾さんは『ゲーム理論による制度分析は、マルクスの疎外論と同じ』あるいは『制度均衡が移行するダイナミックスは「唯物史観に当たる』と言う。そういえば、松尾さんはマルクスの今日的意義を次のように評価していた。(詳しくは「K.マルクス(2)・マルクスの今日的意義」を参照してください。)

『マルクスが提出してきた諸理論は理論的に完成していない。特に経済学についてはそうである。「資本論」で主に分析されているのは、長期均衡体系で、短期的な不均衡の分析は本格的には手がけられていなかった。ましてや、両者の間の関係の分析など、全然手つかずである。そしてその問題はその後も誰もやっていない。長期均衡体系を数学的に厳密に分析した研究や短期不均衡的体系を数学的に厳密に分析した研究はたくさんあるが、短期的な不均衡の動揺を長期的に平均したら、長期均衡体系が設定できるといったことを、数学モデルで厳密に説明することは、おそらくまだ誰もやっていないようだ。でもこれができない限り、マルクスの経済学の現代化は完成しない。』

 もしかすると、松尾さんはこの課題を念頭に置いて論述を進めているのかもしれないと思った。そこで、現在の経済学とマルクス経済学の結合は大変興味深い問題なので、『「はだかの王様」の経済学 現代人のためのマルクス入門』を教科書⑦として、松尾さんが考えていることの一端を学習することにした。まず、教科書④から抄出した上記の松尾さんの問題意識が教科書⑦の序文に分かり易く書かれているので、それを読んでおくことにする。

 松尾さんは、日本の労働者が置かれている過酷な現状を指摘し、それをイザナミ景気につなげて、次のように述べている。
 2007年までの景気回復は、企業の設備投資と輸出の拡大に主導されて起こっていたことでした。家計最終消費支出はほとんど伸びていません。小売販売額は執筆時点で人手できる最新データ(2007年6月)まで、何と減少しつづけています。つまり、景気回復だとか言って、私たちはたくさん働くようになったのですが、消費財の生産は増えていない。結局、増えた分の労働は、自分の身に返ってくる財を作っているわけでは全然なく、設備投資する企業のために機械や工場を作ってあげるのに働いていることになるわけですね。

 あるいは増えた労働の一部は、輸出品を作るために働いていることになります。しかもそれを輸出した見返りで消費財を輸入して私たちのくらしのために戻ってくるならいいのですけど、そうじゃないですよね。輸出しっぱなしの分があるから景気回復しているわけです。その分稼いだ外貨は外国債で運用しますから、結局、もともとその分の労働というのは、外国債をため込むために働いていることになります。まあこの外国債も、使い先をたどればイラク戦費に使われたりしているわけですから、象徴的に乱暴な言い方をすれば、私たちは増えた労働で一生懸命鉄砲を作っているとも言えるわけですね。

 機械や工場にしても、本来どれだけ必要なのでしょうか。昔の高度成長期なら、人口が増えていたこともありますし、将来の消費の成長のために現在の消費を抑えて、機械や工場を作るために世の中の労働を比較的多くまわすというのは、理にかなったことだったと思います。でももうそんな時代ではないでしょう。

 人口が増えず、みんなを豊かにできる生産力は十分あるのに、以前と変わらぬ割合の労働を一生懸命まわしてまで設備投資をする必要はないはずです。本来私たちは、豊かで楽しいくらしをするために働いているはずです。機械や工場は元来そのための手段にすぎなかったはずです。鉄砲に至っては、その手段ですらなかったはずです。

 ところが今は、そんなものを膨らませることがいつのまにか自己目的になってしまって、人間のくらしがその手段として犠牲にさせられているのです。今後このまま景気が拡大していったならば、あいかわらず生身の人間のほうはしんどいしんどいとハアハア言ってこき使われる一方で、工場も、オフィスも、私たちの自由にコントロールできないものばかりが、ますます立派になって膨張していくでしょう。

 しかしこれは、これでもまだ「よいシナリオ」なのです。私たちのくらしを豊かにする手段にすぎなかったはずの設備投資が、本来私たちのくらしを維持するに、ほどほど十分な程度にしかなされなくなったならばどうなるでしょうか。今度はモノが売れなくなって、クビ切り吹き荒れ、多くの若者に就職のあてがない、失業者蔓延のあの恐ろしい不況時代に舞い戻ってしまうのです。

 だから、一方に低賃金でこき使われる下層の大衆がいて、他方にそのおかげで楽してぜいたくする上流階級がいるという絵に描いたような格差社会だったら、そのほうがまだ人間的でかわいいのです。ネットカフェで夜露をしのぐ若者も、午前帰宅続きで過労死寸前の正社員も、私たちはみな、人間ではないもののために奉仕しているのです。私たちが奉仕している相手は、物理的物体ですらありません。間違いなく人間が作りだしたもののはずなのに、しかし、誰も合意しておらず、誰の陰謀でもなく、いっさいの人間のコントロールを離れて勝手に運動し続ける「法則」というもののために奉仕しているのです。

 この世にはこれと同じようなことがいっぱい見られます。本当は人間の頭の中にしかないものが、あたかも神通力を持つ生き物のように勝手に動きだして、生身の人間をひれ伏させ、犠牲にしてしまう。なぜこんなことが起こるのでしょうか。

 この本で、私はそれをたった一つの簡単な図式で、全部説明してしまおうと思っています。じつはこの図式は、かつて19世紀に資本主義経済を批判的に分析した、マルクスが使っていた図式にほかなりません。マルクスはこれまで、崇拝者からも批判者からも誤解されてきましたが、本当に彼が言いたかったことは、じつにわかりやすい単純な図式なのだというのが、この本での私の主張です。

 さらに、これまでマルクス経済学と対立してきた、主流派の経済学も、じつは今たどりついているのはこの同じ図式なのです。ゲーム理論を使った制度分析がそれです。だからこの本は、現代の主流派経済学の最先端がやっていることの簡単な解説書にもなっています。

 「本当は人間の頭の中にしかないものが、あたかも神通力を持つ生き物のように勝手に動きだして、生身の人間をひれ伏させ、犠牲にしてしまう」状況がいわゆる「疎外」である。そして、ここで言う「本当は人間の頭の中にしかないもの」とは吉本隆明さんの提出した概念で言うと「共同幻想」に他ならない。松尾さんは「疎外」という概念を次のように解説しているが、この文中では共同幻想を『「考え方」「理念」「思い込み」「決まりごと」等々』と表現している。


 そもそも、「考え方」「理念」「思い込み」「決まりごと」等々といったことは、どこにも物理的実体がない。生物的実体もどこにもない。ただ人間が頭の中で作りだした、人間の頭の中にだけあることにすぎません。

 それなのに、これらの事どもは、いったんでき上がると、それを作りだした生身の人間を勝手に離れてひとり立ちしてしまいます。そして、どこかにあたかも物理的実体があるかのように見なされるようになります。さらにはいつの間にか主人面をして、もともとそれを作りだした生身の人間を縛りつけてきます。ついには生身の人間たちを血なまぐさくいけにえに捧げるよう命令しだすわけです。

 しかしもともと「考え方」「理念」「思い込み」「決まりごと」等々といったことは、生身の人間ひとりひとりの生活の都合のために作りだされたものではなかったでしょうか。だとしたら、これらの事どもが生身の人間の都合を離れて勝手に自立して、逆にみずからの都合に合わせて生身の個々人を振り回すのは本末転倒ではないですか。

 このように、「考え方」「理念」「思い込み」「決まりごと」等々といった頭の中の観念が人間から勝手に離れてひとり立ちし、生身の人間を縛りつけて個々人の血の通ったくらしの都合を犠牲にしてしまうことを、フォイェルバッハや青年マルクスの用語で「疎外」と言います。

 ところで、教科書⑦の書名の中に「はだかの王様」が使われているが、これを題名としたアンデルセンの童話が寓意することが疎外に他ならないからだ。この童話のあらすじを知らない人はたぶんいないと思うが、教科書⑦では「はだかの王様」は疎外の比喩語として頻繁に使われているので、一応松尾さんによるあらすじを紹介しておく。
「はだかの王様」
 むかしむかし、わがままで見栄っ張りの王様がいました。

 ある日王様のお城に詐欺師がやってきて、それはそれはすばらしい服を持ってきたので売りたいと言いました。ただしその服は愚か者の目には見えないと言うのです。そうして詐欺師が何もないのに服をとりだして見せるふりをすると、王様も居並ぶ家来たちもみんな口々に、これまで見たこともないすばらしい服だとほめました。誰も服など見えなかったのですが、見えないと言ったら自分が愚か者と思われると考えて、まわりに合わせて、うそをついていたのです。

 詐欺師が王様にその服を着てみることをすすめると、家来たちはみなこぞって、それはすばらしいと言います。その気になってはだかになった王様に、詐欺師が服を着せるふりをすると、家来たちはますます大げさに、よくお似合いになりますとほめそやします。王様はたいそう喜んで、詐欺師に大金をあげました。


 王様はそんなにすばらしいそんなに似合う服ならば、国民に見せびらかせたいと思い、パレードをしようと思いつくと、家来たちはみんな、それはいいアイデアだと大賛成しました。そこで王様はそのすばらしい服を着て町中をパレードしました。

 本当は何も着ていない、はだかなのに、集まったたくさんの人々は、みんな口々にすばらしい服だとほめました。誰も服など見えていなかったのに、見えないと言ったら自分が愚か者と思われると考えて、まわりに合わせて、うそをついていたのです。そんなふうにほめる声を次々と聞いて王様はたいそう得意になりました。

 ところが道ばたでパレードを見ていた一人の子どもが、突然不思議そうに、「王様ははだかだよ!」と叫びました。集まっていた人々は一瞬静まり、そして「本当だ、王様ははだかだ」というざわめきが広がっていったと思うと、やがて町中の大笑いへと変わっていきました。

ミニ経済学史(31)

現在の経済学は?(10):主流派経済学の最先端(1)


(生半可な知識の弊害をつくづく思い知らされました。アプリケーションのインストールと旧パソコンからのデータ復元に悪戦苦闘。とうとう1ヶ月もかかってしまった。特に旧パソコンで愛用していたアプリケーションソフトが新パソコンにインストールできないのにはまいりました。そのソフトでためてきた膨大なデータは追々復元することにして、とりあえずブログを再開します。)

 教科書④にもどろう。まずは復習から。

 現在の主流派経済学(新しいケイジアン派)の理論は
① 価格・賃金の伸縮性
② 「合理的期待の想定」+「流動性選好」
③ ミクロ的基礎付け

を前提としている。つまり、新しい古典派の三つの前提(①~③)の②に「流動性選好」というケインジアン派の前提を加えて理論を構成しているということだった。(詳しくは「現在の経済学は?(2)」を参照してください。)

 「合理的期待」とは
「人々はすべての情報を把握して合理的選択を行う」
という仮説である。この仮説は「完全予見」とも呼ばれている。このような仮説を組み込む理由は
「理論をわかりやすく単純化して本質を取り出すため」
というように説明されている。リフレ策理論は「インフレ予想」とか「デフレ予想」とかいう「合理的期待」を仮説とした理論であった。この仮説のもとでの理論の骨格はおおよそ次のようである。

「ある予想が人々に共有されとるとき、その予想のもとで各自が自分にとって一番よいと考える行動をとれば、結局はその人々の行動の合成結果として、もともとの予想が自己実現する。」

 さて、教科書④はイザナミ景気でのリフレ策解説の後、主流派経済学の最先端で行われている研究の概説を行っている。以下、そのあらましを紹介する。(いろいろとわからない点や疑問点があるが、今はそれは置いて、全体像をつかむことに徹することにする。)

 上にまとめた「予想の自己実現」の図式は「反ケインズ革命」とほぼ同時に、かつ全く独立に起こったミクロ経済学での「ゲーム理論」の隆盛から始まり、今ではミクロ経済学やマクロ経済学だけではなく、経済学の周辺の社会科学のかなり広い領域にまで広がっていった(ゲーム理論については後に詳しく学習する予定です)。特に1990年代に入って、制度分析や組織分析に使われるようになる。つまり、主流派経済学の最先端はゲーム理論を用いて制度や慣習、あるいは倫理などの分析をするようになっている。 そうした研究の過程で
「条件が変われば制度が変わる必然性」
が議論されてきているという。「条件が変われば制度が変わる」とはどういうことか、詳しくは次のようである。

 ある条件のもとでは人々の行動予想とそれを受けた各自の最適行動がうまく噛み合っていても、条件が変わるとそれが噛み合なくなることもあり得る。つまり、他者がこう振る舞うと予想しても、予想した他者の行動とは別の行動をとったほうが有利だと考えて当初の予想通りの行動をとらなくなってしまうことが起こりえる。

 「条件が変われば制度が変わる」例として、松尾さんが挙げている例の中から、「完成品メーカーと部品の下請けメーカーの関係」を取り上げてみよう。

 かつては完成品メーカー(発注元メーカー)と部品の下請けメーカーの関係が固定していた時代があった。発注元メーカーにとっては、自社に都合のいい部品を安く作ってくれるところをその都度見つけ出すのは容易なことではない。そこで、自社向けに特化した設備を備えた下請けを確保して、ずっとそこから部品を買い続けようと考えた。一方、部品メーカーのほうから見ても、一番都合のいい販売先をその都度見つけ出すよりは、どこか特定の製品メーカーがずっと取引を続けてくれると確信できるかぎり、そのメーカー用の部品を供給し続ける方が得策だから、それ用に特化した設備を設備投資しよう、と考えた。このように、お互い相手が期待通 り振る舞ってくれるという前提のもとで、こっちが自分の都合のいいように振る舞うと、それがそもそも相手の期待していた振る舞いになるということで、つじつまが合って「発注元ー下請け」関係が維持されることになる。
 ところが近年は、コンピュータなどの情報技術が発達して、自社に都合のいい取引相手を探し出すのが以前より相当に簡単になってきた。ロボットも発達して、いろいろな種類のものを同じ設備を使って安く作れるようにもなってきた。このような条件のもとでは、発注元メーカーは、既存の取引相手に満足せず、もっと安く売ってくれるところをその都度探し出す方が有効になってくる。そうすると、既存の下請けにとっては、あとでいつ取引を切られるかもしれないし、あるいは、切るぞという脅しで無理難題を言われるかもしれないことになる。そういう事態を考慮すれば、いざというときになって後戻りできないような、特定発注元用に特化した設備への投資はリスクが大きいことになる。むしろ、どんな完成品メーカーからの注文でも応じられるような、ロボットのような融通の利く設備を導入して、条件のいいところをその都度探して取引することになる。部品メーカーがみなこのような方針だと予想されれば、発注元メーカーとしても、特定の下請けにこだわる必要はなくなる。他のメーカーの下請けだったところも含めて、一番都合のいいところをますます選べるようになていく。つまり、固定的な取引関係の慣習は崩れることになる。

 この例のように、一見、いまの制度の存在が合理的なものだと見えながら、実は、条件が変わればいまの制度がなくなってしまう必然性があることになる。

 こうしたゲーム理論による制度論の議論が経済学でも行われている。「反ケインズ革命」で始まった現代的なマクロ経済学と「ゲーム理論革命」で書き換えられた現代的なミクロ経済学は、ほぼ同時にかつ全く独立して始まったのだが、行き着いた経済観は共通のものとなった。その共通の到達点は『均衡が複数あり得る』ということだ。新しい古典派も(元の)ケインジアン派も「均衡は唯一」であることを原則としていた。その根底にあった仮定の一つが「合理的期待」であった。しかし、「均衡は複数」という新たな知見は決して「合理的期待」という仮定を否定するものではないと、松尾さんは言う。松尾さんが考える「合理的期待」の真意は次のようである。

 いま、「行動経済学」や「心理経済学」とかいう分野が生まれて、実験やアンケート調査などの手法を使って、現実の人間の意思決定を分析する研究が進んでいる。その研究の結果、人間というものは、自分が一番有利になるように合理的に考えた結果出た答えと違う選択をすることもある。しかも、傾向的法則的な偏り方のある選択をするということがわかった。また、神のごとき万能の合理性をもった仮定的人間ではなく、もっと現実的な、限られた範囲での合理性を前提する研究も進んでいる。これらの研究に対しては、主流派経済学を乗り越えた方法論だという期待を寄せる人もいるが、基本的にはそうではない。合理的選択の仮定自体が、議論をわかりやすく単純化して、本質を取り出すための工夫だったのであって、「行動経済学」などが見つけ出してきた知見は、それに肉付けをして、現実に近づけるものにほかならない。むしろ主流経済学を補完するものなのだ。ところが、どんなにがんばっても、合理的選択論では説明できないものがある。それは、他者の行動についての予想である。

 合理的期待で予想するというは、その時点で得られる情報をできるだけ使って、平均的に当たるように予想するということだけであって、そういう予想のうち、つじつまの合うものが複数あったときに、どれを選ぶかということ自体が合理的期待で説明がつくわけではない。合理的期待が使えるのは、いまの制度や慣習で期待される行動を、将来もみんなおおむねとり続ける場合とか、おおむねいまの調子でデフレが持続する場合とか、おおむねいまの調子で資産価格が上がり続ける場合とか、……などなど、要するに、ほぼいまと変わらない運動が将来も続くときに限られることになる。だから、バブルが崩壊するプロセスとか、不況から脱却するプロセスとか、革命が起こるプロセスとか……などなど、予想が切り替わる時には「合理的期待」は使えない。つまり、合理的期待モデルは、人間のそのときどきの錯誤などとは無関係な長い目でみた本質を見いだす時に有用な概念である。長期にわたって予想が一定で現実と一致しているのに、それでもなお不況に落ち込む事態に直面して、そこで初めて「流動性選好」という本質的原因が見出せたのだった。