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2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(166)

「天武紀・持統紀」(81)


「大化改新」の真相(4)
「大化改新」否定論(2)


 今まで従来の古代学の学問方法を「ヤマト王権一元主義」と言ってきた。そして前々回、その旗の下で積み上げられている学問を「井の中の蛙が井の中で一生懸命に空中楼閣を築いている」と比喩したが、私はこの比喩がとても気に入っている。これからは「ヤマト王権一元主義」の古代史学会を「井の中」と呼ぶことにする。

 さて、「井の中」の「大化改新」否定論(③説)を読んでみたが、これは正確には「大化の詔」否定論と言うべきだ。大化元年から大化3年にかけて次々に出された詔勅のうち後代のものとしているのは「大化の詔」だけである。部分的には『日本書紀』編集者による加筆があるとしても、それ以外はすべて孝徳時代の事績であるとしている。

 ②説と③説の争点は「大化の詔」の「その第三」(班田収授法)にある。③説は班田の前提として造籍・校田がなければならないが、それがないと主張している。

 一方、②説論者は大化元年の「東国国司の発遣」の詔勅には造籍・校田のことが書かれていることから、「乙巳の変」直後に造籍・校田があったことは明らかだと主張する。こうして論点は「東国国司の発遣」詔勅に移る。この詔勅は次のようである。

東国国司の発遣の詔

8月5日、東国の国司を召された。国司らに詔していわれた。

天つ神の命ぜられるままに、今はじ めて日本国内のすべての国々を治めようと思う。
(a 造籍・校田のこと)
 およそ国家の所有する公民や、大小の豪族の支配する人々について、汝らが任国に赴いてみな戸籍をつくり、田畑の大きさを調べよ。それ以外の園地や土地や用水の利得は百姓が共に受けるようにせよ。
(b 裁判権剥奪)
 また国司らはその国の裁判権をもたない。
(c 賂・収奪の禁)
 他人からの賂(まいない)をとって、民を貧苦におとしいれてはならぬ。
(d 部外の馬・食使用の禁)
 京(みやこ)に上る時は多くの百姓を従えてはならぬ。ただ、国造(くにのみやっこ)、郡領(こおりのみやっこ)だけを従わせよ。ただし公用のため通うときには、管内の馬に乗ることができ、管内の飯を食することができる。
(e 褒賞・罪科のこと)
 介(すけ 次官)以上の者に対して、よく法(のり)に従ったときは褒賞を行なえ。法に背いたら爵(冠位)を降等せよ。判官以下の者が、他人の賂を取ったときは二倍にして徴収する。軽重によって罪科を負わせる。
(f 従者の制限)
 国司の長官(かみ)は従者九人、次官(すけ)は従者七人、主典(ふびと)は従者五人、もし限度を越える者があったら主従共に処罰される。
(g 不法領有主張の申告)
 もし名誉や地位を求める人があって、元からの国造・伴造(とものみやっこ)・県稲置(こおりのいなき)ではないのに、偽って、『わが先祖のときからこの官家(みやけ)を預かり、この郡県(こおり)を治めていました』と訴えるのを、汝ら国司が偽りのままに、たやすく朝(みかど)に報告してはいけない。詳しく実情を調べてから報告せよ。
(h 武器の扱い)
 また空地に兵庫(やぐら)を造って、国郡の刀(たち)、甲(よろい)、弓、矢を集め収め、辺境で蝦夷と境を接する国は、すべてその武器を数え調べ、元の所有者に保管させよ。
(i 倭6県の造籍・校田)
 倭(やまと)の国の六つの県(高市・葛木・十市・志貴・山辺・曽布)に遣わされる使者は、戸籍を造り同時に田畑を検地せよ。
汝ら国司よく承って退出せよ。

 布帛(きぬ)をそれぞれに賜った。


 ②説論者の主張に対して、門脇氏は「朝集使の報告」に対して発せられた詔(東国国司賞罰の詔)を分析して反論している。ごちゃごちゃといろいろな記述が続くが、その反論のかなめは要するに「東国国司の発遣の詔」の違反者の数である。氏の調査結果は次のようである。

(a 造籍・校田)…………… 0
(b 裁判権剥奪)…………… 1
(c 賂・収奪の禁)………… 9
(d 馬・食使用の制限)…… 1
(e 褒賞・罪科のこと)…… 6
(f 従者の制限)…………… 0
(g 不法領有主張の申告)… 0
(h 武器の扱い)…………… 1
(i 倭6県の造籍・校田)… 0

 門脇氏は(a)・(i)の違反者が0人であることを取り上げて次のように述べている。

 いかがごらんになりますか。二つの考え方しかないのではないでしょうか。

 「国司」たちは造籍・校田をきちんと行なったから違反結果は全く出なかったと考えるか、あるいは、あたくしどものように、初めから東国「国司」の任務のなかに造籍・校田のことはなかったと考えるかです。

 自分の説を出す場合、できるだけ自分に不利に解釈して考えるのが原則ですから、「国司」たちは造籍・校田をよほどうまくやったのではないかという前提で、いろいろ検討してみました。

 これはまったく論理的におかしい。②説論への反論になっていない。。この伝で言えば、(f)・(g)も東国「国司」の任務のなかになかったと言うことになる。

 「いろいろ検討してみ」たのは「東国国司の発遣の詔」とは関係のないまったく別の事柄だった。次のように続けている。

 けれどもまず第一に、わが国ではじめて戸籍ができたのは、670年(天智天皇9)の庚午年籍(こうごねんじゃく)です。しかし、これは班田に使った戸籍ではありません。班田に使った最初の戸籍は、さらに20年後の690年(持統天皇4)にできた庚寅(こういん)年籍です。その次の大宝2年(702)の戸籍は、その一部が正倉院にあって、現にわれわれが目にすることができます。これらは確かに班田に用いられている。ですから一番古く見て、690年以後の戸籍ならば、班田に用いたことが証明できますけれども、646年(大化2)に造籍・校田があったとは、残念ながら考えられません。

 これはこれで正しいことが言われている。この点で③説に軍配を上げなければならない。しかし、繰り返すが、「東国国司の発遣の詔」を論拠に造籍・校田があったと主張する②説論者への反論にはなっていない。

 この論争は水掛け論に終わるしかない。この不毛な論争から抜け出すための答はいたって簡単。「東国国司の発遣の詔」も後代の記録の盗用なのだ。これを「孝徳紀」に置いたままで論争しても決着がつかないのは当然だ。
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