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《真説古代史・近畿王朝草創期編》(172)

「天武紀・持統紀」(87)


「大化改新」の真相(10)
「改新の詔」をめぐって(1)


 「改新の詔」〈その第一〉は次のようであった(現代語訳)。

 昔の天皇たちの立てられた子代(こしろ)の民・各地の屯倉(みやけ)と臣・連・伴造・国造・村の首長の支配する部民・豪族の経営する各所の土地を廃止する。そして食封(へひと 給与される戸口)を大夫(まえつきみ)(四位・五位)より以上にそれぞれに応じて賜わる。以下は布帛(きね)を官人(つかさびと)・百姓(おおみたから)にそれぞれに賜わることとする。そもそも大夫は人民を直接治めるものである。よくその政治に力を尽せば人民は信頼する。故に大夫の封禄(ほうろく)を重くすることは、人民のためにすることなのである。

 ここにでてくる子代・屯倉・部曲・田荘、「皇太子の奏上」にでてくる御名入部(名代)などはいまだによく分からない部分があり、今でもいろいろと議論さえれているようだ。これには今は深入りしない。必要が出てきたら詳しく調べてみよう。いまのところ、教科書的な大雑把な理解で不都合はないだろう。次のようになる。

子代の民―名代とともに皇族のための私有民
屯倉―朝廷の直轄地
部曲―豪族の私有民
田荘―豪産の私有地
食封―皇族・貴族に与える収入。一定の戸を指定し、その貢納の大部分を与える。

 さて、冒頭の「昔の天皇たち」の原文は「昔在天皇等」である。この文言は「皇太子の奏上」の中にもあった。「昔在天皇等」というこの一風変わった文言を用いている記事がほかにもあるのか、調べてみた。一つだけあった。「欽明紀」(16年2月条)で「昔在、天皇大泊瀬之世」とある。しかし、これは「むかし、天皇大泊瀬の世に」であり、「昔在」は天皇を修飾する語句ではない。従って「昔在天皇」という言い方は「改新の詔」・「皇太子の奏上」だけで使われていることになる。

 では他の記事では「昔在天皇等」と同じ意味をどう表現しているのか、調べてみた。次のように表現している。

「崇神紀」(4年10月条)「我皇祖、諸天皇等」
「仲哀紀」(9年9月条)「我皇祖諸天皇等」
「推古紀」(15年2月条)「我皇祖天皇等」
 ちなみに、〈大系〉はそれぞれ「わがみおやもろもろのすめらみことたち」・「わがみおやすめらみことたち」・「わがみおやのすめらみことたち」と訓じている。

 これらが「我皇祖」と、尊崇の念とそれに直系する権威を誇示する修飾語を用いているのに対して、「昔在天皇等」はいかにも素っ気ない。まるで無意識のうちに差別意識を表出してしまったかのようだ。穿ちすぎだろうか。正木さんは、ずばり、「昔在天皇等」は九州王朝の天子を指していると言う。

 九州年号大化期は701年の律令制定や「倭国」から「日本」への国号変更など近畿天皇家による一元支配の確立時期を含んでいる。従って改新詔(其の一)は、その時期に近畿天皇家から発せられたとすれば、「昔在の天皇等の立てたまへる子代の民・処々の屯倉、及び別には臣・連・造・国造・村首の所有(たも)てる部曲(かき)の民、処処の田庄を罷めよ」との文言こそ、近畿天皇家による九州王朝からの資産奪取を示すものとなる。

 そして、詔中で子代・屯倉を立てた「昔在の天皇」とは九州王朝の天子、すなわち「前王朝の天子」を意味する事となる。また、次に述べる大化2年(646)3月の皇太子(中大兄とされる)による、「子代・御名の入部」の奉献記事(「皇太子奏」)中の「昔在の天皇」も同様となろう。

 「前王朝の天子の領地・領民支配を罷めさせた」と直截的に書かなかった理由は「近畿天皇家は遥か以前から倭国の支配者だった」という『書紀』の主張によるものだ。禅譲にせよ放伐にせよ、あるいは別の形態にせよ、別の王朝と天子から支配権を得たと記せば、近畿天皇家に先立つ王朝の存在と、そこからの譲位、或は纂奪によって支配権を得たと認める事となる。しかし『書紀』の立場・名分からは九州王朝とその天子の存在を否定、或は無視する必要があった。そのため「昔在の天皇」と書き、近畿天皇家自らの祖先の領地・領民や事績であるかのように装ったのだ。

 白村江での敗戦後、唐の占領軍が九州にやって来ている。唐は自国以外に「天子」を認めないはずだ。唐の占領政策によって九州王朝は存続していたが、九州王朝の大王はもはや「天子」という称号は使えない。白村江以後、九州王朝でも「天子」の代わりに「天皇」という称号を使っていたのではないだろうか。そのように考えると、九州王朝の代々の天子を「昔在天皇等」と表現したこともうなずける。

 では「皇太子の奏上」の皇太子とは誰だろう。

 この時期(持統期)のヤマト王権の皇太子・草壁皇子は689(持統3)年に死去している。その後誰かを立太子したという記事はない。「持統紀」最後記事は697(持統11)年8月1日の禅譲記事で、そこにいきなり皇太子が出てくる。

皇太子に天皇位(くにさ)禪りたまふ。

 このとき軽皇子は15歳だったという。「皇太子の奏上」の時(私の仮説では692(持統6)年)に軽皇子がすでに皇太子になっていたとしても、その時は軽皇子10歳。奏上ができる年齢ではない。「皇太子の奏上」の皇太子が軽皇子であろうはずがない。そうするとこの皇太子も九州王朝の皇太子と考えざるを得ない。

 「昔の天皇たち」とは九州王朝の代々の天子であり、「皇太子の奏上」の皇太子は九州王朝の皇太子という前提で、改めて「改新の詔」〈その第一〉の前半を、今度は読下し文で、読んでみよう。

其の一に曰はく、昔在(むかし)の天皇等(すめらみことたち)の立てたまへる子代の民(おほみたから)・處處(ところどころ)の屯倉、及び,別(こと)には臣・連・伴造・國造・村首(むらのおびと)の所有(たも)てる部曲(かき)の民、處處の田莊(たどころ)を罷(や)めよ。

 さて、「昔在の天皇等の立てたまへる」という修飾文はどこにかかるのだろうか。私は「子代の民・處處の屯倉」と「臣・連・伴造・國造・村首の所有てる部曲の民、處處の田莊」の両方にかかるとして読んでいる。「皇太子の奏上」前半の天皇の諮問部分は次のようである。

其れ群(もろもろ)の臣・連及び伴造・國造の所有る、昔在の天皇の日に置ける子代入部、皇子等の私に有てる御名入部、皇祖大兄の御名入部〈彦人大兄を謂ふ。〉及び其の屯倉、猶古代の如くにして、置かむや不や。

 「連及び伴造・國造の所有る…子代入部」は、「昔在の天皇の日に置ける」ものだと書かれている。「改新の詔」〈その第一〉の方もこれと同じ意だと考えた。

以上をふまえて「改新の詔」〈その第一〉と「皇太子の奏上」前半の天皇の諮問部分を意訳してみる。

「改新の詔」
 昔の天皇たちの頃(九州王朝時代)に立てたられた次の領地・領民を廃止する。すなわち、子代の民・各地の屯倉と、臣・連・伴造・国造・村の首長の支配する部民、さらに豪族の経営する各所の土地である。

「皇太子の奏上」
現天皇(持統)が、私にお問いになりました、
『昔(九州王朝時代)の天皇時代に置かれた次の領地・領民を昔のままにしておくべきかどう諮問する。すなわち、群臣・連・及び伴造・国造の所有する子代入部、また皇子たち私有の名入りの私民、さらに皇祖大兄の名入りの部とその屯倉などである。』

 九州王朝時代に領有されることになったあらゆる種類の領地・領民を差し出せと迫っているわけだ。「東国国司の賞罰の詔」はここにつながる恫喝の役割を担っていたのかも知れない。ヤマト王権の要求に従わざるを得ない状況下で答申されたのが「皇太子の奏上」の後半部分である。

 この諮問に対する皇太子の返答は
(1)
 入部と食封の民(貴族の私民)を国の仕丁にあてることは、先の規定に従う。 (2)
 これ以外も私用に使われることを危惧して、入部・五百二十四口、屯倉・百八十一所を献上する。

 (1)は「改新の詔」〈その一〉の追認だろう。(2)は何だろうか。「入部・五百二十四口、屯倉・百八十一所」とはどのくらいの規模になるのだろうか。正木さんは次のように推算している。

 これは、入部が「仕丁」の意味なら50戸で一人だから約25,000戸分だ。また屯倉181所は、『古事記』『書紀』中に出現する具体名の記された「屯倉」は約60箇所だから、事実上全国規模にあたる。

 そして「近畿天皇家が九州王朝の資産を奪取したことを示すもの」と結論している。つまり、皇太子は九州王朝のすべての直轄地を献上させられたのだ。
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《真説古代史・近畿王朝草創期編》(171)

「天武紀・持統紀」(86)


「大化改新」の真相(9)
「東国国司発遣の詔」をめぐって(4)


 いま私が取り上げている問題をすでに論じている方がおりました。これまでに何度もお世話になっている正木裕さんです。「古田史学の会」からいただいた会報に掲載されていました。今回から次の正木論文を教科書にします。
『九州王朝から近畿天皇家へ 「公地公民」と「昔在(むかし)の天皇」』(古田史学会報NO.99)
『「東国国司詔」の真実』(古田史学会報NO.101)

―――――――――――
(訂正)

 その正木さんから、前回の「干支不変の原則」について、私がとんでもない思い違いをしていることをご指摘いただきました。私は『日本書紀』の記事盗用の原則を「朔日・暦日ともに干支不変」と思い込んでいたのですが、「朔日の干支に関係なく、暦日のみ不変」でした。つまり「移動先の年の同月に同じ干支日があればその日に、無ければ隣接月の同じ干支日に貼り付ける」というのが『日本書紀』の盗用原則でした。確かにそうです。34年遡上問題ではその原則を用いてさまざまな問題を解明をしていたのでした。

 このような誤解を流布し続けては古田史学にとってはたいへんなご迷惑でしょう。ということで『日本書紀』編纂者の盗用原則は「暦日の干支不変の原則」であったと訂正します。「改新の詔」関係の場合だけ「朔日・暦日ともに干支不変」としたら、こんどはこの方がご都合主義と言わなくてはならない。

 しかし、誤解の上でのことでしたが、持統6・7年への移動に執着しています。もしその移動が妥当だとすると、「誤解の功名」ということになりましょうか。前回の(三)の誤解部分を書き換えて、しばらくこのまま検討を続けてみようと思います。

(「訂正」ここまで)
―――――――――――

 前回、文武元・2年への移動は無理のようだと書いた。その理由を述べよう。

 二番目の「東国国司賞罰の詔」(朝集使等への詔 以下「賞罰詔」と略記)に次のような一節がある。国司たちの罪状を長々と述べて「裁かないわけにはかない」と宣した後の言葉である。

……念(おも)ふこと是(かく)の若しと雖も、始めて新しき宮に處(を)りて、將に諸のに幣(みてぐら)たてまつらむとおもふこと、今歳(ことし)に屬(あた)れり。又、農(なりはい)の月にして、民(おほみたから)を使ふ合(べ)からざれども、新(にひ)しき宮を造るに縁(よ)りて、固(まこと)に巳(や)むこと獲(え)ず。深く二つの途(みち)を感(かま)けて、 天下(あめのした)に大赦(おほきにつみゆる)す。今より以後、國司・郡司、勉(つと)め勗(つと)めよ。放逸(あだめきわざ)すること勿(まな)。使者を遣して、諸國の流人、及び獄(ひとや)の中の囚(とらへびと)、一(とも)に皆放捨(ゆる)せ。……

 大赦の理由を二つあげている。「新しい宮で諸のに幣たてまつる年」だからというのが一つ。もう一つは「新しい宮を造るために農繁期なのに民を使役した」からと言っている。第一の理由について〈大系〉の頭注は「孝徳天皇の即位大嘗祭か」と書いている。この頃は大嘗祭を行えるのは九州王朝の天子だけで、孝徳に大嘗祭を行う資格はない。

 この詔の日付は「文武紀」の場合は元年12月19日である。しかし文武の大嘗祭は2年11月23日であり、該当しない。また決定的なのは12月は農繁期ではない。むしろ農閑期。また、この時期には新宮造営はない。

 以上が文武元・2年説をダメと判断した理由だった。

 では、「持統紀」の場合の持統6・7年説の方はどうだろうか。この場合、「賞罰詔」の日付は持統6年8月19日となる。持統の大嘗祭は持統5年11月1日で、すでに終わっている。しかし、6年に藤原宮の地鎮祭がある。

692(持統6)年5月23日
 23日
  浄廣肆難波王等を遣して藤原の宮地を鎮め祭らしむ。
 26日
  使者を遣して、幣を四所の、伊勢・大倭・住吉・紀伊の大に奉らしむ。告(まう)すに新宮(にひしきみや)のことを以てす。


 まだ宮殿はないが、「新しき宮に處りて」の「宮」を「宮地」と解するのは不当だろうか。もう一つ、地鎮祭は約4ヶ月前に終わっているので「たてまつらむとおもふ」という文に合わない。しかし、この読下し文を疑ってみてもよいと思う。原文は「始處新宮、将幣諸神、属乎今歳」である。漢文の知識は高校生程度なので、おそるおそる訳してみる。「始めて新宮において、まさに諸神に幣をたてまつったのは、今年のことであった」。漢文には時制はないのだから、前後の関係や文脈を考慮して、このように解釈しても…(小さな声で)よ・い・だ・ろ・う・か。

 第二の理由の方はどうか。新京の方は691(持統5)年10月27日に地鎮祭を終えている。そしてこの年に新宮の地鎮祭。都市区画の工事に宮殿の工事が加わったことになる。藤原京造営は大規模な工事時期を迎えた。旧暦の8月は今の9月半ばから10月半ば頃に当たるから、時はまさに稲の刈り入れ時で農繁期である。

 暦日だけ一致という方針で移すと「賞罰詔」の日付は大化2(持統10)年4月10日となる。確かに農繁期ではあるが、前年に遷都しており、新宮の工事は終わっている。また、持統は「新しき宮に處」るけれど、この年に「諸のに幣たてまつる」ような行事はない。

 正木さんはこの立場で論考を進めている。そして、次のような理由での「賞罰詔」を文武の大嘗祭が行われた文武2年に移動している。

 『書紀』では大化元年8月に「召集詔」、翌大化2年3月に早くも「賞罰詔」と、その間僅か7ケ月とされている。しかし、遠隔の任地への往復に加え、任地での任務遂行と実績の評価には相当な期間を要し、物理的に7ケ月では到底実現不可能で、実際は数年離れた事実と考えざるを得ない。

 山尾幸久氏は任地との距離のみならず戸籍、校田、兵庫整備等の事業の困難さを指摘し「こんな一大権力事業を、北陸の他に静岡・長野から福島までの広域において、八グループが四、五ケ月程度で完遂できるか。とんでもないことだと思う。『孝徳紀』の編成デイトは、証明なしには信用できないのである」とし、更に召集詔や「処罰詔の本来の年次は『書紀』の記年にかかわらず、その内容に即して検討されるべきだろう」とする。この見解は至極もっともである。

 「賞罰詔」を698(文武2)年に置いた場合、「暦日のみ不変」の原則で日付を調べると3月21日である。大嘗祭は11月23日だから、大赦の第一の理由は、「たてまつらむとおもふ」という読下し文にも合い、まさにピッタリである。

 第二の理由の方はどうか。3月21日は今の暦では5月初旬であり田植え時、まさに農繁期である。しかし、「新しき宮を造る」には合わない。藤原宮造営は694(持統8)年、4年前に終わっている。

 私の持統6年説の場合、この年は閏5月があるけれども、「召集詔」と「賞罰詔」の間はさらに短くなり、6ヶ月ほどしかない。こんな短期間で造籍・校田ができるのかという問題はやはり避けられない。これについてはどう考えたらよいだろうか。これもちょっと苦しい解釈になるけど、次のように考えている。

 「東国国司発遣の詔」の前に(私の解釈では九州王朝によって)、
689(持統3)年閏8月10日
 「造籍の詔」(庚寅年籍)
690(持統4)年9月1日
 「造籍戸令遵守の詔」
が出されている。692(持統6)年4月5日の「東国国司発遣の詔」は、まったく一からのやり直しではなく、その延長上にある。そのように考えて『「東国国司発遣の詔」をめぐって(2)』で次のように書いた。

 ところで、このときの国司派遣はなぜ東国と倭六県だけなのだろうか。すべて単なる推測にしかならないが、私は次のように考えている。倭六県はヤマト王権の直轄地であり、後の班田収授法を念頭においた再調査が行われたのではないだろうか。東国の場合は、690年の詔にもかかわらず、造籍に対するサボタージュがあったのではないだろうか。九州王朝にしろヤマト王権にしろ、その権力のくびきから逃れる機会と考える勢力が多かったのではないだろうか。

 つまり、今回の国司派遣は前回の造籍・校田において不備のあった国々だけが対象であった。それに国司の役割は中央からの指示伝達をしその経過を監察することであり、実際に造籍・校田の作業はそれぞれの国の諸役人が総出で行ったのだろう。このように考えると、6ヶ月ほどの期間でも中央への報告は可能ではないだろうか。

 律令制度が整い、政治基盤がある程度確立した初期の近畿朝廷は6年ごとに造籍を行っている。正木さんの「任地での任務遂行と実績の評価には相当な期間を要し……実際は数年離れた事実」という推測は長すぎるのではないだろうか。
(27日にまた書き換えをしました。書き換え部分とその理由は、次回に詳しく書きます。)

《真説古代史・近畿王朝草創期編》(170)

「天武紀・持統紀」(85)


「大化改新」の真相(8)
東国国司発遣の詔」をめぐって(3)


 まず、前回までの記事に3点追記をしたい。

(一)
「東国国司発遣の詔」の中に「倭六県」の国司が入っていることについて。
 前回これについて「倭六県はヤマト王権の直轄地であり、後の班田収授法を念頭においた再調査が行われたのではないだろうか。」と書いた。このことに関連して「持統紀」に次の記事があることを思い出した。たぶんこの記事が頭の隅にあって、あのように推測したのだと思う。

692(持統6)年9月9日
 班田大夫等(たたまいのまえつみたち)を四畿内(よつのうちつくに)に遣す。

 〈大系〉の頭注によると四畿とは「大和・山城・摂津・河内」を指す。後に和泉を分置して五畿となる。

(二)
 もう一つ、「孝徳紀」大化2年8月の詔を追加したい。この詔は「皇太子の奏上」と関連するものと思われる。これを「品部廃止の詔」と呼ぼう。本日の記事の末尾に「皇太子の奏上」とともに現代語訳を掲載しておく。

(三)
 三つ目は日付のこと。追加というよりか訂正あるいは問題提起と言った方がよいだろうか。
 『日本書紀』編纂者が盗用記事などを他の年に移動させる場合、「移動先の年の同月に同じ干支日があればその日に、無ければ隣接月の同じ干支日に貼り付ける」という原則で行っている(朔日の干支は関係しない)。この原則に従った処理により、これまでさまざまな問題が解明されてきた。しかし、「改新の詔」関係の記事の場合「朔日・暦日ともに合致する」移動とするとどうなるだろうか。

 「丙申朔庚子」・「甲子朔」(「改新の詔」の日付)と同じ干支を持つ年月は「持統紀」の中では持統6年だけだった。次のような日付になる。
「丙申朔庚子」→4月5日で
「甲子朔」→6月1日
「癸亥朔甲子・辛巳」(「東国国司賞罰の詔」)
         →8月2・19日
「庚申朔癸酉」(「品部廃止の詔」)
         →持統7年2月14日

 もう一ヶ所、九州年号の大化年間で探すと、文武元・2年が該当する。
「丙申朔庚子」→元年5月5日
「甲子朔」→元年8月1日または10月1日
「癸亥朔甲子・辛巳」→元年12月2・19日
「庚申朔癸酉」→2年5月14日

 文武元・2年は九州年号では大化3・4年である。「大化」にこだわるのならこちらをとりたいところだが、こちらは無理のようだ(理由は後ほど述べる)。取りあえず持統6・7年を採用して進めたい。そうしたために理論に矛盾が生じたら、干支不変更の原則が破綻したことになる。このケースに限っては年月不変更・干支変更の盗用だったということになる。

 以上の追加・訂正に従って、これまでに取り上げてきた「持統紀」の記事と「孝徳紀」の「改新の詔」関係記事を並べると次のようになる。(青字が孝徳紀からの移動記事)

689(持統3)年閏8月10日
 「造籍の詔」(九州王朝の事績)
690(持統4)年1月1日
 持統即位
690(持統4)年7月1日~18日
 人事など政治体制の刷新
690(持統4)年9月1日
 「造籍戸令遵守の詔」(九州王朝の事績)
691(持統5)年10月27日
 藤原京の地鎮祭
691(持統5)年11月1日
 持統、大嘗祭を挙行
692(持統6)年4月5日
 「東国国司発遣の詔」

692(持統6)年5月23日
 藤原宮の地鎮祭
692(持統6)年
 8月1日
  「改新の詔」
 8月2日・8月19日
  「東国国司賞罰の詔」
 8月20日
  「皇太子の奏上」

692(持統6)年9月9日
 班田役人を四畿に派遣
693(持統7)2月14日
 「品部廃止の詔」

694(持統8)年12月6日
 藤原京に遷都
697(持統11)年8月1日
 持統、文武に譲位

 これまでの議論は上の訂正に堪えられそうだ。というより、むしろよりピッタリと収まったように思えるが、どうだろうか。

 では最後にまだその内容に全く触れていない「皇太子の奏上」と「品部廃止の詔」を現代語訳で読んでおこう。

692(持統6)年8月20日
「皇太子の奏上」

 皇太子(中大兄)は使いを遣わして奏上した。

 昔の天皇たちの御世には、天下は混然と一つに纏(まと)まり治められましたが、当今は分かれ離れすぎて、国の仕事が行ない難くなっています。わが天皇が万民を統べられるに当り、天も人も相応じ、その政が新たになってきています。つつしんでお慶び申し上げます。
 現つ神として八嶋国を治らす天皇が、私にお問いになりました、
『群臣・連・及び伴造・国造の所有する昔の天皇の時代に置かれた子代入部(こしろのいりべ)、皇子(みこ)たち私有の名入りの私民・皇祖大兄の名入りの部とその屯倉(みやけ)などを、昔のままにしておくべきかどうか』
というお尋ねを謹んで承り、
『天に二日なく国に二王なしといいます。天下を一つにまとめ、万民をお使いになるのは、ただ天皇のみであります。ことに入部と食封(へひと)の民(貴族の私民)を国の仕丁にあてることは、先の規定に従ってよいでしょう。これ以外は私用に召し使われることを恐れます。故に入部は五百二十四口、屯倉は百八十一所を献上するのが良いと思います』
とお答えします。


693(持統7)2月14日
 「品部廃止の詔」

詔していわれた。

 尋ねみれば天地陰陽は、四時を乱れさせることがない。思えばこの天地が万物を生じ、万物の中で人間が最も勝れている。その最も勝れたものの中で、聖なるものが人主(きみ)である。それ故聖主である天皇は、天の意志に従って天下を治めて、人々がその所を得ることを願い、少しも休むことがない。
 それなのに代々の天皇の御名をはじめとする名を、臣・連・伴造・国造らは、自らが支配する品部につけ、私有の民と品部とを同じ土地に雑居させている。そのため父子、兄弟、夫婦でも姓が変わって、一家が四分五裂し、このための争いや訴えが充満している。治まらず混乱することはなはだしい。それ故現在の天皇から臣・連に至るまで、持てる品部はすべてやめて、国家の民とする。
 代々の天皇の名を借りて伴造の名とし、その先祖の名を氏の名としている臣・連たちの、深く事情を解せぬものは、急にこの布告を聞いて、きっと思うであろう。
『それでは先祖の名も、お借りした天皇の御名も消えてしまう』と。
 それであらかじめ自分の思うことを知らせよう。天皇の子が相ついで天下を治めれば、たしかにそのときの君と先祖の名とは世に忘れられないことは分る。しかし天皇の名を軽々しく地名につけて、人民が呼びならすのは誠に恐れ多い。天皇の名は日月と共に長く伝わり、皇子の名は天地と共に長く存在する。このように思うから申しのべるが、皇子を始め卿大夫・臣・連・伴造・氏々の人々みな聞け。これからお前たちを使うかたちは、元の職を捨てて新たに百官を設け、位階を定めて官位を授けるのである。
 これから遣わす国司・国造は次のことを承知せよ。前年朝集使に命じた政は先のままにする。官に収め計測した田地は、口分田として公平に民に給し、不公平のないようにする。およそ田地を給するには、民の家に近い田を優先させる。この旨承知せよ。およそ調賦は男の身による調とする。仕丁は五十戸ごとに一人。国々の境界を見て文書に記すか、あるいは図に書いてもつてきて見せよ。国や県の名は報告にきた時に定めよう。国々の堤を築くべき所、水路を掘るべき所、開墾すべき所は公平に与えて工事させよ。
 以上のべたことを承り理解せよ。

《真説古代史・近畿王朝草創期編》(169)

「天武紀・持統紀」(84)


「大化改新」の真相(7)
「東国国司発遣の詔」をめぐって(2)


 「東国国司発遣の詔」の中のもう一つの気になる文言は「今始めて萬國を修めむとす」である。「万国を修める」を宇治谷氏は「全ての国々を治める」と訳しているが、「修める」の意味通りに訳して「全ての国々の乱れをただす」とするべきだろう。ずいぶん細かいことにこだわるようだけれど、これは「国司」の役割をどのようにとるかといういう問題に関わってくる。

 九州王朝の直轄地は筑紫であり、九州王朝が全ての国々を直接支配していたわけではない。部族国家連合の盟主のようは存在だったと思われる。従って九州王朝が派遣していた国司は、中央政府から派遣されて各国を直接支配した近畿王朝下の国司ではなく、「国宰」というべきである。〈大系〉では「国司」をすべて「くにもみこともち」と訓じているが、この訓には「国宰」がふさわしい。「国司」の方は和訓するならば「くにのつかさ」と読むべきだろう。「みこともち」とは「〈御言(みこと)〉を受け〈持ち〉」の意で、天子の言葉を各地に伝える役柄である。

 迂遠なようだけど『日本書紀』に現れる「国司」を調べてみる。
 初出は「仁徳紀」で「遠江國司」とある。〈大系〉の頭注は「遠江という国名も国司という職名も、共に令制による知識」と書いている。「井の中」では「仁徳紀」あたりの記事は編纂者の造作と考えているようだ。
 次が「雄略紀」で「任那國司」。これには頭注がない。
 次は「清寧紀」「顕宗紀」で「播磨國司」。「後世の常駐の国司ではあるまい」と頭注している。「国宰」という意味での国司の存在を肯定している。
 次はずっと飛んで「崇峻紀」の「河内國司」。〈頭注〉「令制による表現。実際には万討伐の部隊長ほどのものか」。どういうわけか、再び国司を否定している。どうも一貫性がない。
 そして次が、かの有名な「十七条の憲法」の第12条である。

 十二に曰く、國司(くにのみこともち)・國造(くにのみやつこ)、百姓(おほみたから)に収斂(おさめと)らざれ。國に二(ふらり)の君非(あら)ず。民に兩の主無し。率土(くにのうち)の兆民(おほみたから)、王(きみ)を以て主とす。所任(よさせ)る所の官司(つかさみこともち)はみなこれ王の臣(やっこらま)なり。何ぞ敢へて公(おおやけ)と、百姓に賦斂(をさめと)らむ。

 これと一部似たような文言が「皇太子の奏上」の中にある。その「奏上」は後に取り上げることになるだろう。

 この「推古紀」の国司については〈大系〉はかなり長い頭注を付している。

「国司は一般に、大化改新後に定められたものと考えられており、津田左右吉は、ここに国司の文字のあることを以て、憲法が大化以後の作であることの一つの証拠とみている。この点で天武12年正月条の詔文に国司国造を連記してあることも参考になろう。しかし、大化以前に、国造を監督するものとして、臨時に官人を派遣し、これをクニノミコトモチ即ち国司といったとみる説もあり、それが正しいとすると、憲法に国司・国造とあることはおかしくはなくなる。この点ではまた、大化改新直前の皇極2年10月条に国司のことがみえることも参考になる。」

 「十七条の憲法」を創ったのは日出ずる処の天子・多利思北孤であることを知っている私には上のような「井の中」の議論がおかしくてならない。このころ既に国司・国造という職名はあったのだ。ともあれ憲法12条の次に出てくる「国司」を確認しよう。皇極2年10月条である。

冬十月の丁未の朔己酉に、……遂に國司に詔したまはく、「前(さき)の勅(みことのり)せる所の如く、更(また)改め換ること無し。厥(そ)の任(ま)けたまへるところに之(まか)りて、爾(いまし)の治(しら)す所を愼(つつし)め」とのたまふ。

 〈大系〉の頭注。
「中央から任所に派遣せられている趣が見えるから、後世の国司に近いものと思われる。」

 今度は「国宰」ではなく「後世の国司」になぞらえている。「前の勅」は「皇極紀」のどこにも見つからない。頭注はそのことを論じた議論を紹介しているが、九州王朝の史書からこの記事だけポツンとつまみ食いしたために起こった問題だから、議論してもしかたない。

 次に現れる国司が「東国国司発遣の詔」の国司である。

 国司関連記事は全て九州王朝の事績だ。「井の中」ではあれこれ混乱しているが、私(たち)の立場では一貫して「クニノミコトモチ(国宰)」と考えて何の不都合もない。「仁徳紀」の国司記事も九州王朝の史書からの盗用である。そうであるならば、ここの初出の国司も『日本書紀』編集者の造作と一蹴することはできないだろう。仁徳紀の国司は374(仁徳62)年条に出てくる。倭王賛かその一代前の、あの七支刀の銘文に出てくる倭王旨の時代に当たる。また、次の国司記事は「雄略紀」だが、これは倭王武の時代。倭王武の上奏文(478年)の一節にこうある。(岩波文庫版から転載)

封国は偏遠にして、藩を外に作(な)す。昔より祖禰(そでい)躬ら甲冑を擐(つらぬ)き、山川を跋渉し、寧処(ねいしょ)に遑(いとま)あらず。東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を脱すること六十六回、渡りで海北を平ぐること九十五国。王道融泰(ゆうたい)にして、土を靡(ひら)き畿(き)を遐(はるか)にす。(以下略)

 古田さんの解読によると、「衆夷」とは倭国の都の周辺つまり九州を指す。「毛人」とはその東側で瀬戸内海領域である。「海北」は朝鮮半島を指す。つまり、すでにこの頃には倭王が国宰を派遣することはおおいにあり得ることだった。

(倭王旨については『激動の朝鮮半島(3)―「七支刀」(1)』を参照してください。)

 さて、「東国国司発遣の詔」の中の一文「今始めて萬國を修めむとす」に戻ろう。690(持統4)年7月条で選任された国司は九州王朝の「国宰」の再任であるという仮説を立てたが、このときの国司の役割もこれまでの「国宰」と同じである。その目的は各国を政治的に完全支配することではなく、あくまでも「全ての国々の乱れをただす」ことにある。それを「今始めて」行うと宣言している。この「今始めて」という文言が、この詔をヤマト王権(持統)が発したものと判断する理由の一つである。

 ところで、「近江令と庚午年籍(5)」で取り上げたように、「持統紀」には造籍記事が2件ある。そのとき「もちろん九州王朝の事績の盗用記事である」と断定したが、訂正の必要はないようだ。いま問題にしている記事との関係を考えてみる。

689(持統3)年閏8月10日
諸國司に詔して曰はく、「今冬に、戸籍造るべし。九月を限りで、浮浪(うかれびと)を糺し捉(から)むべし。其の兵士(いくさびと)は、一國毎に、四つに分ちて其の一つを點(さだ)めて、武事(つわもののわざ)を習はしめよ」とのたまふ。

 いわゆる庚寅年籍である。庚午年籍のちょうど20年後に再び造籍が行われたことになる。「国宰」の役割の中には造籍だけでなく、軍事関係の伝奏のあったことがわかる。

 また、庚午年籍は、「白村江の敗戦」後、「土地や財産」の所有・権利関係の「不明確化」や「他人(親族や近隣者を含む)からの“奪権”問題など、混乱した状況を糺す目的で行われたのだから、とうぜん「校田」も行われたはずである。以後の造籍も「校田」を含むと考えてよいだろう。

690(持統4)年9月1日
諸国司に詔して曰はく、「凡そ戸籍を造ることは、戸令に依れ」とのたまふ。

 ここの「戸令」はもちろん「筑紫令」である。前年の造籍に不備があったようだ。

 ここまでは九州王朝による国司派遣と造籍である。そして、695(大化元 持統9)年8月25日(庚子は「孝徳紀」の大化元年8では5日)のヤマト王権による「東国国司の発遣の詔」となる。

 このとき派遣されたの国司が命じられたのは、これまでと同じように、(a 造籍・校田)(i 倭6県の造籍・校田)と(h 武器の扱い)である。(b 裁判権剥奪)~(g 不法領有主張の申告)はその役割を遂行するに当たっての禁止事項である。主なる目的は造籍・校田であった。

 ところで、このときの国司派遣はなぜ東国と倭六県だけなのだろうか。すべて単なる推測にしかならないが、私は次のように考えている。倭六県はヤマト王権の直轄地であり、後の班田収授法を念頭においた再調査が行われたのではないだろうか。東国の場合は、690年の詔にもかかわらず、造籍に対しるサボタージュがあったのではないだろうか。九州王朝にしろヤマト王権にしろ、その権力のくびきから逃れる機会と考える勢力が多かったのではないだろうか。

 ともあれ、「東国国司発遣の詔」がヤマト王権が九州王朝から権力を奪取していく道程の第一歩だった。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(168)

「天武紀・持統紀」(83)


「大化改新」の真相(6)
「東国国司発遣の詔」をめぐって(1)




 『「大化改新」の真相(1)』で、私は次のような疑問を書き留めた。

 九州王朝の権力がヤマト王権に収奪されていくこの時期に、九州王朝はどうして数々の改革を必要としたのだろうか。まだ権力を掌握し続けることができると考え、改革の断行をもって起死回生のチャンスにしようとしたのだろうか。
 701(大宝元)年に大宝律令を制定して名実ともにヤマト王権が近畿王朝となる過程として、改革を必要としたのは、むしろ、権力掌握をしつつあったヤマト王権の方ではないのだろうか。

 やっとこの問題に取りかかる時が来た。大化の諸詔勅を発布したのは九州王朝だろうか。それともヤマト王権だろうか。

 それぞれの立場に立って読んでみた。ざっと読んだだけではどちらの解釈も可能に思える。しかし、少し詳しく読んでみると気になる文言がいくつか出てくる。それを検討すると、上の問題の答は「ヤマト王権」となるようだ。

 「井の中」の「大化改新」否定論者は「改新の詔」の発布者に天智や天武を比定している。これを私は、詔勅を出せるのは天子(近畿王朝の場合は天皇)だけであり、天智にも天武にもその資格はない、と批判した。

 諸詔勅をあるべき位置に置くと、ヤマト王権では持統の時代である。では持統には資格があるのか。ある。『「日本書紀」はなぜ「持統紀」で終わるのか。』で検討したように、ヤマト王権では始めて大嘗祭を執り行ったのは持統である。691(持統5)年11月1日のことであった。つまりそのときから持統は文字通り「天皇」と呼ぶことのできる資格を得た。従って、695(大化元 持統9)年と696(大化2 持統10)年の詔が持統のものという可能性が大きい。

 持統が大嘗祭を執り行うことができたのはヤマト王権の圧力に屈した九州王朝の妥協があったからだろう。これは権力移譲の合意を示していると考えられる。ろちろん、九州王朝内にはこれに反対する勢力があり、後々まで抵抗したことはすでに『「白村江の戦」の戦後処理(3)』で触れた。

 この時(691年)から大宝律令制定(701年)までは10年間は権力移譲のための準備期間だった。このような観点から、諸詔勅内の気になる文言の検討をしてみよう。まず「東国国司の発遣の詔」の冒頭部分を、今度は読下し文で読んでみる。(煩雑になるので、年代はすべて50年戻したものだけを表示する。)

695(大化元 持統9)年8月5日
東國等(あづまのくにぐに)の國司(くにのみこともち)を拝(め)す。仍りて國司等(たち)に詔して曰はく、「天神(あなつかみ)の奉(う)け寄(よさ)せたまひし随(まま)に、方(まさ)に今始めて萬國(くにぐに)を修めむとす。…」

 「国司を拝す」と言うのだから、国司はすでに東国などに派遣されていたことになる。690(持統4)年7月条に次のような記事がある。

(1日)
 公卿(まへつきみ)・百寮(つかさつかさ)の人等(ひとども)、始めて新しき朝服(みかどころも)着る。
(3日)
 幣(みてぐら)を天(あまつかみ)地祇(くにつかみ)に班(あかちまだ)したまふ。
(5日)
 皇子高市(みこたけち)を以て、太政大臣(おほまつりごとのおほまへつきみ)とす。正廣參(しやうくわうさむ)を以て、丹比嶋眞人(たぢひのしまのまひと)に授けて、右大臣(みぎのおほきまへつきみ)とす。幷(あはせ)て八省(やつのすぶるつかさ)・百寮、皆(みな)遷任(ま)けたまふ。
(6日)
 大宰(おほみこともち)・國司(くにのみこともち)、皆(みな)遷任(ま)けたまふ。
(7日)  詔すらく、「公卿百寮をして、凡そ位有る者、今より以後(のち)、家の内にして朝服を着て、未だ門(みかど)開けざらむ以前(さき)に參上(まうこ)しめよ」とのたまふ。蓋(けだ)し昔者(いにしへ)は宮門(みかど)に到(まう)でて朝服を着しか。 (9日)
 詔して曰はく、「凡そ朝堂(みかど)の座(くらゐ)の上にして、親王(みこ)を見むときには常の如くせよ。大臣(まへつきみ)と王(おほきみ)とには、起(た)ちて堂(まつりごとどの)の前に立て。二(ふたしな)の王(おほきみ)より以上(かみつかた)には、座より下りて跪け」とのたまふ。
(14日)
 詔して曰はく、「朝堂の座の上にして、大臣を見むときには、坐を動きで跪け」とのたまふ。
 是の日に、絁(ふとぎぬ)・絲・綿・布(ねの)を以て、七寺(ななつのてら)の安居(あんご)の沙門(ほふし)、三千三百六十三に奉施(おくりまだ)したまふ。別(こと)に皇太子(ひつぎのみこ)の爲に、三寺の安居の沙門、三百二十九に奉施したまふ。
(18日)
 使者(つかひ)を遣(つかは)して、廣瀬大忌と龍田風とを祭らしむ。


 持統はこの年の1月1日に即位している。その7ヶ月後に人事や政治上のしきたりを一新した。まったく新しい政権が発足するかのようなあわただしい動きが見られる。権力移譲の合意はこの年の1月~7月の間に行われたのではないだろうか。

 このあと、10月29日には高市皇子が藤原宮地を視察している。藤原京の造営が始まる。そして、4年後の694(持統8)年12月6日に持統は藤原宮に遷宮する。その翌年に「東国国司の発遣の詔」発せられたことになる。

 ところで、690(持統4)年7月6日には大宰・国司が「遷任」されとなっているが、このときの人選は九州王朝が選任していた大宰・国司がそのまま再登用されたようだ。695(大化2 持統10)年には「朝集使の報告」をもとに「東国国司賞罰」詔が出されているが、そこに出てくる国司の名前を見てそう判断した。この詔はすごーく長い。〈大系〉の補注が概略をまとめており、その国司名が表になっているので、それを見てみよう。(〈大系〉の表には欠けてる名があるので補充した。)

(A)は「東国国司発遣の詔」
 大化2年の「東国国司賞罰の詔」は二つで一組になっている。
(B)3月2日の詔
(C)3月19日の詔

 〈大系〉の補注はこの三つの詔を一括して、「東国国司への詔」と呼んでいる。

 (A)は、東国の八道にそれぞれ国司を任命し、その任務を説き、任地における権限を規定したもの。
 (B)は、その後、半年の後に任務を果して帰京した国司に対する論功行賞で、八道中、六長官はよく任務を遂行したが、他の二人は権限を守らなかったことを宣したもの。

 これに対し、国司の一行及び、上京した国造らが不服を申したてたが、
(C)は朝廷がこれをとりあげて、六長官中にも、なお二人は権限に背いたことを明らかにするとともに、在地人数名を含む行賞を行なったもの。ただし、罪をうけた国司らも、すべて大赦によって許されている。

 八道の国司は詔(A)によって、長官・次官及び判官からなり、それぞれ従者をもつ。また、任命された国司の名は詔(C)によって次の如くであることがわかる。

(「長官/次官/その他」の順)
Ⅰ 穂積臣咋/富制臣・巨勢臣紫檀/
Ⅱ 巨勢臣徳禰/朴井連・押坂連/臺直須弥
Ⅲ 紀臣麻利耆挓/三輪君大口・河辺臣百依/河辺臣磯泊・丹比深目・百舌鳥長兄・葛城福草・難波癬亀・犬養五十君・伊岐史麻呂・丹比大眼
Ⅳ 阿曇連/勝部臣百依/河辺臣磐管・同湯麻呂
Ⅴ 大市連/中臣徳・涯田臣/
Ⅵ 小緑臣/忌部木葉・中臣連正月/
Ⅶ 丹波臣/羽田臣・田口臣/
Ⅷ 平群臣//

 31名の名が出てくるが、富制臣など名無しのごんべえが10名いて、それにはすべて〈名を闕(もら)せり〉という分注が付いている。〈名を闕せり〉は全部で40例あるそうだが、なんとその四分の一がここに集中している。私(たち)の知見では〈名を闕せり〉と言い訳されている人物は九州王朝関係の者である。

 また、名がある者のうち巨勢臣紫檀・犬養五十君を除いた19名はここ以外には出てこない。〈大系〉は「他に見えず」というような頭注を付けている。私はこれも九州王朝関係の人物ではないかと考えている。

 ところで巨勢臣紫檀と犬養五十君に問題がある。〈岩波〉の頭注によると、巨勢臣紫檀は「辛檀努」という表記で「天武紀」に登場(死亡記事)し、『続日本紀』に「志丹」という表記で出てくる。養老元年正月18日の巨勢朝臣麻呂の死亡記事で、麻呂は「飛鳥朝京職直大参志丹之子也」と記録されている。また、犬養五十君は壬申の乱の近江方の将として「天武紀」に登場するが戦闘中に斬られている。つまりこの二人は、696(大化2 持統10)年を「東国国司賞罰の詔」が出された年とすると、このときには死んでいるのだ。このことが「井の中」の「大化改新」否定説論者も「東国国司への詔」を後代(天武時代)に繰り上げない理由になっている。

 このことをどう解釈したらよいのだろうか。私の「大化改新50年繰り下げ」説が正しいのなら、大化改新を50年後に繰り下げた作為を隠蔽し、それを信憑化するための『日本書紀』編纂者による作為的挿入であるとしか考えられない。穿ちすぎだろうか。もしこの考えが不当なら、私の「大化改新50年繰り下げ」説がダメだということになる。これからどのような展開になるか予測ができないが、その全体像の中でこの解釈の正否が決まるだろう。ともかく先に進んでみよう。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(167)

「天武紀・持統紀」(82)


「大化改新」の真相(5)
音韻学者・森博達氏の証言


 「孝徳紀」の年号「大化」は九州王朝が使用した年号の盗用だから、「孝徳紀」の大化元年・2年に記録されている詔勅は、「改新の詔」だけではなく、すべて九州王朝の史料からの盗用である。このように考えるのが自然(理性のしからしむところ)である。と、このように考えることが妥当であることを示す傍証がある。

(以下は森博達(ひろみち)著『日本書紀の謎を解く』を教科書にしています。)

 森氏は『日本書紀』全巻の音韻・語彙・語法さらには文体の調査をした。その結果、『日本書紀』には正格な漢文・唐の正音(歌謡訓注などの和文)で書かれた巻(α群と呼んでいる)と、倭習・倭音を含む巻(β群)があるという。倭習(あるいは倭臭)とは、漢文の中の和文的要素や、日本語の発想に基づく漢文の誤用や奇用のことである。倭音とは音韻における倭習のことで、漢音・呉音を混用したものや倭音(万葉仮名)を用いた和文である。つまりα群は中国人(続守言・薩弘恪と推定している)によって書かれたものであり、β群は中国語に精通していない日本人によって書かれたものである。

α群(巻14~21・24~27)
β群(巻1~13・22~23・28~29)

巻30(持統紀)が入っていないが、それについて森氏は次のように述べている。
 巻30には歌謡がなく、訓注も二例しかないので、仮名の性格からその表記者を窺うことはできなかった。文章に倭習が少ないので、この点ではα群に近い。そこで私は従来、暫定的に巻30をα群に算入していた。しかし成立の経緯を考えれば、α群に帰属させるのは無理がある。持統上皇が崩御したのは、大宝2年(702)12月22日のことである。帝紀の撰述は崩御の直後から開始されるものではない。巻30の述作には、続・薩両名とも関係しなかったと考えられる。

 実際、巻30には特殊な語句や文体が見られる。たとえば第一章の【表3】では、「群臣」は109例あり、α・β両群に広く分布するが、巻30には現れない。逆に、「公卿百寮人」は9例すべてが巻30に偏在している。中村啓信「日本書紀巻第三十について」(1961年)はさらに多くの例を加えている。たとえば、「大津皇子(おおつのみこ)」・「高市(たけち)皇子」等が巻30では 「皇子大津」・「皇子高市」等のように前後した表記法になる。また、「奉幣于四所伊勢・大倭・住吉・紀伊大神」等のように、並列する名詞の上にその数を冠する文体も、巻30に独特のものという。

 さて、α群にも倭習を含むものがあるが、巻25「孝徳紀」は異常に多い。谷口氏は番組制作に当たり、新たに「孝徳紀」の倭習についのて吟味・検討を森氏にお願いしている。そして森氏から誤用例の増補を得ているという。それが参考資料(3)に掲載されているので、こちらの方を少し形式を変えて転載する。

 以下は

☆誤用原文
【その読下し文】
 →森氏による修正案(誤用の補足説明)

という形で表示している。

―――――――――――――
「東国国司詔」(大化元年8月)

<使役表現の誤用>

☆不得取他貸賂、令致民於貧苦
【他(ひと)の貸賂(まいない)を取りて、民を貧苦(まずし)きに致さしむること得じ】
 →不得取他貸賂、令民致於貧苦(語順の誤り)

☆唯得使従国造・郡領
【唯に国造・郡領をのみ従はしむること得む】
 →唯得使国造・郡領従(語順の誤り)

<受身表現の誤用>

☆其於倭国六県被遣使者
【其れ、倭国の六県に遣(つかわ)さるる使者】
 →其於倭国六県見遣使者(「被」を「見」に)

<譲歩表現の誤用>

☆若有求名之人……
【若し名を求むる人有りて……とも】
 →縦有求名之人……(「若」を「縦」に)

―――――――――――――
「僧尼への詔」(大化元年8月)

<語句の誤用>

☆此十師等宜能教導衆僧
【比の十師等、能く衆僧を教導(おしえみちび)き】
 →此十師等宜教導衆僧(「能」は不要)

―――――――――――――
「土地兼併禁止詔」(大化元年9月)

<語句の誤用>

☆或者全無容針少地
【或いは全(もは)ら容針少地(はりさすばかりのところ)も無し】
 →或者全無容針小地(「少」を「小」に)

―――――――――――――
「鐘櫃制度の詔」(大化2年2月戊申)

<語句の誤用>

☆詔巳如此
【詔巳(すで)に此(かく)のごとし】
 →(「巳」を「全て」の意で用いるのは倭習)

―――――――――――――
「東国国司詔」(大化2年3月甲子)

<語句の誤用>

☆朕復思欲蒙神護力
【朕(われ)復(また)神の護(まもり)の力を蒙りて……思欲(おも)ふ】
 →朕亦思欲蒙神護力(「復」を「亦」に)

☆詔既若斯
【詔既に斯の若し】
→(「既」を「全て」の意で用いるのは倭習)

<使役表現の誤用>

☆故前以良家大夫使治東方八道
【故、前に良家の大夫を以ちて東の方の八道を治めし】
 →故前便良家大夫治東方八道(語順の誤り)

―――――――――――――
「旧俗矯正の詔」(大化2年3月甲申)

<受身表現の誤用>

☆復有妻妾、為夫被放之日
【復、妻妾有りて、夫の為に放(す)てらるる日に】
 →復有妻妾、為夫見放之日(「被」を「見」に)

☆復有為妻被嫌離者
【復、妻の為に嫌はれ離たれし者有りて】
 →復有為妻見嫌離者(「被」を「見」に)

<譲歩表現の誤用>

☆縦有違詔犯所禁者
【縦(も)し詔に達ひて禁(いさ)むる所を犯すこと有らば】
 →若有違詔犯所禁者(「縦」を「若」に)

☆縦違斯詔、将科重罪
【縦し斯(こ)の詔に違へらば、重罪科せむ】
 →若違斯詔、将科重罪(「縦」を「若」に)

<使役表現の誤用>

☆何故於我使遇溺人
【何の故か我を溺れたる人に遇はしむる】
 →何故使我遇溺人(語順の誤り)

―――――――――――――
「品部廃止の詔」(大化2年8月癸酉)

<否定詞の誤用>

☆斯等深不悟情
【斯等(これら)、深く情(こころ)に悟らず】
 →斯等不深悟情(語順の誤り)

<使役表現の誤用>

☆今以汝等使仕状者
【今汝等を以ちて仕へしむる状は】
 →今使汝等仕状者(語順の誤り)

 森氏は「孝徳紀」の倭習について、次のようにまとめている。

 α群は、中国人が執筆したと私は考えているところで、中国語の間違いは基本的にはありません。漢文の間違いが基本的にないのです。ところが、そのα群の中にあっても、一部間違いがあります。数多くはありません。それらの間違いがどこにあるのかというと、実は大化の改新の一連の詔勅に集中するのです。これは一体どういうことなのかということです。

 中国人の執筆者が亡くなった後、日本書紀の編集の最終段階で潤色、加筆ということが行われたのです。つまり、大化改新の記事というのは、最終段階で、編集の最終段階で付け加えられたものか、あるいは少なくとも大幅にこれは加筆をされているということは事実なのです。従って、『日本書紀』に書かれているような大化改新が実際にあったということは、これはいえないのです、そのままでは。

 私は、加筆ではなく、全ての詔勅が「編集の最終段階で付け加えられた」と考えてきたのだった。このように考える人が「井の中」にもいらっしゃった。古田さんと「邪馬台国」論争を行ったこともある山尾幸久氏である。つまり古田さんを決して無視をしてはいなかった(現在はどういう態度をされているのかは知らない)学者のお一人である。谷口氏は山尾氏の著書『「大化改新」の史料批判』から引用しながら、山尾氏の論考を次のように紹介している。

 「孝徳紀」の詔の原形は、漢語と漢字正訓表記とを交用し、それを和語で読上げる和化漢文体の詔書だったのであろう。

(中略)

 「孝徳紀」の和文脈を遺す厖大な詔書は、670年代ならば書けるが、640年代に作るのは難しい。

 そして大化の詔勅群は、朝廷に参集する宮人に対して詔が朗読されていることに着目、
 詔書の宣告は法の定立行為だから、神意を体するが故に公権を具現するという君主の超越性が要件である。

とし、大化の時期にそのような「現神天皇」はおらず、こうした詔書の宣命が成立したのは天智・天武の時代であるとした。

 天智も天武もそのような「現神天皇」ではない。701年以前にその資格を有するのは九州王朝の天子だけである。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(166)

「天武紀・持統紀」(81)


「大化改新」の真相(4)
「大化改新」否定論(2)


 今まで従来の古代学の学問方法を「ヤマト王権一元主義」と言ってきた。そして前々回、その旗の下で積み上げられている学問を「井の中の蛙が井の中で一生懸命に空中楼閣を築いている」と比喩したが、私はこの比喩がとても気に入っている。これからは「ヤマト王権一元主義」の古代史学会を「井の中」と呼ぶことにする。

 さて、「井の中」の「大化改新」否定論(③説)を読んでみたが、これは正確には「大化の詔」否定論と言うべきだ。大化元年から大化3年にかけて次々に出された詔勅のうち後代のものとしているのは「大化の詔」だけである。部分的には『日本書紀』編集者による加筆があるとしても、それ以外はすべて孝徳時代の事績であるとしている。

 ②説と③説の争点は「大化の詔」の「その第三」(班田収授法)にある。③説は班田の前提として造籍・校田がなければならないが、それがないと主張している。

 一方、②説論者は大化元年の「東国国司の発遣」の詔勅には造籍・校田のことが書かれていることから、「乙巳の変」直後に造籍・校田があったことは明らかだと主張する。こうして論点は「東国国司の発遣」詔勅に移る。この詔勅は次のようである。

東国国司の発遣の詔

8月5日、東国の国司を召された。国司らに詔していわれた。

天つ神の命ぜられるままに、今はじ めて日本国内のすべての国々を治めようと思う。
(a 造籍・校田のこと)
 およそ国家の所有する公民や、大小の豪族の支配する人々について、汝らが任国に赴いてみな戸籍をつくり、田畑の大きさを調べよ。それ以外の園地や土地や用水の利得は百姓が共に受けるようにせよ。
(b 裁判権剥奪)
 また国司らはその国の裁判権をもたない。
(c 賂・収奪の禁)
 他人からの賂(まいない)をとって、民を貧苦におとしいれてはならぬ。
(d 部外の馬・食使用の禁)
 京(みやこ)に上る時は多くの百姓を従えてはならぬ。ただ、国造(くにのみやっこ)、郡領(こおりのみやっこ)だけを従わせよ。ただし公用のため通うときには、管内の馬に乗ることができ、管内の飯を食することができる。
(e 褒賞・罪科のこと)
 介(すけ 次官)以上の者に対して、よく法(のり)に従ったときは褒賞を行なえ。法に背いたら爵(冠位)を降等せよ。判官以下の者が、他人の賂を取ったときは二倍にして徴収する。軽重によって罪科を負わせる。
(f 従者の制限)
 国司の長官(かみ)は従者九人、次官(すけ)は従者七人、主典(ふびと)は従者五人、もし限度を越える者があったら主従共に処罰される。
(g 不法領有主張の申告)
 もし名誉や地位を求める人があって、元からの国造・伴造(とものみやっこ)・県稲置(こおりのいなき)ではないのに、偽って、『わが先祖のときからこの官家(みやけ)を預かり、この郡県(こおり)を治めていました』と訴えるのを、汝ら国司が偽りのままに、たやすく朝(みかど)に報告してはいけない。詳しく実情を調べてから報告せよ。
(h 武器の扱い)
 また空地に兵庫(やぐら)を造って、国郡の刀(たち)、甲(よろい)、弓、矢を集め収め、辺境で蝦夷と境を接する国は、すべてその武器を数え調べ、元の所有者に保管させよ。
(i 倭6県の造籍・校田)
 倭(やまと)の国の六つの県(高市・葛木・十市・志貴・山辺・曽布)に遣わされる使者は、戸籍を造り同時に田畑を検地せよ。
汝ら国司よく承って退出せよ。

 布帛(きぬ)をそれぞれに賜った。


 ②説論者の主張に対して、門脇氏は「朝集使の報告」に対して発せられた詔(東国国司賞罰の詔)を分析して反論している。ごちゃごちゃといろいろな記述が続くが、その反論のかなめは要するに「東国国司の発遣の詔」の違反者の数である。氏の調査結果は次のようである。

(a 造籍・校田)…………… 0
(b 裁判権剥奪)…………… 1
(c 賂・収奪の禁)………… 9
(d 馬・食使用の制限)…… 1
(e 褒賞・罪科のこと)…… 6
(f 従者の制限)…………… 0
(g 不法領有主張の申告)… 0
(h 武器の扱い)…………… 1
(i 倭6県の造籍・校田)… 0

 門脇氏は(a)・(i)の違反者が0人であることを取り上げて次のように述べている。

 いかがごらんになりますか。二つの考え方しかないのではないでしょうか。

 「国司」たちは造籍・校田をきちんと行なったから違反結果は全く出なかったと考えるか、あるいは、あたくしどものように、初めから東国「国司」の任務のなかに造籍・校田のことはなかったと考えるかです。

 自分の説を出す場合、できるだけ自分に不利に解釈して考えるのが原則ですから、「国司」たちは造籍・校田をよほどうまくやったのではないかという前提で、いろいろ検討してみました。

 これはまったく論理的におかしい。②説論への反論になっていない。。この伝で言えば、(f)・(g)も東国「国司」の任務のなかになかったと言うことになる。

 「いろいろ検討してみ」たのは「東国国司の発遣の詔」とは関係のないまったく別の事柄だった。次のように続けている。

 けれどもまず第一に、わが国ではじめて戸籍ができたのは、670年(天智天皇9)の庚午年籍(こうごねんじゃく)です。しかし、これは班田に使った戸籍ではありません。班田に使った最初の戸籍は、さらに20年後の690年(持統天皇4)にできた庚寅(こういん)年籍です。その次の大宝2年(702)の戸籍は、その一部が正倉院にあって、現にわれわれが目にすることができます。これらは確かに班田に用いられている。ですから一番古く見て、690年以後の戸籍ならば、班田に用いたことが証明できますけれども、646年(大化2)に造籍・校田があったとは、残念ながら考えられません。

 これはこれで正しいことが言われている。この点で③説に軍配を上げなければならない。しかし、繰り返すが、「東国国司の発遣の詔」を論拠に造籍・校田があったと主張する②説論者への反論にはなっていない。

 この論争は水掛け論に終わるしかない。この不毛な論争から抜け出すための答はいたって簡単。「東国国司の発遣の詔」も後代の記録の盗用なのだ。これを「孝徳紀」に置いたままで論争しても決着がつかないのは当然だ。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(165)

「天武紀・持統紀」(80)


「大化改新」の真相(3)
「大化改新」否定論(1)


 門脇氏は「大化改新」の研究会(日本史研究会古代史部会)を立ち上げて、そこで議論を深めていったという。氏が「大化改新」否定論を持つにいたった経緯を次のように述べている。(参考資料(2)所収『「大化改新」の虚像と実像』より)

 そこで、日本の古代史を考える場合、どういう立場から研究しようとも、「大化改新」のようなものは避けて通れない。ひとつここに土俵をつくって、いろいろな意見なり業績をぶつけ合ってみようではないか。こういうことで、「大化改新」の研究会をしつらえたわけです。

 その研究会をはじめでみると、当時まだ大学院クラスであった諸君の中から、『日本書紀』には「大化改新」が書いてあるけれども、実はこれはなかったのではないか、という意見が出てきたのです。これにはわたくしも最初はたいへん抵抗を感じました。しかしながら同時に、なるほどと思ったこともあります。

「大化改新」はなかったのではないかという意見を聞いて、なるほど、そういうことも成り立つかもしれないと思いましたのは、まず第一に、「大化改新」というものを書いてある史料は、基本的には『日本書紀』だけだということです。

 それから、いわゆる「大化改新」の政治内容を示す大化2年(646)正月の「改新之詔」は、実は当時のものではなくて、後の時代につくったものではないかという、古代史では有名な論争が以前からあります。事実、大化2年正月に出されたという詔は、おそらく早くて30~40年、ひょっとするともう少しあとの法令でつくられたものではないかということが、いくつもの仕事によって解明されています。

 氏はここで「改新の詔」の「その第三」と養老令の戸令・田令を原文で提示して、(3のA)と戸令、(3のB)と田令がまったく同じ文であることを示している。「その第一」・「その第二」についてもほぼ同様のことが解明されている。この問題の先鞭をつけたのは津田左右吉だった。

 このようなことが分かっているにもかかわらず、「その第一」・「その第二」・「その第三」の主文部は、当時のものとする見解をとる学者たちがいる。つまり、「主文は原詔にもとづくが、副文には令文による何らかの変改が加えられているとみる」という②説である。

 また第四項だけは、こういうふうにきれいに割り切れなくて、若干問題が残りますが、とにかく「改新之詔」は「改新」当時につくられたものではないだろうという学説を、わたくしもかねてから知っておりましたので、「改新」そのものを否定する意見が出たときに、あるいはそうであったかもしれないという気になったわけです。

 さらに、教壇に立って教えてみるとわかることですが、たとえば「大化改新」で租・庸・調という税の制度ができたと教えます。ところが、律令制のところでまた租・庸・調を教える。これに類したことがいくつかあるわけです。同じ制度がダブって出てくる。これは実は律令制のときに定められたのであって、「大化改新」のときではなかったのではないか。さらに「大化改新」そのものがなかったのではないか。当然こういう筋道で考えてゆくことはできるわけです。

 それになによりも、わたくしたちが「大化改新」を考えるときに基本史料になる『日本書紀』の性格が問題です。『書紀』には、当然のことながら、編纂者の歴史観が働いている。書かれていることすべてが事実であるとは、必ずしもいえないわけです。古い時代でいえば、邪馬台国のヤの字も『書紀』には出てきません。いまでは常識化している、倭の五王が中国王朝に朝貢したという、日本古代王権の国際的従属性の問題も書いていない。考えてみれば、それはあたりまえなのです。『書紀』を書いた古代の貴族たちは、自分たちの歴史を、遠く、古く、かつ誇らかに表現するわけですから、他国に朝貢したなどという記事が出てこないのは、いわば当然です。

 あるいは、あとでも申しますが、『書紀』に出てくる蘇我蝦夷入鹿というような名前も、実際に当時の人々が使っていた名前かどうか、はなはだ問題です。皇権をないがしろにした悪者として、非常に卑しめた名前をわざと選んで叙述しているだけです。つまり、『書紀』というのは、編纂者の史観に基づいて叙述されているのであって、全部が真実を書いたものとはいいがたいということです。

 以上のようなことが、「大化改新」そのものを否定する提言を聞いたとき、あるいはそうかもしれないと感じた理由です。

 「『書紀』というのは、編纂者の史観に基づいて叙述されているのであって、全部が真実を書いたものとはいいがたい」という認識をもっていながら、古田さんの諸説を受け入れないのはどうしたわけだろう。次のくだりにその本音が吐露されている。

 しかしながら一方では、何いってるんだ、そんな無茶なことがあるか、という気がしたのも事実です。最初に申しましたように「大化改新」というのは、いろいろな業績をつき合わせる土俵としてこしらえたわけですから、土俵そのものをこわす話には、にわかに賛成できません。殺生なこというでは困る、というのが、そのときの偽らざる心境でした。

 それからもう一つは、あたくしもそれまでにいくつか本を書いておりましたが、それらはいずれも、「大化改新」があったという前提に立って書いてきたものです。それをいまさら無いなんていわれたら、私の本は全部パーになってしまう。銭金(ぜにかね)の問題ではありません。もしそれが正しいとすれば、それまでの自分のもっている知識も古代史の認識も捨てねばならない。いまから思うと恥ずかしい次第ですが、若い諸君に、「まだ何も発表してないし、これから書きはじめるからといって、そんな気楽なことをいうな」といったのを覚えております。

 「大化改新」についての自説を変更することぐらいなら、一部分の修正で済む。実際に門脇氏は自説を「大化改新」否定説に変更した後にも相当な著述をものにしている。

 しかし、古田学説の場合はおおごとである。まさに文字通り「もしそれが正しいとすれば、それまでの自分のもっている知識も古代史の認識も捨てねばならない」ことになる。ヤマト王権一元主義者たちが古田さんを無視する(もしかすると恐怖する)心情は察するに余りある。と、同情はするが、それでは学者とは言えまい。

 「若い諸君」の中から気骨ある真の学者が出てくることを期待したいがどうだろうか。難しいだろう。学会とは徒弟制度の社会のようだ。指導教授の学説に反する研究を発表すると、その学者は将来出世できないといわれている。古代史学会だけの話ではない。

 水俣病を告発し、問題を社会に知らしめる発端を作った宇井純さんはついに「万年助手」に据え置かれたままだった。早くから原発の危険性を強く指摘し続けていた京都大の今中哲二さん・小出裕章さんは研究費でも差別を受け、助教授止まりでそれ以上の出世を阻まれているという。

 大学だけのことではない。「君が代・日の丸強制」反対裁判に見るように、憲法判断を要する裁判では、ほとんどの裁判官が最高裁判例追認の判決しか出せない。その最高裁判例が行政追随・憲法無視の判決なのだ。それに逆らうまともな判決をすると、地方に飛ばされたりして、将来も出世はできないようだ。「予防訴訟」裁判であの画期的なすばらしい判決を出した難波裁判官はその後どうなっただろうか。ネットで調べたら「熊本地方裁判所長、熊本簡易裁判所判事」とあった。

 マスコミの世界もそうだ。経営者の意向に反する作品や記事は没にされてしまう。御用記者がはびこり、まともなジャーナリストは少ない。

 いたるところに根を張っている旧態然とした社会システムの根本的な変革がないかぎり、本当の学問・言論・思想の自由は絵に描いた餅でしかない。暗澹とした気分になるが、気を取り直して先を続けよう。

 それではわたくも自身は従来の「改新」像をどのように修正しっつあるかということを以下に申し上げて、ご批判をいただきたいと思います。「改新」の考察はいろいろな側面から進められますが、きようは、「大化改新」をめぐる政治史的な見方、政治史的検討を中心に申し上げたいと思います。

 一口に申しますと、従来の「改新」像を壊すことは、比蛟的簡単です。わたくしにとっては、旧い「改新」像を否定したあと、それではどういうふうに「改新」像を再構成するかが、むつかしい、しんどい問題なのです。

 次回は門脇氏が「政治史的な見方」で再構成した「改新」像のあらましを読み取ってみる。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(164)

「天武紀・持統紀」(79)


「大化改新」の真相(2)
「大化の詔」をめぐる真偽論争


 「大化の詔」の「その第二」では主文で「郡司」の設置を述べ、(2のC)で「郡」制度を定めている。これがあるため、「郡評論争」に決着がついてから、にわかに「大化の詔」の真偽論争が活発になった。しかし、未だに決着はついていない。(1)から引用する。

 『書紀』が翌646(大化2)年正月条にかかげる「大化改新の詔」の評価については、
①基本的には当時のもののままであるとする説、
②主文は原詔にもとづくが、副文(「凡」ではじまる令文的記載)には令文による何らかの変改が加えられているとみる説、
③詔は全体として当時のものでなく、書紀編者による述作とみる説(大化改新虚構論)
に一応大別することができよう。しかし筆者は第二説をとるものである。

 なぜなら第一説に関していえば、詔の第二・四条にみえる郡、郡大少領等の名称が大宝令後の用字であって、それ以前は評系統であったことは藤原宮木簡によっで立証されたところであり、第三条の町段歩の田積法が、浄御原令、または大宝令以後でそれ以前はシロ制であったことも明らかにされているからである。

 また第三説については、論の構成上、後述の天智甲子年の改革の理解が問題となるが、それとは別にまた、この詔のえがく青写真が、その前後の、当時のものとみなすべき諸詔と内容上の連関をもつことも、個々に指摘するごとく明らかである。したがって、詔の内容はこの時期のものとして唐突ではなく、原詔の存在を否定しがたいのである。

 もっとも②説をとる場合にも、さらに種々の考え方があるが、筆者は
(a)主文は原詔にもとづいて編者が構文したもの、副文のうち、
(b)大宝令文と内容上一致するものはその転 載、
(c)内容上異質のものは原詔の規定を他の副文と同じく令文的な形態にととのえたもの、とみなすものである。

 ③説に対する批判部分が分かりにくいが、③説は後に取り上げる予定である。いまは論争のおおよその様子が分かればよいとしよう。

 井上氏は「郡評論争」の当事者でかつ勝者であるから、当然①に組するわけにはいかない。いまだに①を主張する学者もいるらしいが、これらの学者は「郡」を「評」に書き換えれば後はそのまま信じられるとしているようだ。実に頑迷な人たちだ。参考資料(2)の著者・山脇氏は③を主張している。

 谷口氏が(3)の「はじめに」で高校の教科書(山川出版社「詳説日本史」)を引用している。

 七世紀半ばに唐(とう)が高句麗(こうくり)に侵攻をはじめると、緊張のなかで周辺諸国は中央集権の確立と国内統一の必要にせまられた。倭では、蘇我入鹿が厩戸王(うまやとおう)(聖徳太子)の子の山背大兄王を滅ぼして権力集中をはかったが、中大兄皇子は蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだのいしかわまろ)や中臣鎌足の協力を得て、王族中心の中央集権をめざし、645(大化元)年に蘇我蝦夷(そがのえみし)・入鹿を滅ぼした(乙巳(いっし)の変(へん))。そして王族の軽皇子(かるのみこ)が即位して孝徳(こうとく)天皇となり、中大兄皇子を皇太子とする(中略)新政権が成立し、政治改革を進めた。

 646(大化2)年正月には、「改新の詔」(みことのり)で豪族の田荘(たどころ)・部曲(かきべ)を廃止して、公地公民制への移行をめざす政策が示された。全国的な人民・田地の調査、統一的税制の施行がめざされるなか、地方行政組織の「(こおり)」が各地に設置され、中央の官制も整備されて大規模な難波宮(なにわのみや)が営まれた。王権や中大兄皇子の権力が急速に拡大するなかで、中央集権化が進められた。こうした孝徳天皇時代の諸改革は、大化改新(たいかのかいしん)といわれる。

 ①の立場での記事である。「評」と括弧の中に入れて特別な意味を付与している。そして頭注で②説があることを告げている。

(頭注)
「『日本書紀』が伝える詔の文章には後の大宝令(たいほうりょう)などによる潤色があり、この段階でどのような具体的改革がめざされたかについては意見が分かれる。」

 ③説は教科書も無視をしている。それはそうだろう。③説を取り上げたとたんに教科書は崩壊してしまう。

 谷口氏が作成したNHKスペシャル「大化改新 隠された真相~飛鳥発掘調査報告~」にはたいへんな反響があったようだ。たぶん蘇我氏の扱い(一方的な悪者扱いから脱している)が教科書とは異なっていたからだろう。「乙巳の変」の新解釈に重点があって、この番組では「改新の詔」の真偽論争は取り上げていないと思われる。谷口氏は次のように書いている。

 『日本書紀』の蘇我氏、とりわけ蝦夷・入鹿に対する記述は、あまりに一面的で偏ったものではないか。むしろ、蘇我氏こそ大陸情勢に最も精通した開明的豪族だったのではないか。飛鳥での発掘成果は、天皇家との対立ではなく、共存を目指していたことを物語っているのではないか。「大化改新」は、蘇我氏を貶めるための物語にすぎず、その内実は、反動的クーデターだったのではないか……

(中略)

 放送番組は、いわゆる通説とは正反対の内容だったために、視聴者から多大な反響をいただいた。「古代史の見方がまったく変わって面白かった」「歴史は勝者によって書かれるものだと改めて者えさせられた」など、全体的に肯定的な意見が多かったが、中には「教科書の記述とは違う異説をことさらにとりあげていいのか」という批判的意見もいただいた。「大化改新」は今も人々の興味を駆り立ててやまないテーマなのだと実感しつつも、それ以上に、この反響の大きさ自体が、古代史の新しい見方・考え方に対する人々の飢渇の表明のようにも思えた。
 「「教科書の記述とは違う異説をことさらにとりあげていいのか」という類の批判にはあきれる。情けないことに、このような権威・権力への阿諛追従(むしろ屈従と言うべきか)むき出しの思考停止精神が絶えることがない。こういう精神がこの国の民主主義を未熟にしている。

 ちょっと余分なことを書いてしまった。戻ろう。
 本書は、テレビ番組では、構成上そして映像メディアの特性上、割愛せざるをえなかった内容を盛り込み、かつ、番組放映後にいただいたさまざまな意見をできるだけ念頭に置きながら、新たに書き下ろしたものである。番組に興味をそそられた方にはいっそうの興味を抱いていただきたいし、批判的だった方には、活字でこそできる論証を重ねたつもりなので、少しでも理解を深めてもらいたいと願っている。

 異説を異説として面白がるために、本書を書いたのではない。口はばったいことをいうようだが、読者がこの書を通じて、歴史とは固定した過去の事実ではなく、「今」を生きる私たちによって不断に改められていくものだということを感じとっていただければと願っている。手あかにまみれた史料にも、これまで知らなかった意外な事実を読み取ることができる。それは、史料と向き合う私たちの姿勢次第だと思う。この心構えさえ失わなければ、歴史はいつでも新しく再生することを待っているとさえいえるだろう。それだけではなく、「歴史の真実はどこにあるのか」という根源的な問いにまで、私たちを連れていってくれるかもしれない。

 正論を述べている。しかし、学会という井の中の言説だけに縛られた姿勢では、『「歴史の真実はどこにあるのか」という根源的な問い』には永久に達しない。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(163)

「天武紀・持統紀」(78)


「大化改新」の真相(1)
「改新の詔」


 「大化改新」については、かって『偽装「大化の改新」』という表題で取り上げている。

偽装「大化の改新」(1)
偽装「大化の改新」(2)
偽装「大化の改新」(3)
偽装「大化の改新」(4)

 このときは、『日本書紀』編纂者はなぜ50年も遡って年号「大化」と「大化改新」の事績を盗用する必要があったのか、という問題をテーマとして取り上げた。今回は年号「大化」と「大化改新」を本来の位置に戻して「大化改新」の中身を検討したい。「孝徳紀」の「大化改新」関連記事を本来あるべき位置に戻してみる。

大化1年―695(持統9)年
「東国国司の発遣」
「鐘匱の設置」
「男女の法」
大化2年―696(持統10)年
「改新の詔」
「鐘匱の反応」
「朝集使の報告」
「皇太子の奏上」
「薄葬令」
「旧俗の廃止」
「品部の廃止」
大化3年―697(文武1)年
大化4年―698(文武2)年
大化5年―699(文武3)年
(「大化」は704年まで9年間続く。)

 以上のような改革が断行されている。

 上の年表を見て、私は次のような疑問を持った。
 九州王朝の権力がヤマト王権に収奪されていくこの時期に、九州王朝はどうして数々の改革を必要としたのだろうか。まだ権力を掌握し続けることができると考え、改革の断行をもって起死回生のチャンスにしようとしたのだろうか。

 701(大宝元)年に大宝律令を制定して名実ともにヤマト王権が近畿王朝となる過程として、改革を必要としたのは、むしろ、権力掌握をしつつあったヤマト王権の方ではないのだろうか。

 この問題を検討するためには、まず「大化改新」とは何たっだのかを知る必要がある。白状すると、私は「大化改新」をまともに読んだことがない。そこから始めようと思う。ただし、上の表で分かるように「大化改新」は多岐にわたっている。とりあえずは国制に関する事項だけにしぼってすすめることにする。

 まず、ヤマト一元主義者たちの「大化改新」研究の様相を見てみよう。資料としては、いままで何度か利用してきた
(1)
井上光貞氏の論文「大化の改新と東アジア」(岩波講座・日本歴史2」所収)
が私の手元にある。これは1975年頃の著述でかなり古い。できるだけ新しいものも読んでみたいと思い、図書館から次の2册を借りて来た。これらを参考書として利用する。

(2)
門脇禎二著『「大化改新」史論・下巻』
(3)
谷口雅一著『「大化改新」・隠された真相』

 (3)の著者・谷口氏はNHKのディレクターで主に歴史番組を担当している。上の著者名と同じ題名の番組を制作した(2007年2月2日放送)。その制作に当たって集めた資料をもとに著わしたのが(3)である。巻末に参考資料としてかなりの数の著書があげられているが、もちろん古田さんの著書は見事に除外している。制作に当たってはいろいろな学者たちに直接相談し、助言・意見を伺っているという。中でも(2)の著者・門脇氏(2007年に逝去されている)が最も重要な助言者だったようだ。そういうわけで、(3)にはヤマト一元主義者たちの研究現況がよくまとめられている。そういう意味で大変参考になる好著である。

 既に検討したように、近江令・飛鳥浄御原令・庚午年籍などの言葉は『日本書紀』にはなく、これらは後世に作られたものであった。これらの事項には名前だけで実態ない。その実態がないものをめぐって、ヤマト一元主義の学者たちは、微に入り細に入り、無駄な論争を繰り広げ、厖大な論文を積み上げてきている。まるで、井の中の蛙が井の中で一生懸命に空中楼閣を築いている様である。とはいえ、彼らはさまざまな文献に通じていて、その文献渉猟は私(たち)にも参考になる。

 大化改新の場合も同様の様相を呈している。『日本書紀』には「大化改新」という言葉はない。「大化改新」という言葉が使われはじめたののは1887(明治20)年頃からである。(3)から引用する。

 あえて「大化改新」という造語まで使用して、その意義を強調した論者が、杉浦重剛(じゅうごう)ほか三名による共著『日本通鑑』(明治20年出版)であった。ここでは「大化改新」を改新の詔から始まり、大化五年八月の八省百官の設置までと規定している。そして、この大化年間の一連の諸改革によって、豪族専権の積弊が一掃され、中央集権の制度が整えられ、皇室が永遠に栄える策が打ち立てられたと積極的に評価している。まさに今に通じる大政治改革=「大化改新」の構図は、ここに始まったといえよう。その後、雨後の竹の子のように、「大化改新」論が発表される。

 つまり明治維新に重ねて、天皇制国家の支配強化ための道具として、「大化改新」を積極的に取り上げたのだった。もちろん大日本帝国の敗戦後は、「大化改新」も解放されて、それまでの議論は批判的に継承された。しかし残念ながら学者たち自身がヤマト一元主義から解放されていなかった。

 さて、まず大化改新の中心史料である「改新の詔」を読んでみよう。内容は多岐にわたる。各項目は主文と「令」的な副文からなる。各項目毎に段落を付け、副文には小見出しを付けた。また「改新の詔」をはじめ、関係記事はそれぞれ長文なので読下し文はわずらわしい。宇治谷孟氏の現代語訳を下敷きに用い、必要があれば原文を参照することにする。

改新の詔

 2年春1月1日、賀正の礼が終って、改新の詔を発せられた。

「その第一。
 昔の天皇たちの立てられた子代(こしろ)の民・各地の屯倉(みやけ)と臣・連・伴造・国造・村の首長の支配する部民・豪族の経営する各所の土地を廃止する。そして食封(へひと 給与される戸口)を大夫(まえつきみ)(四位・五位)より以上にそれぞれに応じて賜わる。以下は布帛(きね)を官人(つかさびと)・百姓(おおみたから)にそれぞれに賜わることとする。そもそも大夫は人民を直接治めるものである。よくその政治に力を尽せば人民は信頼する。故に大夫の封禄(ぼうろく)を重くすることは、人民のためにすることなのである。

その第二。
 京師(みやこ 都城)を創設し、畿内の国司・郡司・関塞(せきそこ 重要な所の守塁)・斥候(うかみ)・防人(さきもり)・駅馬(はいま)・伝馬(つたわりうま)を置き、鈴契(すずしるし)(駅馬・伝馬を利用する際に使用)を造り地方の土地の区画を定める。
(2のA)
 京では坊(まち)ごとに長(おさ)一人を置き、四つの坊に令(うながし)一人を置き、戸口(へひと)を管理し、正しくないことをする者を監督せよ。その坊令(まちのうながし)には、坊の中で行ないが正しく、しっかりして時務に堪える者をあてよ。里坊(さとまち)の長(おさ)には、里坊の人民で清く正しくつよい者をあてよ。もしその里坊に適当な人がなければ、近くの里坊から選んでも差支(さしつか)えない。
(2のB)
 およそ畿内とは、東は名墾(なばり)の横河(よこかわ)よりこちら、南は紀伊の背山(せのやま)よりこちら、西は明石の櫛淵(くしふち)よりこちら、北は近江の楽浪(さざなみ)の逢坂山(おうさかやま)よりこちらを指す。
(2のC)
 郡(こおり)は四十里あるものを大郡とし、三十里以下四里以上を中郡、三里を小郡とする。郡司(こおりつかさ)には国造の中で、性質が清廉で時務に堪える者をえらんで、大領(おおみやっこ)・少領(すけのみやっこ)とし、聡明でつよく、書算に巧(たく)みな者を主 政(まつりごとひと)・主帳(ふびと)とせよ。
(2のD)
 駅馬・伝馬を支給されるのは、駅鈴・伝符に記された規定の数に従う。
(2のE)
 諸国と関には鈴契(すすしるし)を支給される。これは長官(かみ)が管理するが、長官が無ければ次官(すけ)が行なう。

その第三。
 初めて戸籍・計帳・班田収授の法をつくる。
(3のA)
 五十戸を里とし、里ごとに里長を一人置く。戸口(へひと)を管理し農桑(のうそう)を割当て、法に違反する者を取り締まり、賦役(ふえき)を督励することをつかさどれ。もし山や谷が険しく、人稀(まれ)なところでは、ついでの良い所に設けよ。
(3のB)
 田は長さ三十歩、広さ十二歩を段とする。十段を町とする。段ごとに租稲(たちからのいね)二束二把、一町につき租稲二十二束とする。

その第四。
 従来の賦役(えつき)はやめて田の調を行なう。
(4のA)
 絹・絁(ふとぎぬ 目の荒い絹)・糸・綿は土地の事情によっていずれかを選べ。田は一町に絹一丈、四町に一匹、一匹の長さは四丈、広さ二尺半、絁は二丈、二町で一匹。長さ広さは絹と同じ。布は四丈、長さ広さは絹・絁と同じ。一町で一端、別に戸ごとの調をとる。一戸に粗布(あらぬの)一丈二尺、
(4のB)
 調の副物(そわりつもの)の塩・贄(にえ)(土産品)は土地の事情によりいずれかを選べ。
(4のC)
 官馬(つかさうま)は中級のものであれば、百戸につき一匹、良馬(よきうま)なら二百戸に一匹、その馬の代りに布なら一戸に一丈二尺、
(4のD)
 武器は各自、刀・甲(よろい)・弓・矢・幡(はた)・鼓(つづみ)を出せ。
(4のE)
 仕丁(つかえのよぼろ)はもとの三十戸ごとに一人であったのを改めて、五十戸ごとに一人をとり、各官司に割当てる。五十戸で仕丁一人の食糧を負え一戸に庸布(ちからしろぬの)一丈二尺、庸米五斗を出させる。
(4のF)
 釆女(うねめ)は郡の少領(すけのみやっこ)以上の者の姉妹や子女で、容貌端正の者を奉れ。従丁一人、従女二人を従わせる。百戸で采女一人の食糧を負担せよ。そのための庸布・庸米は皆仕丁に准ずる」と。


《真説古代史・近畿王朝草創期編》(162)

「天武紀・持統紀」(77)


筑紫君薩夜麻とは誰か(18)
(をち)を恋うる嬬(つま)の歌(11)
「薩夜麻=明日香皇子」!!


(5月1日:隠居さんのコメントにより、たいへんな間違いを書いたことが分かりました。その部分を削除しました。)

 「送従弟蕃游淮南」の読解が思いがけず長くなってしまった。「越を恋うる嬬の歌」に戻ろう。

 私はこれまで明日香皇子と筑紫君薩夜麻は別人であると考えていた。つまり、次のように考えていたのだった。

 明日香皇子は「州柔の戦」(陸戦)の倭軍総帥であり、その戦で戦死した。一方、薩夜麻は「白村江の戦」(海戦)の倭軍総帥であり、その戦で惨敗して唐の捕囚となった。

 しかし、次のような疑念はあった。
 明日香皇子は麻氐良布神社の祭神であり、筑紫一帯で崇敬されていた人物であった。『日本書紀』が九州王朝隠しを最重要方針として編纂されているとしても、九州王朝の史料が盗用されているのだから、この崇敬されていた人物が『日本書紀』に影も形もないことをいぶかしく思っていた。

 古田さんも当初は明日香皇子と筑紫君薩夜麻は別人と考えていたようだ。そして、663(天智2)年3月に派遣された将軍の一人である三輪君親戚呂(みわのきみねまろ)を明日香皇子に比定していたという。古田さんはその自説を「自ら建て、自ら否定」していく経緯を記録している。自説の修正するに当たっても、キチンと論理的である。

 わたしは本稿の当初においては、これを「三輪君根麻呂」に当てていた。その理由は、次の三つだった。

〈その一)
 彼は「避城と州柔城の戦」において「中軍」の第二に加わっている。

(その二)
 従来、この「三輪」は「大和の三輪」と考えられてきたが、「筑紫の三輪」もある。夜須郡だ。甘木の隣に当っている。

(その三)
 「君」であるから、「大王」に当る。明日香皇子が「大王」と呼ばれているのと相応している。(皇子の「母」からは「王」「君」と〝呼ばれ″ている。)

 けれども、自稿を再思三考するうちに、この「三輪の君」説には、幾多の「欠陥」があることを認めざるをえなかった。次のようだ。

第一
 人麿が、この「三輪君根麻呂」に対して、当人に対し(199、「壬申の乱」へと〝転 化″)、母親に対し(196、「明日香皇女」 へと〝転化″)、妻に対し(194、「泊瀬部皇女忍坂部皇子に獻る」に〝転化″)、当人の殯宮に対し(167「日並皇子尊」へと〝転化″)、当人の父君(甘木の大王)追慕に対し(四五、「軽皇子」に〝転化″)、さらに後述の「舎人の歌二十三首」をふくめ、この「明日香皇子」その人へと、人麿の「作歌エネルギー」は集中している。

 これがもし、「三輪の君根麻呂」のような〝余人″に対するものであったならば、肝心の「筑紫の君、薩夜麻」に対する歌を、人麿は作らなかったのか。この疑問だ。

 もし作っていれば、「万葉の巻一、二、三」の編者はなぜそれを利用しなかったのだろうか。これが疑問だ。

第二
 同じく、もしこの根麻呂が「明日香皇子」だったとしたら、肝心の「筑紫の君薩夜麻」が全く「祭神」などの形で伝承されていないこととなろう。これも、不自然だ。

第三
 根麻呂には「死亡」「捕囚」などの点、全く不明である。

第四
 「壬申の乱」ならぬ「避城と州柔城の戦」を歌った歌(199)において、「吾妻の国」 すなわち、毛野の君等に対する〝呼びかけ″に成功したことが語られているけれど、その発議者、すなわち〝呼びかけ人″として、「筑紫の一部たる三輪」の大王(「君」)では、役不足だ。バランスがとれないのである。

 私が明日香皇子と筑紫君薩夜麻は別人と考えた理由の一つは明日香皇子は戦死したと思い込んでいたことである。私は明日香皇子についていくつか誤解をしていたようだ。そのことを正木裕さんの論文「明日香皇子の出征と書紀・万葉の分岐点」で教えられた。「明日香皇子の戦死」もその誤解の一つであった。199~201番歌を誤読していたのだ。特に反歌201番。(原文改訂部分は正しい原文に戻した。)

埴垣の池の堤の隠沼の行方を知らに舎人はまとふ

 私は「行方を知らに」を死者への哀悼と自らの喪失感をこめた言葉ととらえ、「どこに行ってしまわれたのでしょうか」と解釈していた。長歌(199番)の「百濟の原ゆ 神葬り … 城上の宮を 常宮と … 鎭まりましぬ」という葬儀の描写から、戦死としか考えられなかったからだった。しかし、「行方を知らに」は素直に「行方が分からないので」と解するべきだろう。つまり、明日香皇子は行方不明だった。

 上の引用文で、古田さんは『万葉集』に薩夜麻の影も形もないことをいぶかしく思っている。先ほど指摘したように、逆に『日本書紀』には明日香皇子の影も形もない。

 このように考えてくると、俄然、「薩夜麻=明日香皇子」という等式が浮かび上がってくる。古田さんの論証を読んでみよう。

では、真相はいかに。

 わたしがあらかじめ、一番想定しやすい人物、「筑紫の君、薩夜麻」を除いて、思考してきた、その思考の原点にあやまりがあった。それは次のようだ。

(A)
 わたしは薩夜麻を以て「倭国(九州王朝〉の天子」と見なしていた。ために「大王」や「王」に非ず、としたのである。

 けれども、これをさらに精思すれば、次の問題が存在する。

 薩夜麻は、倭国の『天子』の系列という家柄に生れていたとしても、実際に『天子の位に即く儀礼』を行なったあと、戦陣に臨んだかどうかは、不明である。逆に、その即位の礼を〝対唐・新羅戦の勝利後″に期して出陣して行った。そういう可能性もあろう。

 すなわち、「薩夜麻は、大王に非ず。」という命題は決して確立してはいなかったのである。

(B)
 次は、薩夜麻の「捕囚場所」の問題だ。わたしの思惟は次のように進展してきた。

 (その一)太宰府。
 日本書紀は、彼の「捕囚場所」が記載されていなかったため、白村江の敗戦後、唐軍が筑紫に来たったとき、彼を「捕囚」として連れ去ったか、と考えた。しかしこれは「薩夜麻の妃(皇后)の歌」の発見によって、否定された。

 ここで「薩夜麻の妃(皇后)の歌」と言われているのは3329番(13巻)のことである。これはすでに「みどりこの母の歌(5)」de取り上げている。

 (その二)白村江。
 右の歌では、この年(662。或は3)の「九月」を決戦の時点と称して、彼(薩夜麻)が出陣していったことが、くりかえし強調されている。従ってわたしは彼の「捕囚場所」と「捕囚時期」を白村江の海戦に「比定」したのであった。

 けれども、右の歌で明示され、強調されているのは「決戦時点(海戦)の予告」だけだ。これはおそらく「風と潮のデ一夕」にもとづいて〝算出″され、〝予定″されたところであろう。

 それ故、この歌からは、彼(薩夜麻)の出発(出陣)時点は何等表示されてはいなかったのである。

 (その三)避城と州柔城。
 倭王武が次のようにのべていること、著名である。

 「昔より祖禰(そでい)躬ら甲冑を擐(つらぬ)き、山川を跋渉し、寧處に遑(いとま)あらず。(中略)義士虎賁(こほん)文武功を効(いた)し、自刃前に交わるとも亦顧みざる所なり。」(宋書倭国伝)

 この立場からすれば、筑紫君薩夜麻は、倭国の三軍(前軍・中軍・後軍)を率いて、対唐・新羅交戦の陣頭に立っていた。だからこそ「敗戦の混乱」の中で「捕囚」となったのではあるまいか。

 近畿天皇家は、日本書紀の中で「颯爽(さつそう)たる、悲劇の英雄」としての薩夜麻を描くことを欲しなかった。軍丁(大伴部博麻)の身を奴隷に売って、先立ち帰国した「卑劣漢」として描いた(持統4年10月)。その字面も、帰国時に(天智10年11月)「薩野馬」と記して彼を〝恥かしめ″た。それが近畿天皇家の意思の表現だった。

 すなわち、彼は「白村江の海戦」ではなく、すでに「避城と州柔城の陸戦」のさいに、その消息を断った。そして「捕囚の身」となっていた。その可能性が高いのである。

 そのような、「薩夜麻の悲劇」に対して、九州の本国(筑紫)ではこれを深く悲しんだ。そしてその壮烈な、若々しさに感動した。それが、数々の「人麿作歌」を生む原動力、根本のエネルギーとなったのではあるまいか。

 このように考えてくると、やはり当初から、もっとも抱きやすかったイメージ、「明日香皇子=筑紫君薩夜麻」という命題が、合理的(リーズナブル)だったようである。もちろん「断定」はできないけれど、一番理性ある人々を納得させうる仮説だ。わたしには、そう思われる。

 その「薩夜麻を悼む人磨作歌」が大量に「盗用」された。そして近畿天皇家への讃歌として、万葉の心臓部とされたのであった。
 「白村江の戦」のとき、薩夜麻が天子ではなかったという仮説は正しいと思う。その当時の九州王朝の天子は「伊勢王」であった。つまり薩夜麻は天子ではなくいまだ皇子であった。

(伊勢王については『「天武紀」の伊勢王(1)』『「天武紀」の伊勢王(2)』を参照してください。ただし、伊勢王にまつわる事柄では私にはまだよく分からない点がいくつかある。いくつか修正が必要かも知れない。もし考えがまとまったら再論しようと思う。)

 以上、古田さんは「断定はできないけれども」と慎重だが、私は「薩夜麻=明日香皇子」と断定してよいと思う。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(161)

「天武紀・持統紀」(76)


筑紫君薩夜麻とは誰か(17)
(をち)を恋うる嬬(つま)の歌(10)
唐水軍の出立地(6)


 「島夷」についての結論をまとめると次のようになる。

 正史に現れる「島夷」は全て「禹貢」の「島夷」と同じで、揚州の辺境地またはそこの民を指している。『春秋左氏伝』では「島夷」代わりに「東夷」を用いているが、「禹貢」の「島夷」と同じ意味で使われている。そしてその「島夷」の地は、春秋時代の国名で言えば、「越(をち)」がそれに当たる。

 では最後の問題、次の初めの2行をどう解読するのが正しいのだろうか。


島夷は九州の外
泉館は三山に深し


 前々回、私は次のように書いた。

 (上の2行に続く4行について)「白村江の戦」を題材にしているという解読が正しいのなら、(上の第1行)の解釈としては、王維は「島夷」を「倭人(国)」という意味で用いているし、「九州」で「唐」を表わしていると考えて、何の不都合もないと思った。

 この問題についての古田さんの見解を聞いてみよう。

 まず上の2行目について、王維が「島夷」を「倭人(国)」という意味で用いていると解することが正しいことを示すもう一つの論拠と考えている。

 「泉館」ハッキリ言って〝温泉〝ですよ。中国ではただの湧水でも客が集まるらしいが、日本では温泉でなくちゃ客は来ない。その温泉旅館が蓬莱など三山にアチコチある。これは「日本だ、日本だ」と一生懸命に言っているのですね。「泉館の三山」でしょ、泉館は三山の内にあるでしょ。島夷は九州の内にある。と、ここの文脈からいって、そうとらざるを得ない。

 越(島夷)に温泉があったかどうかは分からないが、少なくともそこが「三山に深し」という表現には当てはまらないことは確かだろう。王維は「島夷」を「倭国」という意味で用いていることはいよいよ確かだと思える。

 上の引用文で古田さんは「島夷は九州の内にある」と述べている。つまり古田さんは「九州」は唐ではなく、日本の「九州島」を指していると考えている。そして「島夷九州外」を「島夷の九州は遠地にある」と解釈している。その論拠を次のように説明している。

 「島夷は九州の外」これを「中国の外側」ととるのが普通の解釈。しかし、そうとるなら、そんなことは分り切ったことじゃないですか。内側と思っている奴はどこにも居ない。「島夷」という言葉だけで、中国から見て海外にあたることは自明です。それをわざわざ詩のまんなかにバンとはめ込むのはバカげている。

 これもダブルイメージの使い方であって、もとは「島夷は九州の外」という言葉・用例は王維以前にすでにあるのですよ。諸橋の注に淮南子(えなんじ)からの引用としてすでにある。それを利用しながらさらにダブルイメージで言おうとしているのは、「島夷の九州は遠地にある」ということ。そうでないと詩のあそこの言葉に合わない。

 「島夷」という言葉から「中国から見て海外にあたることは自明」という即断は出来ないことは既に述べた。「島夷は九州の外」という用例が王維以前にすでにあるという後半で示されている論拠はどうだろうか。

 「諸橋の注に淮南子(えなんじ)からの引用としてすでにある。」

 「諸橋」というのは『大漢和辞典』のことだろう。このような場合、古田さんは必ずその該当部分を転載して示している。いま利用している資料は講演録。その講演ではそれが省かれていたようだ。私はこのことを確かめたいので、昨日図書館に行って調べてみた。

 「外」を「遠地」あるいは「遠い」と解釈する論拠だから、まず『大漢和辞典』の「外」を調べた。

①そと。ほか。
 …(ヌ)遠地…
②とほい。

 確かに「外」には「遠地」あるいは「遠い」と言う意がある。しかし、その注の中には淮南子からの引用文はなかった。「⑥よそにする。ほかにする。とりのぞく。」の項に淮南子からの引用文があった。もちろん、島夷や九州とは無関係の文である。念のため「島夷」・「九州」も調べてみた。該当するような引用文はなかった。{淮南子からの引用文」というのは古田さんの思い違いだろう。

 以上より、「島夷九州外」を単純に「島夷は九州(唐)の外」と解釈するのと「島夷の九州は遠地にある」と解釈するのと、どちらが正しいのか、この段階では私には明確に判断できない。…と言う私のようなものを想定して、古田さんは言う。(以下の引用文では理路をたどるのに不要と思われる部分はカットした。)

 こう言っても、なおかつ世間には「そんなことでここの九州が九州島のことだとは決められないよ」とガンバル人がおられるかも知れぬ。そこで私は一つの論証を発見したことを報告したい。

 その論証のあらましは次のようである。

 王維の全詩に「九州」は4回現われる。そのうちの2回は「唐全土」という意味で使われている。それ以外の二回の九州が「送晁監帰日本」と「送従弟蕃游淮南」の九州である。

 また王維の詩の中で「異民族の国へ行く人を送る詩」が全部で29編ある。その中で九州が使われているのは、やはり「送晁監帰日本」と「送従弟蕃游淮南」だけである。この2回について、古田さんは
「この二回の「九州」を今までの注釈者たちは「全世界九州」とやってきたが…」
と述べているが、これは正確さを欠く。正しくは次のようになる。

 「全世界九州」とは騶衍によって拡大解釈されたものである。「送晁監帰日本」の九州については、「唐全土」では理解できないので、この「全世界九州」のことだろうと解釈されてきた。しかし、これが実は日本の「九州島」を指していることは既に論証されている。(詳しくは「王維の詩『送晁監帰日本』について(1)」 「王維の詩『送晁監帰日本』について(2)」 「王維の詩『送晁監帰日本』について(3)」をご覧下さい。)

 「送従弟蕃游淮南」では従来はこの詩に詠まれている戦いは「開元20年(732)から21年(733)に渤海・靺鞨国と紛争を生じ、唐が遠征軍を派遣した事件」とされている。従って、ここでは渤海・靺鞨国が「島夷」であり、九州は「中国全土」と解釈されていると思われる。つまり、「島夷九州外」は単純に「島夷は九州の外」と読むことになる。

 他の外国へ行くときは「九州」を意識しないで、出てくるのは文句なしに日本を指すと思われる場合だけなのか?(中略)その(ほかの)ときは「九州」とは使わないで、日本列島のときだけ「九州」。これ以外に使われた例がない。(中略)この二例の「九州」は、いずれも九州島の「九州」と考えざるを得ない。この論証を「九州唯二の論証」と名付けたのです。

(中略)

 夷蛮を歌った詩二十九編に「九州」が二回しか出てこない。出てくるのは対象が日本の場合だけ。これは「九州」が指すのは全世界ではなくて、九州島をさすからである。九州島をさすのは、そこに字・紫宸殿があった。これは天子を称した勢力の宮殿があったことを示す証拠。さらにもうひとこと言っておきますと、あの従弟蕃の白村江の場合には倭国の九州(直接支配領域の自称)で、だから「罪を問う」根拠になるのだが、いまの阿倍仲麻呂送別の場合はどうか。(中略)今の阿倍仲麻呂が帰ると言った時代にはもう地名の「九州」になっている。歴史的な意味は変っていることもつけ加えさせていただきます。

 王維が用いている「島夷」が倭人を指すことを示す強力な証拠がもう一つあった。この講演録の最後に〔質疑応答の部での追加〕という項があり、そこで「島夷」が使われている王維のもう一つの詩が取り上げられている。まだ解読途中のようで、古田さんは慎重な姿勢を示しているが、私はこれは決定的な証拠だと思う。そのまま引用しておく。

 ごく最近見つけた王維の詩をご紹介したい。それはこういう詩なんです。

「徐郎中を送る」王維

(前略)
島夷、露版を伝え
江館鳴騶を候す
卉服諸吏と為り
珠官本州を拝す
(後略)


 これは中心部分のみを写したのですが、全体の詩の意味は徐郎中が長安以外のところへ赴任して行くのを送ったもの。行く先は南中という淋しいところで、健康にも良くないところらしい。それで早く長安に帰ってきて欲しいというような意味の詩なんですね。贈る言葉にしては、なんかこう「もう、早く帰ってこいよ」みたいな、贈る言葉。その詩の真ん中にこの部分が出てくる。この詩は『続国訳漢文大成』にも出てくるんですが、内容は「平凡としか言えない」としか、さすがの釈清潭さんも書いてない。

 私は詩のこの部分を見て、やはりハッキリ言えば阿倍仲麻呂のことを述べているのじゃないかと感じたのですね。露版というのは報告書、報告書でも完成した、しっかりしたものではなくて、直書のまま、つまり形を整えたのではなくて、自筆で手書きしたままの報告書を言うらしい。日本から来た使いはそんな報告書を持ってきたらしい。

 「江館鳴騶を候す」というのはどういうことかはちょっとよく分りませんが。次の「卉服諸吏と為り、珠官本州を拝す」、ひとりのことを二行に分けて書いてあるだけですね。日本人が唐の官僚になっているというので、それはヤッパリ阿倍仲麻呂だろう。他にもいたかも知れませんが、王経が挙げる筆頭としては阿倍仲麻呂だろう。だから私は、従来言われてないが、これは阿倍仲麻呂と見たい。

 仲麻呂と徐郎中の関係については、この詩では分りませんが、徐郎中という人は身体があまり丈夫でなかったのか、「早く帰ってこいよ」が主旨。そこに日本人が官僚になって良い位置になっているとある。島夷でも高い地位になっているのだから、アンタなんか、また陽の目を見るのは当たり前だろうといっているのかも知れませんね。

 マア私もまだ関係がよく分っていない、二、三日前に見つけたばかりだから。しかしここは阿倍仲麻呂のことだと思う。そして日本古代史に関係する事柄を詠んだ詩はまだまだありうるという気がしている。

《真説古代史・近畿王朝草創期編》(160)

「天武紀・持統紀」(75)


筑紫君薩夜麻とは誰か(16)
(をち)を恋うる嬬(つま)の歌(9)
唐水軍の出立地(5)


(なんだか、再び「番外編」と呼ばなくてはいけないような内容になってきたが、表題と内容との乖離にはあまりこだわらないことにしよう。)

 前回では新唐書までの正史では「島夷」は全て「禹貢九州」の揚州あたりを指していることを確認した。では「東夷」の方はどうだろうか。

【正史に現れる「東夷」】

 実は『尚書(書経)』に「東夷」が一例ある。

『尚書』:1件
「周書」周官:
 成王既に東夷を伐つ。肅慎 來賀す。王 榮伯をして「賄肅慎之命」を作らしむ。


 この編はこの前書きだけで、本文は失われているという。これだけでは、東夷を伐った結果粛慎が來賀したのか、二つの事績が別事項なのか不明だが、前者と考えるのが妥当だろう。また、「左伝」の「昭公9年」条に次の記事がある。

肅慎・燕・亳、吾北土也。 「(武王が殷を滅ぼしたあと)粛慎・燕・亳(はく)は我が国の北領となった。」

 これについて、〈全集〉の注は次のように述べている。

「粛慎は現遼寧省沈陽市から吉林省にかけての地域。燕は北京市附近、亳は現陳西省三原県附近といわれているが、確かではない。この地とすれば、宗周の北限となるが、西周時代として考えると、南に偏している。」

 少し問題点があるようだが、ここの「東夷」は現在の中国の東北部(北朝鮮の北方一帯)を指していることになる。

『春秋左氏伝』:10件
 僖公四年
 齊人執陳轅濤塗。
「齊の人が陳の大夫、轅濤塗を執えた。」
 秋,及江人,黄人,伐陳。
「秋、〔公が〕江の人・黄の人とともに陳を伐った。」

 陳轅濤塗謂鄭申侯曰,師出於陳鄭之間,國必甚病,若出於東方,觀兵於東夷,循海而歸,,循海而歸,其可也…
「陳の轅濤塗が鄭の大夫申侯にいうには『この大軍が陳と鄭とをまかり通られるならば、この両国とも課役で大いに困ります。もし東方に出て、東夷の者どもにも兵威を見せ、海に沿うて帰るならばお互に結構ですが』。申侯『それはよい考えですな』。…)


 これが「東夷」の初出記事である。斉が楚を伐ったときの話で、轅濤塗(えんとうと)のこの提言を申侯が斉公に告げ口をする。これが斉公の不興をかい、濤塗は執えられ、陳は討伐された、という話になっている。

 「左伝」には「東夷」があと9例ある。その記事は次の条に現れる。

僖公十九年・文公五年・文公九年・襄公二十六年・襄公二十九年・昭公四年・昭公五年・昭公十一年・哀公十九年

 すべて「伝」の中で使われている。「哀公十九年」条は「経」がなく「伝」だけである。「哀公十九年」条その該当部分は次の通りである。(他の条は省略する。)

秋,楚沈諸梁伐東夷,三夷男女,及楚師盟于敖。
「秋、楚の沈諸梁が東夷を伐った。三夷(三種類の夷)の男女が楚の軍と敖の地で盟った。」


 この後、あの呉と越の争いの話になる。

 他の条については省くが、「左伝」の「東夷」は明らかに全て「禹貢」の「島夷」と同じである。〈全集〉は「東夷」を「越」の地に比定している。〈全集〉の「春秋地図」の該当部分を転載しておく。

呉越地方

 越は楚の真東にある。「島」と「東」の漢音が同じことでもあるので、地理上の意味を付して、「島夷」を「東夷」と言い替えたのではないだろうか。

 轅濤塗の進言の中に
「東夷の者どもにも兵威を見せ、海に沿うて帰る」
とあるが、これをよんでふと思ったことがある。この場合の出港地は呉と越の間の湾(現在の杭州湾)と思われる。古い時代から重要な港として使われていたようだ。もしかすると、ここが「白村江の戦」での唐の水軍の出港地ではなかっただろうか。

『史記』:3件

五帝本紀第一/ 帝堯
 以變東夷:四睾而天下咸服。 堯立七十年得舜,...


周本紀第四
成王既伐東夷,息慎來賀,王賜榮伯作賄息慎之命。


楚世家第十
 紂為黎山之會,東夷叛之。


 これらの「東夷」を司馬遷がどういう意味で用いたかは分からないが、なんだか変だ。②は『尚書』の1件とまったく同じで、そこからの引用だろう。ここの「東夷」は中国の東北部を指している。

 それに対して、①・③はそれぞれ「堯の事績」・「楚の興亡の記録」だから、そこの「東夷」は揚州あたりを指すことになる。

 司馬遷は①・②・③の「東夷」全てを同じと扱っているようだ。このあたりから「東夷」を中国の外(東方)の異民族という意味に変わっていったらしい。

『漢書』:5件
紀第六/ 元朔元年
 ...軍衞青出雁門,將軍李息出代,獲首虜數千級。東夷薉君南閭等[一]服虔曰:「穢貊在辰韓之...

天文志第六
 ...,華山以西。壬癸,常山以北。一曰,甲齊,乙東夷,丙楚,丁南夷,戊魏,己韓,庚秦,辛西夷...

地理志第八下/ 燕地 ...帚?多,至六十餘條。可貴哉,仁賢之化也!然東夷天性柔順,異於三方之外,[八]師古曰:..

揚雄傳第五十七下/ 長楊賦
 太階,解在東方朔傳。」「其後熏鬻作虐,東夷畔,...

王莽傳第六十九上
 越裳氏重譯獻白雉,黄支自三萬里貢生犀,東夷王度大海奉國珍,匈奴單于順制作,去二名,...


 私には原文を正確に読む知識がないが、「東夷」が朝鮮半島にまで拡大解釈されてきたことが分かる。

『後漢書』:9件
紀第一下/ 建武二十年
 見前書。乙未,徙中山王輔為沛王。 秋,東夷韓國人率眾詣樂浪内附。

紀第一下/ 光武帝 中元二年
 二年春正月辛未,初立北郊,祀后土。東夷倭奴國王遣使奉獻。東夷倭奴國王遣使...

 東夷列傳第七十五
 因王其國。百有餘歳,武帝滅之,於是東夷始通上京。王莽簒位,貊人寇邊。

...即使者,譯則譯人。故國俗風土,可得略記。東夷率皆土著,憙飲酒歌舞,或冠弁衣錦,器用俎...

東夷列傳第七十五/ 夫餘
...浮水上,東明乘之得度,因至夫餘而王之焉。於東夷之域,最為平敞,土宜五穀。出名馬、赤玉、...

...玉匣付玄菟郡,王死則迎取以葬焉。 建武中,東夷諸國皆來獻見。二十五年,夫餘王遣使奉貢,...

東夷列傳第七十五/挹婁
便乘船,好寇盜,鄰國畏患,而卒不能服。東夷夫餘飲食類(此)皆用俎豆,東夷夫餘...

東夷列傳第七十五/ 高句驪
...作不足以自資,故其俗節於飲食,而好修宮室。東夷相傳以為夫餘別種,故言語法則多同,而跪拜...


東夷列傳第七十五/
…回頑薄之俗,就略之法,行數百千年,故東夷通以柔謹為風,異乎三方者也。苟政之所暢…


 ここで「東夷」に倭国が加わえられた。これ以後、全ての正史はこの拡大された意味で「東夷」を用いることになった。

 以上、正史しか用いていないので、正しい経緯をつかめたかどうか、心もとない。正史以外の資料も用いると、もっと違った経緯が加わるかも知れないが、取りあえずこれでよしとしておこう。(間違ったことがありましたら、ご教示ください。)