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《続・「真説古代史」拾遺篇》(167)



「古代の推定人口」異論(9)


まとめ(1)

 問題の発端は水野祐氏による「倭人伝」に記載されいる戸数(人口数)の信憑性の否定だった。氏は「事実に合わない数値」だと言う。その事実とは澤田氏による弥生時代の推計人口との比較だった。澤田氏によるものだけでなく、従来流布されてきた弥生時代・奈良時代の推計人口が全て農民だけを対象にしていることがはっきりしたので、この水野氏による指摘は無意味となった。「倭人伝」に戻って再考する外ない。

 水野氏は対馬国・一大国・末廬国・伊都国の四ヵ国(どういうわけか、不弥国が抜けている)の戸数は
「魏の使者が直接渡来し、親しく見聞した国々」
なので信憑性があるとした。それに対して、奴国・邪馬壹国・投馬国は
「魏使が直接訪れていない国々であり、それらは皆、万戸以上の戸数を示しているので、それらはすべて魏使が伝聞をもとにして、概数を推測によって記したものと解されるから、これは信憑性のないものである」
とした。

 水野氏が信憑性を否定している論拠は二点ある。
(1)
 魏使は奴国・邪馬壹国・投馬国には直接訪れていない。
(2)
 「万戸以上の戸数」は多すぎる。

(1)について

 水野氏の言説は「井の中」でほとんど定説となっている榎一雄説(「放射状行路」説)を踏襲している。榎説では「魏の使者は伊都国にストップし、そこから先へは行かなかった」ことになっている。この榎説に対して、古田氏は「傍線行路」説を説き、榎説を批判している。(詳しくは『「邪馬台国」論争は終わっている。(5)』を参照してください。)ここでは「倭人伝」中の次の記事を転載しておこう。

正始元年、太守弓遵(きゅうじゅん)、建中校尉梯儁(ていしゅん)等を遣わし、詔書・印綬を奉じて、倭國に詣り、倭王に拝仮し、ならびに詣を齎し、金帛・錦罽(きんけい)・刀・鏡・采物を賜う。倭王、使に因って上表し、詣恩を答謝す。

 魏使は邪馬壹国で俾弥呼に会っている。この記事を無視して、「魏の使者は伊都国でストップ」という説が定説になるなんて、まさに「井の中」は病膏肓に入る状態である。

 上の記事の他に「倭人伝」に記録されている魏使に247(正始8)年「に派遣された塞曹掾史(さいそうえんし)張政等」がいる。張政は狗奴国と女王国との紛争の際に派遣された。張政の役どころは軍事顧問といったところだろうか。相当に長い間倭国に滞在していた(一説に20年と言う)。倭国での実地見聞は相当に正確だったと考えられる。『「邪馬台国」論争は終わっている。(12)』で、木佐敬久氏の次のような一文を引用した。

「倭人伝の最初に書かれている行路記事は、張政の軍事的報告書を背景にもち、中国側の軍事用の目的にかなうものとして、書かれているものと見なければならなぬ。」

 「(伊都国は)郡使の往来、常に駐(とど)まる所。」というのだから、倭への魏使の派遣は上に示した記録以外にもあったと考えられる。「倭人伝」はこれらの魏使の報告書をもとに書かれている。「井の中」で貶められているような間違いだらけの史料であるはずがない。

 さて、「倭人伝」の行路記事が上記のような意味合いを持った報告書をもとに書かれたのなら、当然魏使は奴国・投馬国をも実地見聞していたことになる。

(2)について

 倭国は百余国から成り立っていた。そのほとんどは後の郡の1~3程度の領域をもった小国だったと考えてよいだろう。そして、それらの国の戸数は1000~3000位だっだのではないだろうか。水野氏は邪馬壹国・奴国・投馬国をそれぞれ「筑後川下流地域筑後国山門郡地域」「那珂郡博多」「筑後川上流々域」に比定している。いずれも郡規模程度の領域を想定しているようだ。水野氏が「万戸以上の戸数」を否定する当然のことだった。しかし、私(たち)の比定では邪馬壹国・奴国・投馬国の領域はもっと広大な領域になるだろう。それぞれの国について検討してみよう。

邪馬壹国

 まず、「女王の都する所」を確認しておこう。伊都国より東行百里に位置する不弥国は姪の浜当たりと比定できた。そして、邪馬壹国は不弥国の南とだけあり、距離が書かれていない。これは不弥国の中心地(官庁)から邪馬壹国の中心地「女王の都する所」がほとんど隣接しているからである。つまり不弥国の中心地からは「女王の都する所」の偉容を垣間見できるほどの距離であった。次の文はサイト「福岡県の文化財」からの引用文である。

 1984年度調査で弥生時代前期末~中期初頭の金海式甕棺墓・木棺墓等11基より銅剣、銅戈、銅矛の武器(11口)、多鈕細文鏡(1面)、玉類多数(464点)が出土した(吉武高木遺跡)。

 遺跡群内には同様に多数の副葬品を有する前期末~中期後半の甕棺を主体とした墓地(吉武大石遺跡)、中期後半~後期の墳丘墓(吉武樋渡遺跡)がある。

 またこれらの墓地の周辺には同時期の集落が広がり、吉武高木遺跡の東50mからは12×9.6mの身舎に回廊をめぐらした掘立柱建物も発見され、「高殿」の可能性が指摘されている。

 弥生銀座と呼ばれているこの吉武遺跡群ほど絢爛豪華な遺跡は他にない。こここそ女王国の所在地としてふさわしい。1948年に室見川で発見された銘板を古田氏は
「倭王の宮殿の完成を記念してこの金属板を作成した」
と解読している(『ここに古代王朝ありき』)。吉武遺跡群の中に見いだされた「回廊をめぐらした掘立柱建物」を含む集落跡こそ「女王の都する所」だった。室見川の中流付近である。

 その「女王の都する所」を中心地として、邪馬壹国の領域は広がっていた。その領域の範囲を比定することは出来るだろうか。『失われた九州王朝』に、ずばり「邪馬壹国の領域」という一節がある。これを教科書として検討してみよう。

(「古代の推定人口」異論の「まとめ」の段階にやってきたが、断片的な、しかも底の浅い知識をたよりの迷走思考が続いた。あっちこっち資料を調べていて、なかなか考えがまとまらない。前回から10日も経ってしまった。今回はとりあえずここまでとして、続きは次回で。)
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《続・「真説古代史」拾遺篇》(166)



「古代の推定人口」異論(8)


「推定人口」検証(2)

 澤田氏の推計方法について、「戸数問題(5)」ではウィキペディアの記事から読み取ったが、鬼頭宏著『人口から読む日本の歴史』にその推計方法要約があるので、改めて読んでみる。

 鬼頭氏は澤田氏の推計の手順を3段階に要約して示している。

①課丁数・出挙稲比
 出挙稲数が諸国の課丁数に比例していたことを明らかにしたうえで、数値が判明する陸奥国の815(弘仁6)年の課丁数(正丁および次丁)と、弘仁主税式に記されている陸奥国の出挙稲数の比を求めた。鬼頭氏はその比の値を記載していない。ウィキペディアによると次のようであった。

「1000出挙稲束数当たりの課丁数21.98人」

②各国課丁数
 上の陸奥における課丁数・出挙稲比を各国に適用して出挙稲数に乗じ、国別課丁数を算出する。

③国別人口
 (ⅰ)
 この課丁数を、あらかじめ戸籍・計帳断簡から求めた8世紀後半の課丁数・人口比で除すことにより、各国の人口を算出した。鬼頭氏は課丁数・人口比も記載していない。これもウィキペディアから転載する。

「人口100人当たりの課丁数18.7人」

 (ⅱ)
 ただし、弘仁出挙稲は陸奥国以下43ヵ国についてしか得られないので、東海道諸国と近江については、さらに時代の下った延喜主税式(927年成立)の出挙稲数を利用した。またいずれの数も得られない畿内5ヵ国と志摩・対馬・多褹(種子島)・左右京の人口は別途に推計された。

 以上の方法で推計した人口は560万人。
 陸奥国以下43ヵ国についても延喜稲に統一した場合はの推計人口は557万人

 両者の平均は559万人となる。澤田氏はこれらから奈良時代(8世紀)の良民人口を約560万人とした。これに出挙稲に反映されない浮浪・奴婢・雑戸を加えて、総人口は600万~700万人とした。

 以上の澤田氏による推計人口について、鬼頭氏は次のように述べている。

 沢田の推計はおおむね妥当なものとして受け入れられてきたが、問題がないわけではない。まず良民以外の人口および脱漏人口を40万~140万人(7~25%)も見積もることは多少、過大な推計といえるかもしれない。

 「出挙稲に反映されない浮浪・奴婢・雑戸」と書かれているが、正確には(前回調べた用語で言えば)「雑色人・賤民・浮浪者」と言うべきだろう。鬼頭氏はそれらの人口40万~140万人を「過大な推計」かもしれないと疑問視している。私にはこの問題の当否を判断することができないが、以上の推計に海民・山民がまったく現れないことこそ問題にすべきだろう。後ほど取り上げることにする。

 次ぎに、鬼頭氏はもう一つの問題点を取り上げている。次のようである。

 ところが茨城県石岡市(鹿ノ子C遺跡)で常陸国人口を記した漆紙文書が発見されたことは、沢田推計を見直すきっかけとなった。この文書には延暦年間(782~806年)の常陸国人口が記載されていることがわかった。22万4000ないし24万4000と解読される人口は、沢田の推計した常陸国人口(延喜稲よる推計21万6900人)に近似する。そこで鎌田元一は、沢田の推計したのは八世紀人口ではなく平安時代人口とみなすべきであると結論した(鎌田元一「日本古代の人口について」『木簡研究』六号)。そして沢田推計に替わる奈良時代人口(8世紀前半)として、鎌田は現存する籍帳などから一郷あたり良民人口(1052人)を推定し、これに全国郷数(4041郷)を乗じて良民人口を計算した。これは425万人となるから、これに7万4000人と推定した平城京人口と良民の4.4%と推計する賤口数(18万7050人)を加えて、全国人口を451万人とした。鎌田はこれにより8世紀の政府掌握人口を500万人程度としている。本書はこの新しい推計を8世紀前半(計算上、725年とする)の人口として採用した。ただし鎌田は国別人口を算出していないので、10世紀初期の承平年間(931~938年)に成立した『和名類聚抄』(和名抄)記載の各国郷数に一郷あたり良民人口(1052人)を乗じ、さらに賤民人口(対良民比4.4%)を加えてこれを推計した。

 鎌田は延暦期の常陸国人口に基づいて、平安時代の全国人口について二通りの参考値を計算している。第一は常陸人口から計算された一郷あたり人口(1464ないし1595人)を全国の郷数(4041)に乗じて得られる人口で、592万ないし645万人である。第二は沢田が行なったように、常陸の人口・延喜出挙稲比を全国の出挙稲数に乗じてえられる、532万ないし580万人である。

 本書では奈良末・平安初期(計算上は800年)の人口として沢田推計を用いている。前記のように、もともと沢田は奈良時代の人口を推計しようとしたのだが、鎌田はこれを「奈良末・平安初期人口」とみなすべきと指摘しているからである。本推計では、沢田が20万人とした平城京人口に換えて、平安京人口を21万人として加えた。鎌田の全国人口推計と比べて4%過大もしくは15%過小である。浮浪や脱漏などを考慮すれば、全国人口は600万ないし650万人となるであろう。

 鬼頭氏が最終的に採用した奈良時代の推計人口は次ぎのようになる。

8世紀前半の人口(鎌田説)
 一郷当たりの良民人口(1052人)と全国郷数(4041郷)を用いて、「1052×4041=424,7094」より
(1)良民人口 425万人
(2)平城京人口7,4000人と推計
(3)賤民口数18,7050人と推計
 (1)+(2)+(3)より全国人口は約451万人

奈良末・平安初期(澤田説を一部修正)
600万~650万人

 鎌田氏の郷数による推計は、私も「戸数問題(5)」で試みた。鎌田氏が一郷当たりの口数を1052人とした推計方法が分からないが、私は一郷戸当たりの口数を25人と、一郷(50戸)当たりの口数を1250人として計算した。それを用いた計算結果は約505万人だった。いま、これに鎌田氏が推計した平城京人口と賤民口数を加えると530万人となる。鎌田氏の推計451万人との違いをあれこれ議論してもしかたないだろう。この計算をしたとき、私は次のような疑問を提出していた。

「工業・漁業・狩猟関係者などは造籍対象者ではなかったようだ。造籍対象者はいわゆる農業関係者だけだった。」

 もしもこれが正しいのなら、鎌田説も澤田説も「工業・漁業・狩猟関係者」を考慮していないことになり、どちらの方法で計算しても過小推計ということになる。

 「造籍対象者はいわゆる農業関係者だけだった」ということを論証できないだろうか。ほとんど不可能だと思えるが、試みてみよう。

 『続日本紀』には志摩の海民に伊勢・尾張の田を班給したことが特記されているが、これは特別に試行された班給だろう。全ての海民・山民に班給するには水田は決定的に足りなかった。そのために「良田百万町歩の開墾計画」が立てられたが、その事業は当然挫折した。もしかりに海民・山民への班給ができたとしても、そのことによって海民・山民の生業はおろそかになり、全てを自給自足しなければならない時代に逆行することになろう。それはそれまでに構築してきた共同体全体の破壊になりかねない。やはり、私は海民・山民への班給はなかったと考える。これの根拠となるような文献上の根拠はないだろうか。

 『続日本紀』での海民に関する記述を調べたら、見落としがあるかもしれないが、一例だけであった。752(天平勝宝4)正月3日条で、次のように記されている。

四年春正月辛巳、正月三日より始めて十二月晦日(つごもり)に迄(いた)るまで、天下に殺生を禁断す。但し、海に縁(よ)れる百姓、漁(すなどり)を業(なりわい)とし、生存(いきながら)ふること得ぬ者には、その人数に随(よ)りて、日別(ひごと)に籾(もみ)二升を給ふ。また、鰥寡孤独(くわんくわこどく)と、貧窮・老疾との、自存すること能はぬ者には、量りて賑恤を加へよ。

 上の記述からは、支配階級は明らかにその人たちを、いわゆる「良民」(造籍対象者)とは異なる「百姓」と認識していた。良民とは別に漁撈を生業とする人たちが確かにいたのだ。私はその口数は良民と同じくらいだったのではないかと推測している。もちろん、ただの想像であり、根拠はない。

 『続日本紀』には山民(狩猟や林業を生業とする人たち)を直接扱っている記事はない。関連すると思われる記事が2例あったのでそれを取り上げてみよう。

764(天平宝字8)年10月11日
甲戌、勅して曰はく、「天下の諸国、鷹・狗(いぬ)と鵜(う)とを養ひて畋獦(でんれふ)すること得ざれ。また、諸国、御特に雑の宍(しし)・魚等の類を進(たてまつ)ることを悉(ことごとく)く停(とど)めよ。また中男作物(中男作物)の魚・宍・蒜(ひる)等の類は悉く停めて、他の物を以て替へ宛(あ)てよ。但し神戸(かんべ)はこの限に在らず」とのたまふ。

 〈大系〉の脚注は宍(しし)について次のように解説している。

「鳥獣の肉。延喜式には御贄の宍として雉・鳩・猪・鹿などが見える。」

 鷹や狗を用いて猪・鹿などを狩猟する仕事は農民が片手間で出来ることではないだろう。その記事は狩猟を専業とする人たちもいたことを示唆している。

784(延暦3)年12月13日
庚辰、詔して曰はく、「山川藪沢の利、公私これを共にすること、具に令文に有り。如聞(きくな)らく、「比来(このころ)、或は王臣家と諸司・寺家と、山林を包(か)ね幷せて独りその利を専(もはら)にす」ときく。是(ここ)にして禁ぜずは、百姓何ぞ済(すく)はれむ。禁断を加へて、公私これを共にすべし。如し(も)違犯(ゐぼむ)する者(ひと)有らば、違勅の罪に科(おほ)せ。所司の阿縦(あしょう)するも亦与同罪(よどうざい)。その諸氏の冢墓は、一(もは)ら旧界に依りて、斫り損ふこと得ざれ」とのたまふ。

 山林は良民(農民)たちが、いわゆる入会地として、日常用いる山菜や木材・薪を採集することもあっただろう。しかし、この記事では「良民」ではなく、「百姓何ぞ済はれむ」と表現している。山林の管理やそこでの木材製造・狩猟などを生業としていた山民がいたことも、私には確かなことと思える。
《続・「真説古代史」拾遺篇》(165)



「古代の推定人口」異論(7)


「推定人口」検証(1)

 従来流布されている推定人口についての疑問点は既に『「倭人伝」の戸数問題(5)』で述べている(以下「戸数問題(5)」などと略記する)。その時は資料をウィキペディアから拝借した。今回は念のため、鬼頭宏著『人口から読む日本の歴史』と『岩波講座日本考古学2 人間と環境』所収の小泉清隆論文「古人口論」を用いている。「戸数問題(5)」と重複する部分もあろうかと思うが、煩をいとわず初めてのつもりで進めることにする。なお、ちなみに小泉清隆氏は「戸数問題(6)」で取り上げた『図説検証 原像日本』の著者でもあった。

 さて、私は「戸数問題(5)」でウィキペディアの難解な(?)解説を次のように解読した。

「澤田氏による奈良時代の関東地方の推定人口94万3300人と関東地方における土師器を産出する遺跡数(5549箇所)から1遺跡当たりの人口(94,3300÷5549≒170)を基準値としている。そして、弥生時代はその0.2~0.43(平均約1/3)で56と推定する。弥生時代の土師器を産出する遺跡数は10624なので弥生時代の人口は、56×10624=594944、つまり59,4900人というわけだ。」
(推定人口と書いてきたが、一般には推計人口が使われている。以下は推計人口を用いる。)

 このときはこの推計人口は鬼頭氏によるものとばかり思っていたが、小山修三氏による推計人口だった。そして、この推計人口に対して、次のような疑問を持った。

「ここで使われている関東地方の人口も、1遺跡当たりの人口が弥生時代は奈良時代の約1/3というのも推定値であり、推定に推定を重ねている。遺跡だって、まだ未知のものがどれだけあるか分からない。このような推定値はとても信用するわけにはいかない。」

 「奈良時代の関東地方の推計人口94万3300人」は澤田氏によるものだ。この澤田氏の業績について鬼頭氏は次のように述べている。

「8世紀の推計人口には、沢田吾一によるものがよく知られている。小山が縄文・弥生時代の人口を推計する際にも利用しており、奈良時代の人口を論ずる場合に、避けて通ることのできない重要な業績である。」


 このように重要視されている澤田氏による推計については後ほど検討する。先にもう一つの疑問点
「1遺跡当たりの人口が弥生時代は奈良時代の約1/3」
を取り上げよう。この「1/3」の論拠を小泉氏が詳しく紹介している。以下の引用文では「土師期」という聞き慣れない言葉が出てくるが、これについての小泉氏のコメントを先の読んでおく。

『小山が使用する「土師期」は、今日考古学者は使っていないが、古墳時代・奈良時代・平安時代を包含した意味で、本論文では、小山の引用に限ってそれを使用する。』

さて、「1/3」の根拠は次のようである。まず、古代の一般住居の「一人当たりの住居面積」を計算している。

 小山修三は一人当たりの住居面積を3.3平方メートルとして土師期の船田遺跡のものにあてはめ、住居趾の面積から、一居住単位当たりの人数を計算している。これによると戸別人口は5~8人が最も多く、8~11人、11~14人がこれに続いている。またこれとは別にやはり土師期にあたる721(養老五)年に武蔵国で作成された戸籍を集計した結果、一家の構成人員は完全に船田遺跡のものと同じパターンを示すことから、一人当たりの住居面積3.3平方メートルは妥当な値であると結論している。

 引用文中に船田遺跡はは東京都八王子市にある遺跡で、もともとは「史蹟船田石器時代遺蹟」と呼ばれている。その遺跡で1965年代に「古墳時代後期の竪穴住居跡が195棟、古墳が1基(船田古墳)、奈良・平安時代の竪穴住居が97棟みつかり、これらの住居跡から出土した土器は、多摩地域における当該期の土器編年の基準資料となっている」(『遺跡が語る東京の歴史』)という。

 3.3㎡は一辺が約1.8mの正方形程度広さである。竪穴住居の一人当たりの住居面積3.3㎡というのは常識的にも妥当な数値だと思う。続きを読もう。

 一人当たり住居床面積を3.3三平方メートルと仮定して縄文・弥生・土師期の各時代の代表的な三つの遺跡の収容人員を計算する。

 土師期の船田遺跡の収容人員に対して、縄文時代中期高根木戸遺跡の収容人員は0.1から0.26倍なのでそのほぼ中間の1/7を中期の比例定数として採用する。縄文時代早期は中期最低の0.1倍を採り、その期間が倍であることを考慮にいれて1/20とし、また、弥生時代は大塚遺跡の0.2から0.4倍の数値のほぼ中央の1/3としている。小山はこの数字に遺跡数を乗じて、各時期・各遺跡の人口を求めた。

 私(たち)の関心の中心である弥生時代にしぼって検討してみよう。

 大塚遺跡は横浜市にある遺跡で「85軒の竪穴式住居が発見され、7棟の竪穴式住居と1棟の高床式の倉庫が復元されている」という。小山氏の計算は次のように行われたのだろう。
船田遺跡の全住居数(195+97=292)を用いると「85÷292≒0.29」
古墳時代後期の住居数(195)を用いると「85÷195≒0.43」

 前者は全く異なる時代の住居の合計数であり、これは不当だ。もし採用するとしたら後者の「0.4」だろう。こちらをとると弥生時代の人口は
「(170×0.4)×10624≒722000」
となる。しかし、どちらにしても、「弥生時代の土師器を産出する遺跡10624」の中からなぜ大塚遺跡を選んだのか、大塚遺跡一つだけのサンプルで結論を出せるのか、などの問題があり、私は杜撰過ぎる論理だと思う。ちなみに、小山氏が用いている資料は「全国遺跡地図」(全四七巻)だという。私には全く手の届かない資料だ。

 さて、鬼頭氏は小山氏による推計人口59,5000を弥生時代の人口として採用し、次のように続けている。

 つぎに3世紀の邪馬台国時代の人口についてであるが、『魏志倭人伝』にある邪馬台国以下29ヵ国の戸数から、180万人以上あったと推計できる。同書には邪馬台国ほか7国の戸数が書かれており、その合計は15万9000戸余となる。一戸あたり人員をどれくらいに見積もるかが問題であるが、3~5世紀の住居跡から推定される世帯の規模を参考にこれを10人とすれば、8ヵ国の人口は159万人余となる。戸数記載のない斯馬国以下21ヵ国の戸数を仮に各国千戸として加えれば、倭人伝29ヵ国の総人口は180万人余になる。しかしこれらの国は西日本に位置していて、東日本の人口が含まれていない。東日本人口を縄文晩期から弥生時代への増加率を用いて推計しこれに加えれば、当時の人口は220万人内外はあったとみてよいだろう。

 小泉氏の『図説検証 原像日本』の場合と同様、「倭人伝」の戸数記事を肯定している。というより、3世紀の総人口を鬼頭氏が「220万人内外」としているのに対して小泉氏が「ほぼ300万人」としている点(東日本の推計人口の差)を除いて他は全く同じなのだ。そして、弥生時代の推計人口59万5千人と3世紀の推計人口との大きな違いに目をつむっている点も同じだ。そのほか倭の「百余国」のうちの親魏倭国だけにしか目配りがないなどの問題点もあるが、いま私(たち)が問題にしているのは「倭人伝」に記録されている戸数なのだから、それだけにしぼって論を進めよう。

 「戸数問題(2)」では、取りあえず、一戸当たりの口数を5人とみなして8ヵ国(対海国~邪馬壹国)の全人口を約75万人とした。これに対して、小泉氏・鬼頭氏は一戸当たりの口数を10人として8ヵ国の全人口を159万人としている。一戸当たりの口数10人は「3~5世紀の住居跡から推定される世帯の規模を参考」にして推計したというのだから、こちらの方が正しいかもしれない。いずれにしても、奈良時代の推計人口を用いて算出した59万5千人とは相容れない。この弥生時代の推計人口を疑うしかない。

 弥生時代の人口の推計方法のうち奈良時代の人口の「1/3」という論拠があやしいことは先に指摘したが、これはさほど重要なことではない。弥生時代の推計人口を疑うということは、もう一つの根拠、澤田氏による奈良時代の推計人口を疑うことである。次回は澤田氏による奈良時代の推計人口を検討しよう。
《続・「真説古代史」拾遺篇》(164)



「古代の推定人口」異論(6)


 これまで網野氏の著作を頼りに各時代の社会像を見てきた。これを確認・補強する意味も兼ねて、これからの論考に必要と思われる事柄を『続日本紀』を用いて調べておこう。まず、関連すると思われる事項の奈良時代年表を作ってみる。

701(大宝1)年
 8月 大宝律令なる
 10月 律令を諸国に分つ
706(慶雲3)年
 9月 田租の法を改める
710(和銅3)年
 3月 平城京に遷都
711(和銅4)年
 10月 蓄銭叙位令、私鋳銭を禁ず
715(霊亀1)年
 5月 浮浪人に逃亡地で調庸を課す
 里を郷に改称
718(養老2)年
 藤原不比等ら、養老律令を撰上
721(養老5)年
 7月 主鷹司の品部廃止
722(養老6)年
 閏4月 良田百万町歩の開墾を計画
723(養老7)年
 4月 三世一身法を定める
 11月 奴婢の口分田班給を12歳以上に改める
725(神亀2)年
 9月 志摩国百姓に伊勢・尾張の田を班給
729(天平1)年
 3月 全国の口分田を全て収公、改めて班給
730(天平2)年
 9月 諸国の防人を停止
743(天平15)年
 5月 墾田永年私財法を発布
746(天平18)年
 5月 諸寺が墾田・園地を競い買うを禁止
757(天平宝字1)年
 5月 養老律令施行
759(天平宝字3)年
 9月 品戸を原則廃止
772(宝亀3)年
 10月 再び墾田の私有を許す
784(延暦3)年
 12月 王臣家・諸寺の山林・藪沢(そうたく)兼併を禁ず
794(延暦3)年
 10月 平安京に遷都

 班田収受法が破綻していく様子がよく見える。729(天平1)年条は725(神亀2)年条のように海民や山民までに班給しようとするための政策だったのだろう。しかし、「全国の口分田を全て収公、改めて班給」し直したところで、絶対的に不足しているのだから、海民や山民までに班給できるわけがない。721(養老5)年条や759(天平宝字3)年条が記録しているような官民という拘束を解かれた人たちにも班給されたとしてもそれはわずかで、ほとんど従来からの農業従事者を再編成しただけだったのではないだろうか。

 さて、上の725(神亀2)年条では「百姓」という言葉が使われている。勿論、この言葉は『日本書紀』以来の用法で人民一般を指す。ちなみに、岩波〈新・体系〉ではこれを「はくせい」と訓じている。志摩は海民の国であるが、当然のことながら海民は百姓に含まれる。「百姓」は『続日本紀』には頻出する。

 ところで、『続日本紀』では「百姓」と類似する「良民」「公戸」という言葉が使われている。「良民」は「良人」ともただ単に「良」とも書かれている。この「良民」は「賤民」との対語である。詳しいことを知らなかったので、この際、改めて学習しておこう。(岩波大系『続日本紀』や「官制大観」というサイトを利用しています。)

良民
 一般に、戸籍に登録され、口分田を班給され、納税・課役を負担する者を指す。上級貴族の俸禄として支給される「封戸」と、納税が一般財政に用いられる「公戸(こうこ)」と、もう一つ「雑色人(ぞうしきにん)がある。それぞれ次のようである。

「封戸(ふこ)」
 親王に給される「品封」と臣下に給される「位封」がある。
「公戸(こうこ)」
 公戸は『続日本紀』に4例ある。そのうち768(神護景雲2)年3月条では「公戸百姓」という形で出てくる。「公戸身分の百姓」という意であろう。(他の3例については後に触れる。)
「雑色人(ぞうしきにん)」
 雑色人は、良民の中で下位に位置し、雑色人の中でも雑戸は下位に位置している。
 史生(ししょう)・大舎人(おおとねり)・伴造(とものみやつこ)・使部(しぶ)・兵衛(ひょうえ)などの雑任(ぞうにん 下級役人)や、諸役所に置かれた「~戸(べ)」の集団、それと次の品部(しなべ)・「雑戸(ざっこ)」を「雑色人」と呼ぶ。

「品部」について
 特殊技術・技能を有するとして旧来の「職業部」を再編し、特定の役所に置いたもので、「鷹戸」「船戸」「紙戸」などの「戸(べ)」の集団である。代々、技能を相伝する「常品部(じょうしなべ)」と臨時従業の「借品部(しゃくしなべ)」の2種がある。

「雑戸」について
 「品部」より下位の層として「雑戸籍」に入れられている。特定の役所に所属する手工業者集団で、役所の工房に上番(当番で出仕)する人と、直接、手工業品を納める人とがあり、いずれも課役の全額ないし一部が免除されている。

賤民
 五色の賎(ごしきのせん)と言い、5種類の賎身分がある。その中でも上下に二分される。いずれも無姓で、同身分間での婚姻しか認められず、解放されない限り身分は世襲である。

上位の「賎」
 戸をなす(家族を持ち一家を構える)ことを許される。次の3種がある。
「陵戸(りょうこ)」
 もとは「陵守(はかもり)」といって賎身分ではなかったが、養老令以降、唐制に倣って「陵戸」として賎身分に編成された。良民と同じだけの口分田を班給されている。
「官戸(かんこ)」―官有の奴隷賎民
 良民と同じだけの口分田を班給され、戸を構えることを許されている。
「家人(けにん)」―私有の奴隷賎民
 地域の族長層以上の私有奴隷賎民で、相続の対象とされた。良民の1/3の口分田を班給され、私業を営み、戸を構えることを許された不課口(納税義務を持たない人)である。

下位の「賤」
 戸をなすことを許されない。物や家畜に似る財産として賎視・駆使・売買される。次の2種がある。
「公奴婢(くぬひ)あるいは官奴婢(かんぬひ)」
 朝廷と諸王家が所有する奴隷賎民で、諸役所の雑役に従事する。
「私奴婢(しぬひ)」
 地域の族長層以上が私有し、相続の対象とされた不課口の奴隷賎民。その所有主に、良民の1/3の口分田が班給された。

 奴婢にはほかに「神奴婢」「寺奴婢」があが、「五色の賎」のうちには入れないようだ。

 なお、賤民の口数について、「官制大観」は次のように述べている。
「ちなみに、奴婢人口は全人口の5%と推定されているようです。つまり、その時代、20人に1人は奴婢とされたということです。」

 『続日本紀』での「公戸」の他の3例は、上の年表の721(養老5)年条と759(天平宝字3)年条と、もう一つ、722(養老6)年3月10日条である。年代順に転載する。

(1) 721(養老5)年7月25日
庚午、詔して曰はく、「…その放鷹司(はうようし)の鷹・狗、大膳職(だいぜんしき)の鸚鵡(う)、諸国の雞(にはとり)猪(いのしし)を悉く本処に放ちて、その性を遂げしむべむべし。今より而後(のち)、如(も)し須(もち)ゐるべきこと有らば、先づその状を奏して、勅を待て。その放鷹司の官人、幷せて職の長上らは且(しまら)くこれを停めよ。役(つか)ふ品部(ともべ)は並(ならび)に公戸に同じくせよ」とのたまふ。

(2) 722(養老6)年3月10日
伊賀国の金作部(かなつくりべ)東人・伊勢国の金作部牟良(むら)・忍海漢人安得(おしぬみのあやひとあんとく)・近江国の飽波(あくなみ)漢人伊太須(いだす)・韓鍛冶(からかぬち)百嶋(ももしま)・忍海部乎太須(おだす)・丹波国の韓鍛冶首法麻呂(おびとのりまろ)・弓削部名麻呂(ゆげべのなまろ)・播磨国の忍海漢人麻呂・韓鍛冶百依(ももより)・紀伊国の韓鍛冶杭田(くいた)・鎧作名床(よろいつくりのなとこ)ら、合せて七十一戸、姓雑工(ざふく)に渉ると雖も、本源を尋ね要(もと)むるに、元来雑戸(ざふこ)の色(しき)に預(あづか)らず。因(より)てその号(な)を除きて、並(ならび)に公戸に従はしむ。

(3) 759(天平宝字3)年9月15日
また、品部(しなべ)を停(とどめ)め廃(や)めて公戸に混(まろか)し入れむ。その世業(なりはい)を相(あい)伝ふる者は、この限に在らず。

 (1)(3)は雑色人から公戸に解放された記事である。(2)からは官庁に統合されていた品部・雑戸以外に各地に品部や雑戸と同じような仕事を代々生業としていた人たちがいたことがうかがわれる。(3)からは品部から解放された後も身につけた技術を用いた生業を続ける人たちがいたことが分かる。
《続・「真説古代史」拾遺篇》(163)



「古代の推定人口」異論(5)


 弥生後期の北九州の状況を学習してきたが、実にさまざまな生業があり、交易も盛んだった様子がよく分かった。「倭人伝」が伝える戸数がリーズナブルなのではないかという印象がますます強くなった。これまでに流布されている弥生時代の人口の推定は奈良時代の推定人口をもとに行われている。その推定人口の妥当性を探るために、奈良時代の正しい社会像を知る必要がある。今回はそれを取り上げよう。

奈良時代の社会像

 「百姓=農民」という思い込みの淵源は班田収受法にある。その法施行の実際はどのようだったのだろうか。網野氏の著書②から引用する。

私は、いわば当初の「日本国」の国制の基本ともいうべきこの制度を実現するためには、水田は決定的に不足していたと考える。養老6(722)年、長屋王の政府が良田百万町歩の開墾例を発したことはよく知られているが、班田を制度通りに行おうとするならば、実際にこれだけの田地が必要だったのではあるまいか。この開墾令の実現のために、国家機関が本気で動いている点から見て、これを長屋王の非現実的な誇大妄想の産物とすることはできないと思われる。長屋王はこの国制を真に実現するための理想をめざしたのではなかろうか。

 しかし日本全国の水田の総計が百万町歩をこえるのは、確言するのは難しいが16世紀以降と推定されている。なぜなら諸国の田積をあげた諸史料についてみると、平安後期の『倭名類聚抄(わみょうるいじゅうしょう)』が85万9596町余、14世紀半ばの『拾芥抄(しゅうがいしょう)』が95万6474町、15世紀後半の『海東諸国紀(かいとうしょこくき)』が86万4905町余と、いずれも百万町歩に達していないのである。この数字がどこまで実態を現わしているかについては、議論の余地があるとしても、8世紀初頭に百万町歩の水田を開発することは、まったくの理想にとどまらざるをえなかったことはあきらかであろう。

 しかしそこまで水田は不足していたのである。このころ政府はしきりに陸田―畠地の開発を奨励し、これによって水田の不足を補う一方、百万町歩開墾令を止めた養老7(723)年には三世一身法(さんぜいしんほう)、さらに天平15(743)年に墾田永年私財法を発し、地域の有力者の開発意欲を促して、水田の増加をはからざるをえなかったのは、そのことをよく物語っているが、少くとも8世紀前半の「日本国」の政府は、この制度をその規定通りに実施しようという、強烈な意志を持っていたことも間違いない。

 天平元(729)年、藤原不比等の4人の子供の領導する政府の実施した班田は、口分田をすべて収めたうえであらためて班給するという徹底したもので、下級の官人の中に自殺者を出すほどの酷烈さを持っていたと思われる。

 また神亀2(725)年、海民の国志摩の口分田を尾張・伊勢に与えることにしているのも、もっぱら海に生きる海民にも水田を与え、これを「農民」として制度の中に組み入れようとする国家の強い意志がよく現われているといえよう(弥永貞三『日本古代社会経済史研究』岩波書店、1980年)。しかし、無理はやはり無理である。いかに海の世界では伊勢湾を通じて密接に結びついているとはいえ、尾張の水田を志摩の海民が耕作しつづけることなど、できるはずがない。おそらくこの水田は賃租に出され、志摩の百姓の手から離れ、百姓は海民としての生活を変えることなく展開、発展させていったに相違ない。

 また、いかに開発を奨励したとしても、足りないものは足りないのであり、水田の決定的な不足が班田制そのものの実施を不可能にしていったことはあきらかである。事実、9世紀に入ると班田の間隔が12年に一班となり、10世紀初頭を最後に、班田はもはや行われなくなる。

 さきの直線道路や戸籍などと同様、発足当初の「日本国」の国制の基本ともいうべき班田制は、弛緩し、10世紀以後、もはや完全に実質を失っていった。とはいえ、ここで「日本国」が水田を課税の基礎とし、6歳以上の全人民にこれを与え、いわばすべての百姓を「稲作農民」にしようとする強烈な国家意志を社会に貫徹すべく、少くとも百年、長くみれば二百年、本気で試みつづけたことは、その後の列島社会に、じつに現在にいたるまで甚大な影響を及ぼした。

 いまでも高校の教科書には、律令制の説明に関連して「班田農民」という用語が当然のごとく使われ、水田があたかも全国をおおったような叙述が見られる。しかしさきの志摩の海民のように、水田はもとより農業自体にもほとんど関わりなく、山野河海で独自な生業を営む百姓の場合、そうした非農業的生業の比重は、農業をはるかに上まわっていたに相違ないのであり、そうした百姓をすべて「班田農民」とするのは「日本国」の国制にひきずられ、その国家意志の下に自らをおき、結果として多様な非農業的生業を切り捨てる結果になるといわざるをえない。この表現は、一日も早く改められる必要がある、と私は考える。

 班田制を貫徹するためには水田がまったく不足していたことが指摘されている。また、弥生時代にもさまざまな生業があった。当然のことながら、奈良時代も農業一色ではなかった。その生業は弥生時代以上にバラエティーに富んでいただろう。網野氏は「非農業的生業の比重は、農業をはるかに上まわっていたに相違ない」と断定している。その様相は庸・調の実体からうかがい知ることができよう。②からの引用を続ける。

 しかし「日本国」自体は、けっして水田で収穫される米を収取、貢納させていたわけではなかった。田地には初穂に当る租が賦課されていたが、それは収穫のわずか3パーセントにすぎず、国の正倉に蓄えられてその一部は出挙(すいこ)といわれる利稲付資本として百姓に貸し付けられ、国の財政を支えており、それ自体、ただちに食料とされていたわけではなかった。

 都の政府には、首長へのミツギをうけついだ調・庸が貢納されたが、その中には米はほとんど見出されず、きわめて多様な品目の物資が成年男子(正丁。その前後の次丁、少丁も若干、負担)の負担として、都まで運ばれたのである。

 たとえば若狭の百姓の調は、内陸部までふくめて塩であったことが、平城宮跡の木簡によって判明しているが、さきにふれた志摩の百姓の負担した「耽羅鰒(たんらのあわび)」など、海産物として塩、鰒、堅魚、そして鮭、海鼠(なまこ)、烏賊(いか)、海藻などが調として貢進されており、これに中男作物(ちゅうなんさくもつ)、交易雑物、さらに贄(にえ)の海産物を加えると、この国家の支配する社会の実態が、きわめて海の香りの高いことをよく知ることができる。

 また、さまざまな種類の絹・糸・布が広く諸国の調となっているほか、山陰・山陽道の中国山地に関わる地域の中には鉄や鍬などの鉄製品を貢納する国もあり、木器や焼物を出す国もあった。とくに中男作物には紙が多く現われるのも、注目してよいと思われる。

 これによって知られるように、百姓はさまざまな生業に携っていたのであり、けっして水田農業のみによって生活していたわけではない。とくに、さきの鰒を貢納する志摩の百姓がまぎれもない海民そのものだったように、列島の海辺の〝津々浦々″の海民の比重は、かなり大きかったと考えなくてはならない。

 たとえば、神亀年中(724~29)、対馬に食糧を送る船の梶取(かんどり)に差し定められた筑前国宗像郡の百姓宗形部津麿は間違いなく船を操る海民であり、それに代って対馬に船出して遭難した同国糟屋郡志賀村の白水郎荒雄(あまのあらお)も「白水郎」を氏名とする海民であった。こうした海民の百姓がさきのような海産物を調として貢納したのであり、『日本後紀』延暦18(799)年11月14日の条に「児島郡百姓等、塩を焼て業となす、因て調庸に備う」とあるように、塩を貢納する百姓の中にはこうした製塩民ともいうべき人々が多数いたのである。

 しかし若狭の内陸部の百姓で塩を調として負担している人の場合、米などの産物と塩とを交易して納めたのであろう。鉄や鍬を貢納している伯耆・備中・備後などの百姓の中にも、製鉄民というべき人々が少からずいたと見てよいと思うが、やはり米と鉄とを交易していた場合も十分に考えられる。

 そしてとくに見落してはならないのは、さきの志摩の耽羅鰒は大伴部得嶋(えじま)という男性が納めているが、実際に鰒をとっているのは海女―女性であり、絹・糸・布なども貢納者は男性の名前になっているとしても、生産者はのちにもふれるように、女性と見るのが自然である。

 このように「日本国」の国制が、水田を百姓に与え、それを基盤として成年男子にさまざまな物品を貢納させるという租税制度を実施したことは、稲作以外のきわめて多様な生業や女性の生産労働など、社会の実態の重要部分をおおいかくす結果になった。現在まで、多くの歴史研究者がこの国制にひきずられて、百姓を頭から「班田農民」ととらえる誤りに陥り、海民・山民をはじめ多様な生業に携わる人々、女性の活動などを切り捨てたことに気づかなかったのであるが、それはさきのように、当初の「日本国」が本気でこの制度を貫徹させようと百年以上、社会に立ち向った結果、水田を課税の基礎とし、租税の負担者を成年男子とする制度が、本来の律令に基づいた制度が行われなくなったのちも、中世、近世と形と内容を変えつつ長く維持されたことに、大きく影響されている。

 後に詳述するように、百姓をただちに農民と解する日本にしか通用しない理解の仕方が、近世後期から近代、さらに現在にいたるまで、政府をふくむ日本人のほとんどすべてに広く行われるようになる起点は、まさしくこの当初の「日本国」の租税制度に端を発しているといわなくてはならない。

 網野氏は「日本列島は、3700以上の島々からなり、海岸線は2万8千キロメートルにおよび、農耕地になりうる低地、台地は25%ぐらいしかない」と指摘している。こうしたことからも海民がかなりの数であることが納得できる。また、上の文では山民についての詳しい記述がないが、狩猟や林業を生業とする人々もかなりいたはずだ。
《続・「真説古代史」拾遺篇》(162)



「古代の推定人口」異論(4)


(以下は玉田芳英編『史跡で読む日本の歴史1 列島文化のはじまり』所収の[a]三好孝一論文「稲作の開始と青銅器生産」と[b]七田忠昭論文「弥生集落の展開」を教科書にしています。)

弥生後期の社会像
を、集落の変遷の面から探ってみよう。

 弥生時代を特徴づける生業である稲作の技術ははどのようなレベルにあったのだろうか。最も古いとされている佐賀県菜畑遺跡は次のようである([a])。

 遺跡は、唐津湾西部の現在の海岸線から1㎞ほどはいった場所に立地し、その附近には山麓部から樹枝状にのびた丘陵の先端部と、その前面を流れる松浦川によって形成された砂堆が形成されている。その一画に調査区を設定した結果、低地部において、幅約0.6~1.3㍍、深さ0.3~0.6㍍をはかる水路と、これにとりつく畦畔から形作られた耕作面4枚が検出され、さらに、附近から炭化米、諸手鍬、エブリなどの木製農具、石庖丁や石鎌も出土したため、水田とする確証が得られた。

 次ぎに古いとされる福岡県板付遺跡は次のようである。

 それは、部分的に木杭や板材で補強した細長い不整な長方形の畦畔を構築して耕作面を区画し、これらの間を堰、取水口と排水口を付随させた幅2㍍、深さ1㍍をはかる水路でつなぐという本格的なものであった。さらに、隣接するG-7b区で検出された水路底面のくぼんだ部分からは、諸手鍬やエブリ、鍬の柄など水田耕作に関連する農具の未成品が出土し、そのほかに石庖丁、石鎌未成品、そして、炭化した米粒そのものまでが検出された。

 ここでもうすでに「本格的なもの」と言われるほどの水田が構築されている。この時期よりおよそ800年後(前2世紀頃)、北九州の水稲稲作を主体とした農業は相当発展していたと思われる。私は「天孫降臨」というアマクニによる北九州侵略を前2世紀頃と考えているが、北九州は魅力的な穀倉地帯だったのだ。

 さて、水稲稲作を主体とした農業の開始により、当然、集落形態も大きく変化する(以下は[b]による)。

 縄文時代において長期間続いた環状集落・馬蹄形集落といった伝統的な集落構成が解体し、竪穴住居を主体とし周囲に穴倉(貯蔵穴)や高床倉庫と考えられる掘立柱建物を配置する農業集落の基礎が形成され、なかには環濠集落とよばれる区画あるいは防御目的の溝や濠(壕)によって囲まれた形態の集落も出現する。

 それでは弥生後期の北九州の集落はどのようなものだったのだろうか。

 弥生時代後期には、近畿地方などほかの地域の環濠集落の大半が中期末頃に解体しはじめるのに対し、九州地方北部ではそれまでの環濠集落が大規模に発展し、また、新たな大規模環濠集落が相次いで生まれるなど、様相を異にする。  佐賀県吉野ヶ里遺跡
 長崎県原ノ辻遺跡
 福岡県平塚川添(ひらづかかわぞえ)遺跡
では発掘調査が進んでおり、集落構造もしだいに明らかになってきた。

 上の3遺跡の様相は次のようである。

 原ノ辻遺跡は『魏志倭人伝』に記された一支国の都となった集落跡で、前期末から集落が形成され、中期前半以降平面楕円形にめぐる三重の環濠によって囲まれていた。後期には環濠に囲まれた丘陵頂部には祭祀場と考えられる区画があり、掘立柱建物などが存在していた。中期前半には船着場があることがわかり、朝鮮半島の無文土器や三韓系土器、楽浪系土器や中国の銅鎖や銅銭、ガラス製トンボ玉などの出土品、また伊都国とされる福岡県糸島地方のものと類似した弥生土器などと合わせて、『魏志倭人伝』の「南北市糴」(市場)を証明する。中期には石庖丁などの石器を生産していた。

 一大国の都における交易の賑わいぶりが想像できる。もうこの頃には商業を生業とする人々もいたと考えられる。また、倭人以外のいろいろな人種が住んでいたことだろう。その戸数を「三千許家」と、「戸」ではなく「家」で表現していたことも納得できる。さらに、石器生産を生業とした人々がいたとも言う。これはもう「都市」と言ってもよいのではないか。

 平塚川添遺跡は、近畿・東海地方に通例の多重環濠集落であり、中期前半の二重環濠の外側に後期にさらに三重の環濠が設けられていた。内部では多数の竪穴住居や掘立柱建物などが発掘されたが、環濠内部では溝などで区切られた区画も存在し、大型建物や四棟並んだ状態の大型掘立柱建物が存在していた。集落内では石製管玉など玉類を生産していたとみられている。

 大型建物は倉庫だろう。この集落は工業団地のようなものだったのだろうか。ここはいわば拠点集落の一つであろう。拠点集落について、[b]は次のように説明している。

 地域集落群のなかの集落を個別的にみてみると、その立地と規模、環濠の有無など集落構造の違い、集落の継続性、農業以外の手工業生産の有無、出土品の質や量の差異、非日用品の存在など、集落間の相違を把握することによって、格差をもった集落群がピラミッド状に構成された地域集落群の姿が浮かび上がってくる。すなわち、内部に記念物的な大型建物や青銅器などの手工業工房をもち、祭祀的な施設や文物をもった中核となる大規模な環濠集落の下に、防御的な中小環濠集落が、その下位に無環濠の大規模農村、さらに多数の無環濠の中小集落(農山漁村)が存在していたのである。

 吉野ヶ里遺跡は一大拠点集落だ。吉野ヶ里遺跡は縄文時代晩期から弥生時代終末期までの環濠集落が発掘されている。[b]では吉野ヶ里遺跡についてかなり詳しい解説が行われているが、弥生後期のまとめに当る部分を転載することにする。

 弥生時代後期後半から終末期の吉野ヶ里集落では、環濠、城柵、物見櫓などの防御施設が設けられ、内部には政治・祭事的な空間や祭殿・祭壇などの祭祀施設を計画的に備えたともみられ、内部に多くの人々が住み、周辺集落を含めて青銅器、木器、絹布や大麻布などを生産する手工業工房が存在していたと考えられる。

 吉野ヶ里遺跡は、朝鮮半島から伝播した水稲農業や手工業を発展させて成立・発展した集落であるが、その当初から環濠を備え、前期・中期と規模を拡大させ、後期後半から終末期には大規模な環濠集落へと発展し、内部には祭事の場としての北内郭や、政事の場としての南内郭、物資集積の場としての高床倉庫群などが、環濠・城柵・物見櫓で守られて存在していた。吉野ヶ里集落はまさにピラミッド構造をなす地域集落群の中の拠点集落として存在していたことが発掘によって確かめられたのである。

 一般的な環濠集落形態が縄文時代晩期や弥生時代前期に朝鮮半島から伝播したこととは違って、中国の都市景観を導入するといった政治的な積極行動とみることも必要と考える。一部ではあれ、はじめて日本国内に中国の都市形態が導入されたことは注目される。このことは周辺の主要な墓地から出土する多数の後漢鏡や鉄製素環頭大刀などの中国の権威を帯びた文物などと合わせ、中国との外交といった視点からも考察しなければならない現象であろう。

(中略)

 吉野ヶ里遺跡のクニと想定される南北約20㎞、東西約15㎞の範囲でも、福岡平野など九州北岸平野部とを隔てる分水嶺である北の脊振山地南麓に延びる河川や丘陵によって隔てられた小地域ごとに、中核となる環濠集落が存在している。そして、その周囲に環濠をもたない大中規模の農業集落、さらにその周囲に小規模農業集落や、森林資源を供給する山村や海洋資源を供給する漁村がネットワークを組んで存在していたことが推定される。

 吉野ヶ里遺跡の南方約10-12㎞地域は弥生時代後期から終末期にかけての有明海の海岸線であった。その沿岸部に位置する佐賀郡(現佐賀市)諸富町では、東海地方以西からの搬入土器あるいはそれら地方の形態の特徴をもった土器群が多数出土しており、交易・外交に供される港津の存在も想起される。

 特に弥生時代後期後半から終末期にかけての時期には、吉野ヶ里集落の周囲2㎞の範囲に現在までに確認されただけでも5ヵ所の環濠集落が存在し、かつ山麓線や南の有明海に注ぎ込む城原(じょうばる)川沿いには環濠集落と考えられるこの期に成立した集落が多数存在するなど、戦略的とも考えられる配置状況であることは注目される。

 伊都国の東南に位置づけられている奴国は戸数2万の大国。この集落は、もしかしたら、奴国の都だったのでは?
(妄言でした。百里を無視していました。しかし、邪馬壹国か奴国内の集落の一つであった可能性はあると思う。)
《続・「真説古代史」拾遺篇》(161)



「古代の推定人口」異論(3)


弥生文化概観

 網野氏は「弥生文化」の項を次のように書き始めている(今回は全て①からの引用)。

 ふつう稲作は弥生時代からと考えられていますが、縄文晩期から瀬戸内海や北九州の一部ですでに稲作がはじまっており、稲作と弥生土器はかならずしもセットであったわけではありません。

 氏は、稲作の始まりが従来の説よりかなり遡るという考古学上の成果について、縄文時代・弥生時代の従来の実年代区分を変えるのではなく、縄文時代にも稲作が行われていたと解釈している。その理由として「稲作と弥生土器はかならずしもセットで」はない事を挙げている。いまでもこのように解釈する学者が少なからずいるようだ。しかし、その後の研究結果では、稲作と弥生土器はセットになっているのだった。前回利用した西村豊弘論文「縄文文化から弥生文化へ」は次のように述べている。

 我々が弥生文化の始まりを追及する時に取った方針は,弥生初期の土器の年代を測定するだけでなく,前後の時代の資料の年代も測定することである。我々は,弥生時代のはじまりを水田稲作のはじまりと定義しており,水田稲作を伴う時期の土器型式とされる九州北部の山の寺式土器と夜臼I式土器の年代を測定し,それらの土器の使用時期を紀元前10世紀と推定した。この年代推定は,山の寺式土器と夜臼I式土器の年代を測定した結果だけではなく,その前の時代の縄文晩期や,弥生前期の土器型式の年代を測定することによって得られたのである。それも九州北部だけではなく,日本全国の土器型式の年代も測定した結果に基づいている。

 そして,この方針により山の寺式と夜臼I式土器を測定した結果,九州の縄文晩期の土器として知られる黒川式土器の新しい時期のものと同時期であり,器形が異なることから同時期に用途を異にして使い分けていたらしいことが明らかとなった。他の地域でも年代測定の結果,縄文晩期の土器と弥生土器が並存することが知られるようになり,縄文文化と弥生文化の接触のあり方について,新しい視点で考える手がかりが得られつつある。

 さて、新しい実時代区分では弥生時代は約1200年もの長い期間続いたことになる。当然その間に、縄文文化を引き継ぎながら大きな変化・発展・進歩があっただろう。弥生文化どのようだったのろうか。取りあえず、それを概観しておこう。

 弥生時代の特徴といえば、まず「稲と青銅と鉄」が挙げられよう。これらはそれぞれの技術を持った集団が朝鮮半島経由で移住してきて、まずは北九州にもたらされた。網野氏はその他にも養蚕・織物の技術・新しい土器製塩の技術などが入ってきたと言っている。また、面白いことに鵜飼もその中に入ると言う。

 また、鵜で魚をとる鵜飼もこのころ列島に入ってきたようです。鵜飼は列島の西部からはじまり、中世になると、ほぼ日本列島全域に鵜飼を生業とする人が広がっています。ですから、生活を十分支えられる漁法だったわけですが、これも稲作といっしょに入ってきた技術のひとつです。

 これらの文化がどこから持ちこまれたのかについてもさまざまな議論がありますが、だいたい中国大陸の南部、いわゆる江南および朝鮮半島を経由して入ってきたと考えられます。たとえば、巨石を用いる支石墓や金属器は朝鮮半島から北九州に入ったのでしょうし、鵜飼や最近有名になった吉野ヶ里の遺跡については、江南の文化とのかかわりが非常に注目されています。

(中略)

 そしてこのような広がり方を見ますと、弥生文化は、本来海をこえてきた文化であり、海や川を通じて広がったことは明らかです。ですから弥生文化をもたらした人々は、元来、海に深いかかわりがあり、船を駆使するすぐれた航海の技術をもった人々であったと考えられます。また、弥生時代になっても大きな貝塚があるわけですから、漁撈、製塩、狩猟、採集も依然として行われているわけですし、弥生時代は、はじめから海を視野に入れないと、理解しがたい文化であることも強調しておく必要があると思います。

 中国大陸や朝鮮半島との交流も、われわれがこれまで考えてきたよりもはるかに密接です。いろいろ議論はあるようですが、朝鮮半島の南部から、日本列島でつくった弥生土器が出土しているとのことですし、日本列島の西部、朝鮮半島の南部、あるいは中国大陸の海辺などの交流の中で、海と深いかかわりを持ちつつ、「倭人」とよばれる集団が形成されていくのだと思います。

 それゆえ、「倭人」は決して「日本人」と同じではないのです。列島西部を中心とした弥生文化の担い手であるとともに、海をこえて朝鮮半島南部、あるいは中国大陸の一部にまで広がった人びとの集団であったと考えておく必要があります。

 それは弥生時代の末期に書かれた『魏志倭人伝』によってもよくわかります。注意しておく必要のあるのは、対馬について、田畑がないのでもっぱら南北に交易を行って生活しているとあり、壱岐についても、若干の田地はあるけれども、生活を支えるには不足なので、やはり南北に交易していると書いてあることです。これは壱岐、対馬だけでなく、島で成り立っている日本列島に広くあてはまることで、「末盧国」といわれた松浦地域も同様と考えなくてはなりません。

 このように、日本列島の社会は当初から交易を行うことによってはじめて成り立ちうる社会だった、厳密に考えれば「自給自足」の社会など、最初から考えがたいといってよいと私は思います。これだけの人口がいるのだから、これだけの水田、田畑があるはずだというのは、頭から農耕のみによる「自給自足」を前提にして、漁撈、狩猟、採集などの他の生業を無視しており、決して事実にそくした見方ではないと思います。

 さらに『倭人伝』の中には、「国々に市あり。有無を交易す」という記事が出てきます。この「国」はのちの郡の程度、あるいはもう少し小さな単位だと考えられますが、すでにそうした地域に市庭(いちば)が立っているわけで、交易の場がいかに重要であったかがよくわかります。こうした市庭なしに社会は成り立ちえなかったのです。

 実際、平地に住む平地民の生業としての田畑の穀物の生産、それに桑、漆、麻、苧(からむし)などの樹木の栽培やその加工による諸生産、牧での馬や牛の飼養、海民の採取する魚介類や塩、山民の採集する果実や木材、それを素材として生産される炭や木器、漆器、さらにこれを燃料として生産される焼物や、山で採取、製錬される鉄・銅、および、それを加工した鉄器、青銅器など、こうした多様な生産物の交換が広い範囲で行われなくては、社会が成り立たなかったと考えなくてはなりません。

 山民と海民との間の分業は、縄文期には成立しており、弥生時代には平地民との間にも分業が確立したと考えられますから、縄文期の塩や魚貝、あるいは石器の原料などの交易を媒介していた原初的な商業活動は、弥生期以降さらに活発かつ広域的になったと考えられます。まだ、専業の商人ではなく、生産者が広い地域を動いて交易に従事するのがふつうだったと思いますが、それを支えたこの時期の交通の基本が海、川による交通であったことは遺跡、遺物の分布をみてもはっきりとわかります。川や海にかかわりを持った遺跡が多く、水系によって遺跡群のまとまりもあるようです。しかもそれは予想以上に活発だったと考えたほうがよいようで、日本列島を横断する交通路は、早くから何本もあったと思われます。

 瀬戸内海から大阪湾に入り、淀川を遡上して宇治川に出て、若干の陸路を通らなくてはならないでしょうが、琵琶湖に出て、また短い陸路を経て北陸、日本海に出る交通ルートは、この時期には活発に利用されていたと考えられます。

 また、弥生時代に北陸の勾玉がかなりまとまって千葉県から出土していますので、中部、関東を、川と陸の道を利用して横断し、太平洋と日本海をつなぐ列島の横断路も利用されていたと思います。とくに川の交通は、現在からは想像できないくらい活発だったと見なくてはなりません。

 「倭人伝」の記述についての考察が行われている。いま取り上げている「人口問題」の発端は「倭人伝」に記録されている戸数だった。次回は、「倭人伝」の時代、すなわち弥生後期にしぼって、その社会状況を少し詳しく調べてみよう。
《続・「真説古代史」拾遺篇》(160)



「古代の推定人口」異論(2)


縄文時代と弥生時代の実年代

 縄文時代は土器による日本特有の命名だが、世界史的には新石器時代に区分される。それ以前は旧石器時代と呼ばれている。旧石器時代のはじまりは定かではないが、その下限、言いかえると縄文時代の開始は約紀元前1,5000年頃とされている。今のところ、1998年に大平山元Ⅰ遺跡(おおだいやまもといちいせき 青森県外ヶ浜町にある縄文時代草創期の遺跡)から出土した土器が一番古く、炭素14年代測定法により1,6500年前と算定されていることによる。人の手で作られた器具を工業製品と呼ぶなら、いまのところ、この土器が世界最古の工業製品ということになる。

 縄文時代の下限(弥生時代のはじまり)は稲作の開始が目安にされ、従来は前5世紀から前3世紀頃とされてきた。しかし、2003年5月20日に、「弥生時代の開始が500年さかのぼってBC10世紀頃」という国立歴史民族博物館による研究発表があった。この研究は、北九州を中心(福岡県板付遺跡、佐賀県菜畑遺跡など)に縄文晩期から弥生時代の土器の炭素14年代測定を集中的に行ったものである。この結果をふまえて作られた弥生時代の実年代表を掲載しよう(秋山浩三著『弥生実年代と都市論のゆくえ』より転載)。

弥生時代の年代

 その後も研究は続けられている。西村豊弘編『新弥生時代のはじまり 第2巻,縄文時代から弥生時代へ』所収の藤尾慎一郎氏の論文「弥生時代の開始年代」には詳細な研究経過が記されている。そこで氏は「2007年2月現在,濯漑式水田稲作の開始は前10世紀後半と考えられる」と結論している。また、これは北九州に限らず、東部九州・豊前・豊後でも同様であると報告している。

 九州以外の地域の弥生開始年代はどのようだろうか。前提書所収の西本豊弘論文「縄文文化から弥生文化へ」から引用する。

 我々の研究チームのこれまでの年代測定によって,九州北部での弥生早期の始まりは紀元前10世紀後半,九州全体から
 瀬戸内東部・四国の弥生前期の始まりは紀元前800年頃,
 近畿地方の前期の始まりは紀元前600年頃,
 中部地方での弥生前期の始まりは紀元前550年頃
と推測される。

 九州で水田稲作が始まって以降,約350年をかけて中部地方にまで弥生農耕文化が広がったことになる。

 以上をまとめると
縄文時代
 紀元前1,5000世紀頃~前10世紀頃
で、約1,4000年間
弥生時代
 前10世紀頃~3世紀中頃
で、約1200年間
ということになる。稲作がこれほど早くから行われていたという事実からも私たちの古代観の再検討が迫られていると思う。

縄文時代の社会像

 日本列島は「稀なる孤島」であり、縄文文化は「孤立した日本列島固有の文化である」という従来から思い込みが未だに強く残っているようだ。この問題についてはずいぶん以前に一度取り上げたことがある。

『「日本」とは何か(5):「稀なる孤島」という虚像(1)』
『「日本」とは何か(6):「稀なる孤島」という虚像(2)』

 このころ、私はまだ古田氏の諸著作を知らず、もっぱら網野氏の著書②を教科書にしていた。網野氏は2004年に亡くなられていて、上記の国立歴史民族博物館による研究発表はその著書には反映されていない。だから氏は「弥生時代の始まりは前5世紀から前3世紀頃」という説のもとに論を進めている。そのことを考慮しながら読んでいくことにする。

 さて、縄文文化は「孤立した日本列島固有の文化」ではない。東アジアの住民たちは相当古い時代から互いに渡来し合い、その交流を通して技術・文化・知識面で相互的に影響し合っていた。もちろん列島内においても同じである。各地域間の交流も活発だったことだろう。網野氏は次のように述べている(①から引用)。

 いずれにせよ、いままでわれわれが教えられてきたように、縄文文化が「島国」の中に孤立した文化であったとする見方は、完全に誤りであることが明らかになってきました。

 日本列島の内部でも、海を通じていろいろな物が動いていたことがわかってきており、千歳空港の拡張工事で発掘された美々(びび)遺跡からは、翡翠がたくさん見つかっています。これは新潟県、糸魚川のあたりの翡翠で、かなりの年月をかけたにせよ、大量のものが新潟から海を通じて北海道に運ばれていたことがわかります。

 こういう事例は数限りなくあげられるようで、長野県で黒曜石の工場のような遺跡が発掘されたという話もあります。黒曜石の交易は日本列島の中で非常に活発に行われており、これはたまたま交易をしたというのではなく、最初から交易を前提に黒曜石の生産をする、いわば「商品生産」が縄文時代にすでにあったといえるのだと思うのです。

 商業の開始についても、これまでは新しい時代のことと考えられてきたのですが、交易のために物を生産することが行われていたとすれば、商業がすでに行われていたといってよいのではないかと思います。

 黒曜石だけでなく塩も同様で、日本列島の場合岩塩がありませんから、塩は海水からとらなくてはなりません。最初のうちは「藻塩を焼く」といわれるように、海草を使って鹹水(かんすい 塩分の濃い海水)を得て塩を焼く煎熬(せんごう)をしていたのですが、縄文後期になると土器で製塩が行われるようになります。

 霞ヶ浦の沿岸などに大きな製塩土器が発掘されていますが、土器で塩をつくりますと、相当量の塩が一挙にとれます。ですからこれは交易を前提にした製塩であるといって間違いないと思います。塩がとれると魚貝の塩蔵も可能になり、その交易も行われるようになりますので、塩の交易、それにともなう魚介類の交易は、日本列島の社会の中でもっとも早く現われる商業で、塩商人、魚貝商人は、やはりもっとも古い商人ではないかと私は考えています。

 これまで縄文時代については、毛皮をまとったほとんど裸の人が、裸足で弓矢や石器を使って獣を追って駆け回っているイメージが強いのですが、これは徹底的に消してしまわないといけないと思います。

 たとえば衣類にしても、藤や葛など木の繊維を使った織物がありますし、木の実を入れる編み物の袋も作られています。靴も履いている。また道具も、弓矢や石器だけではなくて、木器もかなり高度なものが作られています。

 若狭の三方五湖の、鳥浜遺跡という有名な縄文時代の遺跡からは、きれいに漆を塗った女性の櫛も出土しています。また最近の青森市の三内丸山の遺跡からは、みごとな漆器がたくさん出土していますし、おどろくほど厖大な量の土器も発掘されています。さらに巨大な柱跡が見られるのですが、その間隔が等しく、一種の物さしがあったと推定されているのです。

 縄文時代の生活文化は、このように非常に豊かで複雑なものだったのです。それは漁撈、狩猟をはじめ、大変に発達した木の実の採集、加工を基礎にしているのですが、それだけではなく、植物、樹木の栽培もはじまっていたようです。鳥浜遺跡からは瓢箪の種が出てきたのですが、胡麻やニガウリの種も発掘されています。とくに瓢箪の場合、日本列島原産の植物ではないので、これは栽培されたとしか考えられません。このように植物の種を蒔いて栽培する技術は、縄文時代後期には日本列島の社会に定着していたのではないか、と考えられるようになっています。

 さらに稗もでてきますので、畑作も縄文後期にははじまっていたのではないかという説もありますし、縄文晩期には稲作が一部ではじまるわけで、このような非常に多様な文化が縄文時代にあったことは間違いありません。

 さらにまた、能登半島の真脇(まわき)遺跡をはじめ、さきほどの三内丸山など、日本海沿海地域に巨木文化とよばれるような、巨大な木を何本も立てた遺跡が各地で見つかっています。

 それが建物なのか、祭祀遺跡なのかはよくわからないようですが、これだけの仕事はかなりの組織的な社会ができていなければ達成することはできないと考えられますので、広域的な交易関係を持ちつつ、それぞれの単位の社会もかなり複雑になっていたものと考えられます。もちろんだからといってすぐに権力の存在や、支配、被支配の関係を考える必要はないと私は思いますが、それなりのリーダーの存在は考えうると思います。

 まったく素人なのにこのようなことから話しはじめたのは、これまで弥生時代に農耕、稲作がはじまると、われわれの目は完全に稲作だけに向いてしまい、日本列島の社会全体が稲作一色におおわれた農業社会になったように考えがちだったため、長い縄文時代を通じて蓄積されてきた、多様な生業にそくした技術や文化を切り落としてしまっていたことを強調したかったからなのです。縄文時代をそのように多様な生業に支えられ、広域的なつながりを持った社会と考えておかないと、その後の文化、社会を正確に理解することはできないと思います。

 ところで、時代をさかのぼるが、旧石器時代も決して閉じた社会ではなかった。いま玉田芳英編『史跡で読む日本の歴史1 列島文化のはじまり』を併読している。その中の加藤真二氏の論文『列島各地の旧石器文化』から引用する。

(北海道湯の里4遺跡)
 細石刃石器群のうち、楔形細石核をもつものは、本州島から北海道半島南部にナイフ形石器をもつ石器群が展開している時期に、いち早く北海道半島に出現する。これは、針葉樹疎林・草原化したこの地域にメインランドから流入したマンモス動物群を追跡してきた集団によってもちこまれたものだろう。楔形細石核による細石刃技術と荒屋型彫器をもつ石器群が、東シベリアからロシア極東地方を中心に東北アジアに広くみられるからである。

 また、史跡ピリカ遺跡(北海道今金町)、柏台1遺跡(同・千歳市)、湯の里4遺跡などから出土した、二万年前という古い年代をもつ細石刃石器群に特徴的な石製装身具も東北アジアの細石刃石器群にしばしばみられ、この見方によくあう。

 湯の里4遺跡では、墓とされる赤色顔料が散布された長径1.1㍍、、短径0.9㍍の土坑のなかから、楔形細石核の一種である蘭越(らんこし)型細石核や石刃石核とともに椴岩(かんらん)岩製玉製点、琥珀(こはく)製玉一点が出土した。玉類の素材となった橄欖岩は、北海道地方や古本州島産ではなく、アムール河下流からシベリア・中国の地域からもたらされた可能性があるという(畑宏明編『湯の里遺跡群』1985)。また、墓に赤色顔料をふりまく行為もそれらの地域に広くみられる。まさに、かの地から渡ってきた人、あるいはその近々の子孫が、この北海道半島の南端の地までたどり着きながらも息絶え、故郷から身に着けてきた玉とともに、かの地の流儀で葬られたことを想像させる。そして、その後に彼らの子孫が津軽海峡を越えた交流や移動によって、楔形細石核をもつ石器群を古本州島にもたらすこととなる。

(九州の剥片尖頭器)
 今度は、古本州島南西端の九州地方に眼を向けてみよう。ここではAT火山灰の降下後、剥片尖頭器をもっ石器群が突然出現する。この石器は、朝鮮半島南部を中心とする地域で後期旧石器時代の比較的古い時期から細石刃石器群期まで盛行する石器である。これをもつ集団が朝鮮・対馬海峡を越えて九州地方に流入、拡散したのだろう。この頃、イノシシが大陸から古本州島に流入したという考えがある(小澤智生「理フィロソフィア」10、名古屋大学理学部・理学研究科、2006)。これを追ってきたのだろうか。

 また、限定的な事例ではあるが、華北地域の梅溝遺跡(河北省陽原県)で小型石刃素材のナイフ形石器が出土したほか、西白馬営遺跡(同、1.8万年前)で今峠(いまとうげ)型ナイフ形石器、王府井東方広場遺跡(北京市宣武区、2.4-2.1万年前)で百花台(ひゃっかだい)型台形石器に類似した資料が存在する。ナイフ形石器は古本州島の代表的な石器であり、今峠、百花合両型式の石器とも九州地方特有のものである。

 前述したように、古本州島の後期旧石器文化は、大陸の渤海湾周辺地域の旧石器文化が西ルートでもたらされたものである。その後、局部磨製石斧や各種ナイフ形石器の盛行など、古本州島の旧石器文化は、地域的な特徴が濃くなる。しかし、後期旧石器時代の後半期に入ると、北海道半島や九州地方を窓口とする大陸とのさまざまなレベルの情報・物資の交流や集団移動があったようだ。大陸の一部であった北海道半島のものはもちろん、古本州島の旧石器文化も大陸のそれと密接に連動していたといえるだろう。そろそろ、〝わが国の旧石器文化″、〝日本旧石器文化″という捉え方から解放されてもいいのではないだろうか。

 言うまでもないことだが、どの時代でも人間社会の文化はたえず変化・発展・進歩して引き継がれていく。後期旧石器時代の後半期に到達した大陸との連動の延長上にある縄文文化が「孤立した文化」であろうはずがない。