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《続・「真説古代史」拾遺篇》(93)



「倭人伝」中の倭語の読み方(36)
「21国」の比定:(13)弥奴国(その三)


 4時間という長時間番組「里山100選」(NHK)を録画して、4回に分けて観賞してきた。どこの里山も美しい。「ミノ」は「美しい野」だという語源説があるのもうなずける。また、どこの里山も緑豊かな山を控え、そこから流れ出るきれいな水流に恵まれている。水は、人間に限らず、あらゆる生物に取って不可欠なものである。人が水の豊かな土地に集落を創ってきたことも当然なことだ。「ミノ」語源は「水の野(湿地)」あるいは「美の尾(山沿いの丘陵)」だという説にもうなずける。

 さて、前回に抜き出した五件の「ミノ」のうち(1)美濃国(岐阜県)は銅鐸圏ということで除外した。(5)阿波国三好郡美濃郷は「伊邪国」として比定した「祖谷」と重複するので、これも除外する。残る三例、実際に現地に行くことはかなわないので地図で確認するほかないのだが、どれも「水の野(湿地)」に適合した土地のようだ。きめてがない。「弥奴国」の比定はあきらめようかと思ったが、「愛読者」さんが指摘した「耳納」がヒントとなり、考えが進展した。「耳納」が国名に使われたとすれば、それは「伊邪国」と同様、「山」の地名を用いた例にになる。しかし、地図で「耳納」を確認していて、私は「ミノ」ではなく「ミヌ」そのものが「耳納」のすぐ近くあることに気づいた。「三潴(ミズマ)郡」である。(「ミズマ」の漢字表記は「三潴」「三瀦」と二通りあるが、「三潴」が一般的なのでこれを用いることにする。)

 「三潴」は現在「ミズマ」と読まれているが、もとは「ミヌマ」だった。『古代地名大辞典』には次のように書かれている。

 『和名抄』の訓は「美無万」であるが、『延書式』にはミヌマとある。後にはミツマとも称されたが、中世以降はもっぱらミズマとされた。その名は筑後用下流域の湿地帯で沼沢が多いことにちなむといい、現在もクリークが発達していることで有名である。

 「三潴」は「水沼」あるいは「水間」という表記で『日本書紀』にも出てくる。「神代紀上」(素戔嗚尊の誓約、一書第三)・「景行紀」(景行18年7月条)・「雄略紀」(10年9月条)である。また、『万葉集』にもある。4261番歌である。(詳しくは『「倭の五王」補論(4)』『「倭の五王」補論(5)』をご覧下さい。)

 「沼(ヌマ)」は古くはただ単に「ヌ」と呼ばれていたのではないだろうか。もしそうだとすれば、「ミ」は「水」の意味の言素(造語成分)だから、『日本語源広辞典』が挙げていた「水+ヌ(湿地)」という「ミノ」の語源説が生きてくる。つまり、「三潴」は古くは「ミヌ」であり、こここそ「弥奴国」、ということになる。これが後に地名の言素「マ」が付加されて「ミヌマ」となった。

 では、「沼(ヌマ)」は古くはただ単に「ヌ」と呼んでいたことを論証してみよう。

 『万葉集』で訓読文に「沼」がある歌を取り出してみた。全部で20首あった。そのうち8首(2.201 9.1809 11.2441 2719 12.3021 3023 14.3547 17.3935)は「隠り沼の(コモリヌノ)」という決まり文句(「草などに隠れてよく見えない沼のように」という意味の比喩として使われている。下に「下」という句がくる場合は枕詞扱いしているようだ。5首ある。)で使われている。原文は「隠沼乃」が4首(201 1809 2719 3023)で、後は「隠沼」(2441)・「絶沼之」(3021)・「許母理沼乃」(3547)・「許母利奴能」(3935)であった。(201番歌は『人麿が「壬申の乱」を詠った?(1)』で取り上げた歌です。)

 「コモリヌノ」は本来は「コモリヌマノ」であるが、五音に整えるため「マ」を省いたという解釈も可能だが、それだったら「ノ」を省いて「コモリヌマ」とする方が自然だ。原文が「隠沼」の場合も「コモリヌノ」と訓読しているが、これは「之」が欠落したものと考えられているようだ。原文通りなら「コモリヌマ」と訓むべきだ。

 他の12首の原文と訓読は次の通りだ。

7.1249
「君為 浮沼池」
「君がため浮沼の池の」
(きみがため うきぬのいけの)

09.1744
「前玉之 小埼乃沼尓」
「埼玉の小埼の沼に」
(さきたまの をさきのぬまに)

11.2707
「青山之 石垣沼間乃」
「青山の岩垣沼の」
(あをやまの いはかきぬまの)

11.2818
「垣津旗 開沼之菅乎」
「かきつはた佐紀沼の菅を」
(かきつはた さきぬのすげを)

12.3022
「去方無三 隠有小沼乃」
「ゆくへなみ隠れる小沼の」
(ゆくへなみ こもれるをぬの)

13/3247
「沼名河之」
「沼名川の」
(ぬながはの)

14.3415
「可美都氣努 伊可保乃奴麻尓」
「上つ毛野伊香保の沼に」
(かみつけの いかほのぬまに)

14.3416
「可美都氣努 可保夜我奴麻能」
「上つ毛野可保夜が沼の」
(かみつけの かほやがぬまの)

14.3417
「可美都氣努 伊奈良能奴麻乃」
「上つ毛野伊奈良の沼の」
(かみつけの いならのぬまの)

14.3526
「奴麻布多都」
「沼二つ」
(ぬまふたつ)

16.3863
「志賀乃安麻乃 大浦田沼者」
「志賀の海人の大浦田沼は」
(しかのあまの おほうらたぬは)

19.4261
「水鳥乃 須太久水奴麻乎」
「水鳥のすだく水沼を」
(みづとりの すだくみぬまを)

 「ヌ」と「ヌマ」が混在しているが、「ヌマ」は後の方に集中している。『万葉集』は必ずしも時代順に並べられているわけではないが、「沼」の「ヌ」→「ヌマ」という変化を示していると考えることはできないだろうか。

 以上より、ひとまずは「弥奴国」を「三潴郡」に比定しておこう。
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《続・「真説古代史」拾遺篇》(92)



「倭人伝」中の倭語の読み方(35)
「21国」の比定:(13)弥奴国(その二)


 楠原説に戻ろう。氏は「ミノ」の語源を「ミ(水)・ノ(野)」と分析した。続けて、「ミノ」と呼ばれている(あるいは呼ばれていた)地域探しを始める。
 ところが困ったことに、ミズノ(水野)にしろミノ(美濃・三野・美野・蓑)にせよ、私が想定する北九州には該当する地名がないのである。福岡県浮羽郡・久留米市と八女郡を分けて東西に走る耳納(みのう)山地の名は、大阪府箕面(みのお)市などと同じくミネ(峰)・ヲ(峰=尾根のヲ)が語源で、はじめ想定していたミノ・ミヅノ(水野)とは違った語源の地名である。

 「愛読者」さんから私の論説を補足してくれるような貴重なコメントを度々頂いている。6月21日付のコメントに
「水縄・耳納」が「弥奴国」の可能性もあるのでは?」
という指摘があった。楠原氏は「ミ(水)・ノ(野)」とは語源が異なるという理由でこれを退けている。私(たち)は「ミ(水)・ノ(野)」を探しているわけではなく、「ミ(水)・ノ(野)」は候補地の一つに過ぎない。耳納の楠原語源説が正しいとしても、それは耳納を排除する根拠にはならない。今のところ耳納も候補地の一つである。

 氏はもう一つ類音地名「ミネ」を取り上げて、「ミ(水)・ノ(野)」を捨てて、「もし」という保留付きながら、いきなり「筑前国宗像郡」を比定地と断定している。次のようである。

 肥前国三根(みね)郡のミネも、のちの県主名に「嶺(みね)県主」の名があるのでミノ・ミヅノ(水野)ではないだろう。もし「弥奴」が「峰」系の地名だとすれば、私は肥前国三根郡ではなく、むしろ筑前国宗像郡のほうに比定する。

 その理由の一つは、長田夏樹「洛陽古音」では[発音記号が書かれているが略す]でムナ・ミナと音訳しているからである。もう一つの理由は、「倭人伝」に「弥奴」の次にあげられている「好古都」「不呼」の比定地との位置関係からの判断がある。

 またしてもその根拠の一つは「洛陽古音」である。何度も言ってきたが、「奴」に「ナ」という音はない。また氏は「不弥」を「ホミ」と訓んでいるが、ここでは「弥=ミ」が「ム」に音韻変化したと言いたいらしい。これも身勝手な推測に過ぎない。このようなわけで、ここから以降の楠原氏の「弥奴国」比定の議論は私には無縁となるが、この際氏の最大の錯誤「私が想定する北九州」、氏の用語で言うと「女王国の版図」を批判しておこう。

 『楠原氏の「女王国の版図」(2)』で確認したように楠原氏は「女王国の版図」を九州北部に限定している。九州に限定したのは「旁国」の「旁」を「かたわら。脇」という意としたことがその理由であった。また、北部に限定したのは「女王国連合」と敵対する「狗奴国」を熊本県に比定し、熊本県以南は「狗奴国連合」と考えたことがその理由であった。このような根拠で描かれた「女王国の版図」を、もちろん私は納得していない。この版図は「女王国連合」を矮小化している。

 倭国の諸国家が「部族的国家」であるという認識には、たぶん、異論はないだろう。では「部族的国家」とはなにか。「国家の起源とその本質(5):<部族国家>とは何か。」から、「部族的国家」形成にいたる権力論的側面の論述を再録する。

「これを権力論的にいうならば、他共同体との掠奪・支配をめぐっての抗争とりわけときに部族全体の存亡・興廃を賭けた<戦争>が、主要とはいわないまでも極めて重要な協同社会的活動としての位置を占めることによって、<部族的共同体>の政治的かつ軍事的性格、正確には<共同体(部族)-即-国家>としての<外的国家>構成は力強く進展し、軍事指動者すなわち戦争遂行における指導者の、<外的国家>構成における当初は名目的かつ形式的な第一人者的地位が、対内的立場すなわち祭司的・政治的(正確には共同体的公務への関わり)かつ経済的地位における第一人者的立場へと、徐々にだが確実に.転化しつつある、<国家>形成の過渡的段階である。」

 一般に部族的国家形成の当初は祭祀・軍事・政治・経済の権力構造は未分化で第一人者の手中にゆだねられていた。やがて官位制が整えられるに従って、一人の王のもとに祭祀・軍事・政治・経済を司る組織分化が起こり、それぞれの最高位の者に各分野の権力掌握がゆだねられるようになる。

 部族的国家においては内的国家(共同体-内-国家)統治の要となるのは祭祀(共同幻想)であることは容易に想像できる。やがて、国家は外的国家として他国との抗争において有利に渡り合うために連合体を形成するようになる。そのとき、連合を推進する要となるのもやはり祭祀(共同幻想)にほかならない。同じ祭祀をもつ国家同士が部族国家連合体を形成する。もちろん、それらの国家が当初から同じ祭祀を奉じていたとは限らない。征服国家が被征服国家に自らの祭祀を押しつける(あるいは共同幻想を交換する)というような経過を経た上での連合も多々あったことだろう。倭王武の上表文

昔より祖禰(そでい)躬ら甲冑を擐(つらぬ)き、山川を跋渉し、寧処(ねいしょ)に遑(いとま)あらず。東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を脱すること六十六国、渡りで海北を平ぐること九十五国。

は、まさに九州王朝の「祖禰」が部族国家連合体を形成していった経緯を表現している。その連合体の版図は現在「銅剣・銅鉾・銅戈圏」と呼ばれている領域にほかならない。「銅鐸圏」は異なる祭祀によって統合された別の部族国家連合体である。ただし「銅鐸圏」の喉元には、イワレヒコが拠点を確立し、その後姻戚関係を軸に勢力を拡大していった邪馬国(大和)という異物が刺さっていた。ともあれ、この二つの部族国家連合体の構成人を総称して魏書は「倭人」と呼んでいた。

 この「銅剣・銅鉾・銅戈圏」こそ「女王国の版図」にほかならない。「21国」を全て北九州に押し込めてしまうのは不当である。また今さら言うまでもないことだが、改めて次の事を確認しておこう。一つは「女王国の版図」内の国がこの「21国」だけではない。また、私(たち)はこの「21国」のを「魏親倭国」と呼んでいる。

古田説

 次は「弥奴(ミヌ)国」である。「美濃(岐阜県)」がある。「邪馬(ヤマ)」や「為吾(イゴ)」が奈良県とすれば、その東隣の岐阜県の「美濃」が出現していても、不思議はない。

 古田説はこれで全部である。後に詳しく取り上げるが、古田氏は「為吾国」を「生駒(イコマ)に比定している。

 私にはこの「美濃」説も受け入れられない。楠原氏とは異なる「版図」だが、理由は同じ。「女王国の版図」に入らないからだ。「美濃」は銅鐸圏内の国である。もちろん、銅鐸圏内の中にも「魏親倭国」があってもおかしくはないという考えのあるだろうが、私には考えがたい。

東の方十二道に遣はしてまつろはぬ人等を和平(やは)さしめき。」(崇神記)

とある通り、「美濃」は崇神による銅鐸圏への侵略のときに初めてヤマト王権の勢力圏に組み入れられた。

 では「弥奴国」は何処か。この三・四日いろいろと考えてきたが、いまだに考えあぐねている。もう少し調べなければならないようだ。とりあえず、ここまの記事をロードアップしておこう。(つづく)
《続・「真説古代史」拾遺篇》(91)



「倭人伝」中の倭語の読み方(34)
「21国」の比定:(13)弥奴国(その一)


 この国名の訓みについて、水野氏は次のように解説している。

 「弥」は音「ビ」「ミ」で、……奴は「ド」「ヌ」を音とし、「ナ」という音はない。……「ナ」と訓むのは「ヌ」に転じたものと解しての訓みである。

 『「ナ」という音はない。』と正しい指摘をしていながら、『「ナ」と訓むのは「ヌ」に転じたもの』と訳の分からないことを述べている。私なりに解釈すると、
「もともと倭語としては「ナ」という音であったが、ある時期から「ヌ」という音韻変化が起こり、「奴」という漢字が適用された。」
というところだろうか。氏は「奴国」を「ヌコク」と正しく訓んでいるが、例の金印「漢委奴国」の訓み「かんのわのな国」を受け入れているので、このような根拠のない解説を必要としていると考えられる。

大家たちの諸説

「邪馬台国」九州説者
新井白石・牧建二・橋本増吉
 「ミヌ」と訓み、肥前国三根(みね)郡に比定。
宮崎康平
 「ミヌ」と訓む。「ミ」は海。「ヌ」は「ヌエ」、すなわち水田で、初期の干拓地のこと、海に面した水田の国のという意味。それで、肥前国三根郡・神崎郡・佐嘉郡の地で、現在の佐賀県神崎郡および佐賀市附近から、筑後川河口にかけての一帯の地と比定している。

「邪馬台国」大和説者
内藤湖南
 「ミノ」と訓み、美濃国に比定。
米倉二郎
備前国御野に比定。

 論拠も紹介されているけれど、宮崎説にはいつも悩まされる。水田のことを「ヌエ」と言うなんて、本当?!

楠原説
 氏はまずは「この国名から連想する後世の地名用語はまずはミノ」と議論を始めている。つまり「ミノ」と訓み「美濃国」を想定している。そして、その地名語源を次のように解説している。

美濃という国名は、語源はミ(水)・ノ(野)で、国府所在地(現・岐阜県不破郡垂井町)からややずれるが、現・大垣市一帯の大湧水地帯(関ケ原扇状地の扇端部)や木曽三川がつくる大湿地帯を表現した国名である。

 「ミノ」という地名について詳しく調べてみることにする。『日本古代地名事典』は「ミノ」と呼ばれている地名として、 (1)美濃国・(2)備前国御野郡・(3)石見国美濃郡・(4)讃岐国三野
の四例を取り上げている。そして、その語源については、全てに
『「みの(御野)」の意で、原野を美称したもの』
というような同じ説明をしている。しかし、このような説明は「好字令」後の漢字使用に引きずられた解釈である観をまぬがれない。上の楠原氏のようなその土地の地形や地質に語源を求める方法の方が信憑性があると思う。

 図書館で増井金典著『日本語源広辞典』を繙いていたら、「接頭語・接尾語」という用語と区別して、「造語成分」という用語を用いていた。これは古田氏の「言素」と同じような意味合いをもたせていると思う。「言素」は「接頭語・接尾語」とは区別して扱うべきだという私の主張と同じと思えて興味が湧いた。試みに「み」の項を引いてみる。

み 造語成分…「水」、ミナト(港)、ミカミ(水神)、ミクサ(水草)、タルミ(垂水)、ミギワ(汀)、ミクマリ(水配り)、 ミギリ(砌)、ミヅク(水漬く)屍、ミナクチ(水の口)。

み 造語成分…甲類ミ(真)、ミ(神)、宮、命、操、緑、峯などのミ。乙類ミ(実)、幹、皆、ミノルなどのミ。

み 造語成分…接頭語「御、美」美称。または尊敬。例‥みこころ。御世。

 「美濃」の語源については次のように解説している。

みの【美濃】
 国名のミノの語源の有力説は、五説あります。
説1は、「美しい野の国」が語源です。
説2は、「水+ヌ(湿地)」が語源で、水利のよい国です。
説3は、「御+野」で、皇室の御料地語源説です。
説4は、「美+の+尾」で、山沿いの丘陵の国です。
説5、部民、美濃部氏由来の国です。
 他に、蓑、箕、真野に係わる説がありますが疑問です。

 ほとんどの地理・地形に関わる言葉の起源は、はるか石器時代にまでさかのぼるであろう。「説3・説5」などは真面目に取り上げるのもバカバカしい逆立ちをした説だと、私は思う。楠原氏は「美濃国」の場合の語源を「説2」で説明しているが、今のところ私はこれが一番信憑性のある説だと思っている。

 「ミノ」の語源が「弥奴国」比定の決め手になるのではないかと思い、それにに拘っていてつい長くなってしまった。ついでなので『日本地名ルーツ辞典』も調べることにした。

 『日本地名ルーツ辞典』によると
「現在、全国でミノと呼ばれる地名を拾ってみると、美濃・美嚢・見野・蓑・耳納・箕などを含めて20例ほどある」
そうだ。その中から4例取り上げている。それぞれ岐阜県・島根県・徳島県・香川県の例である。先の例には徳島県のものはなかった。これを(5)とすると、私の手許にある「辞典」では、合わせて
(1)美濃国(岐阜県)
(2)備前国御野郡(岡山県)
(3)石見国美濃郡(島根県)
(4)讃岐国三野(香川県)
(5)阿波国三好郡美濃郷
の5例が取り上げられていることになる。以下、『日本地名ルーツ辞典』から、地名の語源解説の部分を取り出してみる。

【美濃】
 (岐阜)県の南部の旧国名で、東山道八ヶ国の一つ。国名は三野・御野・美乃・三乃などとも書かれたが、律令制下で美濃に改定し定着した。
美濃の由来は、
①青野・大野(賀苻野)各務野(かがみの 鏡野)の三つの野があるので三野と名づけられた、
②真野(まの)から転訛した、禁野(きんの)の意、美称して御野と称した、
③道の左(飛騨)、右(美濃)の意
などの各説がある。
 柳田国男は、一方が山地でわずかな高低のあことを意味した地名であるとし、島根県美濃郡、岡山県三野県(みのあがた)などを例示した。ミノのミは接頭語で美称、ノは野で、山に対する語。野を墾(ひら)いたところが原である。

【美濃】
 (島根)県西部、石見地方の南西部に位置する郡名。「美乃」とも書いた(『日本三代実録』)。中国山地から流れ出る高津(たかつ)川・益田川水系流域の山地の多い地域。承和10年(843)に郡の南西部を分離して鹿足(かのあし)郡が成立した(『続日本後紀』)。
 郡名の由来については、

 『石見外記』に、「美濃ハ三野ナルベシ、三野トハ此地ニ大農・美濃・小野ト大中小ノ三野アリシヲモテ遂ニハ一郡ノ総名トセシニヤアラン」としている。

 自然地名として考えるならば、ミノのミは美称、ノは野の意とする説もあるが、実情に合わないのでミは水であって湿地と考えるほうがよい。
郡内の美濃郷が地名の発祥地と思われるが、この地は高津川・益田川の河口地帯で、「ミノ」が湿地と解すると実情に合う。

【三野】
 徳島県北西部の吉野川中流左岸にある町。三好郡に属する。明治22年に清水・加茂之宮・勢力・芝生(しぼう)・太刀野(たちの)・太刀野山の六か村が合併し、旧郷名の「三野」を採って三野村とし、大正13年に三野町となった。
 『和名抄』の三好郡のなかに「三野郷」がみえ、現在の三野町から三加茂町に広がる地域と考えられる。
「三野」とは「御野」の意味で原野の美称であり、吉野川中流のこの地域にみごとな原野があったことに由来する。

【三野】
 香川県西部の高瀬川河口付近にある町。三豊郡に属する。久安元年(1145)の古文書に「三野郷」とある。この三野郷は三野郡に由来したものと考えられ、郡名は『正倉院文書』天平19年(747)の条に「三野郡」としてみえる。
 地名の由来は、

 『全讃史』によると、三野郡には山菅(すげ)が多く、これで蓑(みの)を作っていたので、ミノと呼ばれるようになったという。
 ところで、岐阜県の旧美濃国や岡山県の旧御野郡は「三野」の文字も使用し、いずれも美しい原野が広がっていた所と解釈されている。ここでも

 「御野(ミノ)」の意で、原野の美称からきた地名
とも考えられる。

 以上調べたことが「弥奴国」比定の決め手になるのかどうか不明だが、とりあえずここまでにして、先に進もう。(次回へ続く。)
《続・「真説古代史」拾遺篇》(90)



「倭人伝」中の倭語の読み方(33)
「21国」の比定:(12)郡支国(その二)


 古田氏の論説の中では言素論を適用した「チリ」の解釈や、「キ」は「柵・要害」をしめすという解釈は納得できる。しかし、肝心の「クキ」と「チリク」を結びつける論理が分らない。

 「チリ」が古田説の通りの意味だとすると地名としての語幹は「ク」である。美称の「チリ」を取って、語尾に柵・要害という意味の「キ」を付加して「クキ」という地名ができたと言っていると思う。それにしても、一音地名「ク」なんてあり得るのだろうか。一音地名としては「奴国」があるし、「紀伊国」はもとは「木の国」だったのが好字令で「紀伊」という表記に変わったと言われている。あるいは「襲(ソ)の国」というのもある。そうすると「ク」という国名もあり得るかもしれない。では、あったとして、それはどのような意味を持つ地名なのだろうか。このような疑問も出てくる。

 「クキ」と「チリク」との結びつきについては、次のように解釈できるだろうか。
 古来から「チリク」と呼ばれていた地名が三世紀頃には「チリ」という美称を止めて「キ」を語尾に付加して「クキ」と呼ばれるようになった。そして現在では元に戻って「チリク」が使われるようになった。
 あるいは古来から、おそくとも三世紀頃までは「クキ」と呼ばれてきたが、三世紀以降のどこかで「キ」を取って「チリ」という美称を語頭に付加して「チリク」と呼ばれるようになった。
 いずれもその根拠は無く、納得できない。

 また、『「語末」に来る「ク」が本来の語法を反映している可能性が高い。』と言っているが、ここの「本来の語法」の意味も分らない。いずれにしても、古田氏の「クキ」と「チリク」を結びつける説明は、私にはこじつけとしか思えない。

 試みに古田氏は「語末」に「ク」がは珍しいと言っているので、そのような地名を調べてみた。(『日本古代地名事典』)

いさく…薩摩国伊作郡
いふく…備前国御野郡伊福郷
おおく…備前国邑久郡
おふく…長門国意福駅馬
きく……豊前国企救郡
きとく…讃岐国那珂郡喜徳郷
さく……信濃国佐久郡
しらく…丹後国加佐郡志楽
そはく…越前国今立郡曾博
たかく…肥前国高来郡
やく……但馬二方郡陽口郷
やく……丹波国天田郡夜久郷
やく……大隅国益救郡
わく……丹波国天田郡和久郷

 たとえば「たかく」。「タカ」は「高い・大きい・立派な」などの意をもつ接頭語。この「タカ」を取り、代わりに語尾に「キ」を付加して「クキ」となった。こんな説も作れてしまう。

 原点に戻って「クキ」と呼ばれる土地を調べてみよう。『日本古代地名事典』には二例掲載されている。

くき[久喜]
 『和名抄』長門国厚狭郡に「久喜郷」で見え、山口県美祢郡秋芳町の地かという。「くき(岫)」の意で、山の穴のある所をいう。

くき[洞]
 『仲哀紀』8年に「洞(くき)の海の入江」が見え、北九州市の洞海湾をいう。「くき(漏)」の意で、湾口の狭い隙(すきま)間の水路をいったであろう。

前者について。
 秋芳町にはあの有名な秋芳洞がある。「岫」には確かに「くき」という和訓があるので、この語源説には納得できる。「クキ」は秋芳洞に由来すると考えられる。三世紀頃、秋吉台中心とする近辺一体に国が建てられていて、この地方の特異な風物である秋芳洞を国名として選び、「クキ」を名乗った、と考えることもできなくはない。しかし、秋吉台は農業、とりわけ水田耕作には不向きの土地のようだし、この一体にはこれと言った考古学的遺跡・遺物もないようだ。文献的裏付けも得られない。ここを「郡支国」に比定することにはためらわざるを得ない。

後者について
 「洞」にも「漏」にも「くき」という訓みはない。その点ではここの語源説明には疑問が残る。しかし、「湾口の狭い隙間の水路」のような地形を倭語で「クキ」と呼んでいて、意味の類似からそれに「洞」という漢字を割り当てたということなら納得できる。現在は「洞海湾」とかいて「どうかいわん」と呼んでいるが、これは明らかに「仲哀紀」「洞(くき)の海」からの命名であることは明らかだ。該当の「仲哀紀」記事を読んでみよう。

皇后(きさき)、別船(ことみふね)にめして、洞海(くきのうみ)〈洞、此をば久岐(くき)と云ふ。〉より入しりたまふ。潮(しほ)涸(ひ)て進(ゆ)くこと得ず。時に熊鰐(わに)、更(また)還(かへ)りて、洞(くき)より皇后を迎へ奉る。則ち御船の進(ゆ)かざることを見みて、惶(お)ぢ懼(かしこま)りて、忽(たちまち)に魚沼(うをいけ)・鳥池(とりいけ)を作りて、悉(ふつく)に魚鳥(うをとり)を聚(あつ)む。皇后、是の魚鳥の遊(あそび)を看(みそなは)して、忿(いかり)の心。稍(やうやく)に解けぬ。潮の滿(み)つるに及びて、卽(すなは)ち岡津(をかのつ)に泊りたまふ。

 かつて「九州王朝の形成」で「前つ君」による「九州東・南部討伐譚」を取り上げた。その「前つ君」の討伐は周防の娑麼(さば)から始まっている。上の記事はその「討伐譚」記事に関係する一節である。

 「前つ君」が周防の娑麼に行くためには関門海峡を通過しなけれなければならない。「郡支国」がこの「クキ」を中心とする国だとすると、そこは関門海峡の入り口に位置して、九州王朝にとって重要な拠点ということになる。「前つ君」の時代だけでなく、邪馬壹国の時代にも倭国の重要な拠点の一つであったはずだ。

 以上により、私は「郡支国」を北九州市の洞海湾を中心とする一帯に比定したい。「諸大家」の中では牧建二氏が「クキ」という正しい訓みを採用して筑前国遠賀郡洞(くき)に比定していた。その論拠を知るすべが私にはないが、多分「仲哀紀」の記事だったのではないだろうか。はからずも牧氏と同じ比定地を選ぶことになった。

(「九州王朝の形成」を取り上げたのはずいぶん以前のことだ。日付を確認したら2005年8月だった。古田理論を知ったばかりの頃だった。古田古代史に興味を持ち始めてからもう7年になるのか、と感慨深い。その当時、「九州王朝の形成」に関係する『日本書紀』の記事で疑問に思うことがあったのを思い出した。それについて何か進展があるだろうかと、「新古代学の扉」を検索していたら、私の疑問を見事に解いている記事に出会った。山田宗睦氏の講演録「古田史学の意義と日本書紀の研究」の中の「九州平定の解明」です。まだお読みでない方、お薦めします。)
《続・「真説古代史」拾遺篇》(89)



「倭人伝」中の倭語の読み方(32)
「21国」の比定:(12)郡支国(その一)


 この国の漢字表記を「郡支」ではなく「都支」を用いる論者がいる。いま私が資料にしている四者では水野・古田の二氏が「郡支」を採用し、長田・楠原の二氏が「都支」を採用している。どうして二通りの表記が流布しているのか。このことの経緯を古田さんが詳しく記述している。その概略を紹介する。

 三国志の最古の版本は「紹熙本(南宋)」と呼ばれている。これは日本の皇室図書寮にあったものである。これを中国の学者・張元清が写真撮影をして持ち帰った。氏はこれを最良の版本として自らが編集した「廿四史百納(ひゃくのう)本」の中に、収録した。古田氏は「紹熙本」を三国志研究の基本史料としてきた。

 『倭人伝を徹底して読む』(大阪書籍、1987年11月刊)の先頭に収録したのはその写真版であった。そのあと、同書が朝日文庫(1911年7月刊)として再刊されが、その写真版が〝同じく″掲載されていた。再刊なので古田氏は直接タッチしていない。古田氏は当然編纂者が〝同じく″掲載したと思っていた。

 ところが、読者の指摘により、「大阪書籍版」の写真版と「朝日文庫版」の写真版はともにおなじ「紹熙本」のはずなのに違いがあることが判明した。「大阪書籍版」では「郡支国」となっているところが、「朝日文庫版」では「都支国」なのだった。ミステリーですね。

 このミステリーを解いたのはミネルヴァ書房社長の杉田啓三氏だった。杉田氏が発見した内容については、ミネルヴァ書房版『倭人伝を徹底して読む』所収の「日本の生きた歴史(六) 第三 最小・最高のミステリー」が詳細で分りやすいのでそこから引用しよう。

 社の応接室で、わたしの話を聞き、両方を見比べているうちに、

「これは作り直していますよ。」

との声。
「『大阪書籍版』で欠けている、些少の個所が、『朝日文庫版』の方では、補われていますよ。ここも、そうですよ。単に同じ『写真版』の〝写し″ではないですよ。新たに版を〝作った″んですよ。」
と。さすが「プロの目」。即座に〝見破られ″たのでした。

 わたし自身、「目のウロコ」がとれた思いだったのです。

 つまり、張元清が日本から持ち帰った写真を〝もと″にして、新たに「版」を作った。その中国側による「新版」だったわけです。

 その作業の中で、「『郡』を『都』と〝まちがえた″」
 これが真実だったのです。

 岩波文庫版の『魏志倭人伝』にも「百納本」が掲載されている。ミネルヴァ書房版『倭人伝を徹底して読む』に掲載されている本来の「紹熙本」と見比べてみた。「紹熙本」では擦れている文字が「百納本」では鮮明になっている個所を何カ所か確認できた。しかし、「紹熙本」の「郡支」ははっきり読みとれる文字である。これを「都支」としたのは明らかに書き換えたとしか考えられない。どのような意図があったのかは、もちろん私には想像もできない。

 ちなみに、「倭人伝 原文」でネット検索した。初めの一ページにあった六つのサイトを調べたが、「郡支」は一件しかなかった。あとは全部「都支」を採用している。筑摩書房の世界古典文学全集『三国志』は「中華書局刊行の標点本」を底本にしている。「都支」だった。「中華書局刊行版」は「百納本」を用いているのだろう。「中華書局刊行版」を信用して、これを底本にしている人も多いようだ。しかし、私のような一般人が最も手に入れやすいのは岩波文庫版である。想像するに、この「誤記」流布の元凶は岩波文庫版だろう。文庫版の読下し文は「都(郡)支国」と二通りの表記があることを示唆しているが、何の注記も記していない。また、百納本は「対海国」「一大国」なのに、岩波文庫版は前者を読下し文で「対馬国」に改訂して何の注記もない。後者については読下し文で「一大国」をそのまま採用しているが注記で「一支国の誤」と解説している。罪作りな本だ。

 さて、「郡支国」も倭語を音写したケースである。漢字の意味を詮索しても意味はない。水野氏の漢字の意味詮索の部分は省略する。

水野氏は「已百支国」の訓みについては「支」の訓みとして「シ」しか挙げていないのに
『一般に、「イハキ」「イホキ」と訓まれていて」
と、述べていた。しかし、これは諸説の紹介であって、ご本人は「キ」ではなく「シ」と読みたかったようだ。「郡支」については
『「郡」は音「グン」、……「支」は前の通り「シ」。これも音訳と思われる。』
と述べている。つまり「グンシ」と訓んでいる。しかし、所在地の比定は行っていない。

 それでは他の大家たちはどう比定しているだろうか。

大家たちの諸説

「邪馬台国」九州説者
新井白石
 「クシ」と訓み、豊後国球珠郡に比定。
牧建二
 「クキ」と訓み筑前国遠賀郡洞(くき)に比定。
宮崎康平
「クォキ」と訓んで、川に沿っていくつもの台地が突出し、川と丘の国で、有明海が深く入りこんで、杵島(きしま)山が島であった頃の水陸の便のよかった所に立地していた、肥前国小城郡(おきのこおり、現在の佐賀県小城郡および多久市附近の地と比定。

「邪馬台国」大和説者
米倉二郎
 『国造本紀』にみえる「波久藝國」だとして、周防国玖珂郡の沿岸地方かとする。

 米倉説の挙げている「波久藝」は「ハクギ」と訓まれている。つまり、米倉氏は「郡支」を「クギ」と訓んでいるようだ。

楠原説
 楠原氏はいきなり「タキという地名だが……」と始めている。「タキ」と訓む理由は何も述べていない。ただ、後の方で
『「倭人伝」の「都支」に比定すべき候補地は二つある』
と書いているので、百納本あるいは中華書局刊行版に依拠していることが分る。そして、ためらうことなく「洛陽古音」とやらの「タキ」を採用しているのだ。この場合も前提から間違っているのだから、これ以上読む必要はない。しかし、参考に比定地を紹介しておこう。
「長崎県南高来(たかき)郡北有馬(ありま)町付近」
である。

古田説
 訓みについては、まず「令支命題」により「支」は「キ」である。「已百支」でも「キ」と訓んでいる。従って、古田説では当然次のようになる。
『「郡」は「クン」もしくは「グン」だから、「クキ国」あるいは「グキ国」』

 「倭語音韻の基本法則(1) 和語には本来濁音から始まる語はない」を適用しよう。すると、水原氏の「グンシ」もそれに該当するが、「グキ」という訓みもあり得ない。従って、「郡支」の最も妥当な訓みは「クキ」である。古田氏は「クキ」または「グキ」を挙げていて、「クキ」を採用すると明言していない。しかし、以下の論考を「クキ」で進めている。次のようである。

 肥前国(佐賀県)の三根郡に「千栗(知利久)」がある。「チリク」だ。漢字から見ると、「チクリ」と〝訓み″そうだが、逆だ。「チリク」なのである。この神社に訪れたことがある。基山の西方である。

 現在の佐賀県三養基郡みやき町白壁千栗だろう。地図で千栗八幡宮を確認した。しかし基山の西方ではなく、基山の南方だった。

 『日本古代地名事典』は「千栗(チリク)」の語源を
『「ちりくり」の意で、栗園があったことに由来する』
と解説している。私にはこのような説はこじつけとしか思えない。地名語源説の多くは、「……か。」とか「……だろう。」といった推量の域を出ない解説で成り立っている。だいたい「千栗」を「チリク」と訓むなど、不可解だ。これも推量でしかないが、もともと「チリク」という地名であった。「千栗」は例の好字令「畿内と七道諸国の郡郷の名を、好(よ)い字を選んで着けよ。」(713年 和銅6年)に従って考え出された苦心の末の漢字表記ではないだろうか。

 それにしても古田氏は何故「千栗」を取り上げたのか。実に唐突である。次を読んでみよう。

 「チリ」という「接頭辞」は、不思議ではない。「チ」は例の「太陽神」の「チ」。「チクシ」の「チ」である。「リ」は「吉野ヶ里」などの「リ」。一点をしめす言葉である。

 問題は「ク」である。「チクシ」のように、語頭、もしくは語中にはしばしば現れるけれど、語末には珍しい。

 大和(奈良県)には「イトクの森」があり、漢風諡号では「神武・綏靖・安寧・懿徳」がある。一方、土佐(高知県)の縄文遺跡に「イトク遺跡」が注目される。「縄文時代の戦闘の痕跡」か、と報ぜられたケ一スである。このような「語末」に来る「ク」が本来の語法を反映している可能性が高い。

 ともあれ、この「チリク」もまた、語末に「ク」の来る、珍しいケースの一つである。

 「郡支国」を「クキ国」とすると、「キ」は例の「柵・要害」をしめす〝接尾辞″だから、「郡支国」がこの地を指す可能性は高い。この地は、背振山脈方面の高地へ〝登りゆく″入口に当たっている、重要地点である。

 この古田説。私にはよく理解出来ない。(長くなりそうなので、続きは次回へ。)
《続・「真説古代史」拾遺篇》(88)



「倭人伝」中の倭語の読み方(31)
「21国」の比定:(11)伊邪国


 「伊都国」を「イトコク」と訓み、「邪馬壹(台)国」を「ヤマイチ(タイ)コク」と訓んだのなら、「伊邪国」は「イヤコク」と訓むほかないと考えるのがまともな思考だと思うが、「井の中」ではこういう思考方法は成り立たないようだ。

 水野氏は例によって漢字の意味を書き並べて論じているが、この場合も倭語を音写したケースであり、漢字の意味をあれこれ論じるのは意味がない。氏の記述中、訓みの部分だけを紹介しておく。

 「伊」は音「イ」、「邪」は「邪馬壹」の「邪」と同じで、音「ジャ」「ヤ」「ヨ」である。(中略)国名としては「イヤ」「イサ」と訓まれているが、「イヨ」とも訓める。

 「邪」には「サ」などという音はないのに「イサ」と訓んでいる学者がいる。また、「邪馬台国」では「邪」を「ヤ」と訓んでいながらここでは「サ」と訓むというのも不当だ。それぞれの訓みについて、比定地は次のようになっている。

大家たちの諸説

「邪馬台国」九州説者
牧建二
 「イサ」と訓み、豊前国宇佐郡に比定
宮崎康平
 「イヤ」と訓み「ヤ」は入江であるから、岩石の入江の義。肥前国松浦郡の一部で、とくに現在の伊万里湾沿岸の地とし、佐賀県伊万里市を中心とする地に比定。

「邪馬台国」大和説者
米倉二郎・志田不動麿
 「イヨ」と訓み、伊予国に比定。

 正しい訓みを採用しているのは宮崎氏だけだ。伊万里湾が「岩石の入江」にふさわしい地なのかどうか、私には分らないが、それ以前に「イ」が岩石で「ヤ」が入江だという地名解釈が成り立つのだろうか。その解釈はどのような根拠によるのか、図書館に『まぼろしの邪馬台国』があるようなので、次の機会に調べてみよう。

楠原説
 楠原氏はここでもいろいろと紆余曲折した理路を披瀝している。

 第Ⅳ章の「伊都」の項で、長田夏樹「洛陽古音」で「伊」はウに通じ、「伊都」はウト(空洞)の意と述べた。それによれば、この「伊邪」はウヤと読まなければならなくなる。

 ところが、現在われわれが知る日本語(古語も含め)では、ウヤという語は有耶無邪(うやむや)のウヤぐらいしか思い出せない。その有耶無邪について国語辞典類は「有や無や」と説くが、もう一つすっきりしない。

 『「洛陽古音」って何?』で確認したように、「洛陽古音」は根拠薄弱で使用に耐える代物ではない。「ウト」などという訓みは初めから成り立たないのだ。ちなみに、長田氏の「洛陽古音」によると「都」は「タ」と訓むそうだ。「伊都」を「ウタ」または「イタ」と訓んでいる。また、「奴」は全て「ノ」である。これだけでも「洛陽古音」とやらは「眉唾もの」と考えることができよう。

 「ウタ」をあきらめた楠原氏は次のように続けている。

 そこで、「伊邪」の「伊」をイと読んでみると、どうか。「邪」のほうは第Ⅱ章の「邪馬台国」の項で、ヤマ(山)の語源は「(高度が)いや増す」地形ではないかと述べた。この副詞イヤ(弥)は同じ副詞のイヨイヨと同語源である。

 だから「邪」はヨとも読め、実際に「洛陽古音」では「伊邪」をウヤのほかイヨとも読ませている。

 「伊邪」がイヨと読めるのなら、手がかりが出てきた。沖永良部方言でイヨウは「ほらあな」をいうとあり、新潟県中蒲原(なかかんばら)郡の山中では「岩窟」をイユと呼ぶという。「伊邪」とはすなわち「岩窟・岩穴」のことではないか。

 このくだりの『「邪」はヨとも読め』るという結論に至る論理は何ともひどい牽強付会としか言いようがない。しかも、この詭弁は「ヨ」から「岩窟・岩穴」を導くための手段だったようだ。氏は「イヨ」ではなく「イヤ」という訓みを採用している。つまり、氏は「岩窟・岩穴」のある「イヤ」地名を探し始めることになる。

 イヤに近い音の地名を探してみると、長崎県北松浦半島を西流する佐々川の中流に北松浦郡世知原(せちはら)町岩谷口免(いわやぐちめん)という大字(おおあざ)があり、先土器時代から古墳時代までの複合遺跡である岩谷口遺跡が存在するという。

 「いわや」が「イヤ」に近い音だという訳だ。イヤハヤだ。これは私には受け入れられない方法だ。ちなみに、地図で確認したら、世知原町(楠原氏は「せちはら」と訓んでいるが、正しくは「せちばる」)は北松浦郡の外にあった。行政区画はよく変わる。実に厄介である。世知原町は2005年に佐世保市に編入されていた。

 氏はこの後、例によって、岩谷口免遺跡と土蜘蛛に蘊蓄を傾けているが、省略する。

古田説
 もちろん、古田氏は「類音探し」という方法は採らない。次のように論じている。

 ながらく〝解けず″にいたのは「伊邪(イヤ)国」である。それが解けた。四国の徳島県の「祖谷(イヤ)」である。

 今までは、平野部の地名に〝目が縛られ″ていた。それが、「邪馬(ヤマ)」や「為吾(イゴ)」(生駒)の例から、「山地の名」へと、わたしの目は、向かってきたのである。


 古田氏は「21国」を「倭人伝」の記載順に取り上げていない。私は倭人伝」の記載順に取り上げているの少し齟齬が起こる。ここではいきなり「為吾」が出てきた形になってしまった。「為吾国」については後に詳しく取り上げる。

 古田氏は次のように続けている。

 考えてみれば、当然だった。

 三世紀は「弥生の時代」だ。稲作がしめすように、平野部や泥湿地帯に「人口」が集中しはじめていた。しかし、それ以前、「縄文時代」さらに「旧石器時代」には、逆だった。「山」こそ人間にとって〝依るべき場所″だったのである。

 第一に、収穫。山々には果樹が実り、人間に対して「食」を与えてくれる「生産と収穫の場」だったのである。

 第二に、安全。野獣、他の部族からの襲撃を。〝いち早く″発見し、「対抗」するための、絶好の場所だったのである。「石を投げる」際にも、「上から下へ」と「下から上へ」と、いずれが有利か、言うまでもない。津波等の襲来に対しても、「山」の方がより安全なのである。「山」こそ、縄文以前の、人間の〝拠点″だった。その〝拠点″には、当然「地名」がつけられた。

 三世紀という時代、その「弥生時代」に新たにつけられた地名より、はるかに「長い歴史をもつ地名」、それは「山の地名」だったのである。地名の、質・量ともに「中心」は、他ではない『山の地名』だったのである。

 わたしの両親は土佐(高知県)の出身である。父親は高知市、母親は安芸市である。室戸岬に近い。祖母(父親の母)が幼いわたしにいつも土佐の思い出を語ってくれた。その中で石鎚(いしづち)山と剣山が畏敬の対象だった。その剣山のそばに「祖谷(いや)」がある(郵便番号帳にもある)。この「祖谷」ではないか。そう考えたのだった。吉野川の上流である。

 これまでのわたしは、平野部に「目」をつけてきた。このような高山の周辺など、まるで「目」もくれなかった。しかし、前述のように、「旧石器時代」や「縄文時代」は「山」を中心とする時代であり、その「山」の周辺にはすでに「地名」があった。

 三世紀の倭人伝の中の「地名」は、「山」を中心とする「地名」だったのである。質・量ともに、そうだったのである。

 わたしは、孫のわたしに対して飽きずに語ってくれた祖母に対して、厚い感謝の念をささげたい。

 「祖谷」以外に「イヤ」と訓む地名はないだろうかと、吉田茂樹『日本地名大事典』を調べてみた。二件あった。「祖谷」を「祖谷山」という表題で取り上げていた。

 いややま[祖谷山]
 徳島県東祖谷山・西祖谷山両村の地名。「イヨヨカ(森)」の「イヨ」の変化と考えており、山谷の地で樹木が高くそびえていた所とみたい。

 もう一件は次のようである。

 いや[揖屋]
 島根県東出雲町の地名。奈良期(出雲風土記)に「揖夜(いふや)」、で見え、鎌倉初期(建久十年)に「揖屋庄」とある。「イフヤ(い吹屋)」で、金属加工の仕事場によるのであろうか。

 東出雲町は今は松江市に編入されている。揖屋は中海(なかうみ)の西南岸にある。(山陰本線・揖屋駅は松江駅と安来駅のちょうど中間辺りになる。

 『出雲風土記』で「揖夜」を探したが本文中にはなかった。意宇(おう)郡の神社名の中に「伊布夜社」とあった。これを「揖屋」に比定しているということだった。

 確かに漢和辞典では「揖」の音は「①ユウ(イフ)②シュウ(シフ)」である。「揖」は古代では「イフ」と発音されていたようだ。「揖」という漢字を用いている地名といえば手延べ素麺「揖保の糸」。「揖」を先頭に使っている地名を拾い出してみた。(『日本古代地名辞典』と『日本地名ルーツ辞典』を用いた。)
揖斐(イビ 美濃国大野郡)
揖可(イフカ 美濃国武芸郡)
揖理(イフリ 紀伊国伊都郡)
揖宿(イブスキ 薩摩国揖宿郡)
揖保(イボ 播磨国揖保郡)

 古代では揖斐・揖保も「イフビ」「イフボ」と発音されていた可能性大である。地名由来の信憑性は「当るも八卦…」の類ではないかと思っているが、「揖屋」の地名由来「金属加工の仕事場」にちょっと惹かれるところがあった。所在地(出雲国)といい地名由来いい、一時は「揖屋」が「伊邪国」ではないかと思った。しかし、本来の訓みが「イフヤ」だったのなら、「揖屋」を比定地にはできないだろう。

 ということで、「伊邪国」の比定地は古田説を採択する。
《続・「真説古代史」拾遺篇》(87)



「倭人伝」中の倭語の読み方(30)
「21国」の比定:(10)已百支国


 この国は訓みも比定も難しい。訓みについてはまず「已」の字が問題になる。紹熙本(しょうきほん)の写真版を見ると明らかに「巳」である。水野氏は表題では「巳」を用いているが、本文では何の断りもなしに「已」としている。もう一つ同じような字体の文字「己」がある。それぞれの音は
「巳」…シ・ジ
「已」…イ
「己」…コ(漢音)・キ(呉音)
である。

 水野氏はこの国名の訓みを次のように分析している。

 「已」は音「イ」で、「すでに」「間もなく」「甚だ」「もちて」「おわる」「なる」「さる」「しりぞく」「すつ」「癒ゆ」「ああ(発端の歎辞)」「のみ(耳)」などの義をもつ。「百」は音、「ハク」「ヒャク」「バク」で、「多し」「はげむ」の義がある。「支」は音が「シ」で、「ささえる」「もつ」「わかれ」「えだ(庶)腹の子」「分家」「払う」などの義があるが、この三字で表現された国名は、日本語の音を写したものである。

 一般に、「イハキ」「イホキ」と訓まれていて……

「百」の訓みに「バク」を入れているが、これは「連濁」の場合の訓みで、漢字本来の音にはない(素人判断で間違っているかも知れないが、一応おかしいと思ったことは言っておくことにする)。また、水原氏の言説は時折飛躍する。「支」の音として「シ」しか挙げていないのに、一般に「キ」と訓まれていることに対して何の説明もない。

 私(たち)は「支」が「キ」とも訓めることを「令支命題」で確認している。

 ともあれ、この「国名は、日本語の音を写したもの」という認識は私(たち)と共通した認識である。

 この国の訓みに対する楠原氏の意見は次のようである。

 この国名の頭字は百納(ひゃくのう)本ほかは「巳」であるが、中華書局本は「已」となっている。「巳」の字なら元の倭語はシに相当し、「巳百支」はシバ(ク)キになるが、後世それに当たる地名が見当たらない。

 逆に「已」であれば、「已百支」はイハ(ク)キで、おそらくイワキ(岩城.磐城・岩木)という、比較的ありふれた地名になる。

 またまた素人判断の疑問。楠原氏は「イキ」→「イキ」と「ハ」を「ワ」に変えているが、このような変換は正当なのだろうか。

 当たり前のことを改めて言うと、言葉が先にあり、後にそれを文字で書き表すようになった。助詞の「ハ」はもともと「ワ」ではない。例を出すまでもないと思うが、例えば万葉集の第一歌・第二歌に次の詩句がある。
「山跡乃國者押奈戸手(大和の国はおしなべて)」
「國原波 煙立龍(国原は煙立ち立つ)」
 助詞として「者」「波」が用いられている。これらは「ハ」(またはそれに近い音)と発音されていたはずだ。「ワ」と発音されていたのなら、例えば「和」や「輪」を用いただろう。「ハ」を「ワ」と発音するようになったのはもっと後世のことだと思う。3世紀の頃の「ハ」を「ワ」に入れ替えるのは不当だ。

 「ハ」はいつ頃から「ワ」と発音されるようになったのだろうか。ネット検索して見た。『なぜ助詞の「は」は"wa"、「へ」は"e"と発音するのか』という質問に対していくつかの回答が寄せられているが、その中に次のような回答があった。回答者がどのような方なのか不明だが、私はかなり信憑性のある内容だと思う。

 ハ行音は、ひらがなが成立した平安初期には、文節の頭でも、文節中でも
  ファ、フィ、フ、フェ、フォ
と発音されていました。

 後に、文節中のハ行音がワ行音に発音されるという現象が起こります。この現象は「ハ行転呼(てんこ)」と呼ばれ、11世紀頃一般化したといわれています。この段階では、例えば
「腹は(はらは)」は、「ファラワ」
「人へ」(ひとへ)」は「フィトウェ」
「あはれ」は「アワレ」
と発音されていたわけです。

さらに鎌倉時代初期までには、ワ行音が変化して、
  ワ、イ、ウ、イェ、ヲ
になりますが、それにつれて文節中のハ行音は、「ハ行転呼」を起こして、
  ワ、イ、ウ、イェ、ヲ
と発音されるようになります。

元禄時代(江戸時代)頃になると、文節の頭のハ行音は現代と同じく、
  ハ、ヒ、フ、ヘ、ホ
になったようです。

18世紀中頃になると、ワ行音が、
  ワ、イ、ウ、エ、オ
に変化しますから、文節中のハ行音は、やはり「ハ行転呼」を起こして、
  ワ、イ、ウ、エ、オ
と発音されるようになりました。助詞の「は」「へ」を[wa][e]と発音する事にはこんな背景があります。

 さて、「已百支国」の訓みについて、古田氏は次のように説明している。

 次は「已百支(イハキ)国」である。

 わたしたちは漢字を憶えるとき、「巳 (ヘビ、ミ)」と「已(スデ二、イ)」と「己(オノレ、コ)」の三字形を峻別すべきことを教わった。「ミ(巳)は上に、スデニ(已)半ばに、オノレ(己)は下に」という〝呪文〝で暗記した。たとえば「巳(ミ)の刻」「已然形(イゼンケイ)」「自己(ジコ)」などの別だ。

 しかし、三国志の紹熙本・紹興本などを見ると、必ずしもこのような「峻別」はされていない。たとえば「已(スデニ、イ)」と「己(オノレ、コ)」は同型である。あの峻別は、「316」以降の「漢音」の時代のようである。  「百」は「ハ」(管理人注:原文は「八」となっているが誤植だろう)。「支」は例の「キ」だ。「シ」ではない。では、「イハキ」とはどこか。

 三者の意見を集約して「イハキ」という訓みが正解のようだ。ではこの国はどこに比定できるだろうか。

大家たちの諸説

「邪馬台国」九州説者
新井白石…比定できず。
牧建二…比定できず。参考地として肥前国磐田杵(いわたき)
宮崎康平…「イホキ」と訓み、「イ」は、石・磐・磯の「イ」で堅いことを意味し、北九州の筑紫山脈や、背振山は古く「イのミネ」と呼び、この山系をとりまく国名は多くイを冠したものが多いとし、「ホ」は「ホカケブネ」「ホラアナ」「マホラ(円丘)」の「ホ」で、半月形を示す語で、「キ」は、丘や台地の突出した形をいい、それが海に突出したものが「ミサキ(岬)」である。「イホキ」の国とは、岬に抱かれたまるい入江の国という意味だとして、肥前国松浦郡の一部と、彼杵(そのぎ)郡の地で、現在の長崎県佐世保市を中心とする一帯の地域と比定する(『まぼろしの邪馬台国』)。

「邪馬台国」大和説者
米倉二郎…周防国熊毛郡石城神社の所在地。

 牧説と米倉説は「ハ」→「ワ」という不当な音の入れ替えを行っているので「×」。宮崎説は「百」を「ホ」と訓む根拠なしで「×」

楠原説
 次は楠原氏の比定。先の引用文の末尾「おそらくイワキ(岩城.磐城・岩木)という、比較的ありふれた地名になる。」に続けて、次のように論述している。

 ところが、今度は2~3世紀ごろイワキと呼ばれていた可能性がある地名が、九州には見つからない。イハキという地名はどちらかといえば東日本に多く、西日本では瀬戸内海中部の愛媛県越智(おち)郡に属する岩城島か、山口県熊毛(くまげ)郡大和町の石城(いわき)山になるのか、とも考えた。後者は7世紀に築造されたという神籠(こうご)石が発見されている。

 ここで、ハタと気がついた。イハのつく地名は「岩」や「磐」「巌」だけでなく、石見(いわみ)国や山口県石城山の例のように「石」の字を当てることもある。ならば、イハを「石」で表現し、それを後世、イシと読み替えた可能性も大いにありうる。

 そこで調べてみると、佐賀県小城(おざ)郡三日月(みかづき)町に石木ケ里(いわきがり)という地名があり、古墳時代~平安時代の複合遺跡の石木遺跡があるという。ただし、この三日月町石木ケ里地区は、私が邪馬台国に比定する佐賀郡大和町西山田の南西にわずか7.5㎞しか離れていない。

 戸数七万戸と記された邪馬台国が現在の佐賀平野西部を版図としたものと考えれば、その範囲にすっぽりと入ってしまう位置にある。後世、国郡制による郡は異なったとはいえ、いつの時代でもほとんど同じ生活圏に属したはずである。したがって、「已百支」を現・三日月町石木ケ里に比定するのにはやや無理があるだろう。

 そこで、「已百支」に類音の地名として現・唐津市石志(いしし)という地名の存在に気づいた。「已百支」のキがシに転じた可能性は考えられないか。日本語の接尾語シは、ニシ(西)・ヒガシ(東)などのように方向・場所を示す接尾語である。キという語も接尾語としては長さの単位のキ(寸)や虫などの数をいうキ(匹)があり、場所を示す地名語尾に転用されたらしい例もけっこう多い。ちなみに神話に登場する神名には、「伊邪那岐」などキ(ギ)のつく名が多数ある。つまり、地名語尾という点でキとシは相通じ、相互に転換しうる。

 「イハ」→「イワ」→「イシ」という2段階の「音」入れ替えを行っている。勝手な改訂の一種である。また、「キとシは相通じ、相互に転換しうる」という結論に至る論理が私にはまったく理解出来ない。こういうのがいわゆる「地名学」の適用というのなら、「21国」比定に「地名学」は役に立たないだろう。後に納得できる事例が出てくるかも知れないが、どうやら期待しすぎたようだ。

 氏はこのあと「弥生遺跡の一大宝庫」とか「平安期まで山賊伝説も」(「土蜘蛛」に関連させている)とかを取り上げて、この比定の正当性を根拠づけようとしているが、私にとってはもう無意味なので省く。

古田説
 先の引用文の続き。

 わたしには、研究上の重要な「転機」があった。「君が代」の地名分布を追跡していたときだ。糸島市(旧・前原市)に「井原遺跡」がある。有名な「三雲遺跡」のやや南方である。わたしはこれを「イハラ」と発音していた。ところが、鬼塚敬二郎さんが「これはイワラですよ。」と教えて下さった。鬼塚さんはながらくこの周辺で警官をされていた、篤実な方だった。

 「念のために、土地の者に、聞いてみます。」と言い、やがて「やっぱり、そうでした。『イハラ』とは、言うたことがないそうです。」とのこと。

 「イワラ」なら「岩羅」だ。「ラ」は「ウラ」「ムラ」などの接尾語だから、語幹は「岩」。「君が代」の、「岩穂(イワホ)となりて」と〝対応〝することが判明したのである。その貴重な経験があった。  この「イワキ」の「キ」は、「柵、要害」の意だから、「イワキ国」はここ、「井原」の地。わたしはそう考えたのである。

 古田説も「イハ」→「イワ」という音の入れ替えを行っている。その論拠は現在の現地人の「訓み」である。私がネットで仕入れた「ハ行転呼」は「11世紀頃一般化した」というという知見が正しいとすると、「井原=イワラ」という訓みも後世のものであり、これを3世紀の国名に流用するのは不当である。また、井原は地理的には伊都国・奴国・邪馬壹国のどれかの領域内に含まれていたと考えられるような位置にある。三国とは独立した国だとしても「遠絶」とはまったく相容れない。

 あれれ! また全部否定してしまった。当るのも八卦当たらぬも八卦、責任上、自説をこねくり出してみた。

 「イ・ハキ」で「イ」は接頭語。『全訳読解古語辞典』(三省堂)によると「(上代語)名詞について神聖なものである意を表す。」と説明されている。では「イ」を接頭語として添えるのにふさわしい「ハキ」と呼ばれていた地域はあるか。ある。あの明日香皇子が祭神の一人として祭られている麻氐良布神社がある上座(カムツアサクラ)郡の把伎(ハキ)(現在は朝倉市杷木)である。麻氐良布神社の主神は伊弉諾尊である。「イ・ハキ」と呼ばれるのにふさわしい。また、麻氐良布神社は邪馬壹国の中心と考えられる春日市から南東約30㎞辺りにある。「遠絶」の地としてもよいのではないだろうか。(ちょっとくるしいかな。)

(麻氐良布神社については『人麿が「壬申の乱」を詠った?(6)』を参照してください。)
《続・「真説古代史」拾遺篇》(86)



「倭人伝」中の倭語の読み方(29)
「21国」の比定:(9)斯馬国


 この国名の訓みは全員「シマ」で一致している。比定地は次のようである。

大家たちの諸説

「邪馬台国」九州説者
筑前国志摩郡(新井白石・橋本増吉・牧建二)

「邪馬台国」大和説者
志摩国(内藤虎次郎)
周防国木島郡(米倉二郎)

 楠原説と古田説については、気付いたことや批判点が出てきたところで区切りながら、原文を丹念に読んでいくことにする。

楠原説

 この国名は、今でも使われる地名用語のシマ(島)にほかならないだろう。想定される比定地の一つは長崎県北松浦郡小値賀(おぢか)町の小値賀島とその周辺の島々である。

 小値賀島には神社の境内二ヵ所に弥生遺跡があり、壷形土器などが発見されている。興味深いのは、発掘地点は不明だが、この島には戦前に国宝に指定された中国・春秋時代の蜀の作という環頭(かんとう)太刀があったらしい。ところが、敗戦後アメリカ軍に接収され行方不明となっていまだ返還されていないという。

 えっ! 春秋時代に「蜀」なんて国があったの? 私の知識は結構いい加減なところがある。私の方の記憶違いかと、念のため調べてみた。『春秋左氏伝』(筑摩書房版「世界古典文学全集」)の巻末年表で使われている国名は
周・魯・斉・晋・泰・楚・宋・衛・陳・蔡・曹・鄭・燕・呉・越
で、「蜀」などない。


訂正(6月14日)
昨日、「古田史学の会」の西村秀己さんから
『始皇帝の統一前に「蜀」という国が存在したことは間違いない』
というモメントを頂きました。手許の資料で確認しました。その通りでした。魯国の北方にありました。
 私の生半可な知識による間違いで、楠原氏にあらぬ冤罪を押しつけるところでした。申し訳ありません。削除します。


 楠原氏は、魏時代の長里を「26里がほほ現在の1里=約3.9㎞」と書いていたのもその一例だが、このような出所不明の知識を時々披露する。

 どうやら氏は「島」か「島」を地名に含む土地を探しているらしい。その際、考古学的な遺跡・遺物の有無をその根拠にしているようだ。

 また、小島ながら古墳も二基発掘されているほか、畑の中の巨石の下から須恵器など数点が発見されている。

 小値賀島は「斯馬国」の比定候補地として興味深い対象ではあるが、本書はもう一つの候補地の佐賀県杵島(きしま)郡北方町(管理人注:2006年に武雄市・山内町・北方町が合併して現在は「武雄市」)のほうをとる。位置的に見て小値賀島は「投馬国」の領域内と思われるからである。

 『「投馬国」の領域内』というような間違った比定地(投馬国)を論拠にする議論は無視する。それとは関係なしに、小値賀島を「国」の候補地とすることは初めから無理なのだ。小値賀島は壱岐島の約五分の一ほどの大きさの島。この事実だけで、この小島を「国」とするわけにはいかないだろう。では、佐賀県杵島郡北方町が選ばれた理由は何だろうか。

 『肥前国風土記』杵島郡の項には以下のような物語が記される。

 昔、纏向(まきむく)の日代(ひしろ)宮に天下をお治めなった天皇(景行天皇)が巡幸されたとき、この郡の盤田杵の村に停泊した。そのとき船牂[哥戈](かし)の穴から冷水が自然に湧き出た。またはこうもいう。船が泊まった処はひとりでに一つの島となった。天皇はご覧になって群臣たちに仰せられるには、「この郡は牂[哥戈]島(かししま)の郡と呼ぶがよい」と。いま杵島の郡と呼ぶのは訛(なま)ったのである。……


 この郡名起源伝承に続いて嬢子(おみな)山の項があり、ここには土蜘蛛八十女(やそめ)がいて天皇に反抗したので滅ぼされた、と記す。嬢子山は現在の杵島郡江北町と多久市の境界にある両子(ふたご)山の南峰の女山に比定されている。

 一体何を言いたいのか。楠原氏は記紀や風土記に登場する土蜘蛛は大和王権によって滅ぼされた「女王国首長たちの伝承」と考えているのだ。そのようなわけで氏は、考古学的遺跡・出土物のほかに、「土蜘蛛伝承」を「21国」比定の重要な根拠としてしている。いま私には土蜘蛛について詳論する用意がないが(面白い問題なので、そのうち取り上げようかと思っている)、少なくとも「景行紀」「神功紀」の九州征討記事は九州王朝草創期の「前つ君」や「橿日宮の女王」による征討記事の盗用であり、大和王権とは関わりはない(詳しくは「九州王朝の形成」を参照してください)。


 杵島という郡名の起源は女山の南西約12㎞、六角(ろっかく)川南岸に南北約9㎞にわたって連なる杵島山塊であろう。角川『日本地名大辞典41佐賀県』によれば、この山塊は今から5000~6000年前の縄文中期には海中の島だったと推定される、という。

 杵島郡北方町の椛鳥山(かばしまやま)遺跡は弥生中期から後期にかけての埋葬遺跡群で、箱式棺や甕棺・壷棺が集中しており、前漢(ぜんかん)~後漢(ごかん)代の鏡面や素環頭刀子ほかの副葬品が多数発見されている。

 また、杵島山塊の山麓一帯は弥生期から古墳時代にかけての遺跡の一大密集地帯で、鉄製武具や装身具などの遺物が発掘されている。

 遺跡ではないが、杵島地方は「肥前国風土記逸文」ほかに記された春秋の歌垣行事も注目される。その「杵島曲(きじまぶり)」の名は遠く『常陸国風土記』にも載っている。

 氏の説だと、3世紀頃の倭人は「杵島(キシマ)」を「シマ」と呼んでいたということになるが、これは何ら根拠のない推量に過ぎない。どのように遺跡や出土物を並べてみてもそれは論拠にならない。

 もう一つ、楠原氏は「旁国」に注目していたが、私は「遠絶」に注目したい。

其の余の旁国は遠絶にして、得て詳かにすべからず。

 これは素直に読めば「遠く離れている」という意にしかならない。斯馬国はほとんど「邪馬台国」の隣国である。しかし、「邪馬壹国」からなら「遠絶」と言ってもよいだろう。「邪馬壹国」から「遠絶」の地という点だけが問題なら、杵島を候補地にすることができる。

 前回提示した地図でも分かる通り、楠原氏はこの「遠絶」を全く考慮していない。氏の「邪馬台国」から見て、はっきりと「遠絶」と言える「国」は伊邪国・郡支国・弥奴国・烏奴国・奴国ぐらいだ。

 もっとも、「遠」には「うとい・親密でない」という意もあるから、「(実際に見聞していないので)うとい」という解釈もできるかも知れない。その解釈ならどこに比定しても候補地になる。私は「遠く離れている」という意にとって考えていくことにする。

(訂正 7月28日 )  その後「(実際に見聞していないので)うとい」という解釈の方を採ることにしました。

 次ぎに古田説を読んでみよう。

古田説

 次いで、「二十一国」の順を追ってのべてみよう。まず「斯馬(シマ)国」。日本列島は島国であり、列島であるから、各地に「~島」の部類の地名は数多い。

 しかし、福岡県の志摩郡の「志摩(シマ)」の場合、「一大率、常駐」(後述)の「伊都(イト)国」の隣である上、全くの「同音」であるから、もっとも可能性が高い。そう言って過言ではないであろう。

 逆に、「伊都国」の三方(西南の「末廬(マツロ)国」、東南の「奴(ヌ)国」、東の「不弥(フミ)国」)を記しながら、北の「志摩国」のみ欠如しているとすれば、かえって不自然であろう。

 もう一つ、この「斯馬国」の事例から見ても、「一つの、まとまった島」の意義ではないことが注意される。だから「対海国」の場合も、「対馬の全島、丸ごと」を指す、という〝必然性″は、必ずしもないこととなろう。

 私は、「遠絶」という点から、この古田説にも賛成できない。

 伊都国の東南百里に戸数2万の大国・奴国がある。伊都国の領域は北の方に広がっていたと考えられる。つまり糸島半島の志摩は伊都国の一部だったのではないだろうか。「倭人伝」は「女王国より以北、其の戸数・道里、得て略載す可し」とも言っている。

 もしも上の推定が正しいとすると、斯馬国は三重県の志摩しか考えられない。志摩のおとなりの伊勢はヤマト王権(邪馬国)とは関係浅からぬ地。志摩は邪馬国と同調して「親魏倭国」の一つであったのではないだろうか。もしかすると3世紀頃には、伊勢をも含めて、そのあたりを「志摩」と呼んでいたのかもしれない。すべて単なる推量なので、この辺でやめておこう。

(訂正 7月28日)
 古田説を採用します。その理由については「不呼国(その二)」をご覧下さい。
《続・「真説古代史」拾遺篇》(85)



「倭人伝」中の倭語の読み方(28)
楠原氏の「女王国の版図」(2)


 私の知る範囲では誰もキチンと検討していない難しい問題がある。各国の領土範囲である。例えば、対海国は対馬全体(あるいは下島のみかもしれない)、一大国は壱岐島全体と分りやすい。しかし、東松浦半島全体が末廬国であり糸島半島全体が伊都国だ、とは論証なしに言い切るわけにはいかないだろう。「21国」にいたっては全く漠然とした比定にしかならない。こうした領土範囲問題は資料がないのではっきりと画定は出来ないと言うほかないが、とりあえず末廬国は東松浦半島全部として話を進めてみる。

 楠原氏は魏使の航海は最短距離を選ぶはずだという前提で、末廬国への上陸地点は東松浦半島北端の呼子(よぶこ)港を選び、一大国―末廬国間の「倭人伝」の記録「千余里」について、『「余」という剰余表記に含みがあるとしても、あまりにも違いすぎる。』と「倭人伝」の里程記事を否定した。氏は例の「南は東の間違い」というような「井の中」で行われてきた原文改定を「勝手な説」と正当に批判している。しかし、氏の「最短距離」説も「勝手な説」だ。「倭人伝」の記載通りに考えて、末廬国への上陸地点は唐津港とすれば、何の問題もない。

 氏が呼子にこだわる理由はそこが(1)を導き出すための拠点だからだ。その議論を追ってみる。まず、呼子港が上陸地として妥当だということの傍証のつもりだろうか、次のように論じている。

 呼子港は幅200~100mの深い入江が南に向かって約1㎞湾入する天然の良港で、湾口の約1㎞沖には加部(かべ)島が北西季節風を遮るように横たわる。現在は避難港・第三種漁港にすぎないが、歴史的には九州北岸屈指の要港であった。

 「歴史的には九州北岸屈指の要港であった。」と断定しているが、この断定にはどんな根拠があるのだろうか。なんの根拠も示していない。これでは自説を正当化するための独断にすぎないと批判されても仕方あるまい。仮に「九州北岸屈指の要港であった」として、次を読んでみよう。

 「倭人伝」が記す未廬国はこの呼子港にほかならず、ここから伊都国に至るには「倭人伝」が記すように「東南陸行」しか道はない。原田大六『邪馬台国論争』などは、呼子港を起点としても伊都国(現・前原市の三雲遺跡付近)はほぼ真東に当たるから「東南」という表現は間違いで、方角を45度誤記したとする論拠の一つにあげる。

 これまた、一知半解の臆説である。魏からの使者は測量が目的ではなかった。伊都国で烽火(のろし)でも上げれば真東の方向だとわかったろうが、そんな任務はまったく帯びていない。彼らは伊都国に向かって東南方向に陸路をたどったから、事実をありのままに記しただけである。

 出発点からとりあえず東南に進んだ方向をずっと維持したわけではないが、その、東松浦半島を東南に陸行して現在の唐津市の市街地に入り、現・松浦川河口からややさかのぼった地点で東岸に渡り、そして現在の浜玉町浜崎付近から唐津湾岸沿いに北東行して伊都国に至る、というルートである。

 楠原氏の「東南陸行」解釈(赤字部分)に瑕疵はない。これは「投馬国(5):古田説の検討(3)」で取り上げた「道しるべ」読法そのものである。しかし、呼子から伊都国までの距離は「倭人伝」の「末廬国→伊都国」の里程距離「五百里」の倍ほどもある。また、「魏からの使者は測量が目的ではなかった」ことは確かだ。しかし、だからといって里程距離記事を「単なる目安程度」とする説も「一知半解の臆説」ではないか。「倭人伝」は魏使の報告書をもとに書かれている。その報告書は風俗・産業を記した単なる地誌ではない。帯方郡から派遣され、20年間も倭国に滞在した張政は文官ではなく塞曹掾史(軍司令官)である。魏使の報告書は一旦緩急あるときに備えた軍事報告書でもあった。里程距離がいい加減であるがずがない。

 さて、(1)である。「投馬国(つまこく)(2)」で水野氏や菊地氏の噴飯物の投馬国比定を取り上げたが、「井の中」の投馬国比定は噴飯度の競い合いの観がある。楠原氏もこの状況を「滑稽きわまる〝まぼろしの南行ルート″」と酷評している。氏は「滑稽きわまる」説が出てくる淵源として榎教授の「放射説」を槍玉に挙げている(榎説については『「邪馬台国」論争は終わっている。(3)』をご覧下さい)。そして、私の知らなかった「滑稽きわまる」説を二つ取り上げている。紹介しよう(楠原氏はそれら説が滑稽であることを丁寧に論じているが、私(たち)にとってはその滑稽ぶりは格別詳述しなくとも明らかなので省く)。

 つまり、伊都を起点とする「放射説」では「南至投馬国、水行二十日」とあるのに、伊都国を旧・筑前国怡士(いと)郡ほか九州北岸のどこに比定しても、南行する水路がないのである。いや、伊都を現在の北九州市門司区の関門海峡東口の部崎(へさき)あたりに比定すれば南行水路はあるが、今度は直前の記述にある「奴国」や「不弥国」の収拾がつかなくなる。

 宮崎康平『まぼろしの邪馬台国』は、次のような大胆きわまりない仮説を創出して切り抜けようとした。

 すなわち、博多湾岸の低地や筑後平野の大部分には当時は海面が進入していた、という仮定をまず立てるのである。そして現在の太宰府市~筑紫野市付近に北の博多湾と南の筑後平野を結ぶ深い水路があった、と想定するのである。

 宮崎説によれば、この水路はその後に起きた地震などの天変地異によって土砂崩壊が起きて埋められたとか、ある部分では後世の為政者がかつて存在した海峡の痕跡を隠すために膨大な労力を使って埋め立て工事を行ったのだ、とも主張する。

(中略)

 一方、歴史学者ではないが言語学の泰斗(たいと)である服部四郎氏も、『邪馬台国はどこか』(平成二年、朝日出版社)で珍にして妙なる説を発表している。

 すなわち、博多湾に注ぐ御笠川を南東にさかのぼって筑紫野市の二日市付近に達し、さらに田んぼの中の幅30cmほどの用水路をたどっていくと、有明海に注ぐ筑後川支流の宝満川の分流部分に数百メートルの距離で近づくことができる。この間にある細流は、1700年前の邪馬台国の時代にはもっと堂々とした人工の水路で、南北を結ぶ水運が可能だったのだ、と主張するのである。  どうやら、服部説では、パナマ運河を小規模にした閘門(こうもん)式運河を想定しているらしい。

(中略)

 ここまで来れば、まともな分別を持っている人間なら当然、そもそも榎教授の「放射説」が間違いではないか、と気づくはずである。伊都国を起点として放射状に分岐するという説は、南へとたどる水行が地理的にありえない以上、絶対に成立しえない説だ、と断言できる。

 私ならば、「ここまで来れば、まともな分別を持っている人間なら当然」、「南へとたどる水行」という「倭人伝」記事の誤読に「気づくはずである」と言いたい。正しい読解は「投馬国(5):古田説の検討(3)」で取り上げているが、その部分だけを転載しておこう。

不弥国への行路記事も「道しるべ」読法で読まれるべきである。つまり、
「東行不弥国に至ること、百里」
の「東」も「始発方向」を示している。「東方向に出発して百里」である。

 これに対して次の傍線行路
「東南、奴国に至ること、百里。」
「南、投馬国に至ること、水行二十日。」

の場合「東南陸行」や「東行」とは異なる記述である。「行」の字がない。「行」の字がない場合の方向は、「始発方向」を示しているのではなく、「直線方向」を示していることになる。


 このことに気付かない楠原氏の説も「滑稽きわまる」説にしか成らない。つぎのようである。

 一方、「南至投馬国、水行二十日」のルートは、上陸点の末盧国(呼子港)から東松浦半島西岸沿いに南下、伊万里湾口をよぎって平戸海峡を経由、さらに南に向かったものと見る。

 厳密にいえば、呼子港から東松浦半島北西端の波戸岬へは約四mばかり西北西に進むが、このあたりまでは末盧国のうちという認識でよいだろう。波戸岬から平戸海峡までは全体としては南西方向だが、まずは南、そして西という進路になる。平戸海峡以南は第Ⅳ章の「投馬国」の項で詳述するが、「南行」の表現が著しく不当とはいえないだろう。

 とにもかくにも、「倭人伝」の里程・方位を大きな瑕疵なく説明できるルートは、これしかありえないのである。そして、このルートをたどれば必然的に、投馬国と邪馬台国は九州西海岸のどこか、になる。

 氏の自信にもかかわらず、残念ながら瑕疵だらけの説明である。この自説を氏は「上陸点分岐説」と読んでいる。次の図のようである。

分岐説

 この図を見てすぐにお分かりのように、「井の中」ではほとんど定説化している「倭人伝」記事の曲解が踏襲されている。つまり

南、投馬国に至る水行二十日。……南、邪馬壹国に至る、女王の都する所、水行十日、陸行一月。

を、投馬国から「邪馬台国」までの行程が「水行十日、陸行一月」と曲解しているのだ。「井の中」の噴飯度競争、言いかえれば、古田説を無視したために起こる悲喜劇の淵源はここにある。「第Ⅳ章の「投馬国」の項で詳述する」と言っているが、結果を見るだけで十分だろう。

 次の図を見てほしい。

21国・楠原説

 投馬国をみると、氏は投馬国を大村湾の東岸に比定していることがわかる。

訂正(6月7日)
 地図の上だけでの判断では大雑把すぎるので、念のため、『地名学…』を再度借りてきて第Ⅳ章を確認してみた。氏の比定地は「長崎県大村市および大村海岸」だけではなく、「西彼杵(にしそのぎ)半島一帯」も含めていた。かなり広大な領域になる。氏の「邪馬台国」をはるかに凌ぐ広大さだ。以下の文章は、この比定に従って、少し書き換えた。


 氏は上陸地を比定していないが、氏は「南、……水行十日」の「南」を「南行」と考えているのだから西彼杵半島西岸を想定していると考えて間違いないだろう。例えば西海(さいかい)市あたりか。地図で見るだけで分るが、呼子・西海市間(水行二十日)の距離より西海市・有明海北岸間(水行十日)の距離の方がはるかに長い。「水行20日:水行10日=2:1」とはまったく相容れない。

 しかも、魏使は「水行十日」で有明海の北岸に到着して、さらに氏が指定している邪馬台国(肥前国佐嘉郡)へ陸行することになる。その「陸行十日」? 上陸地点から肥前国佐嘉郡辺りまでは20㎞ぐらいだろうか。「翻、能(よ)く歩行す。日に二百里なる可(ベ)し。」に従えば、1日の行程だ。従って氏は「陸行一月」には触れようとしない。

 以上でやっと(1)の説明が終わった。そして上の図が楠原氏が描く(2)女王国の版図ということになる。(3)はいずれ詳しく取り上げることになるだろう。
《続・「真説古代史」拾遺篇》(84)



「倭人伝」中の倭語の読み方(27)
楠原氏の「女王国の版図」(1)


 今回から「21国」を記載順に取り上げていく予定だった。その際、次のような手順を考えていた。まず『評釈倭人伝』から過去の大家たちの諸説を取り出し紹介する。次いで楠原説と古田説を紹介する。さらに、私なりの判断を付け加える(たぶんほとんどが判断保留になりそうだ)。

 『地名学…』は、これまでに何度か指摘してきた通り、大筋において「井の中」の方法と理論を踏襲していることが分った。しかしまだなお、「地名学」という方法から何か得るものがあることを期待しているので、楠原説は詳しく検討する予定でいる。すると、個々の国の比定に入る前に楠原氏の「21国」比定の枠組みを紹介しておく必要が出てきた。本題に入る前に、今回はそのテーマを割り込ませることになった。

其の余の旁国は遠絶にして、得て詳かにすべからず。

 氏はこの「旁国」の意味を次のように吟味している。(赤字部分の括弧つき数字は私が付けたもの。)

 そこで、「旁国」の「旁」とは何ぞや、が問題となってくる。藤堂明保『学研漢和大辞典』によれば、「旁」という漢字は「左右に柄の張り出た鋤(すき)を描いた象形文字で、両脇に出る意を含む」とあり、具体的な意味・用例として「(一)①かたわら。中心から左右に出たはし。両脇。②横の直線。③漢字のつくり。(二)よる。そばによりそう。(三)①ひろがる。中心から四方に向けてひろがる。②あまねし。広く行き渡るさま。」などをあげる。

 「倭人伝」がいう「旁国」とは、九州説・畿内説を問わず各論者の比定地から判断すると、もっぱら(三)の①「中心から四方に向けてひろがる」意と解されている気配が強い。しかし、文字の原義からすれば、まずは(一)の①「かたわら。脇」の意味の可能性を考えるべきであろう。

 何の「かたわら」であり「脇」なのか。もちろん、未廬国から不弥国にいたる九州北岸ルート、および(1)末廬国から投馬国を経て邪馬台国に達する九州西岸ルートの「かたわら」である。

 もう一つの(三)の①の「中心から四方に向けてひろがる」意のものも、もちろんありうるだろう。そして、その二つの意味とも、「中心ではなく派生的なもの」、または「メイン・ル一トのかたわら」というニュアンスが含まれるように思われる。

 この二つの要素を踏まえて、地名の持つ意味と『風土記』類が記す古伝承を参照しながら比定作業を行ってみた。個々の国名については各項ごとに述べるが、(2)女王国の版図は佐賀平野・筑後平野(両者を合わせた総称は筑紫平野)と福岡平野を中心にした三郡山地以西の九州島北西部、そしてそこから筑後川をさかのぼって豊後国(大分県)中部に至るラインが描けた。

 その(3)版図が描くラインの南側は狗奴国であるが、すなわち後世「熊=球磨」と呼ばれる地域にほかならない。

 (1)については解説を要しよう。氏は「倭人伝」中の里程距離を全て取り出して次のような見解を述べている。(以下、氏は「対海国→対馬国」「一大国→一支国」という改定表記を混用しているが、私は原文表記を用いていく。)

 これら10ヵ所に記載された距離数に関して、中国・魏代の長里(26里がほほ現在の1里=約三・九㎞)なのかどうか、また海上の距離はどうなのか、をめぐって論争が繰り返された。それぞれの論者の論旨は、それぞれ一理も二理もあり、即座に論駁できるようなものではない。ところが、他の論者によれば、まったく正反対の論談が成立する。

 実は、こういった堂々めぐりの状況は一つ距離の問題だけではなく、邪馬台国論争のすべての場面で噴出する現象なのである。ここでは距離にかぎって結論をいえば、「倭人伝」記載の距離はしょせんは概数でしかなく、さらに極論すれば単なる目安程度の数字かもしれない、と指摘しておく。

 「記載の距離はしょせんは概数でしかない」という指摘はその通りだ。しかし「単なる目安程度」という判断には賛成できない。以下の楠原説の検討の中で、おのずと私が賛成できない理由が明らかになるだろう。

 里程距離をめぐる議論が堂々めぐりに成ってしまうのは「それぞれ一理も二理も」あるからではなく、「短里」を無視しているためなのだ。なお、楠原氏は魏代の長里を(26里がほほ現在の1里=約3.9㎞)と注記しているが、これで計算すると魏代の長里は「3900m÷26里=150m/里」となる。初耳だ。『「女王の境界の尽くる所」(2)』では短里の6倍ということで「長里=約450m」と理解していた。その後、現在の中国の学会では434.16m/里が定説となっているということを知った。楠原氏の長里はそれらの約三分の一しかない。どこで手に入れた情報なのだろうか。楠原氏は「単なる目安程度」と距離数を捨てているので、氏の後の議論にとってはどうでもよいことなのだが、一応指摘しておく。

 次に氏は「狗邪韓国―①→対海国→―②一大国―③→末廬国」の海路距離・千余里を取り上げてる。この千余里を「実際は約600㎞」としている。実測したとは考えられないから、私と同様、地図上での測定だろうか。いずれにしても出発港・到着港を無視した最短距離を測ったようだ。①・②を約60㎞としているのに対して③を約26㎞としていることからそのように断定してよいだろう。ちなみに、これもこの後の議論にはかかわらないけど短里で計算すると千余里は約760㎞である。楠原氏の測定によっても短里がリーズナブルであることを示している。

 ①・②に対して③がその半分しかないことを取り上げて、氏は
『「余」という剰余表記に含みがあるとしても、あまりにも違いすぎる。』
と述べ、伊能忠敬から現代の全方位測定システム(GPS)までの測量の遷移に蘊蓄を傾けた上で
『だから、2~3世紀の「倭人伝」の記事が間違っていると目くじらを立てるのは大人げない、ともいえる。海上ではその弁解が通用しても、陸上の場合も距離も正確とはいいがたい。』
と結んで、陸上での距離数の検討に入っていく。陸上での里程距離の議論は必要が出てきたら取り上げることにして、目下のテーマを続けよう。

 いつからか、私は1里(約4㎞)を約1時間出歩くという経験則を持っていた(今はとても無理)。それを用いて「ここまで十数分歩いたから、ここまでの距離は約1㎞だな」というような判断をよくやっていた。魏の時代に後世のような正確な測量術がなかったこと言うまでもないことだ。しかし、私のような経験則による距離判断は魏時代の人々でもたやすく出来たはずだ。ここで私は「投馬国(4):古田説の検討(2)」で古田さんが引用していた『魏志』からの引用文を思い出した。次のような文があった。

昼夜、三百里来たる。
〈魏志六、裴松之注所引「英雄記」〉
鴑牛(どぎゅう)一日三百里を行く。
 (右の「鴑牛」は顧劭(こしょう)を比喩す)

翻、能(よ)く歩行す。日に二百里なる可(ベ)し。
(呉志十二、裴松之注所引「呉書」)


 このような経験則によって、旅程の距離を概算することは容易なことだ。水行の場合での同様だ。「十梃櫓の船なら1時間で何里、順風で帆を併用できれば何里」というような経験則をもとに海上での距離概算も出来ただろう。そうした概算距離は実用的には大いに役に立ったはずだ。

 ちなみに、上の引用文中の「三百里」は「車駕(しゃか)による陸行」である。「二百里」は歩行したときの距離である。車駕による陸行の場合も従者が歩行で随行している。馬にむち打って驀進する行程ではない。従者はたぶん早足ぐらいだろう。両者の行程距離の差が100里というのは妥当だ。また、両者はそれぞれ長里(1里434mで計算)では「約130.2㎞・86.8㎞」となる。食事も休憩も取らないで猛スピードで進み続けても、途中には山あり谷あり川ありで、とても1日で進める距離ではない。一方短里(1里76.7mで計算)だと「23.0㎞・15.3㎞」となる。食事も休憩もゆっくり取って行ける距離である。

 これでやっと(1)がどういうことなのか、説明できる準備が出来た。(次回で。)