2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《続・「真説古代史」拾遺篇》(33)

狗奴国の滅亡(14)
崇神記をめぐって(5)
「任那」問題(3):任那の読みと意味(2)


『「任那」問題(1)』で、主に崇神記の任那記事を用いて「任那=狗邪韓国」という結論を得た。この結論に関して次の二点を補充したい。
① 狗邪韓国はどう読むか。
② 狗邪韓国は確かに倭地だったのか。
③ なぜ任那と狗邪韓国と、違う呼び名が使われているのか。
(この三点はシリーズ『「邪馬台国」論争は終わっている』でも詳しく論じなかった。その補充をかねている。)

(以下は、『風土記にいた卑弥呼 第5部「倭人伝との対話』が教科書です。)

① 狗邪韓国はどう読むか。

 「狗邪」は一般には「クヤ」と読まれているようだ。つまり「狗」を「ク」と読んでいる。しかし、倭人伝には「卑狗」という官名が出てくる。これを「ヒク」と読む論者はまずいないだろう。「ヒコ」と読む。「狗」は「コ」と読むべきだ。私(たち)は「狗奴国」を「コヌコク」と読むのが妥当という結論を得ている。これらを敷衍すれば当然「狗邪韓国」は「コヤカンコク」と読むことになる。

② 狗邪韓国は確かに倭地だったのか。

「魏志」韓伝の証言
韓は帯方の南に在り。東西、海を以て限(かぎり)と為す。南、倭と接す。

弁辰は辰韓と接す。…其の瀆盧国、倭と界を接す。


 いずれも倭と陸で接していると記録している。

「魏志」倭人伝の証言
郡よりに至るには、海岸に循(したがって)って水行し、韓国を歴(へ)て、乍(あるい)は南し乍は東し、その北岸狗邪韓国に至る七千余里(a)。

郡より女王国に至ること万二千余里(b)。

倭の地を参問するに、海中洲島の上に絶在し、あるいは絶えあるいは連なり、周施五千余里(c)ばかりなり。


 倭地は海の中に「絶えあるいは連なり」散在しており、そのその北岸部に狗邪韓国があると言っている。さらに(b)-(a)=(c)となっている。つまり狗邪韓国が倭地の起点となっている。

物証(考古学的遺物)
「福泉洞遺跡・博物館 -伽耶・新羅の旅-2001・10・12」というサイトに出会った。福泉洞古墳群は「4紀初頭から7世紀代にかけて営まれた古墳群」だという。次の地図と写真(出土品・矛)はそのサイトから拝借した。

福泉洞古墳群
福泉洞古墳群出土の矛

 次の古田さんの解説は上の二つの史料について述べられていると考えても間違いではないだろう。

 博多湾岸とその周辺(糸島郡・東背振)に鋳型の出土が限定されている「矛」(中広・広矛)、同じく博多湾岸とその両翼(東は岡垣から西は佐賀市まで)に鋳型の出土が限定されている「戈」(中広・広戈)、それらの実物が朝鮮半島の洛東江流域に分布している。ことに後者は、かなりの広範囲の分布である。これは、博多湾岸を中心とする矛と戈の国としての「倭国」、その全領域内にこの部分領域が入っていたこと、その証跡である(これに対し、洛東江流域から鋳型の出土がないにもかかわらず、将来の出土を信じてこれを韓国製と称する論者ありとすれば、それは学問的見地に非ず、国家的・イデオロギ一的見地優先の立場とせねばならぬのではあるまいか。~たとえば金廷鶴氏編『韓国の考古学』河出書房新社刊、参照)。

③ なぜ任那と狗邪韓国と、違う呼び名が使われているのか。

 たぶん、漢が朝鮮半島に楽浪郡などの4郡を置いた頃から中国では「狗邪韓国」と読んでいた。倭人伝はその地が倭地であるという認識のもとに書かれているが、その呼名には古くからの自前の地名を用いたと考えられる。

(以下は『「邪馬台国」はなかった。 朝日文庫版あとがきにかえて』と『古代は輝いていたⅢ 第1部・第2章』を教科書とします。)

 古田さんは〝二つの言語世界の境界に存在する土地は、二つの名前をもっている″と言い、次のような例を挙げている。

日本側「樺太・千島」=ロシア側「サハリン・クリル」
中国側「裏海」=西方側「カスピ海」
日本側「久場島・大正島」(尖閣諸島中の)」=台湾側「黄尾礁・赤尾礁」
日本側「沖縄」=中国側「琉球」

 そういえば今領有権を争っている
日本側「竹島」=韓国側「独島」
というのもある。千島も尖閣諸島の領有権問題があらそわれている。この領有権問題については吉本隆明さんの正鵠を射た発言がある。
「それはどちらの国のものでもない。地域住民のものだ。」(改めて調べていないので正確ではありません。)
 両国の地域住民の公平な利になるように共有すればよいのだ。

 ちょっと横道に逸れてしまった。戻ろう。

 狗邪韓国は倭地であり、任那はそれの倭国側の呼び名であることがはっきりした。それでは任那(みまな)という表記(読み)にはどういう意味があるのだろうか。『古代は輝いていたⅢ』から直接引用しよう。(以下の議論について古田さんは「もちろん断定できるようなものではないけれど、一つの試案として提出しておきたいと思う。」と述べていることを付記しておきます。)

 まず、読みの方から。

 「みまな」の「な」は〝うじな(宇品・広島県)″〝あじな(芦品、同上)″などの「な」であり、「那の津」(博多湾)の「那」に当ろう。海岸部の領域を指す日本語だ。また「むなかた(宗像)」は〝むなプラスかた(潟)″であり、その「な」も同一の「な」であろう。「みまな」の「な」と、朝鮮海峡の南北岸に、同じ「な」という海岸領域を指す用語が分布しているのだ。これは朝鮮海峡の両岸に倭地があったという史実の上に立つその言語上の反映ではなかろうか(もちろん、逆に同言語地名の存在が、すなわち同じ政治領域の証拠である、という一般論を立てることは危険であり、かつ不可能だ)。

 次に「みま」。この「ま」は「やま」「しま」などの「ま」。日本語の地形接尾辞であろう。糸島郡は「怡土」と「志摩」との合体した郡だが、この「みま」の「ま」と同一であろう。

 次は「み」。これも「御笠川」(博多湾岸)「三瀦(みぬま)」(筑後)「三毛(みけ)」(同上)などの「み」。地名の接頭辞であろう(「水(み)」か「三(み)」か「御(み)」か、その語意は決定しがたい)。

 以上によって、この「みまな」が日本語であることが分る。この言葉が日本側の史料にしか出てこない点から見ても、これは当然かもしれぬ。(これに対し、「任那という漢字の朝鮮半島側発音→日本語の『みまな』」という訛音説をとる論者があるけれども、同類例が同地域で幾多見出され、その一例として証明できない限り、立論方法において恣意的といわざるをえないであろう。)

 古田さんが( )内で指摘している「訛音説」を江上氏が採用している。次のようである。

 ミマナの「ナ」は、古代の韓語でも日本語でも「土地」ということであって、ミマ・ナはミマの国、あるいはミマの土地、ということである。では、語幹のミマは何かというと、いろいろな解釈があるけれども、鮎貝房之進や白鳥庫吉によれば、ミマは朝鮮語のnim(主君・王)が日本語になまったものである〔鮎貝「日本の韓、新羅、任那、百済、高麗、漢、秦等の古訓に就きて」『雑攷』第二輯上巻、1931年、復刻『雑攷 新羅王号攷・朝鮮国名攷』国書刊行会、1967年所載、白鳥「百済の起源について」『白鳥庫吉全集』第三巻、岩波書店、1970年所収〕。すなわち、ミマ・ナは「王の地」あるいは「王の国」という意味の語である。

 任那の漢字表記としての意味については、古田さんは次のように論じている。

 「那」は表音だ。ポイントは「任」の字である。

 これを解くヒントは次の点だ。『三国志』の魏志倭人伝の中で、「度」(狗邪韓国→対海国間)、「渡」(対海国→一大国、一大国→末盧国間)とが共用されている。また「高句麗」(『三国志』)と「高句驪」(同書等)の共用はよく知られている。

 また「倭」が志賀島の金印で「委」と刻されていることは有名だ。また魏の如淳も、「墨の如く委面して、帯方東南万里に在り」として、「倭=委」字の共用をしめしている(『漢書』地理志、燕地、倭人項)。

 以上の事例に従って考えてみよう。「任=壬」とすると、この字には次の意がある。

壬、北方に位するなり。 (『説文』)

この字義によってみると、この領域が〝北方に当たっている"ことをしめす用字だということとなろう。まさに〝筑紫国を原点として、この地を見たときの表記″として適切なのである。つまり倭国側の表記なのだ。

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