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《真説古代史・近畿王朝草創期編》(142)

「天武紀・持統紀」(57)


人麿が「壬申の乱」を詠った?(10)
「和蹔が原」(2)



 三国史記の「地理四、百済」の項の中に、朝鮮史関係の研究者には著名な、一地名がある。それは「倭山」である。

 先の「固麻城」記事につづく地名列記中、「三國有名未詳地分」として列記された地名の中に、この「倭山」がある。その前後を記せば

閔中原 慕本 蔚山 倭山 蚕支落 平儒原 狗山瀬

のごとくである。

 この地名列記には「釜山」も入っているから、必ずしも「未詳」とは思えないけれど、ともあれ、「有名」の地名が集録されていることは疑えない。〝名もなき″一小地名の類ではないのである。

 では、なぜこの地名が存在するか。従来の研究者にとって、これが〝悩み″の種だった。先に「著名」と言ったけれど、実は研究者たちにとって〝悩みの種″だったのである。(もちろん、通信使などの後世の「地名」ではない。)

 しかし、実のところ、わたし自身にとっては、必ずしも〝悩みの種″ではなかった。なぜなら、年来わたしは次のように考えてきていたからである。

(A)
 朝鮮海峡の北岸に「加羅」諸国があり、南岸に「津」(佐賀県)がある。同じく、北岸に「伽耶」があり、南岸に「可也山」(前原市)がある。北岸に「新羅」があり、南岸に「白木原」(福岡市)がある。

 同一海峡の両側に「同一地名」の存在することは当然だ。やや離れた宮崎県と鹿児島県・熊本県の県境領域にも、「韓国岳」の地名がある。

(B)
 もう一つの問題は「倭地」問題だ。

 三国志の魏志韓伝によると、朝鮮半島の南岸部は「倭地」である。

 韓は帯方の南東に在り。東西、海を以て限りと為す。南、倭と接す。方四千里なる可し。とあるように、後世のように「東西と南、海を以て限りと為す。」の地勢ではない。

 従って「三世紀の実状況」においては、朝鮮半島の南岸部は「倭地」であった、と見なす他はない。

 これに対し、現代の国家関係や一種のナショナリズム風の見地を「導入」させたならば、歴史の真実を見失うこととなるであろう。この点、特に留意したい。

 このような立場からは、少なくともその「倭地」において「倭語地名」の用いられていたこと、当然である。なぜなら「非、倭語地名」のみの「倭地」という概念は成立不可能だからである。(この点、別に詳論の機をえたい。)

 わたしは従来から、右のような立場に立っていたから、朝鮮半島の「三国」内において「倭山」の地名の存在することを「悩む」どころか、有力な「一徴証」としてこれを看取してきたのである。すなわちこの地名について

(a)
 この地帯は、「倭人」の多く居住する、或は居住した地域であろう。
(b)
 「三国」内といっても、朝鮮半島北半部(現在の朝鮮民主主義人民共和国)ではなく、その南半部(現在の韓国)の中で、南岸域(もとの「倭地」)に近い場所であろう。
(c)
 その上、このような「地名」成立の基礎条件として、「何等かの倭語地名」が背景に存在する可能性が高い。

 そのように考えてきたのである。

 ところで、この「倭山」は、日本列島側の、美濃国(岐阜県)の「和蹔」と〝同音″である。なぜなら

〈〉
 三国史記の成立(1145年成立)当時、「倭」の音はすでに「ヰ」wiではなく、「ワ」waであった。すなわち「和」と同音である。
〈〉
 「蹔」は「サン・ザン」(諸橋大漢和辞典)の音であり、「とくすすむ」「しばらく」「ゆく」等の意味をもつ。「足」は〝進む″を意味する。これに対し、「斬」は音をしめす表記であろう。
〈〉
 従って「和蹔」(美濃国)と「倭山」(三国)とは、全く同音をしめしている。
〈〉
 ところが、一方の美濃国の「ワザン(和蹔)」は、日本語の「わざみ」という地名をもととした漢語表記と考えられている。
〈〉
 ということは、他方の同音の「三国」の「倭山」もまた、「わざみ」という「倭語地名」を背景として成立した。その可能性が高い。

 もちろん、右の美濃国以外にも、日本列島内にこの「わざみ」の地名はありえよう。なぜなら

(イ)
 「わ」は「三」などの「輪」。祭りの場を意味する。
(ロ)
 「さ」(濁音が「ざ」)は「宇」「土」などの地形接尾辞である。
(ハ)
 「み」は「海」もしくは「女神」を意味する「か」の「み」である。

 従ってきわめて通常の「倭語地名」なのである。

 このような状況に立って人麿は「狛釼 わざみが原の」と歌った。この地名が、日本列島内のそれではなく、朝鮮半島の「倭山」、今や〝百済(「こま」)の戦場となっている「わざみが原」″であることをしめす、慎重な「文字使い」をしめしていたのである。

 彼にはこれが、「百済ならぬ、美濃国の地名」へと「換骨奪胎」されて〝転用″されるとは、思いも及ぼぬところであったであろう。そのように「誤解」されるのを恐れたからこそ、わざわざ「狛釼」の冠辞を用いたのであるから。

 その上、この長歌の歌詞を熟読すれば、鮮明な事実がある。それは

(α)狛釼 わざみが原の ― 戦闘の原野
(β)百済の原ゆ ― 葬送の原野

この二つの原野は「同一の原野」なのである。この歌の主人公(「明日香皇子」)は、百済の一部である「わざみが原」で戦い、そこで斃れ、そこから彼の屍は〝運び去られ″ていった。人麿はそのように見なし、そのように歌っているのである。― 壮烈な戦死だ。

 しかるに従来は、
(一)
 高市皇子は壬申の乱において美濃国の「わざみが原」で戦った。(673) (二)
 右の戦勝のはるかのちの24年後(696)、大和の百済原で葬られた。

というように、「場所」と「時」をバラバラにして、この濃密にして壮烈な歌を稀薄に「解しゆがめて」きていたのではなかったか。請い願わくは、再思熟考されんことを。

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《真説古代史・近畿王朝草創期編》(141)

「天武紀・持統紀」(56)


人麿が「壬申の乱」を詠った?(9)
「和蹔が原」(1)


(4)
高麗剱<和蹔が原〈狛劔 和射見我原〉
高麗剣「枕詞。わざみが原のワにかかる。高麗の剣は、柄頭に鐶(わ)があるので、ワにかかる。
和蹔が原「岐阜県不破郡関ケ原町関ケ原。一説に、同郡青野が原(同郡赤坂町青野のあたり)」。

 『万葉集』の原文では「和射見」を「和蹔」と訓読した理由ははっきりしている。「天武紀(上)」で使われているからだ。672(天武元)年6月条に4回出てくる。

丁亥(ひのとのゐのひ 27日)に、・・・(天武が)野上(のがみ)に到りたまふに。高市皇子和蹔より参迎(まうむか)へて、便(すまは)ちに奏(まう)して言(まう)さく、・・・皇子、和蹔に還る。天皇、茲に、行宮(かりみや)を野上に興して居(ま)します。
戊子(つちのえねのひ 28日)、天皇、和蹔に往(い)でまして、軍事(いくさのこと)檢校(かむが)へて還りたまふ。
己丑(つちのとのうしのひ 29日)に、天皇、和蹔に往でまして、高市皇子に命(みことのり)して、軍衆(いくさのひとども)号令に號令(のりごと)したまふ。天皇、亦(また)野上に還りて居します。


 これを〈大系〉の頭注は、次のように解説している。

「万葉集199、高市皇子の殯宮の時の柿本人麻呂の挽歌に壬申の乱のことを叙して、「狛劔(こまつるぎ)和射見が原の行宮にあもりいまして・・・」とあり、以下、和蹔での出来事を述べている。和射見(和蹔)が原はいわゆる関ヶ原一帯の地、行宮とは下文にみえる野上の行宮であろう。」

 当然のことながら、『万葉集』の頭注と呼応している。この地名こそ「高市皇子の殯宮の時の」歌という『万葉集』の題詞の疑うべからざる証拠と、誰もが思うことだろう。

 しかし、この論理は逆である。『万葉集』には「和蹔」という語はない。『万葉集』の「和射見」に「和蹔」という語を当てたのは題詞を鵜呑みにしている結果なのだ。「和蹔」というこの印象的な語を人麿は用いていない。しかも「和蹔」の比定はキチンとはできていない。


 (『万葉集』には)狛釼和射見我原乃とある。それを万葉学者が、日本書紀の天武紀中の「印象的な用字」を以て、「代置」したのである。

 通例、「訓み下し文」が原文の用字を、現代の読者に〝分りやすい文字″で「代置」するのが一般であろうけれど、ここではわざわざ「原文よりむずかしい文字」そして一般には「用いられない文字」で「代置」しているのである。珍しい例だ。

 その目的は、いかに。もちろん読者をして「壬申の乱のイメージ」を喚起するためだ。言うなれば、「意図ある、代置」なのである。

 では、その実体は、いかに。

 この問題を解くカギは「狛劔」という句にある。

 全体の文脈の中では「狛劔」は唐突と思える詩句である。学者たちは「狛=高麗」と解釈をして、この詩句を「ワ」にかかる枕詞とした。つまり、全体の文意とは関わりのない句として処理している。

 では、この句は正しくはどう解釈すべきなのだろうか。この問題の解明に、まさに古田さんはその真骨頂を発揮する。その分析を直接引用しよう。

 だが、「こま(狛)」は決して「高句麗」を指すだけではない。三国史記の巻第37(雑志第6)の「地理4、百済」の項に次の一文がある。

百済
 後漢書云、三韓凡七十八國。百済是其一國焉。北史云。百済東極新羅。西南倶限大海。北際漢江。其都曰居抜城。又云固麻城。
(380ページ)

 百済が高句麗の一分派であることは著名だ。高句麗の鄒牟王(朱蒙)の第二夫人が二子(長男、沸流と次男、温祚)を伴って南下し、弟の温祚が慰禮城にあって「十済」を号し、やがて国号を「百済」と号するに至った。その経緯は、三国史記の百済本紀第一にも、詳述されている。

 従って彼等がみずからの都城を「固麻城」と称したのは、偶然ではない。「我こそ『固麻』(高句麗)の本流」という、己が〝自負″を表現したものであろう。

 従ってわたしたちは「こま」とあった場合、速断する前に、「この『こま』はいずれの呼び名か。」という問いを先ず立て、それを〝通過″すべきものである。

 今の問題に入ろう。

 ここでは、人麿は指示している。「この『こま』 は、百済である。」と。なぜなら、先述のように、印象深き「百濟の原ゆ」の一節と〝併置″しているからである。すなわち、この「狛釼」は「高麗剣」ではなく、「百済剣」を意味する言葉だったのである。

 もちろんこれは、「わ」という一語を引き出すための〝言葉遊び″ではない。次の「和射見我原」が、通例、日本列島側の人々の聞き馴れた「美濃国のわざみ」ではないことをしめしているのだ。

 では、百済に「わざみ」という地名があるのだろうか。これが次の問題である。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(140)

「天武紀・持統紀」(55)


人麿が「壬申の乱」を詠った?(8)
「百濟の原」


 もう私(たち)には「百濟の原」が百済国内の原野を指すことに何の疑念もない。しかし念のため、「定説」の「百濟の原」を検討しておこう。

(7)
百濟の原〈百濟之原〉
(注なし)

 199番が詠っている戦いが壬申の乱というのなら、「百濟の原」は最も力を入れて説明しなければならない地名だ。「百濟の原」の前の詩句「言(こと)さへく」に注がある。

「枕詞。百済にかかる。百済人の言葉がわかりにくくひびく意」。

 だが大系は「百濟」に対しては口をつぐんでいる。そこで私は他のところで説明がされているのだろうかと思い、調べてみた。『万葉集』には「百濟」という地名を詠い込んでいる歌がもう一つだけある。

1431番(巻8)
山部宿禰赤人の歌一首
百済野の萩の古枝(ふるえ)に春待つと居りし鶯鳴きにけむかも


 この歌の頭注に曰く
「百済野-奈良県北葛城郡広陵町百済あたりの野。昔は相当広範囲に渡ったらしい。朝鮮半島からの帰化人が居た故の名」。

 城上の宮の候補地の一つとして〈大系〉の注は「奈良県北葛城郡広陵町」を挙げていた。歌には「わご大王の葬列が百済の原を通って城上の宮へ」行くと書かれているので、「百濟」と「城上の宮」を同じ所に求めたのだろう。斎藤茂吉・山田孝雄も次のように述べており、これに異論をはさむ学者はいないようだ。(斎藤茂吉は1431番にも言及している。)

「百濟之原は今の大和北葛城郡、百濟村大字百濟の地で、飛鳥京から城上の殯宮に行くには其虞を通過したものであらう。巻八(1431)に、百濟野乃芽古枝爾の百濟野も同じ處であるやうである。書紀舒明巻に、十一年秋七月詔曰、今年造作大宮及大寺、則以百済川側宮處云々。十二年冬十月、徒百濟宮云々とある。」

「(百済之原は)飛鳥地方より城上の殯宮に至る経過する地にして平野なれば、原とはいへるなり。」

 この「定説」に対して古田さんは次のように反論している。

 しかし、ここには大いなる「?」がある。なぜなら、「百済」 の地名は近畿周辺だけでも、「一つ」 ではない。

 百済 ― 河内国、錦部(ニシキコリ)郡
百済郡 ― 摂津国   (和名類聚抄)

なども、著名だ。特に摂津国の場合、「郷名」「村名」の類ではなく、「郡名」であるから、より〝一般的な著名性″をもっている、とも言いうるのではあるまいか。

 とすれば、長歌の場合、それらに非ざることをしめすため、
 「大和なる百濟の原」
 「葛城の百濟の原」
といった表記が当然、あって然るべきもの。わたしはそう考えるが、ちがっているだろうか。

 この点、斎藤茂吉も、山田孝雄も、例にあげている山部宿禰赤人の歌一首
百濟野の萩の古枝に春待つと居りし鶯鳴きにけむかも
は、同一の談を以て見るべき歌ではない。なぜなら「五・七・五・七・七」という短歌の〝語数の少なさ″と内容的にも〝寓目性の強い″「短歌型式」だから、必ずしも「~の百済野」の形式は、不必要とは言えないまでも、〝入れにくい″要求だからである。

 この点、長歌はちがう。ことに、万葉集随一を誇る長大の詩句が連ねられ、「枕詞」類の修辞句も、豊富に連ねられていること、一見して明瞭だ。

 だからこれに対し、先述のように「葛城の」といった冠辞を付すること、何の困難もないであろう。しかし、それはない。なぜか。

 頭を一新しよう。

 天下に、もっとも著名なる「百済」とは、当然〝朝鮮半島の百済″だ。一点も、疑問の余地はない。これに「~の百済」などという限定詞は必要がない。

 むしろ、右のような「限定詞のない」事実こそ、この「百済」を以て、いずこに比定すべきかをしめす。

 当然、倭国と同盟を結び、新羅・唐と戦った百済国である。その「百済国の原野で戦い、そこで姿を消した王者」それがこの人麿作歌の主題、そして主たる対象なのである。

《真説古代史・近畿王朝草創期編》(139)

「天武紀・持統紀」(54)


番外編


 昨日、向井藤司さんから次のようなコメントをいただきました。

白村江の戦いの時期のくい違い

初めてお便りします。
今年になってからこのブログを見つけて、過去の「真説・古代史」、《「真説・古代史」拾遺編》も周回遅れでフォローして、楽しく読んでいます。

白村江の戦いが書紀では663年、旧唐書では662年と1年のくい違いがあります。この理由として納得できる説明を見たことがありません。歴史の大きな流れには影響しないと思いますが、何となく気になります。何かご存知でしたらご教示下さい。

 故・中村幸雄さんがこの問題を論じていたのを思い出した。紹介しよう。

「辛酉革命説」私説   ―「白村江の戦い」年代の謎を解く―

 戦前、我々は歴史教育を、『日本書紀』の天皇治世をそのまま列挙した「皇紀(西歴より六六〇年長い)」により受けたが、神武以後の天皇が異常に長命であり不審に思っていた。

 当然、歴史学者も疑問を持たれたのであり、特に那珂通世氏は『上世年紀考』で、『日本書紀』は大和朝廷の成立を修飾する為、故意に年数を延長したのではないかと推定し、その基準は『周易』では「辛酉」を革命の年とし、「一蔀=廿一元日千二百六〇年」に大革命があった筈だとして、「皇紀1261年=601年=推古9年」から1260年前に、神武即位年を設定したのであると云う「辛酉革命説」を提唱した。

 だが、『日本書紀』 の推古9年には、聖徳太子が斑鳩宮を造った以外にはさしたる記事はなく、那珂説には納得出来ず、私は那珂氏が「一蔀=二一元=二一六〇年」のみを固執されたことを残念に思うのである。

 実は「辛酉革命説」を最初に提起したのは、平安中期の菅原道真と同時代人の三善清行『革命勘文』であった。

〝易緯(鄭玄注)云、辛酉為革命、甲子為革命、天道不遠、三五而反、四六二六交相乗、七元有三変、三七相乗、廿一元為一蔀、合千三百廿年。″

 この数理は難解であり、何を意味しているか不明であるが、清行は要するに、『周易』では、1320年が重要な意味を持った年数であると考えていたことは明らかであり、『日本書紀』では「皇紀1321年=661年」である斉明7年を基準として、遡って神武皇紀元年が設定され、古代天皇の年令も作為的に延長されたことを示唆しているのである。

 この様に清行説を紹介すると、当然、読者は斉明七年にどの様な歴史上の重要事件があったのか、と問われるであろう。この予想される質問に対し、清行は次の通り解答している。

〝天皇財重日足姫(斉明)天皇七年(661年)、辛酉秋七月崩、天智天皇位。″

 即ち、潜行の主張は、「皇紀1321年=661年=斉明死亡=天智元年」であったのである。

 平安時代、天智が最も重要な天皇であると認識されていたことは清行と同時代に成立している『延喜式」で朝廷行事「国忌」の最古が「天智忌」である事実により確認され、その理由は天智が〝天命を受けた天皇″であり、大和朝廷の始祖であったからであると推定し得る。

 ここまでの話(「国忌」と「辛酉革命説」)については、既に「「天智紀」(1)」
「「天智紀」(2)」で取り上げている。参照してください。

 この様に述べると、次の反論が予想される。

(1) 661年は、天智「素服称制」であり、
(2) 天智の即位は、668年である。
(3) 『日本書紀』 の編年によると、天智元年は662年である。
(4) 故に、三善清行の年代認識は誤りであり、『革命勘文』は信頼出来ない。

 成程、『日本書紀』をそのまま、正しいと信用すると、その通りである。然し、私は『日本書紀』には作為があると考えており、その編年に、次の疑問を持っていた。

(5) 斉明・天武の例の様に、年の途中に死亡しても、その年末までは治世は継続していたとしているケースがある。
と共に、
(6) 皇極・持統の例の様に、年の途中に王位交替があったとき、即時に治世は交替しているケースがあり、
両者のどちらが「治世変更」の原則であるかが一定していないからである。

 現代の「改元」の常識で判断すると、その原則は当然後者であり、恐らくは古代に於いても同様であり、前者は『日本書紀』の造作ではないかと推定される。

 故に、私は本来の天智元年は、斉明死亡年である661年であり、『日本書紀』の造作により、「一年おくれ」の662年に変更されたが、原伝承は継承され、『革命勘文』に登場したのではないかと推測するのである。

 角度を変えて、「白村江の戦、年代の謎」を考えてみよう。周知の通り、『日本書紀』では白村江の戦は「天智2年=663年」であり、外国史書と一年の誤差があり、疑問とされてきた。

 私見の通り、天智2年の原形は662年であり、『日本書紀』の造作により、一年繰下げられたにも拘らず、「白村江の戦=天智2年」のまま収録された為、一年の誤差を生じてしまったと解釈すると、この謎は解けるのである。

 白村江の戦は、大和朝廷とは無縁の九州王朝の出来事であり、大和朝廷の史書である『日本書紀』の史官はさほど重要視せず、誤って編集し、校正を怠ったと推定される。

 「天智称制」そのものを「造作」とする私(たち)の立場からは納得しがたい点があるが、一応こういう議論があるということで紹介した。

 なお、向井さんの問題提起を受けて考え始めたばかりなので、まだ漠然としたものでしかないが、いま私なりに考えていることを記しておく。

「「天智紀」(3)」では、現在残されている『日本書紀』は一度完成したものを「辛酉革命説」に則って書き換えられたものであるいう山崎説を取り上げた。その一節を転載する。

《山崎さんは、『日本書紀』の前に一度完成していた史料を『「書紀」初稿』と呼んでいる。山崎さんによると、『日本書紀』の中には、『「書紀」初稿』のままの修正漏れのミス・矛盾と推定されるものがたくさん紛れ込んでいるという。山崎さんの計算によると『日本書紀』全体の「誤りと矛盾」が312ヶ所のうち、書き替えによる「誤りと矛盾」は153ヶ所で50パーセント弱になるという。》

 私(たち)の立場からは、「一年の誤差」も書き換えの上で起こった齟齬の一つだと考えることができる。たぶん、斉明の死亡年を661年にずらしたため、661年から始まる「州柔の陸戦」・「白村江の開戦」関連の全ての記事を一年ずつ後の方にずらさざるを得なかった。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(138)

「天武紀・持統紀」(53)


人麿が「壬申の乱」を詠った?(7)
「背面の國」と「吾妻の國」


(5)
鶏が鳴く吾妻の國〈鶏之鳴吾妻乃國〉
(注なし)

 〈大系〉には「吾妻の国」についての注がないが、定説論者にとっては「自明」というわけにはいかない。多くの議論が行われている。ただし、199番を「壬申の乱」の歌としているので、壬申の乱の時の「東国軍団の軍事制度」というテーマとして議論されている。「天武紀(上)」には天武方の将兵として「美濃国司」・「尾張国司」・「東海の軍」・「東山の軍」などが記録されている。これについて、例えば山田孝雄は『萬葉集講義』で次のように論じている。

 吾妻之國之『アヅマノクニノ』とよむこと論なし。『吾妻乃國』は東國なることも論なきが、何によりてかくいふか。普通には日本紀、古事記にいへる如く、日本武尊の故事によりて坂東諸國を『アヅマ』と名づくといひ、(曰本紀には山東諸國とあり)それに異論もなき事なるが、若し然りとせば、ここに美濃國を東之國といへるを如何に解釋すべきか。

 なほこの時美濃に召されし兵は日本紀に東海の軍東山の軍とあるが、その東海の軍は尾張の軍を主とし、東山の軍は釋紀に引ける私記に曰はく『案斗智徳日記云命發信濃兵』とあり。

 これによりて考ふるに、この時『アヅマ』といふ語は坂東といふ固有の義にあらずして、汎く東方をすべて『アヅマ』といひしなることを考ふべし。

 なほ思ふに或は『アヅマ』といふ語はただ東方といふ意の古語にして、日本武尊の故事といふものもその説明の為の傳説ならむも知られず。

 199番で使われている「吾妻の国」とは関東地方を指す固有名詞ではなく、ただ「東方」という意味である、と言っている。つまり、大和から見た東方の国、「美濃国」・「尾張国」を指す、と言っている。

 「壬申の乱」という立場からすればこのように考えるほかない。しかし、これはおかしい。この伝で言うと、九州から見ると中国地方・四国地方・近畿地方の国々は「吾妻の国」と呼んでよいことになってしまう。  ついでながら、「日本武尊の故事」というのは、『古事記』から引用すると、次のくだりを指している。

 それより入り幸(い)でまして、悉に荒ぶる蝦夷等を言向(ことむ)け、また山河の荒ぶる等(ども)を平和(やは)して、還り上り幸でます時、足柄の坂本に到りて、御粮(みかれひ)食(を)す處に、その坂の、白き鹿(か)に化(な)りて來立ちき。ここにすなはちその咋(く)ひ遺(のこ)したまひし蒜(ひる)の片端をもちて、待ち打ちたまへば、その目に中(あた)りてすなはち打ち殺したまひき。故、その坂に登り立ちて、三たび歎かして、「吾妻はや。」と詔りたまひき。故、その國を號けて阿豆腐(あづま)と謂ふ。

 言うまでもなく、これは現地伝承を「倭建説話」に盗用した説話であり、「あづま」という現地名(固有名詞)はすでに定着・流布されていたことを示している。

 ところで、「吾妻」には「鶏が鳴く」という枕詞が付いている。これに関連して、斎藤茂吉が山田孝雄と同じ趣旨の論を展開している。

 「鳥之鳴・吾妻乃國之・御軍士乎・喚賜有」トリガナク・アヅマノクニノ・ミイクサヲ・メシタマヒテと訓む。東國の軍勢を動員したまうての意。

 トリガナクはアヅマの枕詞で、雞は夜明けを見て暗くからアに冠らせたといふ説(仙覺抄・冠辭考)。

 『さは鶏が鳴ぞやよ起きよ吾夫(アヅマ)』の意とする説(古義)。

 暁雞の暗く時に東の方から赤くなるから東方に冠らせたといふ説(福井氏枕詞の研究と釋義)。

 第一と第三とが同じに落着くべく、大體それでよい。

 ただ用例は皆アヅマに懸けたもののみだから、大體福井説の方がいいであらうか。アヅマは畿内以東の諸國で、近江、美濃、尾張などをさう云ふことがある。

 これらの従来の説を、古田さんはつぎのように批判している。

 茂吉は「さう云ふことがある。」と言っているけれど、要は、この長歌によって〝そう判断している″だけなのではあるまいか。

 この長歌の「作歌時点」が、はるか古代ならいざ知らず、「七世紀後半」においてもなお「固有名詞」に非ず、「東方」という普通名詞であったとは、わたしには信ずることができない。それならばなおさら、古事記・日本書紀において「吾妻=美濃」のような行文が現れていいはずだ。

 第一、それでは、あの関東において特に、「吾妻はや」の説話を〝唱導″すべき意味がないのではないか。

 私(たち)の立場からは「吾妻の国」がなにを指しかは、もうほとんど「自明」である。しかし、念のため古田さんの論評を読んでおこう。

 「州柔の戦い」に派遣された将軍たちは次のようであった。

前將軍
 上毛野君稚子・間人達大蓋
中將軍
 巨勢前臣評語・三輪君親戚呂
後將軍
 阿倍引田臣比邏夫・大宅臣鎌柄

  全軍の先頭を切ってリードしているのは、「上毛野稚子」である。右の六人の将軍の中で、「君」の称号をもつのは、彼と「三輪君根麻呂」だけだ。全軍の「キイ・マン」だったのではあるまいか。

 彼のひきいる「関東」の軍は、この一大陸戦の〝中枢″をなしていた。そのように考えてあやまるまい。それが、文字通りの「吾妻之國」だ。本来の「吾妻」の地名は「上毛野国(群馬県)」に集中している。

 吾妻川・吾妻神社・吾妻町・吾嬬これらの固有名詞「吾妻」の群集地、ここが本来の「吾妻」伝承の発生地なのである。

 それ故、この「上毛野君の国」を「吾妻之国」と呼ぶのは、100パ一セント、正確なのである。何の疑いもない。


(3)
背面の國の・・・不破山〈背友乃國之・・・不破山〉
背面の國「美濃の国(岐阜県)を指す。ソトモは北」。52番の注:背面―北「ソ(背)ツ(の)オモ(面)」の約」。
不破山「岐阜県不破郡と滋賀県坂田郡との境の山]

 古田さんの論評は次のように続く。

 「鶏が鳴く 吾妻の國の 御軍士(みいくさ)を 召し給ひて」
とあるように、この上毛野君稚子という有力な「君」が関東からはるばる「不破山」を越えて馳せ参じてくれたのは、今この長歌の主人公「明日香皇子」その招請に依ったもの。人麿はそのように見なし、そう歌ったのである。

「やすみしし わご大君の きこしめす 背面(そとも)の國の 真木立つ 不破山越えて」

 「わご大君(吾大王)」とは、この長歌の主人公「明日香皇子」だ。

皇子ながら 任(ま)け給ひ」
とあるように、彼は「天子」(「倭国」九州王朝)の皇子として「大王」の位置にあったのである。

 「背面の國」とは、九州の「筑紫」を中枢点として、「吾妻の国」を指している。

 「不破山」の解釈については、古田さんは「定説」のものを踏襲している。しかし、私はこれには異議がある。文脈から「不破山」を越えたのは「わご大君」であって、「吾妻の國の御軍士」ではない。

 私はここの「不破山」は固有名詞ではなく、「踏破しがたい山」あるいは「難攻不落の山」という意味合いの普通名詞だと思う。 倭・百済連合軍が避城で敗れて第二の拠点とした州柔は
「山檢(やまさか)を設(ま)け置きて、盡(ことごとく)に防禦(ほせき)として、山峻高(やまさが)しくして谿隘(たにせば)ければ」
と描写されている。まさに「不破山」である。

 また、「背面」が〈大系〉の注が言うとおりの意味「北の方面」ならば、「背面の國」とは「吾妻の國」ではなく、「百濟」がピッタリと妥当する。

 つまり
「背面(そとも)の國の 真木(まき)立つ 不破山越えて 高麗剱 和蹔が原の 行宮に天降り座して」 の意味は
「百濟の険しい山を越えて、和蹔が原の行宮にお出ましになって」
となる。もしそうなら、次は「和蹔が原」の所在が問題となる。

《真説古代史・近畿王朝草創期編》(137)

「天武紀・持統紀」(52)


人麿が「壬申の乱」を詠った?(6)
城上の宮


(2)
城上の宮〈木上宮〉
「奈良県北葛城郡広陵町という。異説がある」。

 「城上の宮」は題詞にも使われている。「城上の殯宮〈城上殯宮〉」とあり、この歌を「高市皇子への挽歌」と主張する上でのかなめとなる地名だけれど、〈大系〉の注が「・・・という。異説あり」と語る通り、大和内ではうまく比定できていない。古田さんがその議論の経緯を語っている一文を斎藤茂吉著『柿本人麿、評釋篇巻之上』より引用している。

 「城上殯宮(きのへのおほあらき)は、延喜式の三立岡高市皇子在大和國廣瀬郡兆域東西六町南四町無守戸とあるところで、今の北葛城郡(舊廣瀬郡)馬見村三吉字大垣内の三立山(みたてやま)といふ地に當るといはれてゐる。そして明日香皇女の殯宮のあった城上岡の北方約半里の地點に當ってゐる。然るに廣瀬社記には、『城戸郷河合村』とあるし、折口博士は、高市郡飛鳥村木部(きべ)であらうと考へてゐる。

 博士云。『當時特別の事情のない限り、諸皇子の常在處は、都の附辺であったので、飛鳥に近い木部(きべ)に殯宮を造られたのはあるべき事である』(萬葉集辞典)。

 なほ奥野氏云。『此の場合上記廣瀬郡以外に、或は高市・城上・十市等諸郡にも同名地ありしと見て不都合なきが如し。城於道は高市又は十市郡中の城上への往還、又は云ひ得べくんば城上郡への通路か。木上宮。不明。恐らく上記の一に在りしなるべし』(萬葉大和志考)。(668ページ)

 実は〈大系〉の注は「明日香皇女、木缻(きのへ)の殯宮の時、柿本朝臣人麿の作る歌」(196~198)の「注を見よ」との指示に従って、そこの注を書き留めたものである。上記引用文中に「明日香皇女の殯宮のあった城上岡の北方約半里の地點に當ってゐる」とあるが、「明日香皇女」の陵墓についての記載は「延喜式」にはない。「明日香皇女の殯宮のあった城上岡」というのは、逆にこの万葉の長歌によって比定されたもののようだ。要するに「高市皇子尊の城上の殯宮」はどことも分からずじまいなのである。

(「缻」は原文では瓸の「百」の代わりに「缶」という字。漢和辞典にはない。)

 上の引用文中の「木上宮。不明。」の一節を、古田さんは「きわめて意味深い。真実(リアル)なのである。」と述べて、次のように続けている。

 これに対し、九州にも「城邊(きのへ)」がある。筑紫(筑前)の下座(シモツクラ)郡にある。

 城邊 木乃倍   和名類聚抄

 ここは「夜須郡」と近接している。あの「かきやす」だ。また同じく近接する上座(カムツアサクラ)郡の把伎(ハキ)には、あの「麻氐良布神社」があり、そこの祭神の一に、あの「明日香皇子」が祭られていた。この皇子の「名」は「大和」にはなかった。(内田康夫『明日香の皇子』は、実在の人物名ではない。)

 それがここ、朝倉郡(「上座郡」)には存在する。人麿作歌の、本来の故郷。それがどこか、すでに疑うことは困難なのではあるまいか。

 今まで扱ってきた、幾多の人麿作歌(「雷山の歌」(235)や「天帰の歌」(240)「滝の歌」(36)などと同じく、ここでも「九州から大和へ」の移植が見事に行われている。そして残念ながら〝不細工″に。

 わたしは、ことの本質をそのように見すえることとなった。やはり、いわゆる「壬申の乱の歌」(199)は、〝壬申の乱″とは関係がない。

《真説古代史・近畿王朝草創期編》(136)

「天武紀・持統紀」(51)


人麿が「壬申の乱」を詠った?(5)
「白村江の戦」の前に陸戦があった


 白村江の海戦は663(天智2)年の秋8月に行われた。それより先、662(天智元)年冬12月から663(天智2)年春3月にかけて、百済の地で陸戦が行われていた。

 12月、百済復興を目指して百済に帰った百済王・豊璋(ほうしょう)は避城(へさし)を都とした。2月に唐・新羅連合軍に攻められて、倭・百済連合軍は州柔(つぬ)へ敗走した。3月、倭国は27,000人の大軍を百済に送った。倭・百済連合軍 対 唐・新羅連合軍の陸戦も大規模な激戦だったと思われる。この戦いの経緯を「天智紀」は次のように記録している。

 冬十二月の丙戌(ひのえいね)の朔(ついたちのひ)に、百濟の王(こきし)豊璋(ほうしやう)、其の臣(まへつきみ)佐平信(さへいふくしん)等、狭井連(さゐのむらじ)〈名を闕せり。〉、朴市田來津(えちのたくつ)と、議(はか)りて曰はく、「此の州柔(つぬ)は、遠く田畝(たはたけ)に陥(へな)りて、土地磽确(つちやせ)たり。農桑(なりはひこかひ)の地に非ず。是(これ)担(ふせ)き戦ふ場(には)なり。此に久しく處(を)らば、民(たみ)飢饉(う)ゑぬべし。今避城(へさし)に遷るべし。避城は、西北(いぬゐ)は帯ぶるに古連旦(これんたんけい)の水(かは)を以てし、東南(たつみ)は深泥巨堰(しむでいこえん)の防(ふせき)に據(よ)れり。繚(めぐら)すに周田(まときた)を以てし、渠(みぞ)を決(さく)りて雨を降らす。華實(はなみ)の毛(くにつもの)は、三韓(みつのからくに)の上腴(よきもの)なり。衣食(きものくらひもの)の源(みなもと)は、二儀(あめつち)の隩區(くむしら)なり。地卑(ところくだ)れりと曰ふとも、豈(あに)遷らざらむや」といふ。是に、朴市田來津、獨(ひと)り進みて諌(あさ)めて曰はく、「避城と敵(あた)の所(を)在る間(ところ)と、一夜に行(あり)くべし。相近きこと玆(これ)甚(はなはだ)し。若し不虞(おもほえぬこと)有らば、其れ悔(く)ゆとも及び難(がた)からむ。夫(そ)れ飢(うゑ)は後(のち)なり、亡(ほろび)は先(さき)なり。今敵の妄(みだり)に來(きた)らざる所以(ゆゑ)は、州柔、山檢(やまさか)を設(ま)け置きて、盡(ことごとく)に防禦(ほせき)として、山峻高(やまさが)しくして谿隘(たにせば)ければ、守り易くして攻め難きが故なり。若し卑(みじか)き地(ところ)に處(を)らば、何を以てか固く居りて、搖動(うご)かずして、今日 に及ばましや」といふ。遂に諫(あさめ)を聽かずして、避城に都(みやこ)す。

 是歳、百濟を救はむが爲に、兵甲(つはもの)を修繕(をさ)め、船舶(ふね)を備具(そな)へ、軍(つはもの)の粮(くらひもの)を儲設(ま)く。是年、太歳壬戌(みづのえいぬ)。

 二年の春二月(きさらぎ)の乙酉(きりとのとり)の朔(ついたち)丙戌(ひのえいぬのひ)に、百濟、達率金受(だちそちこむじゅ)等を遣(まだ)して、調(みつき)進(たけまつ)る。新羅人(しらきのひと)、百濟の南の畔(ほとり)の四州(よつのくに)を焼播(や)く。并(あはせ)て安徳(あんとく)等が要地(ぬみのところ)を取る。是に、避城、賊(あた)を去(きさ)ること近し。故、勢(いきはひ)居(を)ること能(あた)はず。乃ち還(かへ)りて州柔に居り。田來津(たくつ)が計(はか)る所の如し。

 是の月に、佐平信、唐の俘(とりこ)續守言(しよくしゆげん)等を上げ送る。

 三月(やよひ)に、前將軍(まへのいくさのきみ)上毛野君稚子(かみつけののきみわかこ)・間人達大蓋(はしひとのむらじおはふた)、中將軍(そひのいくさのきみ)巨勢前臣評語(こせのかむさきのおみをき)・三輪君親戚呂(みわのきみねまろ)、後將軍(しりへのいくさのきみ)阿倍引田臣比邏夫(あへのひけたのおみひらぶ)・大宅臣鎌柄(おほやけのおみかまつか)を遣して、二萬七千人(ふたよろづあまりななちたり)を率(ゐ)て、新羅を打たしむ。


 この戦闘を古田さんは「州柔の戦闘」と呼んでいる。この戦闘は冬から春にかけて行われている。399番が書き記す季節とピッタリ一致する。これまでに明らかになったことから、論理的必然として次の説が成り立つ。

 この「州柔の戦闘」に、今は亡き甘木大王の後を継いだ明日香皇子が倭軍の総帥として参戦したのだった。しかし、明日香皇子はこの戦闘で帰らぬ人となった。高市皇子への挽歌は実はこの明日香皇子への挽歌の盗用であった。なお、長歌(199番)の克明な情景描写から考えると、人麿も明日香皇子の随員としてこの戦闘に従軍していたと考えられる。

 この仮説が正しいことはもうほとんど疑いようがないと私には思われるが、もっと確実なものとする論証が必要だろう。199番~202番には原文改訂された地名(香具山・埴安)のほかにも以下のような地名が使われている。それらの地名の検証がそれである。

地名の訓読み〈原文〉
「定説」(岩波大系)による比定

という形式で列記しておこう。

(1)
明日香の真神の原〈明日香乃 真神之原〉
「奈良県高市郡明日香村。飛鳥寺南方一帯の地」。

(2)
城上の宮〈木上宮〉
「奈良県北葛城郡広陵町という。異説がある」。

(3)
背面の國の・・・不破山〈背友乃國之・・・不破山〉
背面の國「美濃の国(岐阜県)を指す。ソトモは北」。52番の注:背面―北「ソ(背)ツ(の)オモ(面)」の約」。
不破山「岐阜県不破郡と滋賀県坂田郡との境の山]

(4)
高麗剱<和蹔が原〈狛劔 和射見我原〉
高麗剣「枕詞。わざみが原のワにかかる。高麗の剣は、柄頭に鐶(わ)があるので、ワにかかる。
和蹔が原「岐阜県不破郡関ケ原町関ケ原。一説に、同郡青野が原(同郡赤坂町青野のあたり)」。

(5)
鶏が鳴く吾妻の國〈鶏之鳴吾妻乃國〉
(注なし)

(6)
渡會の齋の宮〈渡會乃齋宮〉
渡会「伊勢の渡会郡」。
斎の宮「斎宮のことではなく、天照大神をいつきまつった宮、すなわち伊勢神宮」。

(7)
百濟の原〈百濟之原〉
(注なし)

(8) 202番
哭澤の社〈哭澤之神社〉
「奈良県桜井市木之本にある」。

 (1)については既に「飛鳥浄御原宮の謎(8)」で、検討済みである。次回から(2)以降を検討していこう。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(135)

「天武紀・持統紀」(51)


人麿が「壬申の乱」を詠った?(4)
199番歌と239番歌の関係


(A)
鹿(しし)じもの い匍(は)ひ伏しつつ ぬばたまの 夕(ゆふべ)になれば 大殿(おほとの)を ふり放(さ)け見つつ 鶉(うづら)なす い匍ひもとほり 侍(さもら)へど 侍(さもら)ひ得ねば 春鳥の さまよひぬれば 嘆きも いまだ過ぎぬに 憶(おも)ひも いまだ盡きねば

 199番の中のこの詩句に出会ったとき、誰もが「飛鳥浄御原宮の謎(10)」で取り上げた239番歌を思い出すことだろう。その歌の中に類似の詩句があった。

(B)
獵路の小野に 猪鹿(しし)こそば い匍ひ拜(おろが)め 鶉こそ い匍ひ廻(もと)ほれ 猪鹿じもの い匍ひ拝み 鶉なす い匍ひ廻ほり 恐(かしこ)みと 仕へ奉りて

 人麿は、どのような情意を込めて、199番と239番に同様の詩句を用いたのだろうか。
 199番は高市皇子への挽歌であり、239番は長皇子の猟の時の歌である、と題詞どおりに扱っている学者たちはこれをどのように説明しているのだろうか。

 従来の万葉学者にとっては、この二つの「類似したフレーズの用法」について、合理的に、そして有機的に理解することはおよそ不可能だったのではあるまいか。

 なぜなら、一方は「長皇子の『生前』の狩猟歌」、他方は「高市皇子への『没後』の挽歌」において、ほとんど「相似形をなす、特異な修辞」がダブって出現しているのだ。

 しかも、高市皇子の場合、「壬申の乱」に対する、延々たる戦闘場面のあと、なぜ突如「狩獵の場面」へと〝話題が転換する″のだろう。ほとんど〝常軌を逸している″といっても、過言ではないのではないか。わたしはそう思う。

 従来はこれに対し、「拝礼の儀式」のように解してきた。

「伊波比伏管『イハヒフシツツ』なり。『イハヒ』の『イ』は所謂發語といはるる接頭辭にして深き意なく、いはひにて『ハヒ』といふに同じ。(中略)即ち『這ひ伏しつつ』といふ事なるが、これは貴人に對する拝禮の容をいへるなり。」(山田孝雄『萬葉集講義』490ページ)

のようだ。斎藤茂吉も

「また、書紀天武紀に、11年9月、辛卯朔壬辰、勅自今後跪禮匍匐禮(ヒザマヅクヰヤハフヰヤ)並止之、更用難波朝廷之立禮云々とあるを以て、攷證では、『匍匐は禮なるをしるべし』 と云いて居り、なは續日本紀文武天皇の慶雲元年正月の條に、辛亥始停二百官跪伏之禮とあるから、其頃までは未だ跪伏の禮が行はれてゐたやうである。」(『柿本人麿評釋篇巻之上』708ページ)

という。右の茂吉の引文の直前に、例の「天帰の歌」(239)中の〝類似文″が一部引用されているけれど、肝心の「問い」たる「なぜ、狩猟の最中に『跪拝の礼』などが行われるのか。」という「問題提起」はない。当然、その「回答」もない。

 従来の万葉学者にとって、このような「問題提起」を行なってみても、これに答えうる「術(すべ)」は全くなかった。

 それ故、そのような「問題」の存在すること自体を、読者にあえて〝告げよう″とはしなかったのではあるまいか。

 従来の万葉学が強く「大和わく」に縛られ切った姿を、わたしはここでも残念ながら見出さざるをえなかったのである。

 さて、前回の地名改訂のトリック解明により、高市皇子への挽歌(199番)が、舞台を筑紫から大和へと偽装した盗用であることが判明した。では、もともと人麿は誰にこの挽歌を捧げたのだろうか。前回の議論の中にもうその答は内包されている。そう、「明日香皇子」だ。

 239番は長皇子の猟の時の歌とされているが、実は甘木(筑紫)の大王への挽歌だった。人麿は二つの挽歌(199番・239番)に同じような詩句を使っている。そこに込められた人麿の情意を古田さんは次のように読み解いている。

 右の(A)の一節は、明らかに(B)と同一のテ一マだ。若干の語句のちがいはあるけれど、
「猪鹿―鶉―い匍ひ伏しつつ―い匍ひもとほり」
という二連の特徴ある語句を「共有」している。この点からも、両者「同一のテーマ」であることは明瞭である。これは、一体何を意味するか。

 ただ、両者のちがいとしては、先の(B)ではなかった
「ぬばたまの 夕になれば 大殿を ふり放け見つつ」
の一句が、こちらの(A)で加えられていることから見れば、
 (B)―先、
 (A)―後
の「先後関係」にあることが、判明する。

 もう一歩、立ち入って言えば、この「明日香皇子」を悼む長歌における「かっての『甘木の王者』の死」を、あえて〝想起″せしめようとしているのだ。誰に対して。もちろん、この「明日香皇子を悼む」ために集うた人々に対して、である。

 そのために、この「特徴ある語句」をあえてくりかえし、参列者に対して、いやでも
「悲劇が二度おこった」
ことを印象づけようとしている。これがこの「くりかえされたフレーズ」という仕組みのもつ、重要な役割なのである。

 「春鳥の さまよひぬれば 嘆きも いまだ過ぎぬに 憶ひも いまだ盡きねば」
とあるように、「明日香皇子」は「皇子ながら」父親ないし、先代に当る「甘木の王者」 の不慮の死をうけ、その代りに、この「?」の戦闘に参加してきた。その挙句の、この新たな、二度目の悲劇。人麿はそのように認識し、そのように歌っていたのである。

 『「?」の戦闘』の「?」には何が入るのだろうか。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(134)

「天武紀・持統紀」(50)


人麿が「壬申の乱」を詠った?(3)
原文改定という奥の手


 従来の万葉学者は題詞を第一次資料としているので、199番~202番に出てくる地名の探索も奈良の中でしか行わない。地名を奈良の中に見いだすためにさまざまな手を使う。199番~202番では古写本より後代の写本を採用するという原文改訂を行っている。

 『万葉集』の最も古い写本は「元暦校本」(平安中期)であるが、全歌揃っていない。しかし、6割以上の歌を網羅し、それぞれに校訂があるので、最も重要な写本とされている。〈大系〉は「元暦校本」ではなく、「西本願寺本」を底本としている。「西本願寺本」は鎌倉時代後期の写本だが、20巻すべてそろったものでは一番古い写本なので、これを底本に選んだのだろう。しかし多くの点で「元暦校本」による文字改訂を行っているので、「元暦校本」を重要視していることがうかがえる。

 〈大系〉では「西本願寺本」の原文を改訂した文字にはその根拠となった写本を示している。199番に出てくる地名に関しては次のような改定が行われている。

 底本文→改訂文〈根拠写本〉(歌番号)という形式で示すと
A
香未山之宮→香來山之宮〈金・類・紀〉(199番)
B
垣安乃→埴安乃〈温・矢・京〉(199番)
C
垣安乃→埴安乃(紀)(201番)
となる。


(古田さんは「元暦校本」を、後代写本に比して純然たる古写本と評価していて、「元暦校本」を底本として比べている。上の例では「元暦校本」を底本とした場合も同じである。)

 改訂根拠となっている写本は略記号で示されているが、復元すると次のようになる。

〈温〉→温故堂本(室町末期)
〈矢〉→大矢本(室町末期)
〈京〉→京都大学本(江戸初期)
〈金〉→金沢文庫本(室町時代初期)
〈類〉→類聚古集(平安時代後期または鎌倉初期)
〈紀〉→紀州本(1~10巻 鎌倉時代末期 11~20巻 室町時代後期)

 全て後代写本だ。「類聚古集」以外は「新点本」と呼ばれている。「類聚古集」は比較的古く、「元暦校本」と同じく「次点本」に分類されているが、古田さんによると、『「類聚者の手」の加えられている点、「元暦校本」のような、純然たる古写本ではない』という。

 以上のような改訂状況を、古田さんは次のように分析している。

 第一、「元暦校本」という初期写本の表記を捨て、いずれも「後代写本」の表記を是としている。

 第二、右の結果、次のような文面となっている。


 Aの場合、「香山之宮」では「神山の宮」となる。このような「宮」は大和には存在しない。しかしに〝変える″と「大和の香具山のそばにある宮」という意味として「大和内の作歌」にふさわしく見える。


BCも、「安」では「大和内の地名」となりえないけれど、「安」に〝変える″と、「大和の香具山のそばの埴安の池」と結びつけうる。

 以上だ。すなわち、「元暦校本」や「西本願寺本」など、一般の諸古写本の「原表記」を〝捨てる″その目的は、ひたすら「大和に合わせる」ためなのである。

 逆に言えば、「原表記」のままでは「大和に合わない」のだ。これが、「原文改定」者を導いた方針、「大和中心のイデオロギー」なのである。

 それに合わない古写本は、遠慮なく書き変える。―これが、右の「後代写本」成立の基本動機だった。「改写本」だ。

 そして歴代の「国学者」も、現代の万葉学者も、滔々としてこの「後代改定の手」に従ったのである。

 後代写本が「未」→「來」・「垣」→「埴」という改定を行ったのは、写本者の不注意によるミスではなく、すでにその写本者に地名改竄の意図があったと、古田さんは言っている。

 では、底本に従った場合、Aの「香未山之宮」はどこに比定できるのだろうか。

 第一、「香未山之宮」は「神山の宮」である。「かみ」の「み」には甲類と乙類があるけれど、「未」は乙類であり、「神」に適合している。(巻17、4021では「前書き」で「雄神川」、本文(歌)で「乎如未河」と表記されている。)

 九州の筑紫(筑前)の朝倉郡には麻氐良布神社がある(杷木町志波5458)。それは麻氐良布山の山頂にある。『太宰管内志(上)』には、この麻氐良布神社の祭神として、次の表記がある。

「一説に伊弉册尊相殿に伊弉諾尊・齋明天皇・天智天皇・明日香皇子」。(「神社志」646ペ一ジ)

 「一説に」と言っているのは、この前に「祭神一座」として「伊弉諾尊」を中心(本殿)においたものと、相対した表記のようである。

 それはともあれ、「相殿」の中に「明日香皇子」の名があって、祭神の一に加えられているのが注目される。

 古事記、日本書紀はもとより、従来の「万葉研究」にも登場していない「名」だ。

 この地元、この朝倉郡の地に、「祭神」の中に加えられるほど、〝追慕″されていた人物の名。そのように考えて、およそ大過ないのではあるまいか。

 この麻氐良布神社は、麻氐良布山という「神山」の山頂に建てられている。『全国神社名鑑(下巻)』にも、その特異な山頂の神社の姿が「写真」として掲載されている。

 ここは、文字通りの「神山の宮」なのであった。

 「麻氐良布神社」・「明日香皇子」は私(たち)にはおなじみの存在だ。既に「飛鳥浄御原宮の謎(8)」 でお目にかかっている。

次に、B・Cの「垣安」はどうだろうか。

 「かき(垣)」は「かみ(神)」の「か」を接頭語としている。〝神聖な″の意である。「き」は「城・柵」。後述の「城邊(きのへ)」の「城」に当ろう。

 従って「かき」は〝神聖なる要害″の意である。

 「やす(安)」は夜須。夜須郡の名が著名である。

 すなわち「かきやす」は、〝神聖なる夜須″を意味する言葉である。九州の筑紫の一地名の美称だ。

《真説古代史・近畿王朝草創期編》(133)

「天武紀・持統紀」(49)


人麿が「壬申の乱」を詠った?(2)
季節のちぐはぐさ


 「天武紀(上)」は壬申の乱の発端を次のように記録している。

672(天武元)年6月22日
 六月の辛酉(かのとのとり)の朔壬午(ついたちみづのえうまのひ)に、村國連男依(むらくにのむらじをより)・和珥部臣君手(わにべのおみきみて)・身毛君廣(むげつきみひろ)に詔して曰はく、「今聞く、近江朝庭(あふみのみかど)の臣等(やつこら)、朕(わ)が爲(ため)に害(そこな)はむことを謀(はか)る。是(ここ)を以て、汝等(いましたち)三人(みたり)、急(すみやかに)に美濃國に往(まか)りて、安八磨郡(あはちまのこほり)の湯沐令多臣品治(ゆのうながしおほのおみほむぢ)に告げて、機要(はかりことのぬみ)を宜(のたま)ひ示して、先(ま)づ當郡(そのこほり)の兵(いくさ)を發(おこ)せ。仍(なほ)、國司等(くにのみこともちた)に經(ふ)れて、諸軍(もろもろのいくさ)を差(さ)し發(おこ)して、急(すみやか)に不破道(ふはのみち)を塞(ふせ)け。朕(われ)、今發路(いでた)たむ」とのたまふ。

 乱の終結は約一ヶ月後の7月26日である。

乙卯(きのとのうのひ)に、將軍等、不破宮に向(まう)づ。因りて大友皇子の頭(かしら)を捧げて、營(いほり)の前に獻(たてまつ)りぬ。

 陰暦の6月22日から7月26日は、現在の暦(太陽暦)で言うと7月下旬から8月下旬に当たる。最も暑い盛りの夏だ。「壬申の乱」を戦った将兵たちは重い鎧冑で身を固め、灼熱の太陽の下で滝のような汗をしたたらせながら戦ったことだろう。ところがどうだ。199番歌には
「冬ごもり 春さり来れば」
「雪降る 冬の林に」
「大雪の 亂れて来れ」
「春鳥の さまよひぬれば」
と、冬から早春の季節を示す詩句がちりばめられている。ここで描かれている戦闘は「真冬から早春にかけて」の頃に行われていることになる。この歌は「壬申の乱」を詠ったものではない、と誰もが思うのではないだろうか。

 「壬申の乱」を知っている人で、この季節の矛盾に気付かぬ人はいないだろう。しかし、歌そのものより題詞を重要視する誤った研究方法を金科玉条としている学者たちは、あくまでも「壬申の乱」の歌として扱うことに苦慮する。〈大系〉の大意がその苦慮の結果を問わず語りに語っている。

「春先に野ごとにつけてある火が風と共になびいて行くようで
「雪の降る冬の林につむじ風が吹き巻いて押しわたって行くのかと思うほど
「大雪の乱れ降るようで
「春鳥のように泣いている」


 つまり「比喩という修辞」の表現だと、言い逃れている。

修辞
「ことばを適切に用い、もしくは修飾的な語句を巧みに用いて、表現すること。また、その技術。」
比喩
「物事の説明に、これと類似したものを借りて表現すること。たとえ。」

 真夏の戦いの表現に冬や早春の事象を用いる「比喩」とは聞いて呆れる。私は若い頃に少し詩を作ったことがある。私の詩作は素人のてなぐさみに過ぎないが、それでもこのような無茶苦茶な「修辞」・「比喩」はとても恥ずかしくて使えない。古田さんも次のように呆れている。

 「真夏の戦を歌うために、あえて真冬から早春めいた〝比喩″や〝修辞″を用いたのだ。」などと、弁舌をふるったとしても、わたしは黙って首を横に振るだけである。

 世界の詩歌の歴史の中に、そんな例があれば、出してみてほしい。あれば、ただ「奇矯を好む」凡愚詩人、二流、三流の詩人にすぎぬ。わたしは人麿を以て、そのような詩人とは思わない。

《真説古代史・近畿王朝草創期編》(132)

「天武紀・持統紀」(48)


人麿が「壬申の乱」を詠った?(1)
『万葉集』199番~202番


 『万葉集』中、最も長い歌は「高市皇子尊城上殯宮之時、柿本朝臣人麿作歌一首并短哥歌」という題詞が付けられた長歌(199)である。つまり高市皇子への挽歌である。万葉集を代表する名歌と称されている。この題詞でも「尊」という称号を付けて、高市皇子を皇太子扱いにしている。

 さて、この歌には戦闘場面が歌い込まれているが、「定説」はその戦闘は「壬申の乱」であるとして疑わない。「壬申の乱」を論ずる学者たちは、「壬申の乱」の「生き証人」のように扱い、必ずといってよいほどこの歌を取り上げ利用している。

 この「定説」を疑う学者はかつて皆無であったが、それに古田さんが「否!」を突きつけている。古田さんの論考(『壬申大乱』第2章「真実の白村江」の第2説)を取り上げよう。まずは、その一連の歌(199~202)の訓読文を読んでおこう。(例によって、古田さんが問題にして取り上げている詩句を赤字で示した。)

高市皇子尊の城上の殯宮(たけちのみこのみこときのへあらきのみや)の時、柿本朝臣人麿の作る歌一首 并に短歌
(199)
かけまくも ゆゆしきかも 一に云ふ、ゆゆしけれども 言はまくも あやに畏(かしこ)き 明日香(あすか)の 真神(まかみ)の原に ひさかたの 天つ御門(みかど)を かしこくも 定めたまひて 神(かむ)さぶと 磐隠(いはがく)ります やすみしし わご大君の きこしめす 背面(そとも)の國の 真木(まき)立つ 不破山(ふはやま)越えて 高麗剱 (こまつるぎ) <和蹔(わざみ)が原の 行宮(かりみや)に天降(あも)り座(いま)して 天の下 治め給ひ 一に云ふ、掃(はら)ひ給ひて 食(を)す國(くに)を 定めたまふと 鶏(とり)が鳴く 吾妻(あづま)の國の 御軍士(みいくさ)を 召し給ひて ちはやぶる 人を和(やは)せと 服従(まつろ)はぬ 國を治(をさ)めと 一に云ふ、掃へと 皇子(みこ)ながら 任(ま)け給へば 大御身(おほみみ)に 太刀(たち)取り帯(お)ばし 大御手(おほみて)に 弓取り持たし 御軍士を あどもひたまひ 齋(ととの)ふる 鼓(つづみ)の音は 雷(いかづち)の 聲(おと)と聞くまで 吹き響(な)せる 小角(くだ)の音も 一に云ふ、笛の音は 敵(あた)見たる 虎か吼(ほ)ゆると 諸人(もろひと)の おびゆるまでに 一に云ふ、聞き惑ふまで 捧げたる 幡(はた)の靡(なびき)は 冬ごもり 春さり来れば 野(の)ごとに 着(つ)きてある火の 一に云ふ、冬ごもり春野焼く火の 風の共(むた) 靡(なび)くがごとく 取り持てる 弓弭(ゆはず)の騒(さわき) み雪降る 冬の林に 一に云ふ、木綿の林 飃風(つむじ)かも い巻き渡ると 思ふまで聞(き)きの恐(かしこ)く 一に云ふ、諸人の見惑ふまでに 引き放つ 矢の繁(しげ)けく 大雪の 亂れて来(きた)れ 一に云ふ、霰なすそちより来れば服従(まつろ)はず 立ち向ひしも 露霜(つゆしも)の 消(け)なば消(け)ぬべく 行く鳥の あらそふ間(はし)に 一に云ふ、朝霜の消なば消とふにうつせみと爭ふはしに 渡會(わたらひ)の 齋(いつき)の宮ゆ 神風(かむかぜ)に い吹き惑(まと)はし 天雲(あまくも)を 日の目も見せず 常闇(とこやみ)に 覆(おほ)ひ給ひて 定めてし 瑞穂(みづほ)の國を 神(かむ)ながら 太敷きまして やすみしし わご大王(おほきみ)の 天の下 申し給へば 萬代(よろづよ)に 然(しか)しもあらむと 一に云ふ、かくもあらむと 木綿花(ゆふはな)の 榮ゆる時に わご大王 皇子(みこ)の御門(みかど)を 一に云ふ、さす竹の皇子の御門を 神宮(かむみや)に 装(よそ)ひまつりて 使はしし 御門の人も 白栲(しろたへ)の 麻衣(あさごろも)着(き) 埴安(はにやす)の 御門の原に 茜(あかね)さす 日のことごと 鹿(しし)じもの い匍(は)ひ伏しつつ ぬばたまの 夕(ゆふべ)になれば 大殿(おほとの)を ふり放(さ)け見つつ 鶉(うづら)なす い匍ひもとほり 侍(さもら)へど 侍(さもら)ひ得ねば 春鳥の さまよひぬれば 嘆きも いまだ過ぎぬに 憶(おも)ひも いまだ盡きねば 言(こと)さへく 百濟(くだら)の原ゆ 神葬(かむはぶ)り 葬(はぶ)りいまして 麻裳(あさも)よし 城上(きのへ)の宮を 常宮(とこみや)と 高くまつりて 神ながら 鎭(しづ)まりましぬ 然れども わご大王の 萬代と 思ほしめして 作らしし 香具山(かぐやま)の宮 萬代(よろづよ)に 過ぎむと思へや 天の如 ふり放(さ)け見つつ 玉襷(たまだすき) かけて偲(しの)はむ 恐(かしこ)かれども

短歌二首
(200)
ひさかたの天(あめ)知らしぬる君ゆゑに日月も知らず戀ひ渡るかも
(201)
埴安(はにやす)の池の堤(つつみ)の隠沼(こもりぬ)の行方(ゆくへ)を知らに舎人(とねり)はまとふ

或る書の反歌一首
(202)
哭澤(なきさは)の神社(もり)に神酒(みわ)すゑ禱祈(いの)れどもわご王(おほきみ)は高日知らしぬ
右一首、類聚歌林(るいじゆかりん)に曰はく、檜隈女王(ひのくまのおほきみ)の、泣澤神社を怨むる歌といへり。

日本紀を案(かむが)ふるに云はく、十年丙申の秋七月辛丑の朔の庚戌、後皇子尊(のちのみこのみこと)薨(かむあが)りましぬといへり。


 「定説」論者たちの研究の集大成という意味で、〈大系〉の「大意」も読んでおこう。

(199)
 心にかけて思うことも慎しむべく、口に言うこともまことに恐れ多い、明日香の真神の原に、天つ御門をお定めになって、今は神らしく振舞われるとて磐隠れておいでになるわが天武天皇が、お治めになる北の国の不破山を越えて、わざみが原の行宮に天降りなされて、天下を平らかになさり、国をお定めになろうと、東の国の兵士をお召しになり、乱暴をする人を和らげよ、服従しない国を治めよと、皇子の御身でいらせられる高市皇子に、お任せになったので、皇子は、大御身に太刀をおはきになり、御手に弓を取り持たれて、兵士を呼びたて整えられ、隊伍をととのえる鼓の音は雷の音と聞えるほどで、吹きたてる小角の音も、敵に向った虎が吼えるのかと人々のおびえるほどであり、捧げ持った旗のなびくさまは、春先に野ごとにつけてある火が風と共になびいて行くようで、取り持っている弓弭の鳴り響くさまは、雪の降る冬の林につむじ風が吹き巻いて押しわたって行くのかと思うほど聞くも恐ろしく、引き放つ矢の繁く多いことは大雪の乱れ降るようで、従わずに立ち向った敵軍も、死ぬなら死ねと命をかけて争うその時に、伊勢の神宮から神風を吹かせて敵をまどわし、天雲で日の目も見せず世界を常闇におおいかくされて、平定されたこの瑞穂の国を、神そのままに天皇がお治めになって、わが高市皇子が天下の政治を取り行われたので、万代までそのように続くだろうと思われ、天下は大いに栄えている時に、突然、皇子の御門を喪の神宮にお装い申上げ、皇子のお使いになった人々も麻の喪服を着て、埴安の御門の原に、昼は日のくれるまで、鹿のように匍い伏しつづけ、夕方になると大殿を振り仰いで見やりつづけ、鶉のように匍いまわり、伺候していても、その甲斐がないので、春鳥のように泣いていると、嘆きもいまだ過ぎ去らないのに、思いも未だ尽きないにもかかわらず、百済の原を御葬列が通って行き、城上の宮を永久の宮と高くお祭りして、皇子は神としてそこに鎮まってしまわれた。しかしながら、わが高市皇子が、万代までとお思いになってお作りになった香具山の宮が、万代の後までも、亡びるだろうなどと思われようか。無窮の大空のように仰ぎ見やりながら心にかけてお偲び申し上げよう。恐れ多いことであるけれども。

(200)
 今は、死去されて天をお治めになるようになってしまった高市皇子であるのに月日の流れ去るのも知らず、いつまでも恋い慕いつづけるわれわれである。

(201)
 高市皇子の御殿のあった埴安の地の池の堤の隠り沼の水の行方の知れないように、舎人は行方も分らずに途方にくれている。

(202)
 哭沢の神社に神酒を供えて皇子がこの世に止まられるように祈ったけれども、高市皇子は天に昇って高い天を治められるようになってしまった。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(131)

「天武紀・持統紀」(47)


日並知皇子の謎(10)
裏に高市皇子の影あり?


 「日並知皇子」という表記について、岩波大系の『続日本紀』はその補注に神野志隆光(こうのし たかみつ)という学者の論文「〈日双斯皇子〉をめぐって」から次の一文を引用している。

 草壁皇子の称号もしくは諡号と推定されるものを、その表記によって分けると、つぎの五種に類別される。

A 日双斯皇子命(万葉49)
B 日並皇子尊(万葉110題詞、167題詞)
  日並皇子(天平勝宝8歳6月21日東大寺献物帳(国家珍宝帳))
C 日並知皇子尊(続紀文武即位前紀、元明即位前紀、元正即位前紀、天平元年2月甲戊条)
  日並知皇子命(続紀慶雲4年4月庚辰条、天平宝字2年8月戊申条)
  日並知皇太子(続紀慶雲4年7月壬子条)
D 日並所知皇子命(万葉目録110、本朝月令所引右官史記)
  日並所知皇子(七大寺年表所引竜蓋寺伝記)
E 日並御字東宮(栗原寺鑪盤銘)

 柿本人麻呂の持統6年の作である万葉49にみられるA「日双斯」は、「日にあいならぶ」意の「ヒナミに、過去の助動詞「シ」がついたものであって、これは、草壁皇子の皇子である軽皇子(文武)が、人びとに正統な皇位継承者として意識されはじめたころ、人麻呂が独自に歌に詠みこんだものと推定される。したがってAは正式な称号とはみなしがたい。

 これに対して、B「日並」とC「日並知」は、すでに称号もしくは諡号となっている。ことに注目しなければならないのは、続紀の統一的な表記とみられるC「日並知」であって、この表記の多くは、皇位継承に関する記事において、継承者の正統性を喚起する文脈のなかにあらわれる。したがってここでの「知」は、「シラス」すなわち統治の意と解すべきものである。それゆえCは、諡号であったと推定される。

 D「日並所知」、E「日並御宇」は、こうした意識がさらに発展した表記であろう。

 49番の「日双斯」という名称は人麿が草壁皇子を念頭において詩に読みこんだという点を除けば、『続日本紀』で「日並知」という表記が用いられるようになった経緯は、おおむねここに書かれようであったと思われる。私(たち)の立場からその経緯をたどり直してみよう。

 49番を、古田さんの解析結果をふまえて訓読すると次のようになる。

日ならびし皇子の命(みこと)の馬副(そ)めて御獵(みかり)立たしし時は來向(きむか)ふ

大意
「かって天子(日)の右腕だった甘木の大王が天子の馬に従って猟に出立なさったと同じ時間が近づいてきた。(あのときの大王のお姿が彷彿と浮かんでくる思いがする。)

 神野志氏は「日雙斯」を「日並」や「日並知」という表記が生まれるきっかけとなったものと解釈している。それはその通りなのだが、「日雙斯」(日ならびし)は、あくまでも皇子の修飾する単語であり、称号ではない。また、氏は「日並」と「日並知」を同列に扱っているが、私は「日雙斯→日並→日並知」という二段階の変遷があったと考える。

 45番~49番に「軽皇子の・・・」という題詞を付して「大和わく」の歌として剽窃した『万葉集』編纂者は「日雙斯皇子=草壁皇子」とする外ない。そこで「日雙斯」の語幹だけとって「日並」という称号を考え出し、『万葉集』の題詞の中で使い始めた。つまり「日雙斯」を形容句だと理解していた。「定説」は「日並」をも「ひなみし」と訓じているが、これは「日雙斯」や「日並知」を考慮しての後付け訓だと思う。「日並」が使われ始めた段階では「日並」は、「ひなみし」ではなく、文字通り「ひなみ」と訓読していたのではないだろうか。

 そして『続日本紀』編纂者は『万葉集』での表記「日並」を採用するとき、「日雙斯」全体を称号としなければつじつまが合わないことに気付いて、「日並」を「日並知」と修正したのではないか。私はそのように考えている。

 次に神野志氏は、「日雙斯」(私の立場からは「日並」)は「人びとに正統な皇位継承者として意識されはじめたころ」に作り出され、「日並知」は「継承者の正統性を喚起する文脈」で使われている、と言っているが、それほど軽皇子(文武天皇)は皇位継承者としての正統性が疑われていたということだ。

 小松崎氏もこのように考えから、草壁皇子が暗殺されて「56歳の文武王」が生まれたと幻視して、一つの物語を作ったのだった。私も軽皇子は皇位継承者としての正統性に問題があったのではないかと考えているが、「56歳の文武王」を採用するわけにはいかない。『日本書紀』・『続日本紀』の記録の範囲内で推測してみようと思う。

 軽皇子は「日並知皇子尊の第二子」と記録されている。二代後の元正天皇が「日並知皇子の皇女」なので、この氷高(ひだか)皇女が第一子、つまり軽皇子の姉とされている。いずれも天武・持統の直系の孫であり、血統という面からは正当性に問題は見いだされない。問題があるとすれば皇位継承者に決定した時の経緯であろう。

 草壁皇子も第二子だった。第一子は高市(たけち)皇子である。第二子にもかかわらず草壁皇子が皇太子に指定されたのは正妃(持統)の子だったからだろう。高市皇子の母親は胸形(むなかた)君徳善の娘・尼子娘(あまこのいらつめ)とある。胸形と言えば「飛鳥浄御原宮の謎(11)」で登場した瀛津嶋姫命・湍津姫命・田霧姫命の三神を祭る宗像神社を思い出す。胸形君は九州王朝ゆかりの有力者である。高市皇子の背後には有力な後援者が想定できる。

 壬申の乱の時(672年)、高市皇子は弱冠19歳にもかかわらず、天武から全軍統帥を任されて大活躍している。優れた資質に恵まれた皇子だったと思われる。690(持統4)年には太政大臣になっている。以後は皇太子と同じように政務を執っている。藤原京造営でも中心的役割を担っている。

 高市皇子は696(持統10)年7月10日に亡くなるが、その死亡記事も、草壁皇子の場合と同様、まことにそっけない。
「後皇子尊(のちのみこのみこと)薨(みう)せましぬ」。
これだけである。しかし、この記事にはさりげなく重要な情報が書かれている。「後皇子尊」という称号がそれだ。

 「尊」・「命」はともに「みこと」と訓読するが、『日本書紀』では「尊」は神名に、「命」は「皇子名に用いるのが通例である。しかし、例外として「尊」を草壁皇子に用いて「皇太子草壁皇子尊」と表記している。また、673(天武2)2月27日の天武即位記事では、草壁皇子尊・高市皇子命と違う文字を用いているが、草壁・高市双方に「みこと」という称号を付けている。もちろん、他の王子たちにはこのような称号はない。〈大系〉の補注によると、江戸時代の国学者・伴信友が、「この記事で「命」と尊称を加えたのは草壁皇子についで立太子したことの証である」と主張している。

 「後皇子尊」について、〈大系〉の頭注は「この二皇子が皇位継承の有資格者であったことを考慮した表記であろうか。」と疑問符つきで指摘しているが、即位記事での「高市皇子命」と死亡記事での「後皇子尊」という表記を勘案するとき、『日本書紀』の編纂者たちには「高市は草壁の後を継いだ皇太子」という認識があったと考えてよいであろう。『日本書紀』の編纂者にとっては30年ほど前の、いわば同時代史である。「忘れた」とか「真相は分からなくなっている」などということはあり得ない。

 以上の考察が正しいとすると、高市の立太子記事をはっきりと書くことに憚りがあったということになる。何があったのか。

 世襲君主制の国では王位継承時には必ずといってよいほど骨肉相食む権力闘争が起こる。大津皇子は「懐風藻」では天武の第一子となっているという。大津皇子は天武の死去時に謀反の罪で捕らえられ、死罪に処されている。

 ちょっと大胆すぎる推測になるが、大津の謀反は持統が自分が生んだ草壁の皇位継承を確実なものにするために謀った「冤罪」であった。その草壁は実力ナンバーワンの高市との権力争いに敗れて謀殺された。そして、今度はまた持統が、実質的な権力者・高市を、孫の軽に皇位を継承させるために抹殺した。

 〈大系〉の頭注によると、懐風藻の葛野王伝に次のような記事があるという。

「高市皇子薨後、皇太后引王公卿士於禁中立継嗣。時群臣各挟私好、衆議紛紜」。

 高市の死後に皇位継承者の選定が議論されたと言う。ここからも高市が皇太子であった可能性がうかがわれる。高市の死が謀殺であったか否かにかかわらず「衆議紛紜」、軽の皇位継承はすんなりとは決められなかったようだ。軽(文武天皇)の父親(草壁)に「日並知皇子尊」という特別な称号を付与して、その正当性を常に喚起しておく必要があったのだ。

(これで「日並知皇子の謎」を終わります。)
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(130)

「天武紀・持統紀」(46)


日並知皇子の謎(9)
「寐毛宿良目八方」・「黄葉」


寐毛宿良目八方

46番
阿騎乃野尒 宿旅人 打靡 寐毛宿良目八方 古部念尒

阿騎の野に宿る旅人打ち靡(なび)き眠(い)も寢(ぬ)らめやも古思ふに


 この問題については、古田さんの論考を直接全文引用しておく。

 (「寐毛宿良目八方」は)「眠(い)も寝(ぬ)らめやも」と、従来は訓まれてきた。しかしこれは元暦校本(平安末)や西本願寺本(鎌倉末)その他で「寐毛宿長八方」となっているのを、後代写本(類聚古集、紀州本、元暦校本の朱字記入)をもとにして「霖毛宿良八方」と「原文訂正」したものだ。

 原本(元暦校本等)の場合、「いもぬらじやも」となり、〝とても寝れないことだろうなあ。″の意となる。

 これに対し、後代写本の方は「いもぬらめやも」の「やも」が「反語」となり、〝寝れるだろうか、否、決して寝ることなんかできない。″となり、一見〝強調″されているようで、実は〝芝居がかって″くる。左千夫評のようになってしまうのである。逆に、しみじみとした感懐からは遠ざかるのだ。

 甘木の大王の「悲劇の死」を思いつつ、静かな感懐にふけっているのである。

 このような原文改定が47番歌にもある。それが次のテーマである。

「黄葉」

 すべての古写本で「葉」となっているのを、江戸時代の学僧・契沖(けいちゅう)が「黄葉」と原文改定をし、「もみじばの」と訓じた。(『万葉代匠記』)

 原文に「黄葉」を含む歌を検索したら、なんと66例あった。そのうちに人麿の歌は7歌ある。この中には、もちろん47番は入っていない。47番の原文はあくまでも「葉」であり「黄葉」ではない。しかし、「黄葉」の使用がポピュラーなためか、今では「黄葉=もみじばの」が定説となっていて、これを疑う学者はいないようだ。学者たちは、すべての古写本が「黄葉」と書くべきところを「葉」と同じ間違いを犯したとでも考えているのだろうか。

 古田さんはこの原文改定を「非」とする。例えば
「黄葉」を用いている人麿の歌(208番)を見てみよう。

秋山の黄葉を茂み惑ひぬる妹を求めむ山道(やまぢ)知らずも

 明らかに秋の歌だ。このような例を引き出さなくとも、「黄葉」(黄色く色づいた葉)という字面からは秋を思い浮かべるのが常識だろう。

 ところが、長歌(45番)には「み雪降る 阿騎の大野に」という詩句がある。明らかに季節は冬だ。原文改訂した47番はこれと矛盾する。古田さんは、次のように、手厳しく批判している。

 冬に「黄葉」など、全く日本人の季節感覚に反する。季節感覚を失った、日本人の歌など。およそ「下の下」と言ったら酷だろうか。わたしには、そうとしか思えない。あの「冬から早春へ」の「州柔城の戦」の歌を、暑熱の中の「壬申の乱」に当てて、平然としてきた国学者たち、そして万葉学者たち、そのすべてに対して、ここでもまた深くわたしは首をかしげざるをえないのである。

 もともと九州を舞台にした歌を近畿の歌として盗用・改竄してきた歌は、『万葉集』には一体どのくらいあるのだろうか。これまでに古田さんが解明してきた該当歌は次のようである。

「皇(すめろぎ)は神にしませば」の二歌(235・241)
「甘木の歌」(239)
「吉野」をめぐる人麿の歌(36~39番)
「壬申の乱」の歌(199・200・201)

 このうち最後の例は、当ブログでは、まだ取り上げたことがない。上の引用文で「州柔(つぬ)城の戦」の歌と言われている歌である。近いうちに紹介しようと思っている。

 さて、もともと原文は「黄葉 もみじ」ではなく「葉」であった。では、この「葉」はどのように訓じればよいのだろうか。ここでも古田さんは「諸橋、大漢和辞典」を用いて「葉」の意義の確認から始めている。「葉」には「葉=世」・「葉=ちる」という意味がある。これに注目して、古田さんは「散りし世の」と訓んでいる。その読みを採用すると47歌は

ま草刈る荒野にはあれど散りし世の過ぎにし君が形見とぞ来し

となる。その読みの妥当性を前後の歌の意義とも関連させて古田さんは次のように解説している。
 すなわち、次の歌へのつながりは〝大王の治世は過ぎ去りましたのに、そのシンボルであった、あの「月」は今もありありと西の方(雷山の彼方)へ渡ってゆきます。″の意となろう。

 もちろん、第四歌(49)の「日雙(なら)びし皇子の尊」の一句が、直前の第三歌(48)の
 東―日
 西―月
の姿と、対応していること、言うまでもない。

 〝地上では、「日」に対する「月」であった大王の姿は消えましたのに、天空では今も、日と月が相並んで健在、あのように運行しっづけています。″として、地上の権力者の〝うつろいやすさ″をありありと歌い上げているのである。

 あの「吉野の歌」(36~39)にもあったように、これは「人麿思想の根源のテーマ」であり、基本をなす思想性なのであった。

 一連の歌の中で、その訓はピッタリと収まるが、「葉」という一字を「散りし世の」なんて訓じること自体に妥当性があるのだろうか。私のような素人には当然湧く疑念である。この疑念に応えるべく、古田さんは人麿歌における「一字表記」を含む歌を4例挙げて、「一字表記」は人麿の〝得意技″だということを詳細に論じている。

我念妹 人皆 如去見耶 手不纏為
うつくしみ わが思ふ妹を 人皆の 行くごと見めや 手に巻かずして (2843)

忌哉 意遣 雖過不過 猶戀
いむやと ものがたりして 心やり 過ぐせど過ぎず なほ戀ひにけり (2845)

直不相 夢谷 相見与 我戀國
うつつには直(ただ)には逢はね 夢(ゆめ)にだに 逢ふと見えこそ わが戀ふらくに (2850)

真珠眼 遠兼 一重衣 一人服寐
真珠(またま)の眼(め) 遠をしかねて 思へこそ 一重衣を一人着て寝(ぬ)れ(2853)

 右はいずれも、巻12冒頭部所載のものであるけれど、他にも例は数多い。

 人麿には、この種の表記を行なう「表記慣例」があったようである。もちろん「人麿作歌」と〝名乗った″ものには、それほど数多いわけではないけれど、しかしそのような「表記慣例」が絶無となったのではない。そのような理解は無理だろうか。むしろ、自然だ。

 さらに立ち入って考えれば、人麿のような「多作歌人のプロ」にとって、平常の〝手もと″の表記では、この種の略表記を使い、表向きに発表するときには、なるべく〝手直し″をする。そのような〝手法″が習慣化していたのかもしれぬ。

 しかし〝手もと表記″と〝外向き表記″との間には、時として「共通手法」が残る。それも当然ではあるまいか。

 ともあれ、人麿にとって「一字表記」は必ずしも異例ではない。その一点を今、確認しておこう。

 続いて、従来の学者たち学問上の姿勢を次のように批判している。

 一般の読者にとって、このような「一字表記」は〝不馴れ″であったにせよ、契沖・真淵以来の国学者、山田孝雄・武田祐吉や澤瀉久孝のような万葉学者にとっては、この「柿本人麿歌集」中の「一字表記」など、周知のことだ。それなのになぜ、従来はこの「葉」を「一字表記」として訓まず、「黄」字を補って「黄葉」として訓んだのであろうか。「み雪降る」冬の歌であること、明白であるのに。わたしには不審だ。

 思うに、それには重要な理由がある。

 それはこの一連の五首(45~49)が「日並知の皇子の尊」と称されたという「草壁皇子」のために作られた、とされていることだ。この皇子は「正統の皇子」でありながら、「天皇位」に即位することなく没した。すなわち、「天皇」として「治世」することがなかったのである。すなわち「世」がなかったのだ。だから国学者や万葉学者はこの「一字表記」を「一字表記」として〝活用″できなかったのではあるまいか。

 しかしこの歌は、冒頭に明記されているように、「やすみしし わご大王」であり、一国(朝倉郡の周辺一帯)の統治者であった。この点を看過せざるをえなかったこと、それが「前書き、第一主義」の「大和わく」にしばられてきた、従来の国学者や万葉学者の悲劇だったのではあるまいか。

《真説古代史・近畿王朝草創期編》(129)

「天武紀・持統紀」(45)


日並知皇子の謎(8)
「隠口乃泊瀬山」・「月西渡」


「隠口乃泊瀬山」

 長歌(45番)にはもう一つ地名がある。 「隱口(こもりく)の 泊瀬(はつせ)の山」だ。「初瀬=長谷」と言えば奈良県というのが常識だが、はたして秋月にも「初瀬=長谷」という地名があるのだろうか。前回に引用されていた「筑隅記十一巻」の続きは次のようになっている。

山林景色うるはしく薪水の便よろしき處なり。

(入口)  此處に入口四ツあり。北は八丁口、西は長谷山口、南は湯ノ浦口、東は野鳥口なり、西なる山を観音山と此山にて隠したれば外よりは見えず。


 外より見えないのは「西なる山=長谷山」だ。なんと、「隠口の泊瀬(長谷)の山」という表現がピッタリの山があるのだった。ちなみに、ここは三船敏郎主演の映画「隠し砦の三悪人」(黒沢明監督)のロケ地だそうだ。戦国時代、戦いに敗れた秋月家を再興する物語で、その映画でも秋月家の紋章は「月」になっていたそうだ。

「月西渡」

 「月西渡」は48番歌の中にある詩句である。48番の原文と訓読文を再掲載しておく。

東野炎立所見而反見爲者月西渡

東(ひむかし)の野に炎(かぎろひ)の立つ見えて返り見すれば月傾(かたぶ)きぬ


 この歌は名歌として名高いが、問題も多い歌である。

 「ひむがしの、のにかぎろひの、たつみえて」は賀茂真淵(「萬葉考」)による訓である。「つきかたぶきぬ」は荷田春満(「僻案抄」)によると古田さんは書いているが、これは違うようだ。昨年11月に出版された白石良夫著『古語の謎』が第1章でこの歌を取り上げている。それによるとこの歌の最も古い訓読は「元暦校本」(1184年)にあり、次のようである。

アヅマノヽケブリノタテルトコロミテカヘリミスレバ□□カタブキヌ
(原文に濁点はない。それを白石さんが附した。)

 ここでは「東野(アヅマノ)」を地名として扱っている。空白部分□□は歌の原文では「月」の部分にあたる。白石さんは「これはだれか読んでも「ツキ」であるから、わざわざ書かなかったのである」と述べている。そして、慶長年間(1596~1615)に出版された万葉集の版本にもカタカナで「元暦校本」の訓読が書かれているという。(もちろん、「ツキ」を復元している。)

 これに対して真淵は「東」一字を切り離して「ひむがしの」と読んだ。白石さんは「ひむがし」という言葉の和歌での使われ方を、古代から現代まで丹念に辿っている。一度は死語になった言葉のようだ。大変興味深く読んだが、本論からは大きく外れるのでいまは立ち入らないでおく。

 今では真淵の訓がすっかり定着している。そして多くの学者が真淵の訓を「名訓」として讃辞しているという。しかし、この訓を批判する意見もある。

 まず「かぎろひ」がよく分からない語である。諸説紛々だという。有力なものを二つをあげると、陽炎(かげろう)説、曙光(日の出前に東の空にはえる茜色の光)説。〈大系〉は「曙光」説、〈全集〉は「陽炎」説をとっている。

 その他の主な批判の論点を、白石さんは次の4点にまとめている。

①カギロヒは、ふつう、タツとはいわず、モユという。
②「カギロヒの立つのが見える」という構文であるが、上代語ではこういうばあい、カギロヒのつぎの「の」は使わない。
③「かへり見すれば」という条件句の掛り受けとしては、「月かたぶけり」というほうが正しい。
④歌の趣が新しすぎる、すなわち人麻呂の歌風ではない。

 では、真淵の訓に代わる訓案があるのかというと、それは全くない。

 伊藤左千夫はこの歌を、鑑賞という立場から、否定的に批判している。古田さんの論文から孫引きする。

 客観的叙景の歌として、兎も角も成功した歌であらう。仔細に詮索して見れば飽足らず感ずるところがあるけれど、さう細かしい事は云はずとするも、第四の句、『顧みすれば』の一句は、俳優の身振めいて、此の歌の如き漠然たる大きな景色を描く句法としては、甚だ拙と云はねばならぬ。

 今一つ此の歌の大なる缺點に、作者の懐想の不明な點である。大野の曉天を眺めて其の光景に憧憬したのか、或目的を有した此の旅寝に時間の推移を嘆息したのであるか、主なる感じの判然せぬのが、讀者の感興を惑はせるのである。

 卓抜した詩才で一気呵成に詠まれた歌であるから、大抵の讀者は先づ其の外形に眩惑されて終ふのであらうが、能く心を落ちつけて味うて見ると、話の意味は解っても、話す人の心持は判らぬといふ様な感ある歌である。餘りに文章的に平面に記述されてあって、作者の感情がどの句の隅にも現れて居ない。故に讀去って、言語の意味を解する外に、何物をも感ずることが出来ない。

 要するに凡作とは云へないが、内部の組織に缺鮎が多く、稚気を脱せぬ歌と云はねばならぬ。

 この左千夫の評について、古田さんは次のように述べている。

 この評は、不幸にも、彼の弟子の斎藤茂吉にさえ讃せられなかった。しかし、今見ると、従来の「大和わく」の中で、「軽皇子」を主人公とした場合、その内容の何とも〝空疎″なること、まさに左千夫の言う通りだ。疑いはない。その炯眼にわたしは脱帽せざるをえないのである。

 けれども、この「人麿作歌」の本来の姿に接したならば、左千夫は逆に、その真実の人麿に対し、彼の方から深く脱帽せざるをえなかったのではあるまいか。

 ついでなので、「大和わく」の中での鑑賞の代表として、犬養孝の鑑賞を『万葉の旅』から引用しよう。たぶん、左千夫の評を意識しての鑑賞文だと思う。

 この歌は、山野の草枕での回想に夜を徹してしまった荒涼と寒気と悽愴の黎明の感慨として理解されなければならない。よくこの歌の評釈に蕪村の「菜の花や月は東に日は西に」があげられているが、季節と時刻を異にしているだけでなく、うたわれている世界も、環境もまったく別物である。

 人は人麻呂のしらべの雄渾・雄大をいい、大平原の夜明けの壮観を思いおこしがちだが、雄渾ではあっても、事実は、このような事情のなかでの山野の夜明けであって、それだけに凄みも増し、東方の薄明るい光と、西方のまだ黒々とした中の薄暗い月光とのコンポジションは、かえって作者の感慨を拡大させ、遠くはるかに深々としみとおらせてゆくものがある。

(中略)

 こうして狩場の夜は明け、狩に出かける時刻がやってくれば、草壁皇子御在世の日の、颯爽と馬を並べたお姿は、在りし日そのままにほうふつとおどり出るように感じられてくる。

 ちなみに「定説」では、この歌の作歌年月日を持統6年11月17日(今の暦では12月31日)と推定している。「年」の方は45番~49番の直前と直後の歌の左注から推定している。「月日」は49番で表現されている天文現象の発生する時間の研究から得られたもののようだ。この推定年によると軽皇子は10歳ということになるが、犬養さんは10歳という指摘はしているが、「10歳の子供の猟旅」という問題にはまったく触れようとしない。また、犬養さんも「かぎろひ」を「曙光」とみなしている。

 では、古田さんはこの歌をどのように解釈しているだろうか。古田さんは「月西渡」の訓「月かたぶきぬ」を問題にしている。

 わたしには
 (α)西渡(原文)
 (β)かたぶきぬ(訓み)
とは「別の風景」だとしか見えない。なぜなら(α)は「月の動き」が〝東から西へ″と、いわば「水平移動」であるのに対し、(β)の方は「弧形落下」だ。両者のスタイルが全く異なっているのである。

(α)
東○→西

(β)
東○⤵
   西

 わたしの立場から、これを見つめてみよう。

 「月」は「甘木の大王家の紋章」だ。大王はこの地で不慮の死を遂げたけれど、あの、シンボルとしての「月」は、今も不滅の姿で、西へと向っている。「月」は今も〝生きて″いるのである、と。

 ここ秋月の地からの「西」、それはどこか。もちろん、雷山だ。「甘木の大王の屍」の鎮まりますところ。人麿はやはり、この「月」の姿に、生ける日の「甘木の大王」の姿を見ているようである。

 (β)の場合、そのような「心根」のありようは全く失われ、単なる「一叙景歌」に終るのである。

《真説古代史・近畿王朝草創期編》(128)

「天武紀・持統紀」(44)


日並知皇子の謎(7)
「阿騎の大野」はどこか


 239番・240番の解読では「甘木」は福岡県朝倉郡にあることが明らかにされた。では朝倉郡に、「阿騎の大野」の「あき」があるのだろうか。この「あき」探しにおいても、古田さんの博覧強記ぶりに驚かされる。まず、太宰管内志(上)の筑前之二十の「夜須郡」の項を引用している。(古田さんによる訓み下し文)

〔軍記略〕に大蔵春實之裔代々、夜須軍秋月に居住して近邊を領す。故に秋月を以て號と為す、云云。

 ここに現れている「秋月」を次のように分析している。

 「あき」は〝わが柵(城)″の意。この点、大和の「吾城」と変らない。「つき」は〝津柵″。川の港津の要地をしめす。「水城(みづき)」「月の浦」(太宰府近辺)などの「つき」と同様だ。

 「き」が重複しているのは、「あき」が地名(大字)化してあと、これにさらに「つき」(小字)が付せられたものであろう。・・・(略)・・・自然地名だ。

 〔軍記略〕は、この地を領していた秋月氏はこの自然地名「秋月」を一族の号とした、と言っている。

 そして、その「秋月」という地名は、『大字「あき」+小字「つき」』に由来する。つまり「阿騎の大野」とは、九州の朝倉郡近辺の場合、「秋月盆地の周辺山野」を意味すると言う。では、ここの「阿騎の大野」はどのような土地なのだろうか。次に古田さん「筑隅記十一巻」から次の文を引用している。

 秋月は古處山の古城、秋月氏の根城なり。山高く、谷幽(かす)かにして翠嶺衆山に秀で、北面に八丁坂有り、西州往還道なり。凡そ国中第一之嶮路なり。

 當城は則ち秋月氏の本城なり。里城は荒平山を謂うなり。
 枝城は、當郡千手・彌長・上座郡麻氐良・長尾・針目・三日月・国見・米ノ山・下座郡茄町・嘉摩郡盆富・穂波郡笠木・豊前国己上十二箇所なり。


 「山高く、谷幽(かす)かにして翠嶺衆山に秀で」とあるが、35番・241番で使われている「眞木たつ 荒山」(真木〈樹木の美称〉のそそりたつ荒山)という詩句にぴったりの土地であり、身体・武技の鍛錬をかねた猟の場としても恰好の場所である。しかし、「国中第一之嶮路」でもあり、危険な場所もそこここにあったことだろう。古田さんは次のように締めくくっている。

 大和盆地の大宇陀郡の場合とは異なり、右にもうかがわれるような、嶮しい山谷に囲まれた平野部であるから、一歩をあやまれば、或は墜死の危険性も十分ありえよう。それが「甘木の王者の悲劇の死」をまねいたのではあるまいか。

 以上で前々回に取り出された三つの問題点が明らかにされた。「日並知皇子の謎」を進める上ではこれで十分と思われるが、新たな発見があるかも知れないので、古田さんの論考を最後まで読んでおくことにする。古田さんが問題にしているテーマ(詩句)を原文で示すと次の四点である。

④ 45番の「隠口乃泊瀬山者」
⑤ 48番の「月西渡」
⑥ 46番の「寐毛宿良目八方」
⑦ 47番の「黄葉」

 ちょっと横道へ。
 46番~49番の四つの反歌は漢詩の五言絶句や七音絶句の構成法と同じように「起承転結」を成していると言われている。その「起承転結」を説明するのによく使われる面白い例文がある。ほとんど忘れていたその例文が『皇子たちの鎮魂歌』に掲載されていた。

本町二丁目の 糸屋のむすめ
姉は十六 妹は十四
諸国大名は 弓矢で殺す
糸屋のむすめは 目で殺す

 これを読んでいて、一つ思い出したことがある。芥川龍之介が何編か詩を書いている。その中に私が若い頃に愛唱していた相聞歌の絶唱がある。その四行詩が「起承転結」の構成をなしていることに思い至った。

また立ちかえる水無月の
嘆きを誰(たれ)にかたるべき。
沙羅(さら)のみづ枝(え)に花さけば、
かなしき人の目ぞ見ゆる。

《真説古代史・近畿王朝草創期編》(127)

「天武紀・持統紀」(43)


日並知皇子の謎(6)
「大王」・「日の皇子」とは誰か


(本題に入る前に、「文武天皇の謎(2)」で李寧煕氏の説について言及しましたが、それの補充をしておきます。)

「Shin」さんから次のようなコメントいただきました。

「李寧煕氏をブログで紹介している者ですが、私は歴史にまったく無知なので、どのあたりがおかしいと思われたのか、もう少し詳しく説明してくださるとありがたいです。」

 「Shin」さんは李寧煕氏の紹介を行っているとのことですから、私の「珍説」という評言をさぞ不快に思われたことでしょう。

 私のブログを通して読んでこられた方には「珍説」と断じる理由の詳しい説明は不要と思っていましたが、単発的な来訪者には不親切だったかも知れない、と思い直した次第です。

 「文武天皇の謎:番外編)」で、私は次のように書きました。

「朝鮮古代語の吏読表記というのを、私はまったく知らない。だから、莫離支(マンニジ)に対する李寧熙氏の解読が正しいかどうかを問題にすることはできない。」

 「文武天皇の謎(2)」で行った批判でも同じです。私が問題にしているのは
『これは百済人である舒明天皇が、新羅の攻撃に備えよと百済に警告するために、額田王に作らせた歌であった。』
という部分です。

 問題にされている額田王の歌は、『万葉集』では斉明(皇極)天皇の時代の歌とされています。また『日本書紀』では額田王は天武天皇の妃と記録されています。従って、上のような主張を人に納得させるためには
① 舒明天皇が百済人であること
② 額田王が歌人として活躍したのは舒明時代であること
③舒明時代にに新羅が百済攻撃を企てた、または攻撃した事実があること
の3点が、確かな根拠をもとに論理的に証明されていなければなりません。そういう論証がない限り、それは学問の名に値しません。珍説と断じるほかありません。

 私の使った史料は孫引きです。もしかすると李寧熙氏は上の3点を論証しているのに、第一引用者が省略したということも考えられます。もしそうなら、李寧熙氏の論証を教えてください。それがキチンとしたものなら、「珍説」という失礼な評言を心からお詫びして撤回します。

(本日の本題に入ります)

 実は私(たち)は問題①の答のカギを手に内に持っていた。いま問題にしている35~39番の後にを続けて、「飛鳥浄御原宮の謎(10)」で取り上げた239番・240番と、「地名奪還大作戦(22)」で取り上げた241番を置いてみるとその答が自ずから見えてくる。(必要に応じて参照できるように別ファイル別ファイルとしてアップしておきます。39番・240番・241番は古田さんによる訓読に訂正しました。)

 241番は甘木の王者(大王)が狩りに出て、事故にあって亡くなった時の挽歌だった。これに対して45番を大王が狩りに出て野宿したときに人麿が詠んだ歌と解すれば、なんと、一続きの歌として読めるではないか。そのように解釈することができる決め手が35番の「眞木たつ 荒山道」と241番の「眞木の立つ荒山中」という詩句である。35番~39番と239番~241番は同じ舞台で詠われた歌だったのだ。

 問題②『「日雙斯」とはどういう意味か』に対する古田さんの解答を見てみよう。

 古田さんはまず、大漢和辞典(諸橋轍次)を用いて、「雙」の字の意味の確認をしている。

(1)つがひ。そろひ。(イ)鳥二羽。飛鳥、雙と曰(い)う。(方言、六)
(2)たぐひ。ならび。
(3)つがふ。たぐふ。ならぶ。

 「雙」には「ならぶ」という訓みがあるから、「日雙斯」は「ひならびし」と訓むことができる。ところで、240番の解読で分かったように、甘木の大王の紋章は「月」である。「日にならぶ(ひならびし)」のは「月」である。つまり、39番で「馬へて」いるのは甘木の大王である。すると当然、「正」は「倭国(九州王朝)の天子」ということになる。このときの狩りの主人公は「倭国の天子」。甘木の大王はその天子の右腕として「馬へて」いた。人麿はそのような意を込めて「日ならびし」という形容句を使っている。人麿の歌は意味が深いなあ、と改めて感心している。

 もうこれは蛇足になるが、上の解答は同時に問題①(35番長歌)の解答ということになる。「大王」は「甘木の大王」であり、「日の皇子」とは「倭国の天子」を指している。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(126)

「天武紀・持統紀」(42)


日並知皇子の謎(5)
35~39番歌の問題点


 「草壁皇子の嫡子ではない〝56歳″の文武帝」はガセネタだったが、『倭王たちの七世紀』から、一つ教えてもらった事がある。

 私は、必要に応じて拾い読みをするだけで、『日本書紀』も『続日本紀』も『万葉集』も、通して読んだことはない。だから重要な記事を見逃している可能性は大きい。今度、『倭王たちの七世紀』を読んでいて、文武天皇の治世は垂廉政治であったという私の仮説を立証する有力な証拠記事が『続日本紀』にあることに気付いた。707(慶雲4)年7月条の元明天皇即位の詔の中に次のようなくだりがある。

「閞(か)けまくも威(かしこ)き藤原宮御宇倭根子天皇(ふぢはらのみやにあめのしたしらしめししやまとねこのすめらみこと)の丁酉八月(ひのととりのはづき)に、此の食國(をすくに)天下(あめのした)の業(わざ)を日並知皇太子(ひなめしのみこのみこと)の嫡子(むかひめばらのみこ)、今御宇(いまあめのしたしろしめし)つる天皇に授け賜ひて並び坐して、此の天下を治め賜ひむかひめばらのみこ諧(ととの)へ賜ひき。

 はっきりと「二人並んで天下を治めた」と書いている。懐風藻などから算出された文武天皇の即位(697年)時の年齢15歳を疑う理由はない。すると、軽皇子の誕生年は682年ということになる。草壁皇子は689(持統3)年に死去しているが、このとき軽皇子は7歳だったことになる。

 さて、ここでいよいよ『万葉集』45番~49番を取り上げることになる。この一連の歌には、「輕皇子の安騎の野に宿りましし時、柿本朝臣人麿の作る歌」という題詞をそのまま認めると、題詞と歌の内容とが合わない点がいくつかある。

 まず、45番の冒頭の句「やすみしし わご大王 高照らす 日の皇子」がおかしい。「やすみしし わご大王」という決まり文句については、何度か取り上げてきた。「大王」はある地域の支配者(『日本書紀』では天皇と表記している)を指す言葉である。ここでは、題詞が正しいとすれば、軽皇子の父・草壁皇子を指している。しかし、草壁は皇太子にはなったが、大王位に即くことなく689(持統3)年に没している。ちなみに、草壁皇子に天皇名が追贈されたのは70年ほども後の758年(天平宝字2)年のことである。

 また、「日の皇子」は「次の天皇位の後継予定者」つまり皇太子を示す呼称ではない。「日之皇子」とは「太陽の子孫」、つまり、「八方を統治する大王」の尊位にあることを示す呼称である。要するに「天子」を意味する。たとえ草壁が大王であったとしても、一国の大王に「日の皇子」という呼称は合わない。

  従来はこれをどのように解していたのだろうか。前に掲載した岩波大系の大意と、新たに小学館の『日本古典文学全集』版の現代語訳を並べてみる。

(岩波大系 〈大系〉と略す)
「わが皇子、日の御子は神であるままに神として行動なさるとて、立派な都をあとにして、・・・」
(小学館全集 〈全集〉と略す)
「(やすみしし)わが大王の (高照らす) 日のの皇子軽皇子は であるままに らしくふるまわれるべく 天皇のいらっしゃる 都をあとにして・・・」

 〈大系〉では「大王」を無視して「わが皇子、日の御子」と始めている。「大王」に困っているようだ。〈全集〉では「大王」を表面に出しているので、この大王は天皇とは違うことを示すために、「太敷かす京」の「太敷かす」を「天皇のいらっしゃる」と意訳して、「天皇」を登場させる苦心をしている。そして、どちらも「日の皇子=軽皇子」と解しているけれど、いまだ15歳に達していない軽皇子が「神であるままに神として行動なさる(らしくふるまわれる)」などというとんでもない阿諛追従の表現を、誰もおかしいと思わなかったのだろうか。「大王=草壁皇子」・「日の皇子=軽皇子」という解釈が無理なのだ。

 この問題は59番にも波及する。

日雙斯 皇子命乃 馬副而 御獦立師斯 時者來向

 岩波大系では「日雙斯」を「日並」と書き換えて訓じ、「日(天皇)と並んで天の下をしろしめす意という。草壁皇子のこと」と説明している。「「日(天皇)と並んで天の下をしろしめす意」というのなら、「日並」はもともと普通名詞ということになる。どうして草壁だけに「日並」を用いて、他の皇太子には用いないのだろうか。

 〈大系〉は59番歌を
「亡くなられた草壁皇太子が、馬を並べて御狩にお出かけになった時刻が今や迫って来る」
と解釈している。ちなみに、〈全集〉の現代語訳は
「日並の 皇子の尊が 馬を並べて 狩りに出られた 同じその時刻になった」
となっている。

 では、草壁皇子と馬を並べて狩りに出かけたのは誰なのだろうか。どちらもそれを明示していないが、題詞を額面通り受け取って、この一連の歌を「阿騎の野で一夜を過ごすことになった軽皇子が今は亡き父・草壁皇子を偲んでいる。その軽皇子の心を読み取って、人麿が詠った草壁皇子への追悼歌」といった解釈を採っているようだから、たぶん〈大系〉の〈全集〉も、その人物は軽皇子と想定していることだろう。すると、これもおかしなことになる。

 この狩りが行われたのは689年以前だから、軽皇子は7歳以下子供である。この幼い子供が馬にのって、父親と狩りに出かけるなんて? まれにはそのような早熟な子供がいるかも知れないが、私には信じられない。それに、軽皇子は25歳で亡くなっている。もともとあまり丈夫な子ではなかったと思われる。

 ちょっと本筋から離れる。誰も指摘している人はいないようだが、文武天皇の死にも不可解なことがある。「文武紀」には病気になったとかいうような死の前触れを告げる記事が皆無で、いきなり死亡が記録される。しかし、「元明紀」の冒頭には707(慶雲3)年11月に病に陥って譲位の意志を示したと書かれている。慶雲3年11月前後の記事を調べたが、そんな様子はまったくなく、普通に政務は遂行されている。垂廉政治であったとしても、天皇が譲位の意志を示すほどの病なのに「正史」に記録されないとは? これも今のところは「言ってみただけ」。

 本道に戻る。

 次は「馬副」の「副」の意味。古田さんは、人麿が文字使用に厳格だったことを指摘した上で、次のような問題提起をしている。

 これは「主」に対する「副」であり、「馬並(な)めて」ではなく、「馬副(そ)えて」と読むべきだと言う。いずれにしてもこの歌には登場人物が2人いる。古田さんの解釈が正しいとすると、草壁皇子は「副」である。すると「主」は誰になるのか。子供の軽皇子であるわけがない。天武か持統と言うことになる。しかし、この場合もおかしなことになる。

 もし「正」が天武だとしたら、この時点では天武も亡き人なのだから、草壁の父である天武を表面に出して歌わないのは変だ。「主」が持統とすると、女性大王が狩りに興ずるということになり、しっくりしない。もちろん狩りに興ずるような男勝りの女性は大いにあり得るけれど、史料に見る限り、持統がそのような女性とは思えない。

 次にもう一つ、古田さんはこの歌の作歌場所「阿騎の大野」にも疑問点があると言う。これは古田さんでなければ気付かないだろうと思われるような指摘である。

「阿騎の大野」の比定では従来説には異論はなく、皆一致しているようだ。古田さんは三例あげている。

「奈良県宇陀郡大宇陀町のあたり。」(岩波、日本文学古典大系本)

「奈良県宇陀郡大字大宇陀町一帯の平地。神武紀にも狩猟の歌が見え、狩場として知られた所。天武紀にも「吾城」(あき)の名が見える。」(中西進、講談社文庫)

「安騎野は大和国宇陀郡にして延喜式に宇陀郡阿紀神社あり。その阿紀神社は今松山町付近の迫間村にあり。その邊の野を安騎野といひしなるべし。日本紀天武天皇元年紀に『即日到菟田吾城』と見ゆ。『宿』は旅宿の義なり。」(山田孝雄 万葉集講義)

 つまり、「宇陀(菟田)」が大字、「阿騎(安騎、吾城)」が小字で、今の奈良県宇陀郡大字大宇陀町がそれに当たるというのが「定説」である。これに対する古田さんの疑問とは次のようである。  巻2の「(日並)皇子尊の宮の舎人ら慟(かな)しび傷(いた)みて作る歌廿三首」の中の一首では、「安騎の大野」ではなく「宇陁乃大野」(原文)となっている。

けころもを春冬設(ま)けて幸(いでま)しし宇陀の大野に思ほえむかも (191、巻2)

 普通に考えれば、「大野」を「大字」につけて表記しても「小字」につけて表記しても違いはない、ということになるだろう。しかし、狩りの場所はかなり広い原野あろう。小字で示されるような範囲内で行われるとは考えがたい。「阿騎」は「大字」なのではないか。つまり古田さんは、「安騎の大野」の「あき」は、定説が比定している小字の「あき」でなく、別に大字の「あき」があるのではないか、という疑問を提出している。

 ここまでに出てきた問題を整理すると

 「大王」・「日の皇子」とは誰か

 「日雙斯」とはどういう意味か。

 「阿騎の大野」はどこか。
となる。

 問題点①はこの一連の歌の内容が題詞と合わないことを如実に示している。歌の方が第一次史料だから、今までと同じように、題詞を白紙に戻して、歌の内容に沿って検討することになる。