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《真説古代史・近畿王朝草創期編》(137)

「天武紀・持統紀」(52)


「大化改新」の真相(51)
「大化の改新」の実年代(1)


 「持統紀」の主な記事を確認しながら、「孝徳紀」の詔勅を埋め込んでみる。再挑戦です。(「孝徳紀」の詔勅の表題は赤字で示した。)

 天武の埋葬(持統2年11月11日)が終わった翌年から持統による体制の立て直しが始まる。私はこれまで「品部廃止の実行を督促」と呼んできた孝徳(大化)3年4月26(壬午)日の詔がその第一声ではないかと考えている。「壬午」は持統3年では3月30日になる。

689(持統3)年3月30日
「品部廃止の実行を督促」
壬午に、詔して曰はく、「帷神(かむながら)〈惟神は、神道(かみのみち)に随ふを謂ふ。亦自づからに神道有るを謂ふ。〉も我が子治(し)らさむと故(こと)寄させき。是を以て、天地の初より、君臨(きみとしら)す國なり。始治國皇祖(はつくにしらししすめみおや)の時より、天下大同(おな)じくして、都(かつ)て彼といひ此といふこと無し。既にして頃者(このごろ)、神の名・天皇の名名より始めて、或いは別れて臣・連の氏と爲(な)れり。或いは別れて造等(みやつこら)の色(しな)と爲れり。是に由(よ)りて、率土(くにのうち)の民の心、固(かた)く、彼此(かれこれ)を執(とら)へ、深く我汝(あれいまし)を生(な)して、各(おのおの)名名(なな)を守(たも)てり。又、拙弱(つたな)き臣・連・件造・國造、彼(そ)の姓(うぢ)となれる神の名・王の名を以て自(おの)が心の歸(よ)る所に逐(したが)ひて、妄(みだり)に前前(ひとひと)處處(ところところ)に付けたり。〈前前とは、猶(なほ)人人(ひとひと)を謂ふぞ。〉爰(ここ)に神の名・王の名を、人の賂物(まひなひ)とするを以ての故に、他(ひと)の奴婢(をのこやつこめのこやつこ)に入れて、清き名を穢汚(けが)す。逐に民の心整(ととのほ)らずして、國の政(まつりごと)治(をさ)め難し。是の故に、今は、天に在(いま)す神の随(まま)に、治め平(む)くべき運(と)に屬(あた)りて、斯等(これら)を悟らしめて、國を治めむこと民を治めむこと、是をや先にす是をや後にす、今日明日、次(つい)でて續(つ)ぎて詔(みことの)らむ。然(しか)も、素(もと)より天皇の聖化(みおもぶけ)に頼(たの)みで、舊俗(もとのしわざ)に習へる民、未だ詔らざる間に、必ず當(まさ)に待ち難かるべし。故、皇子・群臣より始めめて、諸の百姓に及(いた)るまでに、將(まさ)に庸調(ちからつき)賜(たま)はむ」とのたまふ。

 「品部の廃止」と同様、実に回りくどく分りにくい悪文だ。要するに「品部の廃止」が滞っていることに対する不満を述べた上、「次でて續ぎて詔らむ」、つまりこれ以降あれこれ詔を出すぞ、と告げている。

689(持統3)年4月13日
乙未に、皇太子草壁皇子尊薨(かむ)さりましぬ。

 「天武紀」では高官の死に際してさえも、あらかじめ罹病記事があり、死後は朝廷から弔問使派遣とか冠位追贈などの記事が続くが、「持統紀」の死亡記事は皇太子であってもこのようにたった一行だけである。かつて私は、このことから草壁皇子の死因に疑念を持った。しかし調べてみると、「持統紀」の他の死亡記事(春日王・川嶋皇子・高市皇子)も全てたった一行だけの素っ気無い記録で、例外がない。私の思い過ごしだった。

689(持統3)年6月29日
令の頒布
庚戌に、諸司に令一部二十二巻を班(わか)ち賜ふ。

 「井の中」ではこれが「飛鳥浄御原令」だとしている。作ったという記事が無く、いきなり頒布記事が出てくるのをいぶかしいとは思わないのだろうか。「令を作る」というような重要な記事を書き忘れるなどありえない。とすると「令」はすでにあったのだ。「筑紫令」である。持統は当面「筑紫令」を踏襲した。

689(持統3)年7月15日
射弓所の設営
丙寅に、左右京職及び諸國司に詔して、射(いくひ)習ふ所を築かしむ。

689(持統3)年閏8月10日
「造籍の詔」
閏八月の辛亥の朔庚申に、諸國司に詔して曰はく、
「今(この)冬に、戸籍(へのふみた)造るべし。九月を限りて、浮浪(うかれぴと)を乱(ただ)し捉(から)むべし。其の兵士(いくきびと)は、一國毎(くにごと)に、四(よ)つに分(わか)ちて其の一つを點(さだ)めて、武事を習はしめよ」とのたまふ。


690(持統4)年1月1日
持統即位
春正月の戊寅の朔に、物部麻呂朝臣、大盾を樹(た)つ。祇伯(かむづかさのかみ)中臣大嶋朝臣、天壽詞(あまつかみのよごと)讀む。畢(をは)りて忌部宿禰色夫知、璽(かみのしるし)の剱・鏡を皇后に奉上(たてまつ)る。皇后即天皇位(あまつひつぎしろしめ)す。公卿百寮、羅列(つらな)りて匝(あまね)く拝みたてまつりて、手(て)拍(う)つ。

 ちょっと横道

 このように詳しく即位式を記録しているのは「持統紀」だけだろう。璽が「三種の神器」ではなく「二種の器」であることが目を引く。現天皇家は「三種の神器」を揃えているが、本来は「二種の神器」だったのだ。福岡県の弥生時代の王墓からは「三種の神器」が出土している。それを取り巻くように「二種の神器」や「一種の神器」を持つ墓が点在しているという。第一権力者は「三種の神器」を持っていた。「二種の神器」は2番手ということになる。

 「剱・鏡」がペアで出てくる記事を調べてみた。2例あった。

 一つは神功皇后摂政前紀の「熊襲征伐」説話である。神田を定めて、その田に那珂川の水を引こうと溝を掘ったが、大岩にぶつかって溝を通せない。そこで武内宿禰に「剱・鏡」を捧げて神祗に祈祷させたら、雷が落ちて岩が砕け、めでたく溝が通った、というお話。

 もう一つは「宣化紀」の大王継承記事で、前王(安閑)に子がないので群臣が弟(宣化)に即位を奏上して「剱・鏡」を奉ったとある。やはりどちらも「二種の神器」である。ヤマト王権はもともとは「二種の神器」を奉ずる大王だった。

 本道に戻る。

690(持統4)年4月14日
冠位昇進・朝服の規定
庚申に、詔して曰はく、「百官(つかさつかさ)の人及び畿内(うちつくに)の人の、位有る者は六年を限れ。位無き者は七年を限れ。其の上(つかへまつ)れる日(ひかず)を以て、九等(ここのつのしな)に選び定めよ。四等(よつのしな)より以上は、考仕令(かうじりやう)の依(まま)に、其の善最(よさいさをしさ)・功能(いたはりしわざ)、氏姓(うじかばね)の大小を以て、量りて冠位授けむ。其の朝服は、浄大壹より已下(しもつかた)、廣貳より已上(かみつかた)には黒紫(ふかむらさき)。浄大參より已下、廣肆より巳上には赤紫。正の八級(やしな)には赤紫。直の八級には緋。勤の八級には深緑(こきみどり)。務の八級には浅緑。迫の八級には深縹(こきはなだ)。進の八級には浅縹。別に浄廣貳より已上には、一畐(ひとの)一部(ひとつぼ)の綾羅(あやうすはた)等、種種に用ゐることを聽(ゆる)す。浄大參より已下、直廣肆より已上には、一畐二部の綾羅等、種種に用ゐることを聽す。綺(かむはた)の帶・白き袴は、上下(かみしも)通(かよ)ひ用ゐよ。其の餘(ほか)は常の如(ごと)くせよ」とのたまふ。

 「百官の人及び畿内の人」が対象であり、畿内以外の諸王・豪族は入っていない。この詔勅による規定の適用範囲はヤマト王権内だけである。
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《真説古代史・近畿王朝草創期編》(213)

「天武紀・持統紀」(128)


「大化改新」の真相(50)
「皇太子の奏上」と「改新の詔」の復習


 「皇太子の奏上」の読下し文は今まで部分的にしか読んでこなかった。改めて全文を読んでおこう。

(E)「皇太子の奏上」
壬午に、皇太子、使(つかい)を使(まだ)して奏請(まう)さしめて曰はく、
「昔在(むかし)の天皇等の世には天下を混(まろか)して齊(ひとし)めて治めたまふ。今に及逮(およ)びては分れ離れて業(わざ)を失ふ。〈國の業を謂ふ。〉天皇我が皇、萬民を牧(やしな)ふべき運(みよ)に屬(あた)りて、天も人も合應(こた)ヘて、厥(そ)の政(まつりごと)惟(これ)新(あらた)なり。是の故に、慶び尊びて、頂(いただき)に戴きて伏奏(かしこまりもう)す。現爲明神御八嶋國天皇(あきつみかみとやしまぐにしらすすめらみこと)が臣(やつかれ)に問ひて曰(のたま)はく、
『其れ群(もろもろ)の臣・連及び伴造・國造の所有(たもて)る、昔在(むかし)の天皇の日に置(お)ける子代入(こしろのいり)部、皇子等の私に有てる御名入部、皇祖大兄の御名入部〈彦人大兄を謂ふ。〉及び其の屯倉、猶古代(むかし)の如くにして、置かむや不や』とのたまふ。
臣、即ち恭(つつし)みて詔する所を承りて、奉答(こたへ)而曰(まう)さく、
『天(あめ)に雙(ふた)つの日無し。國に二(ふたり)の王(きみ)無し。是の故に、天下を兼ね幷せて、萬民を使ひたまふべきところは、唯天皇ならくのみ。別(こと)に、入部(いりべ)及び所封(よさせ)る民を以て、仕丁(つかへのよほろ)に簡(えら)び充てむこと、前(さき)の處分(ことわり)に從はむ。自餘以外(これよりほか)は、私に駈役(つか)はむことを恐る。故、入部五百二十四口・屯倉一百八十一所を獻る』
とまうす」とのたまふ。


 〈彦人大兄を謂ふ。〉という分注が付けられている「皇祖大兄」については『「天智紀」(1)』で中村幸雄さんの論考(論文「誤読されていた日本書紀」)を紹介している。結論部分を引用すると次のようであった。

『「郡評論争」により、既に大化改新の詔に文武の詔が混入されていることは明らかであり、この大化2年の記事も、天皇を持統、皇太子を文武に比定するならば、「皇祖大兄」は中大兄即ち天智であるといえるのである。』

 つまり中村さんはこの上奏文はヤマト王権の皇太子によるものと考えている。これを紹介した当時、私はまだ「大化の改新」については白紙の状態だったのでこの説を肯定的に捉えていた。しかし私は今は、この上奏文は九州王朝の皇太子によるものという正木裕さんの説(論文『「公地公民」と「昔在の天皇」』)を採っている。中村説を却けなければならない。正木さんの言うように「皇祖大兄」は「九州王朝の天子の伯父に類する立場の人物」であると考えるほかないだろう。

 その後気付いたことが一つある。「皇太子の奏上」は皇太子がヤマト王権の天皇(持統、大嘗祭を行っているので天皇と呼んでよいだろう)と直接対面して上奏したのではなく、「使を使して」間接的に上奏している。皇太子と持統は共に藤原宮にいたのではなく、二人は遠く離れたところにいた。このこともここの皇太子がヤマト王権の皇太子ではないことを示唆している。

 なお、この上奏文中の最も重要なキーワードである「昔在の天皇」については『「大化改新」の真相(10)』で、正木説の援用しながら検討をしている。参照してください。

 さて、その『「大化改新」の真相(10)』で取り上げたもう一つのポイントは、この上奏文中に引用されている現爲明神御八嶋國天皇がかつて皇太子に諮問したという文章『其れ群の臣・連及び伴造・國造の所有……猶古代の如くにして、置かむや不や』であった。それが「改新の詔:其の一」と類似していることから「改新の詔:其の一」が皇太子に下された諮問を意味するのでないかと考えた。「孝徳紀」に記録されている通りの順序で事が進んだとするとそれが一つの有力な仮説となるが、今は違う観点に立って考えている。それを述べる前に「改新の詔」を読んで置く。

(B)「改新の詔」
 二年の春正月の甲子の朔に、賀正禮(みかどおがみのこと)畢(をは)りて、即ち改新之詔を宣(のたま)ひて曰はく、
(部曲・田荘の廃止)
「其の一に曰はく、昔在の天皇等の立てたまへる子代の民・處處の屯倉、及び、別(こと)には臣・連・伴造・國造・村首(むらのおびと)の所有(たもて)る部曲の民・處處の田荘を罷めよ。仍りて食封(へひと)を大夫(まえつきみ)より以上に賜ふこと、各差有らむ。降りて布帛を以て、官人・百姓に賜ふこと、差有らむ。又曰はく、大夫は、民を治めしむる所なり。能く其の治(まつりごと)を盡(つく)すときは、民頼(かうぶ)る。故、其の祿(たまもの)を重くせむことは、民の爲にする所以なり。

(坊条京の制度・畿内の定義・郡制度の布告)
其の二に曰はく、初めて京師(みさと)を修(をさ)め、畿内國の司・郡司・關塞(せきそこ)・斥候(うかみ)・防人・驛馬・傳馬を置き、鈴契(すずしるし)を造り、山河を定めよ。凡そ京(みやこ)には坊毎に長一人を置け。四つの坊(まち)に令(うながし)一人を置け。戸口(へひと)を按(かむが)へ検(をさ)め、姧(かだま)しく非(あ)しきを督(ただ)し察(あきら)むることを掌れ。其の坊令(まちのうながし)には、坊の内に明廉(いさぎよ)く強(こは)く直(ただ)しくして、時の務(まつりごと)に堪ふる者を取りで充(あ)てよ。里坊(さとまち)の長(をさ)には、並(ならび)に里坊の百姓の清く正しく強誇(いさを)しき者を取りで充てよ。若し當(そ)の里坊に人無くは、比(ならび)の里坊に簡(えら)び用ゐること聽す。

凡そ畿内は東は名墾の横河より以來、南は紀伊の兄山(せのやま)より以來、〈兄、此をは制(せ)と云ふ。〉西は赤石の櫛淵より以夾、北は近江の狭狭波の合坂山(あふさかやま)より以來を、畿内國とす。

凡そ郡(こほり)は四十里(さと)を以て大郡(おほきこほり)とせよ。三十里より以下、四里より以上を中郡(なかつこほり)とし、三里を小郡(すくなきこほり)とせよ。其の郡司には、並びに國造の性(ひととなり)識(たましひ)清廉(いさぎよ)くして、時の務に堪ふる者を取りで、大領(こほりのみやつこ)・少領(すけのみやつこ)とし、強く[𠦝+夸](いさを)しく聰敏(さと)くして、書算(てかきかずとる)に工(たくみ)なる者を、主政(まつりごとひと)・ 主帳(ふびと)とせよ。凡そ驛馬・傳馬給ふことは、皆鈴・傳符の剋(きざみ)の數に依れ。凡そ諸國及び關には、鈴契(すずしるし)給ふ。並に長官執れ。無くは次官執れ。


(班田収授之法の制定)
其の三に曰はく、初めて戸籍(へのふみた)・計帳(かずのふみた)・班田収授之法(あかちだをさめづくるのり)を造れ。凡て五十戸を里とす。里毎に長一人を置く。戸口(へひと)を按(かむが)へ検(をさ)め、農桑(なりはひくは)を課(おほ)せ殖(う)ゑ、非違(のりにたがへる)を禁(いさ)め察(あきら)め、賦役(えつき)を催駈(うながしつか)ふことを掌れ。若し山谷(やまはさま)阻險(さが)しくして、地(ところ)遠(とほ)く人(ひと)稀(まれ)なる處には、便(たより)に隨ひて量りで置け。凡そ田は長さ三十歩、廣さ十二歩を段(きだ)とせよ。十段を町(ところ)とせよ。段ごとに租(たちから)の稲二束(つか)二把(たばり)、町ごとに租の稲二十二束とせよ。

(租庸調の改定)
其の四に曰はく、舊の賦役を罷めて、田の調を行へ。凡そ絹・絁・絲・綿は、並に郷土(くに)の出せるに随へ。田一町に絹一丈(つゑ)、四町にして匹(むら)を成す。長さ四丈、廣さ二尺(さか)半。絁二丈、二町にして匹を成す。長さ廣さ絹に同じ。布四丈、長さ廣さ絹・絁に同じ。一町にして端(むら)を成す。絲・綿の絇屯(めみせ)をば、諸の處に見ず。別に戸別の調(みつき)を収(と)れ。一戸に貲布(さよみのぬの)一丈二尺。凡そ調の副物(そはりつもの)の鹽と贄(にへ)とは、亦郷土の出せるに隨へ。

凡そ官馬(つかさうま)は、中(なかのしな)の馬は一百戸毎一匹を輸(いた)せ。若し細馬(よきうま)ならば二百戸毎に一匹を輸せ。其の馬買はむ直(あたひ)は、一戸に布一丈二尺。凡そ兵は、人の身ごとに刀・甲(よろひ)・弓・矢・幡・鼓を輸せ。凡そ仕丁は、舊の三十戸毎に一人せしを改めて、一人を以て廝(くりや)に充(あ)つ。五十戸毎に一人を、一人を以て廝に充つ。以て諸司に充てよ。五十戸を以て、仕丁一人が粮(かて)に充てよ。一戸に庸布(ちからしろのぬの)一丈二尺、庸米五斗。

凡そ采女は、郡の少領より以上の姉妹、及び子女の形容(かほ)端正(きたぎら)しき者を貢(たてまつ)れ。從丁(ともよほろ)一人、從女(ともめわらは)一人。一百戸を以て、采女一人が粮に充てよ。庸布・庸米、皆仕丁に准(なぞら)ヘ」とのたまふ。


 さて、(E)の諮問文は実際に下されたものを正確に転記したと考えてよいだろう。もしそう考えるのが不当でないなら、(B)の「其の一」が皇太子にに下された諮問文と考えるのは間違いということになる。

 私は詔勅(B)は他の諸詔勅や直談判などを通して行われた九州王朝とヤマト王権との間での交渉結果の集大成と考えている。そうすると「孝徳紀」の順序とは異なり、先に

『其れ群の臣・連及び伴造・國造の所有る、昔在の天皇の日に置ける子代入部、皇子等の私に有てる御名入部、皇祖大兄の御名入部及び其の屯倉、猶古代の如くにして、置かむや不や』

という諮問があった。背後には圧倒的な武力の差があったことだろう。九州王朝は渋々ながら、それを全面的に受け入れるほかなかった。人事権・国制制度・財政基盤など、すべてヤマト王権の手中に収まることとなった。ヤマト王権は堂々と全国に向かって宣言をした。

「昔在の天皇等の立てたまへる子代の民・處處の屯倉、及び、別には臣・連・伴造・國造・村首の所有る部曲の民・處處の田荘を罷めよ。」

 詔勅(B)はヤマト王権の勝利宣言であった。この詔勅が後の大宝律令の骨格となった。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(212)

「天武紀・持統紀」(127)


「大化改新」の真相(49)
「東国国司への詔」の復習


 私は「品部の廃止」以外の国制に関する諸詔勅は「持統紀」にあったものと考えている。これまでいろいろと試行錯誤を重ねてきたが、その実年代比定に再挑戦してみよう。対象になる詔勅は次の五つの詔勅である。(「孝徳紀」に出現する順。)

(A) 「東国国司発遣の詔」大化元年8月5(庚子)日
『「大化改新」の真相(4)』に全文の現代語訳あり。)

(B) 「改新の詔」大化2年正月1(甲子)日
『「大化改新」の真相(1)』に全文の現代語訳あり。)

(C) 「東国国司賞罰の詔」大化2年3月2(甲子)日

(D) 「朝集使の報告による査定の詔」大化2年3月19(辛巳)日

(E) 「皇太子の奏上」大化2年3月20(壬午)日
『「大化改新」の真相(8)』に全文の現代語訳あり。)

 (A)(C)(D)を一括して「東国国司への詔」と呼ぶことにする。

 さて、是までの議論をふまえて、次の2点を実年代比定の基本方針とする。

 「持統紀」の中の記事と該当詔勅のそれぞれの内容を勘案して、最もふさわしいと考えられる位置を探す。

 日付を表す干支日がはっきりしている場合はその干支日に置く。

 私(たち)は、(C)(D)以外は現代語訳でそれぞれの内容のあらましを既に知っているが、重複をいとわず今度は読下し文で読み、再度各詔勅のキーワードを検討しよう。言わば読下し文による復習です。(ただし(D)は恐ろしく長いので冒頭と必要な部分のみとする。)

 まず「東国国司の詔」。

(A)「東国国司発遣の詔」
 八月の丙申の朔庚子に、東國等の國司を拝す。仍りて國司等に詔して曰はく、
「天の奉(う)け寄(よさ)せたまひし随(まま)に、方(まさ)に今始めて萬國(くにぐに)を修(をさ)めむとす。凡そ國家(あめのした)の所有(たもて)る公民(おほみたから)、大(おほ)きに小(いささけ)きに領(あづか)れる人衆(ひとども)を、汝等(いましたち)任(まけどころ)に之(まか)りて、

(a 造籍・校田)
皆戸籍(へのふみた)を作り、及(また)田畝(たはたけ)を校(かむが)へよ。其れ薗池水陸の利(くほさ)は、百姓と供(とも)にせよ。
(b 裁判権剥奪)
國司等、國に在りて罪を判(ことわ)ること得じ。
(c 賂・収奪の禁)
他(ひと)の貸賂(まひなひ)を取りて、民を貧苦に致すこと得じ。
(d 馬・食使用の制限)
京に上らむ時には、多(さわ)に百姓を己に從ふること得じ。唯國造・郡領をのみ從はしむること得む。但し、公事を以て往來(かよ)はむ時には、部内(くにのうち)の馬に騎(の)ること得、部内の飯(いひ)喰(くら)ふこと得。
(e 褒賞・罪科のこと)
介(すけ)より以上、法を奉(う)けたらば、必須(すべから)くは褒め賞(たまもの)せよ。法に違はば、當に爵位(かがふりのくらい)を降(くだ)さむ。判官(まつりごとひと)より以下、他の貸賂を取らば、二倍して徴(はた)らむ。遂に軽さ重さを以て罪科(つみおほ)せむ。
(f 従者の制限)
其の長官(かい)に從者(よもならむひと)は九人。次官に從者は七人。主典(ふびと)に從者は五人。若し眼(かぎり)に違(す)ぎて外に將(い)たらむ者は、主(きみ)と從(とも)ならむ人と、並に當に罪科せむ。
(g 不法領有主張の申告)
若し名を求むる人有りて、元(はじめ)より國造・伴造・縣稱置に非ずして、輙(たやす)く詐(いつは)り訴ヘて言(まう)さまく、『我が祖の時より、此の官家(みやけ)を領(あづか)り、是の郡縣(こほり)を治む』とまうさむは、汝等國司、詐の隨に便(たやす)く朝(みかど)に牒(まう)すこと得じ。審(つばひらか)に實(まこと)の状(かたち)を得て後に申すべし。
(h 武器の扱い)
又、閑曠(いたづら)なる所に、兵庫(つはものぐら)を起造(つく)りて、國郡の刀・甲(よろひ)・弓・矢を収め聚め、邊國(ほとりのくに)の近く蝦夷と境接(まじは)る處には、盡に其の兵(つわものそなへ)を数へ集めて、猶本主(もとのあるじ)に假(あづ)け授(たま)ふべし。
(i 倭6県の造籍・校田)
其れ倭國(やまとのくに)の六縣に遣さるる使者、戸籍を造り、幷て田畝を校ふべし。〈墾田(はりた)の頃畝及び民の戸口(へひと)の年紀(とし)を検覈(あなぐ)るを謂ふ。〉
汝等國司、明に聽(うけたまは)りて退(まか)るべし」とのたまふ。即ち帛布(きぬ)賜ふこと、各差有り。


 この詔勅を下す対象者は「東國」とあるように東国国司だけでない。本文中に出てくるように倭6県の国司も同席している。また、これは当然のことと思うが、「國司」とあるように他の廷臣も同席している。

 「倭6県」の国司たちへの命令は(a)だけであり、(b)~(h)までの細かい規定は東国国司たちだけに下されている。その理由は『「大化改新」の真相(7)』で推測した以上のことを私は思いつかない。東国国司たちは一度派遣されたが、その時の東国国司たちの業績にヤマト王権にとって大いに不満足な点があったので再派遣されることになった。一種の恫喝である。

 次は「東国国司賞罰の詔」。この詔勅を全文掲載するのはこれが初めてである。

「東国国司賞罰の詔」
三月の癸亥の朔甲子に、東國の國司等に詔して曰はく、
「集侍(うごなはりはべ)る群卿大夫(まへつきみたち)及び臣・連・國造・伴造、幷て諸の百姓等、咸(ことごとく)に聽(うけたまは)るべし。夫(そ)れ天地の間に君として萬民を宰(をさ)むることは、獨り制(をさ)むべからず。要(かなら)ず臣の翼(たすけ)を須(もち)ゐる。是に由りて、代代の我が皇祖等(すめみおやたち)、卿(いまし)が祖考(みおや)と共に倶(とも)に治めたまひき。朕(われ)もの護(まもり)の力を蒙(かうぶ)りて、卿等と共に治めむと思欲(おも)ふ。故、前(さき)に良家(たかきいへ)の大夫(まへつきみ)を以て、東(あづま)の方(かた)の八道(やつのくに)を治めしむ。既にして國司任(まけどころ)に之(まか)りて、六人は法(のり)を奉(うけたまは)り、二人は令(のり)に違ヘり。毀譽(そしりほまれ) 各(おのおの)聞(きこ)ゆ。朕便ち厥(か)の法奉るを美(ほ)めて、斯(こ)の令に違へるを疾(にく)む。凡そ治めむとおもはむ者(ひと)は、君も臣(やつこらま)も、先(ま)づ當(まさ)に己を正しくして、後に他(ひと)を正せ。如(も)し自ら正しくあらずは、何ぞ能く人を正さむ。是を以て、自ら正しくあらざる者は、君臣と擇(えら)ばず、乃ち殃(わざはひ)を受くべし。豈愼(つつし)まざらむや。汝(いましたち)率(したが)ひて正しくは、孰(たれ)か敢へて正しくあらざらむ。今前の勅に随ひて處(おこな)ひ斷(さだ)めよ」とのたまふ。


 「良家の大夫」の名前は次の「朝集使の報告による査定の詔」に出てくる。その名前とそこから読み取れることも『「大化改新」の真相(7)』で書いた。ポイントは、「良家の大夫」にもかかわらず、しかも『日本書紀』編纂時からたった30年ほど前なのに、全31名中10名もの〈名を闕(もら)せり〉がいたことだった。この不審点から、この詔勅の国司はもともと九州王朝が任命していた国司であったと推測したのだった。

 その後、「東の方の八道」について考えるところがあった。「あづまの国」について調べたときの副産物である。

 〈大系〉の頭注は「類例に東山道15国(景行55年条)、東方諸国造12氏(高橋氏文)がある。ここは東国を八つにわけ、その各々に一組ずつ国司を遣わしたこと」と述べている。「高橋氏文」が何のことか私には分らないが、〈大系〉は「東の方」を文字通り大和の「東の方の国」ととっているようだ。例えば、『「大化改新」の真相(9)』で取り上げたように山尾幸久氏は次のように述べている。

「「こんな一大権力事業を、北陸の他に静岡・長野から福島までの広域において、八グループが四、五ケ月程度で完遂できるか。とんでもないことだと思う。」

 かなりの広域を念頭に置いている。そうすると国司一人の担当区域は複数の国を含むことになる。これでは確かに一大事業だ。しかし、一つの国に遣わしたのではないのに「国司」と呼ぶだろうか。

 私は古訓が「やつのくに」と訓じているのを素直にとって「あづまの国」だと考えた。『続日本紀』に「坂東九国」(神亀元年4月14日条に一回だけ)と「坂東八国」(初出:天平宝字3年9月27日、全6回)という概念が使われている。これについて〈大系〉の頭注は次のように述べている。

「「足柄岳坂」(常陸国風土記)より東の相模・安房・上総・下総・常陸(以上東海道)、上野・武蔵・下野(以上東山道)の八国。天平宝字三年九月庚寅条以下はみな「坂東八国」。ここに「坂東九国」とあるのは東海道に伊豆、または東山道に陸奥を加えたためか、九は八の誤写か、未詳。」

 坂東八国は持統期の「あづまの国」と同じ概念ではないだろうか。つまりこの詔勅で言う「東の方の八道」とは「あづまの国(上野国、下野国、常陸国、武蔵国、相模国、下総国、上総国、安房国)」を指している。

「朝集使の報告による査定の詔」
辛巳に、東國の朝集使(まうでうごなはるつかい)等に詔して曰はく、
「集侍る群卿大夫及び國造・件造、幷て諸の百姓等、咸に聽るべし。去年の八月を以て、朕親(みづか)ら誨(をし)ヘて曰ひしく、『官(つかさ)の勢(いきはひ)に因(よ)りて、公私(おほやけわたくし)の物を取ること莫(まな)。部内の食を喫ふべし。部内の馬に騎るべし。若し誨ふる所に違はば、次官より以上をば、其の爵位を降し、主典より以下をば、笞杖定めむ。己に入れむ物をば、倍へて徴れ』とのたまひき。詔既に斯の若し。今朝集使及び諸の國造等に問ふ、國司任に至りて、誨ふる所を奉るや不やと。是に、朝集使等、具に其の狀(かたち)を陳(まう)さく、……


 以下、朝集使の申告に従って東国国司たち31人一人一人の賞罰の言い渡しが長々と続き、「罰しないわけにはいかない」と宣言する。それに続けて次のように特赦を言い渡す。『「大化改新」の真相(9)』でも取り上げたように、この段に実年代比定にあたってのキーワードがある。赤字で示した。

……念(おも)ふこと是(かく)の若しと雖も、(a)
始めて新しき宮に處(を)りて、將に諸のに幣(みてぐら)たてまつらむとおもふこと、今歳(ことし)に屬(あた)れり。
(b)
又、農(なりはい)の月にして、民(おほみたから)を使ふ合(べ)からざれども、新(にひ)しき宮を造るに縁(よ)りて、固(まこと)に巳(や)むこと獲(え)ず。
 深く二つの途(みち)を感(かま)けて、天下(あめのした)に大赦(おほきにつみゆる)す。今より以後、國司・郡司、勉(つと)め勗(つと)めよ。放逸(あだめきわざ)すること勿(まな)。使者を遣して、諸國の流人、及び獄(ひとや)の中の囚(とらへびと)、一(とも)に皆放捨(ゆる)せ。……




 「東国国司の詔」の実年代を比定するに当たって、この二条件(a)(b)が難題になっている。『「大化改新」の真相(9)』でも大いに悩んだ。いまも悩んでいる。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(211)

「天武紀・持統紀」(126)


「大化改新」の真相(48)
「品部の廃止」詔は天武期にあった?


 『日本書紀』編纂者は、古田さんの言葉を借りれば、『「7世紀初頭から7世紀末まで」の詔勅群を一括して』「類集」のように「孝徳紀」に集めている。これには異論はないだろう。

 それでは『日本書紀』編纂者は複数の詔勅を集めて一つの詔勅に見せかけるような離れ業を使った、と私が言ったら、どんな反応が返ってくるだろうか。そこまで「大胆にして露骨、そし不器用」(これも古田さんの言葉)な造作をするだろうか。「否」。たぶん誰も首を縦に振ることはないだろう。しかし、私にはどうしてもそうとしか思えない詔勅があるので、これも一つの仮説(「複合詔勅」と呼ぶことにする)として提出しておこう。

 『古田説の検討(10):「東国」問題(7)』で書いたように、「複合詔勅」ではないかと疑った一つが「薄葬令・旧俗の廃止」の詔だった。私の検証が正しければ、九州王朝とヤマト王権の詔勅を複合したというとんでもない離れ業を行ったことになる。

 次に「複合詔勅」ではないかと疑ったのは「品部廃止の詔」である。ちょっと大胆すぎる仮説になるが、
『これは、「改新の詔」に集大成されていく詔勅のうち、天武が発布したものを複合したものである』。
 以下はそれの検証ということになる。

 「品部廃止の詔」の内容については『「品部廃止の詔」をめぐって(1)~(10)』でかなり詳しく検討している。全体が四段に分けられるが、第一段(序文)と第二段(品部の廃止)をまとめて一つとすれば、三つの詔勅に分けられる。

①「第一・二段:品部の私有廃止」
②「第三段:位階・冠位の返上と新規の叙任を布告」
③「第四段:国司発遣」

 詔の発布日「秋八月の庚申の朔癸酉」は①に使われた日付ということになろう。従って②・③の発布日の日付は不明であり、その内容によってもとの位置を考えるほかない。この三詔勅を「天武紀」の中に置いてみよう。

 壬申の乱を制した天武は九州王朝を圧倒する武力の増強・整備をも怠らなかった。

675(天武4)年3月16日
庚申に、諸王四位栗隈王を兵政官長(つはもののつかさのかみ)とす。小錦上大伴連御行を大輔(たいふ)とす。

675(天武4)年10月20日
庚寅に、詔して曰はく、「諸王より以下、初位より以上、人毎に兵を備へよ」とのたまふ。

 自らの実力に自信を持った天武は
683(天武12)年正月18日
 九州王朝からの独立宣言する。

 そしてさらなる軍備の増強・整備。

684(天武13)年閏4月5日
又詔して日はく、「凡そ政要は軍事なり。是を以て、文武官の諸人も、務めて兵を用ゐ、馬に乗ることを習へ。則ち馬・兵、幷て當身(みみ)の装束の物、務めて具(つぶさ)に儲(そな)へ足せ。其れ馬有らむ者をば騎士とせよ。馬無からむ者をば歩卒とせよ。並に當(まさ)に試練(ととの)へて、聚り曾(つど)ふに障ること勿(まな)。若し詔の旨に忤(たが)ひて、馬・兵に不便(もやもやあらぬこと)有り、亦装束闕(か)くること有らば、親王より 以下、諸臣に逮(いた)るまでに、並に罰(かむが)へしむ。大山位より以下は、罰ふべきは罰へ、杖(う)つべきは杖たむ。其れ務め習ひて能く業を得む者をば、若し死罪と雖(いふと)も、二等を減らさむ。唯し己が才に恃(よ)りて、故(ことさら)に犯さむ者のみは、赦す例(かぎり)に在らず」とのたまふ。

 圧倒的な武力を背景に、天武はついに姓・冠位の人事権を獲得する。天武はヤマト王権に帰順した諸王・諸臣に位階・官位の返上と新規の叙任を布告する。

第三段
祖子より始めて、奉仕(つかへまつ)る卿大夫(まへつきみたち)・臣・連・伴造・氏氏(うぢうぢ)の人等、〈或本に云はく、名名(なな)の王民(おほみたから)といふ。〉咸(ことごとくに)に聽聞(うけたまは)るべし。今汝等(いましたち)を以て、使仕(つか)ふべき狀(かたち)は、舊(もとの)の職(つかさ)を改去(す)てて、新(あらた)に百官(もものつかさ)を設け、位階(くらゐのしな)を著(あらは)して、官位(つかさくらゐ)を以て敍けたまはむ。

684(天武13)年10月1日
 「八色の姓」・真人の賜姓。


685(天武14)年正月21日
 冠位制制定・皇子たち初め諸王・諸臣に冠位授与。

 ヤマト王権傘下の国々の引き締め・結束を図る施策も実行する。

685(天武14)年9月11日
甲寅に、宮處王・廣瀬王・難波王・竹田王・彌努王を京(みさと)及び畿内(うちつくに)に遣して、各人夫(おほみたから)の兵を枚(かむが)へしめたまふ。

685(天武14)年9月15日
戊午に、直廣肆都努朝臣牛飼を東海使者とす。直廣肆石川朝臣蟲名を東山使者す。直廣肆佐味朝臣少麻呂を山陽使者とす。直廣肆巨勢朝臣粟持を山陰使者とす。直廣参路真人迹見を南海使者とす。直廣肆佐伯宿禰廣足を筑紫使者とす。各判官一人・史(ふびと)一人、國司・郡司及び百姓の消息を巡察(み)しめたまふ。

685(天武14)年11月4日
丙午に、四方の國に詔して曰はく、「大角(はら)・小角(くだ)・鼓・吹(ふえ)・幡旗(はた)、及び弩(おほゆみ)・抛(いしはじき)の類は、私の家に存(お)くべからず。咸(ことごとく)に郡家に収めよ」とのたまふ。

 巡察使派遣の記事について、〈大系〉の頭注は「ここに北陸道が欠けている理由は未詳」と言っているが、まだ北陸道全体を掌握できていなかったためだろう。また筑紫については「西海道。九州の総称」と言うが、これはつじつま合わせのご都合解釈でしかない。「九州全体」という意味で「筑紫」を用いる例がほかにあるのどうか私は知らないが、ここでは、なぜ他の地域と同じように「西海道」と書かないのだろうか、と問うべきなのだ。九州は九州王朝の管轄地である。たぶん筑紫への使者の目的は他の使者とは異なり、九州王朝への外交文書を携えて行ったのではないだろうか。

 このときの巡察結果に基づき、有功者に冠位が授与されている。

686(朱鳥元)年2月5日
乙亥に、勅(もことのり)して、諸の國司の有功者九人を選びて、勤位を授けたまふ。

 褒められた者がいれば、おしかりを受けた者もいるはずだ。一応国司は全員集められていた。そこで「第四段:国司の発遣」となる。

第四段
今發て遣す國司、幷て彼(そ)の國造、以(ここをも)て奉聞(うけたまは)るべし。
去年朝集(ちょうしゅう)に付(つ)けし政(まつりごと)は、前(さき)の處分(ことわり)の隨(まま)にせむ。
収め數ふる田を以ては、均しく民(おほみたから)に給へ。彼と我と生(な)すこと勿れ。凡そ田給(たま)はむことは、其の百姓の家、近く田に接(つ)けたらむときには、必ず近きを先とせよ。
此(かく)の如くに宜たまはむことを奉(うけたまは)れ。
凡そ調賦(みつき)は、男の身の調(みつき)を収むべし。
凡そ仕丁(つかへのよほろ)は、五十戸毎に一人。
國國の壃堺(さかひ)を觀て、或いは書にしるし或いは圖をかきて、持ち來(まゐ)りて示(み)せ奉(まつ)れ。國縣の名は、來(まうこ)む時に將に定めむ。
 國國の堤築(つ)くべき地(ところ)、溝穿(ほ)るべき所、田墾(は)るべき間(ところ)は、均しく給ひて造らしめよ。
當(まさ)に此の宣(の)たまふ所を聞(うけたまは)り解(さと)るべし。


 「去年朝集に付けし政」とは前年派遣された巡察使者たちによって伝えられ行われた事績を指しているのだろう。

686(朱鳥元)年5月24日
癸亥に、天皇、始めて體不安(あつし)れたまふ。因りて、川原寺にて、藥師經を説かしむ。宮中に安居(あんご)せしむ。

686(朱鳥元)年7月15日
癸丑に、勅して曰はく、「天下の事、大小問はず、悉に皇后及び皇太子に啓(まう) せ」とのたまふ。

 持統・草壁に政務を代行させるほど、天武の病は思わしくなかった。生あるうちにヤマト王権の権力を万全なものにしておきたかった。そのための施策の一つが「品部の廃止」であった。

686(朱鳥元)年8月5(癸酉)日
原(たずね)れば夫(そ)れ天地陰陽、四時(よつのとき)をして相亂れしめず。惟(おもひみ)れば此(これ)天地(あめつち)、萬物(よろづのもの)を生(な)す。萬物の内に、人是最も靈(くしひ)なり。最も靈なる間に、聖(ひじり)人主(きみ)たり。是を以て、聖主(ひじり)の天皇、天に則(のと)り御寓(あめのしたをしろしめ)して、人の所(ところ)獲(え)むことを思ほすこと、暫(しましく)も胸(こころ)に廢(す)てず。
而るに王(きみ)の名名(みなみな)に始めて、臣・連・伴造・國造、其の品部(しなじなのとものを)を分ちて、彼の名名(なな)に別く。復、其の民と品部とを以て、交雑(まじ)りて國縣(くにこほり)に居(はべ)らしむ。遂に父子(おやこ)姓を易(か)へ、兄弟(はらから)宗異(こと)に、夫婦(をうとめ)更互(かはるがはるたがひ)に名(な)殊(こと)ならしむ。一家(ひとついえへ)五(いつ)つに分れ六つに割(さ)く。是に由りて、爭(あらそ)ひ競(きほ)ふ訟(うたへ)、國に盈ち朝(みかど)に充てり。終に治れることを見ずして、相亂るること彌(いよいよ)盛なり。粤(ここ)に、今の御寓天皇(あめのしたしらすすめらみこと)より始めて、臣・連等に及(いた)るまでに、所有(たもて)る品部は、悉に皆罷(や)めて、國家(おほやけ)の民とすべし。
其の王(きみ)の名を假借(か)りて伴造とし、其の祖(おや)の名に襲據(よ)りて臣・連とす。斯等、深く情(こころ)に悟らず、忽(にはか)に若是(かく)宜(の)る所を聞きて、當(まさ)に思ふらまく、『祖の名、借れる名滅(き)えぬ』とおもふらむ。是に由りて、預(あらかじ)め宣べて、朕(わ)が懐(おも)ふ所を聽き知らしめむ。
王者(きみ)の児(みこ)、相續(つ)ぎて御寓(あめのしたしら)せば、信(まこと)に時の帝(きみ)と祖皇(みおや)の名と、世(よよ)に忘らるべからざることを知る。而るを王(きみ)の名を以て、軽(かろかろ)しく川野(かはの)に掛けて、名を百姓(おほみたから)に呼ぶ、誠に可畏(かしこ)し。凡そ王者(きみ)の號(みな)は、將に日月(ひつき)に隨ひて遠く流れ、祖子(みこ)の名は、天地と共に長く往くべし。如是(かく)思ふが故に宣(の)たまふ。


 「今の御寓天皇より始めて」と、あからさまに九州王朝の資産まで剥奪しようとしている。

686(朱鳥元)年8月13日
是の日に、皇太子・大津皇子・高市皇子に、各封四百戸を加(ま)したまふ。川嶋皇子・忍壁皇子に、各百戸を加したまふ。

686(朱鳥元)年8月15日
癸未に、芝基皇子・磯城皇子に、各二百戸を加したまふ。

 死を目前にして、ヤマト王権内での皇子たちの立場を盤石なものにするための増封だろう。

686(朱鳥元)年9月9日
丙午に、天皇の病、遂に差(い)えずして、正宮(おほみや)に崩りましぬ。

 天武の死により、たぶん「品部の廃止」は実行されなかった。九州王朝の財産剥奪は持統に受け継がれることになる。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(210)

「天武紀・持統紀」(125)


「大化改新」の真相(47)
天武期の冠位制について


 「冠位制の変遷(3)」 で、「冠位制(5)」(天武期の冠位制)について私は次のように書いた。

「この冠位はヤマト王権自前の初めての冠位制と言ってよいだろう。九州王朝の権力の衰退ぶりを示す証左の一つである。九州王朝からヤマト王権への権力移行の合意ができたのはこの頃だったかも知れない。」

 これに対してさっそく「ブログに期待する一市民」さんから次のようなコメントを頂いた。

 天武14年の冠位改定ですが、岩波書紀の注釈は「ただし明位の実例は存しない」としています。

 そうかもしれませんが逆に「明位の授冠は当然あったが書紀では都合が悪いのでカットされた」とは考えられませんか。

 大宝元年の近畿天皇家の制で明位は「親王」、諸王が「浄冠」ですから、天武14年(九州年号朱雀2年)で草壁皇子以下皆「浄冠」である近畿天皇家は「諸王」であり、「冠位を制定した王朝」の「親王」はいなかった。

 即ちこの時点では未だ九州王朝が名目上の権力を握っていた、明位は九州王朝の親王に与えられたが書紀編集時点で削除されたと。「与えもしない冠位を造った」のか「冠位はちゃんと与えられたが書紀から削除された」、どちらが合理的な考えでしょうか。

 ちなみに天武は八色の姓で「臣下」の最上位の「真人」を名乗っています。

 天武の「真人」については『「八色の姓」をめぐって(1)』ですでに私の見解を述べた。今回は冠位制(5)についての私の見解を述べよう。

 「明位の実例は存しない」という頭注は私も読んで承知していた。「一市民」さんと同じように、「明位」を授与された者の氏名が削除されたのではないか、という疑問をもった。しかし、もしそうだとしてもこの冠位はやはりヤマト王権のものであると考える。

 草壁皇子尊―浄廣壹位、大津皇子―浄大貳位、高市皇子―浄廣貳位、川嶋皇子・忍壁皇子―浄大参位という冠位授与が行われている。この記録まで疑うのなら別だが、私はそこなでは疑えない。これが記録どおりの事実だとすると、この事実が冠位制(5)がヤマト王権のものである証拠となる。

 もしもこの冠位の授与者が九州王朝だとすると、上の各皇子たちへの授与はおかしいことになる。なぜなら九州王朝から見れば、ヤマト王権の王子たちは王でも皇子でもなく、あくまでもヤマト大王(天智・天武)の王子でしかない。つまり彼らは授与の対象者ではない。

 もう一つ、「八色の姓」の賜姓者は天武だという仮説が正しいとすると、「姓」の賜姓権を得ながら、冠位授与権には関心を持たなかったとは考えがたい。当然官僚制度も独自なものに改革しようと考えたのではないだろうか。「八色の姓」と冠位制(5)関係の記事を並べてみよう。

684(天武13)年10月1日
 「八色の姓」制定。
 「真人」賜姓。
684(天武13)年12月2日
 「朝臣」賜姓
685(天武14)年正月21日
 冠位制制定。
 皇子・諸王・諸臣に授与。
685(天武14)年6月20日
「忌寸」賜姓。

 賜姓と新冠位授与をほとんど同時に遂行している。

 さらにもう一つ、冠位制(5)が九州王朝のものならば、権力の移行がより確実となったと思われる持統期(大嘗祭挙行後)にさっそく自前の冠位制を制定してもよさそうだが、冠位(5)の授与は文武4年まで(大宝律令制定まで)続いている。685(天武14)年段階では若すぎたので冠位を授与されなかった皇子たちも授与されている。皇子たちへの冠位授与記事を拾ってみよう。

693(持統7)年正月2日
春正月の辛卯の朔壬辰に、浄廣壹を以て、皇子高市に授けたまふ。浄廣貳を以て、皇子長と皇子弓削に授けたまふ。

 高市皇子は690(持統4)年7月5日に太政大臣になっている。皇太子並に期待されている。長皇子・弓削皇子と同階級というわけにはいかない。2階級昇進している。

695(持統9)年正月5日
春正月の庚辰の朔甲申に、浄廣貳を以て、皇子舍人に授けたまふ。

700(文武4)年正月7日
春正月の丁巳に、新田部皇子に浄廣貳を授けたまふ。

 持統期以降にも冠位制(5)による皇子たちへの冠位授与をなんら抵抗感なしに行っている。もともと自前の冠位制だったからではないだろうか。

 では「明位」が空席なのはどうしてだろうか。確かに不可解ではあるが、文献上の手掛かりは何もないのだから、「分からない」と言うほかない。記録の通り明位は空位だったとするほかないように思うが、あえて想像をたくましくしてみよう。

 九州王朝との合意なしに冠位制(5)を施行したとすると、九州王朝では冠位制(4)を用い、ヤマト王権は冠位制(5)を用いたことになる。冠位は一代限りのものとはいえ、相互の外交関係は頻繁に行われたであろうから、これでは双方にとって何かと不都合であろう。「八色の姓」は九州王朝のものを踏襲した代償に、冠位制はヤマト王権のものに統一したのではないだろうか。もちろん、「八色の姓」の賜姓も冠位授与もそれぞれの勢力範囲内で別々に行っていた。

 その合意のとき最上位の「明位」は九州王朝の皇族の指定席にする合意があった。例えば、せめて皇太子・草壁皇子や太政大臣になった高市皇子には「明位」を授与してもよさそうなのに、そのようになっていない。これはその合意のためではないか。その「明位」にあった氏名を九州王朝隠しのため『日本書紀』編纂時に削除した。(ちょっと苦しいかな。)
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(209)

「天武紀・持統紀」(124)


「大化改新」の真相(46)
「八色の姓」をめぐって(3)


 仮説2の検証を試みよう。その際、「八色の姓」で使われている姓名の中で「宿禰・臣・連・稲置」は古くから称号・職名などとして用いられていたので、旧来の称号・職名なのか「八色の姓」なのかを見極める必要がある。特に「臣・連」は「八色の姓」では第6・7位に置かれているが、旧来は大伴連・物部連・中臣連・小野臣・阿倍臣など有力豪族・高級官吏・将軍などの称号として用いられている。

 「八色の姓」の賜姓は当日の「真人」の賜姓に続けて684(天武13)年12月1日に「朝臣」を52氏に授与している。被授与者はすべて「君」または「臣」と呼ばれている氏族である。ここの「臣」は当然旧来から使われている称号である。〈大系〉は「君=豪族」・「臣=雄族」という区別をしている。

 次の賜姓は12月2日で宿禰を50氏に授与している。そのときの対象者は一人(諸會臣)を除いてすべて「連」である。この場合の「連」は明らかに「かばね」の「むらじ」だ。一気に四段階上がったことになる。

 最後の賜姓は忌寸で11氏に授与している。その時期はちょっと離れて685年(天武14)年6月20日である。対象者は10名が「連」で、一名だけ「大隅直(あたひ)」がいる。「直」は「八色の姓」以前の「連」賜姓記事にも多出していたが、「直」とはなんだろうか。472年(雄略16年10月条に次のような記事がある。

冬十月に詔して、「漢部を聚(つど)へて、其の伴造の者を定めよ」とのたまへり。姓を賜ひて直と曰ふ。〈一に云ふ。賜ふとは、漢使主(あやのおみ)等に、姓を賜ひて直と曰ふぞ。〉

 このように「直」とは民部・品部などの伴造(統括者)に授与した姓である。また『続日本紀』713(和銅6)年4月3日条に「夏四月の乙未に、……日向国から肝坏(きもつき)・贈於(そお)・大隅・姶[ネ羅](あいら)四郡を割ひて。始めて大隅国を置く。」とある。天武の頃、大隅は日向国の一つの評だった。「大隅直」は「直」という姓の意味から考えても、まさか評督ではあるまい。大隅の中の民部か品部の伴造であろう。大隅の伴造の中にヤマト王権への帰順者がいたということになる。

 さて、仮説2の検証だが、その方法としては被授与者の分析しかないだろう。〈大系〉では一人一人の系譜を調べ上げているが、系譜は全てを近畿天皇家に係累させる政治的造作が行われているのでほとんど役に立たない。実際にその系譜では、例えば「武内宿禰の子某の後」がわんさか出てくる。

 〈大系〉は一部の被授与者については系譜のほかに本貫や本拠地も記している。本貫や本拠地は有効な情報だと思う。ただし、宿禰や忌寸の被授与者は「土師連」「漆部連」など品部の名前で名乗る者もいて本貫や本拠地の比定は難しい。調べる価値があるのは朝臣の被授与者だけだろう。〈大系〉の記録で欠けているのもをできるだけ補充しながら検討してみよう。(吉田茂樹編著『日本古代地名事典』を用いる。出典がこの事典の場合〈事典〉、〈大系〉の頭注・補注を用いた場合は〈大系〉と付記する。いずれの場合も和名抄からの引用であることがはっきりしている場合は〈和名抄〉と付記した。同音の地名が複数ある場合は、私の判断で「らしい」方を選んだ。付記なしは私の推測。)

大三輪君
 大和磯城地方の豪族。〈大系〉
大春日臣
 大和国添上郡春日郷。〈和名抄〉
阿倍臣
 あの阿倍引田臣比羅夫と同族なら本拠地は越国。
巨勢臣
 大和国高市郡巨勢郷。〈和名抄〉
膳臣
 ?(和名抄によると播磨国に柏野郷・柏原郷がある。ここを本貫とするか。〈大系〉)
紀臣
 『和名抄』山城国に「紀伊郡」で見えるが、『欽明即位前紀』に「紀郡」(きのこほり)で初見し、京都市伏見区、南区を中心とする地域をいう。また、山城国風土記逸文に「許之国(このくに)」とあって、当初は宇治郡も含んだ地域であった。「き(木)」の郡とみられる。〈事典〉
波多臣
 大和国武市郡波多郷。〈和名抄〉
物部連
 言わずと知れた古来の豪族。
平群臣
 安房国平群郡〈和名抄〉
雀部(さざきべ)臣
 ?
中臣連
 古来の豪族。
大宅臣
 大和国添上郡大宅郷〈和名抄〉
粟田臣
 山城国愛宕郡上栗田・下栗田郷〈和名抄〉
石川臣
 『和名抄』河内国に「石川郷」とあるが、『続紀』慶雲三年(七〇六)の「石河郡」が郡名の初見。〈事典〉
桜井臣
 河内国河内郡桜井郷。〈和名抄)
 蘇我氏の同族。〈大系〉
采女臣
 ?。物部氏系の氏族〈大系〉。
田中臣
 讃岐国三木郡郡田中郷。〈和名抄〉
 蘇我氏の同族。〈大系〉
小墾田臣
 小墾田は大和国高市郡の地名。蘇我氏の同族。〈大系〉
穂積臣
 美濃国本巣郡穂積郷。〈和名抄〉
 物部氏系の氏族。〈大系〉
山背臣
 加賀国江沼郡山背郷。〈和名抄〉
 氏族としての由来は未詳。〈大系〉
鴨君
 『平城宮木簡』に大和国の「葛城上郡賀茂里」とあり、『神名帳』大和国葛上郡に「鴨都披八重事代主命神社二座」や「鴨山口神社」が見える。〈事典〉
小野臣
 小野は近江国の地名かという。〈大系〉
 『日後紀』大同元年(806)に山城国の「小野」で見え、京都市山科区小野かと見られ、一説に「小野の小町」の出身地という。〈事典〉
川辺臣
 摂津国川辺郡〈和名抄〉
 蘇我氏の同族。〈大系〉
櫟井(いちい)臣
 櫻井は大和国添上郡の地名。今、奈良県天理市轢之本付近。〈大系〉
柿本臣
 大和国添上郡を本拠とする氏族。〈大系〉
軽部臣
 続紀、天平勝宝三年二月条には巨勢男柄宿禰の子伊刀宿禰の後裔とある。〈大系〉
若桜部臣
 膳臣の同族。〈大系〉
岸田臣
 蘇我氏の同族。岸田村は大和国山辺郡の地名。〈大系〉
高向臣
 石川と同氏。〈大系〉
宍人(ししひと)臣
 宍人部(獣肉の調理にあたる品部)の伴造。阿倍朝臣と同祖。〈大系〉
来目臣
 『和名抄』伊予国に「久米郡」で見えるが、『藤原宮木簡』に「久米評」で初見。〈事典〉
 蘇我氏の同族。〈大系〉
犬上君
 犬上は近江国の地名。〈大系〉
上毛野君
 おなじみの上毛野国の王。本拠地は今の群馬県。
角(つの)臣
 『和名抄』近江国高島郡に「角野郷」、『神名帳』に「津野神社」で見え、滋賀県高島市今津町構(かまえ)の周辺かという。「角朝臣」一族の住地かと思われる。〈事典〉
星川臣
 大和国山辺郡星川郷。〈和名抄〉
多臣
 大和国十市飫富郷(現在の磯城郡田原本町多)。〈和名抄〉
 あの太朝臣安萬侶の一族。
胸形君
 筑前国を本拠とし、宗像神社をまつる氏族。〈大系〉
車持君
 上毛野朝臣と同祖〈大系〉
 群馬県高崎市に車持神社がある。
綾君
 讃岐綾君に同じ。讃岐国阿野郡を本拠とする。〈大系〉
下道(しもつみち)臣
 備中国下道都を本拠とする豪族。吉備真備はその一族。〈大系〉
伊賀臣
 伊賀国伊賀郡を本拠とする。〈大系〉
阿閉臣
 伊賀国阿拝郡を本拠とする。〈大系〉
林臣
 『和名抄』讃岐国山田郡に「拝師郷」で見えるが、『平城宮木簡』に「林郷」で初見し、香川県高松市林の地をいう。「はやし(林)」に由来する。〈事典〉
波彌臣
 波彌は近江国の地名。〈大系〉
下毛野君
 本拠地は今の栃木県。
佐味君
 越中国新川郡佐味郷。〈和名抄〉
道守(ちもり)臣
 左京・河内・和泉の皇別に道守朝臣とある。〈大系〉
大野君
 『和名抄』美濃国に「大野郡」で見えるが、『藤原宮木簡』に「大野評」で初見する。〈事典〉
坂本臣
 和泉国和泉郡坂本郷。〈和名抄〉
池田君
 和泉国和泉郡坂本郷。〈和名抄〉
玉手臣
 ?
笠臣
 備中国小田郡を本拠とする。〈大系〉

 以上の結果を見ると、九州が全くの空白であること、九州を除いて相当多くの国がヤマト王権の傘下に入っていることが分かる。唯一例外として胸形君があるが、高市皇子の母が胸形君徳善の娘であることから胸形一族をヤマト王権の一族扱いしたのだろう。

 「八色の姓」について〈大系〉の頭注は次のように書いている。

「八姓のうち、実際に賜わったのは、真人(この日)・朝臣(12月1日)・宿禰(12月2日)・忌寸(14年6月20日)の上位四姓のみ。旧来の臣・連・伴造・国造という身分秩序に対して、臣・連のなかから皇室と関係の深いものだけを抽出し、真人・朝臣・宿禰として上位におき、他を下位にとどめ、新らしい身分秩序の形成をはかったもの。これによって皇親の社会的地位が確立されるとともに、官僚制強化の動きと関連して、上級・下級官人層の家柄、中央貴族・地方豪族の差別がはっきりと標識化された。」

 これは大略正しい指摘だと思う。「多元史観」の立場で付け加えると、九州王朝とヤマト王権の間で、九州王朝が九州の範囲内で存続し、ヤマト王権と併存することで合意したのではないだろうか。九州王朝は引き続き朱雀(684~685)・朱鳥(686~694)・大化(二中暦では695~700)と改元を行っている。実力は著しく衰退したとはいえ、一応倭国の中心権力としての名分は保っていた。もしかすると朱雀改元(天武13年)はその合意が理由ではなかったか。九州王朝にとっては不名誉なことではあったが、ヤマト王権との合意をふまえて新体制を整える必要があった。再スタートの改元だった。

 ヤマト王権は九州王朝の「八色の姓」をそのまま踏襲したのはなぜだろう。冠位が一代限りなのに対して姓は代々継承されるものだ。まったく異なる姓制度を施行すれば相当な混乱を巻き起こすことになろう。姓制度はそのまま利用するのが得策だった。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(208)

「天武紀・持統紀」(123)


「大化改新」の真相(45)
「八色の姓」をめぐって(2)


 「八色の姓」の詔以前、天武9年~天武13年に賜姓記事が8件もある。しかもすべて「連」姓である。屯倉や詔勅の「類集」があったように、これは「連賜姓」の「類集」のようだ。これらの記事も全て九州王朝の史書からの盗用で、それを天武紀に集めたのだろう。つまりこの「類集」は仮説1の根拠の一つである。

680(天武9)年正月8日
是の日に、忌部首首(いみべのおびとこびと)に、姓を賜ひて連と曰ふ。則ち弟色弗(しこぶち)と共に悦び拝(きこ)ゆ。

 忌部首とはどのような氏族だろうか。忌部の初出は「神代上・第7段」(あの「天の岩窟」説話の段)で、〈大系〉の補注は次のように書いている。

「第三の一書では忌部首。忌部は大和朝廷の祭祀に必要な物資を貢納した品部。忌部首はその伴造として、天武九年に連、同十三年に宿禰と賜姓、のち斎部宿禰と称した。忌部が忌部首と同祖と称するのは、支配・被支配の関係から生じたもの。また忌部首は中臣連のような政治的地位を獲得しえなかったために忌部も中臣連の支配を受け、本文でも太玉命の名を挙げるに際して本来の管理者忌部首の祖とすることが回避されたとの説がある。斎部宿欄の側の伝承は古語拾遺に見える。」

 もちろん「大和朝廷」は「九州王朝」と読み替えなければならない。

681(天武10年正月7日
是の日に、親王・諸王を内安殿に引入(めしい)る。諸臣、皆外安殿に侍(はべ)り。共に置酒(おほみきをめ)して樂(うたまひ)を賜ふ。則ち大山上草香部吉士大形に、小錦下位を授けたまふ。仍りて姓を賜ひて難波連と曰ふ。

 「天武紀」には「・・・殿」が頻出する。以前、「飛鳥浄御原宮の謎(3)」で調べている。内安殿・外安殿はここだけに現れる殿舎である。頭注は「未詳。いずれも内裏の殿舎か」と書いている。この殿舎名は九州王朝で使用していた用語だろう。

 草香部吉士大形は「帝紀・上古諸事の記定」の記事(3月17日条)に「難波連大形」という表記で現れる。大形はいち早くヤマト王権に帰順したのだろう。「帝紀・上古諸事の記定」に選ばれているのだから、それなりの学識を持っていたと思われる。しかしこれ以降は登場しない。

681(天武10)年4月12日
庚戌に、錦織造小分・田井直吉摩呂・次田倉人椹足〈椹。此をば武規と云ふ。〉石勝・川内直縣・忍海造鏡・荒田・能麻呂・大狛造百枝・足坏・倭直龍麻呂・門部直大嶋・宍人造老・山背狛烏賊麻呂。幷て十四人に姓を賜ひて連と曰ふ。

 ここに記録されている人物は他には現れない。〈大系〉は全てに「他に見えず」と頭注している。この事実もこの記事が盗用記事であることを示している。

681(天武10)年12月29日
是の日に、舍人造糠蟲・書直智徳に、姓を賜ひて連と曰ふ。

 舍人造糠蟲は翌年死去している。書直智徳は壬申の乱に参戦している人物だが、これ以降登場しない。

 ここまでの賜姓は個人に与える形を取っている。冠位は個人限りのものだが姓は授与された者の一族が代々受け継いで行くものだろう。次の賜姓記事からは氏族全体への授与に変わっている。

682(天武11)年5月12日
五月の癸巳の朔甲辰に、倭漢直等に、姓を賜ひて連と曰ふ。

 「等」というのは氏族全体に授与したという意味のようだ。次のような記事が続いている。

682(天武11)年5月27日
己未に、倭漢直等の男女、悉(ことごと)に參赴(まうおもぶ)きて、姓賜ひしことを悦びて拝朝(みかどをがみ)す。

 倭漢直は「八色の姓」では忌寸を授与されている。

683(天武12)年9月23日
丁未に、倭直・栗隈首・水取造・矢田部造・藤原部造・刑部造・福草部造・凡河内直・川内漢直・物部首・山背直・葛城直・殿服部造・門部直・錦織造・縵造・鳥取造・来目舍人造・檜隈舍人造・大狛造・秦造・川瀬舍人造・倭馬飼造・川内馬飼造・黄文造・蓆集造・勾筥作造・石上部造・財日奉造・泥部造・穴穂部造・白髪部造・忍海造・羽束造・文首・小泊瀬造・百濟造・語造、凡て三十八氏に、姓を賜ひて連と曰ふ。

683(天武12)年10月5日
冬十月の乙卯の朔己未に、三宅吉士・草壁吉士・伯耆造・船史・壹伎史・娑羅羅馬飼造・菟野馬飼造・吉野首・紀酒人直・釆女造・阿直史・高市縣主・磯城縣主・鏡作造、幷て十四氏に、姓を賜ひて連と曰ふ。

684(天武13)年正月17日
十三年の春正月の甲申の朔庚子に、三野縣主・内蔵衣縫造、二氏に、姓を賜ひて連と曰ふ。

 上の3例は地方豪族と民部・品部の統率者を対象にした賜姓記事である。679(天武8)年11月23日条には倭馬飼部造連が大使として多禰嶋に遣わされてる記事がある。これは明らかに九州王朝の事績だ。またこの条は品部の統率者への「連」賜姓記事は上記の3例だけではなく他にもあったことを示している。

 それにしてもなぜ「連」賜姓記事だけなのだろう。最上位の「真人」やナンバーツーの「朝臣」などの賜姓記事でははっきりと九州王朝による賜姓と分かってしまうからだろう。「連」賜姓記事でもそれと分からないものだけを選んで集めたと思われる。なぜか。「八色の姓」以前から賜姓はヤマト王権によって行われていたことを偽装するためである。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(207)

「天武紀・持統紀」(122)


「大化改新」の真相(44)
「八色の姓」をめぐって(1)


684(天武13)年10月1日
 冬十月の己卯の朔に、詔して曰はく、「更(また)諸氏の族姓(かばね)を改めて、八色(やくさ)の姓(かばね)を作りて、天下の萬(よろづの)姓を混(まろか)す。一つに曰はく、眞人(まひと)。二つに曰はく、朝臣(あそみ)。三つに曰はく、宿禰。四つに曰はく、忌寸(いみき)。五つに曰はく、道師(みちのし)。六つに曰はく、臣(おみ)。七つに曰はく、連。八つに曰はく、稲置(いなき)。

 是の日に、守山公・路公・高橋公・三國公・當麻公(たぎまのきみ)・茨城(うまらき)公・丹比(たぢひ)公・猪名(ゐな)公・坂田公・羽田公・息長(おきなが)公・酒人(さかひと)公・山道(やまぢ)公、十三氏に、姓を賜ひて眞人と曰ふ。


 この「八色の姓」について次の二つの仮説の論証(論証になるかどうか心もとないが)を試みようと思う。

仮説1
 「八色の姓」を始めて制定し、授与していたのは九州王朝である。
仮説2
 その姓制度を天武がそのまま踏襲して、授与権を奪った。

 仮説1に肯定的な答を与える根拠としてよく出されるのが天武の倭風諡号「天淳中原瀛真人(あまのぬなはらおきのまひと)」である。つまり天武は九州王朝から「真人」を賜姓されていたという論法である。しかしこの論法は危うい。

 例えば「宿禰」。允恭の倭風諡号は「雄朝津間稚子宿禰(をあさづまわくごのすくね)である。では允恭は九州王朝から宿禰を賜姓されたのか。「yes」という人はまずいないだろう。「八色の姓」がいつ頃から始められたのかは分からないが、まさか允恭の時代(5世紀始め)ほど古くはないだろうから。〈大系〉の頭注は宿禰について「本来名の下に置く敬称で、それを姓に用いたもの」と書くが、「武内宿禰」の場合は個人名として用いられているとしか考えられない。允恭の場合もこれと同類ではないだろうか。

 ところで「真人」も個人名として用いられている例がある。天武10年12月29日条に「粟田臣真人」がある。天武14年5月19日条では「直大肆粟田朝臣真人」である。持統紀(3年正月9日条・同年6月20日条)では「筑紫大宰粟田真人朝臣」となっている。

 もう一つ、「真人」の賜姓対象者は皇族のようだが、天武は九州王朝の皇族ではない。天武の「真人」は姓ではなく、「粟田真人」の場合と同様に「賢人」という意味合いで使われている名前の一部ではないだろうか。

 仮説1を肯定する根拠としてもう一つ使われる根拠がある。柿本朝臣人麿だ。私(たち)は人麿が九州王朝ゆかりの歌人であることを知っている。人麿には九州王朝の天子・中皇命や白村江戦を詠った歌もあるのだから、人麿は九州王朝の吏官であり、その活動は天武13年より30年ほども前から始まっている。人麿の「朝臣」の授与者は九州王朝の天子と考えるほかない。

 『万葉集』には次のような例もある。16番の題詞に内大臣藤原朝臣とある。言わずと知れた鎌足のことである。鎌足は669(天智8)年に死去している。この「朝臣」の授与者が天武であるわけがない。これも九州王朝による賜姓であろう。

 もう一つ、『万葉集』で「真人」を検索していて224番~227番に出会った。

柿本朝臣人麿の死(みまか)らし時、妻依羅娘子(よさみのをとめ)の作る歌二首
224
今日今日とわが待つ君は石川の貝に〈一に云ふ、谷に〉交りてありといはずやも
225
直(ただ)の蓬ひは逢ひかつましじ石川に雲立ち渡れ見つつ偲(しの)はむ

丹比(たぢひ)眞人〈名を闕せり〉柿本朝臣人麿の意(こころ)に擬(なずら)へて報(こた)ふる歌一首
226
荒波に寄りくる玉を枕に置きわれここにありと誰(たれ)れか告げなむ

   或る本の歌に曰く
227
天離(あまざか)る夷(ひな)の荒野に君を置きて思ひつつあれば生(い)けるともなし   右の一首の歌、作者いまだ詳(つばひ)  らかならず。但し、古本、この歌をもち  ての次(つぎて)に載す。


 人麿の妻の歌に対して、丹比真人某が人麿に成り代わって返歌を作ったという趣向になっている。人麿が亡くなったのは7世紀末か8世紀初めころだろうか。いずれにしても万葉集編纂と同時代と言えよう。この〈名を闕せり〉は『日本書紀』の場合と同じように不審としなければならない。この丹比真人にはその名を伏せなければならない不都合があったのだろうか。

 ともあれ、『万葉集』にも「名無しの権兵衛」がいるとは知らなかった。名無しの丹比真人の歌はあと二つあった(1609番・1726番)。  「丹比真人」には不審点が多い。『日本書紀』に登場する丹比真人を拾ってみよう。

677(天武6)年10月14日
冬十月の庚寅の朔癸卯に、内小錦上河邊臣百枝を民部卿とす。内大錦下丹比公麻呂を攝津職大夫とす。

 上の人名は丹比の「公麻呂(きみまろ)」ではなく「丹比公」麻呂(まろ)と読むようだ。この人物は687(持統元)年3月20日に天武の殯で誄という重責を担っている。

682(天武11)年4月21日
癸未に、筑紫大宰丹比眞人嶋等大きなる鍾を貢れり。

683(天武12)年正月2日
春正月の己丑の朔庚寅に、百寮、朝庭(みかど)拝す。筑紫大宰丹比眞人嶋等、三足ある雀を貢れり。

 上の2条は「八色の姓」(天武13年)以前なのに「真人」が使われている。頭注は「追記か」と言っているが、九州王朝からの賜姓と考えれば何ら問題ない。上の三つの記事は九州王朝の史書からの盗用記事なのだ。もしそうだとすると、「丹比公」と呼ばれているのだから丹比一族は九州王朝の皇族ということになる。「真人」賜姓の対象者は皇族である。それが天武によって再び「真人」を授与されているところを見ると、いち早く九州王朝を離脱した裏切り者と言うことになる。

 真人を授与されている者の中にもう二人不可解な人物がいる。高橋公と茨城公である。この二人以外は、丹比公も含めて近畿天皇家の皇族であることを示す系譜があるのに、頭注によると高橋公と茨城公は「他に見えず。系譜未詳」なのだ。近畿天皇家の皇族扱いしているのに、これはどうしたことだろうか。この二人も九州王朝の皇族だった可能性がある。

 丹比眞人嶋は689(持統3)年閏8月27日に冠位・直廣貳を授与されるとともに一百戸増封されている。さらに692(持統4)年7月5日には正廣参を授与され、右大臣になっている。また691(持統5)年正月13日に高市皇子らとともに増封されて、計五百戸になっている。穂積皇子・川嶋皇子と同戸数である。さらにまた696(持統10)年10月22日には「輿・杖」を、24日に「資人一百二十人」を下賜されている。「輿・杖」は高齢者に対する優遇措置のようだ。

 『日本書紀』での嶋についての記事は以上だが、もう一つ嶋の息子・丹比真人池守の記事がある。693(持統7)年6月4日に直廣肆を授与さえれている。

  「丹比」は『続日本紀』では「多治比」と表記されている。多治比真人嶋は701(大宝元)年7月21日に死去している。その時の位階は左大臣正二位であり、最高位まで上りつめたことになる。その死亡記事には「宣化天皇の玄孫。多冶比王の子なり」という系図説明がある。権力が近畿王朝に移ってからは各国の王や豪族たちはこぞって近畿天皇家に係累するように系図を書き換えたと思われる。『続日本紀』の記述をもって、多治比一族が九州王朝の皇族であったことを否定する証拠とは言えないのではないだろうか。(ちょっと苦しいかな。)

 『続日本紀』には一つ不可解なことがある。「多治見」ではなく「丹比」という表記もあるのだ。しかしこちらの人物の姓は宿禰である。宿禰を授与された者の中に手繦丹比(たすきのたぢひ)連・靫丹比(ゆきのたぢひ)連がいるが、これらを単に「丹比」と呼んでしまっては手繦丹比と靫丹比の二氏族の区別が付かなってしまう。そんなことはあり得ない。つまり「丹比」一族が宿禰を授与されたという記事はどこにもないのだ。

 これは全くの憶測になるが、『万葉集』の名無しの丹比真人は丹比公の一係累(分家)であったが、何か不都合をしでかして宿禰に格下げされた。それで『続日本紀』では本家を「多治比」、分家を「丹比」と表記して区別をした。

 ちなみに、ズーと下って777(宝亀8)年5月13日条に「少録正六位上丹比新家連稲長と大膳膳部大初位下東麻呂に丹比宿禰という姓を賜った」という記事がある。後世には「丹比宿禰」という「氏族名+姓」を一つの姓としたらしい。いよいよ分からなくなってきた。
今日の話題:再び原発問題

「原発問題―故意に避けられている問題がある。」で伝えたかったことを改めてまとめると次のようです。

 もしも原発の安全性が完璧なものになったとしても原発の「入り口」と「出口」に大変な問題がある。その問題に口をぬぐって「原発は安全です」などというのは詐偽に等しい。「入り口」(ウラン鉱石の採掘と精製)でも被曝している労働者がいる。ということはそこでも放射線が大量にまき散らされている。「出口」(使用済み核燃料の保管と処分)でも問題山積であり解決の見通しもない。つまり原子力は人類にはコントロールできない代物なのだ。

 この「入り口」と「出口」の問題をマスコミもちらほらと取り上げるようになってきた。

 さて、東京新聞夕刊に赤坂憲雄さん(民俗学者)と津島佑子さん(作家)との「選択の夏ポスト3.11を生きる」と題した対談が三回にわたって掲載された。昨日の第三回で津島さんが「入り口」に関わる次のような話題を語っていた。

 四月にオーストラリアのアボリジニの人たちが国連事務総長に手紙を送った。彼らの土地で採掘されたウランが日本に輸出されていて「フクシマの事故の原因の一部になって悲しい。もうウランは採らせない」という内容です。そして巨額の採掘権で得られるお金を返上して、土地を守りたいと。

 かたや、日本は自然資源がないと言うが、これは変な言い方です。日本列島は自然資源に恵まれた風土なのに。

 大枚をはたいて住民の土地を収奪していく資本主義の非人道性が「入り口」でもしっかりと発揮されていたのだった。

 同じ夕刊のコラム「紙つぶて」に増田寛也さん(野村総研顧問)が「処分場の行方」と題して「出口」問題を取り上げていた。

 最終処分場をどこにするか。福島第一原発の事故制御が急がれるが、近いうちに、原子力発電から生ずる核のごみを埋設する処分場の建設予定地を決定しなければならない。

 現在、約二・四万本の使用済み核燃料が国内各地にあり、十年後には約四万本になるとみられる。わが国は使用済み核燃料からウランとプルトニウムを取り出し、核燃料として再利用する核燃料サイクルを進めているが、再利用できない高レベル放射性廃棄物はガラスと溶かし合わせ、ステンレス製の容器に密封して地下三百㍍以下の岩盤の安定している所に埋設処分することになっている。

 高レベルの廃棄物は強い放射線を発していて、元の天然ウランと同じ放射能レベルに下がるまでには数万年かかるという。地震大国だけに半永久に安全管理できる適地は限られ、適地の選定や施設の建設に相当な時間が必要となる。このため、政府の計画では平成二十年代半ばに何カ所かの候補地を選定することになっている。これが、今回の事故でどのようになるか。

 原発継続か脱原発かにかかわらず直面する問題であり、次世代に核の後始末を押しつけてよいはずはない。世界では北欧の二カ国だけが予定地を決定している。先週、スウェーデンの予定地と埋設方法の研究機関を調査してきた。現地の責任者が「情報はすべてオープン、住民と長期間対話し、最後は政府への国民の信頼感にかかっている」と述べたのが強く印象に残った。

 スウェーデン政府とは裏腹に日本政府と電力会社は情報隠しに明け暮れている。彼らが公開する情報をまともに信じている国民はもうほとんどいないのではないだろうか。

 増田さんは「元の天然ウランと同じ放射能レベルに下がるまでには数万年かかる」と書いているが、ウラン235・ウラン238の半減期はそれぞれ7億年・45億年である。地中深く隠したからといって解決したことにはならない。

 増田さんが言う「北欧の二カ国」のもう一つの国はフィンランドである。「古田史学会会報No105」に「九州王朝新発見の現在」という古田さんの講演録の要約が掲載されている。その講演の最後で古田さんはフィンランドの核廃棄物処理について触れている。次のように要約されている。

 核廃棄物を四十万年後の人類が見つけたらどうなるか、フィンランド語で危険と書いても四十万年後の人類が読めるだろうか。フィンランドで議論されています。

 これは未来の人類に影響を与えるものを、現在の人類が絶対に作ってはならないことを意味します。

①処理を出来ない科学は科学でない。
②近代国家はそのようなものを作ってはいけない。
③このようなものを認める法は法でない。

 広島、長崎、福島を経験した日本人はこのことを世界に発信しなければならないと思います。

 さて、いまだに「原発がなければ経済は成り立たない」とか「原発なしでは人類は生きてはいけない」などと言う者たちがいる。多くは原子力ムラにつながっている輩だ。ほんとにそうなのか。

 対談「選択の夏ポスト3.11を生きる」から、その解答の方向を示している赤坂さんの発言を拾ってみる。ちなみに、赤坂さんは「東日本大震災復興構想会議」の委員を務めている。

 私は、3・11まで原発を語ったことはないし、自然エネルギーにも興味なかった。いまは日本社会の大きなグランドデザインとして原発から自然エネルギーへの転換を選択するしかないんだと考えています。目の前の現実がいや応なしにその方向に目を向けさせた。そして、委員をしている政府の復興構想会議で福島県を自然エネルギー特区にと提案した。周囲は「そうなればいいね」 「でも難しいだろうね」という空気だった。しかし日本人の世論は劇的に転換しました。

 原発から自然エネルギーへの転換を考えたとき、思ったのは「自然」からいただくというイメージを大切にするということでした。地中に埋もれている化石燃料と違い、降り注ぐ太陽の光、吹き寄せてくる風や潮力…。日本列島に無尽蔵にある自然なんですよ。自然エネルギーへの転換は、原発の持つ中央集権的なシステムから地域分権的な自立型のエネルギー、産業構造に変わっていくことだと気付いたんです。

 十一月に「ふくしま会議」を開き、世界中から知恵を結集して、福島から、自然エネルギーへの転換を宣言しようと動いています。福島が直面しているのは人類の将来の課題。それを不幸にも全部引き受けようとしているわけだから、世界に向けて発信することで、片仮名のフクシマ、ローマ字のFUKUSHIMAが「絶望」ではなく「希望」の土地になる。そのメッセージを送りたいんです。

 「自然エネルギーへの転換は、原発の持つ中央集権的なシステムから地域分権的な自立型のエネルギー、産業構造に変わっていく」というくだり読んだとき、私は『「大化改新」の真相(3)』で書いたことを思い出していた。

 「若い諸君」の中から気骨ある真の学者が出てくることを期待したいがどうだろうか。難しいだろう。学会とは徒弟制度の社会のようだ。指導教授の学説に反する研究を発表すると、その学者は将来出世できないといわれている。古代史学会だけの話ではない。

 水俣病を告発し、問題を社会に知らしめる発端を作った宇井純さんはついに「万年助手」に据え置かれたままだった。早くから原発の危険性を強く指摘し続けていた京都大の今中哲二さん・小出裕章さんは研究費でも差別を受け、助教授止まりでそれ以上の出世を阻まれているという。

 大学だけのことではない。「君が代・日の丸強制」反対裁判に見るように、憲法判断を要する裁判では、ほとんどの裁判官が最高裁判例追認の判決しか出せない。その最高裁判例が行政追随・憲法無視の判決なのだ。それに逆らうまともな判決をすると、地方に飛ばされたりして、将来も出世はできないようだ。「予防訴訟」裁判であの画期的なすばらしい判決を出した難波裁判官はその後どうなっただろうか。ネットで調べたら「熊本地方裁判所長、熊本簡易裁判所判事」とあった。

 マスコミの世界もそうだ。経営者の意向に反する作品や記事は没にされてしまう。御用記者がはびこり、まともなジャーナリストは少ない。

 いたるところに根を張っている旧態然とした社会システムの根本的な変革がないかぎり、本当の学問・言論・思想の自由は絵に描いた餅でしかない。暗澹とした気分になるが、気を取り直して先を続けよう。

 原発から自然エネルギーへの転換がもたらす産業構造の変革が、そこに止まらず、硬直化しているあらゆる社会システムへと波及していくことを期待するのは、あまりにも夢想的過ぎるだろうか。

(追記)
 今日(8月13日)の東京新聞の「筆洗」が「出口」問題を取り上げていた。

 ひどい目に遭い、自分ではもう買う気にならない商品を、買いたいという人がいたら、当然、「やめておけ」というのが人の道だろう。

 だが、政府の考えは違うようだ。原発の輸出を当面は継続する方針を決めたのだという。あの福島の事故を経験した日本、しかも首相は脱原発の方針を打ち出している。それを、よその国に売ろうという感覚が分からない。

 事故以前から交渉話があったいくつかの国が相手になるらしいが、第一、「絶対に安全か」「本当に安上がりか」と聞かれたらどう答えるつもりだろう。

 自国には捨てられない“危ないゴミ”をよその国に捨てる、という信じられない構想も最近、伝えられた。使用済み核燃料の処分場を、モンゴルに造る話が米国に日本企業もからんで水面下で進んでいるのだという。

 長く反原発を主張してきた作家広瀬隆さんの著書『東京に原発を!』の反語的タイトルが象徴するのは、安全だといいながら、都市はメリットだけを享受し、リスクは地方に押し付ける構図。電力需要地の首都圏でなく東北・福島に造られたあの原発も一例だ。モンゴル構想で、その欺瞞を先進国と途上国に置き換える愚が許されるはずがない。

 つまり、保管しておくだけで危険な使用済み核燃料はただ増え続け、捨て場所はどこにもない…。原発維持に無理があるのはこの一点だけでも明白である。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(206)

「天武紀・持統紀」(121)


「大化改新」の真相(43)
天武の独立宣言


 国制関係の諸詔勅だけを対象にする。その実年を考えるに当たって、まず私の基本的な観点を提示しておこう。二つある。

 今まで九州王朝からヤマト王権への権力移行開始の結節点を持統の大嘗祭に置いてきたが、今は天武の晩年期ではないかと考えている。「天武紀 下」も検討の対象とする。

 もう一つは諸詔勅の位置関係に対する観点である。「改新の詔」のかなめは廃評建郡であり、それは九州王朝からヤマト王権への権力移行の完成とその自信の表出でもある。そこに到達するまでには、時には強硬手段に訴えたり時には懐柔策を弄したりしながら、相当の紆余曲折があったことだろう。「改新の詔」以外の詔勅はその過程の経緯を示しているものと考えている。つまり「改新の詔」の詔が最後の到達点であり、その他の詔勅はそれに先行して発布されたものである。

 さて、「天武紀」は天武10年あたりから国制関係の記事が多くなってくる。そして、天武12年正月18日条に「明神御大八洲倭根子天皇」という文言がでてくる。これについて〈大系〉の頭注はつぎのように述べている。

『養老公式令では「明神御大八洲天皇詔旨(あきつみかみとおほやしまぐにしらすすめらがおほみことらまと)」云々とあり、立后・立太子・元日朝賀など朝廷の大事の際の詔に用いられる辞とされた。』(私には「らまと」という訓がわからない。)

 「孝徳紀」にも同じような文言があった。

明神御宇日本天皇(高麗・百済の使者への詔)
明神御宇日本倭根子天皇(「鐘匱の反応」の詔)
明神御八嶋国天皇(「皇太子の奏上」)

 ついでなので『続日本紀』ではどんな文言になっているのか調べてみた。おどろいた。千差万別である。『続日本紀』の編纂もけっこういい加減な点があるのだった。「現御神……」「現神……」「明神……」の3タイプがある。

現御神大八嶋国所知天皇
現御神大八嶋国所知倭根子天皇
現神八洲御宇倭根子天皇
現神御宇倭根子天皇
現神大八洲国所知倭根子天皇
現神坐倭根子天皇
現神大八洲所知倭根子天皇
現神御宇天皇
現神坐倭根子天皇
現神大八洲所知倭根子天皇
現神大八洲国所知倭根子挂畏天皇
現神大八洲所知倭根子天皇
現神大八洲国所知天皇
現神坐倭根子天皇
明神大八洲所知天皇
明神御大八洲養徳根子天皇
明神大八洲所知和根子天皇
明神大八洲所知天皇


 「現神坐倭根子天皇」と「明神大八洲所知天皇」が2回ずつ使われているが、あと同じものはない。公式令の規定と同じものもまったくない。「令」って何なのだろう。

 さて、天武12年正月18日条は次の通りである。

丙午に、詔して曰はく、「明神御大八洲倭根子天皇(あきつみかみとおほやしましらすやまとねこのすめらみこと)の勅命(おほみことのり)をば、諸(もろもろ)の國司と國造と郡司と百姓等(おほみたからども)と、諸(もろとも)に聽くべし。朕、初めて鴻祚登(あまつひつぎしら)ししより以來(このかた)、天瑞(あまつみつ)、一二(ひとつふたつ)に非(あら)ずして多(さは)に至れり。傳(つて)に聞くならく、其(か)の天瑞は、政(まつりごと)を行ふ理(ことわり)、天道(あめのみち)に協(かな)ふときには、應(こた)ふと。是(ここ)に今朕(わ)が世(みよ)に當(あた)りて、年毎に重ねて至る。一(ひとたび)は以て懼(おそ)り、一は以て嘉(よみ)す。是を以て、親王と諸王及び群卿(まへつきみたち)と百寮(つかさつかさ)、幷て天下の黎民(おほみたから)、共に相(あひ)歓(うれし)びむ。乃ち小建より以上に、祿(もの)給ふこと各差(しな)有らむ。因りて大辟罪(しぬるつみ)より以下、皆赦す。亦百姓の課役(えつき)、並に免(ゆる)す」とのたまふ。

 この詔が出された当時、どのくらいの国司・国造・郡司(この頃はまだ評制時代だから「評督」を「郡司」と書き換えたもの)がヤマト王権に帰順していただろうか。ともかく帰順していた国司・国造・郡司を集めての詔だった。この詔で天武は、「政を行ふ理」(天命)があると、自分が権力の頂点に立つ正当性を述べている。これは同時に九州王朝からの独立宣言でもあった。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(205)

「天武紀・持統紀」(120)


「大化改新」の真相(42)
諸詔勅の実年代についてのまとめ


 ほとんど白紙状態で『「大化改新」の真相』という大問題に挑戦して、いろいろと間違いを犯しながらも最終段階にやってきた。これまでの間違いから知ったことを振り返って見ようと思う。

 「孝徳紀」大化1・2年の諸詔勅をそのままの順序で全部九州年号の大化1・2年(持統9・10年)からの盗用と早合点してスタートした。次のようであった。(各詔勅の内容を示す表題は、スタート時のものは不備があったので、「古田説の検討(1)で用いたものを使う。)

大化1年―695(持統9)年
(1)「東国国司の発遣」
(2)「鐘匱の設置」「男女の法」
(3)「寺主の任命と諸寺の実情調査」
(4)「不正蓄財・土地貸借の禁止」
大化2年―696(持統10)年
(5)「改新の詔」
(6)「鐘匱の反応」
(7)「国民からの愁訴の審理」
(8)「東国国司の違反調査」
(9)「朝集使の報告」
(10)「皇太子の奏上」
(11)「薄葬令」「旧俗の廃止」
(12)「品部の廃止」
(13)「品部廃止の実行を督促」?
(14)「出退勤の礼法」

 これらの詔勅の中で国制に関係する記事だけにしぼって論究することにした。(1)(5)(8)(9)(10)(12)である。すると持統9・10年にはそれらの諸詔勅と関連する記事が見いだせないので、「朔日・暦日ともに合致する」移動を試みた。持統6・7年であった。持統3~5年には国制に関係する記事が多くあるのでそれと関連づけようとした。次のようになった。

689(持統3)年閏8月10日
 「造籍の詔」
690(持統4)年1月1日
 持統即位
690(持統4)年7月1日~18日
 人事など政治体制の刷新
690(持統4)年9月1日
 「造籍戸令遵守の詔」
691(持統5)年10月27日
 藤原京の地鎮祭
691(持統5)年11月1日
 持統、大嘗祭を挙行
692(持統6)年4月5日
 「東国国司発遣の詔」

692(持統6)年5月23日
 藤原宮の地鎮祭
692(持統6)年
 8月1日
  「改新の詔」
 8月2日・8月19日
  「東国国司賞罰の詔」
 8月20日
  「皇太子の奏上」

692(持統6)年9月9日
 班田役人を四畿に派遣
693(持統7)2月14日
 「品部廃止の詔」

694(持統8)年12月6日
 藤原京に遷都
697(持統11)年8月1日
 持統、文武に譲位

 ところが(6)の詔勅の発布は「東門」で行われているから藤原宮完成前の時期は不適切、という指摘を受け、上の案は一応ご破算にした。しかし今はすべてをご破算にする必要はなかったと思っている。もちろん上の表は「孝徳紀」での順序通りということに縛られているので全面的に再考する必要があるが、「東門」が理由で不適切なのは(6)だけである。「薄葬令」が持統紀には移動できないことは確かだと考えていたので「或いは」と思っていたのだが、「詔勅群、一括」問題での古田さんの次の指摘が「目から鱗」であった。

『その時期は決して「大化2年」という一時期について「九州から近畿へ」とスライドさせたものではない。ひろく、「7世紀初頭から7世紀末まで」の詔勅群を一括してここに「類集」していたのである。』

 ならば復元する場合も「ひろく」もっとも適切な時期を探すべきなのだろう。そういえば正木さんは(8)(9)の実年を文武2年に求めていた。(5)については正木さんは九州年号大化2年だが、古田さんはONライン(701年)としている。気付くのが遅いと言われそうだが、お二人とも「ひろく」考えていたのだった。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(204)

「天武紀・持統紀」(119)


「大化改新」の真相(41)
古田説の検討(10):「東国」問題(7)


 これまでの「東国」調べの結果を簡単にまとめると次のようになる。

(1)
 「東国=東の方の国」という使われ方はヤマト王権自前の記事だけである。しかもその「東」とは近畿近辺に限られる。
(2)
 (1)以外は本来の「あづまの国」あるいは相模辺りまで拡大された「あづまの国」を指している。
(3)
 一例だけだが、はっきりと「東方諸國」と表記する例があった。
(4)
 「東国」・「西国」がペアで使われる例が一例あった。しかし「四方の国」を表す使用例ではない。
(5)
 筑紫・大和のいずれを起点としても「南国」・「北国」の使用例はない。

 (3)は「景行紀」の記事であった。次に再掲載する。

二十五年秋七月の庚辰朔壬午(3日)に武内宿禰を遣(つかは)したまひて、北陸(くぬがのみち)及び東方(あづま)の諸國の地形(くにかた)、且(また)百姓の消息(あるかたち)を察(み)しめたまふ。

 二十七年の春二月の辛丑の朔壬子に、武内宿禰、東國より還て奏して言さく、「東(あづま)の夷(ひな)の中に、日高見國(ひたかみのくに)有り。其の國の人、男女並に椎結(かみをわ)け身を交(もどろ)けて、爲人(ひととなり)勇み悼(こは)し。是を總べて蝦夷(えみし)と曰ふ。亦土地(くに)沃壌(こ)えて曠(ひろ)し。撃ちて取りつべし」とまうす。

 このような記事は『古事記』にはない。武内宿禰は「景行・成務・仲哀・神功・応神・仁徳紀」に登場している。あるときは将軍、あるときは外交官、あるときは司祭者、またあるときは歌人、と「七つの顔をもった男・多羅尾伴内」みたいだ。ともかく謎多き人物である。武内宿禰が登場する記事、特に外交関係記事は九州王朝史書からの記事を切り取って「景行紀」から「仁徳紀」間にばらまいたのではないかと思う。つまり、武内宿禰は九州王朝ゆかりの人物ではないか。「もしも」だらけになるが、さらにもしもそうだとすると、「東方諸國」はたった一例しかないが、九州王朝では「東國(あづまのくに)」と「東方諸國」という使い分けがあったのではないだろうか。

 さて、「東国」問題の古田説検討の最終点に到達した。「東国」問題部分の古田さんの文章はとても分かりにくい。というより、そこの論理が私には理解できないのだ。「東国」などが『日本書紀』でどのように使われているか調べれば分かるようになるだろうと思っていたが、やはり分からない。該当部分を再度引用しよう。(「畿内國」定義の読下し文に続いて次の文になる。)

 この「畿内國」を原点として「東国」を指すとすれば、当然「西国」も必要だ。中国や四国や九州である。しかし、それはない。いくら学者が近畿地方より東の、東海、北陸、さらに関東地方の〝重要性″を説いてみても、それらは結局、「西国、指示」の無用性の〝証明″にはなりえないであろう。やはり〝半端″なのである。

 しかも、この「畿内國」定義のすぐあと次の文面がある。

 「凡そ畿内より始めて、四方の国に及(いた)るまでに、」だ。とすれば、ここには、「東国=四方の国」という概念がしめされている。なぜか。その答えは一つ。

 これらの詔勅の〝原文面″における原点は九州である。

 九州を原点とすれば、この「東国」はすなわち「四方の國」となる。何の問題もないのだ。

 私はこれを次のようにまとめたのだった。

①「畿内國」が原点なら「東国」以外にも同類の表現(西・南・北国)が必要だ。
②「畿内より始めて、四方の國」という文言は「東国=四方の国」という概念をしめしている。
 ①・②から、これらの詔勅の原点は九州である、と結論している。

 ①・②から「原点は九州」という結論がどうして得られるのか。これが分からない。次のように解するほかないようだ。

 上の理路を汲み取る決め手はたぶん引用文の第一段落にある。古田さんは「東国国司の発遣」関連の詔勅は全国に向かって出されたものだということを大前提としている。近畿が原点なら「畿内より始めて、四方の國」という用例から「四方の国」と言うはずである。「東国」が「四方の国」と同じ意で使われているはず(大前提)だから、「東国国司の発遣」関連の詔勅の原点は九州ということになる。

 「東国国司の発遣」関連の詔勅は全国に向かって出されたものという大前提が間違いだと私は思う。「東国」が"重要"ということではなく、これらの詔勅が「東国国司」以外には必要がなかったと考えるべきなのだ。(このことはこれらの詔勅の元位置を考えるときにも顧慮されなければならない。)

 私は上にまとめた使用例以外での「東国」の使われ方はあり得ないと思う。原点が九州でも「全ての国」を表す言葉は「四方の国」を用いるはずだ。

645(大化元)年8月25日の「東国国司発遣の詔」の後に次の記事がある。

645(大化元)年9月1日
九月丙寅朔に、使者を諸國に遣わして、兵(つはもの)を治む。〈或本に云はく。六月より九月に至るまでに、使者を四方の國に遣はして、種種(くさぐさ)の兵器(つはもの)を集めしむといふ。

 詔勅の形をとってはいないが、これも九州王朝の史書からの盗用だろう。特に〈或本に云はく〉という分注そのように考えてよいのではないか。そこでは「四方の國」という言葉が使われている。「四方の國」は九州王朝の史書からの盗用であることがはっきりしている「白雉改元の詔」でも使われている。

又、詔して曰はく、「四方の諸の國郡等天(あめ)の委(ゆだ)ね付(さづ)くるに由りての故に、朕(われ)總(ふさ)ね臨みて御寓(あめのしたしら)す。今我が親祖(むつかむろき)の知らす、穴戸國の中に、此の嘉瑞(よきみつ)有り。所以(このゆゑ)に、天下に大赦(おほきにつみゆる)す。元(はじめのとし)を白雉と改む」とのたまふ。

 つまり九州王朝の史書では「四方國」あるいは「四方諸國」という言葉が用いられていた。「四方の国」という意味で「東国」を用いる必然性はない。  最後に、古田説の検討過程で一つの問題として気になったことがあるので書き留めておく。

 「凡そ畿内より……」という文言は646(大化2)年3月22日の詔勅の中に出てくる。これは冒頭があの「薄葬令」で、その後に「旧俗の改廃」(家族・婚姻問題など)の詔が延々と続く。その末尾の文章は次のようになっている。

……縦(も)し斯の詔に遑(たが)へらば、將(まさ)に重き罪科(つみおほ)せむ。
市司(いちのつかさ)・要路(ぬみのみち)の津濟(つわたり)の渡子(わたりもり)の調賦(みつき)を罷(や)めて、田地(たところ)給與(たま)へ。
凡(おほよ)そ畿内(うちつくに)より始めて、四方の國に及(いた)るまでに、農作(なりはひ)の月(つき)に當(あた)りては、早(すみやか)に田營(つく)ることを務(つと)めよ。美物(いを)と酒とを喫(くら)はしむべからず。清廉(いさきよ)き使者(つかひ)を差(さ)して、畿内に告(のたま)へ。其の四方の諸國の國造等にも、善(よ)き使を擇(えら)びて、詔の依(まま)に催し勤めしむべし」とのたまふ。


 「薄葬令」の部分だけ読んで、この詔勅の発布者は九州王朝と断定したのだったが、最後は「凡そ畿内より始めて、四方の國に及るまで」と発布者がヤマト王権であることを示す文言が出てくる。これはどうしたことだろう。

 私は次のように考えてみた。

 〈大系〉の頭注は「薄葬令」以後の「旧俗の改廃」部分を「第二部」と呼び、その全体を「12段」に分けて解説している。それほど雑多な事柄だ詰め込まれている。上の引用部分の冒頭は
「……縦(も)し斯の詔に遑(たが)へらば、將(まさ)に重き罪科(つみおほ)せむ。」
と、ここでこの長い詔が終わるような文言である。「ああ、これで終りだな」と思ったのにまだ続く。しかもその続きの部分は、それまでの「旧俗の改廃」とはまったく内容が異なる。いろいろな詔勅を掻き集めて一つの詔勅にまとめて記録したような体裁である。私は段落を付けて引用しておいたが、〈大系〉の頭注は「第三部」「第四部」と呼んでいる。少なくともこの「第三部」「第四部」は他の詔勅から切り取って付け足したもののようだ。この部分だけ、発布者はヤマト王権である。その内容から判断すると、九州王朝から近畿王朝への権力移行期のものと思われる。