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《続・「真説古代史」拾遺篇》(50)



狗奴国の滅亡(31)
崇神記をめぐって(22)
俾弥呼と崇神の接点(5)


 俾弥呼の鬼道を、古田さんは「其の鬼に非ずしてこれを祭るは、諂(へつら)い也」(為政第二)と断じている孔子の思想と対比している。

 「其の鬼」とは〝自分の先祖の霊″を指す。先に挙げた、孔子が禹を讃美する一節に、
「而して孝を鬼神に致す」
と言っていたように、〝自分の先祖の霊を祭る″ことに対して「孝を致す」と表現しているのである。これならば、讃美の対象なのである。

 ところが「自分の先祖の霊でない者を祭る」行為に対しては、断乎「否」だ。「請(へつら)う」という、最大の罵声をあびせているのである。「敵を祭る」などは、美徳どころか、もっとも〝いやしむ″べき行為とされている。

 さて、古田さんは崇神が俾弥呼の鬼道を継承していると言う。

 目を古事記に転じよう。崇神記である。「不倫の子」崇神天皇は「正統の子」建波邇安(たけはにやす)を殺した。山代(京都府)と河内(大阪府)で、建波邇安側を打ち破ったのである。

 その建波邇安の母親は、河内の豪族の出身だった。

「又河内の青玉の女、名は波邇夜須毘売(ハニヤスビメ)を娶(めと)して、生みませる御子、建波邇夜須毘古(タケハニヤスビコ)命」(孝元記)

とある通りである。その「河内」を出身とする母親の子、建波邇安を殺したのだった。

 ところが、そのあと、崇神は注目すべき行動に出た。大物主(オホモノヌシ)大神が崇神の夢に現れて、「意富多多泥古(オホタタネコ)を探し出して、彼に自分を祭らせよ」と言ったというのである。

河内(かふち)の美努(ミヌ)村に其の人を見得て貢迎(たてまつ)りき。

という。その「意富多多泥古命」を「神主(カムヌシ)」として、御諸(みもろ)山で意富美和(オホミワ)の大神の前を拝(いつ)き祭った、という。有名な伝説である。

 「夢告、云々」は、ことを〝正当化″するための〝常套手段″だ。問題は、崇神にとって「敵手」であった河内出身の豪族の中から、〝土地の名士″を見出して、彼に大物主命を祭らせていることである。「大物主命」は、出雲の神「大国主命」と〝同神″だという。本来は、銅鐸圏側の主神である。それを〝祭らせ″ているのである。「敵を祭る」祭祀となっている。あの吉野ヶ里でも、あの遺跡の「真の中心」は、日吉(ひよし)神社の祭神大山喰(オオヤマクイ)命。出雲系の在地神である。この「敵側の主神」を祭った遺跡なのである。これと同一の「方法」なのである。

 これは、あの倭国の女王、俾弥呼の「鬼道」と一致している。これは果して偶然の一致なのであろうか。

 この崇神の祭祀と俾弥呼の鬼道を結びつける説に対して、私は大きな「?」を払拭できない。理由は次の通りである。

 崇神記の「神々の祭祀」説話は時系列から言うと、「建波邇安王の反逆」の前になる。『日本書紀』は日付つきで記載している。「神々の祭祀」は崇神8年であり、「武埴安彦(建波邇安)王の反逆」は崇神10年に設定されている。

 原型は『古事記』であり『日本書紀』の方は多くの潤色が施されているので、『古事記』の方で考えるとすると、ここは時系列による記録ではなく、初めに祭祀関連の記事をまとめて記録し、その後に狗奴国侵略記事をまとめた、と考えられなくもない。しかし、それでも俾弥呼の鬼道と崇神の祭祀とは本質的に異なると私は考えている。

 古田さんは吉野ヶ里の日吉神社は「敵側の主神」を祭った遺跡であり、崇神の祭祀と同一だと説いている。それには同意できるが、逆こにのことがそれらの祭祀と俾弥呼の鬼道との違いを示している。俾弥呼の鬼道は現在進行中の争乱を治めるために敵味方双方の死者の靈を一つの祭場で共に祀ったのである。それに対して、崇神の祭祀や吉野ヶ里の日吉神社は、征服国家は被征服国家の「共同幻想」を取り込むかあるいは自らのそれと交換するなどして支配を貫徹するという「共同幻想の巧みな交換」を示している。『大嘗祭とは何か(1)』で引用した吉本さんの文章を再掲載する。

 以前に存在したであろう法律とか宗教的儀礼、それから群立国家で支配的であったろう風俗、習慣というようなもの、あるいは不分律とか、掟てとか、あるいは村落の村内法、そういうようなものすべてと、元来そこの上におおいかぶさってきたその統一国家勢力におけるそういう習慣、風俗あるいは保存している宗教あるいは法概念、そういうようなものをそこで交換するわけです。これは別に等価交換じゃないわけですけれども、とにかく交換するということ、それで交換することによって、統一国家を成立せしめた勢力というものが、それ以前からあたかも存在したが如くに国家というものを、国家権力というものを制定することができるということです。それと同時に逆に交換された群立国家における首長、大衆というものが、今度は支配的に統一国家を成立せしめた勢力の法あるいは宗教、習慣っていうものを、あたかも自らの習慣あるいは自らの法律あるいは自らの宗教というような受けとり方で、受けとるという、かたちになってゆきます。

 つまり、俾弥呼の鬼道は倭国統合のための新たな共同幻想の創出だったのに対して、崇神の祭祀は敵対国の共同幻想を、いわば「簒奪」したもの、と言ったらよいだろうか。これによって実質ともに狗奴国は消滅した。

 ところで、「崇神の狗奴国攻め(7)」で宿題にしていた問題があった。それがはっきりしたので報告しよう。そのときの私の文章は次の通りである。

 古田さんは崇神は大和に帰ってきたのではなく、もともとは大和には拠点はなく、本国(九州王朝)の認可を得て新たに大和に侵略してきた勢力だと考えているようだ。もしそうだとすると、古田さんは騎馬民族説を否定しているが、任那を拠点としてた崇神が「大和への侵略」を行ったと、形としては騎馬民族説と同じことを言っているわけだ。私には受け入れ難い説だが、この説をはっきりと明言している文章はない。私が読み落としているのだろうか。私自身への宿題としておこう。

 私の読み落し、というより未読部分に解答があった。私は第1章から順序よく読んでいるのではなく、興味深い章から読んでいる。「狗奴国の滅亡」は今回で終りにしようと思い、次に興味深い第8章「邪馬壹国研究の新たな世界」を読んだ。第8章の「5 歴史の革命―「被差別部落」の本質」に崇神を大和への侵略者とする説がはっきりと書かれていた。

 次にのべるように、崇神天皇の時代は「AD200年と300年の間」に相当しよう。この間に、崇神は「任那」(釜山近辺)から「大和」(奈良県)へと侵入し、それ以前の「正統の天皇家」の〝有資格者″を攻撃し、征服したのである。

 「次にのべるように」というのは今まで教科書に使っていた第10章「倭人伝の空白」を指している。「正統の天皇家」の〝有資格者″とはタケハニヤスである。つまり古田さんは、タケハニヤスは崇神の庶兄であり、崇神は不倫の子という系譜を正しい記録として扱っているのだった。思えば、この説が前提になかったので、第10章を読みながらいろいろな「?」が起きたのだった。例えば次のような一節がある。

 崇神天皇「以前」には、この「建波邇安王」こそ、「正統なる王者」だった。中国風の称号である「王」を名乗っていた(「王」の問題は後述する)。

 「是に国夫玖(くにぶく)命の弾(はな)てる矢は、即ち建波邇安王を射て.死にき。」
 庶母による「不倫の子」は、機をえて果断に行動し、運命を逆転させた。その「名」の通り、恵まれた第一歩を進みはじめたのである。不遇と逆境によって、かえって鍛えられていたのであろう。

 これを初めに読んだ時は『崇神天皇「以前」には、……』が「?」だった。崇神が征服する「以前」は「建波邇安王」が狗奴国の「正統なる王者」だった、なんて改めて言う必要があるのだろうか、と。古田さんは「建波邇安王はヤマト王権の王だった」と言っていたのだ。私がそのように読めなかったのは(「王」の問題は後述する)という注のためである。『「王」の問題』は「崇神の狗奴国攻め(3)」で取り上げた。それによると「王」は「呉親倭王」の称号なのだから、建波邇安王はヤマト王権の王とするのは矛盾である。やはり、建波邇安王は狗奴国の王であろう。このように考えたのであった。それともやはり建波邇安王はヤマト王権の「正統なる王者」であり、ヤマト王権は建波邇安王のときに「魏親倭王」から「呉親倭王」に鞍替えしたとでも言うのだろうか。

 この「崇神侵略者」説は今も私には受け入れ難い。『俾弥呼』を一通り読んだ上で再考してみよう。
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《続・「真説古代史」拾遺篇》(49)



狗奴国の滅亡(30)
崇神記をめぐって(21)
俾弥呼と崇神の接点(4)


 次いで古田さんはあの筑後国風土記の甕依姫説話を取り上げている。そして次のように「公的ルール」の肉付けをしている。(甕依姫説話については『「邪馬台国」論争は終わっている。(11)』を参照してください。)

 筑前と筑後の間に「狭き坂」があった。その坂に「麁(ソ)の猛(タケル)神」があり、倭国の支配下に入ったあとも、なお戦乱がくりかえされ、人々の「死」が絶えなかった。

 「今」(現在。風土記成立時)の筑紫君や肥君等の祖先に当たる、甕依姫が「祝(ハフリ)」(司祭者)となって、(敵・味方の)霊を祭った。その結果、「敵・味方」とも、これに「心服」して、〝争い″が終結した、というのである。

 古田さんは、敵の靈も祀ったという俾弥呼(甕依姫)の鬼道を示す「真実(リアル)な痕跡」があると言う。吉野ヶ里遺跡である。『「邪馬台国」論争は終わっている。(13)』で『古代史の未来』から引用した文の一部を再録する。

 延々(えんえん)と何キロもつづく外濠(そとぼり)。そそり立っていた、10メートルを越える物見やぐらの痕跡。そしてなによりも甕棺(みかかん)の大群。累々(るいるい)たる屍(しかばね)の海だ。それも激烈な戦闘の存在を証(あか)しする、12本の鏃(やじり)の突きささったままの遺体。見る人をふるえあがらせる首なし遺体の数々。それらが次々とわたしの眼前に立ち現われていた。

 この甕棺に葬られた戦死者たちは敵兵だと、古田さんは考えている。

 筑紫野市(福岡県)から吉野ヶ里(佐賀県)に至る弥生遺跡では、「首の斬られた遺体」が、甕棺の中に入れて〝葬られ″ている。「敵の遺体」を丁寧に〝祭った″のである。

 その上、吉野ヶ里には「一列甕棺」が何層か存在し、その「向き」は、一見〝バラバラ″である。各遺体の「故郷」に向かって、それらの遺体を〝葬った″のであろう。

 いずれも「敵の遺体に対する、深き思いやり」の表現である。

 上の引用文によると「首の斬られた遺体」は吉野ヶ里遺跡以外にもあるようだ。それらの遺体が敵のものであるという論拠が明確に語られていないので疑念が残るが、「相攻伐する」倭国の争乱を治めた俾弥呼の鬼道が敵の靈をも祀るものであったことは確かだろう。

 例えば古代においては、戦場に放置された遺体を敵味方の区別なく弔うといったように、一般の住民が「敵の靈をも祀る」という行為を個人的に行うことは大いにあり得ると思う。しかし、国家が「公的なルール」として「敵の靈をも祀る」ことは、たぶん、古今東西例がないだろう。例えば靖国神社は家族が祀られることを拒否するのにもかかわらず強引に祀るという余計事をしているが、敵を祀るなど金輪際しないだろう。千鳥ケ淵戦没者墓苑でも同じだ。詳しいことは知らないが、多分どの国の戦没者墓地にも敵の靈は祀られていないだろう。しかし国家の「公的ルール」としてではないが、日本には「敵祭」の例があるという。古田さんは次のような例を挙げている。

 弘仁4(813)年6月、最澄の記したところ、とされている「長講金光明経会式」には「桓武天皇ノ御霊等」と並んで、
「東夷毛人ノ神霊等」
「結恨横死ノ古今ノ霊」
に向かって、その冥福が祈られている(古田武彦『親鸞思想』明石書店、260ページ、参照)。

 この「道」は、楠正成にも受け継がれた。赤坂の千早城に、自分の側(南朝)以上に立派な墓碑が、敵(北朝、北条側)側のために建造されている。

 近代に入っても、乃木希典が「敵(ロシア)を祭る」立場に左坦(さたん)(賛成)していること、知る人ぞ知るところである(松本郁子『太田覚眼と日露交流』第-部第五章、ミネルヴァ書房、参照)。

 この「道」は、現代の日本でも、公的に受け継がれている。大下隆司氏が「敵を祀る - 旧真田山陸軍墓地」(『古田史学会報』七六号所収)でも紹介されたように、大阪市の中心、真田山にある旧陸軍墓地においても、この立場が確実に表現されているのである。第一次大戦のドイツ兵や日清戦争における清国兵の墓碑が今も存在している。

 第二次大戦の後に「裁判」の名において敗戦国側の将兵を処刑し、「戦犯」扱いを日本の全国民に対してPRしつづけた連合国とは、〝異なった″立場がここには見事に表現されているのである。

 いずれが、人類の未来を決すべき普遍の「道」なのであろうか。「祝詞」を淵源とし、女王俾弥呼によって宣明された「鬼道」こそ、より普遍的な、地球の未来を正しく指ししめすものなのではないか。日本と世界の思想史の中で、俾弥呼はなお生きている。そしてその未来において、いよいよ大きく生きつづけ、復活するのではあるまいか。わたしはそれを信ずる。

 俾弥呼は永遠の女王である。

 どの例も「公的ルール」によるものではない。「旧真田山陸軍墓地」のケースが「公的ルール」によるもののようにも思えるが、それはあり得ないだろう。始めて知る墓地なのでネットで調べてみた。「大阪市内で戦争と平和を考える」というサイト内に「真田山陸軍墓地」というページに次のように書かれていた。

「これらの墓の中に獨逸(ドイツ)○○軍曹ヘルマン・ゴル、兵卒ルードリヒクラフトの2名のドイツ人名も見える。彼らは大阪衛戍(えいじゅ)病院で死亡している。また清国○○楊永寛など5人の名も見える。
 なお、○○は俘虜と刻まれていたが、戦後セメントが埋められた。これらの墓は他の墓に比べて一段と低い場所になっている。」

 病院でなくなった捕虜の死体を放棄するわけにはいかない。やむを得ずそこに埋葬したという程度のものであり、このような処置はどこの国でも行うのではないだろうか。もちろん、その埋葬に携わった人々は味方の将兵の場合と同様に丁重に葬ったことであろう。しかし「公的ルール」による祭祀と言うにはほど遠い。
《続・「真説古代史」拾遺篇》(48)



狗奴国の滅亡(29)
崇神記をめぐって(20)
俾弥呼と崇神の接点(3)


 『俾弥呼』に戻ろう。
 論語には「鬼」あるいは「鬼神」について述べている条文が4件ある。古田さんはそれらの条文を用いて「鬼」の概念を追及するとともに、孔子と俾弥呼の鬼神に対する態度の違いを論じている。初めにその条文を読んでおこう。筑摩書房版・世界古典文学全集『論語』(吉川孝次郎編著)を用いる。(筑摩書房版の読み下し文と古田さんの読み下し文には少し違う点がある。筑摩書房版の方を採用した。また訳文は吉川氏の解説を参考に作成した。)

(一)
子曰わく、其の鬼に非ずしてこれを祭るは、諂(へつら)い也。義を見て為(な)さざるは、勇無き也。(為政第二)

(訳文)
じぶんの先祖の霊魂でもないのに祭るのは、本来祭るべきものではないのだから、卑屈なおべっかである。また、自己の行なうべきことをしりごみして実行しないのは、勇気のない人間である。

(二)
樊遅(はんち)、知を問う。子曰わく、民(たみ)の義を務め、鬼神を敬して之(こ)れを遠ざく。知と謂(い)う可(べ)し。仁(じん)を問う。曰わく、仁なる者は先ず難(なや)んで後に獲(う)。仁と謂う可し。(雍也、第六)

(訳文)
 弟子の樊遅が、知とは何であるかを、孔子にたずねた。孔子はこたえた。「人としての道理を大切にし、人間以上の存在である鬼神に対しては、尊敬はするけれども、距離をおいた存在としてあつかう(「敬遠」する)、これこそ知である。」
 樊遅はさらにたずねた、仁とは何であるか。孔子はこたえた。「仁ある人は安易な成果を求めず、先ず労苦して後に功を得る。これこそが仁である。」

(三)
子曰く、禹は吾れ間然(かんぜん)すること無し。飲食を菲(うす)くして、孝を鬼神に致す。衣服を悪(あ)しくして、美を黻冕(ふつベん)に致す。宮室を卑しくして、力を溝洫(こうきょく)に尽くす。禹は吾れ間然すること無し。」(泰伯第八)

(訳文)
禹に対して私は非のうちどころがない。なぜ非難の余地がないかといえば、日常の食生活はきりつめつつ、しかも鬼神の祀りのお供えは立派にしてまごころを尽くした。日常の衣服はきりつめつつ、お祭りのときの大礼服はたいへん立派なものにした。また、自らの居宅は粗末にしつつ、農業のため灌漑の水路に力をつくした。禹に対して私は非のうちどころがない。

(四)
李路、鬼神に事(つか)えんことを問う。子曰く、「未だ人に事うる能わず、焉(いずく)んぞ能(よ)く鬼に事えんや。」敢(あ)えて死を問う。曰わく、「未まだ生を知らず。焉んぞ死を知らん。」(先進第十一)

(訳文)
 季路が鬼神に仕えることをたずねた。孔子はこたえた。「人間に対する奉仕さえまだ充分にできないのに、どうして鬼神への奉仕が可能であるか。」
 子路は、果敢に今度は死を問うた。孔子はこたえた。「生のことさえもわからない、どうして死後のことがわかろうか。」

 古田さんは(四)について次のように述べている。

 ここでは「鬼神に事える」というテーマが主題になっている。倭人伝で俾弥呼が「鬼道に事える」ことを中心の信条としていたのと、はなはだ「近い」テーマであることが注目せられよう。けれども、孔子は直接にはそのことの意義を「否定」はしていないけれど、「わがことに非ず」という立場をとっている。俾弥呼の主導する道と、孔子の「儒教」とは、おのずから異なった方向へと向かっていたようである。

 しかし(三)によれば、孔子は決して「鬼事」を否定しているわけではない。古田さんは次のように続けている。

 ここでは「鬼神に孝を致す」というフレーズを、禹の〝無上のすばらしさ″の証拠の一つとしている。孔子は、一方では「鬼神に事える」ことに対して「敬遠」しながらも、他方では〝自分以上の″無類の「ありかた」へと擬している。いわば、自分の未だとどきえぬ「理想の境地」と見なしていたのである。

 陳寿は当然、これらの「論語の一節」そして「孔子の言説」を知った上で、倭人伝における、倭国の女王俾弥呼についての、「鬼道に事え」のワン・フレーズを書いている。そのように理解することは、あやまりだろうか。わたしは決してあやまりではない、と思うのである。

 しかも、俾弥呼の場合、「鬼神に事え」ではなく、「鬼道に事え」となっている。俾弥呼が、単に「個人的な好み」として、それを行ったのではなく、一個の公的ルールとして倭国の中に樹立していた。その状況を指す言葉、それが「鬼道」の二文字なのである。

 禹は会稽山で没した、という。その会稽山の「東治」領域の東、そこに俾弥呼の女王国があった。それを陳寿は、「当に会稽東治の東にあるべし。」と表記した。禹の「鬼神に孝を致す」の遺風を、俾弥呼の「鬼道に事える」ための公的ルールの成立している姿の中に「見よう」としたのである。この注目すべき一節をもって、単に「地理的位置」の指定とのみ理解するならば、歴史家たる陳寿の「面目」の根本を見失ったものなのではあるまいか。

 前回、私は俾弥呼は「全ての国の祖霊を祀り和解を図るような儀式を創造」したのではないか、と書いた。これと古田さんが「公的ルール」と言っている事柄とは別ものではないと、私は理解している。「公的ルール」とは吉本幻想論の用語で言えば「共同幻想」にほかならない。吉本隆明著『共同幻想論』の「巫女論」から引用する。

 柳田国男の『妹の力』によれば〈巫〉は日本では原則として女性であったとされている。そして女性は感じやすく、事があると群集のなかで異常心理作用をしめし、不思議を語りえたし、何よりも子供を生み育てるかなめが女性だから、ひとびとの依存心があつまる巫事に適するとされたにちがいないとかかれている。こういう〈想像〉は、すこしかんがえただけではもっともらしくみえる。そして〈想像〉を拒否して巫女の成立をかんがえるとすれば経済社会的な要因をみつけだすほかない。じじつ柳田国男や折口信夫もときに応じてこの方法を採用している。しかし、いずれもメダルのうらおもてのように無意味におもわれる。

 ある共同的な幻想が成り立つには、かならず社会的な共同利害が画定されていなければならない。〈巫〉がすくなくとも共同の幻想にかかわるとすれば、〈巫〉的人間が成立するには、かならず共同利害が想定されるはずである。だから〈巫〉的人間が男性であったか女性であったかということは、たんに〈巫〉を成立させる共同利害の社会的基盤が男性を主体にする局面であるか、女性を主体にする局面であるかのちがいにすぎないのである。このような意味で〈巫女〉をかんがえれば、ただ男巫にたいして女巫であるというにすぎない。〈巫女〉が〈巫女〉であるべき本質はすこしもとらえられないというべきである。

 〈巫女〉とはなにか?

 この問いにたいして、巫覡的な女性を意味するとこたえることはおそらく本質をうがっていない。また巫覡的な能力と行事にたずさわるもののうち、女性をさすといってもこたえにはならない。

 わたしのかんがえでは〈巫女〉は共同幻想を自己の対なる幻想の対象となしうるものを意味している。いいかえれば村落の共同幻想が巫女にとっては〈性〉的な対象なのだ。巫女における〈性〉行為の対象は、共同幻想の凝集された象徴物である。〈神〉であっても〈ひと〉であっても、〈狐〉とか〈犬〉のような動物であっても、また〈仏像〉であっても、ただ共同幻想の象徴という位相をもつかぎりは、巫女にとって〈性〉的な対象でありうるのだ。

 俾弥呼が「共同幻想を自己の対なる幻想の対象となし」ていたすれば、「年已に長大なるも、夫婿なく」というあり方も何ら怪しむに足りない。

 では、俾弥呼が措定した「公的ルール=共同幻想」が「相攻伐する」諸国が全て納得し帰服するような権威を持ったのはなぜだろうか。吉本論文の続きを読んでみよう。
 フロイトは晩年の円熟した時期の講話(『続精神分析入門』)のなかで〈女性〉を簡潔な言葉で規定してみせた。かれによれば〈女性〉というのは、乳幼児期における最初の〈性〉的な拘束が〈同性〉(母親)であったものをさしている。そのほかの特質は男性にたいしてすべて相対的なものにすぎない。身体的にはもちろん、心性としても男女の差別はすべで相対的だが、ただ生誕の最初の拘束対象が〈同性〉であったことだけが〈女性〉にとって本質的な意味をもつ、というのがフロイトの見解であった。この見解は興味ぶかく、また暗示的である。フロイトにならっていえば、最初の〈性〉的な拘束が同性であった心性が、その拘束から逃れようとするとき、ゆきつくのは異性としての男性か、男性でも女性でもない架空の対象だからだ。男性にとって女性への志向はすくなくとも〈性〉的な拘束からの逃亡ではありえない。母性にたいする回帰という心性はありうるとしでも、男性はけっしてじぶんの〈男性〉を逃れるために女性に向うことはありえないだろう。 〈女性〉が最初の〈性〉的な拘束から逃れようとするとき、もし男性以外のものを対象として措定するとすれば、その志向対象はどのような水準と位相になければならないだろうか?  このばあい〈他者〉はまず対象から排除される。〈他者〉というのは〈性〉的な対象としては男性である他の個体か、女性である他の個体のほかにありえない。するとこのような排除のあとでなお残される対象は、自己幻想であるか、共同幻想であるほかはないはずである。ここまできてわたしなりに〈女性〉を定義すればつぎのようになる。あらゆる排除をほどこしたあとで〈性〉的対象を自己幻想にえらぶか、共同幻想にえらぶものをさして〈女性〉の本質とよぶ、と。そしてほんとうは〈性〉的対象として自己幻想をえらぶ特質と共同幻想をえらぶ特質とは別のことを意味してはいない。なぜならば、このふたつは女性にとってじぶんの〈生誕〉そのものをえらぶか〈生誕〉の根拠としての母なるじぶん〈母胎〉をえらぶことにほかならないからである。

 たんに男〈巫〉にたいして女〈巫〉というとき、この巫女には共同性の権威は存在していない。しかし自己幻想と共同幻想がべつのものになっていない本質的な巫女は共同性にとって宗教的な権威をもっている。そして人間〈史〉のある段階ではその権威が普遍的な時代があったとかんがえることができる。

《続・「真説古代史」拾遺篇》(47)



狗奴国の滅亡(28)
崇神記をめぐって(19)
俾弥呼と崇神の接点(2)


(2月10日、大幅に追記・書き換えをしました。)

 かつて問題①『「鬼道」とは何か。』を本格的に論じた人はいるのだろうか。ウィキペディアには次のように書かれている。

「この鬼道や惑の意味には諸説あり正確な内容は不明。ただし中国の史書には、黎明期の中国道教のことを鬼道と記している例もある。」

 「中国の史書には……」と書いているが、このように出典を明らかにしていない言説は取るに足らない。自ら調べることにした。

 日本では鬼と言えば、ツノがあり腰には虎の皮の褌を巻いた裸の化け物、というのが相場だが、このような鬼は日本だけのものらしい。諸橋大漢和辞典では〔邦〕と分類されている。その辞典によると「鬼」には10通りもの意味がある。そのうちの「おに」の項は次のようになっている。
おに
(イ)
 死人のたましひ。人が死ねば心思をつかさどる魂は天にのぼってとなり、形體は地に歸り、形體の主宰である魄は鬼となる。

(ロ)
 ひとがみ。人鬼。祭られた死人の幽魂。天神地祇の對。
(ハ)
 ひとがみの中、特に定められた位を安置する場所のないもの。新死者が出来るごとに先組の位を、其の安置してあった處から一代だけ上の安置する場所にくり上げて、安置する場所のなくなったものを鬼とする。鬼にくり入れる世代は身分によって異なる。天子は九代、諸侯は七代、大夫は五代、上士は三代、中士は二代以前のものが鬼となり、下士・庶人は父から直ちに鬼とよぶ。
(ニ)
 冥冥の中にあって不可思議の力ありと信せられる人格。一に聖人の精気を、賢人の精気を鬼といふ。
(ホ)
 人を賊害する陰気、又は現體。もののけ。ばけもの。
(ヘ)
 姿が見えなくて禍難を齋らすものと信せられる人格。

 俾弥呼の「鬼道」の「鬼」は(イ)(ロ)(ハ)で説明されている亡くなった人の魂という意と思われる。熟語の部で「鬼道」を見ると次のように説明されている。

【鬼道】キドウ
①鬼神のみち。人道に對していふ。又、祭壇に於ける鬼の通路。
②あやしい術。魔法。妖術。
③[佛]夜叉・羅刹・餓鬼等の趣く境土。六道の一。鬼趣。

 ③は仏教用語だから除外する。

 ②の出典として次の二例が挙げられている。(1)
〔後漢書、劉焉傳〕
沛人張魯、母有姿色、乗挟鬼道
(2)〔魏志、張魯傳〕
魯遂據漢中、以鬼道教民、自號師君

 (1)を含む文節は次のようである(吉川忠夫訓注の岩波書店版『後漢書』を用いた。)

沛の人張魯(ちょうろ)、母は姿色有って、兼ねて鬼道を挟(たばさ)み、焉の家に往来す。遂に魯を任じて以て督義司馬と為し、別部司馬張脩(ちょうしゅう)と与(とも)に兵を将(ひき)いて漢中太守蘇固(そこ)を掩殺(えんさつ)せしめ、斜谷(やこく)を断絶し、使者を殺す。魯既に漢中を得るや、遂に復た張脩を殺して其の衆を幷(あわ)す。

 注には「シャーマニズム」とあった。〔魏志、張魯傳〕の方は手元にある筑摩書房版「世界古典文学全集」から引く(現代語訳です)。

張魯(ちようろ)は字(あざな)を公祺(こうき)といい、沛(はい)国豊県の人である。祖父の張陵(りよう)は、蜀に身を寄せ、鵠鳴(こくめい)山の山中で道術を学び、道術の書物を著わして人民をまどわした。彼のもとで道術を学ぶ者は五斗の米をお礼に出した。そのために、世間では米賊と呼んだ。張陵が死ぬと、息子の張衡(こう)がその道術を行なった。張衝が死ぬと、張魯がまたこれを行なった。益州の牧劉焉(りゆうえん)は張魯を督義(とくぎ)司馬に任命し、別部司馬の張脩(しゆう)とともに、軍隊をひきいて漢中太守の蘇固(そこ)を攻撃させた。張魯はけっきよく張脩を襲撃して殺害し、その軍勢を奪い取った。劉焉が死に、子の劉璋(しよう)が代わって立つと、張魯が服従しないという理由で、張魯の母と家族を皆殺しにした。張魯はそのまま漢中を占領し、妖術によって住民を導き、みずから「師君(しくん)」と号した。

 前者では母の妖術によって張魯が出世した話になっているのに対して、後者では張魯自身が妖術使いになっている。また後者では、その妖術の淵源は祖父の「道術」であると言っている。ウィキペディアが「黎明期の中国道教のこと」と書いているのはこれが出典のようだ。これらは「鬼」の意味の(ニ)に当たる。私的な現世利益を目的とした妖術であり、俾弥呼の鬼道とは相容れない。

 ①の出典としては次の三つが挙げられている。
1'
〔国語、魯語上〕
犯鬼道二、犯人道二。
2'
〔史記、封禪書〕
為壇開八通之鬼道。
3'
〔説苑、正諫〕
若以鬼道諫我、我則殺之。

 2'は「壇をつくって八方に鬼神の道を開く」という意であり、原文からもそれ以上の意味は組み取れないのでこれ以上は立ち入らない。1’は次のよう文節に現れている。(3'は図書館にも蔵書が無いので省略する。)

1'
夏父弗忌は必ず殃(わざはい)有らん。夫れ宗有司の言は順なり。僖又未だ明(めい)有(あ)らず。順を犯すは不祥(ふしやう)なり、逆を以て民(たみ)に訓(をし)ふるも亦不なり、の班を易(か)ふるも亦不祥なり、明かならずして之を躋(のぼ)すも亦不祥なり。鬼道を犯すこと二つ、人道を犯すこと二つ、能(よ)く殃(わざはひ)無からんや、と。

 夏父弗忌が祭祀をつかさどる宗伯という役職に就いて先君僖公を祀った。そのときにこれまでのしきたり廟制(祭神の順序)を無視して祀った。宗伯の役人がそれを諫めたが聞き入れなかった。このことを知った展禽という人が批評した言葉が上の引用文である。ここでは鬼道と人道が対句になっている。「鬼神のみち。人道に對していふ」という鬼道の意味の出典である。つまり「鬼道」とは「鬼神のみち」であると言う。では「鬼神」とは何か。

【鬼】キシン

 死人の靈魂。祖先の靈。日知録、巻六に見ゆ。

 明叡知な神靈。

 形體の靈と精神の靈。魂魄。

おにがみ。あらぶる。あらがみ。冥冥のに人に害を及ぼす怪異な存在。

 天地創造の。造化玄妙の理。

 俾弥呼の「鬼」とは①の意と思われる。『春秋左氏伝』の「桓公六年」条に俾弥呼が行ったであろう鬼道の意味するところを彷彿させる説話がる。少し長いが引用しよう。(筑摩書房版「世界古典文学全集13」から。読みやすいように段落を設けた。)

 楚の武王が随(ずい)(侯爵、姫姓の国)を侵(おか)し、楚の大夫、〔艹/遠〕章(いしよう)をつかわして和平を申し込ませ、瑕(か 随地)に陣を張って相手の使者を待った。随の人が大夫の少師をやって和平実現の成否を見さだめさせた。

 楚の大夫、闘伯比(とうはくし)が楚子(そし 楚の君、子は子爵)にいうには、
「わが楚国が漢東(漢水の東)の国々を思うように支配し得ないのは、こちらのやり方が然らしめたのです。こちらが三軍を弓矢甲冑にて武装し進軍せしめると、向うは恐れて諸国がいい合わせて楚を牽制しようと謀るのです。だから諸国を分裂させ難いのです。漢東の国では随がいちばん大きい。随が諸国に権勢を張るようにしむければ、随は他の小国を見すてるでしょう。小国が離れれば、それは楚の利益であります。みたところ、少師はおごった風の男ですから、こちらの軍をヘらしで彼をおごらせるようにしてはいかがでしょうか。」
 楚の大夫、熊率且比(ゆうりつしょひ)が
「季梁(きりよう)というきけ者がいる。そんなたくらみをしたとて何の益がありましょうか」というと、闘伯比が
「それはあとの謀りごとということになります。さしずめ少師は大夫の筆頭でもあり、随の君のお気に入りです」
と言った。

 そこで武王は、わざとその軍を弱めて少師を陣中に通した。少師はその軍勢を見、帰国して、楚の軍は弱そうだから追いつめて伐ちましよう、と進言した。季梁がこれを止(とど)めていうには、
「天命はどうやら楚に傾いているようです。楚の軍が弱いと見えたは、我れをあざむく謀りごととおぼえます。わが君には何ゆえ事を急がれますか。むかしからこういいます。『小にして大に敵し得るのは、小国に道がよく行なわれ、大国が乱れているからである』と。いわゆる道とは民に対して忠(まこと)、神に対して信(偽わらぬ)なるをいいます。上(かみ 政府)が民に有利にしてやろうと思うのは忠です。祝史(しゆくし 神を祭る役人)が辞(ことば)を正しくするのは信です。いま随国では民は飢えているのに君は我慾をたくましくされる。祝史は祭においていつわりごとを神に告げています。こんな有様で楚を伐つのは、よいことだとは申し上げかねます。」

 〔随〕公がいうに
「わしが神に供える牡(いけにえ)はよく肥えて毛並みもよい。わしの供える穀物はまことにゆたかである。どうして神に対して信でないのか。」
 季梁
「民は神の主(こころ 注1を参照)であります。このゆえに、聖主はまず民をよく治めて、しかるのちに力を神に致すものです。ゆえに牲(いけにえ)を供えては『民の力がゆきわたり、家畜はよく肥えましたから』と神に告げるのですが、これは民の力があまねく、畜類が大いに繁殖して皮にも毛にも疵(きず)も病(やまい)もないことをいうのです。また穀類を供えて『清潔な穀類がいっぱいできましたから』と神に告げるのは、農耕の三時(春夏秋)に災害がなく、民は和し、みのりは豊かであることをいうのです。よき酒を供えては『よき、きよき酒でございます』と告げるのは、上下ともども嘉(よ)き徳があって、逆らう心がないのをいうのです。いわゆる『君の香(かんば)しきかおりありて、邪心のかくるるなき』をいうのです。このゆえに、民は農の三時を精出して働き、五教(注2)を修め、その九族(注3)に親しみ、その鬼神(祖霊など)をよく祀(まつ)ります。ここにおいて万民よく和し、神はこれに福を降します。従って、することなすことみな成就します。ところがわが国においては、いま民はおもいおもいの心をいだき、鬼神もどの民を助けてよいか分らない有様です。わが君だけがゆたかであっても、何の幸がありましようか。わが君においては戦争などはおいて、しばらく政務につとめ、兄弟の国(漢東の諸国)に親しむようになされば、今日の難は免れられるでしょう。

 隋侯はおそれて政(まつりごと)を修めたので、楚はあえてこれを伐とうとはしなかった。

(注記)
(1)神の主(こころ)
 「神の主(こころ)」の主は施主の意。民があって祭れば神威は増すが、民がなくては神威も発揮されないとの意。
(2)五教
 父は義、母は慈、兄は友、弟は恭、子は孝。以上を五教という。
(3)九族
 外祖父・外祖母・従母の子・妻の父・妻の母・姑(おば)の子・姉妹の子・女子の子をいう。母方の姻戚。

 「倭國乱れ、相攻伐すること歴年」という争乱を治め、民を安んじたのは卑弥呼の鬼道であった。『「邪馬台国」論争は終わっている。(11)』で取り上げた『筑後国風土記』の次の一節を再録しておこう。

昔、此の堺の上に麁猛神(あらぶるかみ)あり、往来の人、半ば生き、半ば死にき。其の数極(いたく)く多(さは)なりき。因りて人の命尽(つくし)の神と曰ひき。時に筑紫君・肥君等占ふ。今の筑紫君等が祖、甕依姫、祝と為りて祭る。爾(それ)より以降(このかた)、路行く人、神に害(そこな)はれず。是(ここ)を以(も)ちて、筑紫の神と曰ふ。

 もちろん俾弥呼の鬼道は漢籍が描く祭事そのものではないだろう。「相攻伐する」諸国が全て納得し帰服するような独自の儀式、たぶん全ての国の祖霊を祀り和解を図るような儀式を創造したのであろう。
《続・「真説古代史」拾遺篇》(46)



狗奴国の滅亡(27)
崇神記をめぐって(18)
俾弥呼と崇神の接点(1)


 崇神軍にタケハニヤスを討ち取られた狗奴国軍は摂津に敗走した。かくしてヤマト王権は崇神時代に河内一帯を手中に収めたが、摂津に追い込んだ銅鐸圏勢力(狗奴国)を壊滅し畿内全域とその周辺部を支配下に置くには垂仁時代を待たねばならなかった。ヤマト王権対銅鐸圏勢力の最後の決戦が「沙本城の戦い」である。そのあらましは
「沙本城の戦い(1)」
「沙本城の戦い(2)」
「沙本城の戦い(3)」
で紹介済みなので繰り返さない。

 さて、「崇神の活動時代(1)」で、崇神の活動時期を3世紀後半~4世紀初期とした。その論拠として
『箸墓古墳の周壕築造直後の土器を「放射性炭素年代測定法」によって測定した結果、240~260年代と推定された。』
という調査結果(2009年5月31日に日本考古学協会総会で発表)を挙げておいた。箸墓古墳の場合だけではない。炭素14年代測定法・年輪年代法などの理化学的年代法によるさまざまな考古学的遺跡・遺物の測定結果が、古墳時代の開始を3世紀中頃とする説を支持している。「井の中」でもこの説を無視できなくなってきているという。まともな理性を持つ学者なら当然の帰趨だ。

 崇神の活動が三世紀中頃から始まったのなら、崇神は当然俾弥呼を知っていたはずである。このことを古田さんは『俾弥呼』第10章4「俾弥呼と孔子の断絶」で取り上げている。『俾弥呼』には「鬼道に事え、見る有る者少なし」という副題が付けられているが、古田さんはこの「鬼道」を崇神と俾弥呼の接点と考えている。この題材は私にとってまだ未消化な点が多々あるが、今まで通り、学習しながら考えていこう。

 まず魏志倭人伝の俾弥呼についての記述を改めて確認しておこう。

その國、本また男子を以て王となし、住(とど)まること七、八十年。倭國乱れ、相攻伐すること歴年、乃ち共に一女子を立てて王となす。名付けて卑弥呼という。鬼道に事(つか)え、能く衆を惑わす。年已に長大なるも、夫婿(ふせい)なく、男弟あり、佐(たす)けて國を治む。王となりしより以来、見るある者少なく、婢千人を以て自ら侍せしむ。ただ男子一人あり、飲食を給し、辞を伝え居処に出入す。宮室・楼観・城柵、嚴かに設け、常に人あり、兵を持して守衛す。

 この俾弥呼についての素描文を読んだ人はどのような人物像を描くだろうか。常識的な語句理解からすれば、
「人心を惑わす幻術あるいは妖術を巧みに使いこなすかなり年を取った独身の女性。まるで未来を予見するあのマクベスの魔女のようだ。」
といったところだろうか。倭人伝を始めて読んだ時、わたくしはこのように受け取っていたと思う。この理解の仕方はいかにも皮相に過ぎよう。問題点は二つある。
①「鬼道」とは何か。
②「年已に長大」とはどういう意味か。


 ②については『ここに古代王朝ありき』にズバリ「卑弥呼の年齢」という項目がある。古田さんは次のように結論している。

景初2(238)年直前の即位時期には35歳前後。だから10年後の正始年間(240~48)に死んだとすれば、45歳前後で永遠の眠りについたこととなろう。

 これは決して単なる推測による判断ではない。古田さんはこの判断を『三国志』での用語例を調べることによって得ている。

丕(曹丕)の、業を継ぐに逮(およ)ぶや、年已に長大。(呉志七・諸葛瑾伝)

 「丕」とは、曹操の子、曹丕だ。魏の第一代の天子、文帝である。その文帝紀(魏志二)によると、彼の即位は延康元(220)年、34歳(黄初7〈226〉年に40歳で死)。

 「業を継ぐ」とは、漢から禅譲をうけて、魏を創建した、延康元年の即位時点を指した言葉だ。したがってこの「年已に長大」は、34歳頃を指して用いられている(5世紀の裴松之も、『三国志』の孫奮伝〈呉志十〉の「30・40」に対応させて、この「已に長大」の語を用いている)。

 他にも、「後主(劉禅)漸く長大」(蜀志九董允伝)の表記が20代後半を指して用いられているから、陳寿の用法として、この「長大」の語の使用方法は明確かつ安定している(古田「九州王朝の方法」『東アジアの古代文化』1978爽秋号、参照)。

 したがって陳寿が倭人伝で「年已に長大」と書いたとき、当時の『三国志』の読者は、“三十代なかばの女性”として、東方なる女王国の王者のイメージを思い浮かべたこと、それは確実だ。“鬼気せまる、白髪の女妖術者”、そのようなイメージを誰人かあって、もし卑弥呼に対して抱いていたとしたら、それはひっきょう、一片の錯覚、現代の虚像にすぎなかったのである。

 この年齢だとすると、イメージはがらっと変わる。たぶん俾弥呼は才媛兼備の堂々たる女王だったことだろう。「衆を惑わす」という表現があるが、この「惑わす」は「たぶらかす」というよな意味合いではなく、むしろ「人心を掌握していた」という意味だろう。これに対して壱与は13歳(二倍年なので6・7歳)の時に女王に擁立されているから、倭国統合の象徴的な存在だったろう。ただし、俾弥呼の血族として正当性が認められての擁立だから政治的な権威は備えていたと思う。

 この俾弥呼の年齢の推定から、古田さんは、「見る有る少なし」にもかかわらず、「魏使は俾弥呼に会っていた」という命題を引き出している。ただし、ここでの魏使とは倭人伝の原資料を記録した魏使である。正始元年(240)の魏使・梯儁(ていしゅん)は詔書・印綬ををたずさえての来国だから俾弥呼と会っていたのは当然のことだ。

 もし、これが実際には会わず、〝倭人からの聞き書き″だったとしたら、倭人は卑弥呼の年齢をいくつだと言っただろう。それは〝七十歳″だと言ったはずなのだ。なぜならわたしの 『「邪馬台国」はなかった』(朝日新聞社刊、第六章Ⅲ)でのべたように、当時倭人は「二倍年暦」に従っていた。つまり〝一年に二回としをとる″数え方である。したがって〝三十五歳″は、その二倍の形で表現されたはずだ。とすると(陳寿には、この「二倍年暦」という概念が欠如していたから)、卑弥呼のことを「年巳に長大」でなく、「年漸く老ゆ」とか、「年巳に寿考」といった形で表現したはずなのである。しかるに史料事実はそうなっていない。「年己に長大」だ。ということは、魏使が実際に卑弥呼に会い、実際にその「衆を妖惑する」顔を見、そしてこの表現をした、そう考えるほかないのである。

 すなわち〝魏使は倭都(邪馬一国)に至り、卑弥呼に会っている″。卑弥呼の年齢表現をしめす史料は、この事実をまざれもなく証言していたのである。

 「倭人伝は伝聞による記録であり、全てを信用することは出来ない」と言い、勝手な原文改定をする論者が後を絶たない。そのような論者にダメを押す意味で、古田さんのこの発見は重要である。
《続・「真説古代史」拾遺篇》(45)



狗奴国の滅亡(26)
崇神記をめぐって(17)
崇神の狗奴国攻め(7)


③「三方か、四方か」問題。

 『古事記』は大体においてはヤマト王権内の伝承に依拠して記録された史書である。これに対して『日本書紀』は「日本旧記」(九州王朝の史書)や百済系三史料(「百済記」「百済新撰」「百済本記」)などを利用して大幅な「削偽定実」を施して編纂されたご都合史書である。従って『古事記』と『日本書紀』の記事に大きな食い違いがある場合は『古事記』の方の記事を採用するべきだ。もちろんこれは一般論であって、個々には慎重な検討を加えなければならない。

 「三方か、四方か」問題ではどうだろうか。この場合はそう難しく考える必要はないだろう。本来「四方」だったのを『古事記』(712年成立)が「一方」(「吉備津彦をもて西道に遣す」)を書き漏らした、あるいは故意にカットした、とは考えがたい。『日本書紀』(720年成立)の方がそれを加筆したのだ。  ではどうしてそのような加筆を行ったのだろうか。気まぐれに付加したわけではないだろう。なんらかの思惑があったはずだ。このような問題の解は推測するほかない。私は次のように推測してみた。

 『日本書紀』の編纂者にとってはヤマト王権の征服地図は「四方(よも)の国」でなければならない。「三方」では不完全だ。是非「四方」としたい。「吉備津彦をもて西道に遣す」を加筆して「四方」とした。もちろんこの「西道」の到達点としては筑紫を念頭に置いている。筑紫は崇神時代にヤマト王権の支配下に入ったと主張したいのだ。全くの虚構である。しかし、「吉備津彦をもて西道に遣す」には、『日本書紀』の編纂者の思惑とは別の事実があって、それなりの根拠があったと考えられる。

 任那で優良な鉄製武器を整え、十分に訓練された将兵を引き連れて、崇神は大和に凱旋した。直ちに狗奴国侵略の軍議を開いた。それには吉備津彦も参加していた。

 吉備国は銅鉾圏と銅鐸圏の境界地点に位置するが、神武が東侵時に立ち寄り8年間も滞在した国だ。明らかにヤマト王権とは親和的な親魏倭国の一つである。崇神の狗奴国攻めにとって強力な味方であった。大和で軍議に参加していた吉備津彦は加勢の軍備を整えるため自国・吉備に帰った。あるいは銅鐸圏の西端の国(播磨・摂津)への牽制も兼ねていたかもしれない。つまり「西道」の到達点は吉備国である。これは侵略のための派遣ではないから『古事記』では「三方」だけの記録となった。この吉備津彦の帰国を書き加えると「崇神遠征図」は下のようになる。(ヘタクソな書き込みで、ちょっと情けない。)



崇神の四方派遣

 この「三方か、四方か」問題を古田さんはどのように解釈しているだろうか。読んでみよう

 「三方か、四方か。」最初にのべた、この疑問に、今は容易に〝答える″ことができる。当然「三方」が原型だ。残る「一方」の〝西への道″は、逆だった。

 「任那から大和へ」というルートの、重要な中継地、それこそ吉備だった。吉備津彦の領域、その「津(港湾)」の権力者と〝協力″して、「大和への侵入」が可能となったのである。

 それはかつて「神武の辿ったル一ト」だった。「神武」の場合、鳴門海峡を通って当時の「河内湾」の奥深く、楯津(たてつ)に至ったこと、古事記の神武記は明記していた。その退路の「南方(みなみかた)」は、文字通り、「南潟」として、地名が現存している。と同時に、それは「河内湾」と「大阪湾」とを結ぶ、「水路」の結節点に当たっていた。古事記の成立した8世紀にはすでに、このルートはなかった。

 しかし、弥生の地形図は右の「神武の侵入と退路」が、弥生時代においては「真実(リアル)」だったことを証言していたのである(「神武東侵」問題については、『盗まれた神話』第8~11章、参照)〈管理人注 『「神武東侵」:日下の戦いで惨敗する。』を参照してください。その記事から「弥生の地形図」を下に転載しておきます。〉。

大阪古代地図

 一度あることは二度ある、とのたとえ通り、崇神天皇もまた、同じく吉備の「港」の支配者の〝協力″をえて、「大和への侵入」を図った。ただし、今回はおそらく明石海峡側を東行し、「大阪」の地に至ったと思われる。通例、この「大阪の神」(管理人注:「神々の祭祀」《第三段》に出てきた「墨色の楯矛を祭」られた神)は大和国葛下郡に当てられているけれど、「河内の大阪」の可能性もあろう。ともあれ、「河内から大和へ」の各要害の地に、「新たな、支配軍の軍事的シンボル」としての「矛」と「楯」が表示され、民衆と「従来の支配者層」に対して新時代の到来を誇示したように見える。

 『残る「一方」の〝西への道″は、逆だった』と述べていることから、古田さんは「任那→吉備→大阪→大和」という「東方」への経路を『日本書紀』編纂者が「大和→吉備」と逆転して、「西方」への経路に造作したと考えているようだ。そういう解釈もあり得ると思う。

 しかし、受け入れ難いことがある。「大和への侵入」という文言を二度使っている。文字通りに解釈すれば、次のように考えるほかない。

 古田さんは崇神は大和に帰ってきたのではなく、もともとは大和には拠点はなく、本国(九州王朝)の認可を得て新たに大和に侵略してきた勢力だと考えているようだ。もしそうだとすると、古田さんは騎馬民族説を否定しているが、任那を拠点としてた崇神が「大和への侵略」を行ったと、形としては騎馬民族説と同じことを言っているわけだ。私には受け入れ難い説だが、この説をはっきりと明言している文章はない。私が読み落としているのだろうか。私自身への宿題としておこう。

《続・「真説古代史」拾遺篇》(44)



狗奴国の滅亡(25)
崇神記をめぐって(16)
崇神の狗奴国攻め(6)


②崇神は任那から出陣する。


 崇神の「軍事的行動の起点」が任那であったこと示唆する説話がある。その説話を取り上げる前にまずは崇神軍出撃の説話が『古事記』と『日本書紀』ではどう違うのかを見ておこう。

『古事記』
 大毘古命をば高志(こし)道に遣はし、その子建沼河別命をば、東の方十二道に遣はしてまつろはぬ人等を和平(やは)さしめき。又日子坐(ひこます)王をば、旦波国に遣わして、玖賀耳之御笠(くがみみのみかさ)を殺さしめき。

『日本書紀』
 十年の秋七月の丙戌の朔已酉に、群卿に詔して曰はく、「民を導く本は、教化(をしえおもぶ)くるに在り。今、既に祇を禮(ゐやま)ひて、災害皆耗きぬ。然れども遠荒(てょきくに)の人等、猶(なほ)正朔(のり)を受けず。是未だ王化(きみのおもぶけ)に習はざればか。其れ群卿を選びて、四方に遣して、朕(わ)が憲(のり)を知らしめよ」とのたまふ。
 九月の丙戌の朔甲午に、大彦命を以て北陸に遣す。武渟川別をもて東海に遣す。吉備津彦をもて西道に遣す。丹波道主命をもて丹波に遣す。「若し教(のり)を受けざる者あらば、乃ち兵を舉げて伐(う)て」とのたまふ。既にして共に印綬を授(たま)ひて將軍とす。


 両記事の大きな違いは二つある。一つは『古事記』の「三方」遠征に対して『日本書紀』は「吉備津彦をもて西道に遣す」を追加して「四方」遠征としている。

 もう一つは、『古事記』が「玖賀耳之御笠を殺さしめき」と侵略戦を隠そうとしていないが、『日本書紀』は、侵略には違いはないが、一応祇の教化という建前を前面に出している。「若し教(のり)を受けざる者あらば……伐て」とその教化に従わなければ武力使用も止むを得ず、という大義名分の設定である。

 ここで新たに派生してきた問題、この「祇の教化」を取り上げておこう。「祇の教化」を語っている説話が「崇記」冒頭にある。一般には「神々の祭祀」と呼ばれている。その説話は三段に分けることが出来るが、初めの二段についての分析が『日本列島の大王たち』にある。それはすでに『銅鐸圏(東鯷国)の神話(1)』で紹介しているが再度掲載しておこう。

《第一段》
此の天皇の御世(みよ)に、[亻殳]病(えやみ)多(さは)に起りて、人民(たみ)死にて盡(つ)きむと爲(し)き。爾に天皇愁(うれ)ひ歎(なげ)きたまひて、牀(かむどこ)に坐(ま)しし夜、大物主大(おほものぬしの)、御夢(みいめ)に顕(あらは)れて曰(の)りたまひしく、「是(こ)は我が御心ぞ。故、意富多多泥古(おほたたねこ)を以ちて、我が御前(みまヘ)を祭らしめたまはば、の気(け)起らず、國安らかに平らぎなむ。」とのりたまひき。是(ここ)を以ちて驛使(はゆまつかひ)を四方に班(あか)ちて、意富多多泥古と謂ふ人を求めたまひし時、河内の美努村に其の人を見得(みえ)で貢進(たてまつ)りき。爾に天皇、「汝(な)は誰(た)が子ぞ。」と間ひ賜へば、答へて曰(まを)ししく、「僕(あ)は大物主(の)大、陶津耳(すゑつみみの)命の女、活玉依毘賣(いくたまよりびめ)を娶して生める子、名は櫛御方(くしみかたの)命の子、飯肩巣見(いひかたすみの)命の子、建甕槌(たけみかづちの)命の子、僕(あれ)意富多多泥古ぞ。」と白しき。是に天皇大(いた)く歓(よろこ)びて詔りたまひしく、「天の下平らぎ、人民(たみ)栄えなむ。」とのりたまひて、即ち意富多多泥古命を以ちて主(かむぬし)と爲(し)て、御諸(みもろ)山に意富美和(おほみわ)の大の前を拝(いつ)き祭りたまひき。

〈古田さんによる分析〉
(一)
 崇神以前から、大物主大神を祭ることは禁止されていた。
(二)
祭神のとき、流行病が蔓延し、人民が死につづけていった。
(三)
 人民の中には「なぜ、何のたたりで、こんな災難がつづくのか」という疑いがおこった。
(四)
 そして「わたしたちは、久しく大物主大神を祭ることが、禁ぜられている。そのためではないか」という声が生じてきた。
(五)
 これに対して崇神側は、流行病という災害に加えて、人民の怨嗟の声を恐れ、夢枕の件を「大義名分」(トリック)として、大物主大神祭祀を解禁しようとした。
(六)
けれども、そのさいすでに大和盆地の中には、この祭祀を知る者はいなかった。なぜなら、神武が大和盆地に侵入したさい、在地の信仰(大物主大神などへの祭祀)を禁圧し、神主たちを殺し尺くし、追放し尽くしていたからである。
 故、此の如く、荒ぶる神等を言向け平和(やは)し、伏(まつろ)はぬ人等を退け撥(はら)ひ、畝火の白檮原官に坐して、天の下を治(し)らしさ。 (神武記)
とある通りである。

(七)したがって崇神側は、あらかじめ、新征服地の河内に、その該当者(意富多多泥古)を見出した上で、例の夢枕の件を発表したものと思われる(政治的トリック)。

《第二段》
又伊迦賀色許男(いかがしこを)命に仰(おふ)せて、天(あめ)の八十毘羅訶(やそぴらか)を作り、天地祇の社を定め奉りたまひき。

〈古田さんによる分析〉
(八)
 そして一方で彼をして大物主大神を祭らしめ、他方で自分の配下(伊迦賀色許男命)に自己側の天国風の祭式土器で、祭礼を行わしめたというのである。

 伊迦賀色許男命はここに一回だけ登場する人物である。崇神の母(開化の庶母)の名は伊迦賀色許賣命であるから、伊迦賀色許男命は崇神の義父あるいは義兄弟にあたると考えられる。なお、この《第二段》は『俾弥呼』でより詳しく論じられている。後ほど取り上げる。

《第三段》
又宇陀の墨坂に赤色の楯矛(たてほこ)を祭り、又大坂に墨色の楯矛を祭り、又坂の御尾の及(また)河の瀬のに、悉に遺(のこ)し忘るること無く幣帛(みてぐら)を奉りたまひき。此れに因(よ)りて[亻殳](えやみ)の気(け)悉に息(や)みて、國家(あめのした)安らかに平らぎき。

 この第三段の分析は『日本列島の大王たち』では取り上げられていない。『俾弥呼』でその分析が行われている。その〈古田さんによる分析〉は次のような序文で始まっている。御真津(みまつ)・御真木(みまき)の「みわ」は「任那」の「みわ」であり、御真津・御真木は地名に根ざした人名である、と論じた後に続く文章である。

 さらに、念を押してみよう。
 この「御真津」も「御真木」も、共に「大和(奈良県)」の中の「地名」ではないか、という「疑い」だ。一個の「地名」は必ず、他にも「複数」または「多数」ありうるのである。とすれば、右の疑いも、当然可能性があろう。
 この疑いに答えるのは、次の一文だ。

 「次の一文」とはうえに掲載した「神々の祭祀《第三段》のことである。

 右では「楯」と「矛」が〝祭祀のシンボル″とされている。「銅鐸」ではなく、「矛」が新たな「シンボル」とされているのである。

 「矛」を「シンボル」とする「祭祀圏」、それはどこか。当然「筑紫矛」の世界である。北部九州だ。「任那」は、その地帯(筑紫)の「目」で、筑紫人が呼んだ地名だ。「北方の、海辺の土地」である。やはり、崇神天皇にとっての「軍事的原点」は、この任那の要害だったと考えるほかない。

 しかも、崇神天皇が「シンボル」としたのは、「矛」だけではない。「楯」もまた「シンボル」化されているのである。

 当然ながら、「矛」と「楯」は〝一体″をなす武器だ。戦闘上、本来は〝片方″だけでは成り立ちえないものだ。すでに中国の古典『荘子』に語られている、有名な「矛盾」の説話通りだ。

 その「矛」と「楯」が、共に所々に各地に〝祭られ″たという。「銅鐸の時代」の終結である。代わって「矛盾(むじゅん)(ほことたて)の時代」へと、時代は激変したのである。それをもたらした人が崇神天皇だった。

 この結論がどうして『この「御真津」も「御真木」も、共に「大和(奈良県)」の中の「地名」ではないか、という「疑い」』の答なのか、始めて読んだ時、私にはよく分らなかった。今は次のように解釈している。

 『「任那」問題(3)』で取り上げたように「みま」は「北方の、海辺の土地」という意味の漢字表記だった。すると周囲に海がない大和にそのような地名はあり得ない。『大和には「みま」という地名はない』。これが結論だ。(今は深入りしないが、古田さんは『日本列島の大王だち』段階では『「みま」は「三輪(みわ)」などと同じく大和の中の地名』と断じていた。「任」の意味の解明によってその旧説を捨てたものと考えられる。)

 『俾弥呼』ではこの後に《第二段》への言及が続く。「任那」の「みま」が大和の中の地名ではあり得ないという新知見をふまえた論述になっている。

 「八十毘羅訶」は「八十平瓫」とされる。「祭りのための土器の一種」であろう。

 今の問題は「天(あめ。あるいは「あま」)」の一語だ。崇神の「軍事力発動」の原点、それが「海士(あま)族」の活動領域にあったこと、その歴史事実がここで明瞭に語られていたのである。

 やはり、崇神の軍事的行動の起点は、決して「大和(奈良県)」内部ではなかった。「任那から大和へ」-これが崇神天皇の軍事行動の、根本のル一トだったのである。

 以上のように、説話「神々の祭祀」も崇神の「軍事的行動の起点」は任那だと示唆している。

 さて、また『日本列島の大王たち』に戻って、「祇の教化」問題の結論を読もう。

 ここには二種類の神々の体系がある。侵入者側の神々の体系、それは記紀自身のしめしているように、天照大神を頂点とする神々の体系だ。天国を原点とする神々である。次は、被侵入者側、つまり東鯷国の中の神々の体系だ。そこ、少なくとも大和盆地では、大物主大神が頂点となっていたようである。

 「神武(第一代)→崇神(第十代)」の時代は、後者(被征服者側)の祭礼が大和盆地内では禁止されてきた。それがこの事件以後許されたのである。「天神」(征服者側=天皇家)と「地祇」(被征服者側=東鯷国)との併祀の時代が開始されたのである。

 この「天神」と「地祇」の併祀は、「併祀」と言うよりは、むしろ、共同幻想の「交換」と言うべきだろう。大嘗祭を取り上げた時に論じたように、『「征服国家は被征服国家の「共同幻想」を取り込むかあるいは自らのそれと交換するなどして、支配を貫徹する』。(詳しくは「大嘗祭とは何か(1)」)を参照してください。)