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《真説古代史・近畿王朝草創期編》(159)

「天武紀・持統紀」(74)


筑紫君薩夜麻とは誰か(15)
(をち)を恋うる嬬(つま)の歌(8)
唐水軍の出立地(4)


 「送従弟蕃游淮南」の次の部分が「白村江の戦」を題材にしているということを確認した所で横道に入ったのだった。本道に戻ろう。

(1) むしろの帆もていささか罪を問い
卉(くず)の服きたるは盡く擒となる
帰り来たりて天子にまみえ
爵を拝して黄金を賜う


 ところで、上の部分はその直前の2行と密接に関連している。

(2)
島夷は九州の外
泉館は三山に深し


 この二つの部分にそれぞれに無関係の解釈をすることは文脈からみて不当であろう。古田さんの講演では(2)「島夷」と「九州」の検討から始まり、その結果から(1)の解明にと話が進んでいる。私は(1)の方の古田説にはすんなりと納得できた。(1)が「白村江の戦」以外の戦闘を題材にしているということが論理的に示されない限り、私にとってはこの詩の解釈は終わっている。もちろん「渤海・靺鞨国と紛争」説は破綻しているので、それを蒸し返すことは不当である。

 つまり私は、(1)が「白村江の戦」を題材にしているという解読が正しいのなら、(2)の解釈としては、王維は「島夷」を「倭人(国)」という意味で用いているし、「九州」で「唐」を表わしていると考えて、何の不都合もないと思った。しかし、この考えは古田さんが述べていることと食い違うし、どうもすっきりしない。そこで「禹貢」を読み始めたのだった。

 さて、「島夷」について古田さんは次のように述べている。

 まず「島夷」と「卉服」。『書経』の「尚書」には「島夷皮服」「島夷卉服」という言葉が登場し、私は大阪の朝日カルチュアの講演など何回も使ってきていますが、この「島夷」はもちろん「卉服」に見覚えがあった。皮服というのは動物の皮で作った服。卉服の「卉」は特定の植物だという解釈もあるが ― 入谷さんの読みは「くず」になっていますね ― 「百草」或は一般的には草の類を編んで作った服。そういう服を着て、島に住んでいる東夷、東方の蕃族。「東夷」にもいろいろある、島に住んでいるのも、半島(朝鮮半島)に住んでいるのもある。ここは島に住んでいる東夷。「東夷南蛮……」というように南なら蛮といいますものね。注釈にはいろいろ書いてありますが、後人の解釈だから、原文に即して解釈する必要がある。その島夷は卉服を着ている。『尚書』に「島夷卉服」というのだから、中国人にだって卉服や皮服を着る人がいてもよいが、マア島夷独特のものだったのだろう。

(中略)

 「島夷」という言葉だけで、中国から見て海外にあたることは自明です。

 「禹貢」を読んだ結果、「夷皮服」は「夷皮服」の「原文改訂」であることを知った。また、「禹貢九州」に現れる全ての「夷」は「九州」内の辺境民を示すとしか考えられない。私には「島夷卉服」だけから、(2)の「島夷」を「倭人(国)」とする論理には納得できない。私にとっては「島夷」が「中国から見て海外にあたることは自明」ではない。

 ここで、中国の正史(『新唐書』まで)の中での「島夷」の使われた方の変化を、つまり「島夷」が「中国から見て海外にあたることが自明」と言えるような使われ方があるのかどうかを調べて見ることにした。ついでに「東夷」についても。

 しかし、手元には乏しい資料しかないので手を拱いていた。「窮すれば通ず」。ネットはすごい。「漢籍電子文獻資料庫」というサイトと出会った。そこで検索(本文)したら、次のようであった。(私には正確な読下しはできないので原文のまま転載する。間違った判断をしていたら、ご教示ください。また、手元に『春秋左氏伝』があるので、それを加える。)

【正史に現れる「島夷」】

『春秋左氏伝』:なし

『史記』:1件
夏本紀第二段
 …右秉白旄」,詩云「建旐設旄」,皆此牛也。島夷卉服,


 「夏本紀」だから『書経』からの引用で、「禹貢」と同じ場所を示している。「島夷皮服」の方は引かれていないことに注意したい。

『漢書』『後漢書』『三国志』:なし

『魏書』:12件
太祖紀第二
天興六年
 …是年,島夷桓玄廢其主司馬宗而自立,僭稱大楚。...
天賜元年
 是歳,島夷劉裕起兵誅桓玄。

高祖紀第七上
太和三年
 是年,島夷蕭道成廢其主劉準而僭立,自號曰齊。

高祖紀第七下
太和十八年
 是月,島夷蕭鸞殺其主蕭昭業,立昭業弟昭文。

世宗紀第八
景明元年
 是冬,島夷蕭衍起兵東下,伐其主蕭寶卷。

列傳第八十四
 陽鳥攸居,厥土惟塗泥,厥田惟下下,所謂「島夷卉服」者也。周禮,職方氏掌天下之地,
列傳第八十五
 海夷馮跋 島夷劉裕島夷桓玄...
 島夷劉裕 子義符 義隆段...
 島夷劉裕,字輿,晉陵丹徒人也。
列傳第八十六
 島夷蕭道成 島夷蕭衍島夷蕭道成,..
 ...島夷蕭衍,字叔達,亦晉陵武進楚也。

 詳しくは立ち入らないが、「島夷」の後に付されている人名を調べると、全て「禹貢九州」の「揚州」あたりの地を指していることが分かる。

『隋書』:1件
列傳第二十五/ 崔仲方 ...夏癸、殷辛尚不能立,獨此島夷而稽天討!伏度朝廷自有宏謨,但芻蕘所見,...

 「崔仲方」は北魏荊州の刺史で、後に隋朝の大臣になった人物のようだ。上の記事は南朝最後の王朝・陳との戦いを取り上げていると思われる。

『舊唐書』:1件
卷三十六 志第十六/ 天文下
 ...故其分野自豫章東達會稽,南逾嶺徼,為越分。島夷蠻貊之人,聲教之所不洎,皆係于狗國。...


 「自豫章東達會稽」で明らかなように、ここの「島夷」も揚州地方を指している。

『新唐書』:2件
志第二十一/ 天文一
 ...南河寖遠,自豫章迄會稽,南逾嶺徼,為越分。島夷蠻貊之人,聲教所不曁曁,皆係于狗國云。...

列傳第二十七
 ...南方謂北為「索虜」,北方指南為「島夷」。其史於本國詳,佗國略,往往訾美失傳,...


 1件目は『舊唐書』とほとんど同じである。

 2件目は、私には意味が明確にたどれないが、冒頭の部分は「南の方では北を索虜と呼び、北の方では南を指して島夷としている」といった意味だろう。

 以上、正史に現れる「島夷」は一貫して「禹貢九州」の揚州あたりを指している。

 以上から、私は王維の詩の中の「島夷」は王維独自の使用例と考えるほかなかった。

 ところで、「島夷」でネット検索をしていたら、『「唐詩一万首」の中の日本』という記事に出会った。「唐詩一万首」という本を用いて、詩の中で使われている「蓬莱、九州、扶桑、日本、島夷、卉服、陽谷」を拾い出すというすごいことをやっている。読んでみたら「古田史学の会」の方だった。

 それによると唐詩の中の「島夷」は王維の外に2例あるという。その2例については
「残り二つの東夷は東夷行という、施肩吾という人の詩であり、海辺や采珠という文字も見えるが、詩の雰囲気が私には日本の感じがしないでいる。」
と述べている。「島夷」ではなく「東夷」となっているが、漢字変換ミスでないとすると、唐詩の中の「島夷」は王維の例だけと言うことになる。
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今日の話題

未曾有の大震災に私たちはどう対処すべきか


 東日本大震災勃発後に新たに記事をアップするとき、被災者の皆さんへ届ける言葉を書こうとした。しかし、どのように言葉をつむいでも、私の胸中の思いに見合う言葉が見つからず、ただ黙すほかなかった。ただ私の表現力が貧しいことの現れに過ぎないのだが、「言語に絶する」とか「言葉を失う」とかいう表現がけっして大げさなものいいではないことを知った。

 日本中の、いや世界中の人たちが心を痛めているさなか、許し難い暴言に出会って、今度は怒りで胸がつぶれる思いをした。そう、あの石原慎太郎の「天罰」発言だ。おおよそ次のようだった。

「日本人のアイデンティティは我欲。この津波をうまく利用して我欲を1回洗い落とす必要がある。やっぱり天罰だと思う。」
「我欲に縛られて政治もポピュリズムでやっている。それを(津波で)一気に押し流す必要がある。積年たまった日本人の心のあかを」
「残念ながら無能な内閣ができるとこういうことが起きる。村山内閣もそうだった」

 この典型的なポピュリズム政治屋がまたまた得意の後出しじゃんけんで、都知事選に立候補した。自分がポピュリズムで政治をやっていることも自覚できないファシストに都知事を続けさせるなど、とんでもない。このファシストを糾弾する文章を書きたいと思っていたところ、「澤藤統一郎の憲法日記」がキチンと手厳しく批判してくれていた。3月14日~3月26日まで、連続執筆しています。

 ところで、東京新聞(25日付夕刊)に久しぶりに辺見庸さんのエッセイが掲載された。この度のような未曾有の大災害に際して私たちはどう対処すればよいのかを考えるための示唆に富んだエッセイだ。全文転載しよう。ちなみに。辺見さんは宮城県石巻市のご出身です。(辺見さん、無断転載をお許し下さい。)

非情無比にして荘厳なもの
日常の崩壊と新たな未来
           辺見庸

 風景が波とうにもまれ一気にくずれた。瞬間、すべての輪郭が水に揺らめいて消えた。わたしの生まれそだった街、友と泳いだ海、あゆんだ浜辺が、突然に怒りくるい、もりあがり、うずまき、揺さぶり、たわみ、地割れし、ごうごうと得体の知れぬけもののようなうなり声をあげて襲いかかってきた。その音はたしかに眼前の光景が発しているものなのに、はるか太古からの遠音でもあり、耳の底の幻聴のようでもあった。水煙と土煙がいっしょにまいあがつた。それらにすぐ紅蓮の火柱がいく本もまじって、ごうごうという音がいっそうたけり、ますます化け物じみた。家も自動車も電車も橋も堤防も、人工物のすべてはたちまちにして威厳をうしない、プラスチックの玩具のように手もなく水に押しながされた。ひとの叫びとすすりなきが怒とうのむこうにいかにもか細くたよりなげに、きれぎれに聞こえた。わたしはなんどもまばたいた。ひたすら祈った。夢であれ。どうか夢であってくれ。だが、夢ではなかった。夢よりもひどいうつつだった。

      ■■

 それらの光景と音に、わたしは恐怖をさらにこえる「畏れ」を感じた。非情無比にして荘厳なもの、人智ではとうてい制しえない力が、なぜか満腔の怒気をおびてたちあがっていた。水と火。地鳴りと海鳴り。それらは交響してわたしたちになにかを命じているようにおもわれた。たとえば「ひとよ、われに恐懼せよ」と。あるいは「ひとよ、おもいあがるな」と。わたしは畏れかしこまり、テレビ画面のなかに母や妹、友だちのすがたをさがそうと必死になった。これは、ついに封印をとかれた禁断の宗教画ではないか。黙示的光景はそれじしん津波にのまれた一幅の絵のようによれ、ゆがんだ。あふれでる涙ごしに光景を見たからだ。生まれ故郷が無残にいためつけられた。知人たちの住む浜辺の集落がひとびとと家ごとかき消された。親類の住む街がいとも簡単にえぐりとられた。若い日に遊んだ美しい三陸の浜辺。わたしにとって知らぬ場所などどこにもない。磯のかおり。けだるい波の音。やわらかな光…。一変していた。なぜなのだ。わたしは問うた。怒れる風景は怒りのわけをおしえてくれない。ただ命じているようであった。畏れよ、と。

 津波にさらわれたのば、無数のひとと住みかだけではないのだ。人間は最強、征服できぬ自然なし、人智は万能、テクノロジーの千年王国といった信仰にも、すなわち、さしも長きにわたった「近代の倨傲」にも、大きな地割れがはしった。とすれば、資本の力にささえられて徒な繁栄を謳歌してきたわたしたちの日常は、ここでいったん崩壊せざるをえない。わたしたちは新しい命や価値をもとめてしばらく荒れ野をさまようだろう。時は、しかし、この広漠とした廃墟から、「新しい日常」と「新しい秩序」とを、じょじょにつくりだすことだろう。新しいそれらが大震災前の日常と秩序とどのようにことなるのか、いまはしかと見えない。ただはっきりとわかっていることがいくつかある。われわれはこれから、ひととして生きるための倫理の根源を問われるだろう。逆にいえば、非倫理的な実相が意外にもむきだされるかもしれない。つまり、愛や誠実、やさしさ、勇気といった、いまあるべき徳目の真価が問われている。

 愛や誠実、やさしさはこれまで、安寧のなかの余裕としてそれなりに演じられてきたかもしれない。けれども、見たこともないカオスのなかにいまとつぜんに放りだされた素裸の「個」が、愛や誠実ややさしさをほんとうに実践できるのか。これまでの余裕のなかではなく、非常事態下、絶対的困窮下で、愛や誠実の実現がはたして可能なのか。家もない、食料もない、ただふるえる心ばかりの被災者の群れ、貧者と弱者たちに、みずからのものをわけあたえ、ともに生きることができるのか。すべての職業人がやるべき仕事を誠実に追求できるのか。日常の崩壊とどうじにつきつけられている問いとは、そうしたモラルの根っこにかかわることだろう。カミュが小説『ペスト』で示唆した結論は、人間は結局、なにごとも制することができない、この世に生きることの不条理はどうあっても避けられない、というかんがえだった。カミュはそれでもなお主人公の医師ベルナール・リウーに、ひとがひとにひたすら誠実であることのかけがえのなさをかたらせている。混乱の極みであるがゆえに、それに乗じるのでなく、他にたいしいつもよりやさしく誠実であること。悪魔以外のだれも見てはいない修羅場だからこそ、あえてひとにたいし誠実であれという、あきれるばかりに単純な命題は、いかなる修飾もそがれているぶん、かえってどこまでも深玄である。

      ■■

 いまはただ茫然と廃墟にたちつくすのみである。だが、涙もやがてかれよう。あんなにもたくさんの死をのんだ海はまるでうそのように凪ぎ、いっそう青み、ゆったりと静まるであろう。そうしたら、わたしはもういちどあるきだし、とつおいつかんがえなくてはならない。いったい、わたしたちになにがおきたのか。この凄絶無尽の破壊が意味するものはなんなのか。まなぶべきものはなにか。わたしはすでに予感している。非常事態下で正当化されるであろう怪しげなものを。あぶない集団的エモーションのもりあがり。たとえば全体主義。個をおしのけ例外をみとめない狭隘な団結。歴史がそれらをおしえている。非常事態の名の下で看過される不条理に、素裸の個として異議をとなえるのも、倫理の根源からみちびかれるひとの誠実のあかしである。大地と海は、ときがくれば、平らかになるだろう。安らかな日々はきっとくる。わたしはそれでも悼みつづけ、廃墟をあゆまねばならない。かんがえなくてはならない。

 最後のくだりを読んだとき、いやおうなく私は石原の教育行政を思っていた。いま東京都の学校は全体主義の圧制下にある。その不条理に「素裸の個として異議をとなえ」て、闘っている人たちがいることも、私(たち)は知っている。いまは、都民があのポピュリズム政治家を再選しないことを強く強く願うばかりだ。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(158)

「天武紀・持統紀」(73)


筑紫君薩夜麻とは誰か(14)
(をち)を恋うる嬬(つま)の歌(7)
番外編:「禹貢」を読む。(2)


 淮海は、惟れ揚州。彭蠡(ほうれい) 既に豬し、陽鳥(ようちょう)居(お)る攸(ところ)。三江 既に入り、震沢(しんたく) 厎(いた)し定め、篠蕩(しようとう) 既に敷く。厥(そ)の草は、惟れ夭(よう)。厥の木は、惟れ喬(きよう)。厥の土は、惟れ塗泥(とでい)。厥の田は、惟れ下の下。厥の賦は、下の上、上錯す。厥の貢は、惟れ金三品、瑤、琨(こん)、篠(しょう)、蕩、歯、革、羽、毛、惟れ木。島夷は、卉服(きふく)す。厥の篚(ひ)は、織、貝。厥の包は、橘柚、錫貢(せきこう)す。江海に沿いて、淮泗に達す。

ここに「島夷卉服」が出てくる。〈全集〉は「島夷」についての記述部分を次のように意訳している。
「海辺の異民族たちも、もとどおり草で作った衣服を着るようになった。籠に入れて献上するのは、細かい紵(あさ)の糸と貝がら。包んで献上するのは、橘(みかん)と柚(ゆず)。これらは、命令があった時だけ献上する。」

 「島夷」を「海辺の異民族」としている。冀州の項で引いたように、「島夷」の「島」について、〈集注〉は「海曲を島と曰う。」と書いている。これを踏襲した解釈だ。


 「曲」は日本語では「わ」「わだ」とも読み、それぞれ次のような意をもつ。(『広辞苑』より)

わ【曲・回】
山・川・海などの入りまがって一区域をなした所。み。永久百首「峰の―のむら草隠れきぎす鳴くなり」。「浦―」「島―」「川―」

わだ【曲】
(ワタとも)地形が入りまがっていること。また、そのところ。万葉集(1)「志賀のおほ―淀むとも」

 また、『漢和大字典』(博友社)には
「海中の小陸地。又は海中に突出せる陸地。」「半―」
とある。

 つまりここでの「島」は、現在私たちが使っている意味での島(海の中の小陸地)ではなく、海岸の曲がりくねった所を意味している。湾あるいは半島のような所。「禹貢地図」では江水の南の杭州湾(ハンチョウ湾)あたりだあろうか。江水と杭州湾にはさまれた半島かもしれない。

禹貢地図

 ところで、〈集注〉は冀州項の「鳥夷」を「原文改訂」の方の「島夷」ととって
「海曲を島と曰う。海島の夷、皮服を以て來貢す。」
と解説していたのに、ここの「島夷」については次のように論じている。

「島夷は、東南海島の夷なり。卉は、草なり。葛越木綿の屬なり。織貝は、錦の名。織りて貝の文を爲る。詩に曰く、貝錦とは是れなり。今南夷木綿の精好なる者も、亦之を吉貝と謂う。海島の夷、卉服を以て來貢す。而して織貝の精しき者は、則ち篚に入るる。包は、裹[つつ]むなり。小なるを橘と曰い、大なるを柚と曰う。錫とは、必ず錫命を待ちて而して後に貢す。歳貢の常に非ざるなり。張氏が曰く、必ず命を錫いて乃ち貢する者は、祭祀に供し賓客を燕するときは、則ち之を詔[まね]く。口腹の欲には、則ち令を出だし難し、と。」

 ここでは「東南海島の夷」と言っているが、その「島」は周囲が海に囲まれた「島」と主張しているように読める。冀州項の「島夷」とは別種と考えているようだ。冀州項では「島夷皮服」であり、揚州項では「島夷卉服」なのだから、別種と見るほかないのだろう。また、「卉」を木綿の一種と解している点が注目される。「草葉をまとった」というような未開人扱いをしているわけではない。

 それでは「東南海島」としてどこを念頭においていたのだろうか。

「周の(成王の)時、天下太平、越裳白雉を献じ、倭人鬯草(ちょうそう)を貢す」(『論衡』)

 ここに出てくる「倭人」を、古田さんは「九州の倭人」と言っているが、〈集注〉の筆者は、あるいはこの『論衡』の一文を念頭に浮かべていたかも知れない。この『論衡』の記事は後に再び取り上げることになるだろう。

 余談ながら、ネット検索で「台湾先住民族と日本人の脱植民化を考える」(報告者:中村 平(日本学術振興会特別研究員、京都大学人文科学研究所)という副題が付く論文に出会った。その中に、「第二期タイヤル民族会議第一回大会のパンフレット」からの引用ということで、次のような文が掲載されていた。

「人類学者王嵩山(ワンソンシャン)先生によれば、前史時代の文化の主人は台湾北部のタイヤル民族とサイシャット民族であり、台湾に到来した時期は最も早く、今から約五千から六千年前である」。
「太古よりわれわれは、南投の埔哺里以北の平地に、さらに海岸地帯まで住んでいた。尚書の禹貢揚州項によれば、『島夷卉服 厥篚織貝 錫貢』の記載があり、今から四千年以上も前に、既に夏禹と貿易関係を持っていた。当時、珠衣(ビーズのついた服)を貨幣として、あるいは着ていた人々はタイヤル民族しかいなかった」。

 つまり〈集注〉が言う「「東南海島」を「台湾島」としている。「織貝」を「珠衣(ビーズのついた服)」と解釈している点などから〈集注〉の解説を採用しているものと思われる。しかし、「禹貢」の「島夷」を台湾に比定するのは牽強付会の感を否めない。「夏」の時代に台湾の住民と中国の住民とが交易していた記録があるのかどうか、私には分からないが、上に挙げた『論衡』の記事が示すように、台湾と中国が交易していたこと自体はおおいにあり得ることだと思う。

 荊及び衡陽は、惟れ荊州。江漢 海に朝宗す。九江 孔(はなは)だ殷(ただ)し。沱濳(たせん)既に道し、雲土夢(うんどぼう) 乂(がい)を作(な)す。厥(そ)の土は、惟れ塗泥(とでい)。厥の田は、惟れ下の中。厥の賦は、上の下。厥の貢は、羽(う)、毛(もう)、歯(し)、革(かく)、惟れ金三品(かねさんぴん)、杶(ちゅん)、榦(かん)、栝(かつ)、柏(はく)、礪(れい)、砥(し)、砮(ど)、丹(たん)。惟れ菌(きん)、〔竹/輅〕(ろ)、楛(こ)、三邦 厄(いた)し貢し、厥(そ)れ名あり。包(ほう)し、菁茅(せいぼう)を匭(き)にす。厥の篚(ひ)は、玄(げん)、纁(くん)、璣(き)、組(そ)。九江 大亀を納錫(のうせき)す。江沱濳漢に浮びで、洛を逾え、南河に至る。

 「雲土夢」について、〈全集〉は「古文は雲夢土に作る」と注記している。つまりこれは韓信が謀られて捕縛されたときの舞台、あの「雲夢」のことである。

荊河は、惟れ豫州。伊洛瀍澗(いらくてんかん) 既に河に入る。滎波(けいは) 既に豬す。菏沢(かたく)を導きて、孟豬に被(こうむ)らしむ。厥の土は、惟れ壌。下土は、墳壚(ふんろ)。厥の田は、惟れ中の上。厥の賦は、上中を錯(まじ)う。厥の貢は、漆(しつ)、枲(し)、絺(ち)、紵(ちよ)。厥の篚は、繊纺(せんこう)。磐錯(けいさく)を錫貢す。洛に浮びで、河に達す。

華陽黒水は、惟れ梁州。岷嶓(びんは) 既に藝し、沱潛 既に道し、蔡蒙(さいぼう) 旅平(りょへい)し、和夷(わい) 績(せき)を厎(いた)す。厥(そ)の土は、青黎(せいれい)。厥の田は、惟れ下の上。厥の賦は、下の中、三錯す。厥の貢は、璆(きゅう)、鉄、銀、鏤(ろう)、砮(ど)、磬(けい)、熊(ゆう)、羆(ひ)、狐(こ)、貍(り)の織皮(しょくひ)。西傾(せいけい)より桓に因て走れ来たり、潜に浮び、沔(べん)を逾(こ)え、渭に入り、河を乱(わた)る。

 「和夷」の前後の文書を〈全集〉は次のように訳している。
「蔡山(さいざん)、蒙山(ぼうざん)に旅(りょ)の祭りが行なわれて(そこにおける)仕事は完成し、和夷の地の治水にも成功して、耕作が行なわれるようになった。」

 また揚州項に出てくる「三江」についての注では次のように述べている。
「三江を現在のどの川に当てるかについては、古来諸説がある。(中略)下の導水の条でも知られるように、禹貢の作者の揚子江下流域に関する地理的知識は、きわめて不完全である。西北地方(おそらく秦の国)の人の手になる地理書であるので、長江下流域の現実の地理と正しく比定できない部分があるのは、やむをえないことであろう。」

 〈集注〉は「和夷」についてのいろいろな説を紹介した上で
「覃懷[たんかい]・原隰、既に皆地の名なるときは、則ち此れ恐らくは地の名爲らん。或は地の名の水に因るも、亦知る可からず。」

 このようなわけで、「禹貢地図」にも「蔡蒙」や「和夷」の比定には「?」が付されている。

黒水西河は、惟れ雍州(ようしゅう)。弱水 既に西す。(けい) 渭汭(いぜい)に属(しょく)す。漆沮(しつしょ) 既に従う。澧水(ほうすい) 同じうする攸(ところ)。荊岐(けいき) 既に旅す。終南惇物(とんぶつ)より、鳥鼠(ちょうそ)に至り、原隰(げんしつ) 績(せき)を厎(いた)して、豬野(ちよや)に至る。三危(さんき) 既に宅(たく)し、三苗(さんびよう) 丕(おお)いに叙(じょ)す。厥(そ)の土は、惟れ黄壌(こうじょう)。厥の田は、惟れ上の上。厥の賦は、中の下。厥の貢は、惟れ球、琳、琅玕(ろうかん)。積石に浮びて、竜門西河に至り、渭汭(いぜい)に会す。織皮は、崐崘(こんろん)、析支(せきし)、渠(きょ)、捜(そう)。西戎(せいじゅう) 叙に即(つ)く。

 最後の「西戎」について文の〈全集〉の訳は次の通りである。
「(禹の功績によって)毛織物を着た崐崘、析支、渠、捜の西方の異民族の四つの国も、安定することとなった。」

 「鳥夷皮服」・「島夷卉服」と同様の書き方をすると「西戎織服」ということになろう。それぞれ、毛皮・木綿・毛織物を常用服に用いていた。はっきりと三様の異なる風俗が示されている。

 以上、「禹貢」には6通りの「夷」が登場している。まとめると
冀州……鳥夷
青州……嵎夷・萊夷
徐州……淮夷
揚州……島夷
梁州……和夷

 これらは皆、禹貢九州内の住民である。「島夷」だけを禹貢九州外の異民族であるする解釈は成り立たないと、私は思う。もちろんこの結論はあくまでも「夏書禹貢」という文書の中でのことである。「禹貢九州」から「禹貢九州」とは異なる「九州」概念が生まれたと同じように、後世には「島夷」という言葉で中国外の異民族を表わすようになることはおおいにあり得ることだろう。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(157)

「天武紀・持統紀」(72)


筑紫君薩夜麻とは誰か(13)
(をち)を恋うる嬬(つま)の歌(6)
番外編:「禹貢」を読む。(1)


 前回までは、古田さんの理論が納得できたので、古田さんの論述に従ってその説を再構成してきた。ただし、手元にある資料で間に合わしたので、古田さんが用いているものとは異なる資料を用いたところもある。

 そして今回は、最後に残った次の2行の解読に入る予定だった。

島夷は九州の外
泉館は三山に深し


 しかし、この問題についての古田さんの論述には、分からないことや疑問に思うことがあって、まとめあぐんでいる。そこで今回からは今までとは違った書き方をすることにした。いろいろ調べたり考えたりしたことと古田さんの論述とを対比しながら進めることにする。

 さて、始めて出会う知らなかった事柄がある。問題解明のキーワードの一つとなっている「島夷卉服」。この語の出典は「夏書」冒頭の「禹貢」である。この際原点に戻って、しっかりと勉強しておこうと思い立ち、「禹貢」を全部読んでみることにした。(ユニコードでなければ表示できない漢字が一杯で大変だったが頑張りました。)

 なお、「島夷卉服」でインターネット検索をしたら、いろいろ興味深い記事に出会った。それらも適時利用していく。特に「書經集註」という宋時代の注解書が全文公開されているのにはびっくりした。これを単に〈集注〉と呼ぶことにする。また、底本に使っている筑摩の世界古典文学全集を〈全集〉と略す。

 禹貢(うこう)

禹 土(ど)に敷き、山に随(したが)いて木を刊(き)り、高山大川を奠(さだ)む。


高山
 五岳〈嵩(すう)山、泰山、衡山、華山、恒山〉のこと。
大川
 四瀆(しとく)〈江水、黄河、淮水、済水〉のこと。

 高山大川によって各々の州の境界を定めたと述べている。以下、九つの州について、禹が治水の仕事をしつつ巡り歩いたという形式で記述される。

冀州 既に載す。壺口(ここう)より梁及び岐を治む。既に太原を修めて、岳陽に至る。覃懐(たんかい)より績を厎(いた)して、衡漳(こうしょう)に至る。厥(そ)の土(ど)は、惟れ白壌。厥の賦(ふ)は、惟れ上の上、錯(まじ)う。厥の田(でん)は、惟れ中の中。恒衛(こうえい)既に従い、大陸 既に作す。鳥夷(ちょうい) 皮服(ひふく)す。碣石(けっせき)を夾右(きょうう)して、河(か)に入る。

 以下、読解のための「注」として、地名については必要最低限の確認だけをする。また、物産品についても深入りしない。また、地図を見ながら読み進めると分かりやすいので、「禹貢地図」を再掲載しておく。

禹貢地図

 冀州は当時の都があった州である。その都が九州の中心である。倭国九州では紫宸殿があった太宰府ということになる。

 各州の領域と税制が書かれている。税には「賦」と「貢」の2種類がある。賦は中央が定めて取り立てる税であり、主として米穀が当てられている。貢は人民が献上するという性格の税で、各地の特産物が当てられている。また、その課税の額は上の上(第一等)から下の下(第九等)まで9等級がある。

 この項で目に付くのが「鳥夷皮服」である。〈全集〉の注によると、一般のテキストでは「島夷被服」となっているが、これは唐の衛包という学者による「原文改訂」だという。

 〈集注〉では「島夷皮服」となっていて、
「海曲を島と曰う。海島の夷、皮服を以て來貢す。」
と解説している。〈全集〉は
「恒水(こうすい)と衛水(えいすい)は、故の河道にもどり、大陸の地では耕作が可能となり、海辺の異民族たちも、もとどおり皮の衣服を着るようになった。」
と意訳している。〈集注〉と同じ解釈である。つまり、「原文改訂」の方を採用している。「もとどおり…」は意訳しすぎで、ただ単に「皮の服を着用している」でよいのではないか。

 原文通り「鳥夷」で解釈するとどうなるのだろうか。前後の文章と「鳥」とか「皮服」とかから考えると、むしろ恒山あたりの山の民だろう。

済河(せいか)は、惟れ兗州(えんしゅう)。九河 既に道(みち)し、雷夏 既に沢し、灉沮(ようしょ) 会同す。桑土 既に蚕し、是に丘を降り土に宅(お)る。厥の土は、黒墳。厥の草は、惟れ繇(よう)。厥の木は、惟れ条。厥の田(でん)は、惟れ中の下。厥の賦(ふ)は、貞(ただ)し。作すこと十有三載にして、乃ち同じ。厥の貢は、漆絲(しっし)。厥の篚(ひ)は、織文(しょくもん)。済漯(せいとう)に浮びて、河に達す。

 「篚(ひ)は・・・」は「籠に入れて差し出すものは・・・」と言う意。後に「包は…」という言い方が出てくるが、これは「包んで差し出すものという意である。

海岱(かいたい)は、惟れ青州。嵎夷(ぐうい) 既に略し、濰淄(いし) 其れ道す。厥の土は、白墳(ふん)。海浜(かいひん)は、広斥(こうせき)。厥の田は、惟れ上の下。厥の賦は、中の上。厥の貢は、塩絺(えんち)、海物(かいぶつ) 惟れ錯(まじ)う。岱畎(たいけん)の絲(し)、枲(し)、鉛、松、怪石。萊夷(らいい) 牧(ぼく)を作(な)す。厥の篚(ひ)は、檿絲(えんし)。汶(もん)に浮びで、済(せい)に達す。

 ここに出てくる「嵎夷」を、「?」つきながら、「禹貢地図」は朝鮮半島の北方に比定している。それに対して、『尚書正義』(唐時代の注釈書)が「東北は海に拠(また)がり、西南は岱に距(いた)る」と読み、渤海を起えて朝鮮半島の一部も青州に入るとしたことによるようだ。これも中華思想による拡大解釈の一つだろう。ちなにみ、〈全集〉は「海岱」を「東の海から泰山まで」と訳している。また、「倭夷のことで日本人である」とする説もあるという。この二つの説はどれも私にはまったく納得できない。

 「萊夷」については〈集注〉は
「萊夷は、顏師古(初頭の学者)が曰く、萊山の夷。齊に萊侯萊人有り、と。萊即ち今の萊州の地なり。牧を作すとは、言うこころは、牧放す可し。夷人は畜牧を以て生を爲す。」
と解説している。萊山がどこなのか確かめることができないが、私には「禹貢」に出てくる「夷」は全てそれぞれの州の辺境(中心の都から眺めて)の住人を示しているとしか読めない。

海岱及び淮は、惟れ徐州。淮沂(わいぎ) 其れ乂(おさま)り、蒙羽 其れ藝(げい)す。大野 既に豬(ちょ)し、東原 厎(いた)し平らぐ。厥の土は、赤戠墳(せきしょくふん)。草木は漸苞(ぜんほう)す。厥の田は、惟れ上の中。厥の賦は、中の中。厥の貢は、惟れ土五色、羽畎(うけん)の 夏翟(かてき)、嶧陽(えきよう)の孤桐(ことう)、泗浜(しひん)の浮磬(ふけい)、淮夷の蠙珠(へんしゅ)、曁(およ)び魚。厥の篚は、玄繊縞(ぜんせんこう)。淮泗に浮びて、河に達す。

 「淮夷」の位置は明白だ。「貢」が海産物なのだから、淮水の河口あたりの住民だろう。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(156)

「天武紀・持統紀」(71)


筑紫君薩夜麻とは誰か(12)
(をち)を恋うる嬬(つま)の歌(5)
唐水軍の出立地(3)


 王維の詩「従弟蕃の淮南に游ぶを送る」は題が示すとおり、表面上は王維と従弟蕃のやりとりが描かれている。しかし、裏面では手柄を立てながら報われなかった人を詠っている。そして、9行~12行にはある歴史上の事実が詠われているが、そこにもう一人の「禽」が暗示されている。誰だろうか。


むしろの帆もていささか罪を問い
卉(くず)の服きたるは盡く擒となる
帰り来たりて天子にまみえ
爵を拝して黄金を賜う


 おおよそ次のよう意になろう。

「敵対している国(いささか罪ある国)を服従させるために船団(むしろの帆もて)を組んで遠征した。そして敵兵(卉の服きたる)はことごとく捕虜となった。勝利を収めて帰還し、天子からねぎらいの盃を受け、褒美に黄金を賜った。」

 従来はこの戦いを、『趙殿成注王右丞集箋注』の説を取り入れて、「開元20年(732)から21年(733)に渤海・靺鞨国と紛争を生じ、唐が遠征軍を派遣した事件」としている。しかし、この遠征は失敗し、唐軍は何の成果も上げられずに帰還している。要するに敗戦したのだった。とても「爵を拝して黄金を賜う」ことなどあり得ない。この矛盾を趙殿成は次のように解決している。

「或いは疑う、この時、軍出でて功なし。いずくんぞ拝爵賜金のこと有るを得んや。無くんばすなわち、固(こ)に近からんか。蓋し、詩人の溢美(いつび)の語なり。」

 功がないのに褒美を貰うわけがない。それなのに従弟の蕃などが褒美を貰ったらしく描くのは、人間がいやしい(「固」)。詩人が誇大に美化した表現だ(溢美の語)。このように述べている。

 つまり、詩の内容が自説に合わないことを詩人のせいにしているのだ。三流どこの詩人ならいざ知らず、王維ほどの詩人がそのような詩を創るだろうか。これは濡れ衣ではないか。理性的な者なら、自説(仮説)を疑うべきであろう。

 趙殿成説にはもう一つ矛盾がある。隋・唐の高句麗攻めでは海軍も使われたようだが、渤海・靺鞨国攻めは陸戦だけではないだろうか。「むしろの帆もて」という詩句が浮いてしまう。もっともこのことについての私の知識は韓国歴史ドラマ(「ヨンゲソムン」とか「テジョヨン」)から得たものだから、確言はできない。

 ではここに記されている戦いは何なのだろうか。唐が「帰り来たりて天子にまみえ/爵を拝して黄金を賜う」ほどの大勝利を挙げた戦い。それに当てはまるのは「白村江の戦」しかないだろう。この場合だと「いささかの罪」とは「唐以外に九州を名乗り、天子を名乗る」罪であり、それを「むしろの帆もて」懲らしめるとなり、詩句の表現と矛盾しない。そして、その結果は「卉の服きたるは盡く擒と」なった。

 王維は8世紀前半の人で、「白村江の戦」は70年~80年ほども以前の事件ということになるが、そのことには別段不審はない。大日本帝国の敗戦は70年ほどの前のことになるが、今でもあの戦争にまつわることを盛り込んでいる詩はいくらでもいるだろう。しかも、王維の詩の場合は、「白村江の戦」を題材に取り上げるきっかけがあった。そして「白村江の戦」を詠い込みながら、「空しく天の際」に残るもう一人の「禽」を暗示することにその詩の重点がある。それは次のような歴史的事件が背景になっている。

 「白村江総の戦」での唐の司令官は劉仁軌であり、『日本書紀』に出てくる劉仁願は副将だった。劉仁願は大活躍しているが、あくまでも劉仁軌の指導の下での活躍だった。この二人の後日談は次のようだ。

 歳をとった劉仁軌は引退を願う上表文を出すが、引退は許されなかった。かえって高い役職を与えられている。そして垂拱元年(685)年に84歳で亡くなる。そのときの唐の実力者・則天武后は「廃朝三日」(朝廷の公務を3日間休み、功臣の死を悼むこと)という異例の待遇で死を弔った。劉仁軌は恵まれた一生を送った人と言えよう。

 ところが、その子の「濬(シユン)」のとき「垂拱2年(686)、酷吏のために陥れられ、殺され、妻子籍没(除籍、いなかったことにされる)」という憂き目に会う。しかし、その子の「冕(ベン)」は秘書省小監となり、「表して請い、仁軌の為に碑を立つ」と、一族の名誉回復を成し遂げた。これは玄宗皇帝の開元年間(713~741)のことであり、まさしく王維と同時代の出来事であった。これが王維に70年ほどの前の「白村江の戦」を思い起こさせたのだった。

 劉仁軌の一族は、一度は大変な目に会っているが、最後は名誉回復を遂げた。ところが「白村江の戦」で実質的な大活躍をし、勝利の直接の功績者であった劉仁願は、褒美をもらうどころか、高宗の総章元年(668)に姚州(ようしゅう)に流刑されるという憂き目に会っている。それも「高麗の戦で滞在が長すぎ、期日に遅れた」という変な理由でであった。王維がこの詩を作った頃には、劉仁願はすでに亡くなっていただろう。そして、仁願の一族は名誉回復されずに終わってしまっている。

 韓信を殺したのは高祖の皇后・呂后であった。劉仁願を流刑に処したのは誰だろうか。高宗の時代だが、実力者は皇后の則天武后だから、則天武后に流された。ここまで二人は符合している。劉仁願こそ「空しく天の際」に残っているもう一人の「禽」にふさわしい。

 見てきたようななんとか、になりそうだが、王維の詩作の経緯を想像してみよう。

 劉仁軌一族の名誉回復譚という同時代ニュースから「白村江の戦」を思い出し、悲劇の劉仁願を詠い込みたかった。王維がこの詩を書いた時代は、則天武后はもう死んでいて、玄宗皇帝の時代だった。しかし、まだ同じ王朝が続いているのだから、劉仁願は則天武后によって無実の罪に落とされたとは、表立っては書けない。そこで、最初に漢の時代の有名な韓信の話を暗示し、続いて汚名を着たままの劉仁願を暗示的に詠み込んだ。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(155)

「天武紀・持統紀」(70)


筑紫君薩夜麻とは誰か(11)
(をち)を恋うる嬬(つま)の歌(4)
唐水軍の出立地(2)


 次は冒頭の4行を読んでみよう。

書を読み復た騎射し
剣を帯びて淮陰に游ぶ
淮陰の少年の輩は
千里遠く相尋ぬ


 意外にも、ここには韓信のことが暗示されている。史記列伝に淮陰候列伝(第32)がある。これは韓信の伝記である。「淮陰侯韓信は淮陰の人である。」と書き始められている。

 韓信は漢の天下統一に多大な功績があったが、韓信が謀反を企てていると密告するものがいて、高祖に捕らえられてしまう。そのときの経緯は次のようである。(筑摩の世界古典文学全集「史記列伝」の現代語訳を引用する。)


 漢の6年(前201年)、上書するものがいで、楚王韓信が謀反したと密告した。高祖は陳平(ちんぺい)の計略を用い、天子の巡遊視察に名を借りで諸侯を呼び集めることとした。南方には雲夢(うんぼう)の沼沢地があるが、諸侯のもとに使者をやって「陳(ちん)に集まれ。わしは雲夢の旅行に出るつもりだ」と告げさせたが、実際は韓信の不意をつくつもりだった。韓信は気がつかなかった。高祖がまもなく楚に着くころになっで、韓信は兵をあげでそむこうかと考え始めたが、自分に何も罪はないのであるから、お上(高祖)におめどおりすることにしたものの、逮捕される恐れがあった。

 韓信に進言するものがあって、「鐘離昧(しようりまつ 韓信のところに身を寄せていた項羽の将軍)の首を斬って、お上におめどおりなさいませ。お上はきっとお喜びになり、心配はないでしょう」といった。韓信は鍾離昧にあって相談した。鍾離昧は「漢が楚を攻撃して領地をとりあげないのは、わしがあなたのところにいるからですぞ。もしわしをつかまえてそれで漢に媚びようとするなら、わしは今日にも死にましよう。だがあなたもすぐつづいで滅ぼされますぞ」と言い、それから韓信をののしった、「あなたは篤実なおひとではない。」そのあげく首をはねで自殺した。

 韓信はその首をもって陳で高祖に拝謁した。お上(高祖)は韓信をしばり、後方の草におしこめろと護衛兵に命じた。

韓信
「やはり人の言ったとおりだった。『すばしこい兎が殺されたあと、良い猟犬は煮殺される。空飛ぶ鳥がとりつくされると、りっぱな弓はしまわれる。敵国が破滅したあと、謀臣は殺される。』天下がすでに平定された今、わしが煮殺されるのも当然だ。」
お上
「きみが謀反したと密告するものがいたのだ。」

 かくてかせをはめられて、韓信は雒陽(らくよう)までつれて来られた。〔高祖 は〕韓信の罪をゆるして淮陰(わいいん)侯とした。

 この中に出てくる印象的な地名「雲夢(うんぼう)」は、「日は雲夢の林に落つ」と、王維の詩にも使われている。これもこの詩が韓信を暗示していることを示す語句である。

 雲夢はいまは湖北省孝感市雲夢県と呼ばれている。雲夢―淮南―淮陰を結ぶとほぼ直線で、淮南が中間点にあたっている。

 さて、この時の逮捕は「警告」と言う意味合いだったようで、韓信は殺されなかった。ところが後に、韓信は今度は本当に謀反を企て、高祖の皇后・呂后(りょこう)に殺されてしまう。

 漢の10年(前197年)、陳豨(ちんき 鉅鹿(きょろく)の太守で韓信と謀反の相談をしていた)ははたして反乱を起した。お上は自分で兵をひきいて出陣した。韓信は病気で従軍せず、内密に陳豨のもとに人をやり、「かまわず兵をあげなさい。わたしは今からきみを助けますぞ」といわせた。

 韓信はそこで、家臣といっしょに夜中に勅命だといつわって諸官庁の囚人労務者を釈放し、かれらをつれて呂后と皇太子(のちの恵帝)を襲撃しょうと、計画した。配置もすでにきまり、陳豨からの情報を待った。

〔そのとき〕韓信の家令で、韓信に対して過失があったものがいて、韓信は捕えて、かれを殺そうとした。家令の弟は大事件ですと上奏し、韓信の謀反の計画をありのまま呂后に密告した。呂后は〔かれ一人を〕召し出そうかと思ったが、もしかするとうまくいかないのを気づかって、首相の蕭何(しようか)と相談したすえ、人に命じてお上の所から来た使者だと称し、陳豨はすでに殺された、と報告させた。諸侯や臣下たちは、みな祝賀を述べた。首相は韓信をあざむいていった、
「病気ではあろうが、何とか無理にも参内して祝賀を申されたい。」
 韓信が参内すると、呂后は護衛兵に韓信をしばらせ、長楽宮の鍾室(しょうしつ)でかれの首を斬った。韓信は斬られるときに、
「わしは蒯通(かいつう)の策に従わず、女子どもにだまされたのが残念じゃ。天命であろうか」
といった。かくて韓信の三族は全員処刑された。


 冒頭の4行には明らかに、ここまで読んだものが「韓信を思いだす」仕掛けが仕組まれている。これが最終4行につながる。

 その4行は「新豊で酒盛をして青門へ帰ってきたら、夕日の空に舞う淋しい鳥がいた」と詠っている。「空しく天の際(はて)の禽をのこす」の「禽」とは、大功がありながら一族もろとも滅んでしまった韓信を指している。

 ところが、その「禽」が指し示す人物がもう一人暗示的に歌い込まれている。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(154)

「天武紀・持統紀」(69)


筑紫君薩夜麻とは誰か(10)
(をち)を恋うる嬬(つま)の歌(3)
唐水軍の出立地(1)


 唐水軍の出立地が中国の越だとすると、それは倭国将兵の捕囚地が越であることの重要な証拠の一つとなる。そこで、ちょっと横道に入るきらいがあるが、唐水軍の出立地についての古田さんによる論証を取り上げよう。

(「日中関連史の新史料批判 - 王維と李白」を教科書にしますが、これは講演録でした。いろいろな話題が盛り込まれていてかなり複雑なので、必要な部分だけを私なりに再構成します。すべて古田さんの論考による記事なので、いちいち「古田さんよれば」というような断り書きを省きます。)

 王維に「送従弟蕃游淮南」(従弟蕃の淮南に游ぶを送る)という詩がある。次のようである。(読下し文は王維研究家・入谷仙介氏による。)

書を読み復た騎射し
剣を帯びて淮陰に游ぶ
淮陰の少年の輩は
千里遠く相尋ぬ
高義はおのずから隠し難く
おさまれる代にいずくんぞ沈み隠れん
島夷は九州の外
泉館は三山に深し
むしろの帆もていささか罪を問い
卉(くず)の服きたるは盡く擒となる
帰り来たりて天子にまみえ
爵を拝して黄金を賜う
忽ち鱸魚(ろぎょ)の檜(なます)を思い
また滄州の心あり
天は蒹(おぎ)と葭(よし)の渚に寒く
日は雲夢の林に落つ
江城に楓の葉はちり
淮の上(ほとり)に秋の砧(きぬた)を聞く
帰るを送るは青門の外
馬車は去くこと駸駸たり
新豊の樹にこころむすぼれて
空しく天の際(はて)の禽をのこす


 まず、「九州」について。

 九州については「王維の詩『送晁監帰日本』について(2)」で学習済みだ。詩「送晁監帰日本」の中に出てくる九州は日本の九州を指していた。今度の場合はどうだろうか。今度の場合も「九州」の解明がこの詩を解読するカギとなる。

 ところで「九州」という語が表わす概念は四通りあるようだ。それをまとめておく。


 禹帝が中国国内を九つの地域に分割した。これを「禹貢(うこう)九州」と呼んでいる。

 後に、戦国時代の学者騶衍(すうえん)が「禹貢九州」を拡大解釈した九州。中国の外に同じような世界が九つあり、その全世界の中心が中国であるとする。いわば「全世界九州」説。

 現代の学者による説で、これも「禹貢九州」の拡大版で唐時代の中国全土が本来の「九州」だとする。つまり「中国全土九州」説。

 「日本の九州島」説

 この四つの九州のうち、どれが該当するかが問題になっている。

 「送晁監帰日本」のとき、「禹貢九州」についてはよく分からないままやり過ごしてしまっていた。『詩経国風・書経』(筑摩書房版世界古典文学全集)が手元にあるので調べてみた。

『書経』の中の一書・「夏書」の冒頭
禹貢 第一
 禹別九州。随山濬川。任土作貢。


(読下し文)
 禹 九州を別ち、山に随い、川を濬(さら)え、土(ど)に任じて、貢(こう)を作る。

(現代語訳)
 禹は、九つの州の境界を定め、山々を巡り、川を浚(さら)って深くし、その土地土地の産物によって、朝廷への献上物の種類と額とを定めた。

 この後、九つの州それぞれについて、その地理・風土・産物・貢物などの記述が続く。それをもとに作成された「禹貢九州」の地図が掲載されていたので、それを転載しておく。

禹貢地図

 この地図を見ると、上の③説は正確でなくダメなことが一目瞭然だ。次の唐時代の地図(中国旅行情報局から拝借)と比べてみよう。

唐時代地図

 「禹貢九州」は唐全体の四割ぐらいだろうか。呉は「禹貢九州」に入っているが越は入ってない。現代の広西省や福建省は入ってない。もちろん、雲南省や新疆が入っているわけがない。あくまでも本来の「九州」は「「禹貢九州」であり、これを改編することは許されない。

 さて、私は中国の地理には暗い。地名を聞いただけでは地図でどこなのか指し示すことが出来ないものが多い。そこで次に、詩に出てくる地名を確認しておこうと思う。

淮南(えなん)
 現在の安徽省淮南市で、今は漢音で「わいなん(中国語読みでファイナン)」と呼ばれているようだ。
淮陰
 江蘇省淮安市。2001年以前は淮陰市と呼ばれていた。

 淮南市・淮安市・南京市を結ぶと正三角形が出来る。その三角形の中に中国で4番目に大きい洪沢湖(こうたくこ)がある。洪沢湖は淮水(現在は淮河と呼んでいる)が形成した湖で、淮水はそこを流れ出て揚子江(長江)に合流している。その三角形は「禹貢地図」では淮水と江水の間の海よりの地帯になる。

 「禹貢地図」では淮水は東西に流れている。現在は南北に流れる。これには次のような事情がある。

「淮河はかつて淮安から東の黄海へと流れていたが、黄河の流路が南へ移り淮河の流路を乗っ取ったために淮河は溢れ出して南の長江へと流れるようになった。このときあふれた水で形成されたのが、淮安西部の市境に広がる中国第4位の大きさの湖・洪沢湖である。」(「ウィキペディア」より)

滄州
 滄州市は北京市の南に位置している。その2市の中程よりやや南の位置に天津市がある。「禹貢地図」では「泰山」の少し北の「済水(せいすい)」のあたりだろうか。

 次に詩の内容に立ち入ってみよう。

 いきなり最後の4行から。

従弟蕃の淮南に游ぶを送る
・・・・・・
帰るを送るは青門の外
馬車は去くこと駸駸たり
新豊の樹にこころむすぼれて
空しく天の際(はて)の禽をのこす


 王維は淮南へ行く従弟の蕃のために別れの宴をはった。酒宴の場所は長安の南の郊外にある新豊。ここは酒の名産地でその酒を「新豊の酒」といって王維の詩によく出てくる。日本の「灘の生一本」のようなブランドもの。そこで帰り道に青門、これも固有名詞で長安の東南の門である。そこを通って帰って行った。

この詩は文学的表現の裏に政治的表現が暗喩されている複雑な詩である。いずれ最終行に隠された意味を問うことになるだろう。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(153)

「天武紀・持統紀」(68)


筑紫君薩夜麻とは誰か(9)
(をち)を恋うる嬬(つま)の歌(2)
「越」とはどこか。


 194番・195番が「明日香皇子とその妻」の関係を詠った歌だということを確実に示す決め手は「越」がどこをなのかを明らかにすることである。

妹を見ず越の國邊(くにべ)に年經れば我が情(こころど)の和(な)ぐる日もなし(4173)
しなざかる越の君らとかくしこそ楊(やなぎ)蘰(かづら)き楽しく遊ばめ(4071)
み雪降る越の大山行き過ぎていづれの日にかわが里を見む(3153)


 上の歌を読むとき、振り仮名が付いていなくとも、だれでも「越」を「こし」と読むだろう。

 では195番の「越野」はどうだろうか。全くの素人の私は、振り仮名がなければ、「こしの」と読んでいただろう。では、この場合はどうして「こし」ではなく「をち」と読むのだろう。

 4071番・3153番にあるように、「こし」の枕詞は「しなざかる」あるいは「み雪降る」である。194番・195番では「玉垂乃越」・「玉垂之越野」であり、「たまだれの」という枕詞が使われている。これについて〈大系〉の頭注は次のように解説している。

「玉を緒につらぬいて垂れるものをいうか。ヲ(緒)にかかる枕詞。」

 「玉垂れの」という語句を含む歌は他に三歌ある。

玉垂の小簾(をす)の間通しひとり居て見る験(しるし)なき暮月夜(ゆふづきよ)かも(1073)
玉垂の小簾の隙(すけき)に入り通ひ來(こ)ねたらちねの母が問はさば風と申さむ(2364)
玉垂の小簾の垂簾(たれす)を行きかちに寝(い)は寝(な)さずとも君は通はせ(2556)


 これは「玉垂」を「ヲ(緒)にかかる枕詞」という解説が正しいことを示している。人麿は「越」を「こし」ではなく「をち」と読ませたかった。つまり人麿は、これは「越(こし)の国」ではないと強調しているのだ。

 では、その「越(をち)」とはどこか。〈大系〉は194番の「越」を「越智」と表記して、
「奈良県高市郡高取町越智」
に比定している。原文が「越」なのにわざわざ「越智」と表記している意図は明らかだ。「越」を奈良県に持ってきたいのだ。そしてこれが「定説」となっている。

 ここで199番の「百濟の原」のときの理路を思い出そう。人麿は「大和なる百濟の原」とか「葛城の百濟の原」とか、比定地を示すための限定語を付けなかった。ただ「百濟」と言えば朝鮮の「百濟」と考えるのが「常識」だからだ。

 「越智」は奈良県だけではない。愛媛県にもある。「越智」で地図検索してみたら、愛媛県今治市の北方にある島嶼の中に「越智郡」とあった。

 しかるに、人麿は「大和なる越」とか「高市なる」とか「伊予なる越智」とか、限定語を付していない。

 そのような限定がなければ「越の国」と考えるのが「常識」だが、人麿は「そうではない、ヲチと読むのだ」と明記している。ではただ「ヲチ」と言った場合、「常識」ではどこを指すことになるだろうか。この問題でも古田さんの真骨頂が発揮される。以下は、古田さんの文章をそのまま引用しよう。

 もし右のように「越(こし)の国ではない。」という「配意」をもって文字構成している点から見ると、少なくとも「日本海岸」は視野に入っていることとなろう。

 そのような視野にあって「越(をち)」と言えば、一体どこを指すのが「常識」だろうか。

 越
   ヱツ 〔集韻〕 王伐切
   ヲチ
  〈国の名〉
  春秋、十四列国の一。姒姓。子爵。夏の少康の子が会稽に封ぜられた處。今、新江省紹興
  縣治。浙江省杭縣以南、東、海に至る地を有す。
  (下略)          (諸橋、大漢和辞典)

 わたしたちは普通「呉越(ごえつ)同舟」などと言うけれど、この「えつ」というのは、いわば「漢音」系であり、「呉音」系では「をち」なのである。もちろん、当の「越」の地における人々の発音は、本来「をち」であろう。

 右によってみれば、東アジア世界で、いきなり「をち」と言えば、どこを指すか。

 (α)中国の浙江省の「をち」
 (β)大和の中の「一小字、地名」としての越智。

 おそらく、問題なく(α)の方だ。これに対し、「揚子江下流域の」などといった「冠詞」は必要がない。

 しかし、この有名な「越」ではなく、日本列島中の一地域の中の〝些々たる小地名″である「越智」を指そうと思えば、やはり「大和の」とか、 「高市なる」といった冠辞は「必須」なのではあるまいか。

 ここで人麿が指しているのは、まざれもなく、「呉越の地」の「越」なのである。

 「呉越同舟」では「越」を「えつ」と読み習わしてきているので、私にとってこの解答は「常識」外のことであった。私の「常識」も当てにならない。心しよう。

 では、なぜ浙江省の「をち」が歌い込まれているのだろうか。この問題でも古田さんの博覧強記ぶりに脱帽です。

 伊豫国越智郡の大領之先祖、越智の直、百済を救わんが為に、遣わして軍を到らしむるの時、唐兵に擒にせられ、其の唐国に至る。
 我が国の八人、同じく一洲に住む。一観音菩薩像を償ひ得(え)、舟上に安置す。
 各(おのおの)誓願を立て、彼の観音を念ず。爰(ここ)に西風に随ひ、直ちに筑紫に来る。
 朝庭之を聞き、召して事を問い、天皇乗じて楽する所を申さ令(し)む。是に於て越智の直、郡を立て仕えんと欲す。天皇、可とす。
 然る後、郡を建て寺を造り、即ち其の像を置き、時より今の世に迄(まで)、子孫相繼ぎて歸敬す。
 (又、今昔物語に見ゆ。)
(「日本霊異記、上」兵灾に遭ひ、観世音菩薩を信敬し、現報を得る縁、第十七。訓み下し、古田)

 案ニ越智直守興、斉明天皇七年従軍シテ天智天皇三年歸朝セシ事、越智氏族、考證ニ詳ナリ、郡領神事ノ條参看セヨ。
(三島大祖家譜資料、第三、従兵事)(40ペ一ジ)

 按ニ豫陽盛衰記ニハ陸戦ノ状ニ書成サレタレトモ、實ハ三島水軍ノ將トシテ渡韓シ、天智帝二年八月唐水軍ト海戦シテ大敗セシガ如シ、
 (同右、41ページ)

 越智氏は、三島水軍の名家であるが、白村江の戦や避城~州柔の戦にも参加したようである。右の「豫陽盛衰記」には、白村江の戦における劉仁願や劉仁軌の唐軍との交戦状況が戦記物風に描写されている。

 その大敗の結果、中国(唐)側で捕囚生活を送った者もあり、それが右の観者霊験譚の形をとって伝承されたものと思われる。

 その捕囚地を「越(をち)」とし、「越智(をち)の姓(漢字当て)の源由」とするものがある。(巻末資料「豫章記」参照。)

 木村賢司氏(古田史学の会、会員)はその越智氏の子孫として、水野孝夫氏の協力をえて巻末資料を提供して下さった。

 ともあれ、右の「日本霊異記」の捕囚地(一洲)は、「呉・越」の地である可能性はきわめて高いのではあるまいか。なぜなら、唐の水軍(白村江の戦の主力)は揚子江河口付近を出発地としていたようであるから。(「日中関連史の新史料批判 - 王維と李白」『九州王朝の論理』明石書店刊、参照)

 その「一洲」から「西風」に乗じて筑紫に帰着した、という描写は、「呉」よりもむしろ「越」たとえば寧波(明州)などを思わせる。

 なぜなら「黒潮の分流(対馬海流〉」という海流の方向から考えれば、その方がより〝自然″であると思われるからである。

 「唐の水軍(白村江の戦の主力)は揚子江河口付近を出発地としていた」という説の論証も知りたいと思う。幸い『九州王朝の論理』が近所の図書館にあることが分かったので、借りてくることにした。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(152)

「天武紀・持統紀」(67)


筑紫君薩夜麻とは誰か(8)
(をち)を恋うる嬬(つま)の歌(1)
194番・195番歌


 194番・195番歌を、古田さんは『万葉集』中もっとも哀切な歌だと言う。次のような歌である。

泊瀬部皇女忍坂部皇子に獻る歌一首幷に短歌

(194)
飛鳥の 明日香の河の 上つ瀬に 生ふる玉藻は 下つ瀬に 流れ觸らばふ 玉藻なす か寄り かく寄り 靡合(なびか)ひし 嬬(つま)の命の たたなづく 柔膚(にきはだ)すらを 劔刀(つるぎたち) 身に副(そ)へ寐(ね)ねば ぬばたまの 夜床も荒るらむ〈一に云ふ、あれなむ〉 そこ故に 慰めかねて けだしくも 逢ふやと思ひて〈一に云ふ、君もあふやと〉 玉垂の 越智(をち)の大野の 朝露に 玉裳はひづち 夕霧に 衣は沾(ぬ)れて 草枕 旅宿(たびね)かもする 逢はぬ君ゆゑ

  反歌一首

(195)
敷栲(しきたへ)の袖かへし君玉垂(たまだれ)の越野(をちの)過ぎゆくまたも逢はめやも〈一に曰ふ、越野に過ぎぬ〉

右、或る本に曰はく、河島皇子を越智野に葬る時、泊瀬部皇女に獻る歌そといへり。日本紀に曰はく、朱鳥五年辛卯の秋九月己巳の朔の丁丑、浄大參皇子川島薨りましぬといへり。


(〈大系〉による大意)
(194)
明日香河の上流の瀬に生える藻は流れて下流の瀬に触れあっている。その玉藻のようにああ寄りこう寄りなびき合った夫の尊が、肉付きのいい柔らかい膚さえも身に添えて寝ることがないので、夜の寝床も荒れているのであろう。それ故に、心を慰めようとしても慰め得ずに、もしや皇子にお逢いするかしらと思って、越智の大野の朝露に裳の裾は泥にまみれ、夕霧に衣はぬれ通って、草を枕の旅宿をなさることであろうか。もはやお逢い出来ない皇子であるのに。

(195)
敷栲の袖をかわして共に寝た皇子は越野を過ぎて去ってしまわれた。またも逢うことがあろうか。ありはしないのだ。

 「上つ瀬に 生ふる玉藻は 下つ瀬に 流れ觸らばふ 玉藻なす か寄り かく寄り 靡合(なびか)ひし」と、196番と同じような修辞が用いられているが、一読して明らかなように、今度は「みどりこ」の描写ではない。この後、「嬬(つま)の命・・・」と官能的な描写が続く。夫婦の営みが描かれているのだ。

 ところで、題詞に出てくる人物の出自は次の通りである。「泊瀬部皇女(天武の皇女)と「忍坂部皇子(天武の第九皇子)は〔木穀〕媛娘(かじひめのいらつめ)を母とする同母姉弟(あるいは兄妹)である。題詞はこの官能的な長歌が同母姉弟(あるいは兄妹)という関係の二人に献じられたと言っている。

 しかし、『万葉集』編纂者はそのような題詞を付けておきながら、左注で河島皇子(天智の皇子で泊瀬部皇女の夫)の死に際して「泊瀬部皇女に獻る」挽歌だと示唆している。題詞には挽歌と言うことを示す言葉は皆無なのに、何ともちぐはくな題詞と左注である。

 以上のことが学者・研究家たちを悩ませて、従来からいろいろと議論が行われてきたようだ。しかし、題詞や左注は「第二資料」であり歌そのものが「第一資料」であるという私(たち)の立場では、この問題をなんら悩む必要がない。

 女性には「嬬の」という最高位の身分を示す称号が使われている。例えば、『万葉集』での使用例では「中皇」がある。九州王朝の天子である。『日本書紀』では大王位を継ぐはずだった草壁を「草壁皇子」と呼び、皇太子に準じる高市を「後皇子」と呼んでいる。『続日本紀』でも草壁を「日並知皇子(または尊)」と追号している。

 そして、長歌冒頭の「飛鳥の 明日香の河」を勘案すれば、そう、私(たち)にとってはこの歌が「明日香皇子とその妻」の関わりを歌っていることは明らかだ。

 そしてまた、〈大系〉は男性の方ははっきりと死者として意訳している。つまり挽歌として扱っている。しかし、歌で使われている詩句を正しく捉えれば、男性の生死は不明と読めるはずだ。

 長歌の「逢ふやと思ひて・・・旅宿(たびね)かもする 逢はぬ君ゆゑ」のくだりを、〈大系〉は「旅宿」をしているのは女性の方と意訳しているが、私は次のような意だと考える。

「また逢えるだろうかと思いつつ・・・旅寝をしていらっしゃるでしょうか。逢うことのできない貴方ゆえに(そのように貴方のことを思いやっています。)

 また短歌の方の「またも逢はめやも」を、〈大系〉は「またも逢うことがあろうか。ありはしないのだ。」と、「やも」を反語として訳している。つまり、男の方は亡くなっているという想定している。

 私は「やも」は「疑問の係助詞」であり、「またお逢いすることだできるでしょうか」という意だと思う。

 私は知人から聞いたことがある。大日本帝国による無謀な戦争で兵士として駆り出されたお父上が戦死したとの連絡とともに、国から遺骨が届けられたが、骨壺の中には石ころが一つ入っていただけだったと。お母上は夫の戦死を信じられず、最後まで夫の生存を信じて帰りを待っていたとのことだ。このような悲劇は数え切れないほどあったことだろう。

 ここで私は「岸壁の母」を思い出した。この歌のモデルの女性は端野いせと言う。息子(養子)の新二は満洲国に渡り関東軍石頭予備士官学校に入学する。そこでソ連軍の攻撃を受けて中国牡丹江にて行方不明となった。以下、ウィキペディアから引用する。

 終戦後、いせは東京都大森に居住しながら新二の生存と復員を信じて昭和25年(1950年)1月の引揚船初入港から以後6年間、ソ連ナホトカ港からの引揚船が入港する度に舞鶴の岸壁に立つ。昭和29年(1954年)9月には厚生省の死亡理由認定書が発行され、昭和31年には東京都知事が昭和20年(1945年)8月15日牡丹江にて戦死との戦死告知書(舞鶴引揚記念館に保存)を発行。

 一方、帰還を待たれていた子・新二(1926年 - )は戦後も生存していたとされる。それが明らかになったのは、母の没後、平成12年(2000年)8月のことであった。

 ソ連軍の捕虜となりシベリア抑留、のちに満州に移され中国共産党八路軍に従軍。その後レントゲン技師助手として上海に居住。妻子をもうけていた。

 新二は母が舞鶴で待っていることを知っていたが、帰ることも連絡することもなかった。理由は様々に推測され語られているがはっきりしない。

 新二を発見した慰霊墓参団のメンバーは平成8年(1996年)以降、3度会ったが、新二は「自分は死んだことになっており、今さら帰れない」と帰国を拒んだという。旧満州(現中国東北部)の関東軍陸軍石頭(せきとう)予備士官学校の第13期生で構成される「石頭五・四会」会長・斉藤寅雄氏は「あのひどい戦いで生きているはずがない」と証言し、同会の公式見解では「新二君は八月十三日、夜陰に乗じて敵戦車を肉薄攻撃、その際玉砕戦死しました」と述べられている(北國新聞社平成18年(2006年)10月4日)。

 「みどりこの母の歌」で、私(たち)は明日香皇子が「避城~州柔の戦」で行方不明になったことを知っている。194番・195番は、明日香皇子の生死を知らぬまま、夫の安否を気遣う妻の哀切は心を詠った歌だった。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(151)

「天武紀・持統紀」(66)


筑紫君薩夜麻とは誰か(7)
みどりこの母の歌(6)
筑紫の明日香川


 196番・197番・198番にはどれにも「明日香川」が読みこまれていて、「明日香川」が重要なキーワードになっている。ではこの「明日香川」はどこにあるのだろうか。

 まず、大和の飛鳥川について。

 残念ながら、私は飛鳥川を見たことがない。古田さんの解説を読もう。

 大和の飛鳥の地を訪れた人は、はじめて音に聞く「飛鳥川」を見て驚く。否、多くの人々は「失望」するであろう。

 万葉集を通して〝つちかわれ″たイメージ、それを求めて現地にやってきたとき、現実の「飛鳥川」があまりにも貧弱なのにガッカリするのである。

 しかし、これはいわば「無いもの、ねだり」だ。現実の山や川は、何も後代の「歌人」のために存在しはじめたわけではない。当然のことだ。

 だから、罪は、あらかじめイメージを〝ふくらませ″切ってその地を訪れた、人々の「期待」の方にこそある。そう言っては酷だろうか。

 ともあれ、現実の「大和の飛鳥川」は、どの国、どの地帯にも見られる「川」というより、やや「溝」めいた流れであること、現地を訪れた人みなの知るところだ。

 要するに、全国に十数ヶ所もあるという「飛鳥」の地の近傍に、大・中・小さまざまの「飛鳥川」があっても、何も不思議はないのである。

 昨日、録画しておいた朝日テレビの「万葉集の謎紀行」(解説者 奈良大学教授・上野誠)という番組を見た。「明日香河川淀さらず立つ霧の思ひ過ぐべき恋にあらなくに」(325番)という歌を取り上げているとき、飛鳥川を映していた。まるで谷川のように澄んだ水が滔々と流れていて、上手の段差のある所は小さな滝となって、しぶきを上げていた。カメラはそこにズームアップして、しぶきの中で躍り上がっている小魚を捕らえた。「えっ、これが飛鳥川? 別の川の映像を使ったんじゃないかな。こんなことにまで偽装を凝らすのかね」と思った。映像はいくらでも作為ができるので油断がならない。

 手元にある『万葉の旅』(犬養孝著)を調べたら、飛鳥川については、犬養氏も古田さんと同様の解説をしていた。

 飛鳥川といえば、淵瀬常ならぬ川としてあまりにもきこえ、誰でもあこがれをいだく。さてきてみれば、どこにでもある田舎の里川、大字飛鳥から下流は近ごろドブ川にさえ化してがっかりしてしまう。

飛鳥川
(橘寺からおりた岡寺への旧道の橋)

 ところがそれでよいので、名所でもなんでもない、この川筋を中心に定住した万葉人たちが、朝夕見なれた親しい里川に、抒情の場をもとめたにすぎない。

 源は竜門・高取の山塊に発して柏森・稲淵の谷あいをくだり、祝戸で多武峯からくる冬野川(細川)をあわせ、飛鳥の中心部から藤原京をななめによこぎって、寺川と曽我川の間を北流、大和川にそそぐ川である。

 飛鳥の人たち、飛鳥文化もつまりはこの川筋にたよったものだ。上流に住まった帰化人らの伐木を禁じて水源をたもとうとしたこともある。いちど雨が降れば、「水ゆきまさり」「水脈早み」の「高川」となるし、ふだんは「上つ瀬」「下つ瀬」「早き瀬」「七瀬」「瀬々」の玉藻や千鳥や河鹿の清流となり、「石橋」(飛び石)を渡って妻のもとにも通い、「しがらみ」(杭をうって竹や枝をからませたダム)をかけて濯漑に便する。まったく一日として飛鳥びとに欠くことのできない川だ。

 犬養氏が取りだしている詩句のうち、「上つ瀬」「下つ瀬」「石橋」「しがらみ」は196番・197番でも使われている。犬養氏は1998年に亡くなられている。たぶん古田さんの万葉歌の解読を知ることはなく、最後まで全ての明日香川を大和の飛鳥川と考えていた。

 では筑紫の明日香川はどこにあるのだろう。

 私(たち)は、「飛鳥浄御原宮の謎(9)」で、飛鳥という地名が福岡県小郡市井上にあったことを知っている。そして、「あすか」という地名は明日香皇子に由来することも。従って「明日香川」も小郡市井上に求めることになろう。

 「飛鳥浄御原宮の謎」で学んだことを重複する事項もあるが、古田さんの解説を読もう。(引用文中に井上の小字地図を再掲示しておく。)

 今問題の「九州の朝倉近辺の飛鳥川」も、同じだ。

 前述のように、「下座郡の飛鳥」に流れている中流、それが当時は「飛鳥川」と呼ばれていたのではあるまいか。

井上の地名図

 「井上廃寺」の地、「本山」には「北大門」と「南大門」をもつ館があり、そばには「長者堀」と呼ばれる「堀」があった。

 さらに「井上」や「御井」の語源となった、有名な井戸があり、そこから〝浄水″が湧き出ていた。その湧き出た水は、南の「飛鳥」の方へと流れ出していたのではあるまいか。この地帯は「北」が太宰府方面へとつづく山地、「南」が筑後川流域であるから、当然「水」は〝北から南へ″流れていたことであろう。

 或は、現在の地図(上の地図)がしめしているように、「長者堀から飛鳥方面へ」と流れていた小川の「水流域」が、この「ゲリマンダ一」めいた〝飛び出し地帯″として、その跡を今にとどめているのかもしれない。

 今後の学術上の発掘研究を深く楽しみとしたい。

 これで「みどりこの母の歌」を終わります。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(150)

「天武紀・持統紀」(65)


筑紫君薩夜麻とは誰か(6)
みどりこの母の歌(5)
「朝宮」・「夕宮」とは何か


 196番の冒頭の詩句には立て続けに「生」の字が4回の使われている。

飛鳥(とぶとり)の 明日香の河の 上つ瀬に 石橋渡し 下つ瀬に 打橋渡す 石橋に (お)ひ靡(なび)ける 玉藻もぞ 絶ゆればふる 打橋に ひををれる 川藻もぞ 枯るればはゆる 何しかも わご(みどりこ)の

 古田さんはこの異例な文字の使い方を取り上げて、次のように読解している。

 文字使いに敏感な人麿が、偶然の「ミス」でこのような使い方をするはずはない。もちろん「意図ある使用」だ。

 それはおそらく、前述の〝当人(明日香皇子)の行方不明″とかかわりがあろう。

 その「生」を願う心、その「健在」をのぞむ気持、それをこの「冒頭部、4回の『生』使用」にしめしているのではないであろうか。心にくい「文字使用」だ。

 それを「生(みどりご)」当時の描写へとつなげているのだ。その上そのあとの、成人してから後を

 朝宮を 忘れ給ふや
 夕宮を 背き給ふや


という形で表現している。彼(明日香皇子)が健在だった頃、「朝宮」や「夕宮」を訪れることを「常」としていた、というのである。

 前書で「朝庭(みかど)」「夕庭(きさき)」の表記を〝固有名詞″化している用法ではないか、と注意したけれど、或はそれとかかわりのあるテーマかもしれない。(前書、第10(夕庭)の件(再論)、345~8ページ、参照)

 「前書」というのは『古代史の十字路』である。その第7章「太宰府の「中皇命」の歌」で3・4番歌を取り上げている。このブログでも「壬申の乱(2):中皇命って誰?」で取り上げた。その3番に次の一節がある。

我が大君の 朝には 取り撫でたまひ 夕には い寄り立たしし
(原文)
我大王乃 朝庭 取撫賜 夕庭 伊縁立之

 ここの「朝庭」・「夕庭」を古田さんは「「みかどには」・「きさきには」と訓じている。この論考の一環として「第10(夕庭)の件」が書かれた。今回のテーマと深く関わっているので、それも紹介しておこう。

 先述の「夕庭」については、注目すべき点がある。それは出現個所が「特定」されていることだ。

 今問題の3番歌以外では、巻13・3274と巻13・3329の二例しかない。しかも、その前者は後者の「前半部」を〝カット″した形のものだ。だから結局、巻13・3329の一例のみ、となる。

3329番は「柿本朝臣人麿の集の歌」という題詞がついた一群の歌の中の一首で、挽歌に分類されている。次のようである。(「朝庭」・「夕庭」は古田さんの訓読に従った。)

白雲の たなびく國の 青雲の 向伏す國の 天雲の 下なる人は 吾(あ)のみかも 君に戀ふらむ 吾のみかも 君に戀ふれば 天地に 滿ち足(たら)はして 滿ふれかも 胸の病みたる 思へかも 心の痛き 吾が戀ぞ 日にけに益(まさ)る 何時(いつ)はしも 戀ひぬ時とは あらねども この九月(ながつき)を わが背子が 偲ひにせよと 千世にも 偲ひわたれと 萬代に 語り續(つ)がへと 語りてし この九月の 過ぎまくを いたも(すべ)なみ あらたまの 月の変れば 爲(せ)む爲方の たどきを知らに 岩(いわ)が根の 凝(こご)しき道の 岩床の 根延(は)へる門(かど)に 朝(みかど)には 出で居て嘆き 夕(きさき)には 入り居戀ひつつ ぬばたまの 黒髪敷きて 人の寝(ぬ)る 味眠(うまい)は寝ずに 大船の ゆくらゆくらに 思ひつつ わが寝る夜らは 数(よ)みも敢(あ)へぬかも

 この歌は、2000年の2月27日、東京(文京区民センター) の臨時講演会で

 「薩夜麻を恋う」皇后(きさき)歌

の発見として報告したものである。その要約は「多元」36号に掲載されているが、その要点は次のようだ。

(A)
 冒頭の「白雲の たなびく國の 青雲の 向伏す國の 天雲の下なる人は」という表現は、「直接統治領域」(白雲のたなびく国)と「間接支配領域」(青雲の向伏す国)を併せ「天下の民衆」(天雲の下なる人)をしめしている。すなわち彼女(作者)の夫は「天子」の〝位取り″に立っていることを明示している。

(B)
 長歌中、「この九月を」「この九月の」とくりかえしている。夫が出発時にのべた「決戦の時点」である。

(C)
 日本書紀の天智紀によれば、天智2年(663)の8月27日から9月7日の間に、白村江の戦が行われ、百済の州柔城が唐に降服した。

(D)
 筑紫の君、薩夜麻は「捕囚」の身となり、久しく帰ってこなかった。

(E)
 従ってこの歌は、薩夜麻(九州王朝の天子)の妻(皇后)が「帰らざる薩摩麻」を恋うる歌と解する他はない。

(F)
 従来の万葉学は「近畿天皇家、一元論」という仮説を(「仮説」と知らずに)固持してきたから、右のような理解は不可能であった。

以上だ。だから、この「夕庭」という表現が出現するのは、

(その一)
 「中皇命」(九州王朝の天子)を主人公とした3番歌。
(その二)  薩夜麻(九州王朝の天子)の皇后の作歌(巻13・3329)。

右の二首に限られる。このような「出現状況」から見れば、この「夕庭」の二字は、当王朝(九州王朝)内で〝作り″〝使われ″ていた、特有の用語だったのではないか。―この問題だ。(この点、古賀達也氏の御指摘をうけた。)

 隋書俀(たい)国伝に、倭国側の統治組織内に、一種奇妙な「王朝内の時間的二分法」の存在したことが報告されている。

(α)  使者言う「倭王は天を以て兄となし、日を以て弟となす。天未だ明けざる時、出でて政を聴き跏趺して坐し、日出ずれば便(すなわ)ち理務を停め、いう我が弟に委ねんと」と。

 右のように
 ①「天未明」―兄
 ②「日出」―弟
というように、一日の中の「時間帯」によって「二分」されている。

 この「日出ずる処」は、やがて「天子」の場と称され、「朝庭」となった(多利思北孤)。

 次の局面を見よう。

(β)
 王の妻は雞弥と号す。後宮に女六・七百人あり。

 これは、ややもすれば「誤解」されていたように、〝倭王を取り巻いて「後宮」の女、六、七百人が囲繞していた″のではない。右の文面に〝正確に″表現されているように〝王の妻の「雞弥」を取り巻いて、「後宮」の女たち六・七百人がいた″のである。なぜなら、三国志の魏志倭人伝中の有名な一節、

(卑弥呼)王となりしより以来、見るある者少なく、婢千人を以て自ら侍せしむ。

とある「女の館」の伝統を継承するものであったからだ。すなわち、右の「朝庭」に相対し、陰然たる、女性中心の大勢力の伝統的「機構」をなしていたのである。

 とすれば、先の「朝庭」に対し、こちらの、いわゆる「後宮」(中国側の理解による呼称)が、実は「夕庭」と称されていたとしても、これを怪しむべきではないであろう。

 この点、今後の楽しき未知の課題としておきたい。

《真説古代史・近畿王朝草創期編》(149)

「天武紀・持統紀」(64)


筑紫君薩夜麻とは誰か(5)
みどりこの母の歌(4)
子を思う母の悲痛な心


 「片戀嬬」の後に次のような詩句が出てくる。

夕星(ゆふつつ)の か行きかく行き 大船の たゆたふ見れば
(原文)
夕星之 彼徃此去 大船 猶預不定見者

 この部分を〈大系〉は次のように解釈している。

「夕星のようにあちらに行きこちらに来して、心も静まらずにおられるのを見ると、」

 「夕星」を「夕星のように・・・」と比喩として扱っている。「大船」は省いているが、これも「大船のように・・・」と比喩として扱っているようだ。しかし、「大船のように心も静まらずにおられるのを見ると、」と「大船」を書き入れると何ともおかしな詩句になってしまう。「大船」と言えばどっしりと揺らぎがなく頼もしいもの、というのがまともな感覚ではないだろうか。そのようなわけで、〈大意〉の作者は「大船のように」を書き入れるのをためらったのではないだろうか。この問題について、古田さんは次のように論じている。

 「大船の」を単に〝たゆたふ″心理に対する〝枕詞″的形容とされているようである。

 しかし、単に〝ゆらぐ心理″の形容なら、「大船」よりむしろ「小船」の方がふさわしい。「大船に乗ったよう。」とは、通例「不安」ではなく、「安心」の形容とされている。

 この点、中西進は巻二の次の歌を〝参照″としている。

 大船の泊(は)つる泊(とま)りのたゆたひに物思ひ痩(や)せぬ人の児ゆゑに(122)

 けれども、この場合も、「大船」がそのまま「思ひ痩せる」形容というよりも、この「大船」の中に乗せられた青年が、(残した)恋人を思うて「思ひ痩せ」る思いをしているのではあるまいか。

 「夕星」や「大船」は比喩として使われているのではなく、我が子の思い出にふけっている母は実際に夕星のきらめく港にたゆたう大船を眺めているのだ。次のような意になろう。

「夕星がここかしこにきらめき、大船のたゆたう風景を眺めていると・・・」

 「大船の たゆたふ見れば」には次の詩句が続く。

慰むる 情(こころ)もあらぬ
(原文)
遺悶流 情毛不在
〈大系〉の意訳
「自分の心をどう慰めてよいか分らないことだ。」

 ここでも「原文改竄」が行われている。

悶(金・類・温)―問

 後代写本(金沢本・類聚古集・紀州本)では「遺流」となっている詩句は、元暦校本や西本願寺本などでは「遺流」である。もともとの原文で訓読すれば
問はせる 情(こころ)もあらぬ」
となる。

 通して意訳すると、次のようになるだろうか。

「夕星がここかしこにきらめき、大船のたゆたう風景を眺めていると、どう問えばといのか、心は千々に乱れるばかりだ。」

 「大船」に乗って戦に出かけた我が子・明日香皇子を思い、その安否が分からない状況に胸を痛めているのだ。古田さんの解説を読んでみよう。

 なぜ、青年は「大船」に乗っているのか。戦争だ。「州柔城の戦」や「白村江の戦」のために、九州(倭国)をはなれる寸前の〝待ち″時間、その中における哀切の歌なのではあるまいか。

(中略)

 主人公は、「避城~州柔の戦」で〝行方を絶った″明日香皇子であるから、もし「健在」なら、当然「大船」で本国(倭国)へ帰還しよう。けれども、それが全く〝定か″ではない。その点を
 大船 猶預不定見
と表現したのである。「大船」自体が〝不安″なのではなく、それが「定見」できないことを〝不安″としているのだ。

(中略)

 問はせる 情(こころ)もあらぬ

 「何を問う」のか。もちろん、「明日香皇子の安否を問う」のだ。だが、久しく、その「回答」はなかった。そこでついに〝今日″の「殯宮」となったのである。しかし、今も、正確にはその「安否」は分っていないのである。「殯宮」の儀式となっても、人々の念頭には〝わだかまり″があった。「本当に亡くなられたのか。」という「問い」はつづいていたのである。

 このような状況だからこそ、第一短歌(197)の
 明日香川しがらみ渡し塞(せ)かませば
という、何か〝のどにつまった″ような「まどい」が表現されていたのである。

 長歌(196)は次のように終わっている。

み名に懸かせる 明日香河 萬代(よろづよ)までに 愛(は)しきやし わご王(おほきみ)の 形見かここを

 明日香皇子は、戦場で「行方を絶った」のであるけれど、その「遺体」が確認されたわけではなかったようである。

 だからこそ、明日香皇子の誕生の頃、「産湯」を使った、この場所そのものを、代って「形見」と見なそう。人麿は切実にそのように歌ったのである。

《真説古代史・近畿王朝草創期編》(148)

「天武紀・持統紀」(63)


筑紫君薩夜麻とは誰か(4)
みどりこの母の歌(3)
なぜ「わご大王」ではなく「わご王」?


 196番の主人公は「木缻之宮」に葬られている。原文で使用されている文字は異なるが、当然これは199番の「木上宮」と同じ宮だ。〈大系〉の訓読では両方とも「城上の宮」と表記している。

196番
「城上(きのへ)の宮を 常宮(とこみや)と 定め給ひて・・・」

199番
「城上(きのへ)の宮を 常宮(とこみや)と 高くまつりて・・・」

 このことも196番の主人公が明日香皇子であるという比定が正しいことを示している。

 しかし、明日香皇子は199番では「わご大王」と呼ばれているのに、196番では「わご王」となっている。これはどういうわけだろうか。この問に対する答のカギも
何しかも わご王(きみ)の 立たせば 玉藻のもころ 臥(こや)せば 川藻の如し 靡かひし 宜(よろ)しき君が 朝宮を 忘れ給ふや
の中にある。

 〈大系〉では「わご王の」の原文は「吾王能」となっているが、「吾王能(金・紀)―生乃」という校異が示されている。つまり、「元暦校本」や「西本願寺本(〈大系〉はこれを底本としている)」などの古写本ではすべて「吾生乃」となっているのに「金沢本・紀州本」という「後代写本」で行われている「原文改竄」の方を採用しているのだ。

 「後代写本」が「生乃→王能」という「改ざん」を行ない、現代の諸専門家こぞって、これに従ってきたのである。

 この長短歌中、このあとにも
乃(わご王(きみ)の)(196、末尾)
(わご王の)(198)
と「王」字が出現しているから、それらに先立つ、ここも「吾王能(わご王(きみ)の)」と〝改定″して、何の支障もないように、一見、見なされよう。しかし、それにつづく形容句たる
立たせば 玉藻のもころ
 臥(こや)せば 川藻の如く
 靡(なび)かひし 宜(よろ)しき君が」
を見れば、この叙語部分に対する「主格」が、「王」であったとすれば、それが「男性」にせよ、「女性」にせよ、ふさわしくない。わたしにはそう思われる。

 すでに、前節で分析したように、この歌の対象(主人公)は「男性」(「君」「王」)なのであるから、いよいよ、この形容句は〝似つかわしく″ないのだ。

 では、もともとの原文「吾生乃」はどう訓読したらよいのだろうか。従来は全ての学者・研究家が改竄された方の原文を採用しているので、かつてこの「生」を検討した人はいない。古田さんが始めて「吾生乃」の訓読を試みている。

 わたしはこれは「みどりこ」であると思う。

 万葉集中、「みどりこ」 に当る表記は多彩だ。

 弥騰里兒(巻18、4122)
 緑子 (巻16、3791)
 緑兒(巻2、213。巻3、481。巻12、2925)
 小兒(巻12、2942)
 若子(巻3、458。巻3、467)
 若兒(巻2、210)

 ここでは、人麿は得意の「一字表記」の手法を用いて、「生」一字で「みどりこ」と訓(よ)ませているのであるまいか。「みどりこ」なら、右のような
 「立たせば……臥せば」
という表記、その〝ふるまい″を「玉藻」や「川藻」の〝靡く″さまにたとえたのも、不思議ではない。男でも、女でも、「大人」では、こうはゆくまい。

 「みどりこ」でも、ここで〝形容″されているのは、〝生れたばかりの、産湯(うぶゆ)を使った時の記憶″が歌われているのではあるまいか。明日香皇子、誕生の一瞬だ。

 すなわち、この歌の「対象」は明日香皇子だけれど、この歌を〝献ぜられ″ているのは、「明日香皇子の」に対してなのである。その「母」の〝失いえぬ記憶″それを人麿は歌っているのだ。

 一つの単語は、前後の文章の中で〝生きて″いなければならない。

 私は古田さんのこの詠みを正しいと認めざるを得ない。見事である。この解読によって、歌全体が見事に生き返る。

 歌は「みどりこ」の時の思い出から始まり、さらに成長していく皇子の思い出を綴っている。「わご大王」ではなく「わご王」と呼ぶのがふさわしい。

 その思い出の詩句の後に「片戀嬬」という聞き慣れない語句が出てくる。〈大系〉は「片恋に苦しむ背の君」と意訳しているが、この歌は皇子の母に献じられた歌であるから、当然こんな解釈は成り立たない。古田さんは次のように解読している。

 これ(片戀嬬)については、多言の必要はない。「明日香皇子の母」は、すなわち「甘木の大王の妻」である。

 その「甘木の大王」は、すでに〝狩り″の途中で死んだ。それ故、その妻は「未亡人」となっていた。それ故、これを「片戀嬬」と表現している。

 現代のわたしたちの慣用させられている「未亡人(いまだ亡(う)せざる人)」などという、〝変な″中国語とは、比較にもならぬ、古来の「美しい日本語」なのではあるまいか。

《真説古代史・近畿王朝草創期編》(147)

「天武紀・持統紀」(62)


筑紫君薩夜麻とは誰か(3)
みどりこの母の歌(2)
挽歌の主人公は女性か?


 まず、人麿は「大王」・「王」・「皇」という称号を厳密に使い分けていた。「吾王」は「わごおおきみ」ではなく、「わごきみ」と訓読すべきだ。以後は「定説」の「わごおおきみ」を「わごきみ」と訂正して進めることにする。

何しかも わご王(きみ)の 立たせば 玉藻のもころ 臥(こや)せば 川藻の如し 靡かひし 宜(よろ)しき君が 朝宮を 忘れ給ふや

 この部分を私なりに解釈すると次のようになる。

「それなのにどうしたことでしょう。我が君はお立ちになれば玉藻のように、臥せられれば川藻のように揺れておられた。その様子がとても愛らしかった貴方の朝宮をお忘れになったのでしょうか。」

 ところが、この部分を〈大系〉は次のように解釈している。

「それなのに何故、わが皇女は、お立ちになれば玉藻のように、お臥しになれば川藻のように互になびき合った、立派な背の君の朝宮をお忘れになるのであろうか。」

 「吾王」と「君」を別人とし、「靡かひし」を「互になびき合った」と解している。私の方が間違っているのだろうか。

 また、「吾王」を明日香皇女としている点もおかしい。『万葉集』には原文に「吾王」を使っている歌が9首あるが、「吾王」が皇女を指す例はほかにはない。

 実は、ここの「吾王」の「王」は原文改訂されている。このことは後ほど詳しく検討することになるが、まずは「吾王」を皇女の称号としている点を検討しよう。

 この挽歌の主人公が男性なのか女性なのかという問題は従来から論争されていたようだ。古田さんは「この長短歌について、研究史上、一種奇妙な〈対立〉が生じている」と言い、その〈対立〉を論じている斎藤茂吉の文章(『柿本人麿、評釈篇』巻之上)を引用している。

 さて、この歌の内容によると、御夫婦のなからひを咏じてゐるので、真淵は、忍坂部皇子をばこの皇女の夫君と想像し、この歌をば忍坂部皇子に獻じたのだらうと云った。

 併し、攷證も美夫君志も、
『これいかにもさる事ながら、みだりに改るを憚りて、しばらく本のまつにおきつ』 といひ、講義は、
『かくの如き態度を以て萬葉集を説き、それを基として時勢を論じ、文化を談ぜむとするは大膽とやいはむ。妄断とやいはむ。驚くべきことなりとす』 と云った。

(注)
「攷證」
 岸本由豆流著『萬葉集攷證』(江戸時代)
「美夫君志」
 木村正辞著『萬葉集美夫君志』(明治時代)
「講義」
 山田孝雄『万葉集講義』

 また、「忍坂部皇子」とは『日本書紀』や『続日本紀』では「忍壁または刑部」と表記されている皇子である。

 上の文章はとても分かりにくい。古田さんが整理をしているので、それを読んでみよう。

①賀茂真淵は、この歌を「男性」に当てた(献じた)歌と見なした。

②そこで、前の長短歌(194、195)の「前書き」に出てくる「忍坂部皇子」に当てた(献じた)歌であろう、と「想定」した。(「明日香皇女」の夫と〝想像″する。)

 これに対して、後の論者は「真淵の意図」には理解をしめしつつも、同意には躊躇(ちゆうちよ)している。

 けれども、山田孝雄は断固としてこの「真淵提案」を拒絶した。

 「吾王」・「君」という語から、素直に考えれば、この挽歌で詠われている人物は当然男性である。

 そして、
「み名に懸かせる 明日香河」(196)
「明日香川明日だに・・・わご王の御名忘れせぬ」(198)
と詠われているように、その人物の名は「明日香」でなければならない。「忍坂部皇子」であるわけがない。男性で「明日香」という名を持つ人物と言えば、私(たち)にはもうなんのためらいも必要としない。あの「明日香皇子」だ。

 『万葉集』編纂者は、ヤマト王権内では「明日香」という名を持つ人物は「明日香皇女」しかいないので、歌の内容との矛盾にもかかわらず、「明日香皇女、木缻(きのへ)の殯宮の時・・・」という題詞を付けて、ヤマト王権内の歌だと偽装したのだ。そして、従来の学者たちはその偽装にまんまとだまされてきた。まさに「妄断とやいはむ。驚くべきことなり」。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(146)

「天武紀・持統紀」(61)


筑紫君薩夜麻とは誰か(2)
みどりこの母の歌(1)
『万葉集』196番~198番


 『人麿が「壬申の乱」を詠った?(6):城上の宮』で、「城上の宮」に関する〈大系〉の注について、次のように書いた。

 実は、〈大系〉の注は「明日香皇女、木缻(きのへ)の殯宮の時、柿本朝臣人麿の作る歌」(196~198)の「注を見よ」との指示に従って、そこの注を書き留めたものである。上記引用文中に「明日香皇女の殯宮のあった城上岡の北方約半里の地點に當ってゐる」とあるが、「明日香皇女」の陵墓についての記載は「延喜式」にはない。「明日香皇女の殯宮のあった城上岡」というのは、逆にこの万葉の長歌によって比定されたもののようだ。要するに「高市皇子尊の城上の殯宮」はどことも分からずじまいなのである。

 表示文字は異なるが、196番~198番の題詞に「きのへ」があり、長歌にも「きのへ」が使われている。「みどりこの母の歌」ではこの196番~198番が取り上げられている。

明日香皇女、木缻(きのへ)の殯宮の時、柿本朝臣人麿の作る歌一首幷に短歌

(196)
飛鳥(とぶとり)の 明日香の河の 上つ瀬に 石橋渡し一に云ふ、石並み 下つ瀬に 打橋渡す 石橋に一に云ふ、石並みに 生(お)ひ靡(なび)ける 玉藻もぞ 絶ゆれば生(お)ふる 打橋に 生ひををれる 川藻もぞ 枯るればはゆる 何しかも わご王(おほきみ)の 立たせば 玉藻のもころ 臥(こや)せば 川藻の如し 靡かひし 宜(よろ)しき君が 朝宮を 忘れ給ふや 夕宮を 背(そむ)き給ふや うつそみと 思ひし時 春べは 花折りかざし 秋立てば 黄葉(もみぢば)かざし 敷栲(しきたへ)の袖(そで)たづさはり 鏡なす 見れども飽かず 望月の いやめづらしみ 思ほしし 君と時々 幸(いでま)して 遊び給ひし 御食(みけ)向(むか)ふ 城上(きのへ)の宮を 常宮(とこみや)と 定め給ひて あぢさはふ 目言(めごと)も絶えぬ 然れかも一に云ふ、そこをしも あやに悲しみ ぬえ鳥の 片戀嬬(つま)一に云ふ、しつつ 朝鳥の一に云ふ、朝霧の 通はす君が 夏草の 思ひ萎(しな)えて 夕星(ゆふつつ)の か行きかく行き 大船の たゆたふ見れば 慰むる 情(こころ)もあらぬ そこ故に せむすべ知れや 音のみも 名のみも絶えず 天地(あめつち)の いや遠長く 偲ひ行かむ み名に懸かせる 明日香河 萬代(よろづよ)までに 愛(は)しきやし わご王(おほきみ)の 形見かここを

短 歌 二 首 (197)
明日香川しがらみ渡し塞(せ)かませば流るる水ものどにかあらまし一に云ふ、水のよどにかあらまし
(198)
明日香川明日だに一に云ふ、さへ 見むと思へやも一に云ふ、思へかも わご王(おほきみ)の御名忘れせぬ一に云ふ、御名忘らえぬ

(原文)
飛鳥 明日香乃河之 上瀬 石橋渡一云、石浪 下瀬 打橋渡 石橋一云、石浪 生靡留 玉藻毛叙 絶者生流 打橋 生乎烏礼流 川藻毛叙 干者波由流 何然毛 吾能 立者 玉藻之母許呂 臥者 川藻之如久 靡相之 君之 朝宮乎 忘賜哉 夕宮乎 背賜哉 宇都曽臣跡 念之時 春部者 花折挿頭 秋立者 黄葉挿頭 敷妙之 袖携 鏡成 雖見不猒 三五月之 目頬染 所念之 君与時々 幸而 遊賜之 御食向 木缻之宮乎 常宮跡 定賜 味澤相 目辞毛絶奴 然有鴨一云、所己乎之毛 綾尒憐 宿兄鳥之 片戀嬬一云、為乍 朝鳥一云、朝霧 往來爲君之 夏草乃 念之萎而 夕星之 彼徃此去 大船 猶預不定見者 遺流 情毛不在 其故 爲便知之也 音耳母 名耳毛不絶 天地之 弥遠長久 思將徃 御名尒懸世流 明日香河 及万代 早布屋師 吾王乃 形見河此焉

  短 歌 二 首
明日香川 四我良美渡之 塞者 進留水母 能杼尒賀有万思一云、水乃与杼尒加有
明日香川 明日谷一云、佐倍 將見等 念八方一云、念香毛 吾王 御名忘世奴一云、御名不所忘


 〈大系〉の「大意」は次の通りである。この歌の場合も、苦しまぎれの変な意訳がいくつもある。

(196)
明日香河の上流の瀬には石橋を渡し、下流の瀬には打橋を渡してある。その石橋に伸びなびいている玉藻も、切れれば新しく伸びてくる。打橋に伸び繁っている川藻も、枯れると新しく芽を出してくる。それなのに何故、わが皇女は、お立ちになれば玉藻のように、お臥しになれば川藻のように互になびき合った、立派な背の君の朝宮をお忘れになるのであろうか。夕宮をお背きになるのであろうか。この世の人であった時、春には花を折りかざし、秋になれば黄葉をかざし、袖をつらねて、鏡のように見ても飽きることなく、満月のように、いよいよ見たく讃うべく思っておられた背の君と、時々お出ましになってお遊びになった城上の宮を、今は、永久の宮とお定めになって、お逢いになることも言葉を交されることも絶えてしまった。そのためか、何とも言えず悲しく思って、片恋に苦しむ背の君、朝鳥のようにお通いになる背の君が、悲しみにしおれて、夕星のようにあちらに行きこちらに来して、心も静まらずにおられるのを見ると、自分の心をどう慰めてよいか分らないことだ。それ故、どうするすべも知らないが、せめてその音だけでも名だけでも、絶えず、天地のように遠く長くお偲びして行きたいと思う。なつかしい明日香という御名を負っている明日香河を、万代までも。あわれ、ここは、追慕の念に耐えないわが皇女の形見の所である。

(197)
明日香川にしがらみを渡して水をせきとめたならば、流れる水もゆったりとしていることであろうに。

(198)
せめて明日だけでも(お逢いしたいが)、お逢い出来るだろうとは思えないのに、わが明日香皇女の御名を忘れることができない。
(「一に云ふ」の場合の大意)
明日もまたお逢い出来るだろうと思っているからか、明日香皇女の御名が忘れられない。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(145)

「天武紀・持統紀」(60)


筑紫君薩夜麻とは誰か(1)
史書のなかの薩夜麻


 筑紫君薩夜麻(つくしのきみさちやま)は、これまでに何度か、断片的に取り上げてきた。今回から、この人物にまつわる「謎」解きがテーマです。

 薩夜麻の名は『日本書紀』に二度現れるだけである。「天智紀」と「持統紀」である。

671(天智10)年11月10日
對馬國司、使を筑紫大宰府に遣はして言さく、「月生(た)ちて二日に、沙門道久(ほふしだうく)・筑紫君薩野馬(さちやま)・韓嶋勝裟婆(からしまのすぐりさば)・布師首磐(ぬのしのおびといは)、四人、唐より来りて曰さく『唐國の使人郭務悰(かくむそう)等六百人、送使沙宅孫登(さたくそんとう)等一千四百人、總合(す)べて二千人、船四十七隻に乗りて、俱に比知嶋(ひちしま)に泊りて、相謂りて曰はく、今、吾輩(われら)が人船、數衆(おほ)し。忽然(たちまち)に彼(かしこ)に到らば、恐るらくは彼(か)の防人、驚き駭(とよ)みて射戦はむといふ。乃ち道久等を遣はして、預(あらかじ)め稍(やうやく)に來朝(まうけ)る意を披(ひら)き陳(もう)さしむ』とまうす」とまうす。

 唐使の大船団に加わって4人の倭人が帰国した。唐使は、「唐の大船団が倭国を攻撃するために来た」と誤解されること避けるため、あらかじめ4人の倭人を使ってその「來朝」の趣旨を告げさせた。その4人の中に「筑紫君」という称号を持つ人物「薩野馬」がいた。

 ここでは「薩夜麻」ではなく「薩野馬」と表記されているが、これは筑紫君を貶める意図を持った卑語表現である。「筑紫君」とは九州王朝の君主、つまり「天子」を意味する。このような人物がどうして唐使の大船団に同行しているのだろうか。

 「薩野馬」について、〈大系〉の頭注は「百済救援の役に唐の捕虜」と書く。そう言う判断をする根拠が次の記事である。

690(持統4)年10月22日
軍丁(いくさよほろ)筑後國の上陽咩郡(かみつやめのこほり)の人大伴部博麻(はかま)に詔して曰はく「天豐財重日足姫(あめとよたからいかしひたらしひめ)天皇(斉明)の七年に、百濟を救う役に、汝、唐の軍の爲に虜(とりこ)にせられたり。天命開別(あめみことひらかすわけ)天皇(天智)の三年に洎(およ)びて、土師連富杼(はじのむらじほど)・氷連老(ひのむらじおゆ)・筑紫君薩夜麻(さちやま)・弓削連(ゆげのむらじ)元寶の児、四人、唐人の計る所を奏聞(きこえまう)さむと思欲(おも)へども、衣粮(きものかて)無きに縁りて、達(とづ)くこと能はざるを憂ふ。是に、博麻、土師富杼等に謂ひて曰く、『我、汝と共に、本朝(もとつみかど)に還向(まうおもむ)かむとすれども、衣粮無きに縁り、俱(とも)に去る能はず。願ふ、我が身を賣りて、衣食に充てよ』といふ。富杼等、博麻の計の依(まま)に、天朝に通(とづ)くこと得たり。汝(いまし)、獨(ひとり)他界(ひとくに)に淹(ひさしく)滯(とど)まること、今に三十年なり。朕(われ)、厥(そ)の朝を尊び國を愛(おも)ひて、己を賣りて忠を顯(あらは)すことを嘉(よろこ)ぶ。故に務大肆(むだいしのくらゐ)、幷(あは)せて絁(ふとぎぬ)五匹・綿一十屯・布三十端・稲一千束・水田四町賜ふ。其の水田は曾孫(ひひこ)に乃至(いた)せ。三族(みつのやから)の課役(えつき)を免(ゆる)して、其の功(いたはり)を顯さむ」とのたまふ。

 大伴部博麻は「斉明7年の百済を救う役」で唐軍の捕虜となった。その捕虜生活では筑紫君薩夜麻をふくむ4人と一緒だった。ただし、薩夜麻が捕虜になったのは「避城~州柔の陸戦」か「白村江の海戦」の時である。

 唐の大船団で薩夜麻とともに帰った3人は不明(頭注「他に見えず」)な人物だが、ここの3人はその出自がある程度分かっている。(『失われた九州王朝 第5章「九州王朝の領域と消滅」』を使います。)

大伴部博麻
 上の記述の通り、筑後国の上陽咩郡の軍丁。つまり、筑紫君薩夜麻の都城の地、直属の兵士だった。
韓智興
 九州王朝「倭国」の使節団の長であった。(論証は省略する。)
弓削連元宝の児
 孝徳紀白雉5年(654)2月の項の「伊吉博得の言」の中に、「別に倭種韓智興・趙元宝、今年、使人と共に帰れりといふ」とあるのが、この趙元宝だ、と思われる。この人物も倭軍の兵士だったと考えてよいだろう。

 このように筑後の「君主―上級官人―下級兵士」たちが共に捕虜生活を送っていたことになる。

 人々が敗戦を忘れようとしていたとき、いまだに白村江から還って来ない者はもはや死んでしまったのだ、と信じ切っていたとき、突如博麻が帰国したのである。しかも、“主君、筑紫君薩夜麻の生還のために、自分の身を奴隷に売った”という、人々の肺腑をえぐる「美談」とともに。そのような“壮烈な心情”が「当然の覚悟」として奨励されていた「戦前」のことを人々は思い浮かべたであろう。

 しかし、時代は変っていた。このとき一層みじめな形で、浮かび上がってきたのは、いわば“部下を奴隷に売って”生還した薩夜麻の姿であった、と思われる。

 近畿天皇家持統天皇から出された博麻への詔では、「彼の苦心は、唐人の計を(近畿天皇家へ)奏聞するためであった」という理由づけがなされている。しかし、今(持統4年)は、もはや日本国は唐朝に敵対していたわけではない。それどころか、新しい和親政策の時代であった。「唐人の計」という言葉は実体をもたない。だから、真実は「九州王朝の君主の生還」のためであった博麻の忠節を、「唐人の計」という抽象的な表現によって、“近畿天皇家への忠節”として、この詔はとらえ代えようとしているのである。ここには権威を失った九州王朝と、新しい賞罰の権威を樹立してきた近畿天皇家。その明暗があまりにも鮮明に表現されている。

(上の「持統紀」の記事を分析・解明している好論文があります。参照してください。)

正木裕『薩夜麻の「冤罪」Ⅰ』
正木裕『薩夜麻の「冤罪」Ⅱ』

 さて、この筑紫君薩夜麻とは誰であろうか。ずばり、結論を先に言おう。古田さんは明日香皇子こそ、この筑紫君薩夜麻だと言う。

 この仮説の最終論証を理解するためには、そこに到るまでの「一連の論考」を読む必要がある。いま一通り読み終わったところだが、一つ納得できない点がある。その疑念が解消されるかどうか、ともかく精読し直してからその一点について考えようと思う。

 「一連の論考」とは『人麿が「壬申の乱」を詠った?』のもとになった『壬申大乱 第2章「真実の白村江」の第2説』の続編に当たるもので、次の4編である。

第8章
〈別論1〉月西渡る
〈別論2〉筑紫の飛鳥
〈別論3〉みどりこの母の歌
〈別論4〉越(をち)を恋うる嬬の歌

 〈別論1〉・〈別論2〉は既にそれぞれ「日並知皇子の謎」・「飛鳥浄御原宮の謎」で取り上げた。よって、次回からは「みどりこの母の歌」を取り上げることになる。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(144)

「天武紀・持統紀」(59)


人麿が「壬申の乱」を詠った?(12)
「哭澤の社」


(8) 202番
哭澤の社〈哭澤之神社〉
「奈良県桜井市木之本にある」。

 これまで「定説」によるさまざまな地名比定を見てきたが、どれも推測の域を出るものではなかった。それに対して「哭澤の社」の所在地に関しては、「奈良県桜井市木之本にある」と断定して、ためらいはない。どうしてなのか。「定説」の代表的解説として、古田さんは澤瀉久孝著『萬葉集注釋』の次のような解説を引用している。
 泣澤の神社 - 泣澤の神は古事記上巻に 『故尓伊耶那岐命詔之、愛我那邇妹命乎、謂子之一木、乃匐匐御枕方、匐匐御足方而哭時、於御涙成神、坐香山之畝尾本、名泣澤女神』 とあり、今も香具山の西麓、櫻井市木之本にこの神を祀る。
(中略)
 もとは社殿がなく森そのものを神の座すところとして祭ったので、泣澤神社は今も本殿は無く拝殿のみである。

 引用されている『古事記』からの一文は、伊邪那美(いざなみ)命が火を生んだことが原因で黄泉国に去った直後の「火被殺」と呼ばれている段の冒頭の文である。読下し文を転載しておこう。(岩波大系本)

故(かれ)爾(ここに)に伊邪那岐(いざなき)命詔りたまひしく、「愛しき我が那邇妹(なにも)の命を、子一つ木(け)に易(か)へつるかも。」と謂(の)りたまひて、乃ち御枕方(みまくらへ)に匍匐(はらば)ひ、御足方(みあとへ)に匍匐ひて哭きし時、御涙に成れるは、香山(かぐやま)の畝尾(うねを)の木の本に坐して、泣澤女(なきさわめのかみ)と名づく。

 この後、文は次のように続く。

故、其の避(かむさ)りし伊邪那美は、出雲國と伯伎国との堺の比婆の山に葬(はふ)りき。

 前段(「神々の生成」)は次のように終っていて、上のくだりはそれに直結している。

故、伊邪那美は、火のを生みしに因りて、遂によりて避り座しき。

 つまり、泣澤女神の故事は「神々の生成」と「火被殺」との間に置かれた挿入文である。『日本書紀』にある例の「分注」に当たるもので、『古事記』編纂者(太安万侶)による「原注」である。この挿入文は、本文の神話を大和の現地名(神社)と関連づけるための作為的な原注ということができる。

 ともあれ、澤瀉氏が述べているように「泣澤=哭澤」という地名、あるいは「哭澤の神社」という神社が桜井市木之本にあることは確かである。

 では、この大和内の地名を詠み込んでいる202番をどう解したらよいのだろうか。202番をもう一度読んでみよう。

或る書の反歌一首
哭澤(なきさは)の社(もり)に酒(みわ)すゑ禱祈(いの)れどもわご王(おほきみ)は高日知らしぬ
右一首、類聚歌林(るいじゆかりん)に曰はく、檜隈女王(ひのくまのおほきみ)の、泣澤神社を怨むる歌といへり。


 「或る書の反歌一首」と書いておきながら、左注ではその書名不明の「ある書」が「類聚歌林」であるとバラしている。この左注が正しいのだ。つまりこの歌は人麿作の歌ではない。左注が言うように檜隈女王の作歌である。

 つまり、『万葉集』編纂者は、『古事記』や『日本書紀』と同様の手口で、199番~201番の人麿歌を「壬申の乱の歌」として盗用するために、「或る書の反歌一首」として202番を挿入した。

 意図的にか単なるミスなのか、『日本書紀』には九州王朝の存在を示す仕掛けがそこここに残されている。私は編纂に参加していた九州王朝出身の編纂者が秘かに残した仕掛けだと思っている。202番の左注もそうした仕掛けの一つだと思う。199番~201番が「壬申の乱の歌」ではないことを、この左注が証言していることになる。

 ちなみに、檜隈女王については〈大系〉の頭注は「伝未詳」と言っているが、古田さんは澤瀉氏の次のような説を紹介している。

 澤瀉久孝は「攷證」「私注」の説に従い、この「桧隈女王」を〝高市皇子の女(娘)″とし、「歌からの感銘も寧ろみての如くである。」(私注)を引文する。その上で、

「たしかに續紀と古文書と並べ見る時この桧隈女王と同人と見る事いよいよ確実と思はれる。私注の説によるべきものと思はれる。」(『萬葉集注釋』422ページ)とのべている。

 「攷證」とは江戸時代(文政年間)に書かれた『萬葉集攷證』という注釈書のことである。

 ところで、古田さんは202番が人麿作ではないことを別の観点からも論じている。最後にそれを引用して、テーマ『人麿が「壬申の乱」を詠った?』を終わることにする。

 この間題のキイ・ポイント。それは「称号」問題だ。

 人麿は右の長歌で、四回にもわたって
「わご大王(「吾大王」)」
の表記を使っている。「皇子ながら」という一句がしめすように、本来は父(或は「先代」)の「甘木の王者」が「大王」であった。例の「天帰の歌」(239と反歌、240)の中で、二回にわたってこの表記が使われている。

吾大王 - 長歌(239)
我大王 - 反歌(240)

 その「大王」が不慮の事故で狩獵の途次、急死したので、その「皇子」であった「明日香皇子」が急遽「大王」の座につき、百済の戦場に向ったのである。(「大王」は「天子」ではない。「天子」の配下の「甘木の大王」である。)

 その点を人麿は強調した。あくまでこの「明日香皇子の悲劇」を、あの「甘木の大王の狩獵時の悲劇」の延長線上に「見ていた」のだ。そのような「目線」に立ったからこそ、いくらこの長文の「長歌」とはいえ、いささか〝くどすぎる″くらい、この「吾大王」をくりかえしたのである。いいかえれば、
「貴方は若くして、姿を消されましたが、立派な『大王』として、父君に継ぎ、その任務を終えられましたね。」
という、深い哀悼の心情の表明なのである。単に「冗漫」なるくりかえしではなかった。

 ところが、一転し、この「泣澤の歌」202)では
「わご王 (我王)」
の表記を使っている。「大王」ではない。これはなぜであろうか。その答は一つ。

 「この『泣澤の歌』は『人麿作歌』ではない。」

 この簡明な帰結である。

(中略)

 わたしは従来、不審だった。

 「なぜ、万葉学者は『大王』も『王』も『皇』も、原文のいかんにかまわず、同一の訓み(「おほきみ」)を当てるのか。」と。厳正にして緻密なはずの「万葉学」としては、〝解(げ)しがたい″現象だった。

 従来は、わたしは次の二点からこれを「理解」してきた。

第一
 「漢字」は〝仮り物″であり、「日本語」の〝訓み″の方が本来である。 - 本居宣長の方針(真淵を継ぐ。)

第二
 「長歌」や「短歌」は「五、七調」が〝定型″である。 - 平安時代に成立。

 けれども、この「ル一ル」 には、〝問題″がある。それは次のようだ。

第一について。
 「日本語」がもと、「漢字」が仮り物。この考えは正しい。地名などを考えるとき、あくまで「現地住民の発音」がもとであり、「漢字」は〝仮り物″である。この基本を〝侵″し、「漢字表記」から、その地名の意味を考えようとする、いわゆる「地名解説」が往々存在するけれど、これは方法上〝逆立ち″している。留意すべきだ。

 たとえば、わたしの住地の「日向市」の場合なども、「むこう(向う)」(京都側から見て、桂川の「向う」にある。)という現地音が基本であり、「佳字」としての「向う日」というのは、「類音」による〝当て字″なのである。「佳字」を当てているのだ。

 しかし、古事記、日本書紀、万葉集などの古典の場合は、ちがう。それぞれ、テープの録音つきで残っているわけではない。この場合は「訓み」をつけたのは、後代の写者、国学者、万葉学者である。それなのに、〝自分たちのつけた訓み″を「本来のもの」と称するのは、ほほえましい「自己主張」ではあっても、史料事実の基本ではない。

 この場合、「基本」はあくまで「漢字」の方であり、自分たちの「訓み」は〝後世の解釈″にすぎない。この「本末」関係を顛倒することは許されない。

 このように考えてみれば、やはり「王」「大王」「皇」を、各表記の差異を無視し、一様に「おほきみ」と訓んで「同一視」しようとする、「国学者流」の手法には大きな「?」が向けられねばならないのである。

第二について。
 これはすでに前著でのべた通り、「平安時代の常識」ではあっても、それを「八世紀以前」に対して〝ひとしなみ″に当てはめようとするのは乱暴である。

 同じ平安時代でも、紀貫之は「定型の発生」について、深い省察をのべている(前著)。それは「不定型」→「定型」という発展とされた。この省察は正しい。正しいけれど、「定型」が発生してより、あらゆる歌から「不定型の要素」が一掃されたはずはない。ことに「大王」「王」「皇」といった重要語句(身分社会内において)の場合、その「称号」は安易に〝変改″すべきものではなかった。わたしにはそう思われるのである。

 以上は、すでにのべたところ、すでに語ってきたところだ。ところが、今回、新たなテーマの存在することを知った。

 右の「壬申の乱」歌(199) と「泣澤の歌」(202)において、一方は「吾大王(4回)」に対し、他方は「我王」という表記だ。この後者(202)を以て前者(199)の「反歌」だと主張しようとすれば、当然「大王=王」とならざるをえない。背理だ。

 このような、国学者が歴代〝侵″してきた背理、その淵源は実に「万葉集(巻一、二)の偽編修」そのものにあったのである。

 いうなれば、国学者たちはその「偽編集の合理化」という役どころを、歴代〝仰せつかっていた″こととなろう。

《真説古代史・近畿王朝草創期編》(143)

「天武紀・持統紀」(58)


人麿が「壬申の乱」を詠った?(11)
「渡會の齋の宮」


(6)
渡會の齋の宮〈渡會乃齋宮〉
渡会「伊勢の渡会郡」。
斎の宮「斎宮のことではなく、天照大神をいつきまつった宮、すなわち伊勢神宮」。

 ここの頭注もおかしい。はっきりと「齋の宮」となっているのに「斎宮のことではなく・・・」と解説している。では「齋の宮」とはなにか。

 「垂仁紀」25年条に伊勢神宮が造営の記事がある。倭姫が「「風の伊勢國・・・に居らむと欲ふ」よいう天照大神のお告げを受ける。

故、大(おほみかみ)の教の随(まにま)に、其の祠(やしろ)を伊勢國に立てたまふ。因りて齋宮(いはいのみや)を五十鈴の川上に興(た)つ。

 天照大神を祭った宮、いわゆる「内宮」をここでは「其の祠」と言っている。その条の分注(一に云く)では「伊勢国の渡遇宮(わたらひのみや)」と呼んでいる。当然、「齋宮」は内宮のことではない。頭注は
「斎王の忌みこもる宮。イハヒノミヤともイツキノミヤとも訓める」。
と解説している。

 199番の「齋の宮」の部分を再提示する。

・・・渡會(わたらひ)の 齋(いつき)の宮ゆ 神風(かむかぜ)に い吹き惑(まと)はし 天雲(あまくも)を 日の目も見せず・・・

 「齋の宮から神風を吹かせて」と詠っている。「齋の宮=伊勢神宮」と考えなければ不都合なのだ。「「斎宮のことではなく・・・」と解説しなければならない理由がここにある。

 「齋の宮ゆ 神風に」は本来どう解すべきなのか。「神風」といえば、ヤマト王権一元論者を悩ましていた歌があった。次の「神武紀」挿入歌である。

神風の 伊勢の海の
大石にや い這ひ廻る 細螺の 細螺の
吾子よ 吾子よ
細螺の い這ひ廻り
撃ちてし止まむ 撃ちてし止まむ


 「神武紀」には神武が伊勢に行った記事が皆無なのだ。それで学者たちは悩んでいた。

 実は既に、「神風」は伊勢国の専売特許ではなく、この歌の「伊勢の海」は「伊勢国の海」ではないということを「『神武東侵』:生き返る挿入歌謡(2)」で論証している。繰り返しになるが、古田さんは「真実の白村江」でそれをより簡潔に再論しているので、それを引用しよう。
 この歌については、不審があった。

 もしこれが伊勢国(三重県)のことだとすれば、伊勢神宮ができたのはずっとあと、少なくとも「垂仁」(日本書紀)以後のこと、「神武歌謡」に現われて「神風の」と歌われるはずはない。

 その上、「神武天皇」には伊勢国へ立ち寄った形跡がないのである。

 いずれの点から見ても、「?」だった。これを「神武歌謡の後代成立の証拠」と言ってみても、解決にはならない。だとすれば、「垂仁紀」も読んだことのない「ウカツ者」の〝失敗作″ということになるではないか。他(日本書紀の製作者)を、そんなに「馬鹿」扱いにしても、よいものだろうか。

 ともあれ、「?」の歌だったのである。

 ところが、思わざるところに解決が現われた。それは九州の福岡県の糸島郡(前原市・二丈町)にあった。

 そこに「伊勢浦」があり、「大石」があり、そこには「神在」があった。「在(あり)」は接尾語だ。そして「神風」は〝神ヶ瀬″なのである。

 この伊勢浦の大石(地名)で、細蝶(しただみ)の採り方を「吾が子」に指示する〝母親の歌″だったのだ。

 ともあれ、「神風 ― 伊勢」の原産地は、ここ糸島郡近辺だった。

 もう一つ、「神風に い吹き惑はし 天雲を・・・」。この「天雲」からは、すぐに人麿の「雷山絶唱」(235番)が思い出される。

 皇(すめろぎ)は神にしませば天雲の雷(いかづち)の上にいほらせるかも

 この歌についてもすでに論じている。以下の記事を参照してください。

「地名奪還大作戦(20)」
「地名奪還大作戦(21)」
「地名奪還大作戦(22)」

 「天雲」をめぐって、「真実の白村江」では、古田さんは次のように述べている。

 これが、糸島郡(前原市)の雷山の「天の宮」「雲の宮」を背景に歌われていたことは、すでに前著で詳述したところだ。その「天雲の」が、ここでも使われている。

 この「人麿作歌」の「倭国」側(日本列島)の主舞台の一が、ここ糸島郡(前原市)にあったことを〝裏づけ″ているのではあるまいか。

 従来の「伊勢の国(三重県)」説は、大きな錯覚を侵してしまっていたようである。

 この「渡會(わたらひ)の齋(いつき)の宮」とは、他ならぬこの雷山の雷神社を指しているのではあるまいか。

 古田さんは「渡會」については何も触れていない。気にかかっている。

 この地名が雷山付近にもあったのだろうか。あるいは「めぐりあう」といったような意味の普通名詞だろうか。残念ながら私にはこれを解明する力はない。ちなみに、この語は199番で使われているだけで、『万葉集』にも『日本書紀』にも他の例はない。