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《続・「真説古代史」拾遺篇》(40)



「倭人伝」中の倭語の読み方(4)
読み方のルール(3)


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 「愛読者」さん、重ねてのコメント、ありがとうございます。

(「愛読者」さんのコメント)
 対馬・対海何れも「ツシマ」とは読めませんから、「表音」ではなく「表意」による国名ではないでしょうか。

 同様の表現では「対蘇国」がありますが、これは倭人伝中の国名の並びから、蘇奴国(蘇の国)あるいは「蘇」に「対面・対峙」する国と思われるからですが、いかがでしょうか?

 古田さんも「瀚海」の瀚を「飛ぶように速い海流」を意味する語、「表意による海の名」とされていますよね。

 私の思考が浅く論旨に混乱がありました。次のように訂正したいと思います。

「三世紀頃の倭国という限者の意向によって名称が変更されることもあると思うが、原則として、それまで用いていた名称の音または意味と関連した漢字表記をするだろう。しかし、国の名称の場合は、その国が成立したときの命名なので、新しい国なら表意による漢字命名があって当然である。」

 今回のテーマの目的の一つは古田さんによる倭国30国の読み方を紹介することです。いずれ詳しく取り上げますが、古田さんによる「対蘇国」の読みは、「対海国」と同様に、「対」を「こたえる」という意とし、「阿蘇山の神を尊崇し、これを祭る国」と解釈しています。
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 さて、「ルール・その三」は「都市牛利」の読み方から導かれている。きっかけは上城誠さん(「古田史学の会」で活躍されている方のようです)からファックスで届けられた一枚の名刺であったと言う。その名刺の氏名は「都市佳美」だった。姓の「都市」は「トイチ」と読む。音訓併用の姓である。

 古田さんはさっそく「都市」さんを訪ねられる。こういうところが古田さんのすごいところだ。2009年のことというから83歳になられている。お年にもかかわらず、「歴史は足にて知るべきものなり」というモットーを実行している。改めて敬服の念に打たれる。

 古田さんが訪ねられたのは長崎県北松浦郡の鷹島である。北松浦半島から突出している岬と鷹島とで伊万里湾の出口を形作っている。

 久留米大学での講演のあと、長崎県北松浦郡の鷹島へ向かった。単独だった。博多の近くに住む、佳美さんの御親戚から親切にお教えいただいたのである。鷹島の宮崎旅館に着いた。都市さん一族のお家におうかがいしようとしたら、夕刻すぎ、向こうから来られた。そのお出でいただいた都市政文さんの御案内で深夜(二十二時半)、黒津へ行き、さらに翌朝松崎英雄さんの御案内で墓地に登った。明治のはじめ近くまで、都市一族の住居、そして墓地のあったとされた地点である。そのまぎれもなき「土地鑑」を得ることができたのである。「黒津」は「黒潮」の「黒」。〝神聖な″の意義である。その黒潮分流の松浦水軍の拠点、それがこの「黒津」である。

 どうやら「都市牛利」は松浦水軍と関係がある人物のようだ。ここで改めて「都市牛利」が登場するくだりを復習しておこう。

 景初二年六月、倭の女王、大夫難升米等を遣わし郡に詣(いた)り、天子に詣りて朝献せんことを求む。太守劉夏、吏を遣わし、将いて送りて京都に詣らしむ。

 其の年十二月、詔書して倭の女王に報じて曰く、「親魏倭王卑弥呼に制詔す。帯方の太守劉夏、使を遣わし、汝の大夫難升米・次使都市牛利を送り、汝献ずる所の男生口四人、女生口六人、班布二匹二丈を奉じ、以て到る。汝の在る所遠きを踰(こ)え、及(すなわ)ち使を遣わして貢献せしむ。是れ汝の忠孝、我甚(はなは)だ汝を哀れむ。今、汝を以て親魏倭王と為す。金印紫綬(きんいんしじゅ)を仮し、装封(そうふう)して帝方太守に付して仮授す。汝、其れ種人を綏撫(すいぶ)し、勉(つと)めて孝順を為せ。汝が来使難升米・牛利、遠きを捗(わた)り、道路勤労す。今、難升米を以て率善中郎将と為し、牛利を率善校尉と為し、銀印青綬を仮し、引見労賜(ろうし)して遣わし還す。今、絳地(こうち)交龍錦五匹・絳地縐粟罽(しゅうぞくけい)十張・蒫絳(せんこう)・五十匹・紺青(こんじょう)五十匹を以て、汝が献ずる所の貢直に答う。又特に汝に紺地句文錦(こんじこうもんきん)三匹・細班華罽(さいはんかけい)五張・白絹五十匹・金八両・五尺刀二口・銅鏡百枚・真珠.鉛丹各五十斤を賜い、皆装封して難升米・牛利に付す。還り到らば録受し、悉く以て汝が国中の人に示し、国家汝を哀れむを知らしむ可し。故に鄭重に汝に好物を賜うなり」と。


 都市牛利は俾弥呼が魏に送った遣使の次使だ。詔書には正使の難升米とペアで登場する。難升米の方には変化がないが、都市牛利の方は初出がフルネームだが、後は「牛利」だけになっている。

 古田さんは難升米の方は「難」が姓で「升米」が名であることを論証している。そして「ナンシメ」と読んでいる。(もしも必要が起きたら詳しく取り上げることする。)

すると都市牛利の方の「都市」は姓ではなく職名ではないかと言い、古田さんは次のような分析をしている。

 この状況から見ると、「難」姓とは異なり、「都市」の場合は「姓」というより職業もしくは職場ではないか、という問題である。

 たとえば江戸時代でも「豆腐屋の甚兵衛」と言う。「甚兵衛」だけなら、他にも〝あり得る″名前だから、「豆腐屋の」という〝職業″によって、当人を「特定」するのである。だが、その場合、一回目だけであり、二回目からはもう、その「職能」は。付ける”必要がない。それと同じである。

 すなわち、この「都市」は現代では明白に姓となっているけれど、三世紀の倭人伝のケースでは、いまだ「姓」ではなく、「職能」もしくは「職場」なのではないか。そういう問題である。

 では「都市」とはどのような職能を表しているのだろうか。

(その一)
 「ト」は戸口。神殿の戸口を指す言葉である。
(その二)
 「イチ」は市。倭国に「市」のあったこと、倭人伝に明記されている。「国国市あり。有無を交易し、使大倭(したいゐ)之を監す。」(従来の訓みでは「大倭をして之を監せしむ。」)とある通りだ。

 「神殿の戸口の周辺におかれた市場」の意である。後代の〝神社や寺を中心として作られた市場″の原型である。

 しかしこれは「十市(トイチ)」である。「都」に限った存在ではない。ところが「都市」の場合、「ト」に「都」の漢字を〝当てて″いる。すなわち、この場合は、倭国内の各国にある、一般の「トイチ」ではない。女王国の首都にある「都の〝トイチ″」なのである。女王国に〝一つだけ″の、中心の「トイチ」である。それを掌握していたのが、この松浦水軍だったのである。

 倭人伝に次の文面がある。

①(対海国)「良田無く、海物を食して自活し、船に乗りて南北に市糴(してき)す。」
②(一大国)「差田地有り、田を耕せども猶食するに足らず、亦、南北に市糴す。」

 右の「南北市糴」の表現は、「北」(狗邪韓国)と「南」(末盧国)との間の経済交流を指す言葉であろう。その「海上交流」を支え、管理していたのが、松浦水軍である。だからそのボス、責任者が、「都市の牛利」と称したのは、当然だったのである。わたしは倭人伝の中の人名表記について、さらに一歩をすすめることができたのである。

 後世(七世紀)、万葉集に出現して有名な「十市(といち)の皇女」も、大和における「トイチ」の存在を示しているものと思われる。

 このように考察してくれば、景初二年の俾弥呼の使者のナンバー・ツウにこの「都市牛利」の名のあることはその意義が明確となろう。当時の朝鮮海峡の「南北交流」の海路を支配していたのは、松浦水軍であった。その松浦水軍のルートに依って、俾弥呼は使節団を帯方郡へと派遣することが可能だったのである。

 以上により
「倭人伝の固有名詞は、倭語を「音訓両用」の漢字表記したものである。」
というルールが加わる。古田さんはこれを「都市命題」と読んでいる。

 なお、古田さんは「牛利」の方の読みは「ゴリ」または「ギュウリ」とし、はっきりとした決着をつけていない。手元の辞書(新漢和辞典)では「牛」は「漢音:ギュウ、呉音:グ」である。「ゴ」は「特殊な場合にのみ用いられる音」とされている。「ゴリ」は不当ではないだろうか。「ルール・その一」に従えば「グリ」となるが、このルールは〝妥当する可能性が高い″ということで絶対的なルールではないので「ギュウリ」もあり得る。音が「グ」の漢字は、「求」「具」など、たくさんあるのにその中から「牛」を選んだ理由はなんだろうか。一方、「ギュウ」と読む漢字は「牛」しかない。そのようなことを勘案すると「ギュウリ」が妥当だろうか。「あるいは「ルール・その三」を用いて「ウシリ」?

 名前の方は「都市牛利」という人物の正体解明には関係ないだろうから、これ以上こだわるのはよそう。

 ちなみに、「評釈倭人伝」では「ヅシゴリ」「トシゴリ」の二通りの説を挙げている。また、世界古典文学全集(筑摩書房)の「三国志」(以下、〈筑摩版〉と略記する)では「タジゴリ」という一風変わった読みをしている。「」は「ト、ツ」であり、「市」は「シ、ジ」である。「ヅシ」「タジ」などという読みは一体どこから出てきたのだろうか。
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《続・「真説古代史」拾遺篇》(40)



「倭人伝」中の倭語の読み方(4)
読み方のルール:番外編


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 前回の「どなたか分る方おりましたら、教えてください」という私のコメントに対して、さっそく「愛読者」さんから回答を頂きました。出典はやはり諸橋大漢和辞典でした。

(「愛読者」さんのコメント)
四巻の三九Pに
「對」こたへる・・[詩、大雅、桑柔]聴言則對。[箋]對、答也。
諸橋六巻一一六〇Pに
「海」・・水の神[左氏、昭、二十]海之鹽蜃。[疏]海、是水之大神。 とあります。

 ところで、私は「海之鹽蜃」がなぜ「水の神」なのかが分らなかった。直接『春秋左氏伝』を当たってみたが、やはり分らない。分らなかったので報告する必要はないのだけれども、せっかく調べたのだから記録しておくことにした。

 「左氏」の「海之鹽蜃」という語句を用いているお話は斉侯(以下「公」と書く)の説話だった。次のようお話です。(以下、新釈漢文大系『春秋左氏伝 4』が教科書です。)

 公の病が治らないのは鬼神をまつる祝史の罪だから、祝史を誅すべきだと、斉の大夫が公に薦めた。公は晏子にこのことを相談した。晏子は大夫の進言を批判した。すると、

公曰く、
然らば則ち之を若何(いかむ)せむ、と。
對えて曰く、
爲す可からざるなり。山林の木は、衡鹿(こうろく)之を守り、澤の萑蒲(くわんぼ)は、舟鮫(しゆうこう)之を守り、薮の薪蒸(しんじよう)は、虞候(ぐこう)之を守り、海の鹽蜃(えんしん)は、祈望(きぼう)之を守る。縣鄙(けんぴ)の人、入りて其の政(まつりごと)に從(したが)ひ、偪介(ひょくかい)の關(くわん)は、其の私(し)を暴征し、承嗣大夫は、強ひて其の賄(くわい)を易(か)へ、常(つね)を布(し)くこと藝(のり)無く、徴斂、度無く、宮室日に更め、淫樂違(さ)らず、内寵(ないちょう)の妾(せふ)は、肆(ほしい)ままに市に奪ひ、外寵の臣は、僭(いつは)りて鄙(ひ)に令し、私欲を養求し、給せざれは則ち應ず。民人苦痛し、夫婦皆詛ふ。祝すること有るも、誼ふも亦損有り。聊攝(れうせふ)より以東、姑尤(こいう)より以西、其の人たるや多し。其れ善く祝すと雖も、豈(あ)に能く億兆人の詛いひに勝たんや。君若し祝史を誅せんと欲せば、徳を修めて而る後に可ならん、と。公説(よろこ)び、有司をして政を寛(ゆる)くし、關を毀(こぼ)ち、禁を去り、斂(れん)を薄くし、責を巳(や)めしむ。

 晏子の「爲す可からざるなり」という答は、「祝史を誅しても事態は改善されません」という意だろう。現代文訳は次のようになっている。

「どうにも手の下しようがございません。今や山林の木は衡鹿が看守し、沢地の萑(すげ)や蒲(がま)は舟鮫が看守し、藪地(そうち)の薪は虞候が看守し、海の塩や貝は祈望が看守していて、人民にはどうにもなりません。……」

 衡鹿・舟鮫・虞候・祈望は官職名であり、祈望については「○祈望 海を看守し、その祭りを掌る官。祈望は海を祭る意」という注が付いている。山がご神体になるように、海そのものが畏怖すべき神とされてきたことは容易に理解出来る。そして、
「[疏]海、是水之大神。」
とあるから、「海」に「水の神」という意味があることは納得する。しかし、私はどうして「海之鹽蜃」から「海=水の神」という意味があることを引き出せるのか、さっぱり分らないのだった。

 もうひとつ、[疏]と略記されている出典が分らない。諸橋漢和大辞典の「凡例」を調べたら[皇疏](皇侃の論語義疏)があったが、ただの[疏]はない。[皇疏]=[疏]なのだろうか。「『論語義疏』テキストデータ」というサイトに出会った。『論語』で「海」を含む文章を調べ、それを「『論語義疏』テキストデータ」で確かめたが、「海、是水之大神」には出会わなかった。
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 さて、「愛読者」さんのコメントには前回のテーマの一つ「対海国」についての意見が書かれていた。なるほど一理あるな、と思った。検討してみよう。

 ただ個人的には倭語の島名は津島(ツシマ)、国名は半島(馬韓?)に対峙する上県が「対馬国」、玄海(対馬海峡東水道)に対峙する下県が「対海国」だと思っています。何故なら古田さんの倭人伝の里程解析上有名な「島廻り読法」では、上県は通過せず」下県を半周しているわけで、これから見ると倭人伝の対海国は下県になるからです。

 上下で県が分かれているということは別国であった名残ではないでしょうか。

(追加)
 玄海(対馬海峡東水道)などといわなくとも「始度一海。濶千餘里。名瀚海。至一支國。」ですから「瀚海に対峙する国」としての名でよかったですね(倭語で対馬と壱岐の海峡をどう呼んでいたか不明ですが・・)

 「島廻り読法」の図を再掲示する。



 この図では上県・下県を合わせて「対馬」とし、下県を「対海国」と呼んでいる。これに対して「愛読者」さんは上県を「対馬国」、上県・下県全体の島名を「津島ツシマ」としている。そうすると「対海国」「対馬国」はそれぞれ「タイカイコク」「タイバコク」と読むと思われるが、この場合、対馬を原点とした命名だから当然倭語ということになる。しかし、この場合次のような難点がある。

 地名は後世になって変更されたものもたくさんあるが、3世紀頃の場合は、倭人が漢字を知らない頃(もしかすると石器時代)に付けられた倭語による地名が残っていたと考えてよいであろう。その地名に「音が同じ」かあるいは「意味が同じ」という理由で最も適した漢字を選んだと考えてよいだろう。「津島ツシマ」は「津の多い島」ほどの意味で確かに倭語と考えられるが、「タイカイコク」「タイバコク」という倭語はあり得ないのではないだろうか。あるいは意味の上で「対海」「対馬」という漢字表記を選んだのなら、その元になる倭語地名がなければならない。そうした記録が残されていないのなら、何とも判断できないことになる。古田さんは「一大国」と「対海国」については、元になる倭語地名として「亦の名」を取り上げたのだった。

 ところで、古田さんは『俾弥呼』では「瀚海」に触れていない。念のため「新・古代学の扉」で検索したら、『邪馬一国の証明』(角川文庫)のネット版テキスト「古代船は九州王朝をめざす」と講演録「神話実験と倭人伝の全貌2」でこの問題を取り上げていた。『俾弥呼』で取り上げていないのはまだ確定的なものとは考えていない(保留している)からだろう。このことを念頭に置いて、古田さんの考えの変遷をたどってみる。まずは「古代船は九州王朝をめざす」から。

飛鳥(ひちょう)の海流

 ある人がわたしに言った。「古田さんの本を読んでいると、あまりにもハッキリと分かりすぎてしまう。古代史はあんなに割り切れるものだろうか?」と。わたしは答えた。

 「いや、古代史は分からないことだらけです。その中で自分にハッキリ分かったこと、それだけを書いたのです」と。『「邪馬台国」はなかった』『失われた九州王朝』から最近の『盗まれた神話 ーー記・紀の秘密』まで、みんなそうだ。

 たとえば『三国志』魏志倭人伝。どうにも分からない所があった。「狗邪韓国 ―(A)― 対海国 ―(B)― ―大国 ―(C)― 末盧国」と三つ海域があるのに、(B)だけしか名前(「瀚海」)がついていない。これが解(げ)せなかった。また「瀚」は“広大なさま”だというのだが、こんな狭い海域になぜこんな名前が? 分からない。だから、私の本には書いてないのだ。

 ところが今度、ふとしたことで解けた。「三水編」をとって「翰」で調べた(たとえばこの三海域を「わたる」ときに度と渡が使われている。卑弥呼も帝紀では俾弥呼だ)。この字は“飛ぶ鳥(やまどり)”“速くとぶさま”とある。わたしは躍り上った。「対馬海流だ!」百科事典を調べた。流速1ノット。黒潮(流速3~5ノット)を知っている倭の水人から見れば、たいしたことはない。だが、袋小路で淀んだ海の、黄海や東シナ海しか知らぬ中国人から見れば、まさに“速く流れる海”だ。それにしても、海流を飛鳥になぞらえるとは、いかにも中国人らしい雄勁な造語力ではないか!

 “この解釈にまちがいない”と自信がもてたのは、ほかでもない。海流なら三海城それぞれに名のあるはずはない。中心の対馬海峡の所だけしるされていて当然だからだ。つまり、これは海名ではなく、海流名だったのである。ここでも陳寿(と漢代以来の中国人)の目は真実(リアル)だった。

 この段階では、倭語ではなく、中国側の命名としている。しかし、講演録「神話実験と倭人伝の全貌2」の質問応答の部分では、「瀚海」の意味については上と同じ説明をしているが、その海流名は倭語であるとしている。

質問一
 『魏志倭人伝』の「一大国」や「対海国」は、いままでの考えと違って、中国が付けた名前でないなら、それでは「瀚海かんかい」は同じく日本側が付けた名前となりますが、どのように考えられていますか。


 「一大国」や「対海国」は中国側ではなくて、倭人側が付けた。そこで「瀚海かんかい」ですが、初め困って、どうしてもうまく理解できなかった。辞書を引いてみると「瀚」そのものは、広いという意味です。それで、あのような狭い海を、このようには理解できないので困りました。それでサンズイ扁をとりました「翰かん」。これは速いという意味である。これなら良いのでは。

 わたしは、この時代は文字がかなり形成されて、まだ固まっていない時代。かなり形成された時代ですが一〇〇パーセント形成された時代ではないと思っています。だからサンズイがある文字とない文字が、ともに混用されている段階の時代です。例をあげると金印の「委」、これは本来は「倭」である。ところが両方とも使っている。

 ご質問の「瀚海」に戻ります。サンズイを取りますと、書簡の意味の「翰」、あるいは鳥が並んで速く飛んで行くという意味である。これは「広い」という意味ではなく、「速い」という意味です。そうしますと、この海は対馬海流上の速い海です。そう理解し納得しました。

 倭人にとって「瀚海」は壱岐と対馬を結ぶ重要航路である。その海に倭人が名前をつけないはずはない。漢字を使うようになってから、従来使い慣れた名前を捨てて、まったく新らしく「速い海」という意味の漢字表記を作ったとは考えがたい。やはり、漢字使用以前に「広い海」という意味の倭語海名があったことを示さなければいけないのではないだろうか。その倭語が残されていないのであれば、結論は保留する外ないだろう。

 最後にもう一つ。
 ついでなので「対馬」という地名の由来を知ろうと思い、『日本地名ルーツ辞典』(創拓社)を読んでみて驚いた。次のようである。(必要なのは赤字の部分だけなのだが、とりあえず全文転載する。)

 県北部、朝鮮半島と九州本土の中間にある島。上島・下島の二島と95の小島が点在し、古代より日本と大陸の往来の要地であった。

 ツシマは『魏志』倭人伝では「対馬」、「隋書」倭国伝では「都斯麻」、『古事記』では「津島」と書かれている。『和名抄』には「西海国対馬島・都之万」とあり、『古事記伝』は名称の起こりを「韓国と往き来するときに停泊する港のある島である」と説明し、吉田東伍の『大日本地名辞書』には「対馬は津島の義なるべしと云は最も通じ易き談なり、然れども島中にか豆酘(つつ)郷の名あれば、豆酘島と呼べる者再転して津島と為れるにあらずや、疑なきにしもあらず」とし、ツシマはツツシマからきているとしている。

 永留久恵は韓国の研究者の説として、韓国語で「二つの島」をTu-semといい、島はSnemと発音すること、韓国のほうより対馬を見ると南北二つの島に見えることを紹介しているが、結論として確固たる定説ではないとしている。

 『津島紀事』には、「むかし島と号(とな)へしを天智天皇の御時更めて国とせられ、文武天皇の御宇に又島と称せられる。後花園院の朝嘉吉年以来大宰府及び本州の書物には定て国としるし、他国にては国又は島としるして一定せず、……天正年以来公私一定して国と称せり」とある。

 対馬は明治時代、陸地を開削して上下二島に分かれたが、もともと一つの島だった。しかし、上・下が向かい合う地形から、二つの島が対になっているように解された。(越中)

対馬地図
(帝国書院版「中学校社会科地図」より)

 開削したのは「万関橋」当たりだろうか。もしこれが真実なら、「島廻り読法」は修正しなければならなくなる。
《続・「真説古代史」拾遺篇》(39)



「倭人伝」中の倭語の読み方(2)
読み方のルール(2)


 「倭人伝」中の倭語については、「使譯」(使者・通訳)を通して知った知識を元に魏の吏官が漢字で音表記したものが原史料になっている、と従来は誰もがそのように考えて疑わなかった。もちろん私もそう思っていた。ところが古田さんは
「倭人伝の中の国名や官職名表記等は、倭人側か倭語の上に立って漢字表記したものである。」
と言う。しかも「音訓併用」だったと言うのだ。特に「音訓併用」という点は私にとって晴天の霹靂だった。にわかには信じられなかった。古田さんの論考をたどってみよう。

 前回確認した事柄を「ルール・その一」とすると、三つのルールに分けられる。

ルール・その一
 漢字の音は「南朝音(呉音)」である。
ルール・その二
 倭語は倭人による表記である。
ルール・その三
 倭人は音訓を併用していた。

 「ルール・その二」の探求は
「壱岐のような〝ちっぽけな″島を、中国側が『一大国』などと表記するはずはない。」
という一読者(故倉田卓次氏)からの指摘がきっかけで始まったと言う。古田さんはこれを「倉田命題」と呼んでいる。

 「井の中」では「一大国」を、「大」は「支」の誤記であるとし、「一支国」という表記を用いている。その論拠を『評釈 倭人伝』は次のように述べている。

「唐の姚思廉(?-637)の『梁書』巻57「東夷伝」倭の条に、「始度一海。濶千餘里。名瀚海。至一支國。」とあり、李延寿の『北史』もまたこれを襲用しているが、それによって一大国は「大」が「支」の誤記で、一支国であることは確かであろう。」

 後代の吏官(姚思廉・李延寿)にとっては「一大国」は意味不明の異様な国名に見えたのだろう。これを「一支国」と改編した。しかしあくまでも原史料「倭人伝」の表記に従うべきだ。後代の史料を用いて「誤記」と論難するのは不当だ。そもそも後代の吏官にとって意味不明と思われたことが、「一大国」が倭人による表記であることを示しているととらえるべきなのだ。

 もう一件身勝手な改訂問題がある。「井の中」では(A)「対海国」(紹熙本)ではなく、(B)「対馬国」(紹興本)の方を用いている。これについては古田さんの解説があるので、それを読んでみよう。

紹興(1131~62)
紹熙(1190~94)

 上の年代のしめすように、「紹興本」の方が「紹熙本」より古い。しかし、「紹熙本」は実は北宋年間の咸平6年(1003)の「牒(ちょう)」が付されているように、「北宋本の復刊本」なのである。すなわち、その実質においては「紹熙本」の方が「紹興本」より古いのである。

 もちろん、その文面のほとんどは、両者同一である。「邪馬壹国」なども、両者の間に変わるところはない。

 ただ一つの〝ちがい″、それが、
(A)対海国 - 紹熙本
(B)対馬国 - 紹興本
の一点なのである。では、どちらが「本来の形」か。

 今までの史料批判からも明らかなように(A)の方が本来形であり、(B)の方は現在(21世紀)も使用されている「現地名」によって「改定」したものである。

 そして岩波文庫も、(B)の形を「正当」としているため、漫然とこれに従っている論者が多い。不当である。この点、第一書以来、くりかえし記してきたところ、改めて念を押しておきたい。

 さて、それでは倭人はどうして「一大国」・「対海国」という表記をしたのだろうか。古田さんは私などには思いも及ばない発想をする。『古事記』の「大八島国の生成」説話の「亦の名」を取り上げている。

…次に伊伎(いき)島を生みき。亦の名を(1)天比登都柱(あめひとつはしら)と謂ふ。次に津(つ)島を生みき。亦の名を(2)天之狭手依比賣(あめのさでよりひめ)と謂ふ。

 〈大系〉の頭注は(1)について「天一つ柱で孤島の擬人化」と解説している。つまり、「孤島」を「柱」に見立てて、一般名称のように解釈している。壱岐島は「天族」にとっては単なる「孤島」ではなく、祭祀の中心の一つをなす重要な島である。(1)にはそれに見合った意味があるはずだ。なお、(2)については「名義未詳」としている。

 (1)・(2)に対する古田さんの解読を読んでみよう。

(1)天比登都柱
 古事記の「国生み神話」に「亦の名」がある。〝古い用例″である。これを考えてみよう。

 この「一大国」はむろん壱岐だ。その壱岐は「亦の名」では、 「天比登都柱(アマヒトツハシラ)」
である。

 「天」は「海士(アマ)族」の「アマ」を、「天」という〝美しい文字″で表記したものである。「アマミオオシマ」(鹿児島県)や「アマ(海士)町」(島根県)のように、対馬海流上の島々にこの名前が残されている。この対馬海流上に活躍した部族、それが「海士(アマ)族」なのである。

 「比」は「日」。「登」は「戸」。「都」は「津」。「ヒトツ」は〝太陽の神の神殿の戸口にある港″の意である。

 これに対して「柱」は「ハシラ」。「ハ」は「葉」。根や茎に対して〝広い場所″の意味だ。「シ」は〝人の生き死にするところ″。わたしの言素論の基本語の一つだ(後述)。「ラ」は接尾語。「ウラ(浦)」「ムラ(村)」「ソラ(空)」など、日本語にもっとも多い接尾語の一つである。だから「ハシラ」とは〝広い、人の生き死にするところ″の意なのである。

 以上を要すれば、これは「原の辻」を指している。壱岐島の中の「弥生遺跡の中心地」である。その東側に湾があり、入江になっている。ここが「ヒトツ」に当る場所である。その西に短い間道を通って、原の辻が存在する。すなわち、「海士族のための、太陽の神殿の戸口のある港に臨む、人の生き死にする広い場所」これが「原の辻」の古称なのである。

 わたしはかつて〝岩や山が柱状になっているところ″を求めてこの島を何回も歩き廻ったことがある。しかし(後代に達成された記念物は別として)一切「~の柱」なるものを見出すことはできなかったのである。

 「ハシラ」は漢字表記の「柱」そのものを指しているのではないと言う。そして「アマヒトツハシラ」から「一大国」という表記が生まれたと言いたいようだが、その説明がない。私なりの補充をしておこう。

 「ヒトツ」は「ヒトツ・フタツ…」の「ヒトツ」と音が同じなので「一」と表記した。これは分りやすい。では「大」の方は何だろうか。「ハシラ=広い、人の生き死にするところ」の「広い(広大な)」から「大」という表記を選んだ。あるいは対馬・沖ノ島など「天族」の領域内にはたくさんの島があるが、その中で一番「大きい」島という意味も込めているのかも知れない。

 次に(2)の解読を読んでみよう。

(2)天之狭手依比賣
 決定的だったのは、「対海国」である。この方は「一大国」とは異なり、一見すれば〝穏当″に見える。対馬は四面、海に対しているからである。だが、よく考えれば「否(ノウ)」だ。なぜなら、もしそのような意味なら、日本列島の中の大部分、この表記に〝当たって″しまう。阿蘇山や信州など、一部の例外を除いて。だから〝不当″なのである。

 しかし、「古い用語」では、ちがった。例の古事記の「亦の名」では、
「天之狭手依比売(アメノサデヨリヒメ)」
である。

 「天」は、例の「海士(アマ)族」である。「狭手」は〝熊手″。砂浜で貝などを〝たぐり寄せる″器具だ。「依(ヨリ)」は〝よりしろ″。神の降臨したまうところである。「比売」は当然〝太陽の女神″だ。つまり、「海士族にとって、狭手を〝よりしろ″として降臨したまう、太陽の女神」の意味である。

 一方の「対海」。漢字面である。「対」は〝こたえる″の意。「海」は〝水の大神″である。

對(こたヘる) - 「言を聽く、則ち對」(詩、大雅、桑柔)「對、答也」(箋)

海(水の神)-「海之鹽蜃。」(左氏、昭、二十)「海、是水之大神」(疏)

 「対海」とは〝海の大神の「アマノサデヨリヒメ」にお答えする祭りを行う国″の意なのである。

 海には海のルールがある。漁師たちは、それを守る。海の大神の定めたまうたルールと考えている。それを破るとき、災害がおとずれる。破らない一年は〝無事″だったのである。 - それを報告する、お祭りなのである。

今も、対馬(北部)には「アマノサデヨリヒメ」を祭神とする神社が少なくない。そういう倭人側の「目」で、倭人によってつくられた国名、それが「対海国」だったのである。

 この(2)「対海国」の解読については、私は「間然する所なし」と思う。ただし、語義説明の引用文(青字部分)に分らないことがある(特に出典が「左伝」の部分)。「諸橋大辞典」からの引用だろうか。どなたか分る方おりましたら、教えてください。(自分でも図書館に行って調べてみます。なにか発見があったら報告します。)

 以上の(1)・(2)の解読から、私は「ルール・その二」の正当性を疑がわない。
《続・「真説古代史」拾遺篇》(38)



「倭人伝」中の倭語の読み方(1)
読み方のルール(1)


 久しぶりの図書館に行った。別の目的があったのだが、分厚く(約700ページ)ひときわ目立つ本が目に付いた。
水野祐著『評訳 魏志倭人伝』(雄山閣 新装版 初版発行が1987年3月20日)

 水野氏は「井に中」の学者の中でも信頼できる方と思っていたので、何かと参考になるのではないかと、特にこれまでに行われてきた「井の中」での議論を知るのに便利だと思い借りて来た。この本をこれまでの「井の中」の「倭人伝」研究の集約資料とし、
菊池秀夫著『邪馬台国と狗奴国と鉄』
を「井の中」の最新説として利用していこうと考えている。(以下それぞれを「評釈倭人伝」・「狗奴国と鉄」と略称する。)

「評釈倭人伝」の「第一章『魏志倭人伝』概説」に「『魏志倭人伝』の研究方法と問題点」という節がある。とてもいいことを言っている。その部分を引用する。

 本書(管理人注:「魏志倭人伝」のこと)に記されているところは、あくまで本書によってのみ知りうる事象であって、それ以外の何物でもないことを、とくに注意しておきたい。このことは本書を日本古代史研究の史料として用いる場合に、最も基本的に大切な点なのである。この基本点を踏みはずして研究を進めるならば、それはかえって有害無益、むしろ本書のような中国史料がなかった方が、日本古代史の究明には幸いであったということになりかねない。

 たとえば『日本書紀』が女王卑弥呼について、日本側の伝承資料に全くその人物が現われてこないのを縣念して、あえて神功皇后に擬定しようとした彼らの偉大なる誤りが、それ以後の日本の史家に伝統的に継承されて、ついにいわゆる邪馬台国論争をまきおこし、今日に至るまで、長い実りの少ない論争が繰返されてきているのであるが、いまだに結論がでていない。

 しかし、もし本書がなかったならば、女王国も、邪馬壹国も、またその他の国も、卑弥呼の存在も、何もわからず、したがって邪馬壹国論争などは全く起らなかったわけである。けれども現実には本書が厳存し、その中に他には全くみられない文献上の事実が、記しのこされているのであるから、われわれは何としても、その実態を確認し、究明していかなければならないし、その点に本書の研究の究極の目的が存するのである。

 この目的を達成するためには、まずもって、本書の記載についてそれを正確に、忠実に、一字一句を読解する必要がある。虚心坦懐に記されたままを素直に本文に即して読むことから出発し、次いで、その検討に際しては、『三国志』の中の文章と比較検討し、とくに「東夷伝」の他の記載との異同を比較検討してその真実を探究することが必要であろう。そうして、倭人伝の記載内容を確定し、記載を固定化したうえで、なにほどの先入観をももたずに、その正当な解釈をし、それがどのような史実を意味しているのかを、史料批判のうえに立って推定するという手続きによって、正しい研究方法を確立させていくことが、絶対に必要であり、今後の研究の指針とすべき点だと思う。

 邪馬壹国の位置の決定は、それがどんなに不正確で、如かな記載はなくても、本書に記されている方角と里程によって、それで決定する以外にはないのである。ただ何らかの先入観に禍いされて、自説に都合のよいように恣意的に本書の字句を改訂したり、勝手に解釈したりして、邪馬壹国はここだといってみても、それは全く価値のない研究にすぎない。

 水野氏は「邪馬台国」ではなく一貫して「邪馬壹国」を用いている。また、赤字部分はまるで古田さんの研究方法の紹介のようである。そして、次の段落では「井の中」の学者たちへ正当な苦言を呈している。しかし「評釈」に入ると、見事に古田理論を無視して「井の中」に舞い戻っている。有言不実行なのだ。

 例えば、里程の検討では1里の距離(短里・長里)の検討など全くない。1里の距離不明のまま「邪馬壹国」を山門に比定している。なぜこのような手品みたいな事ができるのか。「狗奴国と鉄」で菊池氏がその秘密を明確に述べている。菊池氏の方法論の核心は次のようである。

 先ほどから「魏志倭人伝」の問題点ばかりを述べてきた。それでは「魏志倭人伝」を信じてはいけないのだろうか。実は結論はその逆で、「魏志倭人伝」に書かれていることの本質は全て真実だったと思われる。歴史を解明する原則は、書いてあることを勝手に解釈と変更してはいけない。そうかと言って事実ではない情報が紛れ込んでいることも事実である。

 それではどのように判断していけばよいのであろうか。答えはそう難しいものではない。「魏志倭人伝」を解釈するには、文の流れを重視し、迷いの生じる情報はとりあえずペンディングして考えていけばよいと思う。そうすると最終的に迷いのない答えが見えてくるはずである。

 「事実ではない情報が紛れ込んでいる」という断定が理論の恣意性を生む。水野氏の指摘のように「自説に都合のよいように恣意的に本書の字句を改訂したり、勝手に解釈したり」する根拠となっている。

 ペンディング(pending)とは「保留する」あるいは「懸案事項とする」という意だろう。確かにペンディングは一つの方法として有効だが、もしも何でもかんでもペンディングしなければならなくなったら、恣意的な解釈がまかり通ることになるから、その点を留意しなければならない。

 例えば、菊池氏は里程をどう扱っているだろうか。

 「魏志倭人伝」には、帯方郡より女王国まで一万二千余里という記述と、帯方郡より狗邪韓国までが七千余里という記述がある。これに海を渡る部分の計三千里を合計すると差し引き末盧国から女王国まで残り二千里となる。重要なのは実際の距離と対比することよりも、これらの比率つまり、朝鮮半島内が七・朝鮮半島から北部九州までが三・北部九州から邪馬台国までが二という大枠な比率で中国の人が朝鮮と日本の位置をとらえていたことにある。

 つまり困ったあげく、「比率で……とらえていた」という何の根拠もない断定をする。そして、実際に「魏の使者の行程」を検討する段になると、
「〈方四百里〉…ペンディングしておく。ここでも〈方三百里〉…前回と同様ペンディングしておく。…先ほどペンディングにした…計七百里を三千里に足しても引いてもこの話の大勢にはあまり影響はない。」
と勝手な論理を展開する。

 たぶん、水野氏をはじめ、「井の中」の「邪馬台国」九州論者は全てこれと同じ論法で里程問題を処理しているのだろう。そして、里程を実距離として考える論者は、長里しか念頭にない(あるいは知らない)から、「邪馬台国」は九州に収まらない。「邪馬台国」近畿論者にならざるを得ないのだ。

 さて、水野氏も菊池氏も「狗奴国」を「クナコク」と読んでいる。「狗古智卑狗」はそれぞれ「クコチヒコ」・「ククチヒク」である。「狗」を「ク」と読んだり「コ」と読んだりしている。。ずいぶんと恣意的だと思う。なお、「クナコク」という読みは不当であることを『「狗奴国」は何処?(1)』で論じている。

 「倭人伝」に現れる倭国の国名・官職名・人名の読み方が恣意的であることが、倭人伝」をめぐる議論が何時までも錯綜としている原因の一つだと、つくづく思う。もしも全ての国名が正しく読めれば、その位置も比定することが可能になり、「狗奴国」問題にも決着がつくのではないだろうか。

 倭国の国名・官職名・人名を正しく読むルールはないのだろうか。実は『俾弥呼』(第4・5・6章)で古田さんがそのルール作りを試みている。すでにその一端を「任那の読みと意味(1)」で紹介している。そこでは次のようなルールが指摘されていた。

「倭人伝の漢字は、三世紀以前に伝来した文字と〝訓み″であるから、基本的には、右の『呉音』、より正しくは『南朝音』の方が妥当する。もっと厳密に言えば、〝妥当する可能性が高い″のである。」

 このほかにどのようなルールがあるのだろうか。それをキチンと学習するのがこのシリーズの目的です。
《続・「真説古代史」拾遺篇》(37)



番外編
問題の焦点は「狗奴国」


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 吉本隆明さんが亡くなられた。
 「唯物論哲学 対 観念論哲学(2):番外編・私の師匠」で書いたように、私は吉本さんからたくさんのことを学んだ。その主要な著書はほとんど揃えている。このブログの記事作成でもその著書を資料として度々利用している。
 吉本さん、ありがとうございました。

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 前々回の続編です。

 松岡氏は「第294夜」以外に、「第1011夜」と「第1157夜」で古田さんに言及している。前回取り上げた「第294夜」から4・5年後のことになる。古田さんに対する評価に変化が見られる。

第1011夜「『日本史の誕生』岡田英弘」(2005年3月8日)
 東洋史というのはもともとそういう視野をもつ学問だから、このような視点をもった試みは内藤湖南や白鳥庫吉このかた、なかったわけではない。中国神話や朝鮮神話、さらには東アジア神話と日本神話を比較して古代日本の王権確立構造に光をあてようとした試みも、古くは三品彰英から70年代の大林太良まで、少なくはなかった。なかでも鳥越憲三郎や吉田光男による東アジアを睨んだ倭人研究、あるいは福永光司の道教研究による天皇像のルーツの追跡、萩原秀三郎の稲と鳥に視点をしぼった比較などは興味深かった。数々の話題をさらった古田武彦の大胆な古代史仮説もずいぶん読ませてもらった。

 しかし、歴史学として中国史やアジア史のなかに古代日本史がちゃんと確立されたことはなかったのである。宮崎市定さんもそこは確立しないままに研究を終えられた。いっときは江上波夫の騎馬民族説も話題になったが、さきごろ亡くなった佐原真さんの決定的な批判をはじめ、これはいまでは認められていない。

 ここでは実際に「ずいぶん読」んだと明言している。そして「大胆な古代史仮説」と評価している。しかし、「大胆な」という評言に私は違和感がある。松岡氏は、意図的に「大胆」を目論んだ、という意味で使っているわけではないだろうが、そのようなニュアンスが付いてくる言葉だ。古田さんの仮説は「確かな方法論に依拠した論理的思考の結果の仮説」なのだ。そして、その仮説は通説と著しく異なるものになった。随って通説から見れば、結果的に「大胆な仮説」になったのだ。ここは松岡氏の見識を問うことが主題ではないので深入りはしないが、古田さんの著作をずいぶん読んだはずなのに「歴史学として中国史やアジア史のなかに古代日本史がちゃんと確立されたことはなかった」という評言が出てくる。大知識人に対して口幅ったいもの言いになるが、「論語読みの論語知らず」ということわざが頭に浮かんだ。まさに古田さんの著作の中にその「確立」が読み取れるはずなのだ。次の「第1157夜」でも同じ感想を持った。ともあれ、松岡さんは「カルト本」というレッテルは破棄したようだ。

 なお、岡田英弘著『日本史の誕生』に少し触れておきたい。松岡氏はこの著書の内容をかなり詳しく紹介している。それを読むと「広開土王碑」のあたりまでの叙述には多元史観の立場からも興味深いし納得できる議論になっている。しかし、それ以後になるととたんに「ヤマト王権一元主義」の虚妄説にのめり込んでしまう。例えば、次のようになる。

 謎の4世紀はおわって、時代は5世紀になっている。ここから先はどちらかというと東アジア史的な日本史像はそれほどぶれなくなってくる。言ってみれば、東アジアのグローバリズムと日本列島のローカリズムが、政治上は重なってきたわけである。たとえば、倭王讃と倭王珍が誰であるかはまだ議論が分かれるが、倭王済が允恭、倭王興が安康、そして倭王武が雄略天皇ことオオハツセワカタケルだということまではわかっているし、稲荷山鉄剣もワカタケルを大王と称したことを証かした。

 「倭の五王」や「稲荷山鉄剣のワカタケル」だけではなく、すでに古田さんによって論破されている「井の中」の定説が次々と出てくる。

第1157夜「『九州水軍国家の興亡』武光誠」(2006年9月27日)

 次の引用文にあるように松岡氏は「北九州は古代日本のすべての原点」と、私(たち)と同じ認識を示している。そして、『九州水軍国家の興亡』の内容紹介も大変興味深い。直接読んでみようかという気持ちが起こってくる。しかし、次のようなくだり(赤字部分)になると、とたんに「?」が頭をもたげてくるのだった。

 このうち、肥前北部・筑前・筑後の集団は朝鮮半島との交易で拡張していった。また豊前・豊後の集団は瀬戸内海航路を活用して西日本各地との交易に向かっていった。これらはすべて弥生時代の開始とともに水田耕作にもとりくんでいる。  それに対して、肥前南部・肥後・日向・薩摩・大隅の地域には縄文社会の伝統を引く狩猟民が残存した。稲作も遅れ、3世紀になって菊地彦の領土を中心に「狗奴国」となり、また西都原(さいとばる)遺跡に代表される小国家群となっていった。

 これで九州の九天すべてが定着したわけではないが、おおむねこのように弥生後期の九州が「海の民」の渡来と定住と移動によってしだいに割り振りされていったことになる。

 今夜のぼくは、たまたま柳川の水郷から古代九州水軍国家の夢の跡をふと思いめぐらしたのだけれど、あえて勇猛果敢にその足跡を追っていきたいという気分の者も少なくないはずだ。そこは本書ほか、古代九州ものをあれこれ渉猟されたい。かつて一世を風靡した古田武彦のもの、水野祐のもの、さかのぼっては鳥居龍蔵のものや内藤湖南のものなど、猛者の推理が手ぐすねひいて待っている。なにしろ北九州は古代日本のすべての原点なのである。

 ただし、そういうものを渉猟する前に、一言。本書のなかの一枚の分布マップを頭に入れておかれるといいだろう。245ページの「伊都国連合から邪馬台国連合へ」という図だ(図版参照)。

 これでわかるように、玄界灘を懐に抱いた伊都国連合と邪馬台国連合と、ここではふれなかった宇佐国連合や狗奴国連合が、一挙に九天の九州に散っていったのである。この一枚のマップを見ていれば、そのような九天の構図が一目で瞭然になる。

渉猟すべき「古代九州もの」の一つとして古田さんの著作を加えている。古田さんの著作を「古代日本の原点」を探る上での重要な研究成果一つだとの認識を示している。

 ところで、(図版参照)と付記されているが、その図版は次の地図である。

北九州勢力図

 「?」マーク付きながら「狗奴国」を、「井の中」での定説通り、熊本県菊池市辺りに比定している。この地図では「狗奴国連合」の南をどう扱っているのか不明だが、上の赤字部分から推定すると、薩摩まで「狗奴国連合」に入れているらしい。「投馬国=薩摩」という比定は「井の中」だけでなく、ほとんどの論者が一致している比定である。上の図ではその「投馬国」が、なんと、吉野ヶ里の東に比定されている。このような地図が出来上がる論拠を知りたいものと、日頃利用している図書館の蔵書を検索して見た。武光誠という学者さんを今まで存じ上げていなかった、すごい、138件もヒットした。しかし残念なことに『九州水軍国家の興亡』はなかった。

 ところで、「九州王朝の領域」で論じたように、「狗奴国=熊本県近辺」という定説を否定する議論の発端は、北(邪馬壹国 戸数七万)と南(投馬国 戸数五万)を強力な敵対二国はさまれている「狗奴国」が女王国の脅威になるはずがない、という論点であった。もしも「投馬国」が吉野ヶ里の東に位置していたのなら、その論点そのものが無意味になる。

 また上図より「邪馬台国=山門」説であることが分る。「…次ぎに奴国あり。これ女王の境界の尽くる所なり。その南に狗奴国あり。」を「女王の境界の尽くる所の南」ではなく、「女王国の南」と誤解釈した論だと推定できる。典型的な「井の中」論である。

 武光氏の上記の著書では「狗奴国」の運命まで書いているのかどうか分らないが、水野祐氏の「三王朝交替説」では「狗奴国」が「邪馬台国」を滅ぼした上、東進すると言う筋書きになっている。「騎馬民族征服説」は「井の中」でも否定されているようだが、その修正説は後を絶たない。「三王朝交替説」とその修正説は意気軒昂である。

 いま菊池秀夫著『邪馬台国と狗奴国と鉄』という本を図書館から借りている。「鉄」を正面に据えているのに注目した故だった。まだざっと目を通したばかりだが、九州内の勢力図は武光氏の図版とほぼ同じである。そして、
「女王国連合、もしくは狗奴国がどちらかを滅ぼした後、畿内へと移動し、大和王権を成立した」
という東遷説を説いている。また、生き残ったのは「狗奴国」としている。いわば水野東遷修正説になっている。菊池氏の著書は2010年の出版なので最も新しい東遷説と言えよう。この菊池説では鉄の出土状況を論拠に一つに据えているところが新しい。この問題は検討しようと考えている。

 まとまりのない叙述になってしまったが、問題の焦点は相変わらず「狗奴国」であることを言いたかった。三世紀を終えて四世紀・五世紀……と時代をくだりながら学習し残した問題を取り上げていこうと思っていたが、いましばらく三世紀に止まることにする。
《続・「真説古代史」拾遺篇》(36)



番外編
二世紀の俾弥呼?


 『二世紀の卑弥呼 「前方後円墳」真の構築者』(草野善彦著)には表題にもある通りの「二世紀の卑弥呼」という章が立てられている。(以下、本文では「俾弥呼」という表記を用いる。)

 私がこの本を図書館から借りて来た理由の一つはこの表題だった。既に私(たち)は「俾弥呼と崇神の接点(1)」で、俾弥呼は「三十代なかばの女性」という古田さんの確かな論証を確認している。俾弥呼の一回目の遣使は景初2年(238)だから、「二世紀の俾弥呼」はあり得ない。しかし、草野氏はキチンとした論理的な論証を心懸けているし古田史学の成果にも目配りをしている方なので、その論拠を知ろうと思った。

 「三国史記」の次の記事を取り上げていた。

倭の女王卑弥乎、使を遣わし来聘す。
(第2、阿達羅尼師今20年〈173〉5月条)

 「ひみか」の「か」の字が異なるが、紛れもなく倭人伝の卑弥呼と同一人物だ。そして確かに二世紀の記事である。(ちなみに岩波文庫版は「ひみこ」と読んでいる。)

 173年、景初2年(238)より65年も前のことである。草野氏は「魏志倭人伝」や「後漢書倭伝」との比較をしながら詳しい論考を重ねている。それは必要に応じて検討することにし、結論部分を転載する。


 卑弥呼の死に関して『北史』に「正始中(正始は240~248年)、卑弥呼死す」とあることから、卑弥呼の最後は正始9(248)年と考える。なお通説では卑弥呼の死の年をめぐって「卑弥呼〝以て″死す」の〝以て″を理由に、「すでに死んでいた」と解釈する例もあるが、死の前年の正始8年の記事を読めば、「倭載斯烏越等を遣わして郡に詣り、相攻撃する状を説」かせたのは卑弥呼に決まりきっているので、ここでは特に取り上げない。もし卑弥呼を「すでに死んでいた」と解すならば、「正始8年」の使者を、倭国側はだれが派遣したのか不明となろう。「魏志」倭人伝が「国家間の交流記」である以上、「正始8年」の使者派遣の責任者が不明ならば、魏が問題にしないなどはあり得ない。

 以上にたって卑弥呼の死亡年から阿達羅尼師今の20(173)年を差し引けば、その間75年(一年暦)となる。問題は、卑弥呼が何歳で女王に「共立」されたかである。それはもちろん不明である。しかし卑弥呼の「共立」の事情として、「その国、本また男子を以て王となし、住(とど)まること七、八十年。倭国乱れ、相攻伐すること歴年、乃(すなわ)ち共に一女子を立てて王となす」とあり、また壱与の「共立」に関しても、「更に男王を立てしも、国中服さず、更々(こもごも)相誅殺し、当時千余人を殺す。また卑弥呼の宗女壱与年一三なるを立てて王となし、国中遂に定まる」とあるので、卑弥呼もまた「一女子」の段階で「共立」されており、その年齢を壱与同様に13歳と仮定すれば、卑弥呼はその生涯を88歳で閉じたことになる。  したがって卑弥呼の年齢は「女王」に「共立」された年齢で動き、あり得ないと思われるが計算上は、生まれた年に「共立」されれば13年短縮されることになる。したがって卑弥呼の実際の生涯の年齢は75歳以上となり、88歳での死亡はかなり現実性のあるものといえよう。ここから『三国史記』の卑弥呼の記事は、人間の自然な年齢の範疇におさまり、その意味で『三国史記』のこの記事を、否定する根拠はないことになろう。ただし後述するが当時の倭人の年齢計算は、「一年を二年に数える二倍年暦(半年を一年と数える年暦)であって、壱与の13歳は6歳~7歳と考えられるのである。したがって卑弥呼も壱与同様に13歳で擁立されたとすれば、75年+(13歳÷2)となり、その生涯は81~2歳と考えられる。

 草野氏は壱与の擁立年齢から「女子」を「少女」と解しているが、そうだろうか。「その国、本また男子を以て王となし」というように「男子」は「男性」という意で使われている。「男子」は「女子」は対語で使われているのだから、「女子」も単に「女性」という意だろう。俾弥呼擁立年齢を壱与の場合とほぼ同じとする仮説は危うい。仮に壱与と同じとした草野氏の推定を認めるとしても、次のような疑問が残る。3世紀において80歳以上という長寿はまったくあり得ないとは言えないが、神武~崇神までの没年齢(二倍年暦)の最長は『古事記』では崇神の168歳、『日本書紀』では孝安の137歳である。80歳以上は崇神一人だけである。俾弥呼の没年齢81歳以上というのは、やはり信じがたい。

 それでは『三国史記』の記録がウソなのだろうか。岩波文庫版の解説を読むと、『三国史記』・『三国遺事』に対する「井の中」での史料批判は混沌としている。次のように書き始めている。

「従来、『三国史記』新羅本紀の倭関係記事の大半は、造作されたものであって信憑性に欠けるとするもの、あるいは史料的に利用できるものは、4世紀後半の奈勿(なもつ)麻立干(356-401)のころからの記事とするものの、そこに記載されている倭は、のちの日本のこととみなすのが大勢であった。この通説に対して、……」

 以下、諸説紛々。「記紀」を金科玉条としながらの議論だから当然の結果である。私(たち)にはほとんど意味のない議論である。ともかく信頼されていない。

 もちろん、草野氏は『三国史記』の記録を疑っていない。その論拠は次のようである。

 『三国史記』は高麗の仁宗23(1145)年の成立であるから、『古事記』『日本書紀』よりも、はるかに遅いものであるがその史料的価値は低いとは思えない。例えば
「『三国史記』と『三国遺事』は著しく遅れて書となり、その史料価値は、同時代史の性質を持つ中国の史籍と同列に論じることはできない。しかし、日本の史籍の『記紀』と比較すると信頼性は高くなる。金富軾と僧一然がこの書を編纂したのは、当時残っていた朝鮮の古籍に依拠しただけではなく中国の史籍も参考にしたのである」(沈仁安著、『中国からみた日本の古代』、23頁)
という指摘がある。

 『三国史記』の記事を疑う根拠がないとすると、卑弥呼は「三十代なかばの女性」という古田説との矛盾はどう解決できるのだろうか。私には全くのお手上げ。

 ここで思いついた。このような大事な問題を古田さんが取り上げていないはずがない。度々お世話になっている「新・古代学の扉」で検索をしてみた。ありました。まず『三国史記』の史料批判。(「大化の改新と九州王朝」からの転載です。)

 朝鮮半島に『三国史記』という歴史書があります。これが成立したのは鎌倉期の頃ですが、内容は大変古い資料を使っておりまして、大体において信用のできる性格の史料でございます。ただ統一新羅がこの資料を集めて高麗が受けついで歴史書にしましたので、敵国であった百済や高麗の資料は非常に脱落が多いですし、新羅自身も六世紀段階ではかなり脱落があるという、欠点といえば欠点があります。しかしその欠点を歴史家がいいかげんに埋めていない、という点が、逆に信用できるわけです。脱落しているから大体の判断で補って書いておこうとやられると、見た体裁はよくなるけれど、資料としては困るわけです。そういうことをしていないわけです。無いところは無いままにしているわけです。そういう点が『日本書紀』とは違うところです。

 古田さんも「三国史記」の史料価値を認めている。しかし、俾弥呼の遣使記事には疑問を呈している。(以下の資料は「倭国紀行」です。)
 では、草野説と古田説の矛盾はどう解決されるのか。カギは「後漢書倭伝」(岩波文庫版より転載)の次の記事にあった。(以下は「倭国紀行」での古田さんによる謎解きの要約です。この部分の論考には大変分りにくい点がある。私なりに翻案します。誤りがあれば、もちろんその責は私にあります。)

桓・霊の間、倭国大いに乱れ、更々(こもごも)相攻伐し、歴年主なし。一女子あり、名を卑弥呼という。年長じて嫁せず、鬼神の道に事え、能く妖を以て衆を惑わす。ここにおいて、共に立てて王となす。

 「桓・霊」とは後漢の天子を指している。第11代・桓帝(147~167)と第12代・霊帝(168~188)である。

 「後漢書倭伝」の記事は明らかに「魏志倭人伝」を下敷きにして書かれたものだ。「魏志倭人伝」では次のようになっている。

その国、本また男子を以て王となし、住まること七、八十年。倭国乱れ、相攻伐すること歴年、乃ち共に一女子を立てて王となす。

 後漢書の著者・范曄(はんよう)は「住まること七、八十年」について二重の錯誤をおかしている。
① 「七、八十年」は「倭国大乱」の期間である、と誤解した
② 短里に気付かなかったと同じ、「二倍暦」に気付かなかった。

 この錯誤によると「倭国大乱」の勃発時期は、俾弥呼の擁立は第一回遣使(238)の直前と思われるが、一応238年を基準にすると、
238-(70~80)=158~167
となり、まさに「桓・霊の間」(147~188)になる。范曄はこの計算により「桓・霊の間」という表現を用いたと考えられる。

 そして、、「三国史記」の編纂者の手元には保存されていた独自の断片記事として「卑弥乎」の遣使記事があった。その記事を当てはめる時代考証を「後漢書倭伝」の記事に依拠して行った。くだんの記事を次のように解読した。いや、私はこのようしか読めないと思う。

 まず、「桓・霊の間」は「大乱」の期間を示している。そして「大乱」は「暦年」続いたとある。「暦年」だからそんなに長い期間ではない。7・8年くらいか。その期間は「桓帝末・霊帝初」と考えてよいだろう。

次はの私の遊び。
「桓・霊の間」をそれぞれの元号内から4年ずつとると「163年~172年」。「卑弥乎」遣使記事は173年だ。これは出来過ぎ。

 草野氏も「後漢書倭伝」の記事の検討を行っている。次のようである。

 (「住まること七、八十年」は)今日の年暦に変えれば35年~40年間ということになる。すなわち「桓・霊の間」の「41年間」と符号する。この間、男の王がいて、その間に「倭国乱れ、相攻伐すること歴年」という状況に至ったということになる。いまもし173年を卑弥呼「共立」年と仮定すれば、それ以前の35年~40年の間に男王がいて、「倭国大乱」があったことになろう。つまり133年または138年から173年までの間に男王が存在して、その間に「大乱」があったということになる。『後漢書』の編者の范曄はこれを漢の王位で表現して「桓・霊の間」、すなわち桓帝の147年から霊帝の188年までの41年間に該当するとしたと思われる。

 「魏志倭人伝」の「住まること七、八十年」を「倭国大乱」の期間としている点で范曄と同じ間違ったスタートをしている。そして、范曄も「二倍暦」を使っているという解釈をしているが、これも誤解だろう。草野氏も二重の錯誤に陥っている。(この問題は「まぼろしの倭国大乱 ― 『三国志』と『後漢書』の間」 で古田さんが克明に論じている。)

 やはり「二世紀の卑弥呼」は虚構だった。
《続・「真説古代史」拾遺篇》(35)



番外編
『「邪馬台国」はなかった』は「カルト本」?


 ネット検索をすると「松岡正剛の千夜千冊・・・」というサイトがヒットすることがある。一度、『大日本帝国の痼疾(21)』で、利用させていただいた。山本七平著『現人神の創作者たち』の書評中の一文だった。

 30年ほど前に『遊』という雑誌で松岡正剛氏と吉本隆明氏の「昭和が終わっちまう前に」という対談を読んだことがある。また松岡氏監修の工学研究所刊『情報の歴史』を所有している。私は松岡氏をその程度しか知らない。しかし、「千夜千冊」を見ると、氏の読書量たるや驚異的である。量もさることながら、その種類も半端じゃない。あらゆるジャンルに及んでいる。その知識量においては右に出るものはないのではないかと思っている。しかし、知性とは量の問題ではないという、当たり前と言えば当たり前の事実に遭遇した。

 1ヶ月ほど前のこと、そこに到達した経緯は忘れてしまったが、「千夜千冊『謎の神代文字』佐治芳彦」(第294夜・2001年5月17日)に出会って読んでみた。次のように書き出されていた。

こういう本を採り上げるについて、先に一言書いておいたほうがいいだろう。

 こういう本とは、ぼくが仮に「アダムスキー本」とよんでいるもので、超古代史もの、UFOもの、偽史伝もの、予言ものなどをいう。巷間ではしばしば「カルト本」などともいわれる。だいたい見当はつくだろう。

 私は「アダムスキー」という人物を知らなかったので、これもネット検索してみた。113万件もヒットした。疑似科学者だった。このような本は松岡氏が言うように「カルト本」ともいわれる。私は「トンデモ本」と言ってきた。改めて「トンデモ」の定義をウィキペディアで確認したら
「飛躍した論理で、論証もされていない仮説、考証のずさんなフィクションなどを含む」
とあった。私は「トンデモ本」をこのような意味で使っている。

 松岡氏の文章は次のように続く。

 ぼくの知っているかぎり、このような本、たとえばヴェリコフスキーの『衝突する宇宙』、チャチワードの『失われたムー大陸』、デニケンの古代遺跡をめぐる一連著作、日本でいうなら吾郷清彦の『古事記以前の書』や古田武彦の『邪馬台国はなかった』、最近よく売れた本の例でいえばグラハム・ハンコックの『神々の指紋』といった本を、これまでまったく読んだことも覗いたこともない読書人やメディア関係者というのは、まずいない。誰もが一度や二度は手にとっている。本棚の片隅に眠っているばあいも多いことだろう。

 それにもかかわらず、このような本が一般的なメディアで書評の対象になるということは、ほとんどない。書評どころか、知識人たちのエッセイに登場することもない。理由はただひとつ、「いかがわしい」からである。

 しかし、「いかがわしい」というだけなら、世界の全刊行書籍のうちのおそらく半分以上はいかがわしい。

 私は「読書人やメディア関係者」の範疇に入らないから、上の「カルト本」のうち読んだ本は『邪馬台国はなかった』だけである。その程度の私が言うべき事ではないかも知れないが、
『「いかがわしい」というだけなら、世界の全刊行書籍のうちのおそらく半分以上はいかがわしい。』
という判断はたぶん正しいと思う。

 ここまで書いて気が付いたことがある。
 ここまで私は、松岡氏の読書量にもかかわらず、古田さんの著作を「カルト本」に入れてしまう松岡氏の論理・論証についての理解度を疑っていた。しかし、これほどの読書家が論理や論証の質を見誤るだろうか。もしかすると氏は、本を読んでいないのに、表題だけで「カルト本」というレッテルを貼ったのではないだろうか、と思った。そのように推測をした根拠は次の通りである。

 松岡氏は古田さんの著書を『邪馬台国はなかった』と表記しているが、正しい表題は『「邪馬台国」はなかった』である。古田さんは定説になっている「邪馬台国」を否定している。括弧(「」)がないと「邪馬台国」そのものの存在を否定していることになる。松岡氏はそのように誤解したのではないか。

 もし、氏が本を実際に読まずに「カルト本」というレッテルを貼ったとしたならしたのなら、それは知識人あるいは書評家として礼節を欠いた所業である。誤読は誰にもままあることだが、こちらは自らをも貶める所業と言わなければなるまい。

 また、松岡氏は
「書評どころか、知識人たちのエッセイに登場することもない。」
と断じているが、少なくとも『「邪馬台国」はなかった』に関してはその見識を疑う。

 私は古田さんの著作に初めて接した時の驚きを次のように書いた。

「実際に読んでみてびっくりした。今までの諸仮説がはらんでいる問題点・矛盾点を克明に批判しながら、堅固な論証の上に自説を展開している。私はこれまで知ったどの学説よりも正しいと思った。同時に、学者たちがこの古田さんの一連の論文をほとんど無視しているらしいことを、いぶかしく思った。」

 今は、全ての学者が無視していたのではないことを知っている。たまたまいま読んでいる草野善彦著『二世紀の卑弥呼 「前方後円墳」真の構築者』でその一例に出会った。「日本古代史研究に投じた一石――『「邪馬台国」はなかった』」(1973年「朝日ジャーナル vol15 NO.50」所収)と題した家永三郎氏の論説である。抜粋文だが孫引きする。

確定した結論よりも、方法が科学的であるか否かが、学問にとって死活の問題なのだ。そのような観点から、古田武彦が『「邪馬台国」はなかった』の一著において提示された学説の意義は、この説が成立すれば、『魏志』所伝の「邪馬台国」が畿内か九州かという一世紀以上にわたる論争史が根底から吹き飛ばされてしまうという、結論の重大性いかんにあるというよりは、これまでのすべての 『邪馬台国』論者の史料の取り扱い方に根本的反省を求める、方法論上の創見のほうにある、と私は考える。

 私のような、この問題についての非専門家は、結論の当否を判定する能力はないけれど、古田氏の提出した方法論上の問題の意義の重大性はよく理解でき、従来の研究の根本的な再検討の必要のあることに同感するのだが、『魏志』の文字を意改したうえで自分の説が根底から崩れることになるので、古田説にたいする学界の反応は、大勢として冷たいように見受ける。

 とくに『読売新聞』5月29日から6月16日(1973年)まで、15回にわたり連載された榎一雄氏の古田学説攻撃の熱気はすさまじかった。それはご自身の日本国家成立説を防衛するための純学問上の情熱の現れなのか、それだけでなく教科書裁判控訴審に文部省の主張を支持する証拠として提出されている榎鑑定書の権威を防衛する必要も加わっているのか、私にはしるすべもないが……

 この論説は松岡氏が「カルト本」というレッテルをはった年(2001年5月17日)より23年も前に書かれている。(「新・古代の扉」で調べたら、『新・古代学の扉』第7集に再録されているという。いずれ全文読んでみよう。)

 もう一つ、つい最近の例を挙げておこう。産経新聞の読書欄に掲載された杉田敬三氏(ミネルヴァ房代表取締役社長兼編集部部長)の書評である。(ネットで紹介されていたものを記録した。うっかり日付の記録を忘れました。)

論理的かつ実証的な結論

 読まない人にとっては、うさん臭くみえ、読んだ人には「目からウロコ」が落ちる本である(私自身、その驚嘆すべき結論(邪馬台国の所在地)に衝撃を受けた。

 これほどスリリングな本にそう滅多に出合えるものではない。30年以上、編集者として専門書をつくってきたが、これほど見事に論理的かつ実証的な論を進める著者は皆無である。網野善彦や阿部謹也の社会史のおもしろさとは全く異質のものである

 本書を読んだのは30年前のこと、丁度「邪馬台国」論争が今よりももっと盛んなりし頃である。玄人も素人も、近畿説であれ九州説であれ、我田引水の本が満ちあふれ、史料の少なさをいいことに、みな女王国のありかを好き勝手に設定し、「論争」にかこつけて、何でもありがまかり通っていた。

 そんな古代史に辟易していた。だから、書名を見て、まゆつばものがまた出たかとしばらく読まずに放っておいた。

 たまたま読み始めるや、著者の文献解読の手堅さや論理展開の精緻さに舌を巻きつつ、400㌻を超える大著を3日で読了した。

「これで勝負あった」

 それ以降、次々と刊行される古田武彦の本を読み漁ったが、最初の読後感は変わらず、ほんものだと確信した。

 書店に並ばなくなって久しい本書を、埋もれさせてはならない、という一念で、〈古田武彦・古代史コレクション〉の一冊として刊行した次第である。

 松岡氏も「まゆつばもの」と思い込み、読まなかったのかも知れない。
《続・「真説古代史」拾遺篇》(54)



狗奴国の滅亡(35)
「崇神大和侵入」説の再検討(4)
崇神とタケハニヤスとの戦い


(3)
(a) 任那で軍事力増強に成功した崇神は大和へ帰国する。ヤマト王権は初めて大和の外へと打って出ることになった。大和から軍を三方に派遣し、銅鐸圏勢力を「包囲」する体勢をとった。
(b) 崇神は任那から出陣した。途中吉備に立ち寄り、吉備津彦の協力を得て、河内から大和へと侵入した。同時に銅鐸圏勢力包囲作戦を実行した。

 私は(a)の立場で、崇神が任那の要害の将軍であったからこそタケハニヤス軍を撃破する軍事力を用意できた、と考えた。三方への派遣と銅鐸圏中枢(タケハニヤス)との決戦。相当の軍事力を必要としただろう。たかだか「入江」の長程度では不可能だ。

 一方、古田さんは、崇神は神武と同じルートをを通ったと言い、

『「任那から大和へ」というルートの、重要な中継地、それこそ吉備だった。吉備津彦の領域、その「津(港湾)」の権力者と"協力"して、「大和への侵入」が可能となったのである。』

と書いている。これは、「入江」の長の軍事力だけでは「大和侵入」は成し得ない、という想定があっての記述だと思われる。古田さんは吉備津彦の協力を得たという仮説の論拠を、「崇神記」の「三方」に対して「崇神紀」が「吉備津彦をもて西道に遣す」を加えて「四方」としていることに求めている。上の引用文の直前の文で次のように述べている。。
『「三方か、四方か。」最初にのべた、この疑問に、今は容易に〝答える″ことができる。当然「三方」が原型だ。残る「一方」の〝西への道″は、逆だった。』

 『日本書紀』編纂者が「吉備→大和」というルートを逆方向にして挿入したと言っている。これは牽強付会に過ぎる、と言ったら言い過ぎだろうか。

 次の(b)は、崇神の大和侵入後から木津川での決戦に到るまでの経緯を古田さんは明記していないので、私の想像です。

(4)
(a) 崇神の挑戦をうけたタケハニヤスは、山城に軍をすすめ、木津川で崇神側の軍と対戦したが、撃破されタケハニヤスは敗死した。
(b) タケハニヤスは崇神の大和侵入を指をくわえて見ていたわけではないだろう。抵抗したが叶わず山城へと敗走した。山城で銅鐸圏勢力の協力を得て軍を立て直し、木津川で決戦を挑んだが、撃破されタケハニヤスは敗死した。

 タケハニヤスは孝元の系譜では「建波邇夜須毘古命」と「毘古命」いう称号で書かれているが、「崇神記」では「建波邇安」と「王」に変わっている。この「王」という称号は崇神の狗奴国攻め(3)で論じたように、「親呉倭国」の「王」である。すると(b)説では大和の「正当なる王者」が「王」を名乗っている事になり、タケハニヤス治世下のヤマト王権は「親魏倭国」から「親呉倭国」に変わっていたことになる。古田さんはそれも崇神が「正当な王者」を討つ理由の一つとしている。この点に関しては一応つじつまの合う議論になっている。

 タケハニヤスの母親は「河内青玉の女、波邇夜須毘賣」だから、タケハニヤスが「大和の正当な王」だとしても、銅鐸圏勢力の協力を得た、という設定も一応は辻褄が合っている。

 しかし(b)の場合、「三方派遣」が宙に浮いた感じになってしまう。「三方派遣」というのは銅鐸圏中枢部を襲撃するための包囲作戦である。「三方派遣」をしておいて、本隊(崇神)は大和に侵攻した、なんてちょっと変だ。

 もっとも次のように解釈することはできる。「三方派遣」は大和侵入と同時に行われたのではない。崇神がまず全軍を率いて総力で大和に侵攻した。崇神は大和を掌握したが、タケハニヤスは取り逃がした。そこで改めて作戦を練り直し、三方派遣包囲作戦を始めた。

 以上、私としては新説(b)より旧説(a)(ただし、崇神の根拠地は任那であったという修正をした上での)を支持したい。

(今回でひとまず「狗奴国の滅亡」を終わることにします。)
《続・「真説古代史」拾遺篇》(53)



狗奴国の滅亡(34)
「崇神大和侵入」説の再検討(3)
三王朝交替説(水野説)の崇神(2)


 水野氏による崇神の和風諡号解釈の続きを読もう。

 したがって「入彦」と「御間城」の言葉の組み合わせは、聖樹・真木の樹林の中に自ら入っていって神霊を体得した、そして覡になったという意味になり、「御間城入彦」は「神聖な真木の樹林において神霊を受けた神聖なる存在体」と解せます。

 さらに最後に出てくる「五十瓊殖」という言葉ですが、「い」は「厳」のことで、神聖性を帯びたものの尊称であり、「にえ」は「苞苴担子(にえもつのこ)」というときの「にえ」、あるいはいろいろな捧げ物の「御贄」で、食べ物のことです。そこで「いにえ」は「神聖なる贄」を意味する言葉となり、そこから「神霊の祀りに捧げる神饌を主宰する」という意味が出てきます。

 この「いにゑ」の解釈もこじつけに過ぎると思う。なぜ「イ=厳」となるのか、私にはさっぱり分らない。「厳」には「いず・いつ・いつき・いわ」などの訓があるので、その「い」をとったのだろうか。また「ゑ」と「え」の区別は置くとしても、「贄」は古語では「にえ」ではなく「にへ」なのではないだろうか。

 さらにもう一つ、「苞苴担子」などという(私にとっては)意味不明の言葉を持ち出す意図が分らない。出典を明らかにしていないが、『日本書紀』の「神武天皇即位前紀戊午年八月」条にあった。

亦梁(やな)を作(う)ちて取魚(すなどり)する者有り。天皇問ひたまふ。對へて曰さく、「臣は是苞苴擔(にへもつ)が子なり」とまうす。

「苞苴(ほうしょ)」の意味は

①つつみと、しきもの。増答品。物を贈るとき、わらに包むのを苞といい、わらを下にしくのを苴という。②わいろ。まいない。(大修館書店版「新漢和辞典」)

 「苞苴擔之子」(原文)をなぜ「にへもつのこ」と訓じるのか。『古事記』では「贄持之子」なのですね。あの「尾生(あ)る人」の直前に出てくる「国つ神」である。これならまごうことなく「にへもちのこ」である。この訓を転用したのだった。

 以上、なにがなんでも崇神を「覡」としたい意図が読み取れる。

 まとめると、崇神天皇の御名は、「神霊を帯した霊的で、覡的な存在体である」ことを意味する御名であり、この天皇が初代の天皇とするに相応しい、神聖な呪的司祭的王という資質をもち、カリスマ的な王として君臨した天皇だということが、はっきりと御名の上から明らかになります。

 俾弥呼やタリシホコの例に見るように、宗教と政治が未分化だった古代では司祭的王と政治的王を兄弟姉妹で分担した例があるが、一人の王が権力を掌握している場合は、一般的に王は司祭的要素を併せ持つのは当然だろう。ただし王自身が「覡」であることはまれなのではないか。崇神の場合も、あの「神々の祭祀」説話では実際に「覡」の役割を演じているのは「意富多多泥古命」だった。

即ち意富多多泥古命を以ちて主(かむぬし)と爲(し)て、御諸(みもろ)山に意富美和(おほみわ)の大の前を拝(いつ)き祭りたまひき。

 『古事記』では「神主」という言葉が使われているのはここだけである。この「神主」は「巫覡」と同意に用いられていると思う。『日本書紀』では「功紀」に3例、「天武紀」に一例ある。初出は「神功皇后摂政前紀三月」条で次のようである。

三月の壬申の朔に、皇后、吉日を選びて、齊宮に入りて、親(みずか)ら神主と爲りたまいふ。……

 ここでは功自らが「巫女」になっている。

 以上のように、水野氏による崇神の和風諡号解釈は、「真木=槇」という点にはそれなりの可能性があるが、「入彦」と「五十瓊殖」の解釈には難点がある。やはり受け入れ難い。

 「崇神の狗奴国攻め(1)」で取り上げたように、奈良盆地における古冢期鉄器の貧弱な出土状況と崇神の目覚ましい軍事活動との落差を説明できる点から、「ミマキ=任那の要害」説に賛同した。今のところこの考えは変える必要はないと判断する。

 ところで、「愛読者」さんの「イリ=西」説や『現代のアイヌ語でも……名詞の上につけられた「i」は「神聖であること、タブーであること」をしめして用いられているというのである』という古田さんの指摘に触発されて、時にはアイヌ語や琉球・琉球語に目を向けるのも有効だな、と思った。それで二つ思い出したことがあって調べてみた。それを紹介しよう。

 一つは、司祭的王と政治的王を兄弟姉妹で分担した例が琉球にあったことを思い出した。「聞得大君(きこえおおきみ)」である。草野善彦著『二世紀の卑弥呼 「前方後円墳」真の構築者』に「沖縄と九州の類似性」という項に『伊波普猷全集』(平凡社)からの引用文がある。それを孫引きする。

 この聞得大君は王の姉妹が任命されるのであったが、彼女はすなわち国王を守護する生御魂(現人神(あらひとがみ))であった。オモロ(古代沖縄の歌を集めたいわば沖縄の万葉集)の中には、彼女を歌ったものが沢山あるが、彼女をやはり『おなり神』といっている。そしてその同義語は『くせせりきよ』になっているが、このくせはあや(美)の対語で奇しきの義があり、せりは宣りの義だから、『くせせりきよ』には、神意を宣べる奇しき人の義がある。琉球の政祭一致時代に、政治家が巫女の託宣によって政をおこなっていた……

 草野氏はこの引用文を受けて
『中国人がいう「鬼道」とはこの神がかりの「御託宣」であろう。』
と推測している。

 上の引用文中で「聞得大君」は「おなり神」とも呼ばれているとあるが、古くから「おなり信仰」というのがあって、聞得大君はその信仰を踏襲したもののようだ。「おなり信仰」については吉本隆明他著『琉球弧の喚起力と南島論』(河出書房新社 シンポジウムの記録)中の註記コラム(筆者:比嘉政夫)から引用する。

 沖縄をはじめ琉球列島の言語では姉妹を「をなり」(wunai)兄弟を「ゑけり」 (wikii)とよぶ。そして姉妹は兄弟に対して優位に立つという信仰があり、その観念は兄弟の危機などに際して姉妹が庇護する能力を持つというものであり、具体的には兄弟の旅立ちに際して姉妹がその安全を祈り「御守り」を与え、あるいは兄弟の家の豊穣を姉妹が予祝するという習俗に示される。したがって女性は他家に嫁いだ後も生家の兄弟に対して「をなり神」としての役割を実行するために、主要な農耕儀礼に際して生家に戻る義務を負う。呪術宗教的な側面からみれば兄弟姉妹の結び付きは夫婦関係に優先することもあるのである。

をなり神信仰の儀礼は稲作の衰微など生活様式の変化によって今日姿を消しつつあるが、稲の収穫後兄弟が嫁出した姉妹に新米を捧げる慣行は戦後の都市周辺の農村部でも行なわれていたようである。(以下略)

 このおなり信仰の反映だろうか、どの方言にも女性に対する卑称(卑しいものと辱めていう表現)があるが、琉球列島には一つもないそうだ。

 もう一つ、アイヌ語と倭語の共通点を論じている梅原猛氏の論考を思い出した。梅原猛・吉本隆明共著『対話 日本の原像』(中央公論社)所収の梅原氏の論文「遙かなる世界からの眼を」である。調べてみたら、その論文に「イリヒコ」を論じている部分があった。次のようである。(読みやすいように原文にない段落を入れた。)

 たとえば「iri」という言葉がある。それは一家族の単位をあらわすものである。「イリ」というのは、「一緒に」「ともに」、という副詞にもなる。

 アイヌ語でこの「イリ」を語幹としていろいろな言葉ができる。例えば、「iritak」というのは、親族兄弟を示す。「itak」すなわち「言葉」を「ともにする」という意味であろう。あるいは、親戚のことを「イリワクネグル」というが、「イリ」は家族、「ワク」は日本語の「ワケ」に通じる。「ネ」は日本語の「ネ」と同じく、「アル」という意味。「グル」は先の「クル」と同じ意味で、「人」を意味する。とすると「イリワクネグル」は「家族を分けたものである人間」という意味になる。これはアイヌ語なのであろうか、日本語なのであろうか。

 ところが日本古代においては、アイヌ語以上に、この「イリ」という言葉は、たくさんの変化形をもつのである。日本古代語において、アイヌ語の「イリ」にあたるのは「イロ」である。「イロ」は同じように親族を示すが、母系の親族関係を示すものである。それゆえ、「イロハ」というのは同母の母である。「イロセ」が同母の兄弟、「イロエ」が同母の兄、「イロネ」が同母の姉、「イロモ」が同母の妹。この「イロモ」がつまって「イモ」となるのである。この「イロ」はまた「イラツメ」の「イラ」とも「イリヒコ」の「イリ」とも関係するに違いないのである。

 このようにみると、日本古代語のほうが、むしろ「イリ」あるいは「イロ」の派生語がより多いように思われるが、その語源はやはりアイヌ語の「イリ」、一家族のものという意味によって、より明確に理解されるのである。

(中略)

 また「イロモ」の「モ」は、アイヌ語では小さいものを意味するところを見ると、イロモは同母集団の中の小さい可愛い人間を意味するとみてよいであろう。「イラツメ」は「イリの女」、すなわち同母集団の女を意味するのであろうが、アイヌ語で女は「マツ」である。この「マツ」は日本語の「メ」と関係があろう。

 また「イリヒコ」の「ヒコ」は、霊力のある人を意味する古代語であるが、「ヒコ」はアイヌ語の「ピト」と関係があると見られる。アイヌ語の「ピト」というのは、けっして人間一般をさす言葉ではなく、霊力ある人間をさす言葉であり、よく「カムイ」か「ピト」かというふうに使われる。神か、それとも霊力ある人物かという意味であるが、沖縄語でも「ネガミ」と「ネビト」という形で使われる。「ネガミ」は女、「ネビト」は男であるが、いずれも霊力ある人間という意味であろう。

 ところがこの「ピト」が先の上田万年のいう音韻の法則(管理人注:古代日本語のF音はかってP音だった)で「ヒト」になると共に、意味を広め人間一般をさすようになったので、新しく霊力ある人間をさす言葉として、「ヒコ」が登場したのであろう。「イリヒコ」というのは同母家族の中に入婿した霊力ある人間という意味であろう。

 こんな考察を続けるときりがない。全くきりがないほど、アイヌ語と日本語、特に古代日本語はよく似ているのである。そして『おもろ』の沖縄語も十分アイヌ語及び古代日本語の面影を止めているのである。

 倭語でも「ヒト」はアイヌ語と同じ「ピト」(霊力ある人間をさす言葉)と同じ意であったが「人」一般を指す言葉となったので、それに変わる語として「ヒコ」が使われるようになった、と説いている。念のため図書館に行って「アイヌ語辞典(『萱野茂のアイヌ語辞典』)を調べてみた。

ピト【pito】
 ①神に対する敬称,神.
 ②人間に対する敬称,者.

 例えば宮廷の「女房」がやがては一般庶民の「妻」の意味で使われるようになったように、たぶん①→②という変遷があったのだろう。倭語の場合もそのような変化があったかも知れない。しかし、②から「霊力ある人間」という意は、私にはくみ取れない。あくまでも一般的な敬称だろう。「ピト=ヒト」→「ヒコ」という理路には釈然としない。

 「記紀」には神話にも「ヒコ」がたくさん現れる。神話で使われている「ヒコ」は、梅原氏が説くように「霊力ある人間」をさす言葉だったのかも知れないが、「倭人伝」が証言しているように古冢時代後期には長官というような意味で使われている。これと「イリ=同母族」とを結合すると、「イリヒコ」は「同母族の長」というような意味になる。これは一つの仮説になり得るが、崇神の系譜につながるものたち十数名もがそれを踏襲している称号としてはしっくりしない。

 また、「イリヒコ」と「イリヒメ」は対になっている称号である。梅原氏は「イラツメ」を「イリの女」、つまり「同母族の女」と解釈している。「イラツメ」→「イリヒメ」という変化があったと言っているようだ。また、ここでは「ヒメ」の語義が語られていないが、「ヒコ」と同じく「霊力ある女性」と考えているようだ。このあたりの論理も私には不満が残る。

 もとに戻って、「イリ=西」という「愛読者」説は、倭語の中に「西」という意味で「イリ」が使われている例が他にもあれば、有力な仮説と思われるが、そのような例は「記紀」にも「風土記」にもないようだ。もしかして「イリ=西」という言葉が方言として九州や近畿に残っていないだろうかと調べてみた。方言辞典を三種類調べてみたが、沖縄県以外にはないようだ。

 今のところどの「イリ」説についてもこれといった決め手がない。とりあえず
『「ミマキイリヒコ」は「ミマキ(任那の城)」という「神聖な拠点」を統率する「将軍」という意』
ということにしておこう。和風諡号から見えてくる崇神の素顔の核心は「ミマキ」と「ヒコ」である。「イリ」と「イニヱ」の意味がどのようになっても、その崇神の素顔に変化は起きないだろう。
《続・「真説古代史」拾遺篇》(52)



狗奴国の滅亡(33)
「崇神大和侵入」説の再検討(2)
三王朝交替説(水野説)の崇神(1)


 水野祐氏は「交代」ではなく「交替」という表記を用いているのでそれに改めた。また私(たち)にとっては言うまでもないことだが、ヤマト王権は701(大宝元)年までは九州王朝傘下の一分国に過ぎないので、「王朝」という用語は不適切である。しかしここではヤマト王権一元主義の土俵に乗るのだから、以後は「井の中」で流布している用語に一々こだわる煩は取らないことにする。

 さて、水野氏は主として『日本書紀』を用いていて、崇神の和風諡号も『日本書紀』での表記「御間城入彦五十瓊殖」を用いている。その崇神の和風諡号の中の「御間城」について、水野氏は次のように解釈している。

 「御間城」「入彦」「五十瓊殖」という三つの言葉の複合として構成されるこの名前は、何を意味するのでしょうか。

 まず「御間城」は、「御」と「間城」という言葉の合成とみるのか、それとも「御間」と「城」という言葉の合成とみるのかで意味が違ってきますが、私は「御」と「間城」に分解するのが正しいと解釈します。

 「御」と「間城」に分解して考える場合、「御」は美称であり、「御間城」という言葉の本体は「間城」であるとみます。この「間城」は、『古事記』では「真木」の字を当て、同じ字は「神功(じんぐう)紀」の中にも「真木の灰を瓠(ひさご)に納れて」という文に出ています。つまり、「間城」=「真木」であり、真木とは植物の槇(まき)なのです。

 真木を檜とする説もありますが、私は槇でいいと思います。槇は古くは一種の呪木であり、聖樹であるため、神木であるのを尊んで「御」をつけて「みまき」という名前になったと考えられます。つまり、聖樹・神木の名が天皇の名前に付けられている、ということになります。

 水野氏が傍証に使っている「神功紀」中の文「真木の灰を瓠に納れて」を確認しようと調べたが、なかった。ヤマト一元主義者であってもその知識は信頼できると思っているが、こういう事例に出会うと私の氏への信頼はがた落ちになってしまう。

 と書いたところで、ふと思いついて『古事記』を調べた。ありました。私もよく思い違いをするが、水野氏の思い違いだった。「仲哀記」の「功皇后の新羅征討」説話の中に出てくる神のお告げであった。

「是は天照大の御心ぞ。亦底筒男、中簡男、上筒男の三柱の大ぞ。今寔に其の國を求めむと思ほさば、天地祇亦山神及河海の諸のに、悉に幣帛を奉り、我が御魂を船の上に坐せて、眞木の灰を瓠に納れ、亦箸及比羅傳を多に作りて、皆皆大海に散らし浮かべて度りますべし。」

 「真木」という言葉は『万葉集』でも使われている。検索したら22件ヒットした。初出はあの「軽皇子の安騎の野に宿りましし時、柿本朝臣人麿の作る歌」(巻1、45番)である。(「日並知皇子の謎(1)」で取り上げた。)この「真木」について、〈大系〉の頭注は「檜・杉・松など。」と説明している。水野氏は「槇」について「ここでは杉の古名」と注記している。広辞苑には「古くは神事に用いた」という記述がある。

 以上から「間城=槇」という水野説は一つの仮説としてそれなりの論理性はあると思う。

 次は「入彦」についての水野氏の解釈である。

 次に「入彦」ですが、「入彦」は「入姫」と対をなす語で、これは覡(げき)を意味する称号と考えられます(ミコのことを男の場合は硯といい、女の場合は巫(ふ)という。)

 「入彦・入姫」という言葉に対して「寄彦・寄姫」という言葉が別にあります。いずれも巫覡(ふげき)を意味する点は同じですが、巫覡としての成り立ちの違いによってどちらの言葉を使うかが変わってきます。

 神霊の方から能動的に人間の男女に寄りつき、その人間が神霊を帯して神聖な存在となり、巫覡になったという場合は「寄彦・寄姫」です。それに対し、人間の方から能動的に神聖なる存在の領域に入っていって神霊に接し、奉仕する身となり、その神霊を体に受けて神聖な霊能を有する巫覡になったという場合に、「入彦・入姫」という言葉が適用されるのです。

 私は「寄彦・寄姫」という表記には初めてお目にかかった。『古事記』『日本書紀』『風土記』を調べたがこのような表記はない。どんな文献からこのような表記を引き出してきたのだろうか。失礼ながら、たぶん出典はない。あの甕依姫(みかよりひめ =俾弥呼)の「依」を「寄」で置き換えたと思われる。俾弥呼は「甕」を「依代(よりしろ)」として神に仕える巫女であった。(詳しくは「卑弥呼(ヒミカ)の比定」を参照覧して下さい。)

 「依彦・依姫」は巫覡と考えてよいだろう。「依姫」は、『古事記』には、「狹手依比賣・玉依毘賣」(神代)、「比賣多多良伊須氣余理比賣」(神武記)、「息長水依比賣・水穂五百依比賣(開化記)、「河俣稻依毘賣・活玉依毘賣」(崇神記)、「香余理比賣命」(景行記)などが見えるが「イリ」と同様、この後はない。また、「依彦」の方は「神代記(国生み説話)」に「讚岐國は飯依比古と謂ひ…」という一例だけである。これは国に人名形式の「亦の名」を付けた古い形の国名である。少なくとも『古事記』『日本書紀』には巫覡としての「依彦」はいない。民間レベルでは男性の巫覡もいたと思うが、部族国家レベルでの宗教的な共同性において権威となり得るのは巫女だけなのではないだろうか。(「俾弥呼と崇神の接点(3)」を参照してください。)

 先に私は、水野氏は「依」を「寄」で置き換えた、と推測した。もしそうだとするとなぜこのような置き換えをしたのだろうか。水野氏は巫覡には、の方から巫覡に「寄」ってくるタイプと、巫覡の方から神域に「入」っていくタイプの二つのタイプがあると言う。そしてそれを、「寄彦・寄姫」だけでなく、「入彦・入姫」も巫覡なのだという説の論拠としている。

 二つのタイプの巫覡とは、私には初耳だ。「依姫」は依代を媒介にして神霊と交感する巫女、というのが私の理解で、二つのタイプなどないと考える。つまり、「寄」「入」という言葉で表現すると、依代を媒介にして巫女の方から神霊に「寄」っていき、神霊が巫女の中に「入」ってくる。いわゆる「神憑り」である。「寄」「入」の方向が水野氏とは逆であるし、それは一人の巫女と神霊との交感のあり方を示す語としてなら意味がある。

 以上、「イリ」についての水野説は今のところ私には受け入れ難いが、結論を急ぐのはよそう。

 ところで、「愛読者」さんから「イリ」について次のようなコメントを頂きました。

 「イリ」ですが、イリ=西だと考えます。西表島(イリオモテジマ)のイリ、沖縄では今も西をイリと言い、近畿天皇家から見て、倭国=九州王朝が「西=イリ」となります。栄えある九州王朝の系列であることを誇るのがイリヒコ(西彦)名で、氏族or地名+イリヒコという構造なのでは。その中でミマキ・豊は任那、豊の地名、十市、久米は九州に由来する氏族を示すもんかと・・(十市は都市牛利、久米は久米部などの例)
いかがですか?

 「イリ=西」で、4・6・7・8・9代の和風諡号に使われている「チクシ(大倭)」と同様の意味を持った表記と解釈している。なるほど、まったく思いも及ばなかった。これはかなり有力な仮説ではないかと思った。

 ヤマト王権の和風諡号の意味を解釈するルールは確立されていないのだから、色々な仮説があり得る。しかし、それらの中から正しいものを選ぶ基準はある。他の問題と同様である。いみじくも水野氏も自らの三王朝交替説について次のように適切な指摘をしている。

『大切なことはそうした三王朝交替説をもって、「記紀」のさまざまな矛盾点が説明できたり、他の史料や考古学的事実とも整合する古代史が描けるか、ということです。』

 このようは条件が満たされた時、歴史に関する仮説は歴史的真理となる。そういう意味で、私は多元史観による古田歴史学を「相対的真理」(本質的に正しいがいくらかの誤謬もある)、ヤマト王権一元主義による歴史学を「相対的誤謬」(本質的に誤謬であるがいくらか正しい部分もある)と呼んでいる。

 私(たち)にとっては「三王朝交替説」は既に破綻した説だが、崇神の和風諡号の解釈については、その事とは切り離して(部分的問題として)取り上げている。

(思いがけず長くなってしまった。次回に続く。)