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《『羽仁五郎の大予言』を読む》(1)

羽仁五郎とは何者か

生誕から敗戦時までの履歴


 7年ほど前、『今日の話題:「もう一つの可能性、沖縄独立を考える人たち」』で『街から』というリトルマガジンを紹介した。今回から始める話題はその雑誌(no.117 2012年4月号)から頂いたものです。

 その雑誌に矢崎泰久さんによる「変革に挑んだ日本人」という連載記事がある。その「⑤ 羽仁五郎―革命思想家の孤独な生涯」の中に『羽仁五郎の大予言』(1979年話の特集社刊 以下『大予言』と略記する)という著書が紹介されていた。その本が出版された頃は、丁度、五島勉著『ノストラダムスの大予言』(1973年刊)というトンデモ本がベストセラーになっていた。『…の大予言』などという書名ではオカルト本と誤解する人がいるかも知れない。にもかかわらずこの書名を付けた経緯を矢崎さん(当時『話の特集』の編集長)は次のように述べている。

 この本のタイトルに羽仁さんはなかなか首をタテにふらなかった。当時『ノストラダムスの大予言』という本がベストセラーになり、世間を騒がせていた。亜流のような扱いを受けたくないと言う羽仁さんを、私は本物の予言書はこれだと主張したいのだとゴネた。根負けした大思想家は「では、21世紀まで生きていて責任を取るしかないね」とようやく折れてくれた。

 1901年生れの羽仁五郎は、ミレニアムにはキッカリ百歳を迎えることになる。

 羽仁さんは『大予言』発行の4年後(1983年)に亡くなられた。享年82歳。

 矢崎さんはこの本を次のように紹介している。

 読んでいただければ、その鮮度の高さ、予見の正確さがたちまちわかるのだが、私から簡単ではあるが説明する。

 現在進行中の世界の危機を指摘していることは、まさに驚異としか言いようもない。その頃、羽仁さんは朝起きると配達されて来たばかりの朝毎読三紙に目を通し、午前中のほとんどの時間をかけて赤、青二色の鉛筆で傍線を施した上で切り抜きを作っていた。それも一面や特集記事より、隅にある世界情勢に関連するどんな細かい記事をも見逃さないようにしていた。午後には数日遅れで届くイギリスのタイム紙、アメリカのニューヨークータイムズ紙の二紙の記事から、日本の新聞報道にあるなしをまず分類して、並行的にファイルを作成する。こうした作業は葉山に住むようになってから、日常的に行なわれていたので、書庫の一角に資料類が堆高く積み上げられていた。年次別になっているので、保存及び管理も十分であった。

 こうした中から世界の流れを的確につかみ、自分の思索の糧としてきた。21世紀への予言に当たる部分は不断の作業と思索から紡ぎ出されたものである。チリに起きた政変をあらゆる角度から分析し、ついには歴史的な立往生であると宣言する。こうした流れが現在に至るまで脈々とつながっているのである。

 『大予言』の中に「裁判は階級的である」「権力が教育を破壊する」という表題の章がある。このような事態は今に始まったことではないが、今は大日本帝国のゾンビたちが臆面もなく跋扈し、その酷さが日ごとに増幅されている。私は矢崎さんの紹介文を読んで、ぜひ『大予言』を読んでみたいと思った。さっそく購入したが、そのまま「積ん読」のままになっていた。古代史の次のテーマが熟するまで、この宿題を取り上げようと思い立った。これまで通り、どのように進めるか未定のまま、ともかく始めることにした。たぶん、あっちへ飛んだりこっちへ戻ったり、迷走を繰り返すことになるかもしれない。

 まず、羽仁五郎とは何者か。その著書『都市の論理』(1968年刊)がベストセラーとなり、羽仁さんは一躍学生運動の革命理論家的存在になった。私は『都市の論理』を読んでいないし、羽仁さんについて知ることはこの程度である。矢崎さんの解説と『大予言』巻末の年譜を用いて羽仁さんの人物像を垣間見てみよう。

生誕
1901(明治34)年3月29日
 生家は群馬県桐生市の代々続く大きな織物業者だった。父の森宗作は第四十銀行の創立者で初代頭取になった。羽仁さんは裕福な家庭で育てられた。

学歴
1913(大正2)年 12歳
東京府立第四中学校(現・戸山高校)に入学。

 羽仁さんは、中学2年生の時に、規則づくめで詰め込み主義に徹した管理体質の学校に反発し、課題作文「わが第四中学校」で学校批判をした。学校当局は数日間の登校停止処分を受けたが、辛うじて停学処分にはならなかった。
1918(大正7)年 17歳
一高の独法科に入学。

 ドイツ語の教科書クライスト著『ミハエル・コオルハアス』の封建社会への反逆に強く惹かれる。
 19歳(1920年)の時に、大逆事件に題材をとった短編小説「反逆者」を校友会雑誌に発表して注目され、当時の大新聞だった「萬朝報」の懸賞小説に匿名で応募し二作が入選を果たしている。その後文学に傾倒し、20歳(1920)年には羽仁もと子の編集する婦人之友社の少年少女雑誌「まなびの友」に短編や詩を発表している。
1921(大正10)年4月
東大法学部に進学

 数ヶ月で休学し、9月にドイツで歴史哲学を学ぶことを志して単身ヨーロッパヘ旅立った。第一次世界大戦直後のことである。当時のドイツは大戦の敗北による貧困から必死に立ち上がろうとしていた。羽仁さんは翌年ハイデルベルク大学の哲学科の学生になった。
「もの凄いインフレーションの真っ只中で、ぼくは下宿生活を送っていたんだ。朝眼が覚めて市場に買物に行くと、卵が前の日の倍の値段になっている。ところが、その翌日も、その倍になる。驚いたよ。すべては卵が始りだった。」
 羽仁さんは激動の中でドイツが次第に力を蓄える様を目撃したのだった。

 その頃のヨーロッパで三木清、林達夫らと交流しながらマルクス主義を学んだ。遠い日々を私(矢崎)に語り聞かせる羽仁さんの眼には、若かった時代のまぶしい程の光が宿っているようであった。
 三木さんはハイデッガーが教鞭をとっていたマールブルク大学に移ったが、羽仁さんはハイデルベルク大学に留まり、イタリアの哲学者ベネデト・クロオチェの歴史哲学を知ることになった。『クロオチェ』(河出書房)の伝記を1939年に上梓したのは、この時の実体験からでもある。
1924(大正13)年
 帰国。東大文学部史学科に再入学

 帰国の途についた羽仁さんは、マルセーユから船に乗り、途中カルカッタ、シンガポール、上海などで帝国主義下の植民地圧政に苦しむアジアを歴訪し、民衆の極度な貧困を見て強い衝撃を受けたと言う。多感な24歳という年齢を思うと、まさに筋金入りの反権力への道程を歩む姿が垣間見えて来るではないか。

結婚
1926(昭和元)年4月8日
羽仁説子さんと結婚

 女性の独立を助ける考えから、自由学園を創設した羽仁吉一、もと子さんの家に夫婦で入り羽仁姓となった。
 この年、岩波書店の創立者・岩波茂雄の支持を受けて「歴史叙述の理論及歴史」というクロオチェの訳著を岩波書店から刊行する。その翌年に東大を卒業するとほぼ同時に、自由学園教授、日大講師(2年後に教授)に就任し、独自な歴史哲学の講義を本格的に始めている。若干26歳。その後の思索活動は多忙を極め、官吏になることを嫌って嘱託となっていた東大史料編纂所の改革にも尽力している。

その後の活躍
1928(昭和3)年2月、日本最初の普通選挙で、社会民衆党から立候補した阿部磯雄を応援して本郷で演説し、史料編纂所から注意を受けるや、独自の改革案を所長に辞表と共に提出して辞職した。

 ますます反権力的傾向を強めながら活発な言行一致的な思想を世に問うようになるが、1933(昭和8)年、ついに大きな災難に見舞われる。(下は年譜よりの引用)

 9月11日、早朝4、5人の私服刑事に自宅から目白警察に連行留置される。治安維持法違反容疑の名目だが逮捕状はなく、24時間以内に検束を解かねばならないので、夜中の12時になると警察の玄関まで連れ出して再検束するやり方で約3ヵ月半を地下の留置場に監禁された。その間、目白署から京橋署と〝たらい回し″されながら警視庁から来た〈特高〉という思想警察に自白を強要されたが、当時非合法の日本共産党を指導していた野呂栄太郎のかくれ家をはじめ友人の秘密を守り、共産党に資金提供したという誘導尋問をもしりぞける。

(中略)

 強制的に虚偽の「手記」を書かされた上で、12月末に釈放されしばらく拘禁性心臓障害で入院した。

(以下は矢崎さんの解説をそのまま引用する。)

 留置中に辞表の提出を求められ、日大教授の職を奪われてもいる。この年、ナチス党を率いたヒトラーがドイツで政権の座に着いた。日本の軍国主義がそれに同調する。羽仁さんは反ファシズム、反戦の旗幟を鮮明にしながらミケルアンヂェロ」(岩波書店)など次々に自由と人権の著作を発表している。

 しかし、第二次世界大戦は不幸にも勃発する。前年末の出版法違反(反政府宣伝)で起訴され北軽井沢滞在中の津田左右吉を久野収と共に訪問し、公判を前にして意見を述べたりもしている。

 こうした活動が政府によって監視され、敗戦間近かになると身に危険を感じるようになった。拘束、虐殺を心配する友人たちから国外脱出を勧められ、中国に渡って戦争をやめさせる工作を開始する。自由学園が中国の戦災孤児のために経営していた北京学校の資金調達という名目でようやく旅券を取っての危険な脱出行であった。

 しかし、敗戦直前の3月10日、偽電話で北京市内の料理店に呼び出され、憲兵によってロビーで逮捕される。同行していた羽仁説子は翌日釈放になったが、羽仁五郎は2週間後に東京の警視庁に強制送還の上で留置され、連日拷問を受けることになった。

 7月末、身勝手な国家は突然、ポツダム宣言についての意見を羽仁五郎に求めた。羽仁さんは冷静沈着に「即刻受諾すべし」と答えている。その意見を入れていれば広島・長崎の原爆投下はなかったかも知れない。

 羽仁さんは敗戦後も警視庁地下二階の代用監獄に拘留され、10月4日に治安維持法が廃止されるまで自由の身になることはなかった。体はボロボロだった。病院に運ばれた時に、危篤のニュースが流れたりもした。

 10月10日号の『週刊朝日』に「団結・自由・勝利 ― 病床から」を執筆。これが戦後の羽仁さんの第一声となった。

 羽仁五郎が青少年時代から求め続けてきた、言論表現の自由はようやく手中にすることが出来た。それまでミケルアンヂェロやクロオチェを盾にして権力を撃ってはきたが、限界はあった。フェミニストとして迫害を受け、教育の場からも次第に閉め出された。敗戦によるものとは言え、長い年月をかけて批判し続けてきた明治維新の虚構も堂々と暴くことが可能になった。天皇制反対の旗印はついに一度も下ろすことはなかったのである。

(戦後の活躍については必要に応じて取り上げることにする。)
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《続・「真説古代史」拾遺篇》(170)



「古代の推定人口」異論(12)


投馬国について補足

 『「古代の推定人口」異論』は前回で終えるつもりだったが、もう一回追加したい。

 投馬国についての記述では重要な2点については単なる推測で終わっていた。もう少し何とかならないかと思っていた。文献上の資料は「倭人伝」以外にはないのだから、考古学上の資料を求めるほかない。そこで久しぶりに図書館へ行って来た。以下は
①『日本歴史地名大系』(平凡社)
②『角川日本地名大辞典』
を教科書としている。青字の文は前回の私の推測です。

推測1
投馬国には水田耕作の伝播も遅かったのではないだろうか。

 これは全く間違っていた。②より引用する。

 弥生文化は水稲耕作と金属器の使用に特色づけられる。本県においても、この特色をもつ文化が弥生時代の前期には早くも確認でき、以後中期への発展をみせるが、後期には停滞する様相を呈する。

 弥生時代の主な遺跡は、薩摩半島西岸沿いの日置郡金峰(きんぼう)町・吹上町、鹿児島湾岸の鹿児島市・垂水(たるみず)市、志布志湾周辺部の肝属(きもつき)郡高山(こうやま)町、川内川流域の大口市・姶良郡栗野町などがあげられるが、それを時期的に概観すると、前期前半に薩摩半島西岸部に導入され、前期後半には鹿児島湾岸に、そして中期になると島嶼部を除く県下全域へと拡大する傾向をみせる。

 まず、弥生文化が最初に導入された日置郡金峰町の高橋貝塚が注目される。この遺跡は前期を代表する遺物が多く出土した。この遺跡から出土した土器には籾の圧痕が見出されており、また抉入(けつにゅう)石斧の出土などから福岡市の板付遺跡との関連が推測されている。

 稲作は「後期には停滞」すると書かれているが、①では
「その後南九州に稲作文化が定着した痕跡は認められず、狩猟・漁猟・植物採集が重要な生活手段であったのであろう。」
と推測している。もちろん、
「狩猟・漁猟・植物採集が重要な生活手段」
の一つであったことは、投馬国に限ったことではないし、その通りであろう。しかし、水田耕作は振るわなかったとしても、その他の農耕が盛んだったことは論を俟たない。なお、②は水田耕作が弥生文化が後期以降停滞する要因として
「本県の火山性土壌と水稲耕作の不適性」
を指摘している。これもその通りだと思う。

 また、②では板付遺跡との関連を推測しているが、鉄器類についても言えることだろう。

 さらに、鉄器様遺物も発見され、九州でも早い時期の鉄器の導入として注目される。石包丁の出土した遺跡は、県内でほぼ50か所を数えるが、1か所からの出土数は1~2個であるにもかかわらず、この遺跡からは9個出土した。

推測2
祭祀用・シンボル用青銅器の投馬国への伝播が遅かったか、あるいはそれが投馬国の伝統に馴染まなかったのではないだろうか。

 稲と同時期に鉄器も伝播していたのなら青銅器もほぼ同じ時期に伝播していたと考えるのが妥当だろう。しかし、考古学的事実として青銅器の出土は僅少である。「投馬国の伝統に馴染まなかった」という推測の方はそう間違ってはいなかったと思う。金峰町の高橋貝塚からは「ゴホウラ製貝輪の製品・未製品」も出土している。これについて②は次ぎのように述べている。

この貝は種子島以南の南海産で、特に沖縄諸島海域に多く産するが、この地に運ばれて加工され、北部九州・中国・畿内地方まで交易品としてもたらされている。前代に続いて、海洋性の文化の性格づけができよう。

 その点では、種子島南部の広田遺跡も注目される。この遺跡は前期後半から後期にかけての埋葬遺跡で100体以上の人骨が出土した。上下2層の埋葬のうち、上層は一度埋葬したあと集骨したもの、下層は屈葬人骨であったが、そこからは中国系のトウテツ文様の貝符も出土し、東シナ海文化圏を想定させる遺物として注意をひいた。また、この遺跡出土の貝符の1枚には「山」の文字が刻まれていた。

 ここまでは主として弥生早期~前期の遺跡についての分析であるが、中・後期についてはどうだったろうか。①から引用する。

 鹿児島市王子遺跡は中・後期の出土遺物により瀬戸内および北九州との交通路の存在が推定される。金峰町松木薗(まつきぞの)遺跡は後期を主体とし、集落を防御するための環濠がめぐらされている。肥後系の土器も出土し、中九州方面との交流があったのであろう。

 投馬国は沖縄諸島海域と銅鉾圏を結ぶ重要な役割を担っていたようだ。水田耕作が不振でも、幅広い交易によってその不足を補って余りあったと考えられる。

 投馬国の祭祀も独特なものだったようだ。②では次のように記されている。

 祭祀遺跡として注目されるものに肝属郡大根占(おおねじめ)町の山ノロ遺跡がある。中期の遺跡で、径3mほどの環状配石とその周囲に壷形・甕形土器が配置され、軽石製岩偶・同陰石・同石棒、それに焚火跡が見出された。おそらくは海岸平野部に立地した共同祭祀場であろうが、特異な性格をもつ遺跡である。

 ①ではまた別の祭祀遺構が取り上げられている。次のようである。

 薩摩半島南端地域には独特な祭祀遺構として立石墓と称されるものがある。山川(やまがわ)町成川(なりかわ)遺跡は弥生中期後葉から古墳時代にかけての埋葬・祭祀遺跡である。弥生時代の立石が30基近くあり、傍らに焚火跡を伴い、立石の性格を示唆している。

 第一号立石は遺跡の中央部分に位置し、埋葬人骨がまったく認められない。この最も巨大な立石は依代と考えられ、儀礼的な性格をもち、墓地を営んだ集団全体の喪葬儀式の場であろう。枕崎市松ノ尾遺跡でも成川遺跡と同様の遺構が認められる。

 「立石墓」と呼ばれる遺跡を始めて知った。ネット検索をしたら「松之尾立石墓」を紹介している「古代文化研究所」さんに出合った。そこから一部転載させていただく。

 松之尾遺跡で出土したものは、壺形土器、高坏、坩、鉄器製品等の遺物のほか、土壙墓、立石等が確認されている。更に第二次発掘調査が昭和55(1980)年10月から翌年の1月に行われ、数多くの土壙墓、立石が現れ、また、壺形土器、高坏・坩等の多種多様な土器類、剣・刀子や鉄鏃などの鉄器類が出土している。

 調査の結果、松之尾遺跡は弥生時代終期から、古墳時代初頭にかけて盛行した砂丘に立地する埋葬遺跡であること、この砂丘を使用した初現は、弥生時代中期に求められることなどが判明したとある。

 松之尾遺跡の脇にある説明看板には次のように記されているという。

  松之尾立石墓
 ここにある石は、弥生時代中期頃(今から約1600年前)の墓に使用された立石です。
 石は板状の自然石で、石質は安山岩(火山岩の一つで灰色で、黒や白の斑点が見られる)です。
 ほかに立石をもたない古墳時代の墓(土壙墓)もあり、弥生時代中頃から墓地として、利用されてきました。
 なお、この立石墓は南薩地方にみられる独特の埋葬施設です。


 松之尾遺跡が本格的に発掘されたのは1972~1980年だという。これまで鹿児島県では弥生時代の遺跡や出土品は少なかったが、これからまだまだ新しい発見があるのではないだろうか。
《続・「真説古代史」拾遺篇》(169)



「古代の推定人口」異論(11)


まとめ(3)

奴国

 「倭人伝」には奴国の首都は「(伊都国の首都の)東南、奴国に至ること、百里(7~8㎞)」と記録されている。古田氏は伊都国の首都を波多江付近(前原~周船寺間)に比定した(『「邪馬台国」はなかった』より)。この比定地をもう少し絞ろう。

 周船寺(すせんじ)から東南百里の地は高祖山の辺りであり、山中になってしまう。前原からだと細石神社辺りになる。この付近には三雲南小路(みくもみなみしょうじ)遺跡・井原鑓溝(いわらやりみぞ)遺跡・平原(ひらばる)遺跡という三種の神器(鏡・剣・勾王)をもつ弥生の王墓三基がある。こここそ奴国の首都としてふさわしい。すると逆に、伊都国の首都「郡の使の往来、常に駐る所」は前原辺りということになる。『「一大率」とは何か(4)』で、「一大率」の所在地を周船寺とする説に賛同した。そのときは伊都国の首都は周船寺だろうかとも思ったが、ここはあくまでも一大率の軍営基地だろう。

 上記の三遺跡がある糸島平野は糸島地方では最も大きな平野ではあるが、どのくらいの広さであろうか。境界を、東は高祖山地・南は背振山地・北は周船寺あたり・西は前原あたりとすると、東西・南北ともに8㎞ほどだろうか。この領域内で戸数2万は多すぎすだろう。奴国の領域には肥前国の佐賀郡・神埼郡・養父郡なども含まれていたのではないだろうか。もしそうならば、戸数2万もうなずける。『「古代の推定人口」異論(4)』で、私は吉野ヶ里遺跡は「もしかしたら、奴国の都だったのでは?」などとうかつなことを口走ったが(後日取り消した)、有明海に臨む軍事基地として、吉野ヶ里遺跡が奴国(あるいは邪馬壹国)の領域内に入る可能性はあると思う。

投馬国

 投馬国を薩摩国・大隅国(現在の鹿児島県全体)に比定してきたが、この比定には問題点が二点ある。第一点に、
(a)青銅器遺物が乏しいのだ。
「女王国統属下の国々(その四)」の図(1)・(2)をみると銅鉾(または銅戈)がわずかしか出土していない。第二点は「投馬国(7)」で出合った
(b)石器出土数のくいちがい問題
である。

(a)について

 青銅製武具は武器というより祭祀用あるいは権力のシンボルとして用いられていた。その祭祀用・シンボル用青銅器の投馬国への伝播が遅かったか、あるいはそれが投馬国の伝統に馴染まなかったのではないだろうか。投馬国は親魏倭国として邪馬壹国と親密な関係にあったが、隷属していたわけではない。自らの歴史が培ってきた伝統をそうたやすく放棄するはずはない。

 投馬国には水田耕作の伝播も遅かったのではないだろうか。しかし、南九州は縄文文明の先進地であったようだ。南九州の縄文文明については「投馬国(7)」で上野原遺跡を紹介したが、もう一件取り上げよう。

 南九州では縄文時代の早い時期から「定住性の高い集落」が形成されていたという。玉田芳英編『史跡で読む日本の歴史1 列島文化のはじまり』所収の岡田康博論文「定住の開始と集落の出現」から引用する。

 さらに、南九州でも定住性の高い集落がみつかっている。史跡拵ノ原(かこいのはら)遺跡は薩摩半島の西側、鹿児島県南さつま市(旧加世田市村原)に位置する。万之瀬(まのせ)川と加世田(かせだ)川の合流地点の西側の標高約40㍍の丘陵上に立地する縄文時代草創期の集落跡である。集落は台地北部の南から緩く北に傾斜する斜面から発見された。約1万1000年前の薩摩火山灰に覆われていたため、良好な状態で保存されていた。

 遺跡の西側には溶結凝灰岩の板石を舟形に組んだ舟形配石炉を含む配石炉、焼け石が密集した集石遺構、土坑などが検出された。ほかに燻製用の施設と考えられる煙道付炉穴も検出された。出土遺物には隆帯文土器、石鏃、磨製石斧、打製石斧、磨石、石皿、スクレイパーなどがある。隆帯文土器は平底と思われる。磨製石斧には両側縁に抉りのあるもの、丸鑿(まるのみ)状のもの、定角式がある。縄文時代に普遍的な土器や石斧などの石器が普及していることは中小型獣の狩猟、堅果類の粉食など植物製食料の利用、森林の伐採や木材の加工など縄文時代的な生業、食生活の開始をよく示している。

 拵ノ原遺跡では1975~1977年,1986年,1989~1993年と9回の発掘調査が行われている。その結果、その遺跡は縄文時代草創期から縄文時代早期・後期・晩期・古墳時代,中世にかけての複合遺跡であることが分かった。

(b)について

 「投馬国(7)」で提示した古田・奥野・安本の三氏が用いている表①・表②・表③から鹿児島県の部分をとり出して、問題点を再提示しよう。

①  工具2 漁具1 武具21 その他4 計28

 鉄剣9 鉄鏃12〈武具計21〉 工具・他6 合計27

 刀子1 鉄鏃3 計4

 ①②と比べて、③が著しく少ないのだった。これらの資料から、私は
『もしも表③の方が正しいとすると、「投馬国=薩摩」説の考古学的根拠が怪しくなるけど、私にはこれ以上の資料は思いつかないので、この問題はここでひとまず終える』
と問題を保留していた。しかし、このほど古田氏の著作『ここに古代王朝ありき』で新たな資料に出合った。次の図である。
投馬国鉄器出土状況
 この資料では出土地までが明らかにされている。この資料を疑う理由はない。安本氏作成の表③が誤りであることを確信した。

 上の図によると
鉄剣9 刀1 鉄鏃12 鉄器4 刀子1 釣針1 鉇1 計29
である。これを①②の分類に従ってまとめて、()で追記すると次のようになる。(「鉇(やりがんな)」は「鉈」の異体字)


 工具2(2) 漁具1(1) 武具21(22) その他4(4) 計28

 鉄剣9(9) 鉄鏃12(12)〈武具計21(22)〉 工具・他6(7) 合計27

 ①には「刀1」②には「刀1」と「刀子1・釣針1・鉇1のどれか一つ」がおちているようだ。それぞれの表の作成時期以降に新たな発見があったのだろう。

 さて、鉄製農具によって農業生産の質と量は飛躍的に向上するだろう。一般論としてこの二点に異論はないだろう。また、鉄製武器は戦闘力を飛躍的に高めるだろう。では、投馬国の出土鉄器からは何が読み取れるだろうか。ここでもう一つ、『「邪馬台国」論争は終わっている。(7)』で用いた図を追加する。

大型鉄器分布図

 以上の鹿児島における鉄器出土状況について、古田氏は『ここに古代王朝ありき』で次のように述べている。

 図において新たに注目されるのは、鹿児島の「28」。その中心は「指宿」にある。「全大型鉄器表」にもあるように、南九州でひとり周辺と卓絶した質量をしめしているのである。

 ことに周辺との隔絶性が注目されよう。全体量は、福岡県などには遠く及ばないけれども、この地帯においては、卓絶した力量をそなえていると見られる。

 わたしは、かつて第一書『「邪馬台国」はなかった』において、投馬国をこの鹿児島湾一帯の中に求めた。「水行二十日」を不弥国(博多湾岸、西端)から南へ、九州東岸まわり、と解した結果である。けれども、その「投馬国」の中心が不明だった。ここには「銅鏡」「銅矛」類の出土分布がないからである。

 ところが、今回、鉄器によってその中心点が見出された。ここ指宿は鹿児島湾の入口、その喉元を扼する要衝だ。ここを制する者は、鹿児島湾全体を制する。指宿の王者は、すなわち鹿児島湾岸の王者なのである。

 古田氏は『俾弥呼』では投馬国の所在地について新説を提出している。それについては『投馬国(6):古田説の検討(4)』で検討しているが、私には受け入れられなかった。私は第一書での説を採用している。

 また、古田氏は指宿を投馬国の中心地としているが、そこは投馬国の首都という意味合いでの中心としては地理的に端に偏りすぎている。そこはあくまでも「鹿児島湾の入口、その喉元を扼する要衝」であり、そのための一大軍営地であろう。やはり投馬国の首都は姶良市あるいは霧島市辺りではないだろうか。たった一本の出土ではあるが、霧島市隼人から鉄剣が出土している。

 ともあれ、投馬国が鹿児島県全体と重なるような領域を支配していたとすると、戸数5万を過大表記として一概に否定することはできないと思う。

(以上で『「古代の推定人口」異論』を終わりとします。)
《続・「真説古代史」拾遺篇》(168)



「古代の推定人口」異論(10)


まとめ(2)

(以下、《》付きの《邪馬壹国の領域》とは『失われた九州王朝』の一節「邪馬壹国の領域」のことです。)

 行路記事に依れば邪馬壹国の北は、邪馬壹国の玄関口の役を担う不弥国(姪の浜付近)・博多湾であり、西は伊都国と伊都国の東南百里(約7.6㎞)に政庁(以下では「首都」と呼ぶことにする)を持つ奴国と接している(奴国の領域については後に検討する)。しかし、東と南の境については文献は何も語っていない。古田氏は《邪馬壹国の領域》では東と南の境界について、次のような推定をしている。

 東は遠賀川の流域、南は筑後川の流域もまた、「邪馬壹国の全領域」中にふくまれていた、という可能性を十分もっているのである。すなわち、「筑紫国(筑前・筑後)→福岡県」という行政単位それ自身が、古えの邪馬壹国の領域を原型とし、それと大きく重なりあっている、という可能性もまた、大きいのである。

 古田氏はこの可能性が大である論拠として「山門(やまと)」という地名を取り上げている。

この点、一つの示唆を与えるのは「山門」という地名だ。筑前の室見川下流に「(下)山門」があり、筑後川下流に「山門郡」があった。肥後にも、「山門」があった、という。これは文字通り〝「山」の入口″という意味だ。ところが、筑後の山門郡を見ると、ここは地形上〝「山」の入口″ではない。むしろ筑後川の〝川の入口″といった方がいい。そうすると、この「山」とは、地形上の「山」ではなく、〝政治領域としての「山国」″ではないか、と思われてくる(『「邪馬台国」はなかった」でのべたように、「邪馬壹国」は山倭(やまゐ)国」であり、〝倭国を代表する山国″という意味だった)。「山国」、すなわち「邪馬壹国」の西北の入口は、室見川河口の「(下)山門」であり、南方の入口は筑後の「山門」や肥後の「山門」だったのではないか、と思われるのである。

 こうしてみると、「戸七万」の「邪馬壹国」の領域は、相当に広範囲だったこととなるであろう。

 「山門」という地名の意味は従来は「山への入り口」という意味とされてきた。吉田茂樹著『日本古代地名事典』には筑後国山門郡と肥後国菊地郡山門郷が取り上げられているが、どちらにも「山への入り口」という意であると解説されている。「大和」については「山処(あまと)=山のある所」と解釈している。ついでに他にも「山門」という地名がないかと調べてみたら、次のような例があった。

愛知県名古屋市千種区山門町
 ここは古代からある地名ではなく、新しい上に読みも「さんもん」であり、上の例とは全く異なる。「日泰寺の山門」という意と解説されていた。日泰寺の創建は1904(明治37)年だそうだ。

山口県宇部市山門
 ここも読みが違う。「やまかど」である。宇部市の南方で山口大学の北に位置する。近くにこれといった山が見当たらない。なぜ「やまかど」という地名が付けられたのか、ネットでは調べられなかった。

滋賀県長浜市西浅井町山門
 ここの「山門」はどう読むのか、ネットでは確認できなかった。琵琶湖の北岸にある。まわりは山だらけ。たぶん「山の入り口」で、「やまと」と読むのだろう。

北九州市山門町
 ここの「山門」もどう読むのか、確認できなかったが、すぐ東に山地がある。ここも「山の入り口」で、「やまと」だろう。

 余分な横道に入ってしまったようだ。戻ろう。

 古田氏は筑後国山門郡については「むしろ筑後川の〝川の入口″といった方がいい」と言い、「邪馬(壹)国の入り口」という新解釈を提出している。そして、(下)山門が邪馬壹国の西の境界であり、筑後国山門郡が南の境界であるとしている。そして、確言はしていないが、邪馬壹国の領域は筑紫国(筑前+筑後)と「大きく重なっている」可能性大だと言う。もしも、北九州市山門町も「邪馬(壹)国の入り口」という意の地名と考えれば東の境界は遠賀川の流域よりさらに東になり、ほとんど筑紫国全域ということになる。

 戸数7万という点から考えても邪馬壹国の領域はかなり広大であったことが予測できる。古田説には一理あると思う。しかし、この説は氏自身が『俾弥呼』で躬臣国を筑紫(のどこか)に、姐奴国を「女山(ゾヤマ)」(筑後山門、福岡県)に比定していることと整合しない。

 私は已百支国を上座郡の把伎(現在は朝倉市杷木)に、郡支国を北九州市の洞海湾付近に、弥奴国を三潴郡に比定している。これらの比定は固執するほどの確かさはないかもしれないが、一応私の立場からも「邪馬壹国≒筑紫全体」説には違和がある。

 古田説の要になっている「山門郡はむしろ筑後川の〝川の入口″」という「山門」の意味変更の根拠も弱いと思う。山門は郡名として採用されて広い領域を指しているが、現在では「みやま市瀬高町山門」として残っている。もとはここで使われ始めた地名が郡名として採用されたのではないか。ここは筑肥山地のすぐ西に位置していて、「山の入り口」として違和はない。また「下山門」は姪の浜のすぐ西に位置し、邪馬壹国の入り口ではなく、むしろ不弥国の入り口に当る。そして、ここもあの天孫降臨の地・高祖山のある背振山地への入り口として「山門(山の入り口)」という地名に不審はない。

 私は已百支国・郡支国・弥奴国の比定をしながら、漠然とではあるが、邪馬壹国の東の境界は遠賀川、南の境界は甘木あたりと想定していた。確かな論拠はないが、今は上の3国の比定地と整合するという理由で、この想定を私の説として提出しよう。ただし、この領域では戸数7万国としては狭すぎるきらいがあるが、この点については『「古代の推定人口」異論(4)』で学習した「弥生後期の社会像」を指摘しておこう。ここでは要点を抜き出しておく。

(1)
 板付遺跡では既に本格的な水田耕作が行われていたことが分かっている。もちろん水田はここだけではない。弥生後期には相当の人口を維持することができる水田耕作が行われていたことだろう。

(2)
 九州地方北部ではそれまでの環濠集落が大規模に発展している。それは次のようなピラミッド状に構成された地域集落群を形成していた。すなわち、内部に記念物的な大型建物や青銅器などの手工業工房をもち、祭祀的な施設や文物をもった中核となる大規模な環濠集落の下に、防御的な中小環濠集落が、その下位に無環濠の大規模農村、さらに多数の無環濠の中小集落(農山漁村)が存在していた。

 各ピラミッド状集落ではあらゆる生業が営まれていて、一種の都市の様相を示している。九州北部の人口密度はかなり高かったと推測できる。