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《続・「真説古代史」拾遺篇》(135)



「倭人伝」中の倭語の読み方(78)
番外編:「軍尼」記事をめぐって(1)


 まずは倭国と隋の行政制度を確認しておこう。

 中国の行政制度の変遷についてはほとんど何も知らないので、この際そこから調べることにした。この問題については古田氏が『よみがえる九州王朝』の「第三章 九州王朝にも風土記があった」で論じている。それを下敷きにして中国の地方行政制度史を素描してみる。なお、ネットで「いつか書きたい『三国志』」さんに出会った。ここで巌耕望という台湾の学者さんの著作『中国地方行政制度史』の抄訳を行っていた。ここからも資料を拝借する(ここからの情報には〈*〉印を付した)

①周の封建制
 周王朝のもとに斉・趙・魯・燕・楚などの「国」が並立していた。
②秦の「郡―県」制
 「国」は「郡」に代り、中央からの派遣官僚が統治した。そしてその下部単位として「県」が置かれた。
③漢の「郡・国―県」制
 「国」(漢の高祖の一族や功臣が「王」)「郡」(中央からの派遣官僚が統治)とを置き、それぞれの下に「県」があった。

 以後、「郡(国)―県」制は漢→魏→西晋→東晋→(南朝)と引き継がれていった。参考に「総合世界史図表(第一学習社)」から秦漢時代の行政組織表を転載しておこう。

秦漢時代の政治組織

 さて、目下問題としている隋時代については郡(国)の上級区画である「州」との関係がよく分らないので、『よみがえる九州王朝』から『隋書』(地理志上)を孫引きして、考えることにする。

 天監(てんかん)十年(511、梁武帝)、州二十三・郡三百五十・県千二十二有り。(中略)
高祖、終を受け、朝政を惟新(いしん)す。開皇(かいこう)三年(583)、遂(つい)に諸郡を廃す。…州県を柝置(たくち)す。煬帝(ようだい)、位を嗣ぐ。…既にして諸州を併省し、尋(つ)いで州を改めて郡と為す。……大凡(おおよそ)郡一百九十、県一千二百五十五


 梁の領土は隋の一部になり、隋の領土は梁の領土より遙かに大きいのに郡数は梁の方が約2倍もある。これはどうしたことだろう。『北史』によると、司馬炎が呉を滅ぼしたとき、4州―43郡(―52万戸、230万口)で、隋文帝が呉と陳を滅ぼしたときは、40州―100郡―400県(50万戸、200万口)だったという〈*〉。人口はほとんど同じなのに州数が10倍にもなっている。南朝の政治基盤の脆弱性のあらわれだろうか。

 ともあれ、梁時代には「州―郡―県」の三級制の行政制度になっている。前漢は二級制だったが、後漢では三級制だった〈*〉。その後、南北朝までは三級制を踏襲したと考えてよいだろう。「柝置」の意味が判然としないが、高祖(文帝)による改革は二級制にして郡を州と呼ぶようにしたと考えてよいだろう。次の煬帝は州を再編して上級区画の名を「郡」に改めた。すなわち、隋では文帝時代(581~604)には「州―県」制、煬帝時代は(604~618)は「郡―県」制という二級制であった。確認のため、『岩波講座世界史 古代5』で隋・唐時代の官制関係記事を拾い読みにしてみた。隋・唐時代の地方制度について次のような解説があった。(布目潮渢論文「隋唐帝国の成立」より)

 『隋書』巻二八、百官志下に、583(開皇3)年4月のこととして、「郡を罷(や)め、州を以て県を統ぶ。」とあり、これまで地方統治は州・郡・県の三級制であったのを州・県の二級制とする大改革を行ない、これ以後は郡と言っても、州と同じになり、これまでの「十羊九牧」(『隋書』巻四六、楊尚希伝)的な、民少なく、官の多い弊害を除いた。

 次の唐はまた郡を州と改名している。そして郡の上に上級区画「道」を設置した。つまり「道―州―県」という三級制であった。道数は初めは10だったが玄宗時代には15に改編されたという。また、州数は約350、県数は約1550だったという〈*〉

 さて、「軍尼」記事中の中国の官名「牧宰」とはなんだろう。これはネットでは分らなかった。岩波講座でも使われていなかった。『諸橋大辞典』で調べてみた。

【牧宰】ボクサイ
 國主の唐名〔職原抄〕諸國、唐名、守、刺史・使者・宰吏・牧宰・国宰・太・太守。



 牧宰は唐の官名と書かれている。牧宰のほかに類似の官名として牧司・牧守・牧伯などがあるが、牧宰以外はすべて古くからある官名である。隋書は隋が残した資料を用いて唐の吏官が編纂したがものだが、唐の読者に分りやすいようにと、ここでは唐の官名を用いたということだろうか。と思ったが、念のためサイト「中國哲學書電子化計劃」の検索機能を用いて調べてみた。漢以前の文献ではヒットしなかった。漢後の文献では7件ヒットした。全部『太平御覧』の文であった。「《唐書》曰」で始まる文が2件あった。唐で使われていた官名であることが確認できた。しかし、その中に「職官部五十五:文良刺史中」からの文があって「《隋書》曰」で始まっていた。隋でも使われていたのだ。次のような文である。

「又曰:楊達,字士達,為鄯、鄭、趙三州刺史,俱有能名。平陳之後,四海大同,上差品天下牧宰,達為第一,賜雜采五百段,加以金帛。」

 恥ずかしながら、私にはこの白文をキチンと訓むことができない。刺史と同じかそれに類似した(もしかしたらより上級の)官名だったようだ。

 上に引用した岩波講座からの引用文は次のように続く。

 さらに州の僚属中の品官の任命権まで中央に回収し、任命にあたって出身地を回避する制を確立し、州の刺史より兵権を中央に取りあげ、官権の地方浸透をはかった、という浜口重国氏の見解は重要である。

 また浜口氏は、『隋書』巻二八、百官志下にみえる595(開皇15)年の「州県の郷官を罷む」とある郷官について研究された。南北朝において刺史はおおむね将軍号を帯び軍府をもった結果、刺史の下僚に軍府の官と州刺史の官と二系統が生じ、郷官とは郷党閭里史職ではなく、州系統の官を指すことを考証し、その郷官を廃止した結果、刺史の下僚は長史・司馬以下の府官のみとなった。(以下略)

 『「一大率」とは何か(3)』で検討したように、魏時代の刺史は行政官であった。上の引用文によると、その後刺史は兵権をも掌握するようになったようだ。それが隋になって再び単なる行政官に戻ったことになる。

 なお、「軍尼」記事に中国の官名として里長があるが、手許の辞典では
 古代の行政区画
  (イ)周代は25家
  (ロ)唐代は100家
となっている。上の組織図を見ると「里 約100戸」となっている。(ロ)は秦漢時代からの継承事項のようだ。
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《続・「真説古代史」拾遺篇》(134)



「倭人伝」中の倭語の読み方(77)
官職名(9):伊都国(1)


大官「爾支」

 この伊都国の大官の訓みと意味については二通りの説にまとめられるようだ。

 一つは内藤湖南氏を代表とする説で、「ニキ」と訓んでいる。水野氏は内藤説を次ぎのように紹介している。
『隋書の「伊尼冀(いにき)」が日本の「稲置(いなき)」の音を写したものであるように、これは「ニキ」と訓むべきで稲置の転訛であろうと解した(内藤湖南「卑彌呼考」―『讀史叢録』所収)』。

 もう一つは山田孝雄氏を代表とする説である。
『「ニシ」と訓み、「ヌシ」の音訳とされ、伊都県主をさすとされる(山田孝雄「狗奴国考」、『考古学雑誌』第十二巻)。』

 水野氏は山田説を支持して次のように述べている。

 「支」の音は「シ」であるから、「ニシ」-「ヌシ」の訛とする方がよく、「ヒコ」に対する「ヌシ」と解すべきで、その点私は山田博士に賛成する。しかし、後述のごとく私はだからといって、ただちにこれを伊都県主と結合することは賛成できない。「ヒコ」「ヌシ」は、ともに当時の一般的な尊称をもって、始原的な官制の職名に転用されたものと考えたい。始原的な姓の発生を考えるうえで重要であると思う。

 上で「後述のごとく」と言っているのは次の文である。

 伊都国の「爾支」は「ニシ」と訓むならば、日本語の主(ヌシ)である。この「ヌシ」も、大国主や事代主のように主たる存在を意味し、竜神系(出雲系国津神)の神に対する尊称であり、県主というように、やはり地方豪族の長者を意味する。

 まず、訓みから検討してみよう。「倭人伝」中の倭語の読み方のルールを確認しておく。
ルール・その一
 漢字の音は「南朝音(呉音)」である。
ルール・その二
 倭語は倭人による表記である。
ルール・その三
 倭人は音訓を併用していた。

 「爾」は呉音・漢音の別なく「ジ」「ニ」の2音である。手許の漢和辞典では「ニ」と訓む熟語は皆無である。しかし、万葉仮名では「爾」は「ニ」である。3世紀でも「爾」は「ニ」という音として使われていたと考えてよいだろう。(「万葉仮名一覧」さんを重宝しています。)

 「支」の音は『倭語の読み方(5)「令支命題」』で「キ」と訓むのが正しいことを論じたが、改めて「万葉仮名」さんで確認してみた。万葉仮名柄は「支」は「キ」であり、「シ」ではない。

 ルールに従う限り「爾支」の訓みは「ニキ」である。しかし、上の2説では「ニキ」と訓んでいる内藤説は論理的にまったく問題にならないように思われる。もしかすると水野氏の紹介文が不正確なのかもしれない。内藤氏の文を直接読めないかと思い、ふと思い付いて「青空文庫」を調べてみた。驚きました。「卑彌呼考」がありました。「爾支」のくだりは次のような文だった。

「隋書、北史に擧げたる我國の官名に、伊尼翼あり。黒川氏は翼を冀の訛りなりとして、之をイネキと訓み、即ち稻置なりといへり。此の爾支即ちニキも同語の轉訛と見るべし。」

 たったこれだけで、しかも水野氏の紹介文以上に論理的に破綻している。水野氏はむしろ好意的に意味を忖度して紹介している。

 だいたい、黒川という方を全く知らないが、「翼を冀の訛り」って、どういう意味? たぶん、「誤り」つまりは誤記という意なのだろう。かりにそうだとしても「伊冀」は「イキ」とは訓めないだろう。「稲置」は一般は「イナキ」と訓まれいるが「イネキ」でもよいとしよう。しかし、だからといって、7世紀の文献を根拠に、3世紀の「ニキ」も「イネキ」の転訛だというのも無茶な論理だ。

  ちょっと横道に入ることになるが、この際、「伊尼翼=稲置」という定説の検討をしてみようと思い立った。問題になっている「隋書俀国伝」の記事を読んでみよう。次ぎの通りである(岩波文庫版の読下し文)。

軍尼が一百二十人あり、なお中国の牧宰のごとし。八十戸に一伊尼翼を置き、今の里長の如きなり。十伊尼翼は一軍尼に属す。

 この文章を「軍尼」記事と呼ぶことにする。

 岩波文庫版は「軍尼」を「クニ」と訓み
(1)
「軍尼は国で、国造のことであろう。」 と注記している。また、「伊尼翼」については
(2)
「イナギ(稻置)か。伊尼翼は伊尼の誤りであろう。」
と注記している。

 (2)は、「多利思孤」を「多利思孤」の誤記だという定説と同様、さきに「稻置」という結論があってそれに合わせるように原文改訂をしているのであろう。(1)にも疑問がある。「軍」には「クン」という音があるが、「軍尼」は本当に「クニ」でいいのだろうか。これらの疑問を解くためには「軍尼」記事を正しく読解しなければならないのだが、カギは「牧宰」である。

 「牧宰」について詳しく知りたいと思いネット検索をしたら「倭国の行政制度の変遷」という記事に出会った。明らかに多元史観に立脚した凄くしっかりした論文だ。このブログの作成者に興味が湧いて「ホーム」を訪ねてみた。なんと、作成者はJames William Mccallister,Jr.という札幌在住のアメリカ人だった。そして、「はじめに」を読んだら、次のような一節があった。

『ここにまとめられたものの多くは「古田武彦」氏などに代表される「九州王朝説」に則っていますが、基本的には「私」の好奇心と理性の産物であり、所々で述べられている推論や結論らしきものが有する「責任」は「私」にあります。』

 古田史学を支持している。

 驚きはまだ続く。「論文」の項を覗いてみたら、
『「古田史学会報」などに投稿した論文を載せます。』
と書いている。古田史学会の方なのか!

 論文の表題を頼りに「新・古代学の扉」を検索したら、『「国県制」と「六十六国分国」』という論文が「No.108(2012年2月10日)」号の巻頭を飾っていた。しかし、筆者名は阿部周一。こちらが本名だろうか。あるいはペンネームか。ともあれ「倭国の行政制度の変遷」は上の論文の一節だった。『「国県制」と「六十六国分国」』を教科書として使わせていただこう。
《続・「真説古代史」拾遺篇》(133)



「倭人伝」中の倭語の読み方(76)
官職名(8):対海国・一大国


 テーマ「官職名」に戻ろう。

 対海(対馬)国と一大(壱岐)国の官職名は全く同じであり、大官が「卑狗」、副官が「卑奴母離」である。対馬と壱岐は天国(アマクニ)の二大拠点地である。その二国が同じ官職名を用いている。たぶん、北九州への侵略(天降り)以前から使われていた官職名だったのではないだろうか。

大官「卑狗」

 この官職名の訓みを「ヒコ」以外に訓む説はないようだ。また、これを『古事記』『日本書紀』に現れる「日子」「毘古」「比古」「彦」などと同一視する点でも異論はない。しかし、その語義についての解釈には、基本的な大きな違いはないが、いろいろな説があるようだ。ここでは水野氏と古田氏の説を取り上げてみよう。

 水野氏は「狗奴国」の官職名「狗古智卑狗」にも「卑狗」が使われていることを取り上げて、もともと尊称だったものが官名のように扱われたとしている。次のようである。

 「卑狗」は「狗古智卑狗」を含めて三国の大官が「卑狗」である。

 「卑狗」は日本語の「ヒコ」であることは疑いのない所であるとすれば、その原義は「霊子」で、「火子」であっても、「日子」であっても、ともに男の巫的性格を有し、神聖性を帯して崇められる人の称号であった。

 したがって狗奴国の場合のように菊地地方の尊者という意味で、日本的に記せば菊池日子(彦)ということである。そうすれば、対馬の卑狗は、対馬日子(彦)であり、一大国の卑狗は一大日子(彦)=壱岐彦であって、その尊称だけが、官名のごとく解されて、大官を卑狗としたものと考えてよい。

 「霊子」というどの辞書にもなさそうな熟語を用いているが、氏の造語だろうか。ともあれ、氏は巫覡(ふげき)の称号としている。「狗古智卑狗」の訓みから狗奴国を菊地地方に比定する謬説については後に詳しく取り上げる予定である。

 これに対して、古田氏の解釈は次のようである。

 この「卑狗」は〝太陽の男″の意。

 志賀島の志賀海神社の祭儀で「山彦(ヤマビコ)」が登場する。登山のとき、人間の声が山間に「反映」して〝野太い声″として〝こだま″するのを経験する。これは「男性の声」のようだ。だから「山彦」は〝男性の神の声″なのである。当然、縄文以前の「山嶽言語」である。

 だからこの「大官」名も、「男性の称号」なのである。現代でも「彦」は「男子の名前」であるから、「縄文から現代へ」と継続している日本語、その基本語の一つなのである。

 必ずしも巫覡という特定はしていない。私も「日子」という表記から「太陽の男」という解釈を考えていた。女性の場合は「日女(または日売)」である。「太陽にめでられた人」→「才徳のある人」という意味である。

副官「卑奴母離」

 「奴国」「不弥国」の副官名も「卑奴母離」である。「井の中」では「ヒナモリ」という訓みが定説になっている。そして、それを「景行紀」(18年3月条)に出てくる地名・夷守(ひなもり)に関連づけて、辺境の地を防備する人、すなわち、後の防人のような存在だという説が流布されている。この説を採った、「一大率」と関連づける論者がいることは『「一大率」とは何か(1)』で紹介した。それは井上光貞氏であり、「一大率」は卑奴母離を通じて対馬・壱岐・奴・不弥国を統括していた、と説く。

 もう何度も指摘してきたことだが、「奴」には「ナ」という音はない。「奴」を「ナ」と訓んで疑わない「井の中」の「右にならえ」の一番右は志賀島から出土した金印「漢委奴国王」を「カンノイノノコクオウ」と訓んだところにある。また、対海国・一大国・奴国・不弥国は辺境ではない。これらの国を辺境扱いする論者はヤマト王権一元主義という虚偽意識(イデオロギー)にどっぷりと浸かっているのだ。

 しかし、「井に中」にも「ヒナモリ」説を否定する人がいた。水野氏である。上の井上説を念頭に置いて次のように述べている。

 第三世紀の女王国が、これらの地に兵員を配備して防備しなければならないような必要性があったとは思えないので、女王がこれら辺境の地に兵員を配置し、防備にあたらせ、その兵員を統率する役人として夷守を任じて、これら四ヵ国に派遣したということも考えがたい。

 私は「ヒナモリ」は「ヒノモリ」であって、火を守る役目をもつ人につけられた名称であろうと思う。火を消さずに守ること、あるいは火急の場合、非常を告げるために火をたいて合図し、連絡をすることを任務として、要地に常置し、常住して火を守ることを主宰する人を呼んだのである。とくに交通上の要地において定置されていた。後の烽(とぶひ)の原初形態であると思う。

 そこで火守の置かれた地点を考えると、対馬・一大(壱岐)・奴(博多)・不弥(津屋崎)は皆、海上交通の寄港地であり、大陸航路の要港の地であって、彼我の交易船が常に往遷する所であるから、それらの地ではいつも火をたいて灯明とし、海上航行船の目標としなければならなかったのである。それは今日の灯台の原初形態であった。

 古代航海者の国、通商航海王国においては、最も重要な役割をもつものであったから、火守の権威は大きかった。その火守の職権を行使する、火守の長は有力者であったので、これら通商航海の要地には国王と行政を司る大官とともに、副官として重要な職能を果たす火守の長が任ぜられたとしてもよかろう。私は「卑奴母離」を「火守」の義とし、航海の要地(あるいは陸上交通の要地)には火をたいて目標を示し、緊急の時には火をもって合図し、伝達することにたずさわった専業の火守が配されていて、その長が重要な地位を占めていたのであると判断する。

 なかなか面白い説ではあるが、「奴(ノ)」を助詞とする解釈は納得しがたい。また、「奴国」「不弥国」の比定が間違っている。特に「奴国」の比定では、水野氏は
「奴国は『後漢書』にいう「倭奴國」の後身である。奴国がわが国の古典にいう「儺縣」、那津官家の地域であり、那珂郡博多、今日の福岡市を中心とする地域にあたることはほぼ異論はない所である」
と述べているので、「奴国」を「ナコク」と訓んで「博多」に比定しているようだ。「奴」の訓みについて一貫性がない。また、「奴国」の正しい比定地は「(伊都国の)東南奴國に至ること百里」だから内陸地である。上の論理(海上交通の寄港地)には当てはまらない。

 古田氏も「奴」を「ナ」と訓むことが不当であること、さらに「ヒナモリ」から対海国や一大国を「夷(ヒナ)」と結び付ける〝イデオロギー解読″を批判した上で、次ぎように述べている。

 正しくは「ヒヌモリ」。〝太陽の原野を守る官職″である。直前の「大官」と〝直結″した称号なのである。〝遠い大和″を意識してはじめて〝つけた″ていの副官名ではない。それなら「大官」の方にこそ〝遠方にして服属すべき″官名が〝つく″はずであろう。「大和中心主義」に立つ、イデオロギー読解である。

 「奴」は国名の中に頻出していた。二つの「奴国」のほかに「弥奴国」「姐奴国」「蘇奴国」「華奴蘇奴国」「鬼奴国」「烏奴国」「狗奴国」である。どれもみな「奴」を「ヌ」と訓み、「野」の意として解釈してきた。ここでも「野」という意とする解釈は筋が通っている。

 大官「ヒコ」は行政全体を統括する首相のような役職である。また、各国には租賦や市の交易を監察する使大倭がいるので、副官の担当はそれ以外の重要事ということのなろう。その重要事とは、当然、もう一つの経済産業基盤である田畑・山林の統括(漁労も含んでいたかもしれない)ということになろう。「ヒヌモリ」=「太陽の原野を守る官職」という解釈は妥当だと思う。
《続・「真説古代史」拾遺篇》(131)



「倭人伝」中の倭語の読み方(74)
番外編:「『翰苑』が描く倭国」(1)


 前回問題にした『翰苑』の文を宮﨑氏は
「邪伊都傍連斯馬」
と書いていた。古田氏の「邪馬壹国の史料批判」では原文は上と同じなのに、読下し文は「屈」ではなく「届」となっている。ネットで出会った「翰苑の解読と分析」では「届」であった。一体どうしたことだろう。この謎を「古代史獺祭(だっさい)」さんが解いてくれた。このHPは古代史史料集としてとても役に立ちそうだ。このHPの『翰苑』ではくだんの原文は
「邪伊都 傍連斯馬」
となっている。「屆」なんて字、初めてお目にかかったが、これが本来の正しい原文のようだ。辞書を調べたら「届」は俗字で「屆」が正字だという。この字を宮﨑氏は「屈」と見誤ったのだ。古田氏の場合はネット資料化した方のミスだったのかもしれない。以下、原文は「古代史獺祭」さんのものを用いることにする。

 まず、『翰苑』の「倭国」記事全文を読んでおこう。原文と古田氏による読下し文は次の通りである。

倭國
憑山負海 鎭馬臺以建都 分軄命官 統女王而列部 卑弥娥惑翻叶群情 臺與幼齒 方諧衆望 文身點面 猶稱太伯之苗 阿輩雞弥 自表天兒之稱 因禮義而標袟 即智信以命官 邪屆伊都 傍連斯馬 中元之際 紫綬之榮 景初之辰 恭文錦之獻

倭國
山に憑(よ)り海を負(お)うて馬臺に鎮(ちん)し、以て都を建つ。軄を分(わか)ち官を命じ女王に統ぜられて部に列せしむ。卑弥は妖惑(ようわく)して翻(かえ)って群情に叶(かな)う。臺與は幼歯にして方(まさ)に衆望に諧(かな)う。文身點面(かつめん)、猶(なお)太伯の苗(びょう)と称す。阿輩雞弥、自(みずから)ら天兒の称を表す。礼義に因(よ)りて標袟(ひょうちつ)し、智信に即して以て官を命ず。邪(ななめ)に伊都に届き、傍(かたわ)ら斯馬に連(つらな)る。中元の際、紫綬の栄を〈受け〉、景初の辰(とき)、文錦の献を恭(うやうや)しくす。

(〈受け〉は古田氏による補足語句。)
(「娥」は『邪馬壹国の史料批判』では原文も「妖」となっている。)

 古田氏は本文冒頭の「邪」を副詞として読んでいる。このような訓み方が可能なのだろうか。念のため手元の『新漢和辞典』を調べたら、確かに「ななめ。ゆがむ。かたよる。」という意も載せている。

 『翰苑』の倭國記事はたったこれだけなのだ。しかし、俾弥呼から阿輩雞弥(多利思北孤)まで倭国の歴史が連続していること、都のある「馬臺」の地理的位置を簡潔にまとめている。つまり『翰苑』は九州王朝(倭国)が7世紀まで続いたことを証言しているだ。ヤマト一元主義や倭国の東遷説などはここでも否定されている。「馬臺」については後ほど取り上げることになるだろう。

 さて、上の張楚金が書いた文には一節ごとに雍公叡が付けた注(出典)があり、『翰苑』は本文と注とによって構成されている。例えば今問題にしている一節は次のようである。

邪屆伊都 傍連斯馬

廣志曰 [イ妾]國東南陸行五百里 到伊都國 又南至邪馬嘉國 百女國以北 其戸数道里 可得略載 次斯馬國 次巴百支國 次伊邪國 安[イ妾]西南海行一日 有伊邪分國 無布帛 以革爲衣 盖伊耶國也


 ちなみに、『翰苑』が書かれたのは660年(顕慶5年)で、雍公叡の注は831(太和5年)以前に成立したとされている。

 上の文を「古代史獺祭」さんは次のように読み下している。ただし、「自己流の勝手な判断でどこまで直してよいものやら、たいへん悩ましいが…」とためらいながら、「管理人の勝手な判断により校正(?)した部分」を明示している。こういう姿勢にはとても好感が持てる。「古代史獺祭」さんの校正部分を赤字で示しておこう。

邪は伊都に屆(とど)き 傍ら斯馬に連なる

廣志に曰く。  國、東南陸行五百里にして伊都國に到る。また南に邪馬國に至る。 女より以北はその戸数道里を略載するを得るべし。 次に斯馬國、次に巴百支國、次に伊邪國。 案ずるに倭の西南海行一日に伊邪分國有り。 布帛無く、革を以って衣と爲す。 盖(けだ)し伊耶國なり。


 「古代史獺祭」さんは本文の「邪」を「邪馬臺国」と考えたようだ。そこで「邪馬嘉国」の「嘉」を「臺」と校正した。「百女国」の「百女」を「女王」と手直ししたのは「百女国」では説明の仕様がないからだろう。しかし、「邪」一字だけで「邪馬臺国」と結び付けるのは乱暴な論理だし、安易な原文改定はすべきではないだろう。次ぎは古田氏の読下し文だが、原文改訂は行っていない。「倭人伝」解読のときと同様、全文脈の中での手堅い解読を行っている。

。邪(ななめ)に伊都に届き、傍(かたわ)ら斯馬に連(つらな)る。

広志に曰く「[イ妾](=倭)国。東南陸行、五百里にして伊都国に到る。又南、邪馬嘉国に至る。百女国以北、其の戸数道里は、略載するを得可(うべ)し。次に斯馬国、次に巴百支国、次に伊邪国。安(=案)ずるに、[イ妾]の西南海行一日にして伊邪分国有り。布帛(ふはく)無し。草(革か)を以て衣と為す。盖(けだ)し伊耶国也


 それでは「邪屆伊都 傍連斯馬」に対する古田氏の読解を読んでみよう。

 まず「邪」の字。この字は副詞に読むときは「ナナメ」です。

 「伊都に届き傍ら斯馬に連る。」の「連なる」とか「届く」といった用法は『翰苑』の非常に好きな表現方法で、この用法はたくさん出てきます。

 それから見ると、「届く」という場合は、接している場合の一つです。“すぐそば”というよりも“少しはなれたあたり”で接している形ですが、とにかく“接して”いて、“中に別の国が入っていない”場合に「届く」という言葉を使います。

 つぎに「連なる」という場合は、その接している国のもう一つ向こうにある国がはじめの国から見て「連なる」となるわけです。

 つまりいいかえますと、「A→B→C」と並んでいまして、Aから見てBは「届く」、Cは「連なる」なのですね。そういう表現法が守られています。そうしますとこの文は“伊都とは接している。そしてその向こうに斯馬がある”という意味です。

 「邪」を「ななめ」と訓むことにはいささか違和を感じるが、「邪屆伊都 傍連斯馬」が対句であることを考えると、納得がいく。

邪 屆 伊都
↓ ↓ ↓
傍 連 斯馬

 では、Aはどこなのだろうか。
《続・「真説古代史」拾遺篇》(130)



「倭人伝」中の倭語の読み方(73)
官職名(7):「一大率」とは何か(5)


 前回では省略した宮﨑氏の文章中に私には読解できない文章があった。その文章の意味を理解しようと試みていて、「斯馬国」についての新しい発見があった。それを記録して置くことにした。「一大率」問題から見ると番外編ということになる。

 宮﨑氏は「一大率」の治所を「今山」に比定した。その傍証として、次のような文章を書いている。

 またこの今山は文献的な問題にも興味をそそられる。唐の張楚金の翰苑に「邪屈、伊都傍、連斯馬」と倭国について記されていることに関してである(最近太宰府天滿宮所蔵の国宝となっている同書がそのまま原本通り復刊されている。すばらしい出来で一見の価値があると思う)。邪屈を誤記と学者の間は解されてきたが、同書にはあとの文章に邪馬嘉国とも出てくるので、屈が馬の誤りならば後の耶馬嘉も那屈嘉と書いてあってもよさそうなものであるが、ここではその論議が目的ではないから、鵜呑みにしておこう。

 文章の意味は、邪屈が伊都の傍らにあって、斯馬に連なっている、というのだから、この邪屈は、今山の意味として受け取れないだろうか。斯馬に連なるといった表現は、実に同地の情景にぴったりで、そしてこの邪屈が今山だとすれば、文章の意味もすっきりと合理的に理解できるのである。

 『翰苑』からの引用文を邪屈・伊都・斯馬という三地域の位置関係を示す文と解釈して、さらに「邪屈」を主語として「邪屈は伊都の傍らにあって、斯馬に連なっている」と訳し、「邪屈」とは今山のことだと言っている。氏は「伊都国」を周船寺近辺としているので、確かに今山は伊都の傍らにある。では今山は「斯馬」に連なっているだろうか。このことは宮﨑氏による「斯馬国」の比定地が分らないと判断できない。私は、「21国」の比定地検討のとき、「井の中」の諸説については水野氏による紹介文を用いていた。『「21国」の比定:(9)斯馬国』を読み直してみた。水野氏は宮﨑氏を高く買っているようだが、どういう訳か「斯馬国」には宮﨑説がなかった。そこで再度図書館に出かけて『まぼろしの邪馬台国』を調べてきた。「斯馬国」の比定地は次のようになっていた。

「肥前国杵島郡(きしまのこほり)、藤津(ふじつ)郡。現、佐賀県杵島、藤津の両郡に杵島山を中心としてひろがっていた国(ただし干拓地を除く)。」

 今山が「斯馬国=杵島山」に連なっているなんで判断がどうして出てくるのだろうか。全く理解ができない。ここでもう一度上の文を読み直してみたら
「斯馬に連なるといった表現は、実に同地の情景にぴったり」
と言っているではないか。「連なる」を「(情景が)似ている」と言う意に解しているようだ。「連なる」にそんな意があるとは思えないが、今はそれを置くことにして、「斯馬国」比定の本文を読んで納得した。氏は
「現在の杵島山は、邪馬台国時代にはまったくの島であった。」
と言っている。今山は宮﨑氏が典拠にしている「弥生期の博多湾」地図では完全に島だ(『「21国」の比定:前回の訂正などなど』を参照してください)。氏にとっては「情景がぴったり」なのだった。

 これで氏が言わんとしたことは分かったが、仮に氏による「斯馬国」の比定地が正しいとしても、この引用文だけで「邪屈=今山」という推断は不当だ。「邪屈」などという地名はここにしか出てこないばかりか、「邪屈」と「今山」には音韻的にも意味的に全く共通点がない。宮﨑氏の文によると「屈」を「馬」の誤記とする論者もいるようだが、この場合、『翰苑』の文は「邪馬は伊都の傍らにあって斯馬に連なっている」となるが、この文に該当する比定を行っている論者は一人もいない。『翰苑』からの引用文がこのような理解不能な文になってしまうのは、どうやらこの文を誤読していることが原因だと思われる。そこでこれを機会に『翰苑』を学習することにした。

 手元にも図書館にも『翰苑』はないのでネット検索をししてみた。原文を掲載しているサイトのほかに塚田敬章という方の「翰苑の解読と分析」という論文があった。『翰苑』全文の解読を試みているが、残念なことに納得しがたいことが多い。また、古田氏の『邪馬壹国の論理』所収の「『翰苑』と東アジア」もヒットした。しかし、そこでは『翰苑』の新羅の項が取り上げられているだけなので、私の目下の目的にはそぐわない。そこでもしやと思い、「新・古代学の扉」を検索してみた。なんと、古田氏が『「謎の四世紀」の史料批判』と『邪馬壹国の史料批判』で『翰苑』を詳論しているではないか。これを教科書にしよう。かなり長くなりそうなので、稿を改めることにする。
《続・「真説古代史」拾遺篇》(129)



「倭人伝」中の倭語の読み方(72)
官職名(6):「一大率」とは何か(4)



一大率…常に伊都國に治す。

 一大率が常駐していた治所はどこか。この比定には「一大率」の解釈、邪馬壹国の比定地、3世紀以前の倭国史が深く関わる議論になるだろう。その意味では「井の中」の諸説には多くは期待できないが、代表者として水野説と宮﨑説を取り上げてみよう。

 水野氏は
「一大率は特設の官であり、常に伊都国の渡津近くに治所を設定し、そこに常駐していた。」
としているが、
「私は伊都国の渡津としたが、それが具体的にどこかについての詳細は不明である。」
と特定はしていない。こういう判断も一つの見識だと思う。ではなぜ「伊都国の渡津」と考えたのだろうか。使は「一大率=刺史の如き有り=文官」という誤読の立場なので、次のように判断することになる。
「一大率は郡使が来た時、その文書や賜物を郡使より受け取り点検をしたとすると、その場所は一大率の治所か、とくに郡使歓待のために、その近くに設立された迎賓館であろう。」

 そして、次のように「一大率」の治所のおおよその推定をしている。

「第三世紀の頃の伊都国は後の糸島郡の地域であったとすると、そこは本土と相対して糸島半島が前面にわだかまり、いまは完全に沖積地によって陸とつながって東に博多湾、西に唐津湾を控えてリアス式の海岸を呈するが、弥生時代には糸島半島は陸地より離れたいくつかの大小の島嶼で、本土との間には、地質学者の名づける糸島水道が東西に走り、唐津湾と博多湾とは、この細長い水道によって結ばれていたのである。そうすると、従来想定されている深江の附近よりももっと東に入った糸島水道の中央部にあったと思われる。そこには有名な支石墓群の志登遺蹟もある志登から女原附近の海岸に面した所に私は推定したい。

 奴国のある博多湾、未廬の唐津湾に通ずる中間地帯で、前面は糸島半島の島嶼により、玄海の荒波の自然の防波堤を控え、直接玄海灘に通ずるいく通りもの狭長な水路も開かれていた。まことに天然の良港であった。宮崎氏が伊都の古地を周船寺附近と推定したのは、ゆえなしとしない。あえていうならば、私もその附近としたいのである。

 3世紀ころは「糸島半島は陸地より離れたいくつかの大小の島嶼」だったという説が誤りであることは『「21国」の比定:前回の訂正などなど』で確認している。宮﨑氏同様、水野氏も古い資料によって論述している。しかし、「伊都国」は「周船寺附近」という推定には影響はない。のちに必要となるので、古冢時代の糸島半島の地図を再掲載する。


弥生時代の志摩半島

 「伊都国」を「周船寺附近」と推定した宮﨑氏は「一大率」の治所を何処に求めているだろうか。氏は「一大率」は軍隊であるという立場である。そして、その治所を次のように比定している。

 伊都国に駐在した邪馬台国の軍隊は、船着き場のあたりで庶民といっしょに雑居していただろうか。倭人伝の風俗に関する文章から考えると、相当に組織された軍隊であり、きびしい上下の階級が整っている。ましてや占領と鎮圧を兼ねた軍隊であるから、砦が必要だったはずである。

 砦は恰土城を小規模にしたようなものだったろうか。まだ当時は、そこまで築城の技術はすすんでいなかっただろう。そのことは、高塚古墳の築土の歴史が示すように、土木的な技術は、まず古墳と住宅に始まり、それから築城となる。当時はまだ、自然の地形を利用した要害だったと思う。それならば、高祖山の中腹の一部ではないかということにもなるが、ここは視界が二分の一はさえぎられ頂上近くに視界を求めて登れば、怡土城のように大規模になりすぎる。だから山を降りて恰好の砦らしい所を捜したのだ。今山が石器製造の場所だったというのも、石器も作ったろうが、古代城砦の跡だから石器類も残っているのだと考えられる。

 ここからは周船寺付近の集落や瑞梅寺川の河口も居ながらにして監視できるし、山の日当たりのいい東南面の台地はこれらの対岸と向き合っているのである。周船寺付近との距離もほどよく、前に述べたヤマ(邪馬)と語源がつながるこの山城に等しい今山こそ城でなくて何であろう(機会があれば読者もぜひ登ってみてもらいたい。私の考えか単なる地図の上の想定でなく、原文に則して実地に踏査した結果、誰しもたどりつく結論であることに基気付かれるであろう)。
 「今山」という地名は「今山遺跡」として残っている。古冢時代の石斧製作工房だったとされている。上の地図で今宿のすぐ北にある丘陵地が「今山遺跡」である。下の写真は「伊都国の文化財」 さんから写真を拝借した。

今山遺跡

 今津湾の北岸辺りから撮った写真のようだ。奥の方に見える山が高祖山だろうか。

 上の地図によると、今山と周船寺のある平野とを結ぶ陸上の交通路は砂丘になっている。実際に現地を知らない者の推測に過ぎないが、今山は監視所としては恰好の場所のようだが、いざという時に平野部に駆けつけるのにはいささか不都合ではなかろうか。もちろん船を用いて海路選ぶことも考えられる。しかし地図で見る限り、志登や周船寺の方には良港があり得そうだが、今山にはそれも望めそうもない。

 宮﨑氏はこの後も伊都国が戦略的にいかに重要な地であったかを縷々述べている。その記述は「21国」や女王国統属外の国々の比定地が関わる記述であり、その比定地は私とはまったく異なるので割愛しよう。

 次は古田説を見てみよう。氏は「一大率」の治所を周船寺に比定している。しかし「可能性はまことに大なのではあるまいか」と言い、早急な断定は控えている。私としては納得のできる論述なので、そのまま引用しておこう。次のようである。

 この「一大率」と「一大国」問題に関する、一つの「新しい課題」を記しておこう。

 その一は、「周船寺」問題だ。糸島郡にこの地名のあることは、よく知られている。かつては「主船司」と書かれたという。発音はいずれも「すせんじ」である。

 この「寺」は、役所を意味する言葉である。
寺、官なり。 <『広雅』釈室>
 寺門に至る。
  (注)師古曰く、諸官曹之所、通呼して寺と為す。 <『漢書』何並伝>

 したがってこの地は〝舟をつかさどる役所″のあったところ、と思われる。

 さて一方の「一大率」。これが「一大国の軍団のリーダー」の意を蔵していたことはすでにのべた。この「軍団」という(わたしの)表現は、“陸軍”のイメージでうけとられやすい。しかし、「一大国」が“海人族”の拠点であり、彼等の本領が〝金属器の武器をもつ、海上武装船団″であった点からすれば、彼等の本質は、むしろ〝海軍″であろう。

 もっとも、当時「海軍」と「陸軍」の分業・専門化があったとは思えないから、この〝海上武装船団″は、敵地に上陸するや直ちに、激烈な陸上戦闘をも行ったであろう。

 要するに「一大率」とは、“壱岐の海上武装船団の長”の呼称だったのではあるまいか。とすれば、糸島郡の現地に残る、この「主船司(周船寺)」の名称は、他ならぬ「一大率」の所在地を示していたという、その可能性はまことに大なのではあるまいか。

 その二は、「倭風、漢字表記法」の問題だ。右の「主船司」は、倭語では「ふなつかさ」といった呼び名となろう。したがってもしこれが「一大率」の時代(三世紀)にさかのばりうる地名であったとしたら、それはこの「倭名」(「ふなつかさ」の類)であったかもしれぬ。

 しかし実は、他の可能性もある。右の〝役所″を「寺」と呼ぶ用法は、右の『広雅』『漢書』の用例の示すように、三世紀以前にさかのぼりうるのであるから、倭人自身が「周船寺」もしくは「主船司」といった漢字表記を行っていた、という可能性も、これを絶無とはみなしがたいのである(周船寺の隣の伊都神社では、倭人伝と同じ「伊都」の表記が固持されている。「恰土(いと)村」などとは、表記を異にしているのだ。これも中国の都、洛陽の入口に「伊闕」〔「闕」<天子の宮殿>に伊(こ)れ近しの意〕のあるのになずらえて、倭人がみずからの都、邪馬壹国〔博多湾岸周辺〕の入口の地を「伊都」と表記した、という可能性もあろう。とすれば、倭人伝は、この「倭人の漢字表記」に従って書かれたこととなろう)。

《続・「真説古代史」拾遺篇》(128)



「倭人伝」中の倭語の読み方(71)
官職名(5):「一大率」とは何か(3)


 「一大率」をめぐる論争では「於国中有如刺史」の解釈が一つのポイントになっているが、この文以下を「一大率」の職務の説明とする解釈が大勢のようだ。例えば松本氏。氏は次のように読解している。(なお、氏は「一大率」の「一」は不定冠詞であると解し、「一大率」を「一」を省いてただ単に「大率」と書いている。)


 女王国以北には特に大率を置いた。大率は常に伊都国に治していた〔位置〕。

 大率に諸国を検察せしめた。諸国はこれを畏(おそ)れ憚(はばか)った。大率はその国の中では中国の刺史のような存在であった〔権力〕。

 倭王の使者が京都(魏の都の洛陽)・帯方郡・諸韓国に行くときや、帯方郡の使者が倭国に来たときは、大率はそのたびにそれらの船が出入する港に行って(船中を)捜露(検査)し、伝送の文書と女王のもとに行く賜遺の物(下賜品)とを仕分けし、混乱(差錯)することがなかった〔任務〕。

 このように解釈した上で、松本氏は「一大率」を魏(帯方郡)から派遣された官吏という説を唱えている。水野氏はこの松本説に反論して「一大率」は女王が任命した官吏としているが、「於国中有如刺史」の解釈については松本説を踏襲している。そして両説ともにその官吏は文官だと言う。例えば水野氏は次のように書いている。

「一大率は兵馬の権はもっていなかったと思われる。すなわちあくまで文官であり、武官ではなかったであろう。」

 「於国中有如刺史」以下の文を「一大率」の職務説明文と解釈すれば、③のような〔任務〕を遂行する官吏は「文官」とせざるを得ない。しかしこの場合、「畏憚」という表現が大げさな響きを帯び、宙に浮いてしまう。強力な軍隊を率いる武官であってこその表現だ。

 では「於国中有如刺史」をどう解釈すればよいだろうか。まず、「刺史」とは何か。『広辞苑』は次のように説明している。

「中国の地方官。漢では地方監察官。魏・晋・南北朝・隋・唐では州の施政官。宋以後廃止。」

 魏・晋時代では「刺史」は州の施政官である。古田氏が、「使大倭」の解明に際して、「魏志」から引用していた文を拝借しよう。

(1)
乃ち礼を以て幷(へい)州の刺史と為し、振武将軍・使持節・護匈奴中郎将を加ふ。(魏志二十四、孫礼伝)
(2)
明帝、涼州の絶遠にして、南、蜀冠に接せるを以て、邈(ばく)を以て涼州の刺史・使持節と為し、護羌校尉を領せしむ。(魏志二十七、徐邈伝〉
 (3) 青竜中、帝、遼東を討たんことを図り、倹の幹策有るを以て、徙(うつ)して幽州の刺史と為し、度遼将軍・使持節・護烏丸校尉を加ふ。(魏志二十八・毌丘倹伝)


 「刺史」に付与されている「使持節」という職名はどのような意味があるのだろうか。古田氏は次のように解説している。

『「節」は「はたじるし」であり、「羽・旄(ぼう)牛の尾などを編んで作った、大将・使者などに賜わる符信(しるし)」だという。「周礼・夏官・射人」に「九節五正」とあるのも、その「節」だ。ここから「持節」の用語が生れる。』

 「持節」とは天子から「符信」(何らかの権限)を授かったという意味である。「使持節」の場合は「二千石以下の官職の者を独断で処刑できる」という権限が与えられた職権を意味している(ネット検索で調べました)。「刺史」には時にはこのような強い権限が与えられたが、あくまでも州の施政官、つまり文官である。「検察」のために「特に」置かれ、「畏憚」された「一大率」とは全く性格を異にする官職である。「於国中有如刺史」以下の文を「一大率」の説明文とする読解は明らかに誤りである。古田氏は「刺史」について次のようにまとめている。

(1)
 「一大率」は「女王国より以北の行路の国々」に対する検察を任としている。すなわち「旁国」二十一か国は、その責任に属していないのである。しかし、中国の「刺史」の場合は、すべてにおかれた地方官であるから、「特定地域」のみを対象とするものではない。

(2)
 「一大率」は「常に伊都国に治す」と書かれている。つまり「一定点」に存在したのである。これに対して「刺史」の在任の地は州の数だけ存在する。

(3)
 「一大率」は「率」という以上、軍団のようであるけれども、「刺史」は行政官である。

 右のようであるから、「一大率」は「刺史」と別個のものであり、「一大率」記事のあとに「刺史」記事が一句おかれているのである(喜田貞吉はこのように理解した)。

 したがって、(松本氏がまとめた③「任務」の原文と読下し文。略す)とあるのは、主としてこの「刺史」の任務を説いたものである。行路の国々の「刺史」のごとき行政官は、「皆」中国-朝鮮-女王国間の、公式往来の道筋を確保するにつとめたのである(むろん、これを背後から軍事力をもって検察していたのは、伊都国に治していた「一大率」だった、と思われる)。

 さて、先の「使持節」のときの例で見たように、魏では三例とも、その州の「刺史」が「使持節」の称号をかねていた。両者は関連する可能性が高いのである。この例から見ると、倭国においても、各国におかれた「刺史」のごとき行政官が「使大倭」として、「租賦」や「市の交易」の監督をかねていた、という可能性もあるわけである。

 すなわち、「使大倭」と「刺史のごとき者」との関係は、「使持節」と「刺史」との関係に相似点をもっている。この点からも「使大倭」の「使」の用法が「使持節」の「使」の用法と共通しているという理解が裏づけられよう。

 陳寿が「刺史の如き」といっている官職の倭国における官名が「使大倭」だったと言ってよいのではないだろうか。