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《続・「真説古代史」拾遺篇》(100)



「倭人伝」中の倭語の読み方(43)
「21国」の比定:前回の訂正などなど


前回の訂正事項
古冢期、志摩半島は島ではなかった。

 前回『まぼろしの邪馬台国』から転載した地図は地質学者が作成したということなのできちんとした地質調査の結果と思い「この地図の信憑性を疑う理由はないと思う」と判断したが、この判断は間違いだった。「愛読者」さんから次のようなコメントを頂いた。

『「まぼろしの邪馬台国」の地図は古くて、最近の調査では縄文以降伊都・志摩間は泊-志登間でつながっていたとされています。』

 昨日、「深…」地名の存在する各地域について詳しいことを知りたいと思い、図書館で『日本古代史地名事典』(雄山閣 2007年10月刊)を利用していた。「志摩郡・しまのこおり」の段は次のような記述で始まっていた。

『郡名は、はじめ「嶋」と見え、また「志麻」にも作られた。『和名抄』は韓良・久米・登志・明敷・鶏永・川辺・志麻の七郷をあげるが、ほかに加夜郷の名も見える。郡域は筑前国の西北端に位置し、北と西は玄界灘、東は博多湾に臨む。かつては平安時代ごろまで南の怡土郡との間に糸島水道が通じ、文字どおりの島であったといわれていたが、近年の調査によって、東西から内海が大きく入り込んではいたものの、陸続きであったことが判明した。現在の福岡市西区および福岡県前原市の各一部と同糸島郡志摩町に当たる。』

 「愛読者」さんの指摘の通りであった。「怡土郡・いとのこおり」の記事にも同じ趣旨の記述がある。そこでその出典を知りたいと思い、「糸島水道」でネット検索をしてみた。『邪馬台国大研究』というサイトの記事「邪馬台国周辺の考古学-その5- 6.伊都国の考古学」に出会った。このサイトの作成者は安本美典氏の諸説に依拠した論考を展開しているので私(たち)とは立場を異にするが、その記事中の考古学的遺跡・遺物についての記事は写真や図をふんだんに用いていて充実している。これから時々利用させていただこうと思った。

 さて、上記の記事の中に下のような地図が掲載されていていた。(見比べるため、前回の地図も再録しておく。)

弥生時代の志摩半島
弥生時代の博多湾

 そして、上の地図について次のように解説している。

『かっては、古代の糸島半島は、海に突き出ている「志麻(しま)郡」と内陸部の「怡土(いと)郡」とに別れていて、ふたつの地域は「糸島水道」によって分断されており、志麻郡にあたる部分は島であったと考えられていた。しかし最近の縄文時代の海面変動の分析や地質調査、海生動物の化石分布調査、遺跡発掘調査の分析などから、上図のように、縄文時代以後の糸島半島は、泊-志登間では、南北に陸地としてつながっていた可能性が高いとされている。怡土と志麻が元来陸続きであったとすると、泊-志登地区が両地を結ぶ橋の役目を果たすとともに、東西から入り込んだ湾の接点に位置しているため、伊都国の海の玄関口として重要な位置にあった事が推測できるのである。』

 上の地図の出典が示されていないが、サイト作成者がご自分で作られたのだろうか。ともあれ、この地図を描く基礎になった研究のことを直接取り上げている記事はないかと、ネット検索結果を調べ続けていたら、糸島新聞社のHPのバックナンバー(2007年1月11日号)「サイエンスキャラバン 糸島水道はなかった」に出会った。新聞は九州大学の下山正一助教授の「糸島の地形・昔と今を探る」と題する講演の内容を次のように報じている。

『下山助教は、糸島半島の地形や地質の概要を説明した後、糸島水道の存在の有無に触れ、「西区の水崎や前原市の油比の地層からは、貝などの海生化石が出ている。しかし、その間に位置する泊地区を調査したが海成層はなかった。過去1万年間で最大の縄文海進最盛期ですら海峡はなかった。分断する海峡という意味での糸島水道はなかった」と述べた。』

 下山助教授のこの研究は2007年以前のこととなる。『日本古代史地名事典』は2007年の出版だから、『日本古代史地名事典』の記事は最新の研究成果を取り入れていたことになる。怡土郡と「志摩郡」郡は陸続きだったという諸記事の根拠の大元は、たぶんこの下山助教授の研究だと思われる。

 さて、新たに知った地図によると「深江」の辺りは砂丘だったようだ。「深江」を候補から除外するという判断は訂正する必要はないようだ。
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《続・「真説古代史」拾遺篇》(99)



「倭人伝」中の倭語の読み方(42)
「21国」の比定:(15)不呼国(その二)


 まだ詳しい検証ができていないが、今のところ私は「旁国」(魏親倭国)が存在する領域を「銅鉾・銅戈・銅剣」圏と想定している。また、「遠絶」については文字通りに「遠く離れている」という意に取っていたが、「愛読者」さんのコメント(2012/6/11)のご教示により、「(実際に見聞していないので)うとい」という意と考えることにした。このような前提で「フカ」国を考えることにする。

 「フカ」は楠原氏編著の「地名用語語源辞典」によると、次のような地名語幹である。

ふか〔深、布賀〕
 ①フケ(沮)の転で「湿地」。②(水深などの)深いさま。③(水平方向に)奥行きの深いこと。
 〔解説〕①は動詞フカス(蒸)の語幹フカとも通じる。

 もちろん「フカ」という地名はどの資料にも現れない。この語に「ミ・ツ・マ」のような接頭辞あるいは接尾辞が付された地名を考えるほかない。私の調べた範囲(『日本古代地名辞典』・『日本地名ルーツ辞典』)では接頭辞が付された例はなかった。接尾辞が付された例は、私が想定している領域内には、次の6例があった。

ふかい[深井]
 『和名抄』備中国都宇郡に「深井郷」で見えるが、『正倉院文書』天平2年(730)に「深井郷」で初見し、岡山市箕島から西の都窪(つくぼ)郡早島町にかけての地域をいう。台地の麓の探井戸に由来しよう。

ふかえ[深江]
 『延喜武』筑前国に「深江駅馬」で見えるが、『万・813題」に「探江村」で初見し、福岡県糸島郡二丈町深江の地をいう。深く入った入江の地をいう。

ふかた[深田]
 『和名抄』筑前国宗像郡に「深田郷」で見え、福岡県宗像郡玄海町深田の地をいう。泥深い田地に由来する。

ふかつ[深津]
 『和名抄』備後国に「深津郡」で見えるが、『続紀』養老5年(721)に「深津郡」で初見し、安那郡より分立している。広島県福山市の東部一帯いい、穴状の深い入江に津があったことによる。

ふかふち[深淵]
 『和名抄』土佐国香美(かがみ)郡に「深淵郷」で見え、高知県香美郡野市町深淵の地をいう。物部川の川淵が深いことに由来する。

ふかわ【深川】
 『和名抄』長門国大津郡に「深川郷」で見え、山口県長門市深川の地をいう。深川川の深い川に由来する。

②について。ここは伊都国の領域ということで除外、と考えていたが、まったく別の理由で除外することになった。その理由は『まぼろしの邪馬台国』で次のようなことを知ったからだった。少し長いが『まぼろしの邪馬台国』から引用する。


 九州大学名誉教授の山崎光夫博士が、考古学者の意見を取り入れて、専門の地質学の立場から作成された、弥生期の博多湾一帯の地図があるので、ゆるしを得てここに掲載しておく。これによって、記入された弥生線と現在の町の関係を比較してもらうと、当時のようすがよくわかる。おおむねこの弥生線の近くが、邪馬台国時代の海岸線と考えればいいだろう。

弥生時代の博多湾

 この地図から教えられることは、当時は、まだ深江も、加布里も、今宿も、完全に海中であったことである。福岡市内もほとんど海中であった。主要な当時の海岸線の地名をたどってみると、まず、志賀島(しかのしま)はいうに及ばず、西戸崎(さいとぎき)も島であった。和白(わじろ)と三苫(みとま)の間も切れていて、ここを三苫水道というのだそうである。名島(なじま)の付近から、多々良(たたら)川の河口はずっと上流にあり、宇美(うみ)川は別に海へ直流し合流していない。市内の海岸線と思われる地名を列記してみると、土井、別府(べふ)、臼井、住吉神社、新柳町、高宮、平尾、薬院、警固(けご)、草ケ江、小田部、長垂(ながたれ)山、周船寺(すせんじ)、志登(しと)、波多江(はたえ)、前原(まえばる)となる。千五百年の間に、4キロから5キロも陸化している所があり、なかなか現在の地形では、素人(しろうと)判断することはむずかしい。とにかく、標高5メートル内外の線を基準として見当をつけてみた。糸島水道では、半島側は比較的に陸化が遅く、地形が弥生線で安定しているので、瑞梅寺(ずいばいじ)川河口と、雷山(らいざん)川河口の堆積(たいせき)による変化が問題だ。

 この山崎先生の地図を参考にしながら、私は先に述べたように現地を踏査してみたが、実に現在の地形に到達するまでの変化が理解しやすく、とても教導されることが多かった。

 万葉集巻十五に記載された新羅(しらぎ)使の歌をみると、船はこの水道を通らず、糸島半島の先端を迂回しているが、こは歌の内容からもわかるように、唐津湾を横断するのに、より有利な風の選択を求めたためである。それでも幾日も船がかりして風待ちをし、せっかく糸島半島の韓亭(からのとまり)を出帆しても引津へ押し流されている。当時この水道が、干潮時に大船を通すには浅くなっていたのではないかとも考えられるが、それより雷山川河口から船出することは、風向きをえらぶのにきわめて不利なのである。新羅使の歌の内容が証明しているように、唐津湾を横断することのむずかしさが理解される。そこにもまた「東南陸行五百里」の陸行しなければならない必要があったことを物語っている。

 こうして私が糸島水道にこだわるのは、倭人伝の解釈に大きなかかわりを持ってい るからにほかならない。

 この地図の信憑性を疑う理由はないと思う。この地図によると「深江」は古冢期にはまだ海中にあったことになる。

 この地図を見て一つ思い出したことがある。「斯馬国」の比定地である。私は「遠絶」を「遠く離れている」という意に取り、さらに福岡県志摩郡は「伊都国の一部だったのではないだろうか」という理由で古田説を否定したが、訂正しなければならない。この地図によると、古冢期の志摩半島は完全に島だった。伊都国とは別の国と考える方が適切だろう。古田説を採ることにする。
《続・「真説古代史」拾遺篇》(98)



「倭人伝」中の倭語の読み方(41)
「21国」の比定:(15)不呼国(その一)


 この国名の訓みについて、水野氏はどのように解説しているか。その蘊蓄に耳を傾けよう。(決して皮肉っているわけではありません。学ぶことが多々あります。)

 「不」音は「フウ」「フ」「プ」「フツ」「ホチ」「ホツ」「ヒ」の音があり、「いなや(否)」「飛びかける」、「フツ」と発音すれば「……ず」「あらず」「せず」「しからず(不然)」と打消の助動詞になり、「ヒ」と発音すれば、「丕」に通じ、「おおいなり」の義となる。

 「呼」は音「コ」「カウ」「ケウ」で、「よぶ」「よびよせる」「さけぶ」「はくいき」「なげく」の義があり、「カウ」「ケウ」と転音すれば、「よぶ(談)」「ああ(つか〔憊〕れて発する声)」の義となる。

 国名は「フウコ」「フコ」「フツコ」「ヒコ」と訓めるが、一般に「フコ」と訓んでいる。

 「不」に「ヒ」という音があるとは知らなかった。手元の辞書では「ヒ」という音は挙げられていないが、意味解説の中に「丕に通じる」といった項目はある。図書館で「諸橋大辞典」を調べたら、「ヒ」音も挙げられていた。

 古田氏は対海国や一大国の官名に使われている「卑狗」を「ヒコ」と、つまり「狗」を「コ」と訓んでいるのに「呼」も「コ」と訓むのは不当だということを「俾弥呼」の訓みを論じているところで指摘している。(詳しくは『「邪馬台国」論争は終わっている。(10)』を参照してください)。「井に中」ではこの問題は全く議論されていないようだ。

大家たちの諸説

「邪馬台国」九州説者
牧建二・橋本増吉
 「フコ」と訓み、肥前国島原半島北岸伊椙(いふく)村に比定。
宮崎康平
 「フコウ」と訓んでいる。肥後国益城郡の一部と、宇土郡の一部で、現在の熊本県益城郡城南町附近から、宇土半島の有明海岸にかけて、緑川河口と、白川河口のデルタの国で、中心は雁根山(木原山)北麓であろうと比定し、『和名抄』の益城郡の郷名に見える「富神」は、「フコウ」であって、この附近であったとする。

「邪馬台国」大和説者
米倉二郎
 「不呼」を備前国邑久に比定している。
内藤虎次郎
 美濃国池田郡伊福か不破とする。

 米倉説・内藤説には音訓のことが書かれていない。比定地から類推すると、両者ともに「フク」と訓んで、これまでと同様、類音地名探しをしたのであろう。

楠原説
 「フコ」と訓んでいるが、夏樹氏の洛陽古音による訓み「ホカ」とミックスさせて「ホコ」で比定地を探っている。そして、「福岡県糟屋(かすや)郡笹栗(ささぐり)町・久山(ひさやま)町・粕屋(かすや)町付近」に比定している。

地図検索してみたが、「笹栗」という地名は見当たらない。「篠栗」の誤植のようだ。「倭人伝」の記述からは邪馬壹国の東側と南側の範囲は不明だが、私は楠原氏の示す比定地は邪馬壹国か不弥国の領域内だと思う。その意味でもこの説は私(たち)の立場からは全く受け入れることはできない。ここで打ち切ってもよいのだが、楠原氏の地形や遺跡についての蘊蓄も大変参考になることが多いので、それを読んでおくことにする。

 長田夏樹「洛陽古音」ではホカだが、カはアリカ(在り処)・スミカ(住み処)のカだからアソコ・ココのコ(処)と同義で、このホカは後世の地名用語ではホコに相当する。ホ(穂・秀)・コ(処)で「鋭く尖ったところ」であり、「鋭峰に囲まれた地」でもあるだろう。

 博多津から東に7~10㎞、三郡山地の酉麓に多々良(たたら)川と支流の久原(くばら)川・猪野(いの)川の河谷が深い山ふところをつくる。川沿いの平野には扇状地が発達しているが、東の三郡山地と北と南の三方を山の囲まれた西に口を開けた地形はむしろ、小盆地といったほうが実態に合う。

 北西側は立花(たちばな)山(標高361.7m)・城ノ越(じようのこし)山(180m)の立花山塊が博多湾岸低地とをへだて、東は低い鞍部を経て三郡山地の犬鳴(いぬなき)山塊につながる。

 立花山は古くは二神(ふたがみ)山と呼ばれた霊峰で、山体は伊邪那岐(いざなき)・伊邪那美(いざなみ)になぞえられる。山腹には計六峰の支峰が吃立し、見る地点により山容が異なるという。仏像の明王(みようおう)像が握る三鈷(さんこ)鉾(ほこ)は穂先が三股に分かれているが、弥生期の鉾はどんな型だったのか。いずれにせよ、ホ(穂・秀)・コ(処)という語形から「倭人伝」の「不呼」の国名はこの山の山容から出たものかもしれない。  ただし、この国の中心は立花山の西麓の現。福岡市東区和白(わじろ)付近や北麓の現・古賀(こが)市ではなく、多々良(たたら)川流域に比定すべきだろう。

 多々良川の小盆地の南側には、乙犬(おといぬ)山(185.8m)・岳城(たけじよう)山(381.8m)・若杉(わかすぎ)山(581m)とつづく尾根が壁のように連なり、ホコ(鉾)型の鋭峰が突出する。そして東の三郡山地の主稜線の手前には、多々良川上流の渓谷できり離された前山の飯森(いいもり)山(356m)もそそり立つ。

 日本列島各地には、後世「小国(おぐに)」と呼ばれる小地域が散在する。いずれも、三方を山に囲まれた山ふところの小盆地である。弥生期、このような小盆地に一国が存在したとしても不思議はない。

 さらに、以下のような補強証拠をも考慮して、私は「不呼国」をこの地に比定する。

 この地形解説は、私(たち)の立場からは、邪馬壹国の東の境界を説明しているように読めるが、どうだろうか。宗像もその境界内に入ろう。

 氏は「補強証拠」を二つ取り上げている。地名伝説と古冢時代の遺跡である。これも上に述べた私の見解の「補強証拠」として読める。

女神たちの伝説

 前述した立花山のほか、この地域の山々には神々、とくに女神にまつわる伝説にいろどられている。若杉山は神功(じんぐう)皇后が戦勝を香椎(かしい)神社に祈願、鎧にさした杉の枝をこの山に植えた、という山名起源伝説が伝わる。

 また三郡山地の脊梁(せきりよう)部にある鉾立(ほこたて)山(663.2m)は『記紀』神話に登場し神武(じんむ)天皇の母神とされる玉依姫(たまよりひめ)が、鎮座すべき山をもとめて菅(すが)岳(682m)と比較、山の高さを競うため山頂に鉾を立てた、云々の伝説がある。

 この山も菅岳もともに高原状の平頂(へいちよう)峰で、ホコ(鉾)の名で呼ばれるような鋭峰ではない。あるいは、古くホカ=ホコと呼ばれた国名が山の名に残されたのかもしれない。

弥生遺跡の分布

 この地域の弥生遺跡としては、まず粕屋(かすや)町大隈(おおくま)の上大隈遺跡は弥生終末期に築造された円墳状の盛り土(直径18m、高さ1.5m)の下に箱式石棺が埋蔵され、舶載(はくさい)の花文(かもん)鏡ほか注目すべき副葬品多数が発掘されている。一帯は若杉山・岳城山・乙犬山の尾根筋につづく舌状台地で、箱式石棺や甕棺(かめかん)墓群の集中地帯でもある。

 約1㎞東方の篠栗(さきぐり)町和田(わだ)の部木原(へぎばる)遺跡では、弥生期の竪穴住居址5軒分と土壙(どこう)墓・箱式石棺が発掘されている。また、篠栗町から粕屋町にかけては古墳が密集し、とくに前記した粕屋町大隈には弥生後期の高塚式の原始古墳も発見されている。

古田説
 古田氏は「俾弥呼」を「ヒミカ」と訓んでいるのだから、当然この国名は「フカ」と訓むことになる。「不呼国」について、氏は次のように述べている。

「不呼(フカ)国」。筑前国(福岡県)に「深江」がある。唐津湾に近い。ここではないだろうか。けれども、「深津郡(備後国)」や「深川郷(長門、大津)」など「深」のつく地名は、他にも少なくない。後にのべる「不定」のケースの一つであろう。

 つまり、決定的な決め手のないケースとして比定を保留している。(16)「姐奴国」・26「巴利国」などについても保留をしている。何が何でもむりやりにこじつける諸大家とは異なり、これこそ学問的な態度というべきだ。しかしながら、大した根拠は提示できないだろうが、あえて私なりの比定を試みてみようと思う。
《続・「真説古代史」拾遺篇》(97)



「倭人伝」中の倭語の読み方(40)
「21国」の比定:番外編 「伊都」の意味


 「邪馬壹国の諸問題」の〔補注2〕に戻ろう。「好古都国(その一)」で引用した書き出し部分も再読しながら始める。また漢籍からの引用文が数件あるが、学習の機会なので煩をいとわずそれらについても詳しく調べることにする。

「伊都国」の表音表記について

 倭人伝の中に「ト」の音に相当する表記として「都」字が用いられている。「伊国」がそれである。これは明らかに現地音の漢字表記である。今、この国名について簡明な論証を加えよう。

 周知のように、倭人伝にはつぎの一節がある。
○南至邪馬壹国。女王之所。  すなわち、邪馬壹国は倭国の王の「都」としてとらえられている。

 一方、この「都」字は、右の「伊都国」にしめされている如く、現地音「ト」の類の音の漢字表記として使用されている。
  都ト〔集韻〕東徒切
   ツ      刀、乂
          刀、又

 したがって、もしかりに「ヤマト」という現地音の地名が倭王の治所であったとしたら、そのとき陳寿は当然これを「邪馬」と表記したものと思われるのである。

 なぜなら、現地音の漢字表記のルールは、すでにしばしばのべた通り、
 (ⅰ) 表音的段階 ― 多字選択
 (ⅱ) 表意的段階 ― 一字選択
の二段階を経過するのであるから、第二段階において、「ト」の現地音に対して、この場合「都」字以上にふさわしい文字はありえないのである。

 上の引用文には少し説明が必要だろう。

 尾崎雄二郎氏は「純粋表音主義」と呼ばれている説を立てている。おおよそ次のようである。

 陳寿は倭語の音を漢字表記するとき、当時の「韻書」によって、その各音韻グループの先頭の文字(「小韻の首字」、使用頻度が最も高い文字)を選んだだけである。つまり、その漢字は偶然用いられただけであり、深い意味はない。

 この説にもとづいて尾崎氏は「邪馬臺国」の「臺」の字は偶然選ばれただけの文字であると主張した。上の引用文はそれに対する反論の補注である。

 この引用文によると、当時は古田氏も「倭人伝」の倭語は陳寿が表記したものと考えていたことが分る。氏は現在ではそれは倭人による表記という説に立っている。私(たち)もその古田説を肯定して、それを前提として議論を進めている。しかし、その立場でも表音文字の「二段階の経過」説は有効だ。

 さて、「伊都」の表意的意味を知りたく〔補注2〕を取り上げたのだが、そこで行われている議論は「陳寿による表記」が大前提になっているので、「倭人による表記」という立場からは無効のように思われるが、どのように議論が展開されるか、ともかく古田氏の論説を読んでみよう。

 この「伊都国」という表記は、洛陽にあった史官陳寿にとって、深い典拠と類縁を有したものであると考えられる。なぜならば洛陽の近傍にこれと相関する字面をもつ「伊闕」の地があったからである。

 そして、次のようにいろいろの漢籍から「伊闕」を含む記事を抜き出している。氏は原文を掲載しているが、ここでは読下し文を付記しておく。(『中国古典文学大系』(平凡社)・『後漢書』(岩波書店)などを参考にしている。語句の注記はそれらの本からの転写。『 』内の文は古田氏のコメント。( )内の文は私のコメント。)

A
十四年、左更白起、攻韓魏於伊闕。斬首二十四万、虜公孫喜。抜五城。(『史記』秦紀)

十四年、左更白起、韓・魏を伊闕(いけつ)に攻む。首を斬ること二十四萬。公孫喜を虜にして、五城を抜く。


伊闕
 韓の地名。河南省洛州の南十九里に在る。(正義)

B
塞轘轅伊闕之道。(『史記』淮南王伝)

轘轅(かんえん)・伊闕の道を塞ぐ。


轘轅
 山の名。今の河南省偃師県の東南。地形が険しく、山道に12のカーブがあって、曲がりくねっていたので、轘轅(ぐるぐる回り、行ったり来たりする)と名づけられた(『全注』)
伊闕
 山の名。今の河南省洛陽市の南。二つ山が闕(宮門の左右両側の望楼)のようにそびえ、その間を伊水が流れていた。(『全注』)

C
舜乃使下禹疏三江五湖闊伊闕導中廛澗上。(『淮南子』本経訓)

舜乃ち禹をして三江五湖を疏し、伊闕を闢き、廛澗(てんかん)を導く。


伊闕
 河南省の山名
廛澗
 廛水・澗水の流れ

D
背伊闕。越轘轅。(曹植『洛神賦』)

 伊闕をあとにし、轘轅山を越える。(曹植『洛神賦』)


(曹植は曹操の三男で文才に恵まれ、曹操に溺愛されたという。曹丕との後継者争いに敗れた後は最期の時まで厳しい迫害を受け続けたという。『洛神賦』は「顧愷之《洛神賦図巻》と曹植『洛神賦』」で全文読むことができます。読下し文はそのサイトからの引用です。)

E
中平元年、置八関都尉官。(『後漢書』霊帝紀)
〔注〕謂函谷・広城・伊闕・大谷・轘轅・旋門・小平津・孟津一也。

中平元年、八関に都尉官を置く。
〔注〕八関とは、函谷・広城・伊闕・大谷・轘轅・旋門・小平津・孟津を謂うなり。


F
霊帝中元元年以河南何進為大将軍率五営士屯都亭。置函谷・広城・伊闕・大谷・轘轅・旋門・小平津・孟津等八関。都尉官治此。

(「霊帝紀」にこれに該当する文がない。また、「霊帝」には「中元」という元号はない。「中平」の誤植だろう。さらにまた、「以河南何進為大将軍率五営士屯都亭」は「中平元年三月戊申」条の文であり、後に(E)の「置八関都尉官」が続く。つまり「置函谷…」以下の文はどこからか紛れ込んだ文のようだ。「皇甫嵩(こうほすう)朱雋(しゅしゅん)列伝」に同類の文があったので、それで代えることにする。)

F
詔して州郡に勅して攻守を修理し、器械を簡練し、函谷、大谷、広成、伊闕、轘轅、旋門、孟津、小平津の諸関自(よ)り並びに都尉を置く。

(長い脚注が付いている。)

注に、
「大谷と轘轅は洛陽の東南に在り、旋門は汜(し)水の西に在り」。
 ただし、『資治通鑑(しじつかん)』漢紀五〇の胡三省(こさんせい)の注には次のようにある。
「函谷関は河南穀城県(洛陽の西北)に在り。(李)賢曰わく、大谷は雒(洛)陽の東に在り。広成は河南新城県(洛陽の南)に在り。京相璠(けいそうはん)(『春秋土地名』)曰わく、伊闕は雒陽の西南五十里に在り。轘轅関は緱氏県(河南省偃師の南)の東南にあり。『水経注』(五・河水)に曰わく、旋門坂は成皐(せいこう)県(河南省滎陽汜水鎮)の西南十里に在り。孟津は河内河陽県(河南省孟津の東)の南に在り。小平津は河南平県(河南省孟津の東)の北に在り。賢曰わく、今の鞏県(河南省鞏義)の西北に在り。杜佑(とゆう)曰わく、洛州新安県(河南省新安)の東北に漢八関城有り」。
 杜佑云々は、『通典(つでん)』一七七・州郡典七・河南府寿安県(河南省宜陽)の条に、「又た後漢の八関城有って県の東北にあり。函谷関都尉の理(おさ)むる所」とあるのの誤り。

(いろいろな説があるが、どの説によっても「八関」は洛陽を取り巻くように在るようだ。洛陽から伊闕までの距離については19里・50里の2説があるが、秦紀・後漢書での注だから長里と考えてよいだろう。長い方の50里を取ると約22㎞ぐらい。かなり近いと考えてよいだろう。)

『この「伊闕」は春秋時代の周の闕塞に当たる。』

使女寛守闕塞。(『左氏』昭二十六)
(注)洛陽西南伊闕口也。

女寛(ぢよくわん)をして闕塞(けつさい)を守(まも)らしむ。
(注)洛陽の西南、伊闕の口なり。


闕塞
 洛陽の西南にある伊闕山。両山が相対峙して闕の如くに見え、その中を伊水が流れたので伊闕と呼んだ。要塞として有名。

(ここの「闕」は「宮城の門」という意味だ。ただし、「宮城・天子の居所」という意味のある。また、「伊」は「伊水」の「伊」と解説しているが、逆に「伊闕」の「伊」をとって「伊水」と呼ぶようになったとも考えられよう。古田氏は後者を取っていると思う。)

 さて、以上の引用文を受けて、古田氏は次のように続けている。

 そして(伊闕は)右のE・Fにあるように漢の霊帝の八関の一であり(中元(ママ)元年は西暦184)、洛陽の西南にあたる関塞であった。

 「伊闕」の「闕」は、天子の居所たる宮殿の意義であり、「伊」は「伊邇」(イジ、〝コレチカシ″の義で、近傍なるをしめす)の熟語にある発語の辞である。

不遠伊邇、薄葬我畿。(『詩経』邶風、谷風)

遠からず伊(こ)れ邇(ちか)く 薄(ここ)に我が畿に送る


 「伊」そのものに直接「近」の意義があるわけではないけれども、この『詩経』の著名な詩句のイメージからしても、首都洛陽なる宮闕の西南関を擁する地として、「伊闕」地名は、きわめてふさわしき字面として洛陽の人々には感ぜられていたであろう。(この地に「伊水」もある。 ― 『史記』秦本紀正義、注水経)しかも、先の淮南子の例Cにあるように、この「伊闕」をひらいたのは聖天子禹である、という伝承がともなっていた。この禹の東治、五服の制を典範としつつ、その古制(夷蛮の王の、中国の天子への朝貢の礼)を今に守る国として、倭国を描き、その中心国家として「邪馬壹国」の名をはじめて記したのが『三国志』の著者陳寿であった。

 こうしてみると、この女王の都する国の西隣にあって、「郡使の常に駐まる所」として、その関塞の如き位置を占めた「伊都国」に対して、「伊都」の字面があてられたのは偶然ではないであろう。

 すなわち、この「伊都」の「都」は、その地そのものを「都」と見なしているのではなく、ほかならぬ「邪馬壹国」のことを指しているのである。すなわち、「伊都」とは「女王の都に遠からず伊邇たる地」の意義をもつのである。

 これは中国側の「伊闕」が「宮闕」の存する当の地ではなく、中心地洛陽に隣接した関塞であったのと同様なのである。

 「郡使の常に駐まる所」であり「特に一大率を置き、検察せしむ。諸國之を畏憚す。常に伊都国に治す。」という国にピッタリの魅力的な解釈である。しかし、この解釈が倭人による表記としても通用するかどうかが問題だ。

 「発語の辞」という、これもまた私にとっては初めての用語に出会った。ネット検索していたら「助字とテニヲハ 伊藤東涯『操觚字訣』を中心に(佐藤宣男)」という論文に出会った。そこには次のような解説があった。 『詩経』の「抑此皇父」における「抑」のように,「上ヲ承,端ヲアラタメテ,下ヲトキ出ス」場合を「発語之辞」といい,…

 「発語の辞」がこうした役割の辞だとすると、「伊」と「邇」を特別に結び付ける言語感覚が、陳寿にはあったとしても、陳寿の同時代人の共有されていたとは考えがたい。試みに、「中國哲學書電子化計劃」さんのところで「伊邇」を検索してみたら、上記の『詩経』の一例しかなかった。

 ましてや、「倭人伝」中の倭語が倭人による表記だとすればなおさら成り立ちがたい。倭国の知識人の中に中国からの渡来人がいたとしても(俾弥呼は魏帝と国書の遣り取りをしているほどだから、渡来人がいた可能性は十分にある)、「伊」を「近い」という意として用いるほど漢籍に通暁した倭人がいた可能性はほとんど無いのではないか。

 「伊都国」問題は、「伊都」が表意表記かどうかという問題にまで戻らなければならないようだ。今のところ、私にはまったくお手上げ。この問題とはしばらくお別れします。

(7月10日付の「愛読者」さんのコメントに「単なる思い付きです」という断わり付きですが、一案が書かれています。この案も視野に入れて考えていこうと思っています。)
《続・「真説古代史」拾遺篇》(96)



「倭人伝」中の倭語の読み方(39)
「21国」の比定:(14)好古都国(その三)


(「伊都」を表意表記と考えた場合、古田氏はどういう意義があると考えているのか、という問題を残していますが、この問題は「好古都国」が終わった後に表題を変えて取り上げようと考えています。)

 水原氏は「好古都」の訓みとして「コウコト」「コウコツ」の二種類を挙げていた。私は呉音という原則に従い「好古都」「コウコツ」を採用しておく。では「好古都国」を従来の諸説はどう扱っているのか、見てみよう。

大家たちの諸説

「邪馬台国」九州説者
牧建二・橋本増吉
 「ココツ」と訓じ、肥後国の菊池郡に比定。
宮崎康平
 「コオコト」と訓み、「コオ」-「コ」は「河」、口の古い音「ク」-「コ」で、「ト」は「津」の義、したがって、コオコトの国は、河口のデルタとその突出部にある津の国の義とし、肥後国宇土(うと)郡の一部と、八代郡の一部の地で、現在の熊本県宇土市附近から、氷川流域にかけて、不知火潟の海岸に沿って広がった地域の国に比定し、球磨川や氷川などの河口に形成されたデルタの国であるという。ちなみに氷川は「ココリ」より転訛たものだという。

「邪馬台国」大和説者
米倉二郎
 内藤虎次郎説を採用して、備前和気郡香止郷(かかとのさと)の地だとしている。

 四人ともに「好古都」を表音文字と考えた比定を行っている。牧・橋本・米倉の三氏は類似音の地名で比定している。宮﨑氏は楠原氏の地名学による方法と同じ手法を用いている。この方法が孕んでいるネックの一つは「河口のデルタとその突出部にある津」に該当する地域は一つに限れないことである。もっとも宮﨑氏の場合は「21国」は「邪馬台国」の周りにあり、かつ地理上の順に従って書かれているという大前提の元で比定を試みているので、その限りでは比定地を特定することが可能になる。

 水野氏は「諸大家」の説の中では宮﨑説を一番買っているようだ(水野氏にならって「宮崎」と書いてきたが、正しくは「宮﨑」でした)。不十分ながら宮﨑説にだけ論拠の紹介もしている。一度、宮﨑説の論拠に直接当ってみたいと思っていた。図書館から『まぼろしの邪馬臺国』(講談社文庫)を借りきて拾い読みしている。それによると宮﨑説には訓みの上で大きな錯誤があることがはっきりした。氏は倭語は「漢音で読まなければならない」ということを繰り返し強調している。例えば
「中には大学教授でありながら、漢音で読むべき国名を平気で呉音で読んだり、漢音と呉音を混合して読まれるのには開いた口がふさがらない。」
とまで言っている。氏は、陳寿は倭人の発音を何度も確かめながら倭語の表音表記を決定したと考えている。どうやら漢音が「漢の正統を受け継ぐ」と誤解しているようだ。また、
「わが国の古事記をはじめ多くの上代文献が漢字を呉音で読ませているように、韓国の新羅時代の文字も、おおむね呉音で読むようになっている。」
とも述べているので、倭国・新羅には五世紀頃に呉音が伝わったと考えているようだ。

 氏は各国比定の表題では漢音と呉音による訓みを併記して議論を始めている。ちなみに「好古都」の呉音訓みは「コウクツ」になっている。手元の漢和辞典では「古」の音「コ・ク」は共に漢音・呉音の区別はないので「コウコツ」も呉音訓みと考えてよいだろう。つまり呉音訓みでは「コウコツ」か「コウクツ」ということにある。

楠原説
 福岡市博多区に比定している。その論拠は次の通りである。

 「倭人伝」が「好古都」と表記する国名は、上古音でhog kag tag'洛陽古音で中古音でhau-ko-tuで、これらを總合して判断すると倭語はハカタという地名であったろう。まさに、後世の「博多」そのものである。

 ここで用いられている発音記号はピンインでもウエード式でもないようだ。IPAだろうか。洛陽古音での訓みは発案者・長田氏はカタカナで「クカタ」と表記している。他もあえてカタカナ表記をすると、上古音は「ホカタ」、中古音は「ハウコツ」だろうか。

 そして氏は、ここでは地名学を捨てていて、氏が批判してやまない類似音探しを行っている。しかも、時代の違う発音と怪しげな洛陽古音を「総合して」後世の「博多」だとは、なんとも杜撰な理論だ。

 「好古都国=博多」説には前例があった。井沢元彦氏である。中国人は「好古都」を「ハカタ」と読むというのがその論拠だったようだ。現代中国人の訓みと三世紀の表音表記を結び付けるのは乱暴だ。また実際に中国人がそのように訓むかどうかは実際に聞くにしかないが、知り合いがいないのでそれは叶わない。中日辞典でピンインを調べたが「hao-gu-dou(またはdu)」となる(hao・guの中のa・uの上には第三声を示すˇ〈キャロンと呼ぶらしい〉が付いている)。これをウエード式で表記すると「hao-ku-tu(tou)」である。もちろん私は正しく発音することができないが、「ハカタ」にならないことは確かだと思う。

古田説
 氏は「コウコト」と訓んでいる。そして『これは「出雲(島根県)」だ。』といきなり思いがけない結論を提示する。その理由は次の通りである。

 「えっ?」と、驚かれるかもしれない。だが、筋道を通してみれば、三世紀の邪馬壹国、女王の都は、いわば「新規の都」の地である。

 その「目」から、〝好ましき古き都″と称することのできるのは、出雲しかない。そうだ。例の「国ゆずり」神話である。筑紫の倭国側の「目」では、「出雲の王朝は、みずからの『都』を、筑紫へと(平和裏に)〝ゆずった″好ましい国」なのだ。もちろん「好ましい」というのは、筑紫側の立場、いうなれば「自己コマーシャル」の視点以外の何物でもないのであるけれど。倭人伝は「筑紫の倭人」の立場から書かれたもの、それが陳寿によって〝採用″されているのである。

 「では、そのような『表意』だけで、『発音』は関係ないのか。」と問われれば、"yes"だ。「関係あり」なのである。

 「関係あり」とする根拠の一つとして例の「弟→矛」という本居宣長の〝書き直し″を取り上げている。私はこの「弟→矛」という本居宣長による原文改訂説を『「矛」か「弟」か?』で五回にわたって否定的に論評している。(中心的な論点は「「矛」か「弟」か?(3)」で述べています。)

 私が納得できない説なので、古田氏の議論のこのくだりは省略する。「弟→矛」説を除外しても、古田氏の論旨は出雲にとって「銅鐸」が重要な存在だったということにあるから、その根拠としては「荒神谷や加茂岩倉などから大量に出土した小銅鐸の存在」で十分だろう。私としてはそれで納得できる。

 かつてわたしは「出雲神話に、銅鐸なし」という認識だった。本居宣長の〝訓んだ″古事記伝に従って「古事記」を〝訓んで″いたからである。

 だが、ちがっていた。宣長は、自在に、「自分の美学」に従って「原文」(真福寺本、古事記)を自在に〝書き直し″ていたのである。ストレートな事例としては、「弟(オト)」(=音)の文字を「矛(ホコ)」と書き直していたのである。

(中略)

 このわたしの理解の正当なこと、それは出雲の荒神谷や加茂岩倉などから大量に出土した小銅鐸の存在が何物にもまして、雄弁に「立証」しているのではなかろうか。

 以上のように観察してくると、今問題の「好古都」の三文字が「ココト」であることに驚く。「コト」は、平安時代風の「琴」などではなく、楽器としての「銅鐸」だった。もちろん、中国の例がそうであるように「音階」を変えて(釣り紐の長さを変え)楽器として用いるとき、文字通りの「古代琴」の性能を発揮していたのである。「ココト」の「コ」が「小」であること、言うまでもないであろう。

 「表意」のみならず、「表音」においてもまた、この表記は「正確」だったのである(右の「小銅鐸」以前の、「陶塤(トウケン)」、いわゆる「弥生の土笛」のテーマについては、『古代史を疑う』の「日本の生きた歴史(八)」に詳述する)。

 以上の諸説の中で論理に破綻がないのは古田説だけである。しかし、「コウコト」あるいは「ココト」という地名の痕跡が『古事記』『日本書紀』『風土記』『万葉集』『和名抄』などのどこにも残されていないことに、やはり、疑問が残る。

 ここで、もしかして「コウコツ」あるいは「ココツ」の痕跡が残る地名はないだろうかと、『日本古代地名辞典』を調べてみた。一つあった。前回、「都」を含む地名を抜き出したが、一番下の段の右端にあったため見落としていたものだった。

こつ[居都] 『和名抄』備前国上道郡に「居都郷」で見え、岡山市古都の地をいう。「こつ(木津)」の意で、木材の集荷地であったとみられる。

 経緯は分らないが、なんと、現在では「古都」と表記している。そこから13・4㎞離れているが吉備津彦神社がある。吉備国は古くから出雲国と並ぶほどの勢力を持った地域である。イワレヒコも東征のみぎり吉備国に滞在している。そのころはまだ九州王朝とは独立した国ではなかったか。吉備国にも「都(みやこ)」と呼べる地があったと考えてもよいのではないだろうか。

 吉備国の中心地がどの辺だったのか、私には分らないが、もしかしたら「居都」だったのではないだろうか。この表記が表意表記だとすると、「居」には「置く・すえる」「いどころ・すまい」といった意味もあるので、「都(みやこ)を置いたところ」という意味になる。九州王朝の傘下に入った吉備国が女王国のころ、「いにしえのよき都があった」という意味を込めて自ら「好古都(コウコツ)国」と名乗ったのではないだろうか。

 私の案はすべて推測の域を出ない。また、図書館に出かけて詳しく調べたいことが何点かあるので、調査の結果、また加筆・訂正事項が出るかも知れないが、取りあえず一案として出しておこう。
《続・「真説古代史」拾遺篇》(95)



「倭人伝」中の倭語の読み方(38)
「21国」の比定:(14)好古都国(その二)


( 前回の記事の中に気になる点がいくつかありました。調べ直して追記・訂正をしました。元の文はそのまま残して、追記・訂正した文は青字で示しました。7月7日)

 前回、『古事記』『日本書紀』『万葉集』『風土記』で使われている「都」は「ツ」と訓まれていることを指摘した。その時に点検したのは文中や人名・神名の中で用いられている表音文字のケースであった。今回はその続きとして、地名のなかで使われている表音文字「都」を調べてみた。(吉田茂樹著『日本古代地名事典』による。)

つ[都宇] 『和名抄』備中国に「都字郡」で見えるが、『正倉院文書』天平2年(730)に「都宇郡」で初見し、岡山市の西部から、都窪郡早島町にかけての地域をいう。近くに「吉備津神社」があり、また、「津守郷」もあって、「吉備の津」の意で、「津の郡」としたと思われる。

 漢字二字で一音訓みは「紀伊」と同様、好字令の名残だろうか。ウィキペディアでは「つうぐん・つうのこおり」と訓み
『元は「津(つ)」だったが、漢字2字で地名を書く風習が出来、津が訛って「つぅ」となっていたことから「つう」とし「津宇」や「都宇」の字を当てたとされる。』
と説明している。ちなみに、現在の郡名「都窪」も「ツクボ」で「都」を「ツ」と訓んでいる。

つが[都賀]  『和名抄』下野国に「都賀郡」で見えるが、『正倉院文書』天平勝宝4年(752)に「都賀郡」で初見し、栃木県上・下都賀郡、栃木市、鹿沼市の一帯をいう。渡来系「都賀直」(あたい)を祖とする一族が入居し、開発した所をいうのであろう。

つが[都賀]  『和名抄』石見国邑智(おおち)郡に「都賀郷」で見え、島根県邑智郡美郷(みさと)町都賀の地をいう。渡来系「都賀直」(あたい)を祖とする一族が入居し、開発した土地をいう。

つげ[都介]  『和名抄』大和国山辺郡に「都介郷」とあるが、『記神武』に「闘鶏(つげ)国造」で初見し、奈良県山辺郡都祁(つげ)村の地をいう。「つげ(黄楊)」の木に由来する。

つげ[郡家]  『和名抄』武蔵国比企(ひき)郡に「都家郷」で見え、埼玉県比企部ときがわ町のあたりとみられる。「つげ(黄楊)」の木に由来するであろう。

つし〔都志]  『和名抄』淡路国津名郡に「都志郷」で見え、『垂仁紀』88年の「淡路の出石」は、この地域と思われる。「づし(出石)」の意と思われ、海浜や内陸で良石を産出したことによる。兵庫県洲本市五色町都志の地。

つち[都知]  『和名抄』能登国羽咋(はくひ)郡に「都知郷」で見えるが、『平城宮木簡』に「都知」で初見し、石川県羽咋(はくい)郡志賀町土田の地をいう。「つち(土)」の意で、泥土が多くあったことによる。

つづき[都筑]  『正倉院文書』天平11年(740)に遠江国浜名郡の「都築(つづき)郷」で初見し、中世には「津々木郷」とも記し、静岡県浜松市三ケ日(みつかび)町都筑の地をいう。「つつ(筒)き(接尾語)」の意と思われ、大崎半島が筒状に細長く伸びている所に由来するものと考えられる。

つね[都禰]  『和名抄』備後国葦田郡に「都禰郷」で見えるが、『続紀』養老3年(719)に「常城(つねき)」で初見し、広島県福山市新市町常金丸(つねかねまる)の地をいう。「つな(繋)」の転化とみられ、馬を繋いだ土地であろう。

つの[都濃]  『和名抄』周防国に「都濃郡」で見えるが、『雄略紀』9年に「角国」(つののくに)で初見し、『国造本紀』には「都怒(つの)国造」が見える。山口県周南市の一帯をいい、「つの(角)」の意で、南の海岸や海中に角の如き半島や細長い島が並んでいることに由来するであろう。

つの[都濃]  『和名抄』石見国那賀郡に「都濃郷」とあるが、『万・138』に「角里」で初見し、島根県江津市都野津のあたりをいう。紀伊系「角朝臣」一族の居住地に由来する。

 『万・138』は「柿本朝臣人麿が石見国より妻に別れ上り来る時の歌」131番の類歌(或る本の歌)である。知る人ぞ知る人麿の絶唱である。最後の5句を転載しておこう。

……愛(は)しきやし 我が嬬(つま)の兒が 夏草の 思ひ萎(しな)えて 嘆くらむ 角の里見む 靡(なび)けこの山

 『万葉集』初見の地名が出てきたので、ここで『万葉集』にある他の例を挙げておこう。全部20巻で防人の歌である。(まだあるかも知れないが、取りあえず気付いたものだけ。)

 4359・4374・4419・4422番と4372番・4422番・4428番の原文にそれぞれ「都久之」「都久志」とある。言うまでもなく「筑紫」である。

 次ぎは防人の歌の左注に出てくる。4378番「都賀郡」と4421番「都筑郡」で、前者は上に抽出した下野国都賀郡と同じ地だが、後者は武蔵国からの防人なので上の「都筑」とは別の地である。

 ついでながら、「隋書俀国伝」に「都斯麻」(対馬)という表記がある。「魏志倭人伝」の倭語が倭人によるの表記なのに対して、これは「隋書」編纂者による表記だろうか。もしそうだとすると唐時代には音韻表記に呉音も使われていたことになる。

つの[都野]  『和名抄』日向国児湯(こゆ)郡に「都野郷」、『神名帳』に「都農神社」が見え、宮崎県児湯郡都濃(つの)町都濃の地をいう。「角(つの)朝臣」一族の任地に由来する。

つま【都麻]  『播磨風土記』託賀(たか)郡に「都麻里」で見え、兵庫県西脇市津万(つま)の地をいう。「つま(端)」の意で、播磨平野の端にある土地をいう。

つま[都麻] 『和名抄』隠岐国穏地(ちち)郡に「都麻郷」で見え、島根県隠岐の島町都万(つま)の地をいう。「つま(端)」の意で、郡の端にあることによるとみられる。

つも[都茂]  『和名抄』石見国美濃郡に「都茂郷」で見え、『三代』元慶5年に「都茂郷」で初見し、島根県益田市美都町都茂の地をいう。「つま(端)」の転化で、山地への入口にあたる地域をいう。

つら[都羅]  『和名抄』備前国児島郡に「都羅郷」で見え、岡山県倉敷市連島、藤戸のあたりをいう。『地理志料』は「つうら(津浦)」と解しているが、「つら(列)」の意で、列状の島の意かも知れない。

つる[都留]  『和名抄』甲斐国に「都留郡」で見えるが、『正倉院文書』天平宝字5年(761)に「都留郡」で初見し、山梨県都留市、大月市、富士吉田市、北・南都留郡の一帯をいう。「つる(鶴)」説、「つる(蔓)」説、「つら(列)」説とあるが、どれとも決め難い。あるいは「つら(面)」の意で、甲斐国の「おもて(面)」をいうのかも知れない。古代の官道は唯一、都留郡を経て、甲斐国府へと通じている。

 以上は先頭文字に「都」が使われている例だが、二字目に「都」が使われている例を地名だけ抜き書きしておく。宇都宮(うつのみや)・賀都(かつ)・芸都(きつ)

 「都」を「ト」と訓んでいる例は「伊都」のほかにもう一例あった。

と[都於]  『和名抄』石見国那賀郡に「都於郷」で見え、島根県浜田市旭町今市の周辺をいう。「と(門)」の意で、狭い通路にあたる土地をいう。

 この例は現在地名とは何の繋がりがまったくないので疑問を持った。島根県浜田市に比定しているのでそこをネット検索していたら「市区町村変遷履歴情報」というサイトに出会った。それによると島根県那賀郡は1940年に江津町と浜田市に編成替えされている。それぞれの構成町村は次の通りである。

江津町(那賀郡江津町,都濃村,渡津村)
浜田市(那賀郡浜田町,石見村,長浜村,美川村,周布村)

 江津町に都濃村がある。こちらが「都於」の比定地ではないか。これは先にも例があったが、訓みは「ツノ」だ。「都於」も「ツノ」である可能性大である。

(7月11日 訂正)
 上の件について図書館に行き、『角川地名大辞典』で確かめてきた。「都濃(ツノ)」の方は間違いなかったが、浜田市ではなく平田市(現在は出雲市の一部)に「都於島」があるという。ただし、「都於」を「ツオ」と訓んでいる。下に追記しておく。

  つおしま 都於島<平田市>
「風土記」にみえる島名。「都於島。磯なり」とある。「風土記抄」に「都於嶋は是亦同処、今の大国島を曰う」とあることから,現在の平田市地合(ちごう)浦の大黒島を比定地としている。岩島である。

 『日本古代地名事典』が浜田市に比定している「都於」の訓みも「ツオ」だと考えられる。

 以上、私の調べた範囲では「都」を「ト」と訓む地名例は「伊都」しかない。やはり、古くは「イツ」と訓まれていて、後に「ツ→ト」という音韻変化(通音)があったと考えるのが筋ではないだろうか。