2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
ちょっと横道へ。
文章作法あるいは思考方法について


「隠居」さんから、私の文章作成や資料の扱い方について、いくつかご注意をいただきました。いまテーマにしている《真説古代史・近畿王朝草創期編》の記事だけではなく、いままで書きためてきた全ての記事に関わる問題でもあります。もしかすると多くの方が同じような感想をお持ちかもしれません。この機会にお答えしようと思います。連載から外して書き留めることにします。

 まず、次のご指摘にお答えします。(おおよそ四点ありますが、投稿文とは順序を変えています。)

(1)
・さらに気になったのは,他者の言説よりの引用の仕方です。
貴兄の場合,時にこの主張は誰のものなのか不明なことがあり,引用箇所には鉤括弧「」を付けるとかなさらないと,“自他”が大変まぎらわしいです。

 私は他者の文章を引用する時、短い場合は「 」を付けて引用しています。また段落を必要としたり、長い文章の場合は、上のように「BLOCKQUOTE」というタグを使っています。また直接の引用ではなく要約したものを書く場合は、「要約すると」とか「以下は…の要約です。」というような断り書きをしているはずです。ただし、議論の前提になる資料や事実で、私が共有できていると判断したものは引用符なしで本文中に置いています。

 他の人の理論を取り上げるとき、上記のように十分気を配っているつもりですが、もしも「“自他”が大変まぎらわしい」部分があるとしたら、私の手落ちです。具体的な指摘があれば訂正するのにやぶさかではありません。

(2)
・古田説を奉じていらっしゃる方々は,氏の著作は一通りお持ちで,氏の言説の大事な部分(初期のもの)はおおよそ理解していらっしゃるものと思って,記事を拝見しておりましたが,そうではないという意外な言葉に接し,驚いています。

 驚かせて、いや落胆させて済みません。ご指摘の通りです。私は古田さんの著書の一部しか持っておりません。相当数の著作のうち、一応通読したものは数冊でしょうか。その数冊から、古田さんの学問に対する姿勢の誠実さと論証の堅固さや、今まで疑問に思っていたことが次々と解明されていくスリルに魅せられて古田説を紹介し始めました。そして時々白状していますが、まだ知らなかったことについては、その都度図書館から本を借りて来て、必要な部分を拾い読みしています。

 とくに現在のテーマの場合、古田説に全て通暁した上で全体の考えを確定し文章化したものを発表しているのではなく、考えている経過をそのまま書いています。ですからご覧のように、時にはあっちへ行ったりこっちへ来たり、もたもたしています。こういうやり方も面白いのではと思っているのですが…。

 理論的なテーマの場合、私自身が第一資料に当たって独自の論説を創造したなどという部分はほとんどありません。私が書く記事は、それぞれのテーマについて、私が論理的に納得できた理論や著者の立ち位置に共感した文章を紹介することを旨としています。つまり私には何かを研究しているという意識はありません。そのことを折に触れて何度か書いていますが、最も早い時期の記事を再掲載します。「日本のナショナリズム(1)」の冒頭の文です。
 前回引用した戸井さんの文章に次の一節があった。
 「どうしてそういう世の中になってしまったのです、してしまったのです」 ―ここのところがむずかしくて、わたしにもよくわからないのだが、ぼくの生まれるずっと前から、長い年月かけて代々の大人たちがそういう世の中をつくってきたことだけは確かだ。そこがおそろしいのだが、そのへんを、もっと勉強するしかないと思う。

 このホームページで私はもっぱら他人のことばの受け売りをやっている。それは私に人に語るべきほどの蓄積がないからだ。つまり私はこのホームページで戸井さんが言うところの「勉強」をしているつもりなのだ。そして「もっと勉強するしかない」と思っている。

 私のブログは一貫して「興味のある方、一緒に勉強しませんか」という趣旨のブログと心得ています。古田古代史についても私は勉強途上者です。

(3)
・後,古田説を信奉なさる以上,貴兄の説が,古田氏の説を金科玉条と考えて,それに沿ったものになるのは仕方のないことだと思われます。

・しかしながら,既にお気付きの事と思いますが,氏の説は“証明”されたものでなく,言わば“仮説”に過ぎません。

・したがって,時に訂正や旧説撤回が見られます。しかし,そのことが,どこまで及ぶのか,古田氏自身においても“後始末”が十分ではないのです。

・あくまでも,研究において大事なことは,ご自分の頭で考えることです。あまりに盲信なさると,真実を見誤ってしまいます。

 当然のスタンスですが、古田さんの論考にかぎらずどのテーマの場合も、論理的に反論の余地がない説については受け入れますが、論理的に納得のできない説は受け入れなせん。「古田古代史の会」のHP「新古代学の扉」に公開されている研究成果を利用させてもらっていますが、全ての論文に賛同しているわけではありません。当然のことですが、自分なりの基準で取捨選択をしています。

 古田さんの言説は、部分的には疑問を感じることもありますが、おおかたは論理的に反論の余地がない説と思っています。しかし決して「信奉」はいていません。その学問への誠実な姿勢や堅固な論理を「信頼」しているだけです。「金科玉条」にもしていないし、「盲信」もしていません。だからこそ、古田説の中の矛盾にであうとあれこれ考え込んでしまいます。そのような時は該当部分を納得できるまで繰り返し読んでいます。他者の文章を読むとき、まずはそれをつとめて理解しようという姿勢で読むことが読む側の持つべきスタンスだと心得ています。それでも納得できなければ異説を出すことになるでしょう。古田説に異論を出したこともあります。例えば「大嘗祭」に関する事柄で古田説に異を唱えています。

 『古代に真実を求めて13集』所収の古田さんの講演記録「日本の未来―日本古代史論」の末尾の文章を、自らへの戒めとしてノートに記録しておきました。心懸けているつもりです。

質問(2)
 方法論についてお答えいただきたい。

 よい質問を忘れずしていただきました。今までの学界の方法は上乗せ主義です。井上光貞氏はこのように言っている。この上に立てばこうだ。上田正昭氏はこうだ。この上に立てばこうだ。門脇禎二氏はこのように発言している。そう言えばこうだ。煉瓦の積み上げのように、近畿一元主義で組み立てている。それが今ガラガラと必然的に崩れてきている。

 その場合九州王朝論者も、同じやりかたをしてはいないか。誰かがこう言った。その上に立てばこうだ。あの人がこう言った。その立場に立てばこのようになる。それが九州王朝という違うイデオロギ一に立っているから違うと思っている人がいるが、九州王朝論者も方法としては近畿天皇家一元主義と同じやり方をしている。自分が扱おうとしている資料がどういう性質の資料かということを精密に検査する。これを抜かすと、大和朝廷中心のインチキ学問と同じ、九州王朝中心のインチキ学問になる恐れがある。それをやってはいけない。資料の性格を精密に調べて使う。この方法を絶対忘れてはいけない。言いたいことはそれだけです。

 私はこの戒めに大きく逸脱していないつもりですが、いかがでしょうか。

 「氏の説は“証明”されたものでなく,言わば“仮説”に過ぎません」というくだりについても私の考えは異なります。仮説はいつどういう条件があれば真理になったり誤謬になったりするのでしょうか。仮説は永久に仮説なのでしょうか。

 古田さんは「近畿天皇家一元主義」(私は「ヤマト王権一元主義」と呼んでいます)も「多元史観の立場」も仮説と言っていますが、私はそれは「公理」の一つと捉えています。そしてそれぞれの公理をもとに構築された理論の総体については、前者は「相対的誤謬」(「正しいものよりも、修正の余地のあるものの方がずっと多く含まれている」認識)であり後者は「相対的真理」(「正しさの中に修正の余地のある誤謬をいくらか含んでいる」認識)であると判断しています。

 最後に現在のテーマに関するご指摘。
(4)
「国,縣」の行政単位について,古田氏の下記2冊,
(1)『法隆寺の中の九州王朝』1988(朝日文庫)
(2)『よみがえる九州王朝』1983(角川選書)
を見られたのは,よろしいと思いますが,古田氏が正面切って,この問題を論じられたのは,(1)でなく,(2)なのです。

・したがって,本人が「旧稿を改めた」とか,「旧稿は廃棄する」とか断っていない限り,まず参照すべきは“初出”なのです。

・また取り上げた著作が,いつの発行なのか明示がありません。こういった事は,きちんと示す必要があります。

・なお,(1)の『法隆寺の中の九州王朝』の初出は1986年の朝日新聞社刊です。したがって,“初出”に拠られるのがよろしいかと思います。文庫版を採用される場合は,その旨断る必要がありましょう。

 (1)・(2)の扱いについては出版年は記載しませんでしたが、
(①の方が後の出版である。①は②のダイジェスト版のようだ。主に①を用い、必要があれば②を援用する。)
と断り書きをしました。私には①の方が簡潔でよいと判断したからです。①を引用する時は②の該当部分も調べて、理路に変更がないかどうか調べています。変更は確認できませんでした。もし変更があった場合は、私は後に出版された方をとるべきだと思います。また①では不十分な場合は②を用いようと思いました。「中国の行政制度の変遷」では、私自身の勉強のため、①・②両方から引用しました。このような使い方を、私は不当とは思いません。

 また発行年月日の明示については、学術論文では必須のようですね。私が書いている文章のような場合、月刊誌・週刊誌・新聞のような場合はもちろん必要ですが、単行本の場合は出版社だけで十分で、そのような厳密さは必ずしも必要ないと思っています。いま過去の記事を少し見てみたら、発行年を付記しているのもあるが、ほとんど発行年を書いていません。しかし、発行年が問題になった時は本文中で確認しています。発行年の記載は必要に応じてでいいのではないでしょうか。どうしても必要不可欠なこととは思えません。

 最近まで学術論文とはほとんど無縁で過ごしてきましたが、いわゆる評論文はかなり読んできました。ふと思いついて、文学や政治や思想などの評論本を何冊か調べてみました。引用文については書籍名・出版社名だけで、ほとんど発行年を記録していません。中には出版社名も書かない人もいる。アカデミー外では発行年を付記するというしきたりはないようです。私は一般言論界の習慣に知らず知らずのうちに染まっていたのかも知れません。

 “初出”に拠るべきかどうかも、ケースバイケースでしょう。月刊誌や週刊誌などで書きためた文章を再構成して単行本にまとめる場合、追記・訂正をするのが普通でしょう。一般的には“初出”より後の方を重んじるべきだと私は思います。
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《真説古代史・近畿王朝草創期編》(181)

「天武紀・持統紀」(96)


「大化改新」の真相(19)
〈番外編〉「誤解の功名」について


 「孝徳紀」の大化1・2年の一連の詔をそっくりそのまま九州年号の大化1・2年に置いて『「大化改新」の真相(1)』を始めた。『「大化改新」の真相(7)』まではそれに従って論を進めてきたのに、『「大化改新」の真相(8)』では「朔日・暦日ともに合致する」移動を採用して、持統6・7年を選んで仕切り直した。これまでも「朔日・暦日ともに合致」でやってきていたという思い込みがあった為だった。また、持統3~5年に国制に関係する記事が多くあることに結びつけようという意図もあったと思う。

 さて、上記のような年代移動は間違いであるという指摘を向井さんからいただいた。続いて、その論拠の一つとして『「藤原宮」と大化の改新について』という正木さんの論文を教えていただいた。その論文は大化2年の「改新の詔」の次にある「鐘匱の反応」の詔をめぐる論考だった。

 「改新の詔」の後続文は次のようになっている。

646(大化2)年
是の月(正月)に、天皇、子代離宮に御(おわしま)す。使者を遣して、郡國に詔して兵庫(つわものぐら)を修営(つく)らしむ。蝦夷親附(まゐしたが)ふ。〈或本に云はく、難波狭屋部邑の子代屯倉を壊ちて、行宮を起つといふ。〉
二月の甲午の朔戊申(15日)に、天皇、宮の東の門に幸す。蘇我の右大臣をして詔せしめて曰く……


 これによると、2月15日の詔は子代離宮で行われた。正木さんは、考古学的事実を確認した上で、「宮の東の門」について次のように述べている。

 「宮の東門」は前期難波宮にすら無いとされている。いわんや「離宮」にあるとするのは極めて無理があろう。発掘調査では藤原宮の十二の朝堂の外側に、北の大極殿院から伸びる回廊が巡らされていた。東門は北から二番目の朝堂院東第二堂南東に設けられており、天皇は回廊を渡り東門に幸したと思われる。

 東第一堂には大臣が椅子に着座。最大の朝堂である第二堂では大臣に次ぐ納言・参事等の官僚が床に座り執務したと言われる。天皇の命で右大臣が東門付近の第二堂に参集した官僚に詔を発したとする書記の文言と藤原宮の遺跡状況は符号する。この記述は堂々たる朝堂院を備えた藤原宮での出来事として相応しく、「離宮」での事とは到底考えられないのだ。

 ちなみに平安時代の資料によれば東門は「宣政門 せんせいもん」と呼ばれていた。政の詔を宣する場所であった事を示す名称だろう。

 「朔日・暦日ともに合致する」移動の場合、この詔が出されたのは692(持統6)年ということになる。この時はまだ藤原宮はまだ完成していないので、この詔は飛鳥浄御原宮で出されたことになる。

 飛鳥浄御原宮の発掘調査の現況については「飛鳥浄御原宮の謎(1)」で取り上げている。それによると、今のところ飛鳥浄御原宮の門としては「内郭全体の正門である内郭南門」と「東南郭(エビノコ郭)の西門」が確認されているだけである。ただし、天武が引き続き用いたという説もある後飛鳥岡本宮(Ⅱ期遺構)は「東西193メートル以上、南北198メートル以上の大規模な回廊状の区画施設が検出されているが内部の構造は不明である」という。しかし、今後の調査でも「東門」が確認される可能性は少ないと思える。なにしろ「天武紀」には「大極殿・大安殿・内安殿・外安殿・向小殿・朝堂・前殿・御窟殿・後宮・西門・南門・新宮・旧宮」などなどの多様な殿舎がでてくる。ほとんど盗用記事の中で使われているものと思われるが、ともかく東門はない。

 以上により、「東門」は「朔日・暦日ともに合致する」移動が不当である証左と言えそうだ。思いがけないところから反証が出てきた。私は「とりあえずは国制に関する事項だけにしぼってすすめることに」して、他の詔を全く無視してきた。全体への目配りが足りなかった。

 「朔日・暦日ともに合致する」移動を採用したとき『取りあえず持統6・7年を採用して進めたい。そうしたために理論に矛盾が生じたら、「朔日・暦日ともに干支不変更」とした仮説が破綻したことになる』と書いとおり、この仮説に特に固執する理由はない。しかしまだもやもやとした思いがある。私には、改新記事を50年も時代を繰り下げた『日本書紀』編纂者の意図とその繰り下げ方法に関して、まだはっきり分からない点があるからだろう。国制に関するもの以外の詔も含めて全体像をつかむ必要がありそうだ。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(180)< BR>
「天武紀・持統紀」(95)


「大化改新」の真相(18)
「品部廃止の詔」をめぐって(6)


 筑後国風土記の「磐井の乱」記事が8世紀 に加筆されたものなら、前々回のA型風土記 の「撰進の詔」が出された年の推定は再考し なければならない。なぜなら、磐井の滅亡年 (531年)を論拠にした取捨選択だったのだ から。そうすると(A)523(継体17)年が候補 として残ることになる。私はこの年こそが第 一候補だと思う。筑紫の君・磐井の最も大き な業績は律令の制定だ。律令の制定と共に風 土記撰進も行われたとしても不思議はない。

 さて、「井の中」では、「国」という地方 行政区画が画一的に定められたのは大化改新 以後、という津田説が「定説」になっている ようだ。従ってとうぜん、それ以前の「県」 を無視することになる。しかし、神武東侵を 史実とする私(たち)の立場からは「神武 紀」以後の全ての「県」を対象にしなければ なるまい。古田さんは『日本書紀』の「景行 紀」以前の「県」を取り出して論を進めてい る。ここでは『「品部廃止の詔」をめぐって(3)』に掲載した〈大系〉補注の 調査結果を利用しよう。今度は各地名の読み 方も付記しておく。

〔県主名(県名も含む)〕
菟田下(うだしも)・菟田・曾富(そほ)・猛田 (たけだ)・磯城(しき)・葛野(かづの)(神武 紀)
磯城・春日(かすが)(綏靖紀)
磯城(安寧・懿徳・孝昭・孝元・孝安紀)
茅渟(ちぬ)(崇神紀)
〈以上は全て近畿で9ヶ所。古田さんの表は 葛野を欠いていた。〉
長峡(ながお)・直入(なおり)・子湯(こゆ)・ 諸(もろ)・熊(くま)・八代(やつしろ)・高来 (たかく)・八女(やめ)・水沼(みぬま)(景行 紀)
〈以上は九州で9ヶ所。〉

 この結果について古田さんは次のように分 析している。

(1)
 近畿については、「東鯷国」(銅鐸 国家)の行政単位に「県」があった。それを 侵入者たる近畿天皇家が継承したのである。

(2)
 九州については、先にのべたように、九州 王朝の行政単位の反映であった。

 近畿天皇家(神武たち兄弟)は、その県を行 政単位とする国としての倭国(九州)の一端か ら出発して、近畿に侵入したのであった。し たがって「東鯷国」の「県」制を継承 したのは、むしろ当然かもしれぬ。

(ただ漢字で「県」とあらわされたものの訓 みが、すべて「あがた」であったかどうかは 明らかではない。)

(その後古田さんは見解を変えて、東鯷国を南九州に比定しているようだ。ま た銅鐸国には狗奴国を比定している。以下本 文では東鯷国ではなく銅鐸国を用いる ことにする。)

 倭国も銅鐸国も早くから「県」という行政 単位を用いていたことになる。倭国(九州王 朝)の「県」が「景行紀」に集中して現れる のは「景行の九州大遠征」が、実は「前つ君 の九州一円平定譚」の盗用記事だからである 「景行紀」の遠征地図を再掲載しておこう。

景行紀

 さらに、「功紀」・「仲哀紀」の「筑後 征伐譚」も盗用記事であり、ここにも倭国の 「県」が現れている。

功紀
伊覩(いと)・山門(やまと)・松浦(まつら)< BR> 仲哀紀
儺(な)/伊覩(いと)崗(おか)

(景行紀・功紀・仲哀紀の盗用記事につい ては「九州王朝の形成」で詳し く紹介しています。参照してください。)

 以上により、九州王朝が「県」という行政 単位を用いていたことは確かな事実である。 勿論これは中国の制度にならったものである 〈大系は〉「国県」の頭注で「中国の熟字と しては落着かない」と書いていたが、「国 県」制は決して奇異な概念ではない。ここで 中国の行政制度の変遷をみてみよう。

 「九州王朝にも風土記があった」にふんだ んに史料を用いた詳しい論考がある。また、 「二つの風土記」ではそれの要点を簡潔にま とめたものがある。私にとってはほとんど未 知の事項なので、欲張って二つとも引用して おく。まず「二つの風土記」の記述で全体像 を。

 古墳時代の「倭国」が臣事していた、中国 の六朝、そこには「国県制」があった。

蜀郡太守、秦立つ。晋の武帝の太康中、改め て成都国と曰う。後、旧に復す。県五を領 す」(『宋書』州郡志、四)

 中国の制度史の要点をあげよう。
(a)
 周の封建制。天子のもとに「国」があった
(b)
 秦の郡県制。天下に「郡」をおき、その下 に「県」をおいた。
(c)
 漢の郡国制。天下に「郡」と「国」をおき それぞれの下に「県」があった。

 この制度は、「漢→魏→西晋→東晋→南朝 劉宋→(南斉)→(梁)→(陳)」と連続し た。その一つが右にあげた『宋書』の実例だ ったのである。

 したがって後漢の光武帝のときも、倭国の 帥升(すいしょう)のときも、卑弥呼・壱与の ときも、倭の五王のときも、筑紫の君、磐井 のときも、中国には「郡-県」と共に、問題 の「国―県」の制が国の中に存在した。倭国 の王たちは、皆それを知っていた。したがっ て自己の国(倭国)の中に「県」をおいたこ と、それは当然だった。

 その倭国において最初に成立した『風土 記』、それがA型の「県の『風土記』」であ ったこと、それはいわば、当然至極のことだ ったのである。

 つぎは「九州王朝にも風土記があった」か ら、史料を用いた詳しい論考を引用する。長 いです。

 先ず周(しゅう)の封建制。
 斉(せい)・趙(ちょう)・魯(ろ)・燕(え ん)・楚(そ)、といった国々が並立し、中心 に周王朝があった。あの蘇秦(そしん)、張儀 (ちようぎ)等の合従連衡(がつしようれんこ う)の術策も、このような各「国」の間に生 れたエピソードだったのである。

 次に秦(しん)の郡県制。
 「県」が誕生した。かつての「国」は 「郡」に代り、中央から派遣された官僚が支 配した。そしてその下部単位として「県」が おかれたのである。

 次が漢(かん)の郡国制。
 これは全国を「国」と「郡」の折衷型とし 「国」では漢の高祖の一族や功臣が「王」と なり、「郡」では、秦代のように中央からの 派遣官僚が統治した。そして右のいずれにお いても、下部単位は「県」だったのである。 たとえば、

山陽(さんよう)郡(故、梁。景帝中六年、別 れて山陽国為(た)り。武帝の建元(けんげん 五年、別れて郡為り。莽(もう)、鉅野(きょ や)と曰(い)う。兗(えん)州に属す)… …県二十三(『漢書』地理志上)

楚国(高帝置く。宣帝の地節(ちせつ)元年、 更に彭城(ほうじょう)郡為り。黄竜(こうり ょう)元年、故(もと)に復す。莽、和楽(わら く)と曰う、徐州に属す)……県七」(『漢 書』地理志下)


 われわれにおなじみの楽浪郡・帯方郡など も、その「郡」の一つだったのである。この 制度は魏、西晋へとうけつがれた。『三国 志』の各列伝の冒頭に、

李典(りてん)、字は曼成(まんせい)、山陽・ 鉅野の人なり」(『魏志』巻十八)

といった風の形で書かれているのは、山陽郡 鉦野県の出身であることをしめす。また『魏 志』の彭城王拠(きょ)伝に「国・郡・県」を めぐる興味深い詔がのせられている。

(黄初5五年、224、文帝)詔して曰(い)わく 『先王、 を建て、時に随(したが)って制す。漢祖、秦 の置く所のを増す。光武に至り、天下損耗(そんこ う)せしを以て、幷せて郡県を省く。今を以て之に 比すれば、益ゝ及ばず。其れ、諸王を改封し て、皆王 と為す』
拠、定陶(ていとう)県に改封せらる。太和 (たいわ)六年(232)諸王を改封し、皆を以てと為す。拠、復 (また)、彭城に封ぜらる。景初元年(273)、 拠、私(ひそか)に人を遣わして中尚方(ちゅ うしょうほう)に詣(いた)り、禁物を作るに 坐(ざ)し、県二千戸を削らる。」(『魏志』 巻二十)


 制度改変の錯綜した記事の間に「郡―県」 「国―県」制の存在が明瞭にうかがわれよう また『宋書』州郡志には、

益(えき)州刺史、漢の武帝、梁(りょう)州を 分けて立つ、治する所、別に梁州を見る。< FONT COLOR="#FF0000">郡二十九、一百二十八 を領す。
蜀(しょく)郡太守、秦立つ。晋の武帝の太康 (たいこう)中、改めて成都(せいと)と曰う。後、旧 に復す。 五を領す。(『宋書』州郡志四)

とあり、州のもとに「郡・国・県」の存在す る状況がうかがえる。さらに『隋書』地理志 では、

天監(てんかん)十年(511、梁武帝)、州二十 三・三百五十・千 二十二有り。(中略)
高祖、終を受け、朝政を惟新(いしん)す。開 皇(かいこう)三年(583)、遂に諸を廃す。……州を析置(たくち)す。煬帝(ようだい)、位を嗣ぐ。……既にして諸州を併省し、尋(つ)いで州を改めてと為す……大凡(おおよそ)一百九十、一千二百五十五。(『隋書』地理志上)


とあるように、変改の中にも、“州もしくは 郡のもとに県”という制度は代々うけつがれ ていたようである。

 さて以上のように、中国の「県」制は連綿 と連続していた。その長年代の間、臣属・国 交をつづけてきた倭国側はこの影響をうけな いままにきたのであろうか。いいかえれば、 この制度だけは敢(あ)えて“とり入れず”に 拒否してきたのであろうか。

 先ず『三国志』の倭人伝について考えてみ よう。

古(いにしえ)より以来、其の使、中国に詣る や、皆自ら大夫と称す。

 倭国は周代の「卿(けい)・大夫(たいふ)・ 士(し)」の制度をうけ入れ、その名によって 貢献していた。「大夫」とは、当然周代の 「国」のもとにおける制度である。さすれば “「大夫」を名乗った”ということは、“周 の天子のもとにおける「国」”の位置に、み ずからの倭国をおいていた、ということの表 現であろう(ここで「古」という言葉 は「周以前」を意味する。『邪馬一国への道 標』参照)。

 次いで志賀(しかの)島の金印。この「漢委 奴王印」 の「国」とは、当然漢の「郡国制」下の 「国」を意味する概念である。少なくとも、 中国本土内において、その「国」の下には 「県」の存したこと、前述のごとくである。

 ふたたび『三国志』。卑弥呼が親魏倭王の 称号をえたと共に、その配下の難升米(なん しょうまい)・掖邪狗(えきやこ)等は率善中 郎将(そつぜんちゅうろうじょう)、牛利(ぎ ゅうり)は率善校尉(そつぜんこうい)という 中国称号を与えられた。すなわち倭国では女 王も、その主要な配下も中国式制度の中の称 号によっていたのである。

 そして注目すべきこと、それは卑弥呼の使 者たちが帯方郡へ往来するとき、帯方郡治 (ち)にいたる前に、“幾多の帯方郡内の 「県」を通過していたこと”、それは疑う余 地がないという点だ。少なくとも「郡―県」 の制度は三世紀以降の倭人(の支配層)にとっ て周知のところであった。そして洛陽に至っ た難升米たちは当然、その途中「国―県」の 制の中を行き、この制を知悉したのである。

 次に『宋書』。倭王武は中国の天子に対し て「臣」を称し、「藩」を称し、例の将軍号 などの中国式称号を倭王以下、愛用していた 「自称」さえした。ここに及んでも、なおか つ中国式の「県」制度に対しては無関心だっ たのだろうか。

 以上の状況を総括すれば、三世紀以降にお いて倭国がいつ中国式「国―県」制を模倣し 襲用したとしても、不思議はない。もちろん 必ずしも中国式発音で「県」と呼んだという 意味ではないけれども、中国の天子の配下の 倭王として「国―県」制を襲用していた可能 性はきわめて高い。そのようにいいうるであ ろう。

 そして反面、記・紀のしめすように、“九 州において「県」の出現が多く、かつ早い” このような史料上の痕跡に出会うのである。

 以上のような考察に立ってふりかえれば、 “邪馬一国―九州王朝の故地において、中国 風の「国―県」制(に相当する行政単位)が施 行されていた”という、この命題は、実は何 の他奇も存しないところなのであった。なぜ ならこの日本列島を代表する一中心国が“行 政制度をもたぬ”ことはありえず、またその 行政制度に対して“中国の行政制度が影響し ていない”そのような状況の方が逆に考えが たいところだからである。

《真説古代史・近畿王朝草創期編》(179)

「天武紀・持統紀」(94)


「大化改新」の真相(17)
「品部廃止の詔」をめぐって(5)の追記


(19日に一度アップロードしたのですが、不備な点があったので取り下げで書き直しました。不備の記事を読んでいた方、ごめんなさい。)

 前回の私の戸惑いに対して、向井藤司さんがコメントを寄せてくださいました。ありがとうございます。コメントの内容は三点あります。

――――――――――

第一点
 今回の混乱の1つは、履中紀の国史設置時期と釈日本紀に逸文がみえる筑後国風土記の成立時期を混同して議論をしているのではないかと思います。

 国史の設置時期は癸卯年8月8日、筑後国風土記の成立時期は「磐井の乱」以後、あるいは郭務悰の占領軍の後(8世紀初頭)ということではないか。

 問題は釈日本紀に逸文がみえる「縣」で書かれた筑後国風土記の成立時期が「磐井の乱」の数十年後、あるいは郭務悰の占領軍の後(8世紀初頭)のどちらかということになる。

 古田さんの「唐占領軍の暴状」説ならば、8世紀初頭にはまだ筑後国は風土記編纂能力を有していたということになる。大長が712年まで続いていたことから考えると可能性のある話ではあると思います。

 講演録『「磐井の乱」はなかった』の中の一文
『「玆」で、現在というのは8世紀前半以後『風土記』が作られて以後です。』
に困っていたのだった。困っていた点を少し詳しく分析してみる。

古老(ふるおきな)の傳へて云へらく、上妻の縣に多く篤(あつ)き疾(やまひ)あるは、蓋(けだ)しくは玆(これ)に由るか。

 問題の文は筑後風土記の上の文についての解釈の中で発語されている。


 「玆」というのは磐井の墓の石人や石馬が破壊された「暴状」を指している。

 「現在」とは古老が上のように証言している時期のことである。(あるいは証言の内容が示す事態の時期)

 「8世紀前半以後」というのは713(和銅6)年の「風土記撰進の詔」を念頭においた発語である。

 『風土記』とは「筑後国風土記」を指している。あるいは上の詔に従って作られた全ての風土記を指しているとしても「筑後国風土記」を含む。

 前回、私がこだわったのは筑後国風土記の成立時期とそれがA型のはずだという二点だった。和銅6年の詔に従って作られたとしたらそれはB型でなければならない。

 ③が和銅6年の詔とは無関係の発語だとして、単純に「筑後国風土記は8世紀前半以後に作られた」と読むこともできる。向井さんのご指摘のように、「筑後国風土記の成立は8世紀前半以後」ということは大いにある得ることだと思う。しかしその場合は、その論証が必要だ。

 私にはこのようにしか読めないので戸惑ったわけだった。しかし、あの一文全体を私の理解で翻訳(?)してみるとますますおかしくなる。
「古老が証言をした時期(あるいは証言内容)は8世紀前半以後、筑後国風土記が作られた以後のことである。」
 風土記に古老の証言が記録されているのだから、「風土記が作られた…以前である」としなければおかしくないか。

 『「磐井の乱」はなかった』は講演録だから、くだんの文は舌足らずの不用意な発語と考えるほかないだろうか。この一文だけ取り出してあまり厳密に読むのが間違いなのかも知れない。「木を見て森を見ず」ということになりかねない。この文を捨てて仕切り直そう。

 古田さんはA型風土記9例を全文掲載している。「筑後国風土記」の磐井関連記事は(6)番目にある。またそれらを三種類に分類して、その分類の根拠を示している。
第一はA型風土記純粋な形をとどめているもの。
第二は後代(大和王朝側)の手が加わっているもの。
第三は断片で「県」の表記はないが、「筑紫風土記」の存在を示しているもの。

 (6)は第二の一つであり、古田さんは次のように述べている。

 問題は(6)だ。すでに『失われた九州王朝』第四章Ⅰでのべたように、この文面全体は、筑紫の君磐井に対して同情的である。「磐井を斬る」といった、記紀風の描写法ではなく、「独り自ら……南山峻嶺の曲(くま)に終る」とのべている。あたかも有徳の君子の崩御を悼むふうだ。

 また継体側(物部大連麁鹿火(あらかい)の軍の行動に対しては「石人の手を撃ち折り、石馬の頭を打ち堕(おと)しき」といい、その暴虐を鳴らすような筆致である。

 ところが、その中に突如「雄大迹の天皇の世に当り……皇風に偃(したが)はず」という一文が挿入されている。唐突だ。「皇風」の用語は、明らかに近畿天皇家側の手によるものだ。

 全体の文調に反した、一種露骨なこの一文。ここにもっとも典型的な改作の手の痕跡がしめされている。これが「第二式」だ。

 またこの(6)の「雄大迹の天皇の世に当り」の一句に注目したい。これは近畿天皇家側の方式による絶対年代のしめし方である。当然、改作の手による表現である。

 「磐井の乱」記事の「雄大迹の天皇の世に当り……皇風に偃(したが)はず」という一文は後代に挿入されたものであると言う。そしてこれが「改作の手の痕跡」であるという。これはよく納得できる。

 では「磐井の乱」の文全体も挿入されたものなのか。上の引用文では記事全体が挿入されているとは、私には読めない。「あたかも有徳の君子の崩御を悼むふう」に同情的に書かれているのは九州王朝の人物の手になるからだろう。そうすると、一部改変されているが、文全体が後代に挿入されたのではないとしか考えられなくなってくる。でもそうすると「磐井の乱」は「唐占領軍の暴状」隠しのために書かれたという古田説と整合しない。その古田説が成り立つためには「磐井の乱」記事全体が作文挿入されたものでなければならない。

 講演録『「磐井の乱」はなかった』ではその点もあいまいである。筑後風土記の「磐井の乱」記事は「唐占領軍の暴状」記事であることをキチンと論じた論文はないものかと探した。『古田武彦と「百問百答」』にあった。(a)「P10~P16」と(b)「P26~P28」と二ヶ所にあった。私が悩んでいる部分だけ抄出する。

(a)
(①「磐井の墓」記事・②「磐井の乱」記事・③最後の「古老の伝えて…」記事と分けて論じている。)

 「県、風土記」そのものは、いわゆる「郡、風土記」に対して〝古型″ですが、その〝古型″をしめす①に対し、次々と「改削」「加文」がプラスされた〝混合型″。これがこの史料の性格です。

 以上の史料批判に到達したとき、わたしには「磐井(或は、継体)の乱」をリアルな史実と見る立場から、キッパリと手を切らざるをえなくなったのです。


 決定的だったのは、右の③です。岩波の日本古典文学大系本では、次のように注釈しています。
 「篤疾」
 不具の類。戸令に両目盲・二支廃(両脚発育不完全、歩行不能)・癲狂などを篤疾としている。

 「玆(これ)に由るか」
 磐井君の崇りという意。

 風土記の成立は、8世紀中葉です。いわゆる「磐井の乱」は6世紀前半。その当時の「破壊行為」の〝たたり″で、二百年以上もあとに、現地に「不具の人たち」が生れる。-そんなことがありうるでしょうか。」

(b)

 わたしはこの「石人・石馬の破壊」は、6六世紀はじめの「磐井関連」」ではなく、7世紀後半、筑紫へ「進駐」してきた戦勝国(唐)とそれに協力した近畿天皇家の手による破壊。-そう考えています。

 だからこそ、その際〝抵抗″し、〝手や足を傷つけられた″人々が、「不具者」として、八世紀前半まで、〝生き残って″いたのです。

 筑後国風土記の、ここの文には「文型の誤差」がありありとしめされています。
「雄大迹(をほど)の天皇のみ世に当りで、筑後君磐井、豪強(つよ)く暴虐(あら)くして、皇風に偃(したが)はず。云々」
の一節です。

 これは、「後代挿入」の文調です。本来は冒頭部のしめす「県(「郡」ではなく)風土記」。それをあとで(8世紀)〝作り変えて″いるのです。

 私の疑問に直接答えてくれる文はない。やはり「風土記の成立は、8世紀中葉です」としている。ただほかの二つの赤字部分から推し量り、次のように理解した。

 「古型」のA型風土記があって、それを次々と「改削」「加文」していった。古田さんが言う「風土記の成立」とは近畿王朝による「改削」「加文」のことを指している。そして「古型」は①だけであり、②と③丸ごとの「加文」である。

 このように理解したが、そうすると後に加文された②が磐井に同情的に書かれているのは何故か、という問題が残る。これに対しては、今のことろ、加文担当者が九州王朝出身の吏官だったのではないか、と考えている。

 以上でひとまず打ち切ることにしよう。

――――――――――

 向井さんに再考を促していただきました。ありがとうございました。次にコメントの第二点に触れておきます。

第二点
 ところで、「大化改新」の真相(8)~(9)に展開された復元年表はとても怪我の功名とはなっていないと考えています。

 といいますのは、正木さんが論じておられるように大化の改新の詔は藤原宮の東門でなされていると考えるのが自然であって、貴殿の復元年表では藤原宮の東門はまだ完成していない時期の詔となってしまうこと。さらに、年表復元のプロセス(書紀作者の盗作・改ざんプロセスの設定)に問題があることからです。

 「大化の改新の詔は藤原宮の東門でなされている」という正木説が書かれている論文をまだ目にしておりません。教えていただけるとありがたいです。また、「年表復元のプロセス(書紀作者の盗作・改ざんプロセスの設定)」の意味がよく分かりません。もう少し詳しく教えていただけるとありがたいです。真摯に見直したいと思います。

第三点
 本件とは全く関係がないのですが、「狗奴国の位置」について古田さんの最新の研究成果についてご存知でしたら教えて下さい。 東京古田会から発行されている『古田武彦と「百問百答」』の「8(1)」(pp.116-118)に『「狗奴国の位置」に関する記事は、三国志の魏志倭人伝には、ない。』と書かれていますが、私は魏志の「此女王境界所盡其南有狗奴國男子為王」の記事から狗奴國は女王国の南にあると(里程記事はないが)書かれていると思っていました。確かに後漢書には「自女王國東度海千餘里至拘奴國」とあります。魏志と後漢書の「狗奴國」記事についてトータルとしてどう理解すればよいのでしょうか。

 私としては「9(1)」(p129)の質問者のように范瞱が魏志の「此女王境界所盡其南有狗奴國男子為王」と「女王國東渡海千餘里復有國皆倭種」を混同していると考える方がすっきりと分かるのですが。

 難しそうな問題ですね。私には手に負えない問題のようです。向井さんのコメントを読んで、書きかけていた記事を中断しています(次回アップする予定です)。その中に次の一文があります。

「その後古田さんは見解を変えて、東鯷国を南九州に比定しているようだ。また銅鐸国には狗奴国を比定している。以下本文では東鯷国ではなく銅鐸国を用いることにする。」

 この古田説と関係するのですね。さいわい『古田武彦と「百問百答」』は手元にありますので、読んでみます。銅鐸国に狗奴国を比定した古田さんの論証が詳しく読めるとよいのですが…。

 このようにリアルタイムに意見が交換できるといいですね。これからもよろしくお願いします。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(178)

「天武紀・持統紀」(93)


「大化改新」の真相(16)
「品部廃止の詔」をめぐって(5)


 A型風土記はいつ頃撰進されたのだろうか。「井の中」では「漢籍を模倣した後世の造作」として見捨てられている「履中紀」の「風土記撰進の詔」に戻ろう。再度掲載する。

 403(履中4 干支年・癸卯)年8月8日
四年秋八月辛卯朔戊戌、始めて諸国に国史を置く。言事を記して、四方の志を達す。

 これが九州王朝の史書からの盗用記事であることはすでに述べた。では『日本書紀』編纂者はなぜこの記事をこのように唐突に盗用したのだろうか。

 A型風土記は、『釈日本紀』などに引用されているのだから、とうぜんその原本(あるいはその一部)は残っていた。『日本書紀』編纂者はB型風土記に先行してA型風土記が撰進されていたことを知っていたのだ。これを無視している現在の学者たちとは異なり、彼らはこれを無視することはできなかった。A型風土記もヤマト王権による撰進と偽装する必要があった。

 「履中紀」は短い。その内容も「磐余の池を作って遊んだ」とか「淡路島で狩りをした」とか「妃が亡くなって新しい妃を娶った」とかいうような記事ばかりである。「風土記撰進の詔」は「履中紀」の中では、ポツンと置かれたようで、本当に唐突で異質な記事なのだ。履中前後には仁徳とか雄略とか、華々しい事績を持つ大王がいる。「仁徳紀」あるいは「雄略紀」に挿入した方が格好が付くだろうに、なぜそれを「履中紀」に置いたのだろうか。

 「応神朝に文字の伝来を記したこと」と連動した造作だという津田左右吉説が当たっていると思われる。ただし、私(たち)の立場ではここでの造作は、編纂者の作文という意味ではなく、九州王朝の史書からの盗用という意味である。この場合もやはり、なぜ「仁徳紀」でなく「履中紀」なのかという問は変わらない。

 答は一つしかない。原史料の干支に従って選んだのだ。A型風土記は見事な漢文で書かれているという。そしてさらに、文字伝来説話と連動した盗用なのだから履中以前ではあり得ない。履中以後の干支年・癸卯を探してみよう。また、『続日本紀』の「風土記撰進の詔」(713年)以前だから候補年は次の四つになる。

(A)523(継体17)年
(B)583(敏達12)年
(C)643(皇極2)年
(D)703(大宝3)年

 (D)は近畿王朝の時代だから該当しない。

 (A)については、古田さんは
「A型『風土記』は磐井の滅亡(531年)の記事をふくんでいる。したがって当然、そ れよりあとだ。だから(A)は失格である」
と言っている。

 付け焼き刃のにわか知識で行っている私の盲点が指摘された思いだ。私は「壬申の乱(21)」で「筑後国風土記」の磐井関連記事の前半を引用している。改めて読むと「県」を用いて書かれている。なんとこれはA型風土記だった。〈大系〉版『風土記』には「筑紫風土記」がないので、〈大系〉版に収録されている風土記はすべてB型と思い込んでいたのだった。

 戻ろう。残りの候補(B)・(C)について、古田さんは次のように述べている。

 わたしには583年の方が、より妥当だと思われる。なぜなら、上の磐井君の記事において、継体軍の暴状が克明に記録された上、「石人・石盾、各六十枚、交陣成行」といった原形状が明晰にしるされている。さらに、「上妻県、多く篤疾有りき」という古老の言葉を伝えている。したがって、磐井の滅亡(531年)から52年あとの583年の方が、112年あとの643年より、よりふさわしい、と思われる。

 以上、583年が、A型『風土記』の成立時点として、よりふさわしいようである。もちろん、これは一つの試論にすぎず、あまりにも多くの仮定をふくんでいるものであるけれども。

 古田さんは慎重に「一つの試論にすぎず」と書いているが、私はここで思いもよらないとっても悩ましい問題に気付いてしまった。古田さんが(C)より(B)の方が「よりふさわしいようである」としている論拠の「継体軍の暴状」記事である。この記事は「筑後国風土記」の磐井関連記事の後半部分(いわゆる「磐井の乱」)である。私はこれを「占領軍は何をしに来たのか(3)」で読んでいる。なぜそのようなテーマのところで磐井が関係するのかというと、「占領軍は何をしに来たのか(3)」で、風土記が描く①「継体軍の暴状」は実は②「唐占領軍の暴状」であったと古田さんの新しい論を取り上げたのだった。

 ①の方が正しければ「(B)の方がふさわしい」という判断は成り立つのだが、もしも②が正しいとすると、「筑後国風土記」が書かれた時代は7世紀後半以降となってしまい、(B)も(C)もだめで、(D)が浮上してくる。

 もしも②が正しい場合もう一つの解釈が可能だ。「磐井の乱」記事は後代(7世紀後半)に書き加えられたと解釈すれば、「(B)の方がふさわしい」はそのままでよいことになる。しかしこの論法は私(たち)が否定してきた「井の中」の恣意的な解釈と同じで、これを採用することはできない。困った。

 改めて「占領軍は何をしに来たのか(3)」を読み直してみた。結論を先に言うと、どうやら古田さんの②説の方を否定しなくてはならないようだ。

 ②説の論証のかなめは磐井関連記事の最後の文「古老(ふるおきな)の傳へて云へらく、上妻の縣に多く篤(あつ)き疾(やまひ)あるは、蓋(けだ)しくは玆(これ)に由るか」の「玆」の解釈である。これについて古田さんは
『「玆」で、現在というのは8世紀前半以後『風土記』が作られて以後です。』
と述べている。つまり「筑後国風土記」をB型と判断しているのだ。この文を初めて読んだときは、もちろん私は二種類の風土記があることなど知らなかったので、②説にびっくりしながらもその論証を納得してしまった。しかし、「筑後国風土記」がA型であることを知ってしまった今は②説を否定せざるを得ない。こういう結論になってしまった。

 ②説は2004年に行われた講演『「磐井の乱」はなかった』の講演録である。『よみがえる九州王朝』出版より20年ほど後の講演である。すでに二種類の風土記を論じ終わっていた古田さんが、A型とB型を一緒くたに扱うとはどうしたことだろう。

 今回は予定外の思いがけない問題が加わってしまった。厳密な論理と慎重な判断で論究を重ねておいでの古田さんがこのような単純なミスをするとは考え難いのだが…。私の読みに何か間違いがあるのだろうか。私はとんでもないうっかりミスしばしばしでかします。どなたかお気づきのことがありましたら、お教えください。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(177)

「天武紀・持統紀」(92)


「大化改新」の真相(15)
「品部廃止の詔」をめぐって(4)


 ここまできて、『古事記』・『日本書紀』・『続日本紀』だけでの学習に限界を感じている。なにか他に手掛かりはないかと、久しぶりに手元にある古田さんの著作を調べみた。必要なときに必要な所しか読んでいなかった①『法隆寺の中の九州王朝』(朝日文庫)に、なんと「国県」を論じている章があった。「第五章 二つの『風土記』」だ。念のため図書館へ行き、私が所持していない著作も調べてみた。②『よみがえる九州王朝』(角川選書)の「第三章 九州王朝にも風土記があった」に出会った。上の2冊を教科書とすることにした。(①の方が後の出版である。①は②のダイジェスト版のようだ。主に①を用い、必要があれば②を援用する。)

私は風土記といえば713(和銅6)年5月2日の「風土記撰進の詔」に従って作成されたものだけだと思っていた。

五月甲子。制 畿内七道、諸国の・郷の名、好字を著(つ)けよ。其の内に生ずる所の銀・銅・彩色草木・禽獣・魚・虫等の物は、具(つぶさ)に色目(しきもく)を録せしむ。及び土地の沃藉(よくせき)・山川原野の名号の由(よ)る所、又古老の相伝・旧聞の異事は、史籍に載(の)せ、亦宜(よろ)しく言上すべし。

 この時(近畿王朝)の行政単位は「郡」であり、このとき撰進された風土記は全て「郡」単位で書かれている。この風土記を古田さんは「B型」と呼んでいる。

 しかし、『釈日本紀』(鎌倉末期に書かれた『日本書紀』の注釈書)や『万葉集注釈』(鎌倉中期の注釈書)にこれらと異なる風土記が現れている。こちらの風土記を古田さんは「A型」と呼んでいる。

〈例〉
A型(『釈日本紀』巻11)
筑紫の風土記に曰わく、逸覩(いと)の(あがた)。子饗(こふ)の原。石両顆(ふたつ)あり。一は片長(ながさ)一尺二寸、周(めぐ)りは一尺八寸、一は長一尺一寸、周一尺八寸なり。色白くして鞕(かた)く、円(まろ)きこと磨き成せるが如し。
B型(同上)
筑前の國の風土記に曰はく、怡土(いと)の(こほり)。兒饗野(こふの)郡の西にあり。此の野の西に白き石二顆(ふたつ)あり。一顆は長さ一尺(さか)二寸、大きさ一尺、重さ卌一斤(はかり)、一顆は長さ一尺一寸、大きさ一尺、重さ 卅九斤なり。

 B型の出典が「同右」となっている。古田さんは両方とも『釈日本紀』から転載しているようだが、私は岩波大系版『風土記』から転載した。当然のことながら、全くの同文であった。〈大系〉では次のような頭注が付されている。

「筑紫風土記の芋湄野の条に逸都県子饗原とあるのと同じ。」

 A型風土記と対比しているが「県」についてはだんまりを決め込んでいる。ちなみに、A型風土記は九州にのみ出現している。

 では「井の中」ではA型とB型と、どちらが先に作られたと考えているのだろうか。「A型が先でB型が後」が定説になっているようだ。これには古田さんも同意をしている。

 確かに、いったん「和銅六年の『風土記』撰進の詔」に従って「郡『風土記』」を作っていながら、また事新しく「県『風土記』」を作るなどということは、考えられない。しかも、九州だけという根拠はどこにもない。

 では、A型風土記はいつ頃撰進されたのだろうか。後に示すが、「井の中」では「風土記撰進の詔」に従ってB型が撰進される直前に気まぐれに(?)A型が作られていたと言う。ところで「履中紀」に次のような記事がある。

 403(履中4 干支年・癸卯)年8月8日
四年秋八月辛卯朔戊戌、始めて諸国に国史を置く。言事を記して、四方の志を達す。

 この記事について、〈大系〉の補注は次のように解説している。

 書紀の「始之於諸国置国史。記言啓達四方志」の文は、杜預の春秋左氏伝序の「周礼有史官。掌邦国四方之事、達四方之志。諸侯亦各有国史」、史記正義、周本紀の「諸国皆有史。以記事」、漢書、芸文志の「左史記言、右史記事」の文などによったもの。「国史」は諸国に置かれた記録をあつかう官、すなわち書記官の意。

 ふつうこの記事は、五世紀において政治上に記録の法が利用されはじめたことを示すものとされるが、津田左右吉は、「国」という地方行政区画が画一的に定められた、大化改新以後に考えられたもので、書紀が履中紀にこの記事をあてはめたのは、応神朝に文字の伝来を記したことによるとする。

 なおこの記事をもって風土記の如きものを上進せしめたものと解する説が、平田篤胤の古史徴解題記、標註・通釈などにみえるが、史官の職掌を説明した「達四方志」という中国典籍によった文字に拘泥したもので、正しい解釈とはいえない。

 要するに「漢籍」を模倣した後世の「造作」であるというのが「定説」のようだ。しかし、この場合は平田篤胤などの解釈の方が正しい。ただし、403(履中4)年の出来事ではない。この点は後に検討する。

 ではこの記事をどう扱うべきか。実はこの記事は『古事記』にはない。このような重要な大事業を『古事記』ではカットした? 毎度おなじみのあのルールを適用すべき記事だ。「ない方が原型であり、ある方が添加物」。つまりこれは九州王朝の史書からの盗用記事だった。

 「井の中」では漢籍の模倣と切って捨てているが、古田さんのとらえ方はまったく違う。古田さんは〈大系〉の補注と同じ漢籍文を挙げてる。読下し文にしているので重複の煩をいとわずそれを転載する。

周礼、史官有り。邦国の四方の事を掌り、四方の志を達せしむ。諸侯亦、各国史有り(杜預『春秋左氏伝序』)
諸国皆、史有り。以て事を記す。(『史記正義』周本紀)
左史、言を記し、右史、事を記す。(『漢書』芸文志)


 古田さんは「履中紀」の「風土記撰進の詔」について、「右の一文は、中国の古典の文面に立った、見事な造文だ」と言う。そして上の漢籍文と比べて次のように続けている。(引用文中に例文として挙げられている原文は(A型風土記の一つ「閼宗岳(あそのたけ)」の一節。読下し文もそえておく。)

 この文(「風土記撰進の詔」)の作者が並み並みならぬ、中国古典の教養の持主であることが察せられよう。これを、あの和銅六年の元明天皇の『風土記』撰進の詔と比べてみよう。こちらは日本文を漢文風に並べてみたといった感じのものだ。天地雲泥のちがいといいたいくらいなのである。

 このちがいは、実はA型とB型のちがいと対応している。たとえば「閼宗岳」の文でも、原文は

清潭百尋 鋪白緑而為
彩浪五色 絚黄金 以分
天下霊奇 出玆華

(読下し文)
清潭百尋(せいたんひゃくじん)、白緑(びゃくろく)を鋪(し)きて質(そこ)と為す。彩浪五色、黄金を絚(は)えて以て間を分つ。天下の霊奇、玆(こ)の華に出づ。


といった、格調高い漢文だ。和文臭の濃厚なB型の文とは、全く文体を異にしている。こちらは『古事記』や『万葉集』などの世界と、より近いといえよう。

 いずれが上質かは、見る側の判断基準によろう。ともあれ、両者は文化の質を異にしている。

 私はここで「倭王武の上表文」や「法隆寺の釈迦三尊の光背銘」が見事な漢文で書かれているという古田さんの指摘を思い出した。それらよりずっと後代に編纂された『日本書紀』が倭習だらけなのだ。九州王朝が大和よりも格段に進んだ文化先進国であったことが分かる。

 A型風土記が見事な漢文であることは「井の中」の学者たちの認めるところでもある。例えば、坂本太郎氏の論文「九州地方風土記補考」の一節。(二つの風土記の分類記号が古田さんのとはことなる。すべて古田さんの記号で置き換えた。またどちらかをはっきり分かるように〈A型〉・〈B型〉という補足を付けた。)

ここに本書〈A型〉の撰修は明かにB型よりも早く、風土記撰修の時代として考へ得べき最も早き時代に係(か)くるも大なる誤謬はあるまいと信ずる。

 只(ただ)A型がB型に比し文章の全体に於いて支那風の文飾の多いことはこの考察に稍(やや)そぐはぬ感もしないではない。しかしそれは他の事情によつて解釈できるのであつて、むしろそこに二様の風土記の存在を説明すべき理由すら含まれてゐるのではないかと思ふ。

 まづA型に文飾の多きは撰者が文筆に長(た)けたる人であつた故であらう。多少時代が古くとも、有能な官吏を擁した大宰府にこれだけの漢文のできる人がゐなかつたとは考へられぬ。彼は恐らく外客に接する大宰府の地位を自覚したが故に、風土記撰進の詔に従つて直に筆を揮(ふる)ひこの風土記をものしたのではあるまいか。かくて筑紫風土記は奏進され、諸国のもの〈B型〉と並べられたが、その稍異例な体裁が眼立つた為に後の大宰府官人の何人かゞこれを基にして今一度〈B型〉風土記の撰修を企て、そこに諸国風土記の粋を取り、自己に理想の形式を盛つたのであらう。……かくてともあれ、この類の風土記も奏進せられ、九州地方の風土記は二種となつた。

 「A型が先でB型が後」と主張しているが、どちらの風土記も713年の「風土記撰進の詔」後の時期に収めようとしている。そして、A型の見事な漢文で書かれていることを認めながら、その風土記をわざわざ倭習だらけのB型に書き換えたと言っている。こんなおかしな論理をご本人は「おかしい」と感じないようだ。「井の中」の論証の多くは、論証でなく、恣意的な解釈に過ぎない。「井の中」の古代史は恣意的な解釈の積み重ねで成り立っていると言っても過言ではないだろう。。

 またさらに、上の説明ではA型が「郡」ではなく「県」を用いてる理由がまったく不明である。この問題について、坂本氏も漢籍の模倣と考えているのだろうか。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(176)

「天武紀・持統紀」(91)


「大化改新」の真相(14)
「品部廃止の詔」をめぐって(3)


〈3〉國縣

 このおかしな詔勅をなんとかつじつまが合うように解釈しようと、〈大系〉は36個もの頭注を付けている。「國縣(くにこほり)」(この詔には2回使われている)には次のような注が付いている。

「中国の熟字としては落着かない。国と県(あがた)か。」

 何を言いたいのか、よく分からない注釈だ。一応一生懸命読み取ってみる。
『「国県」という熟字であるひとつの行政制度を表しているとは考えがたい。「国]と[県」という二つの異なる行政制度を併記しているのではないか。』
と言っているようだ。実は「孝徳紀」の大化元年9月19日の詔にも「国県」が使われている。こちらの方が先出なのに、どういうわけかこちらには何の注釈もない。(改めて読んでみると、この詔も「持統紀」に移すべきものかも知れない。)

「国県」が他でも使われているかどうか調べてみた。他に2件あった。135(成務5)年9月条と472(雄略16)年7月条である。

135(成務5)年9月
諸國に令(のりごと)して、國郡(くにこほり)に造長(みやつこをさ)を立て、縣邑(あがたむら)に稲置(いなき)を置(た)つ。並に盾矛を賜ひて表(しるし)とす。則ち山河を隔(さか)ひて國縣(くにあがた)を分(わか)ち、阡(たたさのみち)陌(よこさのみち)に隨ひて、邑里(むら)を定む。因りて東西を日縦(ひのたたし)とし、南北を日横(ひのよこし)とす。山の陽(みなみ)を影面(かげとも)と曰ふ。山の陰(きた)を背面(そとも)と曰ふ。是を以て、百姓(おほみたから)安く居(す)みき。天下(あめのした)事無し。

472(雄略16)年7月条
詔(みことのり)して、桑に宜き國縣(くにあがた)にして桑を殖ゑしむ。

 この2例は「くにこほり」ではなく「くにあがた」と訓じている。初出(成務紀)には次のような頭注が付されている。

「記には「定賜大国小国之国造、亦定賜国国之堺、及大県小県之県主也」とあり、稲置のことはみえず、県主の設置としている。国郡・県邑とあるのは中国風の潤飾。国造・県主(稲置)の設置を成務朝にかけたのは、景行朝における蕃夷平定のあとをうけて、地方行政機構が整備したことを示そうとしたのであろう。→補注7一四六。」

 「成務」に「稲置」がなく、「成務」に「県主」がないので「県主=稲置」と解釈している。「国」と「県」の関係についての判断はさけているようだ。「→補注7一四六」に従ってその長ーい補注を読んだら、「→〔下〕補注25-八」とある。これは「東国国司発遣の詔」に出てくる「県稲置」についての補注だった。重複している部分もあり、全体相当に混乱しているが、せっかくデータ化したので、紹介しておこう。(「井の中」の議論に興味がない方は飛ばしてください。)

 まず「〔下〕補注25-八」(適時段落を付けました。)

 県には
(1)天皇の直領地とする説と
(2)国県別ともいうべき二段階の地方区画における下級のそれである
という説がある。

 (1)は、たとえば大和の六県が事実、天皇の直領地とみられることから支持される。

 また(2)は成務記に、
(a)「定賜大国小国之国造、亦定賜国国之堺及大県小県之県也」、
成務五年九月条に
(b)「令諸国以国郡立造長県邑置稲置」 といっていることと、隋書、倭国伝に
(c)「有軍尼(クニ、国造か)一百二十、猶中国牧宰、八十戸置伊尼翼(翼は冀の誤りで、イナキか)如今里長也、十伊尼翼属一軍尼」
とあることから推測される。勿論記紀の成立からみて、成務朝の記事は事実であるまいが、隋書に記録された七世紀前半には、全国的にでなくとも国県制が成立していたとみるのである。但し隋書の記載は誇張で事実を伝えたものではないとみる人も多い。

 次に県の長官を何とよんだかにも二つの場合がある。一つは、県主である。県主はじっさいには氏の名になっているものが多く、しかも、(1)の直領地の六県の名と対応する県主の氏はかなり多い。これに対してこゝにみえる県稲置は難解である。これについて通釈は、おそらく県の長はすべて県主であるという考え方から、県の次に主の一字を補って、県主、稲置とよんでいる。しかし、主の字のある古写本は存しない。

 これに対して中田薫は、県にはもともと(1)天皇の直領地と、(2)下級地方区画としての県と二通りあり、前者の長は県主であり、後者の長は稲置であるとした。なぜなら右掲の(b)では「県邑置稲置」という。又(c)は軍尼(クニ、国造か)―稲置の二段階の組織を示すが下級組織の長は稲置になっているからである。この中田説は今日のところもっとも安定した見方である。

 なおここの県稲直の県に古訓ではアガタではなくて、コホリとなっている、そこで中田は同じ県も(1)の場合はアガタ、(2)の場合はコホリと訓むべしとした。ただし、書紀の古訓によって論ずることは危険である。

 「古訓によって論ずることは危険である」とまともな指摘しているが、補注者はいまのところ中田説を支持している。

 次に「補注7一四六」の続き。
 井上光貞は国造制は大和朝廷の成立以前に、部族的・呪術宗教的な政治集団であった小国や諸小国の連合が発達したものではなく、大和朝廷の国家権力によって、小国や諸小国の連合を再組織して作りあげた地方行政制度であったが、遅くも七世紀の初頭には国-県の二段階からなる行政組織が成立していたとし、ただ大化以前の国家権力は強大でなかったので、ある地域には国県別が浸透し、他の地域では小国や諸小国の連合が県の組織を欠いたまま国になるといったように地域的に不均等が見られたとした。井上はさらに、その国の長官は国造であり、県の長官が県主であり、稲置はその姓であるとしたが、後には稲置を県主の姓であるとみた点は改めて、中田説が妥当であるとした。

 井上の旧説に対して、上田正昭は、隋書の記載は隋の百家一里制を念頭において書いた空想豊かな文であるとして中田・井上が七世紀初頭にその存在を認めようとする国県制を否定するとともに、また県の地域的分布は畿内を中心として中国・九州地方に多く、大和朝廷の東国経営以前の様相を示していることから、県の存在は三世紀後半より五世紀にかけての大和朝廷の国家権力の拡大過程を反映しており、五世紀から六世紀にかけて新しく国造制による支配体制が成立すると、県は実質的な意味を失ったとする。

 稲置は、闘鶏稲置(仁徳・允恭紀)のように、姓(かばね)として用いられている他に、稲置代首・因支首などのように、氏名ともなっていることから考えると、古く地方社会において、豪族に与えられた官名が、あるいは姓となり、また氏名となっているのに通じ、古代における地方官の名称であった。ただ、いかなる地方官であったかについては、皇室領の経営支配を担当する地方官の名称ではなかったかという説と、上記の中由・井上の如く国造の国の下級機関としてたてられた県の官職とする説とがある。

 記紀に見える国造・県主名をあげれば次のとおりである。

〔国造名〕
出雲・武蔵・茨城(神代紀)
菟狭・倭・葛城(神武紀)
筑紫・越(孝元紀)
讃岐・美濃・火・日向(景行紀)
播磨(仁徳紀)
讃岐(履中紀)
闘鶏(允恭紀)
大倭・吉備(雄略紀)
筑紫(継体紀)
伊甚・武蔵(安閑紀)
筑紫・倭(欽明紀)
火葦北・紀(敏達紀)
穴戸(白雉元年紀)

出雲・旡邪志・上菟上・下菟上・伊自牟・遠江・凡川内・茨木・山代・馬来田.道尻岐閉・周芳(神代記)
倭・伊余・科野・道奥石城・常道仲・長狭(神武記)
近淡海(孝昭記)
木(孝元記)
甲斐・本巣・多遅摩(開化記)
木(崇神記)
出雲(垂仁記)
日向・三野・尾張・相武・近淡海安(景行記)

〔県主名(県名も含む)〕
菟田下・菟田・曾富・猛田・磯城・葛野(神武紀)
磯城・春日(綏靖紀)
磯城(安寧・懿徳・孝昭・孝元・孝安紀)
十市(孝安・孝霊紀)
茅渟(崇神紀)
長峡・直入・子湯・諸・熊・八代・高来・八女・水沼(景行紀)
岡・伊覩・儺(仲哀紀)
度逢・山門・松浦・沙麼(神功紀)
諸・川島・上道・三野・波区藝・苑・織部(応神紀)
粟隈・猪名(仁徳紀)
嶺・茅渟(雄略紀)
三野(清寧紀)
壱岐・対馬下(顕宗紀)
三島(安閑紀)
茅渟(崇峻紀)
葛城(推古紀)
片県(斉明紀)
高市・磯城・三野(天武紀)

津島・高市・佐那(神代記)
師木(安寧・懿徳記)
十市(孝霊記)
旦波(開化記)
未羅(仲哀記)
諸(応神・仁徳記)
志幾(雄略記)。

 ようするに定説はないということらしい。読んでいるうちに私の頭も相当混乱してしまった。要点のみまとめてみる。

 三つの説がある。

① 井上説
 「国県」は「国-県」の二段階からなる地方行政制度であり、遅くも七世紀の初頭には成立していた。そして、「国」の長官が「国造」であり、「県」の長官が「県主」であった。

② 上田説
 、「県」は3世紀後半より5世紀にかけて、大和朝廷の国家権力の拡大の過程で成立した。そして、5世紀から6世紀にかけて新しく国造制が成立すると、「県」は実質的な意味を失った。つまり、「国県」は「国」と「県」であり、別時代の行政制度である。

③ 中田説
 「国県(くにのあがた)」は朝廷直轄地で、「稲置」はその長である。また「国県(くにのこほり)」は地方行政制度であり。「県主(こほりぬし)」がその長官である。

 微に入り細を穿ちしながら議論をしているが、肝心の大道を見失っている観がある。「井の中」の議論の常である。言うまでもなく原因はヤマト王権一元主義にある。それは次のような点に現れている。

 「井の中」では『日本書紀』や『古事記』のどこまでが「造作」で、どこからが「信憑性がある」と考えているのだろうか。いいかえると、三説とも「国県」を大化(孝徳)期以前の成立としているが、上限はどの時代を想定しているのだろうか。上田説の「3世紀後半より5世紀にかけて」という判断は「記紀」の記述から得た判断ではなく、たぶん古墳造成期ということからの判断だろう。これが「井の中」で共有している土俵なのかも知れない。

 では「紀記」の記事はどの辺あたりから史料として採用しているのだろうか。『岩波講座・日本歴史2』所収の八木充論文「国造制の構造」を読んでみたら、「国造制の成立・拡大」の論拠に「雄略紀・継体紀・安閑紀」を取り上げている。上田説の「5世紀から6世紀にかけて」という判断もここから出ていると思われる。また、「国造制の地域的な多様性を理解するためのてがかり」として、「記紀」・「風土記」「続紀」などを使って「国・国造表」を作って論を進めているが、上限はやっぱりうやむやである。

 上の八木氏の「国・国造表」も上の補注の「県・県主」一覧も、「紀記」の「造作」として認めていないはずの神武や欠史八代も仲間に入れている。けれども下限を考えるてがかりとしては無視している。記事全体は「造作」であるけれども、そこに使われている「国造」や「県主」は後代に実際に存在したものを編纂者が利用したのだ、と考えているのだろう。こういう資料の扱い方は恣意的過ぎると言わなければならない。(この項つづく。)
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(175)

「天武紀・持統紀」(90)


「大化改新」の真相(13)
「品部廃止の詔」をめぐって(2)


 前回、『「品部廃止の詔」は他の詔勅とはガラッと違う文体で、おかしな文章という印象がある』と述べたが、そのおかしな事柄を具体的に検討してみよう。

〈1〉今之御寓天皇

 天皇という用語に準ずる単語がたくさん出てくる。天皇以外を拾い出すと次のようである。
人主(きみ)
王(きみ)…三回
王者(きみ)…二回
帝(きみ)

 宇治谷氏の現代語訳では「人主」はそのまま使っているが、「王」と「王者」は全て「天皇」に書き換えている。また「帝」は「君」と書き換えている。よっぽど困ったと見える。結果、読下し文も分かりにくいが、現代語訳文も実におかしな文章である。私の読解力では読めば読むほど意味が分からなくなってしまう。

 私が初めに躓いた箇所は「今の御寓天皇(あめのしたしらすすめらみこと)より始めて」というくだりである。まず「御寓」という言葉自体に「?」が付く。この言葉は三回使われている。「あめのしたしらす」と訓じる言葉で私になじみなのは「治天下」と「御宇」である。「御寓」なんて表記があるのを知らなかった。他の記事でも使われている例があるのか、調べてみた。「孝徳紀」ではもう一回、650(白雉元)2月15日条で使われている。あの伊勢王が登場する白雉改元記事である。

 「孝徳紀」以外では「敏達紀」にあった。583(敏達12)年是歳条である。この記事中に「檜隈宮御寓天皇之世」とある。過去の天皇を指している。ちなみにこの条は「任那復興」の記事で、日羅(百済人)という倭国への協力者を同じく百済人の随行者・徳爾等が暗殺をした事件の顛末が述べられている。この記事の一部を「鎌足と鏡王女(13)」で取り上げて、この記事が九州王朝や百済の史料からの盗用であることを論証した(つもり)。

 以上から、「御寓」という言葉も九州王朝特有の用語ではないかと思った。

 次に不審なことはこの詔では詔を発している当人が「今の御寓天皇」と言っていることである。詔の中で自分のことを「あめのしたしらすすめらみこと」などと言う例が他にあるだろうか。調べてみた。

「治天下天皇」の場合
 「持統紀」689(持統3)年5月22日条に二例ある。「在昔難波宮治天下天皇崩時」と「近江宮治天下天皇崩時」で、いずれも過去の天皇のことである。

「御宇天皇」の場合
 次の七例である。「舒明紀」の場合は出生記事の中での「後の~天皇ですよ」という分注である。あとは過去の天皇をさしている。
「纒向玉城宮御宇天皇之世」(仁徳紀)
「自磯城嶋宮御宇天皇之世」(推古紀)
「近江大津宮御宇天皇」「浄御原宮御宇天皇」(舒明紀)
「磯城嶋宮御宇天皇十三年中」「訳語田宮御宇天皇之世」「小墾田宮御宇天皇之世」(孝徳紀)

 詔の中で自分のことを「あめのしたしらすすめらみこと」と言っている例は「品部廃止の詔」以外にはない。おかしい。

 「今之御寓天皇」とは九州王朝の天皇なのではないだろうか。「昔在天皇」と対になっているのだ。このように考えると、「今の御寓天皇より始めて、臣・連等に及るまでに、所有る品部は、悉に皆罷めて、國家の民とすべし」というくだりはすっきりとよく理解できる。「皇太子の上奏」という名目で九州王朝の資産(子代・屯倉・部曲・田莊)を献上させたのに続いて、今度は「品部」を没収したのだ。

 また、「品部廃止の詔」に現れる「王」・「王者」などはすべて九州王朝の天子を指すものとして読んでよいのではないか。そのように読んでも文章がうまくつながらない部分が残るが、大筋の意味はうまく通ると思う。

〈2〉卿大夫臣連伴造

 さて、次に私が引っ掛かっているのは「卿大夫臣連伴造」という連称である。「東国国司賞罰の詔」では「卿大夫及臣連国造伴造」と国造も入っている。私は「伴造」は九州王朝の用語ではないかと考えているので、このような連称句も九州王朝史書の常套句ではないかと思った。これらと同じような連称があるかどうか調べた。初出は「顕宗紀」で、486(顕宗2)年(干支では丙寅年)3月3日条である。

三月上巳に後苑(みその)に幸(いでま)して、曲水(めぐりみず)の宴(とよのあかり)きこしめす。是の時に、喜(ねむごろ)に公卿大夫・臣・連・國造・伴造を集(つど)へて、宴したまふ。群臣(まへつきみたち)頻(ひきりに)に稱万歳(よろこびまう)す。

 なんと「曲水の宴」記事だった。「曲水の宴」記事はこの他に元年と3年にもある。元年記事の頭注を読んでみよう。

「三月三日の曲水の宴の初見。この後二年条・三年条と引続いて見えるが、その後は見えず、続紀、文武五年三月丙子条以後再び国史に散見する。このころ曲水宴が行われたか不明。書紀編者の挿入したものか。」

 もっともな疑念である。しかしこの問題も「井の中」ではお手上げだろう。「古田史学」ではすでに解決済みだ。古田さんの講演抄録「二つ確証について ―九州王朝の貨幣と正倉院文書―」より引用する。

 顕宗紀にはこの銀銭記事をはさんで、三月上巳の「曲水の宴」の記事が三年続いて現われる。曲水宴は天子が行う遊びとして中国南朝に伝統があった。顕宗紀の干支を二巡引き下げると605~7年となる。隋書の「日出処天子」の時代である。南朝・陳が滅亡(589)すると倭国は「天子」を名のる。

 日本列島で曲水宴を行った例があるか?。久留米の筑後国府跡から曲水宴遺構が発掘されている。最近の年輪測定を加味すると、従来の考古編年より百年繰り上がるのが常識らしい。この遺構の年代上限は七世紀初めか。だから銀銭と曲水宴の記事は九州王朝での事実として矛盾しない。

 一連の「曲水の宴」記事は九州王朝の史書からの盗用記事である。「公卿大夫・臣・連・國造・伴造」というような連称も九州王朝史書の常套句だったのではないか。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(174)

「天武紀・持統紀」(89)


「大化改新」の真相(12)
「品部廃止の詔」をめぐって(1)


 「品部廃止の詔」は他の詔勅とはガラッと違う文体で、おかしな文章という印象がある。『東国国司発遣の詔」をめぐって(3)』の末尾に「品部廃止の詔」の現代語訳を掲載したが、この詔勅は読下し文を使って検討しなければならないと思った。

 読下し文を読む前に「品部」のことを調べておこう。近畿王朝の正史である『日本書紀』・『続日本紀』での出現は意外と少ない。それぞれ二件ずつしかない。

 『日本書紀』では「品部廃止の詔」の他に「垂仁紀」(垂仁39年10月条)に一回現れるだけである。しかも「一云」という分注である。

冬十月、五十瓊敷命(いにしきのみこと)、茅渟(ちぬ)の菟砥川上宮(うとのかわかみのみや)に居しまして、剱(つるぎ)一千口(ちぢ)を作る。因りて其の剱を名(なづ)けて川上部(かわかみのとも)と謂ふ。亦の名は裸伴(あかはだかとも)〈裸伴。此をば阿箇播娜我等母と云ふ。〉と曰ふ。石上神宮(いそのかみのかむみや)に蔵(をさ)む。是の後に、五十瓊敷命の命(みことおほ)せて、石上神宮の神寶(かむたから)を主(つかさど)らしむ。〈一(ある)に云はく、五十瓊敷皇子、茅渟(ちぬ)の菟砥(うと)の河上に居します。鍛(かぬち)名は河上を喚(め)して、大刀一千口を作らしむ。是の時に、楯部(たてぬひべ)・倭文部(しとりべ)・神弓削部(かむゆげべ)・神矢作部(かむやはぎべ)・大穴磯部(おほあなしべ)・」泊橿部(はつかしべ)・玉作部(たますりべ)・神刑部(かむおさかべ)・日置部(ひおきべ)・大刀佩部(たちはきべ)、幷せて十箇(とを)の品部(とものみやつこら)もて、五十瓊敷皇子に賜ふ。其の一千口の大刀をば、忍坂の邑(へき)に藏む。然して後に、忍坂より移して、石上宮に藏む。是の時に、、乞(こは)して言(のたま)はく、「春日臣の族、名は市河(いちかは)をして治めしめよ」とのたまふ。因りて市河に命(みことおほ)せて治めしむ。是、今の物部の首(おびと)が始祖なり。〉

 本文の説話は『古事記』とほとんど同じである。本文と『古事記』では五十瓊敷命が石上神宮の宮司になっているが、「一に云はく」では「市河の命」であり、その人物が「物部氏の始祖」であると言う。

 この説話は明らかに九州王朝の史書からの盗用記事ある。このように断ずる根拠は2年ほど前に書いた『「七支刀」補論』にある。必要な部分だけ簡単におさらいすると、次のようである。

 奈良の石上神社にある七支刀のもともとの持ち主は福岡県瀬高町太神(おおが)にある「こうやの宮」の主(七支刀を贈られた倭王旨)である。「こうやの宮」の背後には良大社がある。倭王旨はその良大社の祭神(玉垂命)と同一人物である。現在の「こうやの宮」は小さな祠だが、往事は立派な王宮殿だったはずだ。そして「こうやの宮」の正式名称が「磯上物部神社」なのだった。

 現在、石上神宮を「いそのかみじんぐう」と呼んでいるが、その読みは「「磯上神社」にこそふさわしい。物部氏も、もともとは九州王朝内の有力な氏族であり、大和の物部氏はその支族であったと考えられる。

 上の説話で「十の品部」の中に「…部」よいう部名があるのが目に付く。かなり古い時代の説話と思われる。五十瓊敷皇子に「十の品部」を与えたのは勿論九州王朝の大王(そのころはまだ天子を名乗っていなかった)である。

 『日本書紀』に出てくる「品部」はこの「垂仁紀」と「品部廃止の詔」だけ。『古事記』には「品部」はない。701年以前は近畿王朝では「品部」という用語は使われていなかったのかもしれない。ちなみに「伴造」が使われているのは『日本書紀』だけであり、『古事記』にも『続日本紀』にもない。『日本書紀』では「伴造」は35回使われているが、九州王朝史書からの盗用記事だらけの「孝徳紀」に集中している。「孝徳紀」以前12回、「孝徳紀」20回、「孝徳紀」以後3回である。「伴造」も九州王朝だけが使用した用語かも知れない。「伴造」が使われている記事はすべて盗用記事ではないかと言いたくなる。(そのうち調べてみようかしら。)

 さて、〈大系〉は補注で「品部」を次のように説明している。

「品部は、それぞれの職業にたずさわるいわゆるトモをさす場合と、そのトモを扶養する農民としての部民をさす場合とがある。訓のトモノミヤツコにも、品部を管掌する伴造と、右のトモそのものをさす場合とがあり、後者は令制の伴部をトモノミヤツコという例(職員令典鋳司条、集解の一説に「自余諸司伴部等皆直称友造耳」)から推せられる。ここはいずれの意味にもとれるが、訓読者はトモの意味にとっているわけである。」

 「後者は」以後の文章が私には理解できない。典型的な悪文だ。なんとか読み取ってみると、「品部」のもともとの意味は「職業集団」をさす場合と「職業集団を扶養する部民」をさす場合がある。「品部」を「トモノミヤツコ」と訓じることもあるが、この場合は「トモそのものをさす場合」と「品部を管掌する伴造」をさす場合がある。そしてここでは、「トモノミヤツコ」と訓じているが、ここでの意味は「トモそのもの」である。このように言っていると思う。

 私は「井の中」の学者たちの論理に首を傾げることが度々ある。この場合もその典型である。「垂仁紀」の「品部」の意味解明に後代令制(職員令典鋳司条)の解釈(集解)を論拠としている。もう一つある。「品部廃止の詔」では「品部」を、「とものみやつこ」ではなく、「しなじなのとものを」と訓じている。そして頭注では
「一般に部を総称する語というが、品部は職業部をさすとみるのが妥当。」
と述べている。「一般に部を総称する語」と、誰がどこで言っているのだろうか。少なくとも上の補注にはそのようは解釈はない。また『日本書紀』では「品部」はこの二例だけである。何を根拠にこのように読み分けているのだろうか。

 私は「品部」を、漢字変換にも便利なので、「しなべ」と読んでいる。『続日本紀』には「品部」が二例あるが、なんと、そのうちの一つは「しなべ」と訓じられている。もう一例は「ともべ」である。次に『続日本紀』の「品部」が現れる記事を掲載しておこう。

721(養老5)年7月条
庚午(25日)、詔して曰はく、「凡そ、霊図(れいと)に膺(よ)りて、宇内(くにのうち)に君として臨みては、仁(めぐみ)、動植に及び、恩(うつくしび)、羽毛に蒙(かがふ)らしめむとす。故、周孔の風(わざ)、尤も仁愛を先にし、李釈の教、深く殺生を禁(いまし)む。その放鷹司(はうようし)の鷹・狗(いぬ)、大膳職(だいぜんしき)の鸕鷀(う)、諸国(くにぐに)の雞(にはとり)猪を悉く本処に放ちて、その性(しやう)を遂げしむべし。今より而後(のち)、如(も)し須(もち)ゐるべきこと有らば、先(ま)づその状を奏して、勅を待て。その放鷹司の官人、并せて職(しき)の長上(ちやうじやう)らは且(しまら)くこれを停(とど)めよ。役(つか)ふ品部(ともべ)は並に公戸に同じくせよ」とのたまふ。

 ここの「品部」について、〈大系〉は補注で次のように解説している。

「古くは朝廷に所属した部民の種で、職業部や名代などからなり、伴造に率いられて物資や労働力の提供を行っていたが、律令制形成過程で再編成され、雑戸とともに官司に配属され、種々の手工業品の製作や特殊技能を必要とする任務に就いた。身分的には雑戸より隷属度が弱く、一般公民と殆ど変わらない。職員令集解古記・令釈に引かれている官員令別記に品部の戸数や職務が規定されており官司ごとの品部を示すと、(中略)となっている。これらはいずれも京畿とその周辺に居住し、決められた数量の製品を貢納するなり、一定期間上番し役務に従った。賦役令19では品部を課役免とするが、品部としての服務状態により課役免であったり、調免・雑徭免等さまざまであった。奈良時代には雑戸の解放と同様に品部の解体がすすみ、養老5年7月の放鷹司の鷹戸の停止はその嚆矢である。天平宝字3年9月戊寅には「世業相伝者」を除き全品部を公戸に混入し、延喜式にみえる品部は鼓吹戸のみで、公戸のうちより定める借品部である(兵庫寮式鼓吹戸条)。」

 冒頭で701年以前の「品部」を次のように解説している。
①朝廷に所属した。
②職業部や名代などからなる。
③伴造に率いられた。

 「品部廃止の詔」によると、「臣・連・伴造・國造」なども「品部」を所有していたようだ。「垂仁紀」の記事にみるように、もともと朝廷に所属していたものを、王族や豪族に下賜していったのかも知れない。②は『日本書紀』の頭注が「一般に部を総称する語」と言っていることと同意か。これが「定説」なのかも知れない。ここまできて、私は九州王朝での「品部」は「職業部とそれを扶養する部民」を総合した呼称とするのがよいと思った。

 上の補注に書かれている「天平宝字3年9月戊寅」の「品部」が『続日本紀』のもう一つの例である。

759(天平宝字3)年9月条
戊寅(15日)、乾政官(太政官のこと)奏すらく、「百姓(はくせい)調を輸(いだ)すこと、その価同じからず。理(ことわり)、折中して以て賦役を均しくすべし。また、品部(しなべ)を停(とど)め廃(や)めて公戸に混(まろか)し入れむ。その世業を相伝ふる者は、この限に在らず。伏して天裁を聴かむ」といふ。奏するに可としたまふ。

 「百姓」に「おほみたから」というようないやらしい訓を付けることをやめている。おかしな「和語」による訓読がなくなり、文章自体も漢文らしく洗練されてきているように思う。ここの「品部」には脚注が付いている。

「諸官司に配置され、手工業品の製作などにあたる人々の集団。天平16年2月の雑戸の停廃をうけ、品部についても特殊な身分とすることを停めたもの。」

 これは養老律令下の「品部」の説明であり、上の補注の説明とも合致している。

 さて最後に、目下のテーマである「品部廃止の詔」を読下し文で呼んでみよう。

 秋八月の庚申の朔癸酉に、詔して曰はく、
「原(たずね)れば夫(そ)れ天地陰陽、四時(よつのとき)をして相亂れしめず。惟(おもひみ)れば此(これ)天地(あめつち)、萬物(よろづのもの)を生(な)す。萬物の内に、人是最も靈(くしひ)なり。最も靈なる間に、聖(ひじり)人主(きみ)たり。是を以て、聖主(ひじり)の天皇、天に則(のと)り御寓(あめのしたをしろしめ)して、人の所(ところ)獲(え)むことを思ほすこと、暫(しましく)も胸(こころ)に廢(す)てず。
而るに王(きみ)の名名(みなみな)に始めて、臣・連・伴造・國造、其の品部(しなじなのとものを)を分ちて、彼の名名(なな)に別く。復、其の民と品部とを以て、交雑(まじ)りて國縣(くにこほり)に居(はべ)らしむ。遂に父子(おやこ)姓を易(か)へ、兄弟(はらから)宗異(こと)に、夫婦(をうとめ)更互(かはるがはるたがひ)に名(な)殊(こと)ならしむ。一家(ひとついえへ)五(いつ)つに分れ六つに割(さ)く。是に由りて、爭(あらそ)ひ競(きほ)ふ訟(うたへ)、國に盈ち朝(みかど)に充てり。終に治れることを見ずして、相亂るること彌(いよいよ)盛なり。粤(ここ)に、今の御寓天皇(あめのしたしらすすめらみこと)より始めて、臣・連等に及(いた)るまでに、所有(たもて)る品部は、悉に皆罷(や)めて、國家(おほやけ)の民とすべし。
其の王(きみ)の名を假借(か)りて伴造とし、其の祖(おや)の名に襲據(よ)りて臣・連とす。斯等、深く情(こころ)に悟らず、忽(にはか)に若是(かく)宜(の)る所を聞きて、當(まさ)に思ふらまく、『祖の名、借れる名滅(き)えぬ』とおもふらむ。是に由りて、預(あらかじ)め宣べて、朕(わ)が懐(おも)ふ所を聽き知らしめむ。
王者(きみ)の児(みこ)、相續(つ)ぎて御寓(あめのしたしら)せば、信(まこと)に時の帝(きみ)と祖皇(みおや)の名と、世(よよ)に忘らるべからざることを知る。而るを王(きみ)の名を以て、軽(かろかろ)しく川野(かはの)に掛けて、名を百姓(おほみたから)に呼ぶ、誠に可畏(かしこ)し。凡そ王者(きみ)の號(みな)は、將に日月(ひつき)に隨ひて遠く流れ、祖子(みこ)の名は、天地と共に長く往くべし。如是(かく)思ふが故に宣(の)たまふ。
祖子より始めて、奉仕(つかへまつ)る卿大夫(まへつきみたち)・臣・連・伴造・氏氏(うぢうぢ)の人等、〈或本に云はく、名名(なな)の王民(おほみたから)といふ。〉咸(ことごとくに)に聽聞(うけたまは)るべし。今汝等(いましたち)を以て、使仕(つか)ふべき狀(かたち)は、舊(もとの)の職(つかさ)を改去(す)てて、新(あらた)に百官(もものつかさ)を設け、位階(くらゐのしな)を著(あらは)して、官位(つかさくらゐ)を以て敍けたまはむ。
今發て遣す國司、幷て彼(そ)の國造、以(ここをも)て奉聞(うけたまは)るべし。
去年朝集(ちょうしゅう)に付(つ)けし政(まつりごと)は、前(さき)の處分(ことわり)の隨(まま)にせむ。
収め數ふる田を以ては、均しく民(おほみたから)に給へ。彼と我と生(な)すこと勿れ。凡そ田給(たま)はむことは、其の百姓の家、近く田に接(つ)けたらむときには、必ず近きを先とせよ。
此(かく)の如くに宜たまはむことを奉(うけたまは)れ。
凡そ調賦(みつき)は、男の身の調(みつき)を収むべし。
凡そ仕丁(つかへのよほろ)は、五十戸毎に一人。
國國の壃堺(さかひ)を觀て、或いは書にしるし或いは圖をかきて、持ち來(まゐ)りて示(み)せ奉(まつ)れ。國縣の名は、來(まうこ)む時に將に定めむ。
 國國の堤築(つ)くべき地(ところ)、溝穿(ほ)るべき所、田墾(は)るべき間(ところ)は、均しく給ひて造らしめよ。
當(まさ)に此の宣(の)たまふ所を聞(うけたまは)り解(さと)るべし」
とのたまふ。

《真説古代史・近畿王朝草創期編》(173)

「天武紀・持統紀」(88)


「大化改新」の真相(11)
「改新の詔」をめぐって(2)


 「改新の詔」〈その第二〉を検討しよう。(検討する部分は読下し文を使います。)

 京師(みやこ 都城)を創設し、畿内の国司・郡司・関塞(せきそこ 重要な所の守塁)・斥候(うかみ)・防人(さきもり)・駅馬(はいま)・伝馬(つたわりうま)を置き、鈴契(すずしるし)(駅馬・伝馬を利用する際に使用)を造り地方の土地の区画を定める。
(2のA)
 京では坊(まち)ごとに長(おさ)一人を置き、四つの坊に令(うながし)一人を置き、戸口(へひと)を管理し、正しくないことをする者を監督せよ。その坊令(まちのうながし)には、坊の中で行ないが正しく、しっかりして時務に堪える者をあてよ。里坊(さとまち)の長(おさ)には、里坊の人民で清く正しくつよい者をあてよ。もしその里坊に適当な人がなければ、近くの里坊から選んでも差支(さしつか)えない。
(2のB)
 およそ畿内とは、東は名墾(なばり)の横河(よこかわ)よりこちら、南は紀伊の背山(せのやま)よりこちら、西は明石の櫛淵(くしふち)よりこちら、北は近江の楽浪(さざなみ)の逢坂山(おうさかやま)よりこちらを指す。


 冒頭の文「初めて京師(みさと)を修め、畿内國に…を置き…」を検討しよう。まず目に付くのが出だしの言葉「初めて」である。ヤマト王権では藤原京が初めての坊条都市である。ここの「京師」が藤原京であることは明らかだ。「孝徳紀」だとこの「京師」に当たる坊条都市は見いだせない。(2のA)でこの新京の管理規定を述べている。

 また細かいことにこだわるが、この冒頭の文は「初めて京師をととのえ完成させたので、畿内国に…を置く…」とも読めるかも知れない。しかし、漢文劣等生がまたおそるおそる意見を申し述べると、このように読めるためには故(かれ)・所以(このゆえに)・是以(ここをもちて)・由是(これによりて)のような接続詞がいるのではないだろうか。任意に例文を探してみる。

692(持統6)年9月26日
詔して曰はく、「白蛾を角鹿(つぬが)郡の浦上の濱に獲(え)たり。故、封(へひと)笥飯神(けひのかみ)に増すこと二十戸、前(さき)に通わす」とのたまふ。

 「改新の詔」はこれから行う改革の青写真を示しているのだから、「京師をととのえ完成させ、(その上で)畿内国に…を置く…」と読みたい。つまり、まだ京師は修め終わっていない。従って、藤原京遷都が終わった後の持統10年より、造営真っ最中の持統6年の詔勅と考えた方がよいのではないか。

 次に畿内について。
 私は今まで、近畿・畿内・四畿などの詳しい意味を知らぬままに当たり前のように使ってきたが、「畿」とはどういう意味なのか、改めて調べておこう。

 手元の漢和辞典(『新修漢和大字典』博友社)を引いてみた。(3通りの意味があったが、畿内に関係するものだけを転載する。また引用されている漢文の返り点は省いた。)

【畿】
 (イ)王郡を去る四方五百里以内の地。「-内」・「京-」
(ロ)サカヒ。地の境域。【周禮】制-封國。
【畿内】(キナイ)
 ①帝都を中心として四方五百里以内の土地。○畿甸。【蔡邕】京師、天子之-千里。
 ②(國)山城・大和・河内・和泉・攝津五國の稱。「五--」【経】--臨中國。
【畿甸】(キデン)
 前條の①に同じ。(甸は畿)【郝】
【畿封】(キホウ)
 天子直属の地域。又其の界。
【畿服】(キフク)
 邦畿千里の内。【資治通鑑】

 念のためもう一つ、『漢語林』から。

【畿】
①みやこ。帝都。
②王城(帝都)から五百里以内の地。天子の直轄に属する。(周代の一里は約四〇五メートル)
③地域の称。周代、王城から五百里以外の地を、外に向かって五百里ことに区分し、これを九畿・九服(侯コウ・甸デン男・采サイ・衛・要・夷イ・鎮・蕃バン)と呼んだ。
④国。地方。また、さかい。境界。
⑤はたけ。田野。
【畿内】キナイ  ①=字義の②。
 ②〔国〕京都の周囲の地方の称。山城(京都府)大和(奈良県)・河内・和泉(共に大阪府)・摂津(大阪府・兵庫県)の五か国の総称。

 両字典ともに日本の畿内として五畿内を挙げているが、前にも述べたように、持統紀の頃は四畿内であった。716(霊亀2)年に和泉国が河内国から分離されて五畿内となった。ちなみに、「四畿内」という言葉は「持統紀」意外には出てこない。

 『漢語林』の説明を読んで「あれ!」と思ったことがある。「畿」は「帝都から五百里以内の地」だから、帝都を中心にした千里四方の区域ということになる。(周代の一里は約四〇五メートル)という注があるから、原典は「書経」だろうか。ちょっと本題から外れるが、調べてみた。「禹貢」の最後(「九州」記事の後)に次のような記事があった。

 九州 同じうする攸(ところ)。四隩(しいく) 既に宅す。九山 刊旅し、九川 源を滌(てき)し、九沢 既に陂(は)す。四海 会同し、六府 孔(はなはだ)だ修まる。庶土 交(こもごも)正しく、慎しむことを厎:(いた)すは、財賦(ざいふ)。咸(み)な三壌(さんじよう)に則し、賦を中邦に成す。土姓を錫(たま)う。台(わ)が徳を慎しんで先んずれば、朕(わ)が行を距(はば)まず。

 五百里は、甸服(でんぷく)。百里の賦は、総(そう)を納(い)る。二百里は、銍(ちつ)を納る。三百里は、秸(かつ)を納れて服す。四百里は、粟(ぞく)。五百里は、米(べい)。五百里は、侯服(こうふく)。百里は、采(ざい)。二百里は、男邦(だんほう)。三百里は、諸侯。五百里は、綏服(すいふく)。三百里は、文教を揆(はか)る。二百里は、武を奮(ふる)いて衛(まも)る。五百里は、要服。三百里は、夷。二百里は、蔡。五百里は、荒服(こうふく)。三百里は、蛮。二百里は、流(りゅう)。東 海に漸(い)り、西 流沙に被(こうむ)り、朔南(さくなん) 声教に曁(あずか)り、四海に訖(いた)る。

 禹 玄圭(げんけい)を錫わり、厥(そ)の成功を告ぐ。

(現代語訳)
 九つの州は、みな同じように安定した。すなわち、四方の土地土地には、家が建てられて人が住めるようになり、九州のすべての山々は、木が切られ道が通じて、旅(りょ)の祭りを受けることになり、九州のすべての川は、その源まで底を浚(さら)って、みな流れやすくされ、九州のすべての沢には、それぞれ堤防が築かれた。全世界の人々が、堯帝の都に集ってくるようになり、六つの資源に対する(中央の施策は)、みごとに整って(人々の生活も豊かになった)。諸国の土地は、すべてもとの地力を回復し、財政支出と租税徴収とが慎重に実施された。天下の土質が三段階に分けられ、それにもとづいた税制が、中国全土に確立された。

 (禹は、進言して)有徳の人に、その生れた土地の名を姓として与えることにした。堯帝が(禹の勧めに従って)まずなによりも自からの徳を大切にされたので、人々も、帝の行ないに背いたことをすることがなかった。

 都から五百里までの土地は、甸服と呼ばれる。甸服の内、百里までは、稲たばが賦として納められる。その外がわ、二百里までは、稲穂が納められる。三百里までは、藁が納められ、その運送に携わる。四百里までは、粟(もみ)、五百里までは、精米を納める。

 甸服の外がわ五百里は、侯服と呼ばれる。侯服の内、百里までは、王のための種々の雑役に出仕し、二百里までは、王のために定まった夫役(ふえき)に出る。残り三百里は、王のために斥侯(ものみ)の役(えき)に出る。

 侯服の外がわ五百里は、綏服と呼ばれる。その内がわ三百里は、王者の教えを、考え、実行する。外がわ二百里は、武力を振って、国の守りにあたる。

 綏服の外がわ五百里は、要服と呼ばれる。その内がわ三百里は、平常の教えを守って王者に仕え、外がわ二百里も、それに倣う。

 要服の外がわ五百里は、荒服と呼ばれる。その内がわ三百里は、徳によって招きよせ、外がわ二百里は、放任しておく。

 五服(ごふく)の外、東は海に入り、西は流沙に及ぶまで、北も、南も、天子の名声を聞きその教えを被ることになり、禹の功績は、世界の果ての四つの海にまで及んだ。堯帝は、そこで、禹に黒い圭(けい 玉製品)を賜わり、天の命ぜられた仕事が完成したことを、人々に告げ知らされた。


 ここでは「畿」ではなく、同意味の「甸」が用いられている。『漢語林』には「九畿・九服」とあったが、上の「禹貢」記事は「五服」である。「九畿・九服」の出典は何だろうか。気にはなるが、このことはこれから述べようとしていることには差し障りはないので、このまま先に進む。

 〈全集〉に掲載されている「五服」の概念図を転載しておく。

五服概念図

 この図でも分かる通り、「畿」とは「帝都を中心として四方五百里以内の土地」であり、「畿甸。京師、天子之-千里」(『新修漢和大字典』)である。

 『漢語林』の説明を読んで、私が「あれ!」と思ったのは、(周代の一里は約四〇五メートル)である。千里なら暗算でできる簡単な計算。405(m/里)×1000(里)=405000(m)で、畿内の領域は何と方405㎞である。北海道がすっぽり入ってしまう面積だ。「天下方五千里」は、何と約2万㎞四方である。赤道の長さが約4万㎞だからとてつもない広さになる。門脇氏も参考資料(2)の『いわゆる、「改新」詔の「畿内」について』という一節で「畿内」を論じている。その中で「九畿の本をなす国畿=王畿が王都の周囲千里の直轄地で…」と書くが何の疑問を持たずに論を進めている。従来の学者たちは誰も疑問を持たなかったのだろうか。あるいは疑問を持っても「中国一流の誇大表記さ」とやり過ごしているのだろうか。

 ところで「1里=405m」はどのような計算で得たのだろうか。ウィキペディアには次のように書かれている。

「里は元々は古代中国の周代における長さの単位であった。1里は1800尺(360歩、6町)四方の面積を表しており、後にこの1辺の長さが距離の単位「里」となった。1尺を30cmとすると1800尺は540mとなる。」

これはどうしたことだろう。「定説」はないのだろうか。いずれにしても「1尺=30cm」という現代の尺度を用いて計算している。本末転倒ではないだろうか。この場合だと「千里=540㎞」ますます現実離れしてしまう。

 ここで思い出したことがある。古田さんによる「邪馬壹国」解明の重要なカギ一つである「短里」だ。「邪馬台国」論争でも「井の中」の「邪馬台国」論者は「中国一流の誇大表記さ」とやり過ごしていたっけ。

 私は周の「里」は短里ではないか、と思った。何か手掛かりはないかとネット検索していたら、なんと!!、古田さんの文章がヒットした。『山一国の証明』(角川文庫)の「あとがきにかえて・解説にかえて」だった。

 研究史上、一つの画期をなす論文が出現した。谷本茂氏の「中国最古の天文算術書『周髀算経しゅうひさんけい』之事」(「数理科学」一九七八年三月)がこれである。

(中略)

 若き自然科学研究者、谷本氏の発見は、この『周髀算経』の中で用いられている里単位が計算によって確認できる、という一点にあった。それは「1里=約76~7メートル」だった。これはわたしがかつて『「邪馬台国」はなかった』でしめした魏晋(西晋)朝短里(1里=約75メートル。精しくは「75~90メートル」の間で、75メートルに近い、とした)と驚くべき一致をしめしたのである。氏はこの両者の一致を「単なる偶然の一致」としてすませることは出来ない」と結ばれた。

 「解説にかえて」はその「若き自然科学研究者、谷本氏」が書かれたものだ。「1里=75メートル」の算出は古代中国の天文観測の記録から割り出されたものだった。古代中国の天文学にも、それを利用して1里を計算した谷本氏の発想にも、びっくりしたなあ!!(「あとがきにかえて・解説にかえて」は「新古代学の扉」で読むことができます。)

 やはり、周の「里」も短里だったのだ。平均をとって「1里=約76.5メートル」とすると、千里は76.5㎞。これなら現実的な値である。

 『日本書紀』の「畿内」の初出は「崇神紀」で、その後25件ほど出てくる。すべて「畿内」の範囲はあいまいで確定的ではない。「改新の詔」〈その第二〉の(2のB)が初めてそれを確定したことになる。(2のB)に書かれた畿内の叙述から想定した畿内地図が参考資料(2)に掲載されている。それを転載しよう。

畿内地図

 地図上での測定なので正確ではないが、明石・大津間は約80㎞。これは偶然の一致だろうが、「短里」の千里とほぼ同じである。

(付記)
 書き終わって、念のため今度は「新古代学の扉」でHP内検索をしたら、泥憲和という方の論文「西村秀己『盤古の二倍年歴』を読んで―短里における下位単位換算比の仮説―」がヒットした。なんと、「周の里は短里」を前提に論じている!!「古田史学の会」では「周の里は短里」というのは常識なのだった。

 今回は驚きの連続だった。