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《続・「真説古代史」拾遺篇》(73)



「倭人伝」中の倭語の読み方(16)
投馬国(7):考古学的根拠および官職名


 「投馬国=薩摩」という比定が妥当であることを考古学上の事実から補強できないだろうかと考えていたら、おかしな問題にぶつかった。「投馬国」問題をもう1回続けたい。

 私がぶつかった「おかしな問題」を説明しよう。

 「投馬国=薩摩」の妥当性を鉄の出土状況から確認しようと思った。「狗奴国の滅亡(20)」に掲載した表(表①と呼ぼう)や図は『日本古代新史』(1991年)からの転載である。それは20年ほども前の資料なので新しい資料を探していた。『狗奴国と鉄』を借りて来たのはそのためでもあった。その本に①と対応する表が二つあった。一つは奥野正男著『邪馬台国はここだ』(1981年)からの転載(表②)で、もう一つは安本美典著『「邪馬台国畿内説」徹底批判』からの転載(表③)である。それぞれ必要な部分(九州部分)を切り取って表示する。

表①
古冢期の出土鉄器分布表

表②
鉄器出土数表2

 この表は奥野氏が自らの研究をまとめられたもののようだ。氏は主として「古代の鉄」を研究されている。それだけに表①より詳しいものとなっている。

 表①と表②はおおよそ同じような様子が読み取れるが、一つだけ著しく違う点がある。表②では熊本が武器は少ないのに「工具・他」が突出しているのが目立つ。これはどういう事なのだろうか。

 九州に注目しよう。武器の出土数を見比べると、表②では岡に次いで長崎が多いが、佐賀・大分・鹿児島はほとんど同じ数を示している。ただし、「鉄剣」を見ると、鹿児島県は第三位になっている。鹿児島県のどの辺りからの出土なのか分らないので確実なことは言えないが、表①・②は「投馬国=薩摩」という比定を支持していると言ってよいだろう。

 ところが、表③ではとても「おかしな問題」に遭遇する。(「鉄刀」が二列あって、その第一列が表②の「鉄刀」と同じデータだった。明らかに編集ミスなので削除した。)

表③
鉄器出土数表3

 この表は川越哲志編「弥生時代鉄器総覧」(2000年)を元に安本氏が作成したものだという。菊池氏によると「弥生時代鉄器総覧」は非売品に近くて一般には入手しずらいもの」だそうだ。図書館にはなかった。なお、表①の脚注によると、古田さんが利用した資料「弥生時代鉄器出土土地地名表」の編者の一人は川越哲志氏である。

 「狗奴国の滅亡(20)」で表①を用いたとき、私は次のように書いた。

「ここで用いている図表の数値は、その後の発掘調査などの進展により現在明らかになっている数値とは多少の違いがあるかも知れない。しかし、その基本的な傾向には変わりはない。岡が圧倒的に多い。権力の中心が北九州にあったことが一目瞭然である。」

 「弥生時代鉄器総覧」は「弥生時代鉄器出土土地地名表」の約20年後の編纂である。表①②と表③を見比べると「多少の違い」どころではない。出土数は約2倍に増えている。この20年間にたいへん件数の遺跡発掘調査が行われたことを示している。

 この新しい資料・表③によっても「権力の中心が北九州にあったことが一目瞭然である」が、一点「おかしな問題」がある。

 ここでたぶん誰もが「おかしな問題」に気付くと思う。そう、九州の中では鹿児島が極端に少ないのだ。この20年間、鹿児島だけ追加の遺跡調査がなかったのだろうか。もしそうだとしても、それでもおかしい。表①②では鹿児島の武器出土数は21なのに表③ではたったの3なのだ。表①②と表③とどちらが正しいのか、私には判断する材料がない。表①・表③はそれぞれ「弥生時代鉄器出土土地地名表」・「弥生時代鉄器総覧」を用いて作られた。川越氏はその基礎資料の両方の編纂を手がけている。ますます不可解だ。図書館で弥生時代の鉄を扱った本を何冊か調べたが、手掛かりは見いだせなかった。

 なお、菊池氏は表③では熊本の出土数が岡に次いで多いことをもって、狗奴国を熊本に比定する論拠にしている。

 もしも表③の方が正しいとすると、「投馬国=薩摩」説の考古学的根拠が怪しくなるけど、私にはこれ以上の資料は思いつかないので、この問題はここでひとまず終える。そして、ここで視点をすこし移して、縄文時代の鹿児島を調べて見よう。

 『「神代紀」再論:考古学が指し差すところ』で、鹿児島県北部は「アカホヤ火山灰」で壊滅的なダメージを受けたことを紹介した。壊滅的と言われているが、わずかではあっても生き残った人々はいただろう。その人々は、一時は他の地へ移住をしたりしながらも、逞しく生き続けたとことだろう。その壊滅的打撃を受けた頃の鹿児島は縄文先進国であった。新東晃一著『南九州に栄えた縄文文化 上野原遺跡』から引用する。

 上野原遺跡は、鹿児島県霧島市国分の市街地の南東部で、鹿児島湾周縁の姶良カルデラの火口壁上の標高約260メートルの上野原台地の先端部に所在している。遺跡は最先端技術の工業団地(国分上野原テクノパーク)造成にともない1986年に発見され、その後継続的に発掘調査がおこなわれた。

 まず、1994年度を中心としたⅢ工区の発掘調査では、縄文時代早期にはみられない壷形土器や耳飾りなどを所持した成熟した縄文文化が発見された。その後、1996年度を中心としたⅣ工区の北東側の調査では、52軒の竪穴住居跡で構成する集落跡が発見され大いに注目された。これらの発見は、縄文時代草創期から早期にかけての、先進的で成熱した南九州の縄文文化の集大成となり、日本列島の縄文文化観の転換を迫る成果を提供したことになる。

 上野原台地は、姶良カルデラや桜島などから噴出した多くの火山灰堆積層からできている。火山灰層は、腐植土層と互層になって17層以上の層位が確認されている。腐植土層は人類の生活跡を残した文化層であり、火山灰層は激しい火山活動があったことを教えてくれる。つまり、上野原台地の縄文人は、幾多の激しい火山活動と戦いながら生き続けてきたことがうかがえる

 上野原遺跡の地層は、まず、現代の耕作土の下には、近世から中世の生活層(2層)、弥生時代の住居跡や畑跡など(3層)、縄文時代晩期や後期(4層)および前期(5層上面)の生活層となっている。

上野原遺跡

 5層は、屋久島の北海底(硫黄島付近)の鬼界カルデラから噴出したアカホヤ火山灰層である。この火山灰層は、約60センチ以上の厚さで上野原台地を被っている。このアカホヤ火山灰層は、約6400年前の降灰とされ、韓半島南部や関東地方の遠隔地でも確認できる超広域火山灰で、完新世(縄文時代)最大の火山爆発とみなされている。

 続く6層は、縄文時代早期後葉(7500年前)の遺構や遺物が出土しており、Ⅲ工区の文化層はこれに該当する。そして、続く7層は、早期中葉から前葉(9000年から一万年前)の遺構や遺物が出土しており、Ⅳ工区の集落跡が存在する層に該当するものである。

 そして、8層は無遺物層であり、上面にはP13(約9500年前)とよばれる桜島の火山灰が混入している。10層は、約15~20センチ程度の厚さに堆積した薩摩火山灰層(P14)とよばれる桜島の噴出物で、この爆発によって現在の桜島ができたと考えられている。上野原遺跡では、この10層以下では人類の生活した跡は確認されてない。

 さて、投馬国の官職名は大官は「弥弥(ミミ)」、副官は「弥弥那利(ミミナリ)」であった。この倭語を古田さんは次のように解読している。

「ミミ」の地名は、日本列島(西日本)各地に少なくない。たとえば、大阪府の仁徳陵のあるところは「耳原」である。「耳(ミミ)さん」というのが、土地の旧家である(「うどんすき」の店、「ミミウ」など)。京都でも山科に「耳塚古墳」がある。「土地の長官の墓」である。京都市東山区の豊国神社前の耳塚は「(秀吉のとき)切った耳を持って帰って埋めた」といった類の〝解説″があるけれど、これは〝こじつけ″の「俗説」にすぎない(別述)。やはり「土地の長官の墓」の意の「耳塚との混線」なのである。

 「ミミ」は「ミ」(女神)の〝二重反復語″であり、南方(太平洋方面)に多い語型である。日本語の「言語伝統」を〝正しく″伝えた「官名表示」なのである。決して「弥生時代」あたりに〝造られた″「新規の官名」ではない。鹿児島県の縄文期における「神々への祭祀」期に淵源する「大官名」と「副官名」なのではあるまいか。

 縄文時代の文化・言語・風習などは古冢時代にはまったく消滅するなどと考える人はまずいないだろう。それは天族(征服者)や渡来人などと相互に影響を与え合いながらも受け継がれていく。倭人伝の倭語に縄文期の痕跡が残るのは当然のことだ。いや、古層に残っている言葉はむしろ縄文語から解き明かすことができるケースの方が多いだろう。私は古田さんの「言素論」はその試みの一つだと理解している。
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《続・「真説古代史」拾遺篇》(72)



「倭人伝」中の倭語の読み方(15)
投馬国(6):古田説の検討(4)


 投馬国の検討が思いがけず長くなってしまったが、もう一回続ける。というのは、これまでは『「邪馬台国」はなかった』(古田さんにならって第一書とよぶことにする)で論じられた説(旧説と呼ぶことにする)を検討してきたが、実は古田さんは『俾弥呼』では投馬国について新説を提出している。それを検討したい。新説では次のように述べている。

 「伊都国」(糸島郡。現在の糸島市および福岡市)から「投馬国」(鹿児島県)まで、果して水路で何日かかるであろうか(なお、帯方郡はソウルの西方部の可能性あり。また投馬国は川内(せんだい)の可能性あり)。

 「投馬国」の中心部を現在の鹿児島神宮(姶良郡隼人町宇内)あたりにとっても、上野原遺跡(国分市)にとっても、薩摩半島を迂回して鹿児島湾を北上するルートとなるであろうけれども、そのさい、右の「水行十日」に当たる、
 (A) 帯方郡治~韓国西北端
 (B)狗邪韓国~対海国~一大国~末廬国
の両行程と比較すれば、その「二倍」には当たりえないこと、明白であろう。

 もしかりに、九州の東岸部を南行した場合でも、右の(A)(B)の「二倍」には当たりがたいであろう。

 もちろん、
(α)伊都国から投馬国へ
(β)投馬国から伊都国へ
の二つのケースについて、海流の向きからして「同一の日程」ではないであろうけれど、それでも、右の「二倍」に〝当てる″ことは、相当無理なのではあるまいか。


 旧説では投馬国への行路は不弥国から始められていたが、新説では伊都国を出発点にしている。第一書では、伊都国は糸島半島の付け根当たりというだけで、その中心地は特定できていなかった。ここでも「現在の糸島市および福岡市」と広い範囲を示しているだけだが、「女王国所在地の結論」という項で少し突っ込んだ論考をしている。

 現在の、わたし自身の「考え方」に立ってのべよう。

 第一のポイントは、「伊都国」の〝位置″だ。末廬国から「五百里」。「直線行路」ではない上、終着点の「伊都国の中心地」も、必ずしも明確ではない。「糸島半島近辺」であることは確かでも、その「近辺」のどこに「中心点」をとるか、で、次への展開(「不弥国」への百里)が〝変動″するのである。

 第二のポイントは、「一大率」の存在である。第一書ではこれを「一つの大きな軍団の長」と考えた。まちがいだった。倭人伝中の「直前」ともいうべき文面に「一大国」が存在する。壱岐だ。その「一大国の軍団のリーダー」のいたところは、どこか。それが問題なのである。

 現在のわたしは「壱岐の松原」近辺に、それを「見る」のである。対馬・壱岐は著名の二島だ。その一つ、「壱岐」をわざわざ、この博多湾岸の西域に〝名付け″て「壱岐の松原」と呼んだのは、なぜか。 ― それが「一大率」の存在をしめす地名だったのではないか。現在のわたしは、そのように考えているのである。

 第三のポイントは、基点をなす「不弥国」である。その〝新たな位置付け″である。右の「壱岐の松原」より、さらに「百里」東寄りとなろう。当然、那珂川、御笠川の流域、現在の博多の中心部を含む地帯とならざるをえないであろう。

 その「南」とは、いわゆる「弥生銀座」と俗称されるところ。「須玖岡本」も、「筑紫神社」と筑紫野市も、そして太宰府も、いずれもその線上に存在する。「女王国の中枢部」として、考古学的出土上、何の不足もないのである。

 「壱岐の松原」(現在の表記では「生の松原」)を伊都国の中心と考えている。念のため私の得意技(?)の地図上糸測定をしてみたら約40㎞。「五百里≒38.35㎞」にふさわしい地点だ。そこは博多湾の西海岸、能古島の南である。不弥国・伊都国のどちらを出発地と考えても投馬国までの距離は同じと考えてよいだろう。しかし、『九州の東岸部を南行した場合でも、右の(A)(B)の「二倍」には当たりがたい』という判断は間違っていると思う。前回に書いたように、私の糸測定は実に大雑把ではあるけれども、東海岸周旋ならば丁度「二倍」ぐらいになった。

 古田さんの新説の文章は次のように続く。
 端的に言おう。「この『二十日』は、倭人側の『二倍年暦』による記述である。」と。

 「伊都国と投馬国との間」は、「里程」で書かれていない。すなわち、魏使は投馬国に至っていないのである。したがってここに書かれている「日数」は、「倭人側からの報告」によって書かれた。そのように見なす他はない。その倭人側は「二倍年暦」の国であった。だから、当然この「二十日」も「二倍年暦」であり、通例の「中国側の表記」では、「十日間」に相当しているのである。

(以下、「」付きの年月日数は「二倍年暦」でのものであり、「」のないものは「一倍年暦」(普通)の年月日数である。)

 つまり、古田さんは「二倍年暦」は年数だけではなく、月数も日数も二倍になっていると考えている。
「裸國・黒歯國あり、……船行一年」
の「一年」を論じているところで次ぎのように述べている。

 わたしは三国志の魏志倭人伝をもって「二倍年暦」表記の世界とみなした(第一書参照)。すでにこのテーマにふれた先人がいた。安本美典氏である。けれども氏は「二倍年暦は、寿命計算だけです。」と、わたしに語った。その一点で、わたしは氏と見解を異にしたのである。「寿命」であろうと、「日数」であろうと、「二倍年暦は二倍年暦」であり、別概念をもってこれを〝扱う″べきではない。これがわたしの学問の方法だったのである。

 この立場に立つとき、この「一年」は「半年」であり、その「半年」によって黒潮は人間を「南米の中央部」へと導き、……(以下略す。いずれ詳しく取り上げる予定です。)

 「二倍年暦」なのだから『6ヶ月が「1年」』という説は至極当然である。そうでなければ「暦」とは言えない。しかし、日数も月数も二倍になるというのはどうだろうか。

 「二倍年暦」を証言する文献として倭人伝で裴松之が引用した文章がある。

魏略に曰く「其の俗、正歳四節を知らず、但ゝ春耕・秋収を計りて年紀と為す」

 農業(特に米作)を社会基盤とする共同体では「春耕」と「秋収」を区切り目として、6ヶ月を「1年」とする暦を用いたと言っている。もちろん倭人とて春夏秋冬を知っている。当然なことだ。しかし、暦は社会生活を律する重要な共同観念だから、農業共同体においては「二倍年暦」はそれなりの合理性がある。そのような暦という共同観念は、支配者による強制ではなく、自然発生的に生まれた可能性が大である。

 月の場合はどうか。例えば「満月から新月」までを「1ヶ月」として1ヶ月を「2ヶ月」と数えることも、人々の生活を混乱させる要因はなさそうだから、あり得るかも知れない。しかし、どんなに古い時代でも人々は、春夏秋冬を知っているように、月の満ち欠けには上弦と下弦の違いがあり、満月(新月)から次の満月(新月)が1サークルであることを当然知っているはずだ。それに、1年を「2年」とすることとは違い、1ヶ月を「2ヶ月」と数えることを共通観念としなければならない必然性はない。「1年」を「12ヶ月」としなくとも共同体に何の不都合もないだろう。

 日数の場合も同じだ。例えば1日を昼夜に分けて「2日」と数えるとしよう。これは社会生活にかなりの混乱を招くのではないだろうか。「では四日後に合いましょう」とか「それは五日前に終わりました」とかいった会話すら混乱しかねない。そして何よりも一日のサークルは人間の生理面に大きく関与している。私は1日を「2日」とする必然性もないと思う。

 私には『「二倍年暦」では日数や月数も二倍になる』という考えは納得しがたいが、仮に倭人は日数も二倍に数えたとしよう。この場合の投馬国はどこになるだろうか。

 倭人が言う「水行二十日」は魏朝の暦では「水行十日」となる。これは魏使の狗邪韓国から邪馬壹国までの全水行と同じで「4500里=345㎞」である。またまた糸測定をやってみる。東海岸周旋では日向あたりになる。西海岸周旋では川内川あたりになる。

 ここで、「ああ。そういうわけなのか」と気が付いた。上の『俾弥呼』からの第一引用文の括弧内に「投馬国は川内(せんだい)の可能性あり」という一文があった。古田さんはこの可能性の根拠を何も語っていないが、西海岸周旋を念頭に置いての推定だったのかも知れない。次のような地図が掲載されていた。

投馬国への航路

 もしも実際には「水行十日」だったという新説が正しいとすると、日向と川内と候補地が二つあることになる。そのどちらを選ぶにしてもその論拠を示さなければならない。そういえば水野氏が、投馬国を「トウマ」と読んで「南九州の日向国児湯郡都万神社附近」とした宣長の説を紹介していた。「井の中」の所在地比定は、倭人伝の記述とは無関係に、読みの類似した地を探し出すという手法によっている。その方法論は私(たち)とはまったく異なるが、「投馬国=日向」という可能性が出てきたことになる。

 川内川近辺が正解だとしよう。姶良・川内間は直線距離で30㎞ぐらいである。投馬国は「五万余戸」で邪馬壹国に次ぐ大国だから、その領土は姶良・川内をともに含んだ広がりがあっただろう。そういう意味では投馬国を鹿児島湾北岸近辺としても川内川近辺としても同じと考えられる。しかし、その論拠(水行日数)が異なるので、どちらかを選ぶ必要がある。私は『「二倍年暦」では1日は「2日」』という説を納得できないので、「投馬国は鹿児島湾内の北岸近辺」の方が正しいと考える。もちろん、『「二倍年暦」では1日は「2日」』ということを示す確かな論拠があれば訂正するのにやぶさかでない。
《続・「真説古代史」拾遺篇》(71)



「倭人伝」中の倭語の読み方(14)
投馬国(5):古田説の検討(3)


 投馬国の所在地比定とかかわるので、ここで「東南」問題を取り上げよう。どのような問題なのか、簡単に復習しておく。

 「末廬国―伊都国」の行路記事
「東南陸行、五百里、伊都国に到る。」
は伊都国は末廬国の東南と記録している。しかし、実際には伊都国は末廬国の東北にある。この矛盾を「東南」問題と呼んできた。

 この問題に対する古田さんの解読は次の通りである。

 『三国志』は、実地の地形に即した、実際的な正確性を目標とした記述法をとっている。その実例を二、三あげよう。(管理人注:傍点が付されている語句を斜体文字にした。)

(1)八月、帝、遂に舟師を以て、衙(しょう)より渦に循(したが)ひ淮(わい)に入り、陸道より徐に幸す。〈魏志二〉
(2)先主、陽平より、南、沔水(ベんすい)を渡り、山に縁りて前(すす)む。(蜀志七)
(3)臣初めて之を嫌ひ、水陸倶に進み、今反りで船を舎て歩に就き、処処に営を結ぶ。(呉志十三)


 右は魏・蜀・呉の各志より随時一例ずつひろった。いずれによってみても、きわめて実地の地形を重視し、それをまざまざと眼前に描出しようとする。そういった記述法をとっていることが知られよう。

 先に「島めぐり」読法のところであげた「周旋」表記も、実は、このよう『三国志』全体を通じて一貫した記述方式の一例をなすものであった。

 「島めぐり」読法の「周旋」については『「邪馬台国」論争は終わっている。(5)』で、簡単に触れておいた。参照してください。

 こうしてみると、倭人伝における「東南陸行」についても、あくまで「実地に立った実際的な表記」として理解せねばならぬ。

 今、わたしたちは、唐津の一地点に立ったとして、考えてみよう。

そこからは、つぎのような各他方向へのルートが存在する。

西北陸行 ― 呼子に至る。
南陸行  ― (a)途中、西南行して伊万里に至る。
       (b)途中、東南行して佐賀に至る。
北水行  ― 途中、西北行に転じて壱岐に至る。
東北水行 ― 伊都国に至る。


 これらが今、一個の「道しるべ」(道標)に記されているとしよう。

(管理人注:上の「道しるべ」を確認する資料として地図を掲載しておく。)
倭国中枢部地図

 伊都国に至る陸のルートは、当然、右の中には存在しない。「伊都国に至る、水行」ともちがうのである。いったん、「東南陸行」して、虹の松原付近へのルートをとり、そこからさらに浜崎に至る。そうすると、あとは「北上・東北行」などを海岸線にそってたどり、「周旋」しつつ、迷うことなく、必然的に、伊都国に至るほかないのである。この場合、おおよそ山と海岸にはさまれたあるいはそれに近い行路であるから、右の「南陸行」の場合のように、途中に岐路はない。つまり、この「東南陸行」という「始発」方向さえあやまらねばいいのだ。実地の行路を指示するための、実際的な行路のしるされた「道しるべ」には、当然、その「始発方向」が記せられている。

 こうしてみると、『三国志』全体の表記法と同じく、これがこの行路にとって、もっとも実際的な表記法なのである。

 古田さんはこれを「道しるべ」読法と呼んでいる。不弥国への行路記事も「道しるべ」読法で読まれるべきである。つまり、
「東行不弥国に至ること、百里」
の「東」も「始発方向」を示している。「東方向に出発して百里」である。

 これに対して次の傍線行路
「東南、奴国に至ること、百里。」
「南、投馬国に至ること、水行二十日。」

の場合「東南陸行」や「東行」とは異なる記述である。「行」の字がない。「行」の字がない場合の方向は、「始発方向」を示しているのではなく、「直線方向」を示していることになる。このことをふまえて、投馬国の所在地は次のように推測することができる。

 投馬国は不弥国から「直線方向」が南に当っている。その方向で「水行」して到着する地点としては
①有明海岸(例えば熊本平野)
②八代海岸(例えば八代平野)
③鹿児島湾岸
が候補地となる。その水行の行路は、博多湾を出て「北上→東行(または西行)→南下→…等々」東海岸(または西海岸)を「周旋」する「迂回航路」となる。

 次ぎに「水行二十日」を検討する。前回計算したように「水行一日」の里程は「450里=34.5㎞」だった。すると「水行二十日」では690㎞の行程である。地図上で糸を使って おおよその距離を調べたが①360㎞・②370㎞で、①と②は近すぎる。

   ③は鹿児島湾の一番深いところにある鹿児島県姶良市を選んで糸測定をしてみた。西海岸周旋の場合はおおよそ540㎞、東海岸周旋の場合はおおよそ720㎞だった。かなり大雑把な測定だから一割ほどの誤差を見込むと
西海岸周旋490㎞~590㎞
東海岸周旋650㎞~790㎞
である。東海岸周旋が「水行二十日(720㎞)」に当てはまる。行程の長い方の東海岸周旋が選ばれたのは潮流の具合や途中停泊地の選定の利便さが理由だったのではないだろうか。

 以上により、投馬国は鹿児島湾内の北岸近辺と考えてよいだろう。
《続・「真説古代史」拾遺篇》(70)



「倭人伝」中の倭語の読み方(13)
投馬国(4):古田説の検討(2)


 帯方郡治から狗邪韓国までの7000里を「水行」と「陸行」に配分する手掛かりは「陸行」の方にある。「階段式」読法である。下の図は韓国の実地形(距離は100短里数)である。

陸行里数

 △BDEは三角定規にも使われているあの有名な(?)直角三角形。階段行路の合計里数は
 BD+DC=(2√3+2)×100(里)≒5500(里)
となる。従って「水行」は
 7000里-5500里=1500里

 これで「魏使の一日の行程」が計算できる(前回の部分里程表を参照してください)。

「水行十日」の合計里数は4500里だから
「水行…4500里÷10日=450里/日」

 また、「陸行一月」の合計里数は7500里だから
「陸行…7500里÷30日=250里/日」

 この計算結果はリーズナブルだろうか。古田さんは「陸行」については次のように論述している。

 さて、魏・晋朝の「陸行一日」の里程はつぎのようである。

昼夜、三百里来たる。
〈魏志六、裴松之注所引「英雄記」〉
鴑牛(どぎゅう)一日三百里を行く。
 (右の「鴑牛」は顧劭(こしょう)を比喩す)
〈蜀志七、裴松之注所引「張勃呉録」〉


 これらは「車駕(しゃか)による陸行」である。

陸行、車に乗る。水行、舡(こう)に乗る。泥行、橇(そり)に乗る。山行、檋(きょく)に乗る。〈『史記』夏本紀二)
翻、嘗(かつ)て船に乗りて行く。‥…後、翻、車に乗りて行く。〈呉志十二)


 このように、貴人・将吏の「陸行」は「車」によったものであるから、魏使も、当然「車駕による陸行」に従ったものと思われる。

 一方、「歩行」については、

翻、能(よ)く歩行す。日に二百里なる可(ベ)し。 (呉志十二、裴松之注所引「呉書」)

とあるごとくである。

 「邪馬壹国」にむかった魏使が韓国内歴観の場合、右の正規による「車駕の陸行」に従ったことは疑いないであろう。しかし、倭国の領域に入り、「対海国半周」「一大国半周」「末廬国~不弥国」の場合には、地形上、一部「歩行」をまじえざるをえなかったことと思われる。そうすると、「陸行全行程」の平均値が二百五十里というのは、ほぼ妥当な数値であると思われる(「末廬国 - 伊都国」間は五百里で あるから、その半分に当る)。

 また、韓国内の「陸行」(五千五百里)は、「車駕の陸行、一日三百里」で計算すると、二十日弱となる。したがって、倭国内の「陸行」は、十日強となる。そのうち、「末廬国 - 不弥国」の行程は、約二~三日の行程となり、実地の状況によく適合している。

 古田さんは「陸行」の方がリーズナブルなら、「水行」の方も当然リーズナブルと考えられたのか、「水行」についての論述がない。自分で調べることにしよう。

 当時の船はどの程度のものだったのだろうか。サイト「海事博物館ボランティアあれこれ」さんの「古代の船(2)」と「古代の船(4)」を使わせてもらおう。必要な部分だけ要約する。

 1975年に日本と韓国とが協力して、古代船による「韓から倭」への実験航海が行われた。下の写真はそのときに作られた「古代推定船」である。宮崎県西都原古墳出土の船型埴輪や他の古墳に残された船壁画などを参考にして設計されたという。

古代の船

 このタイプの船は「準構造船」と呼ばれていて、日本では13~4世紀頃までこのタイプの船が主流だったという。また、上の実験航海では「ほぼ順調に漕航のみによる」行路での速度は1.5~2ノットだったという。

 実験航海では帆を全く無視しているようだが、3世紀頃の「準構造船」には帆はなかったのだろうか。またまた「中國哲學書電子化計劃」で検索をして見た。『後漢書』の「馬融列傳上」と『釋名』(後漢の劉熙著の辞書)の2件がヒットした。帆は後漢時代頃から使用されたらしい。

 「中國哲學書電子化計劃」には『三国志』が入っていないので、三国時代の場合は別途に調べよう。三国志で船と言えば「赤壁の戦い」。『十八史略Ⅲ』(徳間書店)から引用しよう。


 瑜の部将黄蓋曰く、「操軍まさに船艦を進め、首尾相接す。焼きて走らすべし」。すなわち蒙衝(もうしょう)・闘艦十艘(そう)を取り、燥荻枯柴(そうてきこさい)を載せて、油をその中に薙(そそ)ぎ、帷睦(いまん)に裹(つつ)みて、上に旌旗(せいさ)を建て、予め走舸(そうか)を備えて、その尾に繋(つな)ぐ。まず書をもって操に遺(おく)り、詐りて降らんと欲すとなす。  時に東南の風急なり。蓋、十艘をもって最も前に著(つ)け、中江に帆を挙ぐ。余船、次をもってともに進む。操の軍みな指さして言う、「蓋降る」。去ること二里余、同時に火を発す。火烈しく風猛く、船の往くこと箭(や)のことし。北船を焼き尽し、烟焔(えんえん)、天に漲(みなぎ)る。人馬溺焼(できしよう)し、死する者甚だ衆(おお)し。瑜ら軽鋭を率いて、靁鼓(らいこ)して大いに進む。北軍大いに壊(やぶ)れ、操走り還る。

 確かに帆が使われている。

 魏使が乗った船は「帯方郡治―韓国西北端」までは自前のもだろう。狗邪韓国以降の「水行」では倭国が用意した船だったかも知れない。北九州に「天下り」した人たちはもともと対馬・壱岐などを本拠地とする海洋民だった。倭国も当然帆を使った航海術を持っていたと考えてよいだろう。どちらの船を用いたとしても大きな差違はないと思う。

 「準構造船」は14世紀頃まで主流だったと言うことだから、紀貫之さんが乗った船も「準構造船」だったと考えられる。次ぎに「土佐日記の航海記」(著者・西野ゆるすさん)を訪ねてみた。

 貫之さんの船は十梃櫓、つまり10人で漕ぐ船で、帆も備えていた。ただし、帆を用いたのは一回だけだったようだ。西野氏は航海部分の記録を分析して次のように述べている。

「帆は補助的に使われて、ほとんど漕いで京へ行った。海上でも河に入ってからでも所により陸から曳いて貰った。外洋船ではなく、沿岸用の底浅船で海から河に入ってもそのまま川のぼりのできる河船でもあった。」

 魏使の用いた船と比べて見劣りがするようだが、この船の速度は約1.8ノットと算出している。実験航海の速度と一致している。

 ここで「投馬国(1)」で水野氏が教えてくれた史料
『「延喜式」では平安京から大宰府までを海路三十日と規定している』
を使ってみよう。瀬戸内海と日本海では潮流や天候(とりわけ風力)に違いがあり、単純な比較はできないが、ともかく計算してみる。

 地図上で測ってみた。大阪湾から博多湾まで直線距離でおおよそ450㎞。糸を使って瀬戸内海をクネクネとそれらしく測ってみたら720㎞だった。「水行」30日だから24㎞/日となる。

 魏使の「水行」1日の行程450里をメートル法に換算すると
76.7m/里×450里/日=34515m/日≒34.5㎞/日

 約10㎞/日の差がある。しかし、前者は毎日停泊地で休養しながらの航海なのに対して、後者は「狗邪韓国一対海国」・「対海国-一大国」・「一大国-末廬国」のそれぞれの「水行1000里」は昼夜通しての航海であったろう。このくらいの差は当然ではないだろうか。

 実験航海での速度は海1.5~2ノットであった。1ノットは1.852㎞/時だから、2.8㎞/時~3.7㎞/時(小数点第2位で四捨五入)となる。34.5㎞/日を2.8㎞/時~3.7㎞/時で割ると、一日の航海時間の平均は12.3時間~9時間となる。これも納得できる数字であろう。




「倭人伝」中の倭語の読み方(12)
投馬国(3):古田説の検討(1)


 今回から古田説を検討する。『俾弥呼』の投馬国についての記述には新しい見解が追加されている。その新説の検討には『「邪馬台国」はなかった』で計算された「水行・陸行」それぞれの「魏使の一日行程」を知っておく必要がある。さらにその検討の予備知識として、「階段式」読法を知らねばならない。これらの問題はこれまでに取り上げたことがなかったので、この機会に詳しく学習しておくことにする。

 まずは問題の所在を確認しよう。『「邪馬台国」論争は終わっている。(5)』で取り上げた「部分里程」の計算結果は次のようであった。

①7000里  帯方郡治-狗邪韓国(水・陸行)
②1000里  狗邪韓国一対海国(水行)
③ 800里  対海国(半周,陸行)
④1000里  対海国-一大国(水行)
⑤ 600里  一大国(半周,陸行)
⑥1000里  一大国-末廬国(水行)
⑦ 500里  末廬国-伊都国(陸行)
⑧ 100里  伊都国-不弥国(陸行)

計12000里(全里程)


 ①では(水・陸行)となっている。このままでは「魏使の一日行程」を計算することが出来ない。この7000里を「水行」と「陸行」に配分することが第一の課題である。

 ところで、「井の中」では①を全て「水行」として解釈している。どうしてそうなるのか。改めて読下し文を読んでみよう。(なお、今までは倭人伝の読み下し文は岩波文庫版のものを用いてきたが、このシリーズからは『俾弥呼』の巻末資料のものを用いている。)

郡より倭に至るには、海岸に循(したが)いて水行し、韓國を歴(ふ)るに、乍(たちま)ち南し、乍ち東し、その北岸狗邪韓國(こやかんこく)に至る、七千余里。

 「井の中」では、朝鮮半島西岸を南下し次ぎに東に方向転換して狗邪韓国に到着した、と解釈したのだ。もちろん、全てを「水行」と考えていて、韓国を単なる途中通過地点とみなしている。

 岩波文庫版では「歴(ふ)るに」を「歴(へ)るに」と訓じている。また、「乍(たちま)ち南し、乍ち東し」は「乍(あるい)は南し、乍は東し」である。古田さんはこの読みが誤りであることを詳しく論証している。まず、「乍」について。

 しかし、この解し方にとって、一番大きな障害は「乍~乍~」の文形である。これは「タチマチ~タチマチ~」という熟語的構文である。

瘴瘧(しようぎやく)、山渓の蒸毒、人をして迷困発狂し、或は唖し、乍ち寒く、乍ち熱く、乍ち有り、乍ち無からしむ。 (医学入門、感異気)

 ここで「乍ち寒く、乍ち熱く、乍ち有り、乍ち無し」といっているのは、〝寒くなるかと思えば、たちまち熱くなる。にわかに熱が出たり、寒けがしたりする″の意である。

寒熱相等しく、乍ち住き乍ち来たって間作するなり。 (医学入門、往来寒熱)

 この「乍ち往き乍ち来たる」も、〝寒熱の変化の急なこと″を示すものである。

先王の道、乍ち存し乍ち亡ふ。公、卜者の言必ず信あるを責むる、亦(また)惑(わく)ならずや。 (史記、日者伝)

 この「乍ち存し乍ち亡ふ」も、「タチマチソンシ、タチマチウシナフ」と訓じ、〝あるかと思えば、たちまちなくなる″の意である。

 このようにしてみると、この「乍(A)、乍(B)」という文形は、〝AとBとをたちまち小刻みにくりかえす″意義の熟語である。

 これを従来、「乍(あるい)は南し、乍(あるい)は東し」(岩波文庫本)と読ん できたのは、乍(タチマテ)の重用という慣用文形を無視した、安易な読み方であるというほかない。

 思うに、韓国の西岸・南岸をすべて「水行」とするための、強引な読解術なのである。

 「史記」からの引用が一件あるが、「医学入門」というとても珍しい出典が使われている。歴史書の中にこの構文を使っている例がほかにもないだろうかと、試みにサイト「中國哲學書電子化計劃」で検索して見た。枚挙にいとまがないほどある。いくつか抜き書きしてみよう。

乍寒乍暑・乍視乍瞑・乍剛乍柔・乍哀乍樂・乍高乍下・乍大乍小・乍出乍入・乍死乍生・乍晦乍明・乍同乍異……

 なるほど、「乍(A)、乍(B)」はよく使われる構文なのだった。

 つぎは「歴」である。

 この点をさらに明確化するのは、「韓国を歴る」の「歴」字の用法である。

周唐の進むる所を歴(ヘ)て、法と為す。
〔注〕歴、之を歴観するを謂ふ。(漢書、劉向伝)


 この「歴」は「注」にのべるように、「歴観」という意味である。「けみする」と訓じ、「つぎつぎに見る」という意味なのである。

 陳寿も、東夷伝序文にのべている。

遂に諸国を周観し、其の法俗を采るに、小大区別し、各(おのおの)名号有り、得て詳紀すべし。

 韓国も、この「諸国」の一である。したがって、この「韓国を歴る」の「歴」は「歴観」「周観」の意味であって、けっして単なる「海上通過」の意味をあらわすものではない。

 「ああ、これこそ本物の学問だなあ」と、改めて感じ入る。このような堅実な論証を「井に中」の学者が認めないとは、これも改めて「情けない連中だなあ」と思わざるを得ない。彼らは「さすが!」と感心するほど知識は豊富だが、論理的思考力が欠けているのだろうか。あるいはただ単にメンツにこだわっているだけなのかも知れない。

さて、ここで「階段式」読法が登場する。

 以上によって、中国文の文法・語法を忠実に守りつつ理解すると、韓国行路はつぎのようになる。

 魏使はまず、「海岸に循って水行して」帯方郡西南端(韓国西北端)にいたり、そこから上陸して陸行にうつり、左図のように、南下・東行をいわば「階段式」に、小刻みにくりかえして、狗邪韓国にいたったこととなるのである。

「階段式」読法

 では、魏使はどうしてこのような迂遠な道中を行ったのだろうか。まさか、物見遊山というわけではないだろう。これについても、古田さんの解釈で完全に納得できる。

 魏使は韓国をもって、倭国にいたるための、「単なる通過地」とみなしていたのではない。〝中国正統の、魏の天子に対する礼を守って、朝貢してきた倭国の忠節を賞美する、威儀正しい答礼使と、莫大な下賜品を連ねた行列″によって、韓人に対するデモンストレ一ションを行ないつつ、行進したものと思われる。

 すなわち、後代日本の遣唐使が、ただ長安にむかうルートとして、韓国の沿岸を「水行」したのとは、およそその時期と目的を異にしているのである。

 言うまでのないことだが、上図は説明上のイメージ図として細かい階段を描いているが、「韓人に対するデモンストレ一ション」の道中なのだから、実際には三韓全てを網羅するようにもっとおおまかな階段道中ことだったろう。
《続・「真説古代史」拾遺篇》(68)



「倭人伝」中の倭語の読み方(11)
投馬国(つまこく)(2)


 仮に投馬国が邪馬壹国の北にあるとしよう。水野氏は投馬国の所在を「筑後川上流々域」としているが、「南…水行二十日」をどのように解釈すればそのような比定ができるのだろうか。水野氏は次のように説く。

 では、この水行二十日をいかに解すべきか。私は伊都から海上に出て九州西岸を迂回し、有明海に入り、筑後川を遡航して投馬国に至るものと考える。筑後川遡航の日程が加えられて邪馬壹国より倍の日程を要することになっているものと思う。この部分より里程の記載がなく、日程で示すように記載上の変更があるが、これは要するに、『三国志』の記載がこの辺から変質してくることを意味する。すなわち魏使は伊都国より奥地には入らず、したがってそこまでの里程が明らかでないので、倭人に尋ねて大略の距離を推測するにとどまったことを示すものであろう。

 正に噴飯ものである。有明海まで南行して次は北行して筑後川河口に到り、さらに筑後川を北東行して投馬国に到ると言うのだ。本当にそこが投馬国なら、倭人は魏使に、例えば、「伊都国より南東に四百里」などと最も分りやすく伝えればすむ話だ。「南…水行二十日」などというトンチンカンな応答をするわけがない。

 もう一例、『狗奴国と鉄』の場合を紹介しよう。著者・菊池氏は所々にできるだけ論理的たらんとする姿勢があって、その点では好感を持てる。しかし、伊都国から邪馬壹国(菊池氏は「邪馬台国」を使っている)までの行程記事に関しては、「井の中」の通説に縛られて誤読をしているため、四苦八苦の詭弁だらけになる。氏は伊都国から邪馬壹国までの行程を「伊都国→奴国→不弥国→投馬国→邪馬台国」と、傍線行路(古田説)でも放射行路(榎説)でもなく、単純に直線行路(菊池氏自身は「連続式」と呼んでいる)としている。つまり、榎説以前の「井の中」の通説に退行している。

 菊池氏の投馬国の比定記事を理解するためには、「連続式」による都国・奴国・不弥国の比定地が必要なのでその部分から読んでいこう。

東南陸行、五百里、伊都国に到る。

 この行程記事について菊池氏は次のように考察している。

 ここで問題となるのは、〈東南〉という方角である。末廬国は東松浦半島付近にあった国で、伊都国は糸島半島付近にあった国である。国の中心と想定されるのが、末廬国は唐津湾奥の唐津市の松浦川河口あたり、伊都国は糸島半島の付け根、前原市の平原遺跡あたりで、この位地関係だと伊都国は末廬国の東北となる。

 末廬国と伊都国の比定には異論はない。そして伊都国が末廬国の東北にあり、「南東」と矛盾することもその通りだ。この矛盾を「井の中」では「里程は誇張であり捏造」として短里に見向きのしないが、方角についても「倭人伝の方向記述は少なくとも90度前後の狂いがあることは確実」と陳寿に責任をなすりつけている。しかし、菊池氏は陳寿のせいにはしない。菊池氏は一応原文を尊重する立場を取っている。次のように解決を図っている。

 ところが東松浦半島の先端から伊都国を望むと東南と言えないこともない。東松浦半島の先端は壱岐の島に近く、上陸地点としてふさわしい。唐津湾の奥に上陸したとしたら、壱岐から直接伊都国に向かうのと距離はほとんど変わらない。はたして唐津湾の奥に上陸する意味はあるのであろうか。

 「東南」問題を解決するために上陸地を変えようというのだ。東松浦半島の先端は壱岐に近いからそこが上陸地点としてふさわしいというのがその理由である。しかし、東松浦半島の先端地方より唐津地方の方が早くから開けていたのではないだろうか。唐津は中国・朝鮮からの着港地として古くから知られていた。「郡使の往来、常に駐る所」(伊都国)に近い方が良いに決まっている。また、何よりも東松浦半島先端を末廬国とすると里程記事にも矛盾する。地図でたやすく確認できるが、狗邪韓国→対海国→一大国→末盧国の行程は全て「水行千里」なのに、一大国→末盧国は約五百里ほどしかない。菊池氏は、古田さんの「短里」説を無視して、里程を比率で考えればよいとしてスタートしているが、その比率も捨ててしまったわけだ。そして、菊池氏は魏使を強引に東松浦半島の先端に上陸させる。その論拠を次のように述べている。

 話が複雑になってしまうが、東松浦半島の西側を南下して伊万里市に達し、そこから東南の方向に進むと、有明海の北岸、筑紫平野の西端に達する。このコ一スの方が福岡湾から南下して筑紫平野に達するコースよりはるかに距離は短い。したがって古来からの交易ルートが想定され、東松浦半島の先端にあった港は大陸への入り口として重要な意味を持つ港であったと思われる。そうした重要なポジションの港であるならば、この場所から伊都国の位置を説明してもおかしくない。つまり、伊都国を東南と言ってもおかしくない。

 ちょっと分りにくい部分があるが、菊池氏が水野氏と同様、邪馬壹国を「筑紫平野矢部川流域」に比定していることを知ると理解出来よう。東松浦半島から「有明海の北岸、筑紫平野の西端に達する」コースを重要視しているのは邪馬壹国へのコースと考えているからである。そして、東松浦半島の先端からなら伊都国の位置を「東南と言ってもおかしくない」と納得しようとしている。しかし残念なことに、これも地図を見ればすぐ分るように、東松浦半島の先端からでも伊都国はほとんど真東の方向であり、とても東南とは言えない。

 この「東南」問題もすでに古田さん(『「邪馬台国」はなかった』)(『「邪馬台国」はなかった』)によって解決されている。いままで取りこぼしていた事項なので、稿を改めて紹介しようと思う。今はこのまま菊池氏の論考を追っていく。

 奴国・不弥国については実に簡単に済ましている。

東南奴國に至ること、百里。
 奴国の中心は春日市の岡本遺跡の付近と想定される。奴国までについての記述は距離も方角も問題はない。

 奴国までの位地については、畿内説、九州説を問わずほぼ通説で認められている内容で、関連する遺跡によっても証明がなされている。次からが謎のゾーンとなってくる。

 「距離も方角も問題はない」と断言しているが、距離も方角もまったく合っていない。この比定では奴国は伊都国のほとんど東である。また里数比率も全く合わない。「末廬国―伊都国―奴国」行程の里数比率は五百里:百里=5:1のはずだが、地図で見るとほとんど1:1である。ここでも里程をまったく無視している。

「東行不弥國に至ること、百里。
不弥国については諸説あるが、筆者は太宰府市もしくは筑紫野市北部付近にあったと想定する。

 ここでは論証そのものを放棄してしまった。それでは投馬国のばあいはどうだろうか。菊池氏は「連続式」行路という大前提が間違っているため、ここでもたいへんな四苦八苦を余儀なくされる。

南、投馬國に至ること、水行二十日

 不弥国の南には海がないし、菊池氏が比定した不弥国は内陸部なので水野氏のように西海岸を南下するコースもとれない。どうする? やはり筑後川に目をつける外ない。「陸行」「水行」の意味解読をかなり長々と行っているが、結論部分だけを紹介する。

 筑紫野市の北側には、九州で最も長い筑後川の支流の宝満川が南に向かって流れている。宝満川は、太宰府市の東部にある宝満山(標高869メートル)を源とする一級河川であるが、筑紫野市北部あたりの標高は20メートル程度しかない。筑紫野市北部から筑後川の河口まで直線でも40キロ近くあり、高低差がほとんどない川であるので、通常期であれば流れはかなりゆるやかで、水深も浅い。このような地形のところでは、水運が通常の交通手段として発達したと考えられる。

 さて、筑後川を下りたいのだが、河口まで40キロしかない。のんびりゆっくり歩いたとしても20時間ほどで河口に到着してしまう。「水行二十日」をどう解釈するのだろうか。

 時間を要した要因として、使節団の規模の問題があったのではないだろうか。外交使節ならば、それなりの布陣で日本に来たと思われる。代表大使の他に、下級役人、上記の人達を世話をする使用人、通訳や道先案内人、そして当然のこととして護衛の軍人がいる。使節団の数は最低でも二十人以上はいたのではないだろうか。そして、前述した人達の最低限の生活用具、武器、その他、日本へのみやげの品などを加えると荷物の量は相当なものとなると予想され、それらの荷物を運ぶ人夫も必要となってくる。

 核心となるが、交通路が未発達の地で多くの人と荷物を短時間で大量に運ぶことができたであろうか。前述したとおり、舟を交通手段として使用したならばどうであっただろうか。普通に考えるならば、人が運ぶよりも船の方が効率的なはずである。しかし、当時の日本には構造船があったか疑問で、仮にあったとしても水深の浅い所では使用されていなかったはずである。したがって、丸木舟やいかだのような小型の舟を使用していたと思われる。つまり、使節団は何回かに分けて分乗して舟に乗ったのではないだろうか。「水行二十日」は、たとえ一日の距離であっても舟が不足して二十のグループに分かれて行なえば二十日を要してしまうことになる。

 日数に関する記述は、距離に関する情報ではなく、要した日数の結果を述べたものというのが私の推察の結論である。

 「井の中」での最も新しい論考として何か新しい進展があるだろうかと『狗奴国と鉄』を選んでみたが、行路解釈についてはやはり水野氏に負けず劣らずのあきれるばかりの解釈であった。もう論評を加える気も失せた。最後に、筑後川を下った二十グループ一行が到着するはずの投馬国と邪馬壹国がどこになるのか、確認しておこう。


 さて、そうなると投馬国と邪馬台国はどこにあったのであろうか。記述どおりに読んでいけば、不弥国から南へ水行二十日の所に投馬国、そこから水行十日の所に邪馬台国があったことになる。

 不弥国があったと想定される筑紫市付近から、南の方面には大牟田市付近まで筑紫平野がひろがっている。大牟田市は筑後川流域ではないが、当時の筑紫平野は低湿地帯で天然のクリークのような水路があったであろうから、舟で移動することが可能であったと思われる。

 投馬国と邪馬台国をピンポイントで推定することは困難であるが、強いて推定するとしたならば、投馬国は久留米市の付近、邪馬台国はみやま市の付近ではないかと思われる。

 みやま市の瀬高町山門(やまと)は九州説の本命の地でもある。

 やれやれ、なんのことはない。最初に「邪馬台国=瀬高町山門」という「本命の地」(結論)があって、そこに行くための論証めかした作文だった。「井の中」は相変わらずだった。
《続・「真説古代史」拾遺篇》(67)



「倭人伝」中の倭語の読み方(10)
投馬国(つまこく)(1)


南、投馬國に至ること、水行二十日。官を彌彌と曰い、副を彌彌那利と曰う。五萬余戸なるべし。

 投馬国の読みとその所在地について、水野氏は次のように述べている。

南至投馬国
 伊都国より北九州沿岸を東へ行くと奴国と不弥国とがあり、それよりもさらに東については魏の使者は知見を有せず、また女王国の支配は東方に対してはこの二国のみにとどまり、それより東にはおよんでいなかった。このため『三国志』は伊都国を中心としてそれから東の記載は前の二国に終り、ここで筆を転じてさらに南へと記述を進めていく。そして南方については、もはや魏人は直接的な知見を有せず、すべて魏使の女王国などより派遣された使者の伝聞に基づいた知見であることに注意しなければならない。

 投馬国については、これを「トウバ」「トウマ」と訓むことから、「トマン」「ツマ」「トモ」などのわが国の地名に比定しようとする見解が現われる。すなわち宣長は、「トウマ」をもって南九州の日向国児湯郡都万神社附近であるとする。太田亮博士は、九州において邪馬壹国と考えられる地が肥後北部であるとすると、投馬国は筑後川沿岸のほかに求むべき地がないとし、筑後川附近に投馬国を求めれば、上妻郡・下妻郡・三瀦郡の存在が注意される。この上・下・三を除いた「ツマ」が、すなわち古の投馬国にほかならないとする(太田亮『日本古代史新研究』一〇二頁)。また吉田東伍博士は「投馬」は、「殺馬」あるいは「設馬」の誤りで「サツマ」だから薩摩国であるとする。

 これら九州に求めようとする説に対して、内藤博士は、周防国佐婆郡玉祖郷だとし、三宅米吉・志田不動麿両氏は、瀬戸内の備後国鞆の津であるとし、山田博士は日本海の但馬国であるとされる。また出雲国に比定する者もある。諸説紛々として決しがたい。私は『三国志』の方位里程より推して、筑後川上流々域にあるものと考える。

 『問題の焦点は「狗奴国』で、私は
『「投馬国=薩摩」という比定は「井の中」だけでなく、ほとんどの論者が一致している比定である。』
と書いたが、訂正しなければならない。私の誤った先入観だった。上の引用文のように、「井の中」では諸説紛々なのだった。

 読みについては、吉田博士以外は「とうば」または「とうま」と読んでいるようだ。古田説は「つま」で、薩摩に比定している。しかし、もちろん吉田博士のような原文改定した上での比定ではない。現在の地名「薩摩(さつま)」は「つま」に接頭語の「さ」が付いたものであり、薩摩は「投馬(つま)」と対応していると言う。では「投馬」を「つま」と読むことが出来るのだろうか。

 「投」には「とう」のほかに「づ」という音があるが、「つ」はない。3世紀頃の倭国では「投」を「つ」とも読んでいたのだろうか。万葉仮名にはそのような例がある。「豆」「頭」「図」が「つ」という音としても使われていた。「投」の場合については、私にはこれ以上の判断材料がないので断言は出来ないが、とりあえず「つ」とも読めるとしておく。

 水野氏は「方位里程より推して、筑後川上流々域」という比定をしている。なぜそういう比定になるのか。「水行二十日」についての解説でその理由を述べている。
水行二十日
 この記載が、実に投馬国の位置決定に重大な混乱をひき起したのである。「水行二十日」とあるので、これは海上を船で航して二十日を要するという意味になるとし、在来はこれを不弥国から南へ水行二十日と解釈し、あるいは九州南端に至る航海と考えたり、あるいは瀬戸内航路だと解したり、また同じく大和をさして東へ向う航路としても北九州より日本海を東航する日本海航路だと解釈したり、まちまちな推測が試みられた。

 水行二十日を要する地点までを里程とするとどれほどであるかは測定困難であるが、『延喜式』では平安京から大宰府までを海路三十日と規定しているので、よほどの距離と考えられる。さらに後文に、邪馬壹国までが南へ水行十日とあるので、これを加算すると、不弥国から邪馬壹国までがちょうど水行三十日となり、これはほぼ『延書式』の大宰府平安京間の海路三十日に合致するので、三宅博士のごとく邪馬臺国を大和として不弥よりの里程が解決できると説かれることになる(三宅米吉「邪馬臺国について」、『考古学雑誌』十二の十一所収、六五二頁)。けれどもこれは、伊都国から南への距離である。とすれば、船で伊都国から九州の南へ出るとすれば、そして西回りにせよ、東回りにせよ、二十日を要するとすれば、相当遠方でなければならない。また同じく伊都国より南に船で行く邪馬壹国は水行十日で、あたかも投馬国の日程の半分であるので、常識的に判断すれば投馬国は伊都国と邪馬壹国の距離の、さらに倍だけ南にあることになるわけであり、これだけならそう解してもよい。けれども投馬国は邪馬壹国より北に位する国と記されているので、邪馬壹国よりさらに水行十日の日程を要するような南方の地点にもっていくことは不可能である。ゆえに邪馬壹国が北九州であるかぎり、投馬国は日向や薩摩であってはならない。

 赤字部分に出会って、「ああ、そうだったのか」と納得できたことがある。『問題の焦点は「狗奴国』で転載した下の地図である。投馬国がなぜその地図のようになるのか、納得できたのだった。

北九州勢力図

 「井の中」の「邪馬台国=筑後山門」説論者の大方は投馬国を「邪馬台国」の北と考えているのだ。その論拠は倭人伝の次のくだりであろう。

南、邪馬壹國に至る。女王の都する所、水行十日、陸行一月。 (中略) 女王國自(よ)り以北、其の戸数・道里は得て略載す可(べ)し。其の余の旁國は遠絶にして得て、詳(つまびら)かにす可からず。

 つまり、「井の中」では赤字部分を、この文以前に出てくる全ての国が邪馬壹国の北にある、と解釈しているのだ。だから投馬国も邪馬壹国の北になければならない。

 この文章の解釈のポイントは「道里」と「得て」である。私は、「道里」とは行程の里数のことであり、「得て」とは「実際に見聞して得た」という意だと解釈する。投馬国だけは「道里」ではなく「水行20日」と書かれている。そして水野氏は
「南方については、もはや魏人は直接的な知見を有せず、すべて魏使の女王国などより派遣された使者の伝聞に基づいた知見である」
と述べているが、これも誤解だろう。投馬国への行路は「道里」ではなく「水行20日」と表現されているが、このことから魏使は投馬国については「直接的な知見を有せず」と断定することは出来ない。ここの文脈からは投馬国は明らかに「其の余の旁國」ではない。魏使は実際に投馬国に行っていると読める。

 また、水野氏は魏使が実際に行ったのは伊都国までと考えているようだが、それも間違った憶測だ。詔書を携えた魏使が女王に会っていないなどあり得ない。邪馬壹国の風俗などの詳しい記録、特に女王の居処についての「宮室・楼観・城柵、厳かに設け、常に人あり、兵を持して守衛す。」といった臨場感あふれる記録が単なる伝聞であるはずがない。

 仮に投馬国が邪馬壹国の北にあるとしよう。水野氏は投馬国の所在を「筑後川上流々域」としているが、「南…水行20日」をどのように解釈すればそのような比定ができるのだろうか。(次回に続く。)
《続・「真説古代史」拾遺篇》(66)



「倭人伝」中の倭語の読み方(9)
奴国(ぬこく)・不弥国(ふみこく)


東南奴國に至ること、百里。
東行不彌國に至ること、百里。


 水野氏は奴国と不弥国については次のように述べている。

 伊都国より北九州沿岸を東へ行くと奴国と不弥国とがあり、それよりもさらに東については魏の使者は知見を有せず、また女王国の支配は東方に対してはこの二国のみにとどまり、それより東にはおよんでいなかった。このため『三国志』は伊都国を中心としてそれから東の記載は前の二国に終り、ここで筆を転じてさらに南へと記述を進めていく。そして南方については、もはや魏人は直接的な知見を有せず、すべて魏使の女王国などより派遣された使者の伝聞に基づいた知見であることに注意しなければならない。

 奴国は『後漢書』にいう「倭奴國」の後身である。奴国がわが国の古典にいう「儺縣」、那津官家の地域であり、那珂郡博多、今日の福岡市を中心とする地域にあたることはほぼ異論はない所である(倭奴国については拙稿「倭奴国考」、に詳説してあるので、ここでは略す)。

 「女王国の支配は東方に対してはこの二国のみにとどまり、それより東にはおよんでいなかった。」という断定は〈第二グループ〉の21国への配慮を欠いたための独断にすぎない。21国の中に不弥国より東方の国が含まれている可能性大である。また、「伊都国より北九州沿岸を東へ行くと奴国」というくだりでは「東南奴國」の「東南」を無視して「東」としている。次のように奴国を那珂郡博多に比定したいためである。

 「井の中」でも不弥国を「ふみこく」と読むことに異論は全くないようだ。奴国の方は「ぬ」「な」の二説がある。「井の中」のほとんどの学者は「なこく」あるいは「なのくに」と読んでいる。しかし、「奴」には「な」という読みはない。奴国を那珂郡博多に持っていきたいがために「なこく」というあり得ない読みを創作したのだ。結論が先にあって、その結論に都合のよい解釈をする。「井の中」での得意の手法である。ちなみに、〈筑摩版〉は「ぬこく」と正しく読んでいる。

 「東南」を「東」と原文改定をしているので、「伊都国 東へ100里→奴国 東へ100里→不弥国」と考えているようだ。すると、ここでは「伊都国を基点とする放射状行路」という榎説を捨てていることになる。……と考えたが、さにあらず、だった。不弥国については次のように述べている。

 伊都国より正東の方角に不弥国があることをいった句で、奴国の東にあったというのではない。ゆえに不弥国は奴国からすれば、その北方、もしくは北東に境を接して存在していたことになる。

(中略)

 私はさらに日本の古典にみえる宗像神社の関係を考慮に入れて、宗像神社の所在をもって不弥国を考えたい。すなわち神湊から宗像附近一帯の地をそれに比定する。

 今度は不弥国を伊都国の東ではなく北東に移している。結論先行手法のオンパレードである。

 地図で確認してみた。確かに宗像は糸島の北東にある。距離は糸島・博多間の3倍ぐらいである。倭人伝の記録では伊都国・奴国間も伊都国・不弥国間もともに100里なのにこれを全く無視している。つまり、方角だけでなく、距離も改定していることになる。何というご都合主義か!!

 水野氏は巻末に305冊に及ぶ参考文献を挙げている。その中に古田さんの『「邪馬台国」はなかった』が入っている。しかし、評釈を進める上ではまったく無視しているようだ。
《続・「真説古代史」拾遺篇》(65)



「倭人伝」中の倭語の読み方(8)
再度、邪馬壹国の所在地について


 倭人伝に記録されている33国を記載順に全て書き出してみた。

〈第一グループ〉
(0)狗邪韓国 (1)対海国 (2)一大国 (3)末盧国 (4)伊都国 (5)奴国 (6)不弥国 (7)投馬国 (8)邪馬壹国

 〈第一グループ〉は里程記事・戸数・産業・風俗・官職名などの詳しい記載があり、その所在をはっきりと決めることができる。

〈第二グループ〉
(9)斯馬国 (10)已百支国 (11)伊邪国 (12)郡支国 (13)弥奴国 (14)好古都国 (15)不呼国 (16)姐奴国 (17)対蘇国 (18)蘇奴国 (19)呼邑国 (20)華奴蘇奴国 (21)鬼国 (22)為吾国 (23)鬼奴国 (24)邪馬国 (25)躬臣国 (26)巴利国 (27)支惟国 (28)烏奴国 (29)奴国

 国名だけが列記されている21国である。

〈第三グループ〉 (30)狗奴国

 この反女王国については「井の中」で提出されている仮説を検討する予定です。

〈第四グループ〉
(31)侏儒国 (32)裸国 (33)黒歯

 この四グループに分けて古田さんの新しい知見を学習していこう。

〈第一グループ〉

 このグループの国はその所在をはっきりと決めることができると書いた。古田さんによる比定地図を再度掲載しよう。

邪馬壱国

 これから学習の進行に従って倭国全体を俯瞰する地図を作っていこうと考えている。さっそく第一グループを記入しておこう。

「21国」の比定地

 (0)~(4)は短里を受け入れない「井の中」でもその所在を間違いようのない国々だが、(5)~(8)については未だ誤った議論をしている。その多くは古田さんが批判し尽くした榎説に固執した比定を行っている。例えば『評釈倭人伝』で水野氏は「私はこの点に関しては全く榎氏の説に賛意を表する」と述べて、次のように榎説をなぞっている。

 そこでこの部分は伊都国を基点として、各国に対する関係を個別的に考えなければならない。すなわち『魏志倭人伝』の記載は、九州島に上陸して以後は伊都国を中心として倭国の地誌的記載をすすめることにしていることがわかる。伊都国までの記載と、伊都国以下の記載とで、その確度が異なっていることも考えられるし、とにかく、ここで「倭人伝」の記述に変化が現われてくることはまぎれもない事実である。それは魏の使者が倭国に来た場合でも、伊都国までしか入って来ていなかったことを示すのである。伊都国まではしばしば魏の使者も往還して、具体的な知見をもっていたのであるが、伊都国より内奥の国については、魏人は直接的な、具体的知見をもたず、それらに関する知見はすべて倭人よりの伝聞に基づく知見であったことを考えなければならない。  すなわち『三国志』がそれまでの距離を明瞭な数字で示しているのに、奴国や不弥国のような、北九州沿岸の、伊都国と接近して存在した国までは里程で説明しながら、投馬国や邪馬壹国のような遠隔の地になると突然里程を捨てて水行二十日、陸行一月のように、日程に変更しているが、これも使者の直接の知見を得ていないためにそうした漠然たる記載をしたのであろう。だから後に、帯方郡より邪馬壹国までを万二千余里などとあらためていい出すのは、この点からみてもおかしなことである。伊都国に中心を置いて記述をすすめでいることも、魏使は伊都国に駐滞し、邪馬壹国はまた女王の政治・外交・交易権の代行者としての一大率をその地に常駐させ、魏使の接待より外交交渉にいたるまで、用務の一切をそこで処理させたので、いわば伊都国は邪馬壹国の表玄関であり、女王の都城についで重要な倭首長国連合の政治・外交の中心地であったがためにほかならない。この新解釈をとると、伊都国以下の邪馬壹国統属諸国の関係は訂正されなければならず、また邪馬壹国を近畿大和とするの学説は文献学上よりは全く成立しがたいこととなる。  奴国は『後漢書』にいう「倭奴國」の後身である。奴国がわが国の古典にいう「儺縣」、那津官家の地域であり、那珂郡博多、今日の福岡市を中心とする地域にあたることはほぼ異論はない所である(倭奴国については拙稿「倭奴国考」、に詳説してあるので、ここでは略す)。

 ここで書かれていることは全て古田さんによって批判尽くされている。その古田さんの論旨は『「邪馬台国」論争は終わっている。(3)』『「邪馬台国」論争は終わっている。(5)』で紹介済みなので繰り返さない。ただし、「井の中」での混乱の根源である一番の問題点(赤字部分)ついては再度取り上げておこう。古田説を無視して未だに喜劇を演じ続けているのだ。

 水野氏は一応「邪馬<壹>国」という表記を守っているが、その所在は「筑後川下流地域筑後国山門郡地域」としている。「邪馬台国」を採用していないのだから、「邪馬台→やまと→山門」という音による比定はできない。では、どのように議論を進めているのだろうか。

南、邪馬壹國に至る、女王の都する所、水行十日、陸行一月。

 「井の中」ではこの「水行十日、陸行一月」を基点(伊都国)から邪馬壹国までの距離としている。そして榎氏はこれを「水行十日あるいは陸行一月」と解釈している。また、氏は「邪馬台国」を「筑紫平野矢部川流域」に比定している。糸島半島から有明海矢部川河口までの距離は約60㎞ぐらい。一日10㎞ぐらいののんびり旅行でも数日の行程にすぎない。「筑後川下流地域筑後国山門郡地域」でもほとんど同じだ。

 水野氏はその榎説を是として、次のように述べている。

水行十日陸行一月
 伊都国より邪馬壹国までの行程である。船で行くと十日かかる所を、陸路を経て行くとすれば一ヵ月を要するという意味に解すべきで、まず船で十日かかって行き着いた所で船を捨て、さらに歩いて陸路一ヵ月にしてようやく邪馬壹国に到着するという意味ではない。もしそうならば、都合四十日かかることになる。古来この行程には無理な点があるとして、さまざまな解釈が生じ物議をかもして来た。

 そしてこれまでの諸説(たぶん全部)紹介して、信憑性のある説がないことを確認して次のように逃げを打つ。

 在来の説はこの日程に基づいて、いずれも事実に合致させよう、また事実に合わねばならないとする立場で解釈しているのであるが、私は事実を正確に記している部分ではないから、事実に合っても合わなくてもよろしいのであって、ただ耶馬壹国は伊都国の南にあって、そこへは舟で行くことも、陸路で行くこともできるが、とにかく大変遠くで不便な所なのであるらしいという魏人の知見だけを知ればよいのである。これをあえて事実と結びつけて解釈しようとする所に却って矛盾が生じ、議論の空転を惹起する結果となって、せっかくの努力も所詮徒労の譏りをまぬがれないこととなってしまうのであると思う。

 いや、そうではない。「魏人の知見」のせいにしてはいけない。そもそもの議論の発端が間違っているための混乱なのだ。「水行十日陸行一月」を伊都国から邪馬壹国までの行程と考えたことに原因がある。
『「区間距離」の中で「・・・里」の形で書かれているものだけが、真の「部分里程」であり、「水行二十日」や「水行十日、陸行一月」は部分里程ではない。』
という古田さんの解読こそが正しい。

東南陸行五百里にして、伊都國に到る。
東南奴國に至ること百里。
東行不彌國に至ること百里。
南、投馬國に至る水行二十日。
南、邪馬壹國に至る。…水行十日、陸行一月。

 古田さんの解読に従えば、「南、邪馬壹國に至る。」の南は「不彌國の南」ということになる。そして、「水行十日、陸行一月」は帯方郡から「帯方郡治→女王国」間の総日程である。「不彌國→邪馬壹國」間の距離が書かれていないのは隣接国だからだ。これで何の矛盾もない。
《続・「真説古代史」拾遺篇》(64)



「倭人伝」中の倭語の読み方(7)
番外編:「燕―蓋国―倭」の補充


 『倭人伝を徹底して読む』で、古田さんは『山海経』の記事「蓋国は鉅燕の南……」を論じていた。それ(第一章『三国志』以前の倭と倭人 二箕子と燕)を取り上げることにする。

 前回の「前300年の地図」に箕氏朝鮮という国名が記載されていた。私はこの箕氏朝鮮建国の経緯を詳しくは知らなかった。その建国の経緯が『史記 世家』の「宋微子世家、第八」を下敷きに要領よくまとめられていて、大いに参考になる。まずはそれを読んでみる。なお、『史記』では「箕氏」ではなく「箕子」という表記が用いられている。

 箕子というのは、殷の最後の王、紂王(ちゅうおう)に仕えた人物です。紂王は若さにまかせて暴虐だったとされていますが、実際はこれは、あてにはなりません。滅ぼされた王は、いつも次の王朝のイメージをよくするために悪者扱いされています。ですからこれが歴史的事実だというわけにはいきませんが、『史記』などはそのように伝えています。宰相であった箕子が何度諌めても若き天子は聞いてくれない。のみならず箕子と仲がよく、賢臣だった比干(ひかん)が紂王を諌めたところ、逆に比干を殺し、聖人の胸には七竅(しちきょう)があるというが、それを見てやるといって胸を切り割いて見た。そこで箕子はこれはもうだめだと絶望して東へ去っていった。そして、いまのピョンヤン(平壌)のあたりに新天地を建設した、というようなことが書かれています。

 「竅」という見慣れぬ漢字が出てきた。調べたら「あな」という意味の漢字だった。

 ちょっと横道へ。
 「七竅」という熟語を含む漢籍を検索した。13件あった。手元にある本では『荘子』がその中にあったので、それを読んでみた。「内篇 応帝王」の最後の寓話だ。(金谷治訳注「荘子」(岩波文庫)を用います。)

 南海の帝を儵(しゅく)と為し、北海の帝を忽(こつ)と為し、中央の帝を渾沌(こんとん)と為す。儵と忽と、時に相(あ)い与(とも)に渾沌の地に遇(あ)う。渾沌これを待つこと甚だ善し。儵と忽と、渾沌の徳に報いんことを謀(はか)りて曰わく、人みな七竅(きょう)ありて、以て視聴食息す、此れ独り有ることなし。嘗試(こころみ)にこれを鑿(うが)たんと。日に一竅を鑿てるに、七日にして渾沌死せり。

 次のような注が付いている。

『「儵」「忽」「渾沌」という名まえには寓意がある。「儵」「忽」はいずれも迅速の意味で、すばやく機敏なことから人間的有為にたとえ、「渾沌」は未分化の総合態で自然にたとえている。』
『この章は「渾沌、七竅に死す」の有名な寓話である。人間的な有為のさかしらが、自然の純朴を破壊することを象徴的に説いたものとして、「荘子」の寓話のなかでも傑作である。』

 人類は人類には制御不能な「核」に手を染めてしまった。広島・長崎・福島…。次はあってはならない。今、戻る勇気が問われている。

閑話休題。 続きを読もう。
 その後、殷の臣下で、一豪族であった武王が反乱を起こし、紂王の正規軍と戦って勝ち、殷王朝は滅亡、代わって周王朝が確立した。そこで箕子は中国へ帰り、周の第二代の成王に会いに出向いた。その途中、黄河の流域のかつての殷の都のそばを通ると、そこは見る影もなかった。廃墟になり禾黍(かしょ いねときび)が生い茂っているだけだった。箕子は、それを非常に傷み悲しんで詩をつくった。それが「麦秀之詩」です。

麦秀でて漸漸(ぜんぜん)たり 禾黍油油(ゆうゆう)たり
彼(か)の狡僮(こうどう)よ 我と好(よ)からざりき

 このあと箕子は周の都(長安近辺)へ行き、自分が新しい天地(朝鮮)へ行って周辺の民を教化し、彼等に中国の天子に対する礼節を教えたことを告げた、というのです。

 このあと、古田さんは「箕子架空説」を批判している。大事な問題が含まれているので、これも読んでおこう。

 このことは、やはり歴史的事実と考えるべきだとわたしは思っています。というのは、箕子は架空だという話が、明治・大正の啓蒙主義史観の白鳥庫吉(しらとりくらきち 東洋史学、東大教授)を中心にしていわれてきました。庫吉は夏・殷のみならず、周までもが架空だ、つくりものに過ぎないと主張しました。それを受けてさらに津田左右吉(つだそうきち)が、そうした考え方を今度は日本の古代史に適用して『古事記』『日本書紀』の神話や説話は架空である、歴史的事実ではないという、有名な議論を大正から昭和にかけて発表していったのです。

 ところが、昭和のはじめの殷墟の発掘で、これがくつがえされます。庫吉が架空説をとったのは、春秋以前の話は、戦国時代あたりにつくられた、という目見当だったようです。もちろん漢代になってつくられたものも多いと。ところが周の「前半(春秋以前)」どころか、それより前の殷墟が発掘された。そしてそれがまさに『史記』で語られている、その場所から出てきたわけです。ですから、やはり殷が存在したことは、疑いの余地がなくなってしまった。それで、現在は殷(後半)を架空だという人はいなくなっています。

 にもかかわらず、「箕子は架空だ」という人はまだいる。しかしわたしはおかしいと思うのです。なぜなら殷が「架空」なら、箕子だけ「実在」というわけにはいかない。当然、箕子も「架空」でなければならない。しかし逆に、『史記』に書かれている場所の地下から殷墟が出てきた。その殷墟に箕子が通りかかって詩をつくっている。それにもかかわらず「箕子だけが架空だ」というのでは、今度は逆に「架空の証明」をしなければならないわけです。それなのに、「箕子についてまだ実在の証明がない」などというのでは、これは方法論上、本末転倒です。わたしはやはり、箕子も実在であると考えています。

 しかし、最近朝鮮半島側の(北も南もふくめて)民族主義的な学者たちは、「箕子架空説」を唱えているようです。というのは、楽浪や帯方は、朝鮮民族が築いたものであって、それを中国人が「箕子」などという架空な名前を当てふっているにすぎない、という民族主義的な立場をとっているからです。そういう考えが非常に根強い。しかしそういうナショナリズムで、歴史的事実は消したり、作くったりすることのできるものではなく、箕子の実在は、中国の古い文献、さらに殷墟の実在からしても、やはり史実と考えなければならない。こういう歴史上の実証の問題と民族主義の問題とは、別個に、それぞれの本領が矛盾しない形で考えなければならないと思います。事実を無理しても消さなければ保てないようなナショナリズムが、もしあるとすれば、それは健全なナショナリズムではないことを、われわれはすでに敗戦前に身をもって経験したはずです。

 いま日本でも事実を歪曲する「自慢史観」という病巣が大手を振ってはびこっている。つい最近も河村たかしというポピュリストの南京大虐殺を否定する発言があった。すると彼に勝とも劣らぬポピュリスト・石原慎太郎がさっそくその発言を擁護した。その一連の発言を『週間金曜日』(本多勝一「貧困なる精神」)で読んだが、そのごまかしだらけの卑怯な発言に今更ながらあきれている。機会があったら取り上げようかと思っている。

 さて、次は箕子朝鮮から衛子朝鮮へと替わる経緯が語られている。

 そういう箕子というのが、倭人が中国文明に接する上で非常に重要なキーポイントになっています。これが第一です。第二のポイントは、燕です。要点だけ言いますと、殷の終わり頃(紀元前1000年頃)からずっと周代にかけて、箕子朝鮮がピョンヤン近辺を中心につづいていました。ところが周の終わり頃になって衛氏朝鮮にとってかわられる。その経緯については次のようです。

 燕の豪族であった衛氏が、燕を追われて箕子朝鮮にやってきます。すると、そのときの箕子朝鮮の王が衛氏を亡命者としてかくまってやった。ところが逆に、衛氏は自分をかくまってくれた箕子朝鮮を倒して、自分が権力をにぎってしまったのです。これは衛氏の方から言わせればまた別の言い方をするかもしれませんが、そのように書かれています。それでは、そのとき箕子朝鮮の側はどうなったかというと、海を越えて韓国へ入ったといわれています。韓国のどこだと書かれていないのですが、地理的にいえば朝鮮半島の西岸部を南下したでしょうから、恐らくいまの朝鮮半島の西岸部の南半、のちの百済あたりだろうと考えられます。わたしは、そこを箕子韓国と名づけました。そしてこの「箕子韓国」が、倭人に非常に大きな影響を与えたのではないかと思われます。というのは、時期が秦の始皇帝(前246~210)の二世胡亥(こがい 前209~207)、三世嬰(えい 前207)の頃です。つまり紀元前三世紀のはじまりの頃です。ということは、日本では長かりし縄文時代が終わって弥生時代がはじまった頃です。当然そこには大陸文明の影響があったことが考えられます。ちょうどそのとき関係深い「箕子朝鮮」がぐっと近いところ、半島の南半部へ来ている。とすれば、その影響を倭人側が受けるのは必至で、そういう意味でわたしは「箕子韓国」いうものを深く注目すべきだと、前々から考えていました。

 古田さんは最後に燕と倭の関係を論じている。『倭人伝を徹底して読む』の初版は1987年で今から25年前ほど前になる。従って現在の古田さんの認識とは違っている点があってもあやしむに足らない。例えば次のような点について古田さんは現在どのように考えておいでだろうか。「鉅燕」を「燕の中の鉅というところ」としている点。あるいは燕を周の「臣」としているが、戦国時代、いわゆる戦国七雄はもはや周の「臣」ではなかったのではないか。また、蓋国をピョンヤン近辺としているが、ピョンヤンは箕子朝鮮の領域ではないだろうか。などなど前回私が考えたこととも異なっている。が、私の読解の方が間違っているかも知れないので、一応全文転載して参考資料としておきたい。

 そうした影響を受けた「箕子韓国」が南に出来、北には衛氏朝鮮が出来る。衛氏は燕の系列ですから衛氏朝鮮に倭人が接触すると、それは同時に燕に接触する方法でもあったはずです。それ以前、箕子朝鮮の場合でも、箕子朝鮮は周王朝の一国ではなく、朝鮮で自分の独自の領域を広げていました。周の一代武王はこれを「臣」としなかったのです。「是(ここ)に於て武王、乃(すなわち)箕子を朝鮮に封ず。而して臣とせざるなり」と。普通は「封」じたら「臣」にするわけですが、「封」じたけれども「臣」扱いにはしなかった。殷のすぐれた宰相であった箕子を非常に尊んで、家来扱いにはしなかった、ということです。ということは倭人は、確かに箕子朝鮮を通じて中国に貢献したかもしれないけれども、直接的には周の「臣」である燕を通じて中国の天子に服属したことになります。だから中国側が表現する場合、「倭は燕に服属している」という表現になります。それが、次の文章です。

蓋国(がいこく)は鉅燕(きょえん)の南、倭の北に在り。倭は燕に属す。  (『山海経』海内北経)

 『山海経(せんがいきよう)』というのは、周の戦国時代に出来たといわれる地理書です。これは、倭がはっきり「倭」という形で出てくる最初の文献だといわれています。蓋国というのは、大きくいってピョンヤン近辺のようです。『三国志』に蓋馬大山(がいばたいさん)という言葉が出てきますが、この蓋馬大山というのは、朝鮮半島の北半部で、南北につらなる山脈の中の山を指しているようです。この「蓋」という言葉は朝鮮半島の北半部近辺でよく使われているみたいです。また中国の東北地方(旧満州)の近辺にも「蓋」のついた地名があるそうです。けれどもここでの「蓋国」というのは、「鉅燕の南、倭の北に在り」であって、燕の中の鉅というところの南に当たっている。と同時に倭の北に当たっている。ですからこれによると倭は、どうも日本列島だけではなくて、朝鮮半島の南半部にも及んでいたような感じがします。  これは『三国志』において、倭人伝のみならず、韓伝でもくりかえし説かれていることです。要するに倭人の領域が、朝鮮半島の南岸部およびかなり奥地まで入った南半部に及んでいるということです。それが、『山海経』にも出てくる。そしてその最後に「倭は燕に属す」と。まさに中国から見て一番東夷に近い諸国の一つが燕であって、倭はその燕に服属する、周辺の種族の一つであったのです。

《続・「真説古代史」拾遺篇》(63)



「倭人伝」中の倭語の読み方(6)
番外編:燕―蓋国―倭


(「山海経」海内北経)
蓋国(がいこく)は鉅燕(きょえん)の南、倭の北に在り。倭は燕に属す。

 私は「山海経」を「さんかいきょう」と読んできたが、正しくは「せんがいきょう」と読むようだ。「山海経」がどのような史料なのか、まったく知らなかったので、「山海経」海内北経を全文読んでみた。(平凡社版「世界古典文学大系8」からの転載です。)

第十二 海内北経

海内、西北隅より以東のもの

 蛇巫(だふ)の山の上に人がいて、杯をもって東に向って立つ。西王母が几(つくえ)にもたれて勝(かみかざり)と杖をのせている(注一)。その南に三羽の青い鳥がいて、西王母のために食物をはこぶ。昆侖(こんろん)の虚(おか)の北にあり。
 人あり、大行伯といい、戈(ほこ)をもつ。その東に犬封国あり、弐負(じふ)の尸(し)は大行伯の東にあり。犬封国は犬戎(けんじゆう)国ともいい、その状は犬のよう。ひとりの女子がいまし跪(ひざまず)いて、酒食を進めている。文(あや)ある馬がいる、白い縞の身、朱(あか)い鬛(たてがみ)、目は黄金のよう、名は吉量。これに乗れば寿命千年という(注二)。
 鬼国は弐負の尸の北にあり、この物は、人面にして一つの目。[虫匋](とう)犬は犬の如くで青色。人を食い、首から(食い)はじめる。窮奇は状は虎の如く、翼があり、人を食うに首からはじめる。食われるものは髪ふりみだしている。[虫匋]犬の北にあり。
 帝・堯の臺(たかどの)、帝・嚳(こく)の臺、帝・丹朱の臺、帝・舜の臺、各ゝが二つの臺で、臺は方形、昆侖の東北にあり。
 大蠭(ほう)、その状は蠭(はち)の如く、朱蛾(しゅが)はその状、蛾のよう。蟜(きょう)はその人となり虎の文あり、脛(すね)に啓(「口」の部分が「月」という字)(ふくらはぎ)あり。窮奇の東にあり。
 闒非(とうひ)は人面で獣身、青色。拠比(きょひ)の尸(し)はその人となり、頸(くび)が折れ、髪ふりみだし、片手なし。
 環狗(かんこう)はその人となり、獣の首に人の身。祩(み)というものは人身で黒い首、従(たて)の目。
 戎(じゅう)はそのひととなり人の首で三つの角。
 林氏国に珍獣あり、大きさ虎の如く、五彩みなそなわり、尾は身より長い。名は騶吾(すうご)。これに乗れば日に千里を行く。昆侖の南にある氾(はん)林は方三百里。従極の淵は深さ三百仞、(河伯)冰夷(ひょうい)つねにここに都す。冰夷は人面にして双竜に乗る。陽汙(お)の山、河が山の中から流れ、凌(りょう)門の山も河が山の中から流れる。王子夜の尸は両手・両股(もも)・胸・首・歯みな切られてばらばらである。
 舜の妻、登比(とうひ)氏は宵(しょう)明と燭光を生み、黄河の大きな沢に住んだが、二人の姫の霊はここ方百里を照らすことができた。
 蓋(がい)国は強大なる燕(えん)の南、倭(わ)の北にあり、倭は燕に属す。朝鮮は列陽の東の海、北山の南にあり、列陽は燕に属す。
 列姑射(れつこや)は海の島の中にあり。姑射国は海中にあり、列姑射に属し、西南には山をめぐらす(注三)。大きな蟹が海中にいる。陵魚は人面で手足あり、魚の身、海中にあり。大きな[魚便](おしきうお)は海中に住む。明組の邑(くに)は海中にあり。蓬萊(ほうらい)山は海中にあり。大の市(いち 蜃気楼か)は海中にあり。


 一 如渟注の『漢書]大人賦では「杖」の字がない.なければ勝は頭の上にのせているのであろう。
 二 犬封から林氏までは古代の異民族で、その奇怪な習俗とトーテムをあらわし、同時に中国人のおそれを示しているように思える。
 三 『荘子』逍遙遊にある藐姑射(はこや)の山で、「神大ありて住む。肌膚(きふ)は冰雪(ひょうせつ)の如く、淖(しゃく)約としておとめの如し」という。郭注に山名というが、これに姑射の国が属するというのでは、単なる山はせますぎるゆえに、山名の注を省いた。東山経にもあって、郝(かく)氏は北経の方が遠きに過ぎるという。


 奇っ怪な人間や動物が続々登場してくる。一読して、「なんだこりゃ」というのが正直な感想。しかし、「神武記」にも八咫烏・尾生る人・尾生る土雲などが出てくるが、それを以て史料として信用できないという判定が間違っていることを私(たち)は知っている。「山海経」がどういう性質の記録なのか、解説文から二・三引用しよう。

 『周礼』をみると、大司徒が天下の土地の図をもち、九州の地域、東西南北の里数を周知していたし、職方氏も天下の地図を登り、山師・川師は山林・川沢を掌った。また『左伝』にも、禹は鼎を鋳て、それに遠国から献上した魑魅・魍魎(山や水の中の怪物)の図絵をかたどり、ひとびとに鬼神や怪物をあらかじめ知らせておいた。従ってひとびとは山林川沢に入っても、よからぬものや妖怪変化の類にあわずにすんだという。こういう点よく『山海経』の内容と一致している。

 『山海経』はもろもろの異物、飛走の類をしるし、多く東向とか東首というのは、もともと図画によって著述したのによるのであるまいか、といっているのは、適評であろう。ただこの場合、文章の作成が戦国の時代になされたとしでも、その画材が、鼎にせよ壁画にせよ、非常に古いとか、伝誦が古くで文は新しい、ということもじゅうぶん考えられる。この方が最も大切である。こういう立場から、海外以下の後篇も決して新しいとは思われない。恐らく古代を研究する人たちによって、今後貴重な発見がなされるのは後篇だと思う。王国維は、「山海経はその文は雅馴(がじゅん)でなく、その中の人物は世間では虚構の人物だと考えられているし、また『竹書紀年』も全部が信ぜられるものでないが、王亥の名はついにト辞(ぼくじ)に於で見つかった。こうした事が全部そうとはいえないが、しかしその人物は確かに虚構でない。古代の伝説で周秦間にあるものも、絶対に根拠がないとはいえぬ」といっている。

 尸(し)は生と死の中間であり、屍であり、物であり、神である。怪獣などには人面が多いが、人面であっても神にはならぬ、しかし神とよばれるためには、人面をそなえることが条件のようだ。

 さて、問題の地理情報は蓋国と朝鮮が対となって書かれている(赤字部分)。当然同時代の情報だから、私もそれをペアにして考えてみよう。

 燕が、鉅燕あるいは全燕(史記・朝鮮列伝)と表記されるほど、最も勢力を誇ったのは昭王(在位紀元前312年~紀元前279年)の時代である。その様子を『十八史略 Ⅰ覇道の原点』(徳間書店)から転載しよう。(「まず隗よりはじめよ」ということわざはこの説話から生まれている。)

 燕は姫(き)姓、召公奭(せき)の封ぜられし所なり。三十余世にして、文公に至って、かつて蘇秦(そしん)の説を納れ、六国に約して従をなす。文公卒す。易王噌(かい)立つ。十年にして、国をもってその相子之に譲り、南面して王事を行なわしむ。而して噌、老して政を聴かず、顧(かえ)って臣となる。国大いに乱る。斉、燕を伐ってこれを取り、子之を醢(かい 塩漬け)にして噌を殺す。

 燕人、太子平を立てて君となす。これを昭王となす。死を弔(とぶら)い生を問い、辞を卑うし幣を厚うし、もって賢者を招く。郭隗(かくかい)に問うて曰く、「斉、孤の国の乱るるによって、集って燕を破る。孤、極めて燕の小にしてもって報ゆるに足らざるを知る。まことに賢士を得てともに国をともにし、もって先王の恥を雪(すす)がんこと、孤の願いなり。先生、可なるものを視(しめ)せ。身、これに事(つか)うるを得ん」。隗曰く、「古えの君、千金をもって涓(けん)人をして千里の馬を求めしめし者あり。死馬の骨を五百金に買いて返る。君怒る。涓人曰く、死馬すらかつこれを買う。いわんや生者をや。馬、今に至らん、と。期年ならずして千里の馬、至るもの三。今、王必ず士を致さんと欲せば、まず隗より始めよ。いわんや隗より賢なる者、あに千里を遠しとせんや」。ここにおいて昭王、隗のために改めて宮を築き、これに師事す。

 ここにおいて士争って燕に趨(おもむ)く。楽毅(がっき)は魏より往く。もって亜卿となし、国政を任ず。すでにして毅をして斉を伐たしむ。臨淄(りんし)に入る。斉王、出でて走る。毅、勝ちに乗じ、六月の間に、斉の七十余城を下す。ただ莒(きょ)と即墨(そくぼく)は下らず。

 昭王卒す。恵(けい)王立つ。恵王、太子たりしとき、すでに毅に快からず。田単(でんたん)すなわち反間を縦(はな)って曰く、「毅、新王と隙あり、あえて帰らず。斉を伐つをもつて名となす。斉人ただ他将の来たって、即墨の残せられんことを恐る」。恵王はたして毅を疑う。すなわち騎劫(きごう)をして代わって将たらしめ、而して毅を召す。毅、趙に奔(はし)る。田単ついに燕を破り、而して斉の城を復すを得たり。


 この頃の燕の勢力範囲を示す地図を「中国東アジア地図」さんから拝借する。(前270年頃の地図が欲しかったのだが、どういうわけか前3・2世紀が欠けているので、前300年の地図を選んだ。)

前300年の東アジア

 この地図では燕の東方の領域は遼東半島までだが、燕の全盛期には蓋国の北にまで勢力を伸ばしていたはずだ。『「邪馬台国」論争は終わっている。(13)』で用いた三国志時代の朝鮮半島の地図を転載する。「東沃沮伝」の記事から蓋国の位置が確認できよう。

(東沃沮伝)
東沃沮は高句麗の蓋馬大山の東に在り。

東夷伝地図

 燕の領域が蓋国の北にまで及んでいたことを示す史料として『史記列伝』の「朝鮮列伝」がある。次のように書かれている。

 朝鮮王の衛満(えいまん)というのは、本来燕の人である。戦国時代、まだ侵略を受けないころから燕は真番(しんばん 鴨緑江の西)と朝鮮(鴨緑江の東)を攻略して領有し、統治のために官吏を置き、城塞を構築していた。秦は燕を滅ぼすと、遼東の外がわの地帯まで領有した。漢の始め、それらの地域が遠方で守備が困難なことから、もう一度遼東の古いとりでを修理して、[さんずいに貝の字](ばい)水(鴨緑江)までを国境線とし、燕国の領土とした。

 衛満は後に箕氏朝鮮に替わって衛氏朝鮮を建国した人物である。

 「山海経」の記事に戻ると、私はこの記事は単なる地理情報ではなく、燕の支配領域拡大を誇示する意味をも込めているのではないかと読んだ。

蓋国は強大なる燕の南、倭の北にあり、倭は燕に属す。
については、倭のすぐ北が蓋国のように書いているのをその通りに受け取ることにする。蓋国はかなり南の方まで領域を広げていて、中国側では後の三韓あたりを倭と認識していた、と推定した。

また、
朝鮮は列陽の東の海、北山の南にあり、列陽は燕に属す。
について、「朝鮮」とは箕氏朝鮮である。「列陽」はリャオトン(遼東)半島かなとも思ったが、そこは領土拡大の以前の領有地であるから取らず、「列陽」はシャントン(山東)半島(楽毅が燕の領域に組み込んでいた)と推測した。「北山」は衛満が領有した地域と考えられるので、ちょっと遠いがチャンパイ(長白)山脈と推定した。
《続・「真説古代史」拾遺篇》(62)



「倭人伝」中の倭語の読み方(5)
「令支命題」


 倭国30国の中に「支」という文字を含む官職名・国名が爾支、伊支馬、彌馬獲支、已百支国、郡支国、支惟国と6例ある。「爾支」以外は「支」を通常通り「シ」(漢音・呉音共通)と読むと合理的な解釈が出来ない。この問題を解決したのが「令支命題」である。この命題の探求は『三国志・魏志の列伝「公孫瓉(こうそんさん)伝」』(8巻)に付された注記の発見が発端であった。

公孫瓉、字伯珪。遼西の令支の人なり。

     令音、郎定反。
     支音、其兒反。

(紹煕本。廿四史百納本、112ページ)

 この注は「反切」である。「反切」については『丸山林平「定本古事記」を読む(3)』で学習した。次のようになる。

 「令」の音は「郎(ロウ)」の子音と「定(テイ)」の母音から「レイ」である。
 「支」の音は「其(キ)」の子音と「兒(ジ)」の母音から「キ」となる。
 従ってこの「令支」は「レイシ」ではなく、「レイキ」と読むことになる。

 念のため〈筑摩版〉を調べてみたら
「公孫瓉(こうそんさん)は字(あざな)を伯珪(はくけい)といい、遼西(りょうせいぐん)令支(れいし)県の人である。」
と、注記を無視して「レイシ」と読んでいる。

 古田さんは「令支命題」を確信するに到る経緯を次のように述べている。

 倭人伝の国名表記などに「支」という文字表記の多いことは当然知っていたから、わたしは喜んだ。直ちに京大の中国文の言語学者、尾崎雄二郎さんにこれを報告したのである。すると、
「それは、そこ以外は「シ」と訓め、という意味の注記ですよ。」
と即答されたのである。「なるほど」と思った。さすが専門家による「専門家の目」の見識、そう思って心服したのである。

 しかし、今ふりかえってみると、それは必ずしも「諾(イエス)」ではなかった。なぜなら、もし三国志の魏志倭人伝の固有名詞表記が、一貫して中国側の表記、陳寿による「選字」であるとすれば、尾崎説の通りだ。漢書西域伝などにも「支」を「シ」と訓む例は少なくないからである。

安息の長老伝之聞く、條支に弱水有り、西王母も亦未だ嘗て見ざるなり。
(六十六、上)(史記大家伝では「條枝、安息の西、数千里に在り、西海に臨む」とある。)

 だが、現在到達したように、倭人伝の中の固有名詞が「倭人による漢字表記」であったとすれば、先の尾崎説のように、簡単に「反転」させていいかどうか、問題である。その前に、「倭人の漢字表記」の〝いわれ″とその歴史が問題だからだ。

 「倭」が中国の古典に最初に現われている例としては、「山海経」が有名である。

(「山海経」海内北経)
蓋国(がいこく)は鉅燕(きょえん)の南、倭の北に在り。倭は燕に属す。

 「蓋国」は「蓋馬大山」の地である。

(東沃沮伝)
東沃沮は高句麗の蓋馬大山の東に在り。

 右にある「~に属す」という表現の意義は何か。政治的のみならず、文化的にも〝深いかかわり″をもっている。そのように解しても、大きくはあやまらないであろう。

 今、「支」を「キ」の音で使っている「令支」の地は、この〝燕の領域″なのである。

 とすれば、少なくとも、かつての「尾崎命題」を〝はなれ″て、倭人伝の中の固有名詞の「支」を「キ」と訓むべき道、今はそれが〝開かれ″えたのである。これはわたしの倭人伝の「訓み」にとってきわめて重大だった。「閉されていた眼帯(アイ・マスク)」を取りはずし、自由に倭人伝を訓(よ)む。 ― それが可能となったのである。これを「令支(れいき)命題」と呼ぶこととする。

 「支」の音は手元の辞典では「シ」しかない。念のため、図書館で諸橋大漢和辞典を調べてみたら、「支」の音は四通りあり、二番目に「キ・ギ」があった。「キ」と読むのはそれほど特殊なことではないようだ。

 疑問点、というよりか、分らない点が二点ある。

一つは「公孫瓉伝」の注記は裴松之によるものなのか、あるいは陳寿が本文中に付したものなのか。また、裴松之は音に関する注記まで行ったのだろうか。陳寿自身による注があることなど聞いたことがないから、やはり裴松之によるものだと思うのだが、古田さんの引用の仕方を見ると、本文中に書かれているように見えるので疑問に思った。また、音に関する注記は他にもあるのだろうか。

 いま思いついて〈筑摩版〉の凡例を読んでみたら、「裴松之の注のうち、音注は原則として省いた。」とあった。上の疑問は解消しました。

 もう一つは燕と蓋国と倭国の位置関係で、「山海経」の記事では燕・蓋国・倭国が直接隣接していることになっているが、これをどう解釈したらよいのか。こちらは少し調べてみよう。(次回へ)
今日の話題



「口元チェックアホかいな」


 毎年4月1日の東京新聞「こちら特報部」は、他紙には絶対にない4月1日にふさわしいスクープ記事を特集している。今年は「日本にいた!? 逆白黒パンダ」「ウラ原子力ムラの野望 低速増殖炉「みろく」安全神話の決定版?」「口元チェックアホかいな」という出色の記事が満載だった。「口元チェックアホかいな」を紹介しよう。

口元チェックアホかいな

腹話術合唱団
大阪市の教員「君が代」を特訓

 大阪市内の高校教員約十人が腹話術合唱団を結成した。君が代を歌っているかを口の動きでチェックした大阪府立高校の校長と、これを絶賛した橋下徹大阪市長を揶揄するのが狙いだ。

 結成を呼びかけたのは、府立高校に勤める平松徹さん(43)。合唱団の名称は「トオル君♪合唱団」だ。平松さんと檮下市長の名前から取った。

 大阪府では昨年、全国で初めて君が代起立条例ができた。三月初旬の卒業式で、平松さんは起立して斉唱した。「君が代には反対ではない。起立条例にも関心を持っていなかった」と振り返る。

 だが、府立和泉高(岸和田市)の校長が君が代斉唱の際、教員の口の動きを監視していた問題には強い違和感を覚えた。起立条例も、あらためて調べてみると、職務命令で強制するのは、やり過ぎだと感じた。

 お笑いの本場・大阪だけに、口元チェックを笑いのめすことはできないか。思い浮かんだのが小学生のころ、演芸場で見た腹話術だった。唇を閉じたままで歌えることを証明すれば、口元チェックは無意味になる。

 教員仲間に話すと、約十人が面白い」と賛同した。全日本あすなろ腹話術協会(本部・神戸市)に相談したところ、本部会長の福小介さん(44)が講師を買って出た。

 31日の初練習では、平松さんら4人が参加。福さんは「君が代の『み』は破裂音で難しい。『に』と号言うつもりで発声を」と熱心に指導した。

 今後は月2回のペースで練習を重ねる一方、橋下市長に似せた人形を作製。今夏には初コンサ一トを開く予定だ。

 平松さんは「腹話術で君が代を合唱すれば、不気味で楽しい。橋下市長には、口元チェックのバカバカしさに気が付いてほしい」と話している。