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《真説古代史・近畿王朝草創期編》(125)

「天武紀・持統紀」(41)


日並知皇子の謎(4)
文武天皇の謎:番外編


 『倭王たちの七世紀』を借りて来た。「草壁皇子の嫡子ではない〝56歳″の文武帝」が詳しく論じられていた。しかし、この本も「トンデモ本」だった。小林恵子氏の諸説を信奉している人も多いようなので私が「トンデモ本」と断定する根拠を述べておこうと思う。ということで、今回は「番外編」とした。

 小林氏は大変な種類の文献を用いている。素人の私などには聞いたこともないような文献がたくさん出てくる。そのおびただしい数の文献を用いて、ある文献から自説に都合がいい部分引き出し、さらにそれと類似の文を他文献から引き、それらの中の文言に恣意的な解釈を施し、それらを強引に結び付けて仮説を作っていく。それはとても論証とは言いいがたい。あくまでも仮説、というより謬説である。その仮説を用いて他の仮説を創り、仮説に仮説を重ねていって一つの理論を構成していく。その間、前後の脈絡を見失うほど論点が目まぐるしく入れ替わっていく。よく言えばスピード感のある文体。わるく言えば立て板に水のようにたたみかけまくし立てる文体。ご本人はそれとは自覚していないのかもしれないが、いわゆる読者を「煙に巻く」手法の連続である。

 その結果、例えば次のような結論が生まれる。

高向玄理は実は高向王であり、その息子の漢(あや)皇子こそ天武天皇である。その天武は高句麗の淵蓋蘇文(ヨンゲソムン)と同一人物である。また、新羅の文武王は681(天武10)年に死んだことになっているが、実はその年に亡命して倭国に来ていた。文武王は蓋蘇文(天武)とともに唐と戦ったことがあり、文武王と天武は周知の中である。亡命してきた文武王は天武の庇護を受け、天武亡き後は持統の後援を受けて、文武天皇となった。

 結論だけで決めつけるのでは納得できいない人もいるかも知れない。その論証?の手法を分析しておこう。

 天武と蓋蘇文が同一人物であることを示す証拠の一つとして、なんと李寧熙の説を援用している。

 蓋蘇文はクーデターで実権を握った後、莫離支(マンニジ)という官名を名乗った。この官名を李寧熙氏は次のように解読して、「天武=蓋蘇文」と結論している。

 〝莫″は韓国式音よみでモともマともメともよまれます。このうちメをとり、その終声ク音を消すとメになります。〝買″もまたメとよまれますが、この〝莫″と〝買″は古代韓国において〝水″をあらわす吏読表記でありました。

 古代語の場合、〝水″と〝海″は同義にあつかわれています。したがって〝莫″イコール〝海″なのです。

 離支はイチ、またアチとよまれ、貴人・王をあらわしました。

 以上で〝大莫離支″は〝大水王″または〝大海貴人″で〝大海人″と同じ意味のことばとなるのです。

 朝鮮古代語の吏読表記というのを、私はまったく知らない。だから、莫離支(マンニジ)に対する李寧熙氏の解読が正しいかどうかを問題にすることはできない。しかし、「大莫離支=大水王または大海貴人」が正しい解読だとしても、これだけから「淵蓋蘇文=大海人皇子(天武)」なんで結論は得られない。その論理のとんでもない飛躍は誰にでも分かるだろう。

 次に「文武王は倭国に亡命してきた」という部分の論証?は次のようである。まず氏は使用する引用文を列挙することから始める。(出典を〈 〉で示した。)
 679(文武王19)年7月1日に文武王の発喪記事〈『新羅本紀』〉

 文武王は倭兵を鎮圧しょうとして咸恩寺を造る途中で死去し、次の神文王が完成させたが、金堂の下に東に向いた穴があり、そこに東から来た文武王の龍が入ってくるようになっていたという。〈『三国遺事』に引用されてる『寺中記』の記事〉

 現在の咸恩寺跡には実際に、金堂の階下に特殊な石組の60センチぐらいの空間があって、龍が出入りできるような構造になっているという調査報告もある。〈金正基「仏教建築」 田村圓澄・泰弘雙編『新羅と日本古代文化』〉

 東海から咸恩寺の方向に小山のようなものが浮かんできたが、神文王が怪しんで占わせると、海中の龍になった文武王と天神になった金庚信が城を守る宝を授けようとしていると云った。王がその山に出かけると、龍がいて王に黒い玉帯を贈った。〈『三国遺事』〉

 文武王の遺体は、文武王の遺言により火葬して、東海の湾口の石の上に葬った。〈『新羅本紀』〉

 このように文献からの引用文を羅列しておいて、次のように言う。(論理の筋道を説明のため、各段落に番号を付けた。)


 「新羅本紀」には文武王の遺言により火葬して、東海の湾口の石の上に葬ったとあるだけで、『寺中記』にあるように、倭国に対する鎮護国家の意味で海龍になったという条はない。


『寺中記』は和冦などに悩まされた中世以後の対日本観が反映していると思われる。


 「新羅本紀」では俗説によれば文武王は龍に化したといわれているとある。


 前後の王達はすべて陵墓を持っているのに文武王だけは陵墓がなく、火葬も最初で例外である。第一、統一新羅の初代の王が陵墓を持たないとは不思議な話ではないだろうか。


 そして、東海の海龍になったとあるように文武王は東と深く結びついているのである。

 ①・②で『寺中記』の「海龍」の記事は後世の後付と判定し、③で『新羅本紀』の「龍」記事は俗説であることを確認している。ここまで読んでくると、著者は「文武王が龍になった」という記事を否定してるんだな、と誰でもそう考えるのではないか。

 ところが⑤では「東海の龍になった」という説話を肯定的に解釈している。ここまできて、「咸恩寺の穴」をその物的証拠と言いたいのだな、と分かる。そして、その説話から「文武王が東と深く結びついている」という寓意を読み取る。④の墓がないという断定とこの寓意とを結びつけて、「文武王は生きていて東方(倭国)に亡命した」という説を構成しようとしている。そして、その説の正当性を補強すべく、他の文献からまったく異なるテーマの文を引用する。

 680(天武9・文武王20)年7月2日、飛鳥寺の西の槻の木がひとりでに折れて落ちた。〈『書紀』〉

 蜀の景耀5年、宮内の大樹がひとりでに折れた。〈『晋書』〉

 この二つの文献を結びつて次のように言う。

 (『晋書』の記事は)蜀の滅びるしるしであったという。

 新羅は日本からみて西であるから、『書紀』が西の槻の木と規定しているのは、新羅に国難があったことを暗示したのである。それは一年後の同月同日に「新羅本紀」に文武王の発喪があることによって証明されよう。

 つまり、文武王が死んだと公表される一年前に、文武王の死の原因になる事件が、この頃起きたことを『書紀』が暗示させているのである。

 小林氏は、史書に現れる不可解な動植物の出現や異変とか天変地異の記述を、明示を避けたい事件、あるいは隠蔽したい事件を暗示していると考えている。確かに『日本書紀』には、例えば『老人等、相謂(あいかた)りて曰はく、「春より夏に至るまでに、鼠の難波に向きしは、都を遷す兆なりけり」といふ』(大化元年12月9日条)というような記述が散見される。しかし、小林氏は全ての異変記事を政治的な事件を暗示するものとして、まさに恣意的に解釈する。

 上の「飛鳥寺の槻の木」の異変が何かの予兆とするのなら、その記事のすぐ後に、「飛鳥寺の僧弘聡(ぐそう)が死んだ」(20日条)とか「舎人王が死んだ」とかいう記事があるから、それらと結びつけることもできる。私が恣意的解釈というのはそういう意味である。『日本書紀』の記事に対する恣意的解釈は次のように続く。

 同年11月1日に日蝕があったとあって、3日に戌(午後10時)から子(午前0時)まで東の方が明るかったとある。夜明でもないのに東の方が明るいというのは『隋書』(志一六・天文下)に「赤兵、白喪」とあるように戦乱が起こるしるしである。

 翌日、高句麗使人が帰国したとあるのは、戦乱があるのを知ってただちに帰国したということであろう。

 10日に「西方に雷なる」とあるが、雷は「怒乃象」であるから、西方の唐国が怒り、新羅に出兵したことをしめすものだろう。

 この場合の唐国といっても、唐書などの中国側の史料にはまったく出てこないから、専ら極東方面を担当した李謹行や薛仁貴等の唐将が任に当たり、彼等の独断で出兵したと想像される。

 30日に「臘子鳥(あとり)・天(あめ)を蔽(かく)して、東南(たつみのかた)より飛びて、西北(いぬいのかた)に度(わた)れり」とある条で鳥を兵に託して、日本から援軍を送ったことを暗示させている。

 しかしこの時の唐国との戦いで文武王は事実上死んだことになったらしい。

(中略)

 新羅で文武王の発喪のあった同年7月1日に『書紀』には「朱雀見之」とある。朱雀は大津を表象するが、また、文武王を表象するものであったらしい。

 現在残っている「新羅文武王陵之碑」(神文王元年〔682建立)に「継昌基於火官之后」とあることから、木下礼仁は文武王は火官、すなわち炎帝の継承者としての意識があったと解釈している。

 火すなわち火徳は五行思想でいうと、方向は南、季節は夏、四神は朱雀で表わされる。

 したがって『書紀』のこの条は「新羅本紀」の同年同月同日の文武王の発喪に対応するのである。

 4日には日本から新羅と小高句麗に使者を出しているが、文武王の葬礼に参加するためだったと思われる。

 10月1日に日蝕があって、18日に地震があったとある。何かよからぬ事件の予兆であるが、20日に新羅使人が来日、金・銀・鋼・鉄・錦・絹などの莫大な贈物をしてきた。

 そして、天武が広瀬野に行くために行宮まで作りながら、出かけず、新羅使人が国王の死んだ旨を告げたとある。

 この条の解釈は難しいが、すくなくとも、天武以下、文武王の死はとうに知っているはずである。ここで、改めて文武王の死について述べているのが不審である。

 文武王の発喪の日に『書紀』に「朱雀見ゆ」とあるのは「朱雀が日本に見えた」、意訳すると文武王が日本に来たと解される。このように前後の関係からみて、この新羅使人は「新羅では王は薨じたことにして、亡命して来日しました」と告げたのではないかと思う。

 むろん、この事実は天武以下、ごく少数の人が知っているだけで、極秘にされたと思われる。

 この文武王が文武天皇になると言うのである。

 「らしい」・「思われる」・「想像される」・「推量される」・「可能性がある」などの語句で結ばれる仮説の羅列であり、とても論証とは言えない。しかしご本人は自信たっぷりである。あとがきを「怠惰に半生を過ごしてきた私も私なりに、どうやら、最後の光芒を放つ時期を迎えたようである」と結んでいる。古代史学会を震撼せしめる画期的な著作という自負があったのだろう。しかし残念ながら私としては、ただただ呆れるばかりの非論理的な著作である、と結ぶほかない。
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《真説古代史・近畿王朝草創期編》(124)

「天武紀・持統紀」(40)


日並知皇子の謎(3)
文武天皇の謎(2)


 文武天皇が15歳という若さで践祚したという記録を、小松崎さんは「史実」ではないと考えている。

 (軽王子は)「正史」(『続日本紀』)によれば、言うまでもなく草壁皇子の子(持統女帝の孫)ということになっている。15歳で即位、10年間在位した帝である。

 しかし、『続日本紀」の記録をていねいに読めばわかるが、その治績はおよそ〝年少帝″のそれではない。

 そして、ちなみに、文武天皇の国風諡号は「天之真宗豊祖父天皇(あまのまむねとよおほぢのすめらみこと)」という。この諡号の中の「祖父」については、「若くして長老の風格がある」などと説明されたりしているが、これが、25歳で夭逝した天皇の諡号なのである。その取ってつけたような〝説明″ともども、やっぱり、異様なものを感じないだろうか。

 その諡号の意味を考えてみると、「天之……天孫系の」「真宗……〝マムネ″(〝マ″は「本物」、〝ムネ″は、胸・棟、「筋の通った最高の」)」という意になる。つまり、『皇統の本物の嫡流である天皇』ということになるという。

 なぜ、これほどまで「正統性」や「(皇統の)本物の嫡流」をアピールする必要があるのか。

 むろん、その「必要」に応じてのことであろう。

 まさに、再三この稿で問うている問題とつながってくる。

 前著(『神話の旅人』で、李寧熙(イヨンヒ)氏の仮説を紹介したが、小林恵子(やすこ)氏の分析(『白村江の戦いと壬申の乱』現代思潮社など)からも、私も、「草壁皇子の嫡子ではない〝56歳″の文武帝」のほうが、よりふさわしいと思っている。

 文武天皇は実は草壁皇子の嫡子ではなく、正当性のない人物で、年は56歳だったと主張している。面白い仮説とは思う。それにしても、「56歳」という年齢はどこから出てきたのだろう。ぜひその論拠を知りたいと思う。小松崎氏がこの説のよりどころとしている「李寧熙氏の仮説」や「小林恵子氏の分析」がどういう論証をしているのかについては何も書いていない。自分で調べることにした。

 李寧熙氏は、「もう一つの万葉集」という著書で、万葉集は古代韓国語(前回出てきた「吏読」)で書かれているという説を唱えている人。もちろん私はこの人もその著書も初耳。ネット検索して見たら、この人の万葉歌解読の一例を知ることができた。それを読んで、「こりゃだめだ」と思った。対象歌は7番「額田王の歌」である。

(原文)
金野乃 美草苅葺 屋杼礼里之 兎道乃宮子能 借五百磯所念
(訓読文)
秋の野のみ草刈り葺(ふ)き宿れりし宇治の京(みやこ)の假廬(かりいほ)し思ほゆ

 これを李寧熙氏は次のように訓じている。

新羅よ 刀研いで注ぎ 締め苦しむなかれ お上の都は 刀が 来るから来襲に備えよ

 「美草苅葺」の訓読が「刀研いで注ぎ」となる理屈は次のようだ。

『「美」は朝鮮語音読で「ミ」、「草」は「セ」で「ミセ」は「ムセ」に通じ「鋳物の鉄」を意味する。「苅」は日本語訓読で「カリ」。これは朝鮮語「カルダ」(磨く)の語幹「カル」。「葺」は日本語訓読で「フキ」。これは朝鮮語「ブッキ(注ぐ)」を表す。』

 そして歌全体の意味を次のように解説しているそうだ。

『これは百済人である舒明天皇が、新羅の攻撃に備えよと百済に警告するために、額田王に作らせた歌であった。』

 まじめに論じるのがバカバカしくなるようなこういう珍説があるのを私は知らなかった。一つの過ちから全体を否定する愚は避けなければならないが、この場合は「一事が万事」としてよいだろう。「李寧熙氏の仮説」とやらを調べるはやめた。

 「小林恵子氏の分析」の方はどうか。『白村江の戦いと壬申の乱』と書名が書かれている。検索したら私が利用している図書館の蔵書の中にその本があった。さっそく図書館に行って、拾い読みをしてみた。文武天皇に就いての記述は全くない。内容は表題の通り、「天武紀」までが対象だった。ちなみに、巻末にたくさんの参考資料を掲げているが、その中には九州王朝に関わる本は皆無だった。この人も古田史学をまったく無視した学者だった。

 (『白村江の戦いと壬申の乱』現代思潮社など)の「など」は「他の本も」という含みを持たせた表記だろうか。私はこの「など」にだまされたようだ。いま、図書館から帰ってきてこれを書いているのだが、念のため改めて今度は著者名で蔵書検索をしてみた。小林恵子氏には『倭王たちの七世紀』という著書もある。もしかするとこの本に「小林恵子氏の分析」があるのかもしれない。明日また図書館に行ってみようと思う。(その結果は次回に報告することにします。中途半端ですが今回はこのままアップロードしておきます。)
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(123)

「天武紀・持統紀」(39)


日並知皇子の謎(2)
文武天皇の謎(1)


 『日本書紀』は697(持統11)年8月1日条の次の一文で終わっている。

天皇、策(はかりごと)を禁中(おほうち)に定めて、皇太子に禅天皇位(くにさ)りたまふ。

 しかし、689年に皇太子だった草壁皇子が亡くなった後、新たに皇太子を立てたという記事は一切ない。『日本書紀』の中だけではこの皇太子が誰なのか分からない。

 『続日本紀』では、697(持統11)年に皇太子になったと記録されている。しかし、ここにも軽皇子という名はない。

 『万葉集』以外で軽皇子という名が記録されている文献はあるのだろうか。岩波大系の頭注に「珂瑠」という表記を含む文献が引用されていた。

『文武天皇。懐風藻などによると没年は二十五歳であるから、この時は十五歳。立太子のことは、本紀では二月二十八日条の記事から、その日以前であろうと推定されるのみであるが、続紀に「高天原広野姫天皇十一年、立為皇太子」、また釈紀の引く私記に「王子技別記曰、文武天皇少名珂瑠皇子。天武天皇皇太子草壁皇子尊之子也。持統天皇十一年春二月丁卯朔壬午〈十六日也〉、立為皇太子」とある。』

(注)
「釈紀」
 鎌倉時代末期の日本書紀の注釈書「釈日本紀」のこと。
「私記」
 平安時代に行われた『日本書紀』の講書の内容をまとめた書物「日本書紀私記」のこと。


 「珂瑠皇子」や「軽皇子」をきろくした史料が他にあるのかどうか、私には調べる手立てがないが、もしかすると『万葉集』以外では上の例が唯一の例なのだろうか。もしそうだとすると、『万葉集』より後代の文献「私記」が『万葉集』での表記をわざわざ変えた理由は何なのだろう? こんな疑問が出てくるが、テーマからは外れるし、私にはそれを調べるすべもないので、「言ってみただけ」ということにしよう。

 さて、上の引用文では、文武天皇の即位(697年)が15歳の時ということに、注意が引かれる。わずか15歳で、九州王朝から権力を奪取したばかりの近畿王朝の初代天皇となる。近畿王朝の基盤を強固なものとするという草創期の難しい課題をになって、それなりの治績を残している。本当だろうか。

 私は、いわゆる垂廉政治が行われたのだろうと推測している。初めの5年は祖母の太上天皇(持統)が執り行った。持統は702年に亡くなっている。後の5年は母親(天智の第4皇女)が引き継ぎ、文武の死後践祚(707年)する。元明天皇である。元明は715年に草壁の皇女(元正天皇)に譲位する。元正が聖武に譲位したのが724年。こうして見ると、初めの27年間は女性が権力のトップにいた。ヤマト朝廷の基盤は女性が創ったことになる。

 ここで小松崎さんがこの問題をどのように考えているのか、その方法論とともに紹介しておこう。まず、史料としての『日本書紀』・『続日本紀』・『万葉集』の読み方について、次のように述べている。

「いつの世にも、体制、反体制の権謀術数はある。そこに、命運を懸けた熾烈な戦いが生まれることも稀れではない。多くの場合、勝者の砲哮が『歴史』を作り、敗者の呪罵(じゅば)は圧殺され硬塞(こうそく)の様もまた同じように、闇に封印されるのが常である」

 こんな、キザな文があったとする(拙文)。キザな文体はともかく、中味は正論ではある。しかし……、この文は何も言いえてはいない。

 この時代の「正史」でも『万葉集』でも、少し丁寧に読んでみると、それがよくわかってくる。勝者と敗者の関係、そして、そこにある表現から、封印された「史実」(真実)を読み取ることは、それほどたやすいことでもない。

(中略)

 わが国の場合、「正史」(『日本書紀』や『続日本紀』など)も、その性格柄、それを鵜呑みにすることは危険この上ない。「正史」はあくまで体制側の歴史でありいわば「勝者の歴史書」であるから、右のキザな正論によれば……、"敗者の呪罵も硬塞も封じ込められていて、表には伝わってこない″ということになる。

 「正史」に対する姿勢として、基本的に正しい指摘である。ここで指摘されている「正史」の性質は一般論としてどの国の「正史」にも当てはまる。その上さらに『日本書紀』の場合は肝心な部分がほとんど九州王朝や中国・朝鮮などの他国史料からの盗用・剽窃で成り立っている。小松崎さんは九州王朝の存在を全く認めていないので、その点でその論考には決定的な限界が出てくる。

 小松崎さんは、『続日本紀』もそのまま信じることはできないと言う。ここで『万葉集』4465番~4467番の左注①
「淡海真人三船(あふみのまひとみふね)が讒言に縁(つらな)りて、出雲守大伴古慈悲(こじひ)宿禰解任せらる。」
と、『続日本紀』756(天平勝宝8)年5月10日の記事②
「出雲國守從四位上大伴宿祢古慈斐・内竪淡海眞人三船、朝廷を誹謗し、人臣の礼なしと云うに坐せられて、左右の衛士府に禁ぜらる。」(小松崎さんは「仲麻呂の讒言により」と書いている。)
との食い違いを取り上げている。淡海三船は、①では讒訴した当人になっているが、②では讒訴されて罰せられた方の一人になっている。これを例に、小松崎さんは次のように述べている。

 「正史」の場合、通常は「その書が何時編纂(へんさん)されたか」によって、当該者の"立場"を判断できる。しかし、右の『続日本紀』の記事の場合はいくつかの問題点を含んでいる。

 そもそも、この書は、仲麻呂が、祖父・不比等(ふひと)の事業、「第一の正史」・『日本書紀』修史を意識しつつ、それを継ぐ「第二の正史」として、彼の絶頂期の淳仁朝(758~764)に志したものであったといわれる。まあ、それはともかくとしても、その修史の中心的メンバーに淡海真人三船が加わっていることが、「史実」(真実)という面からは問題をはらんでくる。

 当然、仲麻呂の絶頂期の淳仁朝の修史内容(30巻)は、その後の光仁朝(770~781)の修史事業の中で改訂される。おそらくは、宝亀9(778)年ごろから、当時、大学頭兼文章(もんじょう)博士になっていた淡海三船たちによって書き換えられたと思われる。

 つまり……、先の記事「淡海三船は、仲麻呂の讒言により……」の部分は、天平宝字8(764)年の叛乱によって「逆賊」となった"仲末呂"の名前が、改訂執筆者「淡海三船」自身によって書き加えられた可能性は十分考えられることになる。

 ますます、「史実」は混沌としてくるが、私は『万葉集』の「左注」"淡海三船の保身のための讒言"を史実と見る。

 『続日本紀』の場合も、編纂者と編纂時期によって、「史実」(真実)という面では多くの問題をはらんでいる、と鋭い指摘をしている。

 では、『万葉集』にはどういう見解を示しているだろうか。

 さて、一方の、『万葉集』の場合はどうであろうか。

 始めの「キザな正論」によれば、「多くの場合、圧殺され、闇に封印される」はずの"敗者の呪罵や硬塞"が、辛うじて「表現」を得て言霊が生命を甦らせたのである。

(中略)

 (『万葉集』の場合は)「正史」とは別の意味での自ずからなるむずかしさがある。つまり、その性格柄、「体制側」(権力者)を意識した"守り"が、表現や編集の随所にみられるのである。

 封じ込められた事実に対するネガティブな語り口には、施錠が施されていて公の声になってはいないし、・・・(中略)・・・「寓意」など韜晦のワザや、あるいは古韓音を使った吏読(イドウ)や郷札(ヒヤンチヤル)などによる「表・裏」の二重読みなど、言霊の匠(たくみ)の珠玉の技によって、玉虫色に衣装立てして、ほんの少しのキーワードを残し、カモフラージュしてしまい込まれているかもしれない。

(「吏読(イドウ)」と「郷札(ヒヤンチヤル)」については「万葉仮名はどのように成立したか?」が参考になります。)

 韓国の歴史ドラマ「善徳女王」第58話で、新羅の名将・金庾信(キム・ユシン)と王子・金春秋(キム・チュンチュ)が次のような会話を交わしていた。

ユシン: こんな方法で密書を渡すのですか?
チュンチュ: はい、私も聞いた話で確証はありませんが、倭国に行ったコクリョ(高句麗)の使臣がカラスの羽に何かを書いたというのです。
ユシン: それで?
チュンチュ: ペクチェ(百済)出身のワンジニ(王辰爾)がそれを解読したと、隋の商人に聞いたことが・・・

 この烏の羽に書かれた文書は『烏羽(うわ)の表疏(ふみ)』と呼ばれている。「敏達紀」〈(572年(敏達元)年5月15日条〉に次のような説話がある。(あらすじだけです。)

「高麗(こま 高句麗)から文書が届くが、それは黒い烏の羽であった。そこに書かれた文字を史(ふびと 文書係の専門家)たちは誰も読み取ることができなかった。その時、王辰爾(おおじんに)という百済の渡来人が、羽を炊飯の湯気で蒸し、柔らかい帛(ねりきぬ 綿布)に羽を押し付けて、いともあっさりと、その文字を写し取ってしまった。

 この説話を下敷きにして、小松崎さんは次のように続ける。

 小さな「鍵」 ひとつで、メッセージが浮かび上がってくるのだ。何人の「史」がいようが、「キーワード」が見つからなければ、3年どころか、1000年たっても読めはしない。

 メッセージが読めなければ、特別なことは、何にも書きしるされてはいないと、思い込んでも仕方がない。

 果たして、私たちは、大切なメッセージの記された〝烏の羽(からすはね)″を、無造作に放置したりしていることはないのだろうか。史(専門家)たちは

「汝等(なんじら)習(なら)ふ業(わぎ)、何故(なにゆえ)にか就(な)らざる。汝等衆(おお)しと雖(いえど)も、辰爾(じんに)に及(し)かず」(お前たちの習業はたりない。数は多いが辰爾一人におよばないではないか)

といってお叱りを受けるが、もし、今日「史」(専門家)がこの立場になったら、そのプライドと保身から、やっぱり、烏の羽には何も書いてないことになってしまうのではないのかと余計な心配もしてしまう。

 あらためて……、私たちは、現在、万葉人の書き残したメッセージを、そのキーワードを解きほぐしつつ、しっかり受け止めているのか問い直したい。

(中略)

 ただ……、『万葉集』の場合、注意しなければならないのは、逆に……、封じ込められているうちに、支持者の声に反応して勝手に醸成(じようせい)し、優しく甘く脚色されて、史実とは異なる方向へと美化され歪曲(わいきよく)されでゆく現象も少なくないように思われる。この方がこわい気もする。真実を掘り起こすには、これらを選り分ける感性も不可欠のようである。

 「(専門家)が・・・・・・そのプライドと保身から、やっぱり、烏の羽には何も書いてないことになってしまう」という指摘は、古田さんの学説を亡いことにしている従来の古代史学者への苦言としてぴったりである。しかし、この点では小松崎さんも苦言を受けるべき一人になっている。

 また『万葉集』の場合も「優しく甘く脚色されて、史実とは異なる方向へと美化され歪曲されでゆく現象も少なくないように思われる」という危惧も正当な指摘だ。しかし。小松崎さんはここでも肝心な一点を欠いている。

 『万葉集』では題詞と歌に矛盾や齟齬が生じる場合、歌の方を採らなければいけない。歌の方が第一史料である。この視点がないので、小松崎さんは題詞に合わせて歌を解釈しようとする。従来の学者とは違う斬新な発想があり結論も面白いのだが、残念ながら「史実」に迫ることはできない。単なる仮構(フィクション)に終わっている。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(122)

「天武紀・持統紀」(38)


日並知皇子の謎(1)
『万葉集』35~39番歌


 「天智紀」編で「x皇子とは誰か」をテーマにしたとき、天智・天武の皇子たちの名前・出生年・没年を調べてみた。それを表にまとめてみた。(表中の〈〉は推定年。岩波大系『続日本紀』の補注によった。)

(天智)
紀での表記続紀での表記生年没年
大友大友648672
なし651658
河嶋・川嶋なし657691
施基・芝基志紀・志貴〈663-672〉716

(天武)
紀での表記続紀での表記生年没年
高市高市654696
草壁日並知662689
大津なし663686
忍壁忍壁・刑部〈663-672〉705
磯城なし〈663-676〉〈685-701〉
舎人舎人676735
〈676-686〉715
穂積穂積〈676-686〉715
弓削弓削〈676-686〉699
新田部新田部〈676-686〉735

 この表からすぐに二つの「?」が浮かぶ。志貴皇子の名前の表記が四通りもあるのはなぜだろう? 草壁皇子の名前が『日本書紀』と『続日本紀』とでは全く関連がないのはなぜだろう?

 志貴皇子については「x皇子とは誰か」で論じた。そのとき私は
「草壁は『続日本紀』では日並知(しなみし)皇子と呼ばれている。(この呼び名については後に取り上げる予定です)」
と書いていた。ところが、この問題の行き着く先は漠然と予想ができていたのに、調べるほどに私の手にあまる問題であることが分かって、手をこまぬいていたのだった。

 ところが、今回『壬申大乱』を読んでいて、その「第六章〈別論一〉月西渡る」がその問題の解明をしていることを知った。また、「x皇子とは誰か」のときに参考にした小松崎文夫著『皇子たちの鎮魂歌』も「日並知皇子」問題を取り上げていた。この著書は、方法論的にはいい線を行っていて結論もお話としては面白いのだが、ヤマト王権一元主義の枠内での議論のため、肝心な点で論拠はすべて仮定(著者は「幻視」と言っている)であり、史実の解明とはなっていない。しかし、部分的には教えられることが多々あるので、必要に応じて古田論文と併用したり、読み比べたりしていくことにする。

 さて、草壁皇子は681(天武10)年2月25日に皇太子となった。皇太子(あるいはそれに準ずる者)は「尊(みこと)」という尊称を付けて呼ぶので、『日本書紀』では「草壁皇子尊(くさかべのみこのみこと)」と表記されている。しかし草壁は、大王位を継ぐことなく、689(持統3)年4月13日に28歳という若さで亡くなっている。

 草壁は『続日本紀』では「日並」という名で三回出てくる。それぞれ日並知皇子尊・日並知皇子命・日並知皇太子と表記されている。

 ところが、『万葉集』では日双斯皇子命(49番)あるいは「日並皇子尊」(110番・167番の題詞)となっている。つまり、尊称部分を除くと、「日並知」・「日双斯」・「日並」の三通りの表記がある。いずれも「ひなみし」と訓じられている。これらのうち「日双斯」が異質であり、49番歌の解読が問題解明のカギとなる。49番は45番(長歌)に付随している反歌である。この問題でも原文が必要不可欠なので、原文も合わせて、45番~49番を転載する。

原文
輕皇子宿于安騎野時柿本朝臣人麿作歌

(45番)
八隅知之 吾大王 高照 日之皇子 神長柄 神佐備世須等 太敷爲 京乎置而 隱口乃 泊瀬山真木立 荒山道乎 石根 禁樹押靡 坂鳥乃 朝越座而 玉限 夕去來者 三雪落 阿騎乃大野尒 旗須爲寸 四能乎押靡 草枕 多日夜取世須 古昔念而

 短歌

(46番)
阿騎乃野尒 宿旅人 打靡 寐毛宿良目八方 古部念尒
(47番)
眞草苅 荒野者雖有 黄葉 過去君之 形見跡曾來師
(48番)
東 野炎 立所見而 反見爲者 月西渡
(49番)
日雙斯 皇子命乃 馬副而 御獦立師斯 時者來向


読み下し文
輕皇子の安騎(あき)の野に宿りましし時、柿本朝臣人麿の作る歌

やすみしし わご大王(おほきみ) 高照らす 日の皇子(みこ) 神ながら 神さびせすと 太敷かす 京(みやこ)を置きて 隱口(こもりく)の 泊瀬(はつせ)の山は 眞木(まき)たつ 荒山道を 石(いは)が根 禁樹(さへき)おしなべ 坂鳥の 朝越えまして 玉かぎる 夕さりくれば み雪降る 阿騎(あき)の大野に 旗薄(はたすすき) 小竹(しの)をおしなべ 草枕 旅宿りせす 古(いにしへ)思ひて

 短歌

阿騎の野に宿る旅人打ち靡(なび)き眠(い)も寢(ぬ)らめやも古思ふに
ま草刈る荒野にはあれど黄葉(もみじば)の過ぎにし君が形見とぞ來(こ)し
東(ひむかし)の野に炎(かぎろひ)の立つ見えて返り見すれば月傾(かたぶ)きぬ
日並の皇子の命(みこと)の馬並(な)めて御獵(みかり)立たしし時は來向(きむか)ふ


 題詞に出てくる軽皇子は、もちろん孝徳のことではない。文武天皇の王子時代の名前である。「珂瑠」とも表記する。しかし、「軽」という名は『日本書紀』にも『続日本紀』にも出てこない。

『続日本紀』には文武天皇は「日並知皇子尊の第二子なり」とある。つまり、軽皇子は草壁皇子の息子である。

 登場人物が揃ったところで、予備知識として、上の歌が従来どのように解されていたのか知っておこう。岩波大系の大意(頭注)を転載する。
(45)
わが皇子、日の御子は神であるままに神として行動なさるとて、立派な都をあとにして、泊瀬の山は真木の立つ荒い山道だが、それを岩や禁樹を押しなびかせて朝越えていらっしゃって、夕方になると、雪の降る阿騎の広い野に、旗すすきや小竹を押し伏せて草を枕に旅やどりをなさる。亡き父君草壁皇太子のいらした昔のことを思って。

(46)
阿騎の野に今こうして宿っている旅人たちは、のびのびと身を横たえて眠っているであろうか、や眠れはしないのだ。草壁皇太子御在世の昔の追憶が次々と浮かんで来て。
(47)
草を刈る荒野ではあるが、亡くなられた草壁皇子の記念の地であるとてやって来たことである。
(48)
東方の野には曙の光のさしそめるのが見えて、西を振りかえると月が傾いてあわい光をたたえている。
(49)
亡くなられた草壁皇太子が、馬を並べて御狩にお出かけになった時刻が今や迫って来る。

 阿騎の野で一夜を過ごすことになった軽皇子が今は亡き父・草壁皇子を偲んでいる。その軽皇子の心を読み取って、人麿が詠った草壁皇子への追悼歌という解釈である。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(121)

「天武紀・持統紀」(37)


飛鳥浄御原宮の謎(12)
「飛鳥浄御原宮治天下天皇」とは誰か(6)


 振り出しの「小野毛人墓誌」に戻ろう。いよいよ「飛鳥浄御原宮治天下天皇」が誰なのかを特定する段階にやってきた。

 まず、ここで言う「飛鳥」は、奈良県の飛鳥ではなく、「飛ぶ鳥の明日香」の発祥地(現在の福岡県小郡市井上)を中心とする一帯であることを確認しておこう。

 次に「浄の宮」。この「浄の宮」を「浄御原宮」と呼ぶ根拠はあるのだろうか。古田さんは『壬申大乱』ではこのことに触れていない。『壬申大乱』が出版されたのは2001年。「日本の未来」が講演されたのが2009年。この間に研究に進展があったらしい。「日本の未来」では上の問題が論じられている。講演録なので分かりにくい所があるが、概略をまとめてみる。

 「ジョウ(浄)」という地名が南九州を中心に分布している。柵に囲まれた集落という意味でかなり古い言葉である。それに対して、前原・平原など、北九州を中心に「バル(原)」という集落の名前が分布している。
 小郡市井上の「飛鳥」は、水路に沿った湿地帯で、そこは柵が付いた集落「浄」である。その「浄」に、これも集落を表わす「原」をつけて「飛鳥浄御原」という名称が生まれた」。

 これについて、私はつい先日、別の説が頭に浮かんだ。次のように考えている。

 井上にはかつて中心をなす一個の「井戸」があった。「井尻」・「池尻」という地名はその痕跡を示している。こんこんと湧き出でて、この地を潤していた清浄な井の水。「浄の宮」の「浄」はそのことを表現した語ではないだろうか。「浄の宮」はこの井上の地にあった宮殿を指している。このように考えていた。そして、前々回に正木論文の一節を再掲示したとき、「あっ」と思った。そこには「旧御原郡の井上地区」とあった。ずばり、古代この地域は「御原」という地名で呼ばれていた。清「浄」な井の水で潤っている「御原」郡で「浄御原」。

 いずれにしても九州飛鳥の「浄の宮」が「飛鳥浄御原宮」と呼ばれていたことに不思議はない。九州にあった「飛鳥浄御原宮」なら、朱鳥(あかみとり)改元にちなんで「あすかきよみはらのみや」と名付けた、などというまったく理屈に合わない由来話をでっち上げる必要はない。

 次に「天皇」という呼称について。九州王朝の天子を「天皇」と呼んだ時期があったのだろうか。これについて、古田さんは次のように述べている。

 それで最後は天皇問題について、どうしても言いたい。九州王朝が「天子」を名乗ったことはご承知の通りだ。ところが白村江で負けて、それ以後は天子を名乗ることは出来なくなった。唐の占領軍が九州に来ていますから。それではなんと呼ぶようになったか。「天皇」ないし「大王」。

 このような天皇が九州などに存在し、かつ『日本書紀』『古事記』に存在しない天皇が出てくる。印象に残っている例をあげますと「安徳天皇」。かって九州太宰府近くの地元の郷土史家のかたにお会いして、お話をお聞きしたことがある。実は「安徳天皇」が、この林の木の下で敵の弓矢に囲まれ射られてお亡くなりになられました。そのように言われた。

 われわれの知っている安徳天皇は、子供で壇ノ浦で平家とともに滅びた天皇です。名前は「安徳天皇」と一緒ですが、この天皇とは別人です。太宰府の西に安徳台という高台のところがある。また四国愛媛にも、合田さんによれば「斉明の墓」がある。どうも我々の知っている斉明天皇ではなさそうだ。ようするに○○天皇が九州を中心に、山口県や四国などに分布している。それらは白村江以後の九州王朝の天皇や大王だと考える。そのように考えないと解けない。

 次に、飛鳥浄御原宮はどこにあったのだろうか。この宮殿は『日本書紀』が記録している「小郡宮」と別のものではない。小郡市に上岩田遺跡がある。そこが「筑後国御原郡の郡衙跡(郡役所)」と推定されてる。地図で見ると、その南方数百メートルのあたりに県立三井高校がある。古田さんはそこが飛鳥浄御原宮があったと言う。講演では詳しい説明がないが、何の根拠もなくこのような断定をする方ではない。恐らく何らかの考古学的根拠があってのことだろう。古田さんは次のように「飛鳥浄御原宮治天下天皇」の特定を行っている。

 「小野毛人墓誌」に出てくる「飛鳥浄御原宮治天下天皇」は天武天皇ではない。この九州福岡県小郡市井上、県立三井高校のところにいた九州王朝の天皇だった。

 このようになるが、三井高校から車で五分のところ、側に正倉院が出てくる。皆さんは奈良県の正倉院は知っているが、それとそっくりの規模の正倉院の遺構が出てきた。

 実はこの正倉院のことは知られていた。「筑後国交替実録帳」(仁治2年、1241)に「正院」と「正倉院」は「崇道天皇」の造営と書かれている。写した人は「実なし」と二回も書いている。正倉院が書いてあるけれどもウソだ、実態はない、と記されている。ウソだと言いながら消さずに書いてあるところが、この史料の値打ちだ。つまり写した人たちには理解できなかったが、そういう史料はあった。

 ところが今回、実が出てきた。まったく奈良県と同じ規模の正倉院の遺構が出てきた。すると、まったく同じ規模の正倉院が二つあるということは、前後関係が問題になってきます。そうすると奈良県の正倉院を造った後、同じ規模の建物を一田舎に造るはずがない。造れば不経済です。それに全国に「正倉」はあるけれども「正倉院」はない。順序は当然逆である。九州筑後の正倉院が古い。それを真似して大和の正倉院が造られた。しかも元の正倉院は壊されて廃墟になった。こう考えざるをえない。しかも元の正倉院を造ったのが「崇道天皇」とある。そうしますと「飛鳥浄御原宮治天下天皇」とは「崇道天皇」である。

 「小野毛人墓誌」は京都の崇道神社の裏山から出土している。ここに祭られている崇道天皇は、もちろん、九州の崇道天皇とは別人だ。京都の崇道天皇は120年ほども後の人物である。その人は桓武天皇の弟で皇太子であった。早良親王である。彼は延暦4年(785年)の藤原種継暗殺事件に連座して廃され、淡路国に配流される途中で憤死している。後に桓武天皇が「崇道天皇」と追号して早良親王を祀ったのが崇道神社である。

 桓武天皇はなぜ九州王朝の天皇と同じ名前で祭ったのだろうか。偶然の一致ということではないだろう。古田さんの見解を聞いてみよう。

 このこと(崇道天皇という同じ名で祭ったこと)は小野毛入墓を見るためにそこへ無理して登ったから分かった。皆に無理ですよと言われたが、大下さんのリードのおかげで上がれた。この上がる途中に気がついた。(注:京都市左京区上高野の崇道神社の小野毛入墓は、140メートルの高さです)

 これは良い意味で、犯人は桓武天皇。桓武天皇は大仏開眼のとき二十歳だった。同じ時期に正倉院は完成している。つまり桓武天皇は奈良の正倉院を見ている。ということはこの正倉院は、九州の崇道天皇が造った正倉院の模倣だった。とうぜん桓武天皇はそれを知っている。しかし『日本書紀』のように、本来のお手本である九州王朝はなかったことにした。それに桓武天皇は正義感というか、これではいけないと感じた。それで弟にかこつけて同じ名前の「崇道天皇」を祀った。

 われわれは、旅先で不遇の死をとげた天皇を祀った、と聞いて覚えさせられている。しかし歴史上そのような不遇をかこった皇子は早良親王だけか。聖徳太子の息子をはじめたくさん居る。それらをぜんぶ追号し祀らなければならない。不公平でおかしい。いかに弟に対する愛情が深かったと解説していますが。

 ですから桓武天皇が弟の死にかこつけて祀りたかったのは、九州の「崇道天皇」。偉大な正倉院を造りながら、近畿天皇家にそれをぜんぶ持って行かれた。これこそ100年後、200年後に怨霊が出ても不思議ではない。桓武天皇は、それを祀りたかった。

 ここで完全に九州王朝と近畿天皇家の接点が出てきた。近畿天皇家が、九州王朝をどう見ていたかは、ほとんど知らなかった。しかし桓武天皇が九州王朝を知っていて、弟にかこつけて「崇道天皇」として祀った。自分の弟を名代にして、九州王朝の天皇を祀った。

 わたしは平安時代についてあまり縁がなくて知らなかったが、これからは平安時代をもう一度しっかり読み直さなければならない。

 この立場に立てば、いろいろなことが判明する。『古今和歌集』の紀貫之。半分ぐらいは、「詠み人知らず」となっているが、これが九州王朝とつながってきた。柿本朝臣人麿が正三位であると紀貫之は書いている。言われればそうかも知れないがホントかなと、みなさんも思っておられたと思う。ここで桓武天皇が入ってくれば、紀貫之も平安前期の人ですので、これが骨髄のところで、つながってきた。

 以上の問題は、いくら学界が解こうとしても解けない問題です。しっかり取り組みたい。

《真説古代史・近畿王朝草創期編》(120)

「天武紀・持統紀」(36)


飛鳥浄御原宮の謎(11)
「飛鳥浄御原宮治天下天皇」とは誰か(5)


 167番・168番・169番に戻ろう。二つの問題が残っていた。なぜ「天孫降臨」などの神話が特記されているのか、という問題と、「天照大神」を「日女之命」とする異例な表記は何故なのかという問題である。「日女之命」の解明がこの二つの問題の解答となろう。

 「日女之命」を定説は「ひるめのみこと」と訓じているが、古田さんは「ひめのみこと」と訓じている。そして『日本書紀』の神代上第6段1書第3を取り上げて論を進めている。

 第6段は「素戔嗚尊の誓約」と呼ばれている段である。その段の1書第3は「筑紫の水沼君系の神話」である。少し長いが、全文掲載しておこう。

一書に曰く、日(ひのかみ)、素戔嗚尊(すさのおのみこと)と天安河(あめのやすかわ)を隔てて相對(あいむか)いて乃ち立ちて誓約(うけい)て曰く、「汝(いまし)若(も)し?姧賊(あたな)ふ心有らざれば汝が生める子は必ず男(をのこ)ならん。如(も)し男を生まば、予(われ)以ちて子として天原(あまのはら)を治(しら)しめむ」とのたまふ。是に、日、先づ其の十握劒(とつかのつるぎ)を食(を)して化生(あ)れます兒(みこ)、瀛津嶋姫命(おきつしまひめのみこと)、亦の名は市杵嶋姫命(いつきしまひめのみこと)。又、九握劒(ここのつかのつるぎ)を食みて化生れる兒、湍津姫命(たぎつひめのみこと)。又、八握劒(やつかのつるぎ)を食みて化生れる兒、田霧姫命(たきりひめのみこと)。已(すで)にして素戔嗚尊、其の左の髻(もとどり)に纏(ま)かせる五百箇(いほつ)統(みすまる)の瓊(たま)を含みて、左手の掌中(たなうら)に著(お)きて、便(すなわ)ち男(ますらを)を化生す。 則ち稱(ことあげ)して曰く、「正哉(まさか)吾(われ)勝(か)ちぬ」とのたまふ。故、因りて名(なづ)けて、勝速日天忍穗耳尊(かちはやひあめのおしほみみのみこと)と曰(まう)す。復(また)右の髻の瓊を含みて右手の掌中に著きて天穗日命(あめのほひのみこと)を化生(な)す。復頸(くび)に嬰(うな)げる瓊を含みて、左の臂(ただむき)の中に著きて天津彦根命(あまつひこねのみこと)を化生す。又、右の臂の中より、活津彦根命(いくつひこねのみこと)を化生す。又、左の足の中より熯之速日命(ひのはやひのみこと)を化生す。又、右の足の中より熊野忍蹈命(くまのおしほみのみこと)を化生す。亦の名は熊野忍隅命(くまのおしくまのみこと)。其れ素戔嗚尊の生める兒、は皆已に男(ひこがみ)なり。故、日、方(まさ)に素戔嗚尊の、元(はじめ)より赤(きよ)き心有るを知りて、便(すなわ)ち其の六(むはしら)の男を取りて、日の子として、天原(あまのはら)を治(しら)しむ。即ち日の生れませる三(みはしら)の女(ひめかみ)を以ては、葦原中國(あしはらのなかつくに)の宇佐嶋(うさのしま)に降(あまくだ)り居(ま)さしむ。今、海の北の道の中に在す。號(なづ)けて道主貴(ちぬしのむち)と曰す。此(これ)筑紫の水沼君(みぬまのきみ)等の祭(いつきまつ)る、是なり。熯は、干なり。此をば備(ひ)と云ふ。

 筑紫の水沼君等が祭るは、日神(天照大神)の三人の娘であり、その女の名は瀛津嶋姫命・湍津姫命・田霧姫命である、と述べられている。ここに出てきた水沼君については既に『「倭の五王」補論(4)』で取り上げ、その正体を明らかにしている。「水沼」とは九州筑後水沼(三瀦)であり、そこが九州王朝の皇都であった時期がある。つまり、水沼君とは九州王朝の天子を指している。

 そして、くだんの三柱の女神を祭る社としては宗像の沖の島が有名だが、筑後国の御井郡の「井上」の地もまた、この三女神を祭っている地帯である。ここが「筑紫の水沼君等」が祭っているという記述と一致する。

 また、八女の郊外に「葦原」と呼ばれる地域がある。天照の三女神は「葦原の瑞穂の国」を統治させようと、この筑後川下流域の地へと「神下し」されることとなった。これが、「筑紫の水沼君系の神話」の核心部分である。人麿はその神話の「語る」ところをふまえて、167番・168番・169番の作歌しているのだった。

 以上で167番・168番・169番にまつわる問題点がすべて解明された。古田さんの結語を直接引用する。

 そしてこの(167番・168番・169番歌の)主人公は没してより、「天つ皇(すめろぎ)の統治する国」としての天上へと去ってゆかれた(亡くなられた)というのである。

 「大和わく」では、〝くいちがい″の気になった、この「作歌内容」は、ここ「水沼君の信仰世界」を「作歌場所」とするとき、全くそれらの〝くいちがい″が消え、自然な「歌の姿」が見えてくるのである。ここに出現している「天皇」はやはり〝天武天皇″や〝持統天皇″などの「生身の天皇」ではない。「天上の皇(すめろぎ)」たる、代々の王者(死者)を指していたのであった。

 ここでもはやり、本来の「人麿作歌」は九州における作歌だった。それを「換骨奪胎」して「大和わく」へと〝閉じこめ″られていたのである。その点では、今までに分析した、数々の「人麿作歌」と同じだった。その点では、もはや「他奇なし」とも言えよう。

 しかし、わたしにはやはり、ショックだった。深い歎息をつく他はなかった。なぜなら、この長短歌(167・168・169)は「日並皇子尊の殯宮の時」の作歌とされている。

 その「日並皇子尊」は、天武天皇と持統天皇の子であり、文武天皇の父だ。すなわち、この皇子尊の「殯宮」は、母の持統天皇と子供の文武天皇の「面前」で行われたはずだ。それなのに、この「作歌」が実は「日並皇子尊」のためではなく、「倭国(九州王朝)」 の王者、「御井の王者」のための挽歌であったとは。やり切れぬ思いだ。

(中略)

 前書でもふれた遠藤論文のしめした命題、それは初期万葉の世界では「Aが自分の作った歌を、貴族のBに献上したとき、それは『Bの作歌』となる。」というものだった。すぐれた提起だ。

 しかし、かりに当代の「ルール」が右のようであったとしても、本書で明らかにされたところ、その「ルール」をもはるかに逸脱したものなのではあるまいか。これは、なぜだ。本書の末尾においてこの間題にふれよう。

 歌の女神の姿はあまりにも眩耀に、わたしたちの目を奪いつづけてやまないようである。

 古田さんは「本書の末尾においてこの間題にふれよう」と書いている。ついでなので、その部分も引用しておこう。(古田さんが傍点をふって強調している語句を太字で示した。)

 五木寛之の短篇に「さかしまに」がある。その要旨は左のようだ。

 金沢の俳人灯瘦(葛根秀人)は、当時(戦前)の特高警察の圧力に屈して転向した。その結果、「京大俳研」などの新興俳人の摘発に協力することとなった(昭和15年2月)。

 そのとき発表された「転向声明」と共に、一種奇怪な俳句が掲載されていた。たとえば
 かの男子新妻置きて弾も見き
 陸奥長門海岸裂くよ春の涛(なみ)
のようだ。敗戦後、彼は「裏切り俳人」として俳句史から抹殺された。

 ところが、彼の娘の依頼が発端となってその友人(元・恋人)が探索してこれらの俳句を見、その奇怪さから逆に、その俳句の真相に気づいた。それらは「さかしまに」読むべきものだったのである。

 君もまた 敵を待つ日に 死んだのか
 皆乗るは 翼賛会か 咎名(とがな)積む

 特高に捕えられ、牢獄で死んだ俳友を悼む歌、そして当時の大政翼賛会という権力讃美の時流に乗る俳友に対して、欺き怒る歌だったのであった。

 それを一見矛盾した、奇怪な形の俳句としてしめし、心ある人々の発見を望んでいたのである。娘も、父の志を知った。
(斎藤慎爾編 『俳句殺人事件』光文社文庫)

 わたしは今年(2001)の6月3日朝、松本市浅間温泉の富士の湯でこの短篇にふれた。そして永年の「?」に対する解明のキイを手に入れたのである。

 初期万葉の編集者もまた、自己の編集書たるこの歌集が矛盾に満ちていることを知っていた。くいちがいの続出していることを熟知していたのである。「元、歌集」をもっていたのだから、当然だ。

 ではなぜ、そのままの姿で後世に残そうとしなかったのか。

 この当然の問いに対する回答、それはまさに古事記、日本書紀がしめしている。そこでは、実在した「倭国の王朝(九州王朝)」が存在しなかったように作られている。

 先にあげた、筑紫君薩夜麻が
 薩野馬(大智10年11月)
と書かれていることにも、それはしめされていた。神聖なる「九州王朝の大子」は侮蔑の対象とされたのである。

「唐朝に敵対した人物(「日出ずる処の天子」)は、これを史上に存在したものとは認めない。」

 この立場である。その立場に反する「倭国の歌集」も、「柿本人麿作歌」も、一切これらは存在を容認されなかったのだ。

 だからこそ、この編者は、あえて奇妙な形で、誰にでも(確かな目で見れば)わかる姿で、この「大和わく」の中に無理矢埋おしこめた。それによって後代の(心ある人の)発見のみを望んだ。―今、そのように理解しえたのである。

 わたしは永らく誤解していた。この編者の「修」ぶりを憎んできたのである。あきれた所業のようた見えていた。しょせん、目が浅かったのだ。

 今は、知った。この「修」者は、当然この矛盾とくいちがいに、後代の読者が気がつくことを期待した。深く望んでいたのである。

 しかし、1300年間の大政翼賛会下において、すべての俊秀も専家も目をふさぎ通してきていたのではあるまいか。最近の130年間においては、とりわけそうだった。

 わたしは早朝、風呂上りの床の中で、74才にしてはじめて、万葉の編者の志を知ったのである。

 九州王朝から権力を奪取した近畿王朝は、その基盤を確固たるものにする過程で、文化の先進国・九州王朝の官吏・知識人たちの力を必要とした。『日本書紀』や『万葉集』の編纂者の中に九州王朝の官吏・知識人が加わっていた。彼らは九州王朝抹殺の命令を受けていたが、『日本書紀』や『万葉集』のそこここに九州王朝の存在を示す「?」を仕掛けていたのだ。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(119)

「天武紀・持統紀」(35)


飛鳥浄御原宮の謎(10)
〈ちょっと横道〉人麿歌中の「現地地名」


 「壬申の乱(5)」で『万葉集』の36番~39番を取り上げた。論証は繰り返さないが、これらの歌の舞台は「大和の吉野」ではなく「肥前の吉野」である、というのが結論だった。36番~39番を再掲載する。

38番・39番
吉野の宮に幸(いでま)しし時、柿本朝臣人麿の作る歌

やすみしし わご大君の きこしめす 天の下に 国はしも さはにあれども 山川の 清き河内と 御心を 吉野の国の 花散らふ 秋津の野辺に 宮柱 太敷きませば ももしきの 大宮人は 船並めて 朝川渡り 舟競ひ 夕川渡る この川の 絶ゆることなく この山の いや高知らす 水激つ 瀧の都は 見れど飽かぬかも
 反歌
見れど飽かぬ吉野の河の常滑の絶ゆることなくまた還り見む

やすみしし わご大君 神ながら 神さびせすと 吉野川 激(たぎ)つ河内(かふち)に 高殿を 高知りまして 登り立ち 国見をせせば たたなづく 青垣山 山神(やまつみ)の 奉(まつ)る御調(みつき)と 春べは 花かざし持ち 秋立てば 黄葉かざせり [一に云ふ][黄葉かざし] 逝き副ふ 川の神も 大御食(おおみけ)に 仕へ奉ると 上つ瀬に 鵜川を立ち 下つ瀬に 小網(さで)さし渡す 山川も 依りて仕ふる 神の御代かも

 反歌
山川も依りて仕ふる神ながらたぎつ河内に船出せすかも


 「逝き副ふ 川のも」と訓じられている句の原文は「遊副川之母」である。ただし、元暦校本では「逝副川之母」となっている。岩波大系は「逝副川之」を採用している。この句が従来はどのように論じられてきたのか。古田さんがまとめているので、それを読んでみよう。

 山田孝雄の『万葉集講義』巻第一では

 遊副川之神母『ユフカハノカミモ』とよむ。『ユフカハ』は川の名なりといへり。然れども、さる名の川ありとはきかず。或は宮瀧の末に『ゆかは』といふ川ありといひ、或は又西川の枝川ともいふ。いづれも推しあてにしてさる川ありといふ證を知らず。後の研究を俟つべきなり。元暦本は『遊』を『逝』に作れり。されど、かくても意とほらず。(下略)

考証の厳正さを目指した、山田孝雄の当惑ぶりが筆端にあふれている。正直だ。

斎藤茂吉も、『柿本人麿、評釋篇巻之上』において諸家の"混迷"ぶりを紹介する。

 遊副川之神母ユフカハノカミモと訓む。ユフ川の神もといふ意。此處に恐らく『朝川』『朝川之』などの脱語があるのであらうか。ユフ川は仙覺が『ヨシノニアル川ノ名也。カシコニハ、湯川トイフトカヤ。コレオナジコトカ』と云ったのを契沖も眞淵も参考とした。なほ眞淵は、巻八の、結八川内(ユフバガフチ)といふのはそれかといひ、多くの注釋書がそれに従ひ、守部は倭名勝志に據って、木綿川は西河の枝川也といふのに従ってゐる。僻案抄には『前の長歌に、旦川夕川の句あれば、此遊副川も夕川とみへたり。僻案に此句の上に五言の一句有べし。脱せるべし』と云って『阿佐川也(アサカハヤ)』を補充してゐるが、餘り賛成者がなかった。美夫君志は、『夕川の意とするはわろし』と断言してゐる。

 近時武田博士は、『元暦校本には、遊を逝に作ってゐるから、これによって読み改める。宮殿の前を流れる吉野川を逝(ユ)き副(ソ)ふ川と云ってゐる』と解した。この訓は古葉略類聚鈔のユキソフカハノとあるのに従ったものである。

 澤瀉氏の新釋も元暦本の文字と古葉略類聚鈔のユキソフカハノといふ訓とに據って同様に訓んでゐるが、人麿の聲調に似ない語である。(下略)

 代々の万葉注解家の"困惑ぶり"と共に、さすがの「人麿心酔者」の茂吉もまた、これをもてあましているさまが、よく伝わってくる行文ではないか。

 残念ながら、「大和のわく」内にとどまる限り、スッキリした解決は到底えられなかった。それが研究史上の実情のようである。

 繰り返すと、これらの歌の舞台が「肥前の吉野」である。この立場に立つと、「副川之」の句の問題はあっさりと解決する。佐賀県佐賀市富士町に小副川川(おそえかわかわ)という川がある。「川」の字が重複している珍しい名称だが、この辺りの字地名が「小副川」なのでそのような名称になったのだろう。この「副川之」という句にはその川の名の字面が仕込まれていたのだった。

 「十六社(ししこそ)」と「天帰(甘木)」はそれぞれ239番・240番で使われている。岩波大系の読み下し文は次のようになっている。

長皇子遊獵路(かりぢ)の池に遊(いでま)しし時、柿本朝臣人麿の作る歌一首并短歌

やすみしし 我が大王 高照らす わが日の御子の 馬並めて み獵(かり)立たせる 弱薦(わかこも)を 獵路の小野に 猪鹿(しし)こそば い匍ひ拜(おろが)め 鶉こそ い匍ひ廻(もと)ほれ 猪鹿じもの い匍ひ拝み 鶉なす い匍ひ廻ほり 恐(かしこ)みと 仕へ奉りて ひさかたの 天(あめ)見るごとく 眞澄鏡(まそかがみ) 仰ぎて見れど 春草の いやめづらしき わご大王かも

 反歌一首
ひさかたの天(あま)行く月を網に刺しわご大王は盖(きぬがさ)にせり


 長皇子の狩りの時に捧げられた歌だとすると、なんともまあ大げさな阿諛追従だらけの愚歌と言うほかない。しかし、最後に古田さんの読解文を掲載するが、この歌は古田さんによって挽歌として甦ることになる。今はまず、この歌に仕込まれた「現地地名」を取り出しておこう。

 「猪鹿(しし)こそば」と訓じている部分の原文は「十六社者」である。「シシジュウロク(4×4=16)」という九九の一つを用いて、一種の「謎かけ」遊びをやっている。「一六とかけて獣(しし)と解く、心はシシジュウロク」というわけだ。しかし「十六社者」には雷山をとりまいている「「十六天社」の意が秘められている。

 次に反歌の中の「天(あま)行く月」。これれの原文は「天歸月」。これの従来の読みはペケ。「天歸」は福岡県朝倉郡の「甘木」であり、「甘木の月」と訓じるのだが正しい。

 つまり、これらの歌の舞台は筑紫の朝倉郡ということになる。399番・340番に対する古田さんの詳しい解説を読んでみよう。

 長皇子(天武天皇の第四皇子)が狩りにゆくと、地上の猪鹿や空飛ぶ鶉たちが皇子の前に平服して、これを迎えた。そして皇子は空にある月を、網で採って、自分の「きぬがさ」として使用しておられる、と。

 何とも、奇々怪々な歌ではないか。わたしには、従来の万葉学者がこの歌に対して決定的な手袋を投じなかったこと、そしてこれを以て万葉集の「編成のあり方」に対する「?」の一起点としなかったこと、この一事が何としても理解できないのである。それだけ、万葉研究における「国学の伝統」の呪縛が深く、それが病膏肓に至っていた、というべきなのであろうか。

 舞台を九州に移すと、事態は一変する。反歌(240)の「天帰月」は"天(あま)ゆく月"(従来の訓み)ではなく、「天帰(あまぎ。甘木)の月」である。福岡県の朝倉郡にある地名だ。「月」は、この「大王」の紋章である(麻氐良布〈までらふ〉山の祭神に「月読命」あり。)。

 その「甘木の王者(大王)」が狩りに出て斃れた。馬ががけから落下したのであろう。或は、獲物(猪鹿)からの反撃にあったのであう。そして彼は死者として「帰還」したのである。挽歌だ。その葬送の行列の中に、彼の"獲った"動物たち(猪鹿や鶉)の死屍が引きずられていた。列に加えられていた。そのさまを、「あれほど、貴方を悩ませた彼等も、今は平服しています。」と、"歌ってあげた"のだ。

 これは敗れた死者への「なぐさめ」であって、決して阿訣ではない。なぜなら、この歌を聞く人々の眼前には、「敗れた王者」の惨たる死骸が現に実在している。「今は、けものたちも。」という、死者への「いやし」の言葉であること、それを参列者一同、誰一人疑っていないのであるから。人々の涙を新たにさそったことであろう。

 この葬列の行く先は、あの雷山である。なぜなら、人麿は長歌(239)の冒頭に「十六社者」(「ししこそは」)と歌っている。雷山は「十六天神社」にとりまかれている。雷山自身にも、祀られているという(地元の住吉神社の徳安正宮司さんによる。)。

 このような葬列の道程をしめすもの、これが「万葉集における、算術表記」として著名な、この「十六=しし」表記だった。従来の万葉学では、これを単なる「奇智的表記」とのみ解してきていたのであった。

 以上、何の「奇妙さ」も存在しない。荘厳にして沈痛のひびきをたたえた挽歌だったのだ。

 「反歌」は、この大王の紋章(「月」)と狩りのための網、その二つが 〝並置″された姿をあたかも「平常時における、貴人のよそおい」としての"きぬがさ"に見立てたのである。もとより、眼前の現実は、"よごれた紋章"と"破れた網"にすぎなかったであろうけれども。あまりにも、平常時にも似ぬ、無残な姿だったのである。「あれほどの威厳を誇った方が、今は一変して、これほどの無残な姿。」それが人麿の目線だった。そしてその場の一同の深く共感するところだったのではあるまいか。  ここでも、「九州から大和へ」の移植は、およそ疑うことができない。わたしにとって、この「発見」の意義は絶大だった。

〈A〉「天武天皇の第四皇子」である「長皇子」 の面前での作歌と、明記されている。
〈B〉しかし、内容は、いわば「支離滅裂」である。
〈C〉これに反し、「九州における、甘木の大王に対する、葬送の挽歌」と見なしたとき、「歌」は生きかえった
〈D〉従ってこの「長皇子、云々」の「前書き」が偽妄であることは明白だ。
〈E〉万葉集中、天武天皇や持統天皇の「諸皇子」 に対する、人麿作歌は数多い。人々の知るところだ。
〈F〉それらもまた、おそらくすべて右のような「九州から大和へ」の移植、ハッキリ言えば、換骨奪胎、もっとハッキリ言えば「盗用」によって成り立っていたのではないか。

 わたしは慄然とした。全身の骨がふるえた。本来、日本書紀の天武紀にも、持統紀にも、「柿本人麿」など、その名が一切存在していないのである。

 そこに実在すると思いこんで遠望していた歌の女神が、近寄るにつれ、単なるまぼろし、一個の幻影にすぎなかった。そのような、茫たる思いの中にわたしは捕えられていたのである。

《真説古代史・近畿王朝草創期編》(118)

「天武紀・持統紀」(34)


飛鳥浄御原宮の謎(9)
「飛鳥浄御原宮治天下天皇」とは誰か(4)


 人麿の196番歌の「浄の宮」どこの何を指しているのか。この問題の解明では地名とその地のありかが重要なカギとなる。問題となっている「井上」の「小字図」を『壬申大乱』から転載しておこう。

井上の地名図

 さて、図中に「井尻」・「池尻」という地名が見える。この地名について、柿原論文は次のように述べている。

「井尻。湧水の出る処の後方部分。昔、湧き水が此の地にあった由。」
「池尻。本山から流れて来た水の溜池であったか、又は湧水の池であったかはわからないが、尻という字から判断して本山から流れて来た水の溜地、即ち濠の一番後ろ部分ではないかと考えられる。」

 この地にかつて中心をなす一個の「井戸」があった。「井尻」・「池尻」という地名はその痕跡を示している。そして、その「井」のほとり、というのが「井上」という地名の由来と考えられる。

 「本山」は「小字図」で中央よりやや西よりの位置に見える。前回の「論拠1」で、「飛ぶ鳥」の形状のかなめとなる地であった。と同時に、この「本山」が「井上」の中心地でもあったことが分かる。古田さんは『小郡市史』から次の一節を引用している。

「本山(ほんやま)。本は元で古さを表す。最初に人が入り込んだ山(森)。中心となる土地を表現した地名。・・・本山は台地上にあって見晴らしが良く、平らに整えられ、本山の北・西・南は人工によるとみられる堀が巡らされ、地名は長者堀・尾辺田となっている。掘り土は本山の方は築地(ついじ)塀に利用され西側は墓所となっている。この本山は長者の館があったと推考できる場所であり、東側には北大門・南大門の地名が残っている。しかし、まだ発掘調査はなされていない。」

 長者堀・北大門・南大門という地名が示すように、井上には「井戸」だけがあったのではなく、立派な「館」があったことがうかがえる。長者堀について、『小郡市史』は次のように記録している。

「長者堀。長者が本山の館に居住し、その周囲の堀の一部が長者堀の地名として残っている。この長者堀は南に延びていて、高速道路が出来るときに発掘されて木簡が多数出ており、文化が早く開けた土地であることを裏付けている。ここの長者が、小郡官衙の長者と同一人物がどうかは判然としないが、井上に住居を置き、小郡官衙へ出勤していたとも考えられる。」

 「小郡」は単なる地方官衙ではなく、九州王朝の副都と思われる。 「前期難波京の謎(7)」 で引用した正木論文の一節を再掲載しておこう。

「特に、旧御原郡の井上地区に井上廃寺・井上薬師堂遺跡等の大規模遺跡がある。とりわけ同地区の上岩田遺跡では、大規模基壇を伴う瓦茸き建物、同一方向の大型建物群とそれを囲む柵列が確認され、単なる官衙(証衙)とは考え難い。時代は7世紀の中、後半時代で、小郡宮造宮を大化3年(647)とする『書紀』の記述と致する。」

 北大門・南大門については柿原論文が取り上げている。

「南大門。かつての豪族の家敷又は北薬師堂を経て、井上廃寺に行く通行用の大門のあったところではないかと思われる。」
「北大門。右の豪族の家敷に通ずる北の大門の跡の有った土地と思われる。」

 これまでの議論から、人麿の167番・168番・169番の舞台が井上である可能性が濃厚になってきた。さらにそれを「決定的に証明するもの」として、古田さんは、167番の原文で赤字によって示しておいた「上座・下座」を取り上げている。

 上座郡・下座郡は和名抄に次のように記録されている。

筑前国
 下座(しもつあさくら)郡 - 馬田(むまた)・青木・鍛饗(くはへ)、三城(みなき)・美嚢・城邊・立石
 上座(かむつあさくら)郡 - 把伎、壬生(にぶ)・広瀬・柞田・長淵・河東(何東)・三嶋


 ここまでの結語として、古田さんのコメントを直接引用しよう。

 その「上座」と「下座」が、この長歌の中に〝使用″されている。「天帰(甘木)」や「十六社(ししこそ)」、また「小」など、「現地地名」を、律儀に「作歌」の中に″閉じこめる手法″に立つ人麿だから、この一致・対応は決して偶然ではないのである。

 これら「飛鳥」「浄の宮」「上座・下座」問題によって、本来の「人麿作歌」がこの朝倉郡の周辺領域を「主舞台」としていること、確実なのではあるまいか。

 「上座」・「下座」のほかに、人麿が歌の中に秘かに使用している「現地地名」として「天帰」・「十六社」・「小」の三例が挙げられている。これらは、それぞれの歌の古田さんによる解読が正しいことを、相互的に補強しあう意味合いをもっている。ちょっと横道に入る感じになるが、次回取り上げようと思う。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(117)

「天武紀・持統紀」(33)


飛鳥浄御原宮の謎(8)
「飛鳥浄御原宮治天下天皇」とは誰か(3)


 「飛鳥」はなぜ「あすか」と読むのか。この問題ですぐ思いつくのは『万葉集』の「飛ぶ鳥の明日香」である。ここから「飛鳥」を「あすか」と読むようになったと考えてよいだろう。しかし、それでもなぞが残る。では、なぜ「明日香」の枕詞が「飛ぶ鳥の」なのか。この問題には、室町・江戸時代から現在まで、多くの万葉学者がさまざまな苦心の解答を出し続けてきたという。それらの解答を、古田さんは、いずれも的確な解答とは言えない、と評し、『なぜなら、いずれも〝観念的″な、あまりにも〝観念的″な「意味付け」に」終わっていると、その理由を指摘している。

 ちなみに、「飛ぶ鳥の」を「明日香」の枕詞に用いている歌は3例ある。うち2例(194番、196番)は人麿のうたである。実は、古田さんは『壬申大乱』の第9章・第8章でこの二つの歌を取り上げている。もしかすると、この二つの章を取り上げる機会が出てくるかもしれない。

 他の1例(78番)は元明天皇または持統天皇の歌という詞書があるが、このような曖昧な題詞は怪しい。今は深入りしないが、これも人麿の歌である可能性が大きい。167番では人麿は「飛鳥」を「飛鳥の浄の宮」と使っている。岩波大系では「飛鳥」を「とぶとりの」と訓じているが、この場合は枕詞というより「飛鳥という所にある」という意であろう。(3791番は「飛鳥の飛鳥」と「飛鳥」を重ねて用いている。これは後世の使用例として除外した。)

 さて再度問題を提示すると、『なぜ「明日香」の枕詞が「飛ぶ鳥の」なのか』。

 『「紫宸殿」について』で述べたように、字地名「大極殿」や「紫宸殿」が歴史上の真実を指し示していた。しかし、昨今の市町村合併に見られるように、地名が時代とともに変わり地名の由来が分からなくなってしまう例の方が多いかもしれない。

 福岡県小郡市井上に飛島(とびしま)という小字地名がある。ここの地名は、明治初期の『全国村名小字調査書』では三井郡井上村飛鳥」とあり、「飛鳥」には「ヒチョウ」というルビが振られている。この事態はどう解すればよいのだろうか。古田さんは、ここの地名が「飛鳥(アスカ)」→「飛鳥(ヒチャウ)」→「飛島(トビシマ)」という「三段階の変化」をされた、という。その論証のあらましを追ってみよう。

論拠1 土地の形状
 飛島の北方に「本山(ほんざん)」と呼ばれる地帯(字地名・井上)がある。その両脇に水路があり、傾斜地をその「水路」が合流して南下し、飛島の地を取り巻いている。この「水路」の流出の道筋が、まさに「飛ぶ鳥」の形状をなしている(郷土史家・江永次男氏による)。大和の「アスカ」には、このような形状の水路が存在しない。「アスカ」と「飛ぶ鳥」のつながりは本来この地で発生し、それが「大和のアスカ」へと移っていったのであろう。

 ちなみに、古田さんの「生涯最後の実験」とは「飛ぶ鳥のアスカ」形状確認のための研究実験であった。(その結果について、私は未聞。)

 以後は飛島を、現在の地名「飛島」ではなく、「飛鳥=アスカ」と呼ぶことにする。

論拠2 「明日香」の由来
 アスカの近く、朝倉郡の古社・麻氐良布(まてらふ)神社の祭神に、イザナギ・イザナミと斉明・天智天皇とともに、「明日香皇子」の名前がある。もちろん、斉明・天智が祭神となったのは、新しい政治権力に強いられたのかあるいはおもねって進んで採用したのか分からないが、九州王朝から近畿王朝へと権力移行後のことである。九州では功皇后を祭神に加えている神社が多い。もしかすると明治維新以後の例もあるかもしれない。古田さんは久留米市の高良玉垂宮の祭神変更の経緯を書き留めている。

「近くの久留米市の高良玉垂宮でも、江戸時代までは「玉垂命」だった祭神を、明治維新のとき(鳥羽・伏見の戦のあと)新権力の「天皇家」に〝ゆかり″のある「武内宿禰」へと「祭神変更」を行った旨の貴重な文書が残されている(宮司と村役代表による)」。

 麻氐良布神社の本来の祭神は「明日香皇子」だ。『万葉集』・『日本書紀』・『続日本紀』には「明日香皇女(天智の娘)」(『日本書紀』では「飛鳥皇女」と表記)の名があるが、「明日香皇子」は存在しない。「明日香皇子」は、麻氐良布神社祭神として、その地域(上座〈カミツアサクラ〉)において尊崇された人物ということになる。小郡市の「飛鳥=アスカ」地名の由来は「明日香皇子」であることは明らかだ。

論拠3 現地名「飛島」になった経緯
 権力の移行時に変更を迫られるのは神社の祭神だけではない。小郡市を流れる宝満川はかつて「徳川」と呼ばれていた。それを、徳川氏が権力をにぎった江戸時代に徳川氏をはばかって「得川」と改名したという。

 明治維新以後、「天皇家中心」主義の新政府にとって大和の「明日香」は重要な地名だった。天皇家の本拠地であり、明治以後、一段と強調されはじめた万葉集中の中核地名の一つであったのだから。現地(小郡市)ではこれをはばかり、「飛鳥」に「アスカ」の訓ではなく「ヒチャウ」という訓を振ったのである。この天皇家をはばかる意識を、古田さんは「明治の意識」と呼んでいる。

 しかし、「ヒチャウ」という「漢音」の訓は地名として不自然だ。一般に字地名は「和語」である。「天神(てんじん)」・「観音(かんのん)、あるいは前回出てきた「大極殿」・「紫宸殿」など例外があるが、これらは「漢音」で呼ばれる具体的な対象物がその地にあり、それを字地名にしている。「ヒチャウ」などという具体的な対象物はない。

 その上、「ヒチャウ」という「漢音」訓では「言いにく」く、かつ「なじみ」にくかったからであろうか。その後、「地名変更」はさらに進展した。「鳥」と似た字の「島」が採用され、「飛鳥(ヒチャウ)」を「飛島(トビシマ)」と改名したものと思われる。古田さんは「飛島」への改名の経緯を、もう少し突っ込んで、次のように述べている。

「この「明治の意識」(「飛鳥」を「ヒチョウ」と読み替えたときの)がやがて〝明治の後半期以降の国体明徴運動″の中で、「飛鳥」という字面自体を〝使わない″こととなっていった。そういう可能性もあろう。」

 以上で、小郡市井上の「飛島」という地のもともとの字名が「アスカ」であり、「飛鳥(アスカ)」→「飛鳥(ヒチョウ)」→「飛島(トビシマ)」という地名変更を重ねてきたことが明らかとなった。

 なお、「飛ぶ鳥の」という枕詞の由来はその地の形状にあるという説のほかに次のような説もある。これは郷土史家・柿原久之氏によるもので、古田さんが『壬申大乱』でその論文の一節を引用している。

「飛島。現在の市の字図では飛島とあるが、明治15年調の小字名では飛鳥(ひちょう)とわざわざ仮名付けしてある処を見れば、飛鳥が正しいのではないかと思う。飛鳥であれば、アスカとも読まれるのであって、飛ぶ鳥のアスカ(安宿)で安住の地。『飛鳥』と書くのは『飛ぶ鳥のあすか』という枕詞から来ているとの事。現地は樹林でおはわれた処もあり、大部分田地に開発されて居るが、鳥の安宿で、安住の地で昔も今も変らないようである。吉田東伍氏の言によれば、四世紀以降、九州の地名が東の方へ大分流れて居るとの事。……(地名の語源)」(「井上の地名」柿原久之『故郷乃花』第12号 小郡市、郷土史研究会)

この説に対して、古田さんは次のようにコメントしている。

『もちろん「安宿(あすか)」という地名が背景にあることも、十分考えられる。全国に少なからぬ「飛鳥」地名の存在も、これと無関係ではあるまい。』

ついでながら
 私の住まいの近くに「飛鳥山(あすかやま)」という公園がある。江戸時代から花見の名所として知られている。ここの「飛鳥」は「飛ぶ鳥の安宿(あすか)」が語源だろうと思う。この飛鳥山に6~7世紀頃の古墳群が確認されている。「飛鳥山」という地名もその時期にまで遡れるぐらい古くからのものと思われる。ほとんど完全に残っていたという「飛鳥山1号墳」の発掘状況は次のようです。


 近年迄飛鳥山に古墳が存在することは知られておらず、この古墳も庭園の築山かと思われていましたが、平成元年(1989)に古墳の可能性を考えて発掘調査した所、周溝と須恵器の破片が検出され、径31mの円墳と確認されました。

 続く平成5年(1993)の調査では、切石積みの胴張を有する横穴式石室の残骸が発見され、太刀や刀子の破片、鉄鏃、耳環、管玉、切小玉、ガラス小玉といった副葬品が検出されました。これらの特徴から7世紀台築造の円墳であろうとされています。

 全国に、知られることなく眠っている遺跡がまだまだたくさんあるようだ。日本各地の古代史が独自に明らかになっていくことは、おしきせの歴史を相対化していくための重要課題だと思う。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(116)

「天武紀・持統紀」(32)


飛鳥浄御原宮の謎(7)
「飛鳥浄御原宮治天下天皇」とは誰か(2)


 「小野毛人墓誌」を古田さんは次のように読み下している。

(表)
飛鳥の浄御原の宮に天の下を治らしし天皇、朝に御(ぎよ)し、太政官、兼刑部大卿位、大錦上に任ぜらる。
(裏)
小野の毛人(けひと)朝臣之墓。營造、歳次丁丑年十二月上旬、即(そく)葬る。

 「定説」の読みと違う点が二つある。「毛人」を「えみし」と読むのは後世の解釈であると却けて、古田さんは素直に「けひと」と読んでいる。二点目、「即」を「すなわち」ではなく「そく」と読んでいる。古田さんは『「即(そく)」という字は非常に大事だ』と述べているが、講演ではそのことについての詳述がない。思うに、墓誌の銘文の矛盾を「後世に息子が追葬したものだ」ということで解決をはかることの不当性を指摘したかったのだろう。

 さて、「飛鳥浄御原宮治天下天皇」とは誰なのだろうか。古田さんは『万葉集』167番・168番・169番を取り上げている。これからの古田さんの重要論点には原文も関係するので、岩波大系版から、読み下し文と原文の両方を転載する。なお、重要論点として取り上げられている語句を赤字で示しておく。

巻2 167番・168番・169番 原文
日並皇子尊殯宮之時、柿本朝臣人麿作歌一首并短哥

天地之 初時 久堅之 天河原尓 八百萬 千萬神之 神集 々座而 神分 々之時尓 天照 日女之命 一云、指上日女之命 天乎婆 所知食登 葦原乃 水穂之國乎 天地之 依相之極 所知行 神之命等 天雲之 八重掻別而 一云、天雲之 八重雲別而下 座奉之 高照 日之皇子波 飛鳥之 浄之宮尓 神随 太布座而 天皇之 敷座國等 天原 石門乎開 神上 々座一云、神登 座尓之可婆 吾王 皇子之命乃 天下 所知食世者 春花之 貴在等 望月乃 満波之計武跡 天下 一云、食國 四方之人乃 大船之 思憑而 天水 仰而待尓 何方尓 御念食可 由縁母無 眞弓乃岡尓 宮柱 太布座 御在香乎 高知座而 明言尓 御言不御問 日月之 數多成塗 其故 皇子之宮人 行方不知毛 一云、刺竹之 皇子宮人 歸邊不知尓為


反歌二首
久堅乃 天見如久 仰見之 皇子乃御門之 荒巻惜毛
茜刺 日者雖照者 烏玉之 夜渡月之 隠良久惜毛
或本、以件歌爲後皇子尊殯宮之時歌反也


巻2 167番・168番・169番 訓読
日並皇子尊の殯宮の時、柿本朝臣人麿の作る歌一首并短歌

天地の 初めの時 ひさかたの 天の河原に 八百万 千万神の 神集ひ 集ひ座して 神分(はか)り 分りし時に 天照らす 日女(ひるめ)の尊 一に云ふ、さしのぼる日女の命 天をば 知らしめすと 葦原の 瑞穂の國を 天地の 寄り合ひの極み 知らしめす 神の命と 天雲の 八重かき別きて 一に云ふ、天雲の八重雲別きて 神下し座(いま)せまつりし 高照らす 日の皇子は 飛ぶ鳥の 浄(きよみ)の宮に 神ながら 太敷きまして 天皇(すめろき)の 敷きます國と 天の原 石門(いはと)を開き 神あがり あがり座しぬ 一に云ふ、神登りいましにしかば] わが王 皇子の命の 天の下 知らしめしせば 春花の 貴からむと 望月の 満(たたは)しけむと 天の下一に云ふ、食(を)す國 四方(よも)の人の 大船の 思ひ憑(たの)みて 天つ水 仰ぎて待つに いかさまに 思ほしめせか 由緒(つれ)もなき 眞弓の岡に 宮柱 太敷き座し 御殿(みあらか)を 高知りまして 朝ごとに 御言(みこと)問はさぬ 日月の 數多(まね)くなりぬる そこゆゑに 皇子の宮人 行方知らずも 一に云ふ、さす竹の 皇子の宮人ゆくへ知らにす

反歌二首
ひさかたの天見るごとく仰ぎ見し皇子の御門の荒れまく惜しも
あかねさす日は照らせれどぬばたまの夜渡る月の隠らく惜しも
或る本、件の歌を以ちて後皇子尊の殯宮の時の歌の反と爲せり


 これらの歌を解読する上でのかなめとなる問題点を、古田さんは四点挙げている。

(1)「神話特記」問題
 日並皇子尊の死を悼む歌で、なぜ「天孫降臨」などの神話を特記するのか。他の皇子・皇女の挽歌にはその例がない。

(2)「日女之命」問題
 「天照大神」を「日女之命(ひるめのみこと)」と表記している。これも異例だ。記紀にもない。

(3)「天皇」問題
 「天皇の敷きます國と 天の原石門を開き」の「と」を「として」という意とすると、この「天皇の敷きます國」は、この地上ではなく、「天上」を指しているのではないか。

 従来の説は次のようである。

「(御母、持統)天皇がお治めになる国であるとて、」(岩波日本古典文学大系)
「この国は代々の天皇がお治めになる国であるとして、」(岩波新日本古典文学大系、小学館日本古典文学全集)

 これらは通例の「天皇」の意に解している。この説とは異なる解釈もある。

「やがて天上を、天皇のお治めになる永生の国として、」(中西進、講談社文庫本)

 中西説では「天皇」は通例の用法の「天皇」ではなく、「あまつ、すめろぎ」という意としている。中西氏の論拠は分からないが、古田さんは中西説と同じ結論を得ている。古田さんは人麿の「皇」の使い方の分析を通して読解をしている。

 人麿の「皇」の使い方は
「地名奪還大作戦(20)」
「地名奪還大作戦(21)」
「地名奪還大作戦(22)」
で学習済みだが、簡単に復習しておこう。

「皇者 神二四座者(すめろぎは神にしませば)」(235番)
「皇者 神尒之坐者(すめろぎは神にしませば)」(241番)
というように、人麿は「皇」を”代々の王者”の意で用いる。そして「皇」は死者として「神」になっているとしている。

 このように「皇」を用いている人麿が「天皇」と言うとき、それは「天つ皇」つまり「天上の皇(すめろぎ)」と解すべきである。

(4)「浄之宮」問題
 周知のように、天武天皇から持統天皇にかけてのヤマト王権の宮殿名は「浄御原宮」だ。万葉集では、題詞に使われている例が4例あり、「明日香清御原宮」と表記されている。本文中に使われている例は1例(162番)あり、「明日香能 清御原乃宮尓(明日香の 清御原の宮に)」と表記されている。つまりいずれも「きよみはらのみや」である。

 これに対して人麿の167番歌では「浄之宮(きよみのはら)」であって「御原」がない。定説は論証抜き「浄之宮=浄(清)御原之宮」と断じている。「皇」の例にも見られるように、人麿は文字使用に慎重である。果して「浄之宮=浄(清)御原之宮」という断定は正当だろうか。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(115)

「天武紀・持統紀」(31)


飛鳥浄御原宮の謎(6)
「飛鳥浄御原宮治天下天皇」とは誰か(1)


 ヤマト王権の宮殿名の中で、飛鳥板蓋宮・難波長柄豊碕宮・飛鳥浄御原宮が異例であることを前に指摘した。飛鳥浄御原宮はその命名の理由を記録している点でも異例だ。そしえ、その理由がまたトンチンカンなのだった。

686年(朱鳥元)年7月20日
 元(はじめのとし)を改めて朱鳥元年と曰ふ。〈朱鳥、此を阿訶美苔利(あかみとり)といふ。〉仍りて宮を名づけて飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)と曰ふ。

 年号を「あかみとり」と和訓で読むなど後にも先にも例がない。しかも、朱鳥改元を飛鳥浄御原宮の命名の理由にしているが、「朱鳥」と「飛鳥浄御原」と一体どういう関連があるのか、私には皆目分からない。かつてこのおかしな記録を問題にした学者は皆無だったのだろうか。Wikipediaでは次のように説明している。

「推古以降の居宮の名を見てみると、小墾田宮・飛鳥岡本宮・後飛鳥岡本宮などで分かるように地名をつけている。異なるのが飛鳥浄御原宮である。「浄御原」は一種の嘉号であり、朱鳥年号とともに、不祥を祓い天皇の病気平癒を願ったものであるという」。

 これが「定説」のようだ。「朱鳥」との関連は完全に不問に付している。「浄御原」は「一種の嘉号」であると言うが、では「嘉号」でなく、元の「号」は何なのだろうか。このようなこじつけ説を私は全く理解できない。

 『日本書紀』では、このような取って付けたような不可解な記事はどこかからの盗用と考えてまず間違いない。もともと「朱鳥」と「飛鳥浄御原」とは何の関連のないと考えるべきなのだ。実は「飛鳥浄御原」については、古田さんが論究している。

(以下は、講演録「日本の未来-日本古代史論」・『古代に真実を求めて 第12集』所収「生涯最後の実験」・『壬申大乱 第7章筑紫の飛鳥』を教科書にしています。なお、講演録からの引用文は、つながりを分かりやすくするため、場合によっては前後の組み替えを行っています。)

 京都市左京区上高野に崇道(すどう)神社がある。1613(慶長18)年、その神社の裏山の古い墓から、金銅製の墓誌が発見された。「金銅小野毛人墓誌(こんどうおののえみしぼし)」と呼ばれている。

(表)
飛鳥浄御原宮治天下天皇 御朝任太政官刑部大卿位大錦上
(裏)
小野毛人朝臣之墓 營作歳次丁丑年十二月上旬即葬

 この墓誌が従来はどのように読まれていたのか。代表的なものとして 「早稲田大学 日本金石拓本コレクションデータベース」 の解説を使わせていただく。

 まず、読み下し文。

(表) 飛鳥浄御原宮(あすかきよみがはらのみや)に天下(あめのした)治(しろしめしし)御朝(みかど)に、太政官兼 刑部大卿、位は大錦上に任じられし (裏) 小野毛人朝臣の墓 歳(ほし)は次丁丑(ひのとうし)に次(やど)る年十二月上旬に営造し、即ち葬る(はふる)。

 小野毛人とは何者か。

 小野毛人の出自については、『続日本紀』和銅7年(714)4月の条に、中納言従三位兼中務卿勲三等小野毛野(けぬ)の薨去のことを記し、小治田朝(おわりだのみかど)(推古天皇)の大徳冠妹子の孫、小錦中毛人の子なり、としている。これにより毛人は遣隋使として著名な小野妹子の子であることが知られるのである。

 本論から外れるが、こういう文章を読むと、ひとこと言いたくなる。小野妹子は遣唐使であり、遣隋使ではないことを私(たち)は知っているが、「小野妹子は遣隋使」がすっかり「定説」になってしまっている。ヤマト一元主義者たちの謬論が正しく訂正される道はまだまだ遠いようだ。

 さて当然のこと、従来の学者は「飛鳥浄御原宮治天下天皇=天武天皇」として疑わない。そうするとこの墓誌の記録には次のような矛盾が含まれることになる。

 ところで、この短い墓誌銘のなかで飛鳥浄御原宮、大錦上、朝臣が問題となっている。飛鳥浄御原宮は天武天皇朱鳥元年(686)に名付けられた宮号であること、『続日本紀』に小錦中とあること、天武天皇13年(684)11月に朝臣の姓(かばね)を賜った52氏の中に小野臣もいることである。飛鳥浄御原宮の宮号、朝臣の姓はこの墓誌の紀年丁丑の年(天武天皇5年/677)以後のことであり、大錦上は『続日本紀』と記述が合わない。

 そこで、この墓誌は後の時代に追納された、とする説が行われている。

 この問題は墓誌が発見された江戸時代から論じられていたという。古田さんは伊藤東涯(1670~1738)の論文(『輶軒小録』所収)を紹介している。

「此中疑べきこと二つあり。天武帝十三年に小野臣等五十三氏に姓を賜ひ朝臣と云。牌(はい)丁丑年に造時は、白鳳六年也。朝臣を賜より前八年也。然るに小野朝臣と書するは何ぞや。亦続曰本紀に小錦中毛人と書く。然るに牌に大錦上と有り。此二ついぶかし。」(「百本随筆大成」第二期十二巻)

 これも本論とは関係ないが、ここで「白鳳六年」と九州年号が使われているのが目に付く。江戸時代では当たり前に使われていたようだ。

 さてこの問題については、明治以後も現在に至るまで、いろいろと論議が繰り返されてきたが、「天武紀・持統紀」や『続日本紀』を正しいと信じている限り、結論は似たり寄ったりとなる。「金石文の方がおかしい」となる。従って「息子が追葬したものだ」とか「後でいれなおしたものだ」とか「そのときに間違えた」のだとしかならない。このような従来の説を、古田さんは次のように批判している。

 8世紀の段階で息子さんが追葬した。後でいれなおしたものというなら、いよいよもって『曰本書紀』・『続日本紀』に合わせるべきです。作り直した金石文が『日本書紀』『続日本紀』に合うように作り直すというのは当然だが、合わないように作り直すというのはありえない。さんざん苦労しているが、いよいよおかしい。

 それでは何か。ことは簡単なのです。金石文が正しい。『日本書紀』・『続日本紀』が間違っている。

 『日本書紀』に合うから良い。これはダメです。『続日本紀』に合うから良い。これもダメです。そのことが判ってきた。なぜなら『古事記』が8世紀に造られたことが確実になった。ですが『古事記』が造られたことは『日本書紀』・『続日本紀』に書いてない。これらは意図的に改竄されている。他にも意図的改竄がなかったと、なぜ言えるか。『日本書紀』はあやしい。とうぜん『続日本紀』もあやしい。方法論上、これが基本にならなければおかしい。

 つまり従来の古代史学者は、その学問の方法論が根本的に間違っているのだ。

 学界では「天武紀」以降は、まあ正確だ。それで使える。「持統紀」はまあ大丈夫だ。そういう、まあまあ主義。まあまあ主義が通用しているのは学界だけです。わたしなどの方法論では、まあまあ主義はダメである。そのことがはっきりしている。そういう、まあまあ主義の史料の使い方はわれわれは出来ない。もしそれが歴史事実だと言いたければ、その件は証明して使わなくてはならない。

 当然、金石文と『日本書紀』の記事が違っているなら、金石文の方を取り、直接その史料批判をするべきなのだ。

 われわれの方法論からすれば、金石文と合わないということは、合わないほうが間違っている。『日本書紀』のほうが間違っている。『続日本紀』のほうが間違っている。

 「小錦中」と「大錦上」という位が違っているのは、701年を境にして位が変更になった。九州王朝から近畿天皇家になって位が下げられたと考えれば何の問題もない。

 「朝臣」についても、何回か論じたことがある。今簡単に言いますと紀貫之が「柿本朝臣人麿」と何回も書いている。『万葉集』も「朝臣」と書かれている。ということは、人麻呂は「朝臣」だった。あれは嘘だ。間違えている。「正三位」だと書かれているが、学界はこれも嘘だと言っている。

 「朝臣」は九州王朝の官職。それを『日本書紀』が時間帯をずらして天武天皇が位を与えたように書いているだけだ。この銘文に書かれているとおりがふさわしい。

 小野毛人の官位「大錦上」や姓「朝臣」が九州王朝から授与されたものならば、「飛鳥浄御原宮治天下天皇=天武天皇」も疑わなければならない。「飛鳥浄御原宮治天下天皇」とは誰なのか。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(114)

「天武紀・持統紀」(30)


飛鳥浄御原宮の謎(5)
「紫宸殿」について


⑨ 大安殿
「本居宣長(玉勝間)や通証は大極殿のこととするが、むしろ内裏の正殿で、のちの紫宸殿に相当する殿舎か。」  この解説者は「大安殿=紫宸殿」と考えているようだが、果してそうだろうか。手元に紫宸殿についての資料がないのでWikipediaの記事を用いる。Wikipediaの古代史関係の記事はほとんどヤマト王権一元主義の立場で書かれているが、平安時代以降の記事には大きな誤りはないだろう。

 Wikipediaによると「平安中期以降、大内裏の正殿であった大極殿が衰亡したことによって、即位の礼や大嘗祭などの重要行事も紫宸殿で行われるようになった」とある。この説明が正しいとすると、その役割から考えて紫宸殿はむしろ大極殿に相当する殿舎のようだ。また「殿舎(紫宸殿)の南には南庭が広がり、北には仁寿殿が位置する」とも言う。そうすると構造的には、仁寿殿が大安殿に相当すると考えられる。そして、ヤマト一元論者たちは無視しているが、紫宸殿と呼ばれる殿舎は平安時代に初めて現れるのではなく、既に7世初頭に九州王朝の太宰府に存在していた。このことは古田さんがさまざまの機会に指摘しているが、古田さんの言葉を借りると、「プロの学者がみんな嫌な顔をしてソッポを向いている」そうだ。太宰府の紫宸殿について解説を、古田さんの講演録「九州王朝論の独創と孤独について」(『古代に真実を求めて 第12集』所収)から引用しよう。

 それで九州太宰府にある九州王朝の宮殿は、どうなっているか。『九州考古学論攷』(鏡山猛 吉川弘文館1972年)の第6図太宰府政庁建物配置図によりますと、長方形で縦200メートル、横100メートルぐらいの大きさです。南門、中門がありその上に北の中心にある正殿があります。その正殿のある場所がちょうど地元の伝承では字「紫宸殿」の地名がある場所です。これも「大極殿」と同様、簡単に名付けられる地名ではない。

 古田さんが「これも「大極殿」と同様、簡単に名付けられる地名ではない」と述べている点について補足する。京都府向日市に字地名「大極殿」があり、そこから長岡京の大極殿跡が出土した。字地名が歴史の真実を伝えていたのだ。「紫宸殿」や「大極殿」などの字地名は個人が勝手に命名できるものではない。そこには歴史的な事実が埋もれている。地名考古学とでも言うべきか。太宰府の字地名「紫宸殿」も例外ではない。そこには最高権力者(天子)の宮殿があったのだ。

 また、太宰府の紫宸殿を構成する区画の大きさは200メートル×100メートルほどの長方形ということだ。「前期難波宮遺構配置図」で目測すると、内裏部分を北に50メートルほど延ばした規模とほぼ同じようだ。

前期難波宮跡


 これは北朝型式の宮殿様式です。そこで問題になるのは、この型式が典型のように言われる。実はそうではない。北朝がこの型式を採用する。南朝がこの型式を採用したら、「北」方向が尊いとなり南朝が北朝の臣下となるから採用しなかった。もちろん南京には、南朝型式は破壊されていて、今残っているのは明王朝の時代とその直前のものです。北に倚っている北朝型式の宮殿しか残っていない。ですが南朝型式の宮殿はそうではない。事実洛陽でも、後漢時代の宮殿の跡が残っていて、それで見ると南の端の黄河に沿ったところにある。それを後で来た北魏が、北を中心にした宮殿を遣り直した。思想の表現です。

 新羅・扶余もそうです。新羅の始めは月城、これが中心です。南の端が中心、山城をバックにしている。扶余も西北にあり、西が中心です。つまり高句麗・新羅・扶余は山城形式。太宰府も本来は大野城をバックにした山城型式。これが最初に造られた。あとで七世紀の初めに北朝型式の宮殿に作り直してある。作り直した時期も判明した。(『二中歴』にある) 九州年号の倭京元年(618)です。この年は隋が滅亡し唐が始まった年です。この京は「曰出処天子」が造り始めて、倭京元年に完成した。だから「倭京」と称した。(以下略)

 北朝形式・南朝形式については、講演録なので分かりにくい所がある。「古賀達也の洛中洛外日記 第273話 九州王朝の紫宸殿」から補充しよう。

 前期難波宮は「難波京」の北端にあり「北闕」様式と呼ばれる宮殿様式です。大宰府政庁も条坊都市の北端にあり、同様に「北闕」様式の宮殿です。したがって、両者の宮殿は共に紫宸殿と呼ばれていたのではないでしょうか。都の中心に宮域を持つ『周礼』様式の藤原宮とは明らかに政治思想性が異なった様式なのです。

 「北闕」様式(古田さんの用語では北朝形式)の都城は「天子は南面する」という思想に基づいている。古賀さんはこれを「天子南面」様式とも呼んでいる。
太宰府復元図

 『周礼』様式の都城は藤原京だけであり、近畿王朝の平城京以後の都城も全て「北闕」様式になっている。
藤原京復元図

 どうして藤原京のみ『周礼』様式が採用されたのか。このことについても古賀さんの見解を紹介しておこう。(「古賀達也の洛中洛外日記 第221話 条坊と宮域」より)

 九州王朝に対して、大和朝廷の王都を見ますと、大和朝廷にとって最初の条坊都市である藤原京(新益京)は『周礼』様式で、平城京からは「天子南面」様式となります。これも九州王朝との関係で考察する必要がありそうですが、特に藤原京完成時はまだ九州王朝が健在なので、太宰府政庁(2期)や前期難波宮と同じ「天子南面」様式の採用を憚ったのではないでしょうか。

 実は藤原京の宮域については、一旦造った条坊と側溝を埋め立てて宮域にしたということが発掘調査でわかっており、初めから条坊と同時に宮域ができたのではないのです。これは、もしかすると藤原宮の建築にあたって、条坊区画のどの部分を宮域にするのか、九州王朝に遠慮してなかなか決められなかった痕跡かもしれませんね。

 なお、古賀さんは前期難波宮でも「紫宸殿」という殿舎名を使っていたのではないかと述べているが、私は前期難波宮から「大極殿」が使われるようになったのではないかと考えている。それを踏襲して、ヤマト王権初の本格的都城である藤原京の宮殿でも「大極殿」を使うようになったのではないだろうか。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(113)

「天武紀・持統紀」(29)


飛鳥浄御原宮の謎(4)
発掘結果と『日本書紀』との整合性(3)


 岩波大系版『日本書紀』の発刊は1960年で、飛鳥宮跡の発掘が始まった翌年である。従って岡本宮跡も飛鳥浄御原宮跡も『日本書紀』の記述に従って推定されていた。まず、『日本書紀』の「飛鳥岡の傍(ほとり)」という記述をもとに、岡本宮を次のように比定している。

「飛鳥岡は雷岡又はその東北の小丘と解するべきであるから、岡本宮はそのあたり(明日香村雷・奥山)にあったとみるべきである。」

 前々回に掲載した「飛鳥地域要図」で位置を確認してみよう。

飛鳥地方

 雷岡は中ッ道と阿倍山田道の交差点近くにある。次に飛鳥浄御原宮については次のように述べている。

「奈良県高市郡明日香村飛鳥の北方か。」

 このように推定した根拠は書かれていないが、「明日香村飛鳥の北方」というと岩屋山古墳辺りになる。「岡本宮の南に營る」という『日本書紀』の記述によったのだろうか。

 ともあれ、1960年頃は岡本宮と飛鳥浄御原宮の所在地は上のように比定されていたが、それらの土地からは考古学的証拠は何も得られていない。従って岩波大系による大極殿・大安殿についての校注は藤原宮以後の宮殿の構造を参考にした記述ということになる。

 例えば、④(「孝徳紀」の大極殿)の頭注で「後の宮殿では大安殿と大極殿とは別殿であった」と書いていて、校注者は「後の宮殿」として飛鳥浄御原宮の宮殿を想定しているようだが、飛鳥浄御原宮については考古学的には何も分かっていなかった。にもかかわらず、⑧・⑨(「天武紀」の大極殿・大安殿)の頭注は次のように解説している。

⑧ 大極殿
「政務を行う朝堂の正殿。その存在が確認されるのはこの飛鳥浄御原宮が最初。」

 「政務を行う朝堂の正殿」という判断は明らかに藤原宮や平城宮の構造から得ていると思われる。(前々回に掲載した「古代宮都の変遷」図を再掲載する。)

宮殿規模1

宮殿規模2

 しかし、「その存在が確認されるのはこの飛鳥浄御原宮が最初」というのは一種の詐術と言わなければならない。「存在」は確認されていない。「天武紀」に記録があるだけである。

⑨ 大安殿
「本居宣長(玉勝間)や通証は大極殿のこととするが、むしろ内裏の正殿で、のちの紫宸殿に相当する殿舎か。」 (筆者注:「通証」とは江戸時代の学者谷川士清の「日本書紀通証」のこと)

 『続日本紀』の記録を見ると、大極殿がもっぱら即位式や朝賀の儀に使われているのに対して、大安殿は天皇の日常的・私的な殿舎のようである。そのように判断する論拠として、『続日本紀』の721(養老5)年12月7日の記事を挙げることができる。そこでは「太上天皇が平城宮の中安殿で亡くなった」と記録されている。この中安殿とは大安殿院の中の殿舎の一つであろう。大安殿を「内裏の正殿」とする説の方を私も取る。

 ところで、飛鳥宮跡を飛鳥浄御原宮に比定して、しかもそこには大極殿も大安殿もあったとする学者たちはどの殿舎を大極殿・大安殿に比定しているのだろうか。「内郭南院正殿=大安殿」・「東南郭正殿=大極殿」(上の飛鳥浄御原宮の図には「大極殿」の記入がある)としている。藤原宮や平城宮とは似ても似つかない構図になっている。藤原宮や平城宮と同様の構図にするのなら、「内郭南院正殿=大極殿」・「内郭北院正殿=大安殿」としたいところだが、それでは飛鳥板蓋宮に大極殿・大安殿があったこととなり、「大極殿が初めて現れるのは飛鳥浄御原宮」という大前提と矛盾してしまう。「内郭南院正殿=大安殿」・「東南郭正殿=大極殿」とせざるをえないのだ。藤原宮や平城宮とは違う構図になってしまうことについては、「律令制が整えられていく過程での一時的なもので、律令制の整備とともに宮殿も藤原宮や平城宮のように完成されていった」というような説明をしている。

 ただし、上のような比定が多数意見になってはいるようだが、孝徳紀の「大極殿」と同様に、飛鳥浄御原宮の「大極殿」も『日本書紀』編纂時の潤色であるとする説もある。中尾芳治論文「日本都城研究の現状」が大極殿をめぐる諸説をまとめているので、それを読んでみよう。

 東南郭正殿を天武朝に新設された「太極殿」であるとする小澤・林部説に対して横山洋氏は、藤原宮以後の大極殿の基本性格のうち
(a)朝堂院に北接して位置する
(b)独自の大極殿院の中に単独で位置する
(c)一定の高さの基壇上に建つ
(d)桁行九間、梁行四間の四面庇付建物である
との四つの属性に関して前期難波宮内裏前殿と浄御原宮東南郭正殿の規模・構造を比較検討し、いずれも大極殿の基本性格を一部備えつつも、まだ藤原宮以後と同じような大極殿たりうるには至っていないとする。そして難波宮内裏前殿を祖型とする浄御原宮東南郭正殿を大型化するとともに唐制を採用して初めて藤原宮太極殿が成立したとする。

 林部氏が「藤原宮が、飛鳥浄御原宮の内裏・太極殿(東南郭正殿)と、難波宮の朝堂(庁)とを統合した新たな宮殿形態をとる」としたのに対し横山氏は朝堂院のみならず藤原宮大極殿にも前期難波宮(難波長柄豊碕宮)の要素が濃厚に継承されていると考え、東南郭正殿に大極殿の前身的性格をみる。

 ところで、飛鳥宮跡ⅢーB期の東南郭正殿(エビノコ郭正殿)は九×五間、梁間三間の身舎の四面に庇をめぐらした高床の建物であるが、山本忠尚氏はこうした「梁間三間四面庇付建物」遺構の類例を広く収集して検討を加え、結論として七世紀中ごろの前期難波宮から奈良時代を経て平安時代に至るまで、天皇が居住する建物(御在所)は一貫して梁間三間四面庇付建物であったとして、同じ構造と規模をもつ東南郭正殿は大極殿ではありえず、鬼頭清明説のように、大極殿は藤原宮の段階で成立したとする。

 「天武紀」が「殿」だらけなのに対して、持統が同じ飛鳥浄御原宮に居住した期間(686~694)の「殿」は「前殿」だけで、あとは「内裏」の一語で済まされている。このような『日本書紀』の記述の不可解さを問題にする学者は皆無のようだ。私はこの一事だけで、天武紀の大極殿も「潤色」と断定してもよいと思っている。私は「大極殿は藤原宮の段階で成立したとする」説を支持する。

 次に私は、上の諸説の理路のかなめに前紀難波宮が大きくかかっている点に注目したい。

「前期難波宮内裏前殿と浄御原宮東南郭正殿の規模・構造を比較検討し」
「藤原宮大極殿にも前期難波宮(難波長柄豊碕宮)の要素が濃厚に継承されている」
「七世紀中ごろの前期難波宮から奈良時代を経て平安時代に至るまで」

 これらの文言には「前期難波宮=難波長柄豊碕宮」という「定説」にとらわれている学者たちの戸惑いが現れている。「古代宮都の変遷」図を見ると前紀難波宮の特異さが一目瞭然だ。板蓋宮→後岡本宮→浄御原宮という自然な流れの中に、突然変異的に藤原宮や平城宮と同様の構造をもった宮殿が現れている。前期難波宮の詳細図を見てみよう。

前期難波宮跡
(『古代日本と朝鮮の都城』より転載)

 この図で「内裏前殿」としている施設はまさしく大極殿ではないのか。ヤマト王権一元論者にとっては、大極殿は飛鳥浄御原宮もしくは藤原宮に初めて出現することになっているから、この殿舎を「大極殿」と呼ぶわけにはいかない。「内裏前殿」と呼ぶしかない。しかし、前紀難波京を九州王朝の副都と考える立場からはためらうことなく、「それは大極殿だ」と言うことができる。もしかすると九州王朝ではそこを「紫宸殿」と呼んでいたかもしれない。ここで次に、⑨の頭注の「のちの紫宸殿に相当する殿舎か」という文言を問題にしたい。