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《続・「真説古代史」拾遺篇》(34)



狗奴国の滅亡(15)
崇神記をめぐって(6)
ヤマト王権初期10代の和風諡号


(今回から『俾弥呼』を教科書とします。)

 『「倭」と「日本」』というシリーズで「倭」は本来「ちくし」と読むことを論じた。そのとき決定的な論拠の一つを取りこぼしていた。それを補充したい。

 『古事記』での「倭」の初出は「須勢理毘賣の嫉妬」の段である。あの八千矛神と沼河比賣の説話(「沼河比賣求婚」の段)の続きの記事だ。

又其の神の嫡后(おほきさき)須勢理毘賣命、甚(いた)く嫉妬(うはなりねたみ)爲(し)たまひき。故、其の日子遲(ひこぢ)の神和備弖(わびて)〈三字は音を以ゐよ。〉出雲國より倭國に上り坐(ま)さむとして、束裝(よそひ)立たす時に、片御手(かたみて)は御馬(みま)の鞍に繋け、片御足(かたみあし)は其の御鐙(みあぶみ)に蹈み入れて、歌ひたまひく、…

 〈大系〉は「倭國」を「やまとのくに」と訓じている。これはおかしい。続きを見てみよう。

 八千矛の神(大国主)と須勢理毘賣との歌の遣り取りがあって、さて、八千矛の神はどこに行ったのか。

故、此の大國主神、胸形の奧津宮(おきつみや)に坐す神、多紀理毘賣命を娶して生める子は…

 胸形(宗像)の奧津宮である。多紀理毘賣(天照大神の三女)の「亦の名」は奧津嶋比賣(「天安河の誓約」の段)である。奧津嶋は沖ノ島のことだ。ここへ行くのにどうして大和に行くの? 「倭國」は「ちくしのくに」でなくては辻褄が合わない。

 さて、『「倭」と「日本」』の最終回『まとめ・再び「和風諡号」』で「神武~開化」10代の中で和風諡号に「倭」を含むものを選んで、「倭」を「ちくし」と読んで列記した。ここでは10代全員の和風諡号を列記しておこう(漢字表記も付した)。

① 神武(じんむ)
 かむちくしいわれびこ(神伊波禮毘古)
② 綏靖(すいぜい)
 かむぬなかわみみ(神沼河耳)
③ 安寧(あんねい)
 しきつひこたまてみ(師木津日子玉手見)
④ 懿徳(いとく)
 おほちくしひこすきとも(大倭日子鉏友)
⑤ 孝昭(こうしょう)
 みまつひこかゑしね(御真津日子訶惠志泥)
⑥ 孝安(こうあん)
 おほちくしたらしひこくにおしひと(大倭帯日子国押人)
⑦ 孝霊(こうれい)
 おほちくしねこひこふとに(大倭根子日子賦斗邇)
⑧ 孝元(こうげん)
 おほちくしねこひこくにくる(大倭根子日子国玖琉)
⑨ 開化(かいか)
 わかちくしねこひこおほひひ(若根子日子大毘毘)

 まず、①の「神倭」について古田さんは次のように解釈している。

 神武天皇は筑紫(福岡県)から、大和(奈良県) に侵入し、この地を支配した。現在は「大和」にいる。しかし、自分が「筑紫から来た」ことを〝誇り″としている。それが「倭(筑紫)」を冠して〝名乗る″こと、そこに表現されているのである。

 冒頭の「神(カム)」は、神在(かむあり)(伊勢田)・瀬戸(福岡県糸島市)を「出身地」とすることの表現かもしれない。

 ②はその「神 カム」だけを引き継いでいるが、「ミミ」を用いているのが目に付く。ヤマトにおける地歩が固まり以後の方針が確定したからだろうか、③から⑨までは「日子 ヒコ」が引き継がれている。この「ミミ」や「ヒコ」は倭人伝に出てくる官職名「彌彌」「卑狗」であろう。実際にその官職に就いていたいう事ではなく、権威を象徴する称号だったのだろう。

 次ぎに目に付くのが「大倭」である。シリーズ『「倭」と「日本」』の最終回『まとめ・再び「和風諡号」』を書いていた頃、私はこれを、神武の場合と同じ意味で用いられたもので、「倭 チクシ」の美称と解していた。特に⑦⑧⑨が「根子 ネコ」を伴っているので、「チクシ(根=源)から分かれて生まれた国(子)」つまり「由緒正しい倭国の分流」と周囲に知らしめるための命名と考えていた。

 この説に対しては次のような批判が考えられる。なぜ全員に「大倭」を用いないで、「大倭」を付けたり付けなかったりしたのは単なる気まぐれだろうか。

 古田さんは『俾弥呼』では「大倭」を次のように解釈している。

 「魏志」倭人伝に次の一節(岩波文庫版)がある。

租賦を収む、邸閣あり、国国市あり。有無を交易し、大倭をしてこれを監せしむ。

 「大倭をしてこれを監せしむ。」の原文は「使大倭監之」であり、これを古田さんは「使大倭、之を監す。」と訓じている。いずれにしても
「倭国に属する国々には大倭(おほちくし)と呼ばれる役人が派遣されていて市での交易を監督していた。」
ということが記録されている。大倭はかなりの権限を持っていた事が窺われる。

 古田さんは④⑥⑦⑧の「大倭」はこの職能を持つ人物であることを示す称号だとする。つまり、本家(チクシ)から「大倭」を任命され、その称号を授与されたのだと言う。⑨の「若倭」については、古田さんは「大倭に準ずる存在、その資格をしめすものであろう。」と推測している。

 この古田説が正しいとすれば、「大倭」という称号は勝手に付けられるものではないことになる。「大倭」のない②③⑤は特に称号を与えられなかった、と解釈することになろう。

 以上、私の説と同様、古田説の場合でも①~⑨の和風諡号が、ヤマト王権が「由緒正しい倭国の分流」であることの示す証左であることに変わりはない。
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《続・「真説古代史」拾遺篇》(33)

狗奴国の滅亡(14)
崇神記をめぐって(5)
「任那」問題(3):任那の読みと意味(2)


『「任那」問題(1)』で、主に崇神記の任那記事を用いて「任那=狗邪韓国」という結論を得た。この結論に関して次の二点を補充したい。
① 狗邪韓国はどう読むか。
② 狗邪韓国は確かに倭地だったのか。
③ なぜ任那と狗邪韓国と、違う呼び名が使われているのか。
(この三点はシリーズ『「邪馬台国」論争は終わっている』でも詳しく論じなかった。その補充をかねている。)

(以下は、『風土記にいた卑弥呼 第5部「倭人伝との対話』が教科書です。)

① 狗邪韓国はどう読むか。

 「狗邪」は一般には「クヤ」と読まれているようだ。つまり「狗」を「ク」と読んでいる。しかし、倭人伝には「卑狗」という官名が出てくる。これを「ヒク」と読む論者はまずいないだろう。「ヒコ」と読む。「狗」は「コ」と読むべきだ。私(たち)は「狗奴国」を「コヌコク」と読むのが妥当という結論を得ている。これらを敷衍すれば当然「狗邪韓国」は「コヤカンコク」と読むことになる。

② 狗邪韓国は確かに倭地だったのか。

「魏志」韓伝の証言
韓は帯方の南に在り。東西、海を以て限(かぎり)と為す。南、倭と接す。

弁辰は辰韓と接す。…其の瀆盧国、倭と界を接す。


 いずれも倭と陸で接していると記録している。

「魏志」倭人伝の証言
郡よりに至るには、海岸に循(したがって)って水行し、韓国を歴(へ)て、乍(あるい)は南し乍は東し、その北岸狗邪韓国に至る七千余里(a)。

郡より女王国に至ること万二千余里(b)。

倭の地を参問するに、海中洲島の上に絶在し、あるいは絶えあるいは連なり、周施五千余里(c)ばかりなり。


 倭地は海の中に「絶えあるいは連なり」散在しており、そのその北岸部に狗邪韓国があると言っている。さらに(b)-(a)=(c)となっている。つまり狗邪韓国が倭地の起点となっている。

物証(考古学的遺物)
「福泉洞遺跡・博物館 -伽耶・新羅の旅-2001・10・12」というサイトに出会った。福泉洞古墳群は「4紀初頭から7世紀代にかけて営まれた古墳群」だという。次の地図と写真(出土品・矛)はそのサイトから拝借した。

福泉洞古墳群
福泉洞古墳群出土の矛

 次の古田さんの解説は上の二つの史料について述べられていると考えても間違いではないだろう。

 博多湾岸とその周辺(糸島郡・東背振)に鋳型の出土が限定されている「矛」(中広・広矛)、同じく博多湾岸とその両翼(東は岡垣から西は佐賀市まで)に鋳型の出土が限定されている「戈」(中広・広戈)、それらの実物が朝鮮半島の洛東江流域に分布している。ことに後者は、かなりの広範囲の分布である。これは、博多湾岸を中心とする矛と戈の国としての「倭国」、その全領域内にこの部分領域が入っていたこと、その証跡である(これに対し、洛東江流域から鋳型の出土がないにもかかわらず、将来の出土を信じてこれを韓国製と称する論者ありとすれば、それは学問的見地に非ず、国家的・イデオロギ一的見地優先の立場とせねばならぬのではあるまいか。~たとえば金廷鶴氏編『韓国の考古学』河出書房新社刊、参照)。

③ なぜ任那と狗邪韓国と、違う呼び名が使われているのか。

 たぶん、漢が朝鮮半島に楽浪郡などの4郡を置いた頃から中国では「狗邪韓国」と読んでいた。倭人伝はその地が倭地であるという認識のもとに書かれているが、その呼名には古くからの自前の地名を用いたと考えられる。

(以下は『「邪馬台国」はなかった。 朝日文庫版あとがきにかえて』と『古代は輝いていたⅢ 第1部・第2章』を教科書とします。)

 古田さんは〝二つの言語世界の境界に存在する土地は、二つの名前をもっている″と言い、次のような例を挙げている。

日本側「樺太・千島」=ロシア側「サハリン・クリル」
中国側「裏海」=西方側「カスピ海」
日本側「久場島・大正島」(尖閣諸島中の)」=台湾側「黄尾礁・赤尾礁」
日本側「沖縄」=中国側「琉球」

 そういえば今領有権を争っている
日本側「竹島」=韓国側「独島」
というのもある。千島も尖閣諸島の領有権問題があらそわれている。この領有権問題については吉本隆明さんの正鵠を射た発言がある。
「それはどちらの国のものでもない。地域住民のものだ。」(改めて調べていないので正確ではありません。)
 両国の地域住民の公平な利になるように共有すればよいのだ。

 ちょっと横道に逸れてしまった。戻ろう。

 狗邪韓国は倭地であり、任那はそれの倭国側の呼び名であることがはっきりした。それでは任那(みまな)という表記(読み)にはどういう意味があるのだろうか。『古代は輝いていたⅢ』から直接引用しよう。(以下の議論について古田さんは「もちろん断定できるようなものではないけれど、一つの試案として提出しておきたいと思う。」と述べていることを付記しておきます。)

 まず、読みの方から。

 「みまな」の「な」は〝うじな(宇品・広島県)″〝あじな(芦品、同上)″などの「な」であり、「那の津」(博多湾)の「那」に当ろう。海岸部の領域を指す日本語だ。また「むなかた(宗像)」は〝むなプラスかた(潟)″であり、その「な」も同一の「な」であろう。「みまな」の「な」と、朝鮮海峡の南北岸に、同じ「な」という海岸領域を指す用語が分布しているのだ。これは朝鮮海峡の両岸に倭地があったという史実の上に立つその言語上の反映ではなかろうか(もちろん、逆に同言語地名の存在が、すなわち同じ政治領域の証拠である、という一般論を立てることは危険であり、かつ不可能だ)。

 次に「みま」。この「ま」は「やま」「しま」などの「ま」。日本語の地形接尾辞であろう。糸島郡は「怡土」と「志摩」との合体した郡だが、この「みま」の「ま」と同一であろう。

 次は「み」。これも「御笠川」(博多湾岸)「三瀦(みぬま)」(筑後)「三毛(みけ)」(同上)などの「み」。地名の接頭辞であろう(「水(み)」か「三(み)」か「御(み)」か、その語意は決定しがたい)。

 以上によって、この「みまな」が日本語であることが分る。この言葉が日本側の史料にしか出てこない点から見ても、これは当然かもしれぬ。(これに対し、「任那という漢字の朝鮮半島側発音→日本語の『みまな』」という訛音説をとる論者があるけれども、同類例が同地域で幾多見出され、その一例として証明できない限り、立論方法において恣意的といわざるをえないであろう。)

 古田さんが( )内で指摘している「訛音説」を江上氏が採用している。次のようである。

 ミマナの「ナ」は、古代の韓語でも日本語でも「土地」ということであって、ミマ・ナはミマの国、あるいはミマの土地、ということである。では、語幹のミマは何かというと、いろいろな解釈があるけれども、鮎貝房之進や白鳥庫吉によれば、ミマは朝鮮語のnim(主君・王)が日本語になまったものである〔鮎貝「日本の韓、新羅、任那、百済、高麗、漢、秦等の古訓に就きて」『雑攷』第二輯上巻、1931年、復刻『雑攷 新羅王号攷・朝鮮国名攷』国書刊行会、1967年所載、白鳥「百済の起源について」『白鳥庫吉全集』第三巻、岩波書店、1970年所収〕。すなわち、ミマ・ナは「王の地」あるいは「王の国」という意味の語である。

 任那の漢字表記としての意味については、古田さんは次のように論じている。

 「那」は表音だ。ポイントは「任」の字である。

 これを解くヒントは次の点だ。『三国志』の魏志倭人伝の中で、「度」(狗邪韓国→対海国間)、「渡」(対海国→一大国、一大国→末盧国間)とが共用されている。また「高句麗」(『三国志』)と「高句驪」(同書等)の共用はよく知られている。

 また「倭」が志賀島の金印で「委」と刻されていることは有名だ。また魏の如淳も、「墨の如く委面して、帯方東南万里に在り」として、「倭=委」字の共用をしめしている(『漢書』地理志、燕地、倭人項)。

 以上の事例に従って考えてみよう。「任=壬」とすると、この字には次の意がある。

壬、北方に位するなり。 (『説文』)

この字義によってみると、この領域が〝北方に当たっている"ことをしめす用字だということとなろう。まさに〝筑紫国を原点として、この地を見たときの表記″として適切なのである。つまり倭国側の表記なのだ。

《続・「真説古代史」拾遺篇》(32)

狗奴国の滅亡(13)
崇神記をめぐって(4)
「任那」問題(2):任那の読みと意味(1)


 倭人はいつ頃から文字(漢字)を知っていたのだろうか。 漢(武帝)が朝鮮半島(韓)に4郡を置いたのは紀元前108年。あるいはもっと早くかも知れないが、遅くともそのころには韓は漢字文化圏に組み入れられていた。倭はどうか。「後漢書」倭国伝の書き出しは次のようである。

倭は韓の東南大海の中に在り、山島に依りて居を為す。凡そ百余国。武帝、朝鮮を滅ぼしてより、使駅漢に通ずる者、三十許国なり。

 倭からの使者はたぶん楽浪郡を通して朝貢したであろう。つまり倭も遅くとも紀元前1世紀頃には漢字文化圏の洗礼を受けていた。

 次の記録は紀元57年(建武中元2年 後漢光武帝)である。

建武中元二年、倭奴(いど)国、奉貢朝賀す。使人自ら大夫と称す。倭国の極南界なり。光武、賜うに印綬を以てす。

 そう、あの志賀島で出土した金印という証拠物まである。使者は「大夫」と称していたという。大夫は周の職名だ。倭語としてではなく、そのまま漢語として発音(たぶん「たいふ」あるいは「たいぶ」)していたことだろう。そして言うも愚か、倭の知識人たちは金印の文字「漢委奴国王」も読めたし、意味も分っていた。

 なお、大夫は「魏志」倭人伝でも使われている。魏からの詔書の中に「大夫難升米・次使都市牛利」とある。

 そして次の史料がその「魏志」倭人伝である。ここには倭国の人名・地名・職名がたくさん記録されている。それら(「大夫」以外)はすべて倭語である。

 ここで、3世紀頃の倭人たちは倭語を表記するのに漢字をどのように用いていたのだろうか、という問題が浮上する。古田さんによると3世紀にはすでに漢字を「音訓併用」で用いていたという。『俾弥呼』で詳しく論じられているが、ここでは詳しい論証は省いて一例を挙げておく。例えば「次使都市牛利」の「都市」は「といち」と読む。これは博多近くに「都市(といち)」を名乗る一族がいることから分ったという。古田さんは実際に都市さんを訪ねられて、その一族が松浦水軍の末裔であると論じている。

 私の次の関心は「倭人伝の音訓併用は現在のものと同じであろうか」という問題である。この問題についても『俾弥呼』に古田さんの論考がある。直接引用する。

 まず、倭人伝中に国名として使われている「邪馬」の読みについての議論を読んでおこう。

 「邪馬」を「ジャバ」とする〝訓み″の可能性があるけれど、これは「否(ノウ)」である。今、まともにこれを「南海のジャバ島」などと〝結びつけ″て論ずる人はいないであろう。なぜなら「ジャバ」では「日本語」にならず、地理的にも〝遠き″ に過ぎる上、倭人伝に列記する「三種の神器」や「絹と錦」の出土分布を(三世紀近辺の地層に)見ることがないからである。

 では、「ヤマ」と〝訓むべし″とした場合、どうなるか。ここにも「倭人伝の固有名詞と術語」解読の「基本のヒント」がふくまれているのだ。右の「ジャバ」の場合、いわゆる「漢音」である。北朝音である。これに対して「ヤマ」の場合、南朝音、いわゆる「呉音」系列なのである。

 「漢音」「呉音」が解読の「基本のヒント」だと言う。その詳しい解説が次のように行われている。

「周・漢・魏・西晋」系列の中国音は、西晋の滅亡(326)をもって断絶する。鮮卑が南下して洛陽・西安を征圧して「北魏」を建国したからである。  「北魏」 のもたらした〝鮮卑系の発音″が新たな天子や支配層の言語であり、被支配者層の「西晋以前」の中国音は、これと〝混合″せざるをえなかった。文字の「字形」においても、各種の変動が生じた。羅振玉の『碑別字』は、その時期の「新型、文字群」の研究である。

 ちょっと横道へ。
 ここで文字の「字形」の変動がどういうものなのか、どのくらいの変化を被るものなのか、興味がわいた。カミさんが書道をやっていて関係書をかなり持っているので探してもらった。例として『中国法書選21 龍門二十品〈下〉』から1ページを選んでみた。

北魏時代の書

崇・軌・無・美・幽・宋・仰などが異体字になっているが、特に軌・美・幽などは解説がなければ何の字なのか分らない。

 本道に戻ろう。

 当然ながら、「文字の発音」についても、一大変動がおこった。いわば「北朝音」だ。これを(北朝の)彼等は「漢音」と称した。「漢の正統を受け継ぐ」旨を〝偽称″もしくは〝擬称″したのである。 ― これがいわゆる「漢音」である。

 これに反し、「西晋以前」の、本来の中国音は、東晋に〝受け継がれ″た。建康(南京)を都とする「南朝」である。ここでは「西晋以前」の、本来の中国音が「支配者層の言語」であり、これと被支配者層としての「呉・越等の、現地音」とが〝混合″された。 ― これを「呉音」と称したのである。

 しかし、「漢音」「呉音」とも、いわゆる「大義名分上の〝造成の術語″」にすぎず、本来の「言語学上の表現」ではなかったから、今はあまり〝用い″られていない。

 しかし、ポイントは、次の一点である。
「倭人伝の漢字は、三世紀以前に伝来した文字と〝訓み″であるから、基本的には、右の『呉音』、より正しくは『南朝音』の方が妥当する。もっと厳密に言えば、〝妥当する可能性が高い″のである。」と。

 右の理路を、はからずも、今とりあげた「邪馬」が、「ジャバ(北朝音)」ではなく、「ヤマ(南朝音)」であることをしめす。その一事が〝証言″されていたのである。

 もちろん陳寿は、自分の死後まもなく(316)、西晋朝が滅亡し、黄河流域の洛陽や西安が〝鮮卑語なまり″の時代へと突入することなど、「予知」してはいなかったであろう。

 しかし、右の「邪馬(ヤマ)」という二字、その一言の表記は、わたしたち21世紀の後代人に、「倭人伝の〝訓み方″」をまさに「告知」してくれていたのである。

 楽しい話題を加えよう。日本列島は「冷凍庫」または「冷蔵庫」である。3世紀以前に渡来してきた「文字」と「訓み」が、今も〝腐らず″に保存されている島なのである。

 中国の大陸本土では、歴史とは王朝の交替だった。外来の異民族が、新たな征服者として、中国本土を支配した。先述の鮮卑以後も、モンゴル(元)や満州族(清)など、中国の「外」からの〝侵略″と〝征服″がくりかえされてきた。周知のところだ。あの「周」でさえ、シルクロ一ド上の一民族が、匈奴などの圧迫に耐えかねて、西安周辺への「亡命」を殷朝から許されて移り住んだ、異民族の一つだった。文字通り、周知のところだ。

 民族の移動と共に、国家も変転し、同時に「文字」も「訓み」も、変動しつづけて今日に至っているのである。

 しかし、日本はちがった。右のような「文字」や「訓み」の変動を〝よそに見て″、みずからは古く到来した「文字」とその「訓み」を守り、「保守」しつづけて今日に至っているのである。

 だから、あの新井白石が、わざわざ中国人(明・清)を呼んで、倭人伝などの〝訓み″を学んだ、というのは、彼ならではの「心くばり」だったけれど、実際は〝逆″なのである。十八世紀前後の江戸時代の中国人の「発音」で、倭人伝を訓むなどとは、〝とんでもない″手法、「方法上のあやまち」だったのである。

 わたしたちは、このような「島国の幸せ」のただなかに生まれた。そして三世紀の倭人伝に直面した。この島国に伝えられた「訓み」を無上の〝武器″として、この倭人伝の解読に取り組むとき、あの女王俾弥呼は、はじめて魅力あふれる素顔をわたしたちにありありと見せてくれはじめるのではあるまいか。

 被征服民族の文明・文化(特に言葉)は征服民族の文明・文化によって劇的なといってよいような変動をこうむる。4・5世紀の倭国にそのような変動は認められない。騎馬民族説が否定される決定的な根拠の一つである。
《続・「真説古代史」拾遺篇》(31)

狗奴国の滅亡(12)
崇神記をめぐって(3)
番外編


 『週間金曜日』に「無名人語録」という永六輔さんの連載記事がある。愛読しています。11月18日号に次のくだりがあった。

穂希、夢穂、桂里奈、愛実、亜紗乃、梓、奈穂美、彩、紗希、明日菜、瑠美、梢、優李。

 これ読めるかい。澤穂希を始めとする『なでしこジャパン』の選手だよ。
 これで驚いちゃいけません。代表以外の 選手なんかタイヘン。

海青、望央、麗依、麻理鈴、令渚。

 女房の友達は『子』や『枝』の方が多いし、うちの婆さんの友達になると、クマ、とら、なんてのが残ってるぞ。

 「穂希」は一時マスコミに毎日のように登場していたので「ほまれ」と読むことを知っていた。始めて見たら、まず読めない。こうじゃないかな、となんとか読めるのは愛実(まなみ)、梓(あずさ)、奈穂美(なほみ)、彩(あや)、紗希(さき)、瑠美(るみ)、梢(こずえ)だけ。

 日本語の漢字表記はやっかいである。「音」で読むのか「訓」で読むのか、あるいは重箱読みか。何通りもの読み方がある。さらに名前の場合は、表記された漢字には読みだけが託されていて、意味にはご両親の思いが託されている。そしてその意味は漢字の意味とは全く関係ないことがある。穂希さんの場合は漢字表記にも「まれに見る(すぐれた)穂」という意味が託されているかも知れないが、やはり「ほまれ」(栄誉ある人)が本意だろうと思われる。

 人名だけでなく地名も難しい。漢字の意味と読みの方の意味とが一致しない場合が多い。特にあの好字令「畿内七道、諸国の郡・郷の名、好字を著(つ)けよ。」(『続日本紀』和銅6年5月2日条)によって当て字の地名が大量生産されたのだからなおさらである。

 手元に『読めない漢字の読本』(小学館)という本がある。少し遊んでみましょう。「地名」問題として古代史の主要舞台である福岡県を選んでみた。古代史を勉強しているので読める地名が結構あるが、私には「?」の方が多い。(解答は全問題の後に置きました。)

【地名】
〈市区郡町村〉
浮羽郡 大任町 小郡市 遠賀郡 頴田町金田町 香春町 苅田町 篠栗町 早良区 志免町 大刀洗町 築城町 直方市 杷木町 前原町 三瀦郡 京都郡 宗像市 山門郡 八女市
〈駅名〉
 (筑豊本線)
  桂川 筑前垣生 筑前山家 天道
 (鹿児島本線)
  原田
 (篠栗線)
  長者原 柚須
 (日豊本線)
  朽網 新田原 三毛門
 (筑肥線)
  一貴山 鹿家 下山門 周船寺 大入
 〈平成筑豊鉄道)
  勾金  (久大本線)
  御井 〈半島・島・岬〉
 企救半島 能古島
〈山〉
 脊振山(佐賀県境) 英彦山(大分県境)


 動植物名を初め日常生活でお馴染みの熟語なども難しい。漢語や仏教用語に同じ意味の倭語を割り当てたもの、倭語に意味に合う漢字を選んで作った熟語、さらに倭語に当て字を付けたものとがある。例として「動物」と「こころにまつわる語」から見開き2ページを一つずつ選んでみた。なぜそのような漢字が使われているのか、ということまで分る人いたら、すごいですね。

【動物】
蜚蠊
蠍(蝎)
五月蠅
縞馬(斑馬)
紙魚(衣魚・蠧魚)
蝦蛄


【こころにまつわる語】
曖昧
齷齪
阿漕
婀娜
阿婆擦れ
鯔背


《答》

【地名】

〈市区郡町村〉
浮羽郡(うきはぐん) 大任町(おおとうまち) 小郡市(おごおりし) 遠賀郡(おんがぐん) 頴田町(かいたまち) 金田町(かなだまち) 香春町(かわらまち) 苅田町(かんだまち) 篠栗町(ささぐりまち) 早良区(さわらく) 志免町(しめまち) 大刀洗町(たちあらいまち) 築城町(ついきまち) 直方市(のうがたし) 杷木町(はきまち) 前原町(まえばるまち) 三潴郡(みずまぐん) 京都郡(みやこぐん) 宗像市(むなかたし) 山門郡(やまとぐん) 八女市(やめし)
〈駅名〉
 (筑豊本線)
  桂川(けいせん) 筑前垣生(ちくぜんはぶ) 筑前山家(ちくぜんやまえ) 天道(てんとう)
 (鹿児島本線)
  原田(はるた)
 (篠栗線)
  長者原(ちょうじゃばる) 柚須(ゆす)
 (日豊本線)
  朽網(くさみ) 新田原(しんでんばる) 三毛門(みけかど)
 (筑肥線)
  一貴山(いきさん) 鹿家(しかか) 下山門(しもやまと) 周船寺(すせんじ) 大入(だいにゅう)
 〈平成筑豊鉄道)
  勾金(まがりかね)
 (久大本線)
  御井(みい)
〈半島・島・岬〉
 企救半島(きくはんとう) 能古島(のこのしま)
〈山〉
 脊振山(せぶりさん 佐賀県境) 英彦山(ひこさん 大分県境)

【動物】

蜚蠊(ごきぶり)
▼ゴキブリ目に属する昆虫の総称。アブラムシともいう。
〈漢字〉
 漢語「蜚蠊(ひれん)」を当てたもの。
〈語源〉
 「ごきかぶり(御器噛)」が変化した語という。御器はお椀のこと。

蠍(さそり)
▼蛛形(ちゅけい)類サソリ目に属する節足動物。尾部に毒針を持ち、クモや昆虫などを捕食する。
〈漢字〉  漢語「蠍(かつ)」を当てたもの。「蝎」とも書く。

五月蠅(さばえ)
▼陰暦五月ごろ、うるさく群れ飛ぶハエのこと。夏のハエ。
〈漢字〉
 「サバエ」の「サ」は、サツキ、サミダレ(五月雨)のサで、五月を表すところから、「五月」と「蠅」を用いた。「五月蠅い」と書いて「うるさい」と読む。

縞馬(しまうま)
▼ウマ科の哺乳動物。馬をやや小型にした形で、からだの表面は白または淡黄褐色の地で、黒い縞がある。
〈漢字〉
 からだの黒い縞模様から「縞馬」と書くほか、その縞を「まだらな斑」と見て「斑馬」と書くことも。

紙魚(しみ)
▼総尾目シミ科に属する昆虫の総称。家の中の暗い所に棲み、本や衣類の糊を食べる。
〈漢字〉
 からだの形を魚に見立てて、いずれの場合も「魚」の字を使う。そして紙を食う虫の意で「紙魚」、衣類を食う虫の意で「衣魚」と書く。「蠧魚(とぎょ)」の「蠧」はもともとキクイムシの意であるが、後に衣類を食うシミも意味するようになった。
〈語源〉
 シミは、同義の漢語「蟫(しん)」 の変化したものか。

蝦蛄(しゃこ)
▼シャコ科甲殻類の総称。浅い海の砂泥地に穴を掘って棲む。味にすぐれ、寿司の種などになる。
〈漢字〉
 漢語「蝦姑(かこ)」を当てたもの。
〈語源〉
 シャコは、その色が似ているところからシャククヮエビ(石花蝦。シャククヮはシャクナゲ(石楠花)の略)の転とみる説もある。

鯱(しゃち)
▼イルカ科の哺乳動物。雄は体長約九メートルに達し、性格は獰猛。クジラ、アザラシ、サメなどを襲って餌とする。
〈漢字〉
 「鯱」は国字。頭が虎に似て魚の体をなすという想像上の動物「しゃちほこ(鯱鉾)」 に当てた字の転用。

【こころにまつわる語】

曖昧(あいまい)
▼物事がはっきりしない様子。いかがわしいこと、怪しげなことにもいう。
〈漢字〉
 「曖」は、暗い意、「昧」も夜明け前の薄暗い時、また、暗くてはっきりしない意をもつ。

齷齪(あくせく)
▼心にゆとりがなく、目先にだけ心をうばわれたようにせわしく事を行うさま。
〈漢字〉
 「齷(あく)」は、こせこせする意。また、せまいさまをいう。「齪(せく)」は慣用音で、漢音・呉音「さく」は、せせこましいさまをいう。

阿漕(あこぎ)
▼度(たび)重なること。また、どこまでもむさぼるさま。情け容赦もないさま。「阿漕が浦に引く網の度重なれば…」と古歌に見える。
〈漢字〉
 伊勢国阿濃郡(三重県津市)の東方一帯の海岸、阿漕が浦の、「阿漕」から。その「阿漕」は、伊勢神宮に供えるための禁漁区であったが、ある漁師がたびたび密漁を行って捕らえられたという伝説があり、その伝説や古歌から度重なるの意が生じ、さらに転じたもの。

婀娜(あだ)
▼女性の、たおやかで美しいさま。また、女性の色っぽくなまめかしいさま。
〈漢字〉
 漢語「婀娜」の「婀(あ)」は、たおやか、「娜(だ)」は、なよなよとして美しい、の意をもつ。近世後期以後、「仇(あだ)」(害を加えようとするもの、恨みなどの意をもつ)を当てることがあるが、本来別語。

阿婆擦れ(あばずれ)
▼悪く人ずれがして、厚かましいこと。また、そのような者。多くは女性にいうが、古くは男女ともにいった。すれっからし。
〈漢字〉
 「阿婆」は、当て字。「擦れ」は、多くの人に接して世慣れる、などの意の動詞「擦れる」の連用形の名詞化。
〈語源〉
 アバはアバレ者から出た語とも、中国語の父母と同列以上にある血族関係の女性をいう阿婆からともいう。また、これに「すれからし(擦枯)」の「すれ」をつけたものとも。

鯔背(いなせ)
▼勇み肌で粋な若者。また、その様子、気風。
〈漢字〉
 「鯔」は、ボラの幼魚。江戸後期、江戸日本橋の魚河岸の若者たちが、イナ(鯔)の背のような髷(まげ)(鮨背銀杏(いなせいちょう)ともいう)を結んだことによるとも、新吉原の勇み肌で美声の地回りが「いなせとも」で始まる小唄を歌って歩いたところからともいわれる当て字。

 『週間金曜日』の記事を枕にしようと思って始めたが、つい長ーい枕になり、枕だけで終わってしまった。表題を「番外編」と変えた。本論は次回に。
《続・「真説古代史」拾遺篇》(30)

狗奴国の滅亡(11)
崇神記をめぐって(2)
「任那」問題(1):「任那=狗邪韓國」


 「任那」問題では架空論を唱える韓国の学者がいたが、その論拠の一つであった広開土王碑改削説がくずれた。金石文の中に「任那」が刻まれているのだから架空論を維持できるわけがない。さらにまた、その後の考古学的発見もあって、今では架空論者はいなのではないだろうか。

 任那が実在した事を示す史料の代表として誰もが宋書倭国伝と広開土王碑を取り上げている。しかし、あまり知られていない史料がある。『翰苑』である。古田さんがそれを『邪馬壹国の論理』で取り上げているので紹介しておこう。

 太宰府天満宮に張楚金の『翰苑』第30巻が蔵されている。唐の顕慶5年(660)、つまり白村江の戦いの3年前に成立した本だ。だが、この倭国の項の研究は少ない。まして他の蕃夷(ばんい)の国々(14国)の記事には多くの貴重な史料が含まれているが、見すごされてきたようだ。

 たとえば、最近よく議論される「任那」問題。これを“まぼろしの存在”“架空の国名”であるかに見なす人々がある。しかし同書の新羅の項にその実在が次のように明記されている。

地、任那を惣(す)ぶ。〈雍公叡註〉今、新羅の耆老(きろう)に訊(き)くに、云う『加羅・任那は、昔新羅の為に滅ぼさる……』と。

 大方の論者は任那を朝鮮半島南西部(加羅あるいは伽倻)あたりに求めているようだが、具体的な位置やその実体については未だに議論百出で定説はないようだ。

 ところで、「任那」をネット検索していたら『「任那」について』という論文に出会った。ふんだんな史料を取り上げて論考を重ねていて任那関係の資料を知るのには大いに使える。しかし、残念なことにその論考はスタートで大きな間違いをしている。その後の論旨は、間違ったスタートの仮説に都合のよいように史料を取捨選択し、解釈するという方法が貫かれている。

 論文の最後にプロフィルが書かれている。論者は矢治一俊という方。過去の論考を紹介している。その中に
論考:『隋書俀国伝』の証明 市民の古代 第14集 1992
があった。「市民の古代」というのは「古田史学会」の前身の研究会と理解しているが、今はお一人で研究を進めておられるようだ。

 さて、矢治論文のスタートでの間違いは「崇神紀」の任那記事の誤読である。その結果、任那を対馬(氏自身は初めは壱岐を考えていたようだ)に比定している。私としては始めて出会う説だ。検討してみよう。「崇神紀」の記事は次の通りである。

六十五年秋七月に、任那國、蘇那曷叱知(そなかしち)を遣(まだ)して朝貢(みつぎたてまつ)らしむ。任那は、筑紫國を去ること二千餘里。北(きたのかた)、海を阻(へだ)てて鷄林(しらき)の西南に在り。

 これを矢治氏は
「任那は筑紫から二千里あまりのところにあり、北は海に阻まれ新羅の西南にある」
と解釈している。そして次のように述べている。

 任那は朝鮮半島内にはないことをほのめかしている。この「北阻海」の「北」を従来、日本の北のことに解釈してきたようであるが、原文をみれば「北阻海」の主語は「任那」であり、「阻海」は「任那」の「北」であることは明らかである。『日本書紀』全体をみても「任那」が朝鮮半島にあると明確に記述したものはない。となれば任那の位置を示すものは、『日本書紀』においては崇神天皇65年の記事しかなく、それによれば「任那」はどうみても朝鮮半島内には存在し得ないのである。先入観に侵されている日本の学者がそういっているだけなのかもしれないが、任那を朝鮮半島内の国としている『日本書紀』においてさえこのように書かれているのであり、ここには真実味がある。李炳銑氏は崇神天皇65年の「任那者去筑紫國、二千餘里」と、『魏志』倭人伝の「對海國」から「末盧国」までが二千余里であるという記事から、筑紫国から二千余里の任那は対馬だとするが、私も『日本書紀』の任那は基本的には対馬のことを指しているのではないか(日本列島内に複数あったのではないかとも考えられる)、という見方に傾きつつある。

 問題点は二つある。一つ目は、原文「北阻海以在鷄林之西南」を定説(〈大系〉)は「北、海を阻(へだ)てて」と読んでいるのに対して、矢治氏はこれを「北は海に阻(はば)まれ」と受身形で読んでいる。果してこれは妥当だろうかという問題。

 漢文では受身の表わし方は三通りある。
(1)
 「被」「見」「遇」「為」「所」(「為」「所」を組み合わせた「為 所」もある)などの下にある動詞に「らる」という受身助動詞をつけて受身に読む。
(2)
 「於」「乎」「于」(それらの組み合わせ)の下の語句に「らる」をつけて受身に読む。


 以上から「北阻海」を受け身で読むことはできないと言おうとしたがそうはいかなかった。厄介なことに

(3)
 意味上受身と取れるときには、受身形で読む。

という例外事項があるのだ。つまり文脈から判断しろと言う。やってみよう。

 「任那者去筑紫國二千余里。(A)北阻海以(B)在鷄林之西南」の矢治氏の解釈は「任那は筑紫から二千里あまりのところにあり、北は海に阻まれ新羅の西南にある」だった。(A)の主語も任那だという解釈である。任那の北は海なのだから任那が朝鮮半島内にあるわけがないという理屈だ。これを根拠として「任那=対馬」という説を提示している。これは(B)を全く無視した解釈だ。対馬は新羅(鷄林)の西南にはない。ほとんど真南である。西南方向にあるのは済州島・上海だ。

 一定の地点からある地点までの位置を示すには距離と方向が必要だ。どちらが欠けても意味をなさない。数学用語を用いれば極座標である。原点oからの距離rとx軸の正の方向とのなす角θを用いて点P(r,θ)を表す。今の場合、原点oは「筑紫」、x軸の正の方向は「東方」で点P(任那)は(二千余里,北)と書かれているのだ。任那が主語として係っているのは(B)だけである。(A)は定説通り「北、海を阻(へだ)てて」が正しい。

 もう一つの問題点は「二千余里」の扱いである。魏志倭人伝では「對海國」から「末盧国」までが二千余里とあるから、筑紫国から二千余里の地点は対馬だと矢治氏(あるいは李炳銑氏)は論じている。これも粗雑な議論だ。

 「崇神紀」の二千余里は極座標の距離で直線距離である。それに対して魏志倭人伝の二千余里は古田さんが論証したように周旋距離の和なのだ。詳しくは『「邪馬台国」論争は終わっている。(5)』 をご覧いただくとして、ここでは里程イメージ図だけを転載しておく。

周旋図

 もう一つ、矢治氏(あるいは李炳銑氏)が全く取り上げていない重要事項がある。二千余里という距離である。全く何の検討もせずに「筑紫―対馬」間を二千余里として、これが現在の単位でいうとどれくらいの距離なのかまったく検討していない。たぶんお二人は長里を念頭に置いていて困っているのではないだろうか。だからあえて詳論しようとしない。

 この問題の解はこうだ。古田さんの論証にあるように倭人伝は短里を用いている。そして、何と崇神紀の二千余里も短里なのだった。約150㎞である。地図上でコンパス測定をしたら、倭人伝に出てくる地名で言うと、ちょうど狗邪韓国辺りに指している。長里(短里の6倍)だと高句麗の北の国境辺りになってしまう。

 狗邪韓国は原点oを新羅(鷄林)としたときの「θ=西南」とピッタリ一致する。距離rが書かれていないのは新羅の隣接地(r≒0)だからだ。「任那=狗邪韓國」だった。

 『日本書紀』の編纂者(720年頃の知識人)は唐時代の長里を用いていただろう。矢治氏(あるいは李炳銑氏)と同様に「二千余里」の検討などしないで、短里を使って記録されていた九州王朝の記録をそのまま盗用したのだった。

矢治氏(あるいは李炳銑氏)は「井の中」の住人ではないが、古田史学を無視している点では同類である。「任那=対馬」説は古田史学無視が起こす悲喜劇の一つである。
《続・「真説古代史」拾遺篇》(29)

狗奴国の滅亡(10)
崇神記をめぐって(1)
「二人のハツクニシラス」論


 いよいよ本テーマにに入ります。

 狗奴国を滅亡に追い込んだのは崇神と垂仁だ。その戦いのあらましは『ヤマト王権の近畿侵略史』の中で次のような表題で取り上げている。

「イワレヒコから第九代まで」
「木津川の決戦」
「沙本城の戦い(1)」「沙本城の戦い(2)」「沙本城の戦い(3)」

 これらの記事の内容を既知のこととして議論を進めることにする。つまり今回は上記の記事の補充ということになる。その時に割愛した(あるいは見過ごしていた)重要事項を取り上げたい。

 「井の中」で神武架空説が頑迷に繰り返される大きな理由の一つが「二人のハツクニシラス」である。騎馬民族説もこれを重要な根拠の一つとしている。次のような理路である。

 「ハツクニシラススメラミコト」という称号で呼ばれている天皇は神武と崇神と二人いる。「ハツクニシラス」とは第一代という意味であり、第一代天皇が二人いるはずがない。真の第一代は崇神であり、神武~開化までの天皇は「万世一系」を偽装するために造作された架空の人物である。

 実は『古事記』には「ハツクニシラス」という表記はない。それに当たる表記は次の即位記事である。

畝火の白檮原宮に坐しまして、天の下治らしめしき。
(原文:坐畝火之白檮原宮、治天下也。)


 言うまでもなく「治天下」は「ハツクニシラス」とは読めない。崇神の場合は所知初国天皇で確かに「ハツクニシラス」である。つまり『古事記』では「ハツクニシラス」は一人だけでということになる。

 『日本書紀』では次のようになる。

天皇、橿原宮に即帝位(あまつひつぎしろしめ)す。……始馭天下之天皇を神日本磐余彦火火出見天皇と曰す。

 『日本書紀』の崇神は御肇国天皇である。崇神の場合はどちらも「ハツクニシラス」と読むことに違和はない。しかし、神武の「始馭天下」をも「ハツクニシラス」と読むのは理にかなっているのだろうか。

 まず、「初国(あるいは肇国)」と「天下」では意味が異なる。前者は文字通り「最初の国」だ。(とりあえず常識的な意味にしておくが、これは「建国」という意ではない。後ほど修正することになる。)

 後者については『「天の下」とは何か。』で論証した。結論だけ述べると、記紀では「九州近辺から近畿へ」来ることを「天降る」と言い、その「天降った」先が「天の下」である。つまり「始馭天下」とは「はじめて天下った先を統治する」という意である。

 古田さんは「始馭天下」を「ハツクニシラス」と読むこと「否」としている。『ここに古代王朝ありき』第三部・第二章「銅鐸圏の滅亡」から引用する。

 これ(始馭天下)は、ちょっと「ハックニシラス」とは読みにくい。そこで古写本をしらべてみた。奈良・平安・鎌倉と下ってきても、ハックニシラスという振仮名は見つけられない。16世紀室町時代(北野本・卜部兼右本)に至って、はじめてあらわれる。すなわち、これは室町期の学者の認識をあらわす読みだ。これを『書紀』原本のものと速断できない。それに肝心なこと、『書紀』 は本来漢文で書かれており、振仮名は後世のものだ。だから〝いきなり振仮名で勝負する″のは、史料批判上、危険なのだ。

 『書紀』の本文(始馭天下)は、「ハジメテアメノシタニシロシメス」とは読めても、「ハツクニシラス」とは読めない。崇神については和訓に近い表記があった『古事記』にも、ここでは全くその痕跡がない。すなわち二書とも神武については、「ハックニシラス」の称号がある、とは言えないのである。これはどうしたことだろう。

 続いて古田さんは崇神の「初国」も決して「建国」の意ではないと述べている。

 この問題の回答は、「ハツクニ」の語義にある。「初国(ハツクニ)」に対する反対語は「本国(モトクニ)」だ(仁徳記・顕宗記等)。後者は〝本来の故国″の意。前者は〝新たに統治した国″の義だ。いわば新占領地である(用例は『盗まれた神話』参照)。

 とすると、崇神については明白に「ハツクニシラス」と書いてあったのも、もっともだ。崇神ははじめて銅鐸圏の大和包囲網を突破し、新占領地を東方に、北方に、さらに山城・河内へとひろげ、はじめて大和を「孤立の地」でなく、「近畿の中枢地」とした、そういう拡大圏の支配地としては、まさに〝初代″だったからである。

 以上のように、津田左右吉によって示唆され、肥後和男によって明確化され(のち、肥後は撤回)、井上光貞・直木孝次郎等によって「定説」化された、この 「二人のハックニシラス論」の、よって立つ史料批判的基礎は、あまりにも薄弱だったのである。

 崇神の遠征については「木津川の決戦」をご覧いただくとして、ここでは『ここに古代王朝ありき』に掲載されている「崇神の遠征図」を転載しておく。

崇神の遠征図

 「モトクニ・ハツクニ」については『盗まれた神話』参照とあるので、該当部分を引用しておこう。

(A)
凡そ佗国(あだしくに)の人は、産む時に臨みては、本国の形を以て産生す。故、妾(あれ)今、本身を以て産を為す。(海幸・山幸説話、豊玉毘売)
(B)
然(しか)るに其の大后の嫉みを畏(おそ)れ、本国に逃げ下る。(仁徳記、黒目売)
(C)
僕(あ)は甚だ耆老(おい)たり。本国に退らんと欲す。(顕宗記、置目の老媼)


 右の「本国」とは、それぞれ(A)海神の国、(B)吉備の国、(C)淡海の国を指す。代々住みついている故国のことである。

 さて、崇神段階の近畿天皇家にとって、「本国」といえば、どこだろう。当然、この時点では「大和の国」である。神武→開化の九代は、この大和の一角に割拠していた。ところが、第十代の崇神に至って、〝大和の外への侵略″が開始された。「東方十二道」への征服軍の派遣がこれである。そのとき、高志(越)の国へ派遣された大毘古(おおひこ)命と、東方経由で派遣されたその子建沼河別と、この二大征服軍の父子が相津(福島県)で出逢った、という逸話が記されている。この逸話の直後、つぎの文があらわれる。

是を以て各遣はされし国の政を和(やわ)らぎ平げて覆奏す。爾(かれ)、天下太平、人民富栄。是に於で初めて男の弓端(ゆはず)の調(みつぎ)、女の手末(たなすえ)の調を貢(たてまつ)らしむ。故(かれ)、其の御世を称して、初国(はつくは)を知らしし御真木(みまき)の天皇(すめらみこと)と謂ふなり。(崇神記)

 右によって、「初国統治しという称号は、〝新しい東方征服″に関連している、とされている。つまり、「本国」なる「大和の国」に対して、「東方十二道」の〝新征服地″が「初国」なのである。だから、この称号は〝新しい征服地を統治する天皇″という意味だ。すなわち、「建国第一代」などとは、とんでもない。祭神以前ながらく本国内だけ統治していた時期の天皇たち(第一~九代)と区別した称号、いいかえれば、前九代の存在を前提にしてつけられた称号である。だから、あえていえば、この称号は 〝崇神が「建国第一代」とは考えられていない″という事実の証明には使えても、断じてその逆ではない。

 たとえば、例の高句麗の好太王。彼は「国岡上広開土境平安好太王」と呼ばれた。新しく〝征服地を拡大した″ことをたたえたのである。だからといって、この称号をもとに、彼が高句麗建国第一代の王である証拠だ、などといっても、だれも承服すまい。ところが、今までの「崇神=第一代」論者は.これに類した論法を駆使してきたのであった。

 「神武~開化」架空説という誤謬で曇った目では決して見えない真実が明らかにされている。論理的に解明される史料事実は全て「神武~開化」架空説を否定している。

 なお「相津(福島県)」について一言。
 「東方十二道」として本居宣長は「伊勢・尾張・参河・遠江・駿河・甲斐・伊豆・相模・武蔵・総・常陸・陸奥」を挙げているそうだが、崇神の時代に陸奥国まで遠征したなど、私にはとても受け入れることができない。『「東国」問題(2)』で調べたことを再録する。

 『日本書紀』では陸奥は「陸奥の蝦夷」という表記で現れている。『続日本紀』を見ると、697(文武元)年10月19日と698(文武2)年10月23日に陸奥からの貢献記事があるが、そこでは「陸奥の蝦夷」と『日本書紀』と同じ表記になっている。「陸奥国」という表記の初出は702(大宝2)4月15日条である。

 陸奥国が日本国に帰属したのは7世紀のことである。建沼河別が派遣された地域は『古事記』では「東方十二道」となっているが、『日本書紀』では「東海」であり、相津の地名説話はない。この場合は『日本書紀』の方が真実を伝えていると思われる。「東海」とはせいぜい「伊勢・尾張・参河・遠江・駿河」ぐらいであろう。
《続・「真説古代史」拾遺篇》(28)

狗奴国の滅亡(9)
「倭の五王」は大和の王?(3)


 石渡氏の「倭の五王」九州説否定の論拠は崩れた。従って石渡氏が比定する「倭の五王」を検討する必要は全くなくなったわけだが、石渡説を空想的と決めつけた手前、石渡氏の「倭の五王」を紹介しなくてはならないだろう。「倭の五王」大和説という虚妄の仮説をどこまでも押し通そうとすると、どんな珍説を考え出さなければならなくなるか、そのよい見本と言える。

 石渡氏が崇神・応神の年代を4世紀・5世紀に繰り下げたことは前回紹介した。それはひとえに「崇神=倭王旨」・「応神=倭王武」を主張するための下ごしらえだったように思える。あとは崇神・応神の間に讃・珍・済・興を割り振ればよい。宋書倭国伝が記録している「倭の五王」の続柄だけを論拠に次のような系図を考え出した。


「│」「―」「‖」はそれぞれ親子関係、兄弟姉妹、婚姻関係を示している。
   旨(崇神)
    │
    垂仁
    │
 讃(イニシキイリヒコ)―珍(ワカキニイリヒコ)
    │
  イホキイリヒコ
    │
  済(ホムダマワカ)
    │
    興―ナカツヒメ―メノコヒメ
       ‖     ‖
       武(応神) 継体


 以下、《 》内の文章は石渡説から引用文です。

 石渡氏は「応神=倭王武」からさかのぼっての比定を試みるがうまく行かないので方針を変える。まず讃・珍の比定について次のように述べている。

《そこで、わたしは、武からさかのぼって比定することをやめ、在位年代からみて、讃をイニシキイリヒコに比定する。イニシキイリヒコは、崇神の孫にあたるから、420年ごろには即位していたと思われるので、イニシキイリヒコと421年に宋に朝貢した讃の在位年代が一致するからである。》

 宋書倭国伝に合わせるために「崇神の孫」の即位年を推定しているのだから「在位年代が一致」するのは当たり前である。全く論証になっていない。

《そして、『宋書』には、讃の死後、弟の珍が倭王となったと書いてあるので、『記紀』 にイニシキイリヒコの弟と記されているワカキニイリヒコは珍に比定される。ワカキニイリヒコは、垂仁の大后ヒバスヒメが生んだ皇子で、称号にキ・イリがあるから、兄弟相続制が残っていた当時、イニシキイリヒコの後継者として即位したとみていい。》

垂仁の子供は男13人・女3人いる。男の中で「命」という称号が付いているのは①ホムツワケ、②イニシキイリヒコ、③オホタラヒコオシロワケ、④オホナカツヒコ、⑤ワカキイリヒコ、⑥ヌタラシワケ、⑦イガタラシヒコ、⑧イコバヤワケの8名。他の5人は「王」という称号。「命」の中から②⑤を選んだ根拠はキ・イリという共通の称号があるからだという。このような根拠で選べるのなら、オホが共通だから③④を選ぶこともできる。「オホ=大」だからこの方がふさわしいとも言えよう。いやいや、③は架空の天皇景行だから都合がわるいか。

《『宋書』が珍と済の続き柄を記載しなかったのは、済=ホムダマワカが、珍=ワカキニイリヒコの甥イホキイリヒコの子であって、済が珍からみてかなり遠い関係にあったからであろう。》

 讃の後を継いだとされているイホキイリヒコは架空の天皇景行の子である。つまりオホタラヒコオシロワケ(景行)に代わってイニシキイリヒコを景行の代役にしている。

 次にイホキイリヒコの子とされている済=ホムダマワカとは応神に三人の娘を嫁がせている王である。その三人の娘の名は高木之入日賣命・中日賣命・弟日賣命。応神が婿入りしたとしているナカツヒメは二女。ホムダマワカについては分注に〈此女王等の父、品陀眞若王は、五百木之入日子命、尾張連の祖、建伊那陀宿禰の女、志理都紀斗賣を娶して、生める子なり〉とある。確かにイホキイリヒコの子である。

 また、継体の妃となっているメノコヒメは上の三人の中にはいない。継体記に出てくる目子郎女のことだろう。「又尾張連等の祖、凡連(おほしのむらじ)の妹、目子郎女を娶して…」とある。中日賣命と目子郎女を姉妹にしているのだから恐れ入る。しかし、石渡氏にとっては十分な理由がある。「仁徳~武烈」を架空の天皇にしてしまったのだから、継体を応神の義兄弟にしないわけにはいかないのだった。

 このようにいろいろと人探しをしているが、興に当たる人物が見つからない。「武の兄の興は、『古事記』が隠しているので、系図には出ていない」と苦しまぎれの言い訳をしている。興だけ隠して、他の四王はどうして隠さなかったのだろう? メノコヒメが目子郎女のことなら、その兄の凡連が興ということになるが、さすがに「連」を天皇にするわけにはいかないか。

 イホキイリヒコを五王の一人にしていない理由は次のようだ。

《済=ホムダマワカの父イホキイリヒコは、珍=ワカキニイリヒコの太子の地位にいたが、何らかの事情で即位できなかったのであろう。そこで、イホキイリヒコの子の済(ホムダマワカ)が珍の死後、倭国王となったと推測される。》

 そうではないだろう。イホキイリヒコ=済、ホムダマワカ=興としてしまうと、崇神が入り婿であるという自説と自己撞着(婿入りの相手がいない)するからだろう。

 以上のように石渡説は論拠なしの推測に始終している。「井の中」の定説以上に空想的だ、という私の断定を分ってもらえただろうか。

 最後に「倭の五王」大和説が虚妄である証左の駄目押しをしておこう。『旧唐書』倭国伝の「日本国は倭国の別種なり」は有名だが、「倭の五王」と同時代の史書にも証言があるのだった。

(以下は『邪馬一国の証明』所収論文『「謎の四世紀」の史料批判』が教科書です。)



 古田さんは『南斉書』倭国伝を取り上げている。

南朝は宋(420~479)・斉(~502)・梁(~557)・珍(~589)と続く。『南斉書』の著者・簫子顕(しょうしけん~537)は南朝の官僚で、宋・斉・梁の三朝に仕えている。「給事中」という官職であった。「給事中」は「天子の左右に侍し、殿中の奏事を掌る」官職である。従って時の天子の側にあって倭王武の使者たちに直接対面し、応答していた人物である。「倭の五王」と同時代の人が『南斉書』倭国伝に次のような記録を残している。

倭国。
(A)
帯方の東南大海の島中に在り。漢末以来、女王を立つ。土俗巳(すで)に前史に見ゆ。
(B)
建元元年、進めて新たに使持節・都督、倭・新羅・任那・加羅・秦韓・〔慕韓〕六国諸軍事、安東大将軍、倭王武に除せしむ。号して鎮東大将軍と為せしむ。
((古田さんによる注:「慕韓」は脱落。(A)・(B)は古田)


 古田さんは(A)を次のように解読している。

 この冒頭の一句「帯方の東南大海の島中に在り」が、同じく「倭人伝」の冒頭の左の句を下敷きとしていることは明白だ。

倭人は帯方の東南、大海の中に在り、川島に依りて国邑(こくゆう)を為す。(魏志倭人伝)

 この先文を一句に圧縮しているのである。従って次の「漢末以来、女王を立つ」とは、卑弥呼・壱与のこと、「土俗已に前史に見ゆ」とは、直接には『三国志』の倭人伝を指すこと、一点の疑いもない。


 つまり、“この倭王武の王朝は、『三国志』の魏志倭人伝に記せられた女王たち(卑弥呼・壱与)の後継王朝である”とハッキリと記述しているのだ。「騎馬民族説」や「応神東征説」など、三世紀あるいは五世紀の倭国の政治権力に大きな断絶・移行があったことを大前提にしている全ての論説は成り立つはずがないのだった。

 さらに、古田さんは『翰苑』が引用している『広志』(4世紀前後の晋代の書)の記録を取り上げて
「その頃の倭国の首都圏は、筑紫(博多湾岸と筑後川流域)であり、「八女」付近は、その圏内南辺の中枢地となっていた。」
ことを論証しているが割愛する。詳しくは『「謎の四世紀」の史料批判』をご覧下さい。
《続・「真説古代史」拾遺篇》(27)

狗奴国の滅亡(8)
「倭の五王」は大和の王?(2)


 偶然本屋で古田さんの著作が目にとまった。一読してその見事な論証に感服した。それまで疑問に思っていた事柄が次々に解消していった。まだ古田史学のほんの一端を知ったばかりであったが、私自身の学習を兼ねて、多くの人と古田史学を共有したいと思い、古田史学をブログで紹介することに思い至った。それから6年も経過した。

 ブログを始めたときは古代史を取り上げることになろうとは想像もしていなかった。ブログで取り上げた話題は多岐にわたるが、私が取り上げる話題に関心を持たれる人はあまりいないだろうな、と思っていた。ところがなんと、今日アクセス数が50万を超えた。古代史以外の記事でも多くの拍手やコメントを頂いている。ありがとうございます。大きな励みになっています。

 さて、古田さんは文献解読に際しては一貫して「一切の先入観を排し、まず原文全体の表記のルールを見出す。つぎにそのルールによって問題の一つ一つの部分を解読する。」という研究方法を自らに厳しく課している。今回の「平西将軍」問題でもその方法が貫かれている。

(古田さんの「平西将軍」論は『邪馬一国への道標』(角川文庫)や『古代史の宝庫』(朝日新聞社)に所収されているようだが、両方とも私の手元にはない。近くの図書館にもない。幸い両書所収の該当論文がHP「新・古代史の扉」に公開されていたので、それをを利用させていただきます。「平西将軍の謎」「倭の五王論争」です。)

 ところで、石渡氏が引用した文中にはなかったが、武田氏は「平西」を「西を平らげる」という意味にとって、近畿の天皇が九州の熊襲などを征伐したという説話があることからも「平西将軍」は大和にふさわしい、と論じているそうだ。

 熊襲征伐が九州王朝の史書からの盗用記事であることはすでに論証済みだ。(「熊襲征伐」を参照してください。)このことからも既に上のような武田説が意味をなさない議論であることが明らかなのだが、当面の問題(平西将軍)に限って、古田さんによる反論を聞いてみよう。

 武田説に対して、古田さんは「平西」とは“西を安定した領域として維持する”という意味だと言う。その論拠として次の『晋書』張駿伝(管理人注:張駿は前涼の王)の一文を引用して論証を進めている。(以下は、「倭の五王論争」が教科書です。)

駿、又、護羌参軍陳寓、従事徐虓(こう)、華馭等を遣わし、京師に至らしむ。征西大将軍亮、上疏して言う。『陳寓等、険を冒し、遠く至る。宜しく銓叙を蒙る可し』と。詔して寓を西平の相に除し、虓等を県令と為す。

 「征西大将軍」というのは、建康から西のほうを討伐に行く遠征軍の将という意味ですが、同時に張駿の部下の陳寓を「西平の相に除し」と、つまり「西平の相」という名前を与えたというわけです。この場合は、張駿のいる涼州を「西」といっているわけです。

 涼州から見て、もっと西の彼方のどこかを、平げる宰相などというわけはないですね。“涼州自身を安定した領域に保ち、北朝系の支配に入らない”という意味を持った「西平」です。だから「西」自身が「前涼の王の都の領域」を指しているわけですね。こういう実例がちゃんと出ています。ですから、武田さんの論のように、倭の五王を近畿の王者と考えるのはやはり具合が悪いというわけです。

 さらに、問題になっている「平西将軍」そのものを考えてみよう。「平西将軍」が出てくる記事は宋書倭国伝(岩波文庫版)元嘉2(425)年条である。

太祖の元嘉二年、讃、また司馬曹達を遣わして表を奉り方物を献ず。讃死して弟珍立つ。使いを遣わして貢献し、自ら使持節都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍、倭国王と称し、表して除正せられんことを求む。詔して安東将軍・倭国王に除す。珍、また倭隋等十三人を平西・征虜・冠軍・輔国将軍の号に除正せんことを求む。詔して並びに聴(ゆる)す。

 古田さんは平西将軍が「どの地域を任地とする人物に対して任命されていたか」という視点を持って、宋書全体から任地の分る平西将軍を調べ上げている。次はその一例である。(以下は「平西将軍の謎」が教科書です。)

前の鎮軍将軍、司馬休之を以(もつ)て平西将軍、荊(けい)州刺史(しし)と為す」(武帝紀中)

 次はその全例の集計である。

〈刺史〉
荊州(7) 郢(えい)州(6) 予州(5) 雍(よう)州(2) 南予州(1) 益州(1) 益・寧二州(1)
都官尚書(1) 吐谷潭(とこくこん)(7) 氐胡(ていこ)(1)
(都官尚書は地名ではなく、役所名のようです。)

南朝宋の地図

(全地名を確認することはできないが、ウィキペディアから拝借した。)

この調査結果を古田さんは次のように分析している。

 これによって一目瞭然です。都(建康。今の南京)から見て“西方に当る地域”の刺史にこの称号が与えられています。ことに南予州(管理人注:揚子江の対岸)などは、都のすぐ西側のお隣、といった感じです。

 夷蛮に当る吐谷潭、氐胡の場合も、もちろん西方です。ただ一つの例外として都官尚書があります。これは当然都の任地ですが、これは“兼任”のようです。この点、倭国の場合は「東夷(とうい)」ですから、いささか異なっています。中国の都から見て倭国自体が「西」のはずはありませんから、これは明らかに“倭国内部”の視点です。いわば「メイド・イン・ジャパンの平西将軍」なのです。それに対し、中国の天子からの“追認”を求めているわけです。ですから、その「平西将軍の任地」は、「倭国の都から見て西方に当る地域」だということになります。

 これを今、具体的に考えてみましょう。博多湾岸の太宰府(だざいふ)あたりを都としますと、例の、かつて「一大率」のおかれていた伊都(いと)国。そこは都の西に当りますから、この地の軍事司令官はまさに「平西将軍」の称号にふさわしいものとなりましょう。もちろん、「平西」という言葉自体からなら、末廬(まつろ)国の故地、唐津(からつ)でも、いいわけです。壱岐あたりでも、不可能ではないかもしれません。

 だが、この「平西将軍」について、二つのヒントが倭国伝の文面に秘められています。

 第一。将軍号が「平西(へいせい)・征虜(せいりょ)・冠軍・輔国(ほこく)」と四つあげられていますが、その筆頭ですから、倭国内の臣下中では、最高位だと考えられます(「征虜」の「虜」については、『宋書』では北朝側を「索虜(さくりょ)」と呼んでいることとの関連が注目されます。また「冠軍」は“武官の一種”、「輔国」は“国をたすける”の義です)。

 第二。これらの官号をもらった人について、「倭隋等十三人」と書かれています。その筆頭は「倭隋」です。この「倭」が“倭王の姓”であることは、すでに『失われた九州王朝』の中で論証しました(「倭王倭済」〈宋書、文帝紀〉という表現があります)。従ってここの「倭隋」も当然倭王の王族だ、ということになります(高句麗(こうくり)王は高璉〉、百済王は余映。夫余の余)。でも、「高翼」「余紀」といった人物〈王族の臣下〉が国交の使者となったり、将軍号を与えられたりしています)。

 倭王の一族の「倭隋」が「平西将軍」だったとすると、いよいよ倭国内部での、この称号の高さが分ります。以上の二点から見ると、「平西将軍」の拠点は、“都の西”に当るだけでなく、“倭国内第一の拠点”という性格を帯びてくるのです。

 倭王珍を大和の王とした場合、“都の西”にある“倭国内第一の拠点”とは一体どこだろうか。大和論者が「平西」が“西を安定した領域として維持する”という意味だということを受け入れたとして、難波でも挙げるほかないだろう。何処にしようとも九州の伊都国ほどの説得力は持たない。

 古田さんの議論は、この後、魏志倭人伝にある伊都国の官名「爾支」をどう読むかという問題に続く。(詳しい論証は省く。「平西将軍の謎」を参照してください。)

 「爾支」は「ニシ」と読むという結論を得て、古田さんは次のように続けている。

 「爾支」は「ニシ」です。博多湾岸の都の中心域(博多駅ー太宰府)から見ての“西の拠点”を意味する言葉となります。
 伊都国には「一大率」がいます。これがこの「ニシ」と深い関係をもつことは当然です。長官「ニシ」自身が「一大率」の軍事権力をもつ。そういう可能性も十分ありましょう。倭王が“東夷の国”としては風変りな「平西将軍」の称号を第一の臣下に対して承認するよう、中国側に求めた、その背景には、この「ニシ=西」の称号があった、こう考えるのは、うがちすぎでしょうか。

 しかし、このような、いささか不確定要素をふくむ推定(たとえば「爾」にも、他に「ジ」「ディ」「ナイ」の音があります)は一応別としても、いま確認できること ― それは、九州に「都」がある場合も、その西方に拠点をもつ軍事司令官(長官)がこの「平西将軍」の号をもつこと、それは中国本土における用例から見て、何の不思議もない。 ― この一点です。

 以上のような古田さんの反論に対して、武田氏からの再反論はないということだ。
《続・「真説古代史」拾遺篇》(26)

狗奴国の滅亡(7)
「倭の五王」は大和の王?(1)


 「狗奴国の滅亡」という本題に入るためには「井の中」や「騎馬民族説」修正論などで「定説」になっている「崇神・応神=ヤマト王権の始祖王」説が虚妄であることをはっきりさせなければならない。石渡説にもう少しこだわってみたい。

 石渡氏が架空の天皇として切り捨てたのは景行・成務・仲哀・功だけではない。驚いたことに仁徳~武烈の10名も全て架空の天皇なのだ。こんなに大量に切り捨ててしまったら「倭の五王」をヤマト王権の中には置けなくなるだろう、と心配したが、無用の心配だった。

 「井の中」で行われている議論の中で、最も空想的な議論の一つが「倭の五王」についての議論だ。『「倭の五王」とはだれか』で取り上げた。とても学者の議論とは思えない。彼らは学者のお面を被った空想家だ。空想家には古田理論を無視しているために起こる悲喜劇が見えない。

 石渡氏の「倭の五王」説はさらに輪をかけて空想的だ。そのあらましを紹介しよう。

 まず、『古事記』に登場する天皇の中で石渡氏によって実在の天皇という栄誉を与えられた人物を確認しよう。(架空の天皇とされた人物を打ち消し線で示した。)

神武~開化
崇神(古始祖王と呼んでいる。)
垂仁
景行~仲哀・功
応神(新始祖王と呼んでいる。)
仁徳~武烈
継体・安閑・宣化・欽明・敏達・用明
崇峻・推古

 騎馬民族説(江上説)では崇神は邪馬台国を滅ぼして北九州に王朝を創設したとしている。石渡説での崇神は大和まで侵攻して、そこで王朝を創建している。また、石渡説では、応神は百済の王子昆支で、崇神王朝の入り婿となり新王朝を樹立したとしている。

 架空の人物を大量生産した石渡氏も、さすがに「倭の五王」と新肖古王から七支刀を送られた倭王旨を抹消することはできなきい。中国の正史あるいは金石文に残された史実なのだから。しかし、生き残った天皇に中に6人の王をみいだすことはできない。そこでまず考え出したのは崇神・応神の時代をくだんの6王と同じ時代に繰り下げることだ。主に天皇陵(前方後円墳)の築造年代・大きさ・埴輪などの出土品を根拠に、それぞれ340~400年・440~550年と推定している。キチンとした科学的検証(発掘調査)が行われていない天皇陵を根拠にする危うさを論じるのは今は置く。

 そして、「崇神=倭王旨」とし、垂仁~応神間の新たな天皇継承譜を作り上げて、「倭の五王」としている。「倭の五王」を何が何でも大和に持ってこようとしているのだ。石渡氏は「はじめに」で、古代史学会を支配している「大和中心史観」を排除する、と揚言しているが、何のことはない、「井の中」の住人であった。

 石渡説を読みながら、氏はまったく古田理論を知らないのだな、と推測していたが、さにあらず。「井の中」の学者たちと同じく、知っていて無視しているのだった。「井に中」の「倭の五王」説(大和説)に反対する論者(九州説)として奥野正男と古田武彦を挙げている。(三角縁神獣鏡を論じているくだりにも色々の説を並べている中に古田説も加えている。)

 「倭の五王」を大和に拉致するためには古田説を否定しなければならない。石渡氏は次のように古田説を否定している。

 前述のように、418年ごろまで新羅の王子末斯欣(みしきん)を人質としていた倭国は、崇神王朝が支配する倭国であり、その都は大和にあった。倭王讃が宋に朝貢したのは、末斯欣の脱出事件よりわずか数年後の421年のことであるから、讃が崇神王朝の王であることはいうまでもない。

讃・珍が、北部九州の王ではなかったことは、宋から与えられたかれらの将軍号からも知ることができる。『宋書』倭国伝によると元嘉(げんか)15年(438)珍が安東将軍・倭国王に任ぜられたとき、同時に珍の部下の倭隋(わずい)ら13人も平西(ヘいせい)・征虜(せいりょ)・冠軍(かんぐん)・輔国(ほこく)の将軍号を授けられている。

 「安東将軍」や「平成将軍」などのように、東・西・南・北の方位が入っている、中国南朝の将軍号を検討した武田幸男(たけだゆきお)(「平西将軍・倭隋の解釈」『朝鮮学報』77)は、倭隋に授けられた「平西将軍」という将軍号について、つぎのような見解を発表している。

 倭王などの諸王に与えられた方位を含む将軍号は、南朝歴代の首都建康(南京)を起点とする方位によって選ばれている。倭の五王の将軍号がすべて東方を指すのはそのためである。ところが、諸王の部下の将軍号の方位は、諸王の王都を起点として表記されている。珍の部下に与えられた「平西将軍」の号が、倭王の将軍号とまったく正反対の方位を示しているのは、倭国の王都を起点として表記されたからである。したがって、倭国の王都を畿内としてはじめて「平西将軍」の意味が具体的に理解できるのであって、もし倭国の王都を北部九州とすれば、その西方とは、はたしてどの地方を指すことができようか。

 この武田説は、讃・珍の王都が北部九州にはなかったことを明確にしたといっていい。

 宋の官制においては、平西将軍は安東将軍のすぐ下の地位であり、定員一人の官であるから、珍の臣下として将軍号を与えられた三人の中で一人だけ名が記されている倭隋が平西将軍に任ぜられたとみられている。また、『宋書』は、讃を「倭讃」、清を「倭王倭済」と書いているので、「倭」が国王の姓とされているが、倭隋は、国王と同じ「倭」の姓を名乗っていることから、王族とみなされている。讃・珍の王都を大和とすれば、崇神王家の一族である平西将軍倭隋が担当した地方は、大和からみて西方にあり、加羅地域と最も近く、軍事的にも重要な位置を占める九州地方とみるのが最も自然である。

(中略)

 『宋書』には、珍と済の続き柄が記されていないが、前述のように、済は讃と同じく「倭」を姓としているから、崇神王家の一族であることは間違いない。そして、興と武は済の子であるから、倭の五王はすべて崇神王朝の王とみていい。また、珍のあとの済・興・武の在位年代である、五世紀後半から六世紀初頭までの間も、「大王墓」とみられる巨大古墳は畿内に集中しており、北部九州の勢力と比べて畿内の勢力がはるかに強大であったことを示している。これらのことから、済・興・武の時代にも王都は畿内にあったことがわかる。したがって、倭の五王を「九州王朝」の王とする古田説も成立しない。

 前段と最後の段(中略の後の段)では「崇神は倭王でその都は大和にある」という論証抜きの大前提のもとで、「倭の五王」は「倭」を名乗っているから全て崇神王家の王であると言っている。前回の神武架空説の論証と同様、一種のトートロジーである。これは全く論証の体をなしていない。巨大古墳を論拠にする誤りは前回に指摘済みである。

 一応論証という体をなしているのは石渡氏が引用している武田説である。こういうまともな論証にはまともに応えなければいけない。しかし、私にはその力量はない。だが、幸いにもこの武田説に対しては古田さんの反論があることを知った。それを次回に紹介しよう。
狗奴国の滅亡(6)
神武東侵と欠史八代は虚構か(3)
「和風諡号」論(2)
「陵墓の大きさ」論


(2012/02/26に書き換え・追記をしました。)

(前回の諡号分類表をご覧になりたい場合は『「和風諡号」論(1)』を併用すると便利です。)

 この表を先入観なしで見たとき、「祖先たちの名前の一部を現存の子孫の名前に取り入れて、祖先との深い繋がりを表明したいのだな」と考えるのが理にかなっていると思うがどうだろうか。これは親が子を命名するときに古から今にいたるまで用いられている周知の命名法だ。だから普通は当然このように考える。

 だが「井に中」では「現在の子孫の名前の一部を取り入れて祖先の名前に取り入れている」という逆立ちした論理がまかり通っている。なぜこのような逆立ちした論理がまかり通るかというと、それらの祖先たちは架空の人物だからだと言うのである。ならばその架空性を証明しなければならないはずだ。ところが「現在の子孫の名前の一部を取り入れて祖先の名前に取り入れている」ことをその架空性の論拠にしている。まったくめちゃくちゃな論理である。

 しかし「和風諡号」論者にとってはこのような指摘は「何処吹く風」なのだ。「井の中」での論法は次のようになのだ。「なによりも津田左右吉が架空の人物と言っているのだからそれでよいのだ」。しかし、その津田説を証明した学者は一人もいないようだ。

 さて、「和風諡号」論者(あるいは「騎馬民族説」修正論者)にとって、その論理を貫徹した場合、困ったことが起こる。第4グループの(4)「ワケ」である。

(4)「ワケ」

(A)
第15代 ホムタワケ(応神)
第17代 イザホワケ(履中)
第18代 タヂヒノミヅハワケ(反正)

(B)
第38代 アメミコトヒラカスワケ(天智)

 近畿を征服した応神や「倭の五王」に比定したい履中・反正が架空の人物になってしまうのだ。この難局を切り抜けるための「井の中」論理はこうだ。

 グループ(1)(2)(3)では、実在天皇名(B)にもとづいて架空の天皇名(A)が造作された。これに対してグループ(4)の場合は、(A)(B)ともに実在の天皇であり、(B)の天皇名にもとづいて、(A)の天皇名をさらに修飾したのだ。つまり本来は「ホムタ」「イザホ」「タヂヒノミヅハ」とよばれていたのを天智の和風諡号の中の「ワケ」を付加して、「ホムタワケ」「イザホワケ」「タヂヒノミヅハワケ」と呼ぶことにした。

 グループ(4)に適用した論法はグループ(1)(2)(3)にも適用できる論法だ。「造作」説と「修飾」説はともに一貫性を保って用いられるべきではないのか。その二つはそれこそ「矛」と「盾」の関係にある。「井の中」の論理は都合によって「矛」と「盾」を入れ替えているに過ぎず、いずれにしても「矛盾」の環から出ることはできない。なんともあきれたご都合主義である。

 グループ(4)にだけに「修飾」説を適用して特別扱いしなければならない理由は明らかだ。『宋書』倭国伝をまで「造作」とすることは出来ない。『宋書』倭国伝が史実を記録したものならば、「倭の五王」は履中~雄略あたりに比定する外ない。これらの天皇が架空では困るのだ。グループ(4)に適用した「修飾」説は「和風諡号」論と『宋書』倭国伝を両立させるための苦肉の策だった。

③神武の陵墓が考古学的に問題にならない

 神武架空説の三つ目の論拠は謂わば「陵墓の大きさ」論である。石渡氏は次のように論じている。

 橿原市にある現在の神武陵は、1850年に神武の陵ときめられ、1861~63年間に現在の形に整えられたものであるが、考古学的には認められていない。

 神武の東征・大和平定の説話は、大和に王都を置いた、古代国家の始祖王の史実を反映していると考えられる。そして、そのような国家建設の時期は古墳時代であるから、その始祖王の墓としては巨大な古墳が築造されたはずであり、神武がもし実在の初代天皇であったとすれば、それにふさわしい巨大古墳があってしかるべきである。したがって、現在、神武の墓として、考古学的に認められるような古墳が残っていないことは、神武が実在しなかった証拠といえる。

 これも論証になっていない顛倒した論理である。次のように主張しているのだ。

神武・欠史八代は架空の天皇。

よって、古代国家の古始祖王は崇神。

景行・成務・仲哀・功は架空の天皇。

よって、古代国家の新始祖王は応神。

神武説話は史実を反映しているが、その史実とは「古代国家の始祖王」つまり崇神による近畿征服。

崇神は古墳時代の天皇だから、その墓は巨大な古墳のはず。しかし、奈良県橿原市には巨大な古墳はない。

よって神武は架空の天皇。

 「神武は架空」から始まって「神武は架空」という結論に達した、というわけだ。

 この論理には次のような混乱も含まれている。

 石渡氏は「はじめに」で自説の概略を説明している。神武については次のように述べている。

 『日本書紀』は、5世紀末における百済系王朝の成立を隠し、百済系王朝が太初から日本列島を支配していたと主張するために、応神などの実在の大王(天皇)から、神武(じんむ)という架空の初代天皇を作り出し、辛酉(しんゆう)革命説という中国の思想にもとづき、その即位年を紀元前660年にした。

 崇神・応神の古代国家を太古からの王朝と偽装するために神武という初代天皇を造作したと言っている。そうならば、神武の墓が古墳時代のような巨大古墳ではなく、慎ましく小さな墓であることは偽装・造作にかなっていることになる。

 また、石渡氏は神武説話の内容をまったく論じていないが、まさかまったく読んでいないなんていうことはあるまい。神武架空説の立場から、その内容に次のような疑問はを抱かなかったのだろうか。

 崇神・応神の人となりを『日本書紀』は次のように描いている。(大和を征服したのは江上説では応神、石渡説では崇神。)

崇神
識性(みたましひ)聡敏(さか)し。幼(わか)くして雄略(ををしきこと)を好(この)みたまふ。既に壯(をとこざかり)にして寛博(ひろ)く謹愼(つつし)みて、神祇(あまつかみくにつかみ)を崇(かた)て重(あが)めたまふ。恆(つね)に天業(あまつひつぎ)を經綸(をさ)めむとおもはす心(みこころ)有(ま)します。

応神
幼(いとけな)くして聰達(さと)くいます。玄(はるか)に監(みそなは)すこと深(ふか)く遠(とほ)し。動容(みすがたみふるまひ)進止(のり)あり。聖表(ひじりのしるし)異(あや)しきこと有り。

 ともに完全無欠の人物として、最大級の讃辞を与えている。

 これに対して神武説話はどうだろう。初戦で完敗し兄は戦死する。その後は背後からヤマト入りしささやかな拠点を獲得するが、それまでの戦闘は卑怯な騙し討ち・残虐な殺戮の連続で、情け容赦のない極悪非道な人物になっている。でっち上げたお話なら『日本書紀』の描写した人物らしく、正々堂々と戦って近畿全体を掌握した上、征服した敗者にもそれなりの敬意を払った処遇を与え、新しい民には慈悲深い施政をほどこす、といったように作れただろうに。おかしくはないか。これは逆に神武説話がリアルであることを示しているのではないだろうか。

 神武架空説者で上の問題を取り上げた者は皆無である。

 以上見てきたように、石渡氏の論法は論証というのにはほど遠い。結論が先にあって、その結論に合いそうな文献の断片、考古学上の成果、あるいは過去の学者たちの論説を用いて強引に自説に結びつける。理論全体がそのような手法の積み重ねで成り立っている。

 最後にもう一つ、「陵墓の大きさ」論について触れておきたい。石渡氏は「倭の五王」を応神王朝(近畿)の一族に比定している。その論拠の一つとして「陵墓の大きさ」論を用いている。次のように述べている。

 5世紀後半から6世紀初頭までの間も、「大王墓」とみられる巨大古墳は畿内に集中しており、北部九州の勢力と比べて畿内の勢力がはるかに強大であったことを示している。

 これも検証抜きで「井の中」の論法を踏襲しているだけである。既に「戦後古代史学の欺瞞ぶり」において批判済みの問題だ。そこでは多面的に陵墓問題を論じているが、ここでは「陵墓の大きさ」論だけを転載しておこう

古墳の大きさの問題

 小さい古墳の所有者より大きい古墳の所有者の方が勝る。後者が前者を支配しているという判断らしい。常識的に考えてもなんら科学的な根拠のない馬鹿らしい推論だ。古墳の大きさという事実から言えることは、ヤマト王権がたかだか近畿地方の一大勢力であったということだけだ。

 事実、吉備の巨大古墳は近畿における天皇陵古墳の大多数よりもさらに巨大である。造山(つくりやま)の前方後円墳は全長約300mで、大きさでは全国4位である。定説論者はこの事実には知らん振りをしている。

 前方後円墳から円墳に目を移してみる。関東埼玉(さきたま)古墳群中の丸墓山古墳は直径約100mの大円墳である。定説論者の論法を使うと、この地の王者は少なくとも日本列島内の同時代円墳群の全ての被葬者に対して支配権を確立していた、となる。こんな主張には誰も歯牙をかけないだろう。
《続・「真説古代史」拾遺篇》(24)

狗奴国の滅亡(5)
神武東侵と欠史八代は虚構か(2)
「和風諡号」論(1)


②神武の和風諡号が後世作られたものである

 石渡氏は論拠②については次のように論じてる。

 カムヤマトイワレヒコという神武の和風諡号は後世に作られたものである。水野祐(『前掲書』)によると、孝霊・孝元・開化の三天皇は、持統の諡号にみえる「オオヤマトネコ」系の諡号をそのまま採用しており、持統・文武・元明・元正四天皇のそれとまったく同一である。そのほか神武・懿徳・孝安三天皇には、「ネコ」はみえないが、「ヤマト」あるいは「オオヤマト」なる称号が用いられ、これも持統以後の諡号にしかみられない称号である。

 また、『日本書紀』の神武の和風諡号「神日本磐余彦(かむやまといわれひこ)」では、ヤマトを「日本」と書いているが、この書き方は、『続日本紀』の大宝2年(702)3月条にみえる持統の諡号「大倭根子天之広野姫(おおやまとねこあめのひろのひめ)」のように「倭」と書く方法より新しく、元明(在位707~15)の諡号「日本根子天津御代豊国成姫(やまとねこあまつみしろとよくになりひめ)」や元正(在位715~24)の諡号「日本根子高瑞浄足姫(やまとねこたかみづきよたらしひめ)」の場合と同じである。

 こうしたことから、神武以下九人の天皇の和風諡号は、持統の和風諡号決定後、『日本書紀』が成立した720年までの間に『日本書紀』の編纂者によって作られたものと考えられる。

 和風諡号を論拠に神武と欠史八代を架空の人物とする「井の中」の論理を踏襲している。改めて批判しておこう。

 『古事記』本文での「大倭」の初出は国生み説話の「大倭豐秋津嶋」である。『日本書紀』での「日本」の初出は同じく国生み説話で
廼(すなは)ち大日本〈日本、此をば耶麻騰と云ふ。下(しも)皆此に效(なら)へ。〉豐秋津洲を生む。
とある。つまり『古事記』の「倭」を「日本」と置き換えて「ヤマトと読め」と指示している。「倭」を何が何でも大和国に比定し、しかもそこが日本の中心であるとしたい意図があからさまに表出されている。

 『古事記』での表記「大倭豐秋津嶋」の「倭」にも『日本書紀』の指示を適用して「ヤマト」と読んでいるが、果してそれが本来の読みなのだろうか。

 『「神代紀」の解読(4)』で紹介したように、古田さんが「大日本豊秋津洲(大倭豐秋津嶋)=豊後国」であることを論証している。それでもなお『日本書紀』の主張する通り「大日本豐秋津洲(大倭豐秋津嶋)=大和国」が正しいと言い張るのなら、古田さんの論証を論破しなければならない。私にはこの綿密な論証を論破できるとはとても思えない。論破できないから、古田説を無視するほかない。「井の中」では相変わらず「大日本豐秋津洲(大倭豐秋津嶋)=大和国」として恥じない。(例えば森浩一氏。『「神代紀」再論:考古学が指し差すところ』を参照してください。)

 「倭」の本来の意味が「ヤマト」であるはずはない。『「倭」と「日本」(7):いつから「倭」=「ヤマト」となったのか。』で論じたように、「チクシ」が正しい。

(以下は『盗まれた神話 第9章「皇系造作説」への疑い』を教科書としています。)

 さて、石渡氏は水野祐説を用いて「カムヤマトイワレヒコという神武の和風諡号は後世に作られたものである。」と断じている。この和風諡号を用いて神武と欠史八代を架空とする理論は、これもまた津田左右吉に淵源がある。津田説を水野祐が定式化し、それを井上光貞・直木孝次郎などが発展させてきた。これを「和風諡号」論と呼ぼう。

 まず、石渡説からの引用文の中段、『日本書紀』と『続日本紀』に出てくる和風諡号を用いて「新しい」とか古いとか論じている部分を批判しておこう。

 『日本書紀』の「神日本磐余彦」(神武)という表記を『続日本紀』の「大倭根子天之広野姫」(持統)と比べて、神武の諡号は「日本根子天津御代豊国成姫」(元明)や「日本根子高瑞浄足姫」(元正)という表記と同じなので新しい表記だと論じているが、この論理はナンセンスだ。この論法を使えば、『古事記』の「神倭伊波禮毘古」は持統の諡号と同じ表記なので元明や元正の諡号表記より古いと断じなければなるまい。同じ人物の諡号が新しかったり古かったりする。矛盾も甚だしい。

 『古事記』には「日本」などどいう表記は皆無である。「倭」を「日本」と置き換えて「ヤマト」と読めと言い出したのは『日本書紀』だ。そのような編纂方針が決められた後の諡号の「倭」は「日本」に書き換えられた。持統の諡号はそれ以前(大宝3年 703)に付けられた諡号だったというにすぎない。ちなみに文武の和風諡号は「倭根子豊祖父」(慶雲4年 707)である。

 引用文前半の「和風諡号」論の論理もこれと同じように粗雑である。その理論を少し詳しく見ておこう。

 「和風諡号」論の論旨の要は諡号中の同一単語の比較である。4通りのケースがある。「ヤマトネコ」「タラシ」「クニオシ」「ワケ」である。次の表はその4通りのケースについて、(A)(古い時代のもの)と(B)(新しい時代のもの)に分類したものである。(漢字表記は『古事記』のもの使っている。)

(1)「ヤマトネコ」

(A)
第7代 オホヤマトネコヒコフトニ(孝霊)
第8代 オホヤマトネコヒコクニクル(孝元)
第9代ワカヤマトネコヒコオホヒヒ(開化)
第22代 シラカノタケヒロクニオシワカヤマトネコ(清寧)

(B)
第40代 オホヤマトネコアメノヒロノヒメ(持統)
第41代 ヤマトネコトヨオホヂ(文武)
第42代 ヤマトネコアマツミシロトヨクニナリヒメ(元明)
第43代 ヤマトネコタカミヅキヨタラシヒメ(元正)

(2)「タラシ」

(A)
第6代 オホヤマトタラシヒコクニオシヒト(孝安)
第12代 オホタラシヒコオシロワケ(景行)
第13代 ワカタラシヒコ(成務)
第14代 タラシナカツヒコ(仲哀)
(14代后)オキナガタラシヒメ(神功)

(B)
第34代 オキナガタラシヒヒロヌカ(舒明)
第35代 アメトヨタカライカシヒタラシヒメ(皇極)
第43代 ヤマトネコタカミヅキヨタラシヒメ(元正)

(3)「クニオシ」

(A)
第6代 オホヤマトタラシヒコクニオシヒト(孝安)

(B)
第27代 ヒロクニオシタケカナヒ(安閑)
第28代 タケヲヒロクニオシタテ(宣化)
第29代 アメクニオシハルキヒロニハ(欽明)

(4)「ワケ」

(A)
第15代 ホムタワケ(応神)
第17代 イザホワケ(履中)
第18代 タヂヒノミヅハワケ(反正)

(B)
第38代 アメミコトヒラカスワケ(天智)

(次回に続く。)
《続・「真説古代史」拾遺篇》(23)

狗奴国の滅亡(4)
神武東侵と欠史八代は虚構か(1)


 今回のテーマは私(たち)にとっては「何をいまさら」と思える事柄だ。しかし、「神武東侵と欠史八代は虚構」としない限り、騎馬民族説は成り立たない。「井の中」だけでなく、「井の外」でも「神武東侵と欠史八代は虚構」とする言説がはびこり、それを信奉する人たちが未だに絶えないのだから、「神武東侵と欠史八代は虚構」が虚構であることを改めて指摘しておかなければならない。

 さて、江上説では神武東侵説話を次のようにとらえている。(私は持統以前のヤマト王権の大王は「天皇」ではないと言ってきているが、混乱を引き起こしかねないので、ここでは騎馬民族説論者たちの使い方に従う。)

(1)
 4世紀に騎馬民族が北九州に上陸し、そこにあったヤマタイコクを征服して新王朝を立てた。それが崇神天皇である。この史実は天孫降臨説話として書き残されている。

(2)
 やがてその崇神王朝が近畿を征服する。その担い手は応神天皇である。この史実は神武東侵説話として書き残されている。

 つまり神武東侵説話は全くの虚構とはしていない。史実を反映しているが、その主人公は応神天皇だと言う。「バカバカしい」と一蹴することもできるが、それでは失礼だろう。そのバカバカしさを論証すべきだろう。そのためには「神武=応神」説をもう少し詳しく知らなければならない。石渡説(『百済から渡来した応神天皇』での論説を「石渡説」と呼ぶことにする)を読んでみよう。神武が架空の人物であると断定する理由を三つあげている。


 『記紀』がどのようにして作られたかを実証的に研究した早稲田大学の津田左右吉(つだそうきち)は、神武東征説話が代表するように神武の説話は内容のないもので、『記紀』の神話の一部にすぎないとし、神武は神話上の人物で、実在の天皇ではないとした(『日本古典の研究』)。神武の説話が史実をまったく反映しない神話であるとする津田左右吉の見解は支持できないが、神武が実在の天皇でないことは、
①神武の説話が神話に近いこと、
②神武の和風諡号が後世作られたものであること、
③神武の陵墓が考古学的に問題にならないこと
からも明らかである。

 この三つの論拠を検討してみよう。

①神武の説話が神話に近い

 何を指して神話に近いと判断しているのか、詳述していないので推測してみよう。多分、次のようなくだりを根拠にしている。(以下、後世の作為が少なく、伝承の原型をより多く保っていると考えられる『古事記』を底本にする。)

龜の甲(せ)に乗りて、釣爲乍(しつつ)打ち羽擧(はぶ)き來る人、速吸門(はやすひのと)に遇(あ)いき。爾(ここ)に喚(よ)び歸(よ)せて、「汝は誰ぞ。」と問之^ひたまへば、「僕(あ)は國つ神ぞ。」と答へ曰しき。

故、夢の教の如(まにま)に、旦(あした)に己が倉を見れば、信(まこと)に横刀(たち)有りき。故、是の横刀を以ちて獻りしにこそ。

是に亦、高木大神の命以ちて覺(さと)し白(まを)しけらく、「天つ神の御子を此れより奧つ方に莫(な)入り幸(い)でまさしめそ。荒ぶる神甚(いと)多(さわ)なり。今、天より八咫烏を遣はさむ。故、其の八咫烏引道(みちび)きてむ。其の立たむ後より幸行(い)でますべし。」

其地(そこ)より幸行でませば、尾生(あ)る人、井より出で來りき。其の井に光有りき。爾に「汝は誰ぞ。」と問ひたまへば、「僕は國つ神、名は井氷鹿(いひか)と謂ふ。」と答へ曰しき。

乃ち其の矢を將(も)ち來て、床の邊に置けば、忽ちに麗しき壯夫(をとこ)に成りて、即ち其の美人を娶(めと)して生める子、名は…


 このような神託譚・前兆譚・奇跡譚などは神武記に限らない。石渡氏が実在の、しかも「古倭王朝」始祖王としている「崇神記」にもある。「神々の祭祀」段の大物主大神の夢告、「三輪山伝説」段、「建波邇安王の反逆」の予兆譚などだ。「説話が神話に近い」を理由を根拠にするなら、崇神も架空の人物としなければなるまい。石渡氏が「新倭王朝」の始祖王といている応神天皇についても同様である。だいたい「記紀」には神託譚・前兆譚・奇跡譚がふんだんに出てくる。「説話が神話に近い」を理由にすれば、架空の人物だらけになってしまう。

 石渡氏が応神天皇にまつわる神話的説話から史実を読み取っているので、それをどのような手法で行っているのか、見てみよう。

 応神天皇の出生譚は「仲哀記」に書かれている。次のようである。まぎれもなく「神話に近い」説話だ。

其の大后息長帶日売(おきながたらしひめ)命は、當時(そのかみ)を歸(よ)せたまひき。故、天皇筑紫の訶志比宮に坐しまして、熊曾國を撃たむとしたまひし時、天皇御琴を控(ひ)かして、建内宿禰大臣沙庭(さには)に居て、の命(みこと)を請ひき。是に大后を歸せたまひて、言(こと)教え覺(さと)し詔たまひしく、「西の方に國有り。金銀(くがねひろがね)を本(はじめ)と爲(し)て、目の炎耀(かがや)く種種の珍しき寶、多に其の國に在り。吾今其の國を歸せ賜はむ。」とのりたまひき。爾に天皇答へて白したまひしく、「高き地(ところ)に登りて西の方を見れば、國土(くに)は見えず。唯大海のみ有り。」とのりたまひて、詐(いつわり)を爲すと謂ひて、御琴を押し退(そ)けて控きたまはず、默(もだ)して坐しき。爾に其の、大(いた)く忿りて詔りたまひしく、「凡そ茲(こ)の天の下は、汝(いまし)の知らすべき國に非ず。汝は一道(ひとみち)に向ひたまへ。」とのりたまひき。是に建内宿禰大臣白しけらく、「恐し、我が天皇、猶其の大御琴阿蘇婆勢(あそばせ)。〈阿より勢までは音を以ゐよ。〉」とまをしき。爾に稍(やや)に其の御琴を取り依(よ)せて、那麻那摩邇(なまなまに)〈此の五字は音を以ゐよ。〉控き坐しき。故、幾久(いくだ)もあらずて、御琴の音聞えざりき。即ち火を擧げて見れば、既に崩りたまひぬ。爾に驚き懼ぢて、殯宮(あらきのみや)に坐せて、更に國の大奴佐(おほぬさ)を取りて、〈奴佐の二字は音を以ゐよ。〉生剥、逆剥、阿離(あはなち)、溝埋、屎戸、上通下通婚(おやこたはけ)、馬婚、牛婚、鶏婚の罪の類を種種求(まぎ)ぎて、國の大祓を爲て、亦建内宿禰沙庭(さには)に居て、の命を請ひき。是に教へ覺したまふ狀(さま)、具(つぶ)さに先の日の如くにして、「凡そ此の國は、汝命の御腹に坐す御子の知らさむ國なり。」とさとしたまひき。爾に建内宿禰、「恐し、我が大、其のの腹に坐す御子は、何れの御子ぞや。」と白せば、「男子(おのこご)ぞ。」と答へて詔りたまひき。

 神がかりになった功が神託を下す設定になっている。功に憑依した神は「詐を爲す」と無視した仲哀には神罰(死)を与え、建内宿禰には功の妊っている子が天皇になると託宣する。

 「神話に近い」説話という理由からだろう、石渡氏はそこに登場する仲哀や神功を、架空の人物と簡単に断定する。一方、この説話を次のように解釈する。

 神の怒りにふれたための仲哀の死と、神の意志による応神の誕生は、すでに多くの学者が指摘しているように、王朝の交替を意味する。わたしは、仲哀の死は古倭王朝(崇神王朝)の滅亡を、応神の誕生は新倭王朝(応神王朝)の成立を意味するものと考えるが、つぎに、応神を新王朝の始祖とみる学説を紹介することにしよう。

 否定したはずの神話的説話から、このような解釈を引き出している。『古事記』(あるいは『日本書紀』)の編纂者が、仲哀・功という架空の人物を設定して、応神の新倭王朝という史実を示唆していると言っている。その説を権威づけるためか、「すでに多くの学者が指摘しているように」と付け加えているが、この説話を「王朝の交替を意味する」と解釈している学者を私は知らない。

 この説話は素直に次のように解釈できる。すなわち、この説話は功が自分の子(応神)に皇位を継がせたことを正当化する説話である。「忍熊王の反逆」とされているが「功の反逆」が史実である。『古事記』や『日本書紀』のそこここに現れる権力簒奪者正当化の説話である。仲哀や功を架空化したり、新王朝を持ち出す必要はない。(詳しくは『ヤマト王権・王位継承闘争史(3)』を参照してください。)

 ついでながら、仲哀の死因について、『日本書紀』本文では病死となっている。
(仲哀)天皇忽(たちま)ち痛身有りて、明日崩ず。
 また分注「一に云ふ」では戦死だ。
天皇親(みずか)ら熊襲を伐ち、賊の矢に中(あた)りて崩ずるなり。
 「神がかり死」と「病死」と「戦死」と、どれがリアルか。言い換えると、どれが本来の伝承だろうか。「戦死」こそリアルであるという古田さんの論証を『「熊襲」とはどこか(2)』『「熊襲」とはどこか(3)』で紹介している。そこでは「記紀」の説話を解釈するときの原則として「二つのフィルター」も説かれていて、恣意的な解釈を戒めている。

 このように「記紀」の説話から何らかの史実を読み取ること自体は一つの手段として正当な方法だ。しかし石渡氏の場合、その方法が逆立ちしている。すなわち、史料批判をした上で仮説に到達するのではなく、まず初めに仮説(結論)ありきなのだ。そしてその仮説に合うように恣意的な史料解釈を行う。また援用する同時代資料も自説に都合のよいものだけを選ぶ。石渡氏が紹介している「応神を新王朝の始祖とみる学説」は水野祐・井上光貞・直木孝次郎・上田正昭など「井の中」の錚々たる学者たちである。それらの説を書き並べておいて、「直木説で指摘されているように」「上田説で指摘されてるように」と、検証抜きで自説に都合のよい部分だけを取り出して利用している。石渡説はそのような論証にならない論証で成り立っている。神武架空説の論拠②③の検討が、この石渡氏の手法をさらに確認することになるだろう。