2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《続・「真説古代史」拾遺篇》(22)

狗奴国の滅亡(3)
騎馬民族征服王朝説


 前回に述べてたように、私は「東鯷人の在地は銅鐸圏」という説の方を支持するが、「東鯷国」という言葉は用いず、銅鐸圏国家と言うことにする。

 邪馬壹国が倭国の盟主であったのに対して、狗奴国は「分かれて二十余国を為す」銅鐸圏国家の盟主であった。この狗奴国を滅亡させたのはヤマト王権の10代王・ミマキイリビコイヱニ(崇神しうじん)と11代王・イクメイリビコイサチ(垂仁すいにん)」であった。そのあらましは『ヤマト王権の近畿侵略史』と題して学習済みだ。今回は別の観点を加味して『ヤマト王権の近畿侵略史』を補充したいと考えている。その「別の観点」を説明しよう。

 「むらかみからむ」さんから度々コメントを頂いていた。そのコメントは次のようでした。


11/02/24
古代史は石渡信一郎ぬきでは語れない

古代真実追究しましょう。
そのためには石渡信一郎をぬいてはまとまりがつかなくなると思います倭韓交差論なるものお読みになりその感想を聞かせてください。倭韓2度通過論が本当の名前かも。
ぜひ、一度 石渡論を論じてください。

11/4/17
古代史は石渡信一郎ぬきでは語れない

真説古代史の追求頭が下がる思いで読ましてもらっています。
で、お願いがあります。石渡信一郎&林順治氏の倭韓交差王朝説についての見解をぜひ教えてください。

11/6/12
たっさんの古代史も研究素晴らしいとおもいます。ですが、私は古代史を理論的に論ずるには石渡信一郎説が基本になるべきと信じています。ぜひ 石渡論を論じてください。

11/7/13
ぜひ 石渡信一郎説も検討してください。お願いします。

11/7/26
日本古代史の中で石渡信一郎&林順治氏の『倭韓交差王朝説』はきわめて理論的な説であると思いますが、どうして、異端説扱いなのでしょうか?
(注:私は石渡教授&林先生と呼びます)
(注:私は 倭は韓(=百済)を通ってきたと考えたいので 倭百済通過説のほうがいいかもしれないと思いますが。)

『倭韓交差王朝説=倭百済通過説』とは
①崇神は加羅から渡来し、九州のヤマタイ国を滅ぼし、350頃、纏向に第1倭国『加羅(南加羅))』を建て、箸墓に眠る。
②5世紀の中国に遣使した倭国王『讃珍済興』は崇神の子孫になる。大きな前方後円噴に眠る。
③昆支と余紀は百済の蓋鹵王の弟。ともに崇神王家の済(ホムタマワカ)に入婿。昆支は応神になる。余紀は継体になる。
④応神は倭国王武として宋に遣使。491年に第2倭国『大東加羅(あすから=飛鳥ら)」を建てた。八幡大名神になった。
⑤継体は仁徳陵に眠る。仁徳から武烈の間は架空天皇。継体の息子の娘の石姫は欽明との間に敏達を生む。
⑥欽明は応神の息子で531年継体の息子を討つ(辛亥の役)。ワカタケル大王となる。蘇我稲目と同一人物。
⑦蘇我馬子と用明と聖徳太子の3名は同一人物で、欽明の息子。隋に遣使したアメノタリシホコのこと。
⑧蘇我蝦夷はアメノタリシホコと敏達の娘の貝蛸(フツ)姫との息子。子の入鹿とともに天皇。崇峻、推古、舒明、皇極は架空天皇。
⑨馬子に殺された物部守屋は敏達の息子の押坂彦人大兄と同一人物。その息子が天皇になれなかった田村皇子。
⑩天智も天武も田村皇子の息子。但し、異母兄弟。天武の母は馬子(聖徳天皇)の娘で天武は古人大兄と同一人物。

以上 10個は私の子供(小5)はウソだウソだと言っており、確かに、驚くべき説で、内容も難しく、すぐには理解できないもの(特に記紀信者には)ですが、石渡教授が論理的に証明された真実です。

ただちに、石渡教授は東大か京大の日本古代史の教授に推挙されるべきです。そしてこの『倭韓交差王朝説=倭百済通過説』で3から8世紀の日本史の教科書は書きかえられるべきです。

私の子供もウソをマークシートしなければいけない不幸をだれか救ってください。どうして、当たり前のことが、できないのでしょうか??

 私がまったくご返事をしないことに業を煮やされたのかと思います。このブログを熱心に読んでくださっているようなので、熱心に薦められている石渡信一郎氏の著作から『百済から渡来した応神天皇』を選んで読んでみました。副題に「騎馬民族王朝の成立」とあるように江上波夫氏の騎馬民族征服王朝説(以下、騎馬民族説と略す)を下敷きにした論説だった。いわば騎馬民族説修正論の一つである。

 私が直接読んだ騎馬民族説修正論は石渡説が初めてだが、もちろんそうした修正論者は石渡氏に限らない。例えば、古田さんは「邪馬壹国と冢」(『邪馬一国の証明』所収)で藪田嘉一郎氏(1976年に亡くなられている)の騎馬民族説修正論を取り上げ、その論の大略を次のようにまとめている。

(1)
 耶馬台国は九州にあり、ヤマトと称した。
(2)
 近畿天皇家の始祖は応神天皇であり、騎馬民族が侵入して設立したものである(この点、江上波夫説を継承)。
(3)
 ただし、右の騎馬民族は九州上陸でなく、日本海沿岸地方(多分、越前の敦賀)上陸である(天日槍に注目する)。
(4)
 応神こそ倭王讃である(前田直典説による)。
(5)
 近畿の応神(讃)は九州の邪馬台国を滅ぼし、その名(倭 ― ヤマト)を伝襲して、その後継王朝であるかによそおった。
(6)
 「讃の計画は図に中(あた)った」中国側は彼の言い分を信じて倭の五王に次々と授号するに至った(『宋書』倭国伝)。
(7)
 やがて推古天皇朝に至って、「日出づる処の天子・・・」の対等の国書を隋帝におくった(『隋書』倭国伝)。

 これらの修正論の元にになっている騎馬民族説とはどのような説なのだろうか。実は私は江上氏の著作を読んだことがない。いろいろな論説の中での説明を通して断片的に知っていただけだ。この機会に直接読んでみようと図書館検索をしたら、該当本は貸し出し中だった。いずれ直接読んで確認しようと思うが、とりあえず、ネット内の資料を用いることにした。江上説のあらましをきちんと解説している資料としては「日本古代史をとりまく謎」さんの「騎馬民族は日本を征服したか」という論文の解説が一番簡潔で正確だと思われるので、それを拝借する。

 その解説の底本は江上説の集大成とも言うべき『騎馬民族国家 -日本古代史へのアプローチ-』(中公新書、1965年)である。次のように述べている。

 3世紀末にツングース系騎馬民族(夫余族)の高句麗が、朝鮮半島を南下して南朝鮮を支配する。百済王はこの騎馬民族の首長ではないかと江上氏は示唆している。この騎馬民族はやがて4世紀になって北九州に上陸しこの地を征服する。その時朝鮮からやってきて、後100年ほど続く「九州王朝」の開祖となった者が、後に「崇神天皇」と呼ばれるようになったと言うのである。現天皇家の始祖はここにあるとする。江上氏によればこれが「第一回の建国」ということになる。

 「九州王朝」はやがて「応神天皇」を戴いて近畿征服を果たす。この北九州から近畿への遠征が「神武東征」として日本神話に反映している。「第二回目の建国」である。ちなみに、崇神の渡来はニニギノミコトによる高千穂峰への降臨として説話に残っている、と言う。

 ここで疑問が一つ。「九州王朝」という用語が使われている。私はこの用語を始めて創り用いたのは古田さんだと理解している。その使用開始は『失われた九州王朝』(1975年)だろうか。それを1965年段階で江上氏が用いていたとは思われない。「日本古代史をとりまく謎」さんが挿入したものと思われる。しかし「日本古代史をとりまく謎」さんの他の論文も少し読んでみたが、古田説の影はない。「九州王朝」という用語は古田さんの著作から独立して流布しているということだろうか。

 江上説解説に戻る。

 前述の「騎馬民族国家」のなかで江上氏は、こういう考えに至った理由を8つ挙げている。そのまま抜き出してみよう。

(1)
 前期古墳文化と後期古墳文化とは、互いに根本的に異質なこと。
(2)
 その変化がかなり急激で、その間に自然な推移を認めがたいこと。
(3)
 一般的に農耕民族は、自己の伝統的な文化に固執する性向が強く、急激に、他国あるいは他民族の文化を受け入れて自己の伝統的な文化の性格を変容させるような傾向は極めて少なく、農耕民であった倭人の場合でも同様であったと思われること。
(4)
 我が国の、後期古墳文化における大陸北方系騎馬民族文化複合体は、大陸及び半島におけるそれと、全く共通し、その複合体の、あるものが部分的に、あるいは選択的に日本に受け入れられたとは認められないこと。言い換えれば、大陸北方系騎馬民族文化複合体が、一体として、そっくりそのまま、何人かによって、日本に持ち込これたものであろうと解されること。
(5)
 弥生式文化ないし前期古墳文化の時代に、馬牛の少なかった日本が、後期古墳文化の時代になって、急に多数の馬匹を飼育するようになったが、これは馬だけが大陸から渡来して、人が来なかったとは解しがたく、どうしても騎馬を常習とした民族が馬を伴って、かなり多数の人間が、大陸から日本に渡来したと考えなければ不自然なこと。
(6)
 後期古墳文化が王侯貴族的・騎馬民族的な文化で、その弘布が、武力による日本の征服・支配を暗示させること。
(7)
 後期古墳の濃厚な分布地域が軍事的要地と認められる所に多いこと。
(8)
 一般に騎馬民族は陸上の征服活動だけでなく、海上を渡っても征服欲を満足せしめようとする例が少なくないこと。(たとえばアラブ・ノルマン・蒙古など)。したがって南朝鮮まで騎馬民族の征服活動がおよんだ場合には、日本への侵入もあり得ないことではないこと。

と述べて、次のように結論づける。

「私は、前期古墳文化人なる倭人が、自主的な立場で、騎馬民族的大陸北方文化を受け入れて、その農耕民族的文化を変質させたのではなく、大陸から朝鮮半島を経由し直接日本に侵入し、倭人を征服・支配したある有力な騎馬民族があり、その征服民族が、以上のような大陸北方系文化複合体をみずから帯同してきて、日本に普及させたと解釈する方が、より自然であろうと考えるのである。」

 さて、初めに「別の観点を加味して『ヤマト王権の近畿侵略史』を補充したい」と書いたが、その観点とは騎馬民族説(修正論を含む)と多元史観との対比である。ネット内で見ることができる騎馬民族説への批判には多元史観からのものがないので、このようなテーマを設定することにも何ほどかの意義があるだろうと思った。
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《続・「真説古代史」拾遺篇》(21)

狗奴国の滅亡(2)
「東鯷国」問題(2)


 『〝呼び名″の「原点」が別々だったのです。』を次のように解釈した。

 「燕地」を原点としたときの「倭人」という〝呼び名″と、「呉地」を原点としたときの「東鯷人」という〝呼び名″は無関係であり、二つの文(A)(B)を関連づけて読むのは間違いである。つまり〝東のはしっこの人″の在地は「倭人」の在地とは無関係に比定すべきであった。

 この改めた「認識の方法」によって、古田さんは東鯷人の在地を新たに次のように比定した。

 では、本当の「東鯷人」はどこにいたのか。

 わたしはそれを「南九州」だと考えています。鹿児島県を中心とする「縄文文明のメッカ」です。

 かつては「東高西低」と言われ、縄文文明は東日本に多く、西日本は少ない、と考えられていました。

 しかし、近年、上野原をはじめ、鹿児島県西岸部一帯から次々と縄文土器が「発見」されてきました。しかもそれは
(一)
 時期が早いこと(縄文早期、前期から中期に至る)。
(二)
 単独の分散型ではなく、質量とも一群の〝拡がり″をもつ出土であり、すでに縄文文明の〝豊かな結実期″が、長期間にわたってつづいていたこと。
いずれから見ても、従来の「縄文観」を一変させるものでした。

 このような「長期」かつ「部厚い層」をもつ縄文文明の存在、それはまさに〝画期的″です。そのような〝華(はな)やかな先進文明″の存在を、対岸の「呉・越の人々」が一切知らずに何百年もすごしていた。そんな事態は、わたしには考えることができません。

 彼等(呉の人々)はそれを「東鯷人」と呼んだ。わたしは改めて、そう考えたのです。

 以上が古田さんの新説だ。私はこれを読みながらいくつかの疑問を持った。

(その一)

 漢書から引用された(A)と(B)はまったく同質の文章であり、このような文章は他にはないということから、古田さんは(A)(B)は同一の原資料による叙述だと指摘している。その通りだと思う。

 また、古田さんは筑紫の弥生王墓群を根拠に、天孫降臨の年代を「弥生前期末」に比定している。今のところ、私は紀元前200年頃ではないかと推定している。

 ところで、朝鮮半島に楽浪郡が置かれたのは紀元前108年~107年だから、漢書の記事(A)はそれ以後の中国(漢)側の認識を示していることになる。同一の原資料からの引用なのだから、このことは(B)についても適用される。天孫降臨から100年以上も後のことだから、倭国の権力基盤も相当確立されていたことだろう。九州の勢力地図は次の図と大差ないと考えてよいだろう。

銅矛分布図

 「橿日宮の女王による筑紫統一」はもとより、さらには「前つ君による九州一円の平定」も終わっていたのではないだろうか。

 南九州は確かに「縄文文明のメッカ」だった。しかし、『「神代紀」再論:考古学が指し差すところ』で取り上げたように、南九州の縄文文明は硫黄島の一大火山噴火により壊滅状態に陥っている。そのため弥生文明のメッカは筑紫・出雲に譲ることになった。上の図が示す通りである。

 私には南九州が「分かれて二十余国を為す」ほどの倭国とは独立した政治勢力を持っていたとはとても思えない。私は、南九州は「分かれて百余国を為す」という倭国の勢力範囲内にあった、と考えたい。

(その二)

 魏志倭人伝の「投馬(ツマ)国」は鹿児島に比定されている。この比定と「東鯷国=南九州」説がともに正しいとすれば、「投馬国」は東鯷人の国の一つということになる。しかし、魏志倭人伝では「投馬国」は「使訳通ずる所三十国」のうちの一国であり、倭人の国の一つとされている。矛盾しないか。

 一方、「東鯷国=南九州」説が正しいとすると、東鯷国は「前つ君による九州一円の平定」時に滅亡したことになる。「前つ君による九州一円の平定」の時期も特定できないが、イワレヒコの東侵などを勘案すれば紀元前1世紀前後だろう。このことは(B)が楽浪郡設置以後の資料という事実と合わない。さらに、次の資料事実とは決定的に相容れない。

 古田さんによる旧説の概略には省かれているが、『日本列島の大王たち』では(A)(B)の他に左思『三都賦』の「魏都賦」から

時に東鯷、序に即(つ)き、西傾、軌に順(したが)う。

を引用して、
「漢末にこの東鯷人が貢献していたことが知られる。」
と論じている。つまり3世紀初頭までは東鯷国は存在していた。

(その三)

 古田さんは、東鯷人の在地比定のために、(A)(B)以外にもう一つ資料を引用している。唐代(660年)に成立した張楚金の『翰苑』である。

境は鯷壑(ていがく)に連なり、地は鼇波(ごうは)に接す。南、倭人に届き…。(『翰苑』三韓)

〈註・雍公叡〉鯷壑は東鯷人の居、海中の州なり。鼇波は海を倶(とも)にするなり。(海を)有するなり。


 古田さんこれを次のように訳している。

(本文)
 三韓の地は、東の海に接し、その向こうは、東鯷人の地(地下住居)に連なっている。南は倭人の国に届き…

(註)
「鯷壑」とは、東鯷人の居であり、彼等は海中の州に住んでいる。「鼇波」というのは、三韓の地と東鯷人の地と、両者の間にこの海があり、両者この海を共有しているのである。

 (A)と(B)関連させる方法を「否」としているので(A)を除外して、(B)と上の『翰苑』の資料だけで東鯷人の在地を考えてみよう。「東の海」は日本海であろう。「会稽海外」で三韓と日本海を共有している所。

会稽の東

 「日本海を共有している」のだから南九州ではあり得ない。また、紀元前108年(楽浪郡設置)~紀元8年(前漢の滅亡)頃の倭国の範囲や倭国からの情報による中国(漢)側の日本列島についての地理的認識をも考慮しよう。その当時の倭人の在地でない地域を上の図の範囲で探すとすれば、やはり銅鐸圏しか考えられない。(A)を除外しても「東鯷国=銅鐸国家」としかならない。私は「東鯷国=銅鐸国」説の方が信憑性が高いと思う。

さっそく「 Authorの論旨からして「私は『東鯷国=南九州』説の方が信憑性が高いと思う」というのは誤記ではないのでしょうか?」というコメントを頂きました。ありがとうございます。訂正します。 )
《続・「真説古代史」拾遺篇》(20)

狗奴国の滅亡(1)
「東鯷国」問題(1)


 今回のテーマは4年ほど前に取り上げた『ヤマト王権の近畿侵略史』の補充編である。『ヤマト王権の近畿侵略史』は次の5編からなる。

『ヤマト王権の近畿侵略史』:イワレヒコから第九代まで
『ヤマト王権の近畿侵略史』:木津川の決戦
『ヤマト王権の近畿侵略史』:沙本城の戦い(1)
『ヤマト王権の近畿侵略史』:沙本城の戦い(2)
『ヤマト王権の近畿侵略史』:沙本城の戦い(3)

 この時の教科書は『日本列島の大王たち』(朝日文庫版)だった。ここでは古田さんは「東鯷国=銅鐸国家」という説をもとに論究していた。その後、古田さんはこの自説を撤回し、「東鯷国=南九州」説に訂正している。

 『ヤマト王権の近畿侵略史』はヤマト王権による銅鐸国家への侵略だから、東鯷国の比定が変わってもその本筋には変更の必要はない。現在の私(たち)の到達点を加味するとすれば、「東鯷国」を「狗奴国」と読み替えればそのまま通用することになる。

 しかし、「東鯷国=南九州」という新しい古田説をそのまま鵜呑みにするわけにはいかない。その根拠を知りたいと思っていた。その説は『邪馬壹国の論理』(ミネルヴァ版)の『日本の生きた歴史(4)第4「誤認」論』で論じられていた。それを検討してみよう。

 まず旧説を復習しておこう。「誤認」論には古田さん自身による旧説の概略が述べられている。それを転載するが、詳しくは「会稽海外、東鯷人有り!」
を参照してください。

 わたしの理路は次のようでした。

 漢書には次の二文があります。

(A)
 楽浪海中に倭人有り。分かれて百余国を為す。歳時を以て来り献見す、と云う。(燕地)
(B)
 会稽海外、東鯷人有り、分かれて二十余国を為す。歳時を以て来り献見す、と云う。(呉地)

 右の(A)は有名です。教科書などにも、必ず、と言っていいくらい「引用」されています。

 しかし、この漢書には、もう一つ、全く同じスタイルの文章があります。それが(B)です。

 会稽郡の外、つまり東シナ海に「東鯷人」と呼ばれる住民がいて、あの「倭人」と同じように、年々、きまった時に、中国へやって来る、というのです。この「東鯷人」とは、何者でしょうか。

 辞書で引けば「鯷」は〝なまず″です。しかし〝東の「なまず」の人″では、何のことかわかりません。

 そこで「魚へん」を〝取って″みました。「倭人」の「倭」が志賀島出土とされていた金印では「イべん」がなく、「委」とされているのは、有名です。(第一回「日本の生きた歴史」参照)

 三国志の魏志倭人伝でも
 ①狗邪韓国→対海国(度)
 ②対海国→一大国(渡)
 ③一大国→末盧国(渡)
となっています。「度」と「渡」と「共用」もしくは「混用」です。

 ですから「鯷」も「魚へん」を〝取り除き″、「是」で見ますと、〝はしっこ″の意味です。音は「ティ」です。例の「土堤(どて)」の「是」だったのです。

 とすると、「東鯷人」とは、〝東のはしっこの人″という意味となります。

 わたしはそのように考えたのです。

 『日本列島の大王たち』で始めてこの理路を読んだとき、「是」に「テイ」という音があり、その場合は「はしっこ」という意味になることを知らなかったので、「へえ、そうなんだ!」と感心するばかりだった。今回は自分でも確認しようと手元の『漢語林』で調べたが、そのような読みも意味も全くない。音は漢音「シ」・呉音「ジ」・慣用音「ゼ」だけで、意味は「①これ。この。ここ。(指示代名詞)②これ。(助字)③ただしい。よい。」だけである。念のため『広辞苑』で「テイ」を調べたが「是」はない。

 古田さんが根拠のないことを書くとは思えないので、図書館へ行って諸橋『大漢和辞典』を調べた。ありました。

「是」の読み方
 驚いたことに「一 シジ」の方には16通りもの意味がある。それに対して「二 テイ」の方は「ふち。さかひ。はし。」だけである。

 確かに「是」には「テイ」という音があり、意味は〝はしっこ″であることが確認できた。古田さんはここまでは訂正の必要はないとしている。続きを読もう。

 〝まちがった″のは、その次でした。

「〝東のはしっこの人″だから、『倭人』より、もっと東にいる人々だろう。」

 そう思ったのです。とすると
「倭人は、九州の北部、筑紫を中心とする地帯にいる。銅矛・銅戈・銅剣の分布地帯だ。従って、そのさらに『東』に当るのは、近畿を中心とする〝銅鐸圏の人々″である。」 と、論をすすめたのです。その結果が右の二篇となったわけです。(管理人注:右の二篇とは『邪馬壹国の論理』Ⅲ節中の「「銅鐸人の発見」と「金印の『倭人』と銅鐸の『東鯷人』」)

 しかし、このような「論のすすめ方」はまちがっていました。なぜなら
 (A)は「燕地」(北京付近)
 (B)は「呉地」(会稽山付近)
というように、〝呼び名″の「原点」が別々だったのです。

 それなのに、この「史料事実」の〝ちがい″を無視して「東鯷人は、倭人よりもつと東(はしっこ)にいる。」と「速断」したのです。〝あやまり″でした。「認識の方法」がまちがっていたのです。

 旧説を誤りとする根本の理由は『〝呼び名″の「原点」が別々だったのです。』というくだりに込められていると思う。しかし、このくだりが私にはよく分らない。(次回に続く。)
《続・「真説古代史」拾遺篇》(19)

番外編:『「矛」か「弟」か?』の補充
丸山林平「定本古事記」を読む(3)


 「豐」にもう少しこだわってみたい。

 丸山氏は序説で
「われわれは、すでに、古事記の正しい本文を決定すべき時機に到達していることを痛感する」
と述べていた。自らの校訂本を「定本古事記」と命名したのは「古事記の正しい本文を決定すべき」先駆け(叩き台)という自負があってのことだろう。

 丸山氏がまとめている古事記の字音仮名一覧表に目を通してみたら、この「豐 ヒ、ビ」以外は私が常識的に知っている漢字の音と一致するか同類音であり何の違和もない。「豐 ヒ、ビ」だけにはどうしても疑念が残る。念のため図書館に行ったついでに諸橋轍次「大漢和辞典」を調べたが、「豐」に「ヒ、ビ」という音はない。どの漢和辞典を調べても
呉音 : フ
漢音 : フウ
慣用音 : ホウ・ブ
しかない。丸山氏は「ヒ、ビ」と読む例文をあげて、「以上漢音」と記しているが、信じてよいのだろうか。

 丸山氏は古事記に用いられている字音仮名・字訓仮名について次のように述べている。

 字音仮名にせよ、字訓仮名にせよ、その研究は、あくまで事実に立脚し、記紀万葉はもちろん、古風土記・同逸文・仏足石歌・正倉院文書のごとき奈良時代の文献、または「大日本古文書」、およびこれに準ずる古文献たる古語拾遺・宣命・祝詞などに用いられている仮名全部にわたって検討し、そこから帰納的に結論をくだすべきで、記伝のごとく、演繹的独断的に、「この仮字は斯く訓ずべし」と独断して、個々の仮名の訓法を律しようとするような非科学的な態度は厳に戒めねばならぬ。ことに、記の仮名遣のみが正しく、他には誤りが多いなどという記伝の態度は、絶対に排すべきものである。また、記には呉音のみを用いて漢音を用いることがないとか、紀は漢音・呉音を併せ用いているなどという記伝の言も、事実を無視していることに注意しなければならぬ。こうした独断的態度から、おびただしい誤訓が生じ、したがって語句の解釈に重大な誤謬が生じているのである。

 ここで言われている帰納的方法によって明らかにされること(帰納的方法の目的)は、言うまでもなく写本が書写された時代ではなく、太安万侶が古事記を編纂した8世紀の知識人たちの共通認識(常識)を明らかにすることであろう。学者たちの研究成果を利用する私(たち)が古代史関係の諸説の正否を判断する基準は三つある。一つは、論理的整合性である。二つ目は、それを裏付ける根拠であり、多くは帰納的方法によって得られる。そして、その文献上の解読結果が考古学的事実と合致しているかどうかが三つ目の基準である。

 「豐 ヒ、ビ」の問題にもどると、「訂正古訓古事記」の中だけで「豐」を「ヒ、ビ」と読むと辻褄が合うというだけでは論証としては不十分だ。それが8世紀の知識人たちの常識であったことを示して欲しい。丸山説の論拠を「定本古事記」の解説部分で探してみた。「神々の生成」の段にあった。そこの注解で次のように述べている。

〔石土豐古突〕
 いはつちひこのかみ、記伝・底本の訓「いはつちびこのかみ」は非。
 「豐」は記伝等「毘」に作る。同字であるが、真本・延本等の「豐」に従う。書紀も「豐」に作る。この文字、集韻等に「頻脂切」とあり、漢音「ヒ」である。
 「豐古」は「日子」「彦」にあてた字音仮名であり、「ヒコ」と訓ずる。延本等の訓が正しい。記伝の最も大きな誤りの一。以下みな同じ。
 「いはつち」は「石之霊」の意で、岩石を神格化したもの。

 漢音「ヒ」の根拠として集韻等にある「頻脂切」をあげている。「頻脂切」が何のことなのか私にはさっぱり分らなかった。ウィキペディアの「反切」を読んでおおよそのことは分った。次のようだ。

「●○○切」で漢字●(親字)の音を示している。二つの○はそれぞれ声母(音節の最初の部分)・韻母(母音を中心とした部分)を表している。つまり「○○」は発音記号なのだ。

 付焼刃の知識で大胆に推理すると、次のような理解でよいだろうか。(『漢語林』を用いた。)
「豐頻脂切」→「豐」の音は「頻(ヒンpin)」+「脂(シzhi)」で「ヒpi」である。

 ここから丸山氏は古代では「豐」に「ヒ」という音があったと言っている。それが正しいとして、はたしてそれが8世紀初期の日本の知識人たちの「常識」になっていただろうか。広く使われていたのだろうか。ぜひ帰納的方法を駆使して欲しいところだ。丸山氏は書紀にも「豐 ヒ」が使われていると書いているが、『日本書紀』を調べたが、私には字音仮名として使われている「豐」を確認できなかった。太安万侶が「日子」「彦」に「豐古」という字音仮名を用いたとは、私には信じられない。

 丸山氏が選んだ底本に問題があるのではないだろうか。上で〔石土豐古突〕に対する丸山氏の注解を引用したが、実は「突」に私はびっくりした。これは「神」と同じ意味をもつ文字として使われているのだ。これは決して誤写などミスではない。古事記には「神」が頻繁に出てくるが、丸山氏の底本ではそのすべてが「突」と書かれている。初出は序文で原文は次のようになっている。(原文の返り点は省略した。また読み下し文にはルビがないが、読みにくい字句には〈大系〉を参考にしてルビを付した。)

(原文)
臣安萬侶言、夫、混元蝉凝、氣庖未效、無名無爲。誰知其形。然、乾坤初分、參突作芟化之首
(読み下し文)
臣安万侶言さく、夫、混元既に凝りて、気象未だ效(あら)はれず、名も無く為(わざ)も無し。誰か其の形を知らむ。然れども、乾坤の初めて分かれしとき、参はしらの神、造化の首(はじめ)と作(な)り、


 〈大系〉に「訂正古訓古事記」の1ページ目の写真が掲載されている。次のようになっている。

臣安萬侶言。夫混元既凝。氣象未效。無名無爲。誰知其形。然乾坤初分。參神作造化之首。

 異同は「神―突」だけではなかった。「既―蝉」「象―庖」「造―芟」、ここだけで4例もある。1ページ目全文調べてみた。まだまだある。「祖―督」「所―館」「海―恭」「祇―陶」「教―辻」「産―籥」「襞―襞」「邈―襞」「頼―勠」「聖―梗」。そしてこれらは決して部分的なミスではなく、例外なくそのように使用されているのだ。

 丸山氏は、〈大系〉と同じく「訂正古訓古事記」を定本にしているはずなのに、「訂正古訓古事記」とは異なるおかしな文字使用がある。これは一体どうしたことだろう?

 〈大系〉は享和3(1803)年版の「訂正古訓古事記」を定本としたと凡例で述べている。一方丸山氏は、「定本」は「伝の完成したのは寛政10(1798)年であるから、その翌年に刊行されたもの」と書いている。享和3年版に先立っていわば初版本とも言うべき寛政11年版「訂正古訓古事記」があったということなのだろうか。そんな話は聞いたことがない。

 〈大系〉の解説では取り上げられていないが、「訂正古訓古事記」に先立って「訂正」の対象になった「古訓古事記」があったはずだ。丸山氏が底本としたのはその「古訓古事記」ではないだろうか。そのように考えるほかないと思う。

 古事記の写本の世界は、深入りすればするほど、ますます混沌としてくる。私のような素人の関与を拒否しているような様相だ。無駄な事しているような気分になる。もう止めようかとも思ったが、もう少し進んでみよう。

 「神―突」等々のような置き換えがどうして可能なのか、私の常識ではまったく理解が出来ない。丸山氏はここでも帰納的方法を適用したと思われる。「古訓記事記」に出てくる全ての「突」等々を調べて、それを「神」等々と読むと例外なく全体の文脈に合致するという結論を得た。このように理解するほかないだろう。

 しかし、「古訓古事記」内だけでの帰納法適用は無意味である。丸山氏が言う通り、同時代の他の文献に「突」等々を「神」等々と同意味で用いている例があることを、言い換えれば「突=神」等々がその時代の知識人たちの共通認識であったことを示す必要がある。もしそれが出来ないのなら、丸山氏が底本とした「古訓古事記」は太安万侶が書いた原本とはまったくかけ離れた代物ということになろう。この要請は「弟=音」問題にも当てはまる。

 これで終りにしようとおもったが、ふと思い出したことがある。私の義母は通信教育でいろいろな学習をしていたようで、その遺品の中に古代史のテキストあり、私が預かっていた。そのテキスト中に「古事記」があった。私はもっぱら〈大系〉本を使っているのでそれをすっかり忘れていた。それを思い出して取り出してみた。驚いた!!「校注古事記」というテキストなのだが、「丸山林平編」となっているではないか。こういう偶然があるんですねえ。

 丸山氏は「校注古事記」でも「訂正古訓古事記」を底本とすると書いている。原文を調べたら「定本古事記」とは違い、〈大系〉と同じで正真正銘の「訂正古訓古事記」のものだった。ちなみに「定本古事記」は1969出版で、「校注古事記」は出版年の記載がないが、「まえがき」の日付は昭和45年1月となっている。1970年である。

 巻末の附録「一 古事記の伝本」を見たら〈大系〉では無視されていた「古訓古事記」が挙げられていた。
「古訓古事記」三巻 寛政11年(1799)
とあった。私の推測は間違っていなかったようだ。

 丸山氏は「校注 古事記」では「古訓古事記」を表面に出していない。しかし原文の校注を少し調べたら『諸本「…」に誤る』として訂正している文字は「古訓古事記」のものを採用しているようだ。しかし「神―突」等々については全く触れていない。

 例の「豐」問題については
『底本等「毘」に作る。いま真本等の多本に従う。』
と述べて、「毗」に訂正して「豐 ヒ、ビ」についてはまったく触れていない。

 初めに持った学者・丸山氏への信頼が揺らいできた。もちろん、丸山氏の業績を全て否定するわけではない。
《続・「真説古代史」拾遺篇》(18)

番外編:『「矛」か「弟」か?』の補充
丸山林平「定本古事記」を読む(2)


(雑談のような記事になりそうですがご容赦を。)

 3年ほど前から韓国の歴史ドラマを楽しんできているが、昨日(14日)から七支刀を倭王・旨に送ったというあの百済王・近肖古王を主人公とする「百済の王 クンチョゴワン」が始まった。楽しみだ。

 今まで韓国ドラマを見ていて、朝鮮語には「ン」という音がないのかなぁ、という疑念を持っていた。例えば字幕に「チョソン」(人名)と出ているが、俳優は「チョソナ」と発音しているのだ。

 そんな疑念を持っていたところ、「定本古事記」の「序説・八 その他の上代語音」に、上代日本語には「ン」という音はなかった、という説が述べられていた。この朝鮮語と倭語との類縁性は実に興味深い。最も興味を覚えた部分を引用しよう。

 上代日本語には、恐らくm・n・pの音は存在しなかったであろう。これらの音は、すべてシナ語の音であるが、上代人は、これらの外来語音を敏感に聞き分けることができたらしい。しかし、日本語は、元来開音節(語尾が母音で終わる)であるから、m・n・pのごとき子音をそのまま発することは困難であったらしく、これらの子音に母音を加えて、すべて開音節として発音していた。すなわち、記伝には、一か所も「ン」の訓はない。たとえば、「論語」を「ロムゴ」、「千字文」を「セムジモム」などと訓じている。

 もっとも、これらは、宣長個人の訓であって、必ずしも古事記撰修当時の上代音であったとも言えないであろう。「論」はシナ語音では"lun"であるから、むしろ「ロニ」となるであろうし、「千」はシナ語音では"chien"であるから、「セニ」となるべく、「文」もシナ語音では"wen"であり、呉音では「モニ」となるであろう。したがって、「論語」は「ロニゴ」、「千字文」は「セニジモニ」と発音したであろうと思う。万葉集にも「ン」の訓は、ほとんど見えない。

(中略)

 さて、nの音を表わす「ン」「ん」の仮名は、平安時代以後に生じたが、mやpの音を表わす仮名は、今日に至るも、ついに生じない。上代人はmの音が語頭に来ると、mの音を加えて発音していたと信じられる。しかし、mの音を表わす仮名が無いために、「宇」「牟」などの仮名で書き表わしていた。

 たとえば、「馬」は、シナ語の"ma"から来たのであるが、書紀では「宇摩」、万葉では「牟麻」「宇万」などと表記している。

 「梅」も、シナ語の"me"から来たのであるが、万葉では「宇梅」「烏梅」などと表記している。これらは、いずれも、mの音を表わす仮名の無いために、やむを得ない表記法であったのであろう。今日でも「うま」「うめ」とは書くが、実際の発音は、明らかに"mma""mme"であり、決して"uma"でも"ume"でもない。

 かつて、江戸時代に、本居宣長と上田秋成とが、「むめ」が正しいとか、「うめ」が正しいとか、論争した話は有名であるが、ローマ字を知らないための暗中模索的論争にほかならぬ。この二人の論争を揶揄したのが、次の蕪村の句である。

梅咲きぬ、どれがむめやらうめぢややら

 丸山氏は学識豊かで堅実な思考をする学者さんであると感じた。この丸山理論と関連する論文が手元にないだろうかと、ふと思いついて貧しい書棚をあさってみた。鈴木武樹『音節論議を廃す 日本語の音韻にかんする考察への二、三の提言』(「ユリイカ 1975年5月号」所収)という論文に出会った。当時私は古代史にも言語論にもほとんど興味がなかったのでこの論文を読んでいない。いま読んでみると、これが実に面白い。いくつか抜粋してみよう。


 何年か前にはじめて《邪馬臺国》関係の本を読んだとき、まず最初に奇異に感じたのは、この国の文献史学者や考古学者・民族学者、いや、「国語学者」までもが、『三国志』(魏書・東夷伝)という3世紀の末葉に中国人の手で書かれた文章を、なんの疑いもなく、20世紀の、それも日本の、漢字および漢字音にかんする知識でもって読んでいるということだった。

 たとえば「卑弥呼」だが、この人名は、上古音という、2世紀ごろまで用いられていた漢字音で読めば卑弥呼の読み方1 であり、3世紀ごろから使われはじめた中古音で読めば 卑弥呼の読み方2である。つまり、もしも卑弥呼が西暦200年前後までに中国にその名を知られていたとすれば、彼女の名前の発音は「ピミカ」に近いものであり、240年前後になってはじめて知られたとすれば「ピミクォ」に近いものであったはずだ。

 『三国志』はちょうどその上古音が中古音に移行する時期を扱っているので、こういう厄介なことが生じるのである(ただし、上古音の「弥」に「メ」の音はなく、中古音では「卑」も「弥」もともに同じ系統の母音をもつから、「ヒメコ」とは絶対に読めない)。

 この鈴木氏の論考によれば、古田さんが「卑弥呼」を「ヒミカ」と読んでいるのは極めて妥当ということになろう。

 もう一つ例を挙げると、「奴国」の「奴」である。この地名は8世紀になっても「儺ノ津」「那珂」「那賀」などの「儺」「那」といった発音で残っているので、「奴」はほぼ確実に「ナ」と読まれていたものと思われる。ところが、「奴」を「ナ」と読むのは上古音で([nag])、中古音ならこれは[no]である。したがって、奴国はすでに上古音の時代から中国に知られていたものと見て差しつかえないだろう(あの有名な志賀島の金印の「漢委奴国王」を「漢の委奴(イト)国王」と読もうとする研究者もいるが、「奴」にo音が現われるのは三世紀以降の中古音であることと、「委」は上古音では[・їuar]で「ワ」に近い音であることとの二つの理由からして、それは無理である)。

 従来「漢委奴国王」は「漢のワのナの国王」と三段読みよされいた。これに対して「漢の委奴(イト 伊都)国王」という読みを提案したのは三宅米吉という明治時代の学者であった。鈴木氏はこの説も否定している。

 古田さんは「委奴」(従順な部族)を光武帝に敵対する「匈奴」の対語と考え、「漢のイド国王」と読んでいる。私は「委奴」は「従順な部族」という意とする古田説を正しいと考えるが、鈴木氏の論考が正しいとすると、読みの方は再考しなければならないだろう。鈴木説により読むとすれば、「ワナ国」となる。

 また、丸山論文の清音仮名には「奴=ノ」があり、鈴木氏も中古音ならば「奴=ノ」という音があると言っている。すると「狗奴国=コウノ国」という読みは極めて妥当であると考えられる。

 さらに鈴木氏は

『わたしたちは8世紀の古代奈良語から類推して(魏書・東夷伝)の倭人の言葉もまた開音節(母音終わりの音節)のみから成り立っていたものとばかり思いこんでいるが、その言葉の音を表記している中国文字の発音のあり方からすると、ことによったら、三世紀の倭人語には閉音節(子音終わりの音節)も存在したのではなかろうか?』

という問題を立て、倭人伝中の「倭語」と思われる漢字を全て調べて、次のように結論している。(統計表は略す。)

 まず第一に、3世紀前半の倭人語には、[t][k][p][n][ŋ]で終わる閉音節が存在し、ここには偶然あらわれないのだろうが、[m][r]で終わる閉音節もたぶんあったはずだということが言えそうである。そして、これらの子音を終声とする閉音節は朝鮮現代語にそっくりそのままある。したがって、ここできわめて大胆な想像をはたらかせれば、3世紀の倭人語と韓人語はともに似たようなグループの子音を終声とする閉音節をもっていたが、後者ではその閉音節がその後ながく固執され、それどころか閉音節化はますます進んだが(6世紀の「斯麻(シマ)(=島)」が「島(セム)」を経て現在では[səm]というように)、前者では、終声[t]は「チ」または「ツ」に、[k]は「キ」または「ク」に、[p]は「フ」に(「邑」は漢音では「イフ」)、[n]は「ン」に、[ə]は「ウ」に、そして[m]は「ム」を経て「ン」に、[r]は「ツ」に、というように、それぞれ母音を伴う音節へと変化してきたのではなかろうか?

 丸山氏の論説と重なってきた。

 鈴木氏は次に倭語と朝鮮語の母音の比較検討を行っている。そのうちの「ア」音についての考察を紹介しておこう。

 上代特殊仮名づかいのオ列甲類の音にあてられた漢字のうち、現在の朝鮮語でもなお「オ」に発音されているもの52字の内訳は、[o]が50字で[ə]が2字、オ列乙類の漢字のうち、現在の朝鮮語でもなお「オ」に発音されているもの38字の内訳は、[ə]が33字で[o]が5字で、その合致率は、オ列甲類が96パーセント、オ列乙類が87パーセント、合計では92パーセントである。これがはたして偶然の一致だと言えるだろうか。すくなくとも、8世紀までの日本において、オ列甲類の音にオ列甲類の漢字をあて、オ列乙類の音にオ列乙類の漢字をあてて表記した者たちの、漢字音にかんする知識と、現在の朝鮮人たちのそれとのあいだには、なんらかの種類の密接な関係がある、と言わざるをえないように、わたしには思われるのである。

 最後に鈴木氏の論文の結語。

 わたしたち日本人は、日常、音節文字をのみ用いて言語生活を営んでいるので、子音と母音との微妙な連繋にかんしては気づくところがきわめて少ないようである。そして、「単語以上におおきい言語的な単位(文、連語など)に関する音韻的単位(イントネーション、強調、間(ま)など)についでは」専門の研究者たちのあいだですら、
「共時的にも歴史的にも組織的な概観が可能なほど研究がすすんでいない」(前記の上村幸雄氏)
のが実状だという。

 上質な日本語の美しさを解明してそれを未来に保持してゆくためには、これら二つの面における日本語そのものの考察を、ぜひとも、真剣かつ徹底的に行なう必要があるのではなかろうか。

 専門の研究者ばかりか、日本人の一般が、ひろく、音節的な思考から脱却することが刻下の急務なのである。

 この結語から思い出したことがある。古田さんには「言素論」という論考があるという。ぜひ読んでみたいと思っていた。その論考をまとめて本にする予定だと、最近どこかで読んだ。心待ちにしています。
《続・「真説古代史」拾遺篇》(17)

番外編:『「矛」か「弟」か?』の補充
丸山林平「定本古事記」を読む(1)


 〈大系〉は「訂正古訓古事記」を底本に選んでいるが、その理由を
「真福寺本をはじめ他の諸伝本には、一層多くの誤脱があるから、現状は古事記伝の本文か古訓本の本文を底本とするのが、最も穏やかなように思われるのである。」
としている。つまり諸写本は「誤脱」が多く信じられないので、宣長の校訂を信じようというわけだった。太安万侶が記録した原本がないのだからこのように判断するほかないのだろうが、宣長一辺倒でよいのだろうかという疑念が残る。宣長一辺倒に対して異論はないのだろうか。そのような疑念を持ちながらネット検索をしていたら、『丸山林平「定本古事記」』というサイトに出会った。

 私には丸山林平という学者は未知の人である。略歴を知りたいと思ったが、ネットにはないようだ。ただ、静岡英和女学院短期大学研究紀要にその名があった。静岡英和女学院短期大学の教授を務められた方のようだ。その紀要には
「送りがな法」
「上代語音の甲類・乙類に関する疑点」
「上代語音の清濁に関する研究」
などの論文を寄稿している。「上代語音」の研究者のようだ。

 上で「務められた方」と言ったのはすでに亡くなられた方だからだ。上記のサイトには
「以下の丸山林平「定本古事記」は、同氏の相続人より、SSI Corporationが著作権の譲渡を受けたものである。」
と記されている。全文が公開されている。一段落毎に「原文―読み下し文―丸山氏による解説」がある。丸山説は正しいかどうかは安易にすべきではないのでそれは置いて、検索機能もありとても充実したサイトである。

 「序説 三 古事記の伝本」には〈大系〉の解説にはない事実や異なる説もあるので紹介しよう。まず、真福寺本に次のように述べている。

真福寺本 三巻(真本)
 現存の古事記伝本のうち最も古いものであり、尾張国、今の愛知県名古屋市の真福寺の僧賢瑜(当時27~8歳)が、応安4~5年(1371~1372)に書写したものであり、国宝に指定されている。足利義満の時代であるが、室町時代というよりは、むしろ吉野時代の末期に当たる。

 この若い僧は、全然古事記が読めなかったらしく、ただ祖本を盲目的に書写したにすぎず、その際に、おびただしい誤写を犯し、そのうえに脱字・衍字などがきわめて多く、まことに天下の最大悪本たる観を呈している。


 真福寺本の誤記について私は
「まるで文章の意味など考えずに、字の形だけを写しているみたいな誤記だ。」
と書いたが、あながち間違った推定ではなかったようだ。

 このあとその誤記の例をいくつか挙げている。しかし、「弟」はその中には見られない。次のようである。

 一、二の例をあげると、序文では「皇帝階下」などと誤写している。明治ごろなら、さしずめ不敬呼ばわりをされたことであろう。

 本文では、「須」を「鋼」に、「裳」を「禹」に、「鬘」を「縵」に、「靫」を「靱」に、「劔」を「釼」などに誤写し、その他、脱字・衍字の類は枚挙にいとまなく、中には何のことかさっぱり見当もつかないような部分が、すこぶる多く混じている。ただ、古い写本であるということで、国宝になっているまでのことである。

 しかし、古い写本であるだけに、参考になる点がなくはない。わたくしは、真本の用字のうち「豐」などは、古写本や延佳本や書紀などの用字と同じであるから、記伝の「毘」には従わず、真本の「豐」に従うことにしている。

 丸山「定本古事記」も「訂正古訓古事記」を底本としている。しかし、宣長一辺倒ではなく批判的に使用している。上の「記伝に…従わず」はその一例にすぎない。

訂正古訓古事記 三巻(底本) 本居宣長著、寛政11年(1799)刊。

 わたくしは、この書を底本としたので、略称を用いずに「底本」と呼ぶ。この書は、宣長が30余年の歳月を費して完成した「古事記伝」に基づき、さらに本居太平の厳密なる校正によって刻せられたものである。記伝の完成したのは寛政10年であるから、その翌年に刊行されたものである。

 文字も訓も、ほとんど記伝のままであるが、まれに記伝と違うところもある。たとえば、記伝で「建内宿斑」と訓じているものを、この書では、初めのうちは記伝と同じく訓じているが、のちには「タケシウチノスクネ」と訓じている。なるほど、記の「建」(健の省字)も、紀の「武」も、「タケシ」「タケル」などと読むべき文字ではあろうが、その語幹をとって「タケ」と読んでよく、記の「倭建命」、紀の「日本武尊」などの「建」「武」も、「タケ」と読みならわされているし、その御名代なども「建部」「武部」と称している。そのほかにも、記中「建」を「タケ」と訓じている箇所が多いから、やはり記伝の訓のごとく「タケウチノスクネ」がよいであろう。また、文字では、この書は例外なく「无」を「旡」に、「刺」を「剌」に、「肖」を「揩」に、「橋・梯」を「椅」に誤るなど、旧来の誤写をそのまま踏襲している。しかし、これらのことは、ごく些細な問題であるが、記伝に基づくこの書は、記伝の誤訓をそのまま用いているので、実におびただしい誤訓を生じている。

 そして、その主なるものは、実に字音仮名の訓法にある。このことは、項を改めて述べるが、記伝以後、多くの人びとは、記伝の誤訓に盲従して今日に至っている。

 字訓にしても、「野」「角」「篠」「楽」などを、この書はすべて「ぬ」「つぬ」「しぬ」「たぬし」などと誤訓しているが、これらは、橋本進吉氏らによって訂正されている。この点では、かえって延本の方が正しく訓じていること、上にも述べてあるとおりである。が、とにかく、宣長の畢生の大研究たる記伝に基づくこの書は、何といっても、最も権威とさるべきものであること、言をまたぬ。

 記伝と比較されている「延本」とは宣長が校正に利用した一冊「鼇頭古事記」のことである。丸山氏はこの校正本を高く評価している。

延佳本 三巻(延本)

 くわしくは「延佳神主校正、鼇頭古事記」といい、伊勢外宮の権斑宜、度会延佳が校注を施して、貞享4年(1687)に刊行した書である。この書において、はじめて古事記の善本を見るに至った。

 延佳は、ある意味においては、宣長にも匹敵すべき国語学者であり、諸本を校合して本文を定め、片かなで訓を施しているが、延佳は、まだ、宣長のころの国学者の悪風には染まっていず、「豐古」「豐売」などを「ヒコ」「ヒメ」と訓じ、「角」「野」「楽」などを「ツノ」「ノ」「タノシ」などと正しく訓じている。また、頭注には、「開疑聞之誤」とか「弘仁私記序云」とか「旧事紀云」、「日本紀云」、「万葉集云」、「神名帳云」、「姓氏録云」、「和名鈔云」、「延喜式云」、「諸陵式云」などとしるし、その学殖の深さを示している。

 しかるに、宣長は同郷の先学延佳を、どういうものか蔑視して、記伝で次のように述べている。
 今一つは、其の後に伊勢の神宮なる、度会延佳てふ人の、古本など校へて改め正して彫らせたるなり。此はかの脱ちたる字をも誤れるをも、大かた直して、訓もことわり聞ゆるさまに附けたり。されど又まれには、己がさかしらをも加へて、字をも改めつと見えて、中々なることもあり。此の人すべて古語をしらず、ただ事の趣をのみ、一わたり思ひて訓めれば、其の訓は、言も意も、いたく古にたがひて、後の世なると漢なるとのみなり。さらに用ふべきにあらず。云々。

 この批評は酷にすぎる。もちろん、今日から見れば、延本にも誤りがないとは言わぬが、わたくしは、むしろ延本にこそ拠るべき点が多いと信じている。その具体的な例は、本書の校異の箇所において述べることとする。

 この延本などをもとにして、丸山氏は「毘」→「豐」のように独自の校訂を行っている。この校訂に関わる具体的な文言の例をあげると、あのおなじみの「伊波禮毘古」である。「伊波禮毘古」は正しくは「伊波禮豐古」だという説である。「豐」に「ヒ」という音があるとは私には信じがたい説だが、「序説 五.古事記の字音仮名遣」で次のように説明している。


 「卑」(甲類)、「肥」「斐」(乙類)の三字である。記伝・奥山路とも清音に「比」、濁音に「毘」を掲げているが、「比」「毘」は清濁両用である。この点は記伝の根本的な誤りであり、後世に及ぼした悪影響は、きわめて大きく、今日の古事記研究書のほとんどすべては、記伝の誤訓に従っている。なお、「毘」は真本・延本・書紀等すべて「豐」の字形を用いているから、本書はそれに従う。清濁両用「ヒ」「ビ」参照。

 『清濁両用「ヒ」「ビ」』を参照すると、次のようである。(出典のページ数などを示していると思われる数字・記号は煩わしいので削除した。)

ヒ・ビ
 「比」「豐」(甲類)の二字である。「豐」が最も多く誤訓されている。


 清│阿佐比(朝日) 阿志比紀能(あしひきの、枕)

 濁│建日向日豐久士比泥別(肥の国の神格化、「久士比」は霊び) 比比久(ひびく、同音連呼のための濁音)

(ママ)
 清│沙本豐古(紀、狭穂彦。記は沙本比古にも作る。) 海佐知豐古(紀、海幸彦) 久豐(鵠) 都豐邇(遂に)(以上、漢音)
 濁│曽豐良(背平の転濁、せなか) 怒豐流(「野蒜」の連濁) 大豐豐命(同音連呼による濁音、天皇名。紀、大日日天皇)(以上、漢音) 阿蘇豐久流(游び来る) 志豐(人名、鮪)(以上、呉音)

 これだけ例を挙げられたら「豐(ヒ・ビ)」を認めざるを得ない。

 上記以外の諸写本に対しては丸山氏はまったく評価していない。

道果本 上巻(道本)
 僧道果が永徳元年(1381)に書写したもの。これまた、真福寺本とひとしく、誤字・脱字・衍字などが、はなはだしく、全く信をおけない写本である。

道詳本=伊勢本 上巻(詳本) 応永31年(1424)

春瑜本=伊勢一本 上巻(春本) 応永33年(1426)

猪熊本 上巻(猪本) 室町末期か。

兼永自筆本 大永2年(1522)=童範写=前田家本 三巻(前本)慶長12年(1607)

寛永板本 三巻(寛本) 寛永21一年(1644)刊。
 板本であるだけに、最も広く流布されているが、記伝に、「字の脱ちたる誤れるなど、いと多く、又訓も誤れる字のままに附けたる所は、さらにもいはず、さらぬ所も、凡ていとわろし。」とあるごとく、かなりの悪本である。

山田本(山本) 山田以文校訂、天保六年(一八三五)刊。
 古訓古事記と大同小異。とりたてて言うほどのものではない。

 以下、江戸時代末期から明治・大正・昭和にかけて、旧京都学習院の「学習院本」、三国幽眠の校注本、田中頼庸の校訂本、本居豊頴・井上頼圀・上田万年共編の校定本、田中嘉藤次の校異集成本その他、すこぶる多く出ているが、すべては古訓古事記と大同小異であり、字音仮名・字訓仮名など、ほとんどすべて古訓古事記の誤りを踏襲しているにすぎない。

 ところが、近来、最も誤りの多い真本を底本とする傾向が生じている。たとえば、「新訂増補国史大系」の「古事記」や倉野憲司氏編「校本古事記」などがそれであるが、これらの書は、底本のおもかげを残そうとしてか、多くの誤字や偽字、衍字や脱字等を、ほとんどそのまま転載している。われわれは、すでに、古事記の正しい本文を決定すべき時機に到達していることを痛感する。

 「古事記の正しい本文を決定すべき時機に到達していることを痛感する」と書いているが、原本がないのだから、方法としては全体の構成や該当部分の文脈によりよく合致するものを選んでいくほかないだろう。と、前回の結論に付け加えるものは得られなかった。ただし、真福寺本が信頼しがたい写本であるという思いがいよいよ深まった。
《続・「真説古代史」拾遺篇》(16)

「狗奴国」は何処?(6)
「交野山」と「高地性集落」


 本道に戻ろう。これまでに分ったことをまとめると次のようになる。

 「女王国より東、海を度(わた)ること千余里」地点にある拘奴国は「銅鐸圏の中枢部」(東奈良遺跡等)となった。そこは「女王の境界の尽くる所」にある奴国(能登半島)の南に当たっている。

 次に問題になるのは地名比定である。果して「銅鐸圏の中枢部」に「コウヌ」「コヌ」あるいは「コウノ」「コノ」と呼ばれる地名があるだろうか。ある。ここで
「地名奪還大作戦(14)」

「地名奪還大作戦(15)」
を思い出して欲しい。そこで古田さんは『万葉集』巻一の2番歌で歌われている「香具山」は実は「交野(コウノ)山」であることを論証している。また、山と言うより丘のような香具山と違って、交野山は「わずか3・400メートルの高さで、絶景で三都を見下ろせる、そんな見晴らしのよいところ」と、古田さんは述べている。(「HIRO'S DIARY vo2登山 その5 交野山~国見山」
というサイトが写真をたくさん掲載していて交野山の雰囲気をよく伝えてくれている。)

 交野山は交野(かたの)市に所属する。同じ文字を用いてるのになぜ読み方が異なるのか。古田さんは次のように説明している。(資料④より引用)

 交野(かたの)市といっても、これは関西以外の普通の人には、これはほとんど、そうは読めません。交野(こうの)市と言ってしまう。しかし、これは交野(かたの)市です。それで、その「カタ」ですが、枚方もそうですが、ほんらい潟(かた)のあるところという地形名詞の日本語ですが、なぜか「交かた」と字を当てます。これは古いこの地名の呼び方。それは、譲りたくない。ですから交野(かたの)と、読めなくとも読ませれば良いのだ。そのような強引な字で、コウノまたはコノという読み方が残ったものと考えています。それで、あの山や平地は、神野と呼ばれる一大地帯です。この神野と呼ばれる地帯の一画に、銅鐸の鋳型の出るところ東奈良遺跡(茨木市)もあります。ですから拘奴(コノ)国と呼ばれる地帯は、簡単に言えば兵庫県南部・大阪府北部・京都府南部の地帯を、そう呼んだのではないか。

 「兵庫県南部・大阪府北部・京都府南部の地帯」が「狗奴国(こうの)=神野国」という説には影響はないが、「かたの=潟野」に疑問がある。地図で見る限り交野市一帯に「潟」があるとは思えない。私は現地を実際に見ていないのだから確言はできないが、次のような説明の方が合っているように思う。

かたの[交野】
 『日後紀』延暦24 年(805)に河内国の「交野郡」、『続紀』和銅4年(711)に「交野郡」で初見する。大阪府交野市、枚方市を中心とする地域で、「かたの(片野)」の意。川と岡に囲まれ、独立した原野を「片野」という。(吉田茂樹編著『日本古代地名事典』)

【追記】(2012・2・13)
 古冢(弥生)時代には大阪湾とつながった湖があり、その湖は交野市・枚方市辺りまで広がっていたことを失念していました。「かた=潟」という古田説の方が正しいようです。『神武東侵』で用いた地図を再掲載しておきます。


大阪古代地図

 次の問題。では狗奴国と女王国はどうして戦火を交えるほど敵対的な関係にあったのだろうか。

 1983年、荒神谷遺跡で銅矛358本、筑紫矛16本、銅鐸6個が出土した。また、1996年には荒神谷遺跡とは山を隔てて南東に僅か3.4kmしか離れていない加茂岩倉遺跡から日本最多39個の銅鐸が出土した。「井の中」では無視し続けているが、古田さんが「九州王朝」に先行する「出雲王朝」を唱道していた。まさに「王朝」と呼ぶにふさわしい出土品である。

 ここで最も注目されるのは銅鐸の多量出土であろう。すなわち、狗奴国(「銅鐸圏の中枢域」)は九州王朝に簒奪された出雲王朝の中の一国だった。狗奴国は九州王朝に帰属することを拒否し、独自の文明を発展させた出雲王朝の後継国家だったのだ。九州王朝とは不倶戴天の敵であった。

 女王国と狗奴国が敵対し続けていたことを裏付ける遺跡がある。高地性集落である。資料④から引用する。

 高地性集落、これはその山のかなり高いところに集落を作っている。森浩一さんが、うまいことを言われる。
「かなり登って行って、ふうふうと息切れがする。もうたくさんだと思ったところが、だいたい高地性集落にたどり着いたころである」と。

 このように、かなり高いところにある。これはたいへん不便な話で二重生活。普段は田を耕しているのは平地である。水があるのも平地である。弥生時代の主たる生活の基盤は平地にある。ところがこんな高いところに集落を作っても、水はないし、ふだんは住めない。簡単に言えば逃げ城である。神護石山城のようなもので、敵が攻めてきたときに逃げ込む、第二の集落です。いつも二重生活を強いられる。たいへん不便です。

 ところが、このような高地性集落が、瀬戸内海の北岸部、広島県・岡山県・兵庫県のところに、点々とあることはご存じのとおりだ。それが一番密度が濃いのは、兵庫県西南部・大阪府北部・京都府南部・奈良県北部。この地帯の人は、恐怖すべき敵が目の前にいた証拠である。現実の敵が目の前にいないのなら、あんな不便なものは、わざわざ作りはしない。そこに拘奴国が存在すれば、考古学的見地から兵庫県東南部・大阪府北部・京都府南部・奈良県北部の地帯であることが言える。

高地性集落分布図

 上の図は「高地性集落」というサイトから借用しました。このサイトの制作者は次のように解説している。

 研究者によっては、この第Ⅴ期の前半の出現期を3世紀中葉の狗奴国との争乱や卑弥呼没後の男王時代の内乱にあて、第Ⅴ期終末期の出現を3世紀末のいわゆる欠史時代に比定するものや、前半の出現期を2世紀後半に位置づけて倭国大乱とし、終末の出現期が3世紀前半の狗奴国の乱に比定しようとするものがある。

 私としては、狗奴国は球磨地方から熊本付近にあったとする立場から、前半の出現期を卑弥呼没後の瀬戸内海の覇権を争う東西勢力の争乱とし、終末期においては畿内大和国の勢力拡大によるものと考える。

 私(たち)は狗奴国は銅鐸圏中枢部と比定してので「第Ⅴ期の前半の出現期を3世紀中葉の狗奴国との争乱」と捉えたい。

 最後に資料④から、公演後の「質問」に対する古田さんの「回答」を読んで、このシリーズを終わることにする。

 邪馬壱国と狗奴国の戦闘状況を説明しろという、たいへんおもしろすぎる問題です。

 一つ言えることは、高地性集落の分布図が示唆を与えています。これは動かないで残っている。それから見ると一番の激戦地だと想定されるのが、兵庫県東南部・大阪府北部・京都府南部・奈良県北部の地帯です。

 それについで存在しますのが、瀬戸内海の広島県南部から岡山県南部・兵庫県東南部に高地性集落がたくさん連なっています。それで敵が攻めてこないのに趣味道楽では城は作りませんから、やはり抗戦地になっていたのではないか。

(中略)

 もう一つある。これはそんなことを言われても困ると言われそうだが、戦いの結果は、おそらく瀬戸内海の海の底に沈んでいるのでは。わたしは海底考古学にひじょうに期待をしています。イタリアなどは、地中海で考古学調査のために潜水艇を作った。日本でつくれない理由はない。それでぜひ瀬戸内海あたりを潜水艇で探索してもらえば、思わぬ交戦のあとが出てくるのではないか。

《続・「真説古代史」拾遺篇》(15)

番外編:「矛」か「弟」か?(5)


 「矛」が「弟」となっている真福寺本を「最も古い写本」ということだけで「最も信頼できる写本」としてよいのだろうか。これが最後の問題だが、この問題を解くことなど、資料も力量もなく、私にはとてもなしえない。ただ、〈大系〉の「解説」という2次資料だけを頼りに門外漢の素朴な疑問を述べるだけである。

 古事記は検定不合格史書として抹殺されていた。それが南北朝時代になって始めて世に現れたと言われている。私は古田さんの『盗まれた神話』を読むまでは、このとき現れた古事記は太安万侶の筆になる原本だと思い込んでいた。しかしそれは真福寺本と呼ばれている写本だった。古田さんはその出現の経緯を次のように推測している。

 『古事記』が南北朝期になって〝突如として″出現したのは、近畿天皇家内の公的なルートではなく、一種〝秘密のルート″つまり、私的なルートから〝流れ出た″ものと見られる。おそらく、太安万侶自身の家の系列にながらく「秘蔵」されており、その線から、長き時間の暗闇を経過して、やっと「浮上」した写本。それが真福寺本なのではあるまいか。

 この文章によると真福寺本が現れたのは南北朝時代だが、それが書写されたのは南北朝時代よりずっと以前だったと読める。しかし〈大系〉の解説には次のように書かれている。(以下、全て複製刊行記事は略す。また西暦年数を付け加えた。)

①真福寺本
 上中下三帖。応安4(1371)年・5(1372)年の書写。現存最古の写本。但し中巻は上・下巻と系統を異にしている。

 ここで素朴な疑問。1371・1372年に書写されたというのだからこの時に用いた底本があったはずだ。その底本が太安万侶が書いたおおもとの原本だったとしたら、真福寺本を信頼してよいと言える。あるいはその底本も写本だったのだろうか。真福寺本はいわば孫写本だった? いずれにしてもその底本については何も分らないのだから何の判断もできない。

 また「中巻は上・下巻と系統を異にしている」とはどういう意味だろうか。古事記の写本は真福寺本系統と卜部家本系統の2系統があるというから、「中巻」は卜部家本系統だというのだろうか。そうだとすると2種類の底本が使われたことになる。もしもそうなら真福寺本は孫写本ということになり、「最も古いから最も信頼できる」とは言えなくなるだろう。

 〈大系〉の解説を読んでいて、疑問がもう一つ出てきた。真福寺本系統の中に真福寺本とほとんど同時代の写本があるのだった。

②道果本
 上巻の前半のみ。永徳元(1381)年書写。
③道祥本(伊勢本)
 上巻一冊のみ。応永31(1424)年書写。
④ 春瑜本(伊勢一本)
 上巻一冊のみ。応永33(1426)年に道祥本を書写したもの。

 ④の底本は③であると明記されている。②と③の底本は明記されていないので「不明」と考えるほかない。あるいは「真福寺本系統」とひとくくりにされているから、真福寺本が底本とも考えられる。「矛」や「沼」の影印を調べればはっきりするけど、資料がないので私にはお手上げ。

 「卜部家本系統」の書写本は次のようだ。

⑤前田家本
 上中下三冊。大永2(1522)年の奥書及び慶長12年(1607)に勅本で校合した旨の奥書がある。
⑥猪熊本
 上中下三冊。室町時代の書写と言われている。
⑦寛永版本
 上中下三冊。寛永21(1644)年開板。古事記最初の板本。

 いずれもなにを底本にしたのか不明。また、⑤の「勅本」って何だろう。天皇家所蔵の写本があったということがろうか。「そんなバカな」と思ってしまう。

 ところで、本居宣長は享保15(1730)年生まれだから、②③あるいは⑤⑥⑦の「矛」の影印が「弟」でなく「矛」そのものであれば、宣長が真福寺本の「弟」を「矛」と原文改定したという古田さんの説は誤認と言うことになる。ちなみに、古田さんは、宣長は真福寺本によって「古事記伝」を書いたとも言っているが、〈大系〉の解説では
「古事記伝の本文は、宣長が苦心して入手した古写本、寛永版本、鼇頭古事記、延佳の校本の写し、村井敬義所蔵本、真福寺本の転写本、真淵の書入本を以って校訂したものと思われる。」
と書いている。これによれば、宣長は複数の資料を用いて「古事記伝」本文を校訂していたことになる。相当信頼してよいのではないだろうか。

 学者たちは諸写本をどのように評価しているだろうか。小野田という学者の底本(古訓本と略称している)に対する資料批判を紹介した上で、次のように述べている。

 以上のような事実から小野田氏は、

1 古訓本の本文は古事記伝の本文より数歩後退している。
2 古訓本の上巻は記伝の字体と一致し、中下巻は通則的に見て延佳本の字体と一致する。
3 古訓本の上巻は、宣長自身選定した改正本に依って松坂で書かれ、それは記伝に極めて近いものである。
4 中下巻は、延佳本を底本とし、記伝の説によって訂正された改正本を藍本として、京都で書かれている。
5 従って古訓本は、上巻と中下巻と成立の過程を異にする合本と見られる。

と推定している。

 古訓本にはこのような欠点があると共に、周知のように記伝にならって、みだりに文字を補ったり、また削ったりしていて、首肯しがたい箇所も散見している。しかし真福寺本をはじめ他の諸伝本には、一層多くの誤脱があるから、現状は古事記伝の本文か古訓本の本文を底本とするのが、最も穏やかなように思われるのである。

 学者さんの文章は難しい。「藍本(らんぼん)」なんて言葉には初めてであった。広辞苑の説明は
「絵画の下書き。粉本。転じて、原本。原典。底本。」
「底本」と同じ意味だ。「底本」と「藍本」をどう使い分けているのだろうか。

 それはさておき、「真福寺本をはじめ他の諸伝本には、一層多くの誤脱がある」と判定しているが、何を基準に「誤脱」の判定をしているのだろうか。どうやら「古事記伝」の本文を基準にしていると読める。「古事記伝」の本文が最も信頼に足りると評価しているようだ。

 〈大系〉の解説を読んでみたが、結局疑問点だらけだった。諸写本の影印比べができれば解ける疑問もあるが、そのための資料がないのだから仕方ない。いや、一つ手はある。複製本がなくとも〈大系〉の脚注を丹念に調べれば諸写本の違いがある程度つかめるかも知れない。と思ったが、真福寺本の「矛→弟」をまったく取り上げていないぐらいだから、正確さは期待できない。止めることにした。ただ一つだけ取り上げておきたい脚注がある。

 真福寺本には立て続けて出てくる「沼(あるいは治)」の一つだけを「詔」と書く信じがたい誤記があった。まるで文章の意味など考えずに、字の形だけを写しているみたいな誤記だ。この誤記に関連して「天詔琴」という言葉に出会った。これに対する脚注は次のような指摘をしている。

底本と⑤・⑥・⑦・鼇頭古事記…「詔」
①…「治」
③・④…「沼」

 〈大系〉は底本通り「詔」を選んだ。⑤・⑥・⑦が「詔」なのだから、この場合も決して宣長による原文改定ではなかった。

 また、①では私と同じく「治」と読んでいる。③・④は「治」ではなく「沼」だ。③の底本は①ではないかもしれない。

 断定的なことは何も言えず、ただ疑問点を述べることに始終してしまったが、以上で「番外編」を終わることにする。
《続・「真説古代史」拾遺篇》(14)

番外編:「矛」か「弟」か?(4)


 2・3回で終わる予想をしていたので「番外編」と名付けて始めたが、次から次へと疑問が湧いてきて思いがけず長くなってしまった。本道を見失いそうだが、行くところまで行ってみよう。

 「矛」は中巻・下巻にはそれぞれ14例・2例ずつある。古田さんはその中から、影印が「弟」になっていてかつ「音」の意で使われている例を中巻・下巻からそれぞれ一つずつ見いだしている。(他の「矛」の中にも影印が「弟」の例があるのかどうかは、古田さんは触れていないので不明。)

 古田さんが提示している「弟=音」の例は上巻の「国生み」説話の「天沼弟」と合わせて3例ということになる(「八千弟」の場合は必ずしも「音」という意とする必要はないと思う)。その3例についての古田さんの解読を読むといろいろと疑問点が出てくる。それを書き留めておこう。

(例1)
「国土の修理固成」の段
是に天つ諸(もろもろ)の命以て、伊那那岐命、伊邪郡美命、二柱のに、「是の多陀用弊流(ただよへる)國を修め理(つく)り固め成せ。」と詔りて、天の沼矛を賜ひて、言(こと)依(よ)さし賜ひき。故、二柱の、天の浮橋に立たして、其の沼矛を指し下ろして畫きたまへば、鹽(しほ)許々袁々呂々邇(こをろこをろに)畫き鳴(な)して引き上げたまふ時、其の矛の末(さき)より垂(しただ)り落つる鹽、累(かさ)なり積もりて島と成りき。是れ淤能碁呂(おのごろ)島なり。

 かえりみれば、古事記の「国生み神話」が「天の沼矛(ぬぼこ)」ではなく「海士(あま)の〝ぬ″(小銅鐸)」の「弟(昔)」であったことは、当然でした。あの印象的な、「塩、こおろ、こおろに」の表現一つとっても、自明です。「矛」を海中にひたしたのでは、金輪際、こんな「音」はしません。本来、楽器としての性格をもつ、小銅鐸にこそふさわしい。そう思いませんか。

 「天の浮橋」とは、海士族が岸側と舟との間にわたす、「細長い平板」のこと。隠岐島(島根県)では、今でも実用されている言葉です。

 「高天原」は前にものべたように、「海士(あま)族の住む、水のきれいな集落」です。ここでは、壱岐の北岸の「天の原海水浴場」のこと。

 上巻「神代記」は
「天地初めて發(ひら)けし時、高天の原に成れる神の名は、…」
で始まる。舞台は壱岐島。淤能碁呂島は能古島のこと。ここは銅矛圏内だ。銅鐸を用いる神話はそぐわないのではないか。もっとも、福岡県からも小銅鐸が出土しているというから、まったく不可とは言い切れない。しかし私は次の『盗まれた神話』の一節を是としたい。

近畿を中域としておびただしく出土するこの特異な古代青銅器が、それを産出したその時代の社会にとって、もっとも重大かつ神聖な宝器であったこと、それは一点の疑いもない(銅鐸の使途が、楽器であるか、祭祀用具であるかが、かつて論争されたことがあった。だがそれは、たとえば銅剣・鋼矛・銅戈が武器であるか、祭祀用具であるか、と問うようなものであろう。「武器型の祭祀用具」であり、両性格は矛盾しない)。

 したがって、その社会では、この神聖な宝器は当然、おびただしい神話や説話群にとりまかれ、その真只中に存在していたはずだ。 - わたしにはそれを疑うことはできない。

 ところが、今天皇家の『記・紀』の中には、それらは一切姿をあらわさぬ。

 それだけではない。近畿を中城とする、「銅鐸圏」各地の民間伝承・口碑の類を渉猟しつくしてみても、「銅鐸神話」は一切姿をあらわさないのだ。

(中略)

 答えは一つだ。 - のちに天皇家という古代権力の主導した社会は、この「銅鐸を宝器とする社会」とは全く異質の、相容れざる祭祀圏であった。それゆえ、旧来の〝銅鐸をめぐる神話・説話群″は、新しい権力(天皇家)によって根絶されてしまったのだ、と。わたしには、そう考えるほか道はない。

 その根絶したはずの銅鐸神話が古事記に記載されていた!? 私には納得できない。

 また、「沼弟ぬおと」が「銅鐸の音」という意だとすると、説話中の該当文は「(銅鐸の)音を賜ひて」とか「其の(銅鐸の)音を指し下ろして」とか、おかしな文になってしまう。揚げ足取りのような指摘のようだが、私には引っかかる事柄だ。

 次の2例については「古事記と銅鐸」論の説明文は簡略すぎるので、講演録「『古事記』と『魏志倭人伝』の史料批判」から引用する。

(例2)
「兄宇迦斯・弟宇迦斯」の段(神武記)
爾に大伴連等の祖、道臣命、久米直等の祖、大久米命の二人、兄宇迦斯を召(よ)びて、罵詈(の)りて云ひけらく、「伊賀作り仕へ奉れる大殿の内には、意禮(おれ)先づ入りて、其の仕へ奉らむとする状(さま)を明し白(まを)せ。」といひて、即ち横刀(たち)の手上(たがみ)を握(とりしば)り、矛由氣(ゆけ)矢刺(やざ)して、追ひ入るる時、乃ち己が作りし押(おし)に打たえで死にき。

 「矛由氣」について〈大系〉の頭注は次のように述べている。
「矛を揺り動かしの意ではあるまいか。ユケという語は他に所見がない。」

 古田さんは次のように解読してる。

 ここの「矛由気ほこゆけ」は、『古事記』真福寺本で見れば分かりますように、「矛」とは書いてなくて「弟」と書かれています。「矛由気 ほこゆけ」でなく、「弟由気 おとゆけ」なのです。

 これは何かと言いますと、反りのある「横刀(おうとう)」が「太刀(たち)」なのです。「矛」は直線ですから、振り回す「太刀(たち)」を矛のようには使えない。矛のように使えないことはないけれども、それなら最初から矛を用意すればよい。「太刀(たち)」を矛のように使うこと自身がおかしい。

 では何か。普通の「弟行く(音行く)」は自動詞ですが、他動詞に使うと「弟行く(音行く)」は、「音を響かせて」となる。つまり「横刀(おうとう)の大刀(たち)」は突くものでなく、振り回すものです。つまり反りのある太刀を振り回すと「ビュン・ビュン」と音が鳴る。だからサウンドでなければおかしかった。それを「弟由気 弟行く(音行く)」と表現している。それを宣長が「矛」に書き直した。

 これも影印どおり「弟=音」が正しいとすれば、たいへん面白い解読である。しかし、原文字体は「矛」であっても何ら矛盾ははない。古田さんは『「太刀(たち)」を矛のように使うこと自身がおかしい』と言っているが、これは誤読ではないだろうか。

 兄宇迦斯を追い詰めているのは少なくとも道臣命・大久米命の二人、もしかすると部下も加わっていたかもしれない。その複数の追っ手が、ある者は今にも抜刀すぞと横刀の柄を握り、また他の者は矛を振り回したり弓矢を引き絞ったりしながら兄宇迦斯を追った。私はそのように読んだので、「矛」であっても何の疑問も感じなかった。

(例3)「墨江中王の反逆」の段(履中記)
爾に多(さは)に祿(もの)を其の隼人に給ひて曰(の)りたまひしく、「然らば汝が王を殺せ。」とのりたまひき。是に曾婆訶理(そばかり)、竊(ひそ)かに己が王の厠に入るを伺ひて、矛を以ちて刺して殺しき。

 古田さんの解読は次のようだ。

そこでは隼人の曾婆訶理(そばかり)が登場します。南九州の隼人を悪者あつかいにしていることが『古事記』の一つの特徴なのですが、その曾婆訶理をだまして、彼が仕えているご主人に謀反を起こさせた。それが成功したら、良い地位を与えてやると裏切りをそそのかした。それを曾婆訶理が本気にしてご主人を殺した。

 「是に曾婆訶埋、窺(ひそ)かに己(おの)が王の廓(かわや)に入るを伺ひて、矛を以ちて刺して殺しき」

 つまり自分のご主人がトイレに入ったときに矛で刺し通して殺したとある。ですが、これは話さなければ分かりません。今は水洗便所の時代ですから若いかたがたはご存じないと思いますが、我々の若いときはとうぜん水洗便所はないですから掘った便所でした。掘った便所では大事なことがありまして、お尻からウンチ(糞)を落としますと跳ね返る。ですから便所の水面が1メートルぐらいでしたら、跳ね返りがお尻に当たり気持ちが悪い。最低1メ一トル半から2メートルぐらいの下のところに水面がなければならない。それならお尻に水滴が跳ね返らない。昔はふつう、母屋から少し離れたところに便所があります。ところがこのような深い便所の穴は、まっすぐに掘れませんから、大きな穴になり、とうぜん大きな空白ができます。その空白に隠れる。そして汚い話ですが、ウンチ(糞)が水面に落ちると「ポチャン」と音がします。その昔に合わせて、空白に隠れていた彼が刀をお尻に向けて突き刺して殺す。矛は長過ぎてまったく使えない。このように非常にリアルというかおもしろい話です。

 これもなかなか面白い解読だ。しかし、この説話のシチュエーションも私が持っていた印象とはまったく違う。曾婆訶埋が厠の汚物を溜める穴の中で待ち伏せていたとは思いも及ばなかった。私はこの説話を読んで、幡随院長兵衛謀殺の場面を思い出していた。

 旗本奴の頭領・水野十郎左衛門は手打ちを装って長兵衛を自宅に招き、風呂を勧める。丸腰にさせるためである。十郎左衛門は湯殿に入って丸腰になった長兵衛を斬殺した。

 曾婆訶埋は丸腰になって厠に入った時を狙って、主・墨江中(すみのえのなかつ)王を矛で刺し殺した。私はそのように理解をしていたので、なんの不都合も感じていなかった。

 以上、「八千矛」も含めて、影印が「弟」となっている4通りの「矛」記事に対する古田さんの解読を読んできたが、私には「矛」を「音」にする必然性はないと思えた。しかし、影印が「弟」であるのは事実だ。これをどう考えるかが残された問題である。
《続・「真説古代史」拾遺篇》(13)

番外編:「矛」か「弟」か?(3)


 前回、「新たな問題が含まれている」と書いたが、その問題とは「詔」に関する問題である。

45「根国訪問」の段
 即其大神之生大刀與生弓矢及其天詔琴而逃出之時其天詔琴拂樹而地動鳴

 即ち其の大の生大刀(いくたち)と生弓矢(いくゆみや)と、及(また)其の天(あめ)の詔琴(のりこと)を取り持ちて逃げ出でます時、其の天の詔琴樹(き)に捕(ふ)れて地(つち)動(とよ)み鳴りき。


 ここに出てくる二つの「詔」も真福寺本では明らかに「治」である。影印を 掲載する。

「詔」の影印

 この「天詔琴」は古田さんが取り上げている。

 他にも、「天沼琴(あまののりこと)」と〝直し″た上で、「当時(弥生時代)には『琴』はなかった」などと、注釈をつけている学者もいます。

 この「琴」は、平安時代などの「琴」ではありません。中国の編鐘(へんしょう)にもあるように、八つの(あるいは「やしろ」)の「ち」(神の古称)の「音(サウンド)」を出す、楽器のことを指していたのです。

 「天詔琴」についての文章はこれで全部だ。

 冒頭の「天沼琴」は明らかに「天詔琴」の校正ミスでしょう。しかし、古田さんが「詔」→「沼」とい訂正を念頭に置いている証左と考えてよいだろう。しかし、ここの琴が古田さんの解説のように『八つの「ち」の「音」』を出す楽器なら、「天治(ち)琴」の方がピッタリではないだろうか。

 「矛・弟」問題に戻ろう。今まで、本文だけで「矛(弟)」を調べていたが、序文第二段にも「矛(弟)」があることに気付いた。

4~5「序文第二段」
皇輿忽駕浚渡山川六師雷震三軍電逝杖矛擧威猛士烟起絳旗耀兵凶徒瓦解

皇輿忽ち駕して、山川を浚(こ)え渡り、六師雷のごとく震ひ、三軍電のごとく逝(ゆ)きき。杖矛(ぢやうぼう)威を擧げて、猛士烟のごとく起こり、絳旗(こうき)兵を耀かして、凶徒瓦のごとく解けき。


 ここの「矛」の影印も確かに「弟」としか見えない。だからといって、「杖矛」を「杖弟」ととし、「杖音(じょうおと)重箱読みが不可なら(つえおと)」だというのは無理ではないだろうか。これでは勝鬨をあげて戦意を高揚させる場面だ。この頃の軍隊で「杖」は何に使うのだろうか。指揮官の指揮棒だろうか。戦意高揚のための道具が指揮官の「杖の音」だけではサマにならないのではないだろうか。

 また、「杖弟」が正しいとすると、やはりおかしい。この序文は元明天皇への上奏文だ。その上奏文で、はっきりと「音」という字を用いずに「弟」を用いて、これを「音」の意にとって下さいという、そんなクイズみたいな上奏文がありえるだろか。

 この、なぜ「音」という字を使わないで「弟」を使うのかという疑問は、本文中での使用にも当てはまる。逆に言うと、全て「弟」で代用されていて「音」という字は使われていないのだろうか。分注では〈流の字以上の十字は音を以ゐよ〉のようにそこらじゅうで使われているので、本文中の「音」をさがすのは容易ではない。取りこぼしがあるかも知れないが調べてみる。

 意外に少ないのでびっくりした。

【上巻】

「須佐之男命の涕泣」の段
是を以ちて惡しき神の音(こゑ)は…

「天若日子」の段
此の鳥は、其の鳴く音(こゑ)甚(いと)惡(あ)し。

【中巻】

「本牟智和氣王」の段(垂仁記)
故、今高往く鵠(くきひ)の音(こゑ)を聞きて…。


「功皇后の新羅征伐」の段(仲哀記)
故、幾久(いくだ)もあらずて、御琴の音(おと)聞えざりき。

【下巻】

「枯野という船」の段(仁徳記)
茲(こ)の船、破れ壞れて鹽を燒き、其の燒か遺りし木を取りて、琴に作りしに、其の音七里(ななさと)に響(とよ)みき。

 「音(おと)」という例が2例あった。例数は少ないが「音(おと)」の代わりに「弟(おと)」を用いる必然性はない。

 次に、「矛」に変えられていた「弟」以外に、「弟」を「音」という意で用いている例があるのかどうか調べてみた。次の通りで、上巻には「音」という意で使われている例はない。(ページ数と〈大系〉での読みのみ記録する。)

40・45・55
 ともに兄弟(あにおと)
73
兄弟(はらから)
其弟(おと)木花之佐久夜毘賣
75
其弟(おと)火遠理命
其兄強乞徴故其弟(おと)破御佩之十拳劔

 75の二つ目の「弟」の影印を私は何という字か判別できない。二つの「其弟」を含む部分の影印を拡大して掲載する。

「弟」の影印1

76
是其弟(おと)泣患居海邊之時

 「矛」としか見えない例がまた出てきた。このケースも影印を掲載しよう。

「弟」の影印2

81
其弟(おと)玉依毘賣

 以上が上巻に現れる全部の「弟」だ。中巻・下巻については私には調べるつてがなく確認できない。古田さんの次の言葉を信頼しよう。

 新たな進展がつづきました。

 古事記の真福寺本の「矛」と「弟」の完全調査をした結果、やはり「矛」とあるのは「矛」、「弟」とあるのは「弟」だという自明の結果をえたのです。「弟」は「兄」に対する「弟」の意と、「音(サウンド)」の意と、どちらかに使われています。