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《続・「真説古代史」拾遺篇》(148)



「倭人伝」中の倭語の読み方(91)
官職名(19):狗奴国


 これまでに度々ふれてきたように「井の中」では狗奴国の比定地を肥後国菊地郡とする説が最も有力な説となっているようだ。この説の論拠を簡単にまとめると次のようであった。誤謬の積み重ねの結果、この謬説を採るしかないというのが真相なのだ。(ここでは邪馬壹国大和説論者は全く相手にしないことにする。)

誤謬1
 「邪馬壹国」を「邪馬臺(台)国」と原文改定をした上にさらにこれを「ヤマト国」と訓み、その比定地を筑後国山門とする。
誤謬2
 さらに「倭人伝」の狗奴国の位置を示す記述
「…次に奴國有り。此れ女王の境界の尽くる所なり。その南に狗奴國有り。」
を「女王国の南」と曲解して、狗奴国の比定を肥後国菊地郡とした。

 この二つの誤謬を誤謬とは認識できないのだから、これを真説とする論拠を探してさらに第三の誤謬を創ることになる。

誤謬3
 「狗奴国=肥後国菊地郡」説を補強する論拠として狗奴国の官名「狗古智卑狗」を人名であるとして、「キクチヒコ(菊池彦)」の意であると解釈した。

 「誤謬3」の代表説として水野説を紹介しよう。まず、原文遂条解釈の所で次のように解説している。

有狗古智卑狗
 これは文書上よりみると、女王国の場合から推すと官職名にあたるが、しかし女王国の場合に比して、官職名とするには不似合であり、むしろ狗奴国の場合は、その官名が明らかでなく、その長官にあたる人物の名を記したものと解される。これは「クコチヒク」「コウコチヒコ」と訓んで、「キクチヒコ」と解されてきた。そうすれば明らかに王者に対する称号である(この狗古智卑狗については後の「評第五」を参照のこと)。

 ここでもまたまた類音探しという手法が使われている。それにしても、狗奴国には「男王卑彌弓呼」が存在するのだから、「王者に対する称号」というのは不用意な言い方だ。「評第五」を参照してみよう。

 私見では狗古智卑狗の卑狗は、対馬国の大官、一大国の大官の「卑狗」と同じで、わが国の「日子」「毗古」「彦」の転写音であるとすると、官職名ではなく、むしろ大官に相当する官司にあたっていた者の尊称である。したがって狗古智の卑狗という意味の名で、狗古智はその人物の居住地の地名であったとすると、その地域を支配していた人をさしていると考える。狗古智はわが国の地名に該当させると、菊池郡に相当するとする説が最も納得できそうであるが、「キクチ」という地名がこの当時から存在したかどうかはわからないが、『延喜式』にもすでに肥後国の菊池郡がみえるので、古地名であることはわかる。それで少なくとも奈良朝頃までに菊池という地名が、後の菊池郡の地域にあったとすれば、それらの地の豪族とみてよいであろう。

 狗奴国の大官は菊池という地に居住していたので「菊池彦」と呼ばれていたというわけだ。しかし、その地が3世紀頃にも「菊池」と呼ばれていた保障はまったくない。

 水野氏は『延喜式』を取り上げているが、肥後国菊地郡は『和名抄』にも記載されている。この地は『続日本紀』文武2年5月25日の記事「令大宰府繕治大野。基肄。鞠智三城」中の「鞠智」と同一地とされている。この地名は一般には「ククチ」と訓まれているようだ。そこで「狗古智卑狗」を「ククチヒク」と訓んで「狗奴国=肥後国菊地郡」説を正当化する研究者も出てくる。『問題の焦点は「狗奴国」』で取り上げた菊池秀夫著『邪馬台国と狗奴国と鉄』がその一例である。菊池氏は
「狗古智卑狗は多くの研究家が菊池彦ではないかと唱えているのだが、まだ誰も深い考察を行なっていない。どうしてそのように考えるのかを考察していく。」
という問題意識をもとに、「菊池」「鞠智」が出てくるあらゆる文献を調べて、結構誠実な考察を行っている。その取り扱った文献と「菊池」「鞠智」の訓みは次のようにまとめられている。

1070年(藤原則隆が太宰府の高級役人として肥後に赴任)
 菊池(キクチ) 藤原則隆が菊の池付近に下向して命名
930年代頃
 菊池(ククチ) 和名抄(937年完成)
879年
 菊池城院(不明) 三代実録(901年完成)
875年
 菊池郡倉舎 三代実録
858年
 菊池(不明) 文徳実録(879年完成)
698年 鞠智(不明) 続日本紀(797年完成)

 これらをもとに考察を進めて、次のような結論を下している。

 「きく」はもともと日本にはなく、奈良時代末期から平安時代初期に大陸から輸入された。『万葉集』には菊は詠まれていない。〈菊〉の字の初見は『類聚国史』の797年の桓武天皇の時の記事とされている。

 「きく」はもともと〈鞠〉として使用されていたものが〈菊〉として使用されるようになったと思われるのであるが、文献上これ以上調べていくことは難しい。そして、鞠智が「くくち」と呼ばれていた可能性が高いのであるが、証明することができない。

 しかし、この結論にもかかわらず、結局は「狗古智卑狗=菊池彦」説を受け入れている。「誤謬1・2」を捨てない限り、このような結果にならざるを得ないのだ。

 以上ように「狗古智卑狗=菊池彦」説は十分な検証を欠いたまま「井の中」の多くの研究家が採用することになっている。この例は実証不十分のまま定説を積み上げていくという「井の中」の混迷した研究体質を如実に示している。

 それにしても、「クコチヒク」「コウコチヒコ」「ククチヒク」を「キクチヒコ」と等値する論理が欠けている以前に、その訓みの検証が必要だろう。「卑狗」を「ヒコ」と訓み「好古都」を「コウコト」と訓んでいるのだから、「狗古智卑狗」は「ココチヒコ」という訓み以外は有り得ないのではないか。この訓みの場合、「コ」音に二種の異なる漢字を用いている問題が出てくるが、この点については表意文字として用いられていると解釈する外ないだろう。実はこの問題は菊池氏も取り上げている。当該論文の冒頭で次のように述べている。

 (使用されている文字の漢音・呉音を調べて)『三国志』が書かれていた時代は呉音が使用されていたと思われるので、ククチヒクと呼ばれていた可能性が高い。

 しかしそうすると、〈狗〉と〈古〉という同じ発音の文字をなぜ二種類も使用したのかという問題が発生する。本来であれば、狗と古の読み方の使い分けがどのようになされていたのかを証明する必要があるのだがかなり難しい。狗と古の読み方の使い分けに関しての考察は棚上げし、ククチヒクがどうして菊池彦となるのかだけを考察する。

 菊池氏は「棚上げ」してしまったが、たぶん古田氏は、明言はしていないが、そのような問題認識をもとに考察を進めたのではないかと推測している。古田説は次のようである。

 次は「三十国」に〝余された″一国、「狗奴国」とその官職名を論じたい。まず、官職名。「狗古智卑狗(ココチヒコ)」である。

 「卑狗」の称号は、本来「対海国」や「一大国」と同じく、同格の「卑狗」(太陽の男子)の〝仲間″であったことをしめしている。

 問題は「古智」だ。〝古代の智慧″という、見事な「二文字」である。すでに見たように「好古都国」の「古都」とは、〝出雲″を指していた。「小銅鐸の楽器」を〝礼式のシンボル″とする「古代の都」とされていたのである。

 したがってここでも、「古智」とは〝古えの出雲の文明(智慧)を受け継ぐ″という、「誇りある自称」なのではあるまいか。倭人側も、その「自称」を尊重して記録していたのである。

 冒頭の「狗(コ)」は「し(越)」などの「コ」。〝銅鐸文明の系列を引く″ことをしめすための接頭辞である。このように分析してみると、この「現代(三世紀)における、女王国のライバル」の〝身元″は、おのずから〝あらわれ″ているように見える。

 「好古都国」については、私は古田説とは異なり、「コウコツ」と訓んで「岡山市古都」に比定した。(『「21国」の比定:(14)好古都国(その三)』を参照してください。)ここでの「古智」の解釈は、私の比定の正否にかかわらないと考える。「すでに見たように「好古都国」の「古都」とは、〝出雲″を指していた。「小銅鐸の楽器」を〝礼式のシンボル″とする「古代の都」とされていたのである。」を削除しても「古智」解釈はそのまま使える。私はこの古田説に賛成する。

 冒頭の「狗」についての説明は、もちろん、「狗奴国」の国名の「狗」の意味を踏襲している。「狗奴国」は銅鐸圏の中枢域であり、出雲王朝の発展的継承者であった。(『「狗奴国」は何処?(6)』を参照してください。)

 以上により、改めて言い直してみると、「狗古智卑狗」の意味は
「狗奴国に継承されている古い文明(出雲文明)に精通・保持している大官(徳のある人)」
といったところだろうか。

 以上で『「倭人伝」中の倭語の読み方』の「官職名」編を終わります。
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《続・「真説古代史」拾遺篇》(147)



「倭人伝」中の倭語の読み方(90)
官職名(18):邪馬壹国(2)


 「井の中」での三副官の訓みと意味解読は相変わらずの類音探しであるが、紹介しておこう。

「彌馬升」
内藤湖南は「ミマショウ」と訓み、孝昭天皇の謐号観松彦香殖稲天皇の観松彦かとし、天皇の御名代部の類だとする。「御名代部がこの時代に存在したとは考えがたい」とこの説も水野氏は一蹴している。そして、水野氏は「義不詳」と断りながらも次のような説を提案している。

升はショウであるがシ音を示すから「ミマシ」とも訓める。『宋本太平御覧』には「彌馬叔」とあるが、「叔」は音「シュク」「シク」で「ミマシク」と訓むことができるが、「ミマ」はミマの国、ミマナ(任那)の「ミマ」と関係ある語かも知れないが、私はこの「シ」「シク」は、「シキ」という語と思う。「エシキ」「オトシキ」、あるいは「ニシキ」の「シキ」で、「シキ」は「磯城」で、石で築いた城であったり、石で築いた祭場、神聖な場所として石壇を設けた神籬―あるいは神籠石のような場所か―をさすのである。「ミマ」の地にある「磯城」、もしくは祭場の主宰者が「ミマシキ」と称されていて、それを写したのが「彌馬升」であったとする。

「彌馬獲支」
 「ミマカシ」と訓み、水野氏は「これも義不詳」としている。「伊馬」では「イマ」と「支」を「キ」訓んでいながら、ここでは「シ」である。ここでもご都合主義を採っている。
 内藤説は「崇神天皇の謐号御間城入彦五十瓊殖によって、御間城とし、天皇の御名代」であるが、水野氏はこれも採用しない。次のような説を提案している。

 この「獲支」は、「エウカシ」「オトウカシ」の「カシ」に関係のある語とする。「カシ」は「戕牁」「杙柯」で、船をつなぐために水中に立てる杭または棹のことで、もやいぐいのこと。すなわち船主であり、古代航海を主宰する人を「カシ」と称した。弥馬の船主、航海主宰の豪族の長であったと解される。

 「奴佳鞮」
 「ナカテイ」と訓んでいる。「奴」を「ナ」と訓む誤りをここでも採用している。
内藤説
「天児屋根命の裔たる中臣連なると、此の中跡直等なるとは、必ずしも問わず、中臣もしくは中跡の対音とみるべきは疑なし」
 山田氏も「中臣説を唱えている」という。水野氏もこの説を採用していて、これが「井の中」での定説になっているようだ。水野氏の解説は次のようである。

 「ナカテイ」は「ナカト」で、それは中臣とも中人ともとれる。「ナカト」というのは、神と人との中間に介在し、神の意志を人に伝え、人の神への願望を神へ伝達する機能を果たす、卑弥呼のようなシャーマン=巫覡のことであるという説が出てくる。当時巫覡がたくさんいたことは充分認められるので、その最有力者が邪馬壹国の一国の国政に参加していたとも解しうるが、私は新たに字義に即して、奴佳鞮は、魏や韓など外国と倭国との中間に立って詞を通訳する官人ではなかったかと思うのである。すなわち使訳を主管する官人が奴佳鞮であったというのである。

 古田氏は「弥馬升」は「ミマシ」、「弥馬獲支」は「ミマカキ」、「奴佳鞮」は「ヌカテ」と訓んでいる。その意味を次のように解いている。

 次は「弥馬升(ミマシ)」と「弥馬獲支(ミマカキ)」。いずれも「弥馬(ミマ)」という言葉が〝冠″となっている。「弥(ミ)」は〝御(ミ)″。美称であろう。「馬(マ)」は〝真(マ)″。これも、美称である。共に「ミマ」というのが、女王国の中心的官職名をしめす「美称」なのではあるまいか。尊敬語だ。

 最初の「弥馬升」。「弥馬」という尊敬語を除けば、語幹は「升(シ)」である。「チクシ」「ツクシ」の共通部分は「クシ」だけれど、それをさらに分析すれば「ク」は〝奇し″の「ク」。〝ほめ言葉″だ。語幹は「シ」なのである。「シナノ」「コシ」の「シ」と同じく、「人の生き死にするところ」を意味する基本の「倭人語」である(「言素論」参照)。「ミマシ」は〝筑紫を支配する、中心官僚″の存在をしめす「自尊、官職名」なのである。当然、稲作中枢の「板付(いたつけ)」をふくむ。

 次の「弥馬獲支(ミマカキ)」。「カキ」の「カ」は〝神聖な水〝。「河(カワ)」の「カ」。そして「俾弥呼」の「カ」である。「キ」はもちろん、〝柵、要害″である。  だから「獲支」とは〝獲得せられた、神聖な水の要害″の意だ。もちろん「呼」と「獲」では、日本語では同じ「カ」でも、中国音では、「別発音」である。しかし、倭人側の「漢字使用」では「獲」の一字を以て〝われわれの支配し、獲得した、神聖な水をたたえる要害″の意を〝ふくめて″いるのである。すなわち、この「弥馬獲支」とは、あの御笠川の上流、天満宮の地、のちの「水城(みずき)」の地を〝指して″いるのである。もちろん、後世(7世紀)の「水城」のような要害は、まだなかっただろうけれど、博多湾岸の平野部に住む人たちのための「水がめ」の役割は、すでに地形上存在していたのではあるまいか。住民用の〝必須の水″の存在は、同時に、軍事上枢要の地であったはずなのである。この地に「海士(あま)族の御津」としての「天満宮」(「てんまんぐう」は「アマミツノミヤ」)が建てられたのも、決して偶然ではなかったのである。

 次は「奴佳鞮(ヌカテ)」である。現在、福岡市西区に「野方(ノカタ)」がある。壱岐団地の南、例の「最古の三種神器」の出土遺跡、「吉武高木」の北に当たっている。「額田」とも書かれていた。「鞮(テイ)」は「テ」。「手」である。〝広がった場所のあたり″を指す。人間の「手」に〝なぞらえて″いる。「縄手」(長野県松本市)などの「手」と同じである。ここは、他ではない「吉武高木」の神殿に対する〝北方からの侵略″を防ぐための軍事基地である。先の「天満宮」や「後世の水城」に対する「弥馬獲支」と同類の、重要な地点なのである。

 このように「邪馬壹国」の四つの官職名「伊支馬」「弥馬升」「弥馬獲支」「奴佳鞮」のいずれも、女王国の中枢部にとって、もっとも重要な「機能」と「領域」をもつ地帯に対する「新規の、弥生命名の官職名」なのであった。

 女王俾弥呼を取り巻く一大軍事集団、それは奇しくもあの「天孫降臨」という名の「侵入者」たち、そのリーダーとして、歴史の面影をクツキリとしめしつづけていたのである。

 邪馬壹国は俾弥呼の「男弟」が俾弥呼を「佐けて國を治」めているのだから、大官にしろ副官にしろ、文官は必要ないだろう。4人の官は全て武官だったという古田説に賛成したい。
《続・「真説古代史」拾遺篇》(146)



「倭人伝」中の倭語の読み方(89)
官職名(17):邪馬壹国(1)


 邪馬壹国の官について「倭人伝」は次のように記録している。
「官に伊支馬有り。次を彌馬升と曰い、次を彌馬獲支と曰い、次を奴佳鞮と曰う。」

 「副」という表記は使われていないが、伊支馬が大官で、副官は彌馬升・彌馬獲支・奴佳鞮の三官があったと理解してよいだろう。

 これまで、「井の中」では学問とは言えないような手法がまかり通っていることをさんざん思い知らされてきた。が、行きがかり上最後まで付き合うことにする。まず、大官・伊支馬について「井の中」で行われている議論を見てみよう。

伊支馬
 訓みについて水野氏は
『「イキバ(マ)」と訓める』
と書いている。「イキバ」「イキマ」の二説があるということだろうか。なんの説明もないので判断できない。その官名の意義についての説では内藤湖南説(邪馬壹国大和説論者)を取上げている。

「大和国平群郡の往馬坐伊古麻都比古(いこまにますいこまつひこ)神社二座があるが、この神社の神を祭る卜部の官氏を伊支馬としたか、または大来目部(おおくめべ)、あるいは垂仁天皇の御名、活目入彦五十狭茅(いくめいりひこい〔そ〕さち)天皇の御名代かも知れない」

 「イキマ」→「イコマ」などなど、相変わらず類音探しを行っている。水野氏は
「特定個人の固有名詞や氏族名などと関係はない。邪馬壹国の官名であるから、その官職を示す名称と解すべきであろう。」
と、内藤説を否定している。では、水野説はどうか。原文の逐次解説のところでは次のように述べている。

『私は、「イキマ」は「イクメ」の訛であるとする。「イ」は接頭の冠辞で、「イツ」の「イ」で「斎」の意味。「クメ」は「来目」「久米」の「クメ」で、久米部の「クメ」で、舟であり、水軍の長を意味する。すなわち邪馬壹国の水軍の長官が「イクメ」で武官であると考える。』

 類音探しという手法は内藤博士と同じである。ところが氏は後の方で「女王国・狗奴国の官について」と題してまとめの解説を行っている。そこでは次のように全く異なる説を提出している。

『私は「イ」は「厳」であり、「シマ」は後述の「シマコ」の「シマ」であり、語原は「シム」で占有の義がある。それは「シメ」と同じで、神聖な占有者の義となる。』

 一応は造語成分の分析を試みているが、なぜ『「イ」は「厳」』なのだろうか。「厳し(イツクシ)」とか「厳島(イツクシマ)」の「イ」を取り出したのだろう。「シマ」はちなみに古田言素論では「イは、伊予や壱岐と同じように"神聖な"の意」である。「神聖な」という点では共通している。この水野説では訓みを、「イキマ」ではなく、「イシマ」に変更していることになる。「支」を「キ」と訓んだり「シ」と訓んだり、相変わらずご都合主義的だ。

 さて、古田説は次の通りである。

『「伊支馬(イキマ)」。「マ」は接尾語である。「伊支」は当然「壱岐」である。「壱岐」からの侵略軍、それが「博多湾岸等の稲作地帯」への支配を〝目指し″、それを完全に「達成」したのである。「一大率」の項で詳述する通りである。「イキ」という、本来の「地名」で表現されている「壱岐からの侵入軍」が女王国の軍事支配の「要(かなめ)」だ。その肝心の一事が、この第一官名に〝見事に″しめされていたのである。当然、「弥生期の命名」である。』

 「ニニギは天(てん)から日向国高千穂に天下った」という「井の中」での神話解釈に取り込まれている人には全く受け入れ難い説だろう。もちろん私は古田説を採る。
《続・「真説古代史」拾遺篇》(145)



「倭人伝」中の倭語の読み方(88)
官職名(16):投馬国


 投馬国の大官は「彌彌」、副官は「彌彌那利」。「「彌彌」を「ミミ」と訓むとことには異論はないようだ。「ミミ」については『官職名(13):伊都国(5)』で少し触れた。重複する点も出てくるが、ここで改めて取上げることにする。

 「ミミ」の意義については、次の水野氏が「井の中」での定説になっているようだ。

「弥弥」も日本語「ミミ」で、耳にあたる。神八井耳、手石井耳の耳であろう。山田博士は「ミミ」は「御身」で、すこぶる尊貴な人に対する栄爵あろうとし、玖賀耳之御笠の例をあげ、玖賀地方の耳(尊貴なる人)で、その名が御笠というのであるから、この耳にあたるのが弥弥であるとされるが、とにかく尊貴な人に対する尊称であった。

 「手石井耳」という人名は紀記にはない。水野氏はどこから取り出してきたのだろうか。伊波禮毘古(イハレビコ 神武)と伊須氣余理比賣(イスケヨリヒメ)の間に三人の子があるが、そのうちの二人の名に「ミミ」という字が用いられている。八井耳(ヤヰミミ)と沼河耳(ヌナカハミミ 後の綏靖)である。後継争いで沼河耳に殺される當藝志美美(タギシミミ)にも「ミミ」がある。玖賀耳之御笠(クガミミノミカサ)は崇神の銅鐸圏侵略時に殺された丹波国の豪族(あるいは王)である。

 確かに「ミミ」は「尊貴な人に対する尊称」に違いない。この点については異議はないが、水野氏は「ミミ」の意味についての考察をしていない。「ミミ」の意味を考察しているものとして、『官職名(13):伊都国(5)』で引用した澤氏による京都府宮津市日置の解説に次のようにくだりがあった。

「ミミやミは、皇室系譜のなかで、母方が海人(あま)系出身の場合につくことばである(アメノオシホミミ・ヒコホホデミ〈山幸彦〉・カムヤマトイワレヒコホホデミ〈神武〉・カムヌナカワミミ〈綏靖(すいぜい)〉・シキツヒコタマデミ〈安寧〉・オオヤマトヒコスキトモミミ〈懿德(いとく)〉」

 アメノオシホミミ(天忍穂耳命)はアマテラスの子であるから「母方が海人(あま)系出身」と言える。しかし、山幸彦の母・木花之佐久夜毘賣(コノハナサクヤヒメ)は国つ神系であろう。神武の母はニニギの姨(をば)ということになっているから、この場合は父母ともに海人系である。綏靖・安寧・懿德の母はすべてヤマトの豪族の娘(政略結婚)であり、海人系ではない。「ミミ」が「母方が海人(あま)系出身の場合につくことば」という説は成り立たない。

 「ミミ」の意味について、古田氏の解釈は次のようである。(『俾弥呼』での解説より詳しいものがサイト「多元的古代研究会」で公開されている「会報No.59」所収の「言素論(II)」の中にあったのでそれを引用する。)

 「神(かみ)」。この第二音の「み」は"女神"の意だ。

 イザナギ(男神)。・イザナミ(女神)
 上の「イザナ」(「イサナ」の濁音)は〝くじら″の古称である。「勇魚」などの字が当てられる。万葉集で「勇魚取(いさなとり)」の枕詞が知られている。九州の五島列島近くには「いさな祭り」が行われている。鯨の祭りである。

 上の末尾辞「ギ」は男性、「ミ」は女性をしめす。すなわち、わたしたちが使い馴れている「神」とは、本来、「女神」の意だ。縄文の「女神中心時代」の投影なのである。

 「ミミ」が「ミ(女神)」の「二重反復語」だとすると、投馬国の大官は女性だったということだろうか。邪馬壹国の王が女性だったのだら、大官に女性がいたとしてもおかしくはないだろう。

 ところで、古田氏の言素論では「ミ」は海の「ミ」であるともしている。「甲類・乙類」という厄介な問題があるが、調べてみた。「神武記」の中に「…撃ちてし止まむ」で終わる歌謡があるが、その三首目の歌謡は「神風の伊勢の海…」で始まる。この海は原文では「宇美」という書かれている。「彌」も「ウミ」の「美」もともに甲類である。従って、「彌彌」の「ミ」は海の「ミ」である可能性もある。この場合、「水神(ミカミ)」→「ミミ」という音変化の可能性もある。つまり第1音が海の「ミ」で、第2音が神の「ミ」という複合語である。

 さて、次ぎは副官。副官について論じている学者はいないらしい。水野氏は他説には全く触れていない。自説だけを次のように述べている。

 投馬国の副官は「彌彌那利」で、「彌彌」は大官と同じ。「那」は音「ダ」「ナ」、…(中略)…一般にこれを「ミミナリ」と訓んでいるが、私は「ダ」音をとり「ミミダリ」と訓む。

 その義は「耳垂(みみたり)」で、『日本書紀』の「景行紀」12年の条に、7月に熊襲が叛したので、7月景行天皇が筑紫に幸し、九月に豊国宇佐(大分県宇佐郡宇佐町)の菟狭川上に鼻垂という巨賊が集結しており、また豊前国下毛郡(大分県下毛郡)の御木川の川上(今日の下毛郡を北流し、中津市の西北で海に注ぐ山国川-高瀬川-のことであろう)にいた巨賊耳垂らを誅服したとあるが、この耳垂に同じ義の語だと考える。

 耳垂・鼻垂というのは、鼻が大きく垂れ下がり、耳が大きく垂れ下がっていたために命名されたのであろうという解釈があるが、それはかの聖徳太子が厩戸豊聡耳皇子(うまやどのとよとみみのみこ)と称され、その名の由来が、太子は福耳の持主で、大きな豊かな耳朶をもち、しかも、さとくよくきこえる耳であったからといわれるのと同じ発想である。ただ耳垂は、かの面足尊(おもだるのみこと)という場合のように、大きいことや垂れ下がっていることをいうのではなく、充分によく満ち足りていて立派であるという意味の「タル」「タラス」の義であって、容貌がみち足りて堂々としていて、風格がある義と解すべきであり、九州地方では地域の君長や豪族の尊称として、「耳足」「鼻足」「耳垂」「鼻垂」などの尊号が一般に存在したと考えれば、投馬国の副官の名として「彌彌那利」とあるのは、そういう称号をもつ豪族の族長が、投馬国において中枢の権威を支える一員となっていたと解される。

 耳垂・鼻垂と関連づける発想は面白いが、難点が二つある。第一点は「那」を「ダ」と訓む点で、「那」は「任那・那の津」など一貫して「ナ」音として使われている。ここでだけ「ダ」と訓むのは不当だ。また「ダ」は漢音で「ナ」は呉音だから、「ダ」は私(たち)の採るところではない。

 第二点は耳垂・鼻垂を「ミミタリ・ハナタリ」と訓む点である。〈大系〉はそのように訓んで、頭注で「大きく鼻が垂れる意か」などと解説している。「井の中」ではこの訓みが定説なのだろう。鼻垂は「妄(みだり)に名號(な)を假(か)り」たことが理由で誅されている。「垂」はみだりに名乗ってはいけない称号なのだ。古田氏は「ミミタラシ」と訓んでいる(『盗まれた神話』)。息長帶比賣命(オキナガタラシヒメ)の「タラシ」である。この訓みの方が説話の内容にふさわしい。

 では、「ミミナリ」の「ナリ」とはどういう意味だろうか。「ミミ」を言素論で説いたのだから「ナリ」もそれにならって考えてみよう。

 「ナ」は上で述べたように「任那・那の津」の「ナ」である。古田氏は「港湾部を表すことば」と解釈している。「リ」は「吉野ヶ里」の「リ」で集落あるいは場所を表す。このように解すると「ミミナリ」は「ミミ」を補佐して主に港湾集落を統括する官職と解釈できる。投馬国は女王国から「水行二十日」と書かれている。投馬国は他国との往来はもっぱら船を用いていたのであろう。その往来の行き先は、倭国内だけではなく、地理的には呉も含まれていた可能性がある。投馬国にとって、港湾集落は重要な拠点だった。

 このように考えてきたら、投馬国の大官名は「水神(ミカミ)」→「ミミ」が語源という自説がよいのではないかと思えてきた。
《続・「真説古代史」拾遺篇》(144)



「倭人伝」中の倭語の読み方(87)
官職名(15):不弥国


 不弥国の大官は多摸(タモ)、副官は卑奴母離(ヒヌモリ)である。卑奴母離は対海国・一大国・奴国の副官と同じなので大官だけを取上げる。大官多摸について、水野氏は「井の中」の諸説を、自説も含めて、次のように紹介している。

多模
 不弥国の大官名は、「タモ」と訓まれ、
内藤博士はわが国上代に多くみられる「タマ」、すなわち玉・魂にあたるとし、
山田孝雄博士はその「狗奴国考」において、「トモ」であり、伴造の略称であるといわれる。

私見では、「多模」は「タボ」であって、これは宗像三女神の神名にみえる「田心姫」の「タゴリ」と関係のある語だと考える。

 単純すぎてかえって困惑する官名である。内藤説・山田説は「タモ」と訓んでいながら「タマ」「トモ」と類音探しをやっている。水野説も同様で「タゴリ」と結び付けるために「タボ」と濁音を選んでいる。この三説は私にはどれも牽強付会の説としか思えない。

 古田氏は言素論を用いて解釈をしている。次のようである。
《続・「真説古代史」拾遺篇》(143)



「倭人伝」中の倭語の読み方(86)
官職名(14):伊都国(6)


 録画しておいたNHKスペシャル「中国文明の謎」の「第1集 中華の源流 幻の王朝を追う」(10月14日放送)を、遅まきながら昨年暮れに見た。それを見ていて「はっ」と気付いたことがあった。

 その番組は夏王朝の所在地とされている二里頭の発掘調査の成果をもとに夏王朝の政治の仕組みを解明していく番組だった。宮殿跡と思われる場所から注目すべき発掘物が2点出土した。それは小さな緑色のトルコ石を使ってかたどられた龍と見事な銅爵(酒を入れる器)だった。龍と銅爵は中国歴代王朝の権力の象徴である。それが最初の王朝と言われる夏王朝ですでに用いられていたのだった。

 宮殿跡からは大きな建物と回廊で囲われた広場が発掘されている。それは宮廷儀礼が行われる空間だったという。儀式は貴族と近隣の集落の首長を集めて行われた。この儀式で銅爵が王権のシンボルとして使われた。王は高官を壇上に上げ、高官たちに光り輝く銅爵から酒を注いで授与した。その銅爵を参列者たちは驚嘆の目差しで眺めたことだろう。

 私はこの場面を見て「觚」は表意文字として使われているのではないかと思った。『諸橋大辞典』の「觚」の項に次のような解説があった。

〔集解〕馬融曰、觚、禮器也、一升曰爵、二升曰
(馬融は後漢の学者・政治家)
左が「觚」で右が「爵」
(ネット上の写真を拝借しました。)

  「觚」も礼器なのだった。漢の時代、宮廷儀礼では「觚」も用いられていたのではないだろうか。

(訂正 1月10日)
 「觚」も周時代から礼器として使われていたようだ。「文化遺産オンライン」というサイトに次のような解説があった。

觚(こ)は爵(しゃく)とセットで用いられた祭祀用の飲酒器(カップ)である。商代前期に出現したが、そのうちに爵と必ずセットを成すようになり、商代後期に最も盛行した。下半分は上げ底で、外反した部分が足(圏足)である。上方に向かってラッパ形の口が大きく開く。少し大きな墓では、こうした爵と觚が五組とか十組を一つのセットとして副葬される例がある。


 『史記』をはじめ中国の史書には「賜爵」とか「拜爵」とかの文言が頻出する。それに対して「賜觚」とか「拜觚」は全くないようだ。『史記』では「爵」は「周本紀」に一例あり、その後「秦本紀」から頻出する。以下は私の推測になるが、秦王朝まではもっぱら「爵」が用いられていた。そして「賜爵」とか「拜爵」とかの文言は「官位や官職を賜う(拜す)」という意味として使われるようになった。そして、「觚」が用される場合も「賜爵」・「拜爵」が用いられることになった。

 倭国は漢から金印を授与(AD57)されたり、倭王帥升が朝貢(AD107)している。「倭人伝」も「旧百余国。漢の時朝見する者有り、」と記録している。倭からの使者が「爵」や「觚」を用いる儀式を目撃していないはずがない。当然その儀式の有様は倭国に伝えられた。倭がその儀式を取り入れてたかどうかは分らないが、少なくとも「爵」や「觚」の持つ意味は熟知していただろう。

 さて、私は伊都国の大官について
『「爾」には「貴者に対する二人称」という意味もある。「支」は「一つのものから分かれ出たもの」である。伊都国は女王国にとって一大率が置かれる重要な分国である。たぶん、俾弥呼の血縁のものが派遣されていた。そこで伊都国の大官を「爾支」と呼んだのではないだろうか。』
と書いた。それに対して、「愛読者」さんから次のようなコメントを頂いた。

 「天邇岐志国邇岐志天津日高日子番能邇邇芸命」の「邇岐(にぎ)」の「つくり」を採れば「爾支」です。

 彼が降臨したのは、ご存じのとおり糸島なる「竺紫の日向の高穂の久士布流多気」であり、伊都国の大官が、光栄ある「邇邇芸命」にちなんだ職名を持っていて何の不思議もないと思います。

 盲点を突かれたようで「あっ!」と思った。ニニギノミコトのあの長~い名前は〈大系〉では「アメニキシクニ・ニキシ・アマツヒコホノニニギノミコト」と訓んでいる。まさに「邇岐(支)」=「ニキ」で、そのものずばりである。

 伊都国の官職名は、特に副官は他の国の官名とは異質の文字が使われている。俾弥呼の時代に創られたものではなく、古くから用いられていたものなのだろう。そして、伊都国の副官は大官の爾支が直接任命したのであろう。それを受けて副官には、「賜觚」あるいは「拜觚」という意味合いを込めて「・・觚」という官名が付けられた。

 奴国の大官名「兕馬觚」にも「觚」が用いられている。これも古くから用いられた官名であろう。そして、それは大官なのだから奴国王が直接任命したものであろう。

 「觚」が単なる表音文字ではなく表意文字として用いられていたとすると、他の二文字もそのように解するほかない。なにしろ、「泄謨」も「柄渠」も「兕馬」も、表音文字としては、どう訓んでもその官職の役割を割り出すことはできないのだから。しかし、表意文字として読み取ろうとしてもうまくいきそうにない。それを承知で、こじつけみたいな解釈になりそうだが、自説を提出してみよう。

「泄謨觚 セモク」
 「泄・謨」にはそれぞれ「つげる・くわだて」という意味がある。従って、「セモク」は「大官からの指令や各種の規則規範を伝達し、周知徹底させる」という役職を担っていた。

「柄渠觚 ヒコク」
 「柄」には「いきおい、ちから、権力」「・渠」には「よろい、たて」という意味がある。この副官は軍事面を担当している。あの一大率の統率者ではないだろうか。

「兕馬觚 ジマク」
 「兕」は「野牛に似た一角の獣。皮は堅厚でよろいに作り(兕甲、角はさかずきに作る(兕觥 ジコウ)」(『新漢和辞典』)。これに「馬」と続くのだから、「兕甲」を意味すると考えてよいだろう。つまり、この大官は奴国王の輔弼として奴国の軍隊を統帥していた。ちなみに、「兕觥」は罰杯として用いられていたという。

追記:「罰杯」について(1月18日)
 「罰杯」という言葉から私がすぐに連想したのは韓国の歴史ドラマによく出てくる場面である。流罪地に王からの下賜というかたちで毒杯が送られる。その毒を飲ませて殺す死刑の一種なのだった。『諸橋大辞典』に次のような解説があったのでなおさらそのような連想が浮かんだ。

【兕爵】ジシヤク
 兕の角で作った杯。兕觥。〔左氏、昭、元〕擧兕爵。[〔注〕兕爵、所以罰不敬也]

 『左氏伝』の該当部分を読んでみたが、それは饗宴の場であり、〔注〕が記すような場面ではなかった。問題の文言がある部分を抜粋すると次のようである。誰がどうして上のような〔注〕が付されたのか理解しがたい。

穆叔・子皮と曹の大夫と興ちて拜し、兕爵を舉げて曰く、小國、子に賴りて、戻に免るるを知る、と。酒を飲みて樂しむ。越孟出でて曰く、吾、此を複びせざらん、と。

 その後、さらにネット学習を続けて、觥」で検索をしたら、次のような解説に出会った。

觥以兕牛
角爲之容
七升爵之
大者古人
多用爲爵
蘭亭曾云
詩不成者
各受罰觥
 觥ハ兕牛ノ角ヲ以テコレヲ爲ス。七升ヲ容ル、爵ノ大ナル者ナリ。古人多ク用ヒテ爵ト爲ス。蘭亭曾二云フ、詩成ラザル者ハ各ノ罰觥ヲ受クト。

 「觥」というのは牛の角で作った器で,七升入る杯の大きなものである。昔の人はよく酒杯として用いた。有名な蘭亭の宴では(杯が回るまでに)詩ができなかった者はみな、罰としてこの「觥」で酒を飲まされたそうである。

 ** 「觥」は『詩經』に「兕觥」とあるのと同じ角の杯,後には青銅でもつくるようになった。また牛を象った大杯を「兕觥」ということもある。「觥以兕牛角」というのは『説文』に、「觥,罰爵也。」というのは『漢書』「五行志」の注に見えるが、「觥」が七升入る、というのと、蘭亭曾で罰盃として使われた酒器が「觥」だったという記述はいずれも典拠不明

 「蘭亭曾」についてはネットで得た解説を掲載しておく。
「晋の穆帝(ぼくてい)の時の353年3月3日、王羲之が謝安ら名士41名を招き、蘭亭で開いた会合。曲水に觴(さかずき)を流し、詩を賦したことで有名。」

 つまりここで言う「罰觥」とは、日本で言う「曲水の宴」での文人たちの罰ゲームのようなお遊びでの罰杯なのだった。

(今回お世話になったこのサイトはindex.htmlがなくて制作者も記事の全体像も把握できない。しかし、上の借用文で分るように、中国の考古学的遺物をその関連文献を取上げながら解説をしている。かなり貴重なサイトだと思った。「觥」のURSを紹介しておこう。「http://homepage2.nifty.com/CHARLIE-ZHANG/EKI/2-25o.html」)


 だいぶ混乱もあったし、ずいぶんと長くもなってしまった。「伊都国の官職名」を終わることにするが、「奴国の官職名」も終わったことになった。
《続・「真説古代史」拾遺篇》(142)



「倭人伝」中の倭語の読み方(85)
官職名(13):伊都国(5)


 前回書いたように、「日置」を「ヘキ」と訓む地名例が『日本地名ルーツ辞典』にあった。山口県日置町。ちなみに、日置町は2005年に長門市に合併されていて今はこの町名はない。この町の町名の由来を『日本地名ルーツ辞典』では次のように解説している(執筆者・高橋文雄 山口県地名研究所)。

【日置】ヘキ ―町

 日置は『和名抄』に「比於木(ひおき)郷」とあるが、いつごろからへキというようになったか明らかでない。同じ字を書く地名は全国的にも多くへキ・ヒオキ・ヒキなどという。

 起源は、
①伴信友の説によると
「日置は戸置(へおき)で、昔、民の戸数を調べる職に任じられたものを戸置、その部(むれ)を戸置部といった」
とあるが、
②古代の鉱山に関係があり、製鉄のための木炭生産にあたった部民のことともいう。

 ネットでいろいろと調べていたら、「日置(ヘキ)」という姓の方もおいでだった。また弓道に「日置(へき)流」という流派がある。「日置=ヘキ」という訓みはわりと広く使われているようだが、その源流はどこにあるのだろうか。「弊岐=日置」という等式への私の疑問は解消していない。上の伴説にも納得ができない。「戸置部」などという「部民」は聞いたことがない。自説を補強するための創作だろうか。あるいは確かな出典があるのだろうか。いずれにしても長門市の「日置」の訓みは、理由は分らないが、10世紀(「和名抄」編纂時)以降に「ヒオキ」から「ヘキ」に変えられたことになる。

 次ぎに、京都府宮津市日置の解説は次のように始まっている。(執筆者・澤潔 地名随筆家)

【日置】 ヒオキ 〔宮津市の地名〕

 『姓氏家系大辞典』をみると、「斎部宿禰本系帳」をかかげ、そこに葉耳命(はみみのみこと)の名がみえる。そしてとくに注して、「葉耳命は日置部(へきべ)の祖なり」とある。葉耳命のミミやミは、皇室系譜のなかで、母方が海人(あま)系出身の場合につくことばである(アメノオシホミミ・ヒコホホデミ〈山幸彦〉・カムヤマトイワレヒコホホデミ〈神武〉・カムヌナカワミミ〈綏靖(すいぜい)〉・シキツヒコタマデミ〈安寧〉・オオヤマトヒコスキトモミミ〈懿德(いとく)〉など)。

 「ミミ」は投馬国の官職名にも使われいる。弥弥(ミミ)・弥弥那利(ミミナリ)である。古田氏は「ミ」は女神のことであり、「ミミ」は「二重反復語」と解している(後に投馬国の官職名を取上げるときに詳述する)。

 「葉耳命」なんて聞いたことのない名前が出てきた。ここの記述と「弊岐=日置」が共に正しいとすると「弊岐君の祖」は大山守命なのだから「葉耳命=大山守命」ということになる。ついでに確認しておくと、水野氏が論拠としている「弊岐=日置」が正しいとすると、「日置部」の成立は4世紀(応神の時代)以降ということになる。従って、「弊岐=日置」を根拠にしている水野説は成り立たないことになるが、ついでなので「日置」についてもう少しこだわってみよう。

 上の「ミ」を受けて、澤氏は次のような諸説を紹介している。

 太田亮は、ヒコホホデミ(山幸彦)の兄のホスセリ(海幸彦)の子孫に日下部があると指摘している(『姓氏と家系』)が、丹後国にあまねき太陽の光芒の如く君臨した豪族日下部氏の自負であろうか。

 池田末則も、日祀(ひほき)部は日奉部・日置部(ヒホキ→ヒオキーヒキ)と同義であって、日置部は日下部に転ずるとの指摘がある。すると『丹後国風土記』逸文にいう浦島太郎を与謝郡日置里、筒川村の日下部首(くさかべのおびと)というのも理解できる。

 柳田国男は「聖」をヒジリというのは「日知」の意であり、日置も日の善悪を占ったり、日の性質を知る能力があるとし、日置にはヘキ・へギ・ヒオキ・ヒキの四訓があって、日奉・日祀・日知の意がある(『毛坊主考』)としている。

 折口信夫も、日置の「置く」はソロバンを置くというように、ものを計量することであり、日向(ひむか)の伊勢に対して、出雲(いずも)国にあって「日沈宮(ひしずみのみや)と称されたのが、式内社の日御崎神社であるが、この神社の譜代の神官は日置氏であった。日置氏に賜った田が日置田、つまり疋田(ひきだ)である」としている。
 丹後国の日置は、丹後半島の東側にあって、敦賀(つるが)湾にさし昇る朝日の直射す、まさに日(太陽)を知るうってつけの場所にあり、聖地の名に恥じない。しかしその聖地日置は、また浦島太郎の訪れた竜宮へ行く結界の地で、それは母親の棲(す)む妣(はは)の国・黄泉(よみ)の国・常世(とこよ)国である冠(かんむり)島(大島・雄島)に通ずる。

 古田氏は
『太陽神たる天照大神を頂点とした筑紫を中心に、このような「日置部」が成立するに至った』
と述べていた。上の諸説も「日置」を日(太陽)を掌る役職と解釈している。

 これも余分なことながら、折口説を読んでいて思いだしたことがある。ずいぶん以前に能登半島を訪れ、気多神社に立ち寄った。神社のパンフレットで知ったのか、実際に歌碑を見たのか、定かでないが、釈迢空(折口信夫)の歌を覚えている。その歌では「妣の国」を臨む海は羽咋の海になっている。念のため調べてみたら、その歌碑は気多神社の境内ではなく、藤井巽氏宅庭内のあるそうだ。次のような歌である。

「はくひの海うなさかはるゝこのゆふべ妣か国見ゆ見にいでよこら」

 さて、次は鹿児島県日置郡(執筆者・平田信芳 鹿児島地名研究会世話役)

【日置】ヒオキ ―郡

 薩摩半島北西部に位置する郡。郡名は古代から現在までつづく。『延喜式』記載の部名が史料上の初見になる。『和名抄』は比於岐(ひおき)」と訓み、冨多・納薩・合良(あいら)の三郷をあげている。

 地名の由来については、
①品部(ともべ)の一つ、「日置部」の居住地であったことによる、
②祭祀に供する料田の一つ「日置田」に由来する、
などの説がある。日置部の職掌についても暦法・卜占(ぼくせん)と関係があるとする説や浄火の管理にたずさわったとする説などがあり、また、薩摩国のような僻遠の地での日置部の存在などは考えられないとする説もある。

 「薩摩国のような僻遠の地」というのはヤマト王権一元論が生み出した偏見だろう。投馬(薩摩)国は「倭人伝」に5万余戸もの戸数を保つ国として記録されている。

 日置部の職掌として「暦法」「卜占」「浄火の管理」なとの説が紹介されている。総じて、「日置氏」の出自についても「日置部」の職掌についてもあれこれ言われいるが、どれも納得しがたい。水野氏は「浄火の管理」説を採用しているのだが、私は伊都国の副官と日置を結び付けるのは無理だと思う。

 「日置」にずんぶん長く関わってしまったが、いよいよ伊都国の副官についての自分の考えを述べるべき時が来た。(次回に続く。)