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《続・「真説古代史」拾遺篇》(127)



「倭人伝」中の倭語の読み方(70)
官職名(4):「一大率」とは何か(2)


 邪馬壹国以前の倭国については、7年ほど前に『盗まれた神話』を教科書にして、かなり詳しく学習しておいた。この問題については、『「邪馬台国」はなかった』の「朝日文庫版あとがきに代えて」中の一節「一大率の新局面」にはその要点が手際よくまとめられている。ここではそれを用いて要点を再確認しておこう。

〈一〉
 「記紀」に出てくる天国(アマクニ)とは「海人国」である。壱岐・対馬を中心とする対馬海流上の島々を指している。その文献上の論拠は次の二点である。

 「記紀」の神代の巻における「天降る」という動詞は「筑紫・出雲・新羅」の三領域に対してしか用いられていない。しかも「中間経過地」がない。つまり「天降り」の発進地(原域)は、壱岐・対馬を中心とする島々と考えられる。

 『古事記』の「国生み神話」中の「亦の名」として書かれている古名中、右の領域(対馬海流上の島々)のみが、「天の~」という形で表記されている。

〈二〉
 上の「壱岐・対馬」にいた天照大神たちがニニギノミコトを「竺紫(チクシ)の日向(ヒナタ)の高干穂の久士布流多氣(クシフルダケ)」(『古事記』)に派遣した。「天孫降臨」とはその歴史的事件の伝承である。その地は福岡県福岡市と糸島郡との間にそびえる高祖山連峯である。そこには「日向山・日向峠・日向川」があり、「日向」はいずれも「ひなた」と読む。そしてこの連峯の一角(第三峯)に「クシフル峯」が現存し、農民たちの〝日用地名″として残っている。

 以上の『「邪馬台国」はなかった』時点での論考に加えて、後に次のような神社伝承・考古学的な根拠が古田氏によって解明されている。

(一)
 対馬に「阿麻氐留(アマテル)神社」がある(浅茅湾東端部、小舟越)。ここの主神は天照大神の原型と考えられる。「アマテル大神」が出雲の大神の〝従属神″(第一の従属神)であったという伝承が伝えられている。これは「天孫降臨」以前の、「国譲り」の前提をなす形の伝承である。

(二)
 「古事記』に次のような記事がある。

故(かれ)、日子穂穂手見命(ヒコホホデミノミコト)は、高千穂の宮に伍佰捌拾歳(580歳)坐(ま)しき。御陵は即ち其の高干穂の山の西に在り。

 この記事は歴代の王者の墓が、上の「天孫降臨」地の西にあることを述べている。「日子穂穂手見命」は、「天皇」のような、中心権力者の代々の称号であり、それが「580歳」続いたと言っている。これは「二倍年暦」によるものだから、換算すると「290歳」となる。すなわち在位期間を10年/人~20年/人とすると30人~15人くらいの歴代の王者の御陵が高祖山連峯の西、すなわち糸島郡に存在することを物語っている。

 ところが、当の糸島郡には「三種の神器」セットを内蔵する、弥生の王墓が三基出現している。「天照大神系」の王墓である。現在出土した遺物は、実際に存在した「遺物」の5分の1~10分の1にすぎない、と言われている。もしそうだとすると、上の形式の弥生王墓は、全体としては「15~30基」埋蔵されていたと考えることができる。

 以上のような「神話的伝承と考古学的出土事実の一致」によって、「天孫降臨」という神話が単なる「造作」ではなく、歴史的事実であったことが分った。つまり弥生前期末~中期初頭に「天国」が北部九州に「天孫降臨」という侵略を行った歴史的事件があったのだった。これが「九州王朝(倭国)」史の発端である。

 福岡県を中心とする北部九州では、「前末・中初」の境に、それ以前と以後の考古学的出土状況が一変している。先の、糸島郡の三王墓と同類の王墓のほかに
吉武高木遺跡
 (最古の「三種の神器」セット内蔵王墓。福岡市。室見川と日向川の合流地点、近辺)
須玖岡本遺跡
 (中国絹の出土した現在唯一の弥生王墓。春日市)
も、すべて「前末・中初」の一線以後の出土である。これはこれらの遺跡の所在地を含む地域が九州王朝(倭国)の中枢地であったことを物語っている。この一点からだけでも全ての「邪馬台国」比定地は破綻している。

 以上で「一大率」問題を解くための土俵が整った。以下は古田氏の論考をそのまま引用しよう。

 「天孫降臨」の原点、いいかえれば出発点は、〝壱岐・対馬″を中心とする、と考えたのであるけれど、その二島の中のいずれが「天孫降臨」の軍団の所在地か、そのように問えば、壱岐の方がそれであると答えざるをえない、なぜなら対馬の方は全島〝山ばかり″の島であり、人口は少ない。これに対し、壱岐の方は、全島平地多く、人口も多い。倭人伝にも、
 (対海国) 千余戸有り。
 (一大国) 三千許りの家有り。
というごとくである。

 その上、地理的にも九州本土の北岸部に近いのは、壱岐の方であるから、「天孫降臨」の主力は〝壱岐の軍団″であった、という可能性が高い。

 次に、もっとも本質的なテーマがあらわれる。

 「天孫降臨」とは、一個の軍事的侵入譚であった。「葦原の千五百秋の瑞穂の国」(『日本書紀』第一・一書)といわれるように、稲作水田が栄えていた、縄文水田の分布する北部九州への「不法の侵略」であった。

 とすれば、〝一過性の侵入″ですむはずはない。この豊穣の地に対し、「是れ我が子孫(すめみま)の王(きみ)たるべきの地なり」(同右)と称して永続的支配権を主張し、これを現実化しようとすれば、そのためには〝侵略軍″を常駐させることが不可欠となろう。すなわち「天孫降臨の軍」たる壱岐の軍団が常駐し、被支配者たち(先住民の政治的・社会的組織、家族たち)の「反抗」や「独立」の一切の動向を監視し、抑圧せざるをえぬこととなるのである。 ― これが「一大率」のひきいる常駐軍団の任務であったと思われる。

 倭人伝に、
  女王国自り以北には、特に一大率を置き、検察せしむ。諸国之を畏憚す。常に伊都国に治す。
 とあって、「検察」「畏憚」といった〝異色″の表現がとられている。他の、倭人伝の文面とは、いささかニュアンスを異にしているのである。

 これは、この「一大率」が倭国全体からの「共同撰出」もしくは「共同推戴」であるよりは、〝他からの侵入・支配持続のための軍団のリーダー″である場合、この「検察 ― 畏憚」の用語は一層理解されやすいのではあるまいか。

 以上によって、「一大率」とは「一大国の率」の意であり、その実体は、天孫降臨(以来)の軍団のリーダー」であることが帰結される。

 古田氏が「一大率」を中国側のよび名とし、〝一つの大きな率(軍団)″という意味に解釈した誤説を提出した経緯には方法上の理由があった。氏は一貫して「『三国志』全体の記載例に従って、倭人伝を読む。」という方法を堅持して「井の中」では考えられない正論を築いてきた。しかし、「一大率」の場合にはこの方法は修正されるべきだったのだ。氏はそれを「その当の国(倭国)の歴史とのかかわりで、その記述を理解するという、本来の歴史的理解の方法」と言っている。そして、氏は次のように結んでいる。

『三世紀の魏使たちが倭地で見たものは、決して「三世紀に生起した倭国」ではなく、長い、始発・征服・継続等の変転をもつ歴史、その帰結としての「三世紀の倭国」だったのであるから。』

 「井の中」では「邪馬壹国」以前の倭国史については五里霧中の状態なのだから、「一大率」をめぐる議論が空転してしまうのは当然のことだった。
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《続・「真説古代史」拾遺篇》(126)



「倭人伝」中の倭語の読み方(69)
官職名(3):「一大率」とは何か(1)


 まず、「一大率」が現れる一節を全文読んでみよう。

女王國自(よ)り以北には、特に一大率(いちだいそつ)を置き、検察せしむ。諸國之を畏憚(いたん)す。常に伊都國に治す。國中において刺史(しし)の如き有り。王の使を遣わして京都・帯方郡・諸韓國に詣(いた)らしめ、郡の倭國に使するに及ぶや、皆津に臨みて捜露す。伝送の文書・賜遺(しけん)の物、女王に詣るに、差錯(ささく)するを得ざらしむ。

 このくだりを読んだとき、「一大国」があるのだから「一大率」は「一大国」と関係があるのだろう、と当然誰もが考えるだろうと思ってきた。だから、古田氏の次の説を読んだときは「?」がいくつもとび出してきた。

 『三国志』には「一大石」「一大虵(じゃ)」「一大統」といった用法が多い。その点からすると、この「一大率」も、〝一つの大きな率(軍団)″という意味であろう。すなわち、中国側のよび名であって、日本側のそれではない。

 しかし、この説は後日次のように訂正された。

 「率」には直接“軍団”の意味はなかった。のちに『邪馬一国への道標』(角川文庫)中の「一大率の探究 ― 『宋書』をめぐって」でのべたように、「門衛を主(つかさど)る」職務だ。

太子左衛率、七人。太子右衛率、二人。秦の時は直(ただ)に衛率と云う。漢、之に因る。門衛を主る。晋の初(226)、中衛率と曰(い)う。泰始(265~274)分れて左右と為し、各(おのおの)、一軍を領す。(下略)  『宋書』(百官志、下)

 右で「七人」「二人」とあるように、「率」それ自身は、個人だ。もちろん、右の末尾に「各、一軍を領す」とあるから、その「個人」は「軍団」を支配している。しかし、本来は「個人」を指している。

 このように考えてみると、先の「~石」や「~虵」「~統」とは、用法が異なっている。〝ひとつの大きな「個人」″では、言葉の態をなしていないのである。

 このように分析してきて、わたしは慄然とする。これからのべようとする〝新しい分析″、それは右の「率」問題を厳密につきつめていたら、もっと早く到達していなければならぬものだったからである。

 今ふりかえって見れば、この問題には、大きな一つの「盲点」があった。それは、この「一大率」記事の直前に、「一大国」の記事があったことである。逆にいえば、倭人伝内では、まず「一大国」記事が出ていて、それに次いで「一大率」の記事が出てくるのであるから、これをもって、
 「一大国の率」
とみなすこと、きわめたる凡庸の理解、いいかえれば、文章理解上の常道というべきものなのであった。

 これなら全面的に納得できる。

 では「一大率」とはどういう役職であり、女王国においてどのような位置を占めていたのだろうか。古田説を検討する前に、まずは「井の中」での議論を見てみよう。

 「井の中」では「一大国」は「一支国」の誤りという原文改定がほとんど定説になっている。だから、「一大率」を「一大国の率」と考える説が出てくるはずがない。「一大率」の字句的意味の考察はたぶん行われていないだろう。

(『評釈魏志倭人伝』を読んでいたら『ゼミナール日本古代史』という本の存在を知った。その中に直木孝次郎氏による「一大率 - 研究史の概観」という論文があった。水野氏の記述はこの直木論文に準拠したもののようだ。直木論文を用いることにする。)

 「井の中」で問題になっている中心的論点はもっぱら、「一大率」を派遣した主体はどこか(誰か)、という問題である。三つの説が論争を続けていて、未だに決着がついていないようだ。その三つの説は
(1)
 邪馬壹国から派遣された官とする説(私の知っている範囲では、「井の中」で「邪馬壹国」を用いているのは水野氏だけであり、他は「邪馬臺国」を用いている。直接の引用文以外では、正しい表記である「邪馬壹国」を用いることにする)。
(2)
 派遣の主体は大倭であるとする説
(3)
 帯方郡から派遣されたとする説。

(2)説は「大倭」問題で「使」の一文字を改訂して「大倭=大和朝廷」とした論者の説であり、すでに破綻している説である。検討の対象から外そう。

 (3)説を提出したのは松本清張氏(『古代史疑』1968年刊)だという。直木氏はその説を次のように紹介している。

 説の詳細は、松本氏の次の論文をみていただきたいが、通説に従って問題の部分を読むと、まえにふれたように「大倭をして之を監せしむ」と一度文が切れ、「女王国より以北、特に一大率を置く」となり、だれが一大率を伊都国に置いたのか、主格の不明確な文章となる。この主格が省略されていることが、松本氏の論の出発点である。

 では省略された主格はなにか。「魏=帝方郡」であるというのが松本氏の解答で、

『私は「一大率」は、魏の命令をうけ帯方郡より派遣されてきた女王国以北の軍政官と考える。(中略)「倭人伝」に述べられた「一大率」の権威からみて、それは大使をかねた軍政官に近い地位にあったと思う。』

と、前掲書のなかに記しておられる。

(中略)

 論争はまだ継続中で、その後松本説に賛成する意見も出ており、早急な結論を下すことはできないが、九州北部とはいえ日本国内に中国の施政官が駐留していたかどうかは、日本および東アジアの政治・外交上に重要な関係をもつ問題である。新説を提起した松本氏の主張を、改めて承ることとしたい。

 松本説の論旨の出発点である「主格の不明確な文章」という原文の読み方を私(たち)はすでに批判済みである。くりかえすと、「一大率」も「使大倭」の場合と同様、倭国の産物・風俗等を述べている一節の中に入っている文であり、「一大率」の派遣者も邪馬壹国以外ではあり得ない。ただ、(3)説をめぐる論争では「於国中有如刺史」の解釈が一つのポイントになっているようだ。この問題も古田説を検討することによって明らかになるだろう。

 以上により、「一大率」の派遣者を邪馬壹国とする(1)説がもっとも妥当な説ということになる。「井に中」の(1)説の中身を見てみよう。

 (1)説の最も早い例は菅政友の「漢籍倭人考」(1892年)だという。次のように述べている。
「女王国ニテ一大率ヲ置キシハ、那津近クニテ、後ニ太宰府ト称シシ地ナラン」

 「常に伊都國に治す」を全く無視している、と思ったが、まったく考慮していないわけではないようだ。直木氏は、「(菅氏は)伊都は怡土郡の地であることを認めながら」上のような見解を述べている、と指摘している。菅氏が「那津」を持ち出しているのは「漢の倭の奴の王」が念頭にあるのだろう。また、後世の太宰府と関連づける点はヤマト王権一元主義にとらわれている証左だ。このように誤った先入観に引きずられておかしな理路を引いてしまうのも「井の中」ではよくあることだ。

 「太宰帥」の「帥」の音が「率」の音と同音であることが、菅氏が太宰府と関連づけたもう一つの理由であるらしい。一大率を大宰帥の前身とする考えをはっきりと打ち出した一人が喜田貞吉氏である。論文「漢籍に見えたる倭人伝の記事」(1917年)で次のように述べているという。

「ここに一大率とは紀に筑紫率、筑紫大宰などあると同じく、実に後の太宰府の先蹤なり。太宰府の長官を帥と書し、古訓ソツと読ましむ。蓋し此の一大率の称を継げるものにして、筑紫に於ける大率の義なるべし。(中略) 一大率は言ふまでもなく大和朝廷の派遣の都督なり」

 喜田氏は邪馬壹国九州論者であるが、「一大率」を大和朝廷の派遣官としている。しかし、このような説を退ける学者もいた。那珂通世は『外交繹史(えきし)』(1915年)で次のように批判している。

「又或人ノ説ニ女王卑弥呼ヲバ筑紫ノ偽王ト認メナガラ、コノ一大率ヲバ皇朝ノ宰ト見テ、後世ノ大宰帥ノ起原ナリト云ヘルハ、前後ノ文ヲ通観セザル勝手ナル解釈ナリ。」

 この喜田説が大勢になったようである。直木氏は「戦前九州論者で、積極的に喜田説を支持する人はなかったようである。」とまとめている。続いて、戦後の「一大率」問題に対する主とした論調を次のように指摘している。

「戦後も九州論者では邪馬臺国の派遣官とする見解が主流を占めるが、主たる関心はそれが九州邪馬臺から遣わされたか、畿内大和朝廷からかという問題からははずれ、伊都国や対馬・一大の諸国に存在する爾支(にき)・卑奴母離(ひなもり)などの官との関係が検討されるようになる。」

 具体的には次のような諸説がある。

坂本太郎説(1954年)
 伊都国の官は伊都国に固有の官で、一大率はその上に派遣された。
井上光貞説(1966年)
 一大率は卑奴母離を通じて対馬から奴にいたる北九州沿岸諸国(ただし未廬をのぞく)を統括していた。
牧健二説(1968年)
 「労作『日本の原始国家』(有斐閣、1968年)のなかでこの問題をくわしく論じられた。」とある。主に植村説への批判のようだ。直木氏は次のようにまとめている。
(1)倭人伝の原文の変更の危険性、
(2)邪馬臺国は両属関係の主体ではなかったということ及び両属関係の存在についての疑問、
(3)『魏志』東夷伝倭人の条の「大倭」を大和国家と見ることが誤っていること、
の三項に分けて、植村説をくわしく批判しておられる。

 (2)説の各論もこれといった決定的な説がなく、未だに決着がついていないようだ。邪馬壹国以前の倭国に対する明確なイメージ(理解)を欠いていることがその原因だと思う。例えば岩波講座「日本歴史1 原始および古代1」で邪馬壹国以前の倭国を担当しているのは山尾幸久氏(論文「政治権力の発生」)だが、中国史料だけで論考しているので、次のようなイメージしか出せない。(しかも、山尾氏は「邪馬台国」近畿説という誤説を採用している。)

『前一世紀中葉ごろの北部九州の多数の「国」、一世紀半ばの那珂郡の「奴国王」、二世紀初頭の北部九州の「倭国」とその王、三世紀中ごろ、「親魏倭王」が都する畿内の「邪馬台国」など、中国史料に現われた倭人の「国」のいくつかの種類を概観してきた。』

 漢籍から得られる情報だけでは邪馬壹国以前の倭国についてはこの程度のことしか分らない。我が国の貴重な史料である「記紀」の記事(崇神以前の神話・欠史九代)を「造作」として無視しているための悲喜劇だ。「一大率」の正しい解釈には「国譲り(天下り)」神話が欠かせない。これも古田説の検討により明らかになるだろう。
《続・「真説古代史」拾遺篇》(125)



「倭人伝」中の倭語の読み方(68)
官職名(2):「大倭」とは何か(2)


(以下は『「邪馬台国」はなかった』を教科書にしています。)

 まず「大倭」について。
 『三国志』では魏・呉は自らを「大魏」「大呉」と誇称している。国名の先頭に「大」を付けて誇称する風習は、中国だけではない。日本や朝鮮でもこれを真似ている。『日本書紀』では「大日本」とう表記を用いているし、唐は「大唐」である。今テレビで「太祖王建(テジョワンゴン)」という後三国時代のドラマを楽しんでいるが、百済は「大百濟(テペクチェ)」と名乗り、旗印にもこの誇称を高く掲げている(たぶん文献的根拠のあるの史実だと思う)。またこれは古代に限ったことでもない。日本はかつて「大日本帝国」を名乗り、韓国の正式名称は「大韓民国」である。倭が自らを「大倭」と誇称していたと考えてよいであろう。

 その立場から「使大倭監之」の読下し文「大倭をしてこれを監せしむ」を考えると困ったことが出てくる。使役の助動詞「使」は普通は「使役」の主体として主語を伴う。古田氏が『三国志』から引用している文を転載すると次のようである。

武帝使張賽行西域。
(武帝、張賽をして西域に行かしむ)


 文面に主語が明記されていない場合でも当然その主体が想定されているはずだ。

 それでは「「大倭をしてこれを監せしむ」の主体は何か。「倭人伝」の中では「大倭」を使役する主体として考えられるのは魏の天子しかあり得ない。そこで山田孝雄氏は「使役の主体は魏の天子」という説を立てている。この説は、使役の主体を大和朝廷とする説とは異なり、一見もっともな説に見える。しかし、古田氏は次のようにこの説も退けている。

 しかし、このとり方は文法上無理だ。なぜなら、ここの一節は倭国の産物・風俗等をのべるところであって、「隠された主語」を求めるとすれば、当の「大倭」である卑弥呼の朝廷しかありえない。たとえば、この文の直前の

其犯法、軽者没其妻子、重者没其門戸及宗族。
(其の、法を犯すに、軽き者は其の妻子を没し、重き者は其の門戸及び宗族を没す。)


の場合も、「没す」という語の「隠された主語」は、当然、司法権をにぎっている卑弥呼の朝廷すなわち「大倭」なのである。それなのに、問題のここだけ、「隠された主語」として、「魏」を突如もち出すことは、文脈上どうしても無理だ。

 このように、「大倭」を使役しうるかに見えた唯一の候補者である「魏」も、その任にたえないとなったら、もうどうしようもない。

 「井の中」が「とんち教室」のような状況に陥っている理由の一つがここにある。「使」を使役の助動詞とするとにっちもさっちも行かなくなるのだった。古田氏も「使」を使役の助動詞とする訓みを退けるが、もちろん「とんち教室」のような原文改訂は行わない。これまでと同様、『三国志』全体の中での「使」の用法を探るという手法を用いている。

 「倭人伝」には次の一文がある。

其四年倭王復遣使大夫伊聲耆掖邪狗等八人…

 ここの「使」は使役の助動詞ではない。次のように訓むほかない。

其の四年、倭王また使大夫伊聲耆(イセイキ)・掖邪狗(エキヤコ)等八人を遣わし、…

 つまり、ここでの「使」は「使大夫」という役職名に使われているとしか解釈できない。「使大倭監之」の「使」も使役の助動詞ではなく、「使大倭」という役職名なのではないだろうか。この解釈が妥当であることを、つまり
『三国時代の魏において「使 - 」という形の官名・称呼が成立していたこと』
を、古田氏は『三国志』全体を克明に調べて論証している。その論証には勉強になる事がたくさん含まれているが、かなり長い。その論証の紹介は割愛して、結論部分を引用しよう。

 縷々のべてきたこの高句麗伝の官名はわたしたちの倭人伝研究に対し、なにを示唆するであろうか。いうまでもなく、問題の一句「使大倭監之」の読み方を教えるものである。すなわち、それは、「使大倭、之を監す」と読んで、「使大倭」の三字全体が一つの官名をあらわしているのである。つまり、

(一)
 卑弥呼の朝廷は、みずから「大倭(たいゐ)」と称していた。これは「大魏」「大呉」といった中国の称呼にならったものと思われる。
(二)
 女王国に統属していた国々に対し、邪馬壹国から「使大倭」という官が派遣された。かれらは租賦や同国の市の交易を監督した。

 この二点が知られるのである。

 続いて古田氏は、上の結論の正当性を補強する論証として、「使大夫」と「一大率・刺史」の二点を取り上げている。このうち第二点の「一大率」についての解釈に誤りがあり、「朝日文庫版あとがきに代えて」で訂正が行われている。そこで、第二点についてはその訂正点を盛り込みながら、項を改めて取り上げることにする。第一点はそのまま全文引用しよう。

 「大夫」については、倭人伝中に、

古より以来、其の使中国に詣るに、皆自ら大夫と称す。

とある。魏晋ではすでに「大夫」は県邑の長や土豪の俗称と化していた。

県邑の長、宰と曰ひ、尹(いん)と曰ひ、公と曰ひ、大夫と曰ふ。
 〔注〕晋、之を大夫と謂ひ、魯衛、之を宰と謂ひ、楚、之を公尹と謂ふ。〈通典、職官典、県令〉


 ところが、倭国の奉献使は自ら「大夫」と名のった。これは下落俗化した魏晋の用法でなく、「卿・大夫・士」という、夏・殷・周の正しい古制そのままの用法であった。そのことを陳寿は、倭人の礼儀正しい証拠の一つとして、例の「鯨面文身」の項の中に挿入している。つまり、三世紀現在でいえば、この「大夫」は中国側の魏の官制とは異なり、倭国内の官制における独特の用語となっていたのである。

 ところが、この「大夫」の称呼は、倭人伝中において微妙な変化を見せている。

(1)
 景初二年六月、倭の女王、大夫難升米等を遺はして郡に詣らしむ。
(2)
 (正始)其の四年、倭王、復た使大夫伊声耆、掖邪狗等八人を通はし、……。
(3)
 壹与、倭の大夫率善中郎将掖邪狗等二十人を遣はし、政等を送りて還り、因りて臺に詣り……。


 つまり、「大夫→使大夫→倭の大夫」というように称号が変化しているのである。ことに第二番目の正始四年のとき「使大夫」という称号があらわれている。倭国の使者だから、「使」の字をつけただけだろう、として、これを軽視することはゆるされない。なぜなら、第一回のときは「使」字がないからである。

 これは魏の「使持節」といった「使」の用法にふれ、これにならって、この「使大夫」という表記があらわれた、と見るべきである。朝鮮半島の国々の官名が影響を与えた、ということもありえよう。

 それでは、第三回目はどうしてこの「使」がふたたび消えたのだろう。その理由はハッキリしている。掖邪狗等は前回(正始4年)率善中郎将の印綬を魏の天子からもらっている。つまり、魏の天子直属の官名をもつこととなったのである。

(正始四年)掖邪狗等、率善中郎将の印綬を壹拝す。

 したがって、壹与の貢献のときには、魏の天子直属の臣下としての肩書をもっていたわけである。だから、壹与から魏の天子にむけられた「使」とするのは不適切なわけである。天子の臣下が天子への「使」となる、というのは一種の所属矛盾であるから。

 したがって、第三回目の場合は、倭国側の官名たる「倭の大夫」と中国側の官名たる「率善中郎将」という名号とが並記されて掖邪狗の肩書をなすこととなったのである。

 このように考えてみると、右の称号の三変化は、まさに的確に各時点の称号を反映していたこととなる。 ― すなわち「使~」という官名が倭国に発生していたことを証明しているのである。

 「井に中」では全く考えられない堅実な論証である。
《続・「真説古代史」拾遺篇》(124)



「倭人伝」中の倭語の読み方(67)
官職名(1):「大倭」とは何か(1)


 「21国」の検討が終わったので、今回から官職名を取り上げよう。「倭人伝」に見える官職名は次の通りである。(訓みは取りあえずは古田氏によるものを採用しておく。また一行目が「官」、二行目が「副」である。)

対海国・一大国
 卑狗(ヒコ)
 卑奴母離(ヒヌモリ)
伊都国
 爾支(ニシ)
 泄謨觚(セモク)・柄渠觚(へコク)
奴国
 兕馬觚(ジマク)
 卑奴母離(ヒヌモリ)
不弥国
 多摸(タモ)
 卑奴母離(ヒヌモリ)
投馬国
 弥弥(ミミ)
 弥弥那利(ミミナリ)
邪馬壹国
 伊支馬(イキマ)
 弥馬升(ミマシ)・弥馬獲支(ミマカキ)・奴佳鞮(ヌカテ)
狗奴国
 狗古智卑狗(ココチヒコ)

 このほかに、検討すべき事項が二つある。大倭(ダイヰ)と一大率(イチダイソツ)だ。各国の役職名の検討の前に、この二つを取り上げようと思う。

 大倭が出てくるくだりは従来は次のように訓まれている。

國國市あり。有無を交易す。大倭をしてこれを監せしむ。
(原文)
國國有市交易有無使大倭監之


 一大率は上の文に続いて書かれていて、次のようである。

女王國自り以北には、特に一大率を置き、検察せしむ。諸國之を畏憚(いたん)す。常に伊都國に治す。

 ではまず「大倭」から。「使大倭監之」をどう訓み、どう解釈するかで、従来から諸説紛々なのだった。「井の中」の諸説を水野氏がまとめているので、まずはそれを見ておこう。

藤間生大説
 「倭」は人と委とが合体したので、これを二字に分けて解釈する。倭人の身分に「大人」と「下戸」があるが、もちろんこの「人」は「大人」を表す。「大人をして之を監するを委ねしむ」と訓み、監督するのは大人であるとする。

 こんな珍説をよくまあ思い付くものだ、と感心してしまう。さすがに水原氏も「二字を一字にまとめて二字に読ますというのは異法である」とこの説を一蹴している。

植村清二説
 「使」字は元は「今」でそれが筆写の間に「令」に誤られ、さらに令と同義の「使」に書き改められたとする。従って原文は「今大倭監之」である。そしてこの文は、「交易有無」につづくのではなく、そこで文章は切れ、「今大倭監之」は以下の文章につづき、「今、大倭の之を監するや、女王国より以北には、特に一大率を置き、諸国を検察せしむ。」と訓む。そして大倭とは大和国家のことであり、大和国家が女王国以北の地を、一大率を派遣して統監させていた。

栗原朋信説
 「使」は「便」の誤記である。「便」は「すなわち」と訓む。「便ち大倭の之を監するには」と訓む。そして大倭はもちろん大和朝廷であり、大和朝廷が女王国などを統合支配するために、一大率を派遣し、それが伊都国に常駐し、北九州にあった女王国以北の国々を検察していた。

 藤間説・栗原説はともに「井の中」お得意の原文改定手法を使っている。改訂結果の文字は異なるが、この「大倭=大和国家」説は「井の中」では大手を振ってまかり通っているらしい。水原氏は次のように述べている。

「すなわち吉田説・山田説と同じく大倭大和朝廷説で、女王国は大和国家の管轄下に入ることになる。この点はむしろ喜田貞吉説に接近している。喜田説は女王国北九州説をとりながら、一大率を大和朝廷派遣官とし、後の大宰府の先蹤であるとするのであるが、植村説は一大率を大倭に置き換えて、両者を結合解釈を下したものである。(中略)喜田・植村両氏が中山王国時代の琉球のごとく女王国は魏と大和朝廷とに両属関係を保っていたとするのに同じで、栗原説も女王国は魏と大和朝廷との両属国であったとして、その実例を西域伝にみえる楼蘭国にとって同じ形態であるとする。」

 「大倭」問題を古田氏がどのように解しているだろうか。改めて『「邪馬台国」はなかった』を読んでいたら、「井の中」の諸説を簡明にまとめていた。その中に水野氏が取り上げていない説があるので、それを紹介しよう。

志田不動麿説
 「使」は「代」の誤写である。だから、「大倭に代って」と読むべきである。

坂本太郎説
 「大」は「一人」があやまってくっついてしまったものである。もと「一倭人」とあったものが、「一人倭」というふうに「倭」と「人」とがひっくり返り、そののち、また「一」と「人」がくっついて「大」となったものであろう。つまり「一倭人→一人倭→大倭」というふうに誤刻されていったのである。

井上光貞説
 「便」は「夫」ではないか。「夫(そ)れ大倭之を監す」と読む。

 何度もあきれ返ってきたので慣れっこになってしまったが、ヤマト王権一元主義の病巣の深いこと、ここに極まれりと言っておこう。中には博士号を持っている方もおいでだが、これはもう学問ではないよ。まるで「とんち教室」だ。

 水野氏は「諸々の改訂説はいずれも恣意的であり実証されていない」と従来の諸説を否定する。そして、原文を改訂せず、そのまま「市有りて有無を交易し、その交易のことを大倭という人物に監督させていた」と解釈している。つまり「大倭は大和朝廷でも、大和国のことでもない」「一種の官名」だとして、次のように自説を展開している。少し長いが全文引用しよう。

 女王国統属下の国々、あるいは女王の管轄外の狗奴国にも、倭諸国には相互に商業が行なわれ、物々交換であったにもせよ、互いに有無する物資の交易が行なわれていたのである。すなわち国内の通商関係の存在である。

 これに対し、帯方・楽浪の二郡または諸韓国との間で行なった通商交易は対外的な外国交易である。この対外・対内交易を主宰する権限を女王から賦与され公認されたのが大倭であり、それによって国の内外の交易を監察していたのが大倭であった。

 なぜそういう官を大倭と称したのか、大倭は大人ではない。もちろん階級としては大人階層に入るものであり、国の大人に相当する最上層の大人であるが、大人なるがゆえに大倭といったのではないと考える。

 すでに述べたごとく、かつて倭の大乱以前に倭諸国の代表権を後漢から与えられていたのは倭奴国王であった。倭奴国王に統治されていた倭奴国は、古代航海者の国であり、奴国王は古代航海者を支配した、通商航海王国の経済的基盤の上に権力を築いた王であったから、倭奴国時代にその王は大倭王として倭の諸国に君臨し、国内に、海外交易 ― 主として対漢・対韓交易によって得た物資を交易し、諸国より交易によって集めた物資を海外に交易して利を得ていたので、専業の交易者として通商を一手に掌握していた。倭国において大乱を通して、その政治的権力を失ったとしても大乱後もなお奴国王の対外対内交易権は失われず、経済力は依然として大きかった。そのことは女王国に編成された後も奴国は邪馬壹国に次ぐ人口集密の国であったことからも首肯できるし、とくに海外交易については、伝統的な古代航海者としての技能と知見とは、専業としていた奴国人の手に握られていたのであるから、女王の時代になっても物資の交換は依然として奴国人の手に委ねなければならなかった。そこで女王もそのような経済的な権能を、かつての大倭王としての奴国王に認め、その地位を承認し、対外・対内交易権を与えて、それを大倭として交易を主宰させたというように考える。それゆえ大倭とは奴国王であり、大倭王にちなんだ名称であると考えるのである。

 大倭の監察する倭魏・倭韓の外国交易、倭諸国内(東方倭人国をも含めて)の内国交易は、倭奴国の専業の古代航海民によってのみ独占されていたというわけではなく、『三国志』に記されているように、対馬島民や壱岐島民もつねに船に乗って、九州島と朝鮮半島との間を航海し交易をしていたとあるごとく、沿岸の諸国にはそれぞれ慣海民がおり、専業の航海者もあって、彼らはみな一定の航路にしたがって互いに交易をしていたのである。北九州沿岸の漁撈民や航海民は、それらの地域の江湾を基地として、その特殊な技能と知見とによって国の内外の地を巡航して交易を行なっていた。

 その航路つまり通商ルートは、
(1)
 対魏対韓ルート。北九州←→壱岐←→対馬←→狗邪韓←→帯方・楽浪郡治所。
(2)
 九州東岸ルート。北九州←→宇佐←→日向。
(3)
 九州西岸ルート。北九州←→唐津←→松浦←→平戸←→長崎←→有明海←→天草←→薩摩。
(4)
 瀬戸内ルート。北九州←→瀬戸内←→難波←→紀伊←→熊野。
(5)
 日本海ルート。北九州←→出雲←→但馬←→若狭←→能登。
以上のような五つのルートが考えられ、その交易を監察する権限を掌握したのは、通商王国として君臨した倭奴国王であったので、女王国時代になっても、その伝統的な権威を女王も承認して、従前通り倭奴王をして大倭とし、交易権を掌握させていたと考える。これが私の大倭についての結論である。

 私は九州王朝の中枢国は「委奴国王→倭国王帥升→女王俾弥呼」と継承されたと考えている。この水野説はなかなか面白い説だとは思うが、この説が成り立つためには「奴国が委奴国の継承国であること」が立証できなければならない。「奴」の字が共通であることを根拠の一つにしているようだが、それなら「21国」の中に「弥奴国」など7国もある。水野氏はもう一つ「奴国は邪馬壹国に次ぐ人口集密の国であったこと」を根拠として挙げているようだ。「邪馬壹国に次ぐ人口集密の国」を取り上げるのなら、それは「投馬国」であり、「投馬国」こそ「大倭」という主張も成り立ってしまう。水野説も「恣意的であり実証されていない」と評すほかない。

 では、次ぎに古田説を見てみよう(次回に続く)。
《続・「真説古代史」拾遺篇》(123)



「倭人伝」中の倭語の読み方(66)
「21国」の比定:女王国統属下の国々(その五)


 図書館で「青銅祭器相互の年代関係」を知るための資料を物色して、次の二冊を教科書に選んだ。
(a)
松本武彦著『日本列島の戦争と初期国家形成』(2007年1月24日刊)
(b)
国立歴史民俗博物館編『弥生時代はどう変わるか:炭素14年代と新しい古代像を求めて』(2007年3月刊)

まず、(b)から炭素14測定法を用いた弥生時代の実年代表を転載しておこう。
炭素14測定法による弥生実年代

 (a)は、この実年代に準じた年代区分に従って議論を進めている。次のようである。
弥生時代早期~前期前半(BD10th~BD6th頃?)
弥生時代前期後半~中期(BD6th?~BD1th)
弥生時代後期~末期(AD1th~AD3th前半)

 また、(a)は巻末に48ページにわたって引用・参考文献を掲げている。これまでの考古学の成果にまんべんなく目配りをしていることが窺われる。将来部分的修正をする必要が起こる事項があるかも知れないが、全体として信頼できる論考だと思う。以下、(a)を用いて青銅器の変遷を調べていく。

弥生時代早期~前期前半(BD10th~BD6th頃?)

 この時代は中国では西周の時代で、青銅は酒器や食器など実用的なものに利用されていたようだ。日本列島にはまだ青銅器は現れていない。武器としては弓・石器・石鏃などが用いられていた。

弥生時代前期後半~中期(BD6th?~BD1th)

 朝鮮半島から青銅製の短剣や矛・戈(これら柄の長い武器を考古学では「長兵」というらしい)が北九州に伝播され、まもなく生産が始まるとされている。しかし、実用の武器としてはもっぱら石製武器が用いられていた。青銅製武器の分布は、もちろん、北部九州に圧倒的に多い。人骨に刺さったもの・折れたもの・研ぎ直したものなどがあることから、少なくとも北部九州では武器として実用されていたようだ。

 中期後半になると各地域で独自の形態の青銅製武器が作られるようになり、それぞれの分布区域が形成される。次のような具体例が挙げられている。前回の分布図(5)と対比してみよう。

「北部九州を中心とする中細形銅剣・銅矛・銅戈、山陰の中細形C類銅剣」→②'
「中部瀬戸内の平形銅剣、東部瀬戸内の東瀬戸内型平形銅剣」→②。古田氏が「A東圏」と呼んでいる区域である。
「近畿の近畿型銅戈」→④'

 これらの青銅製武器について、(a)は次のように解説している。

「ただし、中期後半以降の青銅器は、全体の肥大化と重量増加、刃部の鈍化、着柄部や把部の非機能化が顕著で、すでに実用からはかけ離れた祭祀具として特化が進んだものとみなければならない。」

弥生時代後期~末期(AD1th~AD3th前半)

 鉄製の武器が普及し始めて、石製武器はしだいに減ってくる。これも北部九州が先行する。この時期、青銅製武器はどうなっていっただろうか。(a)から引用する。

 北部九州の銅矛と銅戈はすでに中期後半に実用性を失って祭器として特化していたが、後期に入るとますます肥大化するいっぽう、分布域を広げる。

 その他の地方の青銅製武器についてみてみると、山陰や中部瀬戸内・東部瀬戸内にそれぞれ分布していた銅剣や近畿の銅戈は、後期に入ると衰退する。そしてこれ以後、山陰や瀬戸内では青銅製の祭器自体があまりみられなくなり、近畿や東海では、武器形の青銅器ではなく銅鐸が大型化し、後期後半にかけて盛期を迎える。すなわち、武器形の青銅製祭器については、後期に入ると北部九州を核として分布する銅矛(中広形銅矛→広形銅矛)と銅戈(中広形銅戈→広形銅戈)とに一元化されるという状況が認められる。

 上の引用文中の赤字部分が分布表(5)の③④に当る。古田氏が「A西圏」と呼んでいる区域である。

 さて、以上調べたことが正しいとすると、古田氏の「今や東・西二圏に分裂し、それそれ別個の祭祀圏として対立していたのである。」という主張は成り立たない。②「A東圏」は中期後半(BD2th~BD1th頃か?)の分布状況であり、③④「A西圏」は後期(AD1th~AD2th頃か?)の分布状況である。時代が全く異なる。中期後半(BD2th~BD1th頃か?)では②「A東圏」は②'圏内の異端地域ということになるので、もしも祭祀器の違いによって「対立」があったとしたら、この時期である。上の文によると、後期(AD1th~AD2th頃か?)は③④「A西圏」の祭祀器が銅鉾圏内に一元化(浸透)していく時期だったと考えられる。このことを述べている文をもう一つ引用しよう。

 銅鐸と銅矛・銅戈の分布をみると、後期後半の段階では、前者は近畿中央部と東海を中心に紀伊や南国国東半に広がり、後者のうちより広い範囲に分布する鋼矛は、北部九州を核として南四国西半から対馬・朝鮮半島南部にまで及ぶ。両者とも遠隔地に送達され、東西方向に長大な分布域をもつようになる点で共通する。また、双方とも、その範囲のうち比較的端のほうに分布が集中する傾向があることも同様で、互いに共伴しない。

 いっぽう、中期後葉にそれぞれ成立して分布域を形成していた山陰の中細形C類銅剣、瀬戸内の平形銅剣および東瀬戸内型平形銅剣、大阪湾沿岸の近畿型銅戈は、いずれも後期には残らない。おそらく、中期と後期との間にみられる祭祀の断種を示す一現象として、途絶したのであろう。

 前半部分の文章は古冢期(弥生時代)を前期・中期・後期というように区分せずに全体を俯瞰する青銅器分布図として分布図(3)は、原田大六氏の「虚構」という論難に反して、有効であることを語っている。また、後半部分の文章は「東は毛人を征すること五十五国」を裏付けていると読めないだろうか。

 以上で〈論点一〉~〈論点四〉の検討を終えた。その全てが「女王国統属下の国々」が銅鉾圏全体に広がっていたことを示している。
《続・「真説古代史」拾遺篇》(122)



「倭人伝」中の倭語の読み方(65)
「21国」の比定:女王国統属下の国々(その四)


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〔付記〕
 購入したまま手付かずだった『倭人伝を徹底して読む』を〈論点一〉を検討するための教科書として拾い読みしていたら、前々回(「女王国統属下の国々(その二)」)で検討した「倭地…周施五千余里」問題を古田氏が論じているのを知った。古田説も「12000-7000=5000」(総里程-〈帯方郡治~狗邪韓国〉)、つまり「「狗邪韓国~不弥国」の里程数としている。
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 今回のテーマ〈論点一〉を全文再録する。
〈論点一〉

 古田氏によれば、弥生中期(紀元前1世紀~後1世紀)では青銅器分布は大きくA:武器型祭祀圏(私は銅鐸圏と呼んできた)とB:銅鐸圏の二つに分けられる。

A圏:細矛・細戈・細剣圏(淡路島以西)
B圏:銅鐸圏域

  二世紀以降、A圏はさらに二つに分かれる。つまり三つの圏域になる。次のようである。

A西:中広・広矛と中広・広戈圏(北・中部九州)
A東:平剣圏(瀬戸内海)
B:銅鐸圏域

そして、A圏は
「今や東・西二圏に分裂し、それそれ別個の祭祀圏として対立していたのである。」
と述べている。

 この古田説によれば、A西圏が「邪馬壹国傘下の国」である、というのが「愛読者」さんの指摘するところである。

 さて、上の古田説の論拠は古冢期の青銅器の分布状況である。青銅器分布図はいくつもあって、そのどれが正しいのか、その正しい分布図をどう解釈するのか、なかなか決めがたく悩ましくも難しい問題である。いままで私が目にしてきた分布図を全て掲載してみよう。

 (1)は私が「銅鐸文化圏の中枢(都)はどこか。」「『神武東侵』:日下の戦いで惨敗する。」で用いたもので、(2)は今回新たに見いだしたもの。(3)(4)(5)(6)は古田氏が諸著書で用いているもので掲載著書名とその初版出版年を付記した。

(1)
青銅器分布
(第一学習社「新選日本史図表」1985)

(2)
青銅器分布図2
(山川出版社「日本史総合図録」1985)

(3)
青銅器分布3
(俾弥呼より転載)
『失われた九州王朝』1973
『盗まれた神話』1975
『邪馬壹国の論理』1975
『俾弥呼』2011


(4)
青銅器分布4
(『倭人伝を徹底して読む』より転載)
『盗まれた神話』1975
『倭人伝を徹底して読む』1987


(5)
青銅器分布図4
(②'の「中畑」は「中細」の誤り)
『盗まれた神話』1975


(6)
青銅器分布図6
(「日本の古代史界に問う1」から転載しました。(5)から②'を除いたものだから(5)と同じと考えてよいだろう。)
『古代史の宝庫』1977


さて、これまで私はこれらの分布図について次のように考えていた。(4)は細形銅剣(祭器ではなく武器として使われたと私は考えている)だけにしぼった特別な図なので置くとして、一般的には(1)(3)が原型で、その後の遺跡・遺物の発掘成果の進展により、より詳しい(2)(5)(6)ように修正された、と。しかし、出版年を調べると必ずしもそうとは言えないようだ。また、(1)をよく見ると、これを利用したときには気にも留めていなかったが、平形銅剣圏が記入されている。しかしそれは(2)(5)(6)の平形銅剣圏とはずいぶん違う。どちらを信用したらよいのか、私には判断できない。さし当たっては一般に流布しているらしい(2)(5)(6)を採ることにしよう。

 (2)(5)(6)の原典はその注記にある『古代史発掘⑤』のようなので、それを図書館から借りてきた。初版出版年は1974年だった。この年にはもう(2)(5)(6)のような詳しい分布図が完成していたのだった。『古代史発掘⑤』によると、(3)→(2)(5)(6)の変遷は新しい発掘遺物の増加による修正ではなく、既存の発掘遺物群の解釈進展による修正のようだ。そのおおよその経緯は次のようである。

 まず小林行雄氏が銅成分の分析結果を論拠に、銅鐸と対比すべきは武器型祭器であるとし、銅鐸と武器型祭器による分布を提唱した。さらに原田大六氏が武器型祭器の中でも墓から出土するものを除外して、埋納遺跡から出土する武器形祭器と銅鐸だけをとりあげ、初めて青銅祭器による分布図を作成したという。それをさらに詳細化していったのが(2)(5)である。原田氏は(3)のような分布図は「虚構」であるとまで言っているそうだ。

 ところで(3)「細形銅剣分布図」はなんだろう。私は細形の銅剣・銅矛・銅戈は武器として用いられたものであり、それらが祭祀器として大型化していったと考えている。しかし細形銅剣は一般兵士が用いる兵器ではなかった。「倭人伝」に次の一節がある。

兵に矛・盾・木弓を用う。木弓は下を短く上を長くし、竹箭は或は鉄鏃、或は骨鏃なり。

 ここに剣はない。剣は「三種の神器」の一つであり、権力のシンボルだった。『倭人伝を徹底して読む』で古田氏は、「魏志」から14例もの「剣」にまつわる文例を引いて、次のように結論している。

「この細形銅剣は、大体貴族や豪族が持つもので、先ほどの「剣履上殿」の例にあるように、剣は天子の信任を得た者だけに許されるものでした。」

 さて、銅剣・銅矛・銅戈が大型化して平形銅剣や広形銅矛・広形銅戈となり、祭器として使われるようになったのは何時頃なのだろうか。私は一番知りたい事柄なのだが、『古代史発掘⑤』からは全く読み取れない。残念なことに「青銅器の分布」の章を次のように締めくくっている。

「 以上、青銅器の分布についての現状を概観した。弥生時代の歴史のなかでの意義づけ、青銅祭器相互の年代関係をはじめとして、論すべき多くの問題を残したままで稿をとじるが、これについては将来に期したい。」

(次回に続く。)
不定期便1724 《続・「真説古代史」拾遺篇》(121)



「倭人伝」中の倭語の読み方(64)
「21国」の比定:女王国統属下の国々(その三)


 既に「「狗奴国」は何処?(2)」で倭王武の上奏文を手掛かりに「九州王朝の領域」を論じているが、重複をいとわず、改めてより詳しく検討してみる。

〈論点二〉

(以下は『失われた九州王朝』『俾弥呼』を教科書にしています。次の上奏文中の赤字は解読上のキーワードを示している。)

封国は偏遠にして、藩を外に作(な)す。昔より祖禰(そでい)躬(みず)から甲冑を擐(つらぬ)き、山川を跋渉し、寧処に遑(いとま)あらず。東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国、渡りて海北を平ぐること九十五国。王道融泰にして、土を廓(ひら)きを遐(はるか)にす。累葉朝宗して歳に愆(あやま)らず。、下愚なりと雖も、忝なくも先緒を胤(つ)ぎ、統ぶる所を駆率し、天極に帰崇し、道百済を遙(へ)て、船舫を装治す。(以下略)

 「祖禰」とはどういう意味か。「井の中」では「祖父と父」と解釈している。手元の2冊の漢和辞典を調べてみた。二冊とも「祖禰」はないが、「禰祖(でいそ)」という熟語を載せている。意味は「①父のおたまやと祖父のおたまや。②死んだ父と祖父。③父のおたまやと先祖のおたまや。」となっている。「祖禰」も同じ意味だろう。念のため『諸橋大辞典』を調べたら「祖禰」があった。「祖は先祖の廟、禰は父の廟。」となっていた。「禰祖」の③と同じ意としている。古田氏は「帰して祖禰の廟に至る。」(史記、五帝紀)を引いている。「祖禰」とは必ずしも「廟」を意味するわけではなく、「祖先と父」への敬称として使われている例である。「上奏文中の「祖禰」も「祖先と父」への敬称であり、「はるか遠い祖先から父に至るまで」という意味だ。決して「祖父と父」ではない。

 つぎは「毛人」と「衆夷」。「井の中」ではなんの検証もなしに当然のことであるかのように「毛人=蝦夷・アイヌ」「衆夷=熊襲・隼人など」として臆面もない。『日本書紀』に「毛人」が一例だけある。「敏達紀」10年閏2月条の蝦夷討伐説話の分注に〈魁帥(ひとごのかみ)は、大毛人(おほえみし)なり〉とある。「毛人」の方はこれを根拠にしているのかも知れない。

 次は「畿」。「畿=王城中心に四方五百里」としている。これは『詩経』が出典であり、どの漢和辞典もこの意味を挙げている。この意味には問題はないが、「井の中」ではこの「畿」を近畿大和に比定して恬として恥じない点が問題だ。全ての過ちは、「倭の五王」はヤマト王権の王たちというあの噴飯ものの比定から始まっている。(「畿」については『「大化改新」の真相(11)』、「井の中」での「倭の五王」については『「倭の五王」とはだれか』を参照してください。)

 これらの問題を解くカギが「臣」である。倭王武は自らを「臣」と呼んでいる。「臣・倭王武」にとって「畿」(天子の地)は南朝の帝都・建康(現在の南京)である。全てそこを原点とした上奏文なのだ。その原点から俯瞰すると「毛人」「衆夷」の意味が解ける。「井の中」の愚説に対する批判も含めて、古田氏の解読をそのまま引用しよう。

 これに対する「定説」の立場を分析しよう。倭王の居する近畿大和を畿内(天子の王城を中心として四方五百里以内の地)とし、その中心点から、東なる〝末服の民″を「毛人」、西なる〝未服の民″を「衆夷」とよんだこととなる。この場合、無論倭王とその直属の近畿大和は、「毛人」にも「衆夷」にも属しない、と見られる。

 このように自分の主たる領域を中心として、辺境を夷蛮視する ― これは当然、中国の天子の夷蛮観のミニチュア版だ。「東夷・西戎(せいじゅう)・北狄(ほくてき)・南蛮」、この慣用句が自分たち(中国人)だけをまっとうな人間とし、その四囲の民を野獣や害虫めいた名で呼ぶ、独特の中華思想に立っていることは有名である。

 日本においても、天皇家がこのような〝中華思想の輸入″を行ない、その日本版を使用したことは確かである。天皇家の公的史書である『古事記』や『日本書紀』に、東国の民を「蝦夷」と呼び、九州の民を「熊襲(くまそ)」と呼んでいるのが、それだ。いずれも天皇家への〝未服従の民″に対して「虫」や「獣」めいた名をあてているのである。しかも東を「東夷」にならって「蝦夷」と書き、西を「熊襲」という「西戎」めいた表現でよんでいる。〝まっとうな人間″は天皇家に早くから服従していた、近畿大和を中心とする民だけだ、という論法である。この視点が倭王武の上表文にもすでに使用されている。 ― 従来はそう考えてきた。果してそうだろうか。

 そう考える上で第一の難点は「西は衆夷」という表現だ。先の慣用句にもあったように、「東夷」というのが中国の伝統的な表現方法だ。近畿大和から見て西方の未服従の民を「夷」をもって表現するのは不可解である。

(なお慎重に論ずれば、西夷という用語自体はたしかに存在する〔「東征西夷怨」(『書経』、仲虺之誥)、「西夷之人」(『孟子』、離婁下)〕。また『宋書』夷蛮伝にも「西南夷」という概念がある。しかし、肝心の宋書「倭国伝」は当然のことながら、「東夷」伝内だ。すなわち、「東夷高句麗国」を先頭に「百済国」「倭国」は東夷に属している。その真只中で、「西」に「夷」を用いた、と見るのはやはり不自然というほかない)。

 第二の難点は「東は毛人」だ。

(1)毛民之国、其の北に在り。人と為り毛を生ず。(山海経、海外東経)
(2毛民、労民(注 其人、体半ば毛を生ず。矢鏃の若し)。(淮南子、墜形訓)


 『山海経(せんがいきょう)』では「海外、東南陬(すみ)より東北陬に至る者」を「海外東経」に属さしめる。「大人国・君子国」にはじまり、「毛民之国・労民国」にいたっている。つまり「毛民」は中国の東方の夷蛮の中でも最僻隅に位置しているのである。したがって「毛」という字は、朝鮮半島より倭国にまたがって「東夷」と名づけられた国々より、さらに一段と〝辺遠″というイメージをもつ。すなわち中国を中心にして、東に「夷」があり、さらにその彼方に「毛」がある、というわけだ。ところが、従来の「定説」では、倭王武はみずからの属する近畿大和の東に「夷」をおかず、(逆に「夷」は西方と呼び)いきなり東の方を「毛」と名づけていることとなる。つまり、中国の本来の「夷」「毛」の用字法、その固有イメージを全く無視して使用していることとなってしまう。これも倭王の無知のせいだ、として解決できるだろうか。しかし、この上表文は堂々たる中国文である。中国の用字・用文に十二分に習熟した文体だ。この明白な事実と右の中国用字法への根本的な無知とは、決定的に矛盾する。

 では、倭王が九州に都している、としたときはどうだろう。この場合、日本列島の西なる「衆」とは、みずからの都を中心として、それをとりまく九州の地の民それ自身をさすこととなる。すなわち、中国の天子を基点として、「東夷」なる、みずからを指していることとなろう。そしてその東夷の地たる九州のさらに東の辺遠(中国から見て)に当る中国地方・四国地方(各、西半部)の民を「毛人」と呼んだこととなろう。つまり、ここでは中国の天子を中心とし、これを原点として東に「夷」、さらに東の辺隅に「毛」、という図式がピッタリとあてはまっているのである(この点、これにならって近畿大和を中心に中国地方・四国・九州全部を「衆夷」と見なそうとしても駄目だ。なぜなら、それでは「毛人五十五国」「海北九十五国」に比して、「衆夷六十六国」の国の数があまりに少なすぎるのである)。

 以上のように、九州を倭の五王の都の地としたとき、その用字法は中国の慣例的用字法そのままであり、中国文の正規の用法と見事に相応しているのである。

 さて、「衆夷」と「毛人」の国数の合計は121国である。この121国の領域は次の漢書・後漢書・魏書が記録する百余国と同一である、と古田氏は言う。

楽浪海中、倭人有り。分れて百余国を為す。歳時を以て来り献見す、と云う。(『漢書』地理志)

倭は……凡そ百余国あり。武帝、朝鮮を滅ぼしてより、使駅漢に通ずる者、三十許国なり。(後漢書、倭伝)

倭人は……旧百余国。漢の時朝見する者有り。今、使訳通ずる所三十国。〈三国志、魏志倭人伝)

 なお、古田氏は『失われた九州王朝』(1973年刊)では百余国が統合されて三十許国になったと解釈していた。しかし、『俾弥呼』(2011年9月刊)では三十国とは百余国の中の「親魏倭国」という解釈になっている。このことは既に「狗奴国の滅亡(16)」で取り上げている。もちろん私は後者の説を支持する。「三十国に統合された」では、「倭人伝」の時代の国としては、一国の領域が大きすぎる。〈第一グループ〉の「(1)対海国 (2)一大国 (3)末盧国 (4)伊都国 (5)奴国 (6)不弥国」を見れば明らかだろう。ちなみに、「諸夷」「毛人」の領域を最大限にとって九州全体・四国全体・中国地方(播磨までとする)としてその領域内の令制下の国を数えてみたら、なんと、ちょうど30国あった。

九州(11国)
 対馬・壱岐・筑前・筑後・豊前・豊後・肥前・肥後・日向・薩摩・大隅
四国(4国)
 伊予・土佐・讃岐・阿波
中国(15国)
長門・周防・石見・安芸・出雲・隠岐・伯耆・因幡・但馬・美作・備後・備中・備前・淡路・播磨

 さて、倭王武の上奏文の121国の領域と他の漢籍が記録している百余国の領域が同一なら、「祖禰」の「祖」は遙か漢時代あるいはそれ以前にまで遡ることになる。このことの傍証のつもりで、「「狗奴国」は何処?(2)」では冒頭に年表を掲載しておいたが(下に再掲載した)、このことについてはほとんど説明をしていなかった。この年表の九州王朝の欄の紀元前の部分は全て私の推測に過ぎない。この推測に大きな錯誤はないということが大前提になるので、なんとも頼りないことではあるが、改めて説明をしておきたい。

古代史年表

 史料・金石文などで年代を確認できるものについてはそれを ( )で示した。
年代記載のないものは推定です。


年代 中国 朝鮮 銅矛文化圏
九州王朝
銅鐸文化圏
ヤマト王権
BC4th 戦国時代 青銅器文化始
BC3th 秦(221-206) 鋳造鉄器伝播    
BC2th 前漢(202-)   国ゆずり・天孫降臨「天国→筑前」  
  漢・朝鮮に4郡設置(BC108-107) 錬鉄鍛造品 朝鮮からの渡来者多数  
BC2th   高句麗国成立 橿日宮の女王の筑紫統一「筑前→筑後」  
BC2th-BC1th     前つ君の九州一円統一  
BC1th     「九州→淡路島以西」平定  
BC1TH-AD1th 後漢(25-)   漢から委奴(ゐど)の国王に金印授与される(AD57)  
AD1th-AD2th     倭の国王帥升漢に請見(AD107) イワレヒコ東侵開始
AD3th 三国時代
魏(220-265)
  邪馬壱国卑弥呼・魏に朝貢(240) イワレヒコの末裔AD3th末ごろまでヤマト盆地の一豪族として地歩を固める(216)
  西晋(265-316)
この頃、三国志成る
三韓時代 壱与・西晋に朝貢(266) ミマキイリビコ(崇神)、ヤマト盆地より出撃・銅鐸国簒奪開始
AD3th-AD4th     イクメイリビコ(垂仁)沙本城の戦い・銅鐸国滅亡


 「BC1th」の欄に『「九州→淡路島以西」平定』と書いたが、これは広すぎるかも知れない。ここは瀬戸内海に面した範囲内とし、その他の地域はAD1th~AD3thに入れるのがよいのではないかとも考えている。ともあれ、吉備・讃岐あたりまでは女王国の統属下に入っていたと思う。その根拠はイワレヒコの東侵説話である。イワレヒコは東侵の途中、安芸・吉備にそれぞれ7年・8年(二倍歴なので3~4年)滞在している。戦闘した形跡はない。たぶんヤマトへの侵攻に備えて戦闘訓練をし、兵器・兵糧などの援助を受けるための滞在だった。あるいは兵士の提供も受けていたかも知れない。安芸・吉備はそれほどに親和的な国だった。つまり、すでに女王国統属下の国々だった。

 傍証をもう一つ。


安帝の永初元年、倭の国王帥升(すいしょう)等、生口百六十人を献じ、請見を願う。(後漢書・倭伝)


政等、檄を以て壹与を告喩す。壹与、倭の大夫率善中郎将掖邪狗等二十人を遣わし、政等を送りて還らしむ。因りて臺に詣り、男女生口三十人を献上し、白珠五千孔、青大句珠(こうしゅ)二枚、異文(いもん)雑錦二十匹を貢す。(魏志倭人伝)


 従来は一般に「生口」を奴隷(捕虜)と解釈してきた。私もそのように理解していた。この解釈に対して、古田氏は②の生口30人が親魏倭国の30国と同じなのは偶然の一致だろうかと問い、次のような新解釈を提出している。

 中国の歴代の史書が〝依拠する″立場がある。それは「中華思想」だ。その要点を左に記してみよう。

第一、中国と周辺の国々「夷蛮」)との関係を「上下関係」で扱う。
第二、したがって「中国と他国との交流」を「献上」と「下賜」の形で記載する。

 ここで①を引用して次のように続けている。

 しかし、この「訓み」は疑問だ。右のような、通例の〝訓み″に従えば、その意味は次のようになろう。

(その一)倭国の王、帥升(すいしょう)自身が漢の都、洛陽へおもむいた。
(その二)そのさい「捕虜、百六十人」を漢の天子、安帝に献上した。

 しかし、この「理解」は疑問だ。なぜなら「捕虜百六十人」を、倭国王がみずからひきいて、漢の都へ向かったのか。もし、そうとすれば、「百六十人」をはるかに上廻る「倭国の軍団」がこれを〝ひきいて″いなければならぬ。けれども、そのような「倭人軍団」の存在は、一切書かれていない。

 これに対し、「生口」の語は「捕虜」を指すだけではない。「牛馬」を指す用法もある。たとえば「人口」という術語も、「捕虜の人数」ではない。「生きた人間の数」だ。(管理人注: 「家口」という熟語もある。「家族」という意味である。)

 同じく、この「生口」も、〝生きた人間の数″を指しているのではあるまいか。すなわち、倭国内の各地の倭人の使者団の〝総数″である。

 この場合、倭国王自身がみずから「洛陽」へ参上する必要はない。使節団160人を洛陽に送り、この「百六十人」に対する、漢の天子の「請見」を求めたこととなろう。この場合はもちろん、「百六十人」以外の、そして以上の「倭軍集団」の存在など不要だ。彼等160人こそ、「倭国の各地からの使節団」なのであるから。

 右のような「解釈」と〝対応″し、これを裏づけているのが、先述の「三国志」の倭人伝冒頭の言葉である。

旧百余国。漢の時朝見する者あり。

 右の「百六十人」が、倭国内の各国からの1名ないし2名の「代表者」であった場合、この「百余国(=130~40国)」の「朝見」と、ほぼ一致する。彼等は、中国の天子、安帝の「請見」を願って、はるばる洛陽へとおもむいたのであるから。

 この倭人伝内で、俾弥呼が大夫難升米等を京都(洛陽)へ送り、「天子に詣りて朝献せんことを求む。」と書かれているのは、この「漢代の故事」に習ったもの。その歴史的背景を、陳寿は倭人伝の冒頭に記したのではあるまいか。

 けれども「統一されていた、漢王朝の時代」とは異なり、いち早く「親魏」の立場を鮮明にした国々は、わずか「三十国」にとどまっていたのであった。

 私には「倭の国王帥升等」の「等」とは何者だろうかという疑問があった。この古田氏の新解釈が正しいのなら(私は正しいと判断した)、「倭の国王帥升等百六十名」が請見を願ったという解釈になる。すると、「倭の国王帥升等」が安帝に請見を願った永初元年(107年)の頃には既に倭国傘下の国は百余国あったことになる。
《続・「真説古代史」拾遺篇》(120)



「倭人伝」中の倭語の読み方(63)
「21国」の比定:女王国統属下の国々(その二)


「倭人伝」中の次の二つの文章(〈論点三〉と〈論点四〉)の再検討から始めよう。

〈論点三〉
女王國の東、海を渡る千余里、復た國あり、皆倭種。又侏儒國あり。其の南に在り。人長三・四尺。女王を去る、四千余里。

 まず、「倭人」「倭国」「倭地」「倭種」などと使われている「倭」の訓みと意味を確認しておこう。訓みは「ワ」のほかに「ヰ」がある。「ワ」が一般的だが「ヰ」と訓む可能性もある。古田氏による読下し文では「わ(ゐ)」と「ゐ」と訓む可能性も示唆している。私は一貫して一般的な訓みに従い「ワ」と訓んでいる。「倭」の意味は「凶奴」に対する「倭奴」の「倭」であり、あくまでも「東南大海の中」の異種族に対する中国側からの命名である。

 さて、「投馬国」の場合と同様、魏使は実際に「侏儒国」に行っていると考えてよいだろう。「人長三・四尺」という記録を残している。途中で寄った国があったとしても、「侏儒国」が目的の航海だった。

 博多から水行1千里(約76㎞)の地は下関辺りとなる。「投馬国(4)」で概算した古代船の速度を用いると1千里の航海時間は20時間~27時間となる。無理をすれば一日で行ける距離だが、一日の航海時間を10時間ぐらいとすると、途中鐘崎港辺りで停泊したかも知れない。いずれにしても下関港か門司港に停泊しただろう(3世紀頃にも港があったとして)。もしかすると下関港に停泊して上陸もしたかも知れない。いずれにしても始めて通過する下関側(九州外)の地には強い関心を持つたことだろう。上陸しなかったとしても随行の倭人にその国のことを質問していると思う。それを「復た國あり、皆倭種」。と記録した。「倭国」と認識している。また「皆」と行っているのだから、その「倭国」は複数とも認識している。もちろん「侏儒国」も「倭国」の一つという認識である。総じて魏使は中国・四国地方にも「倭国」があるという認識を得ていた。

 くだんの記事から私が読み取れるのはこれだけである。この記事からだけでは魏使が新たに知った「倭国」が女王国統属下の国々なのかどうかは判定できない。しかし、もしも「皆倭種」が随行した倭人から得た知識だとすると、女王国統属下の国々だったと考えられる。〈論点1〉での古田氏の文言「別個の祭祀圏として対立していた」が真実なら、倭人がその事を伝えないはずがないと思う。逆に言うと、〈論点一〉の検討を待つべきことながら、私はそのような対立はなかったと考えている。

 ちなみに、「『魏志倭人伝』和訳文(2)」では、次のように、参考にしていた『筑摩古典文学全集・三国志Ⅱ』の文章をそのまま転記している。訂正の必要はないと考える。

「女王国から東に一千余里の海を渡ると、別の国々があって、それらもみな倭と同じ人種である。」

 なお改めて、「侏儒国」への到着地を土佐清水辺りと仮定して、博多から土佐清水までのおおよその航海距離を地図上で糸を用いて測ってみたら約320㎞ぐらいになった。4千里は短里で約300㎞。かなり大雑把な測り方なのに、この結果にちょっと驚いている。ここでも古田氏の「短里説」と「倭人伝」の記述の信憑性が確認できた。

〈論点四〉
倭地を参問するに、海中洲島の上に絶在し、或は絶え或は連なること、周施五千余里なる可し。

 私はこの文章中の文言を
「参問」→「倭人への質問」
「周旋」→「ぐるっと一巡りすること」
と解釈して、「烏奴国(その二)」で、次のように書いている。

『私は「倭地」を九州全体と考えていたが、九州の南北の最長部分の直線距離300㎞ぐらいなので「周施五千余里」では小さすぎる。「周施五千余里」は「愛読者」さんの解釈が正しいようだ。しかし、これは「倭地を参問する」に対する答だから魏使が倭人から得た情報である。回答者は「倭地」を「倭国」とは異なる概念ととらえて、「周施五千余里」と答えたのだろう。もしかすると倭人の間では「前つ君」征服譚の遠征範囲が「倭地」だった? 範囲がピッタリ一致している。偶然だろうか。古くから九州王朝に帰属していた地域を「倭地」と呼んでいたのではないだろうか。』

 よく考えてみたら、この説は全面的に訂正しなければならない。

 まず第一に、〈論点三〉の始めに確認したように「倭」は中国側の命名である。陳寿(あるいは魏使)が「倭」の国々の一部領域を「倭地」と呼んだとは考えられない。「倭地」とは素直に「倭国の存在する領域」という意だ。

 次ぎに、私は「海中洲島の上に絶在し、或は絶え或はは連なること」の部分を全くおろそかにしていた。これは魏使が実際に見聞したことを記述したと解釈すべきだろう。そこで、改めて「参問」と「周旋」の意味を検討してみた。(手元の諸橋徹次ほか著『新漢和辞典』を用いている。)

 「参」には「まいる。行く。至る。」という意がある。「問」は「おとずれる」。「参問」とは「(実際に)訪れ行く」という意である。次ぎに「周」と「旋」はともに「めぐる。」という意。あるいは「周」は「したしむ。」とう意を採るのが適切かも知れない。「周旋」は「実際に(親しく)めぐる」という意であり、必ずしも「ぐるっと一巡りする」という意ではない。

 『筑摩古典文学全集・三国志Ⅱ』から転記した文章は次のようになっている。

「いろいろな情報を総合してみると、倭の地は、大海中の孤立した島の洲の上にあって、国々は連なったり離れたりしながら分布し、ぐるっとめぐると五千余里ほどである。」

 私なりに書き換えてみよう。

「実際に倭地を訪れた見聞をまとめると、倭地は海中の島の上に点在したり連なったりしている。実際に巡り訪れた倭地の行程距離は五千余里ほどである。」

 九州も島と認識していると思う。では「五千余里」とは何か。魏使の全旅程表は次のようだった。(『「邪馬台国」論争は終わっている。(5)』より再度転載)

 7000里  帯方郡治-狗邪韓国(水・陸行)
 1000里  狗邪韓国一対海国(水行)
  800里  対海国(半周,陸行)
 1000里  対海国-一大国(水行)
  600里  一大国(半周,陸行)
 1000里  一大国-末廬国(水行)
  500里  末廬国-伊都国(陸行)
  100里  伊都国-不弥国(陸行)

計12000里(全里程)
 つまり「五千余里」とは「狗邪韓国~不弥国」の倭地内の里程数なのだった。この一文は魏使による里程記事の総まとめという意味合いの一節である。