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《続・「真説古代史」拾遺篇》(119)



「倭人伝」中の倭語の読み方(62)
「21国」の比定:女王国統属下の国々(その一)


 「21国」の比定が一通り終わった。図示してみよう。

〈第二グループ〉
(9)斯馬国 (10)已百支国 (11)伊邪国 (12)郡支国 (13)弥奴国 (14)好古都国 (15)不呼国 (16)姐奴国 (17)対蘇国 (18)蘇奴国 (19)呼邑国 (20)華奴蘇奴国 (21)鬼国 (22)為吾国 (23)鬼奴国 (24)邪馬国 (25)躬臣国 (26)巴利国 (27)支惟国 (28)烏奴国 (29)奴国

「21国」の比定地

 このように自分なりの説を出してみたが、かならず何らかの推測や保留点が含まれていて「絶対ここだ」と主張できるケースは一つもない。100%正しい説などあり得ないのではないかと思えてくる。この問題を手がけた人たちの説を見ると、まさに十人十色・議論百出・甲論乙駁・諸説紛々といったところ。確実な直接資料がないのだから当然といえば当然な結果である。しかし、まったく信憑性のない説を淘汰することはできる。それは各論者が、「倭人伝」のみならず、日本・中国・朝鮮の史書をどう解読しているかに関わる。もちろん私にはそのような解読を自力で行うことなどできない。全般的に論理的破綻のない説に依拠するほかない。乏しい知識ではあるが、今のところ私は信頼できる説を古田史学以外に知らない。

 ここで「21国」比定に関わる根本的な問題を取り上げよう。「21国」の比定地は「九州内で求めるべき」ではないか、という「愛読者」さんから提起された問題である(6月26日・8月21日付のコメントを参照してください)。「井の中」の「邪馬台国」九州説者たちが何の検証なしに「九州内に求める」ことを前提として議論を始めていると同じように、私は比定国を「銅鐸圏内に求める」ことを当たり前と考えて始めてしまった。この問題をキチンと検証してから始めるべきだった。遅まきながらこの問題を取り上げる次第である。もし「九州内に求める」ことが正しいことになれば、私が九州以外に比定した国はすべてまぼろしの国ということになる。

 まず用語について確認しておこう。これまで「邪馬壹国を盟主とする国々」という意味で「女王国の版図」という言葉を使ってきたが、この言葉は「邪馬壹国が直接統治している国」とか「邪馬壹国の領地」というような意味にも取れるので曖昧な用語のきらいがある。そこで「女王国の版図」に代わって、「倭人伝」中の用語を使い「女王国統属下の国」を用いることにする。また、「21国」(広くは30国)を問題にする場合は「親魏倭国」という言葉を使おう。確認するまでもなく、私(たち)の立場では「親魏倭国」は言わば「女王国統属下の国々」の部分集合である。つまり、銅鐸圏には「親魏倭国」はないという立場である。

 さて、「愛読者」さんから提出いただいた論点を整理してみよう。第一点は「愛読者」さんが
(『古代史の宝庫』朝日新聞社1977年・「『倭人も太平洋を渡った』補一 日本の古代史界に問う1」HPで公開による)
と出典を明らかにしているので、それを直接読んで整理する。

〈論点一〉

 古田氏によれば、弥生中期(紀元前1世紀~後1世紀)では青銅器分布は大きくA:武器型祭祀圏(私は銅鐸圏と呼んできた)とB:銅鐸圏の二つに分けられる。

A圏:細矛・細戈・細剣圏(淡路島以西)
B:銅鐸圏域

  二世紀以降、A圏はさらに二つに分かれる。つまり三つの圏域になる。次のようである。

A西:中広・広矛と中広・広戈圏(北・中部九州)
A東:平剣圏(瀬戸内海)
B:銅鐸圏域

そして、A圏は
「今や東・西二圏に分裂し、それそれ別個の祭祀圏として対立していたのである。」
と述べている。

 この古田説によれば、A西圏が「邪馬壹国傘下の国」である、というのが「愛読者」さんの指摘するところである。

〈論点二〉

 私は「(13)弥奴国(その二)」で、倭王武の上表文を引いて、次のように書いた。

『倭王武の上表文は、まさに九州王朝の「祖禰」が部族国家連合体を形成していった経緯を表現している。その連合体の版図は現在「銅剣・銅鉾・銅戈圏」と呼ばれている領域にほかならない。「銅鐸圏」は異なる祭祀によって統合された別の部族国家連合体である。』

 これに対して「愛読者」さんから次のようは問題提起があった。(2は分かりにくい点があったので、私の理解に沿って書き換えた。多分誤解はしていないと思う。)


 倭王武の言う「祖禰」が何時のころからか定かでありませんが、「東の毛人を征した」のが3世紀卑弥呼以降の九州王朝の天子であれば、卑弥呼の女王国の範囲は九州とその近辺に止まっていたことになります。


 「東の毛人」は、倭国とか倭人・倭種とは別の、5世紀末の概念です。

〈論点三〉

倭人伝中の
「女王國の東、海を渡る千余里、また國あり、皆倭種。」
の解釈の問題である。「愛読者」さんのコメントは次のようである。

「この千里が短里で約76キロですから、九州より東は女王国でなかったという根拠にもなるのでは。」

〈論点四〉

 倭人伝中の
「倭地を参問するに、海中洲島の上に絶在し、あるいは絶えあるいは連なること、周施五千余里なるべし。」
の解釈である。愛読者さんは次のように述べている。

 倭地は「周施五千余里」とあって、「余里」としても短里なら400~500キロ未満です。この範囲は伊万里―関門海峡―大分―熊本―伊万里という4角形位のもので、どう見ても九州内です。

 また、「奴國有り。此れ女王の境界の尽くる所」とある一方、「女王國の東、海を渡る千余里、また國あり、皆倭種なり」とあります。これは千余里(80~100キロ・博多湾から山口の宇部位)離れれば別の倭人の国があるという意味で、21国はその内側とならないでしょうか?

 やはり九州内で求めるべきでは、と悩んでいます。

 次回、この4論点を検討してみよう。
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《続・「真説古代史」拾遺篇》(118)



「倭人伝」中の倭語の読み方(61)
「21国」の比定:(27)支惟国(その二)


 「支惟国」の候補地として上がっている比定地のうち、「吉備国」は私の立場からは除外することになる。その地域には既に「好古都国」「鬼国」「鬼奴国」を比定している。

 「肥前国基肄郡」と「紀伊国」については前回挙げた第一の疑問を検討しなければならない。

 「已百支国」の訓みについて論じたとき、古代では「ワ」と「ハ」ははっきりと違う音として区別されていたことを確認したが、「ヰ」と「イ」もそうだったと考えて間違いないだろう。ウィキペディアから仕入れた知識だけれども、次のようである。

『古代ではヰは[wi]と発音され、イは[i]と発音されて区別されていた。…13世紀なかばに入るとイとヰは統合した。』(「…」には統合に至るまでの経過が文献を用いて詳論されているが省略した。)

 倭人は音を転写するとき厳密な漢字採用をしたのではなく、類音を用いたに過ぎないという論もあるかと思うが、私としては倭人は「ヰ」と「イ」をまったく異なる音として転写すべき漢字を選んでいたと考る。その立場で考えるとどうなるか。

 「支惟」は「キヰ」である。「基肄」はどうか。『諸橋大辞典』によると「肄」の音は「①イ ②シ ③エイ」だから「基肄」は「キイ」「キシ」「キエイ」のいずれかとなるが、いずれにしても「キヰ」ではない。「紀伊」の「伊」は万葉仮名にもなっているが、「イ」の音しかない。やはり「キヰ」ではない。両方とも「支惟国」の比定地にはできない。

 音の上からだけではなく、立地条件からも異議がある。「邪馬壹国」の領域は文献的には不明だが、私は弥生銀座と呼ばれている地域を想定している。南の境界は「朝倉郡」辺りだろう。「基肄郡」は「朝倉郡」の真西10数㎞の位置にある。そこは古田氏が言うように「筑前と筑後をおさえる〝ネック″(頸部)である」。「基肄郡」は邪馬壹国に繰り込まれていたと考えられる。このことが、もしかすると古田氏が「基肄郡」ではなく「紀伊国」を選んだ理由かも知れない。

 その「紀伊国」。私は「邪馬」を「ヤマト」に比定する古田説に賛成したが、その理由の一つはヤマトが九州王朝の分流として「21国」(親魏倭国)の一つである可能性大と考えたからだった。それに対して、私には「紀伊国」が「21国」(親魏倭国)の一つであった可能性を示す根拠が見いだせない。

 それでは「支惟国」は何処なのだろうか。『日本古代地名事典』を調べていたら、「城井」という地名に出会った。この事典は「ヰ」と「イ」を区別せずに、「ヰ」はすべて「イ」と扱っている。だから「城井」の訓みも「キイ」としている。しかし、解説文の中で「ヰ」と「イ」の問題に触れている。

きい[城井]
 『和名抄』豊前国仲津郡に「城井郷」で見え、福岡県京都(みやこ)郡みやこ町木井馬場が遺称地。「紀伊」と同義という説があるが、「きい(紀伊)」と「きゐ(城井)」は別語であり、「きゐ(木井)」の意で、木で囲った井泉の意かと思われる。

 「城」の音は「ジョウ」だけだが、万葉仮名「キ(乙類)」として使われている。「井」の音はセイ(漢音)・ショウ(呉音)だが、「井」も万葉仮名「ヰ」として使われている。

 『日本歴史地名大系』によると「仲津郡」の郡域は「およそ現在の行橋市東部、京都郡の豊津(とよつ)町・犀川(さいがわ)町に相当する」。ウィキペディアの「みやこ市」を調べたら
「2006年3月20日 豊津町・犀川町・勝山町の3町が対等合併し、みやこ町が発足。」
とあった。みやこ市のうち御所ヶ岳と飯岳山を結ぶ線の北側が京都郡(勝山町)の領域であり、その南側全体(豊津町・犀川町)は仲津郡の領域である。「城井」は下の地図の犀川町辺りのようだ。

豊前国の地図

 上の引用文では遺称地は現在の京都郡みやこ町にあると書いてるが、当然のこととはいえ、「城井」の遺称地「木井馬場」も仲津郡内の地名であることがはっきりした。「支惟国」は仲津郡城井郷を含む地域がその領域ということになる。

 では古冢時代の仲津郡はどのような地域だったか。『日本歴史地名大系』の「仲津郡」の項は風土記の地名説話や郡域などの記事だけで遺跡や遺物の記述がない。たぶん「京都郡」の項にまとめて書かれているのだろうと思い「京都郡」を調べた。縄文時代については次のように解説している。

 縄文時代の遺跡は南部の祓川・今川の中流域に数多く分布している。早期では豊津町徳永川(とくなかがわ)ノ上遺跡、犀川町清四郎(せいしろう)遺跡・五反田(ごたんだ)遺跡で押型文上器が発見され、犀川町自在丸(じざいまる)遺跡から押型文土器と前期の轟B式土器が出ている。

 後期から晩期の遺跡は犀川町内の諸遺跡、ほかに甕棺墓が発見された苅田町浄土院(じょうどいん)遺跡、落し穴による狩猟場と考えられる豊津町徳永遺跡がある。河川の自然堤防から後背地にかけて位置する豊津町節丸西遺跡は当地域最大の後期の集落跡であり、勝山町中黒田(なかくろだ)遺跡も後期の集落らしい。

 縄文時代は豊津・犀川が中心だったことが分る。豊津・犀川を貫いて流れ行橋市に河口を持つ祓川(はらいがわ)の源流は英彦山(ひこさん)だという。ずいぶん変わった訓みの山だな、と印象に残ったが、偶然にも今日(9月27日)の東京新聞朝刊に「古来九州一円で信仰 英彦山修験道復活へ」という記事があった。その記事から今のテーマに関連する事項をまとめて、急遽追記することにした。

 英彦山神宮(福岡県添田町)所蔵の「彦山縁起」によると、英彦山は531年に開山したとある。磐井が九州王朝の天子だった頃である(もちろん新聞記事は「井の中」の定説に従って大和朝廷時代と書いている)。さらに、英彦山を30年以上研究しているという添田町教務課文化財係の岩本教之係長さんの次のような談話が掲載されたいる。
「英彦山は修行の場、生活の場、山頂の聖地の全てがそろい、ここだけで信仰を完結できる稀有な山.。信仰が生きている、霊山本来の姿に戻ることは山を守ることにもつながる」
 修験道場として開山したのは6世紀だが、私は縄文時代から、いや石器時代から聖なる山として崇められていたのではないかと推測する。

 さて、古冢時代についてはネットで出会ったPDFファイル(http://miyako-museum.jp/digest/pdf/toyotsu/2-3-3-2.pdf)が詳しいのでそこから転載する。

 弥生時代前期の集落のうち、前葉・中葉の集落は京都平野に入り込んでいた内湾の沿岸部に沿って営まれるものが多い。これは初期の水稲耕作を行う場合、生産地である水田が、形成されつつあった沖積地の湿潤な低湿地に設定されたためと考えられる。辻垣遺跡では前葉の集落が祓川下流の後背湿地に立地するが、水害に対する防御施設として環濠をめぐらしている。

 中葉の葛川遺跡も、同じ内湾の北西部に位置し、低丘陵の先端部に貯蔵穴群を取り囲む環濠をめぐらしている。また、長井遺跡や石並遺跡の場合、この内湾と外海の周防灘とを分ける海岸砂丘上に立地し、水田を開発する適地が少ないことから、この遺跡を残した人々は水稲耕作以外の狩猟・漁労などに従事していたことも想像される。

 前期後葉になると海岸から2~3㎞入った平野の奥でも集落が営まれるようになる。しかも、急激にその数が増加するとともに、下稗田遺跡のような大規模な拠点集落が形成されるようになる。この時期にはやくも、犀川町タカダ遺跡のように河川の中流域でも小規模な集落が営まれるが、技術的にまだ耕作地として開発しにくい土地であることから、水稲耕作に伴うものか疑問が残る。

 集落の増加傾向は中期前葉まで続き、新たな水田開発を目指して、拠点集落から分かれた分村が各地に営まれる。分村型の集落は豊津町金築遺跡、築城町広末・安永遺跡、大平村土佐井ミソンデ遺跡のように、比較的短期間で姿を消すものが多く、中葉まで続いた集落も後葉には途絶えてしまう。下稗田遺跡が示すとおり、京築地域の弥生時代を通じて集落が最も減少するのが中期後葉である。この時期は住居跡の形態や集落の構成の面からも過渡的な時期となっており、築城町安武・深田遺跡や新吉富村尻高畑田遺跡などで、住居跡が調査されている。

 前期後葉から中期中葉にかけての集落の立地は、一部沖積平野内の微高地に位置するものがあるが、多くは水田に近接する縁辺部の標高30~40m前後の低丘陵上に営まれる。

 後期になると、苅田町谷遺跡や苅田町木ノ坪遺跡・築城町十双遺跡のように、平野の奥の舌状台地や沖積地などの標高10~20m前後の低地に、新しい集落が営まれるようになる。一方では下稗田遺跡・竹並遺跡のように、前期から中期にかけて使用していた丘陵上に再び集落を営む場合もある。この時期は一般的に集落の規模が大きくなる。また、大平村穴ケ葉山遺跡の墓地に副葬された豊富な鉄製品が物語るように、石斧や石庖丁などの主要な石製の道具が、鉄製品に交替する時期でもある。その結果として、中期の段階にはできなかった土地を新たに水田として開発することが可能になっていったと想像される。そのことを裏付けるのが、前者にみられるような低地に出現した大規模集落ではないかと考えられる。

 城井郷の遺跡と考えられるのは犀川町タカダ遺跡だけのようだ。この遺跡について「水稲耕作に伴うものか疑問が残る」と解説している。また、「水田を開発する適地が少ないことから、この遺跡を残した人々は水稲耕作以外の狩猟・漁労などに従事していたことも想像される」とあるように城井郷は狩猟・林業・畑作などを主とした集落だったのかも知れない。これに関連して、「角川 日本地名大辞典」の「城井郷」の項に次のようなくだりがある。

『城井郷は祓川流域の山間部に比定されるが、祓川上流の山あいに開けた地域は「浦」をもって呼ばれていた。浦は裏(山裏)である。公順処分状には、城井浦・幡野浦・横瀬浦の名が見え、このうち城井浦がもっとも上流にあって,南を高座に接している。城井浦は,もと豊前国追捕使早部安恒の私領であったが、その山は宇佐宮の33か年一度の式年造営および6年一度の御装束御輿料の杣山となっていた。』

 杣山記事は平安時代の事ではあるが、城井郷は古くから良質の木材を産していたのだろう。ともかく城井郷には古冢期には際立った遺跡はないようだ。ただ、『日本歴史地名大系』の「仲津郡」項には次ぎのような注目すべき記述がある。

『豊前国府の所在地は「和名抄」に「国府、在京都郡」と記されるが、国分寺は仲津郡域にあたる現豊津町国分(こくぶ)にあり、近年発掘調査により国府と推定される遺跡が近くの惣社(そうじゃ)で確認されており、同遺跡では「急急如律令」と記された呪符木簡(木簡研究八)も発見されている。』

 仲津郡豊津は令制期には国府が置かれるほど土地柄だった。

 以上より、古冢期の遺跡・遺物に乏しいが、古田氏が「伊邪国」を徳島県の「祖谷(イヤ)」に比定したとき次のように述べていた。
『三世紀という時代、その「弥生時代」に新たにつけられた地名より、はるかに「長い歴史をもつ地名」、それは「山の地名」だったのである』。
 これと同じ立場を取ろう。私は「支惟国」を仲津郡に比定する。「支惟国」の中心地は豊津であったが、縄文時代には最も繁栄をしていた上、靈山(英彦山)に最も近い「キヰ(城井)」を国名とした。
《続・「真説古代史」拾遺篇》(117)



「倭人伝」中の倭語の読み方(60)
「21国」の比定:(27)支惟国(その一)


 訓みについての水野氏の解説。
『「支」は音「シ」。「惟」は音「ヰ」、義は「これ(維)」「ただ(唯)」「ひとり(独)」「それのみ」「おもんみる(思)」「おもんばかる」である。国名は音の転写。一般に「キイコク」と訓む。』

「支」の音として「シ」しか挙げていないのに「キイコク」と訓んでいる。この書き方は「郡支国」・「己百支国」の場合と同じである。一般には「キイコク」と訓まれているが、ご本人は「シイコク」と訓みたいのだ。一応主張に一貫性がある。

 私(たち)は「己百支国」・「郡支国」で「支」を「キ」と訓んできた。一貫性を保持して「支惟国」も「キイコク」と訓むことになる。が、問題点が一つある。「惟」の音は次のようになっている。(「諸橋大辞典」)


①ヰ(漢音)・ユイ(呉音)
②)ビ(漢音)・ミ(呉音)

 呉音を選べば「キユイ」・「キミ」となるが「キユイ」は和語の体を為していない。もちろん該当する古代地名はない。「キミ」の場合は古代地名がある。

きみ[吉美]
 『和名抄』丹波国何鹿(いかるが)郡に「吉美郷」で見え、京都府綾部市有同町、里町のあたりをいう。「きみ(黍)」の意が考えられるが、「吉彌侯部(きみこべ)」の部民地名の可能性もある。

 丹波国は崇神によって攻め込まれた国の一つである(「木津川の決戦」を参照してください)。狗奴国側(銅鐸圏)の国なので「21国」の一つに比定することはできない。

 以上より「惟」は漢音で訓むほかない。従って「支惟国」の訓みは「キヰ」か「キビ」ということになる。

大家たちの諸説

「邪馬台国」九州説者
新井白石
 豊前国筑城(ついき)郡
吉田東伍・橋本増吉・牧建二
 肥前国基肄郡
宮﨑康平
 肥前国基肄郡および養父郡の地とし、現在の佐賀県鳥栖市を中心に、三養基(みやき)郡の北半部]帯の地と推定している。この地を仁徳朝以前の『記紀』記載の紀伊国をこの「キイ」にあてて解釈すると合理的に解釈ができるし、紀伊国造と関係があるという。

「邪馬台国」大和説者
内藤虎次郎・米倉二郎
 吉備国
志田不動麿
 紀伊国

 新井白石の場合は不明だが、内藤氏・米倉氏は「キビ」と訓んでいる。あとは全員「キイ」と訓んでいるようだ。楠原氏も「キイ」と訓み、佐賀県三養基郡基山(きやま)町に比定している。宮﨑氏の比定地の一部分ということになる。

 古田氏は、志田氏と同じで、「キイ」と訓んで「紀伊国」に比定している。

 楠原氏は「キイ」と訓んで佐賀県三養基郡基山(きやま)町に比定している。宮﨑説から鳥栖市を除いた地域ということになる。

 ここで疑問が二つ。全員「キヰ」ではなく「キイ」と表記しているが、これでよいのだろうか。古代では「イ」と「ヰ」はまったく異なる音として使い分けられていたのではないだろうか。これは後ほど取り上げよう。

 もう一つは宮﨑説の中の一文
「この地を仁徳朝以前の『記紀』記載の紀伊国をこの「キイ」にあてて解釈すると合理的に解釈ができるし、紀伊国造と関係がある」
の意味である。最後の一文「紀伊国造と関係がある」の意味がよく分らないが、前半部分は「記紀」の仁徳紀以前の紀伊は全て肥前国基肄郡と考えないと辻褄が合わないと主張しているのだろう。『まぼろしの邪馬臺国』で直接確認してみた。「メモ」という形で、正確には次ぎのように記載している。

「メモ ― 仁徳朝以前の記紀に記載された紀伊の国を、このキヰにあてて解釈すれば、妥当性を欠いた内容が、きわめて合理的に、容易に理解できる。肥前風土記の同郡に関する記事も、この国の古さを暗示し、示唆に富んでいる。」

 「紀伊国造と関係がある」などという文言はない。またこの引用文から、宮﨑氏は「キヰ」と表記していることが分った。表題では漢音・呉音ともに「キヰ」としている。『諸橋大辞典』と宮﨑氏とどちらが正しいのか、私には判断できないが、「惟」の音が「イ」ではなく「ヰ」であるという点では一致している。

 さて、第二の疑問は私の解釈でよいようだ。記紀の記事は和歌山県の紀伊とすると「妥当性を欠」くが、これを基肄郡とすれば合理的な解釈ができると言っている。どういうことか。調べてみよう。『古事記』での木国(紀の国)の初出は「根国訪問」の段である。

…其の子に告げて言ひしく「汝(いまし)此間(ここ)に有らば、遂に八十神の爲に滅ぼさえなむ。」といひて、乃ち木國の大屋毘古(おほやびこ)神の御所(みもと)に違(たがえ)遣りき。

 〈大系〉の頭注は「木國」を全て「紀伊の国」としているが、宮﨑氏は出雲神話にいきなり和歌山県の紀伊が出てくるのは「妥当性を欠」くと言っているのだと思う。ここで、なんだか聞いたことのある説だな、と思った。そうだ、このことは『盗まれた神話』で古田氏が取り上げていたのだった。次のように論じている。

 これ(管理人注:木国)を従来紀伊国(和歌山県)として疑わなかった。しかし、この神話世界は、先の「大八洲国」圏の上にあり、その主要舞台は「筑紫→出雲(大国)→越(高志)」の一段国名の国々である。それなのに、そこにいきなり、和歌山県をもちこむことは唐突である。当然、「基肄」の方の「木の国」である(大国主神は、筑紫の胸形〔宗像〕の奥津宮にある神、多紀理毘売(たきりひめ)命を娶って二児をもうけた、という。「大国主の神裔」と北九州との関連は深い。 ― ただし、近畿天皇家側の後代註記の中に出てくる「紀伊国」は、当然和歌山県の方である)。

 古田氏が言う「近畿天皇家側の後代註記」と宮﨑氏が言う「仁徳紀」後が同じことを意味しているのかどうか分らないが、「木国」は和歌山県ではなく「基肄」だという点では一致した認識を示している。さらに調べたら、「木国」とは「基肄」の事だということを古田氏が『失われた九州王朝』で詳しく論じている。『百済記』にはしばしば「貴国」が登場する。その一つが「神功紀」に引用されているが、「井の中」ではこの「貴国」についてのまともな解釈がない。宇治谷孟訳・現代語『日本書紀』では「日本という貴い国」(原文「日本貴国」)と訳している。古田氏がこの「貴国」を取り上げて解明しているのだった。その議論の過程で「木国」が扱われている。次のようである。

 「貴国」という表記のもとになった「国」とはどこか。まず、考えられるのは、「木の国」(紀国)だ。
 この国の名は『古事記』『日本書紀』にも書かれているから、相当古い地名である。少なくとも『古事記』『日本書紀』成立時(7、8世紀)以前の名だ。しかし、〝和歌山をもって、天皇の首都とした″という徴候は、天皇家の歴史の中に存在しない。『古事記』『日本書紀』という天皇家の公的な歴史書の中にも、全くその痕跡を見ないのである。だから、この「キ国」をここに当てることは無理だ。

 これに対し、九州筑紫の地はどうだろう。太宰府の近くに「基山」がある。そのそばに「基肄城」がある。この領域が「キ」と呼ばれる地域だったことは疑えない。ここは、筑前と筑後をおさえる〝ネック″(頸部)である。太宰府が天皇家による、九州地方総支配の根拠地となったことは有名だ。その場合、これまで、何もなかった所にいきなり新しい城塞を築いたのであろうか。それとも、天皇家の支配が及ぶ以前に、すでに九州一円に勢威を誇っていた旧勢力の居城の地だったのだろうか。当然、合理的な判断としては、後者となる(考古学上、テルと呼ばれる)。

第一 地形。
 この地点が筑紫の南北をおさえる地理上の要衝であること、昔(天皇家支配以前)も当時(天皇家の築城―天智紀)も、変りがない。  第二 伝承。
 「風土記』につぎの説話がある。

 「次の説話」とはあの甕依姫が出てくる『筑後国風土記』の「筑後国号」説話である。甕依姫の部分は以前に掲載しているが、改めて全文掲載する。

「公望(きむもち)案ずるに、筑後(つくしのみちのしり)の国の風土記に云はく、筑後の国は、本、筑前(つくしのみちのくち)の国と合せて、一つの国たりき。昔、此の両(ふたつ)の国の間に峻(さか)しく狭(さ)き坂ありて、往来(ゆきき)の人、駕(の)れる鞍韉(したくら)を摩(す)り尽されき。土人(くにひと)、鞍韉尽しの坂と曰ひき。三に云はく、昔、此の堺の上に麁猛神(あらぶるかみ)あり、往来の人、半ば生き、半ば死にき。其の数極(いたく)く多(さは)なりき。因りて人の命尽(つくし)の神と曰ひき。時に筑紫君・肥君等占ふ。今の筑紫君等が祖、甕依姫、祝(はふり)と爲して祭る。爾(それ)より以降(このかた)、路行く人、神に害(そこな)はれず。是(ここ)を以(も)ちて、筑紫の神と曰ふ。四(つぎ)に云はく、其の死にし者を葬(はふ)らむ爲に、此の山の木を伐りて、棺輿(ひとき)を造作(つく)りき。茲れに因りて山の木尽されむとしき。因りて筑紫の国と曰ひき。後に両(ふたつ)の國に分ちて、前(みちのくち)と後(みちのしり)と為す」

 この説話の意味を古田氏は次のように解いている。

 このように、「此の堺の上」(基山)に、「筑紫君」や「肥君」の祖先と深い関係をもつ、威力ある神がいた、という伝承が、当時(風土記成立時 - 8世紀)も残っていたのである。その上、「ツクシ」の名がここから発祥した、という伝えも、ここを発祥の地とする権力者が、古くから筑紫全土に威令を誇っていたという歴史を反映しているのではあるまいか。この可能性は高い。

 さらにこの「ツクシ」の名が九州全土を指す名として用いられた(『古事記』)ことから考えると、ここが九州全土の中枢をなしていた、ということそれは、この地名の発展状況から見て、十分にその可能性をもっている。

 以上の二点から見て、九州筑紫の「キ」の領域は、十分にこの地域の中心としての資格をそなえているのである。

 3年ほど前、私は新庄智恵子著『謡曲のなかの九州王朝』を教科書に九州の「紀の国」を取り上げた。しかし、疑問点が多々あたので、「紀の国=佐賀県北部?(1)」「紀の国=佐賀県北部?(2)」と「?」マーク付きだった。いまここで「紀の国=佐賀県北部」は誤りだったと言っておこう。
《続・「真説古代史」拾遺篇》(116)



「倭人伝」中の倭語の読み方(59)
「21国」の比定:(26)巴利国


 訓みについての水野氏の解説。

 「巴」は、音「ハ」、「うずまき」「いやしき声音」「水流の巴字のごとく曲折する義」という意味をもつ。「利」は音「リ」、「とし(銛)」「するどし(鋭)」「はやし(疾)」「よし(吉)」「よろし(宜)」「便宜」「快」「なめらか」「とおる(通)」「したがう(順)」「いきおい」「力」「かち(戦勝)」「もうけ」「とみ(富)」「利子」「益を他におよぼすこと」の義がある。国名は音の転写。一般に「ハリコク」と訓む。

 ちなみに、「巴」には「ヘ」という音もある。

大家たちの諸説

「邪馬台国」九州説者
新井白石・橋本増吉
 肥後国波良郡
牧建二
 肥後国託摩郡波良郡

宮﨑康平
 「ハルリのくに」と訓み、筑後国夜須郡、および上座・下座、現在の福岡県甘木市を中心とした朝倉一帯の地で、筑後川右岸の地と比定する。

「邪馬台国」大和説者
内藤虎次郎
 尾張国または播磨国
米倉二郎・志田不動麿
 播磨国


楠原説
『[巴利](はり) - 佐賀県三養基(みやき)郡中原(なかばる)町』

地名用語バリはバラの原形

 この国名は、後世の用語のバラ(九州ではハル・バルと発音するのが一般的)以外にはありえない。

 のちに「原」の漢字が使われるバリ・ハル・バル・バラとは、どんな地名か。語源は動詞ハル(膨・張)で、沖積低地に張り出した洪積台地に命名されているケースが多い。人体名詞のバラ(腹)も同源で、人類を含め脊椎動物が食物をとると消化器官と皮膚がふくらんで張り出してくる。その部分がバラ(腹)である。

 よく似た地形地名用語にノ(野)があるが、どう違うか。ノは動詞ノブ(延)の語幹で「のびのびと広がった大地」をいい、火山の裾野や地殻変動で傾斜した洪積台地などに多い。

 ノ(野)は傾斜がある点では水田稲作に有利なように思えるが、実際には限りなく広大で、しかも水源にとぼしい。そのため、東京西郊の武蔵野や多くの火山の裾野がそうであるように、たいがいは近世ごろまで開発は手つかずであった。一方、バラ(原)のほうはおおむね平坦で、利水・排水施設を施さない限り水田には適さない。だが、台地の縁辺は洪水のおそれもなく、すぐ下には湧水帯があり、集落を構えるには最適である。水田は台地下の沖積地に開けばよい。

 こうして、洪積台地は縄文時代からわれわれの先祖の格好の居住地となった。中世でも、平野の中に張り出した台地の先端はタテ・タチと呼ばれ、たいがい豪族の館(たて)が構えられた。

 ところで、ハル(膨・張)などラ行四段活用の動詞が名詞化する場合、普通は連用形が使われるが、バリ(巴利)はその原則に合っている。

 「倭人伝」の「巴利国」は、現在われわれが使う地名用語バラの古形であるが、その地はどこなのか。私は「躬臣国」の北東約7㎞、現・佐賀県三養基郡中原町付近に比定する。

 「ハ」を濁音にして「バリ」は地名用語であり、「バラ」の古形だと言う。本当かな? だいたい本来濁音で始まる和語はないのではなかったか。わざわざ濁音にしているのでなにか根拠があるのかも知れないが、その根拠を明示しなければ信じるわけにはいかない。また、「バラ」は「ハラ」が連濁化したものなのに、どうして「バラ」を正面に据える議論をするのだろうか。これも私には理解出来ない。

 九州では「バラ」は「バル」と訓むということから「原」を用いた地名を探し出したようだが、こういう方法は危うい。「原」を用いた地名はたくさんある。その中からどうして三養基郡中原町が選ばれたのか、根拠が不明である。

 この後の議論は、資料として参考になる点もあるので、論評なしで紹介しておこう。

失われたバリ地名

 中原の地名は江戸時代、長崎街道に立てられた宿場の名称であるが、根拠なく命名されたものではない。背振(せふり)山地南西部の石谷(いしたに)山(標高754.4m)の南麓に標高20~40mのなだらかな洪積台地が東西約3km、南北約四㎞にわたって広がる。台地上は原古賀(はらこが)と簑原(みのばる)の二つの大字に分けられ、この二大字で中原町を構成する。つまり、この洪積台地全体が周辺から「原」または「中原」と呼ばれていたものと思われる。 「巴利」=「原」の地名は、そのままの形ではなぜ後世まで伝わらなかったのか。その間の事情は、『肥前国風土記』三根(みね)郡漠部(あやべ)郷の記事が雄弁に物語っている。

……昔、来日(くめ)皇子は新羅を征伐しようとして忍海(おしぬみ)の漢人(あやひと)に勅して、軍衆としてつれて来て、この村に住まわせ兵器を作らせた。それで漢部の郷という。

 忍海の漢人とは半島からの渡来人の子孫で、大和国忍海(おしのみ)郡に住んでおり、韓(から)鍛冶の先進技術をもった集団である。角川『日本地名大辞典41佐賀県』は台地をきざんで流れる寒水(しようず)川の砂鉄を利用したのであろう、と述べる。

 漢部郷は『和名抄』には記載されていないが、平安時代には綾部城がつくられ、平安末期には藤原道長(ふじわらみちなが)の子孫が居城して平冶(へいじ)の乱(1159)に呼応して戦っている。

 14世紀未に成立した朝鮮王朝(李氏朝鮮)は、1471年に対日外交指南書の『海東諸国紀(かいとうしよこくき)』を編纂したが、その記事中に綾部城は次のように記されている。

……九州探題、或(あるい)は九州総管領は肥前の阿也非(あやべ)の地にある小城に居る。博多の南十五里にあって、一千余戸、兵二百五十余、九州の軍を統括している。

 鎌倉期には宇佐(うさ)八幡宮領の荘園として綾部荘が立てられ、江戸期まで綾部村の名があった。今は大字原古賀の東部の一集落名として漢部の名が残る。

 つまり、古代に大和王朝直属の技術者集団が入植したため、その名が優先され、「巴利」「原」の名は使われなくなったものと思われる。ただし、それでも今日まで残る「原古賀」「簑原」の集落名や自治体名の「中原」の名はその遺称ともいえる。

知られざる遺跡群

 西隣に大きな脚光を浴びた吉野ヶ里遺跡が存在するため影は薄いが、中原町簑原にある姫方(ひめかた)遺跡ももっと注目されてしかるべき遺跡である。弥生期~古墳時代の複合遺跡で、弥生期の遺物では甕棺(かめかん)墓400基以上・箱式石棺25基以上・土壙(どこう)墓7基以上が発見されたほか、鉄刀・鏡・貝釧(かいくしろ)なども出土している。原古賀の土地集落付近にも墓地群があり、また寒水川沿いの低地から弥生期の住居址が発見されている。

古田説
 内藤説と同じである。
「つぎの「巴利(ハリ)国」も重要である。なぜなら「播磨(ハリマ)国」(兵庫県)と「尾張(オハリ)国」(愛知県)と、いずれも「マ」(接尾語)か「オ(ヲ)」(接頭語)をくわえれば、〝妥当″するからである。」

 「巴」には「ヘ」という音もあるが、「ヘリ」では遺称地が全く見いだせない。「ハリ」ならそのものズバリの遺称地があるのだから内藤・古田説ということになるが、「尾張国」は私が想定している女王国版図(銅鉾圏)に入らないので、当然「播磨国」ということになる。

 令制以前の針間国は加古川より以西に位置していたようだ。もしそうなら、私は「為吾国」の中心地を赤穂郡上郡に比定したので、「巴利国」は「為吾国」のお隣さんで加古川が東側の境界ということになる。現在の姫路市が「巴利国」の中心だったと考えられる。
《続・「真説古代史」拾遺篇》(115)



「倭人伝」中の倭語の読み方(58)
「21国」の比定:(25)躬臣国


 今回も全く見通しを持たないまま始めた。難しい国名だ。これまで通り、水野氏の解説紹介から始めよう。


 「躬」は音「キュウ」、「み(身)」「みずから(自分)」「自らする」「自身で行なう」という義をもつ。「臣」は、音「シン」、「けらい」「おみ」「家来が君に対していう自称」「自己の謙称(今の「僕」というに同じ)、広く統治権下にある官吏・官僚、また一般人民をも含める」などの義をもつ。国名は音の転写であるが、この文字を選んだのは朝貢国の名としては、ふさわしい用字ではある。

 「躬」には「キュウ」のほかに「ク」という音がある。「臣」には「シン」のほかに「ジン」がある。

 「 大家たちの諸説

「邪馬台国」九州説者
新井白石
 肥後国合志(かうし)郡に比定したが、後『外国之事調書』では、肥後国菊池郡に訂正している。
牧建二
「クシ」と訓み、豊後国球珠(くす)郡に比定。
宮﨑康平
 「クシのくに」と訓み、「ク」は「河」、「ス」は「洲」、「ヒ」は「干」で、「クスヒ」が転じて「クシ」となったとし、『古事記』にいう、肥国を建日向日豊久士比泥別というのは、この「クシのくに」に関連するという。そしてこの国は、筑後国生葉郡・竹野郡・山本郡・御井郡の地で、現在の福岡県浮羽郡・三井郡南部と、久留米市を含む筑後川の左岸地帯であるとする。

「邪馬台国」大和説者
内藤虎次郎
   伊勢国多気郡櫛田久之多(くしたくのた)郷
志田不動麿
 越(こし)国

米倉二郎
 播磨国櫛淵(くしふち)か、現在の明石市地方か。

 手元の資料では播磨国櫛淵という地名は確認できなかったが、徳島県に櫛渕町という地名があった。

楠原説
 楠原氏は「躬臣」については「21国」をまとめて論じている章ではなく、『風土記』に現れる土蜘蛛や荒ぶる神などを論じている章で別個に取り上げている。「吉野ヶ里の首長は遺跡の南西1.6㎞に祀られる」という表題が付されている。

 『肥前国風土記』からもう一例、「荒ぶる神」の話を紹介しよう。神埼郡の記事の冒頭に次のような話が記戟されている。

 昔、この郡に荒ぶる神があった。往来の人が多数殺害された。纏向の日代の宮に天の下をお治めになった天皇(景行天皇)が巡狩されたとき、この神は和平なされた。それ以来二度と災いを起こすことがなくなった。そういうわけで神埼の郡という。

 佐賀県神埼郡神埼町神埼には垂仁天皇の時代の創建と伝えられる櫛田(くしだ)宮が鎮座しているが、その「御由緒記」には「景行天皇の筑紫巡狩時、この地の荒神に備えて櫛田大神を勘請したところ霊験があり、この里を神幸の意をもって神埼という」と『風土記』と同巧の話を伝えている。また別の「由緒書」には櫛田大明神は伊勢大神宮の豊受比売命であるが、のち荒神と化して人民・牛馬に怨をなした。景行天皇がこれを和(やわ)らげ現在地に鎮座した、云々と伝える。

 櫛田宮は中世は神埼荘の鎮守であったが、平安期に大宰大弐に任官した平清盛一族が対宋貿易の拠点である博多の地に分祀した。それが、祇園山笠(ぎおんやまがさ)で名高い博多の櫛田神社である。

 ところで、神埼町の櫛田宮が単に一神社の名だけなら、別に見過ごしてしまってもよい。だが隣に位置する寺院の名も久志山(くしざん)安居寺と呼ばれており、櫛田神社から約3.3㎞南南東の現・千代田(ちよだ)町には中世「高志(たかし)・櫛田両社」と並び称された高志神社も存在する。「高志」は現在はタカ・シと湯桶読みされているが、本来はコウシまたはコシであったと考えられる。

 三つの寺社名はともに、クシの地に建立された意ではないか。クシとは岬の先端を指す岬角(こうかく)名語尾、また和歌山県串本町はじめトンボロ(陸繋島)地形のくびれた部分に多数見られる。

 岬角名語尾の場合はコシ(越)が語源(岬の先端を「越える地」と見たもの)、トンボロのくびれた部分は「骨折」や「挫折」を意味する動詞クジク(挫)に通ずる語であろう。

 そこで「倭人伝」が記す旁国二一国の名を見渡すと、何と「躬臣」という国名があるではないか。この「躬臣」の二文字で書き表わされるべき語は、現在も使われている日本語の地名用語ではクシかクジのいずれかしか想定できない。

 そして、まさに吉野ヶ里遺跡が載る台地こそ、佐賀平野に北から南に向かって突出した洪積台地であり、考古学の用語でいう舌状台地、その昔に佐賀平野一帯がまだ海面だった時代の光景を想定すれば地形学でいうトンボロ(陸繋島)そのものなのである。

 簡単に要約すると次のようになろう。

 「躬臣」を「クシ」と訓んでいる。そして、佐賀県神埼郡を比定地としている。「クシとは岬の先端を指す岬角名語尾」であり、佐賀平野が海だった頃佐賀県神埼郡は「クシ」(岬角)だった、というのがその論拠である。

古田説
 次は「躬臣(クシ)国」。これは簡単である。筑紫である。本家本元の称なのである。その「表意」は何か。「みずから臣下となった国」だ。もちろん「天孫降臨」神話の指すところ、対馬、壱岐の「海士(アマ)国」の首長、天照大神(アマテルオホカミ)」が、「国ゆずり」で、出雲から主権を奪ったあと、目指す筑紫、「高祖山連峯」を占拠した、女王国の始源をなす、画期的な事件である。もちろん、菜畑や曲田、そして板付という最大の始源稲作領域に対する「侵略」と「支配」であったこと、すでにのべた通りである。だが、「侵略」というのは、「被支配者側の目」による言葉だ。「侵略者側の目」では、逆である。「みずから進んで、臣下となった」というのは、例の「サルタヒコ」の〝出迎え″恭順を指しているのである。

 「サル」は沖縄では〝太陽が輝く″の意という。太陽神なのである。「天孫降臨」以前の主神である。九州や周辺に、広く〝祭られ″、分布しているのである。そのような「従来の主神」がすすんで恭順した。もちろん「女王国側の目」による〝イデオロギー的表現″である。

 次は「表音」である。もちろん「クシ」である。筑紫(チクシ)または筑紫(ツク(ヽ)シ(ヽ))と言う。「チ」は、例の「太陽の神」の古称、「ツ」は、もちろん「津」。博多湾である。要するに〝信仰上の表現″か、〝地理上の表記″か、の違いだけで、その語幹は同一。「クシ」だ。「ク」は〝奇し″の「ク」。「シ」は、〝人の生き死にするところ″(「言素論」参照)である。

 興味深いテーマがある。はじめわたしは「筑紫」を「チクシ」と〝訓む″のは福岡県だけ、と思っていた。「筑紫ケ丘高校」は「チクシガオカ」なのである。

 ところが、あとになって、聞いた。「島根県でも『チクシ』と言いますよ」と。初耳だった。もちろん、島根県在住のすべての方々が「チクシ」と発音されるのかどうか、判然としないけれど、少なくとも、島根県(出雲)には福岡県(筑紫)と同じ「発音」が現在も〝継続″しているようである。「言語の継続性」の不思議である。

 「出雲と筑紫との連係」―この古代の「歴史」は、21世紀の言語分布にも、〝消えず″に遺存していたのである。驚くほかはない。

 「躬臣」を「クシ」と訓んでいる。そして表意表記でもあるとしてその意味を「みずから進んで、臣下となった」国と解釈している。つまり、天下り(侵略)したときに恭順の意を示した国つ神猿田毘古が領有していた筑紫国が「躬臣国」だと言っている。しかし、筑紫の何処という具体的な比定はない。あまりにも漠然としている。

 以上、各氏の説をみてきたが、新井白石と志田不動暦以外はすべて「クシ」と訓んでいる。「躬」には「ク」という音もあるのでよいとしても、「臣 シン」を「ン」をはぶいて「シ」と訓むことの妥当性を誰も論じていない。語尾の「ン」を省く訓みは説明不必要なほど当たり前のことなのだろうか。もしそうだとしても、「シ」を音写するのなら「斯馬国」の「斯」でよいではないか。この問題についての合理的な説明がない限り、私は「クシ」という訓みに賛成できない。

 私はこの国名は表音表記ではなく、表意表記だと考える。ただし水野氏や古田氏のように表音でありかつ表意ということではなく、単純な表意表記である。そして素直に「キュウシンコク」と訓もう。そう考えたら解答は全く簡単だった。

 水野氏は「この文字を選んだのは朝貢国の名としては、ふさわしい」と言っているが、私(たち)の立場では倭国の盟主国「邪馬国」がすでに恭順の意を表している。私は倭国内のこととする古田説を採る。ただし、天下りの時の猿田毘古の恭順ではなく、大国主の国譲りである。つまり「躬臣国」の比定地は出雲だ。

 古田氏は「好古都国」を出雲に比定しているので国譲りをまったく考慮しなかったのだろう。

(「邪馬壹国」の「壹」が恭順の意を表していることの論証は「『魏志倭人伝』の和訳文(3)」の後半で取り上げています。参照して下さい。)
《続・「真説古代史」拾遺篇》(114)



「倭人伝」中の倭語の読み方(57)
「21国」の比定:(22)為吾国(その二)


 「為吾」を「イゴ」と訓んでも「イゲ」と訓んでもこれに該当する遺称地はない。従って、次のような古田氏のアイディアを採るほかないだろう。

古田説

 わたしに、次の一歩、重要な一歩を踏み出させたもの、それは「為吾国 の存在だった。

 奈良県の「生駒(イコマ)」である。「マ」は接尾語。語幹は「イコ」だ。語尾の「コ」は、濁音化すれば「ゴ」である。

 日本語の清音と濁音の〝ちがい″は微妙である。「高田」は「タカタ」(地名)と〝訓む″ケースと「タカダ」(姓)と〝訓む″場合と、まちまちである。「古田」は「フルタ」であって「フルダ」とは訓まない。このような、清音と濁音の区別は、当の日本人にも、うまく〝説明″できない。外国人から聞かれても、ほとんどの日本人が〝答えられない″であろう。ただ「そうなっている」としか言えないのである。ただ「語末が濁音化しやすい」傾向のあることは、誰でも経験的に知るところである。

 奈良県でも「ヤマト、三山」などと呼ばれているのは、県内盆地の南半部分の〝呼び名″だった。「大(おお)ヤマト」と呼ばれている地帯などをふくむ。飛鳥や桜井市の周辺である。

 これに対し、奈良県の北部分、奈良市から生駒にかけての地帯、それがこの「為吾国」だったのではあるまいか。「吾がため」もしくは「吾と為す」といった、親愛の字面である。

   この解説文は二通りに読める。一つは
〈3世紀頃までは「イゴ」だったのがその後清音化して「イコ」となり、「生駒」と漢字表記されるようになった。〉
で、もう一つは
〈3世紀頃以前には「イコ」だったが、濁音化して「イゴ」となり、その漢字音表記に「為吾」が用いられた。〉

 古田氏は「語末が濁音化しやすい」という認識を掲げているわけだから、前者は誤読で後者が正読としてよいだろう。何よりも前者は「清音化」というあやしげな概念を用いなければ説明できないので不当だ。そうすると後者にも問題が残る。「イコ」→「イゴ」と濁音化した後、また「イコ(マ)」になっている。「清音化」であり、前者と同じではないか、という問題である。この問題については私は次のように考えてみた。

 この場合の濁音化は一般の場合とは異なり、「イコ」という国名に、古田さんの言葉を借りると、『「吾がため」もしくは「吾と為す」といった、親愛の』意も込めるために「イゴ 為吾」という表記をした。従ってこの濁音化は国名の由来となった「イコマ 生駒」という地域名やイコマヤマ 生駒山」という山名の方には及ぶことはなかった。

 さて、3世紀頃の生駒はどのような地だったのか。ネット検索で調べていたら、なんと、ウィキペディアが古代・中世の生駒について「山間の寒村に過ぎなかった」と述べている。『日本歴史地名大系』で確認してみた。生駒は令制下の平群郡に属している。その平群郡の〔原始・古代〕時代について『日本歴史地名大系』は次のように解説している。

「縄文・弥生時代の遺跡はほとんど知られていない。わずかに市内の萩原(はぎはら)町の生駒南小学校付近で弥生後期の石鏃や櫛目文のある壷・高坏形土器片が採集されているのみである。古墳は有里(ありさと)町の竹林寺(ちくりんじ)古墳が前期の前方後円墳として著名であるが、ほかには古墳時代の遺跡として確認されたものはない。」

 奈良県の北部分が一国を為していたとして、その国名に「生駒」を用いたということが疑わしくなった。3世紀頃に生駒を中心とする領域をもって一国が形成されたということはあり得ないと思う。これで候補地は皆無になったと思ったが、偶然地図上で「生駒山」が兵庫県赤穂郡にもあることを知った。

 現在の赤穂郡は上郡(かみごうり)町だけで成り立っている。このような例が他にもあるだろうか。「赤穂」という地名も「上郡」という地名も共に保存したいという意図だろうか。いずれにしても上郡町は町とはいえその町域はかなり広い。令制下の赤穂郡は上郡町の他に赤穂市と相生市を含んでいたようだが、生駒山がある上郡に的を絞ろう。

 古代の上郡について『日本歴史地名大系』は次のように解説している。

 中央部を岩木川・鞍居(くらい)川・安室(やすむろ)川の諸川を合流する千種(ちくさ)川が南下し、上郡盆地を形成し、南部では千種川支流の高田(たかた)川が高田盆地を形成している。そのほかは急峻な山地で、町域面積の七割余が山林。

 縄文時代の遁跡は梨ノ木遺跡・大池(おおいけ)遁跡から後期・晩期の土器が採集されている。弥生時代の遺跡は後期の竪穴住居跡二棟が発掘された神子田(みこでん)遺跡がある。また最近発掘された井の端(いのはな)七号・八号墓は、弥生-古墳時代への墓製を示す墳墓である。七号墓は長方形の墳丘で周囲に列石を巡らし、竪穴式石槨・箱式石棺・木棺墓と三種の埋葬施設が造られている。箱式石棺からは鏡式不明の破鏡(復元すれば直径13.4㎝)、木棺墓からは仿製重圏文鏡が出土している。釜島(かましま)南方の標高200メートルの山頂にある六ッ岩(むついわ)遺跡は巨石を二段に立並べており、祭祀遺跡とみられてる。後期の土器・石包丁などが出土した。別名遺跡では三本の広形銅剣が発見され、羽山遺跡と井上遺跡で壺棺が確認されている。

 「Kamigori Internet kennkyuukai」というサイトに出会ったので、そこの記事を利用させていただいて、弥生期の遺跡について補充しよう。

鳳張(ほうばり)古墳群(船坂)
 船坂・麦尻の北側に方張谷があり、その中央に二つの古墳がある。1号墳は長方形の墳丘に棚をもつ横穴石室。2号墳は円形の墳丘、横穴式石室で天井石の一部に線刻らしいものが残っている。

 別名(べつみょう)の山麓
 土とり場から広型銅剣が昭和33年に見付かった。銅剣は弥生式時代に首長のシンボルといわれ、西日本特に九州に多い。ここの発見は分布の東端になる。

中山古墳群(高田台)
 高田盆地は奈良盆地に似て大河の氾濫もなく、古代から生活に適し他より早く発達したと考えられる。弥生の出土品が多く、古墳群もこれを語っている。

大酒古墳群(山野里・大酒)
 大酒地区周辺の山腹・山麓に小型の古墳が40余基散在している。その形状から朝鮮文化の影響が見られる。地名の大酒(おおざけ)から秦氏の影響と見られている。

神子田(みこでん)弥生住居跡(中野)
 高田小学校正門を入った右手にある。体育館建設まえの調査で2基が発見された。直径12mと8mの円形たて穴式住居跡。

六ッ岩弥生祭祀遺跡(釜島)
 釜島集落の南方山頂に巨岩を台座に組み、その上に立て岩を組んでいる。近くで弥生式の高杯も発見されていて、むかし祭祀のための施設とみられている。

 以上により上郡は「21国」の比定地としての資格は充分にあると思う。それでは「為吾」という国名のもとになった生駒山はどのような山なのだろうか。実際の登山体験を記録した「西国の山」さんの文章をお借りしてまとめてみよう。

 生駒山は標高263mでその頂上からは上郡の市街地を一望のもとに見渡すことができる。生駒山には山頂を本丸とした山城がある。その山城は南北朝時代(14世紀)の築城とも伝えられているが、現在残る縄張は戦国時代(16世紀)の後半頃のもののようだ。「西国の山」さんは
「独特の山容を誇った生駒山に築かれた山城で、特に登上途中から見る本丸や、二ノ丸は見ごたえがある。」
と感動を書き留めている。

 生駒山には『生駒山から大きな岩が千種川に転げ落ち、いろんな問題をふりかけた』という落岩伝説がある(「Kamigori Internet kenkyuukai」さんより)。住民の畏敬の対象だったのだろう。また、住民たちは居住地域を一望できるこの山を敬愛もしていたことだろう。さらに想像を逞しくすると、現在残っている山城の下に古代の高地性集落あるいは山城があったのではないだろうか。生駒山付近が上郡の中心地だったと思われる。

 以上、不十分な点がいくつかあるが、赤穂郡上郡を中心とした地域を「為吾国」の比定地としよう。
《続・「真説古代史」拾遺篇》(113)



「倭人伝」中の倭語の読み方(56)
「21国」の比定:(22)為吾国(その一)


 この国の比定も大変難しい。まずは語義と音についての水野氏の解説から。

 「為」は音「ヰ」、「なす」「つくる」「こしらえる」「なり」「たる」「なる」「いつわってよそおう」「はたらき」「しわざ」「よる」「あずかる」「まもる」「ため」「おもう」「たすく」などの義をもつ。「吾」は音「ゴ」「ギョ」で、「わ(『己』についていう。人によりていう時には『我』を用う)」、「ふせぐ(禦)」「とどむ(止)」「ささう(支)」「たがう(違)」「『子』や『兄』に冠して親しむ意を表わす」などの義がある。この国名も音の転写である。一般に「ヰゴコク」と訓む。

 「吾」の音は『諸橋大辞典』では次のようになっている。
(1)ゴ(漢音呉音共通)
(2)ギョ(漢音)・ゴ(呉音)
(3)ガ(漢音)・ゲ(呉音)
 「為吾」を「イゲ」と訓む可能性もある。

 引用文中の「吾」の意義についての文(「吾」は)「わ(『己』についていう。人によりていう時には『我』を用う)」の意味がよく分らない。手元の辞書で確認して分った。「自分の身についていう場合は吾といい、人に対して自分をいう場合は我という。」と説明して次の例文を挙げている。「我善く吾浩然の気を養う」。

大家たちの諸説

「邪馬台国」九州説者
本居宣長・橋本増吉・牧建二
 筑後国生葉(いくは)郡
宮﨑康平
 「ゴ」は「川」の義とし、「イ」は「石」「岩」の「イ」と考えられるとして、川岸の国の義とし、肥後国玉名郡の内で、現在の熊本県玉名郡の北半部の菊池川右岸地帯とする。

「邪馬台国」大和説者
内藤虎次郎
 三河国額田郡位賀(いが)郷または尾張国知多郡番(つがい)郷
志田不動麿
 伊賀(いが)国 米倉二郎
播磨国英賀(あが)

 九州論者たちの「イクハ」はどういう論理によって導き出されたのだろうか。推定すると、「ゴ→ク」という静音化+通音変化を想定しているのだろう。濁音化というのは分るが、日本語に清音化なんてあるのかしら。

 大和説者たちは「吾」の漢音「ガ」を選んで「イガ」と訓んでいるようだ。

楠原説
『[為吾](いご) - 福岡県浮羽(うきは)郡浮羽町・吉井(よしい)町付近』
 九州論者たちの比定地「生葉郡」と同じだ。 そこに至る論理は奇想天外と言うほかない。いろいろな問題を孕んでいて面白いので紹介しよう。

まず
「この国名はヲガハ(小河)を「為吾」と音写したものと思う。」
と始める。私はまずここで呆然としてしまう。「ヲガハ」を音写すると「イゴ」だというのだ。私には全く理解出来ない。

 この国名はヲガハ(小河)を「為吾」と音写したものと思う。カハという基本的な地形用語はどうやら地表を流れる一筋の流水系だけではなく、湧水もカハだったらしい。

 その語源について、有力な説に「ガハガハという水の流れる音から」とする擬音説(大矢透『国語遡源』、大槻文彦『大言海』)がある。

 擬音説には私は反対しないが、川の流れる音を耳で聞いて表現する擬音ならガハガハではなく、むしろゴウゴウではないか。

 川の語源説に「ガハガハ」という擬音説があるあるとは知らなかった。三種類の語源辞典をで調べてみた。

 『日本語源大辞典』(小学館)は出典を明らかにしている。

①ガハガハという水の流れる音からか<国語遡原=大矢透・大言海)。
②水が日夜カハルものであるところから(日本釈名・和語私臆鈔・言元梯・名言適・本朝辞源=宇田甘冥)。
③川水と海水と味がカハルところから(桑家漢諧抄)


 学者たちが悩んだ末に考え出した苦心の説に失礼かも知れないが、つい噴き出してしまう。

 『語源大辞典』(東京堂出版)は「未詳」としながらも朝鮮語起源説を取り上げている。

一説に、朝鮮語ケ(川)に結びつけようとする考えがあるが未詳。川を示す朝鮮古語カラムと関係があるかどうか。

「川」に限らず起源を朝鮮語に求める例はたくさんありそうだ。しかし、ほとんどは「?」なのではないだろうか。(単なる推測)

 『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)は「ガワガワ、カワカワ、語源説が有力です。」と書き、さらにもう一つの説を紹介している。次のようである。

「カ(気・水気)+ハ(ハウ・延フ)」で、水が長く延び続けたものという語源説もあります。

 造語成分(言素)によって分析している。このような方法はまともだと思う。しかし、形態をもとにした解釈は不当だろう。おおむね長く延び続けているということで済ましてもよいが、まっすぐに伸びた川もあれば、クネクネと蛇行する川もあり、ときには滝となって大きな落差を示すこともある。

 もっと普遍性のある起源説はないだろうか。次のように考えてみたけど、どうでしょうか。

 人類にとって太古の昔から川は飲料や沐浴の恵みを与えてくれる必要不可欠な存在だった。あるいは丸木舟のような素朴な交通手段を用いていた頃から重要な交通路でもあった。しかし、時には激流となったり氾濫したりする恐ろしい側面がある。人々は川を神として崇めたり畏れたりしたのではないか。ということで古田氏の言素論を拝借すると次のような起源説になる。 「カ」は「神」の「カ」で「神聖な水」を意味する。「ハ」は「張る」の「ハ」で「一面に満ちている」という意である。この「ハ」の方は『日本語源広辞典』でも造語成分として取り上げている。

 さて、楠原氏は川の擬音は「ガハガハ」ではなく「ゴウゴウ」がふさわしいと言う。これがどのようにしてヲガハ(小河)とつながるのだろうか。

 この説を傍証する資料が、ほかならぬ地名にある。その一つは、広島県北部に源を発し中国山地の脊梁(せきりよう)を越えて島根県中央部から日本海に流れる江(ごう)川の存在である。

 この大河は上流の広島県側ではエノカワ(可愛川)と呼ばれ、そのエノが「江ノ」と解されてさらに「江」を音読してゴウノカワーゴウカワと転じた、と推測されている。

 だが、この説には重大な欠陥がある。「江」という漢字の字音は呉音・漢音ともコウで濁らないのに、なぜ音読した段階で濁音化するのか。しかも、頭音は濁音にならないという日本語の「頭音法則」に逆らった現象なのに、である。

 しかも、ゴウ川の例がこの一例だけなら例外的現象と片づけることもできるが、実は「江」や「郷」の字のゴウ川がほかに五例もある。これら以外にも「甲」「鴻」「高」「神」などの字を使ったコウ~川も全国に数多い。これを、どう考えればよいのか。

 一般には、
  カハkaha→コウkou→ゴウgou
という転訛を考えたくなるが、それでは擬音のゴウから出発すべき順番が逆になる。そこで私は、次のようにカハ(川)の語源と思われる擬音のゴウゴウから出発する試論を立てた。

 ゴウゴウ→ゴウ→(清音化)→コウ
      ↓
      ガウ→ガフ→ガハ→(清音化)→カハ

 通音・通韻のほかに清音化まで入れての大転訛作戦である。どうやらここまでは「ゴウゴウ」が「川」の語源であることの証明のつもりらしい。

 ちょっと横道へ。

 川・河・江と川の意で使われる漢字がそろった。それぞれどのような意味なのか、改めて調べてみた。知らなかったことにたくさん出会った。(『新漢和辞典』(大修館書店)を用いています。)

 「川」は両岸の間を水が流れていることを表す象形文字である。音は「セン」。意味は「①かわ。水流」のほかに「②あな。③はら。平原。④四川省の略称」がる。

へぇ!川に「あな」という意味があるとは知らなかった。

【河】カ・ガ
①川の名。黄河の古名。もと、長江を江と呼ぶのに対し、黄河は単に河と呼んだが、後世、河を(大きな)川の意に用いることが多くなってから黄河と呼ぶようになった。
②かわ(かは)。(イ)小さいのを川、大きいのを河という。今は混同して用いる。「河川」(ロ)水利・潅漑・航行などのため、陸地を掘って作った水路。ほりわり。「運河」
③あまのがわ。天の河。天の川。銀河。天漢。[解字]
形声。水が意符、可が音符。黄河をいう。転じて、大きなかわの総称となる。

【江】コウ
①川の名。良江。揚子江。揚子江という名は近世に外国人が呼んだのに起こった名で、昔は単に「江」または「大江・長江」といった。
②大きな川。ことに中国南方地方の大河。③かわ。河川。囲え。海や湖などの陸地に入り込んでいる所。入江(いりえ)。
[解字]
形声。氵(水)が意符。工(コウ)音符で、また、つらぬく意を表す。長江は、大陸を東西につらぬいて流れているので江といわれた。

 へぇ!「河」と言えば「黄河」、「江」と言えば「長江」ということは知っていたが、それが慣用上の使用例ではなく、「河」「江」という漢字のもともとの意味だった、つまり固有名詞だったとは知らなかったなあ。(知らなかったのは私だけかも?)

 さて、楠原氏の苦心の程は分るが、ここで論理は私には理解不能な大飛躍をする。「ゴウゴウ→ワハ」を受けて、次のように比定地を決定しているのだ。

 この試論にもとづけば、弥生末期にヲガという国名があっても何も不思議はない。いやむしろ、「小河」という国名こそ、弥生末期~古墳時代に着手された河岸沿いの沖積低地を開発する拠点を呼んだシンボル的な地名かと思われる。

 そのヲガ国を、私は現・福岡県浮羽(うきは)郡浮羽(うきは)町と吉井(よしい)町の町境付近に比定する。『和名抄』筑後国生薬(いくは)郡小家(おえ)郷の地である。前項の「鬼(き)国」の対岸の約3㎞ほど下流で、筑後川に支流の隈上(くまのうえ)川が流入する。

 氏は「為吾 イゴ」は「小河 ヲガハ」の音写という無根拠の説を根拠にして出発した。いまその無根拠を問わないとしても、これまでの試論(「ゴウゴウ」・川語源説)から「弥生末期にヲガという国名があっても何も不思議はない。」となる理路が私にはさっぱり分らない。そして、どこでどうして「ヲガハ」が「ヲガ」になったのかの説明もない。その理由だけは分る。「オエ」(小家)につなぐためなのだ。だから、続いて氏は「小河→小江→小家という転訛」をテーマにしている。その議論は私の頭ではますます理解不能になっていく。ここで楠原説から別れよう。

(古田説は次回で)
《続・「真説古代史」拾遺篇》(112)



「倭人伝」中の倭語の読み方(55)
「21国」の比定:(28)烏奴国(その二)


 これまで「奴」を「ヌ」訓んできたのだからここでも「ヌ」と訓むことにする。しかし、「ウヌ」と一致する遺称地はない。そこで、「ヌ」は「ノ」(野)を意味し後世には「ヌ」→「ノ」という通音化した可能性大であるから、「ウノ」という遺称地を調べてみた。『日本古代地名事典』では2例あった。

うの[宇努]
 『和名抄』周防国吉敷郡に「宇努郷」で見え、山口市宇野の地をいう。渡来系の宇努連の部民の住地をいう。

うの[宇野]
 『和名抄』播磨国佐用(さよ)郡に「宇野郷」とあるが、風土記に「雲濃里」で初見する。兵庫県佐用(さよう)郡佐用町宇根か佐川町大畑の地かという。おそらく、渡来系の宇野首(おびと)が馬を飼育した山中の上地をいう。

 図書館へ行き『日本歴史地名大系』(平凡社)・『角川 日本地名大辞典』の詳しい解説を読んでみた。解説は「宇努」は平安時代以降から「宇野」は奈良時代以降から始まっていて、両地ともに古墳期以前の説明が全くない。「21国」の比定地にできる可能性は全くない。

 ところで、その調査の過程で「宇野御厨(うののみくりや)」という地名に出会った。御厨とは律令制下では天皇や神に貢納する食物(贄 にえ)を提供する地のことである。『角川 日本地名大辞典』は宇野御厨を肥前国松浦郡の「松浦・五島」と比定している。宇野が御厨を務めた時期は平安期~戦国時代ということだが、宇野はもっと古くから御厨の役を担っていたようだ。そのことを示す説話が『肥前国風土記』の「松浦郡値嘉(ちか)郷」条にあるという。読んでみよう。

値嘉の郷(さと)郡の西南のかたの海の中にあり。烽(とぶひ)の處(ところ)三所あり。昔者、同じき天皇、巡り幸(いでま)しし時、志式嶋(しきしま)の行宮(かりみや)に在(いま)して、西の海を御覽(みそなは)すに、海の中に嶋あり、烟氣(けぶり)多(さわ)に覆へりき。陪從(おもとびと)、阿曇連百足(ももたり)に勒(おほ)せて察(み)しめたまひき。爰(ここ)に、八十餘りあり。就中(そのなか)の二つの嶋には、嶋別に人あり。第一の嶋は名は小近(おちか)、土蜘蛛大耳(おほみみ)居(す)み、第二の嶋は名は大近(おほちか)、土蜘蛛垂耳(たりみみ)居めり。自餘(そのほか)の嶋は、竝(ならび)に人あらざりき。ここに、百足、大耳、等を獲(と)りて奏聞(かへりごとをまを)しき。天皇、勅して、誅(つみな)ひ殺さしめむとしたまひき。時に、大耳等、叩頭(のみ)て陳聞(まを)ししく、「大耳等が罪は、實に極刑(しぬるつみ)に當れり。萬(よろづ)たび戮刹(ころ)さるともる罪を塞(ふさ)ぐに足らじ。若し、恩情(おほめぐみ)を降(くだ)したまひて、再生(またい)くることを得は、御贄(みにへ)を造り奉りて、恒(つね)に御膳(みけ)に貢(たてまつ)らむ」とまをして、即(やが)て、木の皮を取りて、長蚫(ながあはび)・鞭蚫・短地・陰地・羽割蚫等の様(ためし)を作りて、御所に獻(たてまつ)りき。ここに、天皇、恩(みめぐみ)を垂れて赦(ゆる)し放(や)りたまひき。

(中略)

西に船を泊(は)つる停(とまり)二處あり。一處の名は相子田(あひこだ)の停といひ、廾餘りの船を泊つべし。一處の名は川原(かはら)の浦といひ、一十餘りの船を泊つべし。遣唐の使は、此の停より發ちて、美彌良久(みみらく)の埼に到り、即ち、川原の浦の西の埼、是なり、此より發船(ふなだち)して、西を指して度る。此の嶋の白水郎(あま)は、容貌、隼人(かたち)に似て、恆に騎射(うまゆみ)を好み、其の言語(ことば)は俗人(くに)に異なり。


 「同じき天皇」とは景行のことである。「景行紀」には「日本旧記」から盗用した「前つ君」の九州統一遠征譚があるが、上の説話もその九州統一遠征の事蹟を背景に作られた伝承と考えてよいだろう。

 〈大系〉の頭注によれば値嘉郷は五島列島の総称であり、志式嶋は平戸島の南端地(平戸市志々伎)の地である。志々伎は平戸島とはつながっていない独立した島だったようだ。

 『角川 日本地名大辞典』は「宇野御厨」の比定地を「松浦・五島」としている。「松浦」は北松浦半島と限定してよいだろう。つまり「松浦・五島」とは現在の平戸市ということになる。上の説話の後に「宇野御厨」と呼ばれた地域を舞台にしている。『風土記』からの引用文の後半は五島列島の港が遣唐使渡航の中継地として使用されていたことを述べているが、それらの港は当然3世紀以前からあり、九州王朝の本拠地である北九州との往来に使われていたはずだ。さらに、大陸への航海の重要な出港地でもあったろう。

 3世紀頃にも平戸市辺りを「宇野」と呼んでいたという証拠はないが、平安時代になってその地名が創作されたというのも変である。「宇野」はすでにその地方で使われていた、あるいはかつて使っていた地名だったのではないだろうか。断定はできないが、平戸市辺りが「烏奴国」であった可能性はあると思う。

 可能性があるというだけでそれ以上詰められないので、「烏奴」を「アヌ」と訓んでもう一案を考えてみた。この場合、「安濃」が候補地である。

あの[安濃]
 『和名抄』石見国に「安濃郡」とあるが、『出雲風土記』巻末に「安濃郡」で初見する。島根県大田市の一帯を指し、『三代』貞観4年(862)の伊勢国人の「安濃宿禰」に由来するとみられる。

 この地名由来も顛倒した論理だ。「安濃」という地名があって伊勢国人とやらが「安濃宿禰」を名乗ったのに決まっている。

 太田市は石見銀山で有名だが、出雲市のお隣であり、出雲神話の舞台に比定されている地域もあるようだ。ウィキペディアから引用する。

 『日本書紀』によれば素戔嗚尊(スサノオ)は息子の五十猛命(イタケル)、娘の大屋津姫命(オオヤツヒメ)、抓津姫命(ツマツヒメ)とともに新羅から出雲へと渡るが、その上陸地点は大田市仁摩町から五十猛町にかけての海岸であったのではないかとする説がある。現在でも「韓島」(仁摩町)や「韓郷山」(五十猛町)といった地名が残っており、五十猛町や大屋町の地名は五十猛命や大屋津姫命に因むものである。

また、静間町には国造りにおいて大国主命(オオクニヌシ)と少彦名命(スクナビコナ)が国造りの際に仮住まいとしたという静之窟がある。

一方、市東部に位置する三瓶山は古くは「佐比売山」と呼ばれ、『出雲国風土記』の国引き神話において「火神岳」(大山)とともに島根半島を引き寄せて繋ぎ止めた杭であるという。

 古冢時代の「安濃」について、『日本歴史地名大系』の解説を引用する。

 弥生時代になると三瓶川・静間川下流沖積地に規模の大きな集落が営まれるようになる。代表的な集落である土江遺跡(長久町土江)は静間川に架かるJR山陰本線鉄橋付近一帯に中心があったと見られているが凹み石・土錘木製鍬らしき遣物などが発見されており、ほかに土師器・須恵器も出土している。遣跡は約二平方キロの範囲に広がると推定され、当市域の古代の一中心となる集落が営まれていたと考えられる。同遺跡の約1キロ南にある八日市(ようかいち)遺跡(藤間町八日市)も弥生時代から始まる大規模な低湿地集落跡の可能性がある。

 「21国」の一つに比定する資格は充分にある。「烏奴」を「アヌ」と訓むことが正当であると言えないだろうか。

 もう一つ、「愛読者」さんから次のような提案を頂きました。


 倭人伝の「倭国は周施五千余里」を古田説に従い短里とすれば400キロ超位。四角なら一辺100キロ、「方」と言わず「周施」とあるので円形とすれば直径130キロ。

南北は博多湾から熊本南部、東西は大分から長崎位がせいぜいでしょう。「阿蘇山を中央とする国名が幾層にも連ねられていた」というように阿蘇周辺の各国を21国候補とするなら、その南辺で古代から石材で有名な「馬門石」を算出するのが「宇土市網津町馬門」。

 その「宇土」でしたら烏奴(の)国の資格があるのでは。いかがでしょう。

 念のため確認したら倭人伝からの引用文の「倭国」は「倭地」だった。私は「倭地」を九州全体と考えていたが、九州の南北の最長部分の直線距離300㎞ぐらいなので「周施五千余里」では小さすぎる。「周施五千余里」は「愛読者」さんの解釈が正しいようだ。しかし、これは「倭地を参問する」に対する答だから魏使が倭人から得た情報である。回答者は「倭地」を「倭国」とは異なる概念ととらえて、「周施五千余里」と答えたのだろう。もしかすると倭人の間では「前つ君」征服譚の遠征範囲が「倭地」だった? 範囲がピッタリ一致している。偶然だろうか。古くから九州王朝に帰属していた地域を「倭地」と呼んでいたのではないだろうか。

訂正(10月1日)
 この説は撤回します。訂正した説は「女王国統属下の国々(その二)」で確認してください。


 「宇土」について『日本古代地名事典』は次のように解説している。

うど[宇土]
 『和名抄』肥後国に「宇土郡」とあるが、『正倉院文書』天平勝宝2年(750)に「宇上郡」で初見する。熊本県の宇土半島の一帯の地域をいい、「うと(疎)の意とみられ、平地の周辺で、離れて山尾根の盛り上がった土地をいう。
 弥生時代の宇土郡については『日本歴史地名大系』から引用しよう。

 弥生時代になると海が後退して、縄文期の海域部は小ラグーンとして残ったとみられ、そのような所に弥生前期の村が形成された。宇土市善導寺町、同市神馬(しんめ)町の宇土城跡などから弥生前期末~中葉の遺物が出土している。とくに宇士古城跡では丘陵南側にV字溝を巡らせた弥生前期の村落の一部が調査され、この地の弥生文化の動向が北九州の弥生文化の先進地域と軌を一にしていることが知られた。

 この地の弥生文化の特徴は、甕棺の分布によっても知ることができる。宇土市松山(まつやま)町の畑中(はたなか)では須玖式の大型棺が出土し、九州におけるこの種の遺物分布の南限となっている。一方、宇土半島の先端部戸馳島でも弥生前期末の遺物が出土しており、宇土半島基部と同様、海上路による西北九州との交通が考えられる。

 このような宇土地域がもつ先進性は古墳時代になっても継続される。

 「宇土郡」も「21国」の一つとして比定できる条件を備えている。しかし、「愛読者」さんは「烏奴国」を「烏の国」と「の」を格助詞と考えているようだ。格助詞の場合、「野」の意味での「ヌ」→「ノ」という通音と同じ説明は無理だろう。この場合は「ウヌ」ではなく初めから「ウノ」と訓むことになる。これは今まで全ての「奴」を「ヌ」と訓んできた事に反する。また、「烏奴」を「ウド」と訓むと「宇土郡」はピッタリの比定地になるが、同じ理由で賛成できない。

 私は、あえて選ぶとすれば、「安濃」説を採ろう。「烏奴」は一般には「ウヌ」と訓まれていて「アヌ」と訓む人は皆無のようだが、「アヌ」と訓むことが不当である理由はないと思う。

 蛇足を一つ。「烏」は「ウ」という訓みで万葉仮名として使われている。どのように使われているのか調べてみた。圧倒的の多いのが「烏梅」で「梅 うめ」と訓んでいる。「烏」は「ウ」である。万葉仮名「烏」はこの使い方だけのようだ。次ぎに多いのが「烏玉能」というような使われ方で「ぬばたまの」と訓んでいる。枕詞「ぬばたまの」は「夜・黒」などにかかる。烏が黒いことから寓意的使用をしているのだ。

 変わったところでは「烏徳自物」(210番)というのがある。「男(おとこ)じもの」(男であるのに)と訓んじている。「烏」を「オ」という音で使っている。「香烏髪」(1277番)というのもある。「かぐろき髪に」だそうだ。

 もう一つ、大変な難問。「朝烏指」(1844)。本当かね? と疑ってしまいそうな訓みだ。「朝日さす」だそうだ。頭注によると、「三本足の烏→太陽の神→日」で「烏」を「ヒ」と訓むのだそうだ。

 勝手というか奔放というか遊んでいるというか、漢字を多面的に自由自在に使っている。もっとも現在使われている漢字にも常識では読めないものがいっぱいありますね。
《続・「真説古代史」拾遺篇》(111)



「倭人伝」中の倭語の読み方(54)
「21国」の比定:(28)烏奴国(その一)


 古田氏が「鬼国」「鬼奴国」と関係深い国として「烏奴国」を取り上げているので、今回も順序を変えて、先に「烏奴国」を取り上げることにする。

 古田氏は、前回引用した文に次いで、次のように述べている。

 また「鳥奴(ウノ)国」。岡山から香川へ渡る、出発点は宇野港である。この「宇野」である。

 九州では、断然「阿蘇山」が中心だった。「阿蘇山」を中央とする国名が幾層にも連ねられていた。ここ中国地方の山陽道では、この「鬼国」が中枢を占めているようである。

 私はこの説は成り立たないと判断した。その理由は次の通りである。

 宇野港は現在の玉野市にある。確かに現在は宇野港と高松港を結ぶ航路があるが三世紀頃にはどうだったろうか。「不呼国(その三)」で詳しく述べたように、当時は倉敷市酒津辺りまでは海であり、「吉備の穴海」によって切り離されて、宇野港の港がある児島半島は島だった。「児島」と呼ばれる島だった。もちろん児島にも港があった可能性はあるが、ここの玉野や宇野という地名はどの古代地名事典にも現れない。児島半島には文献・史跡ともに古代史に関わるような痕跡はないようだ。

 一方、「鬼奴国」の重要な港は倉敷近辺あったことを明確に示している発掘遺跡がある。(以下は『発掘 日本の原像』による。)

 倉敷市上道遺跡は古地図に見えた酒津から東方約10㎞ほどの所で、山陽新幹線鉄路のすぐ南側にある。1998年、県道工事に伴う調査で港跡が見つかったという。『発掘…』は次のように解説している。

 弥生の港跡としては、長崎県壱岐の原の辻遺跡に次いで二つ目。しかも祭祀用と考えられる異様な遺物の発見である。航海の安全を祈った光景が再現できそうな、初の遺跡だったのだ。

 いっしょに出た土器の分析で、1世紀中ごろから2世紀初めにかけてつくられ、3世紀前半まで存続していたことが分かった。

 北東から南西に突き出た形の突堤は長さ45メートル、幅14~15メートル、高さ2メートル余。途中で「増築」して延ばしたような杭跡があった。杭で周囲と要所を固め、木の小技や葉、粘土を交互に突き固める中国式の「敷き葉工法」だった。

(中略)

 古代の中国・新(紀元8~23)の銅貨「貨泉(かせん)」一枚もあった。港には外洋航海の船が出入りしていたのかもしれない。

 遺跡には戦前から土器片が出土しており、時代区分と形式の物差し、「標識土器」として名高い。「上東式」と呼ばれる。新幹線建設の際の調査で、弥生中期から古墳時代初めころの集落、製塩跡などが判明した。まだ一部の発掘だが、遺跡は南北2キロ、東西1キロくらいの範囲の地下に眠っているらしい。大規模であることは、今度の港跡の発見でも裏づけられた。

 この港は「3世紀前半まで存続」と書かれているが、戦国時代の古地図によれば戦国時代も倉敷市酒津辺りはまだ海だったのだから、その港は当然もっと後まで使われたと考えられる。この遺跡港は「鬼奴国」の最も重要な港だったのではないか。まさに「吉備津彦」の「津」である。

 以上により古田説は採用できないと判断した。

 余談になるが、児島半島の地図を色々と調べていたら玉野市に「鬼入道山」という山があった。まるで「鬼国への入り口を示す山」と言ったような海からの入国の時の目印のような名前だ。偶然だろうか。

 それでは「井の中」の諸説を見てみよう。まずは水野氏による訓みの解説から。

 「烏」は音「ヲ」「ウ」で、「烏(カラス)」であり、「黒色」を意味する。「いずくんぞ」「なんぞ」「なにとて」「ああ」。「太陽の義」とするのは、太陽の中に三足の烏が棲むという伝説によってである。一般に「ウヌコク」と訓む。

(三足の烏とは懐かしい。5年ほども前にかなり詳しい記事を書いたことを思い出した。興味があったらご覧下さい。「三本足のカラス」です。)

 「烏」の音「ヲ」は漢音で「ウ」が呉音。このほかに漢音・呉音共通で「ア」という訓みや、漢音「アン」・呉音「エン」という訓みもあるという(諸橋大辞典)。「アヌコク」という訓みもありそうだが、とりあえずは「ウヌコク」を採用しよう。もちろん表音表記である。

大家たちの諸説

新井白石
 豊後国大野郡としたが、後、『外国之事調書』では大野郡と合せ、肥後国宇土郡の名を記している。 「邪馬台国」九州説者
牧建二
 筑前国御笠郡大野郷、または豊後国大野郡とを並記している。
宮﨑康平
 「ウゥヌのくに」と訓み、肥前国御笠郡とし、現在の福岡県筑紫郡一帯の地で、旧大宰府(大野)を中心としていたとする。

「邪馬台国」大和説者
内藤虎次郎・米倉二郎
 備後安那郡
山田孝雄
 近江国小野郷あるいは越後国魚沼の地

楠原説
『[烏奴](あな)―大分県大分郡庄内(しようない)町・挟間(はざま)町・大分市西部付近』

 楠原氏は「烏」は「ア」と読んでいるが、「奴」は相変わらずあり得ない「ナ」を採用している。確認してみたら「洛陽古音」が「アナ」だった。氏は「アナ」を「穴」として表意表記として扱っている。

 この国名はアナと読み、豊後国大分郡阿南(あなみ)郷、現在の大分県大分郡庄内(しょうない)町・挟間(はさま)町付近に比定する。

 アナとは何の意味か。大分県南部では小半(おながら)鍾乳洞(南海部(みなにあまべ)郡本匠(ほんじょう)村)・風連(ふうれん)鍾乳洞(大野郡野津(のつ)町)などが知られているが、大分川流域は火山灰台地が卓越して鍾乳洞は見られない。

 アナという地名用語は全国各地にあり、立体的な空間である洞穴とは限らない。関門海峡を古く穴門(あなと)と称したが、これは狭く長い海峡を「穴」と表現したもの。私の郷里の岡山県児島湾も吉備(きぴ)の穴海(あなうみ)と呼ばれたが、これも狭い水路で隔てられた海面を穴に見立てたものである。

 大分川は、阿蘇(あそ)火山・九重(くじゆう)火山群や由布(ゆふ)岳の噴出物に覆われた台地を深くえぐって流れる。谷底には細く長い平野がつづいており、そうした狭長な凹地をアナと呼んだのであろう。

 この地は後世、『和名抄』豊後(ぶんご)国大分郡阿南(あなみ)郷の地で、「烏奴」はアナミの音写か。もう一つの可能性として、現・挟間町の大字赤野(あかの)の地名が関係するのかもしれない。その場合はアカノのカを助詞とみなして省略したとも考えられるからである。

弥生末期の集落址

 阿南郷の域内には、弥生末期~古墳時代前期にかけての集落址が多数点在している点が注目される。

 まず現・大分市賀来(かく)の賀来中学校遺跡は大分川に支流の賀来川が合流する低地にある弥生後期後半の環濠集落址で、幅4m・深さ2mの規模のⅤ字溝に囲まれる。挟間町でも、大字向原(むかいのはる)の挟間中学校遺跡や赤間遺跡など、弥生後期~古墳時代前期の集落遺跡が点在する。阿南郷で最上流部に当たる現・庄内町にも、猪ノ原遺跡など弥生期の集落遺跡が散在している。


 いま私は「烏奴国」比定に大変悩んでいて、あるいはと思っていたが、やはり参考になるような説はなかった。

《続・「真説古代史」拾遺篇》(110)



「倭人伝」中の倭語の読み方(53)
「21国」の比定:(23)鬼奴国


 「鬼の二国」ということで「為吾国」をおいて「鬼奴国」を先に取り上げる。

大家たちの諸説

「邪馬台国」九州説者
橋本増吉・牧建二
 肥後国菊池郡城野郷
宮﨑康平
 肥後国玉名郡。現、熊本県玉名市を中心に荒尾市を含む玉名郡一帯で菊地川流域に広がっていた国

「邪馬台国」大和説者
内藤虎次郎
 伊勢国桑名郷
米倉二郎
 讃岐国柞田駅(くぬたのうまや)で、『和名抄』の刈田郡柞田郷にあたり、現在の三豊郡柞田村附近

楠原説
『[鬼奴](きな)―福岡県山門(やまと)郡瀬高(せだか)町付近』

 遺称地はないが「倭人伝」のこの国名はキノと読むべきなのだろうが、この国名を継承した地名は現在も古代郡郷名にも見あたらない。肥後国菊池郡に城野(きの)郷があるが、この郷名は大化改新(六四五年)直後に築かれた鞠智城にちなむといわれ、また熊本県北部は女王国連合とは別の勢力圏・文化圏に属したと考える。

 それならば、どこに比定するか。私はとりあえず、筑後国山門郡山門(やまと)郷、現在の福岡県山門郡瀬高(せたか)町付近に想定した。その根拠は、一つには弥生遺跡の分布状況、そして『日本書紀』神功皇后摂政前紀が記す土蜘昧・田油津媛(たぶらつひめ)の伝承があるからである。

濃密な弥生遺跡
 福岡県南部で弥生後期の遺跡が集中して発見された地区は二カ所ある。まずは八女(やめ)市西部の室岡(むろおか)地区で、ここは次項の「邪馬国」に比定すべき地と思われる。もう一ヵ所は山門郡瀬高町で、この地こそ私は「鬼奴国」の中心地と見る。

 瀬高町坂田(さかだ)・小川(おがわ)地区は矢部(やぺ)川下流左岸、標高10m内外の沖積平野にあり、弥生後期には三角州上の自然堤防の一角を占めていたろう。小川の鉾田(ほこた)遺跡からは住居址や50以上の甕棺(かめかん)墓群とともに銅鉾片・小型銅鏡が出土し、坂田の定角遺跡では箱式石棺・甕棺墓群が発見された。

 山寄りの瀬高町大草(おおくさ)には斉明(さいめい)天皇七年(六六一年)に築造されたという女山神籠石(ぞやまこうごいし)があるが、その一郭をなす産女(うめ)谷からは弥生後期の銅鉾二本が発掘されている。その埋められた時代が弥生期なのか七世紀の神籠石築造時なのかはわからないが、いずれにしてもこの付近が弥生期から要地だったことを物語る。

 もし、神籠石に先立って弥生後期から原始的な城砦が存在したのであれば、キは「城」であるから「鬼奴」の国名にぴったりの地になる。

(後略)

古田説
 古田氏は「鬼の二国」として解釈している。

 次は「鬼(キ)国」。当然,「鬼ノ城(キノジョウ)」で知られた、岡山県の中心拠点である。神籠石と古型山城(いわゆる朝鮮式山城)の合成型の長大な山城の存在で知られている。

 次いで「鬼奴(キノ)国」。右の「鬼国」の周辺の原野であろう。

 「鬼奴」の訓みを「キノ」としているが、これまでの訓みを踏襲すれば「キヌ」である。やはり「クヌ」と訓み、「ヌ」は「野」の意に通ずる音と解釈する方がよいだろう。

 「鬼」そのものを用いている地名があるのだから、検討に値する。それにしても私には「鬼ノ城」は初耳だ。ネット検索をした。「さいろ社」という出版社のHPに出会った。「激動の医療・福祉分野にキリッと光る、愛と青春の骨太出版社」という楽しい会社説明をしている。そのHPに「鬼ノ城へ、正面から歩いて登る」という記事がある。写真もたくさんあり、軽妙洒脱な文体が楽しい。この記事を利用させていただく。記事の筆者を「さいろ」さんと呼ぶことにする。

 古田氏の文にある通り、「神籠石と古型山城の合成型」ということから、例によって、「白村江の戦」後、つまり七世紀後半に築造されたという説が有力視されているようだ。もう一つは、吉備津神社に温羅(うら)伝説と呼ばれている伝承があり、それを鬼ノ城の起源譚とする説である。その伝説を「さいろ」さんは次のように紹介している。

 垂仁天皇期に、百済の王子・温羅が飛来してこの地に居座った。温羅は吉備冠者とも呼ばれ、バケモンみたいにデカくて野蛮で、略奪暴行などして暴れまわってかなわん。地元民の救済願いに大和朝廷が応えて皇子イサセリヒコ(吉備津彦)を派遣し、温羅を打ち負かした。その温羅の根城だったのが鬼ノ城というもの。これだとおそらく3~5世紀ということになりそうな。

 「さいろ」さんは「井の中」でつくられた偽の古代史しかご存じないようだが、見るべきことはキチンと見抜いている。「さいろ」さんは七世紀説を次のように否定している。妥当な判定だと思う。

 まず日本書紀の防衛説だが、朝鮮半島から大和を目指して軍勢が攻めてくるのを防ごうというときに、こんなに湾の奥深く、しかも海からもかなり離れた場所に城を造るかね?

 大陸軍は当然、船で来るわけで。だとしたら1にも2にもまず関門海峡、さらに船の通路になるような、たとえば下津井みたいなところに巨大な砦を築くべきだろう。実際に対岸の四国では、瀬戸内海に飛び出した屋島に築城されている。

 大陸軍だって、大和を攻めるのにこんなところにまで入り込んでウロウロと無駄な戦をするかね? 鬼ノ城を落としても後ろには山しかないんだが。

 俺は歩きながら、「いや~これは大陸からの防衛説はナイっしょ」と確信したのだった。

 鬼ノ城からは7世紀の土器などが出土していて、それが防衛説の根拠となっているらしい。
 しかしまあこれだけの城だから、7世紀の土器ばかりが出土したとて、もっと前からあったのを7世紀に再整備して使用したっちゅーだけかもしれん。

 問題は、最初に築かれたのはいつで、誰が、何のために造ったのか、ということだ。

 それでは吉備津神社に残る温羅伝説をどう解したらよいだろうか。古い神社に残る伝承は全くの虚構ではないだろう。その伝承の中には何らかの史実が残されていると思う。鬼ノ城にたどりついた「さいろ」さんもそのような立場に立ち、鬼ノ城を見聞しながら鬼ノ城を次のように分析している。

 まさにもう吉備国の奥座敷っちゅーか奥の院っちゅーか黒幕っちゅーか参謀本部っちゅーか最後の砦っちゅーか、肝心カナメの位置に今、立っているぞ! と俺は感じたね。

 こんな山のてっぺんなのに、どえらく立派です。しかもデカイ。
 戦国時代のものではない。吉備津神社の伝説によると、鉄も少なく人口も希薄な古代の話だ。俺の勘では3~4世紀。
 カッポウギみたいな白い貫頭衣を来て、髪の毛を耳の横でチクワみたいに束ねて、首から原始人みたいな勾玉ネックレスをぶら下げてる、あの時代だ。

 こんな城を造るのって、古墳を造るよりずっと大変だったに違いない。
 みなさん、吉備津神社の伝承にあるように、これをポッとやって来たヨソ者や山賊ふぜいが造れると思うかね?
 こりゃあ吉備の国が総力を挙げて造った軍事施設だな・・・と感じないわけにはいかなんだね、俺は。

 朝鮮式の城だとすると当然朝鮮半島の人が技術指導をしたのだろうが、少なくとも地元の吉備王国もしくはその中の有力豪族が全面的に力こぶを入れまくって造ったに違いないだろう、これは。

 そもそも、吉備は朝鮮半島とのつながりが色濃い。

 古代、鉄は朝鮮半島南部の伽耶(加羅)地方の特産品で、日本は鉄を伽耶からの輸入に頼っていた。やがて伽耶からの渡来人がこの地方で砂鉄からの製鉄事業を始めたようで、鬼ノ城の東の尾根のゴルフ場(鬼ノ城ゴルフ倶楽部)開発工事では、大規模な古代のタタラ跡が発掘されたらしい。

 そして、岡山市北部からこの地に至る地域を支配していた豪族は「賀陽(かや)氏」だ。その名前からも渡来系と考えられる。

 以上の鬼ノ城についての「さいろ」さんの解説を、私は大筋において納得した。もちろん、最初から現在見られるような堅固で大きな城塞だったとは限らない。後に補強拡大されていったのかも知れない。しかし、あの場所に何のためにという問題が残る。「さいろ」さんの探求はさらに続き、この問題も取り上げている。いい線行っていると思うが、ヤマト王権一元史観に則った解釈なので納得しがたい部分がある。あとは直接読んでいただくことにしよう。

 「さいろ」さんが言うように、三世紀頃にこの地域で覇権を争う激しい戦いがあったのかもしれないが、私は倭王武の上奏文が語る九州王朝の東方侵攻戦を考えている。その上奏文を再掲示する。

昔より祖禰(そでい)躬ら甲冑を擐(つらぬ)き、山川を跋渉し、寧処(ねいしょ)に遑(いとま)あらず。東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を脱すること六十六国、渡りで海北を平ぐること九十五国。

 以上により、私は「鬼国」「鬼奴国」の比定地は古田説を採用する。

 私が「好古都国」に比定した中心地域・上道郡は、「(15)不呼国(その三)」で確認したように、次のようであった。


 東は吉井川を境に邑久(おく)郡、北は東から磐梨(いわなし)郡・赤坂(あかさか)郡、西は御野(みの)郡、南は海に面する。現在の赤磐(あかいわ)郡瀬戸(せと)町の一部と、岡山市の吉井川西岸から旭川東岸に至る南部の沖積平野を中心とした地域で、古代吉備の中心地域の一つであり、多くの遺跡などが分布する。

 つまり吉井川と旭川にはさまれた地域である。現在の岡山市中区・東区辺りが中心地域となる。東方は備前市辺りまで領域にしていたかも知れない。これを考慮して「鬼国」「鬼奴国」を考えてみよう。

 「鬼国」の中心地は当然鬼ノ城を含むことになる。総社市と岡山市北区の北方部分が中心地となる。そして「鬼奴国」の中心地は「鬼国」の南方、総社市・岡山市北区の南方部分と倉敷市辺りとなる。吉備津彦神社を含む。