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《真説古代史・近畿王朝草創期編》(191)

「天武紀・持統紀」(106)


「大化改新」の真相(29)
冠位制の変遷(2)の続き〈その2〉


 このところいろいろな方からコメントをいただいています。ありがとうございます。それぞれ一家言ある方とお見受けしました。ご説はそれぞれ必要なところで言及しようと思います。
 今日(29日)頂いた「一愛読者」さんからのコメントから大事なことを思い出しました。そのことから始めます。


 以下では、私自身が混乱しそうなので、天智称制と天智即位後をはっきりと分けることにする。

 さて、「一愛読者」さんも「伊勢王=九州王朝の天子」説だ。その根拠の一つとして持統6年の伊勢行幸記事を取り上げている。ここの伊勢は糸島半島の伊勢であり、『34年前の九州王朝の天子の、水軍基地「伊勢」に向けての、蝦夷討伐を目的とした軍事行動記事の盗用』記事であるとの説を述べている。

 この説に対して、古田さんはその行幸は「中皇命」の三重県の英虞湾までの大旅行、白村江以前のことであり当然「政治的な目的を持った旅行」であったと言う。(『「持統紀」にもあった盗作記事(1)』で取り上げた。)

 「一愛読者」さんの詳しい論証が分からないので、692(持統6)年の伊勢行幸記事に関してはこれまで通り古田説を妥当とする。いずれにしてもこれも34年遡上の盗用記事であり、もともとは658(斉明4)年の記事ということになる。正木説・「一愛読者」説では「吾大王=伊勢王=中皇命」ということになる。「中皇命」という天子にふさわしい呼称をもった人物がことさら「伊勢王」という別称号を持っていたということになお不審が残る。

 私の説だと「天皇―皇太子―伊勢王」にそのままあてはめて「中皇命―薩夜麻―伊勢王」となる。

 さて、冠位制(4)の問題である。

(A)
664(天智称制3)年2月9日
三年の春二月の己卯朔丁亥に、天皇、大皇弟に命じて、冠位の階名を増し換ふること、及び氏上・民部・家部等の事を宣ふ。
 其の冠は二十六階有り。……大錦中……是を二十六階とす。前の花を改めて錦と曰ふ。……


(B)671(天智即位4)年正月6日
甲辰に、東宮太皇弟(ひつぎのみこ)奉宣(みことのり)して、〈或本云はく、大友皇子宣命す。〉冠位・法度の事を施行(のたまひおこな)ひたまふ。天下に大赦す。〈法度・冠位の名は、具に新しき律令に載せたり。〉

 私は(A)と(B)は共に天智即位4年にあった記事で、そのうちの(A)のみを、甲子革令を偽装するために、称制3年に移動したと考えていた。山崎説も同じと考えてよいだろう。しかしこの説が成り立たないことを冠位制の変遷を調べているときに気付いた。何よりもこの冠位制は九州王朝によるものである。また、天智称制元年から即位4年までの間に(A)だけで使われている冠位名「錦」が頻繁に現れている。冠位制定施行前にその冠位制の冠位名が使われているのはおかしい。(A)・(B)ともに即位4年にあったとする説は誤りだった。

 私は今は(A)・(B)はそれぞれ斉明7年~称制元年5月にあった記事をそれぞれ天智称制3年と天智即位4年に移動したものと考えるにいたった。これもちょっと大胆な仮説なので異論がたくさんあるだろうと思うが、このまま進めてみる。

 662(天智称制元)年5月条に次のような記事がある。

夏五月に、大將軍大錦中阿曇比邏夫連等、船師一百七十艘を率て、豊璋等を百濟國に送りて……

 つまり称制3年の冠位改定で設けられた「大錦中」を授与されている者が天智称制元年にいるのだ。(A)・(B)のもともとの位置を斉明7年~天智称制元年5月とした理由である。ちなみに〈大系〉の頭注は例によって「大錦中」については後の「追記」として済ましている。

 この一例だけで断定するのにためらいはあるが、論を進めてみよう。この重出記事は干支日付があるから、それを用いてもとの位置を調べるべきだろう。しかしその際、一つ問題点がある。斉明7年が白鳳元年に当たるわけだが、薩夜麻の即位が前天子の逝去すぐに行われかつ改元されたのか、あるいは逝去後すぐに即位したけれど改元はその次の年だったのか、はたまた前天子の逝去年の次の年の正月に即位・改元がともに行われたのか、不明だ。つまり前天子の死亡期日が分からないのだから直ちに干支日付による比定はできない。しかし、斉明7年8月条にある次の記事が手掛かりになる。

八月に、前将軍大花下阿曇比邏夫連・小花下河邊百枝臣等、後将軍大花下阿倍引田比邏夫臣・大山上物部連熊・大山上守君大石等を遣して、百濟を救はしむ。仍りて兵杖・五穀を送りたまふ。〈或本に、此の末に續(つ)ぎて云はく、別に大山下狭井連檳榔・小山下秦造田來津を使して、百濟を守護(まも)らしむといふ。〉

 このときの阿曇比邏夫の冠位は「大花下」であった。天智称制元年段階で、新冠位制のもとで2階級昇級していたことになる。そうすると(B)の元位置は斉明7年8月~天智称制元年5月の間ということになる。これにより(B)の元位置が決められる。この期間の「正月」と言えば天智称制元年正月しかない。「甲辰」は14日である。次に(A)は当然(B)に先行するのだから斉明7年の2月ということになる。「丁亥」は22日である。次のようになる。

(A) 白鳳元(斉明7)年2月22日、新冠位制定
(B) 白鳳2(天智称制元)年正月14日、施行

 唐・新羅との一触即発の状況にあって倭国将官たちの結束・鼓舞をはかるための新冠位の制定・施行だったのだろう。

 さて(A)・(B)に登場する「大皇弟」は、私の立場からは、当然「伊勢王」ということになる。伊勢王は薩夜麻の弟であり、薩夜麻出陣のあとの留守を預かった。しかし、天智による謀殺かどうかは分からないが、白鳳8(天智即位元)年に逝去する。そして唐は、新羅と親交を深め始めたヤマト王権を牽制する必要から、白鳳11(天智即位10)年に薩夜麻を帰国させた。
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《真説古代史・近畿王朝草創期編》(190)

「天武紀・持統紀」(105)


「大化改新」の真相(28)
冠位制の変遷(2)の続き〈その1〉


(資料が届いたので戻ります。)

 『造作の「天智称制」』で山崎さんが、664(天智3)年の冠位制定記事(4)と671(天智10)年の冠位施行記事との間にある7年のズレを「偶然だろう」としていることに対する私の疑念は、私の誤解だった。山崎説の再検討から始めよう。

 「天智紀」には7年のズレがある重出記事が三件ある。

① 伊勢王の死
  天智7年6月→斉明7年6月
② 天智即位
  7(戊辰)年正月戊子→〈称制〉斉明7(辛酉)年7月丁巳
③ 冠位制定
  10年正月甲辰→3(甲子)年2月丁亥

 まず①について
 ①には日付の干支は記録されていない。明らかに天智7年から斉明7年に移動したための重出記事である。もとの天智7年の記事を消し損なったのだろう。それにしても、どうしてこの記事を斉明7年に移動する必要があったのだろうか。

 山崎さんは、伊勢王は九州王朝の「大王」(山崎さんはこのように呼称している)だったとしている。さらに具体的には「伊勢王=薩夜麻」としている。論拠を、伊勢王初出のあの白雉改元記事(「天智称制の秘密(5)」)を参照してください)に求めている。その論旨のあらましは次のようである。

 そこに登場する地位上位三者「天皇―(皇太子)―伊勢王」のうち(皇太子)は中大兄皇子を暗示するための『日本書紀』編纂者による付加である。それを除くと「天皇―伊勢王」となり伊勢王はナンバーツウ。そこで「倭の五王」の兄弟相続例をあげて、「天皇=筑紫君薩夜麻」・「伊勢王=男弟王」と比定している。そして、天智7年の伊勢王兄弟の死亡は天智による謀殺であり、そこで九州王朝が終わったと言う。

 私は伊勢王が九州王朝の「大王」だったという点と、そこで九州王朝は終わったという2点には賛同できない。伊勢王の死が天智による謀殺であるという可能性はあるが、九州王朝は710年まで続くというのが私(たち)の立場である。

 山崎さんは伊勢王の死亡記事の移動理由については次のように推定している。

 天智紀7年の「伊勢王と其の弟王と、日接りて薨せぬ」というたった11文字から、370余年続いた王朝の滅亡を読みとることは、その状況証拠であるとして、あまりに史料不足の感をまぬがれず、私の一人相撲と笑われるかもしれません。

 私たちは最初に戻らなくてはなりません。讖緯説の辛酉革命の革命とは王朝交替があくまでその原意です。即ち、旧王朝の滅亡と新王朝の成立のことが書かれなくては王朝交替となりません。もし、「書紀」編纂者が一度完成していた「書紀」を書き替えて、讖緯説を導入するため天智称制即位を造作したことが確実であるならば、天智称制即位は新王朝の成立を記したといえましょう。ですから、どうしても、旧王朝の滅亡を記す必要があるのです。

 斉明7年の伊勢王の死の重出記事は、天智紀では同じ月でありながら天智即位の後になっているのに、称制即位では前となっている点が注目されます。讖緯説通りの旧王朝の滅亡が書かれているといえるのです。

 このことの意味は、伊勢王こそ九州王朝の大王たるべき人物だと、「書紀」自らが告白したことになるのです。

 「370余年続いた王朝」という記述から、山崎さんは邪馬壹国あるいは讃(倭の五王)のころを九州王朝の始まりと考えている思われる。これにも賛同できない。

 本題の伊勢王死亡記事の移動理由についてもそのまま認めることができないが、私には山崎説以外を思いつかないのでその問題点だけを書き留めておこう。

 伊勢王が九州王朝の天子だとして、伊勢王の死亡記事が讖緯説を成り立たせる要因の一つである「旧王朝の滅亡」を示すと『日本書紀』が編纂された当時の当事者たちが思い込んでいたとしても、それはその場限りの自己満足に過ぎない。いま私(たち)がその真相究明に四苦八苦しているように、伊勢王の死亡記事を斉明7年に置いても伊勢王が何者なのか明記しなければ、讖緯説の正当性を主張する記事としてはそれは無意味な記事であろう。『日本書紀』という「偽正史」が主張することは後世に伝えてこそ意味がある。『日本書紀』編纂者が伊勢王死亡記事を「旧王朝の滅亡」を示すものという意図を持って移動したのだとすると、伊勢王が何者か明記すれば隠しておきたい九州王朝が表面でできてしまうが、かといって讖緯説の要の「旧王朝の滅亡」記事も残したい。そのジレンマに悩みつつ致し方なく伊勢王の正体不明の記事を置いた。このように考えるほかないだろうか。

 伊勢王の死亡記事を取り上げている方がもう一人いらっしゃった。HP「新・古代学の扉」で正木裕さんの論文「伊勢王と筑紫君薩夜麻の接点」に出会った。その論文で正木さんも伊勢王は九州王朝の天子であるとしている。そして、白雉改元記事の「天皇」は『万葉集』45番199番・233番に出てくる「吾大王」であるとする。そして新たに162番・3234番を引いて、「吾大王」は「伊勢王」と呼ばれる必然性がある、と言っている。そしてその「吾大王=伊勢王」の子こそ「明日香皇子=薩夜麻」であると比定している。そして白鳳改元は薩夜麻即位による改元であり、父王逝去→薩夜麻即位とピタリとつながり、重出死亡記事のうち斉明7年のほうが「本来の姿だ」としている。

 白鳳改元は薩夜麻即位による改元という点は賛同できる。私の立場(「天智称制」は造作)からは、この正木説には難点が二つある。一つは斉明7年のほうが「本来の姿だ」とするとき、では天智7年に重出記事があるのは何故かという問題が残る。もう一つは162番・3234番から「吾大王」は「伊勢王」と呼ばれる必然性があるとする点である。その可能性はあるが、「吾大王」が薩夜麻の父ならば、「吾大王」は天子であり伊勢国一国の大王と呼ぶのはそぐわない。

 さて、お二人の説からいいとこ取りをして、私も伊勢王について仮説を立ててみようと思う。

 白雉改元記事に登場する地位上位三者「天皇―皇太子―伊勢王」をそのまま受け入れよう。「天皇―皇太子」に正木説を当てはめたい。そして伊勢王は皇太子の弟とする。つまり「天子―皇太子・薩夜麻―弟・伊勢王」である。この場合は当然伊勢王の死亡記事は天智7年の方が元記事ということになる。

 この仮説のもと、7年ズレの重複記事②・③を検討してみよう。

 ②・③には日付干支があるが、同じ干支の日に移動するというこれまで見てきた『日本書紀』編纂者の律儀な移動原則が崩れている。②は移動と言うより造作記事であり、「辛酉革命」の証拠記事だから、干支とは関係なしに斉明の死亡年月日に置かざるを得ないのだ。そして、「辛酉革命」と「甲子革令」とはセットだから、③は天智称制3(甲子)年に置かなければならない。置かざる得ずに置いたのだから、山崎さんが7年のズレは「偶然だろう」と言うのはもっともなことだった。

 ここで私は③の重出記事についてのこれまでの見解を訂正しなければならない。(本来のテーマであった冠位制(4)に戻ることになる。次回に。)
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(189)

「天武紀・持統紀」(104)


「大化改新」の真相(27)
「薄葬令」について


 冠位制の変遷を調べていて大事なことに気付いた。『「大化改新」の真相』を始めた時、「大化改新」関係の全ての詔を無造作に持統9・10年(九州年号の大化1・2年」)に移動してみた。(『「大化改新」の真相(1)』を参照してください。)しかしそういう移動ができない詔があった。「薄葬令」である。そこでは身分毎に墓の大きさなどをきめ細かく規定している。必要な部分だけ転載する。

大化2年3月22日
……夫れ王より以上の墓は、其の内の長さ 九尺、濶(ひろ)さ五尺。其の外の域は、方九尋(ひろ)、高さ五尋。役一千人、七日に訖しめよ。其の葬らむ時の帷帳(かたびらかきしろ)の等(ごとき)には、白布を用ゐよ。轜車(きくるま)有れ。上臣の墓は、其の内の長さ濶さ及び高さは、皆上に准(なら)へ。其の外の域は、方七尋、高さ三尋。役五百人、五日に訖しめよ。其の葬らむ時の帷帳の等には、白布を用ゐよ。擔(にな)ひて行け。〈蓋し此は肩を以て輿を擔ひて送るか。〉下臣の墓は、其の内の長さ濶さと高さとは、皆上に准へ。其の外の域は、方五尋、高さ二尋半。役二百五十人、三日に訖しめよ。其の葬らむ時の帷帳の等には、白布を用ゐること、亦上に准へ。大仁・小仁の墓は、其の内の長さ九尺、高さ濶さ各四尺。封(つちつ)かずして平ならしめよ。役一百人、一日に訖しめよ。大禮より以下、小智より以上の墓は、皆大仁に准へ。役五十人、一日に訖しめよ。凡そ王より以下、小智より以上の墓は、小き石を用ゐよ。其の帷帳の等には、白布を用ゐよ。庶民亡(し)なむ時には、地に収め埋めよ。其の帷帳の等には、麁布(あらきぬの)を用ゐるべし。一日も停(とど)むること莫れ。凡そ王より以下、庶民に至るまでに、殯(もがりや)營(つく)ること得ざれ。凡そ畿内より、諸の國等に及るまでに、一所に定めて、収め埋めしめ、汚域(けがらは)しく處處に散(ちら)し埋むること得じ。……

 ここで使われている冠位は官位制(1)で制定されたものである。持統紀に移動することはできない。また、ここで規定されている墓の大きさを見ると、とてもヤマト王権による詔とはみなせない。「王より以上」と「上臣」の墓大きさは、1尋=約1.8mなので、方約16.2m高さ約9mである。孝徳以後の陵域を『扶桑略記』の山稜記事から抜粋すると次のようである。

孝徳 高二丈。方五町。
斉明 高三丈。方五町。(朝倉陵)
天智 高二丈。方十四町。
天武 高五丈。方五町。
文武 高三丈。方一町。
元明 高三丈。方三町。
(1丈=約3m 1町=約109m)

 とても薄葬とは言えない。ヤマト王権の大王以外の王族や臣の陵墓については、調べる資料が手元にないのでネットで調べてみた。「古墳マップ」というサイトがすごい。県毎にまとめられていて、推定築造時期や大きさなどを調べることができる。奈良県の7世紀以後の方墳を取り出してみた。

カナヅカ古墳 1辺約35mの方墳。7世紀中頃と推定。
艸墓古墳 1辺約25m、高さ約7mの方墳。7世紀中頃か。
菖蒲池古墳 20m程度の円墳か方墳と思われる。7世紀中頃と推定。
西宮古墳 1辺約35mの方墳。7世紀中頃と推定。
平野塚穴山古墳 1辺約20m、高さ約4mの方墳。7世紀後半と推定。

 やはり「薄葬令」とはまったく関係なく作られている。これに対して九州王朝の場合はどうだろうか。福岡県を調べてみた。驚いたことに方墳が少ししかない。しかも全て7世紀以前のもの。そこで円墳を調べてみた。7世紀以後のものは次の3例しかなかった。

早田古墳群 7世紀に築造された径7~9mの円墳2基がある。
戸山原古墳1号 墳径約15m、高さ約5mの円墳。7世紀前半と推定。
古月横穴丘陵の斜面に築かれた約40基の横穴墓群。6世紀後半~7世紀と推定。

 上の2例は「薄葬令」に見合っている。最後の墓群はたぶん庶民の墓で、「一所に定めて、収め埋めしめ」た例の一つであろう。

 では、九州王朝ではなぜ「薄葬令」が必要だったのだろうか。「難波遷都の時代背景」で詳しく検討したように、7世紀中頃の東アジアの緊迫した情勢下で九州王朝は軍備の増強や防御施設(山城や水城など)の建設で厖大な資金と労働力を必要としていた。大きな陵墓など作る余裕はなかった。「薄葬令」は当然の措置であった。

 ともあれ、「薄葬令」を持統時代に移動することはできない。「大化改新」関連の詔の移動時期は一つ一つ慎重に考える必要があるようだ。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(188)

「天武紀・持統紀」(103)


「大化改新」の真相(26)
冠位制の変遷(3)


(資料が揃うまで、前回の続きを後回しにして先に進みます。)

 5番目(最後)の冠位制定記事は「天武紀」にある。

(5)
685(天武14)年正月21日
丁卯に、更に爵位の號を改む。仍、階級を増し加ふ。明位二階(しな)、浄位四階、階毎に大・廣有り。幷て十二階。以前(これ)は諸王より已上(かみつかた)の位なり。正位四階、直位四階、勤位四階、務位四階、追位四階、進位四階。階毎に大・廣有り。幷て四十八階。以前は諸臣の位なり。

 まとめると次のようになる。

(皇子・諸王)明・浄
(諸臣)正・直・勤・務・追・進
 まず全てが「大・廣」の2階に分かれる。さらに、「明」は「壹・貳」の2階に分かれる。その他は「壹・貳・参・肆」の4階にわかれる。皇子・諸王が2色12階、諸臣が6色48階で合8色60階。この複雑な冠位制を一覧表にすると次のようである。

(皇子・諸王)
明大壹・明廣壹・明大貳・明廣貳
浄大壹・浄廣壹・浄大貳・浄廣貳・浄大参・浄廣参・浄大肆・浄廣肆

(諸臣)
正人壹・正廣壹・正大貳・正廣貳・正大參・正廣参・正大肆・正廣肆
直大壹・直廣壹・直大貳・直廣貳・直大参・直廣参・直大肆・直廣肆
勤大壹・勤廣壹・勤大貳・勤廣貳・勤大参・勤廣参・勤大肆・勤廣肆
務人壹・務廣壹・務大貳・務廣貳・務大參・務廣参・務大肆・務廣肆
追人壹・追廣壹・追大貳・追廣貳・追大參・追廣参・追大肆・追廣肆
進人壹・進廣壹・進大貳・進廣貳・進大參・進廣参・進大肆・進廣肆

 これまでの4制度とはがらりと変わった内容になっている。まるで別王朝の手になるもののようだ。当日さっそく冠位を授与している。

是の日に、草壁皇子尊浄廣壹位を授けたまふ。大津皇子浄大貳位を授けたまふ。高市皇子に浄廣貳位を授けたまふ。川嶋皇子・忍壁皇子に浄大参位を授けたまふ。より此以下の諸王・諸臣等に爵位を増し加ふること各差有り。

 冠位を授与された皇子のうち川嶋だけが天智の子で、あとは天武の子である。(「日並知皇子の謎(1)」に皇子たちの一覧表を掲載してあります。参照してください。)

 冠位を授与されていない皇子たちはまだ若すぎるからだろう。生年がはっきりしているのは舎人だけだが、676年生まれでこの年にはまだ9歳である。

 以上から、この冠位はヤマト王権自前の初めての冠位と言ってよいだろう。九州王朝の権力の衰退ぶりを示す証左の一つである。九州王朝からヤマト王権への権力移行の合意ができたのはこの頃だったかも知れない。

 官位制(5)がヤマト王朝自前の制度であり、それが権力移行の合意を示しているという判断が正しいとすると、これは「大化改新」関連記事の移動時期の判断にも影響することになろう。このことも判断材料に入れることにする。

 ちなみに、この冠位は701年に大宝建元と同時に改定されている。官服の色も細かく規定している。冠位は今までの装飾的用語をやめて、一目で地位の上下が分かる数字を用いている。必要になることもあるかもしれないので現代語訳(宇治谷氏の現代語訳を下敷きにしています)で掲載しておく。(ただし、服制記事は省略した。)

701(大宝元)年3月21日
 甲午、対馬嶋が金を貢じた。そこで元号を建て、大宝元年とした。
 初めて新令に基づいて、官名と位号を改制した。親王の明冠は四品(一品より四品まで)、諸王の浄冠は十四階で合せて十八階とする。諸臣の正冠は六階、直冠は八階、勤冠は四階、務冠は四階、追冠は四階、進冠は四階で合せて卅階とする。外位の直冠は正五位上の階から始めて、進冠を少初位下を階の終とする。合せて廿階である。
 勲位(文位に対して武功のあった者に与えられる)は、勲一等が正冠の正三位より始まり、追冠の従八位下で終る。合わせて十二等である。
 また始めて賜冠をやめて、代りに位記(いき)(叙位を記した文書)を授けることとする。詳しくは年代暦に記す。……


《親王》
(明大壹・明廣壹・明大貳・明廣貳)
  ↓
一品・二品・三品

(浄大壹・浄廣壹・浄大貳・浄廣貳・浄大参・浄廣参・浄大肆・浄廣肆)
  ↓
四品

《諸王・諸臣〈内官〉》
(正人壹・正廣壹・正大貳・正廣貳・正大參・正廣参・正大肆・正廣肆)
  ↓
正一位・従一位・正二位・従二位・正三位・従三位

(直大壹・直廣壹・直大貳・直廣貳・直大参・直廣参・直大肆・直廣肆)
  ↓
正四位上・正四位下・従四位上・従四位下
正五位上・正五位下・従五位上・従五位下

(勤大壹・勤廣壹・勤大貳・勤廣貳・勤大参・勤廣参・勤大肆・勤廣肆)
  ↓
正六位上・正六位下・従六位上・従六位下

(務人壹・務廣壹・務大貳・務廣貳・務大參・務廣参・務大肆・務廣肆)
  ↓
正七位上・正七位下・従七位上・従七位下

(追人壹・追廣壹・追大貳・追廣貳・追大參・追廣参・追大肆・追廣肆)
  ↓
正八位上・正八位下・従八位上・従八位下

(進人壹・進廣壹・進大貳・進廣貳・進大參・進廣参・進大肆・進廣肆)
  ↓
大初位上・大初位下・少初位上・少初位下

《諸臣外位》
(直大参・直廣参・直大肆・直廣肆)
  ↓
外正五位上・外正五位下・外従五位上・外従五位下

(勤大壹・勤廣壹・勤大貳・勤廣貳・勤大参・勤廣参・勤大肆・勤廣肆)
  ↓
外正六位上・外正六位下・外従六位上・外従六位下

(務人壹・務廣壹・務大貳・務廣貳・務大參・務廣参・務大肆・務廣肆)
  ↓
外正七位上・外正七位下・外従七位上・外従七位下

(追人壹・追廣壹・追大貳・追廣貳・追大參・追廣参・追大肆・追廣肆)
  ↓
外正八位上・外正八位下・外従八位上・外従八位下

(進人壹・進廣壹・進大貳・進廣貳・進大參・進廣参・進大肆・進廣肆)
  ↓
外大初位上・外大初位下・外少初位上・外少初位下

《勲位》
勲一等―正三位・勲二等―従三位・勲三等―正四位下・勲四等―従四位下・勲五等―正五位下・勲六等―従五位下・勲七等―正六位下・勲八等―従六位下・勲九等―正七位下・勲十等―従七位下・勲十一等―正八位下・勲十二等―従八位下
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(187)

「天武紀・持統紀」(102)


「大化改新」の真相(25)
冠位制の変遷(2)


 いま私が拠って立つ論拠、いわば「定理」のようなものを二点確認しておきたい。

 一つは天皇という称号を初めて用いた(名実ともに天皇になった)のは誰か、という問題。

 「井の中」では二説あるようだ。「天智」または「天武」。それぞれの自説に従って、それ以前の天皇には「天皇」という称号を用いず、「大王」という称号を用いている学者が多いようだ。「井の中」でもそのくらいの見識はある。戦前よりは一歩前進と言ってよいだろう。

 「多元史観」の中でも「天智」または「天武」が最初の天皇と考えている方が多いようだ。

 これらの説に対して、私は「大嘗祭」問題を考えたときから、初めての天皇は「持統」と考えるようになった。その論拠は「大嘗祭」であった。『日本書紀』での大嘗祭挙行記事は「持統紀」にしかない。

691(持統5)年11月1日
十一月の戊辰に、大嘗(おほにへ)す。祗伯中臣朝臣大嶋、天神壽詞を讀む。

 白村江の敗戦以後弱体化してきたとは言え、なお九州王朝が権力の中枢を占めていた。天子継承のシンボルである大嘗祭という祭祀の挙行をヤマト王権に許すはずがない。その大嘗祭挙行を持統のときに認めざるを得なくなったのであろう。『日本書紀』で見る限り、ヤマト王権の大王たちの中で始めて大嘗祭を執り行ったのは持統である。

 これに対して「井の中」では「天武紀」の次の記事から、大嘗祭を始めて挙行したのは天武であるとして疑わない。

673(天武2)年12月5日
「十二月の壬午の朔丙戌に、大嘗(おおにへ)に侍奉(つかへまつ)れる中臣(なかとみ)・忌部(いむべ)及び神官の人等、幷て播磨、丹波、二つの國の郡司、亦以下の人夫等に、悉(ことごとく)に祿(ろく)賜ふ。因りて郡司等に、各爵一級(ひとしな)賜ふ。

 しかしこれは大嘗祭に携わった人たちに褒美をあげたという記事であり、大嘗祭を行ったとは書かれていない。大嘗祭を始めて行ったのは天武であるという人たちの論拠は、「恩賞記事があるのだから大嘗祭が行われたことは間違いない」、という論法のようだ。しかし、大嘗祭のような権力にとって最重要な祭祀を行ったことを記録し忘れたなどということはあり得ない。どこからかポツンと盗用してきた記事だと考えざるを得ない。

 ところで、「大嘗祭とはなにか(2)」で次のような説を紹介した。


 「天武紀」には「大嘗す」という記事がないのに祭祀に関わった者たちへの褒美授与の記事があるのは何故か。古田さんは「確認はできませんけど、非常に魅力的な仮説」ということで香川さんという方の次のような仮説を紹介している。

 天武に殺された大友皇子は明治になってから弘文天皇という諡号を付け天皇として扱っている。『日本書紀』は反逆者・天武の大義名分を主張するための「正史」だから当然のことに、大友皇子の方が反逆者であり大友皇子を天皇として扱っていない。しかし大友皇子は実際には天皇として即位したではないか。もしそうだとすると、弘文天皇によって大嘗祭が行なわれていて、そのときの「褒美の記事」だけが「天武紀」に使われたのではないか。

 これを書き留めたときははっきりとした判断をしなかったが、今ではこの説はあり得ないとはっきりと言いたい。ではこの恩賞記事はどこからの盗用だろうか。後ほど詰めてみたい。

 二つ目は山崎仁礼男さんの「天智称制」造作説である。細かい点で異論があるが、称制時期のヤマト王権関係記事は「斉明紀」からの切り取りであり、他は九州王朝の史書からの盗用記事であるという大枠は正しいものと受け止めている。

 上の二つの前提が間違いであればこれからの議論はすべてご破算ということになるが、ともかく上の二つの定理をもとに論を進めてみよう。

 さて、「天智紀」には冠位制定記事(4)のほかに冠位施行記事がある。

671(天智10)年正月6日
東宮太皇弟(ひつぎのみこ)奉宣(みことのり)して、〈或本云はく、大友皇子宣命す。〉冠位・法度の事を施行(のたまひおこな)ひたまふ。天下に大赦す。〈法度・冠位の名は、具に新しき律令の載せたり。〉

 「天智称制の秘密(4)」で、664(天智3)年の冠位制定記事(4)と671(天智10)年の冠位施行記事との関連について、私は次のように書いている。


 7年のズレは山崎さんの称制造作説にピッタリとあっている。称制造作説をとれば10年の記事をもとに3年の記事を造作したということになる。しかし山崎さんはこの場合の7年のズレは「偶然だろう」としている。そのことをめぐって、山崎さんの論証の中に私としては納得できない点がある。私の中で全体の筋道がもう少し煮詰まるまで、山崎さんの論証には今は立ち入らないでおく。

 前回「この詔について論じ直したい」と言ったのはこの問題のことだった。『7年のズレは「偶然だろう」』とする山崎さんの論証はすっかり忘れているので、山崎仁礼男さんの論文『造作の「天智称制」』を再読しようと思い、図書館に『古代に真実を求めて・第1集』を予約した。なんと予約購読中の人がいた。これまで古田史学関係の本はいつも予約者はなく、すぐに借りられたのに……。いや、古田史学関係の本を読む人が増えてきたと、喜ぶべきだろう。ともあれ今、予約した本が手元に届くのを待機中です。

 余談を一つ。
 6月9日に放送されたNHK高校講座「世界史」の表題が「隋・唐帝国訪れた日本人」だった。講師は学習院大学教授(東洋古代史)の鶴間和幸氏。

 高校講座「日本史」では「日出づるところの天子」は聖徳太子、小野妹子は遣隋使という「定説」による放送に決まっているから見る気もしないが、「井の中」ではなく、「世界史」というおおきな土俵で研究している学者さんはこの「定説」をどう扱うのか、興味があった。

三つのポイントを提示して、講座は始められた。

1 海を渡る遣隋使・遣唐使
2 長安に眠る留学生
   ~墓誌の発見
3 円仁の見た唐帝国
   ~入唐求法巡礼行記

 隋・唐に渡ったのは朝貢使だけでなく、留学生や仏法修行僧もいましたよ、という組み立てのようだ。当然私が興味を持っていたのは「1」。ところが全くの肩すかし。「1」については全く触れなかった。

 もしかすると、これはよい兆候なのかも知れない。あやしい「定説」には触れないでおこうという消極的な否定ではないだろうか。…‥とこんな感想を持ちました。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(186)

「天武紀・持統紀」(101)


「大化改新」の真相(24)
冠位制の変遷(1)


 『日本書紀』には冠位制を定める(あるいは改定する)詔が5件ある。次のようである。

(1)
603(推古11)年12月5日
 十二月の戊辰の朔壬申に、始めて冠位を行ふ。(以下略)……

 色は「徳・仁・禮・信・義・智」で、それぞれに「大・小」の2階がある。「大徳」のように上に付く。全部で6色12階。次のようになる。

大徳・小徳・大仁・小仁・大禮・小禮・大信・小信・大義・小義・大智・小智

 「始めて冠位を行ふ」と言っているが、言うまでもなくこの冠位制定記事は九州王朝の史書からの盗用である。しかし、『隋書』俀国伝が記す冠位は「徳・仁・義・禮・智・信」という「五常」の徳目順である。多利思北狐(タリシホコ)が遣隋使を送ったのは600(文帝開皇22)年だから俀国伝が記す冠位は600年以前に制定されたことになる。従って「冠位制(1)は九州王朝にとっては「始めて」ではない。色の順序の違いが『日本書紀』編纂者による造作(『隋書』隠し)でないとすれば、何らかの事情、例えば徳に対する思想的解釈(禮・信を重んじていることから仏教的解釈の付加か)の変化があって、九州王朝の手によって改定されたものと考えられる。

 翌年正月1日に、さっそく「始めて冠位を諸臣に」授与している。

(2)
647(大化3)年是年条
是の年、七色の一十三階の冠を制(つく)る。……  色は「織・繡・紫・錦・青・黒・建武初位立身」で「建武」以外は「大・小」の2階があり、全部で7色13階。

大織・小織・大繡・小繡・大紫・小紫・大錦・小錦・大青・小青・大黒・小黒・建武初位立身

 「色」が「五常」の徳目から冠の素材や色彩に変わっている。なんとも即物的な改変である。みてくれ(服装)の威厳を重んじたということだろうか。冠位を授与する記事はない。

(3)
649(大化5)年2月条
冠十九階を制(つく)る。……

 (2)の「色」を三つ、「錦→花」「青→山」「黒→乙」と変えて、初位は「立身」としている。つまり色は「織・繡・紫・花・山・乙・立身」となる。「立身」以外は「大・小」の2階に分かれる。「大・小」は上に付く。その上さらに「花・山・乙」は「上・中・下」3階に分かれる。「上・中・下」は「大花上」のように下に付く。7色19階で次のようである。

大織・小織・大繡・小繡・大紫・小紫・大花上・大花下・小花上・小花下・大山上・大山下・小山上・小山下・大乙上・大乙下・小乙上・小乙下・立身

 「乙」のように取り立てていい意味があるとは思われない字が「色」に選ばれた理由が私にはさっぱり分からない。また2年たらずで改変する理由もさっぱり分からない。授与記事はない。

 ともあれ、このときの冠位が「天智紀」の冠位制に引き継がれている。「天智紀」の冠位制については過去に2度取り上げている。今回はこの詔の全文を掲載しよう。

(4)
664(天智3)年2月9日
 春二月の己卯の朔丁亥に、天皇、大皇弟(ひつぎのみこ)に命じて、冠位の階名を増し換ふること、及び氏上(うぢのかみ)・民部(かきべ)・家部(やかべ)等の事を宣ふ。
 其の冠は二十六階有り。大織(しき)・小職・大縫(ぶう)・小縫・大紫・小紫・大錦上・大錦中・大錦下・小錦上・小錦中・小錦下・大山上・大山中・大山下・小山上・小山中・小山下・大乙上、大乙中・大乙下・小乙上・小乙中・小乙下・大建(こん)・小建、是を二十六階とす。前の花を改めて錦と曰ふ。錦より乙に至るまでに十階を加(ま)す。又前の初位一階を加し換へて、大建・小建、二階にす。此を以て異(け)なりとす。餘(あまり)は並(ならび)に前の依(まま)なり。
 其の大氏(おおきうぢ)の氏上(このかみ)には大刀(たち)を賜ふ。小氏の氏上には小刀(かたな)を賜ふ。其の伴造等の氏上には干楯(たて)・弓矢を賜ふ。亦其の民部・家部を定む。


 「繡→縫」「立身→建」とかわり、「花」は(2)の「錦」に戻されている。つまり色は「織・縫・紫・錦・山・乙・建」となり、大・小の2階に分かれる。その上さらに「錦・山・乙」は「上・中・下」3階に分かれる。7色26階。

 この詔を「白村江の戦(4)」で始めて取り上げた。このとき(5年ほど前)は「『日本書紀』に記述をそのまま受取った。そして古田さんの見解に賛同して次のように書いた。

『もしもヤマト王権が「白村江の戦」の総帥だとしたら、敗戦直後のこのはしゃぎようは異状だ。これを古田さんは「世にも不思議な物語」と言っている。(日本古代新史)』

 冠位制(1)(2)(3)はどれも九州王朝によるものだ。九州王朝が倭国の中心権力としてまだ健在だった時期なのだから当然の結論である。それに対して、かつて私は(4)はヤマト王権による制定と考えていたわけだ。

 2回目は「天智称制の秘密(4)」で取り上げた。そこでは上の見解を取り下げている。いま改めて読んでみると、全体の論旨にあいまいな点があった。この詔について論じ直したい。(次回に続く。)
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(185)

「天武紀・持統紀」(100)


「大化改新」の真相(23)
「品部廃止の詔」をめぐって(10)


第四段は改めて発遣する国司と各国の国造に地方行政に関する6項目の指示を出している。番号を付して再掲載する。

今發て遣す國司、幷て彼(そ)の國造、以(ここをも)て奉聞(うけたまは)るべし。

去年朝集(ちょうしゅう)に付(つ)けし政(まつりごと)は、前(さき)の處分(ことわり)の隨(まま)にせむ。

収め數ふる田を以ては、均しく民(おほみたから)に給へ。彼と我と生(な)すこと勿れ。凡そ田給(たま)はむことは、其の百姓の家、近く田に接(つ)けたらむときには、必ず近きを先とせよ。
此(かく)の如くに宜たまはむことを奉(うけたまは)れ。

凡そ調賦(みつき)は、男の身の調(みつき)を収むべし。

凡そ仕丁(つかへのよほろ)は、五十戸毎に一人。

國國の壃堺(さかひ)を觀て、或いは書にしるし或いは圖をかきて、持ち來(まゐ)りて示(み)せ奉(まつ)れ。國縣の名は、來(まうこ)む時に將に定めむ。

國國の堤築(つ)くべき地(ところ)、溝穿(ほ)るべき所、田墾(は)るべき間(ところ)は、均しく給ひて造らしめよ。
當(まさ)に此の宣(の)たまふ所を聞(うけたまは)り解(さと)るべし」
とのたまふ。



 今回の国司発遣は東国・畿内だけでなく、全国への発遣のようだ。それ故に前年の「東国国司発遣の詔」で示した事柄を確認しているのだろう。


 「改新の詔」で「戸籍・計帳・班田収授の法」をつくるとうたっていた。それの試行と思われる。「東国国司発遣の詔」のときは検地をしたのは畿内だけだったが、全国での検地を指示している。さらに班田の試行にまで踏み込んでいる。


 「改新の詔」では「田の調」・「戸別の調」であった。それを人頭制に変えたということだろうか。頭注に「令と同じ丁調(調の人別賦課)の制定。」とある。大宝律令として結実するまでにいろいろと試行錯誤をしたようだ。


 これは「改新の詔」とまったく同じである。その再確認ということか。


 国境を再確認して、改めて「國縣」の名前を定めると言う。「評」制度から「郡」制度への移行準備か。


 治水・灌漑設備などのインフラ整備とそのための賦役の平等を指示している。

 以上、ヤマト王権が政権を盤石なものとするために全国規模で具体的に動き出したようである。

 ところで、一つ取りこぼしていた詔があった。「東国国司発遣の詔」と「改新の詔」の間に入る。不正な蓄財や土地の貸借を禁じる詔で、この詔はたいへん分かりやすい。後に必要になるかも知れないので、一応転載しておく。

大化元年9月19日
甲申(きのえさるのひ)に、使者を諸國に遣して、民の元數(おほかず)を録(しる)す。仍りて詔して曰はく、「古より以降(このかた)、天皇の時毎に、代(しろ)の民を置き標(あらは)して、名を後に垂(た)る。其れ臣連等・伴造・國造、各己(おのおのおの)が民(たみ)を置きて、情(こころ)の恣(ほしきまま)に駈使(つか)ふ。又、國縣(くにあがた)の山海・林野・池田を割(さきと)りて、己が財(たから)として、爭ひ戦ふこと巳(や)まず。或(あるひと)は數萬頃(あまたよろづしろ)の田を兼ね幷(あは)す。或は全(もは)ら容針少地(はりさすばかりのところ)も無し。調賦(みつき)進(たてまつ)る時に、其の臣連・伴造等、先(ま)づ自ら収(をさ)め斂(と)りて、然る後に分ち進る。宮殿(おほみや)を修治(つく)り、園陵(みさざき)を築造(つく)るに、各己(おの)が民を率(ゐ)て、事に隨(したが)ひて作れり。易(えき)に曰へらく、『上(かみ)を損(おと)して下(しも)を(ま)す。節(したが)ふに制度(のり)を以てして、財を傷(やぶ)らざれ。民を害(そこな)はざれ』といへり。方(まさ)に今、百姓猶乏(なほとも)し。而るを勢(いきほひ)有る者は、水陸(たはたけ)を分(わ)け割(さ)きて、私の地とし、百姓に賣り與えて、年(としごと)に其の價(あたひ)を索(こ)ふ。今より以後、地賣ること得(え)じ。妄(みだり)に主(あるじ)と作(な)りて、劣(つたな)く弱きを兼ね幷(あは)すこと勿(まな)」とのたまふ。百姓、大きに悦(よろこ)ぶ。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(184)

「天武紀・持統紀」(99)


「大化改新」の真相(22)
「品部廃止の詔」をめぐって(9)


 第三段はこれまでの位階・官位の返上と新規の叙任を布告している。その布告文の前にあるへんてこりんな文を私は第三段に入れたが、それは前段の品部公有化の不満を見越した上での言い訳のようにも取れる。まずその部分だけを読んでみよう。

其の王(きみ)の名を假借(か)りて伴造とし、其の祖(おや)の名に襲據(よ)りて臣・連とす。斯等、深く情(こころ)に悟らず、忽(にはか)に若是(かく)宜(の)る所を聞きて、當(まさ)に思ふらまく、『祖の名、借れる名滅(き)えぬ』とおもふらむ。是に由りて、預(あらかじ)め宣べて、朕(わ)が懐(おも)ふ所を聽き知らしめむ。
王者(きみ)の児(みこ)、相續(つ)ぎて御寓(あめのしたしら)せば、信(まこと)に時の帝(きみ)と祖皇(みおや)の名と、世(よよ)に忘らるべからざることを知る。而るを王(きみ)の名を以て、軽(かろかろ)しく川野(かはの)に掛けて、名を百姓(おほみたから)に呼ぶ、誠に可畏(かしこ)し。凡そ王者(きみ)の號(みな)は、將に日月(ひつき)に隨ひて遠く流れ、祖子(みこ)の名は、天地と共に長く往くべし。如是(かく)思ふが故に宣(の)たまふ。


 「定説」は、この文に使われている王・王者・帝という語を全て「きみ」と読んでいる。宇治谷氏はここでもすべて天皇と解釈している。

 この論理的にもおかしな文を無理に解釈する必要はないとも思われるが、一応読み取ってみよう。

 初めの「其の王」は国々の「王」であろう。『祖の名、借れる名滅(き)えぬ』という懸念は品部に付けた名のこととも取れる。しかし、「是に由りて」と続けられているが、私の理解力では「是に由りて」の前後の文がまったくつながらない。第一、私には「王」と「帝」を同じとはどうしても思えない。「帝」と「王」は同列に扱える言葉ではない。

【帝】
ミカド。天子、帝王。又にもいふ。

 しかも、あの「御寓」という言葉も副えられている。これは九州王朝の天皇である。この段階では九州王朝の天皇をまったく廃するということは公言されていなかったものと思われる。九州(西海道)は九州王朝の天皇の治下とするような合意があったのではないだろうか。

 次の「而るを…誠に可畏(かしこ)し」という文中の「王」は、今度は諸国の王ではなく、九州王朝の天皇を指しているとしか、私には読めない。また、この文が言っていることは逆立ちした論理としか言いようがない。〈大系〉の頭注は「集解に、安寧天皇の名磯城津彦の磯城が大和の磯城郡・磯城野などの地名にある如しという。」と、原文を真っ正直に受けた『書紀集解』の注釈を紹介している。ヤマト王権一元主義に呪縛されていると、このような非常識な言説が受け入れられてしまう。先に地名があったのに決まっているではないか。

 さて第四段の本文。

祖子より始めて、奉仕(つかへまつ)る卿大夫(まへつきみたち)・臣・連・伴造・氏氏(うぢうぢ)の人等、〈或本に云はく、名名(なな)の王民(おほみたから)といふ。〉咸(ことごとくに)に聽聞(うけたまは)るべし。今汝等(いましたち)を以て、使仕(つか)ふべき狀(かたち)は、舊(もとの)の職(つかさ)を改去(す)てて、新(あらた)に百官(もものつかさ)を設け、位階(くらゐのしな)を著(あらは)して、官位(つかさくらゐ)を以て敍けたまはむ。

 「如是(かく)思ふが故に…」と前段を引き継いでいるのだから、「祖子より始めて」の「祖子」は「王者の祖子」つまり皇子(九州王朝)を指している。皇子たちもこの布告の対象者に入っていた。

 以上のように読んでみたが、本当におかしな文章である。あれこれ訳の分からないことを言い立てて、「聽聞(うけたまは)」っている人たちを煙に巻いているような文章だ。

 要するにこの第三段で言っていることは次の三点に尽きる。

① 旧の官位・位階は廃止する。
② 新たな官位・位階を設ける。
③それに従って改めて叙位・叙官をする。

 ①は勿論九州王朝が与えたものである。②・③を実行した記事はどこかにあるのだろうか。「孝徳紀」の中で探すとすれば、②については大化3年是年条に冠位(13階)制定記事がある。おかしなことに冠位制定記事は2年後の大化5年2月条にもある。こちらは19階である。後者は「冠十九階を制(つく)る」とあり、「改定」とは書いてない。しかし「定説」は大化3年の冠位を「更に改めたもの」と解釈している。③に当たる記事は「孝徳紀」にはない。この問題(②③に当たる記事探し)は冠位制の変遷を踏まえて考える必要がありそうだ。後に検討してみよう。

 ここで気付いたことががある。近畿王朝は各国の王たちの国の支配権を奪って、中央から派遣する国司に変えた。そのためだろう、『続日本紀』にはたくさんの無位の王が登場する。ちょっとだけ調べてみた。無位の王たちへの叙位は704(慶雲元)年から718(養老2)年の間だけでもざっと34名にのぼる。

 九州王朝治下でも無位の王や臣下はいたであろう。『日本書紀』でも「無位」という用語が使われているのかどうか、調べてみた。なんと、「持統紀」にだけ出てくる。3件あった。

 「音韻学者・森博達氏の証言」で紹介したように、森氏による分類では「持統紀」(巻30)はα群にもβ群にも入れられず、他の巻とは異質ななものとされている。これもその一つの例になるだろう。後に使うかも知れないので「持統紀の「無位」を含む記事を転載しておく。

(1) 昇進のための選考基準のようだ。持統はこの年の1月1日に即位している。

690(持統4)年4月14日
庚申(かのえさるのひ)に、詔して曰はく、「百官の人及び畿内の人の、位有る者は六年を限れ。位無(な)き者は七年を限れ。其の上(つかへまつ)れる日(ひかず)を以て、九等(ここのつのしな)に選び定めよ。四等(よつのしな)より以上は、考仕令(こうじりょう)の依(まま)に、其の善最(よさいさをしさ)・功能(いたはりしわざ)、氏姓の大小を以て、量りで冠位授けむ。(以下略)

(2) 新京(藤原京)での宅地配分の規定。この年の10月27日に藤原京の地鎮祭が行われている。

691(持統5)年12月8日
乙巳(きのとのみのひ)に詔して曰はく、「右大臣に賜ふ宅地四町。直廣貳(ぢきくわうに)より以上には二町。大參(だいさむ)より以下には一町。勤(ごん)より以下、無位に至るまでは、其の戸口(へひと)に隨(したが)はむ。其の上戸(かみつべ)には一町。中戸(なかつへ)には半町。下戸(しもつへ)には四分之一。王等も此(これ)に准(なぞら)へよ」とのたまふ。

(3) 無位の者を郡司に任用するときの位階を規定している。「② 新たな官位・位階を設ける」の一つと考えられるだろうか。(後に取り上げることになるかも知れない。)

694(持統8)年3月11日
甲午(きのえのうまのひ)に、詔して日はく、「凡そ位無からむ人を以て、郡司(こほりのみやつこ)に任(ま)くるには、進廣貳(しんくわうに)を以て大領(こほりのみやつこ)に授け、進大參(しんだいさん)を以て小領(すけのみやつこ)に授けよ」とのたまふ。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(183)

「天武紀・持統紀」(98)


「大化改新」の真相(21)
「品部廃止の詔」をめぐって(8)


 改めて確認しておきたいことがある。

 「大化の改新」の一群の詔は本来はどこにあったのか。詳しい検討は後に行うが、その年代はおおまかには次のように考えてよいだろう。上限は持統が大嘗祭を挙行して実質ともに天皇となった691(持統5)年11月1日。下限は近畿王朝が大宝律令を完成し自前の律令制度を確立した701(大宝元)年8月3日である。

 そしてこの間は、九州年号が存続しているのだから、九州王朝にも天皇がいたことになる。白村江での敗戦以後は当然天子という称号は使えない。九州王朝でも天皇という称号を用いていたのではないだろうか。つまり二人の天皇が共存していたことになる。ただし九州王朝から近畿王朝への権力の移譲あるいは奪取の過程にあった。一連の詔はその経過処置として近畿王朝が発したものである。このことを念頭において第二段を読んでみよう。

第二段:品部の廃止
而るに王(きみ)の名名(みなみな)に始めて、臣・連・伴造・國造、其の品部(しなじなのとものを)を分ちて、彼の名名(なな)に別く。復、其の民と品部とを以て、交雑(まじ)りて國縣(くにこほり)に居(はべ)らしむ。遂に父子(おやこ)姓を易(か)へ、兄弟(はらから)宗異(こと)に、夫婦(をうとめ)更互(かはるがはるたがひ)に名(な)殊(こと)ならしむ。一家(ひとついえへ)五(いつ)つに分れ六つに割(さ)く。是に由りて、爭(あらそ)ひ競(きほ)ふ訟(うたへ)、國に盈ち朝(みかど)に充てり。終に治れることを見ずして、相亂るること彌(いよいよ)盛なり。の粤(ここ)に、今の御寓天皇(あめのしたしらすすめらみこと)より始めて、臣・連等に及(いた)るまでに、所有(たもて)る品部は、悉に皆罷(や)めて、國家(おほやけ)の民とすべし。

 この段の初めの文を宇治谷氏は「王」を「天皇」と解釈して
「それなのに代々の天皇の御名をはじめとする名を、臣・連・伴造・国造らは、自らが支配する品部につけ、」
と訳している。「彼の名名に別く」という語句を無視している。

 この詔では天皇に対しては「御寓天皇」という語句が用いられている。「王」はそのままでよく、言い替える必要はないと思う。つまり、この「王」は九州王朝傘下の各国の王たちである。私の意訳は次のようになる。

「品部には初めは王たちの名前がつけられていたが、その品部を臣・連・伴造・國造たちが私有してそれに自分たちの名をつけて呼んでいる。」

 この詔を承っている「臣・連・伴造・國造」たちは九州王朝の臣下たちであろう。『「品部廃止の詔」をめぐって(1)』で紹介したように品部を下賜することもあったようだ。「臣・連・伴造・國造」たちが勝手に私有化したわけではないだろう。

 冒頭の「而るに」という接続詞は、前段の「聖主(ひじり)の天皇」が臣下や民を思いはかる気持ちを受けている。前段で「聖主(ひじり)の天皇」と持ち上げているのは九州王朝の天皇のことであると思った。これまでご苦労さんと、形式的ではあれ一応の配慮を示している。そうしておいて、いろいろと難癖をつけて「今の御寓天皇より始め…」と九州王朝に所属している品部を全て取り上げている。

 ここで私は『「倭の五王」補論(4)』『「天智紀」(36)』で取り上げた正倉院文書の「築後国正税帳」の記録を思い出した。それによると、近畿朝廷は738(天平10)年に筑後国からたくさんの宝物を献上させている。その中に職人を献上させた記録が残っている。「銅釜工、轆轤工3人、鷹養人30人、鷹狩り用の犬15匹」とある。これはまさしく「品部」の献上である。

 上のことから、上記の詔では「國家(おほやけ)の民とすべし」と「国家」という言葉を使っているが、品部を公民として管理するのは各地方ごとの国であった。この詔によって実際に品部を廃止したわけではなく、その私有を禁止したのだ。実際に品部を廃止したのはもっと後のことである。このことも『「品部廃止の詔」をめぐって(1)』に書いた。759(天平宝字3)年9月条に「品部(しなべ)を停(とど)め廃(や)めて公戸に混(まろか)し入れむ。その世業を相伝ふる者は、この限に在らず。」という布告が行われている。

《真説古代史・近畿王朝草創期編》(182)

「天武紀・持統紀」(97)


「大化改新」の真相(20)
「品部廃止の詔」をめぐって(7)


 「大化の改新」の一群の詔は本来どの時代のものだったのか、という問題は各詔の内容確認が終わってから取り上げることにする。

 何か参考になる論考はないかと、図書館へ行って「大化改新」を論じている本を何冊か調べてみたが、「品部廃止の詔」を取り上げている本はなかった。それなら自分で「品部廃止の詔」を詳しく解読してみようと思い立った。

 「品部廃止の詔」には大きく分けると三つの布告が含まれている。最初の序文のような文(〈大系〉は「礼の秩序をうたう」と書いている)を一つに数えると四段構成になっている。一段ずつ、解読をしてみよう。

第一段:序文
原(たずね)れば夫(そ)れ天地陰陽、四時(よつのとき)をして相亂れしめず。惟(おもひみ)れば此(これ)天地(あめつち)、萬物(よろづのもの)を生(な)す。萬物の内に、人是最も靈(くしひ)なり。最も靈なる間に、聖(ひじり)人主(きみ)たり。是を以て、聖主(ひじり)の天皇、天に則(のと)り御寓(あめのしたをしろしめ)して、人の所(ところ)獲(え)むことを思ほすこと、暫(しましく)も胸(こころ)に廢(す)てず。

 「天地陰陽」について〈大系〉の頭注は次のように書いている。

「天地陰陽は、古訓ではアメツチサムクアタタカニシテと訓むが、天地陰陽の意を、それが正しくとらえているか甚だ疑問であるから、ここでは訓を欠くことにした。」

 もっともな見解である。私はこれまで訓を忠実に転記してきたが、現代風に読んでも意味が変わらない熟語や漢字は現代風に読んでいる。わけの分からない古訓に付き合う必要はないと思う。「天地陰陽」は「てんちいんよう」と読みましょう。

 「靈」を「くしひ」と訓じているが、私には意味がさっぱり分からない。「冬の星座」という歌に「くすしき光よ」という歌詞があるが、たぶんこれと同じような意味だろう。念のため新修漢和大字典を引いてみた。こういう言葉があるんですね。ただし字典では「くしび」となっている。

【靈】
(イ)カミ。鬼【楚辭】―皇皇兮既降。
(ロ)タマ、タマシヒ。○萬有の精気【書経】惟人萬物之―。○人身の精気。【荘子】人於―府。まごころ、精誠。【楚辭】横大江兮揚―。○いのち、命數。【揚雄】竊國―
(ハ)ヨシ。善い。令に同じ。【詩經】―雨既零。
(ニ)サイハヒ。いつくしみ。【後漢書】寵―顯赫。
(ホ)くしびなもの、妙。【史紀】生而―。
(ヘ)天地人の三才。【班固】答三―之蕃祉

 そこで、次は広辞苑で「くしび」を引いてみた。

くしび【奇び・霊び】
霊妙でふしぎなこと。神秘的な力をもっていること。孝徳紀「万物の内に、人是最も―なり」

 なんと! 出典が「品部廃止の詔」になっている。ぐるっと回って元の位置、でした。ただ、思わぬ収穫があった。「序文」で表出されている思想の典拠を知りたいものと思っていたが、【書経】だった。「周書:泰誓上」の冒頭の記事で、次のようである。


惟れ十有三年、春,大いに孟津に會す。王曰く、嗟(ああ)、我が友邦の冢君(ちょうくん)越(およ)び我が事を御する庶士、明らかに誓いを聽け。惟れ天地は萬物の父母,惟れ人は萬物之靈。亶(まこと)に聰明なれば元后(げんこう)と作(な)り、元后は民の父母と作る。

 ちなみに、現代語訳では「冢君=大王」・「我が事を御する庶士=公務に携わる諸君」・「元后=元首」と訳している。

 次のは中国の「国―県」制度のことを勉強しようと「岩波講座・世界歴史4」を拾い読みしていて偶然に目にとまったもの。「皇帝と天子」の意味の変遷をたどった西嶋定生論文「皇帝支配の成立」の中にあった。

董仲舒著「春秋繁露」三代改製質文篇
天地・陰陽・四時・日月・星辰・山川・人倫に通じ、、天地に(ひと)しき者を皇帝と稱す。天、佑けて之を子す。號して天子と稱す。

「天、佑けて之を子す。號して天子と稱す」。これを「天子」思想と呼んでいるようだ。天命を受けて万民を養い育てるが天子であるという。「聖主(ひじり)の天皇、天に則(のと)り御寓(あめのしたをしろしめ)して、人の所(ところ)獲(え)むことを思ほすこと、暫(しましく)も胸(こころ)に廢(す)てず。」というくだりは、まさにこの「天子」思想に則ったものだ。

 ここで突如頭に浮かんだことがある。「あめのしたをしろしめす」と読まれる言葉は三種類あった。

 「治天下」…これは文字通り、「天下を治める」で分かりやすい。
「御宇」…「宇」は宇宙の宇。漢和大字典によると「宇」には「広く人物を蔽うもの」という意味があるので違和感はない。字典には【御】の項にチャンと「御宇」が取り上げられている。  この二つに対して「御寓」の「寓」の意味は

(イ)ヨス。たのむ。かこつける。寄託する。
(ロ)カリズマイ。カリヤ。「客―」

だけである。もちろん【御】の項に「御寓」などはない。なぜこれが「あめのしたをしろしめす」なのか、いぶかしく思っていた。これに関連して、次のようなことが頭に浮かんだのだった。

 「御寓」は「天から託されて統治する」という意で、「天子」思想の意味を含んでいる文言ではないだろうか。天子を名乗っていた九州王朝の大王にふさわしい。『「品部廃止の詔」をめぐって(3)』で『「御寓」という言葉も九州王朝特有の用語ではないか』と書いたが、ますますそのように思えてきた。

 次に「聖主の天皇」。これも『日本書紀』ではここだけで使われている言葉である。〈大系〉の頭注は次のような指摘をしている。

『天皇を聖とする類例は「大八洲所知天皇命」(続紀天平15年5月条、宣命)、「橿原乃日知之御世従」(万葉29)。』

 「大化改新」一連の詔には宣命体風の文言がいくつもある。これもその一つである。これも時代を繰り上げるべき詔であることが分かる。

 ちなみに、上の『続日本紀』の例では頭に「飛鳥浄見御原宮」が付く。つまり具体的には天武天皇を指している。