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《続・「真説古代史」拾遺篇》(109)



「倭人伝」中の倭語の読み方(52)
「21国」の比定:(21)鬼国


 「鬼」の意味については「俾弥呼と崇神の接点(2)」で詳しく論じているので繰り返さない。訓みは「キ」しかないので「鬼国」・「鬼奴国」は「キコク」・「キヌコク」と訓むことになる。

 しかし、ここで検討すべき問題がある。官名に使われている「卑狗」を「ヒコ」訓んでいるのだから、「呼」は「コ」ではなく「カ」と読むべきだという論理と同じように、いままで「支」を「キ」と訓んできたのだから「鬼」は「キ」と違う訓みにしたい。しかし、「鬼」には「キ」以外の音はない。このことから、「鬼」を単なる表音文字ではなく、表意文字でもあると考えるほかない。そうすると「蘇の三国」と同様、「鬼国」と「鬼奴国」は「鬼の二国」ともいうべき関係深い二国ということになる。しかし、この「支・鬼」問題も「井の中」では全く問題にされていないようだ。

大家たちの諸説

新井白石
 肥前国基肄(きい)郡 「邪馬台国」九州説者
牧建二
肥前国小城(おき)郡
宮﨑康平
 「クイのくに」と訓み、「鬼」は「キ」に近い「クイ」であるとし、「クイ」とはクヒの転訛で、干満の差がはなはだしい有明海では、河口から遥か上流まで、大きな海嘯をおこす(海嘯とは満潮の際に遠浅の海岸、とくに三角形状に開いた河口部〔マウス地帯〕におこる高波のこと)。川岸にも相当の干潟をのこす。菊池川のことを干満のはなはだしい川という意味でクイの川といったのであろうとし、鬼国は、肥後国山本郡および玉名郡のうち、現在の熊本県鹿本郡の菊池川以南の大部分と、玉名郡の一部に比定する。そしてこの国は、川辺の一部をのぞき、畑作を主とし、狩猟などによっていた国で、『記紀』にみえる紀臣という氏族の故郷の地はここであるという。

「邪馬台国」大和説者
内藤虎次郎
 尾張国丹羽郡大桑郷または美濃国山県郡大桑郷
山田孝雄
 紀伊国
米倉二郎
 安芸国

 宮﨑氏以外は「キコク」と訓んで、「キ」音を含む地名を探しているようだが、内藤氏の比定地「大桑」がどこから導き出されたのか、私にはさっぱり分らない。

 宮﨑氏の「クイ」という訓みは可能なのだろうか。『まぼろしの邪馬臺国』を直接調べてみたら、漢音呉音ともに「クィ」としている。「鬼奴」は「クィド」と訓んでいる。「クィ」という音を選んだ理由は「鬼奴国」のところで論じていた。「支」を「キ」と訓んできたことを問題にしいる。先にこの問題を取り上げる人が「井の中」にはいないようだと書いたが、宮﨑氏が取り上げていた。次のように述べている。

 鬼の読み方が、単なるキの音(おん)であれば、他にも倭人伝の中に使用されている「支」でもよかったはずである。諸橋轍次先生の大漢和辞典を開くと鬼の発音は「〔集韻〕矩偉切」と書いてある。これは矩(ク)の音と偉の音を合わせた発音をせよという意味で、集韻はその出典である(集韻というのは宋代に勅撰された10巻からなる53,525字を集めた本)。

 同じく支のキの音(おん)を調べてみると「〔集韻〕翹移切」とある。これは翹(ケウ)と移(イ)の合体音で初めから日本語のキの音である。こう説明すれば、どなたにも理解されると思うが、鬼の字はいたずらに倭人伝特有の蔑んだ意味だけで使用されているのではない。冒頭の読みもそのため、単なるキと違うことを明らかにするためにクィと付しておいたのである。

 私の「反切」理解では「矩偉切」も日本語の「キ」という音でなければならない。それなのに「単なるキと違うことを明らかにするためにクィと付しておいた」と言っている。つまり、「支(キ)」とは区別するために「鬼(クィ)」としておくという意味だろう。それならこれは宮﨑氏が便宜上そうしただけであり、三世紀の陳寿や倭人が「クィ」と訓んでいたということにはならない。それなのに、「クィ」をもとに比定地を論じるのは不当だ。しかし、その議論の中で有明海や菊地川の特徴を詳しく論じている部分は参考になるので読んでおくことにする。なお、氏の「鬼奴国」比定地は
「肥後国玉名郡。現、熊本県玉名市を中心に荒尾市を含む玉名郡一帯で菊地川流域に広がっていた国」
である。

 そこで今度はクィとは一体どんな意味だろうかということになる。単なる杭や食いの意味でもなさそうだし、奴の呉音のヌの音が、野に転じたり、水田を表わすナとなっていることから、鬼奴と結合している点からも考えてみなければならない。

 前にもたびたび説明してきたように、クィのクは河のことである。奴は水田地帯のことであるから、川と水田地帯との間にクィのイをからませて現状の地形にてらして考えてみよう。

 ここには九州でも屈指の熊本県の母なる菊池川が南北に流れている。そしてこの川には五メートルを越す有明海の激しい満干の差で相当に強い海嘯(かいしよう)が起きる。大潮の満潮のときなどは、はるか上流まで海水が遡行するのである。したがって干潮時には河口一帯が一変して広い干潟となる特異な川なのだ(特異といっても有明海と八代海に注ぐ川はみな同じだが、ここでは他地方の川に対して著しい特徴があることをいっているのである)

 こうしたことからクィのイは干潟のヒのh音が消えて母音だけが残り、クヒがクィとなったものと考えられる。現在の菊池川もその名の起こりは、この干潟になる鬼(クィ)が河口になっている川という意味でキクチ(鬼口)と呼ばれたことに始まるのだと思う。

楠原説
『[鬼](き) - 福岡県朝倉(あさくら)郡杷木(はき)町池田(いけだ)・白木(しらき)付近』

 楠原氏は「鬼(キ)」=「城(キ)」として、次のように論じ始めている。(「城」の上古音・中古音には発音記号が付されているが省略した。)

 この国名はキで、「城」の意味の語であろう。漢字の「城」の字音は上古音(発音記号)、中古音(発音記号)だから、キと発音するのは字音ではない。和語としては「牙」の意のキに通じるかとも思われるが、『岩波古語辞典』は「城」のキは乙類、「牙」のほうは甲類で別語源とする。

 その語源については、金沢庄三郎(かなざわしようさぶろう)『日鮮同視論』は「防備物で四辺を取り囲んだ一郭の地の名で、満鮮語と同系の語」と述べる。また、『岩波古語辞典』は百済(くだら)の語ではないか、としている。

 このキ(城)という語が、いつから和語に入ったか。北九州の倭人は大陸・半島の住民とは近隣関係にあったから、弥生後期の倭語ではあったろう。

 倭人が後世でいう「城」的な構造物、その所在地をキと呼び、それを当時の中国人が「鬼」の字で音写した、と見る。

 「牙」を持ち出したのは「鬼」からの連想だろうか。氏は「牙」という字について、この場合の「キ」は甲類と言っている。私の調べた範囲では万葉仮名の「牙」は「ゲ」である。念のため『万葉集』『古事記』『日本書紀』に当ってみた。「牙」万葉仮名として使っている例は意外と少ない。『万葉集』には2例あった。
1809番 牙喫建怒而 きかみたけびて
3489番 之牙可久尓 茂(しげ)かくに
 1809番は「キ」と訓んでいるが、「牙喫」(牙で噛む)という意味でどちらかというと表音仮名ではなく、表意文字だろう。例えば「天智紀」10年10月条に「象牙」いう言葉が出てくるが、「キサノキ」と訓んでいる。3789番の方は明らかに表音仮名であり、「ゲ」である。

 『古事記』では表音仮名として使われているのは「當藝志美美命の反逆」の段の歌謡中の一例だけである。
許能波佐夜牙流 木の葉騒(さや)げる
 「ゲ」である。『日本書紀』には仮名として使われている「牙」はない。

 なお、氏は「支」を「キ」と訓んでいるが、これとの「鬼」との関係には全く触れていない。

 ついでなので「城」の訓みについて少し調べてみた。

 漢字としての「城」の訓みは「セイ」「ジョウ」である。韓国ドラマを見ていると「城」は「ソン」と発音しているようだ。「セイ」→「ソン」という音韻変化と説明できそうだ。すると「城」を「キ」と訓むのは日本語だけの訓みなのだろう。「柵」を「キ」と訓むのも日本語だけだろう。倭語ではおそらく縄文時代(あるいは石器時代にまで遡るかもしれない)から柵(さく)を「キ」と呼んでいた。その「キ」が後に軍事的な砦としての大掛かりな建築物・城にも適用されることになったのではないだろうか。面白いことに「城 キ」は万葉仮名としてたくさん使われているが、「柵 キ」は万葉仮名ではないのだった。

 「城 しろ」という意味で「城」が使われているのは『古事記』ではあの沙本毘古王の「稻城(イナギ)」だけだ。『日本書紀』では「稻城(イナキ)」のほかには「斉明紀」以降に「城」が現れるが、どういうわけか百済・高麗の「城」はすべて「サシ」と訓んでいる。現在の「ソン」とは異なるが、古代の朝鮮では城を「サシ」と訓んでいたのだろうか。日本列島の城ではあの「水城(みずき)」が初出で全て「キ」と訓んでいる。例外は羅城(らじょう)だけである。

 さて、氏は「鬼国」を朝倉市杷木町に比定している。私はこの地を「已百支国」の比定地にした。氏の説明文にはこの地の地勢や歴史が詳しく書かれているので、訓んでおくことにする。
 そのキ(城)はどこにあり、キという国の位置はどこだったのか。私は初め、七世紀に築城された朝鮮式の山城・基肄(きい)城がある肥前国基肄郡かと考えていたが、時代的な錯誤の問題とさらに21国中の「支惟」との関連で決めかねていた。

 ところが、弥生後期の後半にキとよばれていた地があったのである。その遺構は、九州横断自動車道の建設工事中に、福岡県朝倉郡杷木(はき)町池田から発見された。

筑後川北岸の軍事拠点

 筑後川が大分県境の山地を抜けて筑後平野に流れ出た北岸に現・朝倉郡杷木町がある。筑後川が曲流する北岸、東の大分県日田(ひた)市境は三日月(みかづき)山 (標高496.7m)を主峰とする山塊が張り出し、西の朝倉郡朝倉町との境界には上座(かみつくら)郡内唯一の延喜(えんぎ)式内社である麻底良布(までらふ)神社が鎮座する麻底良山(標高294.9m)がそびえる。

 町域内は、北の山地から筑後川に注ぐ二支流の赤谷(あかだに)川と志波(しわ)川の谷に区分される。

 町内東部の池田(いけだ)・林田(はやしだ)地区は古代の上座郡七郷のうち杷伎(はき)郷に比定され、また古代駅制で太宰府から豊後国に通じる豊後道の杷伎駅が置かれていた。

 町内の東端、穂坂(ほさか)地区には筑後川に臨む丘陵上に杷木神籠石(こうごいし)遺跡があるが、その築造年代は七世紀後半の斉明(さいめい)天皇の朝倉橘広庭(あさくらのたちばなのひろにわ)宮への行宮(あんぐう)の時期と関連づけられるので、「倭人伝」の「鬼国」とは時代的に関連はない。

 杷木町池田の西ノ迫(にしのさこ)遺跡は、近年、九州横断自動車道の工事中に発見された遺跡である。その後の調査により、この遺跡は弥生後期後半の高地性集落址であることが判明した。標高130m、周辺の低地より比高差にして85~90m高い尾根の端に、幅1.3~4m、深さ1~1.5mの環濠をめぐらせた遺跡である。

 ただし、この遺跡からは竪穴住居跡は三軒分しか見つかっていない。集団生活の痕跡が希薄であることから、見張り用などの防御的軍事施設址ではないか、という。しかし、これだけの施設を必要としたこと、そして施設の建設・維持・管理のためにも、付近にしかるべき規模の集落があったものと思われる。

 というよりも、前述したような隔絶された地形条件を考えれば、現・杷木町一帯に弥生後期の「国」が存在していた、と見るべきであろう。

 池田地区に隣接する同町林田・穂坂地区などには弥生土器が散在していた。後世、杷木神籠石や古代駅制の杷岐駅がつくられているから、弥生期の遺跡はある程度破壊されているだろうが、やがて新たな発見があるかもしれない。

 なお、池田地区の北に隣接する白木(しらき)地区は、江戸期には池田村とほとんど一体の村とみなされていたらしい。

 シラキとはトウダイグサ科の落葉小高木が生えていたからとか、新羅(しらぎ)からの渡来人云々などという地名起源説には私は与(くみ)しない。そんな幼稚園児でも唱えるような稚拙な説を克服するために、私は何十年も地名に取り組んできた。

 このシラキという地名については、シロ(城)・キ(城柵)と同義語を重ねた地名の可能性も大いにありうる、と指摘しておく。

 神籠石の「築造年代は七世紀後半」という「井の中」の誤説が未だに大手を振ってまかり通っている。
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「倭人伝」中の倭語の読み方(51)
「21国」の比定:(20)華奴蘇奴国


 「華奴蘇奴国」。この二段階呼名を各論者がどう料理しているのか、興味しんしんである。まずは水野氏の語句解説から。

 「華」は音「クワ」「ゲ」で、「はな」「つや」「いろ」「はなやか」「美しくかがやく」「いろどり」「内にみちて外に発するもの」「かざり」「白粉」「文徳」「たちいふるまい」などの義がある。これもまた音の転写で国名を現わす。一般に「カヌソヌ」と訓む。

 手元の漢和辞典によると「カ(クヮ)」は漢音で、「ゲ」は呉音である。

 「華」を「ゲ」と読む例としてすぐ思い付くのは「蓮華」「散華」、また「ケ」と訓む例には「華厳」「法華」がある。どれも仏教関係の言葉である。ともあれ、漢音・呉音の区別がある場合は、呉音で訓む方が妥当する可能性が高いだろう。しかし、「ゲヌソヌ」と訓むのは「和語には本来濁音から始まる語はない」という倭語音韻の基本法則と相容れないので不当である。「ケヌソヌ」と訓む可能性は大だと思う。私は「ケヌソヌ」を採用しよう。

 「華」という文字は倭語の音文字として盛んに使われていると思っていたが、さにあらず。万葉仮名のなかには見当たらない。試みに「華」という文字がどのように用いられているか、①『万葉集』②『古事記』③『日本書紀』で探してみた。①では一例あったが、山上憶良の「沈痾自哀文」中で「華他」(後漢の医者)という人名だった。②では序文に一例だけ。「華夏」という熟語(都邑と同じ意)だった。③ではたくさん使われているが、「華(はな)=花」という例の他は「光華明彩」「光儀華艶」「崇華」などなどすべて熟語であった。もちろん訓は倭語になっている。それぞれ「ひかりうるはしく」「よそひうるはしく」「たかくかざり」などと訓んでいる。

 こうして見てくると、「華」は音の転写文字ではなく、表意文字として使われていると考えるべきだろう。そうすると「華奴蘇奴」を単なる「音の転写」とする「井の中」の説は全て不当と言うことになる。が、いちおうそれぞれの苦心の末の比定地を見ておこう。

大家たちの諸説

「邪馬台国」九州説者
橋本増吉・牧建二
 肥前国神崎郡

宮﨑康平
(水野氏の要約は不正確なので、『まぼろしの邪馬臺国』から直接引用する。)

華奴蘇奴 漢音クヮソド・呉音ゲヌソヌ

 肥後国合志郡(かはしのこほり)、菊池郡(くくちのこほり)。現、熊本県菊池市及び菊池郡のうち白川沿いの大津町菊陽町を除く一帯で、菊池川をはさんでその本流及び支流にわたって拡っていた国。鬼国の北東、為吾国の東部に隣接する国として比定した。

 華奴は菊池川本流に沿った川岸の水田地帯を指し、蘇奴は上流の蘇奴(阿蘇)に近い水田地帯を指しているようである。華(クワ)は川の意で、川奴がつまってクヮド(ヌ)と発音されていたのであろう。その証拠に、後世この地方が合志(かわし)郡と呼ばれるようになったのも、奴の字にかえて、網の目のように小川が入り組んだこの地方にふさわしい水源地帯の意を表す志(シ)(沁みる、湿める)に変わっているだけである。蘇奴もまた菊池市の背後はすぐ阿蘇であり、その阿蘇の蘇奴と混同を避けるために、蘇奴に続く菊池川流域の蘇奴の意味で華奴蘇奴と呼ばれたのではなかろうか。

「邪馬台国」大和説者
内藤虎次郎
 遠江国磐田郡鹿苑神社所在地附近に比定し、祭神不波能母遅(不破貴)久奴須奴神(ふわのもちくぬすぬのかみ)を関係ある神名としている。
山田孝雄
 武蔵国金鑚(かなさな)神社の所在地に関係すると説く。この神社は、埼玉県児玉郡神川村二ノ宮にある、もとの官幣中社で、背後の御室ケ岳を神体とし、祭神は天照大神・素盞鳴尊・日本武尊とする。
米倉二郎
 伊予国神野郡伊曽乃神に比定している。

 宮﨑説にだけ二段階呼名に対する配慮が見られる。その点で他の諸大家とは一線を画している。

楠原説
『[華奴蘇奴](かなそな) - 福岡県甘木(あまぎ)市付近』

 宮﨑氏は「華」を「川」の「カ」と解釈したが、楠原氏は「華奴」を「カ(上)・ノ」と考えて比定地を探している。次のように論じている。

 この国名は前々項「蘇奴」がソネ(曽根)またはソノ(園)であるなら、「上曽根」「上園」のいずれかであろう。ただし、それらの語形の地名が古代から現在まで存続していると考えるより、先の「蘇奴」に対して「カ(上)・ノ~」と位置区分称を冠称して呼ぶようなソネ・ソノを想定し検討すべきだろう。

 結論をいえば、私は小石原川が扇状地に流れ出る現・甘木市中心部付近に比定する。

 その理由の一つは、甘木市甘木と前項の秋月城下町との中間地点にある同市千手(せんず)の集落名に大園(おおぞの)、そのすぐ下手の下淵(したふち)に園田(そのだ)があり、小石原川右岸の三輪(みわ)町依井(よりい)には朝園(あさぞの)集落があるからである。扇状地の扇頂部は砂礫地で、前述したようにソノ(園)として利用し、ソノと呼ばれるにふさわしい土壌である。

 もう一つの理由は、「蘇奴」に比定した現・夜須(やす)町曽根田(そねだ)付近は標高45mであるが、現・甘木市中心部付近は55mでかなり高位にあり、カ(上)と呼ばれる位置関係にあるからである。小石原村からはるばると山地を穿(うが)って流れてきた小石原川は、この地点での土砂の堆積作用が大きく、一方の曽根田川のほうは谷が浅く流路が短い分だけ堆積と浸食の両作用の力が拮抗しているのであろう。「倭人伝」の時代、両地点の標高差がなぜ計測できたのか。そんなことは簡単で、水田稲作民は常時、水がどう流れるかを熟知していなければ農作業にならない。土地の高低は、古代稲作民にとって、われわれが英語や数学を学ぶ以上に必須の学習科目であった。

 地名に使われる「上・下」は、とくに行政地名の場合は、権力中枢からの距離上の位置を表現したケースがほとんどである。「倭人伝」に記された国々の場合、女王国連合はちょうど現在のEUのように共通の想念(おそらく鬼道というイデオロギー)と共通の利害関係(親魏(ぎ)政策)で結ばれた緩やかな同盟であったろう。

 30ヵ国におよぶそれぞれの「国」の内部はともかく、女王国連合相互の関係は当然、中央集権の権力構造にはなかった。ならば、国名に冠称される「上・下」は権力中枢からの位置関係ではなく、自然地理的な上・下でなければなるまい。

 今回の比定地もまた「邪馬壹国」領内である。しかも「呼邑国」を甘木市の秋月付近に比定していた。氏が想定している国の領域はかなり狭いようだ。

 女王国連合は
「共通の想念(おそらく鬼道というイデオロギー)と共通の利害関係(親魏(ぎ)政策)で結ばれた緩やかな同盟であったろう。」
という説には同意できる。

古田説

 「蘇奴国」は、〝阿蘇山を取り巻く原野″の意と思われたけれど、難題は「華奴蘇奴国」だった。この「二階建て」のような「四字国名」は、何物か。この疑問だった。 - それが〝解け″た。

 「華奴」は「火野(カヌ)」だ。〝火の燃える原野″の意味である。「華」と「火」とは、〝日本人の「訓み」″では、ほぼ対応している(中国音では「否」(ノウ)」)。

 問題は「二階建て」の構造だ。古事記を見ると、「甲の乙」という形で、「甲」は〝全体の一部″、「乙」は〝全体″を指すことが少なくない。「伊予の二名の島」(上巻)は、「身一つにして面四つあり」として、四国全体を指す、とされているけれど、(甲)伊予(狭)(乙)伊予の二名の島(広)という「二階建て」構造をもっている。要するに、その「全体(乙)」の中の一点(甲)から、〝全体を指す″用法なのである。

 後代の行政制度の中の、「丙(広)の丁(狭)」とは、逆の「書き方」、視点なのである。

 また、「筑紫島」の場合も、「身一つにして面四つ有り。」として、九州全体を指す、とされているけれど、その「一部(狭)」の「筑紫」という視点から、九州島全体を指す、という用法に立っている。

 おそらく、海人(アマ)族が、海の側から一個の「島全体」を表現するとき、自分のいる一個所(狭)を拠点として、全体(広)を表現した、その表記法ではないかと思われる。

 このような立場から見ると、今問題の、「華奴蘇奴国」は、阿蘇山そのものを「基点」として、〝阿蘇山を取り巻く原野″を表記したものであろう。もっと、つきつめれば「蘇奴国の中央に阿蘇山あり」 ― この一点を表記していたのである。

 「二階建て」呼名の解釈には納得できたが、最後の一節がよく分らない。私なりに潤色してみよう。

 古田説を読みながら頭によぎったことがある。三好達治の「艸千里浜」である。

艸千里浜

われ嘗てこの国を旅せしことあり
味爽(あけがた)のこの山上に われ嘗て立ちしことあり
肥の国の大阿蘇(おほあそ)の山
裾野には青艸しげり
尾上には煙なびかふ 山の姿は
そのかみの日にもかはらず
環(たまき)なす外輪山(そとがきやま)は
今日もかも
思出の藍にかげろふ
うつつなき眺めなるかな
しかはあれ
若き日のわれの希望(のぞみ)と
二十年(はたとせ)の月日と 友と
われをおきていづちゆきけむ
そのかみの思われ人と
ゆく春のこの曇り日や
われひとり齢かたむき
はるばると旅をまた来つ
杖により四方をし眺む
肥の国の大阿蘇の山
駒あそぶ高原(たかはら)の牧(まき)
名もかなし艸千里浜


 この連想からの思いつきに過ぎないが、私は次のように考えた。

 私は艸千里浜に行ったことがないけれども、特にこのような地名が付けられているところを見ると、さぞ美しい原野なのだろう。古田氏は「華」と「火」の音が同じことから、「華奴」を「火野」と解釈しているけれども、私は「華」を文字通り「うるわしい・美しい」という意味と考える。「華奴」とは「蘇奴」(阿蘇山を取り巻く原野)の中でもとりわけ美しい原野である。このように考えると「蘇奴国」「華奴蘇奴国」の比定地は次のようになろう。

 「対蘇国」を阿蘇山の北方に比定したので「蘇奴国」は阿蘇山東南部に広がる地域である。現在の阿蘇郡の東側部分を中心とした地域に当る。その阿蘇郡の草千里浜を含む西側部分を中心とした国が「華奴蘇奴国」ということになる。
《続・「真説古代史」拾遺篇》(107)



「倭人伝」中の倭語の読み方(50)
「21国」の比定:(18)蘇奴国


 この国名に使われている文字「蘇」「奴」の訓みについてはすでに議論済みなので、水野氏も訓みについては「音を転写したもの」と簡単に済ませて、直ちに諸大家の比定地紹介を行っている。(「?」付きの訓みは私の推定)

大家たちの諸説

「邪馬台国」九州説者
新井白石
 肥前国彼杵(そのぎ)郡(「ソノ」?)
橋本増吉
 肥後国佐野(さの)郷(「ソノ」?)
牧建二
 「ソヌ」と訓んでいる。  白石と同様、彼杵郡に比定。ただし、橋本説の可能性もあるとしている。
宮﨑康平
 「ソド」と漢音で訓んでいる。(直接調べた。)
 肥後国阿蘇郡とし、現在の熊本県阿蘇郡の阿蘇山火口原にひろがる白川上流域の水田地帯。

「邪馬台国」大和説者
内藤虎次郎
 伊勢国多気郡佐奈県(さなのあがた 「ソナ」?)
米倉二郎
 讃岐国(「ソヌ」?)

 だれも「蘇」という同じ文字が使われていることには頓着していない。頓着できないのだ。九州論者では宮﨑氏(鹿児島に比定)以外は狗奴国を、たぶん、肥後国菊地郡に比定している。それ以南は「狗奴国」同盟国と考えているので「蘇の三国」を阿蘇山近辺に持っていくことはできない。大和論者もちろん九州に比定地を探す発想は全くない。宮﨑氏は直前の国の近隣を次の国の比定地として選んでいるので、たまたま「対蘇国」と「蘇奴国」を阿蘇山の周辺に比定したに過ぎない。次の「華奴蘇奴国」は阿蘇山周辺から離れることになる。

楠原説
『[蘇奴](そな) - 福岡県朝倉(あさくら)郡夜須(やす)町付近』

 楠原氏はこれまで「奴」を「ナ」と訓んでいるので、ここでも本来ない音「ナ」を用いている。一応一貫性はある。しかし、ここでも「ソノか、ソネか」という副題を付けて、「ソナ」には一顧だにしない。今まで通り、「ソナ」が後に「ソノ」または「ソネ」に転訛したという論法である。氏が厳しく批判している諸大家たちの類音探しと同じではないか。違いがあるとすれば、地名の語源を詳しく論じている点であろう。その議論はそれなりに面白い。次のようである。

 「倭人伝」が「蘇奴」と漢字二字で音写した三世紀の列島の地名は、のちのソノ(園)かソネ(曽根)のいずれかに違いない。もっとも、ソノとソネという二つの地名用語は、用例と語源を考えると、どうやら同じ語かとも思われる。

 ソネ(磽こう・埆かく)は『日本書紀』顕宗(けんぞう)紀の歌謡にも載る古い地形用語で、『新撰字鏡』(しんせんじきよう)は「磽碑 土石交堅也」と記す。『日本国語大辞典』は「石が多く地味のやせた土地」のことという。

 「磽」「埆」という漢字には初めてお目にかかったので漢和辞典を引いてみた。

磽确(コウカク)
 石の多いやせた地。墝埆

 これが訓読みでは「ソネ」となるのだろうか。『明解古語辞典』(三省堂)で調べてみた。出典も書かれていた。

そね(磽确・曾根)
 石が多くて、地味のやせた地。「あさぢ原を、―を過ぎ」〔顕宗紀〕

 <岩波大系>では「小确(おそね)を過ぎ」となっている。原文は「嗚贈禰」。

 『日本古代地名事典』は「そね」を次のように解説している。

そね[曾禰]
 『和名抄』摂津国武庫(むこ)郡に「曾禰郷」で見え、兵庫県西宮市小曾根町のあたりをいう。「そね(确)」の意で、小石の多いやせた土地をいう。

 楠原氏の解説は次のように続く。

 地名としてのソネ(曽根・宗根)は、南西諸島から九州西岸沖で海中の岩礁を呼ぶ用語である。沖縄では陸地の集落名も含めて「宗根」の表記が一般的である。私の郷里の岡山県児島湾でも、かつて盛んだった定置網漁の網場(海中の浅瀬)はすべて「~ゾネ」の名があった。

 ソネ(曽根)地名は、全国的には磯海岸や、平野の中の微高地・自然堤防に位置する例が多い。また、関東~東北地方では、山地の尾根筋や峰そのものを指す山名語尾でもある。

 地名用語ソネは、このように海中の岩礁・浅瀬から山頂まで垂直分布するが、共通する要素は「小石や砂礫がつくる高み」である。動詞ソネム(嫉)について『岩波古語辞典』は、「相手をソネ(埆)と思う意。ごつごつして、とがった、不快なものと思うのが原義」と説く。

 一方、ソノ(園)のほうは『日本国語大辞典』は「果樹・野菜などを栽培するための一区画の土地」とし、方言用例として「田や畑などの主要農作物以外に茶・楮(こうぞ)・桐・漆(うるし)などを植える所」(愛知県北設楽(きたしたら)郡振草(ふりくさ)をあげる。つまり、主要農作物に適さない小石・礫まじりの土地がソノであろう。ならば、ソノとソネは同じ起源・語源の語ということになる。

 地名ソノ(園・薗・曽野)は全国各地に多数分布するが、九州では「~園」の語形(発音は連濁で~ゾノと濁る)例がとくに集中して見られる。「倭人伝」の記した旁国21国中には次々項に「華奴蘇奴」の名もあり、この「蘇奴」と二つそろっていることからも「倭人伝」の世界は九州である、と推測してもよいかとも思える。

 「ソノ」地名が「華奴蘇奴」・「蘇奴」と二つそろっていることを根拠に
『「倭人伝」の世界は九州である』
とはずいぶんらんぼうな推測だ。

 次は「ソノ」の比定地の解説。

 ならば、「蘇奴」の地はどこか。私は、現在の福岡県朝倉郡夜須町に比定する。夜須町北部の山間に曽根田(そねだ)地区があり、曽根田川が流れ出て宝満(ほうまん)川に注ぐ。曽根田は「蘇奴」の遣称と見てよいが、その「蘇奴国」の版図は曽根田川の流域、つまり現・夜須町のほぼ全域におよぶと見る。

 この地は筑後平野の北詰に位置し、宝満川とその支流がつくる複合扇状地の扇頂部、すなわち三郡山地の山麓線に沿って縄文~古墳時代の遺跡が多数分布している。弥生期の遺跡では曽根田川が扇央の台地をきざむ東小田地区の峰(みね)遺跡から璧や銅鏡、隣接する七板(なないた)遺跡は弥生後期の大環濠集落址で、鉄戈(てつか)も出土している。

 古墳時代には扇央部の開発がさらに進み、城山(じようやま)(標高130.6m)の北麓の四三島(しそじま)地区に九州最大規模の古式前方後円墳である焼ノ峠(やけのとうげ)古墳(墳丘の全長41m)が築かれている。また山麓地には終末期の小円墳が多く、うち砥上(とかみ)岳山腹にある観音塚(かんのんづか)古墳は赤色顔料で船や人物像が描かれた装飾古墳である。

 夜須町一帯は、『日本書紀』神功皇后紀に層増岐野(そそきの)で熊襲の羽白熊鷺(はじろくまたか)を撃って「我が心則(すなわ)ち安し」とある記事から「安野」の称が生じたという。国郡制で筑前国に夜須郡が置かれ、『万葉集』巻四-五五五には大宰師(だざいのそち)として赴任した大伴旅人(おおとものたびと)の歌が載る。

 君がため 醸(もろ)みし待酒 安の野に ひとりや飲まむ 友無しにして

 だが、「安野」「夜須」の地名が起こる前は、この地は「蘇奴」でありソノ・ソネの名であったはずである。神功皇后紀の「層増岐野」もソノに近い名称である。

 「邪馬壹国」領域内の遺跡・遺物の豊富なことを知れば知るほど、「井の中」でのどの「邪馬台国」比定地も不当であることがいよいよはっきりとしてくる。しかし、「井の中」の住人にはそのような感性は全くないようだ。

 「蘇奴国」の「古田説」については、次の「華奴蘇奴国」のところで一括して取り上げることにする。
《続・「真説古代史」拾遺篇》(106)



「倭人伝」中の倭語の読み方(49)
「21国」の比定:(17)対蘇国


 「蘇」を国名に用いている国が三国ある。「蘇の三国」と呼ぶことにする。

 「蘇の三国」には何らかの繋がりがあると考えるのが当然だと思うが諸大家たちはどう扱っているだろうか。まず、「対蘇」の訓みについて、水原氏の解説を読んでおこう。

『「対」は音「ツイ」「タイ」。「こたへ」「むくいる」「ならべる」「あたる」「あわす」「むかう」「つい」の義がある。「蘇」は音「ソ」「ス」。「よみがえる」「いこう」「くさ」「緑色の染料とする熱帯の木の名」の義がある。この国名も音の転写で、「ツソ」「トソ」と訓める。』

 『諸橋大辞典』で確認したが、「蘇」に「ス」音はなかった。「木の名」の意味の場合には「漢音ショ・呉音ソ」となっているが、その他の意味の場合は漢音・呉音の別はなく、「ソ」である。「蘇」の音は「ソ」以外はあり得ない。これと「対」の音を組み合わせると、「ツイソ」か「タイソ」となる。これがどうして「ツソ」「トソ」になるのか。「対馬 ツシマ」の例があるから、「ツイソ」→「ツソ」はいいとして、「トソ」という訓みがどうして可能なのか、私にはさっぱり分らない。「対馬」に倣えば、「ツソ」か「タソ」であろう。

 次の牧氏の説に出会って納得した。類音地名探しの手法だったのだ。類音地名「鳥栖」から出てきた訓みだったのだ。たぶん、「ソ」→「ソ」あるいは「ソ」→「ソ」という通音による変化があったという論理なのだろう。そしてさらに「ト」→「ト」という通音変化を適用して「鳥栖(トス)」にたどり着いた。

大家たちの諸説

「邪馬台国」九州説者
牧建二
 「トソ」と訓む。
 肥前国養父郡鳥栖(とす)郷に比定する。
宮﨑康平
 「ツルソ」と訓んでいる。
 阿蘇外輪山の南部から高千穂峡にかけて、祖母山以西にひろがる盆地や高原地帯にわたる地域で、肥後国益城郡の一部、日向国臼杵郡西部一帯で、熊本県上益城郡緑川上流一帯と、阿蘇郡東南部の蘇陽町附近から、宮崎県西臼杵郡五ヶ瀬町・高千穂町にわたる地域と比定する。

「邪馬台国」大和説者
内藤虎次郎・米倉二郎
 土佐に比定している。

 内藤・米倉説は、たぶん、牧氏と同じような音韻変化考えて土佐に比定したのだろう。

 水野氏は宮﨑説の訓みを「ツルソ」としている。こんな変な訓み、あり得るのだろうか。直接『まぼろしの邪馬台国』に当ってみた。水野氏も結構いい加減だなあ。宮﨑氏は「タィソ」(漢音)と「ツィソ」(呉音)を挙げている。氏は「倭人伝は「漢音」と信じているから「タィソ」と訓だことになる。その比定地は、一つ前の「姐奴国」を肥後国益城郡に比定しているので、その近隣地を比定することになる。地図で確認したが、「邪馬壹国」を凌駕するような相当広い領域になる。

楠原説
『[対蘇](たいそ)―佐賀県鳥栖(とす)市付近』
という表題を掲げている。牧氏と同じ比定地だ。しかし、「タイソ」から「トス」に至る論理は牧氏とは異なる。「ト(鋭)・ス(州)という国名」という副題をつけて、次のように述べている。

 この国名について、長田夏樹「洛陽古音」は(発音記号・略す)で、トサと音訳する。漢字「蘇」は日本流の呉音ではスの音があり、あるいは三国時代の中国の南方ではスに近い発音であったのかもしれない。

 国郡制で南海道に属した一国の土佐国も同義の地名だろうが、語源から考えれば「倭人伝」の「対蘇国」はト(鋭)・ス(州)以外ではありえない、と思う。

 水野氏が挙げていた「ス」を楠原氏も取り上げている。しかも呉音だという。「蘇」は呉音では「ス」と主張する辞書もあるのだろうか。それが正しいとしても、「洛陽古音」から「ト」を採用し、呉音の「ス」と結合している。ご都合主義と言わざるを得ない。

 比定地の当否は別として、氏による「鳥栖」についての記述はいろいろと参考になるので、読んでおくことにする。

 『肥前国風土記』は養父(やぶ)郡鳥樔(とす)郷の項は、
「応神天皇の御世に鳥屋(とや)をつくって飼育し朝廷に貢いだので鳥屋の郷といったのが、のち鳥樔郷に改めた」云々
の郡名起源説を載せる。だが、それなら「鳥飼(とりかい)」郷になるはずで、借用した漢字にもとづいて解説した説話にすぎない。

 現・鳥栖市の市街地は背振(せふり)山地の九千部(くせんぶ)山塊から流れ出る安良(あら)川・大木(おおき)川・山下(やました)川がつくる複合扇状地上に広がる。砂礫層からなる扇状地の扇端が浸食され、鋭角状に尖がって下の沖積平野(平均標高約10m)にのぞむ。このような地形を、弥生期の人々はト(鋭・尖)・ス(州)と呼んだのであろう。

 扇状地の末端は湧水にもめぐまれ、前面の沖積地とは異なり年ごとの洪水の危険も少なく、絶好の居住地である。高校の地理教科で地形と土地利用と居住環境の関係を教える格好の舞台が扇状地で、センタ一試験の地理にも数年に一度は必ず扇状地の読図問題が出されている。

定説を覆した銅鐸鋳型の発掘

 鳥栖市域は縄文~古墳時代にかけての古代遺跡の密集地である。とくに複合扇状地北方の高位段丘上に点在する柚比(ゆび)遣跡群は弥生~古墳時代の複合遺跡で、100基を越す甕棺(かめかん 管理人注:私(たち)は「みかかん」と訓んでいる)墓・土壙(どこう)墓群や銅剣・銅戈などが発掘されている。

 その一つ安永田(やすながた)遺跡からは昭和56年、銅鐸鋳型・鋼矛鋳型が発見され、それまでの「畿内中心の銅鐸文化圏」という考古学界の定説を覆す大発見として注目を集めた。市内各地の遺跡からは弥生期の住居址も多数発見されている。

 安永田遺跡からの銅鐸鋳型出土以来、「銅鉾・銅鐸圏」説を口にしなくなった学者がかなりいるらしい。ウィキペディアは
「この仮説は成り立たなくなり次第に論じられる事は少なくなった。」
と書いている。この「銅鉾・銅鐸圏」説否定は実に短絡的な判断だと思う。銅鐸が朝鮮半島から伝播したものなら、当然九州にもその形跡が残っているだろう。私の理解ではこの「銅鉾・銅鐸圏」説は祭祀のあり方の違いによるものであり、楽器としての銅鐸が九州に出土してもあやしむに足りない。銅鐸圏に武器としての銅剣・銅鉾・銅戈などが出土しても同じである。

 丁度いま図書館から借りてきている本・小田富士雄著『倭国を掘る』を見ると、九州から出土した銅鐸・銅鐸鋳型(1960年~1985年)が10例挙げられている。うち2例は外縁付鈕銅鐸の鋳型で推高20㎝、1例は銅舌で長5.4㎝。他は全高6~12㎝の小銅鐸だという。楽器として用いられた銅鐸だと推定できる。

古田説
 古田氏は「蘇」を「阿蘇」の「蘇」と解し、「蘇の三国」を阿蘇山付近に比定している。私は「蘇の三国」の比定については古田説を支持する。まず、阿蘇山の意義についての論述を読んでおこう。

 この「阿蘇山」という表記、そして「発音」は古い。『東日流〔内・外〕三郡誌』によれば、シベリアの黒龍江方面から、最初に樺太、北海道、青森へと南下してきた部族、それが「阿蘇部族」だった。旧石器の時代である。「ア(阿)」は接頭語、「ソ(蘇)」は「神の古名」である。対馬の「アソウ(浅茅)湾」も、京都の「アソウ(阿蘇)湾」(明治維新まで。舞鶴湾の古称。現在も一部に使用)も、同じ「ソ(蘇)」だ。もちろん「キソ(木曾)」(長野県)の「ソ」も、同じ語法である。

 してみれば、今まで何回も論じてきた「山嶽地名」中の筆頭、右代表の位置にあるもの、これが他でもない、この「蘇」の一字だったのではあるまいか(「久曽神(きゅうそじん)」という姓が現存している。「クソガミ」の音読みであろう。「ク」は〝奇し″である)。

 「クソガミ」については「崇神の狗奴国攻め(3)」で取り上げている。古田氏は次のように解説していた。
『「くそ」は〝不可思議な、古き神″だ。「奇(く)し」の「く」。「そ」は「阿蘇」「木曾」の「そ」。もっとも古い「神の呼び名」の一つである。』

 さて、「対蘇国」については「対蘇」を「タイソ」と訓じ、表意表記と考えている。そして、比定地については次のように述べている。

 中心点が阿蘇山であることは疑いないけれど、その阿蘇山に対する国というのは、阿蘇山の〝東西南北″いずれから「対して」いるのかが、問題だ。

 もっともすでに「対海国」のとき論じたように、「対」というのは、決して〝現代風に(地理的に)相対する″という意味ではない。「その地の神を祭る」というのが本来の意味だ。だとすれば、「東西南北」いずれとも可。要は「阿蘇山の神を尊崇し、これを祭る国々」の意であり、〝どの地点か″というような「発想」こそ、「否(ノウ)」なのかもしれない。

 古田氏は「どこ」とはっきり比定していないし、「祭る国々」と複数国の連合のような書き方をしている。私はあえて一地域に限定しておこう。そこは当然「阿蘇山の神を尊崇」した人々の信仰の中心地「阿蘇神社」を中心とした地域ということになる。つまり、「対蘇国」は阿蘇山の北方で現在の阿蘇市を含む一帯を領域とした国であった。
《続・「真説古代史」拾遺篇》(105)



「倭人伝」中の倭語の読み方(48)
「21国」の比定:(19)呼邑国


 「蘇」の字を含む国(三つある)は続けて考えたいので、今回は一つ飛ばして「呼邑国」を取り上げる。

 この国の訓みについて、水野氏は次のように解説している。

『「呼」は卑弥呼の「呼」と同じである。「邑」は音「オフ」「イフ」「アフ」で、「おおむら」「知行所」「大夫の采地」「みやこ ― 大なるを都、小なるを邑」の義がある。この国名も音の転写である。一般に「コユ」と訓』んでいる。

 私(たち)は「呼」を「カ」と訓んでいるので、「カオフ」「カイフ」「カアフ」が候補となる。諸大家はどう訓んでいるだろか。

大家たちの諸説

「邪馬台国」九州説者
牧建二
 日向国児邑郡
宮﨑康平
 「コウォのくに」と訓み、「コ」は「川」、「ウォ」「オ」は「尾」で川が上流に向って鳥のように次第に細くなる状態を「コオ」というとし、この「コオ」がカワ(川)に転訛したと考えるので、川の流域で稲作をしている国の義で、肥後国託麻郡および飽田郡の地、現在の熊本市を中心に、飽託郡および菊池郡の一部大津附近までを含む地域とする。

「邪馬台国」大和説者
内藤虎次郎
伊勢国多気郡麻績平宇美郷
米倉二郎
伊予国桑村郡、現在の周桑郡

 牧氏は「コイフ」と訓んでいるようだ。そう言えば、氏は「姐奴国」の候補地の一つとして「日向国児邑郡都野(つの)郷」を挙げていたっけ。検証抜きで、思い付くものをともかく挙げておこう、といった感じだ。

 宮﨑説。「コウォ」と言う訓みがどうして可能なのか。たぶん「コオフ」と読んだんだろう。『「コオ」が「カワ」に転訛した』という説にはどのような根拠があるのだろうか。まさかとは思うが、もしかすると「江」→「川」という連想かしら。ともあれ、「コオフ」→「川」という転訛を作り出し、「川の流域で稲作をしている国」という解釈を導いた。そのような地域はいくらでも探し出せるが、氏には「21国」は記載順通りに存在したという大前提があるので、めでたく一地域を探し出すことができる。

 「大和説」者の比定地はどのようにして割り出したのか、私にはまったく推測ができない。

楠原説
『[呼邑](こゆう)-福岡県甘木(あまぎ)市秋月(あきづき)付近』
という表題を掲げている。甘木市は2006年に合併されて現在では朝倉市に属する。甘木はあの「甘木の大王」で私(たち)にはお馴染みの地名だ。「邪馬壹国」の領域内である。このような誤説がどのような理路によって導かれるのか、少しで覗いてみよう。

 本文ではいきなり「コシフか、カヤか」という問いを提出して議論を始めている。楠原氏は「21国」の漢字表記は倭人の発音したものを陳寿が音写したものと考えているので、このような発想が可能になのだろう。なぜ「コシフ」や「カヤ」が出てくるのか説明なしで、次のように論じ始めている。

 この国名は難解だが、コシフ(コシヲ)、またはカヤのいずれかであろうと想定した。コシフは漢字表記すれば「越生」か「越峰」であろうが、いずれも「周辺より卓越した地(山峰)」の意で、甘木市の秋月城下町の北東にそびえる古処(こしよ)山(標高859.5m)がその遣称地となる。

 コシフ→コイフを「倭人伝」は「呼邑」の二字で音写した。一方、日本人はのちコシフ→コシユウを「古処」で書き表わしたのであろう。

 カヤの場合は、カ(上)・アヒ(合)で「両側を囲む稜線が上(上流)で合わさって行き止まりになった山峡」を呼ぶ用語であろう。

 この後、「カ・アヒ→カ・ヤ」という転訛を長々と論じているが、省略する。結論は「カヤ」とは『「行き止まりの谷」を占める地形』である。そして次のように締めくくっている。

 「呼邑」がコシ・フ→コ・シユウであってもカ・アヒ→カ・ヤであっても、いずれも比定地は現・福岡県甘木市の秋月盆地一帯になる。この地は『和名抄』筑前国夜須郡賀美(かみ)郷とされるが、小石原(こいしばら)川上流の谷間にある小盆地だから「カミ(上)」は地形的には妥当であろう。「呼邑」がコシ・フ→コ・シユウなら、小石原川源流域の現・小石原村は古くは「腰(こし)原」とも書いたので、あるいは小石原川上流域全域が「呼邑」の山間小王国だったのかもしれない。

 ところが、この比定には一つ、重大な欠陥がある。それは、秋月盆地にせよ小石原村にせよ、いずれも弥生遺跡がまったく発見されていないのである。というよりも日本列島の山間や海岸僻地(へきち)の通例だが、これまで考古学的な調査がいっさい試みられていないのである。

 だが、地形図で明らかなように、秋月盆地は山間とはいえ相応の人間集団が生活するに足る空間である。河岸には水田も開け、山麓には畑地も広がる。先史時代、人々は周囲の山々から豊かな実りも獲得できたろう。対馬(つしま)や末廬(まつろ)で漁業が主、稲作が従の国が成立するのなら、この山間小盆地に稲作と狩猟・採取の生活圏があっても不思議ではない。

 この後、この比定地の歴史として平安時代以後の「秋月氏」の変遷を述べているが、これも省略する。最後にこの比定地の「重大な欠陥」について次のように述べている。

 戦後も目立った開発事業はなく、遺跡の調査・発掘も行われていない。しかし、ある日突然、この地から1800年前の驚嘆すべき遣物が発見されないとはいえないのである。

 考古学が学問であるならば、「やがて出てくるだろう」というのは「学問としての禁じ手」である。これは古田氏が「井の中」の学者たちに対し繰り返し述べている批判である。

古田説
 次は「呼邑(カイフ)国」。もしこれが「甲斐(カヒ)国」(山梨県)であれば、富士山という最高峰の下の「山嶽地名」となろう。重要だ。富士山固有の女神「コノハナサクヤヒメ」は、記紀ではニニギノミコトの妻の「別称」として出現させられている。

 「カイフ」という訓みには賛同するが、「カイフ」→「カヒ」という音変化の説明がない。また、この国の場合も『一つの可能性の「示唆」にすぎない。』ケースだろう。従って「もしこれが…」と「?」付きである。しかしそれにしても、「甲斐」を「魏親倭国」の一つと想定するのはおかしい。古田氏は「女王の境界の尽くる所」(奴国)を能登に比定してるのだから。この説も私にはまったく受け入れることはできない。

 では「カイフ」という国名の遺称地はあるか。「海部(かいふ)」があった。『日本古代地名事典』は次のように説明している。

かいふ[海部]
 『和名抄』阿波国那賀郡に「海部郷」で見え、徳島県海部(かいふ)郡海陽町の地をいう。「あまべ(海部)」の音読みとみられ、漁業者の集落をいう。

 現在でも「かいふ」と訓んでいるのだからこの地は一貫して「カイフ」と呼ばれていた。「あまべ(海部)」が先にあってそれを音読みしたのではなく、「呼邑」→「海部」という漢字表記の変化があったと考えるべきだろう。もしかすると「邑」には表意的な意味も込められていたのかも知れない。

 「阿波国那賀郡」は平安時代末期に「那賀郡」と「海部郡」に分離されている。その「海部郡」の郡域については「不詳」とされているが、「現在の海部郡海部町・宍喰町、海南町浅川・大里・四方原・多良・吉野・熟田および高知県ににかかる一帯」という説がある。他の国々と同様に、三世紀頃の「呼邑国」がどのような領域を占めていたのかは知るすべがない。しかし、その地の古代における様子については「海部郡」について記述から知ることができよう。『日本歴史地名大系』は次のように記している。

 郡域で確認されている遺跡は海部川や宍喰(ししくい)川によって形成された海浜部の平地に多く、そのうち最古の遺物は海南町大里(おおざと)地区から出土した縄文土器である。これは大里二号墳の地で、古墳の造営時に掘削された土壌内に包含されていたことから、周辺に遺跡が広がっている可能性がある。

 弥生時代の遺跡は調査例はないが、大里古墳周辺の砂丘下に中期から後期の遺物包含層が形成されている。海部町の寺山(てらやま)古墳の周辺で遺物が採集され、集落存在が指摘されている。

 古墳時代には平地部を中心に古墳の造営が行われるようになり、いずれも六世紀中葉以後のもので、大里古墳群・寺山古墳群のほか、宍喰町の宍喰古墳などがある。

 これによると現在の海南町辺りが「呼邑国」の中心だったと考えられる。古冢期の遺跡の調査例はないが、古墳時代の古墳造成時に古墳の下に埋没したり、破壊されてしまったようだ。

 遺跡・遺物面による根拠がいささか頼りないが、取りあえず「海部郷」を「呼邑国」の比定地としておく。もしもこの比定が正しいとすると、このことは「呼」を「カ」と訓む古田説が正しいことの傍証にもなる。
《続・「真説古代史」拾遺篇》(104)



「倭人伝」中の倭語の読み方(47)
「21国」の比定:(16)姐奴国(その二)


 素案が二つあった。一つは「ソヌ」と読んだ場合、語尾に地名でよく使われている言素「キ」が付加されて「ソノキ」、つまり「彼杵」である。

 「姐」の訓みの「シャ」「シ」「ショ」は漢音・呉音共通だからどれも可能性がある。「ソヌ」「シャヌ」「シヌ」「ショヌ」。どのように訓んだとしても「姐」を表意文字とした場合、水野氏の「姉が王位についていた国」説が面白い。ただし、「姉」とは限らない。もっと一般的に「女王」でよいだろう。そのように考えた場合の一案が「八女」である。

「素案1」について

 「彼杵」は現在は「ソノギ」と訓まれているが、『和名抄』の訓は「曾乃木」であり、古代には「ソノキ」と訓まれていたのは確かだ。この「彼杵」は楠原氏が「投馬国」の一部に比定していた(詳しくは『楠原氏の「女王国の版図」(2)』をご覧下さい)。「彼杵」とはどういう地域なのか、改めて調べてみた。(『日本地名ルーツ辞典』を用いています。)

 「彼杵郡」は『肥前風土記』に初出する。現在は東彼杵郡・西彼杵郡に分かれている。

 東彼杵郡は県東部、大村湾に臨む郡名。東彼杵町は郡南部に位置する交通の要地。西彼杵郡は大村湾の西側、長崎市の北に延びる西彼杵半島と長崎半島一帯を占める郡名である。

 『肥前国風土記』は彼杵郡の名称について、景行天皇西巡のとき、この地の豪族が三つの美しい玉を献上したので天皇が「この国は具足玉(そないたま)の国と謂(い)ふべし」と詔されたので、そのソナヒタマがソノギに訛(なま)ったとしている。この具足玉は久留米(くるめ)市の高良(こうら)神社の玉の伝承と関係が深いのではないかといわれている。さらに『肥前国風土記』によると彼杵郡は「郷四所、里四、駅二所、烽(とぶひ)三所」とある。人口希薄の所であったのであろう。

 「景行紀」には九州王朝の「前つ君」による九州一円征服譚が盗用されている(詳しくは「九州王朝の形成(6)」をご覧下さい)。そのとき「高来県(たかくのあがた)」にも巡幸している。「彼杵」は「高来県」に比定されている地域と隣接している。『肥前国風土記』の「彼杵」地名説話も「前つ君」巡幸の事蹟に関連して創られた説話であろう。

 上の引用文中で「彼杵」は「人口希薄の所であったのであろう」と推定しているが、正しい推定だと思う。確かに「彼杵郡」の比定地の広さに対して「郷四所、里四、駅二所、烽(とぶひ)三所」は少なすぎる。この推定が正しく、三世紀にも同じような状況であったとすれば、「彼杵」は「高来県」のどちらかというと辺境の一地方だったと考えられる。不確定要素があるが、「ソノキ」をその地域一帯の国名に用いたとは考えがたい。

「素案2」について

 「八女」は楠原氏が「邪馬国」に比定していた。その時に掲載した「景行紀」18年条の「八女」の地名伝説を再録しよう。

丁酉(ひのとのとりのひ)に、八女縣(やめのあがた)に到る。則ち藤山(ふぢやま)を越えて、南(みなみのかた)粟岬(あはのさき)を望(おせ)りたまふ。詔して曰はく、「其の山の峯(みね)岫(くき)重疊(かさな)りて、且(また)美麗(うるは)しきこと甚(にへさ)なり。若(けだ)し神其の山に有(ま)しますか」とのたまふ。時に水沼縣主猿大海(みぬまのあがたぬしさるおほみ)、奏(まう)して言(まう)さく、「女神(ひめかみ)有(ま)します。名を八女津媛(やめつひめ)と曰(まう)す。常に山の中(うち)に居(ま)します」とまうす。故(かれ)、八女國(やめのくに)の名は、此に由りて起れり。

 ここでは「八女津媛」が「八女国」の王という設定になっている。まさに女王である。ということで一案とした。しかし、この説話も「前つ君」の巡幸に依拠した説話である。ということは、古来から「八女」という国名が使われ続けていた。その地域の人々にとってなじみの「八女」に代わって「姐奴」という国名をつけたなどということは、私はあり得ないと思う。

 以上のようなことを考えていたら、「愛読者」さんから、次のようなコメントを頂いた。

 宮﨑康平の言うように、古代「さしすせそ」は「しゃししゅしぇしょ」に近い音だったといわれ、今も博多弁とか九州弁の例としてネット上でも実例が沢山挙げられています。

 たしか「青春の門」筑豊篇で大竹しのぶが「しんすけさん」を「しんしゅけしゃん」といっていた記憶があります。

 であれば「讃岐国」は「しゃぬき国」であり、「岐」は壱岐・隠岐・安芸・土岐など地名に豊富に見られる接尾語ですから、幹は「しゃ(ぬ)国」。

 讃岐は「サヌカイト」や「細型銅剣」など、石器時代から弥生まで瀬戸内文化圏の中心地であったことは疑えず、21国を九州外に広く求めるなら絶対に入っているはずですから・・。

 というわけで「姐奴国=讃岐国説」はいかがでしょうか?

 なるほど、私は「サ」を「シャ」と発音する言語文化をはなから九州だけのものと速断していたが、九州から中国・四国にかけてのいわゆる「銅鉾圏」は同じ文化圏であるから、言葉の上でもいろいろと共通の部分があったに違いない。「讃岐国」は「銅鉾圏」と「銅鐸圏」の境界部にあるから、両圏の影響を受けていたと思われるが、九州地方に残っている「しゃししゅしぇしょ」も共有していた可能性がある。もしそうだとすると「愛読者」さんの説に信憑性が出てこよう。

 「サ→シャ」という発音が九州だけのものではなく、少なくとも中国・四国地方では一般的ものであったことを証明することは難しい。しかし、現在流布している例から、後世では結構一般的であったことがうかがえる。私には四例しか思い付かないが、次のよう例がある。


「鮭」→「シャケ」「サケ」

「砂金・沙金」→「シャキン」「サキン」
 (これは宮﨑氏が九州弁として挙げていた。)

「三味線」→「シャミセン」「サミセン」

「尺八」→「シャクハチ」「サクハチ」

 この四例とも「広辞苑」ではどちらも掲載している。④は「サ→シャ」とは逆に「シャ→サ」の例と言うことになる。これには出典が提示されている。『源氏物語・末摘花』である。「大ひちりき、さくはちの笛などの、大声を吹き上げつつ…」(三省堂版『明解古語辞典』からの孫引き)とある。平安時代にまでさかのぼる例である。②は「砂・沙」自体に「シャ・サ」という音があるのでそのどちらを選ぶかという問題で他とは異なる要素が加わるが、「シャ」と「サ」の混用という点では同じ例としてよいだろう。

 たった四例なので速断に過ぎるきらいがあるが、総じて次のように判断したい。すなわち、「シャ」と「サ」の混用は、古代から現在まで、また地域的にも九州に限らず、日本語全体の中で一般的なものだった。

 以上より、「姐奴 シャヌ」を「讃岐」に比定する説を最終案とたいが、古代の「讃岐」についてはほとんど何も知らないので少し調べてみる。(『日本歴史地名大系 全50巻』(平凡社)による。いつも利用している図書館では旅行コーナーに置かれていたので今まで気付かなかったが、すごい大系本です。)

石器時代

 文化の一つの拠点は国分台にあった。サヌカイトの最大の原産地であり、石器の加工も盛んに行われていた。出土した石器類の量と多様さにおいて群を抜いている。サヌカイトの伝播状況と石器時代の自然環境については次のように書かれている。

 サヌカイトの伝播は瀬戸内沿岸部に限られたものではなく、芸予諸島から周防灘沿岸部・山陰、さらには三河湾沿岸部にまで及んでいる。それたけでなく、サヌカイトを加工するために用いられた瀬戸内技法は、九州から山陰・北陸・東海地方に至る大きな広がりをもっているとされている。

 後期旧石器時代の自然環境についてみると、現在の瀬戸内海の水位が20メートル下がったとすると、岡山県笠岡市から香川県丸亀市を結ぶ緑は完全に陸地化し、瀬戸内海は東西に分断される。さらに50メートルまで下がると、備讃海域はほとんど陸地化し、わずかに窪地が残る程度となる。瀬戸内海の海底から採取される動物の化石は、海進に伴ってしだいに追詰められていった動物にとってここが最後の住みかとなったことを物語っている。またそれを迫掛けた後期旧石器人にとっても、瀬戸内一帯は石器の原料に恵まれ、食用動物の豊富な楽園であったといえよう。

 驚いたなあ。石器時代には瀬戸内海は東西に分断されていたんだ。(もしかして、知らなかったのは私だけ?)

縄文時代

 貝塚の分布状況から縄文時代の早期から瀬戸内海の海進が進んでいた。また、縄文遺跡からは縄文集落のほとんどが海浜に立地していたことが分る。このことからこの地方では、石鏃の出土から狩猟が行われていたことは当然だが、漁労も大事な生業の一つであったことが分る。文化面での特徴については次のように書かれている。

 詫間町の大浜遺跡は縄文時代後期の遺跡であるが、多数の土器とともに石錘・石斧・石鏃といった狩猟・漁労用具のほか、土匙や土偶が出土している。また沙弥島のナカンダ浜遺跡でも土版が出土しており、狩猟・漁労の生活のなかでも精神的なよりどころを求めて、土偶や土版・土匙を用いた呪術や祭祀が行われていたことを物語っている。しかしこのような採集経済も、やがて稲作農耕文化の伝来によって終焉の時が訪れる。

古冢時代(弥生時代)

 古冢時代は私(たち)がテーマとしている時代なので、全文をそのまま引用して、一つの資料としたい。

 朝鮮半島から北九州に伝来しだ稲作農耕文化は、北九州に定着したのち、あまり時を経ず瀬戸内海を東漸したとされている。県内でも最も古くに位置付けられている弥生土器が観音寺(かんおんじ)市室本(むろもと)町の海浜から出土しているほか、櫃石(ひついし)島の大浦浜遺跡、沙弥島のナカンダ浜遺跡、小豆郡土庄(とのしょう)町の伊木末(いぎすえ)遺跡などの島嶼部から出土していることによっても知ることができる。これまでに発見されている前期の初期稲作農耕遺跡は20を超えるが、なかには縄文時代晩期の土器が伴出するものもあり、縄文時代人が弥生文化を受容し、低地に進出していった状況をうかがうこともできる。

 讃岐平野の各地に定着した稲作農耕文化は、間断なく東西文化の刺激を受けながら様々な展開をみせることとなる。銅剣や銅鉾などの武器形青銅器が北九州を基点とする西方から、東方からは善通寺市我拝師(がはいし)山遺跡や観音寺市古川遺跡出土の流水文銅鐸にみられるように、畿内に工房をもつ銅鐸が伝来した。

 弥生時代中期になると、詫間町の紫雲出山(しうんでやま)遺跡や丸亀市広島の心経山(しんぎょうざん)遺跡をはじめとする高地性遺跡が形成されるが、このような東西文化の錯綜状態のなかから生れた現象といえる。しかし後期に入ると高地性遺跡も廃絶し、しだいに周辺部の小集団を統合しながら拠点的な集落が生れ、そのなかから首長層が形成されてくる。善通寺市の旧練兵場遺跡、大川郡寒川(さんがわ)町の森広(もりひろ)遺跡などがその典型的な事例である。森広遺跡では巴形銅器・平形銅剣・銅鐸などを保有し、善通寺周辺からは平形銅剣30口以上が出土している。寒川町奥(おく)10号・11号台状墓などは、拠点集落のなかから出現した首長層の墳墓と考えられ、善通寺市においても稲木(いなぎ)遺跡で台状墓が検出されている。

 「姐奴 シャヌ」→「讃岐」という比定はいい線を行っていると思うがどうだろうか。

 なお、サヌカイトのことにも無知だったのでネット検索をしてみたら、サヌカイトで鏃を造るという作業を実際に行っている人のサイトに出会った。「石器ラプソディー」さんの「香川県国分台サヌカイト編」です。世の中にはすごいことをやっている面白い人がいろいろといるなあ、と改めて感心しています。こういう人に出会うとほのぼのとした気分になってくる。
《続・「真説古代史」拾遺篇》(103)



「倭人伝」中の倭語の読み方(46)
「21国」の比定:(16)姐奴国(その一)


 この国についてはどの論者もまったく困っているようだ。諸説にざっと目を通したが、私にもまったく手掛かりが浮かばない。ともかく今まで通り諸説を読んでみよう。何か得られるかも知れない。

 まずは訓みから。水野氏は次のように解説している。

 「姐」は音「シャ」「ショ」「ソ」。「シャ」と訓めば「姉」「女子の通称(大姐・小姐)」。「おごる(驕)」という意味は「ショ」「ソ」と訓む。「奴」は前と同じ。国名を「シャヌ」とすれば女治の奴国の義となる。奴国が男子の王国であったのに対し、その分れで姉が王位についていた国の意味で、中国人のつけた国名ともとれる。

 音については『諸橋大辞典』で確認してみた。水野氏の解説とは少し異なる。音は四通りで、それぞれの意味は次の通りである。

[一]シャ・[二]シ
 ①はは。 ②あね。 ③女子の通称。
[三](漢音)ショ、(呉音)ソ
 女のすがた。
[四]ショ
 ①おごる。 ②色白くみめよい。

 この国の漢字表記が音だけではなく、表意文字としての意味も込められていたとすると、「姉が王位についていた国」という解釈は面白いと思う。しかし、もちろん「中国人のつけた国名」ではない。私(たち)は倭人による表記という立場で立論している。

大家たちの諸説

「邪馬台国」九州説者
新井白石
 筑後国竹野郡
牧建二
 日向国西諸県(にしもろかた)郡狭野(さぬ)か、日向国児邑郡都野(つの)郷、あるいは肥後国山本郡佐野(さの)郷かとし、さらに周防国の都濃(つの)郡にも可能性があると説き、周防の地方が女王国の領域か、あるいはそれに近い関係にあった地方であったとする可能性があるとしている。
宮﨑康平
 肥後国益城郡で、現在の熊本県上益城郡および下益城郡の一部で、緑川流域と、御船川流域を占めた、甲佐から御船町一帯に中心をおく国と比定する。「シャヌ」は「サヌ」とも訓めなくはないが、「ソのサヌ」が約まって「シャヌ」となった。「サヌ」の「サ」は「ス」の転音で同義である。川の中の州や、川岸にできた州を利用して水田を営む国の義だというのである。

「邪馬台国」大和説者
内藤虎次郎
近江国高島郡角野(つの)郷・津野神社にあたる地
山田孝雄・米倉二郎
周防国都濃郡、都努国造の本拠地に比定

 宮﨑説以外は訓みについては何も書かれていないので、どうしてそのような比定ができるのか不明だ。「奴(ヌまたはノ)」の一音だけをたよりに比定地を探しているとしたら乱暴すぎる。なお、牧説には「児邑郡」という郡名があるが、地名事典にはそのような郡名はない。訓みは「児湯(こゆ)郡」とおなじだから、この郡の別表記として「児邑郡」という表記もあるのだろうか。

 また、宮﨑説についての水野氏の要約は何を言っているのか、私にはよく分らない。直接『まぼろしの邪馬台国』を読んでみた。以下のようである。

 宮﨑氏は「姐奴」を「シャヌ」と訓んでいる。そして、「シャ」と「サ」は混用されやすい音であり、「特に九州弁にはこの傾向が強い」と言い、「シャヌ」→「サヌ」としている。「シャ」と「サ」の混用の例を7例挙げているが一例だけ示すと、例えば「魚サカナ」→「シャカナ」のようである。この混用は幼児言葉にも多い。幼児はよく「オシャカナ」と言う。そういえば昔同僚に九州出身の人がいたが「お煎餅」を「オシェンベイ」と発音していた。ここで牧氏の比定について思い当たった。牧氏も「サヌ」あるいは「サノ」と訓んでいるのだろう。

 次ぎに、宮﨑氏が「サヌ」を肥後国益城(マシキ)郡に比定する論理は次のようである。

 まず、
「和名抄に益城を萬志岐(ましき)と読ませているが、これは阿蘇や祖母(山)や臼杵と対応して名付けられているので、マスキと読むべきであろう。」
と言う。ここの論理は私には理解不能である。「臼杵 ウスキ」からの連想だろうか。そして次いで、 「益城のマはクマのマであり、スはサ、ソなどのスをとり、この二音を合わせて益の字をあてたように思われる。かつての河口近くに古い地名として隈圧(くまのしよう)(上古は隈牟田という)、中流に申佐(こうさ)(甲は川のこと)が現存するほか、シャがサとなって残っている地名に寒野(さまの マをとればまきに姐奴である)、佐俣(さまた)、入佐などがあり、みな川岸である。」
と言っている。

 この後「キ」の音について講釈が続くがもう止めておこう。私にはとんでもない牽強付会の説としか読めない。このようになる原因は「倭人伝」の「21国」記事に対して設定した氏の大前提にある。氏は「21国」記事は「和名抄」と同じように地理的な順序に記述されていると断定しているのだ。従って前後の比定地の間に当該比定地を探すことになるから、当然無理な推論になってしまう。

 もっとも「牽強付会」という批判はどの論者にも何ほどか該当する批判である。「21国」の比定を実際に始めて見てその難しさをつくづくと感じている。誰がやっても牽強付会的な点が出てきてしまうのではないだろうか。私の説の中にもそのような点が在るに違いない。私自身いつも「これはちょっと無理かなあ」と思いながら書いている。

楠原説
比定地を
「福岡県浮羽(うきは)郡田主丸(たぬしまる)町竹野(たけの)付近」
としている。その根拠はおおよそ次のようである。

 氏も
『「姐奴」ならシャナで(佐野」などを想定すべきなのだろうが、後世の北九州には妥当な地名が見当たらない。』
と戸惑っている。そしてこの突破口をまたも長田夏樹氏に求める。

 この国名については、『魏志』の諸本は「姐奴」となっているが、長田夏樹『邪馬台国の言語』は「姐奴は或は担奴か」とする。私もこの説に従う。「担奴」ならタノが想定できるが、こちらも「田野」の語形の地名は該当すべきものがない。

 そこで、タノはタカノ(高野・竹野など)の約語形ではないかと仮定してみた。すると、のちの筑後国竹野郡の名が見つかった。この地こそ、「倭人伝」が記す「姐奴」じつは「担奴」、タノ=タカノ国ではないか。

 原文改定という禁じ手を用いている上に、「タカノ」→「タノ」という約語形だと言う。言語学に「約語形」という概念があるのだろうか。いずれにしてもこの楠原説も牽強付会の説と言わざるを得ない。この後の議論はもう読む必要はないだろう。なお、楠原氏の比定地は新井白石の比定地「筑後国竹野郡」と一致している。白石の論拠は不明だが、江戸時代に「担奴」説があったとは考えられないから、偶然の一致だろう。

古田説
 次は「姐奴(ソヌ)国」。「姐」は「女子の通称」「女のすがた」「色白くみめよい」(集韻等、諸橋大漢和辞典)などをしめす文字であるから「女山(ゾヤマ)」(筑後山門、福岡県)をしめしているかもしれない(筑前にも「女原(ミョウバル)」(福岡市)があるけれども、こちらは「発音」が全く異系である)。

 「ソヌ」と訓んでいる。「姐」の訓みとして『諸橋大辞典』の漢音・呉音の違いがある[三]を選んでいる。『諸橋大辞典』に従えば意味は「女のすがた」である。古田氏は表意表記の国名と考えて「女」という文字を含む地名を選んでいる。こういうとらえ方もあると思うが、該当地名が「女山」しかないという上の説明だけでは納得しがたい。

 さて、困った。今回も決め手がない。次回はどうなることやら?
《続・「真説古代史」拾遺篇》(102)



「倭人伝」中の倭語の読み方(45)
「21国」の比定:(15)不呼国(その四)


ふかた[深田]
 『和名抄』筑前国宗像郡に「深田郷」で見え、福岡県宗像郡玄海町深田の地をいう。泥深い田地に由来する。

 福岡県宗像郡は現在は福岡県宗像市となっている。玄海町深田は宗像大社のある玄海町田島の北に隣接する地である。宗像大社は九州王朝にとって重要な神社の一つであるから、宗像大社を擁する地域を含む領域に「親魏倭国」の一つが形成されていたことは容易に想像できる。しかし、その国が「不呼国」を名乗ることはあり得ないだろう。そこは古くから「空国(ムナクニ)」と呼ばれていたのだから。「空国」の訓みは宣長以来「カラクニ」が定説だったが、正しくは「ムナクニ」であることを古田氏が『盗まれた神話』で論証している。次の通りである。

(1)
 (天孫降臨後のニニギ)膂宍(そしし)の空国を頓丘(ひたお)から国覓(ま)ぎ行去(とお)りて、吾田の長屋の笠狭碕に到る。〈神代紀、第九段、本文〉
(2)
 膂宍の胸副(むなそう)国を……。〈神代紀、第九段、第二、一書〉


 これ(「空国)は(2)から見ても、「から国」ではない。やはり「むな国」だ。従来、これを〝荒れてやせた不毛の地″と解してきた。抽象的な普通名詞ととったのだ。では、(2)の「むなそふ国」とはなんだろう。これはどうしても「空(国)」を一定の地名領域と見なければ、理解できない。〝空国にそい並ぶ国(々)″の意だ。

 では、「空国」とはどこだろう。その解答は、今は容易だ。有名な「宗像(むなかた)」だ。この「むなかた」の「かた」は、「直方(のうがた)」(直方市)、「野方」(福岡市西辺)というように、やはり地名接尾辞だ。固有の地名部分は「むな」なのである。「空国」とは、ズバリ、ここ以外にない(「空」「宗」は表記漢字の相違)。天孫降臨の地を宮崎県あたりへ、笠沙の地を鹿児島県へと、もっていっていた従来の立場では、思いもよらなかった。しかし、今は明白である。

 ことに決定的なのは、この「空国」と「笠沙」と天孫降臨の「クシフル山」との位置関係だ。ニニギは「クシフル山」から「空国」へ向かって行く途中で「笠沙」の地を通る。そしてそこは海岸だ(神代紀、第九段、第二、一書に「海浜に遊幸す」の語がある)。つまり、海岸沿いに「クシフル山→笠沙→空国」となっていなければならぬ。その通りだ。「高祖山(前原)→御笠(博多)→宗像」は、海岸沿いに、まさにこの順序に並んでいるのだ

ふかわ【深川】
 『和名抄』長門国大津郡に「深川郷」で見え、山口県長門市深川の地をいう。深川川の深い川に由来する。

 「大津郡(おおのこおり)」について、「事典2」は次のように記している。

 『和名抄』に「於保郡」と訓じる。三隅(みすみ)・深川(ふかわ)・日置(へき)・稲妻(いなめ)・三嶋(みしま)・向国(むかつくに)・二処(ふたい)・神戸(かんべ)・駅家(うまや)の九郷よりなる。郡域は、現在の長門市の旧大津郡油谷(ゆや)町・目置町・.三隅町及び長門市に相当する。北部は日本海に面し、向津具(むかつく)半島や青海(あおみ)島により油谷湾、深川湾、仙崎(せんざき)湾を形成、複雑な海岸線を呈する。
 「深川」は現在、地名としては「東深川」「西深川」として残っている。深川湾に面した地域である。ここから対馬まではおよそ200㎞ぐらいだろうか。朝鮮半島との交渉も古くからあったと想像できる。しかし、「事典2」での歴史的な記述は郡制以降のものだけで、縄文期・古冢期のものはない。郡制以前には取り上げるほどの事蹟・遺跡はないということだろうか。もしそうだとすると、ここも「不呼国」の比定地とはなしがたい。

 古代遺跡の専門書を調べるべきなのだろうが、とりあえず手元の天野幸広著『発掘 日本の現原像』(朝日選書 2001年刊)を見てみた。山口県からは一つだけ、土井ヶ浜遺跡が取り上げられている。「深井」からは30数㎞ぐらいだろうか。3世紀頃この2地域が同じ国の領域内にあったのかどうかは分らないが、現在はそれぞれ長門市・下関市に属しているので、古代も異なる国の領域だったと推測できる。ついでなので、土井ヶ浜遺跡がどのような遺跡なのか、上掲書から引用しておこう。

 二千数百年前に始まる弥生時代の人びとは縄文人に比べて顔が細長く、彫りが浅い。長身だが、地域によって体つきなどに違いがあった。中でも渡来系弥生人として有名なのは山口県豊北(ほうほく)町の土井ケ浜(どいがはま)遺跡から出た骨だ。響灘(ひびきなだ)を見下ろす砂丘の東西260メートル、南北70メートルの区域に2200年くらい前から営まれた集団墓地だった。戦前からこれまでに約400体が発見され、ひと回り長身で、男性の平均身長が163センチ、女性150センチ。砂に多量に含まれている粉々になった貝のカルシウム分の作用で骨の残り方がよかったらしい。それまでの縄文人や周りの人骨とかなり異なる体格などから、「渡来系」とされてきた。「よそから日本列島へやってきた渡来人かその直系の子孫」という見方だ。土井ケ浜をはじめ九州北部などから多く発見されており、奈良県の唐古・鍵の弥生人もそのグループとされる。(以下略す)

 国立民族博物館は放射線炭素(C14)による年代測定法の結果、古冢時代は紀元前1000~800年頃からとしている。天野氏は弥生時代の始まりは「二千数百年前」としているので、改正された時代区分をよくふまえていることが窺える。

(訂正 8月6日 午後5時)
 うっかり判断ミスをしました。天野氏の使っている年代は改正前のものでした。正しくは「2800~3000年前」とすべきです。

ふかふち[深淵]
 『和名抄』土佐国香美(かがみ)郡に「深淵郷」で見え、高知県香美郡野市町深淵の地をいう。物部川の川淵が深いことに由来する。

 「事典2」は「香美郡」の郡域を次のように詳述している。

 『和名抄』に「加々美」と訓じる。安須(やす)・大忍(おおさと)・宗我(そがべ)・物部(ものべ)・深渕(ふかぶち)・山田・石村(いわむら)・田村の八郷からなり、令制区分では中郡。郡域は現在の高知県香美市土佐山田町・物部町・香北(かほく)町、香南市夜須町・香我美(かがみ)町・赤岡町・吉川(よかわ)村・野市(のいち)町と南国市の一部に相当。
 「事典2」には「香美郡」の古冢期遺跡についての記述はない。上掲書では居徳遺跡(縄文晩期)・奥谷南遺跡(旧石器時代)・田村遺跡(古冢前期)を取り上げている。「田村」は上の郷名にもみえる。現在の南国市田村である。田村遺跡についての記述の主要部分を引用しよう。

「まず北部九州に伝えられた水田稲作は、急テンポで瀬戸内を経て近畿に広がった。太平洋側の水稲開始はかなり遅れた」という通説を覆したのが田村だ。それら「先進地」と同じころ、2~20平方メートルの小さな区画の水田が、244枚も開かれたことが判明したのだ。これまでの約31ヘクタールにのぼる調査の結果、弥生時代の田村は物部川西岸で同川の伏流水を利用して発展した大集落と分かった。竪穴、掘立柱建物跡が2000年2月までに計850棟分も分かり、吉野ヶ里遺跡を上回って鳥取県大山町と淀江町にまたがる妻木晩田(むきばんだ)遺跡と並び、全国でも最大級の弥生集落遺跡となった。この建物の大半は100年間ほどのもので、1000人規模の人口が想定でき、「都市と考えていい」という見解も出ているほどだ。

 出土した壷に描かれていた掘立柱建物は、屋根に渦巻き状の装飾が施されていた。高床式の神殿を表現した可能性もある。また、割られた状態で発見された中国製の銅鏡の破片三個をはじめ、貝を真似た腕輪の銅訓(どうくしろ)は、まじないや祭りの道具と見られる貴重品だ。かなり多い石の鏃(やじり)や剣は武器らしい。ソロバン玉を直径20センチくらいに拡大したような珍しい「環状石斧(せきふ)」が20個も見つかった。棍棒にくくりつけて振り回す武器と見られ、不気味さも漂う。もちろん、装身具らしいきれいな色のガラス玉や鉄の斧、釣り針、石の包丁石の鎌、おびただしい土器類が出ている。近くでは江戸時代に、銅鐸と銅矛も見つかっている。遺構と遺物は、古くからこの地で大規模な水田稲作が営まれ、戦いが繰り広げられ、祭祀が催された光景を彷彿させる。弥生遺跡に詳しい兵庫県芦屋市教育委員会の森岡秀人さんは「近畿、北部九州の大環濠集落でも暮らしを支えた水田などはそんなに見つかっていない」という。

 奥谷南遺跡の所在地は南国市岡豊(おこう)であり、居徳遺跡は土佐市居徳(いとく)である。古冢期には田村遺跡を含む一帯、すなわち高知平野には他に引けを取らない国家が形成されていたことは明らかだ。私はここを「不呼国」に比定したい。もしかすると「不呼国」は「侏儒国」のお隣りさんかもしれない。

 ここで思い出したことがある。古田氏も「土佐」の特異性を取り上げていた。『俾弥呼』第六章で「侏儒国」を論じているくだりで、次のように述べている。

 2004年5月30日に公刊された春成秀爾・今村峯雄編『弥生時代の実年代』(学生社)で、九州の「弥生稲作」が、従来の「BC350」から「BC800」ないし「BC1000頃」まで、大幅に「上昇(逆のぼる)」したのは、すでに周知のところである。

 だが、それにつづく地域が「大和(奈良県)」ではなく、「土佐(高知県)」であることは、意外に知られていない。しかも「大和」の場合とは異なり、「土佐」 の場合は「九州北部」と〝ダブリ″〝相重なって″いるのである。

 さて、高知平野を「不呼国」に比定した場合、「深淵」の「深」がこの国名に選ばれた理由は何だろうか。「事典2」には古代遺跡関係の記事がなかったが、物部川沿いに点在する式内社が挙げられている。天忍穂別(あまのおしほわけ)神社・小松神社・深淵神社・大川上美良分(みらふ)神社である。ネット検索で調べた範囲の知識でしかないが、まとめると次のようになる。

 どの神社も創祀年代は不詳。それぞれの祭神と次のようである。

小松神社
 祭神不詳。物部村にある。「仲哀8年から應神14年、貞観7年(865)と三代の天皇に仕えた功績により小松神社の称号を朝廷から頂いた」という伝説があるという。この伝説が何らかの史実を含んでいるとすれば、9世紀以降の創祠ということになる。

天忍穂別神社
 境内の案内板には「天忍穂別神社は式内社で土佐に来た物部氏によって、祭神、天忍穂耳尊、相殿饒速日尊の二神が祀られている」とあるそうだ。物部を名乗る人物の初出は「垂仁紀」26年8月3日条の「物部十千根(とをちね)大連」である。この神社伝承から創祠時期は4世紀以降ということになる。

大川上美良分神社
 祭神は「大田田根子(おほたたねこ)命」である。この人は「崇神記」にでてくる疫病を治めたあの司祭である。ということはこの神社の創祠時期も3世紀後半以後ということになる。

深淵神社
 祭神は深淵水夜禮花(ふかぶちのみずやれはな)命。この神は「須佐之男命の大蛇退治」譚の終りに書かれている須佐之男命の系譜中に出てくる。その系譜では須佐之男命の曾孫でかつ大国主命の曾祖父になる(須佐之男命と大国主命は同時代の人物である。この系譜は『古事記』編纂者の造作であることを古田氏が『盗まれた神話』で論証しているが、今は立ち入らない)。

 (a)「深淵」という地名があってその地名を含む「深淵水夜禮花命」を祭神にしたのか、(b)祭神名「深淵水夜禮花命」から地名「深淵」が生まれたのか、定かではない。しかし、常識としては地名が先であろう。神社はもとは物部川の中州にあったが、「江戸時代の初め頃と明治25 年の二度の洪水により、社地の流出と移転を繰り返して、現在の社地に移った」という。もともとの祭神は「深淵の水(物部川)の氾濫時に、その被害を食い止める神」だったという。つまり当地の土地神である。当地の人々の畏敬の念を集めていたことだろう。

 以上、思いがけず長くなってしまったが、私は「不呼国」を高知平野一帯に比定する案を提出しよう。
《続・「真説古代史」拾遺篇》(101)



「倭人伝」中の倭語の読み方(44)
「21国」の比定:(15)不呼国(その三)


(これまで利用してきた『日本古代地名事典』のほかに『日本古代史地名事典』(雄山閣)を利用します。それぞれ「事典1」「事典2」と略記します。)

 私は「好古都国」を「居都郷」を中心とする一帯地域(吉備国)に比定する案を提出した。これを生かすとすると、吉備国内に所属する「深井」と「深津」は「好古都国」の領域内の地と思われるので、「不呼国」の比定地候補から除外してよいと考えるが、この機会に「吉備国」全体の成り立ちと「居都」・「深井」・「深津」それぞれの土地柄を調べることにする。

 「事典2」の「吉備」の項は「吉備」の歴史を四期にわけて記述しているが、今私(たち)は3世紀頃にことを知りたいので、ここでは第一期の記事だけを引用する。

第一期=吉備社会の成立期。
 瀬戸内海に面し対内・対外交通の要地である吉備地域は列島内の先進地帯の一つで、縄文晩期の遺跡から水田耕作の行われていたことが知られ、弥生時代には有数の水田地帶であった。児島半島中心とした沿岸部では弥生中期から土器製塩が盛んで、またガラスの製造址も検出されている。こうした経済的・文化的発展を基礎に各地に首長層が出現した。弥生後期には首長の葬送儀礼に供献される特殊壷形(つぼがた)土器・特殊器台形(きたいがた)土器を生み出し、備中南部平野部を中心に吉備を地域的限界として分布する。このことは葬送儀礼の共有という形での首長間の連合が進んだことを示す。三世紀初頭に比定される倉敷市矢部の楯築(たてつき)墳丘墓は、円丘に左右の張り出し部を設けた全長約80メ一トルの整備されたもので、同時期の吉備を代表した大首長の墳墓と推定されている。弥生後期に吉備地域では大首長を頂点とする首長相互の階層的構成をもつ自立的な政治的社会を形成していたのである。

 「大首長」という言葉を使っているが、私はためらうことなく「王」と呼びたい。また、この記事からは「吉備国」の中心地は現在の岡山市一帯と考えられるが、もう少し絞り込むことができる。「上道郡」について、「事典2」は次のように記している。

 東は吉井川を境に邑久(おく)郡、北は東から磐梨(いわなし)郡・赤坂(あかさか)郡、西は御野(みの)郡、南は海に面する。現在の赤磐(あかいわ)郡瀬戸(せと)町の一部と、岡山市の吉井川西岸から旭川東岸に至る南部の沖積平野を中心とした地域で、古代吉備の中心地域の一つであり、多くの遺跡などが分布する。

 「上道郡」は明らかに「吉備国」の中心地であった。

ふかい[深井]
 『和名抄』備中国都宇郡に「深井郷」で見えるが、『正倉院文書』天平2年(730)に「深井郷」で初見し、岡山市箕島から西の都窪(つくぼ)郡早島町にかけての地域をいう。台地の麓の探井戸に由来しよう。

 「都宇郡」の郡域について、「事典2」は次のように述べている。

 郡域は現都窪郡早島町に岡山市西部・倉敷市東北部を併せた地域で、足守川右岸の吉備穴海に面する地域にあたる。吉備最大の前方後円墳・造山古墳が造営されるなど吉備大首長の一翼が存在した。

 「吉備穴海(きびのあなうみ)」という聞き慣れない言葉が出てきた。文献上では「景行紀」27年12月条に初出するという。あの「日本武尊の熊襲暗殺説譚の後、ヤマトに帰る途中の説話で
「既にして海路(うみつぢ)より倭(やまと)に還りて、吉備に到りて穴海を渡る。其の處に悪ぶる神有り。則(すなは)ち殺しつ。
と書かれている。この「穴海」について詳しく知りたいと思い、「ネット検索でにわか勉強をした。「株式会社フジタ地質」さんの記事が一番詳しい。丁寧な地図が作成されている。私の関心の部分を要約すると次のようになる。

 約6,000~7,000年前は海水面が現在よりも数m高く、縄文海進期と呼ばれている。その頃岡山平野の大部分は内海であり、「吉備の穴海」と呼ばれている。ではそこはいつ頃から陸地になったのだろうか。次のような説明があった。

『その後、気候の寒冷化による海水面の低下と、古代からのタタラ製鉄による砂鉄採取のため、山を崩して土砂を川に流したことによる非常に緩い砂の堆積、江戸時代以降の干拓によって中国地方最大の平野が作られていきました。』

 この説明では3世紀頃の様子が分らない。それが分るような手掛かりはないかと、さらに検索をしていて「地域の礎」さんに出会った。そこには戦国時代の古地図が掲載されている。その古地図を使わせていただこう。

吉備の穴海
(上が南です。)

 この地図によると、なんと、倉敷・箕島などは島だった。一番北(下方)に見える「酒津山」は現在の倉敷市酒津であろう。そうすると、「株式会社フジタ地質」さんの地図も参考にして、戦国時代には岡山市の南区はほとんど海中にあったようだ。3世紀ころもこれと大差ないと考えてよいだろう。

 上の推測が正しいとすると、都窪郡の南半分くらいは海中にあったようだ。陸地だったとしても「吉備穴海」の海岸に面していてほとんどが湿地だったと思われる。「事典1」は「深井」を「岡山市箕島から西の都窪(つくぼ)郡早島町にかけての地域」と比定しているが、箕島はあきらかに海の中である。この比定は修正の必要があろう。

 「深井」という地名は現在は残っていないようだ。「岡山県岡山市深井」という地名があるが、ここは「事典1」や「事典2」の比定地とはまったく関係ない所に位置している。これまでのことを総合すると、「深井」は「穴海」の海辺に存在した村落であった。

ふかつ[深津]
 『和名抄』備後国に「深津郡」で見えるが、『続紀』養老5年(721)に「深津郡」で初見し、安那郡より分立している。広島県福山市の東部一帯いい、穴状の深い入江に津があったことによる。

 現在は広島県福山市東深津町・西深津町という地名が残っている。「事典2」は深津郡の郡域について次のように記している。

 『和名抄』東急本・道円本郡名ではともに「布加津」、名市博体も「フカツ」の訓を付す。中海(なかうみ)・大野(おおの)・大宅(おおやけ)の三郷からなる。郡域は現在の福山市南部のうち芦田(あしだ)川以東の地域で、東は岡山県に接する。『続紀』養老5年(721)4月丙中条に安那(やすな)郡から深津郡を分置した記事がみえ、かつての安那郡沿海地域にあたる。飛鳥石神遺跡から「深津五十戸庸…」と記した木簡が出土しており、分置以前の郡名のおこりを想わせる。

 地図で見ると東深津町・西深津町は3世紀頃は、「深井」と同様、海辺の村落だったと思われる。