2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《続・「真説古代史」拾遺篇》(12)

番外編:「矛」か「弟」か?(2)


(図書館の『盗まれた神話』(ミネルヴァ書房版)は借り出されていた。この頃は古田さんの著書はよく借り出されるようになって、私が独占できなきなくなってきた。喜ばしいことです。そこで私は丁度よい機会なので、遅蒔きながら「古代史コレクション」シリーズを全部購入しました。)

――――――――――

(以下、『盗まれた神話』所収「日本の生きた歴史(三)」の第二「古事記と銅鐸」論が教科書です。)

 まず古田説のあらましを箇条書きで示しておき、必要に応じて本文の引用をする。


 大阪にある「ぬで神社」の「ぬで」には「鐸」という字が使われている。銅鐸は「ぬで」と呼ばれていた。

 小銅鐸は上部の取っ手部分(鉦 ちゅう)に紐(ひも)をかけ、つるして使用する。本体と紐を合わせて「ぬで」と呼ぶ。本体部分が「ぬ」である。

 「天の沼矛(ぬぼこ)」の「沼(ぬ)」は小銅鐸のことである。

 真福寺本では「矛」はすべて「弟」と書かれている。「天の沼矛」は本来「天の沼弟(ぬおと)」である。「八千矛神」も「八千弟(おと)神」である。

 「天沼弟」「八千弟神」の場合の「弟(おと)」は「音 sound」の意である。

 さて、前回「八千弟」が正しいとすると歌謡の中で使われている「夜知冨許」と矛盾することを指摘した。この点を古田さんはどう解決しているか。該当部分を読んでみよう。

 もう一つ、大切なことを〝注意″させていただきます。

 先の「八千第(ヤチオト)神」と「沼河(ヌカワ)比売」の対話の歌で、比売(ヒメ)は相手に対し、

「夜知富許能 迦微能美許登波(ヤチホコノ、カミノミコトハ)」

と、くりかえし〝呼びかけ″ています。ここでは「八千矛の、神の命」です。要するに、
(A) 「ヤチオト」
(B) 「ヤチホコ」
という、二種類の名称が〝使い分け″られているのです。そしておそらく(B)の方が「呼びかけ」の尊称として用いられているのです。

 この「大国主命」が、同時に「大穴牟遅」(オオナムチ)と呼ばれているように、同人物・同一神に「別称」のあること、珍しくはありません。ここでもそうなのです。

 なるほど、「八千弟」が正しいとすればこのような解釈しかあり得ないだろう。しかし、古田さんの文には一つ事実誤認がある。「沼河比賣求婚」の段には歌謡が二つあるが、二つともが沼河比売の歌ではない。一つ目は大国主の呼びかけの歌で二つ目が沼河比売の返答歌である。大国主は尊称「ヤチホコ」で名乗ったことになる。神だから自分に尊称をつかっても取り立てておかしいわけではないけど、一応指摘しておこう。

 上で私は「正しいとすれば」と判断を保留した言い方をしたが、まだ指摘しておきたい疑問点がいくつかあるからだ。それらの問題に納得できる解が見いだされるまでは、私には古田説の全てを正しいとは言い切れない。そうした問題の一つは次の通りだ。

 『古事記正解』のテキストでは「沼矛」の「沼」が「治」になっていて、影印は確かに「治」らしい。この問題はどうなるのだろうか。

 『古事記正解』には「上巻」の影印しかないという限界があるが、従来「沼」とされている文言を全て調べてみた。(数字は真福寺本のページ数)

10「国土の修理固成」の段
 「沼弟」が2回出てくるがどちらも「治」のようだ。該当の文章は前回「弟」について調べるために引用した。そこで私は、三つ目は「矛」に見える、と書いた。其の部分の影印を切り取ってみた。(「弟」は一行目の下から2字目)

「矛」の影印

 その後、「弟」を全部調べたが、
75「火遠理命 1 海幸彦と山幸彦」の段
にまったく同じ字体があった。この書写者の筆癖なのかも知れない。「弟」と判断してもよいかも知れない。

「矛」の影印2

 今は「沼」がテーマでした。戻ります。

46「沼河比賣求婚」の段
 沼河比賣
…薄い字で判定しがたいが、どちらかというと「治」

54「大国主の裔」の段
青沼馬沼押比賣
…「治」と読める。

82「鵜葺草葺不合命」の段、上巻最後の一節
合命娶其姨玉依毘賣命生御子名五瀬命次稻泳命次御毛沼命次若御毛沼命亦名豐御毛沼命亦名神倭伊波禮毘古命四柱故御毛沼命者跳浪穗渡坐于常世國稻泳命者爲妣國而入坐海原也

 このケースには新たな問題が含まれているので影印を掲載しよう。

numa.jpg

 「沼」が4回出てくる。1回目と2回目は「治」、4回目は判読しがたいがやはり「治」だろう。

 ところが3回目の字はなんと「詔」ではないか。この書写者は「沼」の旁はこのように書いている。念のため「詔」をいくつか調べたら、全て同じ字体だった。このことからもいままで取り上げた「沼」は全部「治」と判定してよいのではないか。

 もしも私の影印読取りの判断が正しいとすると、「矛」だけ「弟」にし、「沼」はそのままで「治」とはしないのは、片手落ちではないだろうか。
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《続・「真説古代史」拾遺篇》(11)

番外編:「矛」か「弟」か?(1)


 前回、引用文中に私にとって意味不明の文章が二つあって、それについて(お分かりの方おりましたらご教示ください。)という添え書きをした。そのうちの
(1) 八千弟(「矛」は、古事記伝の「改記」)
について、さっそく2件コメントを頂きました。ありがとうございました。

 1件目の「x」さんのコメント。

 大系も元来「八千矛」になっているとのことですが、最も古い写本とされている真福寺本『古事記』にはp40、p46等「八千弟神」と読める書体となっております。

 改めて岩波大系の底本を調べたら「正訂古訓古事記」だった。1803(享和3)年発行という新しい校本だ。本居宣長の「古事記伝」をさらに「正訂」したものという版本のようだ。

 〈大系〉では『古事記』も『日本書紀』も底本以外の「諸本」に校異があれば脚注にそれを記しているが、「矛・弟」については何も記されていない。ならば、直接「真福寺本」を見るほかない。ネット検索をしてみた。ネット、すごいですねえ。次のサイトがヒットしました。

『古事記正解』

 『国宝真福寺本古事記』の上巻全部の影印とテキストが掲載されている。P.40・P.46の影印をみると確かに「弟」のように見える。ただし、『古事記正解』のテキストは「矛」としている。

 もし「八千弟」が正しいとすると「やちおと」と読むのだろうか。もしそうだとすると、やはり問題がある。「真福寺本」でも歌謡では「夜知冨許」(「富」ではなく俗字の「冨」に見えました)なのだ。これを「やちおと」と読むのは無理でしょう。

 二つ目のコメントは向井さんからでした。

「沼矛→沼弟」の件、
『盗まれた神話』(ミネルヴァ版)のpp.411~417に書かれているようです。「第一章 謎にみちた二書」に『(「矛→弟」の新論証については、本書411~417ページ参照)』と記載されています。

 私はまだ読んでいませんが、古事記において国生みをした道具は矛ということになっていたが、これがどうも違うらしい。沼矛ではなく沼弟(音)で、「ぬ」とは銅鐸なのだそうです。

 「八千矛(弟)」は「沼河比売求婚」説話での用例だが、「沼矛(弟)」は「国生み」説話での用例だ。「矛(弟)」が3回出てくる。『古事記正解』のテキストは次の通りだ(真福寺本古事記P.10)。

①天治矛而言依賜也故二柱神立訓立云、多多志天浮橋而指下其②治矛以 畫者鹽許袁呂許袁呂邇此七字以音畫鳴訓鳴云那志而引上時自其③矛末垂落之鹽之累積成嶋是淤能碁呂嶋……

 私の眼には①は「弟」、②は「どちらとの取れる」、③は「矛」に見える。「弟」と断定してよいのか、私には分らない。なお、このテキストで注目すべき事がもう一つある。通説の「沼」が「治」になっているのだ。改めて影印を監察すると確かに「治」にしか見えない。

 「矛」と「弟」のどちらが正しいのか。その判断は神話全体の文脈の中で検討する外ないだろう。ここで古田さんの論考を教科書にすることになります。

 向井さんのコメントにあった(「矛→弟」の新論証については、本書411~417ページ参照)という注は私の手元にある朝日文庫版『盗まれた神話』にはない。朝日文庫版では神話のみならず、『古事記』『日本書紀』のどこにも銅鐸が現れないのは不審だ、という問題提起に終わっている。

 HP「新・古代史の扉」で確認した。ミネルヴァ版の巻末に追加された書き下ろし論文「日本の生きた歴史」の中の「古事記と銅鐸」論が該当論文のようだ。なお講演録「『古事記』と『魏志倭人伝』の史料批判」(「古代に真実を求めて第14集」所収)にも『「天の沼矛」は「天の沼弟」である』という項目がある。

 ここで図書館に行くことになるのですが、あいにくなことに今日は休館日でした。今日はここまでとします。
《続・「真説古代史」拾遺篇》(10)



「狗奴国」は何処?(5)
「女王の境界の尽くる所」(3)


 資料③「講演1」と資料④「講演2」を頼りに記述する段階に入りました。③④は講演録の性質上論旨や論理の筋道がうまくつかめない部分があって何とも心もとない思いが強くありました。古田さんの最新著書『俾弥呼』にはとうぜん狗奴国についての論考があるはずと思い昨日(22日)注文しました。ネット注文です。便利ですねえ。もう今日(23日)届きました。

 さっそく目次に目を通し、序章を読みました。今まで必ずしも論証が十分でなかった仮説あるいは試案にすぎなっかた事案が多々あったが、それらの多くにより明解な論述がなされている。私にとっては始めて知る研究成果もたくさんある。魅力一杯の著書です。③④も参考にしますが、以後は『俾弥呼』を教科書とします。(資料⑥とします。)


―――――――――――

 さて前回、、「これは仮説というか、試案が入ってきますが」と断りながらも、「女王の境界の尽くる所」にある「奴国」を舞鶴付近に比定する古田案を紹介した。資料⑥ではこれをもうすこし東の移動させて、越国との境界に当たる能登半島に比定している。その部分(P.124・P125)を、いくつか補注(赤字部分の)を付けながら読んでいくことにする。

 残された、「21国」中の最後の国、それは「奴国」だ。「31国」中の「伊都国」の東南「奴(ヌ)国」は「二万余戸」の大国である。「七万余戸」の「邪馬壹国」、「五万余戸」の「投馬国」に次ぐ、第三位の「大国」である。この「二つの奴国」の異同が、従来も種々論議されてきた。

 しかし、わたしにとっては明白である。別国である。「邪馬壹国」の場合も、「語幹」は「邪馬国」だった。同音の「二つの国」だ。だからこの「奴国」の場合も、同名の国があっても、なんら〝奇″とするに足りない。もし、両国が同一国なら、陳寿はそれを簡明に注記することができよう。「己(すで)に記したり」などである。逆に、文章の中の〝位置づけ″のちがいによって、この二つの「同名国」が〝別国″であることを、簡潔に示唆している。それが陳寿の筆法である。―(*)

 私は前回
『関門海峡以西の「女王に属する」国は次の21カ国だった。』
と書いたように、「21国」は全て関門海峡以西の国で「倭人伝」の記述順序はその「21国」の地理的順序を示していると解していたが、古田さんはそれを否定している。次のように述べている。(資料⑥、P.111)

 倭人伝には「邪馬壹国」以外に、30国が並記されている。そのうち、9国は帯方郡から不弥国までの途上国だ。主線行程と傍線行程がある。

 これに対して「21国」は国名だけが〝投げ出され″ている。これが今回の問題である。「次に」という言葉で並記されているから、一見「倭国内の地理的位置」の順序かと見えるけれど、それではうまくいかないこと、多くの人の「実験」されたところであろう。この点、貴重な示唆をいただいたのが、加藤一良さん(東京、北多摩病院院長)である。

 その提言は「30国は〝倭国側からの情報に拠った″のではないか。」ということである。倭国からの上表文や交流の中に、その存在があげられていた。それを陳寿が〝採用″して書いたのではないか、と。「盲点」だった。

 つまり「倭人伝」に
倭人は……旧百余国。漢の時朝見する者有り。今、使訳通ずる所三十国。〈三国志、魏志倭人伝)
とあるように、「上表文や交流の中」で知った国名を列挙したもので、地理的順序とは関係ないというわけである。ただ最後の
次に奴国有り。此れ女王の境界の尽くる所なり。その南に狗奴国あり、……
というくだりは、明らかに奴国が「女王の境界の尽くる所」の国であると読み取るほかない。古田さんはこの立場に立って「21国」の地名比定を行っている。その一つが上の赤字部分である。次のようである。(資料⑥、P100・P.101)

 倭人伝の中の「30国」中の「21国」について、わたしの辿った道を、そのまま書こう。

 まず、「邪馬国」。〝訓み″は「ヤマ」だ。女王国の中心「邪馬壹国」と語幹が共通している。両者の〝関係″は深い。むしろ、同根の〝伝播″であろう。-「大和(ヤマト)」である。

 「ト」は〝戸口″。〝神殿のありか″をしめす、接尾語だ。わたしは、そう考えた。とくに、古事記・日本書紀が、天皇家の来歴を「九州からの伝播」としていること、特に古事記が「竺紫(ちくし)の日向(ひなた)の高千穂のクジフルタケ」を〝出発地″としている点が注目される(日本書紀は、宮崎県の「日向(ひゅうが)の霧島連峯とする)。

 「竺紫の日向」の地には、最古の弥生王墓、「三種の神器」(勾玉と銅剣と銅鏡)の出土地である、吉武高木がある。この博多湾岸を中心に出土する「三種の神器」や「絹」は、やや遅れて「大和(奈良県)」から出土することが、今は周知である。

 したがってこの「邪馬国」を奈良県の「大和」とする立場、それはわたしには〝ゆるぎ″のない見地だった。津田左右吉のように、神話をもって「後代の造作」とし、「六世紀の天皇家の史官の〝造作″」とした場合、筑紫(福岡県)の出土事実との「対応」と「一致」を、単なる〝偶然の一致″とする他ない。全く無理なのである。

 勾玉と剣と鏡の「三種の神器」が、筑紫の日向の高祖(たかす)山周辺の弥生の王墓から出土する、この事実に対して、今も「津田左右吉の後継者たち」は堅く〝目をおおうて″いる他ないのである。

 それは「三種の神器」だけではない。後述するように「絹と錦」もまた、「筑紫(福岡県)から大和へ」の、文明の〝伝播ルート″が〝リアル″であることをハッキリさししめしていたのである。だから、「邪馬壹国(A)と邪馬国(B)」という〝流れ″を無視することはできない。

 津田左右吉は、不幸にも、「考古学上の出土分布」との対応を見る、という「歴史学者としての目」をもっていなかった。そのための「錯失」であろう。

 以上、はっきりと「大和」も「女王に属する国」の一つとしている。言われてみれば九州王朝の分流であるヤマト王権が「女王に属する国」の一つであることは当然のことであった。

 さて、古田さんが「女王の境界の尽くる所」にある第二の奴国に対して新たに提示している比定地は次のような論拠による。

〈(*)の続き〉

 では、この「21国」中、最末の「奴国」、しかも有名な、「これ女王の境界の尽くる所なり。」とある。この「奴国」とは、どこか。

 わたしは「能登(ノト)」(石川県)だと思う。能登半島の「能登」である。「ト」は〝神殿の戸口″の「ト」。接尾辞である。「大和」や「山門」の「ト」とも、共通の用語である。

 古事記上巻(神代巻)では、八千弟(「矛」は、古事記伝の「改記」)神が高志(コシ)国の沼河(ヌカハ)比売に対して、次のように歌っている。

八千矛の 神の命は 八島国 妻枕(ま)きかねて 遠遠し 高志(こし)の国に 賢(さか)し女(め)を 有りと聞かして

 「八島」の内実には、種々の立場がある(日本書紀)けれども、ここでは「高志(=越)」は、「出雲を中心する、八島国」には入っていない。すなわち、能登半島以西が出雲の「勢力範囲」となっているのである。

 「国ゆずり神話」や「天孫降臨神話」などの〝内実″が「女王国の歴史」として、倭人伝の中の、倭人側による「国名表記」に対して、いちじるしい「前提」とされ、「痕跡」を残していること、すでに多くの事例でしめしたところである。

 だから、この「第二の奴国」のケースもまた、能登半島以東が「倭国」とは〝別領域″として、ここに明確にしめされていたのである。

 隠れた女王、俾弥呼の横顔は、一面では意外に明確な輪郭をわたしたちにクッキリとしめしていたようである。

 古田さんは「奴国」を「ヌコク」と読んでいるが、「奴」の表音「ヌ」「ノ」はどちらも「野」という意味をもつと考えている。引用されている歌謡から能登までが出雲の範囲ということは十分納得できる。「舞鶴近辺」説には文献的論拠が欠けていたので、私は「能登」説に賛成したい。

 しかし、私には真意をつかめない文言が二ヶ所ある。無視しても全体の論旨には影響がないが、一応指摘しておく。(お分かりの方おりましたらご教示ください。)

(1) 八千弟(「矛」は、古事記伝の「改記」)

 〈大系〉の原文を当たってみたが「八千弟」はまったくない。他の写本にあるのだろうか。もともとは「八千弟」だったとして、これはどのように読むのだろうか。「八千矛」は歌の中では「夜知富許」と表記されている。「やちほこ」と読むほかないと思うが…。

(2) 「八島」の内実には、種々の立場がある(日本書紀)けれども

 「八島」は国生み神話の「大八洲」とは異なる概念だろう。しかし『日本書紀』には「八島」はない。「八嶋」が第八段一書第一に出てくるが、人名(神名)のなかで使われているだけである。また「八千矛」は『日本書紀』では「八千戈」と表記されているが、第八段一書第五に出てくるだけである。上の文を私はまったく理解できない。

 『古事記』では「八島」について頭注が次のように述べている。

「一般に大八島国即ち日本の国中でと解されている。しかし出雲の神々に八島士奴美神・八島牢遅能神などのように、八島を名にしている神があることから考えると、八島国は出雲関係のもっと狭い範囲かも知れない。なお考うべきであろう」。

 私は「八島国は出雲関係のもっと狭い範囲」と断定してよいと思う。
《続・「真説古代史」拾遺篇》(9)



「狗奴国」は何処?(4)
「女王の境界の尽くる所」(2)


(今回から資料③「講演1」を加えます。)

 再度「倭伝」の拘奴国記事を掲載する。

女王国より東、海を度(わた)ること千余里、拘奴国に至る。皆倭種なりといえども、女王に屬せず。

 この「千余里」が「短里なのか長里なのか」を見極めることが問題解決のカギとなった。「短里」と「長里」の変遷史についてはおおよそのことは既に私(たち)の知るところだが、「講演1」で詳しく語られていてそこには私にとって初めての知見もあるので紹介しておきたい。

 中国には長里と短里があった。周代は短里である。周代にできた『四書五経』の史料は、すべて短里である。それを現代中国をはじめ、みんなが、長里で解釈するのは間違いである。そうわたしは言いました。それにたいして秦の始皇帝が陰陽五行の概念を信じて、長里という概念をつくった。今までの里を六倍にした。彼は六という数が非常に神聖であるとあると信じていたようだ。天子を引く馬の数も六頭にする。従う車の数も六の倍数にする。そのように変に縁起をかついだ。そのようなことは、司馬遷の『史記』始皇本記に書かれている。それで里単位も六倍にされた。それまでの周代の一里・七六メートルあまりから、六倍の四三五メートルに拡大された。その拡大された長里を前漢が受け継ぎ、後漢も受け継いだ。これに対して魏・西晋は、周の短里に復帰した。周を受け継いでいるとして復古した。ところが、その西晋が滅んで東晋になると、また長里に復帰した。その東晋以後、南朝劉宋・陳など、すべて長里です。以上が短里と長里の歴史です。

 秦の始皇帝が「六」が好きで短里の六倍の長里となったというくだりが私には初耳だった。なお、76の6倍が435になっている誤りがあるが、講演録なので言い間違いかテープ起こしのときの手違いだろう。「「長里=約450km」と理解しておこう。

 さて、「倭伝」の拘奴国記事が後漢時代の史料にもとづくなら「千余里」は長里である。また范曄は東晋・劉宋の時代に生きた人だから、とうぜん彼も「千余里」を長里として理解していた。

 ところで、「百問百答」8(1)の回答「変遷」の②で古田さんは次のように書いている。


 読者からの注意によって訂正。後漢書倭伝の情報によれば、倭国(糸島・博多湾岸中心)の〝東″にあり。瀬戸内海領域と考えた。(「東、千余里」を「短里」によって理解。)

 これは古田さんの勘違いのようだ。実際には資料②「失われた」では次のように書かれている。

『地図を見よう。「児島半島 - 讃岐」間の海峡中心領域は、まさに博多湾岸を基点として、その方向(東)、その距離(約450キロメートル)に位置するのを見るであろう。それは、「吉備 - 讃岐」を中心とする王権、東なる内海王国であった。』

 つまり「失われた」では既に「千余里」を長里と考えている。しかし、地図上でコンパスを使って調べたが、博多湾から450kmは「吉備 - 讃岐」にならない。古田さんは資料②「失われた」では距離の目測を誤ったと思われる。それに「吉備 - 讃岐」はイワレヒコ(神武)が東侵の際に長逗留し軍備を補強した地である。そのあたりの国が女王国(倭国)と敵対していたとは考えがたい。また、「講演1」には次ようなくだりがある。そこで語られている「先入観」にとらわれていたためかも知れない。

 わたしも狗奴国については、以前からだいぶ苦労して考えていました。それで讃岐というサヌカイトがある古代文明の地も知ったのですが。それらは全てチャラ。すっ飛んでしまった。あるいは河野水軍の地ではないか。これは合田さんが、四国の郷土史家の見解を紹介して、どうでしょうかと尋ねていただいた。これも以前に、本居宣長が河野水軍が拘奴国ではないかと紹介しています。
 またわたしが少年時代を過ごした広島県三次盆地は古来、甲奴(こうぬ)郡と言いましたし、友人がいた甲田市という町もある。これもあやしい。あやしいけれども、これも国の中心になりそうにもないし、鉄器の中心でもない。鉄器の中心は瀬戸内海では圧倒的に四国香川県の詫間が中心である。ですから鉄器を中心に考えれば、詫間が中心になるけれども、そこにはべつに「コウヌ」「コヌ」という名前はありません。ですから分裂していて、考えは星雲状態にあった。しかし今回の場合は整合性がある。後漢代の范曄が、金印とおなじく後漢代の独自史料を使ったと考えますと、范曄が短里を使ったはずはない。長里で表現している。すると瀬戸内海では収まりきれない。東まで、近畿まで来る。銅鐸国になるのではないか。そういう見通しになった。

 私のコンパス測定でも博多湾から450km(直線距離で)は確かに最終結論の
『近畿の一端、大阪府の茨木市・高槻市あたりとなろう。すなわち、当時の「銅鐸圏の中枢部」(東奈良遺跡等)』(「百問百答」8(1)の回答より)
になった。

 ついでながら、倭人伝の
女王国の東、海を渡ること千余里。復た国有り、皆倭種。
の場合は短里であり、関門海峡辺りになる。そこから始まる中国地方や四国地方(瀬戸内海側)の「女王に属する倭種」の国を指していることになる。これは「倭伝」の拘奴国記事が「倭人伝」の複合記事ではないことを示している。そしてさらに、「倭伝」と「倭人伝」の記事が矛盾なく整合していることも分る。

 それでは「女王の境界の尽くる所」で拘奴国と接している「女王に属する」国はどこか。関門海峡以西の「女王に属する」国は次の21カ国だった。

次に斯馬国有り、次に己百支国有り、次に伊邪国有り、次に都支国有り、次に弥奴国有り、次に好古都国有り、次に不呼国有り、次に姐奴国有り、次に対蘇国有り、次に蘇奴国有り、次に呼邑国有り、次に華奴蘇奴国有り、次に鬼国有り、次に為吾国有り、次に鬼奴国有り、次に邪馬国有り、次に躬臣国有り、次に巴利国有り、次に支惟国有り、次に烏奴国有り、次に奴国有り。此れ女王の境界の尽くる所なり。その南に狗奴国あり、……

 「奴国」で終わっている。「奴国」は二度目の登場だが、もちろん一度目のそれとは異なる国である。一度目は、一大国から海を渡り末廬国・伊都国を経て、「東南奴国に到る百里」とある。この「奴国」は明らかに筑紫内の国である。

 上の21カ国のうち「奴」を表記に含む国が7国もある。『「狗奴国」は何処?(1)』で確認したように、この「奴」の音を古田さんは「ヌ」または「ノ」としている。そしてどちらの場合もその音の意義は「野」であると言っている。(②「失われた」)

 「二十一国」中、「奴」のつく国は多い。弥奴国・姐奴国・蘇奴国・華奴蘇奴国・鬼奴国・烏奴国・奴国、つまり、三分の一の国は「奴」字が出現しているのである。しかも、二字あるときは、下の方の字となっている。これも、「野」の意義とすれば、きわめてわかりやすい。人の聚落(しゆうらく)し、集邑(しゅうゆう)を作る地形に適しているからである。このことは、地名比定の場合、二つの点が注意されねばならぬことを示している。


 「―奴国」という形の場合、本来の固有名詞部分は、上の一字であった、という可能性がある。
② 
 「奴国」だけの場合は、いたる所に類縁地名が存在し、一地点特定力が稀薄である。

 さて「倭人伝」では、二番目の「奴国」が「女王の境界の尽くる所」の国であり、その南に狗奴国があると言っている。逆に言うと奴国は狗奴国の北にあることになる。古田さんは資料③「講演1」で「京都府舞鶴近辺」を候補地に挙げている。

 これは仮説というか、試案が入ってきますが。この二回目の「奴國」。これは京都府舞鶴近辺ではないか。籠(この)神社がある。この神社は「ノ」をいれて、かならず「コノ」神社と言う。ですから、先頭の「コ」が、神様の「コ」か、子供の「コ」か知りませんが接頭語を付けた「コノ」ですから、むしろ語幹が「ノ」で、実体を表している。

 それで、この「奴国ノコク」。昔は「奴国ヌコク」と読んでいましたが、最近では奴隷の「奴」は、「ノ」と読んで良いのと言われていますので「奴国ノコク」。

 なぜ舞鶴近辺かと言いますと、とうぜん「国ゆずり」という奪権の後では、出雲は倭国の支配下に入っています。広く考えれば越の国(福井・石川・富山)も出雲と仲が良かったから、そこも支配下に入ったと考えられないこともありません。ですが、それでは新潟県まで女王国の支配下に入って、その南のほうに狗奴国があるということになる。そうであってもかまわないが、それでは、そんな遠くの狗奴国と倭国が戦争していたことになり、もう一つぴんと来ない。また高地性集落が関東・東海あたりに比較してたくさんあるという話も聞かない。そうしますと越の国は、独自の勢力を持って、屈服しなかった。

 それで越の国は、ストレートに倭国・天照大神の支配下に入らなかったと考えてみました。そうしますと、女王国の勢力は、舞鶴止まりである。そうしますと二番目の奴国は、籠(この)神社のある舞鶴となる。

 この考えは仮説を入れた考えですから、ぜったい間違いないというつもりは、ありませんが、一つの見通しとして考えて良いのではないか。

 「奴国」の比定では高地性集落が重要なきめての一つになることが示唆されているが、このことは次回に再論されるだろう。
《続・「真説古代史」拾遺篇》(8)



「狗奴国」は何処?(3)
「女王の境界の尽くる所」(1)


 「女王の境界の尽くる所」は魏志倭人伝(以下、「倭人伝」と略す)の記述からは「分らない」というのが正解だった。残る手掛かりは後漢書倭伝(以下、「倭伝」と略す)しかない。その後漢書の史料性格の確認から始めよう。(資料①『なかった』第1章が教科書です。)

 陳寿(233年 - 297年)により書かれた三国志は陳寿にとってはいわば「同時代史」である。多くは自分が実際に見聞した事件である。また陳寿は晋の吏官である。晋は魏から政権を禅譲された魏の後継国である。魏についての史料も豊富だったはずだ。『三国志』は信憑性がきわめて高い史料である。

 『漢書』と『三国志』の間にあるべき後漢時代(25年 - 220年)の史書が欠けていた。范曄(398年 - 445年)はそれを埋めるべく『後漢書』を執筆した。200年以上の後のことである。しかも匈奴に追われて揚子江の南に逃れた東晋が倒れ宋(南朝)が起こったのが220年であり、范曄はそうした激動のさなかに生きた人だ。『後漢書』の編纂はたいへんな難事業だったろう。先行の史書や残存した諸史料を取捨選択しつつ構成するほかなかった。とりわけ「倭伝」は「倭人伝」に頼るほかなかった。

 さて、古田さんは「倭人伝」と「倭伝」の記事の対比表をつくっている。そして次のように述べている。

 これ以外にも、産物・風俗等の記事も、ほとんど『三国志』の文面の換骨奪胎だ。まさに「公然たる盗作」である。だが、むろん、『三国志』は一般周知の史書である。だから〝前代の史書を継承して記述した″というべきかもしれぬ。事実、唐・宋代の史書にもこの方法は一般化している。

 しかし、問題はその継承した記述の中身である。さすがに達文の士として定評のある范曄だけに、『三国志』の原文を要約して、達意の章句に仕上げている。

 しかし、その造文、変句のさいに、しばしば歴史事実の実態がすりかえられている場合があるのである。

 さて、「倭人伝」と「倭伝」の記事の対比表の8番目があの狗奴国の位置を示す記事である。繰り返しになるが、再度掲載する。

(八)(倭人伝)
(a)女王国の東、海を渡ること千余里。復た国有り、皆倭種。
(b)其の南、狗奴国有り、男子王為り。其の官に狗古智卑狗有り、女王に属せず。
(八')(倭伝)
女王国より東、海を渡ること千余里、拘奴国に至る。皆倭種なりと難も、女王に属せず。


 資料①『なかった』ではこれについて次のように述べている。

『(八)については、明らかに(a)(b)を合成して(八')の文を造文している。これが范曄の五世紀における、なんらかの「知聞」もしくは史料にもとづくものか、否か、明らかでない』。

 つまり資料①『なかった』では「倭伝」の「拘奴国」記事が新史料によるものか否か、判断を下していない。これを資料②『失われた』では『五世紀の范曄時点の、「新しい倭国の知識」によって』書かれたと判定している。②『失われた』の「序論」中の「『後漢書』の立場」がその判定に到る史料批判の要をなしているので、少し長いが全文読んでおこう。

 このこと(管理人注:倭国の中心王朝は同じ)は、5世紀前半の史家、范曄によっても裏づけられる。先に范曄の倭国観が「三十余国を統合した中心王朝」であることを指摘した。だが、実はこの構図は単にその記述の対象である前2、1世紀乃至3世紀のものであるだけではない。范曄の同時代(5世紀)を「認識の基点」にしている、と見られるのだ。なぜなら、当然のことながら、『後漢書』の読者は記述の対象となっている後漢の人々ではない。執筆時点の五世紀の南朝劉宋の人々だ。したがって、倭国伝(ママ)のはじめに倭の位置を示すときにも、「楽浪の海中」(漢書)とか「帯方の東南」(三国志)とかいわず、「韓の東南」といういい方をしている。

 後漢の人班固(はんこ)の『漢書』では、楽浪郡は現存していた。だから、その楽浪郡を基点にして倭の位置が示された。『三国志』の場合は楽浪郡の南部が帯方郡となっていた。だから、その帯方郡を基点として倭国の位置が示されたのは当然だった。

 しかし、5世紀南朝劉宋の段階はちがう。もはや楽浪郡も帯方郡も滅亡して、存在しなかった。だから、5世紀の読者に対して、いきなり1、2世紀のそれらの郡の所在地を基点とした説明を展開することは不自然である。ところが、『後漢書』中、倭伝の直前は韓伝だ。そこで、范曄はその韓を基準にして倭の位置を示す、という記述方法をとったのである。このように『後漢書』は、対象としては1、2世紀の後漢を描きながら「5世紀当時の事実」を間接に反映している。つまり、当時の読者 - 当然南朝劉宋の天子を第一の読者とする - の立場に立っているのである。

 このように『後漢書』は5世紀現在という范曄の時代の知識に立って書かれた。

 その動かぬ証拠は、『後漢書』の中のつぎのような記事だ。

(1)
 漢書中、誤りて云う、「西夜(せいや)、子合(しごう)は是れ一国なり」と。今、各自、王有り。(注 前書・〈漢書〉云う、「西夜国王、子合王と号す」と)〈後漢書、西域伝〉
(2)
 漢書云う、「条支より西行三百余日、日の入る所に近し」と。則ち今の書と異なる。前世・漢使皆烏弋(うよく)より以て還る。条支(じょうし)に至る有る者なきなり。〈後漢書、西域伝〉
(3)
 (高附国)漢書、五[合羽]矦(きふこう)の数と為す。其の実に非ざるなり。〈後漢書、西域伝〉


 これらの記述において、范曄は『漢書』の権威に挑戦し、勇敢に『漢書』の「誤謬」を指摘している。その根拠は、「今の事実」や「今の書」(いずれも五世紀范曄の執筆当時)の認識である。(2)の場合など、漢代は漢使が烏弋までしか実際に行っていないからこのような誤った記事になったのだという。「現代」(五世紀)の知識の方がすぐれている、とハッキリいっているのである。

 このような彼であってみれば、倭国の記事についても、〝范曄は『三国志』の記事をそのままひきうつしただけだ″と見ることはできない。前の本(『「邪馬台国」はなかった』)でのべたように、范曄は『三国志』倭人伝の記事のいくつかを誤解し、それに「改悪」の手を加えている。倭国には「女子多し」としたり、「会稽東治(かいけいとうち)」を「会稽東冶(とうや)」と改めたことなど、その一例だ。

 しかし、このことを逆に考えてみよう。范曄が『三国志』を無批判に継承せず、これに対し自分の識見(五世紀の「今」の認識)をもって〝書き改めた″という事実は動かせないのである。

 これが『後漢書』の史料性格だ。だから、范曄が倭国を「きら星のような三十余国を統合した中心王朝」として描いたとき、ただ前2、1世紀~3世紀という過去の事実を書いたというだけではない。同時に5世紀の「今」や「今の書」に照らしてもそうなのだ、と范曄はいっていることになるのである。ことに『宋書』倭国伝に、

(1)
 高祖の永初二年(421)、詔して曰く「倭讃、万里貢を修む。遠誠宜しく甄(あらわ)すべく、除授(じょじゅ)を賜う可し」と。
(2)
 太祖の元嘉二年(425)、讃、又司馬曹達(しばそうたつ)を遣わして表を奉り方物を献ず。讃死して弟珍立つ。使を遣わして貢献す。
(3)
 二十年(443)、倭国王済、使を遣わして奉献す。


とあるのは、元嘉22年(445)に死んだ范曄にとっていずれも生存中の事件だ。ことに(1)(2)の事件は、当然『後漢書』執筆中の范曄は知っていたはずだ。とすると、范曄がこれらの「今」の事件、ことに(1)のような「今」の天子の詔書中の倭国についてのべた内実を無視して、『後漢書』中の倭国伝を書き、その中の倭国観を記したとは到底思われない。だから、もし過去の倭国と「今」(5世紀)の倭国の間に王朝の変動、交替等が存在したとしたならば、范曄がそれに全く言及しない、ということはありえない。なぜなら、5世紀倭の五王の時代は倭国側から貢献使節が頻繁に往来していた。つまり、范曄の重んじた「今」の知識の情報量が、倭国に関して、きわめて豊富な時代だったからだ。その范曄の証言では、前2、1世紀~5世紀間の倭国の歴史の中に〝中心王朝の変動″は生じていない。そういうのである。

 さて、このような史料性格を下敷きに、「倭伝」の拘奴国」記事を検討しているのが次の引用文である。(資料②『失われた』第5章3節「九州王朝の領域」より。)

 これ(管理人注:「倭伝」の「拘奴国」記事)は明白に『三国志』魏志倭人伝の記事に対し、范曄が「修正」をほどこした箇所だ。『三国志』だけからは、どうしてもこのような記事にはならないからである。

 ところで、范曄が『三国志』を訂正する場合のルールはこうだ(序章の中の「『後漢書』の立場」参照)。

(一)
 『漢書』の場合と異なり、『三国志』という書名も出さず、訂正根拠も示さない。
(二)
 しかし、『漢書』の場合と同じく、「今の書」「今の知識」の目から、間違っている、と判断すれば、果敢に訂正する。

 このような范曄の手法から見ると、
(A)
 狗奴国(拘奴国)の位置は、『三国志』では不明確だが、五世紀の范曄時点の、「新しい倭国の知識」によって、知ることができた。
(B)
 それは、女王国の「東」に当り、海路で「千余里」へだたっている。

 つまり古田さんは、記事対応表の(八')は(八)を単純に合成した記事ではなく、「新しい倭国の知識」により書かれたものと判断したわけである。では范曄はこの「新しい倭国の知識」をどこから得たのか。もちろん、あの金印の記事と同じく、後漢時代に残された史料からだ。「倭伝」の拘奴国記事はそれにもとづく「追記」だった。
不定期便1608 《続・「真説古代史」拾遺篇》(7)



「狗奴国」は何処?(2)
九州王朝の領域


 九州王朝の終焉は701年だが、では始まりは何時なのだろうか。遅くとも漢から金印を授与された委奴国王の時には王朝と呼んでよい制度は整えられていたと考えてよいだろう。参考までに、以前作った「古代史略年表」から壱与の朝貢までを切り取って再録しよう。(一部修正している。)

古代史年表

 史料・金石文などで年代を確認できるものについてはそれを ( )で示した。
年代記載のないものは推定です。


年代 中国 朝鮮 銅矛文化圏
九州王朝
銅鐸文化圏
ヤマト王権
BC4th 戦国時代 青銅器文化始
BC3th 秦(221-206) 鋳造鉄器伝播    
BC2th 前漢(202-)   国ゆずり・天孫降臨「天国→筑前」  
  漢・朝鮮に4郡設置(BC108-107) 錬鉄鍛造品 朝鮮からの渡来者多数  
BC2th   高句麗国成立 橿日宮の女王の筑紫統一「筑前→筑後」  
BC2th-BC1th     前つ君の九州一円統一  
BC1th     「九州→淡路島以西」平定  
BC1TH-AD1th 後漢(25-)   漢から委奴(ゐど)の国王に金印授与される(AD57)  
AD1th-AD2th     倭の国王帥升漢に請見(AD107)  イワレヒコ東侵開始
AD3th 三国時代
魏(220-265)
  邪馬壱国卑弥呼・魏に朝貢(240) イワレヒコの末裔AD3th末ごろまでヤマト盆地の一豪族として地歩を固める(216)
  西晋(265-316)
この頃、三国志成る
三韓時代 壱与・西晋に朝貢(266) ミマキイリビコ(崇神)、ヤマト盆地より出撃・銅鐸国簒奪開始
AD3th-AD4th     イクメイリビコ(垂仁)沙本城の戦い・銅鐸国滅亡


 さて、魏志では狗奴国は「女王の境界の尽くる所」の南にあると書かれている。この記述から狗奴国の位置を熊本県内部とした説がある。まず、この説の検討をしておこう。(以下は、?『失われた』の第5章の「三 九州王朝の領域」を教科書としています。)

 「百問百答」8(1)の回答に、『なかった』で「不注意に邪馬壱国の南」と記したことに対して、読者からの注意があったと記されていた。その読者からの意見はおよそ次のようである。

『「狗奴国」が熊本県付近だというのは不審である。北に邪馬壹国(戸数七万)、南に投馬国(戸数五万 - 鹿児島を中心とする)にはさまれていて、邪馬壹国を脅威しうるとは考えにくい。』

 もっともな指摘である。

 では狗奴国熊本説はどのような議論によって生まれたのだろうか。 古田さんは三品彰英『邪馬台国研究総覧』からその説の論拠を次のように抽出している。

(1)
 この地は、わが古代史料の中で、強猛な異民族と伝えられている熊襲の占拠地であったこと。
(2)
 クマはクナに音通すると思われること。
(3)
 狗奴国の官、狗古智卑狗(クコチヒコ)は菊池彦に通じ、肥後国菊池郡にちなんだ官名、もしくは人名と思われること。

 私(たち)は
景行の熊襲大遠征説話(景行紀)
日本武尊の熊襲暗殺説話(景行記・景行紀)
仲哀・?功の熊襲遠征説話(仲哀記・仲哀紀)
の古田さんによる解読によって、(1)は「井に中」だけで通用する誤読であることを知っている。上の年表の「橿日宮の女王の筑紫統一」・「前つ君の九州一円統一」は古田さんの解読で判明した成果だ。(詳しくは「九州王朝の形成」を参照してください。)

 また(2)(3)はどうだろう。倭の五王の比定と同じような語呂合わせの「地名比定」「官名比定」であり、論証とは言えない。「ク~ク」「クコチ-キクチ」という対応する発音の矛盾には目をつぶって議論を打ち切ってしまう。謬論としか言いようがない。狗奴国熊本県内説には文献上の根拠は何もないことになる。

 「女王の境界の尽くる所」が分らない限り、魏志の情報からだけでは狗奴国の位置は比定できない。

 では「女王の境界の尽くる所」は分らずじまいなのだろうか。この問題の突破口は女王国に属する30カ国の領域を定めることにある。古田さんの議論を追ってみよう。

 手掛かりの一つはあの倭王武の上表文である。すでに何度も読んできた文だけど、煩をいとわず再録する。

封国は偏遠にして、藩を外に作(な)す。昔より祖禰(そでい)躬ら甲冑を擐(つらぬ)き、山川を跋渉し、寧処(ねいしょ)に遑(いとま)あらず。東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を脱すること六十六国、渡りで海北を平ぐること九十五国。王道融泰(ゆうたい)にして、土を靡(ひら)き畿(き)を遐(はるか)にす。累葉朝宗して歳に愆(あやま)らず。(以下略)

 古田さんは「衆夷六十六国」とは九州を指し、「毛人五十五国」とは?中国地方と四国の各西半部を中心とする領域″と解釈している。そして次のような但し書きを付している。

『「東半部に属するもの」の中にも、あるいは海岸沿いで、飛石状に分布する可能性があるから、「西半部を中心とする」と表現した』。

 上の年表では私はちょっと大胆に『「九州→淡路島以西」平定』と書いた。国生み神話を念頭に置いての判断だった。この判断が正しいかどうかはこの後の議論にゆだねよう。

 この上表文は九州王朝の内部で記されたものである。つまり第一史料である。その第一史料が「倭国の範囲は日本列島内、121国にまたがる」と書き残している。これは次のように中国側の史料にも書き継がれている。

楽浪海中、倭人有り。分れて百余国を為す。歳時を以て来り献見す、と云う。(『漢書』地理志)

倭人は……旧百余国。漢の時朝見する者有り。今、使訳通ずる所三十国。〈三国志、魏志倭人伝)

倭は……凡そ百余国あり。武帝、朝鮮を滅ぼしてより、使駅漢に通ずる者、三十許国なり。(後漢書、倭伝)

 これはもちろん偶然の一致ではない。倭王武は「累葉朝宗して歳に愆らず(代々朝貢し、歳を違えたことはない)」といっている。これは漢書・三国志の朝貢記事を意識したものである。古田さんはズバリ、次のように断言する。

?漢代初頭の「百余国」と倭王武の示す「百二十一国」の領域は同一だ″。

 言い換えると漢代初頭の倭国から倭王武時代の倭国まで、一貫して一つの王朝が継続されていた。すなわちこれが九州王朝にほかならない。以下、古田さんの文章を直接引用する。

 右の?漢代初頭″という時期を、さらに限定しよう。

 『後漢書』によれば、「武帝、朝鮮を滅ぼしてより」「百余国」から「三十許国」(「許」は?ばかり″)への変化がおこった、と記してある。

(元封二年、前109)朝鮮王、遼東都尉を攻め殺す。……朝鮮を撃つ。(漢書、武帝紀)

武帝、朝鮮を滅ぼし、高句麗を以て県と為す。(後漢書、高句麗伝)

元封三年(前108)に至り、楽浪、臨屯、玄菟、真番の四郡を分置す。(後漢書、濊伝)


 すなわち、前2世紀末(前109)以前は、百余国だった、というのである。

 ここで読者は前ページの地図を見ていただきたい。(管理人注:以前使った同種の地図を再利用する。)

青銅器圏図

多くの教科書類にのせられ、今は国民的常識といってもいい、「銅剣・銅鉾、銅戈(か)文化圏」だ。「百余国」は、まさにこの文化圏そのものに当っているのである。この場合、重要なのはつぎの点だ。

 わたしは?考古学上の知識にあわせよう″として、文献をひきよせたのではない。その逆である。前著にものべたように(『「邪馬台国」はなかった』第四章五の中の「考古学との関係」)、考古学上の知見とは、キッパリ切りはなし、純粋に史料批判の論理と実証に従って、文献を解読してきたのだ。そしてその最終の帰結として、考古学上もっとも著名な「文化圏」と相会うこととなったのである。

 この考古学上の「文化圏」を、史料上の基礎に立つ、一つの「政治領域」として論証すること - それは、従来のすべての古代史学説には不可能なことだったのである。

 右の「百余国」の統合されたものが「三十許国」だ。一方では、『後漢書』倭伝冒頭の叙述、他方では、倭王武の叙述、両者とも直截にそれを裏づけている。とすると、この事実は当然、つぎの二点の帰結へと進む。

(一)
 一世紀、志賀島の金印は、三十(許)国代表の王者としての九州王朝に与えられた。

(二)
 三世紀、卑弥呼もまた、この三十国を基盤とする、統合の女王であった。

 右の(二)の帰結は、さらにつぎの地点へとすすむ。『三国志』魏志倭人伝内には、その三十国の国名が記せられている。すなわち、「狗邪(こや)韓国 - 邪馬壹国」間の9国が方角や距離とともに明記されたあと、「其の余の旁国は遠絶にして得て詳かにす可からず」として列記されているのが、つぎの21国だ。

次に斯馬国有り、次に己百支国有り、次に伊邪国有り、次に都支国有り、次に弥奴国有り、次に好古都国有り、次に不呼国有り、次に姐奴国有り、次に対蘇国有り、次に蘇奴国有り、次に呼邑国有り、次に華奴蘇奴国有り、次に鬼国有り、次に為吾国有り、次に鬼奴国有り、次に邪馬国有り、次に躬臣国有り、次に巴利国有り、次に支惟国有り、次に烏奴国有り、次に奴国有り。此れ女王の境界の尽くる所なり。

右の「9国プラス21国」の合計が、魏志倭人伝冒頭の「三十国」だ、と見られる。すなわち、この中の21国は、?九州から中国地方と四国の各西半部を中心にした領域″に分布している、というのが、上述来の論証が必然的にさし示すところだ。いいかえれば、銅剣・銅鉾・銅戈文化圏内の国々の「3世紀現在」の国名にほかならぬ。 - これが結論である。

 このような帰結は、わたし自身にとっても、意想外のものであった。従来、この21国の「地名比定」は、「邪馬台国」論争の、いわば花形だった。近畿説論者(内藤湖南以下)は、これを近畿大和を中心とする東西の領域にあて、九州論者(牧健二や宮崎康平)らは、九州内部に求めてきた。しかし、地名個々の比定地を求める以前に、まず、「21国全体の領域範囲」に対し、厳密な論証を加えることがなかったのである。今、それは従来と全く異なる領域、すなわち?銅剣・銅鉾・銅戈文化圏の全域″に対して、求められねばならぬことが判明した(『三国志』魏志倭人伝において、中国地方や四国の方向の領域は、「倭種」として記されている。「女王国の東、海を渡る千余里、復た国有り。皆倭種なり」。倭王武の上表にいう「毛人」は、この「倭種」の中に属しているのである)。

 女王国に属する30カ国の領域が分った。次はいよいよ「女王の境界の尽くる所」を検討することになる。
《続・「真説古代史」拾遺篇》(6)



「狗奴国」は何処?(1)
基本事項の確認


向井さんのコメント(2011年5月19日)より
「狗奴国の位置」について古田さんの最新の研究成果についてご存知でしたら教えて下さい。
 東京古田会から発行されている『古田武彦と「百問百答」』の「8(1)」(pp.116-118)に『「狗奴国の位置」に関する記事は、三国志の魏志倭人伝には、ない。』と書かれていますが、私は魏志の「此女王境界所盡其南有狗奴國男子為王」の記事から狗奴國は女王国の南にあると(里程記事はないが)書かれていると思っていました。確かに後漢書には「自女王國東度海千餘里至拘奴國」とあります。
 魏志と後漢書の「狗奴國」記事についてトータルとしてどう理解すればよいのでしょうか。私としては「9(1)」(p129)の質問者のように范曄が魏志の「此女王境界所盡其南有狗奴國男子為王」と「女王國東渡海千餘里復有國皆倭種」を混同していると考える方がすっきりと分かるのですが。

――――――――――――

 私は「狗奴国」について表面的なことしか知らないので、今回のテーマも何よりもまず私自身の学習のためのものである。まどろっこしいと思われる方もいるかも知れないが、共通の土俵を設けて問題のありかを整理することから始めよう。まず、向井さんが原文で提示している魏志倭人伝と後漢書倭伝の該当記事を読み下し文で読んでおこう。(岩波文庫版による)。

魏志倭人伝
……次に奴国有り。これ女王の境界の尽くる所なり。其の南に狗奴国あり、男子を王となす。其の官に狗古智卑狗あり。女王に屬せず

後漢書倭伝
女王国より東、海を度(わた)ること千余里、拘奴国に至る。皆倭種なりといえども、女王に屬せず。

 この二つの記事をどう解読するかがこれからの議論の中心課題となる。

 次に「狗奴国」の読み方について確認しておく。

 上に見るように、後漢書では「狗奴」を「拘奴」と表記している。これを「定説」では「クナコク」と読んでいるようだ。

 手元の漢和辞典によると「狗・拘」の音はともに「コウ ク」である。「奴」の音は「ヌ ド」である。『「邪馬台国」はなかった』の「奴国をどう読むか」という項に
『「奴」は「ド」または「ヌ」「ノ」(農都切、『集韻』)であって、三世紀において「ナ」という音であったという確認は存在しないのである。』
とあった。「農都切」というのが私にはさっぱり分らないが、「奴」には「ノ」という音もあったようだ。しかし「ナ」という音はない。「クナコク」という読みは成り立たない。(その後、「反切(はんせつ)」を学習しました。「農都切」の意味が分るようになりましたりました。)

 古田さんは「狗奴国」に関わる論文では「コノコク」と読んでいる場合と「コウヌコク」あるいは「コヌコク」と読んでいる場合がある。この使い分けは後に取り上げることになると思うが、さし当たって私は「狗奴国」を「こうぬこく」と読むことにする。

 次に、議論のとっかかりとして向井さんが取り上げている『古田武彦と「百問百答」』の8(1)と9(1)を読んでおこう。

8(1)
質問(「三国志」の狗奴国の位地)
 初期第一書では不注意に邪馬壱国南、第二書ではそれを訂正のあとがき、その後「60の証言」では邪馬壱国の防衛線を筑後川におき、その南に敵を想定する。現在の考えはどうか、その根拠は。


 質問中の「第一書」とは『「邪馬台国」はなかった』であり、「第二書」とは『失われた九州王朝』を指している。この質問に対する古田さんの答は次の通りである。

 わたしの「狗奴国」に関する説は、次のような「変遷」をとげました。


 不注意に「邪馬壱国の南」とする文章あり。(『「邪馬台国」はなかった』)


 読者からの注意によって訂正。後漢書倭伝の情報によれば、倭国(糸島・博多湾岸中心)の〝東″にあり。瀬戸内海領域と考えた。(「東、千余里」を「短里」によって理解。)


 「邪馬壱国の防衛線を筑後川におく」(「60の証言」) ― これは「中部・南部九州を敵国と見たもの」ではありません。東には瀬戸内海(及び山口県)、西には長崎県、北には玄界灘、いずれも[外敵が侵入してくる]さいの[行路]として、首都圏(太宰府と筑後川流域)を、これらの「外」からの〝侵入″を防ごうとしたものです。
 従って「筑後川以南に〝狗奴国″あり。」の立場ではありません。


 第三の(最近の)立場、これは「千余里=長里」の理解に立つものです。合田洋一さん(古田史学の会)との会話(tel)の途中に気づきました。

(a)
 後漢書倭伝には
  ィ、三国志の魏志倭人伝の「引用」部分、
  ロ、後漢書独自の史料(後漢代の史料にもとづく)。 ― たとえば、有名な「(志賀島の)金印授与(光武帝)」の記事。
の「二種」がある。

(b)
 「狗奴国の位置」に関する記事は,三国志の魏志倭人伝には、ない。

(c)
 従ってこれは、あの金印の記事と同じく、「後漢代の史料」にもとづく「追記」と見るべきである。

(d)
 とすると、「長里の一里=短里の(約)六里」であるから、「糸島・博多湾岸」から東へ「千里」というのは、近畿の一端、大阪府の茨木市・高槻市あたりとなろう。すなわち、当時の「銅鐸圏の中枢部」(東奈良遺跡等)となる。

(e)
 「狗奴」は「この」です。茨木市の東側、枚方市には「高野(この)山」があり、京都府の舞鶴湾近辺には「籠(この)神社」があります。これらとの関係が考えられます。

 古田説の「変遷」の各段階説の出典(初出年)(③は「狗奴国」についての発言ではないので除外して番号を④→③と繰り上げる。)は次のようである。


 『「邪馬台国」はなかった』(1971年)
 (以下、『なかった』と略記する。)

 『失われた九州王朝』(1973年)
 (以下、『失われた』と略記する。)

 「古代に真実を求めて第六集」所収の講演記録『神話実験と倭人伝の全貌』中の「五 魏志倭人伝の全貌」(講演日 2002年7月28日)
 (以下、「講演1」と略記する。)

 『講演1』はHP「新・古代学の扉」で読むことができるが、そこには
「この講演記録は、現在の古田氏の考えと違っております。現在の考えを理解する一助で公開します。」
という断り書きが付けられている。講演の内容は多岐にわたっているので、そのうちのどれが「現在の古田氏の考えと違って」いるのか判然としないが、一応心して取り扱うことにしよう。

 なお、『古田武彦と「百問百答」』が編纂されたのは2004年である。その後、もしも上の回答に変更があったとすれば、次の2資料にその変更が反映されていると考えてよいだろう。


 「古代に真実を求めて第九集」所収の講演記録『「釈迦三尊」はなかった』中の「四 沈黙の論理 - 銅鐸王朝(拘奴国)」(講演日 2005年1月15日)
 (以下、「講演2」と略記する。)
 「講演2」は「講演1」の続編で、九州王朝(邪馬壹国)と銅鐸王朝(拘奴国)との不和の淵源に触れている。

 ミネルヴァ書房による復刊版「古田武彦・古代史コレクション」の巻末に書き下ろしの論文「日本の生きた歴史」が連載されているが、『古田武彦・古代史コレクション2失われた九州王朝』(2010年2月)の「日本の生きた歴史2」には「第六 拘奴国論」がある。「講演1」「講演2」のまとめと言ってよいだろう。短文ながら新たな問題提起も含まれている。私の知る範囲では、これが「狗奴国」についての最新の文章ということになる。もしかすると必要になるかも知れないので、これも資料として追加しておく。


 「日本の生きた歴史2 第六、拘奴国論」(2010年)
(以下、「拘奴国論」と略記する。)

 最後に、8(1)と重複する部分もあるが、9(1)を読んでおこう。

9(1)
質問(「後漢書」の狗奴国について)
 女王国の東千里を長里とすると、侏儒国はその南ではなくなる。短里と見、范曄の「三国志」の女王の東千里倭種の誤読と見るべきではないか。


 これに対する古田さんの回答は次のようだ。

 次のように考えます。


 後漢書倭伝には、
  A 魏志倭人伝よりの「引用」部分、
  B 後漢書倭伝の独自資料、部分、
の二つの部分があります。たとえば、有名な「光武帝の金印授与」の記事はBです。


 同じく、「狗奴国」の記事もBに属する。 - そう考えたのです。


 ですから、後漢書の著者、范曄(はんよう)は
  A-短里
  B一長里
を「混用」していたことになります。


 この点、本質的には、史記も同じです。   A 周代の記事-短里
  B 秦・前漢代の記事-長里
が「混在」しています。


 今の問題としては、「狗奴国」の記事をBと見なすことによって、その国の中心領域を、近畿地域と見なすことが可能となったのです。

(原文では⑤で「…記事をAと見なす…」となっているが、「A」は明らかに「B」の誤りだと思われるので、私の判断で訂正した。)

 8(1)・9(1)の回答によって古田説のおおよそのところはつかめたが、詳しく確認をすべき点が多々ある。次回からそれらの検討をしていこう。
《続・「真説古代史」拾遺篇》(5)



「白村江の戦い」は何年?(2)


 三国史記では百済本紀が662年であった。木さんは次のように解説している。

 百済本紀の文章は全く旧唐書百済伝と同じである。百済は滅亡したので、百済記・百済本記・百済遺記にとってはこの時代の記録は最後の部分で、後代の意図的な改作余地が無い。ましてや、唐朝の圧倒する影響を受けていて、日本書紀の影響を受けていない。大和王朝は倭国の纂奪者、百済にとっては仇敵も同様である。日本書紀は糞同様の代物である。662年である。

 新羅本紀では663年だった。これはどうしてだろう。木さんの分析は次の通りである。

 新羅本紀は663年であった。しかし、662年3月から無意味な記述が有ってその年は終わり、663年の記述も660年の百済併合と、扶余豊の逃亡、王子の投降が一緒に書かれていて、さらに白村江の合戦の記述は無い。つまり、混乱の代物である。

 ただ混乱していない記述があった。新羅第30代文武王の671年の回想である。回想とは640年以来の、数十年の回想の中に、663年の記述がある。この記述は出物である。全体に、この回想は新羅の状況を赤裸々に描いていて信頼が置ける。その中の663年の一節である。

「龍朔3年になると、総管の孫仁師が兵を率いて熊津府城を救援にきました。新羅軍もまたこれに同行して、出陣し、両軍が周留城にきたとき、倭国の兵船が百済を救援にきました。倭船は千艘もいて、白沙に停泊し、百済の精鋭な騎馬隊が、その岸辺で船団を守っていました。新羅の強力な騎馬隊が、唐軍の先鋒となって、まず、岸辺の陣地を撃破しました。これを聞いた周留城の百済軍は落胆して、ついに降伏しました。」(平凡社、三国史記、井上秀雄訳注)

 木さんは文武王の回想は「信頼が置ける」として663年の回想を引用しているので、木さんは663年説を受け入れたように読めるが、さにあらず。663年まで信頼しているわけではない。木さんはそのことについては何も書いていないので、私の推測を述べておこう。

 文武王の上の回想は正しく龍朔2年条に書かれていた。それを新羅本紀の編纂者が本文に合わせるため、その部分の記事を龍朔3年条に移動したのだろう。旧唐書劉仁軌列伝の「白村江」が662年であることを論証している文章で、木さんは劉仁軌列伝の該当記事を次のように分析している。

 旧唐書劉仁軌列伝は全120行約4800字12段落の長文である。内3段落が関係個所である。総32行。

 初段は659年の劉仁軌の青州刺史就任で直ぐ660年、661年の夏までの記載で終わり、次の段は「尋而」で始まる。ほどなく、長時間の経過が無い事を示している。661年の7月の蘇定方の平壌討伐が失敗して、662年の2月に撤退するのだが、劉仁軌は熊津に留まり、2月中に新羅親征郡が到着して合流、新羅からの兵站が繋がることで唐軍が意気盛んになる3月でこの二段目は終わる。

 そして、第3段目は「俄而」で始まる。ほどなくの意味である。扶余豊が福信を殺して、高句麗と、倭国に援軍を要請する。(つづいて)孫仁師の水軍が到着するのである。

 つまり、孫仁師の到着は、文武王の回想とは違い、662年である。662年の何月かは明記されていないが、新唐書の本紀では662年7月と明記されているという。第3段はこのあと662年8月の「白村江」を記録している。

 文武王の回想文の引用の後、木さんは「その他の関係書」と題して、次のように述べている。

 蘇定方列伝、通典、冊府元亀、には白村江の記載はない。現代の中国の歴史書、論文は全て663年で揃っていて、年代の問題にふれている著書は皆無である。また、663年にかかわらず、唐・百済戦の記述には大量に日本書紀の記述が採用されていて、むしろ、日本書紀の内容が圧倒している。日本書紀には、年月日朝昼午後などの記載が詳細にあり、かなり、物語性が有るので、競って採用引用されている。文献主義の方法論を重視するので、この日本書紀の引用文を根拠にして各論が発展している。笑える状態ではない。深刻な状態である。一流の学者がこの状況に有る。もはや、年代問題は単に年代問題に終わらない状況となっている。

 私は、確かな根拠は持たなかったが、以前から旧唐書の662年が正しく、日本書紀の663年の方が間違いだと考えていた。偽装だらけの日本書紀の成立事情を考えればそう判断するほか無かった。木さんは「旧唐書の662年を疑う理由は一切無い」と、次のように論じている。

 大都督府は万単位の兵士に多くの文官・官僚を含めて行軍し、占領地にはさらに行政官が大量に派遣される。百済・高句麗の占領併合地には4万4千人の野戦司令部が増設されているので前後合せると九都督府に相当する陣容になり、文官の人数は1500余人となる、占領が危うくなってくると、この大量の行政官も早々に撤退する。

 日本書紀にも劉仁願の派遣した朝散大夫柱国郭務悰の名がある。大夫は従五品下以上の文官の身分を示し、朝散大夫はその従五品下である。職務名として柱国は勲臣の意味で、皇帝の代理として来日した全権大使である。つまり、当時の軍には文官が同行して軍の事務と、占領地の行政を行うのである。彼等は文字文書で仕事をする。周王朝が戸籍の作成から国事を始めたが、これは、識字官僚の存在を証明している。将軍や大臣が文書事務をしているのではない、大量の文官が文書事務をしている。彼等の持ち帰った、あるいは現地からの報告書で、暦に合わせて、文書は整理される。皇帝の年号に合わせて、暦年史料は整理される。絶対年号の意識もある。

 この中国で、此の時期戦乱で、文書が消失したり、政争で文書が改作された事件はない。旧唐書の662年を疑う理由は一切無い。

 問題は、大和王朝と唐朝の間で、暦に対して認識の違いが有ったのではないかという、問題である。七世紀を遠く離れた時期の日本と中国の間で、同一の事件について年代の認識の違いが発生していることは承知している。だが、此のことをこの七世紀の日本書紀の編者大和と中国の編者の間に、適用することは出来ない。できるなら、この時代の他の事実で異なる事例を挙げる必要がある。私は、知らない。

 以上から、日本書紀の663年が間違っており、中国の学者もそれを採用してしまったということになる。では日本書紀の編纂者はなぜ間違ってしまったのか。あるいは故意に間違えたのか。これが最後の問題になる。木さんの解答は次のようである。

 日本書紀は唐朝に提出をすることを前提に作られている。唐朝に提出する必要がなければ、卑弥呼の事跡も、倭の五王の事跡も全部大和の天皇の事跡に書き換えることができる。全ての先行する史書は手に入っている。倭国の文書は全て没収、禁書も徹底している。簡単だ。ところが、先にも言ったとおり、唐朝に提出する事を前提に作ったのだ。私は、独自の仮説として、唐からの要求で作ったと考えている。

 古事記も唐からの要求であった。古事記が提出されなかったのは、書き直しを要求されたからである。此の問題は、日本書紀の記載の仕方に、特別の書き方の峻別を与えている。7世紀に限って言えば、大和天皇家と隋・唐との交流の事跡は正確に書く、倭国と隋・唐との交流は一切書かない。大和の国内での活動は真偽取り混ぜて国内向けに書く。此の書き方の峻別を行っている。

 唐と倭国の戦闘は、これは唐と倭国の外交の延長線上の問題である。大和は参戦せず、逆に大和の遣使は中国で戦後処理で密約を行っていたのである。となると、唐は、百済のこの白村江の海戦に、大和は関わっていないことを百も承知である。

 しかも、細かいことは、当事者でなかった大和に分かりようがない。倭国から権力を纂奪した大和に、百済の遺臣が状況を細かく話して、気持ちを分かち合う姿勢は期待できない。一般に伝わっていた、日本人の英雄譚を中心に、再構成したのがこの白村江の合戦である。従って、旧唐書に先立つ225年前に唐朝に提出した際、この部分は唐の当代の認識と大きく異なることは承知である。本来は、大和と唐朝の間の事件でないわけで、書く必要がないのだが、720年の段階では過去の歴史、誰もが広く知っている事なので、齟齬の無いように適当に書いたのだ。662年なのは百も承知だが、故意に663年に書き換えて、唐朝に大和の無関与を暗に訴えたのである。

 木さんは日本書紀の「白村江」を「日本人の英雄譚を中心に、再構成した」と推測しているが、私は九州王朝の文官が記録を残したと考えている。柿本人麿が残した『万葉集』199番~201番などから、人麿が倭国遠征軍に随行していたことをうかがい知ることができる。他にも何人かの文官が随行していただろう。帰国できた文官が記録したのではないか。それを日本書紀が1年ずらして盗用したのだ。「大和の無関与を暗に訴え」る目的もあったかも知れないが、辛酉年(662年)に天智称制元年を偽装した事が原因だったのではないだろうか。讖緯説の辛酉革命を採用した故の天智称制元年なのに、「革命」早々に大敗戦では格好がつかない。そのための1年のズレであろう。

 木論文の続きを読もう。

 それと、唐朝側の態度も事を明確に証明している。この事のほうが重大である。日本書紀が成立したのは720年であるが、先行する古事記は日本語で書かれ、推古朝までであって、当代の所謂現代史が書かれていなかった。古事記は712年の成立であるが、713年の遣唐使の時、閲覧した唐側が史書に成っていないと批判をしたのは確実だ。

 だから、日本書紀の作成を始めたのだ。仲麻呂の在唐期間の早い時期に、再度の提出がされたが、これは、「倭国書」の提出に成っていない、「大和天皇家の年紀」である。中国の伝統の前王朝史を提出すべきなのに、「大和書」を提出したのである。

 唐朝は、650年間、倭国が日本の朝廷で有ったことを知っている。大和は、720年の段階では紛れも無く日本の朝廷だが紀元前660年から引き続き日本の朝廷で有った事実はない。夢物語に付き合うほど、唐朝の朝廷は愚かではない。不快感と警戒を大和に感じたはずである。中国の中華思想が判断の基準である。

 事実、仲麻呂の努力にかかわらず、この常識はずれの史書は日本の「史書」として、提出されてからも一度も評価される事はなかった。その何よりの証拠が、旧唐書の日本伝の内容で有る。提出されてから200年も経過しているのに、日本書紀の四文字の表記も存在しない。日本書紀を最後まで「偽史書」としていた時代精紳が旧唐書の精神である。

 これは、新唐書が旧唐書を自大主義・大唐主義・排外蔑視主義と批判した事が全体的には正解であったとしても、こと日本書紀に対する唐朝の判断には、この批判は当てはまらない。この事が、最大の回答である。

 事実は、簡単な事情であるが、この662年が、後代、新唐書の登場によって、663年に変更され、普及して、今日に至っている。この事が、同時に、古代日本史の秘密を解明する鍵になった。年代問題は難しい前提の議論を必要としない、大衆承知の事実である。いつでも、誰でも、この年代の違いに検討を開始することが出来るし、また、私たちは、この問題を大いに提起できるし、きっと、私以上にこの問題を旨く説明できるだろう。

 以後、663年説を採る人は木理論を真っ正面に反論し論駁しなければならない。有効な論駁ができなければ、その説は破綻していることを肝に銘じるべきだ。また、改めて662年説を論じる人は木さんのこの論文をスタートラインにして、木理論を深化あるいは修正していくことになるだろう。木さんとともに、木論文「以上にこの問題を旨く説明」する後続論文を期待したい。
《続・「真説古代史」拾遺篇》(4)



「白村江の戦い」は何年?(1)


 だいぶ前になりますが、向井藤司さんから二件問題提起のコメントを頂いていました。私も関心がある問題なので頭に残っていました。その問題を取り上げます。第一番目の問題は次の通りです。

2011年2月22日のコメント
 白村江の戦いが書紀では663年、旧唐書では662年と1年のくい違いがあります。この理由として納得できる説明を見たことがありません。歴史の大きな流れには影響しないと思いますが、何となく気になります。何かご存知でしたらご教示下さい。

 この問題を靑木英利という方が論じていました。中国山東省曲阜市に在住の方です。ちなみに、曲阜市は孔子の生地として知られていますが、994年にユネスコの世界遺産に登録されたそうです。
 靑木さんの論文名は
「白村江の会戦の年代の違いを検討する」(古代史学会報No.102 2011年2月5日)
です。
 論理的で手堅い論文です。この論文を紹介します。

――――――――――――

 靑木さんは、日本書紀・旧唐書の他に新唐書・資冶通鑑・三国史記を「古い順番から漏れなく原文を読む」という方法を採っている。各史書に対する靑木さんの史料批判は追々紹介することにして、とりあえずそれぞれの史書が「白村江の戦い」(以下、「白村江」と略す)を何年にしているのかを列記しておく。

〈日本書紀 720年〉
 天智紀 663年

〈旧唐書 945年〉
本紀 「白村江」の記述なし。
百済伝・劉仁軌列伝 662年

〈新唐書 1060年〉
本紀 663年
百済伝・劉仁軌列伝 662年

〈資冶通鑑 1084年〉
 663年

〈三国史記 1145年〉
百済本紀 662年
新羅本紀 663年

 旧唐書本紀に「白村江」の記述がないのはどうしてだろうか。唐にとっては、660年に百済併合が終わっているので、660年までが本紀に記録されるべき百済関係の記事ということになる。なんの不審もない。

 問題は新唐書である。百済伝・劉仁軌列伝では622年になっているが、本紀の記述が新唐書の立場を示していることになろう。事実学者たちの間ではそのように扱われている。ではなぜ本紀だけ663年なのだろうか。靑木さんは次のように分析している。(以下、靑木さんの論文からの引用文には、読みやすくするため適当に段落を設けた。また明らかに誤植と思われる字句は私の判断で訂正した。)

 このように本紀以外は662年である。しかし、ここで、重要なことは、何故、本紀が663年なのか、その根拠が何かである。

 新唐書の日本伝に根拠がある。ここに原因がある。日本伝で、日本書紀を日本の正式の「史書」として認定したのである。これも、新唐書の史書としての役割である。旧唐書とここが違う。日本書紀のどの部分を認定したのか?

 全部である。神武天皇以来、58代光孝天皇・唐朝僖宗光啓元年(885年)までの日本の歴史を認定したのである。この事は決定的に重要である。新唐書以後、日本書紀を、信頼できる第一次歴史資料として、日本史の基準文献として、「日本の史書」として認定したのである。これは、旧唐書での不採用を百八十度変更したのであり、中国歴史「学会」の一大事件であり、新唐書の旧唐書に対する批判と共に、日本書紀に市民権が与えられたのだ。

 諸史書の間ばかりでなく、同じ新唐書の中でも662年と663年という齟齬があるにもかかわらず、現代の日本と中国の学者たちは全て663年を採用していて、その齟齬には何の疑問も出されていない。

 次の資冶通鑑も663年を採用しているが、この場合の根拠は何だろうか。靑木さんの分析は次のようである。

 司馬光「資冶通鑑」の白江は663年である。結論を言うと、「唐書」の「劉仁軌列伝」を662年と663年に振り分けて、他の史実の記載の間に挿入したのである。「白江」の文字の有る文章は663年に、その前の文章は662年に挿入した。

 つまり新唐書本紀の663年に一致するように「劉仁軌列伝」の662年の記事を二ヶ所に振り分けるという造作をしたというわけだ。靑木さんはその振り分け方を原文に沿って具体的に分析しているが、それは割愛する。ここでは「資冶通鑑」はなぜ「劉仁軌列伝」を用いて二ヶ所に振り分けるなどという手の込んだことを行ったのか、という問題を取り上げよう。靑木さんは次のように分析している。

 資冶通鑑の立場は新唐書の見解の表現である。先行する歴史史料の中で663年と記載しているのは日本書紀以外は存在しない。663年が真実なのか、662年が真実なのかの問題ではない。此の時点で考古資料が有って、年代問題が検討されている事実は無いし、となれば、新唐書の見解を取る以外ない。663年の採用は当然で、日本書紀の史料採用は当然である。何故、それでは、劉仁軌列伝を基本文書としているかの問題がある。全部、日本書紀の文書で書き換えたら良いのに、列伝を基準文書にしたかの問題がある。

 それは、劉仁軌の偉大さにある。かの662年の高宗の撤退命令にかかわらず、戦線を維持し、百済の残党掃討に成功し、以後も高句麗戦線で奮闘して、ついに、高句麗征伐の歴史的偉業を成し遂げた唐朝の勲臣である。諸侯に列せられ、死に当たり、歴代皇帝の陪臣墓を与えられ、墓守三百戸を与えられている。彼の列伝を非採用にする事は冒涜である。中華民族に唾することになる。

 全く不可解である。学問ではなく、別の問題であった。白村江は663年とするが、文章は劉仁軌列伝を使わなければならない、それならば、二箇所に振り分ける以外に方法はない。

 新唐書は本紀の663年との齟齬にもかかわらず、「白村江」を662年と記録している劉仁軌列伝をそのまま掲載してすましていた。資冶通鑑がその齟齬を解消してあげたというわけだ。
《続・「真説古代史」拾遺篇》(3)



「乙巳の変」の真相(3)
「入鹿暗殺」の舞台(2)


 644(皇極)年正月1日条は中大兄(天智)と中臣鎌子(鎌足)の出会いを記録している。この条について〈大系〉の頭注は「三年春正月朔とあるが、事実は、かなり以前からのことをまとめて書いたものである」と珍しく断言しているが、その通りの内容である。さらに付け加えると、一日だけの事件ではなく、何日かにわたる事件を掻き集めた記事のようだ。キーワードを含む部分だけ転載する。

三年の春正月の乙亥の朔に、中臣鎌子連を以て神祇伯(かむつかさのかみ)に拝す。再三に固辭(いな)びて親(つかへまつ)らず。疾(やまひ)を稱(まう)して過(まかりい)でて三嶋に居(はべ)り。
……
偶(たまたま)中大兄の法興寺の槻の樹の下に打毱(まりく)うるる侶(ともがら)に預(くはは)りて、皮鞋(みくつ)の毱の隨(まま)脱け落つるを候(まも)りて、掌中(たなうら)に取り置(も)ちて、前(すす)みて跪(ひざまづ)きて恭(つつし)みて奉る。中大兄、對(むか)ひ跪きて敬(ゐや)びて執りたまふ。並(これ)より、相(むつ)び善(よ)みして、倶に懐ふ所を述ぶ。


 要点をまとめると次のようである。
 三嶋に蟄居していた鎌子が中大兄が飛鳥の法興寺(飛鳥寺)で蹴鞠(けまり)をすることを知った。中大兄とまみえるよい機会と考え駆けつけ、蹴鞠に加わった。

 蹴鞠は飛鳥で行われている。それでは博多の「難波長柄豊碕」の近くにも、「飛鳥」があるだろうか。これについては、私(たち)は「飛鳥浄御原宮の謎(8)」で既に学習済みである。いま教科書にしている「大化改新と九州王朝」でも古田さんは筑紫の「飛鳥」をかなり詳しく論じているが、ここでは繰り返さない。上座(かみつあさくら 福岡県小郡市井上)に「飛鳥」の地があることだけを確認しておこう。あの明日香皇子ゆかりの地である。そこは斉明の九州での居宮であった朝倉宮にも近い。

 次に古田さんが取り上げるのが「蹴鞠」である。「蹴鞠」は「曲水の宴」や「鷹狩り」と同様、中国から伝わった天子や貴族の「遊び」である。古田さんは、筑後国府跡に「曲水の宴」の遺構があるが、「大和の飛鳥」には「曲水の宴」の痕跡すらないことを指摘した上で、筑後の正倉院のこと、大和の正倉院文書(筑後からの献上品)のこと、などを取り上げている。これらの事々も私は既に何度か取り上げている。最初に取り上げたのは『「倭の五王」補論(4)』でであった。またこのときの記事が一番詳しい。それを参照していただくことにして、この問題もここでは繰り返さないが、ここで古田さんが言いたかったことは次のことのようだ。

 「蹴鞠」の「まり」も、「鷹狩り」の道具類(笛など)もまた、この「正倉院」に保存されていたのではあるまいか。そして「曲水の宴の酒盃」類も。

 つまり、その頃大和にはまだ蹴鞠の「まり」はなかった。九州王朝の財産である「まり」を借りて、蹴鞠に興じていたのだ。その時中大兄が靴を落として、それを鎌子が拾ったのが、二人が近づくきっかけだった。靴をわざと落としたわけではないだろう。蹴鞠をやりなれていなかったのだろう。

 次は鎌子が蟄居していた「三嶋」だ。これも博多の「難波長柄豊碕」の近くにある。古田さんは次のように述べている。

 この三嶋は、従来「大阪府三島郡」と解されてきた。現在の高槻市近辺である。わたしの家(向日市)からも、遠くはない。

 それなのに、その同じ頃(三年正月乙亥の朔)に、例の「蹴鞠の儀」がはじまる。ところは「法興寺」(飛鳥寺)である。

 しかし、「河内の高槻から、大和の飛鳥まで」は決して〝近く″はない。今なら「車」でたやすく往来できるかもしれないけれど、「歩いて」では、一両日、下手をすれば、「二~三日」かかるのではあるまいか。遠すぎるのである。

 しかし、「九州の飛鳥」の場合、「上座、三島」(和名類聚鈔)とある。この「三島」は、問題の「飛鳥」に〝近い″のだ。しかも、斉名天皇の没せられた「朝倉」の中なのである。

 この史料事実を見たとき、わたしはことの真相を知った。「蹴鞠の儀」が行われたのは、決して「大和の飛鳥」ではない。この「九州の飛鳥」であった。これ以外には、ない。

ここまでのことを古田さんは次のようにまとめている。

 一つの「決め手」がある。斉明天皇が九州の筑紫(福岡県)の「朝倉」で没したこと、著名である。では、斉明天皇〝ひとり″この地に至って、没せられたのか。 - ありえない。当然、中大兄皇子(天智天皇)も、中臣鎌足(藤原鎌足)も、そして蘇我入鹿もまた、この地(朝倉)に来ていたのではないか。すなわち、「九州の飛鳥」(小郡市)の〝近傍″に、彼等は「集結」していたのであった。

 次は645(皇極4)年6月8日の入鹿暗殺の計画記事記事である。

六月の丁酉の朔甲辰に、中大兄、密に倉山田麻呂臣に謂(かた)りて曰はく、「三韓(みつのからひと)の調(みつき)を進(たてまつ)らむ日に、必ず將(まさ(に卿(いまし)をして其の表(ふみ)を讀み唱(あ)げしめむ」といふ。遂(つひ)に入鹿を斬らむとする謀(はかりこと)を陳(の)ぶ。麻呂臣許し奉る。

 「入鹿暗殺」はこの4日後の12日に実行される。

 ここでのキーワードは「三韓の調」だ。この頃、倭国の権力中枢は筑紫(太宰府と筑後)の地だったことは、もはや私(たち)にとっては常識である。「三韓の調を進」るべき地は、決して「大和の難波長柄豊碕宮」ではない。もともと大和にはそのような名の宮はない。「筑紫の難波長柄豊碕宮」だったのだ。

 以上すべてのキーワードが「入鹿暗殺」の舞台が筑紫であることを示している。古田さんは次のようにまとめている。

 「近畿の(分王朝の)軍」を率いた近畿分王朝の面々(皇極天皇・中大兄皇子・中臣鎌足・蘇我入鹿等)は、この「九州王朝の別宮」に集結していた。その近傍において「入鹿刺殺」の惨劇が行われたこととなろう。

 では「入鹿暗殺」という惨劇が遂行されたのはなぜだろうか。古田さんは、九州王朝が行おうとしていた対唐・新羅戦をめぐって参戦派(斉明天皇や蘇我氏)と融和派(中大兄皇子や中臣鎌足等)との対立抗争があり、その結末が「入鹿暗殺」であったと推測している。

(以上、「乙巳の変」の驚くべき古田説を紹介したが、全てを納得したわけではない。特に、古田さんは全く触れていないが、「入鹿暗殺」の実行記事の中に説明しきれない部分が多々ある。その問題が解決するまでは、私にとっては今のところあくまでも一つの仮説にとどまる。)
《続・「真説古代史」拾遺篇》(2)



「乙巳の変」の真相(2)
「入鹿暗殺」の舞台(1)


 「乙巳の変」(以下。「入鹿暗殺」と呼ぶことにする)の真相を解くキーワードを含む記事を拾い出してそれを検討してみよう。

642(皇極2)年4月28日
丁未に、権宮(かりみや)より移りて飛鳥の板蓋(いたふき)の新宮に幸す。

 「入鹿暗殺」が行われた舞台はこの板蓋宮(古田さんは板葺宮と表記している)であるとされている。

645(大化元)年12月9日
冬十二月乙未の朔癸卯に、天皇、都を難波長柄豐碕に遷す。

 これは一見「入鹿暗殺」とは無関係に見えるが、実はこれに関連して、「皇極紀」に不可解な記事がある。645(皇極4)年正月条の分注である。(本文は、山の方で猿が何匹もわめき声を上げているが姿がまったく見えないという奇譚記事。本文の引用は略す。)

〈舊本に云はく、是歳、京を難波に移す。而して板蓋宮の墟(あれどころ)と為らむ兆なりといふ。〉

 「井の中」では、上の二つの記事は同一事項の同一記事であるとしてすましている。つまりこれをちっとも不可解とは思っていない。はたしてそうだろうか。

 「舊本」とは何だろう。分注に「舊本」が使われている例は上の他に4例ある。全て「皇極紀」以前の記事である。〈大系〉の頭注は「或本・一本と同じく稿本であろうか」と書いている。

 万葉集には「日本紀」という史書名が出てくる。これについては『「持統紀」にもあった盗作記事(1)』で古田さんの見解を紹介している。「日本紀」は謂わば『日本書紀』の初版本である。「舊本」とはこの「日本紀」のことだろう。

 さて、古田さんは上の〈分注〉と大化元年の遷都記事を同一視する従来説に異をとなえて、〈分注〉について次のように分析している。

 従来はこれを、先の「難波長柄豊碕への遷宮」と〝同時期の同事件″と見なしてきた。しかし、それなら、この「皇極紀」に「舊本」とか「是歳」とか別述する必要はない。例の「入鹿斬殺」はこの年の「12月」であるから、実はその前に、すでに「難波・長柄の豊碕」への遷宮があった。― 「旧本」ではそのように書かれていた。それをこの「新本」(現・日本書紀)では、〝改めた″というのである。

 そうすると入鹿暗殺の舞台は板葺宮ではなく難波長柄豊碕宮ということになる。もちろん「井の中」で定説になっている「難波長柄豊碕宮=難波宮」のことではない。この等式は成り立たないのだ。難波宮とは別の所に長柄・豊崎という地名が残っていることを『「難波宮=難波長柄豊碕宮」か?(1)』で明らかにしている。そのとき掲載した地図を再録しよう。

古代の難波地図

 この地図が示していることを古田さんは現在の地名を用いて次のように簡潔にまとめている。

 しかし、ここに不審事がある。現地(大阪市)の現地名と、右の遺跡が対応しないのである。

 ①「難波」は、大阪湾岸の一般的名称であろう。
 ②「長柄碕」は、梅田(大阪駅)の東北に、広大な長柄碕があり、この地域の地名である。
 ③「豊崎」は、梅田の東北側にある。(管理人注:大阪市北区豊崎)
 ④「難波宮」は、大阪城の南側(法円坂)にその遺跡がある。

 ところが、②と③とは、ほぼ〝隣り合って″いるけれど、その②③と④の難波宮とは約二キロ離れている。右の④の遺跡は、到底「難波の長柄の豊碕宮」とは言えない。

 「難波長柄豊碕宮≠難波宮」であることは明らかだ。では「難波長柄豊碕宮」とは何か。『日本書紀』編纂者が実体のない架空の宮名「難波長柄豊碕宮」を作り出したなどどいうことはあり得ない。「難波長柄豊碕宮」と呼ばれる宮殿があったはずなのだ。古田さんはそれを博多に見いだした。(古田さんが傍点を付けて強調している文字は斜体文字で表した。)
 これに対して福岡市には、これによく対応すべき地名分布が存在する。

 まず、難波。博多湾岸の那の津は有名だが、難波は「ナニワ」であり、「ニワ」は〝広い場所″であるから、「ナのつ」と「ナニワ」とは一連の地名である。明治前期の字地名表にも、「難波」の旧字名が存在する(「難波屋」などの商店も実在)。

 次に長柄。福岡市西区役所の西側には名柄(ながら)川が流れ、姪の浜近辺には名柄団地(また名柄野団地)がある。かつては名柄町があったという。西には垂山、東には浜があり、この名柄も「長柄」と表記した可能性がある。訓みは同じく「ながら」である。

 次に「豊碕」。この名柄川に囲まれた形の岩山の高地(字名は鷲尾)に愛宕(あたご)神社がある。この岩山の高地は北の博多湾側の豊浜に向って突出している(この点、「崎」より「碕」という字面にふさわしい。大阪の「豊崎」は低地の湿地帯)。

 従来はこの地名を「難波の長柄の豊碕」という〝三段地名″の形で理解してきた。しかし、地名は「難波の長柄」という二段地名で十分だ。三番目は「豊碕宮」という宮殿名ではあるまいか。宮殿の居住者(権力者)側の命名である。

 そこは博多湾、浜に向ってき出した岩頭の広場である。これに対し、「豊碕宮」と命名したとすれば、当然だ。

 この地(愛宕神社)からは、弥生時代(若干)につづく古墳時代以降には、かなりの出土があり、出土遺跡が報告されているのである。そしてここが博多湾全体を俯瞰すべき、絶好の軍事的要地であったこと、疑いはない。

 紫宸殿中心の太宰府の都城は、(奥宮としての太宰府領域に対して)海岸部の博多湾岸の軍事的要地として、この「難波の名柄(長柄)」の豊浜の地に豊碕宮が造営されたものと思われる。「裏」の有明海に対する「表」の博多湾岸、それが九州王朝の中心領域のもつ〝二つの海域″だったのである。

 白村江の戦いの直前(あるいは直後)に、博多湾岸に突出し、これを見下ろす軍事的拠点、「難波の長柄の豊碕」もしくはその近傍において、この惨劇が行われたのではないか。これが今回の結論の指し示す方向である。

 この博多の難波長柄豊碕宮が入鹿暗殺の舞台だったのだ。さらに関連記事を検討することによって、この説の信憑性を深めていこう。
《続・「真説古代史」拾遺篇》(1)



「乙巳(いつし)の変」の真相(1)
「乙巳の変」の実年代


 シリーズ『「大化改新」の真相』で、『―真実の歴史学―なかった 第五号』所収の古田論文「大化改新批判」を教科書の一つとして利用した。実はその論文の最後に「乙巳(いっし)の変(入鹿暗殺)」についての驚くべき新説が書かれていた。古田さんにはこれで何度驚かされたことになるだろう。


 「乙巳の変」についてのその新説を『「大化改新」の真相』の最後に取り上げようと思っていたが、その内容が「近畿王朝草創期」にはそぐわないので、今回ここで独立的に紹介することにした。

 さて、周知のように「乙巳の変」は干支年「乙巳」の年―645(皇極4)年―に起こったのでそのように呼ばれている。そして、「井の中」では「孝徳紀」の「大化の改新」は「乙巳の変」が導火線となって敢行されたと理解されている。「大化の改新」の一連の詔勅は他の時代から「孝徳紀」に移されたものと考える私(たち)の場合も、「乙巳の変」につなげるために「孝徳紀」が選ばれたと考えてきた。

 しかし、古田さんはその二つは本来無関係であるとし、その二つを切り離して取り扱っている。そして、「乙巳の変」も他の年代から移されたものであるという。では他から移されたとして、なぜ645(皇極4)年が選ばれたのだろうか。

 この「645」の干支は「乙巳」である。その「一巡あと」の「乙巳」は「705」、唐の則天武后の崩御の年である(1月)。7世紀後半、倭国が唐国、そして唐軍の影響を深くうけたのは周知のところ、しかし、その「唐」とは則天武后の時代(684~705)なのである。その一巡前の「645」の「乙巳」に、「皇極女帝の退位」が起っている。これははたして「偶然の一致」なのだろうか。

 「結合」された「詔勅類」と同じく、この「乙巳」もまた、則天武后崩年の「乙巳」を原点として「一巡」して算出されたという可能性なし、とは断じえないのである。

 この論証はちょっとこじつけに過ぎるのではないだろうか。可能性はあるかも知れないが、そのような不確かな論拠の仮説は私には受け入れられない。しかし、この仮説を否定しても、次の実年代比定には問題はない。というより、もしも次の実年代比定が正しいとすると、上の干支一巡説はそれと矛盾することになる。

 「乙巳の変」の実年代比定の手掛かりとして古田さんは631(舒明3)年3月条の次の記事を取り上げる。

三月の庚申の朔に、百濟の王義慈、王子豐章を入(たてまつ)りて質(むかはり)とす。

 ところが義慈王の即位は、唐の貞観15年(641)であり、右の記事は成立不可能である。三国史記は中国(唐)の記事と対応しており、こちらが大きく「誤記」しているとは考えにくい。とすれば、日本書紀の方の年時記載が、少なくとも「629→641」の12年分が〝上にずれている″と考える他ない。


 これは『失われた九州王朝』や『法隆寺の中の九州王朝』で論証済みの事柄である。『法隆寺の中の九州王朝』では「推古紀」の記事のズレについて論じる中で631(舒明3)年3月条が使われている。その論証を『「推古紀」のウソ八百(3)』でかなり詳しく紹介している。そこで古田さんは「推古紀」のズレを「10年以上(おそらく12年)」と言っているが、「推古紀」のズレも12年が正解だろう。

 『「629→641」の12年分』が分りにくいが、629年は舒明元年だから、「舒明紀」全体が12年ずれていると言っているようだ。この12年のズレを敷衍して、古田さんは次のように述べている。

 この点をさらに突きつめると、日本書紀の、舒明元年(629)~13年(641)の全体が、12年下がり、641~653であることとなろう。このような「年時下げ」は、当然ながら、今問題の「大化元年」(645)」にも、当然「波動」し、「連動」しないこと、不可能と言う他はない。すなわち、656~657の間にある。白村江の直前の時期である。

 「舒明紀」全体が12年下がるのは「推古紀」のズレの「波動」と考えるなら、「推古紀」のズレも12年というのが正解となるだろう。

 古田さんは続けて次のように書いている。

もちろん「起点」の「乙巳」(645)が「則天武后の崩年」にともなう「偽りの定置」であるとれば、出発点の「645」にともなう、この計算結果も、必ずしも「不動」ではない。しかし、肝心の「645」が、実はさに非ず、「白村江の戦い」の前後へと〝移置″さるべき可能性、それは大なのではあるまいか。

 前半の文章は理路がたどりにくく分りにくい文章だ。私には読み取れない。後半の文章は「645年を12年下げれば大化元年は656~657年(「白村江の戦い」の前後へ)」であり、その可能性は「大」であると言っている。もしそうなら656~657年にあった「変」記事を12年上げて移動させた年がたまたま乙巳年であったということになり、「則天武后の崩年」云々は意味をなさない。

 「乙巳の変」の実年代が656~657年(「白村江の戦い」の前後へ)である可能性大というのは納得できた。これが確かにそうであると言うところまで言い切るためには「乙巳に変」の記事の分析が不可欠である。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(139)

「天武紀・持統紀」(54)


「大化改新」の真相(53)
「大化の改新」の実年代(3)


694(持統8)年12月6日
藤原京に遷都
十二月の庚戌の朔乙卯に、藤原宮に遷り居はします。

 無事遷都を終えて、持統は全国掌握のための最後の詰めに入る。まだ完全には帰順していない王や諸臣に対する恫喝として、東国国司をやり玉に挙げた。

695(持統9)年3月17(甲子)日
「東国国司賞罰の詔」

 続いて巡察使(朝集使)の報告をもとに具体的な賞罰を決定して詔勅を発布する。

695(持統9)年4月4(辛巳)日
「朝集使の報告による査定の詔」

 日を接いで九州王朝の完全屈服の報「皇太子の奏上」が届く。

695(持統9)年4月5(辛巳)日
「皇太子の奏上」

 「朝集使の報告による査定の詔」には実年代を比定するに当たって考慮すべき文言二つあった。

(a)
始めて新しき宮に處(を)りて、將に諸の神に幣(みてぐら)たてまつらむとおもふこと、今歳(ことし)に屬(あた)れり。

 この年に「諸の神に幣たてまつらむおもふ」とあるが、これに該当するような記事が695(持統9)年にはない。4月9日と7月23日に「使者を遣して、廣瀬大忌神と竜田風神を祀らしむ」という記事があるが、これは毎年行われている年中行事であり、取り立てて特赦の理由とするほどのものではない。『日本書紀』には記録されていないが、遷都にともなって新京(藤原京)の永年無事を願う神事が行われたとでも考えるほかない。これもただ言ってみただけという憶測に過ぎない。上の実年代比定ではこの一点が引っかかる。

 『日本書紀』の主要部分が九州王朝の史書からの年次を無視した切り貼りで成り立っているのだから、完全な復元はできなくて当然だろう。「大化の改新」についても、それは九州年号大化のころのもの、というだけで満足し、細かい実年代比定はすべきではないのかも知れない。しかし、乗りかかった船。最後まで行ってみよう。

(b)
又、農の月にして、民を使ふ合からざれども、新しき宮を造るに縁りて、固に巳むこと獲ず。

 この文章はもちろん「新しい宮を造るためにやむを得なかった」と過去形として読むべきである。遷都に当たって、691(持統5)年以来新京完成まで、農繁期にも農民を使役してきたことを、一応は反省している。(b)に関してはこの実年代比定に矛盾はない。

696(大化元・持統10)年7月10日
高市皇子死去
庚戌に、後皇子尊(のちのみこのみこと)薨せましぬ。

 草壁皇太子亡き後、高市皇子は太政大臣として政治的手腕を発揮していた。高市は草壁よりも8歳年上で、壬申の乱でも大きな役割を果たしている。大和朝廷内では次期皇太子(次期天皇)として大きな期待が寄せられていたことだろう。それがこの唐突な死である。私は草壁皇子の死因への疑念は払拭したが、高市皇子の死については疑念を捨てきれない。

 高市皇子の母親は胸形君徳善の娘・尼子娘(あまこのいらつめ)であり、高市には九州王朝の血が流れている。持統にとっては目の上のたんこぶのような存在だったろう。持統の血を引く孫の軽皇子を後継者にしたかったに違いない。高市皇子の死に疑念を持つゆえんである。

 ちょっと話がずれるが、天武の死に際して大津皇子の謀反事件があった。天武の死去は686(朱鳥元)年9月9日である。その15日後に謀反が発覚する。有間皇子の謀反が蘇我赤兄による謀略であったように、大津皇子の謀反にも謀略の臭いがする。大津皇子の母親は持統の姉・大田皇女で、草壁より1歳年下であった。孫を後継者にしたかった持統にとっては大津皇子もやはり目の上のたんこぶだったことだろう。

 さて、最後に残った「改新の詔」。これの実年代を考える段階に来たが、この詔勅の干支日「二年の春正月の甲子の朔」に悩んでいる。諸詔勅群を「孝徳紀」に配置したのは、本来ONライン(701年)前後に行われためざましい諸改革が、はるか以前(孝徳期)にあったことを偽装するためであった。そのメインは「改新の詔」であり、この詔勅こそが「孝徳紀」に「大化」という年号を盗用することになった本源だったと考えられる。逆に言うと、この詔勅は確実に九州年号大化2年にあったことにある。この点はまず異論はないだろう。

 ではその実年代は「大化2年=持統11年」の何月何日だったのだろうか。『日本書紀』編纂者の思惑を二通り想像してみた。

(その一)
 大化2(持統11)年正月の甲子は28日である。「改新の詔」はそこにあった。編纂者は考えた。「改新の詔」は正月元旦にこそふさわしい。正月元旦が甲子である年代を探したら、孝徳2年だった。そこにはめ込んだ。

(その二)
 「改新の詔」はもともと大化2(持統11)年の朔日が甲子の月にあった。大化2(持統11)年では8月がそれに当たる。「改新の詔」は大化2(持統11)年8月1日条の記事であった。編纂者は考えた。朔日が甲子の月を探そう。孝徳紀には二つある。孝徳2年正月と孝徳(白雉2)7年4月である。「大化の改新」は「乙巳の変」の延長上の改新として編纂したいのだから孝徳(白雉2)7年4月では時代が離れすぎる。そこで「改新の詔」を孝徳2年正月1日にはめ込んだ。

 以上、干支を無視できないとすると「改新の詔」の実年代の候補は次の二つになる。
① 大化2(持統11)年正月28日
② 大化2(持統11)年8月1日

 どちらにも可能性があるが、方針通り「持統紀」の記事との整合性で決めてみよう。

 九州王朝との関係記事をカットすると共に、九州王朝の史書からの盗用が不要になったためか、「持統紀」の持統9年以降の記事は大変貧相である。持統11年には国制に関わる記事がない。決め手となりそうな記事は次の4件だけである。

 持統は長らく空位であった皇太子位に孫(草壁の子)の軽皇子を就けるが、その立太子の記事はない。しかし、次の記事がそれを裏付けている。

697(大化2・持統11)年2月28日
軽皇太子の世話役任命
二月の丁卯の朔甲午に、直廣壹當麻眞人國見を以て、東宮大傅とす。直廣参路眞人跡見をもて春宮大夫とす。直大肆巨勢朝臣粟持をもて亮(すけ)とす。


 立太子が済んだのに皇太子の世話役がいないなどということはあり得ないから、たぶんこの日が同時に立太子の日だったのだろう。

697(大化2・持統11)年6月26日
持統の病気平癒祈願1
辛卯に、公卿百寮、始めて天皇の病の爲に、所願(こひちかへ)る佛像を造る。

 何時から病気なのか分らないが、この頃持統は病気だった。

697(大化2・持統11)年7月29日
持統の病気平癒祈願2
癸亥に公卿百寮、設佛の開眼(みめあらは)しまつる會(おがみ)を藥師寺に設く。

 病気平癒の記事はないが、平癒祈願の効あってか、持統は703(大宝2)年12月22日まで生き、文武天皇の摂政的補佐をし続けた。

 次に「持統紀」最後の記事。

697(持統11)年8月1日
 持統、文武に譲位
八月乙丑朔に、天皇、策(みはかりこと)を禁中(おほうち)に定めて、皇太子に禅天皇位(くにさ)りたまふ。

 干支日が「乙丑朔」となっているが『続日本紀』では「甲子」である。〈大系〉の頭注は次のように説明している。

「朔日干支が異なるのは、書紀が元嘉暦によって七月を大の月、続紀が儀鳳暦によって七月を小の月としたためといわれる。八月一日践祚は確実であろう。」

 私には暦についての知識がほとんど無いので、多分この通りなのだろうと考えるほかない。しかし、「多元史観」の立場からもう少し想像をたくましくしてみよう。

690(持統4)年11月11日
勅を奉りて始めて元嘉暦と儀鳳暦とを行ふ。

 元嘉暦は中国の南北朝時代に使われていた暦である。九州王朝は一貫してこの暦を用いていた。儀鳳暦は唐で使い始められた暦である。これをヤマト王権が690(持統4)年に受け入れた。「始めて元嘉暦と儀鳳暦とを行ふ」とあるが、近畿王朝内で二つの暦を同時に採用することなどあり得ない。そんなことをしたら大変な混乱を起こしてしまうだろう。「始めて元嘉暦と儀鳳暦とを行ふ」という文言には、九州王朝では元嘉暦を用い近畿王朝では儀鳳暦を用いた、という意味ではないだろうか。(wikipediaによると、近畿王朝が儀鳳暦を用い始めたのは持統6年からという説があるらしい。論拠は書かれていない。)

 ところが『日本書紀』は九州王朝の史書の記事を盗用しまくっている。『日本書紀』の編纂では元嘉暦に統一しなければ、いろいろ齟齬が起こるだろう。終りの一行ということで気がゆるんだのだろうか、そこだけ儀鳳暦による近畿王朝の記録をそのまま記録してしまった。

 『続日本紀』では何時から儀鳳暦だけを用いるようになったのだろうか。いろいろな説があって定説はないようだ。私にはこれを論じるための暦についての知識はない。少なくとも「持統紀」の記事との一貫性を保つため、文武1年8月1日には元嘉暦による「甲子」を用いている。

 さて、譲位記事に「策を禁中に定めて」という文言がある。これはどういう意味だろうか。もちろんこの日一日で「策」を定めたわけではない。持統の罹病以来、もしもの時に備えて会議が重ねられていただろう。そしてその「策」の具体的な内容は、譲位後の近畿王朝内の動揺を抑え引き締める政策と九州王朝に対する万全の対策の二つであろう。その両方を兼ね備えているのがほかならぬ「改新の詔」であった。「改新の詔」を内外に提示した上で、譲位を明らかにした。

 以上、私は「改新の詔」の実年代として②説「大化2(持統11)年8月1日」を採ることになった。

 この「改新の詔」が示した骨格が「大宝律令」として結実するまでにはなお4年の歳月を要したことになる。

 白紙の状態で始めて試行錯誤だらけとなり、思いがけず長くなってしまった。これで「大化の改新の真相」をひとまず終りとします。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(138)

「天武紀・持統紀」(53)


「大化改新」の真相(52)
「大化の改新」の実年代(2)


 690(持統4)年7月には矢継ぎ早に「人事など政治体制の刷新」の施政が行われている。『「大化改新」の真相(6)』で全記事を掲載しているが、ここでは必要と思われる記事だけを再録する。

690(持統4)年7月5日
政治体制の確立
 皇子高市(みこたけち)を以て、太政大臣(おほまつりごとのおほまへつきみ)とす。正廣參(しやうくわうさむ)を以て、丹比嶋眞人(たぢひのしまのまひと)に授けて、右大臣(みぎのおほきまへつきみ)とす。幷(あはせ)て八省(やつのすぶるつかさ)・百寮、皆(みな)遷任(ま)けたまふ。

690(持統4)年7月6日
国司の遷任
大宰(おほみこともち)・國司(くにのみこともち)、皆(みな)遷任(ま)けたまふ。

 この国司遷任は九州王朝によるものかヤマト王権によるものか。決めがたいが、私は次のように考えている。

 『「大化改新」の真相(6)』で、「朝集使の報告による査定の詔」に現れる31人の国司名の検討から、国司は九州王朝が任命した」と推定した。よって689(持統3)年閏8月10日の「造籍の詔」も九州王朝によるもであると推定した。ところが、690年の段階でヤマト王朝は九州以外の国司の任命権を九州王朝から移譲させたのだ。任地にいた国司たちを一度大和に呼び戻して、その旨を伝えて再遷任させた。「遷任」とは任地に移動するという意味だから人事を刷新したわけはなく、九州王朝が任命した国司をそのまま踏襲したと考えられる。

690(持統4)年9月1日
「造籍戸令遵守の詔」
諸国司に詔して曰はく、「凡そ戸籍を造ることは、戸令に依れ」とのたまふ。

 国司遷任から2ヶ月たらずでの詔勅で唐突感をいなめない。しかし、詔勅は対象者を目の前に揃えて言い渡すとは限らない。使いを立てて伝達することもあっただろう。この場合はその例と考えるほかない。つまり任地にいる国司たちに改めて造籍を命じたのだ。

 上の造籍は690年の干支「庚寅(こういん)」を用いて「庚寅年籍」と呼ばれている。これまでこの造籍を九州王朝の事績としてきたが、今はヤマト王権による造籍と考えた方が自然だと考えている。訂正したい。

691(持統5)年8月13日
墓記上進
八月の己亥の朔辛亥に、十八の氏大三輪・雀部・石上・藤原・石川・巨勢・膳部・春日・上毛野・大伴・紀伊・平群・羽田・阿倍・佐伯・釆女・穂積・阿曇。に詔して、其の祖等の墓記(おくつきのふみ)を上進(たてまつ)らしむ。

 「墓記」とはなんだろう? 各氏の年代記のようなものだろうか。この墓紀没収の目的は何か。一般人民の造籍と併行して、有力豪族たちと九州王朝との関わりを抹消し、ヤマト王権との係累を造作するためだろうか。もちろん『日本書紀』編纂においてもこれを一つの資料として使ったことだろう。

691(持統5)年10月27日
 藤原京の地鎮祭
甲子に、使者を遣して、新益京(しんやくのみやこ)を鎭め祭らしむ。

691(持統5)年11月1日
 持統、大嘗祭を挙行
十一月の戊辰に、大嘗(おほにへ)す。神祗伯中臣朝臣大嶋、天神壽詞(あまつかみのよごと)を読む。

 大嘗祭挙行によって、持統は正式に天皇を名乗る名分を得た。これ以後、ヤマト王権は名実ともに「近畿王朝」となり、二王朝・二天皇が併存することとなった。691(持統5)年11月1日以後のヤマト王権を、近畿王朝と呼ぶことにする。

692(持統6)年5月23日
藤原宮の地鎮祭
丁亥に、浄廣肆難波王等を遣して、藤原の宮地(みたどころ)を鎭め祭らしむ。

 私はこの条の次に「国司発遣の詔」が入ると考えた。「造籍戸令遵守の詔」に従って行われた造籍の結果が国司たちから報告され、それを精査するのに二年かかった。その精査の結果、東国国司たちの報告が逆鱗にふれた。「国司発遣の詔」の干支日「甲子」は持統6年では2日に当たる。東国国司が集められ、再調査を命じられる。

692(持統6)年8月2日
「国司発遣の詔」


692(持統6)年9月9日
 班田役人を四畿に派遣
 班田大夫等(たたまいのまえつみたち)を四畿内(よつのうちつくに)に遣す。

 「国司発遣の詔」では同時に倭6県の国司が「造籍・校田」を目的として派遣されていた。次いで、完全に直轄地となっている畿内に班田役人が派遣された。畿内で班田収授を試行したのであろう。

693(持統7)年10月2日
軍備の増強
冬十月の丁巳の朔戊午に、詔したまはく、
「今年より、親王より始めて、下は進位に至るまで、儲(まう)くる所の兵を観(みそなは)さむ。浄冠より直冠に至るまでは、人ごとに甲一領・大刀一口・弓一張・矢一具・鞆(とも)一枚・鞍馬(くらおけるうま)。勤冠より進冠に至るまでには、人ごとに大刀一口・弓一張・矢一具・鞆一枚。如此(かく)預(あらかじ)め備へよ」とのたまふ。


693(持統7)年12月21日
軍事訓練
十二月の丙辰の朔丙子に、陣法博士(いくさののりのはかせ)等を遣して、諸國に教へ習はしむ。

 このように全国に網の目のように張り巡らされた軍事力を背景に、近畿王朝はさらに九州王朝に権力移譲を迫っていったことだろう。

694(持統8)年3月2日
自前の通貨鋳造
乙酉に、直廣肆大宅朝臣麻呂・勤大貳臺忌寸八嶋・黄書連本實等を以て、鑄銭司(ぜにのつかさ)に拝(め)す。

694(持統8)年3月11日
郡司の冠位制定
甲午に、詔して曰はく、 「凡そ位無からむ人を以て郡司に任(まくるには、進広貳を以て大領(こほりのみやつこ)に授け、進大参を以て小領(すけのみやつこ)に授けよ。

 この段階ではまだ評制だった。本来は「評督」なのに、「評」隠しのため「郡司」と書き換えている。ヤマト王権が評督の人事権も奪取したことを示している。

694(持統8)年7月4日
巡察使派遣
秋七月の癸未の朔丙戌に、巡察使を諸國に遣す。

 巡察使は685(天武14)年9月15日条が初出である。そこでは巡察使の役割は「國司・郡司及び百姓の消息を巡察」することと書かれていた。頭注も読んでみよう。

「大宝・養老令制では太政官に直属し、諸国巡察の必要がある場合臨時に官人を選んで派遣するもので、視察の内容および使人の数はその時に応じて定められる。」

 「東国国司の詔」の朝集使とはここで言う巡察使のことではないだろうか。ここでは主として2年前に派遣された東国国司たちの「消息」(行状)を調査しに行った。もちろん東国国司たちは役割を終えて、巡察使派遣と前後して大和に還ってきている。もしかすると、このとき筑紫にも巡察使が派遣されたのかもしれない。その巡察使は皇太子が答えることになったあの「九州王朝への諮問」文書を携えていた、とまで考えるのは考えすぎだろうか。