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《真説古代史・近畿王朝草創期編》(203)

「天武紀・持統紀」(118)


「大化改新」の真相(40)
古田説の検討(9):「東国」問題(6)


 私がまとめた古田説の論旨を再度掲載する。

①「畿内國」が原点なら「東国」以外にも同類の表現(西・南・北国)が必要だ。
②「畿内より始めて、四方の國」という文言は「東国=四方の国」という概念をしめしている。
①・②から、これらの詔勅の原点は九州である、と結論している。

 ①はヤマト王権が発した詔勅ならば「東国」以外に、特に中国や四国や九州を指す「西国」が必要だと言っている。では、『日本書紀』が「西国」という概念をどのように用いているのか調べてみよう。2件あった。

624(推古32)年4月3日条。
……是に、百済の觀勒僧、表(ふみ)上りて言さく、「夫れ佛法、西國より漢に至りて、三百歳を經て、乃ち傳へて百済國に至りて、……

 この「西国」は明らかにインドであり対象外だった。

 次は「天武紀」に飛ぶが、「東国」調べのときに保留していた記事があった。原文は「以東國」なので「東国を以て」と読むのかと思ったが、読下し文は「「以東(ひがしのかた)の國」と訓じている。次のようである。

676(天武5)年4月14日
辛亥に、勅すらく、「諸王・諸臣の給はれる封戸(へひと)の税(おほちから)は、以西(にしのかた)の國を除(や)めて、相易(か)へて以東(ひがしのかた)の國に給へ。又外國人、進仕(つか)へまつらむと欲(おも)ふ者は、臣・連・伴造の子、及び國造の子をば聽せ。唯し以下の庶人と錐も、其の才能長(いさを)しきのみは亦聽せ」とのたまふ。

 「以+西(東)」で「にし(ひがし)のかた」と訓じているが、現代語風に音読みすれば「いせい」「いとう」であり、「西の方の国」・「東の方の国」という意味である。「以西」があるので基準点は近畿と考えられるが、676(天武5)年という時点でヤマト王権の支配力がどこまで伸張していたのか確定できないのだから、それぞれがどこまでの範囲を表すかは分からない。「西国」には少なくとも九州はまだ入っていないと考えてよいだろう。ともあれ、「東国」・「西国」という熟語での「西の方の国」・「東の方の国」ではないが、「西の方の国」・「東の方の国」とペアで使われている。ただし、古田さんが主張しているような、「東国」があれば「西国」も必要、という(言い換えれば「四方の国」)という)意の使われ方ではない。

 ところで、676(天武5)年という時点の記事ということで上のように考えたが、もしかするとこの記事は「大化改新」関連の記事ではないかと思った。つまりこの条はこの時点でヤマト王権に帰順した「西国」の土地の公地公民化の詔勅である。この場合は「封戸」を没収したが、代わりに別の「封戸」を与えている。またまた寄り道になるが、ちょっと調べてみる。「封戸の税」についての〈大系〉の頭注を読んでみよう。

「食封として賜わった戸からの収益。大宝・養老令制では調庸の全額と田租の二分の一が封主の収益となる。封主と封民との間の部曲制的な関係を、土地を変えることによって払拭しょうとしたのであろう。こののち8年4月・9年4月・11年3月に、食封制に関する施策があいついで実施された。」

 「封戸」という用語はこの条だけにしか使われていない。「食封」の方は、これも「へひと」と訓じられていて、初出はあの「改新の詔」(其の一)である。次のようであった。

其の一に曰はく、昔在(むかし)の天皇等(すめらみことたち)の立てたまへる子代の民(おほみたから)・處處(ところどころ)の屯倉、及び,別(こと)には臣・連・伴造・國造・村首(むらのおびと)の所有(たも)てる部曲(かき)の民、處處の田莊(たどころ)を罷(や)めよ。仍りて食封を大夫より以上に賜ふこと、各(おのおの)差(しな)有らむ。

 この後「食封」は、「斉明紀」・「天智紀」にはなく、「天武紀 下」・「持統紀」に頻出する。「天武紀」の「食封」記事は次の通りである。

676(天武5)年8月2日
八月の丙申の朔丁酉に、親王より以下、小錦より以上の大夫、及び皇女・姫王、内命婦等に、食封を給ふこと、各差有り。

 頭注は「大宝・養老令の規定では位封を支給されるのは三位以上であるが、ここではそれよりもはるかに支給対象が広い。」と書いている。大宝令に集約されるまでの一つの過程だったようだ。

679(天武8)年4月5日
夏四月の辛亥の朔乙卯に、詔して曰はく、「諸の食封有る寺の所由(よし)を商量(はか)りて、而可加(ま)すべきは加し、除(や)むべきは除めよ。」とのたまふ。
是の日に、諸寺の名を定む。


680(天武9)年4月
是の月に、勅したまはく、「凡そ諸寺は、今より以後、國の大寺たるもの二三を除きて、以外(このほか)は官司治むること莫(なか)れ。唯し其の食封有らむ者は、先後(さきのち)三十年を限れ。若し年を數へむに三十に滿たば、除めよ。且(また)以爲(おも)ふに、飛鳥寺は司の治に關るべからじ。然も元より大寺として、官司恆(つね)に治めき。復(また)嘗(かつ)て有功(たすか)れたり。是を以て、猶し官治むる例(かぎり)に入れよ」とのたまふ。

この条の頭注
「 諸寺のうち食封を所有しているものは、賜封以後三十年間だけその所有を認めるの意。この規定は大宝元年の大宝令施行まで継続し、以後は五年の制に改められた。」

682(天武11)年3月28日
是の日に、詔して曰はく、「親王より以下、諸臣に至るまでに、給はりし食封、皆止(や)めて、更(また)公(おほやけ)に返せ」とのたまふ。

この条の頭注
「食封制そのものの廃止ではなく、新位階制と関連する新たな基準による食封制実施のため、宮人の食封を一応収公したのであろう。」

 新位階制定は685(天武14)年正月だから間が空きすぎるきらいがあるが、記事が「持統紀」あたりからの流用でないとすれば頭注のような解釈しかないだろう。

 ここで一つ考え直さなければならないことが出てきた。私は九州王朝からヤマト王権への権力移行は持統の頃から始まったと考えていたが、もしかすると天武の頃からかも知れない。「改新の詔」関連記事を元の位置に復元する問題はいずれ再考するつもりでいる。その時にはこのことも念頭において検討したい。

 元に戻る。ついでなので「南国」・「北国」の調べてみた。

 「南国」が単独で使われているのは一例だけ。「仲哀紀」2年3月15日条だ。冒頭だけ掲載する。

三月の癸丑の朔丁卯に、天皇、南國を巡狩す。

 もうずいぶん以前に取り上げた盗用記事である。九州王朝の大王・前つ君による九州一円平定説話を二つに分けて、それぞれ景行紀と仲哀紀に分配・配置したものだった。つまりここの「南国」は九州の「南の方の国」を指す。(「真説・古代史(1)」「真説・古代史(2)」を参照してください。)

 あと一つ、「南国」と「北国」がペアで使われている例がある。

662(天智元年4月条
夏四月に、鼠、馬の尾に産(こう)む。釋道顯占ひて曰はく、「北國の人、南國に附かむとす。蓋し高麗破れて、日本に屬かむか」といふ。

 この年、高句麗は唐・新羅連合軍の攻撃を受けていた。つまり「北国=高句麗」・「南国=倭国」ということになる。

 以上、「北国」や「南国」が倭国内の概念として使われた例は『日本書紀』にはない。
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《真説古代史・近畿王朝草創期編》(202)

「天武紀・持統紀」(117)


「大化改新」の真相(39)
古田説の検討(8):「東国」問題(5)


 次の「東国」は「神功紀」摂政元年2月条。麛坂(かごさか)王・忍熊(おしくま)王の謀反説話に出てくる。

……是に、犬上君の祖(おや)倉見別と吉師の祖五十狭茅(いさち)宿禰と、共に麛坂王に隷(つ)きぬ。因りて、將軍として東國の兵を興(おこ)さしむ。……

 これは明らかにヤマト王権自前の説話である。この説話の舞台は播磨・淡路島・紀・攝津・菟道(うぢ)などである。ここの「東国」は「あづまの国」ではなく、「天武紀 上」(壬申の乱)の場合と同様「東の方の国」である。

 次の「東国」はずっと飛んで592(崇峻5)年11月3日条の馬子による崇峻謀殺記事である。

十一月の癸卯の朔乙巳に馬子宿禰、群臣を詐(かす)めて曰はく、「今日、東國(あづま)の調(みつき)を進(たてまつ)る」といふ。乃ち東漢直駒(やまとのあやのあたひこま)をして、天皇を弑(し)せまつらしむ。

 ここの「東国」の訓はどういうわけか「あづま」だけ。「東の方の国」という意か。〈大系〉の頭注は
「五世紀以降、皇室の東国経営が進展したといわれる。」
と書いているが、「東国」を「あづまの国」と解しているのなら、これはウソになる。「あづまの国」は倭国の傘下にあるとはいえ、れっきとした一部族国家である。その「あづまの国」が「調を進る」としたら、その相手は九州王朝だろう。ここの「東国」も「天武紀 上」(壬申の乱)の「東国」と同様、せいぜい伊勢・伊賀・美濃あたりを指していると思われる。

 次は643(皇極2)11月1日条。蘇我入鹿に襲われた山背大兄王に三輪文屋君が一度退いて体勢を立て直すことを進めるくだりに出てくる。

……三輪文屋君、進みて勧(すす)めまつりて曰さく、「請ふ、深草屯倉に移(ゆ)向きて、玆(ここ)より馬に乗りて、東國(あづまのくに)に詣(いた)りて、乳部(みぶ)を以て本(もと)として、師(いくさ)を興して還りて戦はむ。其の勝たむこと必(かなら)じ」といふ。……

 深草(山城国)に移って、そこから東国に行き、乳部を本拠とするように勧めている。

 ここの「東国」も実におかしい。「乳部」は皇極元年是歳条では「上宮(かみつみや)の乳部」となっている。「上宮」は聖徳太子が居住していた宮とされている。〈大系〉では桜井市上之宮に比定している。そこは明日香村から南東方向に十数kmほどの位置にある。これを「東国」と呼んでいることになる。いずれにしても「あづまの国」ではなく「東の方の国」という意にしかならない。

 「井の中」ではちっともおかしいとは思っていないようだ。頭注は次のように書いている。

「東国は未開の広野であって、皇室との物質的精神的な関係が古くから深かった。畿内で志を失った皇族は、つねに東国に行って再挙を図ろうとした。」

 珍しく歯切れよく断言している。東国に対する偏見といい、東国までヤマト王権の支配領域であったと言うなど、ヤマト王権一元主義の面目(?)躍如といった文章だ。

 次は644(皇極3)年7月条。「皇極紀」は蘇我氏をめぐる権力闘争記事が大半を占めている。その中で極めて異質の説話が混入しているといった感じだ。怪しげな新興宗教の教祖が懲らしめられるという説話。

秋七月に、東國(あづまのくに)の不盡河(ふじのか)の邊(ほとり)の人大生部多(おほふべのおほ)、蟲祭ることを村里(むらさと)の人に勧めて曰はく、「此は常世の神なり。此の神を祭る者は、富と壽とを致す」といふ。……

 富士川のほとりだから、ここの「東国」は疑問の余地がない。私は『「東国」問題(3)』で次のように書いた。

「あづまの国」はもともと「上野・下野」あたりを指す概念だった。それが時代が降るに従って「常陸・武蔵・上総・下総・甲斐・駿河・伊豆・相模」などが加えられながら、概念が拡大されていったと思われる。

 ここで始めて拡大概念としての「あずまの国」が出てきたわけだ。

 さて、次が問題の「孝徳紀」の三つの「東国」である。最終的にはこの記事を検討することになる。

 「孝徳紀」の次は「天智紀」に飛ぶ。

666年(天智5)年是冬条
是の冬に、京都(みやこ)の鼠、近江に向きて移る。百濟の男女二千餘人を似て、東國に居(お)く。……

 ここの「東国」は拡大概念としての「あずまの国」ではあまりにも漠然としすぎる。駿河国とか常陸国とが限定的にいうべきところだ。つまりこの場合は狭義の「あづま国(上野・下野)」ではないだろうか。

 次は「天武紀」だが、「壬申の乱」がらみの「東国」は省く。

675(天武4)年正月17日
是の日に、大倭國(やまとのくに)、瑞鶏を貢れり。東國(あづまのくに)、白鷹を貢れり。近江國、白鵄を貢れり。

 〈大系〉の頭注はこの「東国」を「関東地方の総称」としている。大倭国・東国・近江国と併記されているのだから狭義の「あずま国」と考えるのが順当ではないだろうか。頭注はこのことに気付いているようで「東国惣領からの献上とする説もある」と付記している。この説は根拠のないただの推量でしかない。

 次は676(天武5)4月22日条。

己未に、美濃國司に詔して曰はく、「礪杵郡(ときのこほり)に在(はべ)る紀臣訶佐麻呂の子をば東國(あづまのくに)に遷して、即ち其の國の百姓とせよ」とのたまふ。

 「礪杵郡」は現在の岐阜県土岐郡。従って美濃国司に対する詔勅であるのは当然だ。しかし、ここでも頭注は「東国」を「関東地方の総称」といているが、流罪先をはっきりと指示しない詔勅などありえるだろうか。ここの「東国」の狭義の「あずまの国」だろう。

 最後の「東国」は685(天武14)年10月17日条である。

伊勢王等、亦東國(あづまのくに)に向(まか)る。因りて衣袴を賜ふ。

 この記事は正木さんが「白雉年間の難波副都建設と評制の創設について」で論証しているように、九州王朝による評制を東国全体に施行するために行った伊勢王の活躍を記録した記事の一つを盗用したものである。従ってここの「東国」は広義の「あづまの国」である。

 以上まとめると、「あづまの国」の初源である「上野国・下野国」(あるいは上野国だけかもしれない)を指す場合と、時代とともに範囲が拡大していった広義の「東国」を指す場合がある。それに加えて厄介なことに漠然と「東の方の国」を指す場合がある。このケースははっきりとヤマト王権の自前のものと分かる記事に多く、その範囲は近畿の東方近辺を指している。

 長々と調べてきたが結局は、それぞれの記事の内容と性質(記事が置かれた位置とその前後の記事との関係)によって検討するほかない、という当たり前と言えば当たり前の結論になった。しかし、私にとってはいろいろと学ぶところがあり、決して無駄ではなかった。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(201)

「天武紀・持統紀」(116)


「大化改新」の真相(38)
古田説の検討(7):「東国」問題(4)


 本題に入る前に番外編を一つ。

 「すいません、平仮名に濁点っていつ頃から使われ出したのでしょうか?」というコメントを頂きました。私も興味があるので調べてみました。

 岩波の古典文学大系本には古写本の写真が掲載されています。『古今和歌集』の古写本の写真を見てみました。濁点はありません。平安時代には濁点は使われていなかった。

 『日本書紀』には卜部兼方本(鎌倉時代)が掲載されています。それには片仮名で訓読が付されていますが濁点はありません。鎌倉時代にも濁点は使われていなかった。

 次に『中世近世歌謡集』。その中の「宴曲集」の解説で31册の諸本を挙げて解説をしている。底本に用いている西本願寺本の解説にだけ「句読点・濁点はない」と特筆している。他の本には句読点・濁点があるということなのだろうか。もしそうだとすると、濁点は室町時代には使われるようになっていたということになる。

 私にはこれ以上は調べられないのでネット検索をしてみました。「仮名遣ひの歴史」というサイトを見つけました。内容的に信頼できる資料だと思う。それによると、濁点が使われるようになったのはやはり室町時代のようです。その部分だけ引用しておきます。

室町

 「行阿、定家仮名遣ひを補足。(不徹底が残り、また「お、を」の書き分け原理に間違ひがあったが以後長く権威あるものと見なされた。)

 「じ、ぢ、ず、づ」の発音の混同始まる。濁音記号に「゙」が使はれるやうになる。

新語ではは行転呼が起らなくなる。

「あう、かう、さう、・・・」(開音)と「おう、こう、そう、・・・」(合音)の発音の区別なくなる。

 ちなみに、「語頭以外の〈は行〉の発音が〈わ行〉と同じになる」ことを「は行転呼」と言います。平安時代からのことだそうです。

 本題に戻ります。『日本書紀』の「東国」調べの続きです。

―――――――――――

 「景行紀」には「東国」が先に挙げた27年条も含めて6例出てくる。27年条の次は40年条で、ヤマトタケルが東伐に派遣される経緯が描かれている。

四十年の夏六月に、東(ひむがし)の夷(ひな)多(さは)に叛(そむ)きて、邊境(ほとり)騒(さわ)き動(とよ)む。

秋七月の癸未の朔戊戌(16日)に、天皇、群卿(まへつきみたち)に詔して曰はく、「今東國(あづまのくに)安からずして、暴(あら)ぶる神多に起る。亦蝦夷悉(ふつく)に叛きて屢(しばしば)人民(おほみたから)を略(かす)む。誰(たれ)人を遣(つかは)してか其の亂(みだれ)を平(む)けむ」とのたまふ。……


 27年条の「東国」には頭注がなかったが、ここでは次のような注が付いている。

「東海道相模以東、東山道上野以東、今日の関東地方をさす。」

 「東の方の国」と解釈している。要するにヤマトタケルの東伐に出てくる地名をすべて含むように解釈しているのだ。実は前回(「東国」問題(3))の「景行紀」27年2月12日条は武内宿禰が東国から帰ってきた記事だったが、その直前の記事は東国に出かける記事で次のようである。

二十五年秋七月の庚辰朔壬午(3日)に武内宿禰を遣(つかは)したまひて、北陸(くぬがのみち)及び東方(あづま)の諸國の地形(くにかた)、且(また)百姓の消息(あるかたち)を察(み)しめたまふ。

 赤字部分の原文は「北陸及東方諸國」である。「東方諸國」は『日本書紀』全体でここで一回だけ使われている文言である。一例しかないが、すくなくとも「景行紀」の編纂者は「あづまの国」と「東の方の国」とをはっきりと区別して用いていると考えてよいのではないか。もしそうならば、「景行紀」の「東国」はすべて「あづまの国」と解するのが妥当だろう。

 次は「景行紀」53年条で、ヤマトタケルが征討した国々を巡行した景行の帰国記事である。

十二月に、東國(あづま)より還りて、伊勢に居(ま)します。是を綺宮(かにはたのみや)と謂(まう)す。

 どういうわけか、ここでは「東国」を「あづま」と訓じている。一貫性がない。「東の方の国」というニュアンスを持たせるための訓読だろうか。

 次の55年条・56年条は「崇神紀」48年4月19日条にあった上毛野君始祖譚の詳細版といったおもむき記事である。

五十五年の春二月の戊子の朔壬辰(5日)に、彦狭嶋王(ひこさしまのみこ)を以て、東山道(やまのみち)の十五國の都督(かみ)に拝(ま)けたまふ。是れ豊城命(とよきのみこと)の孫(みま)なり。然して春日の穴咋邑(あなくいのむら)に到りて、病に臥して薨りぬ。是の時に、東國の百姓、其の王の至らざることを悲びて、稀に王の尸(かばね)を盗みて、上野国(かみつけののくに)に葬(はぶ)りまつる。

五十六年の秋八月に、御諸別王(みもろわけのみこ)に詔して曰はく、「汝(いまし)が父(かぞ)彦狭嶋王、任(ことよ)さす所に 向(まか)ること得ずして早く薨(みまか)りぬ。故、汝専(たうめ)東國(あづまのくに)を領(をさ)めよ」とのたまふ。是(ここ)を以て、御諸別王、天皇の命(おほみこと)を承(うけたまは)りて、且(まさ)に父(かぞ)の業(ついで)を成さむとす。則ち行きで治(なさ)めて、早に善き政(まつりごと)を得つ。時に蝦夷騒き動(とよ)む。即ち兵(いくさ)を擧げて撃つ。時に蝦夷の首帥(ひとごのかみ)足振邊(あしふりべ)・大羽振邊(おほばふりべ)・遠津闇男邊(とほつくらをべ)等、叩頭(の)みて來(まうけ)り。頓首(をが)みて罪を受(うべない)ひて、盡(ふつく)に其の地(ところ)を獻る。因りて、降(したが)ふ者(ひと)を免(ゆる)して、服(まつろ)はざるを誅(つみな)ふ。是を以て、東(ひむがしのかた)、久しく事無し。是れに由りて、其の子孫(うみのこ)、今に東國(あづまのくに)に有り。


 この種類の記事はすべて盗用記事だろう。「都督」という称号が目に付く。〈大系〉の補注は「漢文的修辞か」と書いているが、はたしてそんなものだろうか。私はここで倭王武を思い出した。度々引用しているが「宋書倭国伝」を引く。

興死して弟武立ち、自ら使持節・都督、倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事、安東大将軍・倭国王と称す。
順帝の昇明二年、使を遣わして表を上る。いわく「封国は偏遠にして、藩を外に作(な)す。昔より祖禰(そでい)躬ら甲冑を擐(つらぬ)き、山川を跋渉し、寧処(ねいしょ)に遑(いとま)あらず。東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を脱すること六十六国、渡りで海北を平ぐること九十五国。王道融泰(ゆうたい)にして、土を靡(ひら)き畿(き)を遐(はるか)にす。(以下略)


 「都督」を自称したり授与されたりしたのは「武」だけではなく、「珍・済」の項にも「都督」がある。「祖禰(そでい)」がいつ頃まで遡るのか分からないが、九州王朝が、平和的にか武力行使によってか、東は「あづまの国」までを九州王朝の配下に置いたのは「倭の五王」時代だったのではないか。「倭の五王」の頃に倭国でも「都督」という称号が用いられたとしても不思議はない。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(200)

「天武紀・持統紀」(115)


「大化改新」の真相(37)
番外編:「東の夷の中」の日高見国


 景行27年2月12日条に出てくる「東の夷の中」の日高見国について、〈大系〉の頭注は次のように述べている。

「東北、北上川流域地方を指すか。→補注7-二四。」

 そこで補注7-二四を読んでみた。

 日高見国の称は、書紀では景行二十七年二月条・同四十年条の二ヶ所に見え、蝦夷の住地で、陸奥の某所と解せられる。しかし、延喜祝詞式、大祓詞・遷却崇神祭詞には、降臨した皇孫瓊瓊杵尊が、四方の国のなかで「大倭日高見之国」を安国と定めたとあって、大和国を修飾もしくは限定した語として用いられている。また、釈紀所引矢田部公望私記にひく常陸風土記、信太郡条には、「此地本日高見国云々」とあり、万葉集註釈にひく常陸風土記、同郡条にも「日高見国」の称があって、常陸国信太郡の古名としても用いられている。

 ヒタカミの語義については、釈紀にひく矢田部公望私記に「四望高遠之地」、記伝に「何国にまれ、広く平なる地」とし、通釈にひく鈴木重胤説も、四方みな打晴れて小高き所、朝日より夕日迄、天津日の甚能く見ゆる所、であるとする。しかし、おそらくそれは、松村武雄がいうように、本来は「日つ上」「日の上」の意で、太陽の出る方向、すなわち東方の地をいみする語であったと考えられる。津田左右吉は、「大倭日高見之国」の称は、日神の後裔たる天皇の都の地としての美称とするが、これも、天孫の降臨した日向からみて東方の、大和の国にたいする美称とみるのが当っていよう。

 考え得るあらゆる文献を渉猟する知識には感服する。「釈紀所引矢田部公望私記」というわけの分らない書名があるが「矢田部公望の私記を引用している釈日本紀」という意味だろうか。もしそうだとすると「釈日本紀」も「万葉集註釈」も鎌倉末期成立の注釈書である。この後代の注釈書が引用している「常陸風土記、信太郡条」に「日高見国」が出てくると言うが、現存する「常陸風土記、信太郡条」には「日高見国」は全くない。このような後代の注釈書をどこまで信用してよいのか、私には判断ができないが、「常陸国=日高見国」という後代の注釈書を鵜呑みにした説を認めるわけにはいかない。ただし、常陸国を日高見国の一部とみなした時代があった可能性はある。

 「六月晦大祓」のような神武東侵よりはるかに古い農耕初期(弥生前期 天孫降臨の時代)のものと考えられる祝詞に出てくる「大倭」を何の検証もなく「大和」とし、日高見国を「大和国を修飾もしくは限定した語」としている。そして、「「六月晦大祓」の「日高見国」と「景行紀」の「日高見国」を同一視している。その理路は次のようである。

 「日高見国」の称は、西方から東方への進出の限端を示すもので、本来特定の地に固定せず、中央政府の支配権の拡大にともなって東進したものと考えられる。喜田貞吉のいうように、常陸国信太郡を日高見国というのは、その初期の名称であろう。蝦夷の任地としての日高見国については、津田左右吉のようにこれをたんなる空想上の名称とみなす説もあるが、やはりこれも、ある時期における実地名であったと考えられる。三代実録、貞観元年五月条に陸奥国の「日高見水神」がみえ、これは延喜神名式、陸奥国桃生部の日高見神社にあたると考えられるが、吉田東伍はこれによって、今日の北上川を日高見国の遺称とし、景行紀の日高見国とは、北上川流域の広土をさすものとしている。また喜田貞吉は、日本後紀、延暦十六年二月条に載せる続日本紀完成の上表文に、桓武天皇の徳をたたえ、「遂使仁被渤海之北、貊種帰心、威振日河之東、毛狄屏上レ息」とある「日河」も、日高見川=北上川とみるのがふさわしいとしている。景行紀の蝦夷に関する記載が、斉明朝ごろの東北支配の実情を反映するものとするならば、そこにみえる日高見国とは、やはり多賀城の北方、北上川下流の地域とみるのがもっとも妥当であろう。

 「景行紀の蝦夷に関する記載が、斉明朝ごろの東北支配の実情を反映するものとするならば」と、「景行紀」の記事は「斉明紀」の記事をもとに「造作」されたものと考えている。もしもその「造作説」が正しいとすると、「ある時期における実地名」のある時期とは「斉明朝ごろ」ということにある。「六月晦大祓」と矛盾する。それにしても多賀城を持ち出すとは唐突である。場所比定の起点として多賀城を用いてわるいわけではないが、8世紀に設置された多賀城まで登場させる必要はあるまい。

 ともあれ、「日高見国」という国名は「西方から東方への進出の限端を示すもの」という理屈を提示している。「日高見国」は大和から始まって常陸国信太郡まで東進して、さらに「斉明朝ごろ」に「東の夷の中」にまで到ったというわけだ。この理屈だと、尾張・三河・遠江…‥などなどにも「日高見国」という呼称の痕跡がなければなるまい。あるはずがない。

 そして、「日高見」の語源を「太陽の出る方向、すなわち東方の地をいみする語」と言っておきながら、大和国から始まって東進していったはずの「日高見」の語源を陸奥のなかに捜し求めている。事の後先が逆立ちしている。この逆立ちした理論の結果が「日高見川=北上川」つまり「日高見=北上」という語呂合わせのような比定になった。

 以上、「井の中」では諸説入り乱れて混沌としている。「定説」はないようだ。

 ふと思いついて、『日本古代地名辞典』(吉田茂樹編著)を引いてみた。次のようになっている。

「ひたかみ【日高見】 『景行紀』27年に「日高見国」で初見し、『三代』貞観元年(859)には「日高見水神」があって、日高見水神が北上川の水神とみられるところから、当時は蝦夷の住む蕃地(ばんち)であって、宮城県北部から岩手県方面を指した広域の呼称と思われる。「へたかみ(隔上)」の意かと思われ、道奥(みちのく)国の離れた上の地域をいうのかも知れない。」

 ここでは「六月晦大祓」はまったく考慮されていない。「へたかみ(隔上)」語源説にも納得できない。

 それでは「東の夷の中」の「日高見国」は何処で、なぜ筑紫の「日高見国」と同じ表記が使われているのか。この問題を「多元史観」の立場ではどのように論じているだろうか。残念ながらまだきちんと論じている人はいないようだ。いないのなら自身でやればよいのだろうが、私の手には余る。

 ただ手掛かりはある。『東日流外三郡誌』である。幸い私が利用している図書館に『東日流外三郡誌』があったので、「第一巻 古代篇」を借りて来た。見出しに「日高見国」を含む記事を拾い出すと次のようである。

①日高見国東日流古代抄
②日高見国実史雑抄
③日高見国日高国解書
④日高見国国土族抄
⑤日高見国抄 一巻
⑥日高見抄 二巻
⑦日高見国城柵
⑧日高見国道しるべ
⑨日高見国大要
⑩日高見国略記

 『東日流外三郡誌』の記事から史実を取り出すのは相当に困難な作業だと思う。それ相応の論証が必要だが、ここでは一つの仮説として、『東日流外三郡誌』が描く「日高見国」を考えてみる。

 次は①の末尾の一節である。

 邪馬台国にては、日向族に逐電せる主領多く、残るは安日彦の一族にして日向族に応戦せるも敗れ、故地を棄て東国に移るも迫手やまざるに、東北地深く脱却なし、日高見国東日流に落着せり。

 耶馬台族の落着は、狩猟漁捗の先住民なる地於に侵駐せず、葦原なる東日流大里を拓して田畑を耕作なして食をまかなふ故に、先住居住民なる阿曽部族、津保化族ら冬間の飢窮を救はれ、施農に習へて民族は融合せり。

 また是れに、支那及び韓民の大挙して流着なし、正に民族混血融合なし荒羽吐族と称せる国造り修成を司どり、その治政は一族皆兵、地権階級皆無にして、衣食住平等なる配受をなし、一族に貧しく飢ゆる者なく相務めたり。私物なく一食一汁たりとも民族共労奉公に在りて、奥州諸地の民は是に賛同なし、大勢力を以て栄えたり。

 寛政五年十月    秋田孝季


 秋田孝季は「邪馬台国=大和」、「日向族=神武」と考えているが、古田さんが解明したように、「邪馬台国=筑紫」であり「日向族=ニニギ」である。天孫降臨したニニギに破れて安日彦一族(耶馬台族)は日高見国東日流にまで落ち延びた。そして先住民(阿曽部族、津保化族)や渡来人(支那及び韓民)と混血融合し、荒羽吐族を名乗り、日高見国とした。これが初源の日高見国である。 日高見国 (「邪馬台国王之事」より転載)

 私は「「斉明紀」の北方遠征(4)」で「筑紫の安日(あび)彦・長髄(ながすね)彦兄弟の一族が先住民の阿蘇部・津保化族を打ち破って東北の支配者となった」と書いたが、上の引用文によれば平和的に融合したようだ。

 次に『東日流外三郡誌』は「日高見」という国名の由来を次のように書いている。

日高見国日高国解書

 奥州、奥羽を日高見国と称し、渡島を日高国と号したるは竹内宿禰なり。

 日高見国とは日輪の早く昇るる意にして、日出づる処は、日高国(渡島)、東日流国(ツカル)、日高見国(奥州奥羽)の順称なり。奥州、奥羽の地は住民永く朝廷に従ふなく亦、幕令にも従ふこと難し。

 是れ阿曽部、津保化の地民、安倍一族に化縁せしむ故他信せず。

 侵す者を敵とし、捕はるとも心不動にして遺恨を忘れざる故なり。

 依て、倭人は鬼門に日高見国ありとぞ、住むる民を蝦夷とぞ曰ふなり。

  正徳元年 蓮華堂にて 導念房


 この命名譚も私にとっては説得力はない。「大嘗祭とは何か(4)」で古田さんの解釈はそれなりに説得力がある。しかし次の点で「?」が出てくる。

 古田さんは結論として「六月晦大祓」の日高見国を『本来対馬北部を呼ぶ国名だったものが「天孫降臨」後に「筑紫を中心とする地域」の名として使われるようになった』と分析した。もしそうだとすると安日彦一族は落ち延びた先で侵略してきた敵の国名を踏襲したことになる。そのような命名はあり得ないと思う。

 安日彦一族は東日流に稲作技術をもたらしている。そうすると安日彦一族は、縄文水田・弥生初期水田があった板付辺の民と考えられる。命名の意味は判然としないが、筑紫の「日高見国」も安日彦一族の国名だったのではないだろうか。東日流でも故郷と同じ国名を用いたのだ。

 「大嘗祭とは何か(1)」で「支配部族の共同幻想と被支配部族の共同幻想の巧みな交換が行われている」という吉本理論を紹介した。それと同じように、「六月晦大祓」の「大倭日高見国」は支配部族(ニニギ)が放逐された部族(安日彦)の国名を剽窃したのではないだろうか。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(199)

「天武紀・持統紀」(114)


「大化改新」の真相(36)
番外編:「あづま」と「あずま」


 隠居さんからコメントを頂きました。二点あります。面白い問題なので、少し長くなりますが、お答えしようと思いました。一つ目は次のようです。
いよいよ大事な所に差し掛かって参りましたが,残念な事に,“あづま”と“あずま”がごっちゃになっています。(これは貴男,それとも古田武彦氏の責任なのでしょうか。)

◆以前木更津にある“きみさらず”タワーに就いての古田氏の話を聞いた事がありますが,滅茶苦茶でした。

『古事記』由来の「君不去」は「君去らず」。現在の地名表記は「木更津(づ)」で,最後の部分,所謂“四つ仮名”が異なるのです。その事を曖昧にしたままで話を進めると,“ハッタリコンクール”のオンパレードになってしまいます。

学問研究には,言葉(日本語)に就いての素養と厳密さが求められるのです。

 確かに「あずま」と「あづま」が混在していました。混在は不体裁ですから、すべて「あづま」に統一しました。ご指摘ありがとうございました。

 混在の原因は次のようです。
 『日本書紀』などの史書を扱っているので、そこで使われている古訓「あづま」に従って表記しようと心懸けてはいましたが、キーを打つとき(ローマ字入力)に、つい「azuma」と打ってしまい、そのままやり過ごしてしまったようです。これも見直しを面倒がる私の悪癖故の失敗です。しかし「azuma」とキー入力するのは私の従来からの理解(習慣)の故です。以上、古田さんとは何の関係もありません。

 「あづま」と「あずま」の混在は私の不注意が原因でしたが、「私の従来からの理解(習慣)」について述べておきます。

 万葉仮名を経て生まれた平仮名では、「え」と「ゑ」、「い」と「ゐ」のように、本来は異なる発音に対応して異なる平仮名が作られた。しかし、時代が経るに従って一般にその区別が分からなくなって、どちらも同じ発音になってしまった。ついに「ゑ」と「ゐ」は五十音図からの消えてしまった。「ず」と「づ」も同じような運命にある。この二字を発音で区別できる人は一般にはいないでしょう。現代人同士での使用なら「づ」でなく「ず」が当たり前なのです。これが「私の従来からの理解(習慣)」です。

 「広辞苑」を引いてみました。私が使っている「広辞苑」は第2版という古いものです。コンピュータ上で使っている「広辞苑」は第6版です。両方調べてみます。

 第2版は「あずま」だけで「あづま」の項はない。第6版は「あづま」で引くと
あづま【東・吾妻・吾嬬】⇒あずま
となっている。つまり「あづま」に対しては「あずま」を見よ、と言うわけです。その説明は次のようです。

あずま【東・吾妻・吾嬬】(地名他) アヅマ
(1)(景行紀に、日本武尊(やまとたけるのみこと)が東征の帰途、碓日嶺(うすひのみね)から東南を眺めて、妃弟橘媛(おとたちばなひめ)の投身を悲しみ、「あづまはや」と嘆いたという地名起源説話がある)日本の東部地方。古くは逢坂の関以東、また伊賀・美濃以東をいったが、奈良時代にはほぼ遠江・信濃以東、後には箱根以東を指すようになった。
(2)特に京都からみて関東一帯、あるいは鎌倉・鎌倉幕府・江戸をいう称。
(3)東琴の略。

(以下「東」を第一字目に持つ熟語・成句はすべてここに集められている。)
 次の項は
あずま【吾妻・吾嬬】わが妻。記「―はや」

 「あづま」は『古事記』では「阿豆麻」とも表記されていた。この「豆」はどうだろうか。例えば「あづき」と引いてみた。第2版にはない。第6版では「あずき」の誤りという注が出てくる。つまり「あずき」が公認表記となっている。

 隠居さんが例に挙げている「木更津」も調べてみました。第2版「きさらず」で「きさらづ」はない。逆に第6版では「きさらず」の項はなく、「きさらづ」でした。このように公認の表記が変わることもあるのですね。

 前々回「古田説の検討(5)」で引用した古田講演録ではルビは「アズマ」となっていた。講演録をおこした方は現代風の理解でそのようなルビを振ったのでしょう。私はこれが学問的に大きな瑕疵になるとは思いません。

 ところで、こうした現代の仮名遣いの法則を詳しく知りたいと思い、インターネット検索をしたら「連濁はいつ起こるのか?」というサイトがヒットしました。隠居さんが書かれている「四つの仮名」という言葉は実は私には初耳でしたが、そのサイトに「四つ仮名について」という章がありました。その一部分を転載します。

9.四ツ仮名について  前回の更新ではサ・タ行の変化を考えたのですが、ここでそれらの濁音であるザ・ダ行の発音をヘボン式ローマ字であらわすと、次のようになります。

ザ行:ザ ジ ズ ゼ ゾ
    za ji zu ze zo
ダ行:ダ ヂ ヅ デ ド
    da ji zu de do
 *ザ・ダ行の各音についてはのちに考察します。

 上のローマ字をみてもわかるように、ジ・ヂとズ・ヅは現在では同じ発音になっています。そして発音が同じであるこれらのジ・ズ・ヂ・ヅの四つの仮名はむかしから四ツ仮名といいならわされていますが、それらの表記については内閣訓令第一号・内閣告示第一号(昭和61年7月1日付)では、次のようにきめられています。(「現代仮名遣い」の実施について」:岡島昭浩氏掲載のものから引用)

「前書き
 1 この仮名遣いは,語を現代語の音韻に従って書き表すことを原則とし,一方,表記の慣習を尊重して一定の特例を設けるものである。(・・・以下省略。「ぢ」「づ」関係項目は次のとおり。)
 5 次のような語は,「ぢ」「づ」を用いて書く。
 (1)同音の連呼によって生じた「ぢ」「づ」
 例 ちぢみ(縮)(・・・以下省略。)
 (2)二語の連合によって生じた「ぢ」「づ」
 例 はなぢ(鼻血)(・・・以下省略)
 なお,次のような語については,現代語の意識では一般に二語に分解しにくいもの等として,それぞれ「じ」「ず」を用いて書くことを本則とし,「せかいぢゅう」「いなづま」のように「ぢ」「づ」を用いて書くこともできるものとする。
 例 せかいじゅう(世界中) いなずま(稲妻)(・・・以下省略。)」

 上の現代かなづかいの規則は発音に基づき仮名を表記することを原則として、例外としてたとえば「鼻血」(鼻はな+血ち)のように二語からできている複合語や「縮むちぢむ」のような同音連呼の単語については連濁をみとめた表記とするものです。しかしこのような例外については現代人にはなかなか難しい書き分けとなっていると思われます。たとえば「もとづく」(基礎が定まる)という語はもし「基づく」という表記を習っていなければ「基づく」とは書くことができないと考えられます。実際パソコンで「基づく」を打ち出そうとするとき多くの人は(私もよくまちがうのですが)「motozuku」と打って「基づく」がでてこず、あわてて「motoduku」と打ちなおすのではないでしょうか。

 隠居さんのおかげで一つ勉強ができました。

 さて隠居さんのコメントの二つ目です。

◆本件に就いては,中小路駿逸氏の『ヒナとアヅマ~古代文学に見える地理区分について』という非常に手堅い論が『追手門学院大学文学部紀要』No.34(1998)にあります。

この論考を無視,或いは気付かないままで論を進めるのはナンセンスです。

併せ,同氏の「『日本書紀』の書名の「書」の字について」『追手門学院大学文学部紀要』(1988)を読まれる事をお薦めします。

 「この論考を無視,或いは気付かないままで論を進めるのはナンセンスです」とは恐れ入ります。これは言いすぎでしょう。申し訳ありませんが、私は私の記事を、大した代物とは思っていなせんが、「ナンセンス」とも思っていません。勿論、中小路論文がそれほどにも必要不可欠な論文だというのですから、それらの論文が簡単に入手できるのであれば是非読んでみたいと思っています。しかし、門外漢の私には入手の手だてがありません。残念なことです。

 隠居さんのコメントはいつも古田さんの非を咎めています。私はそこに憎悪すら感じますが、穿ちすぎでしょうか。一方、中小路さんへにはたいへん大きな賞賛を与えている。私は古田さんと中小路さんは同じ立場に立ち、お互いに良き理解者だと理解していますが、古田さんと中小路さんの間に何か敵対関係でも生じたのでしょうか。あるいは隠居さん自身と古田さんの間に何かあったのでしょうか。私には発表されたお二人の論文の真偽にこそ興味があるので、上のような詮索は無用とは思っているのですが、一応このような疑念を持ったので書き添えておきます。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(198)

「天武紀・持統紀」(113)


「大化改新」の真相(35)
古田説の検討(6):「東国」問題(3)


 これまでに分かったことをまとめると、「あづまの国」はもともと「上野・下野」あたりを指す概念だった。それが時代が降るに従って「常陸・武蔵・上総・下総・安房・甲斐・駿河・伊豆・相模」などが加えられながら、概念が拡大されていったと思われる。

 さて、『古事記』本文にある「あづまの国」は前回に取り上げたものだけだが、もう一つ「序文」に「東国」がある。「壬申の乱」を素描しているくだりで使われてる。古事記序文が描く「壬申の乱」については『「古事記」序文が描く「壬申の乱」(1)』で全文を掲載しているが、ここではさわりの部分だけを再掲載しておく。

……然れとども、天の時未だ臻(いた)らずして、南山に蝉蛻(せいぜい)し、人事共給(そな)はりて、東國に虎歩(こほ)したまひき。……

 ここでの舞台は古賀さんが解明したように筑紫である。それをふまえて捉えれば、ここの「東国」は「あづまの国」ではなく明らかに「東の方の国」である。しかし「東の方の国」全部を指しているわけではない。

 『日本書紀』の偽装「壬申の乱(天武紀 上)」では「東国」が頻出する。こちらの「東国」は、そこに出てくる具体的な地名から、伊勢・伊賀・美濃あたりを指しているようだ。それらは明らかに「あづまの国」ではない。従ってこの場合の「東国」も「あづまの国」ではなく「東の方の国」と言う意である。しかし、この場合も「東の方の国」全部を指しているわけではない。

 それでは『日本書紀』の他の「東国」はどうだろうか。『日本書紀』のそれぞれ記事をヤマト王権自前の記事なのか、九州王朝の史書からの盗用記事なのか、判別するのが難しい。もしその判別ができなければ、この種の調査はあまり意味がないかも知れない。しかし、ともかく全てを抽出してみよう。

『日本書紀』

 初出は「神代 下」第九段(一書第二)である。

……此の神、今東國(あづま)の檝取(かとり)の地(くに)に在(ま)す。……

 言うまでもなく、「檝取」とは千葉県香取市である。下総国ということになる。

 次は「崇神紀」に出てくる。

崇神48年正月10日
……則ち天皇相夢(ゆめのみあはせ)して、二の子(みこ)に謂(かた)りて曰く、「兄は一片(ひとかた)に東(ひむがし)に向けり。當(まさ)に東國を治(し)らむ。弟は是(これ)悉(あまねく)四方(とも)に臨めり。朕(わ)が位に継げ」とのたまふ。

崇神48年4月19日
四月の戊申の朔丙寅に、活目尊を立てて皇太子としたまふ。豊城命を以て東國を治(をさ)めしむ。是、上毛野君(かみつけのきみ)・下毛野君(しもつけのきみ)の始祖なり。

 上の二つの記事は上毛野君・下毛野君の始祖譚である。『日本書紀』には下毛野君は一人も登場しないが(見落としていました。持統3年10月22日条に一人いました。「辛未。直廣肆下毛野朝臣子麻呂、奴婢陸佰口を免さむと欲ふと奏す。奏すままに可されぬ」。以上8月5日に追記。)、上毛野君は頻出している。唐・新羅戦に派遣された倭国の前将軍・上毛野君稚子が私(たち)にはおなじみである。上毛野君は天智紀のほかに崇神・応神・仁徳・安閑・舒明紀に出てくる。現在に「吾妻」という地名が残っているように、上毛野国が「あづまの国」の中枢国だった。

景行27年2月12日
 二十七年の春二月の辛丑の朔壬子に、武内宿禰、東國より還て奏して言さく、「東(あづま)の夷(ひな)の中に、日高見國(ひたかみのくに)有り。其の國の人、男女並に椎結(かみをわ)け身を交(もどろ)けて、爲人(ひととなり)勇み悼(こは)し。是を總べて蝦夷(えみし)と曰ふ。亦土地(くに)沃壌(こ)えて曠(ひろ)し。撃ちて取りつべし」とまうす。

 これも当然のことながら、蝦夷は「東(あづま)の夷(ひな)の中」であり、「あづまの国」には属さない。

 ところで、「日高見國」という印象深い地名が出てきた。「大嘗祭とはなにか(2)」で祝詞「六月晦大祓」を取り上げた。その祝詞の中に「大倭日高見之国」が出てくる。この地名の古田さんによる解読を「大嘗祭とはなにか(3)」で紹介した。その結論は次のようだった。

『本来対馬北部を呼ぶ国名だったものが「天孫降臨」後に「筑紫を中心とする地域」の名として使われるようになった。』

 これがどうして「「東(あづま)の夷(ひな)の中」にある国名として出てくるのだろうか。ちょっと横道に入る嫌いがあるが、こだわってみたい。(次回で)
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(197)

「天武紀・持統紀」(112)


「大化改新」の真相(34)
古田説の検討(5):「東国」問題(2)


 「あづまの国」の範囲は時代につれて変わっていった。巻18・4094番は「鶏が鳴く 東の國>の 陸奥の」と詠っている。私はこれを「東の方の国の陸奥」ではなく「あづまの国の中の陸奥」と解した。749(天平21)年段階では陸奥国は「あづまの国」の一つであったが、701年以前では陸奥国は「あづまの国」に入ってはいなかった。『日本書紀』では陸奥は「陸奥の蝦夷」という表記で現れている。『続日本紀』を見ると、697(文武元)年10月19日と698(文武2)年10月23日に陸奥からの貢献記事があるが、そこでは「陸奥の蝦夷」と『日本書紀』と同じ表記になっている。「陸奥国」という表記の初出は702(大宝2)4月15日条である。

 「東国」概念の変遷を調べてみよう。『古事記』・『日本書紀』での「東国」の使われ方を調べてみる。

『古事記』

 『古事記』では「あづま」には「東」のほかに「阿豆麻」という表記がある。

 「東国」は一例だけある。「小碓命(倭建 やまとたける)の東伐」の段である。

故、尾張國に到りて、尾張國の造の祖、美夜受(みやず)比賣の家に入り坐しき。乃ち婚(まぐは)ひせむと思ほししかども、亦還り上らむ時に婚ひせむと思ほして、期(ちぎ)り定めで東の國に幸でまして、悉に山河の荒ぶる神、及(また)伏(まつろ)はぬ人等を言向け和平(やは)したまひき。故爾に相武(さがむの)国に到りましし時、其の國の造詐(いつは)りて白ししく、……

 これによると、当然のことながら尾張国は「あづまの国」には入らない。相模国は「あづまの国」の一つとして記されている。

 同じ「小碓命の東伐」段の地名説話で「阿豆麻」が使われている。

其れより入り幸(い)でまして、悉に荒夫琉(あらぶる)蝦夷等(えみしども)を言向(ことむ)け、亦山河の荒ぶる神等を平和(やは)して、還り上り幸でます時、足柄の坂本に到りて、御粮(みかれい)食(を)す處に、其の坂の神、白き鹿(か)に化(な)りて來立(きた)ちき。爾に即ち其の咋(く)ひ遺(のこ)したまひし蒜(ひる)の片端を以ちて、待ち打ちたまへば、其の目に中(あた)りて乃ち打ち殺したまひき。故、其の坂に登り立ちて、三たび歎かして、「阿豆麻波夜(あづまはや)。〈阿より下の五字は音を以ゐよ〉」と詔云(の)りたまひき。故、其の國を號(なづ)けて阿豆麻と謂ふ。

 「足柄」は巻9・1800番にもあった。「足柄」は「あづまの国」内である。

 「阿豆麻」はもう一例、「あづまの国」という意味で「雄略記」の歌謡の中で使われている。

 ここで、古田さんの講演録「神と人麻呂の運命3」(『古代に真実を求めて 第五集』所収 HP「新・古代学の扉」で読めます。)から、上の地名説話に関する部分を紹介しよう。

 「歴史は足にて知るべきものなり」(秋田孝季の言葉)をモットーとする古田さんは、上記の説話に対する疑問を解くべく、実際に碓井峠に登る。(『日本書紀』では「足柄の坂本」を「碓日坂(うすひのさか)」としている。古田さんは『日本書紀』の記事をもとに論じている。それで「碓日坂」の現在地名「碓井峠」(碓氷峠と同じ)を用いている。)

 有名な「吾嬬アズマはや」の話。碓井峠。『古事記』ではヤマトタケルが浦賀水道を視て、嘆いた。この話があります。この話は、近畿では誰も不思議には思わないが、関東では必ず質問がでる。あの話がおかしい。なぜかと言いますと、だいたい碓井峠から、浦賀水道や東京湾はぜんぜん見えない。行ってみた。予想通り。地図で見ても、見えないと考えていて、行ってみて予想通りやはり見えない。それ以上におかしいのは、左手の下方にアズマがある。東京湾の方向を見て、「吾妻アズマはや」と言うわけです。言って悪いことはないが、違う方向にアズマがある。90度違った方向に「吾妻アズマ」が密集している。変である。やはり現地に行かなければならない。吾妻町へ下りて泊まりました。その時は、ひじょうに調子よく、行けばすぐに答が分かった。土地の人に聞くと、「我々が碓井峠と呼んでいるのは、列車が通る碓井峠や、その北の元の碓井峠ではありません。今の鳥居峠を指して呼んでいます。」と言われた。吾妻川に沿って信州に上がるところに鳥居峠がある。それを指して、われわれは「碓井うすい峠」と呼んでいます。そのように言われた。

 ここから先はわたしの考え方です。推定です。男の神様が、信州へ行く。何を目的に行ったのか。信州は縄文時代はメッカです。諏訪の阿久遺跡(縄文時代後半)から有名な配列された石の遺構(環状集石群)がでて、周辺から集まっていた痕跡がでてきた。当時は遺跡ではない。あの遺跡に神様がお集まりになったという神話が存在していても不思議ではない。ですから鳥居峠に来て振り返る。目の下に、吾妻川があり、吾妻(アズマ)がある。吾妻姫が祭られています。ここから信州に下れば、吾妻(アズマ)は見えない。ですから、そこで「アズマはや」とつぶやいてもなんの不思議もない。ですからピタリと合います。

 『日本書紀』の日本武尊(ヤマトタケル)なら、奥さんはたくさんいる。「弟橘おとたちばな媛はや」と言わなければ、「吾嬬はや」では、どの奥さんか分からない。へ理屈を言っているようですが、そのような疑問がありました。しかし今のように考えれば何の疑問もない。ですから明らかに、現地の縄文神話を切り取って張り付けている。

 ところで、『古事記』本文にある「あづまの国」は上に挙げたものだけだが、「序文」に「東国」がある。「壬申の乱」を素描しているくだりで使われてる。『日本書紀』の「壬申の乱(天武紀 上)」には「東国」が頻出する。具体的な地名としては美濃・東海・東山(どこだか不明)が出ている。東海の一部が「あづまの国」にはいるが美濃は「あづまの国」ではない。「壬申の乱」における「東国」は「あづまの国」ではなく明らかに「東の方の国」と言う意だ。

 それでは『日本書紀』の他の「東国」はどうだろうか。『日本書紀』のそれぞれ記事をヤマト王権自前の記事なのか、九州王朝の史書からの盗用記事なのか、判別するのが難しい。もしその判別ができなければ、この種の調査はあまり意味がないかも知れない。しかし、ともかく全てを抽出してみよう。

(次回に続く)
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(196)

「天武紀・持統紀」(112)


「大化改新」の真相(33)
古田説の検討(4):「東国」問題(1)


 古田さんが取り上げているもう一つの問題は(1)「東国国司の発遣」・(8)「東国国司の違反調査」・(9)「朝集使の報告」に現れる「東国」である。次のように論じている。

 大化改新詔の先頭は、「八月の丙申の朔庚子に、東國等の國司を拝す。」からはじまっている。(1)の詔勅である。次いで、(8)も「三月の癸亥の朔甲子に、東國の國司等に詔して曰(のたま)はく」とあり、(9)も「辛巳に、東國の朝集使等に詔して曰はく」となっている。全16回の詔勅中の3回にすぎないとも言えるけれど、他に同類の表現(西・南・北国)はないから、やはり突出した表記(分野)と言わなければならない。

 しかも、(5)には「改新之詔」の言葉と共に、「畿内」の定義が記せられている。

「凡そ畿内は、東は名墾(なばり)の横河より以来、南は紀伊の兄(せの)山より以来、〈此を制(せ)と云ふ。〉西は赤石(あかし)の櫛淵より以来、北は近江の狭狭波の合坂山より以来を、畿内國とす。」

 この「畿内國」を原点として「東国」を指すとすれば、当然「西国」も必要だ。中国や四国や九州である。しかし、それはない。いくら学者が近畿地方より東の、東海、北陸、さらに関東地方の〝重要性″を説いてみても、それらは結局、「西国、指示」の無用性の〝証明″にはなりえないであろう。やはり〝半端″なのである。

 しかも、この「畿内國」定義のすぐあと次の文面がある。
「凡そ畿内より始めて、四方の國に及(いた)るまでに、」
だ。とすれば、ここには、「東国=四方の国」という概念がしめされている。なぜか。その答えは一つ。

「これらの詔勅の〝原文面″における原点は九州である。」

 九州を原点とすれば、この「東国」はすなわち「四方の國」となる。何の問題もないのだ。

 古田さんは詔勅(1)(8)(9)の発令者を九州王朝としている。その発令時については何も書かれていない。もし九州王朝が発令者だとすると、これらの詔勅は国司たちの働きぶりを精査し賞罰するという詔勅だから、九州王朝がまだ権力の中枢にあった時期、つまり「白村江の戦」以前ということになろう。

 さて、この立論は私(たち)が検討してきたことと真っ向から対立している。古田さんの立論を検討してみよう。

 古田説の論旨をまとめると次のようである。

①「畿内國」が原点なら「東国」以外にも同類の表現(西・南・北国)が必要だ。
②「畿内より始めて、四方の國」という文言は「東国=四方の国」という概念をしめしている。
①・②から、これらの詔勅の原点は九州である、と結論している。

 ①から、古田さんが東国を「東方の国」と解していることが分かる。まず、この解釈が妥当かどうか検討してみよう。

 『日本書紀』では「東国」はすべて「あづまのくに」と訓じている。では、720年頃の人々は「東国」という字句から、まずどのような概念を思い起こすだろうか。「東方の国」だろうか、「あづまのくに」だろうか。

 まず、『万葉集』に出てくる東国を調べてみた。『万葉集』では「あづま」の原文表記は「東」のほかに「吾妻」・「吾嬬」・「安豆麻」がある。どの表記でも、「~国」とある場合はすべて「東方の国」ではなく、「あづまのくに」である。以下のようだ。(私自身の学習を兼ねている。読んだことのない歌もあるので、楽しみながら一応全部掲載する。煩わしければ、読み飛ばしてください。)

巻2・199番
 これはあの「「州柔の戦闘」を詠った人麿の歌である。『人麿が「壬申の乱」を詠った?(1)』に全文を掲載しているが、ここではさわりの部分だけを引用する。

……食(を)す國(くに)を 定めたまふと 鶏(とり)が鳴く 吾妻(あづま)の國の 御軍士(みいくさ)を 召し給ひて……

巻3・382番/383番
 筑波岳に登りて、丹比真人國人の作る歌一首幷に短歌

鶏が鳴く 東(あづま)の國に 高山は 多(さは)にあれども 朋神(ふらかみ)の 貴き山の 並み立ちの 見が欲し山と 神世より 人の言ひ繼ぎ 國見する 筑羽の山を 冬こもり 時じき時と 見ずて行かば まして戀(こほ)しみ 雪消(げ)する 山道すらを なづみぞわが來る

  反歌

筑羽嶺(つくはね)を外(よそ)のみ見つつありかねて雪消の道をなづみ來(け)るかも


 次は悲しい挽歌。防人だろうか。使役を終えて帰る道すがら行き倒れた人がいる。その死を歎き悲しんでいる。

巻9・1800番
 足柄の坂を過ぎて死(みまか)れる人を見て作る歌一首

小垣内(をかきつ)の 麻を引き干し 妹なねが 作り着せけむ 白栲の 紐をも解かず 一重結ふ 帯を三重結ひ 苦しきに 仕へ奉りて 今だにも 國に罷りて 父母も 妻をも見むと 思ひつつ 行きけむ君は 鳥が鳴く 東の国の 恐(かしこ)きや 神の御坂に 和膚(にきはた)の 衣寒らに ぬばたまの 髪は亂れて 國問へど 國をも告(の)らず 家問へど 家をも言はず 大夫(ますらを)の 行きのまにまに ここに臥(こや)せる


 次はあの有名な「真間の手兒名」説話を詠った歌。

巻9・1807番/1808番
 勝鹿(かづしか)の真間娘子(ままのをとめ)を詠む歌一首短歌を幷せたり

雞が鳴く 吾妻の國に 古に ありける事と 今までに 絶えず言ひ來る 勝鹿の 真間の手兒名(てごな)が 麻衣(あさきぬ)に 青衿(あをくび)着け 直(ひた)さ麻(を)を 裳には織り着て 髪だにも 掻きは梳(けづ)らず 履(くつ)をだに 穿(は)かず行けども 錦綾(にしきあや)の 中につつめる 齊(いつぎ)子も 妹に如(し)かめや 望月の 滿(た)れる面(おも)わに 花の如(ごと) 笑(え)みて立てれば 夏蟲の 火に入るが如 水門(みなと)入(いり)に 舟漕ぐごとく 行きかぐれ 人の言ふ時 いくばくも 生けらじものを 何すとか 身をたな知りて 波の音(と)の 騒く湊の 奥津城(おくつき)に 妹が臥(こや)せる 遠き代に ありける事を 昨日(このふ)しも 見けむが如も 思ほゆるかも

  反歌

勝鹿の真間の井を見れば立ち平(なら)し水汲ましけむ手兒名し思ほゆ


『続日本紀』749(天平21)年2月22日条に次の記事がある。

天平廿一年二月丁巳、陸奥国、始めて黄金を貢ぐ。是において、幣を奉り、以って畿内七道諸社に告げり。

 陸奥国から始めて金が献上された。次の歌はそのとき出された宣命を題材にしている。そしてこの歌こそ、『日本のナショナリズム(9):第2国歌「海ゆかば」』で紹介したように、大伴家持が祖先の「言立て」た言葉だとして第2国歌「海ゆかば」の歌詞を詠い込んでいる長歌なのだった。

巻18・4094番
 陸奥国より金(くがね)を出(いだ)せる詔書を賀(ほ)く歌一首短歌を幷せたり

葦原の 瑞穂の國を 天降り 領(し)らしめしける 天皇(すめろき)の 神の命の 御代重ね 天の日継と 知らし來る 君の御代御代 敷きませる 四方(よも)の國には 山河を 廣み厚みと 奉る 御調(みつき)寶は 数へ得ず 盡くしもかねつ 然れども 我が大君の 諸人(もろひと)を 誘(いざな)ひ賜ひ 善き事を 始め賜ひて 黄金(くがね)かも たのしけくあらむ と思ほして 心(しん)悩ますに 鶏が鳴く 東の國の 陸奥(みちのく)の 小田なる山に 黄金ありと 申し給へれ 御心を 明め賜ひ 天地の 相珍(うづ)なひ 皇御祖(すめろき)の 御霊(みたま)助けて 遠き代に かかりし事を 朕(あ)が御代に 顕(あらは)してあれば 食(をすす國は 榮えむものと 神ながら 思ほしめして 物部(もののふ)の 八十伴(やそとも)の男(を)を 服従(まつろへ)の 向けのまにまに 老人(おいひと)も 女童兒(めのわらは)も 其(し)が願ふ 心足(たら)ひに 撫で給ひ 治め給へば 此(ここ)をしも あやに貴み 嬉しけく いよよ思ひて 大伴の 遠つ神祖(かむおや)の その名をば 大來目主(おほくめぬし)と 負ひ持ちて 仕へし官(つかさ) 海行かば 水浸(みづ)く屍(かばね) 山行かば 草生(む)す屍 大君の 邊(へ)にこそ死なめ 顧り見は せじと言立(ことだ)て 大夫(ますらを)の 清きその名を 古(いにしへ)よ 今の現(をつつ)に 流さへる 祖の子どもそ 大伴と 佐伯の氏(うぢ)は 人の祖(おや)の 立つる言立(ことた)て 人の子は 祖の名絶たず 大君に 奉仕(まつろ)ふものと 言ひ繼げる 言の職(つかさ)そ 梓弓 手に取り持ちて 剱大刀 腰に取り佩き 朝守り 夕の守りに 大君の 御門の守護(まもり) われをおきて 人はあらじと 彌(いや)立て 思ひし増さる 大君の 御言の幸(さき)の〈一に云わく、を〉 聞けば貴み〈一に云わく、貴くしあれば〉

  反歌三首

大夫の心思ほゆ大君の御言の幸(さき)を〈一に云わく、の〉の聞けば貴み〈一に云わく、貴くしあれば〉
大伴の遠つ神祖(かむおや)の奥津城はしるく標(しめ)立て人の知るべく
天皇(すめろき)の御代栄えむと東(あづま)なる陸奥山に金(くがね)花咲く

〈天平感寶元年五月の十二日、越中國の守の館にて、大伴宿禰家持作れり。〉


(おまけ)
「吾妻」で検索したとき、次の歌にであった。「あづま」の国ではなく「私の妻」という意味で使われている。「かがい」を詠った歌だ。大らかというか大胆というかハチャメチャというか、実に羨ましい(?)風俗である。

巻9・1759番/1760番
筑波嶺に登りて嬥歌會(かがひ)をする日に作る歌一首短歌を幷せたり

鷲の住む 筑波の山の 裳羽服津(もはきつ)の その津の上に 率(あども)ひて 未通女(をとめ)壮士(をとこ)の 行き集ひ 嬥歌(かがひ)に 人妻に 吾(あ)も交(まじ)はらむ 吾が妻に 他(ひと)も言問(ことご)へ この山を 領(うしは)く神の 昔より 禁(いさ)めぬ行事(わざ)ぞ 今日のみは めぐしもな見そ 事も咎むな〈嬥歌は、東の俗語にかがひと曰ふ〉

  反歌

男(を)の神に雲立ちのぼり時雨ふり濡れ通るともわれ帰らめや

〈右件の歌は、高橋連蟲麻呂の歌集の中に出づ。〉


(この項つづく。)
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(195)

「天武紀・持統紀」(110)


「大化改新」の真相(32)
古田説の検討(3):公地公民」問題


 古田さんが「薄葬令」のほかに取り上げている詔勅は(1)(8)(9)の「東国国司」への詔と(5)の「改新の詔」である。前者は『「東国」問題』、後者は『「公地公民」問題』と題して論じている。「公地公民」問題を先に読むことにする。


 この「大化改新詔」のハイライト、それは「公地公民」問題だ。

 従来の「大化改新詔」論の基本、それはこの詔の目指すところが「私地私民」を排し、「公地公民」の樹立を宣告するところにあった。 - これが共通見解である。

 この間題をめぐる論争は、文字通り百花繚乱だ。経済史、法制史から社会史、日本古代史に至るまで、すでに明治以来、大正・昭和、その戦前から戦後まで、もちろん「郡評論争」以降も一段と「鋭さ」と「華やかさ」をましてきた、といっていい。

 そのすべての一点一点、精細に吟味して、一つひとつ再批判する。それがわたしにとっての責務、なすべき道であろう。しかし、それは次の機会にまわし、今はストレートに、ことの筋道、その本道を「大わく」においてしめしたい。

 問題は、「私地私民」(α)及び「公地公民」(β)の意味だ。従来の「通解」では、「私地私民」とは豪族たちの領地と領民、「公地公民」とは天皇家の領地と領民。その意となろう。

 けれども、その場合、その「豪族」を蘇我氏の一党とした場合、はたして歴史上経済史上の事実は、そのような展開の事実をしめしているのだろうか。 - 全く「否」だ。

 なぜなら、7世紀後半も、蘇我氏ないし藤原氏の時代だ。その点、8世紀になっても変わらない。いよいよ「藤原氏専横」をきわめたこと、周知のとおりである。

 それゆえ、ことの「事実」と「詔勅群」のしめすところとの「大きな誤差」の前で専門家は悩んだ。迷った。その結果、おびただしい論文群の一大生産となったように思われる。

 この一事こそ、実は日本書紀の真に「目指した」ところを暗示していたのであった。

 5~6世紀の北魏になって作られた「魏書」、この一書が日本書紀の「モデル」となった。最大の先範だったのである。この点、すでにくりかえしのべたところであるけれども(『なかった』第4号、39頁など)、今、その要点を簡約しよう。

(1)
 鮮卑が南下して長安と洛陽を占拠し、北魏を創建したとき、その初代は太祖道武帝であったが、当人以前の各代、成帝から昭成帝什翼犍として、すべて「~帝」の形で記されている。

 日本書紀もまた、「701」の文武天皇以前を「神武~持統」の間を「~天皇」と記した。

(2)
 「魏書」はその背表紙に「魏書紀」と共に「魏紀」と記している。日本書紀が続日本紀で「日本紀」と記されているのと、同一である。

(3)
 その記載する神話、説話にも、両者相類似するところが少なくない。たとえば「鮮卑と魏・西晋、両者の一大交流」と「神功皇后(倭国の女王)と魏・西晋の一大交流」なども、重要なその一脊柱である。

 周知のように、日本書紀はこの神功紀の「創出」こそがその「編年の基点」とされているのである。

 今、肝心の問題は次の一点だ。

 鮮卑は、旧西晋の地(黄河流域)を占拠し、その土地と領民を「北魏」の地とした。彼等の場合、騎馬民族であったから、「馬群の管理」が重視されている。

 ともあれ、従来の「西晋の朝廷の領地と領民」はすでに「私地私民」とし、それに代る「北魏の支配」を以て「公地公民」とした。これに従って日本書紀は「701」以前の(九州王朝関連の)領地と領民を一切「私地私民」とし、それに代る「近畿天皇家側の天皇家や藤原氏たちの豪族」のものを「公地公民」としたのである。

 このような理解からすれば、「701」以降、いよいよ「藤原氏の支配」が拡大されたとき、これこそ「公地公民」の徹底であり、その実現だったのである。

 このような「8世紀の公地公民制」は、決して(元正天皇や藤原氏等の)〝勝手気まま″に非ず、あの天智天皇と天武天皇の間で交された「施行」の公約の「実現」に他ならない。 - これが日本書紀最大の目途、達成目標とすべきところだったのである。

 上の論考から、古田さんは(5)の発令者を近畿天皇家としていると考えてよいだろう。また、この詔勅の発令時についてもはっきりと書かれていないが、次のように推定できる。

 上の引用文では「701」年が強調されている。旧唐書(倭国と日本国をはっきりと区別している)・木簡(藤原宮出土など。評から郡への変遷)・大宝年号開始などの示すところから、古田さんは701年を「ヤマト(New)王権が名実ともに九州(Old)王朝からの権力奪取を果たした」年としてONラインと呼んで、いろいろな論文で繰り返し強調している。そして「改新の詔」〈その二〉には「郡制」規定記事がある。以上から、古田さんはこの詔勅の発令時は「701」年と考えていると判断して間違いないだろう。

 ともあれ、『「改新の詔」をめぐって(1)』で、(5)「改新の詔」〈その第一〉や(10)「皇太子の奏上」の意味する本質は「近畿天皇家による九州王朝からの資産奪取を示す」という正木さんの説に同意したが、古田さんが言わんとするところと一致する。

 それにしても『日本書紀』が「魏書」を「モデル」して編纂されたとは! このような知見は古田さんならではのものだと思う。ただただ感嘆するばかりだ。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(194)

「天武紀・持統紀」(109)


「大化改新」の真相(31)
古田説の検討(2):「詔勅群、一括」問題


 (1)~(16)の一連の詔勅はどの時代から移動されたのか。基本的には九州年号大化期かその前後と考えられるが、すべてが大化期のものとは限らないのではないだろうか。特に(11)(15)(16)はこれまでの検討結果から、他の時代から移されたものとしても、冠位制(1)(603 推古11年)以後・冠位制(4)(661 斉明7年)以前でなければならない。また、これまでのいろいろと調べてきた過程で私は次のように考えるに到った。すなわち、(1)~(16)の詔勅はもともと孝徳紀に書かれた順序通りにあったわけではない。

 さて、古田さんは『「詔勅群、一括」問題』と題して、なぜ孝徳紀にこれほどの詔勅群があるのかを論じている。次のようである。

 従来から不審とされてきたところ、それは大化年間の項に16個もの詔勅、それも長文の、内容もぎっしりつまった詔勅類がつめこまれている点だ。津田左右吉も、もちろん疑念をいだいた。「645」に蘇我入鹿を斬ったあと、その直後に「待ってました」といった具合に、これほどの数の詔勅を一括して〝出しつづけ得る″はずがないからである。

 そのため、この詔勅類の成立時期をもっと下げて、天智天皇の項(近江令)や天武天皇の項(浄御原令)へもってゆく案(門脇、原氏等)が出されたのである。

 しかし、わたしは考える。これは日本書紀自身の「構成法」にもとづくものだ、と。なぜなら、同じ日本書紀の安閑紀を見れば、ここには「屯倉(みやけ)」記事がぎっしりつめこまれている。2年5月の項である。
「五月の丙午の朔申寅に、筑紫の穂波屯倉」
からはじまって、「駿河國の稚贄屯倉」に至るまで、各国27個の屯倉が〝すしつめ″のように列記されている(その前後にもある)。「歴史事実」の問題として、「2年5月」という限定された時点で、これだけの屯倉をこれほどの各地におくことなど、できるはずもない。これは今までの各家、誰しも感じてきたところだ。これは何か。

 辞書類の中に「事典」というものがある。一定の事項を一個所に集めて「読者の便」に供するものだ。「類集」という名の本も、古くから行われて〝便″とされてきた。日本書紀はこの「やり方」をしている。それが「安閑二年」という一時点に「おしこまれ」ているから、人の目を〝あやまらせ″るのだ。要は、「歴史書の中身に、『事典』の手法を取り入れている。」にすぎないのである。

 わかり切っている話を事新しく書いたのは、なぜか。実は、今問題の焦点、「大化年間」の項に集められた「詔勅群」もまた、右と同じく、一種の「事典」なのである。決して「大化年間」などという「一時点」のこととして〝扱っては″ならない。この点、「屯倉」記事と同じである。
 「屯倉」記事も、「筑紫」からはじめられ、九州にかなりのウエイトがかけられているように、「九州王朝の屯倉」記事を「九州王朝の史実」から〝類集″して、ここ(安閑2年)に「つめこんで」いるのである。

もちろん、この場合は「屯倉」記事とはちがって、「近畿の固有名詞」や「近畿の天皇名」や「近畿の事項」が挿入されている。それは確かだ。しかし、ことの基本性格は、やはり「九州から近畿へ」という一点にある。動かすことはできない。

 しかも、その時期は決して「大化2年」という一時期について「九州から近畿へ」とスライドさせたものではない。ひろく、「7世紀初頭から7世紀末まで」の詔勅群を一括してここに「類集」していたのである。その目的は何か。


 「事典」あるいは「類集」とは言い得て妙である。『ひろく、「7世紀初頭から7世紀末まで」の詔勅群を一括してここに「類集」し』たという結語は冒頭に書いたことと一致する。

 ところで、「安閑記」の記録は次のようである。

御子廣國押建金日命、勾の金箸宮に坐しまして、天の下治らしめき。此の天皇御子無かりき。〈乙卯の年の三月十三日に崩りましき。〉御陵は河内の古市の高屋村に在り。

 たったこれだけ、これで全部である。記録すべき事績がなかったのだろう。次に「安閑紀」を読んでみた。なんと、初めの即位記事と最後の死亡記事以外はすべてが屯倉に関わる記事である。明らかに九州王朝の史書からの盗用である。2年5月条は次のようである。まさに屯倉のオンパレードだ。

五月の丙午の朔甲寅に、筑紫)の穂波屯倉・鎌屯倉、豊國の榺碕(みさき)屯倉・桑原屯倉・肝等(かと)屯倉〈音を取りて讀め。〉大抜屯倉・我鹿屯倉、〈我鹿、此をば阿柯と云ふ。〉火國の春日部屯倉、播磨國の越部屯倉・牛鹿屯倉、備後國の後城(しつき)屯倉・多禰屯倉・來履(くくつ)屯倉・葉稚(はわか)屯倉・河音屯倉、婀娜國の膽殖(いにゑ)屯倉・膽年部屯倉、阿波國の春日部屯倉、紀國の經湍(ふせ)屯倉〈經湍、此をば俯世と云ふ。〉河邊屯倉、丹波國の蘇斯岐屯倉、〈皆音を取れ。〉近江國の葦浦屯倉、尾張國の間敷屯倉・入鹿屯倉、上毛野國の緑野(みどの)屯倉、駿河國の稚贄(わかにへ)屯倉(みやけ)を置く。

 さて、『「詔勅群、一括」問題』は「その目的は何か。」で終わっていた。その問題は『「施行」問題』と表題を変えて論じられている。

 日本書紀は、いつ、誰が、誰のためにこれをつくったのか。

 自明の問いを、ここに改めて提出することを許してほしい。その答えは次のようだ。

「8世紀(720)に、8世紀(701以後)の人間(元正天皇、舎人親王等)が、8世紀の人間(内外のインテリたち)のために作った。」

 自明の回答だが、この回答の中にこそ、日本書紀のすべての「秘密」が隠されている。

 8世紀とは、「大宝律令」の時代だ。その「大宝律令」の行われている「現代」(720)のために、その「現代」の「大宝律令」時代を〝合理化″し、〝美化″するためにこそ、この日本書紀は「作製」されたのである。

 以上の論旨は私(たち)がすでに共有している認識であり、すべて納得できる。

 次に古田さんは、「この点を明示している」ものとして、あの天智10年の「冠位・法度の事」施行記事を取り上げている。

671(天智即位4)年正月6日
甲辰に、東宮太皇弟(ひつぎのみこ)奉宣(みことのり)して、〈或本云はく、大友皇子宣命す。〉冠位・法度の事を施行(のたまひおこな)ひたまふ。天下に大赦す。〈法度・冠位の名は、具に新しき律令に載せたり。〉

 そして、この記事を次のように解釈している。(古田さんは原文部分を「具載新律令也。」と引用しているが、〈大系〉の原文には「於」字があるのでそれを補った。また明らかに誤植と思われる字句は訂正した。)

 右の末尾の「具載於新律令也。」とは、大宝律令を指す。わたしにはそれ以外の「理解の選択肢」はない。なぜなら、右の、「具載於A也。」という文型のしめすところは(このAについては日本書紀の読者には「周知」である)「それを見てくれれば、委細は明白。」との意をしめす、と理解する他ないからである。

 しかし「近江令」や「浄御原律令」の姿、その具体的内容が日本書紀の一般読者にとって「周知」であるはずはない。8世紀(720)の読者(インテリ)にとって「周知」なのは、当然眼前の「大宝律令」以外にない。

 右の文献の中の「冠位・法度の事」とは何か。「冠位」とは、推古紀(11年12月)に示された「冠位十二階」である。この「大化2年」の詔勅類の中でも、(11)の「甲申に、詔して曰はく、」(大化2年3月22日)には、同一の「冠位十二階」にもとづく「墓の規模」がしめされている。

 これに対し、「大宝律令」の場合、「冠位の名」はもちろん「正一位~従六位下」である。推古紀以後も、「大織冠」とか「正大壱」など、次々と変化した。けれども、ここでは、「『正一位』という現在の官位の″淵源″はこの「冠位十二階」の歴史にある。」との主張。その立場の表明である。

 「法度」も同じだ。大化年間に「連続展示」された「詔勅類」を指している。「このような(7世紀代の)詔勅類を歴史的背景として、大宝律令は出現しえた。」という、「主張」の表明である。

 この場合も、「大化年間の詔勅群」(α)と「大宝律令」(β)とはちがう。ちがうからこそ、「(β)の歴史的淵源は(α)である。」と〝主張″しうるのだ。

 日本書紀の著述者たちにとって重要なのは、「過去」の場合ではない。あくまで「現在」の「大宝律令」の〝正当性の証明″なのである。

 天智天皇と天武天皇という、「新しき、絶対の権威」の名によって、現在の「大宝律令」の〝合法性″を支えようとする。そのための努力なのである。

 古田さんは「冠位・法度の事」施行記事をヤマト王権自前の記事として扱っているようにも読めるが、もしそうならその点は同意することはできない。

 〈或本云はく、大友皇子宣命す。〉〈法度・冠位の名は、具に新しき律令に載せたり。〉という二つの分注は、私にはこの記事が盗用記事ではなく自前の記事であることを偽装するための付け足したものと見える。ともあれ、最後の一文「そのための努力なのである。」の「努力=盗用」と解釈すれば、このくだりの論旨もすべて納得することができる。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(193)

「天武紀・持統紀」(108):「薄葬令」再論


「大化改新」の真相(30)
古田説の検討(1)


 「大化改新」について、古田さんはどのような見解を持っているのか知りたいと思っていた。古田武彦直接編集の『なかった 真実の歴史学 第5号』に「大化改新批判」という古田論文があるのを知ったが、私が利用している図書館には、どういうわけか、『なかった』は第1号~第3号しかなかった。(言葉遊びしているわけではありません。)その図書館には「リクエストカード」というのが用意されているので、それを提出してみた。なんと、友好契約を結んでいる他の自治体の図書館から取り寄せてくれた。その論文の第5章『「大化改新」の実体批判』から、「大化改新」関係の詔勅を論じている部分を読んでいくことにする。

 古田さんは「孝徳紀」の大化元~5年にある全ての詔勅を取り出して出現順に番号を付けている。そしてその番号を用いて論を進めているので、まずその詔勅群と番号の対応表をまとめておく。古田さんは各詔勅の冒頭の文を記録しているが、ここでは今までのように詔勅の内容を表す表題を用いることにする。なお、目下のテーマである国制に関する詔勅を青字で示した。

(1)「東国国司の発遣」
(2)「鐘匱の設置」「男女の法」
(3)「寺主の任命と諸寺の実情調査」
(4)「不正蓄財・土地貸借の禁止」
(5)「改新の詔」
(6)「鐘匱の反応」
(7)「国民からの愁訴の審理」
(8)「東国国司の違反調査」
(9)「朝集使の報告」
(10)「皇太子の奏上」

(11)「薄葬令・旧俗の廃止」
(12)「品部の廃止」
(13)「品部廃止の実行を督促」?

(14)「出退勤の礼法」
(15)「13階の冠位制定」
(16)「19階の冠位制定」



 まず(11)「薄葬令」について再論したい。「ブログに期待する一市民」さんから、「薄葬令」の発令者は晩年の持統であるという中村幸雄氏の説に同感するというコメントを頂いている。実は私が始めて「大化改新」問題を知ったのは中村さんによってであった。『偽装「大化の改新」(3)』で中村説のあらましを紹介して次のように書いている。

「以上、私にとってはまだ不明な点があるが、 日本書記の記述通りの「改新の詔」があったする仮説での議論を初めて知ったので紹介した。」

 (11)については次のように紹介している。

Ⅲ 「薄葬」された天皇問題
 改新の諸詔のなかに「薄葬令」(646年)がある。「薄葬」は盗掘を避けるためであり、その制定者は自らも「薄葬」したはずである。「薄葬」が確認できる最初の天皇は持統である。持統が「薄葬令」の制定者であり、しかも、その制定はその晩年(自らの死を自覚する頃)であったと推定される。

 自らの陵墓を作らず天武陵に合葬させたことをもって、持統が率先して「薄葬」の範を示したという論であった。しかしこの合葬は「薄葬」を意識したうえでの措置ではないと、私は考えている。

 東京新聞朝刊に「東京どんぶらこ」という連載エッセイがある。昨日(9日)は田中哲男氏(東京新聞編集委員)による「炎の女優 衝撃の終焉」という題のエッセイで松井須磨子の生涯を素描していた。須磨子と島村抱月との熱愛は有名だが、須磨子の終焉は次のようだったという。

 大正7(1918)年、抱月が流感で急死。愛と情熱を失った須磨子は翌年1月5日、抱月と過ごした牛込芸術倶楽部で首つり自殺を図り、32歳の波乱の人生を閉じるのだ。

 須磨子は三通の遺書を残し、うち青々園に宛でた遺書が当時の都新聞に載っている。「私はやはり後を追います。あの世へ…。お墓を一緒にしていただきますよう幾重にもお願い申し上げます。くれぐれも…」

 このくだりを読みながら、私は持統の合葬のことを思った。持統は人生を全うしたわけだが、合葬を望んだ真意は須磨子と同じではないかと思う。ただし須磨子は「幾重にもお願い」したのにもかかわらず合葬してもらえなかった。

 もう一つ何よりもまず、「薄葬令」の発令者を持統とするためには「冠位名」の問題をクリアしなければならない。「薄葬令」の発令者が持統だとすると、『日本書紀』編纂者はその中で使われている持統のころの「冠位制」(5)の冠位名を全て「冠位制」(1)のものに書き換えたことになる。「薄葬令」にはそのような大掛かりな書き換えまでして移動する意味はないだろうと思う。

 ところで古田さんも「薄葬令」を論じていた。論旨はほぼ私の見解と同じであった。薄葬に合致しない陵墓の例を私は少ししかだせなかったが、古田さんはかなりの例を取りだしている。天皇陵は孝徳陵と天武・持統陵だけだが、天皇陵以外では次の8例を取りだしている。

①菖蒲池古墳
 橿原市菖蒲町、方墳、全長6m以上、幅2.5m(7世紀中頃)
②カナヅカ古墳
 明日香村大字平田、方墳、一辺約35m、高6~8m(7世紀中頃)
③牽牛子塚古墳
 明日香村大字越、八角形墳、対辺長18.5m、高約4m(7七世紀後半)
④東明神古墳
 高取町大字佐田、八角形墳、対角長約30m、高2m以上(7世紀後半)
⑤キトラ古墳
 明日香村大字阿部山、二段築成の円墳、径13.8m、高3.3m(7世紀末~8世紀初め)
⑥マルコ山古墳
 明日香村大字真弓、二段築成の円墳、径約15m、高約5.3m
⑦高松塚古墳
 円墳、径20m、高約3.5m(7世紀末~8世紀初め)
(以上、明日香村教育委貞会編集『飛鳥の古墳-飛鳥の読みの世界』)
⑧カズマ山古墳
 明日香村大字真弓、長方形墳、東西約24m、南北18m以上、高4.2m以上(7世紀後半)(現地説明会資料、伊東義彰氏による)

 いずれも「薄葬令」の規定よりも「大」である。持統の天武陵への合葬が薄葬の範だとしても、薄葬をしたのが「薄葬令」発令者一人であり、あとは誰も従わなかったということになる。詔勅とはそのような軽々しいものではないだろうと思う。
今日の話題

「五輪やるなら福島で」


 昨日の東京新聞朝刊の「発言」欄(読者の投稿欄)に出色の投稿がありました。「翻訳業 柳 伸枝63 (東京都品川区)」という方の「五輪やるなら福島で」という表題の文章です。皮肉と揶揄たっぷりの文章ですが、「五輪やるなら福島で」という提言は真面目なものだと思います。私もとてもよい提言だと思います。心から賛同したい。しかし残念ながら、石原慎太郎にはこの提言を本気になって検討するような高邁な精神は望めません。以下に投稿文を紹介します。

 東京都が2020年の夏季オリンピック開催地の立候補を検討しているとか。

 都のオリンピックー・パラリンピックの開催準備金は資料などによると、約四千億円とのこと。いま現在、ほかにやることがあるんじゃないのとは私も思います。

 しかし、本気で誘致に情熱を傾けている人たちに提案しましょう。「どうしてもオリンピックをやりたい」と言うなら、福島県での開催はいかがでしょう。

 都知事にはその総指揮官になってもらい、まず瓦礫を撤去し、放射能の不安をなくして、住民の笑顔を取り戻してもらう。それと、選手村への安全な野菜や肉、魚の供給システム構築も不可欠ですね。

 オリンピック誘致の目標があれば、神をもおそれぬ力の持ち主、あなたにできないことはないと思います。ついでに自分の身の上には決して放射能が降り注がないと信じているような強運の持ち主である、自民党幹事長など親族にも力添えを願えばいい。誘致のために、震災復興へ本腰を入れるなら、都民の一人として、喜んで税金を差し出しましょう。

 たとえ前回同様、誘致が失敗に終わったとしても、私は決して「天罰」などとは申しません。傷心の親族の方にも「少しヒステリックになっていない?」などとも、口が裂けても申しません。私は生まれも育ちも庶民です。たしか、生来の心根の優しさと、良識を備えている者が庶民というのでは…。

 ただ、「たいまつの火」は直接、福島県に届けることを忘れないで。

今日の話題

原発問題―故意に避けられている問題がある。


(『「大化改新」の真相』は一休みです。)

 前回「白鳳の大地震」を調べながら、原発問題にも一言触れておきたいと思った。

 東京新聞の「震災と日本」シリーズ第一回「巨大地震」から「主な過去の巨大地震年表」を転載する。

大地震年表

 これを見ると大地震は東北地方に多いけれども、何時どこでも起こる可能性があることがわかる。また、20世紀に入ってからの頻度が高い。1990年頃から日本列島は地殻変動の活動期に入ったと言われている。上の表にある大地震のほかにも次のような震災があった。

1991年 雲仙普賢岳の大噴火
2000年 三宅島の大噴火
2004年 新潟県中越地震
2007年 新潟県中越沖地震
2008年 岩手・宮城内陸地震
2011年 新燃岳の噴火
そして今回の東日本大震災と続く。

 「震災と日本」シリーズの第二回(本日 7月3日付)は「大津波」だった。「過去の主な津波」を転載する。

津波年表

 津波は10年おきぐらいに発生している。今は日本列島を取り巻く各種プレートが連動して大きく動く可能性が指摘されている。下の図は中央防災会議が発表した東海地震の「最悪のシナリオ」と首都直下地震の被害想定表である。

東海地震
首都直下型地震

 石原慎太郎はまたぞろ大衆受けを狙ってオリンピック招致を打ち上げた。そんな余裕はないはずだ。オリンピック招致に要する巨額の税金は防災対策に使うべきだ。

 この地震列島・日本に原発を作ることはそもそもの初めから間違いだったのだ。政府も電力会社も安全対策が整ったら今停止中の原発も稼働を再開すると言っているが、完璧な安全対策などあり得ない。もし仮に完璧な安全対策ができたとしても、原発問題は原発施設の安全問題だけではないのだ。その問題には政府も電力会社も御用学者も口をぬぐっているが、いろいろな人が指摘している。ここでは「五十嵐仁の転成仁語」から『原発は事故を起こさなくても放射能被ばくを前提とした「悪魔の施設」だった』を紹介しよう。

 五十嵐さんは問題点を三つあげている。

第1 ウラン鉱石の採掘と精製
第2 原発稼働中の被曝
第3 使用済み核燃料の保管と処分

 五十嵐さんは第1の問題を次のように解説している。

 日本でも昔は人形峠でウラン鉱石を採掘していたことがありますが、今ではオーストラリアなどからの輸入です。

 その輸入されるウラン原料は、鉱山から採掘されます。ウランが含まれていますから、鉱山労働者は被ばくを免れません。

 輸送コストを下げるために、鉱石は近くの精錬所で細かく砕かれて水で洗われ、濃硫酸やアンモニア等の薬品によって精製されます。余った残滓は池に貯められたり野積みされたりして保管されます。

 ウランを含んだ土はトリウムやラジウムなども含んでおり、肺がんや骨肉腫などの原因となります。その水や土が洪水によって周辺の湖や川に流れ込んだりします。

 乾けば乾いたで埃となって飛び散り、回りの広範な土地を放射能で汚染するのです。現在、世界で14カ国がウランの採掘を行っていますが、100万トン以上が採掘されたといいます。

 その残土は16億8000万トン以上に達するそうです。国連科学委員会は人類の最大の被ばく源はウラン鉱山の鉱滓にあると指摘しているほどですが、原発の維持・推進を目指している人々は、この問題をどう考えているのでしょうか。

 第2の問題は原発施設の周辺住民の被曝と施設内で働く原発労働者の被曝問題である。

 前者の周辺住民の被曝問題については、『東京新聞』6月23日付朝刊の「こちら特報部」に、「事故なくても健康被害 一生涯に渡る調査を」という記事が出ていました。

 この記事は、「米国の原子炉や核実験場の周辺住民の乳がん発生率などの増加を示した著書が注目されている」として、ジェイ・マーチン・グールド『低線量内部被曝の脅威』(緑風出版)という本を取り上げ、この本を共訳した戸田清長崎大教授の「実は原発は、事故がなくても健康被害をもたらす。平常運転で放出される放射能で周辺住民が内部被ばくするからです」という言葉を紹介しています。詳しくはこの本をご覧になっていただきたいと思いますが、これまで稼働してきた、あるいは現在稼働中の全ての原発の周辺住民にも、既にこのような被ばくのリスクがあったということでしょうか。

 原発労働者の場合は、もっと直接的な被ばくです。原発はこれまで13ヵ月ごとに定期点検を義務付けられていますが、その際、放射能で汚染された配管などを清掃する必要があります。

 そのために配管の内部に入り込んで放射能を拭き取るという労働が欠かせませんが、その際、ぞうきんで拭き取っていたというのですから、驚くばかりです。さらに驚くべきことに、労働組合である電力総連は電力会社の正社員である組合委員にこのような仕事をさせず、協力社員にやらせるよう求めていたのです。

 このような最底辺の単純労働に従事してきたのが、協力社員と呼ばれる非正規の下請け労働者でした。各地の原発をめぐって被ばく覚悟の仕事に就いたため、「原発ジプシー」とも呼ばれました。

 これらの労働者は、何次にも及ぶ下請け構造の下におかれます。その結果、元請けが一日7万円で請け負った仕事の手間賃が最終的には1万円ほどにしかなりません。

 それでも日給1万円は良い仕事です。暴力団や手配師などを通じて借金でクビが回らなくなった多重債務者がこれらの仕事に送り込まれました。借金を返すために、「女は風俗、男は原発」というのが通り相場だったそうです。

 かつての炭鉱労働者、原発の建設によって土地を奪われた農民や漁場を追われた漁民の多く、近くの町の若者なども、このような仕事に就いたそうです。それが「原発による雇用の創出」の実態でした。

 まったく酷い話だ。人間を使い捨ての部品のように扱っている。これはもう犯罪以外のなにものでもない。原子力村に群がっている資本家・政治家・官僚・学者どもはこのような人たちの犠牲の上にのうのうとあぐらをかいて甘い汁を吸っているのだ。

 第3に、使用済み核燃料の保管と処分の問題があります。これは極めて大きな問題であり、原発が「トイレのないマンション」などと言われるのはこのためです。

 これについても、技術、場所、期間の問題があります。これらのどれ一つとっても、解決のメドさえ立っていないのが現状です。

 放射能は技術的に減少させたり消滅させたりすることができません。将来、もしそのような技術が開発されればこの問題はなくなり、「原子力の平和利用」も可能になるでしょうが、現状では自然に減少するのを待つしかありません。

 それが放射能の半減期と呼ばれるもので、それぞれの核種によって異なっています。たとえば、放射性ヨウ素131は8.02日、ストロンチウム90は29年、セシウム137は30年、プルトニウム239は2万4千年、ウラン235は約7億年、ウラン238は45億年という具合に……。

 45億年などと言いますと、ほぼ地球が誕生してから今日までの年数に匹敵します。これからそれと同じ時間が経過しても、放射能は半分にしかなりません。それから45億年経ってさらに半分の4分の1、それからまた45億年で8分の1という具合に、半分ずつ減少していくのを待つだけなのです。

 フィンランドのドキュメンタリー映画『100万年後の安全』で扱われているのが、この問題です。使用済み核燃料の長期的保存といっても、放射能が減少する100万年先まで、どのようにして安全を確保できるのでしょうか。

 日本には、この映画が紹介している地下500mの高レベル放射性廃棄物最終処分場「オンカロ」のような施設はありません。それは今後の課題として残されていますが、どのように解決できるかは誰にも分からないのです。

 これが、「場所」の問題です。どこに、最終処分場を作ったら良いのでしょうか。

 日本国内にそのような場所は見あたらないということで、アメリカと共同でモンゴルに作ろうという計画がスクープされました。でも、自国民にとって危険きわまりない「核のゴミ」を、他国に押し付けるようなことが許されるのでしょうか。

 このように使用済み核燃料の最終的な保管場所もはっきりしていないのに、各地の原発で使用された核燃料の「燃えかす」は増えるばかりです。それは、各地の原発内に一時的に保管されています。

 しかし、その保管場所も次第に満杯になりつつあり、全国平均であと8年もすれば一杯になってしまうと見られています。これが「時間」の問題です。

 使用済み核燃料を再処理して再び燃料として使用するというプルサーマル計画がありますが、これはいまだ「夢」の段階にとどまっています。原発推進を主張している人々は、この「核のゴミ」の後始末の問題をどう考えているのでしょうか。

 このように、原発は事故を起こさなくても、放射能による被ばくを前提とし、多くの問題と危険性を併せ持つ「悪魔の施設」だったのです。その「黒」を「白」と言いくるめて、各地に原発を作り続けてきたのが自民党であり、通産省(経済産業省)や電力会社でした。

 そこには「原発利権」と呼ばれる特別な「旨味」があったからです。しかし、その背後には、放射能に汚染された多くの人々が存在していました。

 原発は、初めからあってはならないものだったのです。電力会社の宣伝などによってこれまで隠されてきた「悪魔」の本質を誰にも分かるような形で明らかにしたのが、今回の福島での原発事故だったのではないでしょうか。

「自民党であり、通産省(経済産業省)や電力会社」の中に、自民党とつるんできた公明党も入れなければ片手落ちだ。そして今、民主党も迷走を始めて、涎を垂らしながら原子力村への切符を切ろうとしている。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(192)

「天武紀・持統紀」(107)


番外編:白鳳の大地震


 東京新聞日曜版の大図鑑シリーズが「震災と日本」をテーマに取り上げている。その第一回「巨大地震」(6月26日版)に「主な過去の巨大地震年表」が掲載されている。年表のトップは「684 白鳳地震」でM8.3と推定されている。「白鳳地震」という命名はいつ頃付けられたのだろうか。「天武朝地震」などという命名は決してしない。たぶんその地震が起こった当時からの命名ではないだろうか。『日本書紀』が隠し、学者たちが無視していても、九州年号は民衆の間では当たり前のように連綿と引き継がれている。

 と、このような記事に出会ったので、どこかで必要になることもあるかなとも思い、白鳳期の地震記事を拾ってみた。おどろいた! すごい数の地震が記録されている。現在と同様のプレートの活動期だったのかも知れない。上記年表では南海トラフ沿いに起こったとしている。以下が白鳳期の地震記事である。(もしかすると取りこぼしがあるかも知れない。ご容赦を。)

白鳳4年(664)3月
 是の春に、地震(なゐふ)る。

白鳳15年(675)11月
 是の月に、大きに地動(なゐふ)る。

白鳳18年(678 天武7)12月
 是の月に、筑紫國、大きに地動る。地裂くること廣さ二丈、長さ三千餘丈。百姓の舍屋、村毎に多く仆れ壌(やぶ)れたり。是の時に、百姓の一家(あるいへ)、岡の上に有り。地動る夕に當りて、岡崩れて處(ところ)遷れり。然れども家既に全くして、破壌(やぶ)るること無し。家の人岡の崩れて家の避れることを知らず。但し會明(あけぼの)の後に、知りて大きに驚く。

 幅6m,長さ9kmの地割れができたというのだからすごい地震だったことがわかる。

白鳳19年(679)  10月11日 戊午に、地震る。
 11月14日 丁丑朔の庚寅に、地震る。

白鳳20年(680)9月23日
 乙未に、地震る。

白鳳21年(681)
 3月21日 庚寅に、地震る。
 6月24日 壬戌に、地震る。
 10月18日 癸未に、地震る。
 11月2日 丙申朔の丁酉に、地震る。

白鳳22年(682)
 正月19日 癸丑に、地動る。
 3月7日 庚子に、地震る。
 7月17日 戊申に、地震る。
 8月12日 癸酉に、大きに地動る。
 8月17日 戊寅に、亦地震る。是日の平旦(とらのとき)に、虹有りて、天の中央に當りて、日に向へり。

 次がいわゆる「白鳳の大地震」である。

白鳳24年(684 天武13)10月14日
 壬辰に、人定(ゐのとき)に逮(いた)りて、大きに地震る。國挙(こぞ)りて男女叫び唱(よば)ひて、不知東西(まど)ひぬ。則ち山崩れ河涌(わ)く。諸國の郡の官舎、及び百姓の倉屋(くら)、寺塔社、破壊(やぶ)れし類、勝(あげ)て數ふべからず。是に由りて、人民及び六畜(むくさのけもの)、多(さは)に死傷(そこな)はる。時(とき)に伊豫湯泉(ゆ)、没(うも)れて出でず。土左國の田苑(たはたけ)五十餘萬頃(しろあまり)、没れて海と爲る。古老の曰はく、「是の如く地動ること、未だ曾(むかし)より有らず」といふ。是の夕に、鳴る聲(おと)有りて鼓如くありて、東方に聞ゆ。人有りて曰はく、「伊豆嶋の西北、二面、自然(おのづから)に増益(ま)せること、三百餘丈。更(また)一の嶋と爲れり。則ち鼓の音の如くあるは、の是の嶋を造る響なり」といふ。

 〈大系〉の頭注によると「五十餘萬頃」は約1200ヘクタールに当たると言う。「没れて海と爲る」というのだから、大津波も襲ったに違いない。また頭注は「伊豆嶋」を「伊豆の大島か」と言ってるが、「更一の嶋と爲れり」とあるので、近くに八丈小島という小島をもつ八丈島かもしれない。いずれにしても、四国から東海にまで及ぶ広範囲の大地震だったことが分かる。

白鳳25年12月10日
辛巳に、西より發(おこ)りて地震る。

朱鳥元年(686)
 正月19日 庚申に、地震る。
 11月17日 癸丑に、地震る。

 この後、『日本書紀』では地震記事はパッタリとなくなる。『続日本紀』での最初の地震記事は大宝元年3月26日で「丹波国に地震(なゐ)ふること三日なり」とある。