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ミニ経済学史(16)

ケインジアンの時代(3)―ケインズ(1):古典派批判

(「ケインズ」章は理論が錯綜していてちょっと手こずっています。)

 古典派も新古典派もセイ法則を前提にしているという点では区別はないという理由で、ケインズは古典派と新古典派を一緒くたにして「古典派」と呼んでいるという。古典派の時代と新古典派の時代ではその社会経済状況がまったく異なるのだから、このようなくくり方が成り立たないことは明らかだ。実際、新古典派の依拠した原理がセイ法則ではなく、それを修正したワルラス法則であるという。ではワルラス法則とはどのような命題だろうか。

 前回の記事を整理すると、セイ法則の正確な定義は
セイ法則
「諸財の超過需要の和は恒等的にゼロ」

であり、このセイ法則のケインズによる解釈は
「需要の総価値額と供給の総価値額は等しい」
あるいは
「諸財の供給はそれ自身の需要を生み出す」
だった。また、「生産費の全部が、直接および間接に、全体として、生産物の購入に支出される」という説明もあったが、これは実は古典派学者がセイ法則が成り立つため大前提としたもので、その時代の市場状況に対する認識を示している命題と考えるのがよいようだ。分かりやすく言うと、古典派の時代(産業革命直後)はほとんどの労働者(主として婦人・幼年労働者が担っていた)はかろうじて生きられる程度の賃金しか得られなかった時代であり、労働者は賃金のすべてを生活維持のために消費するほかなかつた。セイ法則はそのような時代における命題であった。このセイ法則を「風が吹けば桶屋が儲かる」的に解釈すると次のようになろう。

 セイ法則は「誰もが何かを供給した見返りに入ってきた所得をそのまま全部消費する」ことを前提としている。この前提のもとでは、「総需要=総供給」となるから、ある財で供給超過で売れ残りが出れば、その一方では別の財で需要超過で品不足になっていることになる。この場合、供給超過になっている財の価格は下がり、需要超過になっている財の価格は上がる。消費者にとっては、価格が上がった財より価格が下がった財を買う方が得だから、需要超過財の需要は減って、供給超過財の需要は増える。やがて均衡する。これがセル法則が言わんとしている命題の具体的な内容のようだ。

 さて、新古典派の時代(第二次産業革命後、労働力は主として成年男子が担うようになる)は株式会社が普及しいわゆる金融資本的蓄積様式が確立していく時代だから、セイ法則はそのままでは成り立たない。マーシャルなど新古典派が依拠した法則はセイ法則を修正したものでワルラス法則と呼ばれている。その正確な定義は次のようである。

ワルラス法則
「諸商品の超過需要の和は恒等的にゼロ」

 セイ法則の「諸財」が「諸商品」に代わっている。何が違うかというと、「諸商品」は財だけではなく、「債券や労働のような商品も全部含めた」概念だそうだ(ここで「債券」というのは「株」なども含めた資金の運用手段全体を指している)。セイ法則では資本家や地主の影が見えないのをいぶかしく思っていた(あるいはそれは私の誤解で資本家や地主も含めた命題なのだろうか)が、ワルラス法則では明らかに資本家や地主なども含めた市場全体が対象となっている。「諸商品」などという紛らわしい用語を使わずに表現すれば、ワルラス法則の正確な定義は次のようになる。

ワルラス法則
「諸財、債券、労働の超過需要の和は恒等的にゼロ」


 この法則の場合はセイ法則とは異なり、「諸財、債券、労働」全体での議論だから「諸財の超過需要の和がゼロ」(セイ法則)になるとは限らない。そういう意味でセイ法則を「セイの恒等式」、ワルラス法則を「セイの方程式」と呼ぶそうだ。以下ではケインズが槍玉に挙げていたのは、セイの法則ではなく、ワルラス法則だと解釈して話を進める。

 ワルラス法則を「風が吹けば桶屋が儲かる」的な解釈ではなく、ちょっと学問めかして解釈すると次のようである。まずはいろいろな用語の意味を確認する。

所得
 最終財の総生産額から原材料・燃料などの投入費用(投資)を引いたもの。つまり、社会構成員が自由に使える最終財の生産額、言いかえれば最終財の総供給量である。
貯蓄
 所得から消費を引いた残りのこと。従って株や債券を買うこともこの中に含まれる。
投資
 企業の設備投資のこと。

 上の定義によれば
 「貯蓄+消費=最終財の総供給」
であり
 「投資+消費=最終財の総需要」
である。新古典派は「貯蓄は全て投資に使われる」こと、つまり「貯蓄=投資」を前提にしているのだから、「総供給=総需要」ということになる。つまり、財や労働で全般的に供給過剰になっても、その裏で債券の需要超過が起こって利子率が下がる。利子率が下がれば設備投資が増え、雇用も増え失業者は無くなり、財市場も均衡していく。これがワルラス法則である。

 ところが、1930年代の大不況のときは、価格も賃金も下がり続けたうえ、失業者は減るどころか、ますますひどい状況になっていった。ワルラス法則に依拠している経済学者たちはワルラス法則に反するこの状況を次ぎのように説明して労働組合を攻撃したという。
「失業が出たら貨幣賃金率が下がるのが自然なのに、労働組合が貨幣賃金率の引き下げに抵抗する。そのせいで市場メカニズムが働かなくて失業がなくならないのだ。」

。  これに対して、ケインズは古典派が信奉しているワルラス法則が誤りなのだと考えた。その誤りの根源は「人々は財・労働・債券の供給の見返りに手に入る所得を全て財・労働・債券を買うのに使う」というワルラス法則が依拠している暗黙の前提にあるとした。ケインズはこの前提は現実には成り立たないと言う。ケインズは現実では
「人々は供給の見返りで入ってきた所得を全部支出したりせず手元に残す。それはとりも直さず、社会全体では供給より需要が少なくなることであるから、売れ残りが生じることになる。」
と主張する。ケインズは「手元に残す」所得を「貨幣」(必要に応じていつでも引き出せるような普通貯金や定期貯金も含まれる)と呼ぶ。このケインズの主張をワルラス法則流に定義すると次のように表せる。(経済学会ではケインズ法則などという呼称はないようだが、ここではこれをケインズ法則と呼ぶことにする。)

ケインズ法則
「諸財、債券、労働そして貨幣の超過需要の和は恒等的にゼロ」


 この場合、財や労働の供給超過(売れ残りや失業)が起こっても、その裏では貨幣の需要超過があるだけで債券市場には何の変動もないということのあり得る。すると利子率にも何の変動も起きない。利子率が下がらなければ設備投資も増えず、財市場では財の需要に合わせて生産が減少していって均衡することになる。その結果、失業が出たまま市場全体が均衡してしまう。ワルラス法則に貨幣を含めれば、このような状況が生じることが説明できる。

 ケインズはこのような事態を回避するためには「大きな政府」が必要だと説いた。次回はその説のあらましをまとめてみよう。
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ミニ経済学史(15)

ケインジアンの時代(2)―ケインジアンの系譜、セイ法則

 教科書④の「ケインジアンの時代」についての解説には大変分かりにくい点がいくつもある。困ったときの参考しようと思い、
滝川好夫著『ケインズ「貨幣改革論」「貨幣論」「一般理論」』
を借りてきた。これを教科書⑤とする。

ケインジアンの系譜

 教科書④に戻ろう。

 新古典派は、市場メカニズムが自動的に調和をもたらすのだから政府は民間の経済については自由競争に任せて余計な介入はすべきではない、という「小さな政府」論を主張した。先進資本主義国はおおむねその論を受け入れてきた。しかし、世界は「自動的な調和」とは正反対の大恐慌に見舞われてしまった。市場メカニズムに任せていては大量の失業を出して経済が破綻することも起こりうることがはっきりしたのだった。そのような破綻を避けるためには、政府が積極的に経済に介入すべきだという「大きな政府」論を主張し始めたのがケインズだった。

 ケインズの理論はたちまちのうちに世界に広がり、第二次世界大戦後の先進資本主義国の経済運営は、ほとんど全てケインジアンが担うことになった。ケインズの理論が受け入れられる過程で体系化されていったのが「マクロ経済学」である。

 世界を席巻していくケインジアンのおおよその系譜は次のようである。

ケインジアン派

 ケインズの理論は短期の分析の結果を体系化したものだった。ハロッドはこれを長期にわたる経済の動きの分析に応用した。ヒックスは、新古典派の一般均衡理論の枠組みで、ケインズ理論を体系化した。それを受けて今日のマクロ教科書の定番を作ったのがハンセン。この成果によってアメリカでのマクロ経済学教育が標準化され、ケインジアンの経済政策官が続々と送り出されて実際の政策を担っていくことになった。そして、そのアメリカ・ケインジアンのマクロ経済学と、新古典派のミクロ経済学をセットにして、世界的ベストセラー教科書「経済学」を出したのがサミュエルソン。ケインジアン型の政策でもって景気を良くしてやって完全雇用が実現できたならば、あとは新古典派理論が成り立つという理論である。これが「新古典派総合」と言われて、アメリカを中心とした戦後西側世界の押しも押されもせぬ主流体系として、その後四半世紀にわたって世界に君臨することになる

 一方、ヒックスの方の流れに対し、新古典派におもねったものは本当のケインズ経済学じゃないって言って反発した人達もいた。ジョーン・ロビンソンなど、主にイギリスで活躍した人達で、「ポスト・ケインジアン」と呼ばれている。ハロッドもこの中に含められる場合が多い。ヒックスも後年はこの立場に移ったという。しかし、このグループは結局世界的に見て主流にはならなかった。

 教科書④はケインジアン経済学の解説を「ケインズ」と「ヒックス・サミュエルソン」の二つの章に分けて行っている。「ケインズ」章は大恐慌をきっかけにケインズが行った古典派批判から始まっている。

セイ法則

 ケインズの古典派批判は「セイ法則」(教科書④では「セイの法則」ではなく「セイ法則」と表記しているのでこれに準ずる)をめぐって行われている。実はセイ法則については「古典派の時代(1)」で、その定義文をウィキペディアから引用している。
『セイ法則=「供給はそれ自身の需要を創造する」』
だった。この文の意味は「作った商品は作っただけ必ず売れる」という意味にとれる。現実をちょっと振り返れば、このようなことは成り立たないことは明らかだろう。売れ残りが出たり品不足になったりは日常茶飯事だ。しかし、ウィキペディアの解説は次のようになっている。

『あらゆる経済活動は物々交換にすぎず、需要と供給が一致しないときは価格調整が行われ、仮に従来より供給が増えても価格が下がるので、ほとんどの場合需要が増え需要と供給は一致する。』

 「ほとんどの場合」という注釈がついているが、「作っただけ必ず売れる」という解釈だ。教科書⑤を調べてみたら、やはりそのような解釈をしている。【古典派のセイの法則VS.ケインズの有効需要の原理】と題して、次のように解説している。

『経済学には2つの考え方があり、ひとつは「供給は常にそれに等しい需要を生み出す」という古典派経済学のセイの法則,いまひとつは「需要は常にそれに等しい供給を生み出す」というケインズ経済学の有効需要の原理です。ケーキ屋さんが1日当たり何個のケーキを作ることができるかは、人、機械、技術しだいです。いまある人、機械、技術のすべてを動員して作れるだけのケーキを作れば,そのケーキは市場の価格メカニズムで必ずや完売するというのが「供給は常にそれに等しい需要を生み出す」という古典派経済学のセイの法則です。一方、このケーキ屋さんが実際に1日当たり何個のケーキを作るかは、お客さんが何個買ってくれるかに依存しています。売れ残ったときに価格を下げると、次回からお客さんは価格が下がるまで買いに来なくなるかもしれませんので、ケーキ屋さんは売れ残っても価格を下げず、廃棄しているのが一般です。売れ残れば、“お客さんが何個買ってくれるか”を下方修正予想して、減産します。これが「需要は常にそれに等しい供給を生み出す」というケインズ経済学の有効需要の原理です。』

 このような解釈が一般に流布されているセイ法則の解釈のようだ。しかし教科書④によると、「供給はそれ自身の需要を生み出す」という文には省略した文言があり不正確な文だったようだ。ケインズはセイ法則を
「諸財の供給はそれ自身の需要を生み出す」
と表現しているという。ここで「財」とは「生産された物品やサービス」を指しているが、「諸財」の意味は「個々のどの財」ではなく「全ての財総体」という意味だろう。つまり、社会全体の総供給と総需要についての法則だろう。しかし、これもケインズによる解釈であって、もともとのセイ法則の文はまったく違うそうだ。教科書④はセイ法則の正確な定義を
「諸財の超過需要の和は恒等的にゼロ」
としている。ここでまた私の頭は「?」で埋まってしまった。経済学にはこのような生煮えのような文章が多いと思うのは私だけだろうか。「超過需要」とは「ほどよい程度を超えた部分の需要量」という程の意味だろう。「その超えた部分の需要量の和が常にゼロ」? 私には「超過…の和が…ゼロ」という意味が分からない。しかし、教科書④はこの定義の後で
『「諸財の供給はそれ自身の需要を生み出す」と言い換えても同じこと』
と言っている。正確な定義文とケインズによる定義文が同値だと言うのだが、この判断が正しいとすると、正確な定義文の意味は「超過需要は起こらない」→「需要と供給は均衡している」という意味だと考えればよいようだ。

 このような解釈でよいことを示す論文に出合った。神谷傳造という方の「セイの販路法則と一般的過剰生産」である(販路法則とはセイ法則の別称)。該当部分を引用する。
 ケインズは『一般理論』第2章「古典派経済学の諸前提」第IV節において、J.S.ミルの『原理』(1848)とマーシャルの『国内価値の純粋理論』(1879)とからの引用をとおして、セイ法則は「生産費の全部が、直接および間接に、全体として、生産物の購入に支出される」ことであると書いている。ここで「直接または間接に」というのは、「消費または貯蓄を通して」ということである。家計が消費をすれば財または用役に直接に向かう支出が生じるのに対して、貯蓄をすれば、財または用役に直接に向かう支出は生じない。しかし社会的に見れば、貯蓄をするとは、将来の消費のために財および用役を購入することであると考えられる。セイ法則とは、生産費の総額がまず所得となり、このように直接間接に、その所得を発生させた生産物の全体に支出されるということであるというのが、ケインズの解釈である。

 第3章「有効需要原理」第I節では一層簡潔に、セイ法則とは「需要の総価値額と供給の総価値額とが等し」くなるということであると書いている。

 セイの販路法則とは何かといことについて、ケインズの解釈を表す最も分かり易いことばは「供給はそれ自身の需要を造り出す(『一般理論』第2章18ページ)であろう。

 これによると、ケインズは孫引きのセル法則を用いて解釈をしていることになる。ともあれ、以下はケインズによる定義
「諸財の供給はそれ自身の需要を生み出す」
をセイ法則とみなして教科書④を読んでいくことにする。
ミニ経済学史(14)

ケインジアンの時代(1)―「労働力の包摂」から見る

 ケインジアンの時代は「1930年代半~1970年代」とされている。ジョン・メイナード・ケインズ(1883年~1946年)がその主著『雇用・利子および貨幣の一般理論』(一般に『一般理論』と通称)を出版したのが1936年。これがケインズ革命の始まりということなのだろう。第一次世界大戦(1914年~1918年)後、1929年に世界大恐慌が起こっている。これがケインズ理論誕生の要因であった。第二次世界大戦(1939年~1945年)後、1970年代には「スタフグレーション」(のちに詳しく取り上げる)と呼ばれている大不況が世界的規模で起こる。ケインジアン理論ではこのスタフグレーションには対処できなかった。ケインジアンの時代の終りである。

 ケインジアンの時代は「労働力の包摂」という観点からは「国家独占資本主義の段階」と呼ばれている。この段階の時代状況を教科書①は次のように解説している。(原文は講演録なので文体を変えてまとめ直しています。「注記」は私が付けたものです。)

 第一次大戦後、社会主義の問題が従来のようなたんなる理念的な運動の問題ではなくなり、現実に社会主義革命が起きる要因が生まれてくる。東欧をはじめドイツにいたるまで社会主義革命の可能性はそうとう強く現われていた。

 1920年代のドイツのワイマール体制は、一応は資本主義体制ではあったが、10月革命を経過して社会主義との妥協の上に成立した体制であり、労働階級にたいして大幅な譲歩を必要とした。ただしこの譲歩は、ワイマール体制のなかではまだ国家独占資本主義体制としてほんとうに確立されたものではなかった。むしろ従来の社会政策を受けつぎながらそれを拡充してゆくという形をとっていた。

「注記」
 大内さんは10月革命を「擬似社会主義革命」と呼んでいる。


 この段階でとくに中心的役割を担うようになったのは失業保険である。これは第一次大戦前からイギリスで推進されていたもので、ワイマール国家はこれを大幅に拡充した。(この施策は日本では第二次大戦後までもちこされている。)

 このように失業保険がある程度完備されたということは、労資の関係のなかに直接権力が入りこまないで、国家による施策によっていわば外から労資関係を安定させてゆくという社会政策の最後の仕上げをするものであった。この点からいえば、ワイマール体制はまだ古典的帝国主義の最後の時期を示していると言えよう。

 しかし、そういう形で労資関係の安定を図るというやり方が最終的に破綻する要因が大恐慌だった。いずれの国においてもみられる状況が、とくにドイツで一番シャープに現われたと言ってよいだろう。この大恐慌によって失業者が大量に発生したため失業保険はゆきづまってしまった。資本主義の建て直しのためにはどうしてももう一段と高度な国家権力の介入が必要とされるようになってきた。

 以上が1930年代に入って恐慌対策として出発しながら、しだいに国家独占資本主義的な体制へと発展してゆく過程ということになる。

 この国家独占資本主義は、第二次大戦までの段階では、世界の国々の間で二つの型にわかれる。そのひとつは、ナチス型(ファシズム型)であり、これは強権的に労働運動を押さえつけながら対外的な軍備拡張で対応してゆくというタイプである。もうひとつは、いわゆるニューディールを典型とするタイプである。イギリスやフランスでは少し違ったタイプになるが、いずれにしても労働階級にたいする譲歩を拡大して、これをいわば柔軟な対応のなかで体制のなかに吸収してゆくというものである。

 このうち、さしあたりの恐慌対策としては、実は日本・ドイツなどの方が成功している。つまり強権的に押さえつけた方が早く恐慌からぬけ出せることになった。しかし、最終的にはそれは戦争をやらざるをえなくなる体制であり、実際に戦争へと突き進んでいった。そして、それらの国が戦争に敗れた後は、いずれの国もニューディール型の対策をとらざるをえなくなってくる。こういう経過のなかで、労働力の包摂は第三の段階に入ることになる。

 この段階の特徴は、ひとことで言えば「高度な国家権力の介入」である。少し詳述すれが、次のように言えよう。

 一つは、ここではじめて景気対策が事後的な対策から事前的な対策に変ってきた。つまり、以前には恐慌が起こったあと失業者が出ればそれにたいして対策をとる、あるいは破産する企業が出ればそれを救済するという対策であった。そういうやり方が大恐慌で失敗した後は、恐慌をなるべく起こさないようにしようという対策に変ってくる。これは、初めは恐慌に落ち込んでしまった経済をいわゆるポンプの呼び水でもって復活させるというところから始まり、やがて調整政策という形に変っていく。そのいちばん中心をなすのはフィスカルポリシーを中心とした財政金融政策である。いずれにせよ、それは恐慌にたいする予防的な措置を強め、大幅な恐慌が起こることを予防して、大量の失業者が生ずることをできるだけ回避するという狙いをもった政策と言うことができる。

(注記 広辞苑より)
フィスカル‐ポリシー【fiscal policy】
 財政的手段によって国民経済の動きを制御し、完全雇用と安定成長を達成しようとする政策。主にケインズ的な立場に立った財政政策をいう。


 しかし、そのための政策は総合的にならざるをえない。その中でも特に次の事が重要になってくる。すなわち、恐慌の回避のためには資本のもとに労働力を包摂してゆけるように、時々の生産性に応じて賃銀水準を調節してゆく必要がある。この施策は、ある場合にはインフレ政策をとり、ある場合には引締政策をとるというようにして、労賃を適当な水準に調整してゆくことによって果される。もちろんこれは政策の骨格であって、実際にはさまざまな追加施策が必要となる。公共事業を拡大する・金利を動かす・減価償却を促進する・免税をする……などなど。

 総合的な対策に変ってくるという点に関してもう一点指摘しておくべきことがある。それは直接的な労働対策にしても、社会政策のように個別的に農民を保護し、中小企業を保護し、失業対策や労災や健康保険などで労働者を保護する、……などなど個別的な対策にとどまらなくなる。もちろんこのような社会保障も、ひとつひとつ個別的な対策から成り立っているに違いなが、そこにもうひとつ総合的な狙いが入ってくる。たとえば社会保障は単に失業とか病気とかにたいして対応するだけでなく、それ自体が社会的消費の拡大や景気維持などに役立つことを狙いとしている。さらにそのほかの国の経済政策も、それ自体の直接的な目的のほかに景気対策のためにそれが使われるようになってくる。

 上述のような現象を政策の二重化と呼ぼう。この二重化は財政政策についても言える。一例として公共事業を取り上げると、公共事業は一面では道路をつくるとか橋をかけるとかいうこと自体が目的であり、それが民生の役に立つとか、あるいは産業のために役に立つといった目的をもっている。しかし同時に、公共事業費を膨脹させたり、あるばあいには縮小させたり、あるばあいには繰り延べたり前倒しをしたりするということ自体が景気対策になるという側面をもっている。

 そういう二重化を示しながら、より総合的な形で権力の作用がおこなわれ、その力で景気を安定的に維持しながら経済成長を促進して失業が生じないようにする。そして、そのなかで労働力を資本のなかに包摂してゆく。つまり、労資関係がもはやたんなる資本と労働者との直接的な関係にはとどまらなくなり、また政策がたんに外枠として機能するものではなくなり、むしろこの関係自体が権力の介入を通じて維持されるという段階になったと言うことができる。これが国家独占資本主義の本質である。

 上述のような第三段階の体制が破綻したことを示す現象が70年代以降のスタグフレーションである。スタグフレーションはただ資本主義の体制的な危機に止まらず、むしろ経済体制を越えた人間社会全体のあり方が危機に直面している。資本主義はそういう意味でいよいよ歴史の最終局面に入ったと言ってよいだろう。
ミニ経済学史(13)

新古典派の時代(6)―A.マーシャル(3)・供給曲線、古典派と新古典派の総合

 需要曲線なんて本当に成り立つのか。もう解決済みだと言う松尾さんの断定にもかかわらず、私には大きな疑問が残っている。しかし、今は経済学史を通覧するすることが第一の目的なので、学説の当否については今は問わずに、先に進もう。今回はマーシャリアン・クロスのもう一つの曲線、供給曲線である。

 或る製品Sを供給している企業がA・B・C・D・Eの5社あるとする。製品Sを1個作るのにかかる費用は企業の生産性の違いにより当然異なってくる。次のグラフは縦の長さは生産物1個当たりにかかる費用であり、横の長さはその企業の生産量を表している。従って、長方形の面積は各企業が製品Sを生産するときの総費用を表している。例えばA社の場合、1個当たりのコスト10円で5000個生産で、総費用5万円となる。

供給曲線

 いま市場価格が100円だとする。図で縦軸の100という目盛りがそれを表している。この場合A・B・C社は利潤が得られるから製品Sを生産することになるが、D・E社は採算が合わないので製品Sの生産は見送るだろう。このときの総生産量は「5000+3000+2000」で1万個である。そして点線と各社の長方形の間の部分が利潤をを表している。この業界の総利潤(消費者余剰と対に使われるときは「生産者余剰」という)は「90×5000+80×3000+50×2000」で79万円となる。(ただし、生産費用の中にはあらかじめ利潤が組み込まれているので、この利潤は「超過利潤」と言うべきだと注解されている。)

 上の図はリカードの地代論のときの図と似ている。そこではC社に当る土地を「限界地」と呼んだ。これにならって、製品Sを生産をしている一番右のC社を
「限界生産者」
と言い、限界生産者の製品1個当たり費用のことを
「限界費用」
と呼んでいる。「限界」という理解を混乱させる用語にはこのような経緯があるそうだ。

 実際の社会ではある製品1個当たりの生産費が微妙に異なるいろいろな技術をもった企業が無数にあるから、それら全部で上のようなグラフを作れば、刻みが細かくなって前回のマーシャリアン・クロスの②のような曲線で近似できる。つまり、曲線②は「価格=限界費用」によって供給量が決まることを表している。

 さて、需要曲線と供給曲線の交点は需要量と供給量が一致する点であり、売れ残りも品不足もないバランスがとれたところ、つまり「均衡」したところということになる。これが価格と取引量が決まっていく市場メカニズムというわけである。そしてさらに、この市場均衡において
社会的余剰(消費者余剰+生産者余剰)
が最大になると言う。次のようである。

社会的余剰

 均衡点以外のどの価格のときの社会的余剰(下の図)と比べて、価格が均衡点のときの社会的余剰(上の図)が最大であることが一目瞭然である。

 以上がマーシャリアン・クロスについての解説の概略である。

古典派と新古典派の総合

 ところで、マーシャルは古典派と新古典派の論争に
「タイムスパンを短くとるほど新古典派の理論が成り立ち、長くとるほど古典派の理論が成り立つ」
という決着をつけたということだったが、最後にそれについての解説を読んでみよう。

短期

 次のような状況が続く期間が短期であるある。
 業界で活動している企業が別の部門に商売替えして出て行くこともなく、新しい参入業者もなく、さらに、機械や工場などの固定的な生産要素も増えも減りもしない。つまり、社会全体の供給量が一定である期間のことである。

 一番典型的な例として、朝の魚市場を挙げている。今朝獲ってきた魚はその日のうちに全部売りさばかなければならない。だから、市場での供給は今朝獲ってきた魚だけ。供給量はそれ以上でも以下でもない。このときの価格は競りによっていろいろと変化するが、供給が一定なのだから、供給曲線は横軸に垂直な直線となり、マーシャリアン・クロスは次のようになる。

短期での均衡

 この場合の供給曲線と需要曲線の交点での価格、つまり均衡価格は需要曲線の位置だけで決まることになる。つまり、価格は限界効用(需要者側の要因)だけで決まることになる。

長期

 次のようなタイムスパンのことである。
 工場や機械、さらに生産に使う労働力や原材料・燃料など、あらゆるものを自由に増やしたり減らしたり移動させたりできるタイムスパンである。もうからない部門から撤退して、もうかる部門に参入することも簡単にできる。このようなタイムスパンではマーシャル・クロスはどのようになるだろうか。

 標準的な企業家はみな、誰もが共通に利用できる技術的知識を持っているだろう。従って、機械や工場を自由に選べるタイムスパンでは、各業界の圧倒的多くの標準的工場では、その知識のもとで企業にとって最適になる共通の技術が採用されているはずだ。生産量の規模が例えば1万トン、2万トン、3万トン……と増えていくにつれて、機械も労働力も原材料も燃料も全部最適な割合でセットした工場が、1箇所、2箇所、3箇所……と、工場ごと増えていくことになる。すると、労働投入量も生産量に比例する。電力投入量も生産量に比例する。必要機器の使用台数も生産量に比例する。……などなど、投入物が全部生産量に比例するので、それらにかかる総費用は生産量に比例することになる。ということは、限界生産者も含めて、全企業の生産1単位当たりにかかる費用(正常利潤も含められている)は、その生産量にかかわらず、一定不変ということになる。つまり、限界費用が一定なのだから、供給曲線は横軸と平行な直線となる。従って、この場合のマーシャリアン・クロスは次のように表される。

長期での均衡

 これは均衡価格が、需要曲線がどんな位置にあるか関わりなく、供給側の要因(単位当たり生産費)だけで決まることを示している。これはスミス・リカードの自然価格、あるいはマルクスの生産価格と同じであり、言い方を変えれば古典派の価格論と同じである。この場合は生産者余剰はなくなる。つまり、超過利潤は消滅して、どこでも同じくらいもうかる正常利潤だけが得られることになる。

 しかし、この長期の場合の理論には例外がある。土地の肥沃度などに影響される農業、鉱山の埋蔵量などに影響される鉱業などでは、長期の供給曲線も水平にはならず右上がりになる。このようなケースは「規模に関して収穫逓減」と言われている。そして当然、均衡で生産者余剰が発生することになる。

付記
 新古典派の理論に対して私が持った疑問点を論じている本はないものかと図書館で物色していたら、川上則道著『マルクスに立ちミクロ経済学を知る』(2013年4月25日初版 新日本出版社)という著書に出合った。マルクス経済学者によるマーシャル理論批判である。今はまだざっと目を通したばかりだが、決して一方的な批判ではなく、現実の経済のあり方を踏まえた上での理路を尽くした批判だと判断した。私には「100年前で歴史が止まってたような」論争とは思えない。冒頭に記したように、学説の当否については今は問わないが、必要が出てきたらこの著書を利用させていただこうと思っている。

ミニ経済学史(12)

新古典派の時代(5)―A.マーシャル(2)・需要曲線

 微分などの数学使って効用価値説を確立した新古典派は数学知らない古典派の費用価値説は時代遅れだと批判する。一方、古典派は効用価値説などは現実離れしていて非科学的だと反論する。限界革命当初は効用価値説と費用価値説はまさに犬猿の仲だったようだ。しかし、マーシャルがこの論争のけりをつけたという。すなわち、「タイムスパンを短くとるほど新古典派の理論が成り立ち、長くとるほど古典派の理論が成り立つ」というのがその結論らしい。松尾さんは、このマーシャルの解決にもかかわらず、日本の学界ではつい最近まで「労働価値説か効用価値説か」の論争が行われていたと言い、「100年前で歴史が止まってたようなものだ。」と手厳しい。しかし、効用価値説を学習中しながら、私はいくつか「?」にぶつかっている。どうなることやら、ともかく進んでみよう。

 マーシャルの理論に需要曲線・供給曲線(マーシャリアン・クロスとも呼ばれている)という概念がある。次のようである。

需要曲線・供給曲線

需要曲線・供給曲線について、広辞苑は次ぎように説明している。

「需要曲線」
「需要者がその価格で購入してもよいと考える、需要量と価格との関係を示す関数をグラフで表した曲線。」

「供給曲線」
「生産者がその価格で供給してもよいと考える、産出量と価格の組合せを示す曲線。」

 つまり、これらの曲線はなにかキチンとした式があって書かれたグラフではなく、経済の仕組みを説明するためのイメージ図と考えればよいようだ。

 需要曲線・供給曲線はミクロ経済学の教科書には必ずでてくるそうだ。なんと、中学校の社会の教科書にも出てくるという。一般に、需要曲線・供給曲線は次の図のように書き表されている。

マーシャリアン・クロス

 上の図で曲線①②のどちらが需要曲線でどちらが供給曲線だろうか。数学では独立変数を横軸にとり、従属変数は縦軸である。だからこれを初めて見たとき、私は①が供給曲線で②が需要曲線と判断した。ところが違っていた。このグラフは縦軸→横軸と言う順で読むそうだ。つまり、価格が独立変数、で数量が従属変数。従って、次のようになる。

曲線①が需要曲線
 (価格が高くなるほど需要数は減少する)。
曲線②が供給曲線
 (価格が高くなるほど供給数は増加する)。

 なぜこのような常識とは逆の設定をしたのだろうか。マーシャルがそのように設定したのを誰も修正することなく、そのまま踏襲されてきたというのだろうか。中学生も相当戸惑うことだろう。これも初心者にとっては迷惑な話だ。

 ところで、曲線①②の横軸の数量はそれぞれ需要数・供給数という意味であることは明らかだが、縦軸の価格は何を意味しているのだろうか。それぞれ需要者あるいは供給者が希望する価格という意味合だろうか。教科書④は具体的な例を用いて詳しく説明しているので、煩をいとわずそれを読んでみる。

 需要曲線の価格と曲線の意味
 「限界効用」の意味は「消費を1単位増やしたときの効用(満足度)の増加分」だった。この「限界効用」を貨幣評価で表したものを
「需要価格」
と言う。

 えっ、満足度を貨幣評価する? どういうこと? 満足度を数値化すると言うことだろう。でも満足度という主観的な感覚を数値化するなんて、できるの? ともかく説明を読んでみよう。次のように解説している。

 パンが3個ある。Aさんがそのうち1個を80円で買った。そして、2個目も売ってもらえるとしたらいくらで買うか、という問題設定をしている。(今は1個で足りるのだが、2個目を言い値で買えるとしたらと意味なのだろう。)Aさんは30円なら買うと答える。さらに、3個目を買うとしたら、と続く。Aさんは10円と答えた。次のような図になる。

限界効用量の意味

 これが「Aさんのパンに対する限界効用の貨幣評価」を表していると説明している。そしてこのように「パンが1個、2個、3個と増えるごとに、限界効用の貨幣評価が80円、30円、10円と減っていく」ことを
「限界効用逓減の法則」
と言う。そして解説は次のように続く。

 売り手がこのパンを1個20円で売ると言ったら、Aさんは何個買うことになるだろうか。この問いに対する答は2個。なぜなら、1個目と2個目は20円で買うと得をするが、3個目は損をすることになるから。上の図でいうと20円のところから引いた横線より上にでた分だけ得をするので1個目と2個目を買うことになる。

 1個目―80円、2個目―30円、3個目―10円という価格が「需要価格」である。また、横線より上に出た得した分の合計70円を
「消費者余剰」
と言う。

 以上は買い手を一人、商品をパンと仮定したモデル例だが、商品をパンと限らず「何か一つの商品」とし、買い手を社会全体に拡大して一般化してみる。

 上の理屈と同じで、その商品が1個新しく増えるごとに、それをいくらなら買いたいかという評価額を考える。大勢の買い手の中で一番高く評価した人がその1個を優先で買えることになる。この最高評価額が一般化されたときの需要価格である。2個目・3個目……の需要価格を図5-2のように書き並べて、その一番上の点を結ぶと折れ線グラフが書ける。評価者が無数に多くなり、商品の個数も多くなると、このグラフの刻みが細かくなって行く。これを近似したものを需要曲線である。図5-2をこの需要曲線で置き換えて書き表すと次のようになる。

需要曲線

 この図で言えば、評価額がKのときの需要量がJであり、斜線部分が消費者余剰ということになる。
ミニ経済学史(11)

新古典派の時代(4)―A.マーシャル(1)・思想的立ち位置

 前回、アルフレッド・マーシャルが「ミクロ経済学」の教科書大系を築いたという紹介があったが、この「ミクロ経済学」とは何だろうか。これも人によっては常識の範囲の事柄なのだろうが、私には曖昧な理解しかないので、ウィキペディアのお世話になろう。

 ミクロ経済学(ミクロけいざいがく、英: Microeconomics)は、マクロ経済学に並ぶ近代経済学の主要な一分野である。

 経済主体の最小単位と定義する家計(消費者)、企業(生産者)、それらが経済的な取引を行う市場をその分析対象とし、世の中に存在する希少な資源の配分について研究する経済学の研究領域であり、最小単位の経済主体の行動を扱うためミクロ経済学と呼ばれる。

 これとは別に個別の経済活動を集計したマクロ経済学という領域もあり、ミクロ経済学と併せて経済学の二大理論として扱われている。ただし、現代ではマクロ経済学もミクロ経済学の応用分野の一つという面が強い。ミクロ経済学は、その応用分野であるマクロ経済学、財政学、金融論、公共経済学、国際経済学、産業組織論などに対して、分析の基礎理論を提供する役割をも果たしている。

 さて、本題に入ろう。初めにマーシャルの経済学研究の根柢にある思想的な立ち位置を知ることから始めよう。その上で、次ぎにその経済学説のあらましを具体的にたどることにする。

 松尾さんは、経済学を志す者はマーシャルの主著『経済学原理』(1890年刊 以下、『原理』と略す)の第1編を読むべきだと言っている。そこにはおおよそ次のようなことが書かれていると言う。

『貧困は避けられないものではなく、貧困をなくすことが経済学の主要な目的である。そして、市場経済の発展で昔と比べて人々が利己的になったと思われているのは幻想で、隣人とのきずなこそ薄まったかもしれないが、よそ者に対する同情は昔よりはるかに高まっており、人々は正直で公正になっている。実際には不正で反社会的な競争もあるが、競争を規制することでかえって強者の排他的な特権が作られがちである。産業革命期の産業の自由は残酷な弊害をもたらしたが、それは本来の姿ではない。産業の自由の本質は独立独歩であり、それは長い目でみて労働者階級の状況を進歩させ、新たな結合をもたらす。』

 これはまるでマルクスの主張のようである。マルクスは
『資本主義は短期的には不公正と変動で人々を苦しめるけど、長い目でみたら普遍性をもたらす。』
というようなことを言っていた。この二人の主張は
『強者が力で意図的に世の中を動かして弱者を食い物にするという「反経済学的発想」の図式が当てはまるのは短期的なもので、長い目でみれば、みんながトクになれるような、誰の意図でもない進歩がもたらされる。』
といった点で共通している。

 松尾さんは、『原理』の第1編には『「反経済学的発想」の市場主義者が経済学をゆがめている』ことについての言及があると言い、そのくだりを引用している。(馬場啓之助訳の東洋経済新報社版から)

 19世紀初期独占的な階級的特権をもつようになったところの、冷酷な雇主や政治屋のうちには政治経済学の権威を味方にしておくほうが都合がいいとみて、みずから「経済学者」だと称したものもある。現代にいたってもなお、同時代の経済学者たちは異口同音に大衆にたいする十分な教育費支出こそ真に経済的なものであり、これに反対するのは国民的見地からみて誤りでおろかであると主張するようになったのに、いぜん経済学者の名においてこれに反対しようとしているものがあるのだ。

 ところでカーライルやラスキンは十分な検討も加えないで、偉大な経済学者たちが実は反対しているような言行にたいしてもかれらに責任があると論じた。そしてカーライルやラスキンほどのすばらしく気高い詩的ビジョンをもたない多くの思想家が、これに追随してあらわれたために、偉大な経済学者たちの思想と性格について通俗的な誤解が生まれてきたのである。

 実際にはほとんどすべての経済学の創立者たちはヒューマニズムを信奉しており、親切で思いやりの深い気質の人たちであった。かれらはみずからのために富を得たいとは考えなかったが、富が大衆のあいだに幅ひろく分布していくことを望んだ。どんなに力強いものであっても、反社会的な独占にはかれらは反対した。数世代にわたってかれらは、雇主の連合組織には許されている特権を労働組合には認めないような階級的立法には反対した。かれらは旧救貧法が農業労働者その他の労働者たちの心情と家庭におよぼす害毒を防止するようその対策をたてようとした。政治屋や雇主のうちには経済学者の名のもとにしつようにこれに反対するものがあったにもかかわらず、かれらは工場法を支持した。かれらは例外なく、全民衆の福祉こそすべての個人的努力および公共的政策の究極の目標となるべきだという学説を心から支持した。

 この文章について、松尾さんはおおよそ次のような補足説明をしている。

『「偉大な経済学者たち」とは、もちろん古典派の人たちを指している。特に古典派の中でもJ.S.ミルを念頭に置いていると思う。ここにでてきたカーライルは理想主義者でミルとも大変親しくしていた。けれども、カーライルは黒人差別の文章を書いてミルに批判されている。その後、ジャマイカの黒人反乱弾圧でイギリス人総督が黒人を大虐殺する事件が起こったとき、ミルはこの総督の罪を告発する委員会を作ったのに対して、カーライルは総督を擁護する運動を担った。結局カーライル側の方が人気があって、ミルは人気をなくして国会議員に落選してしまう。ミルはそうなるのもわかった上であえて行動したのだった。……このようなことも踏まえて、マーシャルはこの文章を書いてる。』

 『原理』からの引用文が言っていることはそのまま現代でも当てはまりそうだ。松尾さんは次のように指摘している。

『声の大きい「反経済学的発想」の市場派エコノミストが血も涙もない強者のための俗説を唱えて、それを真に受けて反発した人々が経済学批判を繰り広げる。しかも一見ヒューマンなそういう経済学批判の言説の中に、排外主義の芽がひそんでいる。』

 『「反経済学的発想」の市場派エコノミスト』をエセ経済学者と断罪していると同時に、その連中の俗説を批判することと「真の経済学」への批判を混同するな、と言っていると思う。しかし、その俗説批判の中に「排外主義の芽がひそんでいる」と言っているが、私の乏しい情報の中にはその例を見いだすことができない。