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《続・「真説古代史」拾遺篇》(43)



狗奴国の滅亡(24)
崇神記をめぐって(15)
崇神の狗奴国攻め(5)


①タケハニヤスと崇神の縁戚関係 の結論

 タケハニヤスと崇神の縁戚関係が、系譜では叔父・甥の関係なのに「崇記」では庶兄弟となっている矛盾は、私には系譜の「偽入」場所を誤ったためとしか考えられない。ヤマト王権の一族でないものを一族として「偽入」した目的は古田さんの言う通りだと思う。私なりに言い換えてみる。『古事記』は次のようなことを主張したいのだ。

 タケハニヤスは崇神の庶兄である。従ってタケハニヤスの根拠地である山城や河内はすでにヤマト王権の支配下にあった。崇神のタケハニヤスへの武力行使は侵略ではなく、タケハニヤスの反逆を鎮圧したものである。大義名分は崇神の側にある。

 この大義名分を盛り込むため行われたのがタケハニヤスのヤマト王権への系譜「偽入」であった。ところが「開化記」に「偽入」すべきところを誤って「孝元記」に「偽入」してしまった。そのために系譜では叔父、「崇記」では庶兄という矛盾が生まれた。本来の「偽入」は次のようになるはずだった。

若倭根子日子大毘毘命、春日の伊那河宮に坐しまして、天の下治らしめしき。此の天皇、旦波(たには)の大縣主、名は由碁理(ゆごり)の女、竹野比真を娶して、生みませる御子、比古由牟須美命。又河内の青玉の女、名は波邇夜須毘賣を娶して、生みませる御子、建波邇夜須毘古命。又庶母伊迦賀色許賣命を娶して、生みませる御子、御眞木入日子印惠命。次に御眞津比賣命。又丸邇臣の祖、日子國意祁都命の妹、意祁都(おけつ)比賣命を娶して、生みませる御子、日子坐王。又葛城の垂見宿禰の女、〓鸇(わし)比賣を娶して、生みませる御子、建豐波豆羅和氣。此の天皇の御子等、幷せて五柱なり。

 これなら辻褄が合う。タケハニヤスは崇神の庶兄となる。

ハニヤスヒメ===開化===イカガシコメ
        │       │
      タケハニヤス   崇神

 改めて結論を言うと、『古事記』の記述では「庶兄」は異母兄を意味する。「義兄」という解釈はできない。そして、タケハニヤスの系譜はあくまで「偽入」であって、タケハニヤスと崇神とは全く縁戚関係はない。(ただし、義兄弟であった可能性は排除できない。)

 なお、いろいろ調べていたら、宣長が「古事記伝」でこの問題を取り上げていて、「我」は「汝」の誤りという説を称えていることを知った。再度問題の記事を掲載する。

故、大毘古命、更に還り參上(まゐのぼ)りで、天皇に請(まを)す時、天皇答へて詔りたまひしく、「比(こ)は爲(おも)ふに、山代国に在るが庶兄(まませ)建波邇安王、邪(きたな)き心を起せし表(しるし)にこそあらめ。伯父、軍を興して行でますべし。」とのりたまひて、…

 この「我」を「汝」とするとこれは大毘古を指すことになる。なるほど、「孝元記」の系譜では確かにオオビコとタケハニヤス庶兄弟である。しかし、『古事記』の系譜記録は娶った妃毎に長子→末子という順で書かれているので、庶兄弟間の長幼関係は明確ではないが、一応第一妃の子が長子と考えてよいのではないか。そうだとすると、オオビコの母・ウツシコメが第一妃でタケハニヤスの母・ハヤスヒメは第三妃なので、タケハニヤスはオオビコの「庶弟」であり「庶兄」ではない。宣長説では新たな矛盾が出てきて、やはり解決しない。

「11王」問題の補充

 最後に、関連事項として垂仁の系譜を調べていて反省したことがある。前々回に取り上げた「11王」である。その中に「沙本毘古」の名があることは指摘しておいたが、「11王」がどの王を指しているのか、その検討を省略していた。その検討には大事な事柄が含まれていると思い直した。改めて「11王」の王名を確認しておこうと思う。まず、「11王」問題の冒頭部分を引用する。
「十一王」 は誰か
 決定的に重要なテーマが、古事記に現れている。第九代の開化天皇の項の「十一王」の記事である。肝心の崇神天皇(御真木入日子印恵命)をめぐる、「王」たちの存在である。

①其の兄(せ)比古由牟須美(ヒコユミスミ)王
②大筒木垂根(オホツツキタリネ)王
③讃岐垂根(サヌキタリネ)王
④日子坐(ヒコイマス)王
⑤大俣(オホマタ)王
⑥小俣(ヲマタ)王
⑦志夫美宿禰(シブミノスクネ)王
⑧沙本毘古(サホビコ)王
⑨袁邪本(ヲザホ)王
⑩室毘古(ムロビコ)王
⑪丹波比古多多須美知能宇斯(タニハノヒコタタスミチノウシ)王
⑫水之穂真若(ミツノホノマワカ)王
⑬神大根(カムオホネ)王
⑭八瓜入日子(ヤツリイリヒコ)王
⑮山代之大筒木真若(ヤマシロノオホツツキマワカ)王
⑯比古意須(ヒコオス)王
⑰伊理泥(イリネ)王―日子坐王の子、幷せて十一王
⑱曙立(アケタツ)王
⑲菟上(ウナガミ)王
⑳朝廷別(ミカドワケ)王
㉑迦邇米雷(カニメイカヅチ)王
㉒息長宿禰(オキナガスクネ)王
㉓息長日子(オキナガヒコ)王
㉔大多牟坂(オホタムサカ)王
㉕建豊波豆羅和気(タケトヨハヅラワケ)王

 「~王」の列示は、壮観である。しかし、なぜこの人々が「命(ミコト)」ではなくて「王」なのか。従来は、説明できなかった(「十一王」以外にも、「王」が連続している)。

 これに前々回掲載した引用文が続く。

 古田さんは⑬と⑭を別人のように並べているが、⑭は⑬の「亦の名」であり実際には24名となる。なお④と㉕は崇神の庶弟である。

 古田さんが「11王」と言っているのは日子坐王の子⑤~⑰を指しているようだ。しかし、⑤~⑰は、⑭は「亦の名」だから除いて、12名なのだ。「日子坐王の子、幷せて十一王」は『古事記』本文の分注であり、古田さんが間違えたわけではない。ちなみに丸山氏の『校注 古事記』ではヒメミコも含めて「15王」なっている。ヒメミコは3名(下に示す)だから、男王はやっぱり12名。些細な問題だからと、今まで誰も問題にしなかったのだろうか。

 とりあえずは「11王」で続ける。古田さんはなぜその11名だけに限って議論しているのか、なんの説明もない。推理してみよう。上の24名を親子関係が分るように、開化も加えて編成し直してみる。(青字が父親、《 》が母親、○はヒメミコ)

 まず、開化の系譜。

若倭根子日子大毘毘(開化)
《竹野比賣》
 1比古由牟須美(ヒコユミスミ)命
《伊迦賀色許賣》
 2御眞木入日子印惠命(崇神)
 ○御眞津比賣
《意祁都比賣》
 3日子坐(ヒコイマス)王
《鸇比賣》
 4建豐波豆羅和氣(タケトヨハヅラワケ)

 ①~③は第一王子・比古由牟須美の系譜。

(A)比古由牟須美(ヒコユミスミ)王
《記載なし》
 (A)1大筒木垂根(オホツツキタリネ)王
 (A)2讃岐垂根(サヌキタリネ)王

 ④~⑰は第三王子・日子坐王の系譜。いわゆる「11王」である。

(B)日子坐(ヒコイマス)王(崇神の庶弟)
《山代之荏名津比賣》
 (B)1大俣(オホマタ)王
 (B)2小俣(ヲマタ)王
 (B)3志夫美宿禰(シブミノスクネ)王
《沙本之大闇見戸賣》
 (B)4沙本毘古(サホビコ)王
 (B)5袁邪本(ヲザホ)王
  ○沙本毘賣命(亦の名、佐波遲比賣)
 (B)6室毘古(ムロビコ)王
《息長水依比賣》
 (B)7丹波比古多多須美知能宇斯(タニハノヒコタタスミチノウシ)王
 (B)8水之穂真若(ミツノホノマワカ)王
 (B)9神大根(カムオホネ)王(亦の名、八瓜入日子王)
  ○水穂五百依比賣
  ○次御井津比賣
《袁祁都比賣》
 (B)10山代之大筒木真若(ヤマシロノオホツツキマワカ)王
 (B)11比古意須(ヒコオス)王
 (B)12伊理泥(イリネ)王

 ⑱~㉔は日子坐王の子たちの系譜となる。

(B)1大俣(オホマタ)王
《記載なし》
 (B)1・1曙立(アケタツ)王
 (B)1・2菟上(ウナガミ)王

 次の美知能宇志王は一字異なる漢字が用いられているが、⑪と同一人である。⑪の母は息長水依比賣である。この後は息長帶比賣(功皇后)の系譜を挿入したものと考えられる。さらに言えば『古事記』中巻の掉尾を飾る功の子・応神の系譜を明らかにしようとした意図が見てとれる。

(B)7美知能宇志
《丹波之河上之摩須郎女》
   比婆須比賣命
   眞砥野比賣命
   弟比賣命。
 朝廷別(ミカドワケ)王

(B)10山代之大筒木眞若
《丹波能阿治佐波毘賣》
    ↓
 迦邇米雷(カニメイカヅチ)王
 《高材比賣》
     ↓
  息長宿禰(オキナガスクネ)王
  《葛城之高額比賣》
      ↓
    息長帶比賣命
    虚空津比賣命
   息長日子(オキナガヒコ)王
   《河俣稻依毘賣》
       ↓
     大多牟坂(オホタムサカ)王

 以上から古田さんが、「開化記」に「偽入」された「呉親倭国」の「王」として「11王」に限定したことには合理性があると思う。

 しかし私は開化の子とされている①④㉕も「偽入」されたもので、「呉親倭国」の「王」ではないかと考えている。どちらでも今後の議論に関係はないのだが、一応その理由を簡単に述べると次の通りである。タケハニヤスが系譜では「命」という称号で書かれていたが、「崇記」では「王」に変わっていた。①はそのケースと同じである。④は一貫して「王」である。㉕は開化の系譜では称号なしで、二回目の登場で「王」が使われている。この二例は「天皇」の子としては初めてのケースである。
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《続・「真説古代史」拾遺篇》(42)



狗奴国の滅亡(22)
崇神記をめぐって(13)
崇神の狗奴国攻め(4)


①タケハニヤスと崇神の縁戚関係 の続きの続き

 庶母を妃とする「不倫」について、〈大系〉の頭注は次のように述べている。

「上代においては、継母や異母妹との結婚は不倫とされなかった。」

 これに対して、古田さんは「神武記」の例を取り上げて反論している。神武記の系譜と「タギシミミの叛逆」については「イワレヒコから第九代まで」で取り上げているが、ここでは系譜についてだけまとめ直しておく。

**********

阿比良比賣===神武===伊須氣余理比賣
         │      │
      當藝志美美  神沼河耳

注1
 當藝志美美(タギシミミ)には同母弟(岐須美美)がいるが、『日本書紀』には記載されていない。
注2
 神沼河耳命(カムヌナカハミミ)には同母兄が二人(日子八井・次神八井耳)いる。末弟の神沼河耳命が第二代綏靖となる。
注3
 第一妃・阿比良比賣(アヒラヒメ)は神武の九州時代の妃である。つまり、タギシミミは九州でもうけた子である。
注4
 第二妃・伊須氣余理比賣(イスケヨリヒメ)の子・カムナムカハミミ等は奈良でもうけた子である。
注5
 「庶母」という用語は使われていないが、タギシミミがイスケヨリヒメを妃に迎えている。

**********

 さて、古田さんの反論は次のようである。

 右の「解説」(管理人注:〈大系〉の頭注のこと)は、疑問だ。なぜなら、

 第一、古事記の中巻冒頭に、第一代神武天皇の没後生じた、著名なトラブルがある。その発端は、神武の第二妃、近畿に来てから娶った妃、伊須気余理比貢(いすけよりひめ)を、第一妃(九州在住)の息子、當芸志美美(たぎしみみ)命が〝娶った″ことだ。「義理の母親」を「妃」としたのである。

 當芸志美美命を「庶兄」と呼んでいる。伊須気余理比賣を「嫡后」と記しているのは、第一妃(九州時代)に〝対する″表記であろう。伊須気余理比賣をもって「神武の正統の妃」と〝見立て″ているのである。

 ともあれ、神武を父とし、伊須気余理比賣を母とした三人の兄弟の中で、當芸志美美命殺害に成功した、神沼河命が第二代(綏靖天皇)を継いだ事件が、〝晴れがましく″描かれている。それを「実行できなかった」兄(神八井耳命)は、継承を辞退した、というのである。

 この〝なまなましく″古事記中巻の人代の巻に特筆大書された逸話を見れば、先に挙げたような「上代においては、継母や異母妹との結婚は不倫とされなかった。」の一文は〝空言″である。否、それどころか、「不倫の子」として生まれた「崇神天皇の一生」を〝運命づけた″「出生の秘密」、そしてそのもつ重大な意味を「歴史」の上から〝消し去ってしまう″ような「不当解説」と化しているのではあるまいか。

(細かいことだけど、「タギシミミの叛逆」は「中巻冒頭」の記事ではない。「神武記」最後の記事である。)

 古田さんの論旨は次のように要約できよう。

 カムナムカハミミ兄弟による庶兄タギシミミ誅殺はタギシミミが庶母を妃にしたことに対する懲罰である。これを『古事記』が「特筆大書」しているのは、古代においても庶母を妃にすることは「不倫」であった証拠である。

 私はこの論旨にも無理があると思う。

 私は「イワレヒコから第九代まで」で「タギシミミの叛逆」の発端を次ぎのようにまとめた。

「イワレヒコの死後、タギシミミは義母のイスケヨリヒメを娶った。そしてその后の子、つまり義理の子にして異母弟の三人の王子を亡き者にしようとした。それを知った三人の母親イスケヨリヒメがそのことを三人の王子に通報する。三兄弟は逆にタギシミミを殺そうと兵を起こした」。

 けっして、母親を娶ったことを「不倫」と咎めての誅殺ではない。タギシミミがカムナムカハミミ兄弟を謀殺しようとしたから逆に討ち取ったという筋書きは、もちろん王位継承正当化の偽装説話であろうが、タギシミミの婚姻が「不倫」なら、そのような偽装説話を作り出す必要なないだろう。「不倫」を犯したから討ち取ったと書けば済むことだ。この問題では私は〈大系〉の頭注の方を支持したい。その論拠の一つは、前回調べたこと、古事記には庶妹との婚姻記事が9件もあることである。

 ここで思い出したことがある。「允恭記」に書かれている長い説話、あの木梨の軽皇子と軽大郎女(衣通郎女)の悲劇だ。おおよそ次の通りである。(たくさんの歌の遣り取りがある。省略するが、私の好みで二つだけ残す。)

天皇崩(かむあが)りましし後(のち)、木梨之輕太子、日繼知らしめすに定まれるを、未だ位に即(つ)きたまはざりし間に、其の伊呂妹(いろも)輕大郎女に姧(たは)けて歌曰ひたまひしく、
……
笹葉に 打つや霰の たしだしに 率寝(いね)てむ後は 人は離(か)ゆとも 愛(うるは)しと さ寝しさ寝てば 刈薦(かりこも)の 亂れば亂れ さ寝しさ寝てば
とうたひたまひき。
……
是を以ちて百官(もものつかさ)及(また)天の下の人等、輕太子に背きて、穴穂御子に歸(よ)りき。…其の輕太子を捕へて…伊予の湯に流しき。
……
故、後(のち)亦戀ひ慕(しの)ひ堪(あ)へずで、追ひ往きし時、歌曰(うた)ひたまひしく、
君が往(ゆ)き け長くなりぬ 山たづの 迎へを行かむ 待つには待たじ
とうたひたまひき。
……
如此(かく)歌ひて、即ち共に自(みづか)ら死にたまひき。


 「庶妹」が異母妹を表すのに対して、「伊呂妹」とは同母妹のことである。「亂れば亂れ さ寝しさ寝てば」と、輕太子自身が同母妹との恋愛がタブーであることを承知している。その「不倫」のために百官は離反し、天下の誹りを受けたと言う。明らかに古代においても同母の兄弟姉妹の婚姻は「不倫」とみなされていたことが分る。

 「庶母」との婚姻が行われている例が中国にもあることを思い出した。則天武后だ。あの儒教の国でも「不倫」の例が堂々と記録されている。生殺与奪の権を持つ最高権力者への畏怖ゆえのためかも知れないが、ことさら咎められた形跡はない。(以下は徳間書房版『十八史略 Ⅳ』を教科書にしています。)

 .高宗皇帝、名は治、母は長孫皇后なり。承乾廃せられ、長孫無忌、力(つと)めて太宗に勧めて治を立つ。東宮に在ること七年、太宗かつて帝範十二詩を作りもって賜う。曰く、「身を修め国を治むることことごとくその中に在り。一旦不諱(ふき)なるも、さらに言うことなけん」。ここに至りで位に即く。長孫無忌・褚遂良、先帝の遺詔を受けて政(まつりごと)を輔(たす)く。李勣をもって左僕射となし、尋(つ)いで司空となす。

 永徽五年、太宗の才人武氏をもって昭儀となす。

 六年、上、皇后王氏を廃し、武昭儀を立てて后となさんと欲す。許敬宗・李義府これに賛す。褚遂良きかず。もって李勣に問う。勣曰く、「これ陛下の家事なり、なんぞ必ずしもさらに外人に問わん」。事ついに決す。

 武は高宗の父・太宗の側室であった。位は「才人」。それを高宗が「昭儀」に昇格して側室にした。このことには何の問題もなかったようだ。つまりタブーではなかったということだ。しかし、さらにそれまでの皇后を廃して武を皇后にするという問題は重臣たちの同意を必要とした。皇后を交代するというのは極めて政治的は一大変事だからだ。李勣は太宗が高宗に「宰相として重用するように」と言い残した人物である。その李勣の「これ陛下の家事なり、なんぞ必ずしもさらに外人に問わん」の一言で決着してしまったという話である。

 〈才人・昭儀〉という聞き慣れない冠位名が出てきた。次のような解説があった。

「いずれも天子の側室の官名。この時は、皇后のつぎに位するのが三妃で、以下、六儀(りくぎ)美人、才人と、側室の階級は四ランクあり、全部で二十人である。昭儀は、六儀のうちのひとり」。

 このように中国でも「庶母」を妃にすることはタブーではなかったようだ。その逆の例もある。息子の妃を父親が奪ってしまう例だ。則天武后の周が滅亡したあとの、唐の第六代の皇帝・玄宗の愛妾、あの楊貴妃がそれだ。楊貴妃は10年もの間、玄宗の息子寿王の妃であった。


四載、楊太真をもって貴妃となす。故(もと)の蜀州の司戸(しこ)玄琰の女(むすめ)なり。上の子寿王の妃たること十年。上、その美を見て、自らその意をもって乞いて女官とならしめ、かつ寿王のために別に娶(めと)り、而る後これを納(い)紺る。ついに寵を專(もっぱ)らにす。


 ついでなのでもう一つ。この楊貴妃と奸臣・安禄山の関係はとうぜん古代でも「不義密通」であり、知られれば、重罪に問われたはずだ。しかし、「知らぬは亭主ばかりなり」だったようだ。

 十載、安禄山のために第(てい)を起し、華麗を窮極(きゆうきよく)す。上(しょう)、日に諸楊をしてこれと游ばしむ。禄山、体肥大なり。上、かつてその腹を指して日く、「この胡の腹中、何のあるところぞ」。対(こた)えて曰く、「赤心(せきしん)あるのみ」。禄山、禁中に入れば、まず貴妃を拝す。上、その故を問う。曰く、「胡人は母を先にして父を後にす」。禄山が生日(せいじつ)に、賜予(しよ)甚だ厚し。後三日、召し入る。貴妃、錦綉(きんしゆう)をもって襁褓(きょうほ)をつくり、宮人をして綵與(さいよ)をもってこれを舁(か)かしむ。上、歓笑するを聞いて、故を問う。左右、貴妃が禄児を洗うをもつて対う。上、妃に浴児金銀銭を賜い、歓を尽くして罷(や)む。これより宮掖(きゆうえき)に出入し、通宵出(つうしょう)でず。すこぶる醜声の外に聞ゆるあり。上、また疑わず。

 「タケハニヤスと崇神の縁戚関係」がテーマだったのに、「庶母との婚姻」問題に長く関わってしまった。別立てにすべきだったようだ。本来のテーマについての私なりの結論は次回に書こう。
《続・「真説古代史」拾遺篇》(41)



狗奴国の滅亡(21)
崇神記をめぐって(12)
崇神の狗奴国攻め(3)


①タケハニヤスと崇神の縁戚関係 の続き

 タケハニヤスが戦死して、狗奴国軍は敗走する。その様子を『古事記』は次のように描写している。

 ここにその逃ぐる軍を追ひ迫(せ)めて、久須婆(くすば)の渡(わたり)に到りし時、皆迫め窘(たしな)めらえて、屎(くそ)出でて褌(はかま)に懸(かか)りき。故、其の地を号けて屎褌(くそばかま)と謂ふ。今は久須婆と謂ふ。
 又その逃ぐる軍を遮りて斬れば、鵜の如く河に浮きき。故、その河を号けて鵜河と謂ふなり。
 又その軍士を斬りはふりき。故、其の地を号けて波布理曽能(はふりその)と謂ふ。


 このくだりについては『ヤマト王権の近畿侵略史』:木津川の決戦で、教科書(a)段階での古田さんの解説を紹介した。教科書(c)では考察がさらに深まって、特に「くそばかま」については(a)とは異なる解釈となっているので、それを紹介する。


 そこでは、
(A)屎褌-「屎出でて褌に懸りき。」
(B)波布理曾能-「亦其の軍士を斬り波布理き。」
といった「汚ならしい〝いわれ″」が〝こじつけ″られている。もちろん「曲解」だ。

 「くそ」は〝不可思議な、古き神″だ。「奇(く)し」の「く」。「そ」は「阿蘇」「木曾」の「そ」。もっとも古い「神の呼び名」の一つである。「はかま」は〝神聖な水の出る、広い場所″の意。「は」は「茎(くき)」や「根(ね)」に対する「葉(は)」だ。「か」は〝神聖な水″。河(かは)の「か」である。「ま」はもちろん、日本語にもっとも多い接尾語。「やま(山)」「はま(浜)」などの「ま」である。大阪府枚方市の楠葉に当たるとされる。したがって「くそはかま」は〝不可思議な神による、神聖な水の出る広い場所″を指す。古い倭語だ。

 次に「はふりその」。現在でも「祝園」と書き、この〝訓み″が使われている(京都府相楽郡精華町に当たる。学研都市の在地)。「はふる」は〝神を祭る″意義。「祝」も、その意味をしめしている。「園」も、当然「古い倭語」だ。

 以上のような〝由緒ある古代倭語″地名に対し、あえて「汚濁に満ちた、侮蔑語」を〝あてはめた″のである。なぜか。

 崇神天皇「以前」には、この「建波邇安王」こそ、「正統なる王者」だった。中国風の称号である「王」を名乗っていた(「王」の問題は後述する)。

 この引用文の最後の段落の意味がとらえがたい。二通り考えられる。
(α)
 建波邇安王こそ「正統なる王者」であり、崇神「以前」にはその統治範囲に奈良盆地も入っていた。その建波邇安王を崇神が打倒して、建波邇安に代わって王となった。すなわち、崇神の叛逆である。
(β)
 崇神が征服する「以前」は建波邇安王は銅鐸圏国家の「正統なる王者」であった。奈良盆地はその統治範囲外の別勢力であった。その建波邇安王を崇神が打倒して、銅鐸圏も支配下に置いた。すなわち、崇神の侵略戦争である。

 言うまでもなく、私は今まで(β)という立場で理解していた。ところが、古田さんは教科書(c)では(α)と考えているのではないかと思われる個所がいくつかあるのだ。上の引用文の続きを読む前に、(「王」の問題は後述する)とある『「王」の問題』を取り上げておこう。

 「孝元記」の系譜ではタケハニヤスは「建波邇夜須毘古」と表記されている。この表記はここだけであり、その後の「崇神記」では「建波邇安」と表記されている。

 綏靖~孝元までの系譜では男子は全て「命(みこと)」という称号が付けられている。これが「開化記」になると崇神(御眞木入日子印惠命)以外の11人の男子は全て「王」という称号になっている。「開化記」以降にも「命」とともに「王」が連続して使われている。(教科書(c)P.307~308に「孝元記」の読み下し文が引用されているが、「開化記」の文章が混入している。P.307の後から4行目の下から5字目以降「次ぎに…」は全て「開化記」の文章である。1ページ飛ばして転記してしまったようだ。)

 なぜ「命」ではなく「王」を称号に持つものがいるのだろうか。〈大系〉の頭注がこの問題についての本居宣長の文章を紹介している。

 さて御代々々の皇子たちの御名、此より前は、此記にも書紀にも、みな某命とのみあるを、此に始て二記共に、王とあるは、某王と申すは、実に此王より始まれるか。はた某命と申し、某王と申すは、後の伝説のうヘの異のみにて、本より此異あるに非るか。慥には定めがたし。

 さて記中、王字を書るは、何れもみな美古と訓べし。

 この宣長の主張に従ったのであろう、〈大系〉は「王」を「みこ」と訓じている。この宣長のお手上げ的な判定に対して、古田さんは次のように批判し、「王」問題の考察を進めている。

 要するに、「命」とあっても、「王」とあっても、共に「ミコ」と訓めばいい。そういうのである。大変、〝楽(らく)な″結着点だけれど、本当の説明にはなっていない。わたしには、そう思われる。では、その〝真相″は何か。

 第一に、「王」というのは、東アジアでは、中国の王朝、その天子の配下の称号である。三国時代には「魏」「呉」「蜀」の三国の天子がそれぞれの配下に「大王」や「王」を〝もっていた″のである。

 第二に、したがって右の「崇神前後」の「王」は、魏朝にあらずんば、呉朝の配下の「王」である。先述の「大倭」のような称号は、いわばこの「魏朝の配下の『王』」に当たる存在であろうけれど、特別に、魏朝より「~王」を賜わった形跡はない。

 第三に、これに対し、右の「11王」などの場合、「呉朝の配下」において「王」を名乗っていたものではあるまいか。崇神自身は「魏朝側にいた」ため、あえてこの「~王」を名乗っていないのである。もし、「魏朝の任命下の『王』」であれば、当然「倭人伝」に表記されたことであろう。崇神の初期は、俾弥呼の時代に属していた可能性が高い。壱与の時代とは、必ず〝対応″しているからである。

 第四に、その点、右の「11王」たちは、「呉朝の配下の『王』」を〝名乗っていた″のではあるまいか。それが「崇神による討伐挙兵」の大義名分、少なくとも「挙兵の口実」とされたのではあるまいか。

 第五に、右のような状況は、当然、「呉朝の滅亡」(280)をもって終結した。その後に現れている「王」は、当然「呉朝」ではなく、「西晋朝」や「東晋朝」、さらに「南朝劉宋」などの南朝側の「配下」としての称号であろう。この点、次の項で詳述する。

 ともあれ、この「王」称号のテーマは、見逃がせぬ重要性をもつ。わたしにはそう思われるのである。

 「崇神前後」の時代では「王」称号を持つものは「呉親倭国」の支配者であると言っている。「11王」の中にはあの銅鐸圏(狗奴国)最後の王・沙本毘古王の名が見える。

 「親魏倭国」の支配者は魏から「王」の称号を得ていない。称号に「命」を持つものは「親魏倭国」の支配者とみなすことができる。「崇神記」冒頭の系譜記事では男王7名全て「命」である。「垂仁記」では男王13名中、先の8名が「命」で後の5名が「王」である。「命」と「王」を併用しているが、はっきりと前後に分けられている。(「景行記」以降は「混在」になる。)

 以上のように、「崇神前後」の時代(「開化」~「垂仁記」)の「王」は銅鐸圏の系譜から「偽入」であることがあからさまに示されている。私は古田さんによる「王」問題の解明を正解だと思う。ただし、この結論からはまだ「(α)か(β)」の決着を付けることは出来ない。いまだどちらにも可能性が残されている。(なお、「この点、次の項で詳述する」とあるが、これについては必要になったときに取り上げることにする。)

 さて、最初の引用文の続きは次のようである。
 「是に国夫玖(くにぶく)命の弾(はな)てる矢は、即ち建波邇安王を射て死にき。」庶母による「不倫の子」は、機をえて果断に行動し、運命を逆転させた。その「名」の通り、恵まれた第一歩を進みはじめたのである。不遇と逆境によって、かえって鍛えられていたのであろう。

 三世紀後半、日本列島の西部から中央部にかけて生じた、画期をなす事件だった。それを「空白部」によって「予告」したもの、それが倭人伝がしめす姿、その〝内蔵する″史料性格なのである。

 「その名の通り恵まれた第一歩」というくだりには説明が必要だろう。孝昭と崇神は和風諡号に「御真」という共通文字を持つこと、そしてそれが任那の「みま」であることを「崇神の和風諡号 」で論じたが、孝昭と崇神にはもう一字「惠」という共通文字がある。

孝昭…御眞津日子訶惠志泥命
崇神…御眞木入日子印惠命

 この「惠」について古田さんは次のように解釈している。

 この「恵」は「え」ではなく、「ゑ」の「もと字」として有名だ。「恵」の草書体が「ゑ」となったのである(広辞苑)。

 「知恵(ちゑ)」は、仏教語だ。もちろん、ここでは「仏教語」として用いられているわけではないけれど、親(名付け親)の「子」を思う、「幸あれ」「恵まれてあれ」といった〝願い″の表現と見て、まちがいはないであろう。この「恵(ゑ)」字を、両者(孝昭と崇神)は〝共有″しているのである。

 「その名の通り恵まれた第一歩」はこの解釈をふまえた文言だった。

 もう一つ、この引用文で古田さんは崇神を「不倫の子」と呼んでいる。そしてその「不遇と逆境」が崇神の原動力であったと言う。これについては私には異論がある。少し長くなりそうなので次回に論じよう。
《続・「真説古代史」拾遺篇》(40)



狗奴国の滅亡(21)
崇神記をめぐって(11)
崇神の狗奴国攻め(2)


 いまテーマにしている「崇神の狗奴国攻め」(大和盆地外への侵略戦争)を取り上げている古田さんの著作は、私の蔵書の中では次の三冊である。

(a)『日本列島の大王たち』(朝日文庫版)
(b)『ここに古代王朝ありき』(ミネルヴァ書房復刻版)
(c)『俾弥呼』(ミネルヴァ書房)

 『ヤマト王権の近畿侵略史』:木津川の決戦を書いたときには手元には(a)しかなかったので、(a)を教科書とした。(a)と(b)の崇神の業績についての論考には大きな違いはない。初版は(b)の方が新しいので、今回は(b)を用いることにする。

 (c)には(a)(b)ではなかったか、あるいは簡単に触れられていた事項に詳しい論考が追加されている。その新しく追加された論考の検討をしながら議論を進めて行こうと思う。(a)(b)での論旨を要約したものが(b)にあるので、それを元に始めよう。

(1)
 大和に蟠鋸していた豪族たる崇神と、河内・山城を勢力圏とする豪族タケハニヤスとは、「政略結婚」の縁戚関係にあった。
(2)
 すなわち、両者は義理の兄弟(崇神が弟、タケハニヤスが兄)の関係を結んでいた(両勢力の平和関係の設定)。
(3)
 そのあと、崇神は東方・北方を政略と軍略で抑え、タケハニヤスを「包囲」する体勢をとった。
(4)
 崇神の「挑戦」をうけたタケハニヤスは、山城に軍をすすめ、崇神側の軍と対戦し、撃破され、敗死した。
(5)
 山城・河内は崇神の勢力圏に入ったが、肝心の淀川西岸(摂津)は、依然、いまだ手中には入っていない。

 以上が、崇神の戦略の成果であった。 ― まだ最後の制覇には至っていないものの、天皇家は、はじめて〝大和を出て″大和外に新征服地をえたのである。
 崇神の画期的な業績は、ここにあった。

(1)(2)について
 (a)(b)では「両者は義理の兄弟(崇神が弟、タケハニヤスが兄)の関係」としているが、(c)ではこの点が曖昧になっている。私は『「ヤマト王権の近畿侵略史」:木津川の決戦」ではこの問題には深入りしなかった。改めて
①タケハニヤスと崇の縁戚関係
について検討したい。
 これはまた次の問題と関わってくる。つまり、(a)(b)ではタケハニヤスを銅鐸圏内の国の王、今の私(たち)の認識では狗奴国の王という設定である。(c)ではどう扱っているのか。この問題についての古田さんの文章には分かりにくい所があって、私には二通りに読めてしまうのだ。そのためこの2・3日、私はこの問題を考えあぐねていた。問題①は「タケハニヤスとは何者か」と言い換えてもよい。

(3)について
 (a)(b)では崇神の出陣地は大和盆地と想定している。これに対して(c)では
②崇神は任那から出陣する。
 前回に私は「本国からのゴーサインも得た上でのことだったろう」と書いた。明記しなかったけれども、当然崇神は任那から出陣したと考えていた。
 また②と関連して
③「三方か、四方か」問題。
がある。どういう問題かというと、『古事記』では崇神軍は三方面に出陣するが、『日本書紀』では四方面である。(c)ではこの問題が取り上げられている。

①タケハニヤスと崇の縁戚関係

 「孝元記」のタケハニヤス・崇の関係を示す系図を(b)から転載する。

タケハニヤス系図

 タケハニヤスは孝元と河内の青玉の娘との間の子として「孝元記」の系譜にはめ込まれている。ところで「崇記」には次の一文がある。

故、大毘古命、更に還り參上(まゐのぼ)りで、天皇に請(まを)す時、天皇答へて詔りたまひしく、「比(こ)は爲(おも)ふに、山代国に在る我が庶兄(まませ)建波邇安王、邪(きたな)き心を起せし表(しるし)にこそあらめ。伯父、軍を興して行でますべし。」とのりたまひて、…

 上の系図に見る通り、大毘古は確かに崇の伯父である。一致している。タケハニヤスについては「崇記」では「庶兄」となっているが系図では叔父である。矛盾している。この矛盾を古田さんは(b)で次のように解いている。

 「庶兄」という場合、たとえばタケハニヤスは、崇の姉の夫といった場合、またはタケハニヤスの妹を崇の妃の一人としていた場合、などだ。

 これらは、各豪族間の政略結婚の結果、成立していでも不思議はない。右の説話内容は、そのような関係を予想させるのである。

 ところが、これと矛盾する系譜関係、これは「系譜関係」が正しく、説話の「庶兄」云々が後世の竄入(ざんにゅう) ― こういう判断ができるだろうか。無理だ。なぜなら、その場合、系譜関係に合わせて「叔父」といった表現にするはずだ。これをわざわざ「庶兄」とすべきいわれはないのである。したがってこの場合もやはり、先の大国主神の場合と同じく、タケハニヤス王を天皇家の系譜内にはめこんだために生じた矛盾ではないだろうか。こうすれば、〝山城や河内はすでに天皇家の支配下にあり、タケハニヤスは反逆し、鎮圧されただけだ″。そういう体裁がとれるからである。少なくとも、このような「系譜偽入」は、天皇家にとっての利益を十分にもっているのだ。そのさい、不幸にも(われわれには幸いにも)説話はそのままにしておかれたのである。

 〝そんな不手ぎわのままに、作者がしておくものか″。そう難ずる人は、先の「大国主神」の先例をふりかえっていただきたい。あれほど説話に明記された「スサノオ・大国主神の同時代性」の事実と矛盾する形で、平然と、大国主神の祖神の系譜を「偽入」し、しかも説話関係はそのままにしていたのである。

 ここで私は「庶兄=義兄」と解釈していることに引っかかった。「庶兄」はどの辞書を調べても「腹違いの兄」あるいは「妾腹の兄」である。もしかすると、古代(『古事記』)では「庶兄」を「義兄」の意味で使っていたのだろうか。『古事記』での「庶」の使われ方を調べてみた。

庶兄弟(ままあにおと)…一例だけ
 「根国訪問」の段に一例。〈大系〉の頭注通り「腹違いの兄弟」としか考えられない。

庶兄(まませ)…二例
 庶兄建波邇安王のほかに庶兄當藝志美美命がある。あの「タギシミミの反乱」説話である。タギシミミの場合は明らかに「腹違いの兄」である。

庶母(ままはは)…一例
 「開化記」の庶母伊迦賀色許賣命。上の系図中のイカガシコメだ。「義母」ではなく文字通り「ままはは」だ。

庶妹(ままいも)…九例
  全てを書き出さないが、どれも婚姻記事で使われている。系譜を調べると、一名だけ「記紀」のどちらの系譜にも登場しない庶妹(景行記倭建命の子孫」の段の庶妹銀王)がいるが、他は全て確かに「腹違いの妹」であった。

 古田さんの「タケハニヤス王を天皇家の系譜内にはめこんだために生じた矛盾」という判断は正しいと思うが、タケハニヤスの場合だけ「庶兄=義兄」とする解釈は受け入れ難い。文字通り「腹違いの兄」としか解釈できないのではないだろうか。

 では、もし私の判断が正しいとすると、タケハニヤスは何者なのか。
《続・「真説古代史」拾遺篇》(39)



狗奴国の滅亡(20)
崇神記をめぐって(10)
崇神の狗奴国攻め(1)


 現在、考古学による古代の時代区分は縄文―弥生―古墳と命名されている。土器による命名と権力者の墳墓による命名が混在しているのだ。

 縄文時代は氏族的な共同体の指導者を権力者と呼ぶのは当たっていないように思うが、一応権力者とすると、縄文時代の墓には権力者と一般民衆とに大した差はなかったと考えてよいだろう。権力者の墓の形式も「墳墓」ではなく地中に埋める普通の埋葬墓だったろう。従って「縄文」に代えて、時代区分名を権力者の墳墓による命名にすることは意味がない。それぞれの時代の特徴を土器の形式に求める「縄文―弥生」という時代区分はそれなりに有意義だと思う。(「縄文」が土器の特徴をとらえた命名であり、「弥生」が土器初出地・東京都文京区弥生町からの命名であるというチグハグさがあるが、その問題は今は置く。)

 しかし、「弥生―古墳」という時代区分には誰しもが違和を感じるだろう。これを権力者の墳墓の特徴によった命名に統一するとしたらどう命名したらよいだろうか。

卑弥呼以て死す。大いに冢(ちょう)を作る。〈魏志倭人伝〉

 そう、弥生時代の権力者の墳墓は「冢」だった。ついでなのでちょっと寄り道。『漢語林』によると

【冢】
①つか。大きい墓。
②おか(丘)。
③やしろ(社)。もり土をして神をまつる場所。 ④大きい。 ⑤長子。嫡子。
 《異体》〔塚()〕は俗字

 「冢」という私(たち)にとってはなじみのない言葉ではなく「塚」を用いて「大いに塚(つか)を作る」と言い換えれば、この文字の意味からだけでもあの巨大な箸墓を俾弥呼の墓に比定する説がいかに見当外れな愚説であるかが分る。

 本道に戻る。

 「弥生」に代わる最も適切な時代区分名として、古田さんは「古冢」を提案している。(『ここに古代王朝ありき』)

物事を歴史的に順序立てて考えてゆこうとするなら、土器は土器だけで、墓は墓だけで、それぞれ編年し、体系づけるのが妥当だということ、このことに関しては、およそ考古学者であろうとなかろうと、反対する人はないであろう。

 では、今の問題、いわゆる「弥生時代」は、権力者の墓の形式から言うと、どう呼んだらいいか。 ― わたしはこれを「古冢(こちょう)時代(=古塚時代)」と名づけたい、と思う(塚は冢の俗字)。

 その理由はすでにのべたところで明瞭だ。この時代には、まだ次の「古墳時代」のような、大がかりな「墳墓丘陵」の造成には至らないものの、かなりの副葬品をもつ棺(甕棺など)が地中に埋納され、その上に小規模な「封土」がおかれていた。すなわち「冢」である。したがって「古墳時代」に準じて、これを「古冢時代」と呼ぶのである。

 約100年にもわたって流布されてきた「弥生―古墳」に代って「古冢―古墳」が定着するのは容易なことではないだろうが、多くの場面で使われることが肝要だと思う。私は以後は「弥生」代えて「古冢」を用いることにする。

 さて、古冢時代の最大の政治勢力は北九州にあったことは私(たち)にとっては周知の事柄だが、その証拠を鉄器の出土数で再確認しておこう。

(次の図表は『日本古代新史』より転載しました。)

古冢期の出土鉄器分布表

 ここで用いている図表の数値は、その後の発掘調査などの進展により現在明らかになっている数値とは多少の違いがあるかも知れない。しかし、その基本的な傾向には変わりはない。どの出土品も岡が圧倒的に多い。権力の中心が北九州にあったことが一目瞭然である。

 上の表の武具数を地図上に記入したものが次の図である。(『「邪馬台国」論争は終わっている。(7)』で掲載したもの。)

鉄器出土全分布図
鉄器分布図

 さらにその武具数中の大型鉄器数(上の表にはない)を記入したものが次の図である。

大型鉄器(武具)出土分布図
大型鉄器出土分布図
大型鉄器分布図

 上の二つの図で特に注目すべきは奈良からの出土がゼロであることだ。さらにもう一つ、近畿では兵庫・大阪に集中している。そこは銅鐸文化圏の中枢地区だ。近畿において圧倒的軍事力を誇っている。ここ銅鐸文化圏の中心になっている国が狗奴国である。

 以上の状況は古冢時代のヤマト王権には単独ではとても狗奴国に太刀打ちできないことを如実に物語っている。そのヤマト王権が古墳期に入って、狗奴国を滅亡に追いやるほどの力を手に入れた。その秘密は崇神が任那の防御施設(城塞)の将軍に任命されたことにある。その職を完遂するためには、本国(九州王朝)からの武器の援助があっただろう。また、任那の近隣には良質の鉄を産する国々があった。その国々との交易で武器を入手した可能性もある。この点からも崇神の和風諡号の「みまき=任那の要害」という解読が有意義であることが分る。

 期は熟した。本国からのゴーサインも得た上でのことだったろう。崇神の狗奴国攻めが始まる。
《続・「真説古代史」拾遺篇》(38)



狗奴国の滅亡(19)
崇神記をめぐって(10)
崇神の活動時代(2)


 文献上で手掛かりになる史料は〈大系〉「崇神記」に分注として記されている崩御記事だけのようだ。「戊寅の年の十二月に崩りましぬ。」と書かれている。しかし、この分注は安麻呂が本文中に付したものではなく、古写本の書き手が書き入れた傍注だという。これと同種の崩御記事が付されている天皇は33人中15人いる。この分注について本居宣長は「古事記伝」で次のように述べている。(〈大系〉補注からの孫引きです。)

 抑如此くなる細注、此より次々の御世の段にも、往々あり。下巻なる御世々々には、無きは少し。(管理人注:下巻18人中11人)

 さて此はみな後に書加へたる物ぞとは、一わたり誰も思ふことなれども猶熟思ふに、是も甚古き事とぞ思はるる。其故は、何れも其干支年月、皆書紀に記せると異なり。ただ下巻の最末に至りてのは、書紀と合へり。(注:推古・崇峻・用明・安閑のケース)

 若いたく後世の人の所為ならむには、必書紀の年紀に依てこそ記すべきに、彼紀と同じからざるは、必他古書に拠ありてのことと見えたればなり。

(中略)

 故思ふに、若くは安麻呂朝臣の、一書に拠て、自書加へられたる物にもあらむか。たとひ彼朝臣には非ずとも、必古き世の人のしわざにてはあるべし。然れども今これを取ざる故は、稗田老翁が誦伝へたる、勅語の旧辞には非じと見ゆればなり。

 「他古書に拠あり」と判断しているにもかかわらず、「稗田老翁が誦伝へたる、勅語の旧辞には非じ」と採用していない。この不採用の理由の文章は分りにくいが、「本文中の文章ではなく書き加えられた傍注である。つまり稗田阿礼が記憶していたものではないので採用しない」という意であろう。

 丸山林平編「校注 古事記」(底本:訂正古訓古事記)や検索用に利用しているネット上の「古事記 原文」(皇典講究所『校定古事記』)にはこの崩年分注はない。崩年分注を採用した〈大系〉の原文脚注は「底・延にはこの種崩御の干支年月日の分注をすべて削除しているが、諸本に従う。」と説明している。これによると「底(本)」(訂正古訓古事記)と「延」(渡会延佳鼇頭古事記)以外の古写本にはこの傍注があるらしい。「底」は宣長の古事記伝に依拠した校本だから当然崩年分注はない。「延」は元禄時代に完成した校本というから「底」より100年ほど前のものであるが、丸山氏は「ようやく古事記の善本を見得るに到った」と評価してる。厳密に原文だけに従い、古写本の書き込み注は採用しなかったようだ。

 〈大系〉はこの崩年傍注を本文の分注として取り込んだわけである。もちろん単なる多数決で決めたわけではあるまい。宣長と同じく「他古書に拠あり」との判断であろう。

 ここで義母の遺品の中に通信講座「日本古代の謎」(水野祐著)があるのを思い出した。それを取り出してみた。全7册もあり、かなり詳しい解説をしている。「井の中」学者の例にもれず神武~開化は架空、初代天皇は崇神としている。その論拠の一つとして今問題にしている分注を取り上げ詳しく論じている。

 水野氏は、推古の崩年戊子(628年)は『古事記』と『日本書紀』とで一致しているので疑問の余地はないとする。そして、これを基準に逆算して、15人の天皇の崩年の「干支→西暦」換算を行っている。それを拝借する。ついでなので崩年分注のない天皇も加えて、『日本書紀』の崩年を後に付け加えた。

   古事記	日本書紀
推古 戊子628 	628
崇峻 壬子592 	592
用明 丁未587 	587
敏達 甲辰584 	乙巳585
欽明		辛卯571
宣化		己未539
安閑 乙卯535 	535
継体 丁未527 	辛亥531
武烈		丙戌506
仁賢		戊寅498
顕宗		丁卯487
清寧		甲子484
雄略 己巳489 	己未479
安康		丙申456
允恭 甲午454 	癸巳453
反正 丁丑437 	庚戌410
履中 壬申432 	乙巳405
仁徳 丁卯427 	己亥399
応神 甲午394 	庚午310
(神功)   	己丑269
仲哀 壬戌362 	庚辰200
成務 乙卯355 	庚午190
景行		庚午130
垂仁		庚午70
崇神 戊寅318 	辛卯前30


 『日本書紀』の示す5世紀以前の実年代はまったく信用できないことが分る。それに対して『古事記』の崩年分注はとてもまともに思える。水野氏もこの実年代の比定について次のように述べている。

 『日本書紀』の紀年とは大きな年代の誤差が生じます。しかし、これで得られた年数は、実年代に近い数値と思われるだけでなく、実際、個々の史実の年代と照合してみても、事実と合致する場合が多く、非常に信頼度が高いと思われるのです。

 私はこの評価を妥当だと思っている。「個々の史実の年代と…合致する」例が挙げられていればさらによいのだが、それは見あたらない。自分で例を挙げられればよいのだが、今の私にはその用意がない。この崩年分注が信頼できるという仮説で進めよう。

 崇神の崩年は318年となっている。「定説」では前期古墳時代を4世紀初頭~5世紀初頭と考えているようだ。行燈山古墳が崇神の陵墓だとすると、崇神の活動時代は4世紀前半~4世紀中頃となろう。この「定説」の場合は崩年318年との整合性がない。しかし、前回の私(たち)の結論、「崇神の活動時代は3世紀後半」とは整合する。私としては崇神の崩年318年を採用して、崇神の活動時代は「3世紀後半から4世紀はじめ」と修正したい。

 なお、水野氏は『古事記』に崩年干支のない天皇を全て架空の天皇としている。「神武~開化」架空説についてはこれまで何度もその非を述べてきた。垂仁以降の架空説については必要が出てきたときに検討してみたいと思っている。
《続・「真説古代史」拾遺篇》(37)



狗奴国の滅亡(18)
崇神記をめぐって(9)
崇神の活動時代(1)


 前回引用文の要旨は次のようであった。

 呉王朝の滅亡(280年)により「倭国内の一大変動」が決定的となり、「親呉派」倭国の没落が始まった。それは崇神の活動時代と重なる。

 つまり古田さんは280年前後が崇神が活躍した時代だと言っている。ではそう断じる根拠は何だろうか。これが今回のテーマです。

 崇神の時代について、古田さんは次のように述べている。

 俾弥呼は3世紀前半の女王である。崇神は3世紀前半から後半にかけて、「俾弥呼と壱与の時代」にその活躍の時代が当たっている。

 かつて「古墳時代」は4世紀はじめ以降とされていた。しかし、現在は3世紀前半、「200~250」の間にあるとされた。「C14」の成果である。

 したがって崇神の初期は、俾弥呼の「晩年」に当たる。崇神は、呉の孫権の時代から呉の滅亡に到る「激動の三世紀後半」を、主たる活躍時期とした、出色のヒーローだったのである。

①前期古墳時代の始まりを「200~250」としている。②そして前期古墳時代が崇神の「主たる活躍時期」と言っている。

 ②については異議はない。①を検証してみよう。

 前期古墳は三輪山山麓に突如として発生した。次のような古墳群である。(以下は(森浩一『天皇陵古墳』による。)

前期古墳分布図

箸墓古墳(墳長280メートル)
 「崇神紀」10年9月条により倭迹迹日百襲姫(やまとととびももそひめ)の墓とされている。箸墓古墳は「天武紀 上」に「箸陵」と表記されている。このことから箸墓古墳を崇神陵とする説もあるようだ。いまだに性懲りもなく俾弥呼の墓だと主張する学者がいる。

西殿塚(にしとのづか)古墳(墳長219メートル)
 現在、手白香(たしらか)皇女の衾田(ふすまだ)陵に比定されている。手白香は継体の妃。

メスリ山古墳(墳長230メートル)

桜井茶臼山古墳(墳長208メートル)

渋谷向山(しぶたにむかいやま)古墳(墳長300メ一トル。)
 崇神陵に比定されていたが、1866年に景行陵に改定された。

行燈山(あんどんやま)古墳(墳長242メートル)
 上と同様、景行陵から崇神陵に改定された。築造時期は「前期後葉の前半」とされている。「定説」では古墳時代は4世紀から始まることになっているから、「前期後葉の前半」とは4世紀の中頃を指していると考えてよいだろう。

 細かい点で異論があるようだが、上の順序は築造順を示しているらしい。これによると大古墳では箸墓古墳が最も古いとされているようだ。

 古墳埋葬者の比定は本格的な発掘が行われない限り確定的な比定とは言えないだろう。上の順序が正しいとすると崇神陵より景行陵の方が早いことになる。宮内庁による比定は全く当てにならない。しかし、これらの古墳が同時期のものであるという一点には異論はないだろう。

 次ぎに、古田さんが「C14」と言っているのは、言うまでもなく「炭素14年代測定法」(あるいは「放射性炭素年代測定法」。以下古田さんに倣って「C14」と略記する)のことである。「C14」が信頼性の高い測定法であることは『「炭素14年代測定法」について』で述べた。

 では前期古墳群の築造時期はいつ頃なのだろうか。古田さんは「200~250」と推定しているが、実はもう少しはっきりした測定値がある。

 2009年5月31日のことである。
『箸墓古墳の周壕築造直後の土器を「放射性炭素年代測定法」によって測定した結果、240~260年代と推定された。』
という調査結果が日本考古学協会総会で発表された。「C14」を信頼できないと言っている学者が自説に都合の良い測定値だけは臆面もなく採用する。箸墓を俾弥呼の墓と考えている学者が「時期が一致し、卑弥呼の墓の可能性が極めて高くなった」などとコメントしていた。(詳しくは『あいかわらず破廉恥な考古学会』を参照してください。)

 前期古墳群の分布図を見ると、小古墳がかなりある。その中には箸墓古墳より古いものがあるかも知れないが、箸墓古墳が最も古いとすると、古墳時代のはじまりは古田さんの「200~250」の後の方をとって「250年頃」とするのが妥当ではないだろうか。崇神の活動時期が「激動の3世紀後半」ということには変わりはない。

 考古学上の成果を論拠に崇神の活動時期を比定したが、文献上にその根拠はないのだろうか。
《続・「真説古代史」拾遺篇》(35)



狗奴国の滅亡(16)
崇神記をめぐって(7)
3世紀後半~4世紀前半の倭国


 倭人伝の冒頭の記事は次のようだった。

倭人は帯方の東南大海の中にあり、山島に依りて國邑をなす。旧(もと)百余國。漢の時朝見する者あり、今、使訳通ずる所三十國。

 ここに記録されている「百余国→三十国」という国数の変化を政治的併合の結果と考える説が一般のようだ。私もかつてはそう考えていた。「旧(もと)百余國」という文言と、倭人伝中の次の記事がそれを裏付けてる叙述と考えたのだった。

その國、本また男子を以て王となし、住まること七、八十年。倭國乱れ、相攻伐すること歴年、乃ち共に一女子を立てて王となす。名付けて卑弥呼という。

 これに対する古田さんの見解は次のようである。

 俾弥呼出現の段である。この「7・80年」は「二倍年暦」だから、実際は「35ないし40年」だ。これは「男王の在位期間」であり、いわば「安定期間」である。そのあと、倭国が乱れ、「相攻伐した」というのは、「歴年」のこと。「歴年」とは〝不定の表現″だが、その間に、一挙に「国家統合」がすすんだ、とするのは、無理だ。少なくとも「描写欠落」である。

 言われてみればその通りである。以前紹介した古田さんによる「『魏志倭人伝』の和訳文(2)」では「暦年」を「7,8年」としている。妥当な数だと思う。俾弥呼を擁立することによって「相攻伐」が終止した。「百余国→三十国」という激変はあり得ないだろう。それに冒頭の記事を注意深く読めば、30国は「使訳通ずる所」の国と明記されている。倭国の全国数を指しているわけではない。朝貢してきた国だ。この30国は100余国の中の30国なのだった。いわば「親魏倭国」なである。当時の倭国内の国々は中国に対する外交姿勢という点で、次の三種類に分れていたと考えられる。

(1)「親魏倭国」派。30国。
(2)「親呉倭国」派。主に銅鐸圏の国々。
(3)「中立倭国」派。大多数。

 (1)の30国はすべて銅剣・銅鉾・銅戈圏(以下、「銅鉾圏」と略す)の国々だろう。東鯷国については私は古田さんの旧説の方を正しいと考えているので、(2)の「主に銅鐸圏の国々」とは、漢書の次の記事により、20余プラスX国となる。銅鐸圏の中心となる国はもちろん狗奴国である。

会稽海外、東鯷人有り、分かれて二十余国を為す。歳時を以て来り献見す、と云う。(呉地)

 この倭国の政治地図は呉の滅亡によって大激変を余儀なくされる。しかし、呉朝滅亡前後の倭国記事は欠落している。

 呉の滅亡は280年(太康元年・呉の天紀4年)のことである。それ以前の最後の倭国記事は、倭人伝ではあの壹与の貢献記事になる。

壹与、倭の大夫率善中郎将掖邪狗等二十人を遣わし、政等の還るを送らしむ。因って臺に詣り、男女生口三十人を献上し、白珠五千孔・青大勾珠二枚・異文雑錦二十匹を貢す。

 倭人伝には壹与貢献の年は記録されていない。推測してみよう。

 倭人伝で確認できる最後の年は247(正始8)年である。女王国と狗奴国との抗争の仲裁に張政が来国した年である。その後の倭人伝の記事は「俾弥呼の死→男王擁立→国中服従せず、相誅殺千余人→壹与擁立→乱収束」と記録し、壹与貢献の記事で終わる。

 岩波文庫版の注によると『北史』に「正始中、卑弥呼死す」と書かれていると言う。正始は240年~248年だから、、俾弥呼の死は247年か248年ということになる。その後の乱は「相誅殺千余人」というのだからそう長く続いたとは思われない。俾弥呼擁立のときの「倭國乱れ、相攻伐すること歴年」という前例から推して、その時より早めに手が打たれたのではないか。長くとってもせいぜい5・6年くらいか。壹与擁立には当然張政が深く関わっていた。張政とともに魏朝に向かった遣使の目的は、壹与の王位継承に魏王からの正式な承認を得るための挨拶だったと考えられる。だとすると、壹与の貢献は遅く見積もって254年頃となる。まだ魏の時代である。魏からの使者・張政の帰国を送る時の貢献だから当然と言えば当然の結論だ。

 なぜこのような細かいことにこだわったかというと、古田さんが倭人伝の壹与貢献を266年のこととしているので「はてな?」と思い、そこで筆が止まってしまったのだった。266年の根拠を知りたいと思った。「神功紀」66年条(全文が分注)に次のように記されている。

〈是年、晋の武帝の泰初二年なり。晋の起居の注に云はく、武帝泰初二年十月に、倭女王、譯(やく)を重ねて貢献せしむといふ。〉

 基礎知識不足のまま、古代史を記述している(というより学習している)ので、未だに始めて知る事があって、我ながらあきれる。〈大系〉は「晋の起居の注」と読み下しているが、これは原典を示す語句で『晋書』起居注と言うらしい。「起居注」という言葉には始めて接する。ネット検索で調べてみた。いろいろあったがHP「國立故宮博物院」の説明を拝借した。

 「起居注」とは官名で、起居注官が皇帝の言行を記録した档冊を「起居注冊」といい、一種の日記に似た史料である。この種の記録文書はかなり早い時代から見られ、周代にはすでに左史、右史という職位があり、漢武帝の時代には「禁中起居注」、唐代には「創業起居注」があった。

 ここでまたまた「?」。「档」という字を始めて見る。辞書を引いたが手元の2冊(『漢語林』『漢和大字典』)にはない。「手書き文字入力」をしてみたら第二種漢字としてとして登録されている。音は「トウ」。一般の漢和辞典に掲載されていないのはこの漢字を用いる日本語がないからだろうか。『諸橋大辞典』でも引かなければダメなようだ。明日図書館に、と思ったが、ここで息子が使っていた『中日辞典』(小学館)があることを思い出した。ありました。次のようです。

漢字「档」の意味

 余分なことに時間をかけてしまった。本論に戻ろう。

 一般には「起居注」を用いて正史を編纂するのだろう。『晋書』にはその「起居注」そのものが掲載されているということだろうか。ともかく『晋書』起居注に、266(秦始2・呉の宝鼎元年)年に倭の女王が朝貢した、という記述があった。これを古田さんは倭人伝の壹与朝貢と同じ朝貢の記事としたのだった。もしそうだとすると、もう一つ問題がある。魏の吏官である張政はそのまま晋の吏官に任官されたのだろうか。また、張政の来国は247(正始8)年だから、張政は20年も倭国に滞在したことになる。こんな長期の滞在は考えがたい。

 上に述べたように、私は倭人伝の壹与朝貢記事はこれより10年ほど前と考えているので、『晋書』起居注の朝貢記事はそれとは別だと考える。中国での政権が魏から晋に移ったので、壹与は改めて晋に朝貢したのだろう。しかしどちらの説を採っても、以下の議論には支障はない。呉朝滅亡前後の倭国史料状況をまとめよう。

266年(泰始2年・呉の宝鼎元年)
 壱与、西晋に貢献。女王国(倭国)関係の最後の記事である。

280年(太康元年・呉の天紀4年)呉朝滅亡

297年(元康7年)陳寿死亡。
 この陳寿の死は、陳寿の才能を認め登用した張華が失脚し、政敵・荀勗(じゅんきょく)が権勢をふるった時代のことであった。陳寿は冷遇されたようだ。この段階では陳寿の『三国志』はまだ日の目を見なかった。

 以上、266年~297年の31年間が倭国記事欠落の期間である。

 その後、4世紀になって張華派が復権し、三国志は「正史」として認定されることになる。もちろん西晋滅亡(316年)以前のことである。

316年(建興4年)西晋滅亡。
 翌年317年(建武元年)、鮮卑族に追われた晋は建康(現在の南京)を都に東晋を建てる。

 古田さんはこの倭国記事欠落の31年間(266年~297年)は倭国にとって、どんな時代だったかと問い、次のように分析している。

(イ)
 「親魏倭国」派の30国にとっては、まさに「時機到来」だ。「百余国(130~140)」中の、他の国々に対して「勢威拡大」の絶好機だったのではあるまいか(これは俾弥呼の「親魏倭国」時代にはじまろう)。

(ロ)
 もっとも打撃を受けたのは、当然「親呉倭国」派だ。倭人伝が俾弥呼に対して「大量の銅鏡(百枚)」を与えたり、「五尺刀二口」を与えていること、また後継者の壱与が「白珠五千孔・青大句珠二枚」を西晋朝に献上しているのを見ると、この「倭国」が「三種の神器」を「権力のシンボル」とする王朝であったこと、「同時代史料」の倭人伝の証言として、疑いがたい。

 これに対して、近畿を中心とする領域は「銅鐸国家」だった。弥生中期から後期にかけて「中型銅鐸」や「大型銅鐸」の〝最盛期″といってよい。とすれば、この(中国側周知の)「銅鐸の祭儀」や「シンボル的存在」に、倭人伝が一切ふれないのは、やはり「問題の急所」をしめす。すなわち、これらの銅鐸国家は「親呉倭国」だった。少なくとも「親魏倭国」のイデオロギーの急先鋒ではなかったのではあるまいか。

(ハ)
 この点、注目すべきは「中間派」の国々の存在であろう。

(a)
 魏朝と同時に呉朝にもまた「交流関係」を結んでいた国々。
(b)
 右のいずれとも「国交」を結ばなかった国々。
(C)
 「魏から呉へ」あるいは「呉から魏へ」と、交流対象を〝変化″させていた国々。

 各国、各種の対応が存在したものと思われるけれど、俾弥呼の時代に次いで孫権の死亡(壬申、252)によって、呉朝の内部の「崩壊過程」は加速された。

 次いで、呉朝の降伏(280)によって、「倭国内の一大変動」もまた、決定的となったのである。「親呉派」の没落である。

 ここで確認すべきは、次の三点だ。

(その一)
 中期銅鐸および後期銅鐸は、大和(纏向)や河内(東奈良)に実物や鋳型が集中している。
(その二)
 右の銅鐸は「破砕された痕跡」が各地から発見され、報告されている。
(その三)
 右に対し、巨大銅鐸はこの「大和」ではなく、周辺部(播磨〈兵庫県〉や野洲市〈滋賀県〉)で見出されている。

 四世紀以降の「古墳時代」には、もちろんこの「貴重なるシンボル」としての銅鐸、特に中期および後期銅鐸は「姿を消し」ている。近畿もまた「三種の神器」圏に〝くり入れ″られたのである。

 このような「大観」からすれば、右の「銅鐸国家」は、すなわち「親呉倭国」そのもの、あるいはその一端に連なっていたのではあるまいか。これらの国が「急先鋒」となったのが、今問題の「崇神天皇の時期」だったのである。

 以上によって、わたしたちにはようやく第十代、崇神天皇の「活躍期」とその「起動力」の謎を知る「とき」が来たように思われる。

 つまり、中国史料における倭国記事の欠落は「崇神記・紀」(さらには「垂仁記・紀」)によって埋める外ないというわけだ。ただし、言うまでもなく、「記紀」の記述の真偽の程を選り分けなければならない。
《続・「真説古代史」拾遺篇》(35)



狗奴国の滅亡(16)
崇神記をめぐって(7)
崇神の和風諡号


崇神の和風諡号は「みまきいりひこいにゑ」で、漢字表記は
御眞木入日子印惠(『古事記』)
御間城入彦五十瓊殖(『日本書紀』)
である。この諡号を江上氏は次のように解釈している。

 崇神天皇の現世での呼び名は、ミマキイリヒコといった。これは宮号で天皇を呼ぶ当時の習慣によるものであって、ミマキ(御間城)は御間の宮城の意で、そこにおられた天皇、ということである。そこでミマの宮城におられた天皇という崇神天皇は任那におられたのではないか、という推測を生む。

 ところが『書紀』によると、南朝鮮の任那のミマは、崇神天皇がミマキイリヒコであるから、そのミマが与えられた地名だということになっている。しかし、これはおそらく逆で、事実は崇神天皇のミマこそ任那から出ているとみるべきであろう。

 ここでの議論の前提になっている「宮号で天皇を呼ぶ当時の習慣」なんて本当にあったのだろうか。まさか騎馬民族にそのような習慣があったと言ってるわけではないだろう。記紀に「宮号で天皇を呼ぶ」例があるかどうか調べてみた。

『古事記』では
①穴穂(安康)―石上の穴穂宮
②大長谷若建(雄略)―長谷の朝倉宮
③小長谷若雀(武烈)―長谷の列木宮
の三例があるが、これらは宮号が命名に使われているのではなく、むしろ生誕地を用いた命名だろう。生誕地を用いて命名する例は『日本書紀』にはかなりある。天智の葛城皇子もその一例だろう。上の②③でもしも宮号を用いるとしたら②「朝倉若建」・③「列木若雀」でなければなるまい。宮号は使われていないと考えてよいだろう。

『日本書紀』『続日本紀』では次のような言い方が現れる。
(孝徳紀)
磯城嶋宮御宇天皇(欽明)
訳語田宮御宇天皇(敏達)
小墾田宮御宇天皇(推古)
(持統紀)
難波宮治天下天皇(孝徳)
近江宮治天下天皇(天智)
(『続日本紀』和銅2年2月1日条)
淡海大津宮御宇天皇(天智)
後岡本宮御宇天皇(斉明)

 宮名が使われているが言うまでもなく「現世での呼び名」ではない。過去の天皇に対する尊称だ。

 江上氏の論文を始めて読んだが、江上氏にはこのような独断的な思い込みを論拠にする議論が目に付く。(私にもありそうなので自戒を込めての指摘です。)

 しかし、後段の「崇神天皇のミマこそ任那から出ている」という仮説は検討に値する。天皇名から地名が生まれるなどという議論は逆立ちした議論であり、地名が先に決まっているということは以前にも述べた。(例えば『「品部廃止の詔」をめぐって(9)』

 江上氏は崇神を任那に君臨していた騎馬民族出身の王と考えているので「王宮」にこだわっている。古田さんも「みまき」を任那にゆかりの倭語だと考えている。しかし、「き」は「いき(壱岐)」「たき(滝)」などの「き」であり、「みまき」は「任那の要害」と解釈をしている。

 前回の初期10代の和風諡号をもう一度見てみよう。4代から大倭という称号が始まるが、5代の孝昭だけ欠けていた。孝昭だけ無視されたのか。さにあらず。孝昭の和風諡号は「みまつひこかえしね((御真津日子訶恵志泥))」だ。この「みまつ」は、崇神の場合と同様、「任那の津」ではないだろうか。任那では周辺諸国に対応する防御施設が重要だが、交易の中心施設として津(港湾)も重要な拠点であったろう。

 ここで思い出したことがある。一昨年から昨年にかけて『鉄の王キム・スロ』という韓国歴史ドラマが放映された。興味深く視聴した。

 ドラマの設定時代は紀元1世紀の初めで舞台は朝鮮半島南部。前々回に掲載した地図の福泉洞古墳群と重なる地域である。(任那はその地図で「金官加耶・小加耶」と表記されている地域だと考えられる。なお地図では「加耶」と表記されているが、「伽耶」が正式の表記のようだ。)

 ドラマは主人公キム・スロの出生から伽耶の第一代王となるまでの物語である。伽耶の歴史については未だ不明なことが多いようだから、ドラマには多分のフィクションが含まれていると思われるが、ドラマが描く時代背景は正鵠を射ていると思った。その時代背景は次のようである。

 伽耶が国家としてまとまる以前、各部族が覇権をかけてさまざまな駆け引き・抗争を繰り広げていた。その駆け引き・抗争の中心になっていたのは製鉄技術の優劣と交易による経済力であった。伽耶地方の鉄は良質であったようで、交易には主に鉄があたかも貨幣のように使われている。このような時代背景を証言している史料がある。魏志韓伝である。次のように記録されている。

国に鉄を出す。韓・濊・倭・皆従いて之を取る。諸市買、皆以て鉄を用う。中国に銭を用うるが如し。又以て二郡に供給す。

 以上から次のように言ってもよいのではないだろうか。

 ヤマト王権は9代・開化までの政略結婚によって周辺の土着豪族を勢力圏に取り入れることに成功した。その勢力を認められて、孝安・孝霊・孝元は「本国」(九州王朝)から倭国の官位「大倭」を授与された。そして、5代孝昭は任那における交易の総監督官に、また10代崇神は任那の防御施設(城塞)の将軍に任命された。

 チョット横道へ。


 もう一つ、「伽耶→加耶」という文字使用で思い出したことがある。

 私は『弥呼』の出版を知ったとき、どうして『弥呼』ではないのか、という疑問を持った。同じように思った方がおいでかと思うので、ここで取り上げておこう。

 「ひみか」の魏志での初出は帝紀(斉王紀)の正始4年(243)の記事である。

冬十二月、倭国女王俾弥呼、使を遣わして奉献す。

 「俾弥呼」である。では倭人伝ではどうして「卑弥呼」なのか。

 「任那」の漢字表記の意味を取り上げたときに例として挙げた「倭→委」「高句驪→高句麗」と同じ、「俾」が本来の表記であり、「卑」は「俾」の省略形なのだった。