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《続・「真説古代史」拾遺篇》(156)



「倭人伝」の戸数問題(5):人口(3)


 前回の澤田氏による人口推定値は水野氏の『評釈 魏志倭人伝』から転載した。今回はウィキペディア「近代以前の日本の人口統計」を利用している。この資料を「人口統計」と略記する。

 「人口統計」には200(300)年頃の推定人口も記載されている。McEvedy & Jones・鬼頭宏・Birabenという三人の方の推定値が記載されている。それぞれ70,0000・59,4900・50,0000(60,0000)となっている。かつてこの数値に疑問を持った人はいなかったのだろうか。1戸当たりの口数を5人とすると「倭人伝」に記録されている8ヵ国(対海国~邪馬壹国)の人口(約75万人)だけですでにそれらの推定人口を超えている。「倭人伝」の記録がとんでもない誇張記事だと言うべきなのだろうか。鬼頭氏の推定方法が解説されているので、それを読んでみよう。実に分かりにくい解説だが、次のようである。

 澤田氏による奈良時代の関東地方の推定人口94万3300人と関東地方における土師器を産出する遺跡数(5549箇所)から1遺跡当たりの人口(94,3300÷5549≒170)を基準値としている。そして、弥生時代はその0.2~0.43(平均約1/3)で56と推定する。弥生時代の土師器を産出する遺跡数は10624なので弥生時代の人口は、56×10624=594944、つまり59,4900人というわけだ。

 ここで使われている関東地方の人口も、1遺跡当たりの人口が弥生時代は奈良時代の約1/3というのも推定値であり、推定に推定を重ねている。遺跡だって、まだ未知のものがどれだけあるか分からない。このような推定値はとても信用するわけにはいかない。

 それではここで使われている澤田氏による奈良時代の推定人口は信頼できるものだろうか。「人口統計」には澤田氏の推計方法の解説もあるが、これも実に分かりにくい。次のように解読した。

 澤田氏は、理由はわからないが、陸奥の1000出挙稲束数当たりの課丁数21.98人が基礎単位に使われている(たぶん、出挙稲束数と課丁数がともに記録されている国は陸奥だけなのだろう)。もう一つ、戸籍・計帳断簡から人口100人当たりの課丁数を18.7人と推定している。これらを用いて筑前の推定人口を次のように計算する。筑前の出挙稲束数は79,0063なので筑前の人口は
(21.98×79,0063/1000÷18.7)×100=9,2864
となる。前回転載した「筑前…9,2900人」はこのように計算されたようだ。

 実に込み入った推計をしているが、疑問がいくつかある。まず、基礎単位に使われている
(1)「1000出挙稲束数当たりの課丁数21.98人」
(2)「人口100人当たりの課丁数18.7人」
が妥当だのだろうか。(1)は陸奥国での場合であり、これを全国共通の基礎単位にしてよいものか。(2)は「戸籍・計帳断簡」をもとにしたとあるが、その「断簡」は全体の基礎資料とするに堪えるほど十分な史料なのだろうか。十分な検証のうえで選ばれたものだとしても、この計算方法で出された人口数は農業従事者の戸だけのものであろう。澤田氏は「推定良民人口」と呼んでいるようだ。だから氏は全国の人口推計では平城京の推定人口(20万人)や賤民・遺漏者の推定人口(ともに100万人)を加えている。しかし、それらの推定人口はどのような根拠をもとに得られた数なのだろうか。ともあれ、氏は結論として奈良時代の人口を約600万~700万人と推定している。

 澤田氏は実に込み入った計算をしているが、もっと単純な計算をしてみよう。「和名抄」に記録された郷数を用いてみよう。各郷は50戸からなり、一戸の口数は25人とする。全国の郷数は4041(4039・4029・4026などの説もあるようだ)だから、全国の人口は
4041×50×25=505,1250
で澤田氏の推定より100万余少ない。さらに郷数による九州各国の推定人口と澤田氏の推計人口と併記すると次のようなる。

国名(郷数)―人口数―澤田氏による数

対馬(9)		 1,1250		   7000
壱岐(11)	 1,3750		 1,0600
筑前(102)	12,7500		 9,2900
筑後(54)	 6,7500		 7,3300
豊前(43)	 5,3750		 7,1600
豊後(47)	 5,8750		 8,7400
肥前(44)	 5,5000		 8,1400
肥後(99)	14,8500		18,5500
日向(28)	 3,5000		 4,3800
大隅(37)	 4,6250		 2,8400
薩摩(35)	 4,3750		 2,8500
 ――――――――――――――――――
合計		66,1000		71,0400
 郷数による推計人口の場合も8ヵ国(対海国~邪馬壹国)の全人口の方が10万ほど少ない。しかし、郷数による推定人口にも疑問点がある。「一戸の口数は25人」という仮定はどのくらいの信憑性があるのだろうか。岩波講座「古代史3」を拾い読みしていたら「残存戸籍にみえる肥君猪手の戸(戸口数124)」(吉田孝「律令制と村落」)という記述に出会った。このような豪族はどのくらいいたのだろうか。また、武具や織物・染め物などの加工にたずさわる「品部、雑戸は4000戸と計上されるが、彼らは京畿内および近国にあって…」(狩野久「律令財政の機構」)という記述にも出会った。このような工業者は近畿だけではなく、各国にもいたのではないか。そして、工業・漁業・狩猟関係者などは造籍対象者ではなかったようだ。造籍対象者はいわゆる農業関係者だけだった。

 以上、古代の推定人口をいろいろ調べてみたが、残された資料が不十分なのだからやむを得ないことではあるが、私にはどれも信用することができない。

 では、「倭人伝」に記録されている戸数はどうなのだろうか。ここでの戸数は農耕関係者だけではなく全ての住民が対象だったと考えられる。しかし、これだけでは「倭人伝」の戸数が誇張されたものか否かを判断することはできないだろう。判断するための材料不足。なんとも情けない結論だが、「分からない」と言うほかない。
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《続・「真説古代史」拾遺篇》(155)



「倭人伝」の戸数問題(4):人口(2)


 水野氏の論旨をまとめると次のようになる。

 まず、氏は玄菟郡と楽浪郡(漢書と後漢書)の合わせて三例全体の平均(5.2人)から、倭国の一戸当たりの口数を5人とみなしてる。この推定値を用いて、「倭人伝」中の戸数が記録されている8ヵ国(対海国~邪馬壹国)の全人口を試算すると、「戸」と「家」を区別しなければ15万余戸(14,6000余戸と4000余家)だから、その総人口は約75万人ということになる。さらに氏は、戸数記録のない他の22ヵ国の戸数を仮に千余戸としてその人口を11万人を加えて、親魏倭国30ヵ国の総人口を86万人としている。

 一方、水野氏が澤田氏の著書から転載している九州各国の人口は次の通りである。

〈第一グループ〉
対馬… 7000人
壱岐…1,0600人
筑前…9,2900人
筑後…7,3300人
豊前…7,1600人
豊後…8,7400人
肥前…8,1400人

小計…42,4200人

〈第二グループ〉
肥後…18,5500人
日向… 4,3800人
大隅… 2,8400人
薩摩… 2,8500人

小計…28,6200人

九州全人口…71,0400

 水野氏は30ヵ国全てを〈第一グループ〉内に比定している。また氏は〈第二グループ〉を狗奴国勢力圏としている。そこで「倭人伝」の戸数から導いた30ヵ国の人口と澤田氏による10世紀の推定人口(〈第一グループ〉)を比べて言う。
「まさに北九州の人口は六百年を経過して、半減した結果になり、これは不合理である。」
 さらに、8ヵ国(対海国~邪馬壹国)の全人口75,0000人が10世紀の九州全島の人口710400人にほぼ匹敵することを指摘して
「どうしても女王八ヵ国の人口および戸数は実際に合わないようである。」
と言う。

 以上から、氏は「倭人伝」の戸数記事は「信憑性が少ない」という判断を下している。次のようである。

 戸数や人口数のうえからでは、「倭人伝」の記載は事実に合わない数値となるのであって、この数字は信憑性の少ないものといわなければなるまい。

 ただここで注目すべきことは、魏の使者が直接渡来し、親しく見聞した国々、すなわち、対馬国・一支国・末廬国・伊都国の四カ国の人口数はいずれも千戸から四千戸までの数を示していることで、これはある程度は信憑性をもつ人口計算規準としての戸数を示していると思われる。

 それに対して、奴国以下の国々は、いずれも魏使が直接訪れていない国々であり、それらは皆、万戸以上の戸数を示しているので、それらはすべて魏使が伝聞をもとにして、概数を推測によって記したものと解されるから、これは信憑性のないものであると判断して然るべきである。

 おそらく実際には他の国々の戸数や人口も、対馬・一支・末廬・伊都の四国のそれと大同小異のものと考えれば事実に近かろうと思われるのである。

 ここまでのところ、水野氏のこの主張に反論の余地がないように思えるが、もう少し考えてみよう。
《続・「真説古代史」拾遺篇》(154)



「倭人伝」の戸数問題(3):人口(1)


 「倭人伝」に記録されている「戸」の一戸当たりの口数はどれぐらいだったのだろうか。「戸」「家」などの本来の意味からすれば両親と子供で構成されている一家族と考えてよいと思うがどうだろうか。

 「愛読者」さんのコメントによると、令制下の「戸」とは「郷戸(親族集団)」のことであり、「郷戸」は「房戸」と呼ばれる世代家族によって構成されている。房戸の口数は7~9人であり、郷戸の口数は25人程度だったという。手許の「詳説日本史史料集」(山川出版社)に「正倉院文書」にある戸籍と計帳が一例ずつ掲載されている。それによると次のような構成になっている。

戸籍…下総国葛飾郡大嶋戸籍 養老5(721)年
郷戸主・佐留(47歳)計27人
 うち、課口(役負担を負う成年男子)は6人、あとは女性・子供と障害者・疾病者が若干名。
(口数の内訳)
 佐留の家族数…15人
 房戸主・小諸(佐留の従兄 55歳)…5人
 房戸主・小国(佐留の甥 27歳)…7人


計帳…山背国愛宕郡出雲郷計帳 神亀3(726)年
郷戸主・千依(69歳)…計22人
 うち、課口は5人。 (内訳)
 千依の家族数…16人
 房戸主・果安…6人

 郷戸主は大家族だが、まだ幼い子供が多い。これらの子供のうちどれほどが無事に成長するのだろうか。たぶん生存率は低かったのではないか。それでもこれだけの家族を養うことができたのは農耕生産技術の進歩によって生産高が上がったからであろう。また、出雲郷計帳では不課口22人の中に「奴一人」が記録されているのが目に付いた。

 「倭人伝」に戻ろう。「倭人伝」の「戸」は令制下の「房戸」、つまり一家族を「戸」として数えていたのではないだろうか。また、3世紀頃では上に見られるような大家族はほとんどなかったのではないかと思う。一戸当たりの口数はせいぜい数人程度だったと考えるが、「三国志」には一戸当たりの口数を推定する資料はない。水野氏は『漢書』地理志と『後漢書』を用いてその推定を試みている。次のようである。(一戸当たりの平均口数は少数第二位を四捨五入した。)

『漢書』地理志
玄菟郡
 戸数4,5600戸・人口22,1845人
 一戸当たりの平均口数4.9人
楽浪郡
 戸数6,2812戸・人口40,6748人
 一戸当たりの平均口数6.5人
『後漢書』
楽浪郡
 戸数6,1492戸・人口25,7050人
 一戸当たりの平均口数4.2人

 玄菟郡は漢により朝鮮半島北部に設置された郡であり、玄菟郡・楽浪郡・臨屯郡・真番郡を漢四郡と呼んでいる。水野氏が玄菟郡と楽浪郡を選んだのは倭国との比較をするためだったようだ。古田氏は『漢書』地理志から51例の資料を抽出している。その第一は次のようになっている。

(京兆尹)元始二年、十九万五千七百二、六十八万二千六百十八。県十二。 帥古曰く「漢の戸、元始の時に当りて最も殷盛と為す。故に志、之挙げ、以て類と為すなり。後皆此に類す」と。

 これによると、『漢書』地理志に記録されている戸数・口数は漢が最も栄えた元始年間(西暦1~5)頃のものということなる。京兆尹(けいちょういん)とは、ウィキペディアによると、
「前漢から後漢かけ設置された行政区画であり、都城である長安付近の県を管轄した。また京兆尹は当該行政区画を監督する官名でもある。」
 この京兆尹の一戸当たりの平均口数は3.5人と少ない。この他に古田氏による資料からランダムにいくつか計算してみたが、ほとんど4~5人前後というところだった。しかし、多い例として7.1人(益州郡)というのがあった。かなりの違いが見られる。戸として数えられているのは農民だけではなく、漁民・商人・工人なども入っているだろうから、その口数はその地域の中心産業が何かによってかなりの違いがあったと思われる。

 さて、水野氏は「倭人伝」の戸数記録は
「事実に合わない数値となるのであって、この数字は信憑性の少ないものといわなければなるまい。」
と主張している。その論拠は二点ある。一つは倭国の戸数と朝鮮半島の戸数の比較である。概略次のようだ。

朝鮮半島の戸数は
東沃沮・濊・馬韓・弁韓・辰韓の合計12,5000余戸、楽浪郡・玄菟郡の戸数約10,8000余戸(水野氏は楽浪郡だけの数を用いているので訂正した。)を加えて、合計23,3000余戸
 これに対して、「倭人伝」で戸数が記録されている8ヵ国(対海国~邪馬壹国)の戸数は、「戸」と「家」を区別しなければ15万余戸(14,6000余戸と4000余家)。その比は約3:2=6:4となる。
 一方、朝鮮半島の面積は22,1000㎢、九州の面積3,6000㎢で、その面積比は約6:1。
 九州の8ヵ国だけの戸数はあまりにも多すぎる。

 一つの参考資料にはなるが、国土の面積だけでの比較は危うい。人口は地形・気候・産業状況や政治状況などによってかなり異なる結果になるのではないだろうか。特に、朝鮮半島の中・西北部は漢四郡という名称に見られるように、中国からの侵略を受け、ほとんど植民地だった。そのような要素も考慮しなければならないのだから、単純な比較はできない。

 次に、水野氏は倭国の人口を10世紀の人口と比べて「やはり多すぎる」という結論を出している。大和説の場合はどうとか、狗奴国を入れるとどうとか、かなり錯綜した理論展開をしている。そこで、水野氏が用いている資料を利用して、私(たち)の立場に引きつけてまとめ直してみる。

 水野氏が用いている資料は
〈『延喜式』所収「全国出挙稲」を基に算定した澤田吾一氏の研究〉
とあるが書名がない。ネット検索をした結果『奈良朝時代民政経済の数的研究』のようだ。直接調べてみようと思ったが、残念ながら近所の図書館にはなかった。ネットでの学習になるが、古代の人口について少し調べてから、続きを書くことにする。
《続・「真説古代史」拾遺篇》(153)



「倭人伝」の戸数問題(2):「戸」と「家」(2)


 蜀志では「戸」は直接話法文中に二例あるだけで、地の文で直接言及している記事はない。次の通りである。

①〈法正伝〉
正(法正)牋して璋(劉璋)に与えて曰く「…今、此れ全く巴東・広漢・犍為を有し、過半己に定まる。巴西の一郡、復(また)明将軍の有に非ざるなり。益州を計るに、仰ぐ所は惟(ただ)蜀のみ。蜀も亦破壊す。三分、二を亡い、吏民疲困し、乱を為すを思う者、十戸にして八…」と。

②〈劉封伝〉
「達(孟達)、封(劉封)に書を与えて曰く「……但(ただ)、僕と倫と為るのみに非ず、三百戸の封を受く。……」と。


 共に手紙文である。①は暴動寸前の状況が記されている。この二例しかないが、蜀でも「戸」という行政単位が施行されていたと考えてよいだろう。

 呉志の場合は次のように六例あるが、魏志と比べれば極端に少ない点では蜀志と同じである。次ぎのようである。(校正ミスや誤記の指摘はミネルヴァ書房版『倭人伝を徹底して読む』のものです。筑摩書房版『世界古典文学全集 三国志』で確認していて気付きました。)

③〈呉主伝〉
(「呉王伝」となっている。校正ミス。④では正しく表記されている。)
初め、曹公(曹操)、江浜の郡県、権(孫権)の為に略せられるを恐れ、徴して内移せしむ。民転(うた)た相驚き、廬江・九江・蘄春(きしゅん)・広陵より戸十余万、皆東のかた江を渡る。江西、遂に虚(むな)し。合肥(地名)以南、惟(ただ)皖城(地名)有るのみ。

④〈呉主伝〉
 秋、魏将梅敷(人名)、張倹(人名)に使して、求見撫納せしむ。南陽の陰・鄼・筑陽(筑・音逐)・山都・中廬(以上地名)、五県の民、五千家、来附す。

⑤〈劉繇伝〉
(古田氏は〈筰融伝〉としているが、「劉繇伝」中の一節である。また、筑摩書房版では「筰融」ではなく「笮融」と表記されている。)
乃ち大いに浮圖(ふと)の祠を起し、銅を以て人を為し、黄金塗身、衣(き)するに錦采を以てす。銅槃九重を垂らし、下、重楼閣道を為し、三千余人を容る可し。悉く課して仏教を読ます。界内及び旁郡の人、仏を好む有らば、受道するを聴(ゆる)す。其の他の役を復し、以て之を招致す。此に由りて遠近前後、至る者、五千余の人戸。浴仏の毎(ごと)に、多く酒飯を設け、路に布席す。数十里を経て、民入来観し、就食に及ぶすら、且、万人、費すに巨億の計を以てす。

⑥〈呂蒙伝〉
蒙(呂蒙)の子、覇、爵を襲い、守家の三百家と与(とも)に、田五十頃(けい)を復す。

⑦〈潘璋伝〉
璋(潘璋)の妻、建業(都)に居す。田宅を賜い、客五十家を復す。

⑧〈孫和伝〉
(「孫休伝」と誤記されている。)
其の年、父の和(孫和)に追諡号(ついし)して文皇帝と曰(い)う。明陵に改葬す。園邑二百家を置く。(主語は孫晧)


 ③と⑤に「戸」が遣われているが呉の行政単位とは言い難い。③は、曹操が揚子江流域の郡県を孫権に支配され富や住民を収奪されることを恐れて住民を大移動させた、というものであり、ここの「戸」は魏の行政単位として書かれている。

 また、⑤は筰融が無法な方法で財をなし、その財を用いて大々的な仏教の儀式を行い、参加者には賦役を免除すると喧伝して沢山の人を集めたという話である。ここでは「五千余戸」という表現ではなく、「五千余の大戸」という他に見られない書き方をしている。行政単位としての「戸」とは異なる表記と考えてよいだろう。

 ④⑥⑦⑧はすべて「家」という単位が使われている。「戸」と「家」の使い分けを解く手掛かりがありそうだ。

 ④は、魏の梅敷(ばいふ)が張倹を使いに立て呉に帰属してきた、という呉側の記録である。この帰属民を「五千戸」ではなく「五千家」と言っている。(古田氏はこの文を「呉の方から魏の勧誘に従って来た」と解釈していて、私の解釈とは異なる。)

 ⑥⑧の「三百家」「二百家」は守墓人のである。「戸」ではなく「家」を用いている。

 ⑦では「五十家」という表現をしている。「客」には「臨時に他郷に住んでいる人」「他郷から来ている人」といった意味がある。「移住させられた五十家」という意味であろう。⑥⑧の守墓人の場合もそのように理解してよいだろう。

 さて、以上の資料をもとに問題を二点整理してみよう。第一は蜀志・呉志に「戸」記事がない問題である。魏・蜀・呉は当初はともに漢の行政制度を踏襲していたと考えるのが妥当だろう。なのに、蜀志・呉志に「戸」記事がないのはどうしてだろうか。古田氏は次のようにまとめている。

 呉志はわずかですが、そこには「家」という形が出ています。たとえ「戸」が使われてもそれは実質的に魏に関係するところであって、要するに『三国志』の呉志や蜀志では、基本としては、「戸」は使われていない。「戸」が使われているのは魏志だけということになります。

 しかも注目すべきことは、まず第一に、北方でも鳥丸・鮮卑などは「戸」とはいわないのに、倭国では「戸」の表現がふんだんに使われていることです。ということは、倭人伝の「戸」は独立、孤立の「戸」ではなく「魏志に出てくる戸の一環」としての「戸」であり、「魏の概念の戸」であると考えられます。もちろん実態としては、中国本土の場合と高句麗、日本列島の場合ではちがうことがありえます。ありうるにもかかわらず、建前としては、「魏の戸」であるということをはっきり認識しておく必要があります。

 第二に注目すべきことは、呉や蜀で「戸」という行政単位がなかったか、ということです。蜀は、漢の後を受け継ぎ、制度も漢と同じでしたから、漢に盛んに使われていた「戸」が、当然蜀でも使われてしかるべきなのに一切使われていない。しかし直説法の文章の場合は、断片的に出ていますから、直説法の場合はかまわないが、制度としては全部消してしまう。そういう立場に立って『三国志』は書かれていた、ということがいえます。これは呉についても同じことです。それほど『三国志』では、「魏の制度の戸」という立場が非常に強引に貫かれているのです。

 ここで古田氏は『日本書紀』や『続日本紀』の「評隠し」との同一性を指摘して「郡評論争」のあらましを記しているが、これは既に『偽装「大化の改新」(1) ― 「郡評」論争』で取り上げているのでそれを参照していただくことにする。

 さて、第二点は「戸」と「家」の使い分けという問題である。実はこれがテーマであった。これも古田氏の説を取り入れよう。

 先ほど「戸」と「家」の混用問題にふれましたが、「戸」を使うところでは「戸」を使い、使うべからざるところでは「戸」は使われていない。混用でありながら、その使い分けはいい加減でなく、非常に厳しいものがあります。

 そうして見ていくと、章のはじめに出てきた一大国・不弥国は、「三千許戸」「千余戸」とは書いてはならなかったのです。各国それぞれ特色はあるにしても、「戸」というのは、「魏の大義名分上の戸」であることが先の結論でした。

 すると一大国。不弥国に関しては、「戸」だけではなかったのではないか。先の例を見ていくとよくわかるように、「家」の場合は、「戸」と書いてはならない、いろいろなケースがあります。たとえば「魏人千余家を遣わして上谷に居らしむ」(鮮卑伝)を見ると、「戸」というのは、その国に属して税を取る単位あるいは軍事力を徴収する単位で、国家支配制度の下部単位になっています。ところが下部単位以外のものもふくめてでは「戸」とはいえない。つまりそこに倭人だけでなく、韓人がいたり、楽浪人がいたり、と多種族がかなりの分量を占めている場合は、そうした人々までふくめて「戸」とはいわない。その場合は「家」という。そういうふくみがあるから、ここは「戸」を使わずに「家」と使っているのです。「家=戸プラス戸以外」です。このように「戸」以外のものをふくんでいるケースでは、「家」でなければいけなかったのではないかと思われます。

 すると、一大国は、住人が多く海上交通の要地に当たっていましたから、倭人のほかに韓人などいろいろな人種が住んでいた可能性が大きい。同じく不弥国は、「邪馬一国の玄関」で、そこにもやはりいろいろな人たちが住んでいたと考えられる。そうした状況では「戸」ではなく「家」の方がより正確であり、正確だからこそ「家」と書いたわけです。

 わたしは「陳寿を信じとおした、ただそれだけだ。はじめから終わりまで陳寿を信じ切ったらどうなるか」ということで倭人伝にとりくんだはずなのに、このようなことに気がつかなかったことに慄然(りつぜん)とし、陳寿に「お前ばかだな」と笑われているような気持ちがします。

《続・「真説古代史」拾遺篇》(152)



「倭人伝」の戸数問題(1):「戸」と「家」(1)


 『「軍尼」記事をめぐって(3)』を書いているとき、戸数問題にいろいろな疑問が出てきた。その問題について「愛読者」さんから貴重なコメントを頂いている。そのコメントから得た知識も組み込みながら戸数問題を検討してみようと思う。戸数問題は水野氏(『評釈 魏志倭人伝』)が詳しく論じている。また、古田氏も『「倭人伝」を徹底してよむ』でこの問題を取り上げている(「第七章 戸数問題」)。これらを教科書として利用させていただく。

 まず倭人伝に記録された戸数を抜き出してみよう。
対海国…… 1000余戸
一大国……     3000許家
未廬国…… 4000余戸
伊都国…… 1000余戸
奴国………20000余戸
不弥国……     1000余家
投馬国……50000余戸
邪馬壹国…70000余戸

計    146000余戸と4000余家

 「許」と「余」の意味は明らかに異なる。『広辞苑』を持ち出すほどのことではないが、一応確認しておこう。

「許」
(1)体言、活用語の終止形に付く。
(ア)分量・状態・程度などの、おおよその見積りを表す。大体…ぐらい。…ほど。
「余」
(4)数詞に付いて、さらに余分のあることを示す。

 つまり、「100許家≒100家」であり「100余家>100家」である。

 同様に、「戸」と「家」もキチンと使い分けられているのではないか。その違いは何だろうか。この問題は古田氏が解明している。古田氏は魏志の「烏丸・鮮卑・東夷伝」と「帝紀・列伝」に現れる戸数関連記事を全て抜き出して考察をしている。94例もある。代表例だけを転載しておく(『』内は古田氏の解説)。

 まず「烏丸・鮮卑・東夷伝」。

〈烏丸(うがん)伝〉
 四例あるが
(遼西の烏丸大人、丘力居)衆五千余落
のように「落」が用いられている。

『この「落」という表現は、何でもないようですが、考えてみると見逃せない一つの表現です。なぜかというと、倭人伝の場合、中国風に「戸」と表現したのだろうぐらいに思っていたからです。もしそうなら烏丸も「戸」でいいはずで、別に「落」という表現を使わなくてよい。ところが実際は「落」という特殊な表現をしている。ということは、裏返すと、倭人伝の場合もなぜ倭国風の表現にせず、中国風の「戸」という表現にしたのかということです。』

〈鮮卑(せんぴ)伝〉は一例。
魏人千余家を遣わして上谷に居らしむ。

〈東夷伝〉「倭人伝」以外ではそれぞれ一例ずつある。
〈夫余伝〉 戸八万
〈高句麗伝〉戸三万
〈東沃沮(とうよくそ)伝〉戸五千
〈悒婁(ゆうろう)伝〉 ナシ
〈濊伝〉戸二万
 〈韓伝〉 (馬韓)大国万余。小国数千。総一余万
(弁・辰韓)大国四、五千、小国六、七百、総四、五万


『悒婁は書いていません。が、書いていないというのにも意味がある。というのは、わからなかったということです。わかっていたら書かれていたはずで、中国側は〝確証のあるものだけ″を書いたのです。』

『(韓伝の例)を見ると大国の場合は家で小国も家、それを合わせると戸になっています。これは一体なぜだろうか。このように家・家・戸という表現が揃ってとられているということは、これも混用といってしまえば簡単ですが、むしろ「故意」的な表現ではないかと考えられます。』

 次は「帝紀・列伝」の例

〈后妃伝、第五〉
帝、表(文徳郭皇后の従兄)の爵を進じて観津侯と為し、邑五百を増やし、前の千戸に幷(あわ)す。


『(ここで)で注目されるのは、「邑五百を増やし、前の千戸に幷す」という言い方です。「邑」と「戸」という言葉が、結びつけて使われている。これは、これから何回も出てきます。……また倭人伝の冒頭に「山島に依りて国邑を為す」と「邑」が出てきます。』

『参考として挙げますと
「孫壹、率いる所、口、千に至らず。兵、三百に過ぎず」(鍾毓伝)
という記事に、「口」と「兵」という言葉が出てきています。これも注意しておく必要があります。』

〔参考〕
(景初中)済(蒋済)上疏して曰く「……今十二州有りと錐も、民数に至りては、漢時の一大郡に過ぎず……」と。〈蒋済伝〉

『右の〔参考〕は、有名な文章です。十二州(魏の支配下全体)全部を合わせても、その人口は漢の一つの大きな「郡」程度のものでしかないという意味です。戦乱のなかで非常に人口が激減していることをいっています。』

〔参考〕
(大和中)恕(杜恕)乃ち上疏して曰く「……今、大魏、奄(おお)いて十州の地有り。而(しか)るに喪乱の弊を承け、其の戸口を計るに、往昔の一州の民に如かず。……」と。〈杜恕伝〉

『この〔参考〕も似たような例で、戦乱によって漢時代より人口が激減しているということをいっています。』

〈彭城王拠伝〉
(景初元年)県一千戸を削る。

〈中山恭王袞伝〉
詔して県二、戸七百五十を削る。


『(上の2例)では、「県」と「戸」という言葉が出ています。魏の時代は、「国」と「郡」があって、その下に「県」があり、またその下に「邑」や「戸」がありました。これも見逃せないことの一つです。……県・戸、邑・戸の例が多々みられます。』

〈楊阜伝〉
氐の雷定(地名)等の七部、万余落、反して之に応ず。

〈牽招伝〉
又懐し来る鮮卑、素利・彌加等、十余万落、皆款塞せしむ。


『(この二例)の場合「落」が出ています。北方の民族について「落」が多い。』

 以上が「魏志」の戸数関連記事である。古田氏はさらに「蜀志」「呉志」の戸数関連記事を検討している。(次回に続く。)
《続・「真説古代史」拾遺篇》(152)



「倭人伝」の戸数問題(1):「戸」と「家」(1)


 『「軍尼」記事をめぐって(3)』を書いているとき、戸数問題にいろいろな疑問が出てきた。その問題について「愛読者」さんから貴重なコメントを頂いている。そのコメントから得た知識も組み込みながら戸数問題を検討してみようと思う。戸数問題は水野氏(『評釈 魏志倭人伝』)が詳しく論じている。また、古田氏も『「倭人伝」を徹底してよむ』でこの問題を取り上げている(「第七章 戸数問題」)。これらを教科書として利用させていただく。

 まず倭人伝に記録された戸数を抜き出してみよう。
対海国…… 1000余戸
一大国……     3000許家
未廬国…… 4000余戸
伊都国…… 1000余戸
奴国………20000余戸
不弥国……     1000余家
投馬国……50000余戸
邪馬壹国…70000余戸

計    146000余戸と4000余家

 「許」と「余」の意味は明らかに異なる。『広辞苑』を持ち出すほどのことではないが、一応確認しておこう。

「許」
(1)体言、活用語の終止形に付く。
(ア)分量・状態・程度などの、おおよその見積りを表す。大体…ぐらい。…ほど。
「余」
(4)数詞に付いて、さらに余分のあることを示す。

 つまり、「100許家≒100家」であり「100余家>100家」である。

 同様に、「戸」と「家」もキチンと使い分けられているのではないか。その違いは何だろうか。この問題は古田氏が解明している。古田氏は魏志の「烏丸・鮮卑・東夷伝」と「帝紀・列伝」に現れる戸数関連記事を全て抜き出して考察をしている。101例もある。代表例だけを転載しておく(『』内は古田氏の解説)。

 まず「烏丸・鮮卑・東夷伝」。

〈烏丸(うがん)伝〉
 四例あるが
(遼西の烏丸大人、丘力居)衆五千余落
のように「落」が用いられている。

『この「落」という表現は、何でもないようですが、考えてみると見逃せない一つの表現です。なぜかというと、倭人伝の場合、中国風に「戸」と表現したのだろうぐらいに思っていたからです。もしそうなら烏丸も「戸」でいいはずで、別に「落」という表現を使わなくてよい。ところが実際は「落」という特殊な表現をしている。ということは、裏返すと、倭人伝の場合もなぜ倭国風の表現にせず、中国風の「戸」という表現にしたのかということです。』

〈鮮卑(せんぴ)伝〉は一例。
魏人千余家を遣わして上谷に居らしむ。

〈東夷伝〉「倭人伝」以外ではそれぞれ一例ずつある。
〈夫余伝〉 戸八万
〈高句麗伝〉戸三万
〈東沃沮(とうよくそ)伝〉戸五千
〈悒婁(ゆうろう)伝〉 ナシ
〈濊伝〉戸二万
 〈韓伝〉 (馬韓)大国万余。小国数千。総一余万
(弁・辰韓)大国四五千、小国六七百、総四五万


『悒婁は書いていません。が、書いていないというのにも意味がある。というのは、わからなかったということです。わかっていたら書かれていたはずで、中国側は〝確証のあるものだけ″を書いたのです。』

『(韓伝の例)を見ると大国の場合は家で小国も家、それを合わせると戸になっています。これは一体なぜだろうか。このように家・家・戸という表現が揃ってとられているということは、これも混用といってしまえば簡単ですが、むしろ「故意」的な表現ではないかと考えられます。』

 次は「帝紀・列伝」の例

〈后妃伝、第五〉
帝、表(文徳郭皇后の従兄)の爵を進じて観津侯と為し、邑五百を増やし、前の千戸に幷(あわ)す。


『(ここで)で注目されるのは、「邑五百を増やし、前の千戸に幷す」という言い方です。「邑」と「戸」という言葉が、結びつけて使われている。これは、これから何回も出てきます。……また倭人伝の冒頭に「山島に依りて国邑を為す」と「邑」が出てきます。』

『参考として挙げますと
「孫壹、率いる所、口、千に至らず。兵、三百に過ぎず」(鍾毓伝)
という記事に、「口」と「兵」という言葉が出てきています。これも注意しておく必要があります。』

〔参考〕
(景初中)済(蒋済)上疏して曰く「……今十二州有りと錐も、民数に至りては、漢時の一大郡に過ぎず……」と。〈蒋済伝〉

『右の〔参考〕は、有名な文章です。十二州(魏の支配下全体)全部を合わせても、その人口は漢の一つの大きな「郡」程度のものでしかないという意味です。戦乱のなかで非常に人口が激減していることをいっています。』

〔参考〕
(大和中)恕(杜恕)乃ち上疏して曰く「……今、大魏、奄(おお)いて十州の地有り。而(しか)るに喪乱の弊を承け、其の戸口を計るに、往昔の一州の民に如かず。……」と。〈杜恕伝〉

『この〔参考〕も似たような例で、戦乱によって漢時代より人口が激減しているということをいっています。』

〈彭城王拠伝〉
(景初元年)県一千戸を削る。

〈中山恭王袞伝〉
詔して県二、戸七百五十を削る。


『(上の2例)では、「県」と「戸」という言葉が出ています。魏の時代は、「国」と「郡」があって、その下に「県」があり、またその下に「邑」や「戸」がありました。これも見逃せないことの一つです。……県・戸、邑・戸の例が多々みられます。』

〈楊阜伝〉
氐の雷定(地名)等の七部、万余落、反して之に応ず。

〈牽招伝〉
又懐し来る鮮卑、素利・彌加等、十余万落、皆款塞せしむ。


『(この二例)の場合「落」が出ています。北方の民族について「落」が多い。』

 以上が「魏志」の戸数関連記事である。古田氏はさらに「蜀志」「呉志」の戸数関連記事を検討している。(次回に続く。)
《続・「真説古代史」拾遺篇》(151)



「倭人伝」中の倭語の読み方(94)
倭人名(3)


壹与
 「倭人伝」の掉尾をかざる「壹与」記事は次の通りである。

卑弥呼、死するを以て、大いに冢を作る。径百余歩。徇葬する者、奴婢百余人。更に男王を立てしも、國中服せず。更(こもごも)相誅殺し、当時千余人を殺す。また卑弥呼の宗女、壹与年十三なるを立てて王と為し、國中遂に定まる。政等、檄を以て壹与を告喩す。壹与、倭の大夫率善中郎将掖邪狗等二十人を遣わし、政等を送りて還らしむ。因りて臺に詣り、男女生口三十人を献上し、白珠五千孔・青大句珠二牧・異文雑錦二十匹を貢す。

 「壹与」はもちろん「イチヨ」と訓む。「井の中」では「邪馬臺(台)国」と同様に「臺(台)与」と原文改定して「タイヨ」よ訓んでいる。この原文改定が不当であることは『「邪馬台国」論争は終わっている。(1)』で取り上げている。ここでは、「壹与」についての言及もあるので、『よみがえる卑弥呼』から「壹・臺」問題を論じている文を引用しよう。

 中国を中心とする、東アジア各地において、四世紀から五世紀当時、「―臺」という呼称の名辞は相継いでいる。
「単于臺」(匈奴。晋書、載記第一・劉元海)、
「雲風臺」(晋書、載記第六・石季竜、上)、
「留臺」(晋書、載記第十六・姚萇)
等がこれである。これ、三世紀の三国志中の魏志において頻出しているごとく、「鄴の三臺」をはじめとする、魏・西晋朝における、各種の「臺」を造立、いわゆる「臺の盛行」が、ようやく周辺夷蛮の国々へ波及してきた、その証左とすべきものであろう。

 後漢書の范嘩(はんよう)は、このような時期(五世紀半ば)に、この倭伝を記した。その冒頭の「地の文」中に出てくるのが、この一語であるから、これは「五世紀当時」の名称であって、「後漢の光武帝の建武中元2年(57)」といった、時点明記の項に書かれた「倭奴国」という歴史的名称(後漢当時の国名)とは、その質を異にしているのである。

 とすれば、これは、右のような、東アジア各地の用例と同じく、「ヤマダイ」と読むべきであって、「ヤマ」ではない。これはたとえば、「単于臺」が「ゼンウ」ではなく、「ゼンウダイ」と読むべきと、同様である。

 同じく、三国志の倭人伝の場合も、「ヤマイ」と読むべきではなく、「ヤマイチ(イツ)」と読むべきであり、「邪馬プラス壹」の形の、重層語形ではあるまいか。ちょうど、「狗邪韓国」「閔越」「不耐濊王」がそれぞれ〝韓の中の狗邪(国)″〝越の中の閔地″〝濊の中の不耐(王)″といった意味の重層表記法であるのと、同様であろう。「小地名プラス、大国名」の形である。

 右のように分析してくると、「邪馬壹国」は「邪馬プラス壹」となり、「壹」は「倭」に当る「大国名」ということになろう。前者は「イ(itt)」、後者は「ヰ(後にはワ)」であって発音を異にする。したがって単純な「表音」ではありえない。三国志では、〝臣下として最高の美称″たる「壹」が尊重され、逆に〝二心″を意味する「貳」がもっとも憎まれている。そこで倭国側が、この「壹」字をもって、国号「倭」に代えて用いたのではないか、そのように考えたのである。新の王莽が「句麗」を卑しめて「句麗」と表記させたように、「類音によって、表意を主とする」手法である。

 この点の分析をさらにすすめれば、倭人伝中の、この「邪馬壹国」の表記は、魏代(執筆対象)のものか、それとも西晋代(執筆時点)のものか、という問題が浮び上ってこよう。この点、先の後漢書倭伝の「邪馬臺国」の場合と同じく、「魏の景初二年」「魏の正始元年」といった、紀年つきの項目ではなく、冒頭部の「地の文」中に現われるのが、この中心国名「邪馬壹国」なのであるから、執筆時点たる、西晋時の名称、と解すべきであろう。すなわち、「卑弥呼、時点」でなく「壹与(壱与)、時点」の名称である。

 とすれば、この「邪馬壹国」の「壹」と、「壹与」の「壹」は、同じく、〝「倭(ゐ)」に代え用いた佳字〝となり、「与」は、倭王としてははじめて用いられた「中国風一字名称」ということとなろう。したがって、この「邪馬壹国」という中心国名、また「壹与」という女王名、ともに、泰始2年(西晋)のさいの、壹与の壮麗な貢献(倭人伝末尾)の上表文、その中の倭王側の自署名や表文の中に現われたもの、すなわち倭国側の表記である、そのように見なすべき可能性が高いのである。

 とすれば、三国志の中心たる魏志、その最末尾が、この「邪馬壹国」の記事で結ばれ、「壹与」の壮麗な大貢献をもって結ばれた、その真意ははじめて明らかとなろう。すなわち、かつて周王朝の名摂政たりし周公が、

海隅、日を出だす。率俾せざるは罔(な)し。〈尚書、巻十六)

として、「海隅、日の出づるところ」(倭人の地)から貢献のあったことを誇ったごとく、今、その倭国から壮麗なる貢献が西晋朝になされた、それをもって「天命が西晋朝の天子を嘉(よ)みし賜うた」証左とする、そのような(西晋朝の自己P・Rとしての)構成をもつ、それが三国志の思想的構造の根本をなしていたのである(右の点、『古代は輝いていた』第一巻、参照)。

 ここで古田氏は「倭人伝」に記録されている壹与の貢献記事を西晋朝への貢献としている。これは『晋書』起居注の記事を「倭人伝」の記事と同等と見なしたことによる立論である。私はこの説には異議がある。私は「倭人伝」の記事はやはり魏朝への貢献と考える。理由は簡単で、陳寿が西晋の吏官だったとはいえ、「魏志」の記録に西晋への貢献を記録するはずがない。また、「倭人伝」の貢献を西晋朝への貢献とすると、張政は20年も倭国に滞在したことにあり、不自然だ。(この問題は「崇神記をめぐって(7):壹与の朝貢年」で、かなり詳しく検討している。参照してください。)

 以上でシリーズ『「倭人伝」中の倭語の読み方』を終わります。
《続・「真説古代史」拾遺篇》(150)



「倭人伝」中の倭語の読み方(93)
倭人名(2)


難升米・都市牛利・伊声耆・掖邪狗・倭載・斯烏越
(前回、取りこぼしがありました。追加訂正しました。)

 倭国から魏に遣わされた使者たちである。古田氏はそれぞれ順に次のように訓んでいる。

難升米……ナンシメ
都市牛利…トイチゴリ(ギュリ)
伊声耆……イセイキ
掖邪狗……エキヤコ
倭載………ヰサイ
斯烏越……シオエツ

 「井の中」では「倭載斯烏越」を「倭の載斯烏越」と訓んで一人扱いをしている。「壹與遣倭大夫率善中郎将掖邪狗等二十人送政等還。」(壹與、倭の大夫率善中郎将掖邪狗等二十人を遣わし…)という一文があるため、そのよう訓みを考えたのかも知れない。しかし、この訓みは不当だ。「倭の大夫率善中郎将掖邪狗」の場合は倭国での官名「大夫」と魏から授与された官名「率善中郎将」を併記する必要があったので「倭の大夫」と書いた。これに対して「倭載斯烏越」の場合、倭から遣わされた使者は何の断りがなければ倭人に決まっている。いちいち「倭の」という形容の必要はない。「倭載」「斯烏越」と二人の氏名とする方が妥当な考えだろう。ちなみに各使者の「井の中」での訓みは次のようである。

「難升米」…「ナシマ」「ナシメ」「ナンショウベイ」「ナソメ」
「都市牛利」…「ズシゴリ」「トシゴリ」「タジゴリ」
「伊声耆」…「イサンガ」「イシキ」「イセイギ」
「掖邪狗」…「イサカ」「ヤヤク」「ヤヤコ」
(倭の)載斯烏越…「サイシウエツ」「ソシアオ」

 地名の場合、遺称地を手掛かりに妥当な訓みをある程度探ることが可能だが、人名にはその手掛かりがほとんどない。諸説が乱立するのも「むべなるかな」である。しかし、私(たち)は「読み方のルール」によって正しいと思われる訓みをある程度しぼることができる。「井の中」では紀記に登場する人物や諸神社の祭神に比定しようとしてとんでもなく無理な訓みをしている例(内藤博士 上には含めなかった)もある。水野氏もさすがにこれは採用しない。「あえて日本の所伝に見る神や人に無理に比定しようとしないでもよく、ただ人名としてとるだけでよい」と述べている。私もそのように考える。

 狗奴国の王「卑弥弓呼」についても同様である。どういうわけか古田氏の読下し文では訓み(ルビ)が付されていないし、本文でも全く触れていない。あえて訓むとすると、「弓」の音は「キュウ」または「ク」なので「ヒミキカ」か「ヒミクカ」となる。「卑弥呼」と同じ文字が使われている。この王は巫覡だったのだろうか。

 さて、古田氏による訓みでは「都市」を「トイチ」と音訓併用の異質な訓みになっている点が目に付くが、この訓みの根拠と「都市牛利=松浦水軍の長」という「都市」解釈は『「倭人伝」中の倭語の読み方(4):読み方のルール(3)』で取り上げている。また、上で触れた「倭の大夫」に関連する論題として、これらの使者の肩書きの問題がある。その肩書きには「大夫難升米・使大夫伊声耆・倭の大夫率善中郎将掖邪狗」という変化が見られる。これについては『官職名(2):「大倭」とは何か(2)』で取り上げている。

 最後に、古田氏が難升米の訓みとその意義について論じているので、その論考を転載しておこう。

 彼(難升米)は俾弥呼の使者、ナンバー・ワンである。ナンバー・ツウの都市牛利が「姓と名」をもっているとすれば、ナンバー・ワンの難升米が〝名前だけ″のはずはない。従来、「ナシメ」などと〝訓んで″きたのは、〝不当″である。「難」が「姓」、「升米(しめ)」が名。そういう構成だったのではないか。

 それを〝裏付ける″報告があった。中国の河南省。洛陽の近く、河南省で石碑(南北朝時代、420~589)が出土した。それは「難」家の系譜だった。その代々が刻まれていたのである(『中国人の苗字おもしろ談義』丘桓興『人民中国』2006年4月。水野孝夫さんの御教示による)。

 そこには「難樓」という名の鮮卑族の官僚の事跡が記載されていた。後に松花江に移り、「難江」に改名。難姓の鮮卑人は、その後、朝鮮半島に移り住んだという。それを知った、韓国のその子孫に当たる家々の人たちが、「先祖のもとへ参る」ために、集団で現地(河南省の難姓の村)へ行ったというのである。

 すでに中国の古代、この「難」は古典に存在した。周礼である。

「難(おにやらい)」
「難は凶悪を難卻(きゃく)するなり。周礼、方相(ほうそう)氏、百隷(れい)を率いて時難(じなん)、或は單(「甲→里」という字、手許の辞書にはない)に作る。通じて儺に作る。」(集韻)
「遂に始難をして疫(えき)を敲(く)す。」(周礼、春官、占夢)
「故に書、難、或いは儺と為す。」(注)


(追記 2月8日)
 『諸橋大辞典』で上の不明の文字を調べてきた。その文字を〈里〉で表すことにする。 〈里〉の音は
[一]ダ・ナ[二]ダンナン

意味は
「えやみを祓ふ。儺・難に同じ。〔玉篇〕〈里〉、除疫也、興儺同。〔集韻〕難、難卻凶悪也、或作〈里〉。」

 『俾弥呼』では「卻」は「郤」となっていたが、校正ミスだろう。訂正した。


 その後継者と見られる「難」姓が今回出土の石碑だったのである。

 このような経緯から見ると、倭人伝に出現する「難升米」も、その系流の一員だったのではないかと思われる。

 第一に、太宰府の天満宮も「鬼やらい」の信仰を背景としている。
 第二に、「難」の音(おん)は「ダン」または「ナン」であるが、「団・段」などの姓が福岡市や北九州市に散在し、有明海沿いには「南(ナン)」あるいは「南(ミナミ)」の姓が分布している。

 難升米がそのような系流に属する渡来人(いわゆる「帰化人」)だったとすれば、俾弥呼の使者としての「洛陽詣で」は、すなわち〝先祖の地″に至ったことに他ならない。言わば〝熟知″のルートだったのである。

《続・「真説古代史」拾遺篇》(149)



「倭人伝」中の倭語の読み方(92)
倭人名(1)


 人名についてはいろいろな所で断片的に取り上げてきている。重複する部分もあると思うが、ここで改めてまとめ直しておこうと思う。以下は全て古田説の紹介であり、断りのない場合は全て『俾弥呼』に依拠している。

 「倭人伝」に記載されている倭人名は登場順に挙げると「俾弥呼・難升米・都市牛利・伊声耆・掖邪狗・卑弥弓呼・倭載・斯烏越・壹与」の九人である。

俾弥呼
 俾弥呼は倭人伝では「卑彌呼」と記載されているので、一般には「卑弥呼」と表記されてきた。著書『俾弥呼』(2011年9月刊)以来、古田氏は「俾弥呼」という表記を用いている。私も今はこれに倣ってこの表記を用いている。では古田氏はなぜこの表記を用いるようになったのだろうか。

 その回答は、簡単である。三国志の魏志の帝紀(斉王紀)にはじめて出てくる文面は次のようだ。

(正始4年、243)冬十二月、倭國女王俾彌呼、使を遣わして奉献す。

 右で明白にしめされているように、本来の字面は、この「帝紀」に書かれた「俾弥呼」、これが本来の姿なのである。

 では、あとに出てくる、魏志第三十巻、末尾の倭人伝の文の「卑弥呼」は、なぜか。

 「帝紀の『俾弥呼』の省略形である。」  この一言に尽きる。

 魏志での同様な省略形の例として
 「高句驪」(帝紀)→「高句麗」(東夷伝)
がある。

 女王の遣使は当然国書を携えていた。その国書には女王の自署名があったはずだ。「俾弥呼」はその自署名だった。陳寿はその自署名を用いて記録したのだ。

 では「俾弥呼」は何と訓むのか。「俾弥呼」の訓みとその意義、さらに「俾弥呼=甕依姫」という比定についての古田理論は既に『「邪馬台国」論争は終わっている。(10)』『「邪馬台国」論争は終わっている。(11)』でかなり詳しく紹介した。その時は『よみがえる卑弥呼』を教科書とした。同じテーマについて、『俾弥呼』にはそれを簡潔にまとめた解説がある。重複のきらいがあるが、それを転載しておこう。

 では、この「俾弥呼」の〝訓み″は何か。これは、通説のような「ヒミコ」では「否(ノウ)」だ。「ヒミカ」なのである。このテーマについて子細に検証してみよう。

 第一に、「コ」は〝男子の敬称″である。倭人伝の中にも「ヒコ(卑狗)」という用語が現れている。「対海国」と「一大国」の長官名である。この「コ」は男子をしめす用語なのである。明治以後、女性に「~子」という名前が流行したけれど、それとこれとを〝ゴツチヤ″にしてはならない。古代においては女性を「~コ」とは呼ばないのである。

 第二に、倭人伝では、右にあげたように「コ」の音は「狗」という文字で現わしている。だから、もし「ヒミコ」なら「卑弥」となるはずである。しかし、そのような〝文字使い″にはなっていないのである。

 では、「俾弥呼」は何と〝訓む″か。 ― 「ヒミカ」である。「呼」には「コ」と「カ」と両者のよみ方がある。先にのべたように、「コ」の〝適用漢字″が「狗」であるとすれば、こちらの「呼」はもう一方の「カ」音として使われている。その可能性が高いのである。

 「呼(カ)」とは、何物か。〝傷(きず)″である。「犠牲」の上に〝きずつけられた″切り口の呼び名なのである。中国では、神への供え物として〝生身(なまみ)の動物″を奉納する場合、これに多くの「切り口」をつける。鹿や熊など、〝生き物″を神に捧げる場合、〝神様が食べやすい″ようにするためである。それが「呼(カ)」である。古い用語である。そして古代的信仰の上に立つ、宗教的な用語なのである。「鬼道に事(つか)えた」という、俾弥呼にはピッタリの用語ではあるまいか。

 「ヒミカ」とは、どういう意味か。「ヒ」は当然「日」、太陽である。次の「ミカ」は「甕」。〝神にささげる酒や水を入れる器″である。通例の「カメ」は、人間が煮炊(た)きする水の入れ物である。日用品なのである。これに対して「ミカ」の場合、〝神にささげるための用途″に対して使われる。こちらの方が「ヒミカ」の「ミカ」である。

 すなわち、「太陽の神にささげる、酒や水の器」、それが「ヒミカ」なのである。彼女の「鬼道に事える」仕事に、ピッタリだ。「鬼道」とは、あとで詳しくのべるように「祖先の霊を祭る方法」であり、それに〝長(ちょう)じている″女性が俾弥呼だったのである。

 彼女に当たる人物の伝承がある。「甕依姫(ミカヨリヒメ)」である。筑後国風土記に出現している。

 昔、此の堺の上に麁猛神(あらぶるかみ)有り。往来(ゆきき)の人、半ば生き、半ば死にき。其の数、極めて多し。因りて人の命尽(つくし)の神と曰ふ。
 時に筑紫の君、肥の君等、之を占ふ。(今)筑紫君等の祖、甕依姫(みかよりひめ)をして、祝(はふり)と為(し)て之を祭らしめき。
 爾(それ)より以降、路を行く人、神害せられず。是(これ)を以て、筑紫の神と曰ふ。


 上で、
 (A)因りて人の命尽くしの神と曰ふ。
 (B)是を以て筑紫の神と曰ふ。
というのは、「解説」部分である。古来の伝承事実をもとに「筑紫(つくし)」という言葉の「いわれ」を説明しているのである。 しかし、これは「俗解」である。なぜなら「ちくし」ではなく、「つくし」と言うのは、福岡県、島根県以外の人々の「通称」である。国外(たとえば、大和)の人々の〝呼び名″なのであるから。

 これに対し、右の説話の「元(もと)の部分」つまり、本来の伝承事実には、まざれもなく、「甕依姫」の名前がある。「依(より)」は〝よりしろ″である。「みか」を〝よりしろ″とする「日女(ひめ)」、すなわち「太陽の〝みか″」。彼女の「自署名」がここにクッキリと出現していたのである。

 なお、「鬼道」については「俾弥呼と崇神の接点(2)」「俾弥呼と崇神の接点(3)」で詳しく論じた。