2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《続・「真説古代史」拾遺篇》(141)



「倭人伝」中の倭語の読み方(84)
官職名(12):伊都国(4)


 水野氏は柄渠觚については「ヘイ-キョ-コ」→「ヘキコ」と訓んで次のように論じている。

 この「ヘキコ」というのは、日本語で現わすと、「日置子」となる。「日置」は、「置」と書くものもあるが、これを「応神記」に、「幣岐君」とあるのによって、「ヘキ」と訓むのである。「ヘキ」は「ヒキ」または「ヒオキ」とも訓むが、地名としては、遠江国にあり、また丹波国多紀郡にも、出雲国神門郡には日置郷がある。人名としては「日置臣」「日置部」などがあり、『新撰姓氏録』によると、日置舎人は高句麗の帰化族であるとし、前記の幣岐君は、応神天皇と、品陀真若王(ほむだまわかのきみ)の娘高木之入日売命(たかぎのいりひめのみこと)との間に生まれた大山守命(おおやまもりのみこと)を祖とするとしている。その氏族の名から推して火を守る職能をもつものであったと思われる。そうすれば、卑奴母離と同種の職能をもつ者であり、「ヘキコ」はその火の管理者であったと思われる。

(中略)

 伊都国は魏使や帯方郡吏が往還した、女王国の外港の地であったから、そこに特別に火守の職能をもつ、ヘキコが存在したと考えても不思議ではない。

 水野氏の「弊岐君」(原文では弊が用いられている))に関わる記述は岩波大系「応神記」の頭注と同じ内容である。それを踏襲しているようだ。頭注には次のように書かれている。

「幣岐(ヘキ)は日置と書いて、へキともヒキともヒオキともいう。この地名は遠江国にもあり、丹波国多紀郡にもあるが、何れか不明。」

 学者さんたちの長年の研究の結果なのだろうが、私は日置をヘキと訓むことに納得できない。「弊岐=日置」はどのようにして得られた説なのだろうか。弊岐君は「応神記」の「大山守命の反逆」説話の分注に「(大山守命は)弊岐君の祖」と一回だけ現れる名前である。一方『新撰姓氏録』に現れる日置舍人や日置造はすべて高句麗からの渡来人である。「弊岐=日置」という等式は出てこない。

 紀記・風土記に現れる「日置」を調べてみた。『古事記』にはない。『日本書紀』には一例だけで垂仁39年10月条の分注に「日置部」とある。『風土記』では、あの「浦嶼子」に出てきた「日置郷」の他に、「尾張國風土記」逸文に「日置部」がある。あと「出雲國風土記」に「臣・郷・伴部・首」を伴って12例出てくる(ここの例には問題がある。後述する)。ここまでは全て「ヒオキ」と訓んでいる。

 「出雲國風土記」の「日置」は原文改定されてるのだった。初出の日置は(中略)のところで水野氏が「日置臣志毘(ヘきのおみしび)」と引用している。しかし先に書いたように〈大系〉は「ヒオキ」と訓んでいる。〈大系〉の脚注によると「日置」ではなく「宜」となっている写本が2例あるという。またその他の11例は全ての写本で「置」なのに「日置」と原文改訂が行われている。この問題は『よみがえる卑弥呼』第二編「部民制の史料批判」で古田氏が取り上げていた。古田氏は「置→日置」と同じような原文改定を他に3例指摘している。「早部→〔日/下〕(日下)部」「田部→額田部」「額部→額田部」である。「置→日置」の批判部分を引用する。

 たしかに、大和朝廷下の部としては、上欄(原文)は〝見馴れぬ″ものであろう。しかしながら、部民制の〝原初の地″たる出雲の中において、右のような「部」が存在したことを、一概に否定するのは危険ではあるまいか。

 別の面からいえば、たとえば弘仁6年(815)の頃撰進されたとされる新撰姓氏録などは、あくまでもその時期の姓氏の実情をしめすものであり、それらの認識をもととして出雲風土記古写本の原文に対し、「改削の手」を加えるというのは、方法論上、不当である。むしろ、それらとの間の「誤差」にこそ注目すべきであり、そこに当史料(出雲風土記)の独自の史料価値を見出すべきではあるまいか。

 もちろん、当史料の「原文」がすべて正当であるとは限らない。しかしそれはそれとして十二分に検討を加えた上でなされるべきであり、安易に「後代」の、「大和朝廷中心主義」の物指しを当て、それによって「原文改定」を加えること、それは不当である。わたしはそのように考える。

 この点、実証的には次のような事実が指摘されよう。

 当風土記の大原郡の項に「置谷の社」(岩波古典文学大系本、243ページ)がある。これから見れば、先の「置部」という「部」も、当然ありうるのではあるまいか。これを他の各地(大和・伊勢等)に見られる「日置郷」に合わせて「改定」するのは、必ずしも穏当ではないのではあるまいか。この「日置郷」は、周防・長門・肥後・薩摩といった西海道周辺にも分布している。筑前(日佐郷)・筑後(日方郷)・筑後(日奉郷)・豊後(日理郷)といった風に、「日-郷」といった形の地名は多い。従って出雲の「置部」が原点となり、「国ゆずり」後、太陽神たる天照大神を頂点とした筑紫を中心に、このような「日置部」が成立するに至った、―そのような可能性もまた、これを〝あらかじめ無視する″ことは許されないのではあるまいか。

 ここにも、「後代の常識」に従って安易に「原文改定」する例が見られるように、わたしには思われる。

 原文改定された日置を除くと、紀記・風土記に現れる日置は「垂仁記」の「日置部」と風土記逸文の「日置郷」「日置部」だけとなる。

 ところで『万葉集』にも一例あった。巻三・354番の題詞で「日置少老の歌一首」とあり、「へきのをおゆ」と訓んでいる。この人物は「伝未詳」である。「伝未詳」なのにどうして「日置」を「ヘキ」と訓むと決められるのだろう。不審だ。「応神記」の頭注「弊岐=日置」を踏襲したのだろうか。

 次ぎに地名に残っている「日置」を調べてみた。吉田茂樹著『日本古代地名事典』では「へき〔日置〕」項は『「ひおき」を見よ。』とあり、「へき」と訓む地名を取り上げていない。「ひおき〔日置〕」項では真っ先に原文改訂された出雲風土記の神門郡日置郷を取り上げている。その解説の中で「ヒオキ・ヘキ・ヒキ等の音を用い」ることに触れている。また、「浦嶼子」の日置里、「和名抄」から但馬国気多郡日置郷と薩摩国日置郡を取り上げている。解説は通り一遍で、全て渡来系一族の日置部の部民の居住地と解説している。

 手許にもう一冊『日本地名ルーツ辞典』(創拓社)がある。こちらで調べたら、京都府宮津市日置・鹿児島県日置郡を取上げている。いずれも「ヒオキ」と訓む。もうひとつ山口県日置町を挙げているが、これは「ヘキ」という訓みである。それぞれにかなり詳しく興味深い解説があった。それを検討してみようと思う。(また長くなりそうなので、続きは新年に持ち越します。)
スポンサーサイト
《続・「真説古代史」拾遺篇》(140)



「倭人伝」中の倭語の読み方(83)
番外編:丹後国風土記「浦嶼子」


 水野氏は柄渠觚については「ヘイ-キョ-コ」→「ヘキコ」と訓んで「日置部」と関連づけている。一方、『丹後国風土記』「浦嶼子」の舞台が「日置の里」であることを知って興味が湧いてきた。もともと浦島太郎の原型という説話に興味を持っていたので、この際、「浦嶼子」を読んでみることにした。(〈岩波大系〉の『風土記』による。なお、〈 〉は〈大系〉の頭注。また、区切りと見出しは私が勝手に行ったものです。)

(舞台・主人公)
丹後(たにはのみちのしり)の國の風土記に曰はく、與謝(よさ)の郡、日置(ひおき)の里。此の里に筒川(つつかわ)の村あり。此の人夫(たみ)、日下(原文では〔日/下〕という一字になっている。辞書にない)部首等(くさかべのおびとら)が先祖(とほつおや)の名を筒川の嶼子(しまこ)と云ひき。爲人(ひととなり)、姿容秀美(すがたうるは)しく、風流(にやび)なこと類(たぐひ)なかりき。斯(こ)は謂はゆる水の江の浦嶼の子といふ者なり。是(こ)は、舊(もと)の宰(みこともち)伊預部(いよべ)の馬養(うまかひ)の連(むらじ)が記せるに相乖(あひそむ)くことなし。故、略(おほよそ)所由之旨(ことのよし)を陳(の)べつ。

 前回、森氏の系図では「浦島太郎は日下部の姓を名乗って」いたという指摘があった。ここでは嶼子は日下部首の先祖と言っている。おもしろいですね。

〈日置の里―与謝半島の東部、和名抄に日置郷とある地。遺称地は半島の東南部、宮津市日置。〉
〈日下部首―日下部連(開化天皇の皇子、彦坐王の子孫の氏族)と同族とする伝承か。この地方に縁のある氏族者として語るもの。〉
〈伊預部の馬養の連―持統・文武朝に活鐸した人。大陸文化に通じて詩文をよくし、大宝律令の撰定に功績があった。大宝2・3年頃没(45歳)。馬養が書いた「浦島子伝」は現伝しない。〉

(乙女との出会い)
朝倉の宮に御宇しめしし天皇の御世、嶼子、獨(ひとり)小船に乗りて海中に汎(うか)び出でて釣するに、三日三夜を經(ふ)るも、一つの魚だに得ず、乃ち五色の龜(かめ)を得たり。心に奇異(あやし)と思ひて船の中に置きて、即(やが)て寐(ぬ)るに、忽(たちま)ち婦人(をみな)と爲りぬ。其の容美麗(かたちうるは)しく、更(また)比(たぐ)ふべきものなかりき。嶼子、問ひけらく、「人宅(ひとざと)遙遠(はろか)にして、海庭(うみには)に人乏(な)し。詎(いづれ)の人か忽(たちまち)に來つる」といへば、女娘(をとめ)、微咲(ほほゑ)みて對(こた)へけらく、「風流之士(みやびを)、獨(ひとり)蒼海(うみ)に汎べり。近(した)しく談(かた)らはむおもひに勝へず、風雲(かぜくも)の就來(むたき)つ」といひき。嶼子、復(また)問ひけらく、
「風雲は何(いずれ)の處よりか來つる」
といへば、女娘答へけらく、
「天上(あめ)の仙(ひじり)の家の人なり。請ふらくは、君、な疑ひそ。相談(あひかた)らひて愛(うつく)しみたまへ」
といひき。ここに、嶼子、神女(かむをとめ)なることを知りて、愼(つつし)み懼(お)ぢて心に疑ひき。女娘、語りけらく、
「賤妾(やっこ)が意(こころ)は、天地と畢(を)へ、日月と極まらむとおもふ。但、君は奈何(いかに)か、早(すむや)けく許不(いなせ)の意を先(し)らむ」
といひき。嶼子(しまこ)、答へけらく、
「更に言ふところなし。何ぞ懈(おこた)らむや」
といひき。女娘曰ひけらく、
「君、棹(さを)を廻(めぐ)らして蓬山(とこよのくに)に赴(ゆ)かさね」
といひければ、嶼子、從(つ)きて往(ゆ)かむとするに、女娘、教へて目を眠らしめき。即ち不意(とき)の間に海中の博(ひろ)く大きなる嶋に至りき。

〈朝倉の宮に御宇しめしし天皇―雄略天皇。〉

(「雄略紀」22年7月条に、浦嶋子が蓬莱山に行ったという短い記事があり、「語は別巻に在り。」と記している。)

(神仙境に到着)
其の地は玉を敷けるが如し。闕臺(うてな)は晻(かげ)映(くら)く、樓堂(たかどの)は玲瓏(てりかがや)きて、目見ざりしところ、耳に聞かざりしところなり。手を携(たづさ)へて徐(おもぶる)に行きて、一つの太(おほ)きなる宅の門に到りき。女娘、
「君、且(しま)し此處に立ちませ」
と曰ひて、門を開きて内に入りき。即ち七たりの竪子(わらは)來て、相語りて
「是は龜比賣(かめひめ)の夫(をひと)なり」
と曰ひき。亦、八たりの竪子來て、相語りて
「是は龜比賣の夫なり」
と曰ひき。滋に、女娘が名の龜比賣なることを知りき。乃ち女娘出で來ければ、嶼子、竪子等が事を語るに、女娘の曰ひけらく、
「其の七たりの竪子は昴星(すばる)なり。其の八たりの竪子は畢星(あめふり)なり。君、な恠(あやし)みそ」
といひて、即ち前立(さきだ)ちて引導(みちび)き、内に進み入りき。

〈昴星―二十八宿の一の星の名。南南西に宿る。牡牛座にあるプレアデスの和名。むつら星・きら星ともいう。七つの星が並んで見えるもの。星が本性の神仙とする。〉
〈畢星―昴星に次ぐ二十八宿の一の星の名。八つの星か並んで見えるとする。海上の仙境と天上の仙境とを混じて語っている。〉

(神仙たちの歓待)
女娘の父母(かぞいろ)、共に相迎へ、揖(おろが)みて坐定(ゐしづま)りき。ここに、人間(ひとのよ)と仙都(とこよ)との別(わかち)を稱説(と)き、人と神と偶(たまさか)に會へる嘉(よろこ)びを談議(かた)る。乃ち、百品(ももひな)の芳(かぐは)しき味(あじはい)を薦め、兄弟姉妹等(はらからたち)は坏(さかづき)を擧(あ)げて獻酬(とりかは)し、隣の里の幼女等(わらはども)も紅(にのほ)の顔(おも)して戯(たはぶ)れ接(まじ)る。仙(とこよ)の哥(うた)寥亮(まさやか)に、神の儛(まい)逶迤(もこよか)にして、其の歡宴(うかげ)を爲すこと、人間に万倍(よろづまさ)れりき。玆(ここ)に、日の暮るることを知らず、但(ただ)、黄昏(くれがた)の時、郡仙侶等(とこよひとたち)、漸々(やくやく)に退(まか)り散(あら)け、即(やが)て女娘獨(ひとり)留まりき。肩を雙(なら)べ、袖を接(まじ)へ、夫婦之理(みとのまぐはひ)を成しき。

(望郷の念)
時に、嶼子、舊俗(もとつくに)を遺(わす)れて仙都(とこよ)に遊ぶこと、既に三歳(みとせ)に逕(な)りぬ。忽(たちまち)に土(くに)を懐ふ心を起し、獨、二親(かぞいろ)を戀ふ。故、吟哀(かなしび)繁く發(おこ)り、嗟歎(なげき)日に益しき。女娘、問ひけらく、
「比來(このごろ)、君夫(きみ)が貌(かほばせ)を觀るに、常時(つね)に異なり。願はくは其の志(こころばへ)を聞かむ」
といへば、嶼子、對へけらく、
「古人(いにしえびと)の言へらくは、少人(おとれるもの)は土(くに)を懐(おも)ひ、死ぬる狐は岳(をか)を首(かしら)とす、といへることあり。僕(やつがれ)、虚談(そらごと)と以(おも)へりしに、今は斯(これ)、信(まこと)に然(しか)なり」
といひき。女娘、問ひけらく、
「君、歸らむと欲(おもほ)すや」
といへば、嶼子、答へけらく、
「僕(やつがれ)、近き親故(むつま)じき俗(くにひと)を離れて、遠き神仙の堺(くに)に入りぬ。戀ひ眷(した)ひ忍(あ)へず、輙(すなは)ち經(かろがろ)しき慮(おもひ)を申(の)べつ。望はくは、暫し本俗に還りて、二親(かぞいろ)を拝(おろが)み奉らむ」
といひき。女娘、涙を拭(のご)ひて、歎(なげ)きて曰ひけらく、
「意(こころ)は金石(かねいし)に等しく、共に万歳(よろづとし)を期(ちぎ)りしに、何ぞ郷里(ふるさと)を眷(した)ひて、棄て遺(わす)るること一時(たちまち)なる」
といひて、即ち相携へて俳佪(たちもとほ)り、相談(あいかたら)ひて慟(なげ)き哀しみき。遂(つひ)に袂を〔扌弃〕(ひるが)へして退(まか)り去りて岐路(わかれぢ)に就きき。ここに、女娘の父母(かぞいろ)と親族(うから)と、但、別れを悲しみて送りき。女娘、玉匣(たまくしげ)を取りて嶼子に授けて謂ひけらく、
「君、終に賎妾(やつこ)を遺(わす)れずして、眷尋(かへりみたづ)ねむとならば、堅く匣を握(と)りて、愼(ゆめ)、な開き見たまひそ」
といひき。即(やが)て相分れて船に乗る。仍ち教へて目を眠らしめき。忽に本土の筒川の郷(さと)に到りき。
〈少人は…―論語(里仁)に「君子は徳を懐い、小人は土を憶う」とあるによる。〉
〈死ぬる狐は…―礼記(檀弓)に「狐死して正しく丘に首するは仁也」、楚辞に「狐の死するとき、必ず丘に首す」とあるによる。狐は自分の巣穴のある丘の方に向いて死ぬ意で、故郷を忘れないことをいう。〉

(帰郷)
即ち村邑(むらざと)を瞻眺(ながむ)るに、人と物と遷り易(かは)りて、更に由(よ)るところなし。爰(ここ)に、郷人(さとびと)に問ひけらく、
「水の江の浦嶼の子の家人(いへびと)は、今何處(いづく)にかある」
ととふに、郷人答へけらく、
「君は何處の人なればか、舊遠(むかし)の人を問ふぞ。吾が聞きつらくは、古老(ふるおきな)等の相傳へて曰へらく、先世(さきつよ)に水の江の浦嶼の子といふものありき。獨蒼海に遊びて、復還り來ず。今、三百餘歳(みももとせあまり)を經つといへり。何ぞ忽に此を問ふや」
といひき。即ち棄てし心を〔衙、吾→今〕(いだ)きて郷里(さと)を廻れども一(ひとり)の親しきものに會はずして、既に旬日(とをか)を逕ぎき。乃ち、玉匣を撫でて神女を感思(した)ひき。ここに、嶼子、前(さき)の日の期(ちぎり)を忘れ、忽に玉匣を開きければ、即ち瞻(めにみ)ざる間に、芳蘭(かぐは)しき體(すがた)、風雲に率(したが)ひて蒼天(あめ)に翩飛(とびか)けりき。嶼子、即ち期要(ちぎり)に乖違(たが)ひて、還(また)、復びも會ひ難きことを知り、首(かしら)を廻(めぐ)らして踟蹰(たたず)み、涙に咽びて俳佪(たちもとほ)りき。ここに、涙を拭(のご)ひ哥ひしく、

 常世べに 雲たちわたる
 水の江の 浦嶋の子が
 言持ちわたる。

神女、遙に芳しき音(こゑ)を飛ばして哥ひしく、

 大和べに 風吹き上げて
 雲放(ばな)れ 退き居りともよ
 吾を忘らすな。

嶼子、更、戀望(こいのおみひ)に勝(た)へずして哥ひしく、

 子らに戀ひ 朝戸を開き
 吾が居れば 常世の濱の
 波の音(と)聞こゆ。

後の時(よ)の人、追い加へて哥ひしく、

 水の江の 浦嶋の子が
 玉匣 開けずありせば
 またも會はましを。
 常世べに 雲立ちわたる
 たゆまくも はつかまどひし
 我ぞ悲しき。

〈玉匣―玉飾りのある櫛(化粧用具)の箱の意から、女性の持つ手箱。いわゆる玉手箱。霊性のある神仙女との結合を可能にするタブーの箱。下文によれば、神仙としての浦島の霊性(不老不死)を斎い込めた箱の意に解し得る。〉
《続・「真説古代史」拾遺篇》(139)



「倭人伝」中の倭語の読み方(82)
官職名(11):伊都国(3)


 伊都国の副官については暗中模索と言ったところ。ともかく訓みの検討から始めよう。

 「官職名(1)」で「倭人伝」中の全ての官職名を掲載した。そのとき「訓みは取りあえずは古田氏によるものを採用しておく」ことにした。その訓みは『俾弥呼』(2011年刊)巻末の「倭人伝」読下し文から拾い出した。伊都国副官は泄謨觚(セモク)・柄渠觚(へコク)だった。ところが、前回『俾弥呼』本文から引用した古田氏の文では泄謨觚(セモコ)・柄渠觚(ヘココ)となっている。『倭人伝を徹底して読む』(1987年刊)にも「倭人伝」読下し文がある。そこでは泄謨觚(セモク)・柄渠觚(へコク)である。また、『邪馬一国への道標』(1978年刊)では泄謨觚(セモコ)・柄渠觚(ヘクコ)となっている。各著書の出版年順に整理すると次のようになる。

泄謨觚
 セモコ→セモク→セモク(本文中セモコ)
柄渠觚
 ヘクコ→ヘコク→ヘコク(本文中ヘココ)

 直近の説を採るべきだろう。そして、どうしてこのようなミスが起こったのかは測りがたいが、本文中の訓みは先祖返りをしている。特に「ヘココ」は「渠・觚」をともに「コ」と訓んでいる点でもおかしい。また、倭国の官名には「卑狗」があり、「コ」音には「狗」を用いている。「觚」には「ク」という訓みもあるので、私は「觚」は「ク」音として用いられていると考える。以上によって、古田氏は最終的には「セモク・ヘコク」を採用していると考えよう。なお、古田氏はこれらの官名の意味については何も考察していない。

 念のため、伊都国の副官名で使われている漢字の音を調べてみた。(『諸橋大辞典』による。)


[一]セツ(漢音)・セチ(呉音)
[二]エイ

[一][二]ボ(漢音)・モ(呉音) [三]ハク(漢音)・マク(呉音)

 コ(漢音)・ク(呉音)

([一][二]共通)  ヘイ(漢音)・ヒヤウ(呉音)

 キョ(漢音)・ゴ(呉音)

 漢音呉音の違いがある場合は呉音を採るとすると
泄謨觚
 「セチモク」「セチマクク」
柄渠觚
 「ヒョウゴク」

 古田氏の訓み「セモク」は「セチモク」の「チ」を省いた訓みになっていいる。「ヘコク」の方は「ヘイ(柄の漢音)ゴク」から「イ」を省き「ゴ→コ」清音化を行っている。二音からなる漢字の第一音を用いる万葉仮名は結構ある。「敝・弊・幣・蔽・平」は「ヘ」として使われている。また、「支」が「キ・ギ」両方に使われていたが、濁音の漢字を清音として用いているものも多い。例えば「菩・度・豆」はそれぞれ「ホ・ボ」「ト・ド」「ツ・ヅ」双方の使用例がある。倭人が漢字を受容した当初からこのように漢字を用いていたと考えてよいだろう。

 呉音にこだわって、「セモク」「ヒコク」を私案としておこう。

 次ぎに水野氏がまとめている諸説を見てみよう。氏によると「井の中」では「泄謨觚柄渠觚」を一つの官名とする説があるらしい。もちろん水野氏は「その説はとらない」と一蹴している。これについての水野氏の解説は省くことにする。その他の諸説については次のように紹介している。

 伊都国の副官である。これを「泄謨觚」・「柄渠觚」と分けて訓めば、伊都国には副官が二名配されたことになる。「泄」は音「エイ」または「セツ」、「謨」は音「ボ」「ム」で、「觚」の音は「コ」、「柄」の音は「ヘイ」、「渠」の音「キョ」であるから「エイ-ボ-コ へイ-キョ-コ」あるいは「セツ-ボ-コ へイ-キョ-コ」と訓むから、内藤博士は「シマコ」即ち島子と訓むに似てゐるが、但し吾が上古にかゝる官名もしくは尊號ありといふことを聞かず」と論じ、「ヒココ(ヘクコ)」は彦子などと訓むべきも、之亦古書に例證なければ確かに定め難し」とされた。

 山田博士は「イモコ(妹子)」と「ヒココ(ヘクコ)」と訓み彦子であって、「妹子・彦子にて男女両性の名目によれるものと思はれる。即ち伊都縣主の下にある属領の名なるベし」とされる。

 皆さん確定できずに困っている。また、水野氏が挙げている漢字の音は私が調べたものと異なる点がいくつかある。特に「觚」には「ク」という音もあるのにそれを省略している。「…子」に結び付けたいための意図的な省略と思えてしまう。それにしても「ヒココ」「イモコ」「シマコ」という訓みになる理由が私にはさっぱり分らない。

 この副官については水野氏も自説を披露している。泄謨觚については内藤説を採り
『私は「兕馬觚」を「シマコ」としたのと同じ理由で「島子」とする。』
と述べているので、「兕馬觚」の項を読んでみた。

兕馬觚
 これは伊都国の副官、泄謨觚・柄渠觚と似ている。したがってこれを「シマコ」と訓み、「泄謨觚」と同じく島子の義かとする内藤博士以下の説がある。「兕」は音が「ジ」、野牛に似た一角青色の獣名。これにより「ジバコ」「シマコ」と訓める。内藤博士は、「シマコ」について、「但しわが上古にかゝる官名もしくは尊號ありといふことを聞かず」といわれているのであるが、島子というならば、わが国の古代にこのような人名もしくは尊号がないというのではない。

 ひどく論理が乱れている。A「泄謨觚」・B「兕馬觚」・C{島子」とすると、先の文では
「B=C」とした同じ理由で「A=C」である。
 上の引用文がその「理由」に当るたり、
「A=C」かつ「A≒B」なので「B=C」である。
と言っている。まるで「鶏が先か、卵が先か」という問題を突きつけられたようで、私には理解不能である。「井の中」の学者さんたちは時々まことに難しい論理を使う。ともあれ、「兕馬觚」を「シマコ」と訓む可能性はあるかもしれないが、「泄謨觚」を「シマコ」と訓むのは無理である。

 水野氏は内藤氏の「かゝる官名もしくは尊號ありといふことを聞かず」に反論して「島子」を救出している。「泄謨觚(シマコ)」説を仮に正しいとして、その解説を読んでみよう。

 島子というならば、わが国の古代にこのような人名もしくは尊号がないというのではない。浦島太郎伝説の主人公が、古くは浦の島子であって、浦の尊者であった。これは浦島の子ではなく、浦に住んでいた尊者としての称号が島子であったのだと解すれば、この「シマコ」と関連がつけられる。ここの奴国の副官の「卑奴母離」が対馬のそれと同様、武官的権能を有するものであるならば、一般行政官としての大官が、とくにかつての対漢貿易の主権を握っていた奴国の港湾要津の監査を主要任務とする大官の職名に、浦の尊者たる島子という尊称が襲用されたとして無理はない解釈であろう。

 「島子という尊称」があったという説は、この引用文の範囲内ではなんの根拠もなく、あくまでも水野氏の推測でしかない。また、奴国が港湾要津を持つ国ではないことは「官職名(8):対海国・一大国」で論じた。

浦島太郎が出てきて、思い出したことがある。浦島太郎の子孫という方がいらっしゃるというのだ。HP「新・古代史の扉」で読んだと思う。検索して見た。「古賀事務局長の洛中洛外日記」の「第30話 2005/09/22 浦島太郎の系図」によると、浦島太郎の子孫という方は森茂夫さんという方で家宝として「浦島太郎の系図」が伝えられてきたという。森さんは丹後市にお住まいのようです。ちなみに。浦島太郎説話の原型は『丹後風土記』にある。「事務局長日記」から引用する。

 その系図によれば、浦島太郎は日下部の姓を名乗っており、開化天皇の皇子、彦坐命の後胤と記されています。

 ただ、ややこしいことに、「日下部曽却善次」の下注に「亦の名を浦島太郎」とあり、その長男の「嶋児」が、いわゆる竜宮城へ行った有名な「浦島太郎」のこととなっています。ですから、系図によれば浦島太郎の長男の嶋児が竜宮城に行ったことになります。

 おそらく、後世に伝説が脚色されたりしながら、現在の説話へと変化したものと考えられます。したがって、逆にこの系図の信憑性が増すのではないでしょうか。もし、後世にでっちあげるのなら、有名な伝説と異なった系図を作ったりしないと思われるからです。
 浦島太郎の長男として「嶋児」(『丹後国風土記』では嶼子)が記録されている。「島子」が尊号であるという可能性はあるかも知れない。

 水野氏はこの後「柄渠觚」の検討をしている。長くなりようなので次回に。
《続・「真説古代史」拾遺篇》(138)



「倭人伝」中の倭語の読み方(81)
官職名(10):伊都国(2)


 本道に戻ろう。伊都国の大官「爾支」についての諸説の検討の途中であった。「井の中」でほとんど定説化している「爾支(ニキ)=稲置」説が単なる語呂合わせ説でしかないことが分った。もう一つ、山田説を継承した水野説があった。次のようであった。

 伊都国の「爾支」は「ニシ」と訓むならば、日本語の主(ヌシ)である。この「ヌシ」も、大国主や事代主のように主たる存在を意味し、竜神系(出雲系国津神)の神に対する尊称であり、県主というように、やはり地方豪族の長者を意味する。

 「爾支(ニキ)=稲置」説と同様に、このような類音探しは危うい方法だ。この場合は通音転訛と言いたいのだろう。念のため辞書を調べていたら次のような解説に出会った。

『広辞苑』
にし【主】〔代〕(ヌシの訛)おまえ。汝。
東海道中膝栗毛(2)「―が馬(おま)ア誰(だ)が馬だ」

『明解古典辞典』(三省堂)
にし(代名)東国方言。なんじ。おまえ。
「これさ、―たち、物さ(=ヲ)問い申すべい」(近松・基盤太平記)

 大国主や事代主の「ヌシ」のようにとても尊称とは言えない。それに、3世紀頃に同じよな転訛があったという根拠は何もない。

 古田氏も「ニシ」という訓みを採用している。しかし、「ヌシ」という類音に関連させるのではなく、その根拠を副官の訓みと関連させて説いている。次のようである。

 次の「伊都国」は問題である。

 「官」が「爾支」。従来の「支(キ)」〝訓み″ からすれば、「ニキ」となろう。しかし、後述のように、これは「ニシ」である可能性がある、と考えている。なぜか。

 問題は「副官」の方である。「泄謨觚(セモコ)」「柄渠觚(ヘココ)」といった、〝見馴れない文字″が用いられている。

 倭人伝の、通例の文字には、現代のわたしたちにも〝見馴れた文字″が多く使われている。いわば、有名な「千字文」という、中国側の〝通用″の代表的な文字群の一つ、といったものが多い。

 ところが、この伊都国の「副官」の場合は〝異例″なのだ。「文字の質」が異なっているのである。

 おそらく、他の文字群とは〝ちがう時点″、すなわち〝より早い時期″の流入時の漢字、また、その〝訓み″なのではあるまいか。

 とすれば、「大官」の方も、他の倭人伝並みの〝爾支(ニキ)″ではなく、「ニシ」である可能性もあろう。漢書西域伝などの「支(シ)」〝訓み″に準ずる。そのように解すべきかもしれぬ。

 「ニシ」は、もちろん「西」であるけれど、博多近辺では「ヌシ(主)」のことを「ニシ」と発音するという(児玉奈翁一氏による)。

   全て「可能性」の範囲の記述になっていて歯切れが悪い。「ニシ」を「主」と結び付ける可能性を示唆している部分があるが、私の見解は水野説のところで書いた通りである。

 もうひとつの仮説、「ニシ」と訓み「西」の意としているのは「“西方に当る地域”の刺史」の称号「平西将軍」と対比する意図があるのだろう。『「倭の五王」は大和の王?(2)』でそのような古田説を取り上げたのを思いだした。その部分を再録する。。

 伊都国には「一大率」がいます。これがこの「ニシ」と深い関係をもつことは当然です。大官「ニシ」自身が「一大率」の軍事権力をもつ。そういう可能性も十分ありましょう。倭王が“東夷の国”としては風変りな「平西将軍」の称号を第一の臣下に対して承認するよう、中国側に求めた、その背景には、この「ニシ=西」の称号があった、こう考えるのは、うがちすぎでしょうか。

 しかし、このような、いささか不確定要素をふくむ推定(たとえば「爾」にも、他に「ジ」「ディ」「ナイ」の音があります)は一応別としても、いま確認できること ― それは、九州に「都」がある場合も、その西方に拠点をもつ軍事司令官(長官)がこの「平西将軍」の号をもつこと、それは中国本土における用例から見て、何の不思議もない。 ― この一点です。

 例えば「爾支卑狗」などと書かれていればこの説は問題なく成立する思う。しかし、「ニシ(西)」という方角を示す語だけで「平西将軍」と同じ意味を持った官名とする説は、私には受け入れ難い。

 何よりも、「倭人伝」中の「支」を用いている倭語では、他の全ては「キ」と訓んでいるのに、「爾支」の場合だけ「シ」と訓むことの当否に、私はどうしてもこだわってしまう。古田氏は副官名の文字が〝異例″であることから、大官名の訓みも例外なのではないかと説くが、これも納得しがたい。「支」は万葉仮名として使われていて、その音は「キ」または「ギ」である。紀記・万葉集・風土記で「支」が「シ」という音で使われている例は恐らくないだろう。「爾」も万葉仮名として使われている。音は「ニ」である。やはり「爾支」は「ニキ」と読むべきだろう。

 では、意味はと問われれば困ってしまう。分らないと答えるべきなのだろうが、苦しまぎれに、表意文字としての意味も込めて使われていると考えてみた。「爾」には「貴者に対する二人称」という意味もある。「支」は「一つのものから分かれ出たもの」である。伊都国は女王国にとって一大率が置かれる重要な分国である。たぶん、俾弥呼の血縁のものが派遣されていた。そこで伊都国の大官を「爾支」と呼んだのではないだろうか。
今日の話題



数字が入った四文字熟語(2)


⑨ 面壁年(めんぺきくねん)
意味:達磨(だるま)大師が中国の嵩山(すうざん)の少林寺で壁に面して九年間座禅を組み、悟りを開いたと故事から。ある一つの目的に向かって粘り強く月日をかけて心を傾けることのたとえ。「九年面壁」とも言う。
出典:碧巌録-一則・評唱
「達磨至彼、亦不出見、直過少林、面壁九年、接得二祖
〈次の絵画と、それを題材にした詩を思い出しました。〉

恵可断臂図
雪舟作恵可断臂図

恵可   谷川雁

そのとき時間は始まった
鋭利な鋏にむかってはりつめた帛のように
ひとすじの光が
岩の蔭からほとばしった
蔓草のからんだ鉄鍖(かなしき)にうちおろす
虚無の道士の
筋骨に青白い火花がちった
忍苦と信が彼の鍾愛する秘密の
かかとにふれた
時が彼の頭(こうべ)を吹いた
衣の硬い折目は微風にふくらみ 怒って
そそりたつ巌を脅かす鏃となった
次にふみだした一歩を
支配したものは ただ暗い天空の
傾いた秤であった

この腕を切断せよ この頭足を
一閃の光にて裁て
青山常に運歩す では人間の苦悩も
するどく生かされた山水木石ではないか
ああ お前ゆえに一切は不具と化す
自我の幻覚の呼称……私……わたしは
石のなかにいる 湖水に沈んだ石の――
それも刃そのもの 光そのものであらねばならぬ
ゆうひの透了する生物のむれには
きのう遠く別れたのではなかったか

それは一秒の冬であった
きびしさのなかに眠る一滴の陶酔が
凍りついてしまう時刻であった
季節のない夜の隙間を六角の結晶が埋めていた
断じて劇をふくまない空間
白衣のすれる薄光が 彼の
青ざめたあぎとを 束のまの間てらした
彼は刃を抜いた
腕を切る音がした
達磨はなお動かなかった
   (雪舟作恵可断臂図から)


⑩ 年河清(ひゃくねんかせい)
意味:「百年河清を俟(ま)つ」の略。いくら待っても望みがかなわないこと。あてにならないものを長い間待つこと。
参考:中国では「江」と言えば揚子江、「河」と言えば黄河のこと。黄河は常に黄色く濁っている。黄河が黄土地帯を流れる限り、黄河がきれいに澄むことはありえない。
出典:『春秋左氏伝』襄公八年
〈筑摩書房版『世界古典文学全集13』から現代語訳文を転載します。〉
 冬、楚の子嚢(しのう)が鄭(てい)を伐ったのは、鄭が蔡(さい)を侵したからである。鄭の子駟(しし)・子国・子耳(しじ)は楚に従おうと思ったが、子孔(しこう)・子蟻(しきよう)・子展(してん)は晋の軍の来援を待ちたいと思った。子駟がいった。

「『周詩』(逸詩)にも『河の水が澄むのを待っていては、人の寿命がいつ終るやら〈読下し文:河の清むを俟たば、 人寿幾何ぞ。〉』とあるとおり、晋の援軍を待ってなどおられない。うらないの兆も分別が多すぎてはかえって混乱をきたすだけだ。家ごとに謀がたくさんあっては民もそれに従わぬようになる。結局事が複雑になって成就しない。いま民の難儀はせまっている。しばらく楚に従って民の難をゆるくしよう。晋の軍が到着したならばわれわれも晋に従おう。つつしんで進物を供して、来るものを待つのが小国のとるべき道だ。犠牲(いけにえ)や玉帛を晋楚二国の境に持ち出して、強い方が到着するのを待ち、民をたすけることにしようではないか。こうすれば敵が攻めて来ても実害はなく、民もつかれずにすむというもの。これがよいではないか。」(以下略)

⑪ 瀉千里(いっしゃせんり)
意味:物事の進み方が激しく、すみやかにはかどること。また、弁舌や文章などが、よどみなくすらすらといくこと。
参考:「瀉」は水が流れる、注ぐの意。もともとは、大河の水が一たび流れ始めると、一気に千里も走り流れる意。
出典:福恵全書―二九
  「儼然峡裡軽舟、片刻一瀉而千里」

⑫ 古不易(ばんこふえき)
(類)
  千古不抜(せんこふばつ)
  千載不易(せんざいふえき)
  千載不磨(せんざいふま)
  千載不滅(せんざいふめつ)
  千古不易(せんこふえき)
  万世不易(ばんせいふえき)
  万代不易(ばんだいふえき)
意味:永遠に変わらないこと。
参考:「千古」「千載」「万古」「万世」「万代」はいずれも長い年月、永遠永久を表す語。「不易」は変わらないこと、「不抜」は確乎として動かないこと、「不磨」はすり減らないこと、永久に残ること。「千載」は「千歳」とも書く。
〈類語がこんなにあるとは、知らなかった。〉

⑬ 鎧袖触(がいしゅういっしょく)
意味:相手を簡単に打ち負かすことのたとえ。参考:もともとは鎧(よろい)の袖で一触れすること。転じて、そのようにちょと触れただけで相手を負かす意となる。下に「する」を伴って、動詞的に用いることもある。
出典:『日本外史』二・源氏世紀
   「至平清盛輩、臣鎧袖一触、皆自倒耳」

⑭ 面楚歌(しめんそか)
意味:周囲がすべて敵で、味方のいないこと、孤立することのたとえ。
参考:楚の国の項羽が漢の高祖に包囲されたとき、高祖は項羽の心を乱すため深夜四面の漢軍に楚国の歌を歌わせた。それを聞いた項羽は、もはや楚の民が漢軍に降伏したかと思い、驚き嘆いたという。この故事による。
出典:史記-項羽本紀
  「夜聞漢軍四面皆楚歌、項王乃大驚曰、漢皆已得楚乎、是何楚人之多也」

⑮ 九夏伏(きゅうかさんぷく)
意味:夏のうちでもっとも暑い、土用のころをさしていう語。
参考:「九夏」は夏の九十日間の意。「三伏」は夏至の後の第三庚(かのえ)の日の「初伏」、その十日後の「中伏」、またその十日後の「末伏」の三つをさし、極暑の候を言う。「きゅうかさんぶく」とも読む。

 何とか終えることができました。楽しい勉強でした。
今日の話題



数字が入った四文字熟語(1)


 大日本帝国の老人ゾンビとオコチャマゾンビを持ち上げて世論誘導をするマスゴミの論調通りになりそうな厭な予兆が膨れ上がっている。大日本帝国の暴走が引き起こしたあの悲惨な戦争から何も学んでいない愚民のなんと多いことか。予兆通りの結果にならないことをただただ念じる外ない今日この頃です。が、今日は「12」が三つもつながる珍しい日なので(ほとんど意味のない理由付け)、久しぶりに気分を転換しようと思います。

 東京新聞が毎月一回「暮らすめいと」という生活情報紙を購読新聞に織り込んで配布している。昨日その1月号が配布された。その中に面白いクイズがあった。それを紹介しよう。
ああ[漢]ちがい

 名古屋の御園座は東京の歌舞伎座や京都の南座、福岡の博多座などとともに、日本でも有数の歌舞伎小屋。過日「顔見世」を見物してきました。「鬼一法限三略巻」三段目「菊畑」。源氏に代々伝わる中国伝来の兵法書「虎の巻」を持つ平家方の鬼一法眼から、奴に化けた牛若丸が取り戻そうとします。三略巻は兵法書「六鞱三略(りくとうさんりゃく)」で虎の巻はその一部。華やかで面白いお芝居でした。今回は数字が入った四文字熟語を問題にしてみます。

○の部分に数字を入れてください。

① 君子○楽
② 四〇駢儷
③ ○風十雨
④ 瀟湘○景
⑤ ○根清浄
⑥ ○歩之才
⑦ 〇面玲瓏
⑧ ○仞之功
⑨ 面壁〇年
⑩ 〇年河清
⑪ ○瀉千里
⑫ ○古不易
⑬ 鎧袖○触
⑭ ○面楚歌
⑮ 九夏○伏

 恥ずかしながら、私が意味や読み方を知っていたのは⑤⑨⑫⑭だけだった。紙面の解答は答と訓みだけなので、自分のべんきょうのため、その意味も調べてみた。(小学館版『四字熟語の読本』を用いた。そこにない熟語はネットを利用した。また、〈 〉は私の独り言です。)

① 君子楽(くんしさんらく)
意味:君子の持つ3つの楽しみのこと。
出典:「孟子」百九十六
参考:〈筑摩書房版「世界古典文学全集18」から読下し文と現代語訳文を転載します。〉
 孟子曰わく、君子に三楽あり。而(しか)して天下に王たるは与(あずか)り存せず。父母供(とも)に存し、兄弟、故(こ)なきは、一楽なり。仰いで天に愧(は)じず、俯(ふ)して人に怍じざるは、二楽なり。天下の英才を得て、之(これ)を教育するは、三楽なり。君子に三楽あり。而して天下に王たるは与(あずか)り存せず、と。

 孟子が言った。  「君子に三つの楽しみがある。天下に王となることは、この三つの中に入らない。父母が健在であり、兄弟に災難がないのは、一つの楽しみである。行う所が公明正大で、仰いで天に愧じず、俯して人に愧じることのないのは、一つの楽しみである。天下の英才を集めて、彼等を教育するのは、一つの楽しみである。君子に三つの楽しみがある。天下に王となることは、この三つの中に入らない」

② 四駢儷(しろくべんれい)
意味:「四六駢儷文」「四六駢儷体」と用いる。漢文の文体で、四字と六字から成る対句を多用する華麗な文体のこと。
参考:「駢儷」は馬を二頭立てで走らせる意で、対句構成の文を形容したもの。

③ 風十雨(ごふうじゅうう)
意味:五日に一度風が吹き、十日に一度雨が降ること。気候が順当であること。転じて、世の中が平穏であることのたとえ。

④ 瀟湘景(しょうしょうはっけい)
意味:中国絵画の画題。瀟湘は湖南省の洞庭湖の南,瀟水,湘水の合流するあたりの景勝地。瀟湘八景はその一帯から八つの地を選んだもの。具体的には「山市晴嵐・漁村夕照・遠浦帰帆・瀟湘夜雨・煙寺晩鐘・洞庭秋月・平沙落雁・江天暮雪」をいう。〈そう言えば日本でも「近江八景」とか「金沢八景」とか「八景」を使っていったけ。ちなみに、近江八景は「石山秋月・勢多夕照・粟津晴嵐・矢橋帰帆・三井晩鐘・唐崎夜雨・堅田落雁・比良暮雪」でした。〉

⑤ 根清浄(ろっこんしょうじょう)
意味:六根(目・耳・鼻・舌・身・意)から生ずる欲望・執着を断ち切って、心身ともに清浄になること。また、霊山に登る者などが、清浄を願って唱える言葉。

⑥ 歩之才(しちほのさい)
意味:文才に恵まれていること。また、すぐれた詩文を素早く作る才能があること。
出典:『世説新語(せせつしんご)』文学篇
参考:次のような説話による。
『魏の曹操の子である曹丕・曹植兄弟はともにすぐれた詩才があった。曹操の死後、文帝に即位した兄の曹丕は弟の才能を妬んで、あるとき「七歩歩く間に詩を作れ。できなければ死罪にする」と命じた。曹植はたちどころに兄の無情を嘆く詩を作った。文帝は大いに恥じたという。』

〈あっ、この話聞いたことがある。ゆっくり考えれば正解できたかもな?〉

⑦ 面玲瓏(はちめんれいろう)
意味:八方が透きとおって鮮明で美しいこと。転じて、誰に対しても円満に巧妙に振るまうことのたとえ。〈そう言えば「八方美人」という熟語があった。こちらは悪い意味で使われている。〉

⑧ 仞之功(きゅうじんのこう)
意味:「九仞の功を一簣(いっき)に虧(か)く」の上の四文字。全体で「長年の努力の末、完成間近な大きな仕事が、最後の小さな手落ちで失敗に終わる」という意になる。
出典:『周書』第七旅獒(りょごう)
〈筑摩書房版『世界古典文学全集2』から、現代語訳文を転載します。〉
(わが周は)商にうちかって、世界の果て夷狄(いてき)の国々にまで交通がひらけるようになった。西方の旅の国は、その国の獒(ごう)という大犬を貢物(みつぎもの)として奉った。太保の召公はそこで「旅獒」の篇を作り、それによって武王をさとした。

 召公は言った、
「おお、英明なる王たちは徳に心がけられたので、四方の夷狄もすべて慕い寄って参りました。遠近の区別なくどの国からもその地方の産物を献上いたしました。それらは衣服食物道具として役だつものばかりです。王は御自身の徳のまねいた結果を、異姓の国に明らかに示して、諸侯たちがその職務をおこたらぬようになさいました。貢物の宝物を身内の諸国に分け与えて、それによって親族を親愛する心をあらわされました。
 与える人の身分がものの値打ちを変えるのではありません。与えるものが同じであっても、その人の徳がそのものの値打ちをきめるのです。立派な徳があれば、ひとをあなどったりはしないものです。君子をあなどれば真心を尽そうとはせず、小人をあなどれば労力を尽そうとはしないでしょう。目や耳などの感覚によって動かされることがなければ、すベてのことは折目正しくなります。人間をおもちゃにすれば徳をうしない、物をおもちゃにすれば心をうしなうことになります。心は道によって安定し、ことばは道によってこそ真実にふれることができます。
 役にもたたぬことをして役だつことをおしつぶす、そういうことをしなければ、仕事はうまくゆきましょう。めずらしいものを貴んで日用のものをいやしむ、そういうことをしなければ、民の生活はみちたりましょう。犬や馬というものはその土地本来のものでなければ、飼わないのです。めずらしい鳥や獣も、この国では育てません。遠い国の産物を宝のようにほしがらなければ、遠くのひとびとはやってきますし、宝と貴ぶのが賢者であれば、近くのひとびとも安心しましょう。
 おお、あけくれ、万一にも徳におはげみにならぬようなことがあってはなりません。こまかな行ないに気をつけなければ、最後にはその大いなる徳をもそこなうことになりましょう。九仞の(高さの)山を築くのに、最後のもっこ一杯の土がたりないために、その仕事がだめになってしまうようなものです。真実、あなたがこのいましめを実行なされば、人民はその生活を安定させ、かくて何代にもわたって天下に王となれましょう」

 青字部分の原文と読下し文は次のようになっている。

為山九仞。功虧一簣。
山を為すこと九仞、功一簣に虧く。


〈さらっと簡単に終えるつもりで始めましたが、凝りだしてしまった。次回に続きます。〉
《続・「真説古代史」拾遺篇》(137)



「倭人伝」中の倭語の読み方(80)
番外編:「軍尼」記事をめぐって(3)


 前2回で調べてきた隋・倭の地方行政史を勘案しながら「軍尼」記事の読解をしてみよう。ただし、これも全て推測の域を出ない代物だが、一つの試論としておく。

 「軍尼」記事を原文も付して再掲載する。

軍尼が一百二十人あり、なお中国の牧宰のごとし。八十戸に一伊尼翼を置き、今の里長の如きなり。十伊尼翼は一軍尼に属す。 (有軍尼一百二十人、猶中國牧宰。八十戸置一伊尼翼、如今里長也。十伊尼翼屬一軍尼。)

 多利思北孤が送った遣隋使は600(文帝・開皇20)年・607(煬帝・大業3)年の2回である。煬帝は608(煬帝・大業4年)年に裴清(はいせい)を倭国に遣わしている。隋書俀国伝は、遣隋使から得た情報に加えて裴清の実見による記録だから、当時の倭国の実情を正しく記録していると考えるべきなのだろうが、「軍尼」記事はどうだろうか。

 『諸橋大辞典』は牧宰を「國主の唐名」としているが、これが正しいとすると、倭国では国造に当る。あるいは牧宰が刺史と同じように中央から派遣された地方長官ならば倭では後の国司のようなものとなる。いずれにしても120もの国があった事になる。この頃の倭国の統括地が関東地方にまで及んでいたとしても多すぎる。また、1人の軍尼が管轄している戸数が800戸というのは、国レベルの行政制度としては規模が小さすぎる。さらに、120人の軍尼の総戸数は9万6千戸(80×10×120)となるが、7世紀初頭の倭国全体の戸数としては全く話にならないほど少ない。3世紀の魏志倭人伝に「略載」されている対海国・一大国・末盧国・伊都国・奴国・不弥国・投馬国・邪馬壹国だけの戸数の合計ですら15万戸(うち一大国と不弥国は家数で4千家)である。

 では、「軍尼」記事は全くの誤記事なのか。そのようにして片付ける事もできるが、ここではあくまで事実を反映した記事として扱い、その事実を読み取ってみよう。

 『和名抄』に記録されている「国―郡」制下の郡数は592である。この郡は、多少の区画整理は行われたであろうが、「国―評」制下の「評」をほぼ踏襲したものと考えられる。また、『古事記』『風土記』で確認できる県名を見ると、その県名がそのまま郡名に使われている。特に北九州の場合、それらは3世紀(俾弥呼の時代)頃の女王国統合下の国名であった。3世紀の「百余国」は「国―県」制施行時に統合編成された。その国数は分らないが、その国の下級行政区画として県が置かれた。A型風土記によれば、3世紀の伊都国・末盧国はそれぞれ筑紫国逸覩県・肥前国松浦県となった。

 「軍尼」記事には県の下級区画として「里」がでてくるが、これはなんだろうか。前々回に掲載した秦漢時代の行政組織表によれば、地方行政は「郡―県―郷―里」という制度であった。倭国ではどうだったのか。『出雲國風土記』に次のような一文がある。

右の件の郷(さと)の字は、靈龜(りゃうき)元年(715)の式に依りて、里を改めて郷と爲せり。其の郷の名の字は、神龜(じんき)三年(726)の民部省(たみつかさ)の口宣(くせむ)を被(かがふ)りて、改めぬ。

 これによると「国―県」制では県のすぐ下の区画名は里だったことになる。従って倭国の地方行政制度は「国―県―里」であった。(ちなみに、里→郷の変更後は郷の下に「里 こざと」が設けられている。)

 そうすると軍尼は県に派遣された地方官ということになる。私は牧宰は刺史に軍権を付与した地方長官ではないかと考えている。そして、軍尼は表意表記だと考える。「尼」には「ただす。さだめる。」という意がある。軍尼(訓みは「クンニ」か)は軍権を付与された地方長官であった。軍権を持つという意味で「俀国伝」は「牧宰のごとし」と記録した。

 では、なぜ120もの県に軍尼を派遣したのだろうか。

 倭王旨の時代、倭国と百済は同盟関係にあり、高句麗・新羅と激しい戦闘を繰り広げていた。この朝鮮半島の激動期、新羅の軍隊が糸島博多湾岸まで何度も攻め込入ったという伝承が九州の寺社縁起などに多数記されているという。このようは事態に備えて、九州王朝はその中枢部を博多湾沿岸から筑後の髙良山(あるいは三瀦)に移している。(詳しくは『激動の朝鮮半島』・『「倭の五王」補論(6)』をご覧下さい。)

 九州王朝は同時に、九州のみならず、日本海側の要所々々の県に軍尼を派遣する制度を施行したのではないだろうか。伊尼翼(「イニイキ」か)とは、文字通り、「近くにあって軍尼を助ける」副官である。

 「倭の五王」以後も中国における南北朝間の緊張は続いている。この制度は多利思北孤の時代にまで踏襲されてきたのだろう。(あるいは、南朝・陳が隋に滅ぼされたとき、隋の侵攻に備えて多利思北孤が施行した制度だったかも知れない。)

さて、『日本書紀』では「成務記」の「国―県」制施行記事の「縣主」を
「諸國に令して、國郡(くにこほり)に造長(みやつこをさ)を立て、縣邑(あがたむら)に稻置を置(た)つ。」
と「稻置」に置き換えている。仮にこれが事実を伝えるものと仮定しても、「軍尼」を「クニ」と訓み伊尼翼を「イナキ」と訓むこと自体が不当である上に、上に述べてきたように軍尼に相当するのが稻置であり、軍尼・伊尼翼を国造・稻置に比定するのも間違いである。
《続・「真説古代史」拾遺篇》(136)



「倭人伝」中の倭語の読み方(79)
番外編:「軍尼」記事をめぐって(2)


 一方、同時代の倭国の行政制度はどのようだったのだろうか。『「郡評」論争』で、倭国には「国―評」制があったことを知った。また、『「大化改新」の真相(15)』では「国―県」制があったことを知った。この二つの行政制度が施行されていたのはいつだろうか。

 古田氏は「これは一つの試論にすぎず、あまりにも多くの仮定をふくんでいるものであるけれども」と留保付きながら、A型(県)風土記の成立を583年と推定している(『法隆寺の中の九州王朝』)。これが正しいとすると、6世紀末頃の倭国の行政制度は「国―県」制だった。一方、「国―評」制は7世紀末まで続いていた。ではいつ「国―県」制から「国―評」制へと移行したのだろうか。この問題は『「天武紀」の伊勢王(1)』『「天武紀」の伊勢王(2)』で取り上げている。649年~650年であった。つまり、多利思北弧の遣使時(第1回600年・第2回607年)の倭国の行政制度は「国―県」制であった。

 では、「国―県」制の施行は何時だったか。これには「分らない」と答えるほかないようだが、『古事記』にそれらしい記事があるので検討してみよう。

 『古事記』に現れる「縣」を全部拾い出してみよう。

 神代では全部分注に〈…縣主の祖なり〉と頻出する。本文に出てくる「縣」としては「天孫降臨」段に「佐那那縣」がある。これと似たものに「応神記」と「仁徳記」に「諸縣」がある。『和名抄』に日向国諸県(もろかた)郡とあるように、「佐那那縣」の「縣」も行政区分の「縣」ではなく地名の一部として使われている。行政区分として使われている「縣」が現れるのは「綏靖記」以降である。

①〔綏靖〕
 師木縣主の祖、河俣毘賣を娶りて…
②〔安寧〕
 河俣毘賣の兄、縣主波延の女…を娶りて…
③〔懿徳〕
 師木縣主の祖、賦登麻和訶比賣命…を娶りて…
④〔孝靈〕
 十市縣主の祖、大目の女…を娶りて…
⑤〔開化〕
 旦波の大縣主、名は由碁理の女…を娶りて…。

 ②の縣主について〈大系〉は「師木(磯城)の県主で、師木を略したのである。」と注記している。①の河俣毘賣の兄なので①と同じと考えての注だろう。そうならば①③が「師木縣主の祖」なのだから、②も「師木縣主の祖」でなければおかしい。そうすると④までが「…の祖」であるのに、⑤でいきなり県主本人となるのも解せない。ここも「旦波の大縣主の祖」と解すべきだろう。本格的な業績記事が始まる「崇神記」「垂仁記」に県主が全く現れないのもこの判断の根拠の一つである。

 次ぎに県主が現れるのか「景行記」である。

〔景行〕
 其れより餘(ほか)の七十七王は、悉に國國の國造、亦(また)和氣、及(また)稻置、縣主に別け賜ひき。

 景行には80人の王子がいて、そのうちの3人が太子となり、残る77人の処遇が上記の記事である。まことにウソっぽい記事である。〈大系〉の頭注は「すべてカバネ(姓)である」と記している。「天武紀」13年10月条に「八色の姓」記事があるが、その8番目の姓が稲置である。〈大系〉の注でいいのではないか。いずれにしても記事そのものが粉飾記事であり、ここの県主も「国―県」制の官名ではない。

 次の県主の出現は「成務記」である。「国―県」制の施行記事である。これは全文を掲載しよう。

故、建内宿禰を大臣(おほおみ)と爲(し)て、大國・小國の國造を定め賜ひ、亦國國の堺(さかひ)、及(また)大縣・小縣の縣主を定め賜ひき。

 「成務記」は、前の崇神・垂仁・景行や後の仲哀・応神の華々しい記事に対して、即位・姻戚記事と崩御記事のほかは上の記事があるだけである。必ずしも九州王朝の業績の盗用ではなく、九州王朝の分流として「国―県」制施行命令にしたがって近畿地方の行政整備をしたとも考えられる。もしこの考えが正しいとすると、「国―県」制は成務期頃に施行さてたことになる

 この後の県関係記事は次の2件だけである。

〔仲哀〕
 亦其の御裳に纒きたまいし石は、筑紫國の伊斗村也。亦筑紫の末羅縣の玉嶋里に到り坐して…
〔雄略〕
 天皇其の家を問はしめて云(の)りたまひしく、「其の堅魚を上げて舍を作れるは誰が家ぞ。」とのりたまえば、答へて白ししく、「志幾の大縣主の家ぞ。」とまをしき。

 「伊斗村」も「伊斗縣」と書くべきところだろう。『日本書紀』は「伊都県」と記している。筑紫風土記逸文では「逸覩県」となっている。また、「志幾の大縣主」について〈大系〉は「河内国志紀郡。大県主はカバネ(姓)。」と注記している。「国―県」制などまったく念頭にないコメントだ。「仲哀記」の筑紫関係記事は盗用の可能性大であるから、『古事記』では「国―県」制が確実に施行されていた証拠となる記事は「雄略記」のものだけである。

 ついでにA型風土記に現れる逸覩県以外の「縣」を拾い出しておく(訓みと後の郡制時代の表記を付した)。

塢舸(おか 遠賀)県・杵島(きしま)県・閼宗(あそ 阿蘇)県・球磨(くま)県・上妻(かむつま かみつやめ)県・上膳(かみつけ 上毛かみつみけ)県・松浦(まつら)県

 これも言うまでもないことかも知れないが、領域の区画には変動があったとしても、後の「国―郡」制の「郡」は「国―県」制・「国―評」制の「県・評」を踏襲していたことが分る。

 さて、「成務記」の記事が「国―県」制の施行記事だとして、その時期は何時だったのだろうか。「崇神記をめぐって(10)」で、古事記古写本に註記されていた崩年干支を用いた水野氏による崩年の絶対年比定を取り上げた。それによると成務の崩年は355年であった。もしもこれが正しいとすると、「国―県」制の施行は4世紀中頃ということになる。あの七支刀が近肖古王から倭王旨に贈られたのは367年だから、倭王旨の時代ということになろう。(「真説・古代史(51)~(53):七支刀」「七支刀補論」を参照してください。)

 以上、仮説の積み重ねのようなあやふやな代物だが、一つの試論として書き留めておく。