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《続・「真説古代史」拾遺篇》(83)



「倭人伝」中の倭語の読み方(26)
「21国」の読み:二つの奴国(2)楠原説


 水野氏は「奴国」を「ヌコク」と読んでいる。この訓みは「井の中」では少数派のようだ。私の知る範囲では水野氏以外は全て「ナコク」か「ノコク」である。水野氏は『奴は「ド」「ヌ」を音とし、「ナ」という音はない』と、「ナコク」という訓みをはっきりと否定している。

 では「ナコク」と訓む人たちのその根拠は何なのだろうか。志賀島の金印に対する三宅米吉説にいまだに引きずられているのだ。三宅氏は「漢の委(ワ)の奴(ナ)の国の王』と訓み「奴の国」を「灘(な)の県」(那珂郡)に比定した。従って、初出の「奴国」を「なこく」と訓む論者はきまってその所在地を那珂郡那珂川辺りに比定している。これらの説は「奴」を「ナ」と訓むことの当否をまったく検討しようとしない。また、この比定が「倭人伝」の里程記事にまったく合わない点でも謬説である。

 楠原氏も「ナコク」と訓んで、春日市・那珂郡那珂川町・福岡市南区付近に比定している。すなわち「邪馬壹国」の中枢部である。この地域の目覚ましい遺跡には「井の中」で比定しているどの「邪馬台国」も見劣りがする。この点に付いて、楠原氏はつぎのようにに論じている。

 明治32年(1899)、那珂郡春日村大字須玖字岡本(現・春日市岡本7丁目)の丘陵地から大石(長さ3.3m、幅1.8m、厚さ30cm)に覆われた甕棺墓と大量の前漢鏡・銅剣・銅戈・銅矛・ガラス璧・ガラス勾玉などが発見された。のち昭和4年と戦後の昭和37年に本格的学術調査が行われ、付近一帯の遺跡群から甕棺墓群・土壙(どこう)墓群などが次々に発掘されて、出土物の質量ともに北九州屈指の弥生遺跡群と判明した。

 以後、この須玖岡本遺跡周辺は〝弥生銀座″と俗称され、この地こそ「倭人伝」が記す「奴国」の最有力候補地と見なされるにいたっている。

(中略)

 その春日丘陵の北端近く、標高30~40mの高台の上に須玖岡本遺跡がある。考古学・古代史学の専門学者や多くの邪馬台国論者は、須玖岡本遺跡すなわち「倭人伝」の「奴国」であるかのような論をなす。だが、須玖岡本遺跡は「奴国」の版図内ではあっても、遺跡・出土品の種類などから見ておそらくはその中心部ではなく、族長級の墳墓を集中配置した、いわば〝高級集団墓地″ではなかったか。

(中略)

 須玖岡本遺跡は、想定される「奴国」の領域内ではやや北に偏し、東西の位置関係では東縁線に近い。その先は御笠川が流れる構造平野で、この沖積低地の氾濫原には板付(いたつけ)・比恵(ひえ)(ともに福岡市博多区)両遺跡があるが、弥生期には奴国とは別の勢力圏だったろう。

 弥生後期、御笠川下流域は開発最前線であったわけで、須玖岡本遺跡はその未開の原野を見下ろす地になる。その低地に臨む丘の先端に、「奴国」の首長連の墓が造営されたのである。

 出土物で大事な物が見落とされている。中国製の絹だ。これはここだけにしか出ていない。三種の神器と中国製の絹が出てくる遺跡は他に例がない。これはまぎれもなく「王墓」である。「井の中」ではこれを「族長墓」あるいは「首長墓」と格下げして自説の孕む矛盾を糊塗している。楠原氏も例外ではなかった。

 氏は「奴国」論を「地名学」とやらを駆使して12ページにわたって展開しているが、これも既にスタートから間違っているので無駄骨である。ただ一点だけ受け入れられることがある。ただし、「ナ」を「ヌ」に入れ替えれば、という条件付きである。次のように述べている。

 まず、地名用語ナとは何か考察しておこう。「倭人伝」には、2ヵ所に出てくる「奴国」を含め、「奴」という字を使う国名が計9ヵ国ある。さらに「華奴蘇奴」という四文字の国名の中には「奴」の文字が二文字含まれているから、その数は計10ヵ所にのぼる。「倭人伝」には「対馬」以下、日本列島の国名を表記するのに漢字が延べ62文字使われており、「奴」の使用比率は16%強に達する。

 地名にこんなに多数使われる言葉とは、何だろうか。勘のいい読者ならとっくに気がついておられるだろうが、これは「ノ」にほかならない、と思う。つまり「奴」という字は、当時の倭語で「ナ」という発音の語の音写であることは間違いないが、この語は後世の日本語で「ノ」に当たる言葉ではないか。

 氏はこれ以後に出てくる「奴」を、第二の「奴国」を除いて、すべて「ノ」訓んでいる。

 「奴」が「ノ」とも訓むことができ、それは「野」の意だと言うことは古田さんも論じていた。ただし、古田さんの「ノ」と訓む根拠は「農都切」(反切)だった。(詳しくは『「狗奴国」は何処?(1)』を参照してください。)

 では、第二の「ヌコク」についてはどうだろうか。氏は同じ国名で呼ばれているが別国で「別地同称」であると、次のように論じている。

 「倭人伝」の記す諸国中に「奴国」は2ヵ所ある。「伊都国」の東南百里にある初めの「奴国」と、旁国21国の最後に記され、「女王国の境界の尽くる所」と注記される「奴国」である。

 二つの「奴国」について、畿内説の三宅米吉や九州説の吉田東伍はじめ、のちの儺(な)県、すなわち筑前国那珂郡に当たる地をいうナの重出と見る論者も多かった。だが、『太平御覧(たいへいぎょらん)』に引用された『魏志』には「属する小国は二十一国」と記されているから、二つの「奴国」は別の国と判断すべきであろう。

 このように、別々の土地を同じ名称で呼ぶ現象を「別地同称」という。こうした現象は日本列島だけでなく世界中のあらゆる国や地域、民族語に見られる。それが不便であるような事態になったら、日本だけでなく、世界中どこでも行政地域を細分したり、それぞれの地名に大小、上下、東西南北などの区分称を冠称して区別することになる。

 では第二の「奴国」をどこに比定しているだろうか。初出の「奴国」を「ナコク」と訓んだのだから、当然「ナコク」と訓んでいる。比定地は大分県大野郡大野町付近である。次のように論じている。

 「倭人伝」記載の30国のうち、「奴」の漢字が九カ国、10ヵ所にノ(野)という国名使われ、それは後世のノに相当する語であろう、と前述した。実際、「弥奴」をムナと呼んで後世の筑前国宗像郡に比定したのを除き、ノと解してすべてしかるべき比定地を得た。

 宗像のムナのナも、日本語の助詞のナがノに交替していることなどを考えれば、許される範國内の想定だったろうと思う。

 したがって、この「奴」もノ(野)に違いないと考え、豊後国大野郡大野郷、現在の大分県大野郡大野町付近に比定した。この地は阿蘇火山・九重火山群の噴出物が覆う大野原(おおのはら)台地で、「奴国」の名も、のちの郷名・郡名も、この地形から出たものであろう。

 この比定の正否の判定は「女王国の境界の尽くる所」であり、かつその南に「狗奴国」があること、この二点が大きなカギとなる。いずれ判明するだろう。

 なおこの後、氏は上の比定地が「縄文~弥生文化の先進地」だったことを論じているが、省略する。他の「奴」を含む国については後に取り上げることになるが、楠原氏はどうやら「野」を地名に持つ地を探す方法を取っているようだ。
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《続・「真説古代史」拾遺篇》(82)



「倭人伝」中の倭語の読み方(25)
「21国」の読み:二つの奴国(1)水野説


 奴国の古田説は『「女王の境界の尽くる所」(3)』で紹介済みである。ここでは「井の中」で行われている議論を紹介しよう。

 まず『評釈 倭人伝』で水野氏がまとめている過去の諸説と水野氏の説を見てみる。

 水野氏は諸説についてはその論拠までは書いていないので比定地だけの紹介になる。しかし、楠原氏も指摘していたように、ほとんど全ての説は類似音による比定なので、逆に国名を何と読んでいたかが類推できる。その推定を〈〉で付記しておく。

過去の諸説は大きく分けると三通りある。

①同名の国が二国あった。
肥後国八代郡大野村(牧建二)〈ノコク〉
信濃国伊那(山田孝雄)〈ナコク〉
陸奥国渟代(のしろ)(小中村表象)〈ノコク〉

 最後の説にはつい噴き出してしまった。小中村表象は初めてお目にかかる名前だ。ネット検索しても出てこないので、どういう方か分らない。渟代(現在の能代)は阿倍比羅夫の蝦夷征伐に出てくる地名である(「斉明紀」4年4月条)。

②同一国の重出である。
儺(博多)(三宅米吉・吉田東伍)〈ナコク〉

③一字脱落(誤脱)している。
 おおよそ次のように論旨のようだ。
 21国の中で奴の字を用いる国は、最後の奴国をのぞくと、弥奴国.姐奴国・蘇奴国・華奴蘇奴国・鬼奴国・烏奴国と、都合6ヵ国ある。それらは皆□奴国という形をとっているのだから、この最後の奴国も、実は□奴国とあったのが、上の一字を誤脱してしまったのである。

 では水野氏はどう説いているか。まず、
「女王国支配下に、同名の国が二つ存在することは、どうにも納得がいかない。」
と①説を退け、
「もし重出とするならばその理由の説明が必要となる。その説明はおよそ不可能であろう。」
と②説の退けている。そして次のような新説を掲出している。③説については
「今使訳通ずる所30国という記述と一致することになるので、ちょうど首尾一貫したことになるから、重出説よりも、誤脱説の方が正しいと考えられるかもしれない。」
「これも一応筋の通った説明のようであるが、誤脱した一字を補うすべがないのである。」
と、③説も退ける。そして次のように新説を提出する。

 「ヌコク」と訓む。最初に奴国があって、それとは別の国であるとするか、重出であるとみるかで、解釈はいろいろと異なってくる。私は奴国の重出ではなく、また、そうかといって、他の場合のように、奴国と二字の国名で記すのを脱字として、奴国と誤記してしまったとする説をもとらず、これは後に記されている狗奴国のことだという見解をとる。

 誤記説をとらないと言っているが、私には誤記説との違いが分らない。初出で「奴国」と表記し、次ぎに「狗奴国」と表記した理由が解明されなければ誤記としか解釈できない。氏はこの問題には全く触れず、次のように自説の正当性を説明している。

 魏に使訳通ずる三十国というのは、女王傘下の国が、こぞって通交したので、その連合体のすべての国数を示したのでは決してなく、これは女王傘下の国々と、女王の支配下に入っていない、連合体以外の倭人の国々の中で、女王の朝貢とは別に、単独に朝貢した国があれば、それをも加えて、倭人の国全体の中から朝貢した国の総数を示したものであると解することもできる。そうすると、女王傘下の国が、□奴国を含めて、都合三十国となると、女王国以外の倭の国国は一国も朝貢していなかったことになる。確証がないことであるから、それでもよいけれども、後段において詳説するように、女王国の統轄外の独立国である狗奴国が、単独で魏に朝貢していたということを、私は立証しているので、少なくとも、魏に使訳通ずる三十国という中に、女王国連合外の国が一国朝貢していたので、女王連合国が皆朝貢していたとしてもその数は二十九カ国以下でなければならない。そうすると、この最後の奴国をはぶくと、女王支配下の連合首長国は二十九カ国となる。それに狗奴国を合すれば、合計三十国となり、最初の使訳通ずる所の国数と合致する。

 狗奴国も魏に朝貢していたから30国には狗奴国も含まれる、というわけだ。では狗奴国も魏に朝貢していたことをどうのように立証しているだろうか。

 そこで私はこの奴国について次のごとく判断を下すのである。ここに列挙した二十一カ国は、陳寿が編纂に際して扱った魏の時代の原史料に、倭の朝貢国について、三十国とし、朝貢した国名を列挙した史料があった。それは女王支配の国を列挙し、最後に単独朝貢した狗奴国があげられていた。そして三十国の国名が明らかであった。そういう原史料によって、陳寿は国名を記載したのであるが、最後にある狗奴国は、女王に属しない国であると、陳寿自身記述しているのであるから、最後の狗奴国は女王傘下の国の中に加えるのはよくないので、これを取りのぞいたのである。しかし、伝書の間に後人が、狗奴国の朝貢した事実を考えずに、最初の三十国にひきずられて、最後に一国を追加すべきだとしたが、その国名がわからず、また狗奴国とあった原史料や、奴国の前の烏奴国の例にひきずられて□奴国として挿入したのが、□の欠字が消えて、印行時に奴国とのみのこされてしまったのではないかと推測するのである。そこで私はこの奴国を陳寿述作後の、後人による挿入としてはぶくのである。したがって私は女王統轄の連合体所属の国は二十九カ国とするのである。

 狗奴国も魏に朝貢していたことの立証など、どう読んでもない。そのかわり、何のことはない、自説も誤脱(誤記)説であることを表白している。その論理の要は氏が批判している「南を東と変える」手法とまったく同じである。
《続・「真説古代史」拾遺篇》(81)



「倭人伝」中の倭語の読み方(24)
「21国」の読み:楠原氏の「邪馬国」論


 楠原氏は語源説③「ヤマ(弥間)」を引き継いで次のように議論を展開している。

 ヤマとは本来「周辺より徐々に高くなった土地」という基本的認識であり、今もこの認識を訂正する必要は感じない。ただその後、もしかしたらイヤマ(弥間)よりもむしろイヤ(弥)・マス(増)という、より直截的な表現ではないか、と思うようになった。

 これは③説の踏襲というより、全く新しい説の提出である。次ぎに度量衡器の「升(マス)」を引き合いに出して、「イヤ(弥)・マス(増)」の「マス」は「自動詞マス(増)の終止形が名詞化」したものと言う。そして、三原山(伊豆大島)の中腹にある集落「野増(のまし)」を取り上げて次のように続けている。

 このノ・マシという地名は、何を表わした地名なのか。野増のマシは動詞マスの連用形が名詞化した用例であろう。第Ⅵ章で述べるように、ノ(野)という地名用語自体が緩傾斜地を呼ぶ語である。火山裾野のなだらかな傾斜地からさらに山腹に登ったあたりに形成された集落は、なるほど「傾斜地がさらに徐々に高度を増す地」と呼ばれるにふさわしい。

 と思いいたって、あらためて各地のマスダ・マシダ(増田・益田)などの地名を調べてみると、火山山麓や扇状地、あるいは徐々に高度を増す洪積台地などに位置する例が少なからず見受けられる。

 ならば、しだいに高度を上げていくような地形を、古代の日本人がイヤ・マスあるいはイヤ・マシと呼んだとしでもおかしくない。それが普通名詞や地名用語になっていく過程で、音節がつまってヤマとなったのではないか。

 イヤ・マス(マシ)=ヤマという地形は、本来、凸凹の激しい起伏に富んだ地形というよりも、むしろ徐々に高度を高めていくような地形、すなわち成層火山など稜線が直線状に高みを増していく地形こそがヤマだったのではないか、と思われてきた。

 さて、この「ヤマ」の意味を頼りに邪馬国を比定している。ここでも相変わらず結論先行という手法が使われている。その行き先は新井白石や本居宣長が比定している福岡県八女郡である。そこへ行くためにはまずは「ヤマ→ヤメ」という音韻変化の説明をしなければならない。氏はまず初めに「景行紀」18年条を取り上げている。その条は阿蘇山以北のいくつかの地名説話を集めた形になっている。その中に八女の地名説話がある。氏は概略説明で済ましているが、ついでなのでその原文を掲載しておこう。

丁酉(ひのとのとりのひ)に、八女縣(やめのあがた)に到る。則ち藤山(ふぢやま)を越えて、南(みなみのかた)粟岬(あはのさき)を望(おせ)りたまふ。詔して曰はく、「其の山の峯(みね)岫(くき)重疊(かさな)りて、且(また)美麗(うるは)しきこと甚(にへさ)なり。若(けだ)し神其の山に有(ま)しますか」とのたまふ。時に水沼縣主猿大海(みぬまのあがたぬしさるおほみ)、奏(まう)して言(まう)さく、「女神(ひめかみ)有(ま)します。名を八女津媛(やめつひめ)と曰(まう)す。常に山の中(うち)に居(ま)します」とまうす。故(かれ)、八女國(やめのくに)の名は、此に由りて起れり。

 「ヤメ」という地名は「持統紀」4年9月23日・10月22日条にも出てくる。自らの身を売って筑紫君薩夜麻を助けたことで、持統より恩賞を受けたあの大伴博麻の出身地である。「筑紫国上陽咩(かみつやめ)郡」とある。

 『日本古代地名事典』は地名「ヤメ」について次のように解説している。

やめ [八女]
 『和名抄』筑後国に「上妻郡・下妻郡」があるが、これは「上八女(かみつやめ)郡・下八女(しもつやめ)郡」の意であり、『景行紀』18年に見える「八女県・八女国」 のことで、福岡県八女郡、八女市の一帯をいう。『紀』は「女神の八女津媛」によるとし、当時、女性の首長がいたことを示唆する。このことから、「やめ(八女)」という多くの女性がいる国という変わった地名が成立した。

 前回確認したように「ヤ(彌・八)」は接頭語で「数が多い」という意味をもつ。この点から言えば上の地名解釈は妥当と思える。しかし、地名説話から地名が生まれるのではなく、現存する地名をもとにして地名説話が創られているだから、その点の考慮が必要だ。今の私にはこれ以上論じる手立てがないので深入りしない。

 では楠原氏の「地名学」ではどう解決されているだろうか。氏は「紀」の二つ記事を受けて、次のように続けている。

 この地がなぜ八女と呼ばれたのか、という疑問が残る。通説では、上妻・下妻二郡を貫流する矢部(やべ)川の名が同韻相通でヤベ―ヤメに転訛したとされており、吉田東伍『大日本地名辞書』などもこれに従っている。

 同韻相通は、とくにバ行とマ行の間では地名でもしばしば起きる。たとえば、映画『男はつらいよ』の舞台の東京・葛飾区柴又(しばまた)は奈良時代の養老5年(721)の「下総国葛餝郡大嶋郷戸籍」には「嶋俣」と記されており、のちにシママタ→シバマタと転訛したもの。

 だが、八女の場合、ヤベーヤメの同韻相通だったのかどうか、一考を要する。なぜなら、シマやシバのつく地名は全国に無数にあり、それが相互に音韻交替した例も数多く見られるのだが、ヤメという地名の例は全国でたった一カ所、ここだけなのである。

 ヤベ(矢部・屋部・谷部など)は九州から関東地方まで全国に十数カ所、ヤノメ(矢目・矢野目・谷目)も全国に数カ所存在するが、ヤノべはない。つまり、ヤべ地名の語尾の「べ」が同韻相通で「メ」に転じる場合、語調の関係で助詞の「ノ」が入った語形になるのだと思われる。

 また、地名の意味・語源的にも疑問がある。ヤベの語源はアヒ(合)・ベ(辺)→ヤベで、「谷間」を呼んだものあろう。だが、この意味の地名は矢部川の中・上流域には適切な名称だとしても、「八女」と呼ばれた地域の中心部であった現・八女市北西部の地形には合致しない。八女市と八女郡広川町の境界に延びる長峰(ながみね)丘陵とその南側の八女台地は後述するように古墳の一大密集地帯だが、およそ「谷間」と名づけるような地形ではない。

 ならば、「八女」とはどんな地名で、何を呼んだのか、あらためて疑問がつのる。結論をいえば、ヤメとは「倭人伝」が記す「邪馬」の転訛である、と私は推測した。その論拠は以下のとおりである。

 「ヤメ」という地名は一例しかないという理由で「ヤマ→ヤメ」という同韻相通説をとることに慎重になっている。こういう論理の運び方には共感を持てる。では「ヤメ」を「ヤマ」の転化だとする論拠を読んでみよう。

 まず前述した『日本書紀』景行紀18年条は、八女県の藤山を越えて南方の粟岬(あわのさき)を望んだ天皇が詔して、「其の山の峯岫重畳(みねくきかさな)りて、且美麗(またうるわ)しきこと甚なり」とのたまわった、という記事である。第Ⅳ章の「末廬国」で松浦の郡名起源に関する神功皇后の故事は暗に地名語源の真実を示唆していたと述べたが、この景行天皇の何気ない一言も、案外、事の真相を語っているかもしれない、と考えたのである。

 『「21国」の読み:準備編』で紹介したように、楠原氏の「ヤマダコク(邪馬臺国)」比定の方法は「稜線が直線状に高みを増していく」山探しだった。現地に出かけていって、「神聖な山が神々しい錐形に見える地」を見つけてそれを論拠としている。邪馬国の場合も同様、この時点から氏はそのような形の山探しを始めている。しかし、今度は現地に出かけての確認ではなく、パソコンで展望図を作ったという。そのようなソフトがあるのだろうか。そのソフト、すごいなあ! 次のようなことが出来るそうだ。

 景行紀の記事の「藤山」の遺称地である現・久留米市藤山町を基点にして南方を望む展望図をパソコンのディスプレー上で作成してみたが、とくに特徴ある景観は得られない。そこで、基点をもう少し南にずらせて、古墳密集地帯である八女市西部から逆に北方を見た景観を映しだしてみた。すると、筑紫平野に向かって長々と延びる耳納山地の秀麗な稜線が出現した。

 一方、さらに北東方向に視界をずらすと、名のとおり東に高まりながら長々とのびる長峰丘陵が筑肥(ちくひ)山地北縁の支脈上にある高峰(たかみね)(標高567.2m)まで、約12㎞にわたって稜線が見事な一直線を示しているのである。

 景行紀の記事はやはり、何の根拠もないフィクションなどではなかった。地元で数百年前からヤマ(邪馬)と呼ばれてきた地名を踏まえて、それなりの脚色を加えて語られたのが景行紀の記事なのであろう。

 「地元で数百年前からヤマ(邪馬)と呼ばれてきた地名」というくだりの「数百年前」は、『日本書紀』が編纂された頃から「数百年前」という意だろう。ここで論理が顛倒している。八女が邪馬国であることが証明されていないのに何ら根拠のない推測をしている。いや、氏は「其の山の峯岫重畳(みねくきかさな)りて、且美麗(またうるわ)しきこと甚なり」にピッタリの山景が見つかったことで証明完了と考えているらしい。

 邪馬臺国のときも写真が掲載されていたが、ここでも写真が掲載されている。どちらも私にはどこにでも見られるありふれた山景にしか見えない。その写真を転載しておこう。

楠原氏の邪馬国

 次の段では「ヤマ→ヤメ」という音韻変化の説明をしている。
 ヤマとヤベ・ヤメとの関係は、次のように説明できる。

 国郡制制定以前、現在の矢部川中・上流域はヤベ、現・八女市西部一帯はヤマ(邪馬)と呼ばれていた。国郡制で両地域は一体化されたが、その統合された地域の名として「八女」が設定された、という経緯が想定できる。  邪馬の「馬」は、奈良時代の日本流の漢字字音である呉音ではメとも発音できる。一方のヤベのほうは、同韻相通でヤメにも変わりうる。そのようにして、二つの地名を折衷したのが「八女」ではなかったか。

 「国郡制制定以前、現在の矢部川中・上流域はヤベ、現・八女市西部一帯はヤマ(邪馬)と呼ばれていた。」と、何の根拠もない顛倒した論理を繰り返している。すべて「邪馬国=八女」を前提にしたこじつけ論理としか私には読めない。ご本人も「…想定できる。」「なかったか。」と、さすがに断定することは避けている。

 氏は「地名の意味もわからずに、音の類似だけを頼りに後世の地名に当てはめようとすれば、それは必然的に〝当て物・判じ物″、挙げ句は〝当るも八卦″のレベルに陥るほかない。」と、「井の中」での従来の研究手法を正当に批判しているが、私にはその批判の対象の中に氏自身も入ってとしか思えない。
《続・「真説古代史」拾遺篇》(80)



「倭人伝」中の倭語の読み方(23)
「21国」の読み:「邪馬」の意味


 ずいぶん長い寄り道をしてしまった。本道に戻ろう。

 楠原氏が「邪馬国」の比定に当たって「山(ヤマ)」の語源を問題にしているので、図書館で何冊かの語源辞典を調べてみた。 前田富祺監修『日本語源大辞典』(小学館)が諸説をまとめている。次のように12通りもある。


 不動の意で、ヤム(止)の転〈日本釈名・日本声母伝・和訓栞〉。

 どこにでもあるもので.不尽というところから、ヤマヌの意か〈和句解〉。

 ヤマ(弥間)の義〈東雅・国語の語根とその分類=大島正建〉

 イヤモエ(弥萌)の約か。〈菊地俗言考〉

 イヤモリクガ(弥盛陸)の義〈日本語源学=林甕臣〉。弥盛の義〈日本語源=賀茂百樹〉。

 イヤマル(弥円)の義か〈名言通〉。

 ヤハニ(弥土)の義〈言元梯〉。

 イヤホナ(弥穂生)の約<和訓集説〉。

 ヤはいやが上に重なる意、マはまるい意〈槙のいた屋〉。

 イハムラ(石群)の反〈名語記〉。

 ヤマ(矢座)から出た語で、マはバ(場)と同じ〈万葉周叢攷=高崎正秀〉。

 陸地の意のアイヌ語から〈アイヌ語より見たる日本地名研究=バチェラー〉。

 「イヤハヤ」と言うほかない。増井金典著『日本語源広辞典』は次の用に解説している。

やま【山】
 語源は、諸説が多く、みな信じがたい。「ヤマの二音節を分析せず、一語」そのものとみるべきと思います。「高くそびえ、盛り上がったところ」がヤマです。山の神の存在する神聖な地です。生活資材や燃料の供給地、がヤマです。近畿では、都を守る山として比叡山をさす言葉でもあります。また、演劇や音楽や文芸などで、感動の盛り上がった所を、ヤマといいます。▽中国語源【山】‥・「山の高い形」そのままの象形。例:山脈、山陽道、富士山。

 増井氏の主張を新しく知った用語を使って言い直すと、「ヤマ」は語根(以下、一音韻の場合は古田用語の「言素」を使うことにする)である。二つの言素の合成語として誰もが納得できる説が出ない限り、「二音節で一語」という取り扱いに私は賛成したい。が、今はあえて「二つの言素の合成語」という立場で論を進めよう。

 「倭語音韻の基本法則(2)の補足」で触れたように、古田さんは「玉(タマ)」「山(ヤマ)」の「マ」を同じ言素と考えているようだ。しかし、その「マ」の意味には触れていなし、「ヤマ」の意味の言素論的分析も、私が知る範囲では、まだないようだ。そこで、おこがましくも、ここで「ヤマ」の意味の「言素論」的分析をしてみよう。

 村石利夫著『日本 語源辞典』(東京堂出版)が「タマ」「ヤマ」の「マ」を同じ言素と考えて語源を分析している。次のようである。

やま[山」(名)
「弥間」
 ヤ(弥)は大層・甚だ。マは間合―空間・立体的間合。ヤマとは甚だ大きな立体、巨大な量塊をなすものの義。

たま[玉](名・接頭)
「足間」
 タはタル(足)、マは間合―立体的間合と視覚的間合。間合が充足して美しいものの意。宗教上・呪術用のもあるが、何れにしてもその装飾性が重んじられる。曲玉・管玉などあるが、球形をもってその極致とするのであろう。タマの語は、マ(間)が立体的間合と視覚的美観とをあらわし、タ(足)はその充足であるから、表面積が最小で、しかもその逆に内容が最大なるもの=球形を指示する義と、その視覚的な充足感をともに一語のうちに込めていよう。

 「間」は岩間・狭間・畝間・谷間などとも使われている。「マ」を「立体的間合と視覚的間合」とする説を採用しよう。しかし、「ヤ」の方には異議がある。「弥」の漢字としての意味には確かに「大きい」という意がある(大修館版新漢和辞典)。しかし、「弥」を「イヤ・ヤ」と読むのは国訓であり、この場合「大きい」という意味はない。『「いよいよ」の意』となっている。明解古語辞典(三省堂)では「イ(彌・八)」は接頭語に分類されている。意味は「数の多いのをいう語。たくさんの。」となっている。「イヤ」も接頭語で「①イヨイヨ・マスマスの意②イチバン・最モの意③非常ニの意」とある。「ヤ」を「大きい」意とする立論は成り立ちがたい。

 「ヤ」については次のような古田説がある。

『「ヤ」は人間が住むところを屋敷(やしき)、神様が住むところを社(やしろ)というように、祭る所を「ヤ」という。』(講演録「コノハナサクヤヒメ」)

 山・海・川など自然の地形にまつわる倭語の誕生は遠く石器時代にまでさかのぼるだろう。その頃から、山は神の住むところと考えたり、あるいは山そのものをご神体とみなす信仰があったと考えて間違いはないだろう。「ヤ」については古田説を採用しよう。すると「ヤマ」は「神聖な間(立体)」というような意となろう。古くからの信仰の対象として、邪馬壹国(岡)には高祖山があり、邪馬国(大和)には三輪山がある。

 さて、楠原氏は『地名用語語源辞典』では「やま〔山、岾、耶麻〕」は
「①高く凸起した所。語源はイヤ(弥)・マ(間)か。」
と説明している。上に挙げた諸説の中の③を踏襲しているわけだ。ただし、「イ(弥)・マ(間)」ではなく「イヤ(弥)・マ(間)」としている。

 楠原氏は「邪馬臺国」を「ヤマダコク」と読んだ。従って邪馬国を「ヤメコク」と読むわけにはいかない。当然「ヤマコク」と読んでいる。「邪馬臺=ヤマダ」説を紹介したときは、氏による「ヤマ」の意味の解釈部分を省略した。今回は「ヤマ」そのものが対象なのでそれを省略するわけにはいかない。次回ではそれを紹介しよう。
《続・「真説古代史」拾遺篇》(79)



「倭人伝」中の倭語の読み方(22)
「洛陽古音」って何?


 もう一回、面倒な寄り道に付き合ってください。

 楠原氏は『地名学…』の執筆に当たって『「倭人伝」が書かれた時代の洛陽で使用されたという長田氏の「洛陽古音」説が大いに参考にできた。』と述べている。長田氏の「洛陽古音」というのを随所で取り上げている。例えば「邪馬臺」を「ヤマダ」と読む根拠に用いている。その地名読みの概略を紹介しよう。
 まず、「臺」「台」の字について、漢和辞典(藤堂明保『学研漢和大辞典』)の各時代の字音と「洛陽古音」とを並べた表を提出している。

臺の音韻

 これから、臺も台も「タイ」と読むようになったのは中世以降であることを確認し、「ヤマタイコク」と読んできた従来の読みを否定する。次ぎに、「洛陽古音」では「邪馬臺」はiɒ-mɒ-d‘ǝĭという発音になると言う。「洛陽古音」提唱者の長田氏自身はこれを「ヤマド」または「ヨモド」とカナ表記している。楠原氏はこのカナ表記退ける。落陽古音の「臺」の発音記号をカタカナ表記するなら、「ド」よりもむしろ「ダ」ではないか、と主張している。

 ここで用いられている発音記号は何だろう。手許の中日辞典の「中国語音節表」を調べたが、それではないようだ。ネットで調べてみた。「国際音声記号」のようだ。一般に英和英語などもこの記号を用いているらしい。ならば私の貧しい知識でもある程度は読めるだろう。うん、私にも「ド」ではなく「ダ」としか読めない。楠原氏は
「多くの邪馬台国論者と同じく長田説の場合も、誰でもが周知のヤマト(大和)という後世の巨大で著名な地名が先入主となって、ほかの地名の可能性を検討することなく、早々に結論を導き出したのではないか。」
と長田氏の誤解の原因を推定している。

 何度も言うように「邪馬臺(台〉国」という表記を選んだのが間違いなのだから、こういう議論を追うのは無駄なことなのだが、楠原の地名読みの方法を確認するために付き合ってみた。

 「洛陽古語」とは何なのか。『「倭人伝」が書かれた時代の洛陽で使用された』言語というのなら、その音韻は、なんのことはない、呉音ではないか。と考えたが、そうではないらしい。念のため長田夏樹著『邪馬台国の言語』を借りて来た。「洛陽古語」と称している音韻を独自に創り上げているのだった。その手法は次のようである。
 まず、倭人伝の次の固有名詞を取り上げている。

・伊・卑母離・卑弥・未

 これらは従来
・イ・ヒモリ・ヒミ・マツ
と訓まれでいたと言い、これを次のように批判している。

 しかし中国の唐未、五代に成ったと考えられる漢字を日本の五十音図のように配列して、その字音の帰属を表示した『韻鏡』(図2)によれば、〈模〉〈都〉〈奴〉〈呼〉〈廬〉 はいずれも内転第十二開合の平声一等に属していて、母音を等しくする文字であるから、これらの訓み方がいかに恣意的なものであるかがわかるであろう。

 すぐ次のような疑問が出てくる。
「唐時代に作られた『韻鏡』を用いて読む音韻を3世紀の洛陽での音韻としてよいのだろうか。」
 長田氏は図2(内転第十二開合の写し)に次のような注を付けている。
「『韻鏡』自体は中古音の体系を示した韻図であるが,この図に関するかぎり上古音の体系としても用いられる。」

 内転第十二開合だけは「上古音の体系としても用いられる」と言っているが、その根拠は何も示されていない。しかも内転第十二開合だけで、「倭人伝」の倭語に用いられている漢字の音が全て分るという点も不可解だ。私の疑問は深まるばかりである。

 『韻鏡』をウィキペディアでにわか勉強してみた。私には理解出来なかった。副産物がありました。「韻鏡十年」ということわざがあるんですねぇ。その意味は「理解することが、きわめて難しいこと(韻鏡の理解には十年かかる)」でした。

 分らないのに「韻鏡」を根拠にした議論を読んでも仕方がないのだが、ついでなので、興味がある人あるいは分る人のために続きを紹介しておこう。


 では内転第十二開合一等の示す具体的な洛陽音の音価はどのようであったか。『魏志』巻30に引用しである『魏略』の「西戎伝・臨児国」の条には、仏陀に関する簡単な記載がある。

「浮屠経」に云く。其の国の王、浮屠を生む。浮屠は太子なり。父は屑頭邪と曰い、母は莫邪と云う。

 筑摩書房版『三国志』で確認してみた。「倭人伝」の直後(つまり「魏書」の最後の記事)に長い注釈がある。その中の一節だった。ちなみに、筑摩版では「浮屠・屑頭邪・莫邪」を「「フト・セットウヤ・マヤ」と読んでいる。

 ここにいう浮屠とはもちろん釈迦牟尼その人であり、サンスクリットのbuddhaの音訳である。とすればシヤカの両親である〈屑頭邪〉と〈莫邪〉は浄飯王のśuddho-danaおよび摩耶夫人のmāyāの訳音であることが明らかであろう。

韻鏡
 このdha,māの音を表記した〈屠〉〈莫〉〈この場合〈暮〉と同音〉を『韻鏡』にあてはめれば、内転第十二開合一等に属しているから、その母音は〔ɑ〕を表わしていることとなり、さきの字はそれぞれ〈模〉mwɑ〈都〉tɑ〈奴〉nɑ〈呼〉χɑ〈廬〉lɑとなる。

疑問
(理解出来ていない者が口をだすのはおこがましいが、内転第十二開合一等の母音は「オ」じゃないの? 第一列の漢字が「韻母」だとすると、「模」の音は「モ・ボ」しかないものなぁ。)

 氏は「他の文字についても、こうした手続きをふんで音価を比定すると表3のごとくなる。」と続けて、「倭人伝」に登場する固有名詞の「洛陽古音」とやらによる読みの一覧表を提示している。「洛陽古音」は私には疑問だらけの音韻だが、「洛陽古音」による長田氏の倭語の読みは必要に応じて紹介していこう。
《続・「真説古代史」拾遺篇》(78)



「倭人伝」中の倭語の読み方(21)
倭語音韻の基本法則(2)の補足


 全くの門外漢が今まで考えたこともない事柄を取り上げている。私の考えが正しいのかどうか、はなはだ心許ないが、乗りかかった船、もう少し続ける。

 『地名学…』(2002年)を読んでいて、楠原氏が溝手理太郎という方と共編で『地名用語語源辞典』(1983年)を出版していることを知った。参考にしようと思い、さっそく図書館から借りてきた。その辞典に「た」という項目が設けられていて、「タ」接尾語説が説かれている。次のようである。

た〔田、太、多、大、駄、丹、手、埵〕

①接尾語。「方向」、「場所」、「部分」、「位置」などを示す。カナタ(彼方)、コナタ(此方)、アナタ(彼方)、シタ(下)、ハタ(端)、ヘタ(辺)などのタ。「方向」を示すテ(手)と同義(『岩波古語辞典』)といわれるが、むしろ地名での用例からすると「場所」を示すト(処)に近い。
②耕作地。水田。ト(処)の転〔松岡静雄〕か。
③接頭語。テ(手)の意か。単に語調をととのえるものもあるか。
④タ(咫)で、上代の長さをはかる単位に由来するものもあるか。
⑤「多」、「太」などの字音による地名もあるか。

〔解説〕日本の地名(とくに集落名)中には、語尾に「田」のつくものがきわめて多い。このことは水田耕作に依拠する民族性を示すことはその通りであろうが、しかしこれらの地名の「田」すべてを「水田」の意と解しては明らかな語義矛盾に陥るものも少なくない。むしろ、①の「処」の意のタで、「田」という用字は瑞祥的・願望的好字として使用されたものと理解したほうが、ほとんどの地名の解釈においては有効有益であろう。

 前回書いたように、③の接頭語はどの辞典にも載っている。例として前回は現代語を挙げたが、古語辞典では「たやすし」「たばかる」「たばしる」などの例が挙げられている。

 ①の接尾語を再論する。前回、カナタ(彼方)、コナタ(此方)、アナタ(彼方)の「タ」を接尾語とするのは誤りだということを述べたが、ここではシタ(下)、ハタ(端)、ヘタ(辺)もその例としてあげられているので、これを検討してみよう。

 「ハ(端)」「ヘ(辺)」はその一音だけで、それぞれ「はし」「ほとり・あたり・へん」という意味をもつ「部分」を表す語である。従って「ハタ(端、半)」「ヘタ(辺、端)」はそれぞれ「ハ(ヘ)」と「タ」の合成語」と考えられる。

 これに対して「シタ」の場合、「シ」一音で「部分(部分)」を表すのだろうか。どの辞典にもない。この場合は「シタ」を「シ」と「タ」の合成語とは考えがたい。「キタ(北)」は「方向」をあらわす語だが、これも「キ」と「タ」の合成語だと言うわけにはいかないだろう。

 「語根」という概念がある。この概念を用いれば、「ハ」「ヘ」「タ」はそれぞれ語根であり、「ハタ」「ヘタ」は二つの語根の合成語である。また、「シタ」「キタ」はそれ自身が語根である。このように考えるのが穏当ではないだろうか。

 もちろん、「タ」を接尾語と定義したければ定義してもよいが、それでは接尾語だらけになってしまう。この伝で行くと、例えば「カタ(肩)」「シタ(舌)」「マタ(股)」から「タ」は身体の部分を表す接尾語である、などという説もまかり通ってしまう。例えば「サ」という状態・程度を示す接尾語がある。「寒さ」「暑さ」「薄さ」「厚さ」「深さ」「浅さ」「美しさ」「醜さ」「愛しさ」「憎さ」……。接尾語にはこのような普遍性がある。上・下や東・西・南・北を示す語が全て「…タ」と表音されるぐらいの普遍性がなければ、「タ」を接尾語などと言うわけにはいかないのではないか。

 上で「語根」という概念を取り上げたが、古田さんの「言素」はこれと同じ概念ではないだろうか。その言素に関連して、古田さんは『俾弥呼』で接頭語・接尾語という用語を用いている。例えば
『「マ」は、日本語に最も多い接尾語。「やま(山)」「たま(玉)」などの「マ」である。』
というように用いている。楠原氏の場合と同様、不適切な使い方である。二つの言素(語根)の合成語と言うべきだろう。
《続・「真説古代史」拾遺篇》(77)



「倭人伝」中の倭語の読み方(20)
倭語音韻の基本法則(2)


 前回、④・⑤の先頭音の濁音化を「後世における音韻変化」と書いたが、そうではなく、「漢字の読み方の変化」と言った方が適切かも知れない。例えば⑤「造果郷」について『和名抄』には「サウカ」という訓注があるという。倭音「サウ」に「造」という漢字を割り当てていることになるが、念のため漢和辞典を調べると、「造」には確かに「ソウ(サウ)」という音がある。この「造(サウ)」が、後に「造(ゾウ)」がより一般的な読みとなり、「造果」という地名にまで波及したと考えられる。

 このような漢字の読み方の変化ではなく、倭語そのものの音韻変化がある。通韻(同韻相通、段訛り)・通音(五音相通、行訛り)・「連濁」である。

通韻(同韻相通、段訛り)

 五十音の同じ段の音に変わる音韻変化である。例を挙げると
「けむり」→「けぶり」
 マ行ウ段の「む」がバ行ウ段の「ぶ」に変化している。
「のく(退)」→「どく」
 ナ行オ段の「の」がダ行オ段の「ど」に変化している。

通音(五音相通、行訛り)

 五十音の同じ行の別の段の音に変わる音韻変化である。例を挙げると
「ありく(歩)」→「あるく」
 ラ行イ段からラ行ウ段に変化している。
すめらぎ(皇)」→「すめろぎ」
 ラ行ア段からラ行オ段に変化している。

連濁

 広辞苑では
「2語が複合して1語をつくるとき、下に来る語の初めの清音が濁音に変わること。」
と説明して、次のような例を挙げている。
「みか(三日)」+「つき(月)→「みかづき(三日月)」
「じ(地)」+「ひき(引)」→「じびき(地引)」

 少し身近な例を挙げてみよう。
げたばこ・はりばこ
ざぶとん・かけぶとん・しきぶとん
ほんだな・かみだな
かなづち・きづち
 動詞にもある。
さきばしる・ねぎる・てまどる

 「連濁」の起こり方のルールは相当複雑である。面白い問題だが、今は深入りしない。



 『「21国」の読み:準備編』で楠原氏の「邪馬臺国」の読みを紹介したが、実はそのとき一つ疑問に思ったことがある。それが倭語の音韻変化を改めて学習しようと決めたきっかけだった。その疑問を取り上げておこう。

 楠原氏は「邪馬臺」を「ヤマダ」と読み、
(1)
『「山田」という言葉の語構成は、ヤマ・ダという形で、ダはタの連濁であろう。』
と述べている。そして、この「タ」は「アナタ」「コナタ」の「タ」であり、これは

(2)
『「方向・場所」を示す接尾語のタではないか。』
と言ってる。

 (1)では「ヤマダ」は「ヤマ+タ」という複合語で、連濁で「ヤマダ」となったと主張している。この部分には問題はない。

 (2)では「?」付きながら「タ」を接尾語だと言っている。初耳だ。手許にあるどの国語辞典・古語辞典にもそのような接尾語はない。接頭語ならある。「名詞・動詞・形容詞の上に副えて、語調を整え強める」接頭語で、例としては「たやすい」「たばかる」「た靡く」が挙げられている。(広辞苑)

 「アナタ」「コナタ」は複合語だが、「アナ+タ」「コナ+タ」ではあるまい。

 「この道・その道・あの道・どの道・かの道」と言うように「こ・そ・あ・ど・か」は代名詞である。これらの代名詞と「なた」という方向を意味する抽象名詞との複合語が「此方(こなた)・其方(そなた)・彼方(あなた)・何方(どなた)・彼方(かなた)」である。「なた」は「このかた・そのかた・かのかた・どのかた」の「のかた」が語源だろう。とすると、「これ・それ・あれ・どれ・かれ」なども、代名詞「こ・そ・あ・ど・か」と事物を意味する抽象名詞「れ」との複合語ということになる。

 楠原氏は「邪馬臺=ヤマダ」説に30ページほどを費やしているが、「ヤマダ(タ)」は「ヤマ」と「アナタ・コナタ」の「タ」との複合語という謬論のところで既に破綻している。全ての「邪馬台(タイ)国」説と同じく、楠原氏の「邪馬臺(ダ)国」説も謬論の積み重ねで論旨を取り繕うほか、議論を保つことができない。氏は「序章」で従来の「邪馬台(タイ)国」論者を次のように手厳しく批判している。

 文献史学なり考古学なりの専門研究者の大勢は、地名論としては新井白石・本居宣長以来のレベルからほとんど一歩も出ていない。否、むしろ新井白石や本居宣長は彼らなりに地名の持つ意味を真剣に究明しようとしていたのに、後世の論者は彼らの研究態度や成果に何ら学ぼうとしていないし、その欠陥を検証することもなかった。邪馬台国論争の停滞は、まさに日本における地名研究、とりわけでその語源研究の停滞と軌を一にするといっても過言ではない。

 地名の意味もわからずに、音の類似だけを頼りに後世の地名に当てはめようとすれば、それは必然的に〝当て物・判じ物″、挙げ句は〝当るも八卦″のレベルに陥るほかない。

 そんな程度の知識では、ブームを呼んだ古田武彦氏の「邪馬壱国」論の奇妙さを指摘し、その論理を真っ向から批判することもできるわけがなかった。さらに、「邪馬台国東遷」論が唱える「ヤマトほか筑紫平野周辺の地名多くが、邪馬台国の東遷に伴って畿内に移植された」などという、地名の常識から見ても、民族と文化の伝播・展開という面からしても、奇怪きわまる論の跳梁を許すことにもなったのである。

 すさまじいまでの自信である。氏は果して従来の〝当て物・判じ物″的論理を越えただろうか。それは論理的に無理なのだ。何度でも言うが、「邪馬壹国」ではなく「邪馬台(臺)国」を公理として選んだスタートの時点でその後の論理展開は〝当て物・判じ物″的に成らざるを得ないのだ。誤謬の公理からは真理を導き出せないのは当然のことである。

 また、氏は『古田武彦氏の「邪馬壱国」論の奇妙さ』を「真っ向から批判」出来ているだろうか。これも「否」と言わざるを得ない。『「21国」の読み:準備編』で指摘したように、氏が言う「奇妙さ」は古田説に対する全くの曲解に基づいている。曲解からは有効な批判が成し得ないのも当然なことである。なお、『地名学…』にはこれ以外に古田氏への批判は見あたらない。
《続・「真説古代史」拾遺篇》(76)



「倭人伝」中の倭語の読み方(19)
倭語の基本法則(1)


 今回は『「21国」の読み:邪馬国(2)』という表題で、『地名学…』の「邪馬国」説を検討する予定だったが、そこに入る前に『地名学…』を読むに当たって必要な倭語の音韻に関する法則を確認しておきたい。

和語には本来濁音から始まる語はない。

 言葉は後世にさまざまな影響を受けて変化するものであり、清音が濁音に変わることもあるだろう。そういう意味で「本来」という限定を付けた。

 今は古代地名が問題になっているので、古代地名に限って論じよう。地名はもともとはそこに住む人々が、その地の景観や動植物や産物などをもとに、その実生活や精神生活を通して生み出していったものである。しかし、その地名も後世にはいろいろな変化を受けて変わっていく。特に行政上の人工的な変化がほとんどだろうと推測する。試みに吉田茂樹著『日本古代地名事典』から濁音で始まる地名を抜き出してみる。(〈〉内の引用文は左記辞典から)

①蒲生(ガモウ)・②郡上(グジョウ)・③群馬(グンマ)・④馭謨(ゴム)・⑤造果(ゾウカ)・⑥太宰府(ダザイフ)・⑦出羽(デワ)・⑧備前(ビゼン)・⑨備中(ビッチュウ)・⑩備後(ビンゴ)・⑪豊前(ブゼン)・⑫豊後(ブンゴ)

 ⑥は倭語ではない。太宰(あるいは大宰)は春秋時代からある中国の官職名。

 ⑧~⑫はもとはそれぞれ吉備(キビ)国・豊(トヨ)国と呼ばれていた国が後世になって三国あるいは二国に分けられたときにつけられた人工的な地名である。

①について。
 二例挙げられている。ともに『和名抄』からで一つは「近江国蒲生郡」、もう一つは「豊前国企救(きく)郡蒲生郷」でどちらの「蒲(がま)の生えた地」という意に取っている。

 同じ「蒲」を使った地名に蒲田(カマタ)・蒲原(カマハラあるいはカンバラ)がある。「ガモウ」ももとは「カマウ」だったのではないか(これは何の根拠もない推測)。

 手元に『日本地名ルーツ辞典』があるので、念のためこちらも調べてみた。上の二例はないが、蒲生峠(ガモウトウゲ)という例が取り上げられていた。次のように説明している。
「岩美郡岩美町蕪島(かぶらじま)と兵庫県美方郡温泉町千谷(ちや)の間の県境の峠。地元の人はカモウともいう。(以下略)」

 「カマウ」→「ガモウ」も可能性があるかもしれない。

②は行政上の人工的命名である。
〈『文徳』斉衡(さいこう)2年(855)に美濃国の「武儀(むぎ)郡の北部を割いて郡上郡を置く」とあり、岐阜県郡上市の地域をいう。武儀郡の上(かみ)に郡を設置したので、「郡上」の地名が生まれた。〉

③はもとは「クルマ」だったようだ。
〈『続紀』宝亀8年(777)に上野国の「群馬(くるま)郡」で見えるが、『藤原宮木簡』に「車評」(くるまこほり)で初見し、群馬県群馬郡、前橋市、高崎市、渋川市の一帯をいう。「くるま(車)」の意で、上毛野君の一族、車持公の部民が乗車を(のりくるま)を作った所をいう。〉

④・⑤は不確定ながら、後世における音韻変化のようだ。


〈『類聚三代格』天長元年(824)に「能満(のま)合於馭謨(ごむ)」「益救(やく)令於熊毛(くまけ)」で初見するが、実際には、益救郡を馭謨郡へ、能満郡を熊毛郡へ合併したとみられる。鹿児島県の屋久島全域の部名で、明言できないが、山ばかりの狭い土地に、多くの人が来住したので、「こむ(込)」と呼んだことも考えられる〉

⑤ 〈『和名抄』安芸国賀茂郡に「造果郷」で見え、広島県東広島市造果の地をいう。「サウカ」の訓注があるが、「さはか(沢処)」の意ではあるまいか。山中にあって、川水の集まる地域で、水たまりに草の生えた地を「沢処」と呼んだ可能性が極めて高い。 〉

 「投馬国(1)」では「倭語には濁音で始まる語はない」という法則が全く念頭になかったので、次のような妥協をしておいた。

「投馬」を「つま」と読むことが出来るのだろうか。

 「投」には「とう」のほかに「づ」という音があるが、「つ」はない。3世紀頃の倭国では「投」を「つ」とも読んでいたのだろうか。万葉仮名にはそのような例がある。「豆」「頭」「図」が「つ」という音としても使われていた。「投」の場合については、私にはこれ以上の判断材料がないので断言は出来ないが、とりあえず「つ」とも読めるとしておく。

 「投」の音の「ヅ」→「ツ」は「倭語には濁音で始まる語はない」という法則によるとしてよいようだ。
《続・「真説古代史」拾遺篇》(75)



「倭人伝」中の倭語の読み方(18)
「21国」の読み:邪馬国(1)


 今回から〈第二グループ〉の国々の読みと所在地の比定を検討するが、そのうちの(24)邪馬国と(29)奴国については『「女王の境界の尽くる所」(3)』で既に取り上げている。従ってまた「女王の境界の尽くる所」の南にある狗奴国(第三グループ)の所在も決定している。

 さて、古田さんは
『今回のわたしの解読の方法による帰結が、決して「究極の決定性」をもつものではなく、一つの可能性の「示唆」にすぎない。』
と、「当然至極の道理」を記している。私もこの「道理」にならって、「井に中」の説も取り上げることにする。どちらがより信憑性があるか、判定できればよいが、保留せざるを得ない事例も出てくるかも知れない。すでに古田説を紹介済みの上の2国(邪馬国・奴国)について、改めて「井の中」の諸説の紹介をしておこう。

邪馬国

 『評訳倭人伝』から引用する。

 邪馬壹国の邪馬であるならば、「ヤマコク」と訓むべきである。しかし一般には「ヤメコク」と訓む。これは筑後国の八女なる地名を念頭におくからであろう。「馬」は、音「ボ」「ム」という呉音のほかに、漢音では「バ」「メ」であるから、「ヤメ」と訓んで悪くはない。これを「ヤメ」と訓むならば、邪馬壹国・邪馬臺国は、「ヤメイ(チ)コク」・「ヤメタイコク」と訓むべきであろう。そうならば、私はしたがって「ヤマコク」、あるいは「ヤバコク」と訓むべきだと思うのである。

 「…と訓むべきであろう。そうならば、私はしたがって…」というずいぶん変な文脈がある。私の転記間違いかと調べなおしたが間違っていなかった。でも言いたいことは分かる。次のように主張している。

 「邪馬壹国を「ヤマイチ」と読んでいるのに「邪馬国」を「ヤメ」と読むのは一貫性がない。「邪馬壹国」を「ヤマイチ」と読んでいるのだから、当然「邪馬国」も「ヤマ」と読むべきだ。 ― その通りである。しかし並記している「ヤバ」も、結論先出しの読み「ヤメ」もあり得ない。「バ」や「メ」は漢音だから、『「倭人伝」中の倭語の読み方』の「ルール・その一 漢字の音は呉音」に反する。もちろん例外はあるだろう。そのようなケースと思われる場合は当然再考しなければならないが、私としてはこのルールを重要なフィルターとして使っていきたい。どうやら「井の中」では呉音・漢音を区別する認識が全くないようだ。

 では、「マ」は呉音にも漢音にもないのに、どうして「邪馬」を「ヤマ」と読めるのだろうか。「マ」は慣用音なのだった。

 慣用音については、私にはよく分らないことがある。「慣用」と言うけど、いつ頃からの「慣用」?…これは漢字毎に異なるだろうと思う。では「馬」の慣用音「マ」は三世紀にも使われていたのだろうか。それは誰にも分らないのではないだろうか。ただ、万葉仮名の「マ」の中に「馬」があるので、三世紀にも「マ」が使われていたと考えるほかない。

 ここで思い付いて『…なかった』の「邪馬壹国をどうよむか」を読み直してみた。次のような論拠が挙げられていた。

「馬」―母下(もか)切〈集韻〉ma3

 では「邪馬国」を「ヤマコク」と読んで、水野氏はこれをどこに比定しているだろうか。

 すでに白石は、邪馬国を筑後国上陽郡の八女国と比定し、本居宣長もそれに同じ、牧氏また筑後国八女郡としている。宮崎氏は「ヤマのくに」と訓み、筑後国三瀦郡・上妻郡・山門郡・三宅郡の地で、現在の福岡県三瀦郡・八女郡・山門郡・三池郡およびこの郡の中にある各市を含む地域とする。この時代に三瀦郡はほとんど海中にあり、大川市などが点々と島になっていた。山門郡も鉄道以西の大半が海で、筑後川の河口は、佐賀県三根町天建寺附近と、筑邦町住吉附近を結んだ線であって、それより下流は筑紫海と呼ばれた大湾入であった。一方大和説では、内藤氏は伊勢国員弁郡野麻に比定し、米倉氏は播磨国好摩駅(赤穂郡上野町山野里)かとする。

 水野氏は諸説を紹介しているだけで、氏自身の説を提出していない。「ヤメ」説は「ルール・その一」により除外。内藤説の「ノマ」、米倉説の「ヤマノ」など、「ヤマ」との類似音を探し出す手法での比定である。宮崎説は「ヤメ」と「ヤマト」と欲張って二つもある。それにしても「福岡県三瀦郡・八女郡・山門郡・三池郡およびこの郡の中にある各市を含む地域」という広大な所在地比定にはびっくりした。この広さは邪馬壹国をもしのぐのではないだろうか。私の感覚では21国中の国の広さは大きくともせいぜい「郡」ぐらいだ。

 「この時代に三瀦郡はほとんど海中にあり、……それより下流は筑紫海と呼ばれた大湾入であった。」
という指摘にもびっくりした。出典が示されていないのでその信憑性を確認できないが、信じてよいだろう。ウィキメディアで「筑紫平野」を検索した。次のようなくだりがあった。

「筑後川と矢部川により形成された三角州は非常に平坦で、クリークが発達している。三角州の外側には鎌倉時代以降すすめられてきた地が有明海に向かってのびており、ほぼ100年に1キロメートルの割合で陸地化したと推定されている。」

 「クリーク」とは潅漑用の水路である。手元の地図帳から「筑紫平野」を転載する。

筑紫平野地図

 ウィキメディアからの引用文も文脈がはっきりしない点がある。「鎌倉時代以降…ほぼ100年に1キロメートルの割合で陸地化したと推定されている」と読めてしまうが、私は「有明海に向かってのびている」と文はここで切るべきで、「(三角州は)ほぼ100年に1キロメートルの割合で陸地化したと推定されている。」と読んだ。

 当時の筑後川の河口が水野氏の言う通り佐賀県三根町天建寺附近だとすると、現在の河口より約20㎞ほど上流になる。そうすると当時の河口から現在の河口まで陸地化するのにおおよそ2000年かかったことになり、水野氏の記述とほぼ一致することになる。氏が言う「鉄道以西」の鉄道が鹿児島本線を指しているのなら三潴市・大川市・柳川市などは海の中だったことになる。東側では佐賀市辺りも海だった可能性がある。

 ここまで書いて、もっと確かな情報はないだろうかと」筑紫平野古地図」という検索をしてみた。なんと「古田史学会報 四十四号」がヒットした。下山昌孝という方の論文「古代の佐賀平野と有明海」だった。これを読むと、これまでの私の考察はペケだった。この論文を読むと、水野氏の用いた資料はどうやら「久留米市史第一巻」あるいはその原典「九大教養部地質研究報告第4集(昭和三二年)」だったようだ。詳しくは直接読んでいただくこととして、下山論文の結論部分を引用する。

 縄文時代前・中期には「古筑紫海」が大きく広がっていたが、後期から弥生時代にかけて筑後川周辺の陸地化はかなり進んだ様である。図4は、佐賀県教育委員会編集「吉野ケ里遺跡」(2000年2月発行)に示された「吉野ヶ里を中心とした集落(弥生時代後期)」である。これを見ると、現諸富町の辺りが筑後川の河口になっていて、多数の「環濠をもたない集落」遺跡が分布している。そして吉野ヶ里を中心とする「国」の構成を説明した一節に「(弥生)終末期から古墳時代初頭に属する諸富町の三重檪ノ木遺跡や土師本村遺跡など当時の海辺の遺跡からは、東海地方以西の系統の土器が多く出土することから、吉野ヶ里集落など山麓部の拠点的な集落のための港であった可能性が高い」と記されている。最近の考古学的調査結果を反映した、佐賀県教育委員会による説明を見れば、諸富町の津は弥生時代に既に港として機能していたことは明白である。

 上の地図で諸富町を確認してください。弥生時代にはもうそこまで河口は南下していたのですね。考古学的調査結果をふまえた議論なので、疑問の余地はない。

 ということでした。出来上がったものを発表しているのではなく、一緒に考えましょうという趣旨で、考えながら書いているのでこういう事がよく起こる。改めて書き直しはしないで、このまま記録しておきます。まったく知らなかったことを学ぶことができたので、無駄骨を折ったとは思っていない。
《続・「真説古代史」拾遺篇》(74)



「倭人伝」中の倭語の読み方(17)
「21国」の読み:準備編


 本題に入る前にちょっと横道へ。
 『評釈 魏使倭人伝』はいわば『「井の中」の諸説総覧』の観がある。これまで「井の中」での邪馬壹国比定は断片的に知っていただけだった。これを用いて、その諸説を総覧してみようと思い立った。どこかで役に立つかも知れない。

 水野氏作成の表を転記する。〈学者名―比定地―出典〉という三つの項目から成っている。


《南九州説》
本居宜長―邪馬臺国すなわち熊襲、卑弥呼は熊襲の女酋長。―馭戎慨言(全集)
鶴峯戊申―邪馬臺国は熊襲にして、襲国に他ならず。―襲国偽僭考
菅政友―邪馬臺国は大隅薩摩地方なり。―漢籍倭人考(全集)
吉田東伍―邪馬壹国は大隅国囎唹郡姫城なり。―日韓古史断
那珂通世―邪馬壹国は姫城、投馬国は筑前国托摩郡なり。―那珂通世遺書

《北九州説》
近藤芳樹―肥後国菊池郡山門郷、投馬国は肥後国托摩郡。―征韓起源
白鳥庫吉―肥後国菊池郡山門郷説。―卑弥呼問題の解決
太田亮―筑後国山門郡を含めた肥後菊池郡山門郷説。―日本古代史の新研究
星野恒―筑後国山門郡説。―史学叢説第一輯
久米邦武―邪馬台国は筑前国山門郡(八女国)なり、投馬は薩摩国。―日本古代史
橋本増吉―邪馬台国は筑後国山門郡なり。―東洋史上より見たる日本古史研究
喜田貞吉―邪馬台国は筑後国山門郡なり。―漢籍に見えたる倭人記事の解釈
藤井甚太郎―邪馬台国は肥後国内なり、投馬は肥後当麻郷なり。―邪馬台国の所在について
榎一雄―邪馬台国すなわち山門は筑紫平野矢部川流域なり。―邪馬台国増補版
水野祐―邪馬壹国は筑後川下流地域筑後国山門郡地域である。―日本古代国家

《ヤマト説》
三宅米吉―邪馬台国は大和国、投馬国は備後国の鞆(トモ)。―邪馬台国について
内藤虎次郎―邪馬台国は大和国、投馬国は周防国佐婆郡玉祖郷。―卑弥呼考
山田孝雄―邪馬台国は大和国、投馬国は但馬国。―狗奴国考
笠井新也―邪馬台国は大和国、投馬国は出雲国。―卑弥呼時代における畿内と九州との文化的並に政治的関係
中山太郎―邪馬台国は大和国である。―魏志倭人伝の土俗学的研究
富岡謙蔵―邪馬台国は大和国である。主として魏晋鏡が大和から出土する故―古鏡の研究。
高橋健自―邪馬台国は大和国である。―考古学上より見たる邪馬台国
梅原末治―邪馬台国は大和国である。―考古学上より見たる上代の畿内
中山平次郎―邪馬台国は大和国である。―漢委奴国王印出土状況より見た漢魏時代の倭国の動静
肥後和男―邪馬台国は大和国。―大和としての邪馬台国
和歌森太郎―大和国を邪馬台国とする。―私観邪馬台国
志田不動麿―大和国を邪馬台国とし、投馬国は備後国鞆とする。―邪馬台国方位考


 初めて知る学者さんもいる。まさに百花繚乱、いや徒花(あだばな)繚乱である。水野氏のほかに「邪馬壹国」という表記を選んでいる人が2人いるが、あとは全て「邪馬台(臺)国」である。水野氏は「邪馬壹国」を選んでおきながら「山門郡」に比定している。「邪馬台(臺)国」と手が切れていない。いまだに「邪馬台国」を大前提にした書物が次々と出版されている。「邪馬台国」という疫病の絶滅はかなり難しい。

 上の表で「邪馬台国」とともに投馬国の比定を行っている人がかなりいる。しかし全て方向記事や水行記事を無視したものばかりで、学者という肩書きが泣いている。

 さて、今回から〈第二グループ〉の国々の比定を検討する。その検討の参考にと思って、楠原祐介著『「地名学」が解いた邪馬台国』(以下、『地名学…』と略称する)という本が目に付いた。あいかわらず「邪馬台国」なので、所在地比定に関しては全く期待をしていないが、「地名学」を標榜しているので、「21国」の読みについて何か有効な知見に出会えるかも知れない思って借りて来た。

 楠原氏は実に52冊もの参考文献を挙げている。その中に古田さんの『「邪馬台国」はなかった』(以下、『…なかった』と略称する)が挙げられていた。しかし、全く誤読(あるいは読んでいない?)をしているのでせっかくの名著が何の役にも立っていない。次のような按配である。

 古田氏はまた、ヤマと呼ばれた地域の首都・中心地を「壱」と称したのだとも主張するが、この論も首肯しがたい。日本ではこれまで、ある地域の中心部を指して「~壱(一)」と表現するような命名習慣はない。私は中国の文献には疎いので断言するつもりはないが、中国国内の一地域にせよ周辺の蛮族の国を呼ぶにせよ、ある地域の中心地を「~壹(壱)」と呼ぶ習慣はやはりないのではないか。
 どこをどう読めばこのような解読ができるのだろうか。古田さんは「壹(壱、一)」がある地域中心部を指す、などと、どこにも書いていない。『三国志』における「壹」の使用例を調べ上げて、その文字が「魏朝の天子に対して、二心なく忠義を尽くす」という特別の意味があることを、「歴史的由来」と「同時代の政治的状況にもとづく理由」の二面から克明に論証している。

 ついでなので「地名学」による「邪馬臺国」(氏は「臺」と表記している)を紹介しよう。氏は「邪馬臺」を「ヤマダ(タ)」と読むという新説を出している。そして、その「タ」は「彼方(アナタ)・此方(コナタ)」の「タ」であり、「ヤマタ」は「山になった所」「山のあるあたり」「山のある方向」「山の見える方向」という意味であると説く。さらに氏は、肥前国佐嘉(さが)郡山田郷に目をつけ、実際にそこに出かけて「甘南備山」と呼ばれている山に引きつけられる。そして「ヤマタ」とは「神聖な山が神々しい錐形に見える地」であろうと推測して、「邪馬臺国」の所在地は肥前国佐嘉郡であると結論する。また、吉野ヶ里遺跡に近いことをその論拠の一つにしている。

 実際に現地に出かけて、「歴史は足にて知るべきものなり」を実行している点は高く買いたいが、「邪馬臺国」という間違った表記を前提にしているかぎり、無駄足に終わる。里程記事も考古学的事実(三種の神器・青銅器・鉄器・絹などの出土品)も無視した比定はすべて無効である。

 なお、『「地名学」…』に「井に中」の「邪馬台国」九州説の比定地が一目で分る地図があるので転載しておこう。『評釈 倭人伝』とちがって、かなり新しい人たち(私はほとんど知らない)が多い。「井の中」では「三セズ」(採択せず・論争せず・相手にせず)協定を結んでいるらしく古田説を全く無視しているが、この地図には古田説も加えられている。この点は評価しておこう。

「邪馬台国」比定地